奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  2023年秋号

発行 令和五年(二〇二三)十月一日

編集人  坂口 慶樹
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

副編集長

入田 丈司

副編集長・Webディレクション

金田 卓士

編集顧問

池田 雅延

 

編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人の話題は、食欲の秋ゆえか、ワインを味わうということについてである。しかし気付けば、その話題は、ワインに向き合う楽しさから、好きだからこそ深く学び続けることができるという「学び」の本質、ものを愛でることの本質へと昇華していく。この「劇場」も、それこそ大きなワイングラスに注がれたワインを愛でるように、じっくりと五感で味わっていただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、橋岡千代さん、越尾淳さん、松広一良さん、冨部久さんの四名の方が寄稿された。

橋岡さんは、大阪の和泉いずみ市に古くから伝わる「葛の葉伝説信太しのだ狐)」という「ものがたり」を紹介し、そこには母子の哀しみという「そらごとのまこと」があると言う。加えて、そういう「ものがたり」には、「語り手と聞き手が次々と紡がれた言葉によって、固有な『まこと』の価値を共に想像しながら生み出していく力」があると述べている。橋岡さんとともに、改めて小林秀雄先生の文章に、耳を傾けてみよう。

越尾さんは、生成型AI(人工知能)が巷間を賑わせているなか、「本居宣長」に向き合うと、「この機会に『考える』とは何かということについて考えてみなさいと小林先生に言われているような気」がすると言う。越尾さんは、中江藤樹について、また彼の学問に向かう態度について、先生が書かれている文章とじっくり向き合ってみた。そうすると、先生が、藤樹のほか、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、そして本居宣長らを「豪傑」と呼ぶ深意に気付いた。

松広さんが向き合ったのは、小林先生が使っている「古典」という言葉である。そのヒントは、先生の文章のなかにあった。「豊かな表現力を持った傑作」かどうか、「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」あるいは「新しく息を吹き返そうと願っているもの」かどうか、に眼を付けてみた。そのような意味で、独特の文字表記法のため長きにわたり読解困難となっていた「古事記」は、真に「古典」と言えるのであろうか……

冨部さんは、小林先生が「本居宣長」第十五章において、「源氏物語」の最終章「夢浮橋ゆめのうきはし」について書いている十五行のなかで、「夢」という言葉が十五回も使われていることに注目した。池田雅延塾頭によれば、小林先生にとって「夢」という言葉は、若い頃からの特別な言葉であった。先生には、同じように若いころから大切にしてきた言葉があった。「円熟」という言葉である。この二つの言葉を巡る冨部さんの思索を、じっくりと味わいたい。

 

 

先日の山の上の家の塾の講義のあと、本誌のウェブディレクションを担当している金田卓士さんから、読者の皆さんの、本誌に対する直近のアクセス(サイト来訪)状況について報告があった。

平成二十九年(二〇一七)の創刊当初には、ひと月当たり約八百人の来訪者があったところ、その後右肩上がりに漸増し、最近では、約二千人の方、多いときには約二千五百人の方にご覧いただいている状況にあることがわかった。しかも、そのうち、約八割の方が新規の来訪であり、新しい読者の方の利用が増えていた。

もちろん、ネット検索でたまたま引っかかっただけではないか、という思いもあり、閲覧のための滞在時間も調べてみた。そうすると、新規訪問者の約五パーセントの方、そして再訪者の約十四パーセントの方が、十分以上滞在されていることがわかり、きちんとお読みくださっている方が少なからずいらっしゃることに、編集部としても、読者の皆さんに心からの感謝を表するとともに、継続してきてよかった、と心底報われたような心持ちにもなっている。

山の上の家の塾の塾頭補佐である茂木健一郎さんは、本誌の刊行開始時のエッセイ「命のサイクル、魂のリレー」において、「ここに集った文章」が「困難な時代の一隅を照らし出す一灯となれば幸いである」と述べている。そのような一灯として、きちんと世の一隅を照らし出すことができているか、いまだに自信はない。しかし塾生一同、今一度気持ちを引き締めて、少しでも照度を上げて、さらに多くの皆さんにお読みいただける同人誌になることを目指し、さらなる歩み続けて行きたい。

 

そうこうするうちに、長い長い酷暑も終息し、いよいよ晩秋へ、という時季を迎えた。食欲の秋はもちろん、読書の秋も到来である。ここで改めて、引き続き、読者諸賢の倍旧のご愛顧をお願いする次第である。

 

 

連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」と、池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』全景」は、筆者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読くださっている皆さんに対し、筆者とともに心からお詫び申し上げ、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅱ

三、夢のまた夢

 

それでは、前章の最後で述べた、契沖やその親族が翻弄された「肥後の国難」とは何だったのか。まずは、そこに到るまでの加藤家の動きを概観しておきたい。

加藤清正(*1)の名前が、現存文書に初めて登場するのは、天正八年(一五八〇)九月十九日付けの羽柴秀吉(*2)による知行宛行状ちぎょうあてがいじょうである。秀吉が、当時十八歳の清正に初の知行地(所領)として播磨国神東じんとう(現、兵庫県西部)を与えた時のものと言われている。

その後、天正十一年(一五八三)の、秀吉と柴田勝家(*3)との賤ケ岳しずがたけの合戦では、福島正則らとともに「七本槍しちほんやり」の一人として功名を上げ、天正十四年(一五八六)頃には「加藤主計頭かずえのかみ」という官途かんと(地位)を得て、織田信長(*4)の跡を継いだ秀吉グループにおける財務担当者となった。

天正十五年(一五八七)、秀吉は薩摩の島津氏を降伏させて九州を平定統一、肥後の地には、佐々成正さっさなりまさ(*5)を配した。しかし成正は、秀吉が在来勢力に配慮し禁じていた検地を強行したことにより、大規模な肥後国衆一揆を招いたため、秀吉に更迭され切腹を命じられてしまう。そこで成正に代わり、肥後北半国の領主に抜擢されたのが清正である。四千石から十九万五千石領主への大躍進であった。

天正二十・文禄元年(一五九二)、秀吉は、宿願であったみん国征服の第一歩として朝鮮出兵を開始した。約七年にも及ぶ「文禄・慶長の役」である。肥後南半国の領主、小西行長(*6)と対馬のそう義智らの第一軍、総勢十六万人が秀吉軍の先陣を切って釜山に上陸した。その五日後、清正が先頭を率いる第二軍も釜山に入った。

 

このように、清正が肥後を不在にしていた間、留守居役を務めていたのが、契沖(*7)の祖父、下川又佐衛門元宜もとよしである。吉村豊雄氏が「新熊本市史」史料編近世Ⅰに所載の、天正・文禄期に清正が出した書状構成をもとに論じているように、書状の「宛所は下川又佐衛門・加藤喜左衛門が中心であり、両名に中川重臨斎(軒)を加えたものが大半を占めて」いた。「下川・加藤・中川は加藤家を取り仕切る『奉行』(惣奉行)としての位置」にあったのだ(*8)。確かに同史料によれば、天正十九年(一五九一)から文禄五年(一五九六)の間に出された書状二十二通のうち十九通に下川又佐衛門の名前を確認できる。

前章の冒頭で紹介した、契沖が家族の思い出を語った言葉、「元宜もとよしは、肥後守加藤清正につかへて、すこし蕭何せうかに似たる事の有ければ、豊臣太閤こま(坂口注;高麗)をうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり……」というのは、このような事情を振り返っていたことになる。

ちなみに吉村氏によれば、二十二通の書状の内容は「代官の配置、蔵入地(*9)の年貢、兵員・船・加子かこの調達、年貢米売却などについてこと細かに指示」しており、その指示は四十から五十条にも及ぶ。主君秀吉のいた都はもちろん遠隔地への出兵や築城普請が多かったという、清正ならではの事情はあるにせよ、地元肥後においては、「行財政の実務が清正個人の意思で動き、決定されているという『ワンマン』政治」の状況にあったようだ。このことは、後述する「肥後の国難」とも大いに関係するため、記憶に留めておいていただきたい。

