ブラームスの勇気

十四

ひどく退屈な街である。名高い祝典劇場は町はずれの森の中にある。これも全く無表情な建築であり、中に這入ってわかった事だが、劇場というよりむしろ巨大な喇叭なのである。全オーケストラを下に隠した舞台に向って、扇形にぎっしりと椅子が配置されている。通路もない、柱もない、二階もない。私達は喇叭の脇腹から番号順に詰込まれ、ドアを締められ、電気を消され、息を殺す。私は、バイロイトの劇場に来る者は、自分の趣味を家に置去りにしたワグネリアンという白痴になる、というニイチェの言葉を思い出していた。(「バイロイトにて」)

 

小林秀雄がワグネリアンの聖地バイロイトに到着したのは昭和三十八年八月二十三日の午後、宿泊先である郊外の退役軍人宅に荷物を置くや、市街へ引き返し、街角の本屋で「ニーベルングの指環」のフランス語訳を買い込むと、さっそくカフェテラスに入って読み始めたという。

四夜続くこの長大な劇場作品の序夜「ラインの黄金」は、その日の夜に上演され、翌二十四日に第一夜「ワルキューレ」、二十五日に第二夜「ジークフリート」、そして一日休みを挟んで第三夜の「神々の黄昏」が上演された。当地での案内役を引き受けた西村貞二の旅行記(「小林秀雄とともに」)によれば、中休みの日を含めて、小林秀雄は劇場で過ごす以外の時間はほとんど宿泊先に引き籠もり、ひとり「指環」の台本を読み続けたらしい。ちょうどワーグナーの生誕一五〇年、没後八〇年に当たる年で、七月二十三日の音楽祭開幕日には、この祝祭劇場で上演されることを許されたワーグナー以外の唯一の作品であるベートーヴェンの第九交響曲が演奏され、八月二十七日、小林秀雄が観た「神々の黄昏」をもって、この年のバイロイト音楽祭の幕が閉じられた。翌日、一行はフランクフルトに戻っているから、ただこの作品を聴くためだけに、小林秀雄はこの街を訪れ、五日間を過ごしたのであった。

その動機と感想を、彼はまず次のように語っている。

 

こんどバイロイトに行って、「指輪」を聴きましょうと思ったのは、こっちでは機会がないし、あの作曲はあの人が一生かけたもんだし、あれを聴けば、だいたいワーグナーというものは、こういうものかと納得できるだろうと思って聴いた。それはつらい骨の折れることだった。あのなかに入ってね、ときどき強い感動があるのですね。ぼくら、ほんとうにはよくわかりません。音楽的教養がちゃんとあって、ワーグナーを聴くなら別だが、ぼくらみたいなただ音楽が好き、面白いというだけなら先ず退屈なものですわ。(「音楽談義」)

 

初めて訪れたバイロイトでのワーグナー体験が、「つらい骨の折れること」であり、「先ず退屈なもの」であったのは事実であろうが、オペラは「眼をつぶって聞く」とまで書いた小林秀雄が、四夜、延べ十五時間前後に及ぶ劇場音楽を「我慢して聞いた」(と彼は右の対談の録音では語っている)のは、それだけ、「ワーグナーというものは、こういうものかと納得」したい思いがあったからであろう。バイロイトへ来る前、小林秀雄はザルツブルク音楽祭へも出向いているが、もともと彼が望み、西村が苦労して手配したコンサートを、いざ現地に到着してみると、「おれはモーツァルトの生まれたザルツブルクにきただけで、もう音楽的な気分にひたれた。それで十分なんだよ」と言って、二晩もキャンセルしてしまったという。滞在最終夜の「魔笛」についても、ぐずぐすしている彼の尻を叩いて劇場まで引っ張って行ったと西村は書いている。モーツァルトについては、小林秀雄は十七年前に発表した「モオツァルト」で、既に十分「納得」済みだったのである。

ワーグナーを納得したいという彼の思いはしかし、この作曲家に対する音楽的関心だけから発したものではなかっただろう。彼が本当に「納得」したかったのは、おそらく、一八六〇年、パリのイタリア座で一人の詩人を震撼させ、「精神的手術を受けた」と言わしめたところの音楽であった。そしてその詩人が、翌年のパリ・オペラ座における「タンホイザー」のフランス初演に際して発表した「リヒャルト・ワーグナーと『タンホイザー』のパリ公演」に書き残し、小林秀雄が生涯にわたって幾度も引用し続けた一節、「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」(小林秀雄「表現について」より)という言葉の意味するところを、ワーグナーの音楽から直に聞き取りたいという要求であったに違いない。自分を批評家ならしめた一詩人が、ワーグナーという一詩人に見出した「最上の批評家」を、すなわちボードレールの批評精神の精髄を、彼は自らの耳で確かめたかったのである。

帰国して程なく、『芸術新潮』に発表した「バイロイトにて」というエッセイでは、この舞台作品に接した直接の印象はほとんど語られなかった。彼自身、それは無理な話だと言い、「私は、ただ、あの巨きな喇叭のなかで、毎晩、神妙に、茫然として耳を澄ましていただけなのである」と書いている。だがこの旅行から帰った三年後に行った「音楽談義」の中で、小林秀雄は、この長大な作品のどこで「強い感動」を覚えたのかについて、はっきりと、しかも執拗に何度も語った。その一つは、最終夜「神々の黄昏」の第三幕第二場で、主人公ジークフリートが殺害され、有名な葬送行進曲とともにその棺が運ばれて行く場面であった。