 

さて、朝鮮での進軍は、地元勢力の反乱や背後に控えるみん国軍の加勢などにより、思うようには進まなかった。明国に近い朝鮮東北部の咸鏡道かんきょうどうまで進軍していた清正軍にしても、家臣たちは飢えや厳しい寒さと戦いながらの状況で、ついには首都漢城(現、ソウル)まで撤退せざるを得ず、一万人いた軍勢も約五千五百人まで減っていた。

出兵から約四年後の文禄五・慶長元年(一五九六)、明との和平交渉が大詰めを迎えていたところ、清正は秀吉の命により帰国する。ところが交渉は決裂、翌慶長二年(一五九七)、清正らは再出兵を命じられ、総勢十四万人の軍勢が再び渡海した。明・朝鮮連合軍の反撃は厳しく、清正軍は、兵糧や水の備蓄が不足するなかで、蔚山ウルサン城での過酷な籠城戦を耐え抜いた。この戦を契機に、戦線縮小を進言する朝鮮在陣の武将もいたが、秀吉は聞く耳を持っていなかった。

そんな最中、慶長三年(一五九八)八月十八日、秀吉は逝去した。「慶長の役」は一気に終息に向かい、清正も帰国。この間、清正の朝鮮半島での移動距離は、延べ二千キロメートルを超えていた。秀吉の明国征服の野望もまた、「夢のまた夢」と消えた(*10)

 

四.家康への接近

 

秀吉の死から時を置かずして、豊臣政権内では、五大老や奉行衆(*11)、武功派諸将などによる権力闘争が始まっていた。その闘争は、徳川家康(*12)を総大将とする東軍と、石田光成(*13)が率いる西軍が激突する、慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦いで頂点を迎えた。合戦の場所は、関ヶ原だけではなかった。肥後で待機していた清正は、早い段階で家康に従うことを決意し、九州では極めて少数派の東軍勢である豊前中津(現、大分県中津市)の黒田如水じょすい(孝高)(*14)らとともに、大勢を占める西軍大名領に攻め込んだ。

同年清正は、ともに朝鮮出兵していたものの関係が悪化していた、西軍の小西行長の留守をつき、宇土、益城ましき八代やつしろなどの肥後南半国にも攻め入った。関ヶ原で敗戦した行長は近くの伊吹山中で捕縛され、西軍の主将石田三成、安国寺恵瓊えけいとともに、大阪、堺、そして京都の洛中を引き回されたのちの同年十月一日、六条河原で斬首されている。二十三日には行長の本拠地、宇土城も落城した。

このように、九州における西軍の大名領を攻め落とす活動を続けていた清正は、同年十月二十六日付で以下のような書状を、熊本の留守を預かる二人の重臣に出していた(「中沢広勝文書」)

以上

急度申遺候、今日可令帰陣之処、爰元之仕置少隙入候故相延候、明後日者可打入候、

一、薩摩へすくニ可相働候間、先度申置候、宇土領へ人足共いそきよひよせ可召置候事、

  (中略)

一、如水其元被通候者、新城ニ而振舞候て可然候間、得其意、天守之作事差急、畳以下可取合候、小台所たて候へと申付儀ハ、こもはりにても不苦候、小座敷之畳をも仕合候へと可申付候、猶追而可申遣候、諸事不可有由断候、

謹言、

十月廿六日 清正(花押)

加藤喜左衛門尉殿

下川又佐衛門尉殿

 

前半では、次のように言っている。「急ぎ申し伝える。本日(熊本へ)帰陣する予定だったが、(柳川城の)戦後処理に手間取り、明日に延期した。薩摩にすぐ出陣するので、宇土に人足を集めておくこと」。

清正は、その前日の二十五日に、立花宗茂(*15)の柳川城を開城させており、急ぎ軍勢を薩摩へ転じるつもりだったのである。

一方、後半ではこうだ。「薩摩への道中、(黒田)如水を新城で歓待したい。天守でもてなせるように普請を急ぎ、畳も準備しておくように。少台所や小座敷(広間)の普請も進めておくこと」。

ここで「新城」とは、熊本城のことである。肥後入国以来居城としてきた「隈本くまもと城」(*16)とは別に築城中の城は、この時点で天守の外観は完成、内部に畳を入れるところまで来ていたことがわかる。ちなみに、最近の研究では、熊本城の築城開始は遅くとも慶長四年(一五九九)とされている(*17)。そうなると、新城建設について、秀吉の死後いち早く徳川家康の了解を得るなど、清正が家康に急接近していた可能性がある(*8)

書状の宛名にも注目しよう。朝鮮出兵中に引き続き、下川又佐衛門、つまり契沖の祖父元宜宛てとなっている。清正の、「留守の守」元宜への信任はゆるぎなかった。ちなみに、現在の熊本市南区田迎たむかえ三丁目、JR南熊本駅から南に十分ほど歩いたところに、「るすのかみ屋敷跡」という市の標柱が立てられている。ここに、元宜と長男の元真の住居があったことから、地元では、この一帯が「るすのかみ」と呼ばれてきたという。

 

さて慶長六年(一六〇一)、清正は、旧小西行長領の継承が認められ、天草と球磨を除く肥後全土を領有することとなった。また、慶長八年(一六〇三)年には、「主計頭かずえのかみ」に加えて「肥後守ひごのかみ」という官途が与えられた。

慶長十二年(一六〇七)には、待望の熊本城が完成したと言われている。しかし清正は、自身の居城を建てただけではない。家康の命を受け、一六〇〇年代初頭から、伏見城、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城の普請に参画した。それも、ただの参画ではない。清正は、同じように普請を命じられた諸大名に勝る、仕事の速さと質の高さを自負していた。それを家康に褒められ、天下に名を上げたことを無邪気に喜んでいる書状も残っている(*18)。わけても石垣建設には大きなこだわりがあった。彼が石材調達役の家臣に宛てた書状を見ると、自身が、普請の進み具体に合わせて必要な石のサイズや形状や数を詳細に把握していたことがわかる。清正は「穴生衆あのうしゅう」と呼ばれる石工の専門集団を抱えていただけではなく、自ら土木・建築技術に関する深い知見を有していた。「土木の神様」と呼ばれたゆえんである(*19)

一方清正は、このような技術面からの家康へのアピールだけではなく、徳川家との婚姻政略も、抜かりなく進めていた。

まずは、慶長四年(一五九九)四月、秀吉の死から半年後に、家康の養女(清浄院。水野忠重の娘かな姫、家康の従妹にあたる)を正室に迎え、家康の婿むことなった。その後、清正は、慶長十一年(一六〇六)に、長女のあま姫を、家康側近の、いわゆる「徳川四天王」(*20)の一人である上野こうづけ館林たてばやし城主・榊原康政(*21)の嫡男康勝へ輿入れさせた。一方、家康は、慶長十四年(一六〇九)、十男の頼宜(常陸介)の室に、清浄院との間に生まれた八十やそ姫を迎えることに決めた。

ちなみに、福田正秀氏によれば、その時、将軍家からの正式な納采使のうさいしとして、頼宜の伯父の三浦為春ためはる(*22)が熊本城に下った。為春は歌人・文化人としても著名で、肥後への道中のことを「太笑記」に著している。同記によると、為春の宿舎に清正家臣が詰めかけ、和歌や連歌の会が催され、「無骨と思われた肥後武士の連歌の素養に為春は大変驚いたと記している。実は清正はこの以前より城下に著名な連歌師・桜井たんを招いて家臣に学ばせていた」のである。このことについては、また章を改めて触れることにしたい。