 

何度もいうけれども、「神々の黄昏」の中でジークフリートが死ぬ。あそこでテューバがでてくるだろう、お葬式で。ボッ、ボッ、ウーというのがあるでしょう、向うへいくときに暗いんだよ。少し坂道になっていて、そこをだんだん棺が進んでゆくんだ。あのなかで音楽が鳴っているわけですよ。それは見なくてもいいんですけどね。何ともいえない。あれはお葬式というものじゃ、ぜんぜんないんだよ。これはジークフリートというもんなんだ。ジークフリートというものを、おまえたちは見てきたろう、一幕からずっと。いまや死んだんだ。貴様ら、ジークフリートをどういうふうに思うか、そういうふうなものがあの音楽ですからね。ワーグナーはということをしきりにいってるでしょう。あすこの音楽はたしかにに違いないと納得した。ショパンだって、ベートーヴェンだって、ぜんぜん考えつかなかった葬送行進曲ですよ。だれも書けないし、書いたことがないですよ。

 

「タート」とは、自作に「楽劇(Musikdrama)」という呼称が冠せられることを嫌ったワーグナーが、自分の劇作品は「形象化された音楽の行為(ersichtlich gewordene Taten der Musik)」であると書いた、その「行為Tat」である(ワーグナー「<楽劇>という名称について」)。小林秀雄は、昭和二十五年に発表した「表現について」をはじめ、この「行為Tat」について何度か言及しているが、ここでは、彼にこのワーグナーの言葉への基本的な理解を与えたパウル・ベッカーの「西洋音楽史」から引用しよう。ベッカーは、この「形象化された音楽の行為」という言葉に、ワーグナーの作品を貫く一つの精神が示されていると言った上で、次のように説いている。

 

それは次の二箇条の事柄を含んでいる。すなわち第一に、ワーグナーは音楽活動としての和声の転調や、旋律の進行や、リズムの躍動などの音楽現象を、音の「行為」(Tat)、すなわち各音及びその相互関係が演じる一つの(Handlung)であると考えたこと。第二に、舞台上の諸情景は前記の音楽活動のであり、音楽形式の活動がそのまま演劇の上に形象化されたものであるとしたことである。

つまり簡単に言うと、ワーグナーによれば、音はいわば役者であり、和声はその演技であり、あるいは逆に歌手は人間に化身した音であり、その演技は和声の活動なのであった。(河上徹太郎訳)

 

注意したいのは、あくまでも「音楽の行為」が形象化したものが舞台であり、「舞台上の行為」を抽象化したものが音楽ではないという点である。情念や観念の運動が音に化身するのではなく、音そのもののダイナミックな運動が一つの情念や観念と化して舞台上に躍り出たもの、それがワーグナーの言った「行為Tat」であった。

「<楽劇>という名称について」の中で、ワーグナー自身は「行為Tat」という言葉そのものについてはほとんど語っていないが、「楽劇(Musikdrama)」という言葉における「Musik」と「Drama」の関係について、およそ次のように書いている。――音楽とは、それ自体一つの芸術であるばかりか、もとを正せば全ての芸術の精髄でさえあったのに対し、ドラマは、語源から言えば「行為」もしくは「事件」を意味する語であり、舞台上で演じられるそれは、嘗ては羊を生贄に捧げる際に歌われた合唱歌を起源とする悲劇の一部であった。つまり音楽は、元来ドラマの母親であったのであり、その古の栄えある面目を取り戻した時、「Musik」は、もはや「Drama」の前に冠すべき語でも後に置くべき語でもない。諸君は、普段、音楽の本質をおぼろげにしか感じ取っていないのである。音楽が鳴り渡る時、その響きにこもる意味合いを舞台に見て取るがよい。舞台上の寓意を通じて、音楽はその本質を諸君の眼の前に現すであろう。……

ワーグナーは、この「舞台上の寓意」を通じて「音楽の本質」が立ち現れる様を、聖人伝を語り聞かせて宗教の奥義を子供たちに悟らせる母親のやり方に喩えている。ドラマは「寓意」であり、音楽が「奥義」なのである。

ちなみに「ニーベルングの指環」の作曲開始にあたって執筆されたこの芸術家のもっとも有名な論文「オペラとドラマ」の基本命題は、「ドラマこそ表現の目的であり、音楽はその手段である」というものであった。そのワーグナーが、「意志と表象としての世界」に出会ったのは、「オペラとドラマ」を発表した三年後である。世界の本質は一にして全なる意志であり、その意志を、一切の媒介なしに直接模写したものが音楽であるとした、ショーペンハウエルの音楽形而上学の洗礼を浴びて以後、ワーグナーにとって「手段」であったところの「音楽の本質」が、根底から覆されたのであった。ショーペンハウエルは、世界は肉体を与えられた音楽であり、もしも音楽を完全に説明することに成功したとすれば、それはそのまま世界を説明したことになると断言した哲学者である。「形象化された音楽の行為」というワーグナーの言葉は、そのショーペンハウエルとの邂逅を経て、実に二十六年の歳月を費やした「ニーベルングの指環」が遂に完成に近づきつつあった一八七二年、まさに「神々の黄昏」第三幕の作曲にあたっていた年に書かれたものであった。

そのワーグナーの「行為Tat」に、小林秀雄はどう応接したか。彼はただ、「神妙に、茫然として耳を澄ましていただけ」ではなかったはずだ。小林秀雄はワーグナーを、「大シンフォニスト」と呼び、「オーケストラの表現力の万能を本能的に信じている音楽家」と書いている(「バイロイトにて」)。そして当時、ヴィーラント・ワーグナーとヴォルフガング・ワーグナーによって確立され、ヨーロッパのオペラ界を席巻した「新バイロイト様式」による革新的な舞台演出についても、舞台なんてつまらないと一蹴し、そのもたらす感動は、結局は音楽の力であると断定した(「音楽談義」)。

百年前、ボードレールがワーグナーの音楽から一大啓示を受け取ったのも、パリ・オペラ座で上演された歌劇「タンホイザー」ではなく、その前年にイタリア座で行われたオーケストラ・コンサートにおいてであった。ボードレールが見出した「最上の批評家」とは、「交響楽作者」としてのワーグナーだったのであり、「人間霊魂の擾乱を音の幾多の結合によって訳出する芸術家」(佐藤正彰訳)が蔵したものなのであった。ボードレールは、イタリア座で聞いた「ローエングリン」序曲と「タンホイザー」序曲について、と書いている。

しかしそれは、ボードレールと小林秀雄がワーグナーを「眼をつぶって」聞いた、つまり一切の造形的、演劇的、文学的、思想的な形象や観念とは無縁の純器楽的な和声音楽として聞いたということではなかった。むしろ、純粋な器楽音楽として聞いたワーグナーこそ、小林秀雄にとっては「ただ音楽が好き、面白いというだけなら先ず退屈なもの」であったに相違なく、台本がなくてもその音楽を理解し得るとボードレールが言ったのは、と言えるほど、音楽そのものの雄弁が、特定の観念を聞く人に迅速正確に暗示するという意味で言ったのであった。「ニーベルングの指環」四部作の大詰めで、小林秀雄がジークフリートの葬送行進曲に震駭した時、それはもはや、ただの「お葬式」でも「行進曲」でもなかった。その「強い感動」の震源は、四夜続いたこの大シンフォニーの終楽章で展開された「音楽の行為」が、彼の眼前に暗示してみせた或る一つの形象にあった。

「音楽談義」の録音で、「あすこの音楽はたしかにに違いない」と語った後、小林秀雄は、ジークフリートを送るというそのが、つまりはこの葬送行進曲そのものが、それまでのこの主人公の全歴史を要約していると言う。それは確かに、ある種の行進曲であったが、そのリズムによって棺が進むのではない、ジークフリートという「時の流れ」そのものが進むのである。そして「神々の黄昏」第三幕第二場から第三場にかけて繰り広げられるこの音楽の一大行為の背後で、嘗て青年時代に俘囚となった一人の詩人にして自分を批評家ならしめた「最上の批評家」の、批評精神と抒情精神の精髄が鳴り響くのを聞き分けた時、その「音楽の行為」はまた、小林秀雄の「過去の一切」を映し出すあの「巨きな濁流」となって形象化したはずである。ティンパニが「死の動機」を刻み、低弦が不吉な唸り声を上げ、ワーグナーチューバとホルンがユニゾンで咆哮する行進曲を聞きながら、小林秀雄がしたのは、あの一種鬼気に充ちて謎めいた「壮麗なパノラマ」ではなかったか。バイロイトの「巨大な喇叭」の開口部へ向かって進む棺の中に横たわっていたのは、ジークフリートという「永遠の若者」だけではなかっただろう。その棺の中に小林秀雄が見ていたのは、彼自身の文学的青春そのものであっただろう。彼がワーグナーの声をはっきりと聞いたのは、おそらくその時である。君はこの「ジークフリート」をどう思うか、と。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

十三

ソ連作家同盟の招待を受け、小林秀雄が安岡章太郎、佐々木其一とともに横浜港を出航したのは、昭和三十八年六月二十六日、結果的にこれが最後の回となったベルクソン論「感想」の第五十六回が『新潮』に掲載された月であった。安岡章太郎の『ソビエト感情旅行』によれば、津軽海峡を廻ってナホトカ港へ到着したのが二十八日、そこからシベリア鉄道支線の夜行列車でハバロフスクへと向かい、翌二十九日の夕方、当時世界最大の旅客機でモスクワへ飛んだ。ジェット機は西へ、つまり太陽を追いかけて飛んで行く。モスクワまでの八時間、機内には、いつまでも西日が射し続けていたという。

小林秀雄が、八ヶ月前に亡くなった正宗白鳥の言葉を思い出していたのは、そのモスクワへ向かう機中でのことであった。亡くなる数ヶ月前、雑談していると、何かのことでロシア旅行の話になった。すると八十を超えたこの老作家が、話の途中でふと横を向き、遠くの方を見るような目になって、「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」と独語するように言ったという。正宗白鳥が欧米漫遊の途についたのは、その四半世紀前のことである。無論、正宗さんの心中は知る由もなかったがと断りつつ、小林秀雄は、どうしてだか、「ああ、この人はラスコオリニコフのことを考えているのだ」と感じたという(「ネヴァ河」)。