ともかくも、これまで見てきた通り、家康への接近と関係の深化は、様々に重なり合うかたちで着々と進められてきたのである。

 

五、おととさま御わづらひ

 

慶長八年(一六〇三)二月から、征夷大将軍となり幕府を開いていた家康は、慶長十年(一六〇五)には将軍職を子息秀忠(*23)に譲り、拠点も江戸から静岡の駿府城に移したものの、「大御所」としての実権は握り続けていた。その一方、公家の家格として、秀頼は、豊臣という「摂関家」の当主であり、徳川秀忠は、あくまで摂関家に次ぐ「清華せいが家」に列していた。加えて、秀頼が、家康や秀忠ら徳川家から知行を宛行あてがわれたりした事実もなかった(*24)

このように、徳川幕府の向後の盤石にとって、秀頼の存在は大いに気掛かりなものであった。そこで家康は、秀頼に面会を求め続けた結果、慶長十六年(一六一一)三月二十八日、京都の二条城で面会を果たす。大阪城を出た秀頼を、鳥羽まで出迎えたのは、後に尾張徳川家初代となる徳川義直(右兵衛)と紀州徳川家初代となる徳川頼宜(常陸)であった。ともに家康の子息であり、それぞれに付き添い人がいた。義直には浅野幸長よしなが(*25)が、頼宜には清正が付き添った。この時、浅野の娘春姫は義直と、また、先に見た通り、清正の娘八十姫は頼宜と婚約しており、二人の付き添い人は、血縁関係を結ぶ家康の子息の付き添いという立場で参加していたことになる(*19)

ともかくも、緊張感のある状況下で開かれた二条城の会見は無事に終わった。会見にも同行し大役を果たし終えた清正も、大いに休心したことであろう。ところがである。

 

同年六月二十四日、清正が熊本で急逝する。上記の会見を終えた清正は、同年四月九日には、天下の宗匠古田織部と浅野幸長との茶会を主催、二十二日には能を鑑賞している。萩藩毛利家の資料(「肥後国熊本様子聞書」)によれば、翌五月に大阪を出船し同十五日に熊本に到着。その後二十七日に大広間で発病したという。脳卒中だったと言われている。

その頃江戸にいた清正の十歳の息子、虎藤(のちの忠広)が父の病状に心を痛め、国許の母に宛てた手紙がある(「加藤忠広自筆書状」、本妙寺蔵)

……おととさま御わづらひ、少しづつよく御座候よし承り、めでたく存候、上方より

くすしやがて参候ハんまま、いよいよ御本復なさるべきと申参らせ候、よくよく御養

生なさるべく候、めでたくかしく

六月二十八日  とら藤

おかかさま

 

幼い虎藤の祈りは届かず、熊本での、清浄院や八十姫ら家族の必死の看病のかいもなく、薬石効なし。享年四十九であった。

 

まさに急逝である。遺言書もなければ、事前の準備も一切できていない。唯一の後継候補の虎藤は十歳で、将軍家への御目見おめみえもまだである。残された遺族はもちろん、家臣達も途方に暮れたに違いない。そんな青天の霹靂へきれきのような状況に輪をかけたのが、生前の清正のマネジメント・スタイルであった。前章で述べたように、肥後五十四万石にかかる「行財政の実務が清正個人の意思で動き、決定されているという『ワンマン』政治」のやり方が災いした。藩内に家老という役職者もいない。要は、清正の死後リーダーシップ(指揮)を取る人物すら定まっていなかったのだ。

だから、徳川幕府で実権を掌握している駿府の「大御所」家康から、詳細な家臣名簿を家老に持参させよ、と指示されても、家老はおらず、役人の中から互選するしかなかった。そこで、並河金右衛門、加藤左衛門、加藤清左衛門右馬允うまのじょう、加藤美作みまさか、そして、契沖の祖父下川又佐衛門(元宜)の五人が、駿府へ向かった。この時五人は、虎藤の相続と引換えに、重臣二十名が江戸に人質を差し出すという、異例の誓約書を持参していた。

このような、重臣たちの必死の懇願も奏功したのか、虎藤の相続が内定、熊本の治世は、五家老の合議制で執り行うよう命じられた。併せて、この度の将軍家の厚恩を忘れないこと、絶対に将軍家に背くことをしないこと、政務に滞りあれば事前に幕府奉行に一報することなどを含む五ケ条の起請文の提出も命じられた。

但し、正式な襲封しゅうほうには、上使による現地監察が必要であった。伊勢・伊賀二十二万石の大名、藤堂高虎(*26)に白羽の矢が立てられ、高虎は、虎藤が成人するまでの後見役も命じられた。

高虎による監察後、慶長十七年(一六一二)四月、虎藤は駿府の家康への御目見も果たした。清正の相続を正式に許され、将軍秀忠にも挨拶のうえ秀忠の一字を拝領して加藤忠広と名乗り、「肥後守」という官途も頂いた。但し、熊本城以外にあった七つの支城のうち、水俣、宇土、矢部、三城の破却が命じられた。こうして、幕府主導による、新生加藤家が動き出した。下川又佐衛門も、大きく安堵のため息をついたことだろう。

しかしながら、以上仔細に見てきたことは「肥後の国難」の序の口に過ぎなかった。

 

 

(*1)永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)

(*2)天文六年(一五三七)~慶長三年(一五九八)

(*3)?~天正十一年(一五八三)。賤ケ岳の合戦は、織田信長亡きあとの家督をめぐり、秀吉と柴田勝家・織田信孝(信長の三男)が対立する構図を背景に起きた戦。当時、勝家は、織田信長の妹お市の方を妻に迎えていた。

(*4)天文三年(一五三四)~天正十年(一五八二)

(*5)?~天正十六年(一五八八)

(*6)永禄元年(一五五八)~慶長五年(一六〇〇)

(*7)寛永十七年(一六四〇)~元禄十四年(一七〇一)

(*8)吉村豊雄「加藤氏の権力と領国体制」、谷川健一編「加藤清正 築城と治水」(冨山房インターナショナル)

(*9)豊臣秀吉の直轄地。当該地の税収は豊臣政権の財政基盤あり、その管理は重要な任務であった。

(*10)秀吉は、以下の辞世の句を遺している。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

(*11)五大老:徳川家康、毛利輝元、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝。五奉行:浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以

(*12)天文十一年(一五四二)~元和二年(一六一六)

(*13)永禄三年(一五六〇)~慶長五年(一六〇〇)

(*14)天文十五年(一五四六)~慶長九年(一六〇四)

(*15)永禄十年(一五六七)~寛永十九年(一六四二)。初代柳川藩主。

(*16)「隈本城」があった場所は、概ね現在の熊本城がある茶臼山の西南にある丘陵と推定されるが、藤崎台か古城町(現、第一高校地)かは、正確に特定できていない。

(*17)森山恒雄「隈本から熊本城へ」、熊本大学放送公開講座「近世の熊本」

(*18)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

(*19)熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯 古文書が語る実像」

(*20)榊原康政の他に、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政。

(*21)天文十七年(一五四八)~慶長十一年(一六〇六)。康政は、婚礼後すぐの五月に急逝、康勝が二代目当主となり、あま姫も館林藩主の奥方となった。清正は、若き藩主康勝に対して、経済的にも精神的にも親身に支援したことがわかる書状が遺されている。

(*22)天正元年(一五七三)~承応元年(一六五二)。当時の連歌壇の最高指導者、里村昌琢門で連歌にも親しんでいた。ちなみに、第二章で触れた、連歌師・俳諧師の西山宗因は、加藤家改易後、京都に上り、同じく昌琢門で本格的な連歌修業に打ち込むことになる。

(*23)天正七年(一五七九)~寛永九年(一六三二)

(*24)北川央「秀頼時代の豊臣家と大坂の陣」『大阪城をめぐる人々』創元社

(*25)天正四年(一五七六)~慶長十八年(一六一三)。初代和歌山藩主。

(*26)弘治二年(一五五六)~寛永七年(一六三〇)。

 

 

【参考文献】

・熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯古文書が語る実像」

・福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

・熊本大学放送公開講座「近世の熊本」

・北川央「大阪城をめぐる人々」創元社

 

(つづく)

 

夢と円熟

小林秀雄氏は「源氏物語」の最後の巻である「ゆめの浮橋うきはし」について、「此の物語の一見異様に見える結末こそ、作者の夢の必然の帰結に外ならず、夢がここまで純化されれば、もうその先はない。夢は果てたのである。宣長は、そう読んだ筈なのである」と言っているが、どうして、この「夢浮橋」の結末が、作者、紫式部の夢の必然の帰結に外ならないのか?