夏の西日が充満するシベリアの上空で、ラスコーリニコフのことを考えていたのは、しかし小林秀雄の方ではなかったか。「七月のはじめ、猛烈に暑いさかりのある夕方ちかく」、S横丁の屋根裏部屋から表通りに出た一青年を追って、彼はこの国ヘ来たのである。モスクワへ到着し、ジャズの騒音と男女の踊りで賑わうペキン・ホテルの大食堂で、彼はネヴァ河を見たいとしきりに思っていた。

嘗て「聖ペテロの町」と名付けられ、当時「レーニンの都市」と呼ばれたロシア北西の街へ到着したのは、その五日後の七月四日、やはりギラギラとした西日が射す白夜の夜であった。連日の雨模様だったモスクワとは打って変わって、一夜明けると、レニングラードは一片の曇なき青空である。ところが、この旅行中いつも一番最後に起きてくる小林秀雄が、その日に限っていつまでたっても起きてこない。心配した安岡章太郎が様子を見に行くと、部屋は既にモヌケの殻であった。ガスパジン小林は今朝早い時刻に一人で出て行ったと鍵小母さんデジュールナヤが言う。彼は六時前には起き出し、ひとりネヴァ河を見に行ったのだった。

一行が宿泊したホテル・ヨーロッパは、ネヴァ河から直線距離にして一キロ半余りのところにある。早朝、ホテルを抜け出した小林秀雄は右に折れ、ネフスキー大通りをデカブリスト広場まで一直線に歩いて行ったに違いない。二六〇年前、この街を建設した大帝の騎馬像が、その広場の中で、ネヴァ河に向かって躍り上がるように建っていた。

 

空は青く晴れ、ネヴァ河は、巨きな濁流であった。私は、デカブリストの広場に立ち、ペトロパヴロフスク要塞の石のはだを見ていた。背後には、名高い「青銅の騎士」が立っている。プウシキンが歌ったのは、この濁流だ。エヴゲニイをのみこんだこの同じ濁流である。それは、「青銅の騎士」という謎めいた詩に秘められている詩魂をながめるような想いであった。(「ネヴァ河」)

 

ソ連作家同盟からの慫慂を受けるにあたり、小林秀雄には、この閉された社会主義国家に対する政治的関心があったわけではなかった。彼に言わせれば、「漠然たる旅情の如きものが動いたというまでのこと」だった。だが、彼の中で動いたその「旅情の如きもの」とは、ただ外国を旅する者としてのそれではなかった。その「旅情」は、四十年近く歩み続けた彼自身の、文学の旅への情であった。さらに言えば、彼を文学者にしたところの西洋近代という異国に対する客愁であった。ソビエト旅行の真の目的を、彼は次のように書いている。

 

自分が文学者になったについては、ロシアの十九世紀文学から大変世話になった。この感情は、私には、きわめて鮮明なものであり、私には、私なりのロシアという恩人の顔が、はっきり見えていたのである。ネヴァ河が見たい、というのも、言うまでもなく、ここから発する。ドストエフスキイの墓詣りはして来たいものだ、そんな事を思う。(同前)

 

同じことを、彼は出発直前に行った鼎談(「文学と人生」)でも語り、帰国後に発表したもう一つの紀行文(「ソヴェトの旅」)にも書いている。そして、「ドストエフスキイという作家を読んで、私は、文学に関して、開眼したのです」とあらためて告白した。六十一歳の時であった。

戦前、中山省三郎に宛てた「私信」によれば、小林秀雄がはじめてドストエフスキーの重要作品に一通り接したのは、同人誌に小説を発表し始めた旧制高等学校時代であった。ところが批評家として文壇に出た頃、偶然の機会に「カラマーゾフの兄弟」と「白痴」を読み返し、まるで異なった人の手になる作品を読む思いがして、ほとんど赤面するほど驚嘆した。そして、ドストエフスキーの全集を熟読し、この作家についての長い評論を書こうと決心したのである。その「長い評論」が、その後どのような野心をもって書き始められ、書き継がれたかは、既に見たとおりである。彼は、モスクワのトレチャコフ美術館で観たペローフのドストエフスキーの肖像画の前で動けなくなったという。そしてレニングラードで案内されたこの作家の住居にも、ラスコーリニコフが斧を盗んだという門番小屋や「白痴」のラゴージンが住んでいた家の窓にも、同じように感動した。

アレクサンドル・ネフスキー大修道院内にあるドストエフスキーの墓にたどり着いたのは、白夜の日射しも弱まり、あたりに薄墨色の空気と赤みがかった光とが交差し合う時刻だったという。小林秀雄は、黒花崗岩の墓に、「極く自然に頭を下げた」とだけ記している。その時、同行した安岡章太郎が、墓の前に立つ彼を写真に撮ろうとしてカメラを向けた。ファインダーの中で、小林秀雄は、はじめ少し照れたような笑いを浮かべ、それから意識して口を固く結んだそうである。ここだと思って安岡はシャッター・ボタンを押したが、フィルムが切れて、シャッターは動かなかった。

早朝のサンクト・ペテルブルクを流れるネヴァ河の濁流を前にして、小林秀雄の心を領していたのは、「青銅の騎士」の詩人の詩魂だけではなかっただろう。先に引用したくだりに続けて、彼は、「プウシキンの詩魂は、ドストエフスキイに受け継がれた」と書いている。小林秀雄にとって、そのドストエフスキーの詩魂とは、「罪と罰」第二編第二章に現れる次のくだりに結晶するものであった。この長い一節を、彼は戦前と戦後に書いた二つの「罪と罰」論のいずれにも、自らの翻訳によって引用し、これを「ラスコオリニコフの歌」と呼んだ。その「歌」を、この時、彼が思い出さなかったはずはないだろう。あの一種鬼気に充ちた「壮麗なパノラマ」を眺めるために、この恐ろしく孤独な青年が百度は立ったというニコラエフスキー橋が、「青銅の騎士」を背後に立つ小林秀雄の左手に、はっきりと見えていたはずである。

 

彼は二十コペイカの銀貨を掌に握りしめて、十歩ばかり歩いてから、宮殿の見えるネヴァ河の流れへ顔を向けた。空には一片の雲もなく、水はコバルト色をしていた。それはネヴァ河としては珍らしい事だった。寺院の円屋根はこの橋の上から眺めるほど、つまり礼拝堂まで二十歩ばかり距てた辺から眺めるほど鮮やかな輪郭を見せる所はない。それが今燦爛たる輝やきを放ちながら、澄んだ空気を透かして、その装飾の一つ一つまではっきりと見せていた。鞭の痛みは薄らぎ、ラスコオリニコフは打たれた事などけろりと忘れて了った。ただ一つ不安な、まだよくはっきりしない想念が、今彼の心を完全に領したのである。彼はじっと立ったまま、長い間瞳を据えて遥か彼方を見つめていた。ここは彼にとって格別なじみの深い場所だった。彼が大学に通っている時分、大抵いつも―といって、おもに帰り途だったが―かれこれ百度くらいは、丁度この場所に立ち止って、真に壮麗なこのパノラマをじっと見た。そして、その度にある一つの漠とした、解釈の出来ない印象に驚愕を感じたものである。いつもこの壮麗なパノラマが、何んとも言えぬうそ寒さを吹きつけて来るのであった。彼にとっては、この華やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気に充ちているのであった―彼はその都度われ乍ら、この執拗な謎めかしい印象に一驚を喫した。そして自分で自分が信じられぬままに、その解釈を将来に残して置いた。ところが、今彼は急にこうした古い疑問と怪訝の念を、はっきり思い起した。そして、今それを思い出したのも、偶然ではない気がした。自分が以前と同じこの場所に立ち止ったという、ただその一事だけでも、奇怪なあり得べからざることに思われた。まるで、以前と同じ様に考えたり、つい先頃まで興味を持っていた同じ題目や光景に、今も興味を持つ事が出来るものと、心から考えたかのように……彼は殆ど可笑しいくらいな気もしたが、同時に痛いほど胸が締めつけられるのであった。どこか深いこの下の水底に、彼の足元に、こういう過去の一切が―以前の思想も、以前の問題も、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何も彼もが見え隠れに現れた様に感じられた……彼は自分が何処か遠い処へ飛んで行って、凡百のものが見る見る中に消えて行くような気がした……彼は思わず無意識に手を動かしたはずみに、ふと掌の中に握りしめた二十コペイカの銀貨を感じ、掌を開いてそれを見詰めていたが、大きく手を一振りして、水の中に投げ込んで了った。彼は踵を転じて帰途についた。彼は、この瞬間、剪刀はさみか何かで、自分というものを、一切の人と物とから、ぷっつりと切り放したような思いがした。(「『罪と罰』について Ⅱ」より)

 

脚下を流れるコバルト色のネヴァ河の深い水底に、ラスコーリニコフの過去の一切が見え隠れに現れたように、小林秀雄もまた、その濁流の水底に、それまでの彼の一切の思想や、問題や、印象や、そして「彼自身」が現れるのを見なかっただろうか。彼は、この「歌」に、ほとんどボードレールの抒情詩の精髄を感じると書いていた(「『罪と罰』について Ⅰ」)。小林秀雄を文学者にしたのは、ドストエフスキーであった。だがその彼を批評家にしたのは、ボードレールである。この十九世紀パリの詩人の著書を読んだという事は、「私の生涯で決定的な事件」(「ボオドレエルと私」)であり、「ボオドレエルという人に出会わなければ、今日の私の批評もなかったであろう」と彼は書いている(「詩について」)。一八二一年、奇しくも同年に生れたヨーロッパ近代文学の二人の「恩人」によって、小林秀雄は文学に開眼し、批評精神を眼醒まされ、「彼自身」になったのであった。

そしてその「彼自身」の、一切が、ネヴァ河の深い水底に揺らめくのを見た時、小林秀雄もまた、自分というものを、身を切る思いで何かから切り放さなかっただろうか。それは、彼がその中で生を受け、育まれ、またこれと闘い続けた、西洋近代という謎めいた「壮麗なパノラマ」そのものではなかったか。この旅行から帰国した後、彼は五年間連載し続けたベルクソン論を封印した。学生時代から愛読し、「私が熟読した唯一の西洋の大哲学者」(「ベルクソン全集」)と語ったこの思想家もまた、小林秀雄を「彼自身」にしたもう一人の「恩人」であった。そして同じく中絶したままとなっていた二度目の「白痴」論に、短い一章を加筆して、彼の言葉で言えば、「首のないトルソ」として上梓したのである。三十年間続いたドストエフスキーについての小林秀雄の「長い評論」は、ここで終止符が打たれた。その覚悟を定めたのは、彼が、「青銅の騎士」を背後にネヴァ河を眺めた時ではなかったか。