この私の疑問が生まれた背景となる、小林氏「本居宣長」の本文を精読してみよう。 

―彼は、「夢浮橋」という巻名は、「此物語のすべてにもわたるべき名也」(「玉のをぐし」九の巻)と書いている。但し、古註が考えたように、「世の中を、夢ぞとをしへたるにはあら」ず、「たゞ、此物語に書たる事どもを、みな夢ぞといふ意」であり、その「けぢめ」を間違えてはならぬとはっきり言う。それにしても、「光源氏ノ君といひし人をはじめ、何も何も、ことごとく、夢に見たりし事のごとくなるを、ことに、はてなる此巻の、とぢめのやうよ、まことにのこりおほくて、見はてずさめぬる夢のごとくにぞ有ける」と、当時の物語としては全く異様な、その結末に注意している。

だが、宣長がここで言う夢とは、夢にして夢にあらざる、作者のよく意識された構想のめでたさであって、読者の勝手な夢ではない。見はてぬ夢を見ようとした後世の「山路の露」にも、いては「源氏」という未完の大作を考える最近の緒論にも、宣長の「源氏」鑑賞は何の関係もない。「夢浮橋」という巻名は、物語全巻の名でもある、という彼の片言からでも明らかなように、式部の夢の間然かんぜんする所のない統一性というものの上に、彼の「源氏」論は、はっきりと立っていた。此の物語の一見異様に見える結末こそ、作者の夢の必然の帰結に外ならず、夢がここまで純化されれば、もうその先きはない。夢は果てたのである。宣長はそう読んだ筈なのである。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.166)

 

上記の文章の中に「夢」という言葉が十五回も使われている。即ち「夢」がここでは重要なキーワードとして取り扱われていることが分かる。

さて、「宣長がここで言う夢とは、夢にして夢にあらざる、作者のよく意識された構想のめでたさ」と小林氏は言っている。宣長もこの結末について、「まことにのこりおほくて、見はてずさめぬる夢のごとくにぞ有ける」と言っている。つまり、式部の「和漢無双の名手」としての筆力により、「物のあはれ」を強く感じさせつつ描かれた結末が、一旦これを読んでしまえば、これ以外にないと思われる豊富な余韻を残して終わっている。そこに、改めて作者の「よく意識された構想のめでたさ」が感じられるので、小林氏は「作者、紫式部の夢の必然の帰結に外なら」ないと断言したのではないか、というのが私の自答である。

ここで物語の結末がどうなっているのか、さらに具体的に検証してみよう。

要約すると、薫と匂宮という二人の男性に愛されて、その間で心が揺れ動いていた浮舟が自殺を図るが、宇治の院の庭で倒れていたのを助けられ、一命を取り留めて、その後、出家する。一方、浮舟が自殺したと思われた一年後、浮舟が生きているという噂を薫は聞きつけ、浮舟の弟に手紙を託して、ぜひとも会いたいという気持ちを浮舟に伝える。しかし、浮舟はその弟に面会もせず、帰してしまう。そこで、薫はなぜ返事すらくれないのか、あれこれ考えた末、自分がかつてしたように、他の男がかくまっているのではないか、と想像したところで終わるのである。

物語の一つの終わり方としては、浮舟が弟と涙の再会を果たして、薫とよりを戻すという大団円もあるのではないかと最初は考えたが、薫と匂宮との間で悩み抜いた末、死まで決意した浮舟が、再び元の鞘に収まることはないはずで、ここは薫の申し出を断固として拒否することしか考えられないだろう。つまりは、その一連の流れが紫式部の夢の必然の帰結となる。

以上のようなことを山の上の家の塾で発表したところ、池田雅延塾頭は、小林氏がここで使っている「夢」という言葉は、氏の文壇デビュー作である「様々なる意匠」に出てくる、「批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」の中の「夢」と同じものであろうと語られた。その瞬間、暗い足元ばかりを見て右往左往していた頭の中が、ぱっと明るく照らし出されたように感じた。それまで漠然としていた「夢」という言葉が、しっかりとした形、敢えて言うなら、「思想」という言葉に近いものとなって目の前に現れた。ここで、「思想」という言葉は、「イデオロギー」というような外向き、集団に向けたものではなく、小林氏が大変重要な意味を持たせている、人の核心のようなもの、その人をして、人生いかに生きるべきかを決定していく指針のようなものである。

「様々なる意匠」の、最も重要な主張とも言えるその個所は以下の通りである。

所謂いわゆる印象批評の御手本、例えばボオドレエルの文芸批評を前にして、船が波にすくわれる様に、繊鋭な解析と溌溂はつらつたる感受性の運動に、私がさらわれてしまうという事である。この時、彼の魔術にかれつつも、私がまさしく眺めるものは、嗜好の形式でもなく尺度の形式でもなく無双の情熱の形式をとった彼の夢だ。それは正しく批評ではあるが又彼の独白でもある。人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!(同第1集p.137)

 

池田塾頭はさらに、小林氏の、「式部という大批評家」(同第27集p.146)という言葉も取り上げられた。そして、「源氏物語」は、「式部という大批評家」が己の夢を懐疑的に語った産物であるということを示唆された。「本居宣長」の随所で宣長の一貫性を語る小林氏であるが、氏自身もまた、デビュー作から最後の大作まで、見事に一貫性をもった信念を胸に抱きながら筆を進めて来たことに感嘆せざるを得なかった。

 

それから日を置かずして、池田塾頭による、小林氏の「還暦」という作品についての講義があった。この中で気になった「円熟」という言葉について、氏はこう言っている。

―成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処そこには、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生むことは出来ない。……

―自由に円熟なぞ、誰にも出来ない。円熟するには絶対に忍耐が要る。……

―忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である。……(同第24集p.121、122)

 

頭の中の記憶を頼りに、過去の小林氏の作品を紐解くと、この「円熟」という言葉が使用されている作品が二つ見つかった。最初は小林氏が三十二歳の時に訳して本になったポール・ヴァレリーの「テスト氏との一夜」(同第6集所収)である。

―持続というものの精緻せいちな芸術、即ち時間というもの、その配分とその制度、り抜きの事物を特別に育て上げる場合の時間の消費量、―これがテスト氏の大きな探求の一つであった。彼は若干の観念の反覆を監視しては、これを数でこなした。その結果彼の意識した研究の応用は、遂に機械的なものとなった。彼はこの仕事全体を要約しようとさえ努めたのである。屡々しばしば彼はMaturare!(円熟せよ!)という言葉を口にした。(同第6集p.20)

 

ちなみに、「Maturare!」の訳については、「成熟せよ!」という他の翻訳者の訳文もある。「小林秀雄全作品」の脚注には、「ラテン語の他動詞maturo(成熟させる)の命令法受動態二人称単数形。受動態になることで意味は自動詞化し、『成熟せよ』となる」と書かれている。つまり、小林氏は通常は「成熟せよ!」と訳すべきところを、そこからさらに熟度を深化させ、「円熟せよ!」と敢えて訳しているのである。いずれにしても、小林氏が若い頃から「円熟する」という事に強い関心を寄せていたことは間違いないだろう。さらに言えば、これは単なる訳ではなく、むしろ自身の言葉として、自らに「円熟せよ!」と戒めの意味も込めて語ったものと感じられる。