四日後、一行はレニングラードからヤルタへ飛び、そこからキエフへ廻って再びモスクワに戻った。その後、小林秀雄は安岡章太郎と佐々木基一をモスクワに残し、ひとりパリへ発った。彼が、モンパルナス墓地にあるボードレールの墓を訪れたかどうかはわからない。だがその後、パリからさらにザルツブルク、ウィーンを巡り、ワーグナーの「リング」を聴くために訪れたバイロイトにおいて、期せずしてこの詩人の墓の前に立つことになる。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

十二

ある時、小林秀雄は、「私はもう演奏家で満足です。独創的な思想家というものは……」と吉田秀和に語ったことがあったという。ただそれが、「独創的な思想家というものはもう出つくした」ということだったのか、「自分がそうでないことがわかった」ということであったのか、その先ははっきり思い出せないと吉田秀和は回想している(「演奏家で満足です」)。

小林秀雄が言った「演奏家」を「批評家」に、「独創的な思想家」を「作家」に置き換えてみれば、この発言は嘗て彼が志賀直哉に書き送った「僕はこの頃やつと自分の仕事を疑はぬ信念を得ました。やつぱり小説が書きたいといふ助平根性を捨てる事が出来ました」という表明の一変奏となるだろう。だがこの発言は、戦前になされたものではない、「モオツァルト」を発表したさらに後になってからのものである。ならば、この「演奏家」は「コメディ・リテレール」座談会で言われた「平凡な解説」者に、「独創的な思想家」とは「早く獲物がしとめたい猟師」としての批評家に置き換えてみるべきだろう。そうすれば、前者の「原文尊重という智慧」、すなわち「古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る」という批評の方法が、主観的な解釈を避けてひたすら原曲に肉薄しようと努める演奏家の態度に相似したものであることがわかるはずである。しかも小林秀雄の言う「演奏家」は、ただ他人の音楽を奏でる者の謂ではなかった。彼に言わせれば、作曲家モーツァルトもまた、訓練と模倣とを旨とする「演奏家」であったからである。

 

彼の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。彼が大即興家だったのは、ただクラヴサンの前に座った時ばかりではないのである。独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされた事はなかった。(「モオツァルト」)

 

モーツァルトの音楽は、当代の様々な音楽の模倣に過ぎないというのではない。またそれは、あらゆる模倣の訓練を終えた後に新たに書き始められたと言っているのでもない。その音楽の掛けがえのない独創性は、モーツァルトが当代のあらゆる音楽を模倣し尽くした、まさにその瞬間に生じたと言っているのである。、文章は次のように続く。

 

模倣は独創の母である。唯一人ほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞える程、独創という観念を化物染みたものにして了った。

 

小林秀雄は、「独創的な思想家というものはもう出つくした」と言おうとしたわけでも、「自分は独創的な思想家でないことがわかった」と卑下したわけでもなかっただろう。他人の歌をどこまでも上手に模倣することで自ずと表れる独創性、それがあれば自分は満足だと言ったのである。「ゴッホの手紙」から「『白痴』について Ⅱ」を経て「感想」へと至る「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の批評の軌跡がそれを証している。彼が振り捨てたのは「独創」ではない、「独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図」であった。

この発言に接した吉田秀和も、前掲の「モオツァルト」の一節を敷衍しながら、小林秀雄が「演奏」という一語で表したものは、随分前から彼の文章に出ていた「創造と伝統」の問題についてのある中核的な思想、あるいは内的な手ごたえを指すと書いている。だがそれと同時に、「近年のは、少し様子がちがうように感じられる」とも言い、「そこに何か、それまでなかったものが加わった」と言う。そしてもし晩年の小林秀雄の思想というものが語られるとすれば、この「演奏」という一語で彼が表したものと無関係ではないだろうと述べている。

これまで見てきたように、「一番立派な解説(演奏)が一番立派な批評でもある」という考え自体は、「ドストエフスキイの生活」を書き終えた頃から既に小林秀雄の裡に胚胎していたものであった。しかし彼が語った「私はもう演奏家で満足です」という言葉(おそらく彼はこの言葉通りに語ったのだろう)には、「演奏家」とは何か、「独創的な思想家」とは何かという問題以上に、「演奏家」と「独創的な思想家」というこの二つの極を巡り巡った末に、自分は畢竟「演奏家」であるという事実へのはっきりした自覚と肯定、そして「演奏家」として生涯を全うすることについての最後の覚悟が込められていたはずである。発言の重点は、「私はもう演奏家で満足です」の「もう」と「満足です」の二語にあった。吉田秀和が感じた「それまでなかったもの」とは、小林秀雄のこの最後の自覚と覚悟のニュアンスではなかったか。

小林秀雄が吉田秀和にそれを語ったのが何時のことであったのかは定かでないが、吉田秀和のこの一文が第三次小林秀雄全集の月報に寄せられたのは、昭和四十二年九月である。五味康祐を相手に「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語ったのは、同じ年の三月であった。「本居宣長」の連載第十二回が発表された頃である(『新潮』四月号)。ちなみにその前の第十一回が出たのは前年の『新潮』十月号で、この二回の間には半年間の空白がある。同誌昭和四十年六月号より開始された連載は、最初の四回までは毎号発表されたが、その後は基本的に隔月で発表され、時にそれ以上の期間を挟むこともあったが、第十一回と第十二回の間の半年間は、十一年半続いた連載の中で最初の大きな中断であり、かつ最も長い間隙であった。