次に出てくるのは小林氏が四十六歳の時に行われた坂口安吾との対談である。

―まあどっちでもよい。それより、信仰するか、創るか、どちらかだ―それが大問題だ。観念論者の問題でも唯物論者の問題でもない。大思想家の大思想問題だ。僕は久しい前からそれを予感していたよ。だけどまだ俺の手には合わん。ドストエフスキイの事を考えると、その問題が化け物のように現われる。するとこちらの非力を悟って引きさがる。又出直す、又引きさがる、そんな事をやっている。駄目かも知れん。だがそういう事にかけては、俺は忍耐強い男なんだよ。癇癪かんしゃくを起すのは実生活に於てだけだ。……

―だから、進歩ぐらいしてやるけどさ、俺はほんとうは円熟したいんだ。……(同第15集p.232、235)

 

これは、小林氏の骨董趣味に対して執拗に食って掛かる安吾に、氏が思わず本音を漏らしたと思えるような箇所であるが、既に「忍耐」という言葉も共に出てきており、「還暦」における「円熟」という言葉は、この頃には氏の脳髄に染み渡っていたと思える。

こうして見ると、先に述べた「夢」という概念と同様、「円熟」という概念についても、小林氏の若い頃からの見事な一貫性を示し、人生いかに生くべきかということを模索し続けた氏の生き方を凝縮したような言葉と言える。そして、「本居宣長」という作品こそ、小林氏の批評家としての「夢」が結実したものに違いない。但し、この「夢」は「様々なる意匠」で使われている「夢」と同じものではない。その頃の小林氏の「夢」はまだ成熟はしていなかっただろう。それが、氏の絶え間ない「忍耐」を通じてやがて成熟し、さらなる「忍耐」によって遂に「円熟」に達したものが、「本居宣長」における氏の「夢」なのであるから。

今回の池田塾頭の二つの講義では、小林氏の複数の作品が連携し合って、さらに豊かな思想の物語が紡ぎ出されるということを教えて頂いた。本稿で取り上げた「夢」と「円熟」以外にも、小林氏の一貫性を示す言葉は、探せばきっとまだまだ見付かるに違いない。引き続き「本居宣長」を熟読しつつ、過去の作品も紐解きながら、小林氏の思想の全貌に少しでも近付くことが出来ればと思う。

(了)

 

「古事記」はいつから古典だったのか?

『本居宣長』第九章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集)で、小林秀雄氏(以下、氏と略)は「仁斎は『語孟』を、契沖は『万葉』を、徂徠は『六経』を、真淵は『万葉』を、宣長は『古事記』をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った」と書いている。しかし宣長が「古事記」を読み始めた頃、「古事記」は漢文体ではないことから内容があきらかではなかった、だからこそ宣長は「古事記伝」を著したのであり、したがって古典という言葉をいわゆる辞書的な一般的な意味でとらえると、「古事記」は宣長が読み始めた時点では古典とは言えなかったのではないか、というのがそもそもの疑問だった。読解不可能なものを古典とは呼べないだろうと思うからだった。

 

そこで、まず氏が古典という言葉を『本居宣長』のなかでどのように使っているかを見てみた。上述の『本居宣長』第九章の引用の直前に「当時、古書を離れて学問は考えられなかった……。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ……」とある。他にも第六章に「……それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈……」、「宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を『我物』にする事……」とあり、これらの箇所で、氏は古典という言葉を古書という言葉とほぼ等価に使っている。この場合「古事記」は多くの人が認める古書であることから上述の疑問そのものが存在し得ないことになる。

 

次に氏が古典という言葉そのものについて論じているところを見てみた。『本居宣長』第十三章で氏は「源氏物語」を指して「幾時の間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えてくる、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。機会がどんなに稀れであろうと、この機を捕えて新しく息を吹き返そうと願っているものだ。物の譬えではない。不思議な事だが、そう考えなければ、ある種の古典の驚くべき永続性を考える事はむつかしい。宣長が行ったのは、この種の冒険であった」と書いている。これを読むと古典とは「豊かな表現力を持った傑作」か否か、また「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」あるいは「新しく息を吹き返そうと願っているもの」か否かがポイントになる。

 

まず第一点の「豊かな表現力を持った傑作」についてだが、それはいわゆる辞書的な一般的な意味に近いように思われる。そこで表現力という言葉がどんな意味を持つのかを『本居宣長』での用例にあたって調べてみた。すると、第十八章で氏は「……生き生きとした具体化を為し遂げた作者の創造力或は表現力を……」と書いており、ここでは表現力という言葉を創造力という言葉とほぼ等価に使っている。そこで「古事記」が「豊かな『創造力』を持った傑作」と言えたかどうかについて調べてみた。

 

「古事記序」は唯一「『古事記』の成立の事情を、まともに語っている文献」であり、且つ「古事記」本文とは異なり「純粋な漢文体」で書かれているため読解可能なものだが、そこには『本居宣長』第三十章にあるように「古事記」が「漢字による国語表記の、未だ誰も手がけなかった、大規模な実験」の産物と記されており、具体的には漢字を使って日本語をどう書くか、その表記上の苦労が並大抵ではなかったこと、また太安万侶おおのやすまろが漢字による日本語表記を試みたことが記されている。そうした日本語表記上の発明があったことを踏まえれば「古事記」が「豊かな『創造力』を持った傑作」であることは明らかであり、したがって「豊かな表現力を持った傑作」というのも当然ということになる。この場合冒頭に述べた疑問は氷解する。

 

つぎに第二点の「古事記」が「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」「新しく息を吹き返そうと願っているもの」と言えたかどうかを「古事記序」を通じて調べてみた。「古事記序」には『本居宣長』第二十八章にあるように「古事記」が「天武天皇の志によって成ったと、明記」されており、その天武天皇の意は『本居宣長』第二十九章にあるように「『古語』が失われれば、それと一緒に『古のマコトのありさま』も失われるという問題にあった」。すなわち『本居宣長』第三十章にあるように「日本書紀」における「書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基づいて」おり、「その『偽リヲ削リ、実ヲ定メテ』これを後世に遺さねばならぬ」というものだった。以上を読むと「古事記」は「我が国の古伝古意」を求める人にとって、たとえ内容の把握が困難であろうと「再読三読」も辞さずと思えるほどのものと映っていたことが容易に想像される。では宣長にはどう映っていたのか。

 

宣長は『本居宣長』第二十三章にあるように「『古言を得んとする』一と筋の願いに駆られた」人だった。それは何より「古意を得んが為」だった。そして『本居宣長』第二十八章にあるように「『古事記』は、ただ、古えの事を伝えた古えの語言コトバを失わぬ事を、ムネとしたもの」であり「日本書紀」のように「わが国の古伝古意を、漢文体で現す無理」とは無縁であることを宣長は「詳しく、確かに語った最初の学者」だった。また宣長は天武天皇の「古事記」にかける思いを『本居宣長』第三十章にあるように天武天皇の「哀しみ」と呼んだが、その「哀しみ」とは「本質的に歌人の感受性から発していたが、又、これは尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった」。そして「哀しみ」には「当時の政治の通念への苦しい反省ではあったであろうが、感傷も懐古趣味もありはしなかった」のであり、「漢文で立派な史書を物したところで……これを読むものは……極く限られた人々に過ぎず、それもただ、知的な訓読によって歴史の筋書を辿るに止まり、直接心を動かされる史書に接していたわけではない。そのような歴史を掲げ、これに潤色されている国家権威の内容は薄弱……。天皇の『削偽定実』という歴史認識は、国語による表現の問題に、逢着せざるを得なかった」のだった。以上のような「古事記」の成立事情を踏まえると、宣長自身にも「古事記」が「再読三読」も辞さずと思えるほどのものと映っていたのは明らかである。