その「本居宣長」第十一回と第十二回は、内容的にみても最初の大きな節目となっている。第十一回は、「随分廻り道をしてしまったようで、そろそろ長い括弧を閉じなければならないのだが……」とあるように、宣長を語ろうとしてまずは契沖、続いて藤樹、仁斎、徂徠と語り継いでいった長大な序論の結語にあたる章である。その「長い括弧」を閉じて、いよいよ第十二回から本論が始まる。宣長の「もののあはれ」論である。「本居宣長」の文体が、ブラームスの音楽のように肌理が細かくれるようになっていくのも、このあたりからだといっていいだろう。妹の証言によれば、その前年に行った講演の中で、彼は「源氏物語」を読まなければ宣長のことは恥ずかしくて書けない、これから本気で「源氏物語」を読むつもりだと語ったそうだが、その後半年間何も書かなかったのはそれを実行したからだという(高見澤潤子『兄小林秀雄との対話』)。いずれにせよこの空白は、本居宣長という大海へいよいよ飛び込もうとした小林秀雄が、その大海原を前にして一つ大きく息を吸い込み手綱を締め直すための沈黙期間であった。「『本居宣長』はブラームスで書いている」という発言は、その沈黙を破るのと同時に行われたということ、そしてこの時、彼が次のような確信を懐いて飛び込んだということが肝心なのである。

 

彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感と呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。(「本居宣長(十一)」)

 

これが、小林秀雄が語った「演奏家」という道であり、「演奏家」であることの「満足」であった。ここで言われた「彼等」とは、「長い括弧」の中で辿られた中江藤樹から本居宣長へと至る「貫道する学脈」を指すが、小林秀雄の中ではその「一と筋」に、ブラームスもいたのである。そして「モオツァルト」で提示された「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」という命題が、次のように再現される。

 

彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚もこうしようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。つまり、古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであった……(同前)

 

「音楽談義」の最後で、小林秀雄は、もう自分は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは恥ずかしくて書けないと言い、ブラームスみたいに書きたいとこの頃思っているのはそういうことだと語っていた。それは、一面非常な感動と敬意を覚えながらも結局自分は愛さないと言明したワーグナーの話に続けて言われた言葉であった。音楽史上、この芸術家こそ、「独創的な思想家」たらんとした最大の野心家であっただろう。とすれば、「私はもう演奏家で満足です」と語った小林秀雄は、「私はもうブラームスで満足です」と語ったことにもなる。そのブラームスは、ベートーヴェンという古典を愛し、これを模傚することに生涯を賭した作曲家であった。ブラームスにとっては、それがということであった。少なくとも小林秀雄はそう考えていたはずだ。

小林秀雄がそのブラームスにいつ頃から心を寄せるようになったのか、それも定かでない。だが「独創的な思想家」としてではなく「演奏家」として、ワーグナーではなくブラームスとしての批評の道を全うしようとした小林秀雄の最後の自覚と覚悟が定まったのは、おそらく、「本居宣長」の連載を開始する二年前、「感想」を中断して旧ソ連へ渡った昭和三十八年六月から十月にかけての欧州旅行でのことであったと思われる。敢えて言えば、それは、彼がペテルブルクの街中を流れる早朝のネヴァ河をひとり眺め、続いてバイロイトで接したワーグナーの「ニーベルングの指輪」の最終場面においてなされたと思われる。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

十一

「批評文も創作でなければならぬ。批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」と発言した同じ座談会で、小林秀雄はまた、「こんな風なことも考える」と断った上で次のように語っていた。

 

例えば、僕は長い間中絶してから、「ドストエフスキイの文学」をまた書こうと思っていますけれども、彼に関するいろいろな批評を読んでしまうと、いろいろな意見が互に相殺して、結局何も言わない原文だけが残るという感じをどうしようもないのだね。批評家は誰も早く獲物がしとめたい猟師のようなものでね。ドストエフスキイはこういうものだと、うまく兎を殺すように殺してしまって、そうして見せてくれる。兎を一匹二匹と見せられているうちは、まず面白い。兎の死骸がしこたま積み上げられるとなると閉口するのだよ。全然兎が捕まらない批評だってあっていいだろう。そうすると、批評というものがだんだん平凡な解説に似て来るんです。勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る。昔の人は原文というものを非常に大事にした。古典といってね。批評精神が発達しなかった証拠という風にばかり考えたがるが、そこにはやはり深い智慧があるのだ。原文尊重という智慧だ。古典を絶対に傷つけたくなくなるんだ。勝手に解釈するのが嫌になるんだ。古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る。そういう批評の方法もあるのだ。

 

この「批評の方法」とは、後に「ゴッホの手紙」において見出される「『述べて作らず』の方法」そのものであろう。同時にここで言われた古典という「原文」は、「無常という事」で語られた「解釈を拒絶して動じないもの」としての歴史であり、それを合点していよいよ美しく感じられたという一つの「形」としての歴史であった。その発見は、既に見たように「ドストエフスキイの生活」において彼が経験した、「自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ち」(「歴史と文学」)に端を発し、それとほぼ時を同じくして遭遇した骨董への開眼を一つの契機としてなされたものであった。さらに言えば、「自己を没却出来る」という小林秀雄生得の「或る批評家的性向」をその源泉とするものであった。