 

宣長は『本居宣長』第二十九章にあるように「古事記」の研究を「これぞ大御国の学問の本なりける」と「古事記伝」に書いていた。宣長にとって「古事記」は「そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の『言語モノイヒのさま』」だった。彼は上代人の「言語経験が、上代文化の本質を成し、その最も豊かな鮮明な産物が『古事記』であると見ていた。その複雑な「文体」を分析して、その「訓法ヨミザマ」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するという事に他ならない、そう考えられていた」。「『古語』が失われれば、それと一緒に『古のマコトのありさま』も失われる」、そう見て取っていたのだった。以上のことから宣長にとって「古事記」が「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」「新しく息を吹き返そうと願っているもの」であることは明らかだ。

 

そうであれば、宣長にとって「古事記」ははじめから古典だったことも明らかであり、冒頭に掲げた疑問は愚問あるいは氏に対する言いがかりにも等しいものだったことになる。「古事記」は宣長が読み始めた時点ですでにして古典だったのであり、宣長は「古事記伝」を書くことによって「古典への信を新たにする道を行った」と言えるのである。

 

(了)

 

今、「考える」とは何かを考えてみる

近頃、ChatGPTをはじめとする生成型AI(人工知能)に関するニュースを聞かない日はないと言ってよいだろう。先日、ある生成型AIに関するセミナーへ出席する機会があったのだが、米国の司法試験問題について、最新の生成型AIであれば、上位成績の合格解答を書くことができるという話を聞き、大変驚いた。ある大学教授は、自分のゼミの入室試験問題を試しに生成型AIへ入力してみたら、十分合格レベルの解答が出力されたことに驚き、検討していたオンライン試験を中止したという話をしていた。

また、ある経済誌では、羽生善治日本将棋連盟会長が、将棋の強さはもはやAIが人間を上回っており、人間しかできないことは何か、価値を感じてもらえることは何かということを突き詰めるという、本質的な問いを投げかけられていると述べていた。

今年四月に行われた今年度の山の上の家の塾の初回講義で、茂木健一郎塾頭補佐から生成型AIをめぐって、小林秀雄先生の価値はこの時代にますます増すという講義があったことを改めて思い出した。「考える」という人間が誰しも行う基本的行為が揺らぐような時代が突然やって来たことに、正直面食らっている。そうした心の動揺を抱えつつ、改めて「本居宣長」に向き合ってみると、この機会に「考える」とは何かということについて考えてみなさいと小林先生に言われているような気がして、今回ここに筆を執ってみた。

 

江戸時代前期の陽明学者、熊沢蕃山ばんざんは中江藤樹の第一の門人と言われるが、師である藤樹の学問の態度についてこう記している。

「家極めて貧にて、独学する事五年なりき。しれる人、母弟妹のあるをしり、飢饉の餓死に入なんことを憐みて、ツカヘを求めしむ。其比中江氏、王子の書を見て、良知の旨を悦び、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。朝夕一所にをる傍輩にも、学問したることをしられず、書を見ずして、心法を練ること三年なり」(「集義外書」)(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集102ページ)

ここに出てくる「良知」とは、陽明学の背骨を成す言葉である。『孟子』においては、人には良知という正邪を直感的に判断し、適切に対応することができる完成された心の働きが生まれながらに備わっているとされた。しかし、その「良知」は私欲といったもので曇っていては自分のものとすることができない。本来自分の中にあるものなのに、その潜む力を引き出し、きちんと動かすことは難しいのである。

この蕃山の藤樹回顧に続けて、小林先生は言う、

「当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は『語孟』を、契沖は『万葉』を、徂徠は『六経』を、真淵は『万葉』を、宣長は『古事記』をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。この努力に、言わば中身を洞にして了った今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である」(同第27集103ページ)

ここで小林先生は、藤樹のほか、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、賀茂真淵、本居宣長という名前を列挙して、学問界の豪傑だとしている。何故、豪傑なのだろうか。

小林先生は、藤樹の学問の姿勢についてこのように記している。

「『我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ』、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、『卓然独立シテ、倚ル所無シ』という覚悟は出来るだろう。そうすれば、『貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ』、そういう『独』の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、『聖凡一体、生死息マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ』という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う『人間第一義』の道であった。従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい。学問をする責任は、各自が負わねばならない。真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何による。それも、めいめいの『現在の心』に関する工夫であって、その外に『向上神奇玄妙』なる理を求めんとする工夫ではない。このような烈しい内省的傾向が、新学問の夜明けに現れた事を、とくと心に留めて置く必要を思うのである」(同第27集100ページ)

ここで小林先生が述べているのは、藤樹の学問の姿勢が、他の誰でもない、藤樹にしかできない、彼自身の責任において行う、独自で、唯一無二の古典の信じ方のことであると思う。

これで思い出したのは、小林先生が「学生との対話」の中で、信ずることと知ることについて、このように述べている一節である。

「僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです」(新潮社刊『小林秀雄学生との対話』46ページ)

この小林先生の話は分かりやすい一方で、とても重要なことを述べていると思う。

今日においても、書物、絵画、音楽といったもののうち、長い時を経て、多くの人々に愛好されてきたものが「古典」と呼ばれているという感覚は多くの人々に共有されていると思う。他方、これらの古典には、様々な解釈や解説が行われてきたこともよく知っている。例えば、美術館へ行ったときには、目的の絵を観るより先に、その脇に付された解説を読んでしまい、その上で絵を観るということが私自身当たり前になってしまっている。このように、誰かによって作られた観点を離れ、自分にしかできない古典との向き合い方をするということは、正直、私にとっては非常に難しいと言わざるを得ない。

藤樹の生きた時代でも、当時の古典をめぐる様々な言説、解釈、その中には大家と呼ばれる人のものもあっただろうし、そういうものも読んで勉強していたはずだ。また、良い学問がしたい、名を成したい、という我欲も生まれたかもしれない。だが、それらは良知の上では心を乱す毒であって、藤樹が書を三年も離れたというのは、毒を抜くための、滝に打たれる修行のような時間ではなかったかと想像する。仁斎、契沖、徂徠、真淵、宣長も、それぞれが彼らなりの毒を抜く、心法を練る時間があったのではないだろうか。だからこそ、他人の拵え物からできた「観点」という膜を脱ぎ捨て、自分の真心で古典と交わり、人の心が持つ本来の力を十全に発揮することで、彼等にしかできない信じ方で古典の読みを行い、古典が持つ本来の力を引き出すことができた。それが宣長の場合には、千年もの間、誰も読めなかった「古事記」を読むことができたということになったのではないか。孤独で真剣な古典との交わりというそれぞれの信じる道を突き詰めることで、普遍に至る。こうした非常に困難で険しい道を行った彼等だからこそ、小林先生は豪傑と呼んだのだろう。

 

生成型AIというのは、膨大なデータやパターンを学習することで、情報の特定や予測ではなく、新しいコンテンツを創造することができるものだという。確かにそれはすごいことだと素直に思うが、小林先生が記した学問界の豪傑達のことや、信じることと知ることについての文章を改めて読んでみて、本稿冒頭に記した茂木塾頭補佐による今年四月の講義の意味がより深く分かったような気がした。学問界の豪傑達、そこには小林先生も含めてよいと思うが、彼らは誰かに聞いたのでも、指示されたのでもなく、自分がひっかかり、疑問に感じたり、感動したりしたという心の動きを素直に感じ取り、その直感から自分の責任において、自分の身一つで対象と真心で交わるということを徹底して実行できた人々だと思う。その直感という端緒は、いくらAIに聞いても、出力されることはない。なぜなら、何を、どうしたら直感するかは、一人ひとり独自のものでしかあり得ないからだ。そう考えると、この山の上の家の塾で課される「自問自答」の深さに驚く。よく問うことが即ち答えであるとも言われるが、まさにどう問うかとは、何に心を動かされたかに自分自身で気づくことから始まる。もしかすると、そういう心の動きというのは、将来、脳を流れる電気信号としてスマートフォンのセンサーなどで簡単に感知できるものになるのかもしれない。しかし、たとえ感知できたとしても、何に心が動くかはやはり人によって異なる、その人自身のオリジナルなものだ。生成型AIといったプログラムやコンピュータなどの機械が考えるという行為を助けるとしても、そのきっかけとなる「気づき」は、いつまでもその人次第でしかないのではないか。誰かの作り物の「観点」を離れ、真心で事物と向き合うための、自分にしかできない「気づき」こそが、考えるという行為の核心なのではないだろうか。

この私の考えは誤っているかもしれない。生成型AIに聞いたわけでもない。ただ、私による、私にしかできない「気づき」から生まれたものであることに間違いないのだ。そういう「気づき」に気づくということに鋭敏になり、これに向き合って考えるということを日々の生活の中で鍛錬することはできるはずだ。現代において、自分の考える力を衰えさせないために、今回とても大事なことに気づくことができたように感じている。

(了)

 

「ものがたり」の源泉

昔むかし、あるところに……という「ものがたり」は、日本だけでなく世界中にあって、説話や伝説、おとぎ話は子どもが文学を学ぶ手習いのようなものだと感じていました。

ところが、「本居宣長」の第十六章で、本居宣長が、紫式部は「源氏物語」を書く上で、どれほど「ものがたり」というものに信頼を寄せていたかということを言っている、と小林秀雄先生に教えられ、今までの子どもじみた読み物という印象とは打って変って、「ものがたり」自体が人間とともに誕生した人間と一体の生きものと言っていい起源を持つほど、深遠なものに感じられてきました。

「ものがたり」には、これは「そらごと」だ、作りごとだとわかっていながら、その作りごとの中から迫ってくる何かしらの「まこと」、真実に、私たちの心がつかまれてしまう不思議な力があります。その力は、古くは書き言葉による読み物ではなく、語り手の話し言葉による「語り」によって伝わってきました。

たとえば、大阪南部の和泉市に古くから伝わる「くず伝説(信太狐)」はよく知られていますが、ここには母子の哀しみという「そらごとのまこと」があります。

―むかし、和泉の信太しのだの森で、ある男が狩りで捕らわれそうになっていた一匹の白い狐の命を救ってやりました。その後、男が恋人葛の葉姫をさらわれて失望しているところへ狐は恋人の姿に化けて訪ねていきます。そのうち二人は夫婦めおととなり、幸せな夫婦暮らしの中で、やがてかわいい男の子が生まれます。ところがあるとき、本物の葛の葉姫がもどってきてしまい、自分の正体がばれると恐れを感じた白狐は、森に逃げようとする動物の本能と、本来の姿を忘れて慈しんできた我が子への愛おしさに引き裂かれ、錯乱しながら障子に別れの歌を書き遺します。

「恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

筆を持つ手は次第に真っ白な前肢となり、ようやっとその筆を口に加えて書いたかと思うと、あっという間に森へ逃げ去ってしまいました。白狐の母を慕うあまり森に連れて行けとせがむ幼子おさなごは、父に手を引かれて母親に会いに行きます……。

このお話を聞くと、狐と人間の間に子どもが生まれるという「そらごと」と知りながら、私たちは人間や動物が持っている本能という「まこと」が想像されて、すっかり信太の森の深いところに連れていかれます。

けれどもこの短い伝説は、「白狐の命を救った人間の男と、その男の恋人に化けた白狐が子どもを生んだ」という事柄を伝えたいのではありません。語る人は、どんな場所で、どんな男で、と、白狐の様子や幼子の愛らしさなどを段々と語るうちに、自分の中にも迫ってくる「まこと」を聞かせたい一心で言葉をつむいでいくのです。聞く人も段々と紡がれた言葉に情景をありありと思い浮かべさせられ、ここにひそむ「まこと」を自らのうちに編み出していきます。「ものがたり」にはこのような語り手と聞き手とが次々と紡がれた言葉によって固有な「まこと」の価値を共に想像しながら生み出していく力があり、人間は日々の生活の中で、いつもその力に支えられて生きてきたことを紫式部はよく知っていた、と本居宣長は言っているのではないでしょうか。

ところで、『源氏物語』はこの例のような語り伝えの説話ではなく、文字という書き言葉によって画期的な文体を持った「物語文学」として完成されたものでした。小林先生は、紫式部が見つめていたものは、これら昔からある説話や伝説の持つ「語らひ」の力をどのように文章に現すかということであったと書かれています。

それは、私たちの国には書き言葉を生む文化がなかったということと深い関係があり、「語らひ」は、こういう言語環境のなかで生まれてきたものと考えられるからです。小林先生はこのように書かれています。

―「文字というさかしら」など待つまでもなく、私たちは自国語の完全な国語の組織を持っていた。自国の歴史というものが、しっかりと考えられる限り、これをどこまで遡ってみても、国語の完成された伝統的秩序に組み込まれた人間達の生活しか、見つかりはしない。……

その歴史は、古代の「祝詞のりと」や「宣命せんみょう」にまでさかのぼると宣長は書いていますが、宣長の信じるところは人間の「声」に現れる「あや」の力でした。たとえば、「おはよう」という挨拶には意味よりもまずその声で、口にする人がどんな気持ちで朝を迎えたかがわかりますが、私たちの祖先はこの「文」でお互いをわかり合って生活していたことになります。

さて、このしっかりと出来上がった「語り」の強固な力を誰も書き言葉に移すことに成功しなかったのですが、紫式部は見事に『源氏物語』で「そらごとのまこと」を物語の文体で伝えて人々の心をつかみました。光源氏という貴公子にさまざまな「物のあはれを知る」ということを演じさせ、そこには『源氏物語』固有の「まこと」が次々と現れます。それは、古女房を装った紫式部が、読者と「語らふ」つもりで書いた「ものがたり」と言っていいのではないでしょうか。

小林先生が「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」と言われている「ものがたりの源泉」は、人間の話し言葉に根源的にそなわっている言葉の本能から湧き出ている、と言えるのではないでしょうか。

(了)

 

「ワインは分かる?」

「本居宣長」を手におしゃべりするのが大好きな四人の男女。今日も三々五々集まってきたようだ。

 

江戸紫が似合う女(以下「女」) あら、お買い物?

凡庸な男(以下「男」) 週末にワイン会があるので、買い出しに行ってきた。

女 ワインがお好きみたいね。

元気のいい娘(以下「娘」) ただの飲んだくれでしょう?

男 ご指摘は重く受け止める、でもね……

娘 記者会見みたいだね。「でもね」って、何か言いたいの?

男 呑めば酔っ払ってしまうけど、それでも、ワインというのは、奥深い世界だなと思うんだ。

娘 ほんと?あんた、ワインが分かるの?

生意気な青年(以下「青年」) だいたい、ワインって、構えからしてイヤミだね。こぶしがすっぽりと収まるほどの大きなグラスの、下四分の一ほどに白ワインを注ぐ。細く長い脚の根元を指で挟み、台座をテーブルの上で滑らせ、グラスを何度かゆっくりと回す、なんてね。

娘 そして、こう来るのよね。液体はグラスの中で揺れ、その膨らんだ部分に香りが満ちる。ゆっくりと香りを確かめ、おもむろにワインを口に含む、とかなんとか。

青年 極め付きは、「かりんや梅酒のような香り、それにかすかな蜂蜜のような香り。少し尖った酸味と柔らかな苦みがあって、余韻が口の中に長く残った」なんて能書きだね。

娘 キモすぎ。

青年 言ったもん勝ち、ハッタリの世界じゃないのかな。

男 でも、それだけでもないと思うんだ。飲むたびに、深みのある世界だって感じるんだよ。

女 あるワイン評論家がこんなふうに言ってるわ。「たとえば、ワインの質をはかる最大の基準は、『複雑さ』である。グラスについだワインに繰り返し戻るたびにさきほどとは違う香りブケや味に出会うことが多いほど、ワインは複雑だと言える」(マット・クレイマー『ワインがわかる』白水社刊23ページ)

男 だから、その複雑さについて深く知りたくなり、知ればしるほど、楽しみが増すような気がするんだ。

娘 確かに、そういうことって、ほかにもあるかもね。骨董品とか、絵画とか。

男 人間の感性を離れて明確に測定する、みたいなことができない世界。ワインを味わうように、絵画や骨董、詩や歌でも、「味わう」という言い方がピタッとくるよね。

青年 文学や美術のような文化的なものと、ワインなんかを同列に論じていいの?

女 そうかもしれない。でも、お叱りを覚悟していうと、こういう世界というのは、とても複雑で、奥が深くて、だからこそ、何度でも、繰り返し味わうことができるのでしょう。

娘 好きな絵や、気にいった骨董品であれば、何度見ても、長い時間見続けても、飽きることはないよね。

女 でね、これもさっき評論家の受け売りなんだけど、ワインにも、美術品や工芸品の世界と同じように、コニサーという人が存在するようなの。

娘 コニサー?

女 コニサー(connoisseur)。目利きとか、鑑賞家みたいな意味なんだけど。

青年 そういう人の言うことは、言ったもん勝ちのハッタリではないとでもいうわけ?

女 そうね。彼によれば、「コニサーについていちばん要を得た、おそらく最上の定義は、『好きなもの』と『良いもの』の区別ができる人」で、「理想的なコニサーとは、ワインを味わったあと、たとえば『こいつは偉大なワインだが、私はご免だ』といってのけられる人物」なんだそうよ(前掲書22頁)

娘 好き嫌いと、善し悪しの判断を区別するというのは、なんか分かる気がする。

青年 それは、主観を排して、客観的な基準で判断する、ということでしょう。物理的な測定を志向することになる。それが無理なら、結局、好き嫌いの世界に戻るんじゃない。

女 それもちょっと、乱暴というか、単純すぎるというか。

青年 なぜ?

女 単なる好き嫌いではないという意味で、主観的な判断ではない、とはいえるわ。でも、客観的な基準なんて、便利なものがあるわけではないのよ。

青年 では、どうやって判断するのさ。

娘 そうだね。複雑さに満ちていて、奥深く、飽きの来ないそういう世界で、万人が納得するような判断なんてできるのかな。

女 例の評論家が、アンティーク銀器のコニサーのお話を紹介しているの。「時代ものが当代のものより優れている、なんて根も葉もないことです。が、上等な銀器のコニサーにとってみれば、古物や新作にかかわらず、品物にひそむ、なにか名状しがたい気合のこもりかたから、あるものがオリジナルであるかどうかが判然とするのです。それは古さびた外観や傷、へこみの問題ではありません。よほど巧みに写してあっても、複製品にはオリジナルが必ず身につけているものが、どこか欠けている。作家の手の伸びやかで自然な動きがない、ともいえます。オリジナルには造った者の心意気と手の働きが体現されているけど、コピーにはこれがつかまえられない。ま、理由は説明しずらくても、実物を見れば納得がいくはずです」(前掲書p19,20頁)

男 こういう人たちって、対象のことが、ワインでも、銀器でも、絵画でも、詩歌でも、何でもそうなんだけど、とても好きで好きで、好きだからこそ、自分の勝手な感覚ではなくて、対象の中に備わっている良さを、なるべく本来の姿を損なうことなく知りたいと思うんだよ。

女 大好きだからこそ、対象が、そういう丹念な吟味に値するものだという確信がある。どうせこんなものだろうなんて決めつけはしない。その上で、容易にたどり着けないかもしれないけれど、学びを深めていくことに喜びを感じ、楽しんでいるのだと思うの。

娘 それって、好・信・楽の三題噺さんだいばなしに強引にもっていこうとしてない?(笑)

女 ばれたかしら(苦笑)。でも、あながち悪ふざけでもないと思うのよ。

娘 どういうこと?

女 小林秀雄先生は、(契沖と宣長の)「二人は、少年時代から、生涯の終りに至るまで、中絶する事なく、『面白からぬ』歌を詠みつづけた点でもよく似ている」と書かれているわね(新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集、71頁)。二人とも、長じて偉大な歌学者になるのだけれども、その出発点には、歌を楽しむ心があったのではないかしら。

男 確かにそうかもしれないね。

女 だから、小林先生も、「『僕ノ和歌ヲ好ムハ。性ナリ、又癖ナリ、然レドモ、又見ル所無クシテ、みだリニコレヲ好マンヤ』いう宣長の言葉は、又契沖の言葉でもあったろう」と書かれたのではないかしら(前掲書71頁)

青年 しかしね。二人とも、歌が好きだったというのは、そのとおりかもしれないよ。でも、契沖と言う人は、「従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変」させるという卓越した精神の持ち主で(前掲書73頁)、宣長さんはそれをさらに発展させた大学者なんだよ。

女 それは、分かってるわ。二人とも、大学者よ。

青年 小林先生は、「ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの『好信楽』のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。私にはそう思われる」と書かれているけど(前掲書83頁)、二人の「好信楽」は、「好事家の趣味というような消極的な意味合い」ではない(前掲書66頁)、やがて大成する若い才能が自ずと示した「志」なのでしょう。

女 それも分かっているわ。二人の学者としての人生のドラマが、そこからどう展開していくのか、小林先生にご本の中で見せていただいている。でもね、だからといって、二人の「好信楽」と、私たちのそれとを、隔絶した別物とばかり思い込むこともないのじゃないかしら。

青年 なんだって。

女 宣長さんは、仏教の教説のみならず、儒墨老荘諸子百家つまり大陸由来の学問もまた「皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、さらには、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言ったそうね(前掲書60頁)

青年 それはあくまで「栴檀せんだんは雙葉から芳し」みたいなことだよ。

女 もちろん、宣長さんの場合は、こういう気質が、やがてご本人を新しい学問の道へと誘うことになる。これを直ちに、私たちのような凡庸な人間に引き付けて考えてはいけないのかもしれない。

青年 当然だよ。

女 でも、こういう、若き日の宣長さんの生き方には、なにかとても、健康的というか、ものごとに対する肯定的な雰囲気が感じられて、私は、好きだな。

青年 あなたの好き嫌いを言われてもね。

女 そうかしら。世の中の色んなことを楽しむことができる。楽しいからこそ、深く学び続けることができる。こういう姿勢って、私たちの学びにも通じるものがあるのではないかしら。私たちが、宣長さんや小林先生の作品を読み、学んでいるのも、別に誰かに強いられたわけではないし、フィギュアスケートみたいに誰かに採点してもらうためじゃない。自分のため、でしょう。

娘 でも、勝手読みはよくないよね。

女 もちろんよ。でも、きちんと読もうとするのも、宣長さんや小林先生のご本が好きだからなんだわ。好きだから、正しく知りたい。

男 そうなんだね。私もたくさんの間違いを犯しているかもしれないけど、間違いを恐れて、何か、萎縮してしまうのは嫌だな。好きだという気持ちを大事にしたいな。

女 おや、飲んだくれも、たまにはいいこというわね。

 

四人の話は、とりとめもなく続いていく。

 

(了)