だが一方、彼には、批評文もまた創作であり、芸術であらねばならぬという強い要求と野心とがあった。それは元来作家を志した小林秀雄の文学者としての矜持であり、嘗て志賀直哉へ書き送った「やつぱり小説が書きたいといふ助平根性」の残滓でもあっただろう。「ゴッホの手紙」の連載を開始する四ヶ月前の昭和二十三年八月、坂口安吾との対談の中でも、彼は、自分のレーゾン・デートルは「新しい批評文学形式の創造」であると語っている。作家である安吾が信長が書きたい、家康が書きたいと思うのと同じように、自分はドストエフスキーが書きたい、ゴッホが書きたいと考える。その手法はあくまで批評的だが、結局達したい目的は、そこに「俺流の肖像画」を描くということだ。それが「最高の批評」であり、そのための素材は何だってかまわないのだと。

「扱う対象は実は何でもいい」とは、「コメディ・リテレール」座談会でも言われていた。だが彼の言葉を誤解してはならないだろう。彼は、「それがほんとうに一流の作品でさえあれば」と保留している。対象は何でもかまわぬとは、どんな対象を描いても同じ自画像に仕上げてみせるという自負ではない。対象は何であれ、それが一流の作品でありさえすれば、いつでも彼には「自己を没却出来る」用意がある、ということなのである。小林秀雄の批評活動とは、彼を芸術としての文学創造へと駆り立てる或る詩人的性向と、自分が信じ愛する古典を前にして「自己を没却出来る」という或る批評家的性向の、言わば二つの焦点から成る楕円軌道を描くということであった。折々の作品たる軌道上の点は、常にこの二つの定点からの距離の和を等しくしたが、「無常という事」から「モオツァルト」にかけての作品群において、その軌跡は詩人的性向の極に大きく振れたのである。そしておそらく、小林秀雄の「無私ヲ得ントスル道」とは、この楕円軌道を「螺階的に上昇」しつつ、二つの焦点が限りなく接近して行く道であった。すなわち詩人と批評家とに引き裂かれながら、しかし互いに曳き合いながら歩み続けた彼の足取りが、遂に一つの中心点を見出し、その軌跡が正円へと収束していく道であった。

「モオツァルト」を発表した三ヶ月後、都美術館の広間に懸かっていた「烏のいる麦畑」の複製画の前に立った時、小林秀雄はおそらく詩人的性向の臨界点に達していただろう。「ゴッホの手紙」の冒頭に書かれた彼の烈しい「逆上」ぶりと、その感動が描き出したあの嵐の吹き荒れる海原の黙示録的ビジョンがそのことを物語っている。だがまたそれは、「自己を没却出来る」という批評家的性向の極に向って、彼が大きく旋回し始めた転回点であり跳躍でもあったのだ。

先に引用した発言の中で言われた「『ドストエフスキイの文学』をまた書こうと思っています」とは、直接には「ゴッホの手紙」の連載開始直前に発表された「『罪と罰』について Ⅱ」を指すが、その後、足掛け四年にわたった「ゴッホの手紙」の連載を終えると、彼はすぐさま次なる「ドストエフスキイの文学」の執筆に取りかかった。「『白痴』について Ⅱ」がそれである。ゴッホの書簡と生涯を辿りながら、そこに「ゲルマン風のムイシュキン」(「近代絵画」)の面影を見ていた小林秀雄にとって、ゴッホの肖像画を描き上げた後に、ムイシュキンという「スラブ風のゴッホ」を描くのは自然な筆の流れではあっただろう。しかしそれは、「書簡による伝記」によっていったん「自己を没却」した小林秀雄が、ふたたび「批評文に於いて、ものを創り出す喜び」(「再び文芸時評に就いて」)を求め、ドストエフスキーという大理石に向って鑿を振るい始めたということでもあったはずである。だが、その新たな批評的創造の試みにおいても、「予め思いめぐらした諸観念」は次第に崩れ去り、遂に「批評的言辞」が彼を去るという、「ゴッホの手紙」の時とほとんど同じことが起こった。連載の半ばを過ぎたあたりから、小林秀雄はイポリートやレーベジェフ、イヴォルギン将軍といった脇役たちの告白を、彼自身の言葉で言えば、「幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところを、本文も殆ど参照せずに」綴り続けることになるのである。

「『白痴』について Ⅱ」の連載はしかし、八回続いたところで半年間のヨーロッパ旅行によって中断され、帰国後、新たに開始されたのが「近代絵画」であった。小林秀雄は「モオツァルト」について、あれは文学者の独白であって音楽論というものではない、もし今度音楽について書くとしたら同じやり方では書きたくない、もっと勉強して専門的なものを書きたい、と幾度か語っていたが、ヨーロッパで半年間、西洋美術の洗礼を受け、その後四年間、計四十五回に及んだこの近代画家論が、まさにそれに当たると言えるだろう。少なくとも「近代絵画」は、「コメディ・リテレール」座談会で言われた「一つのたしかな美の形式」としての批評文というより、同じ座談会で言われていた「一番立派な解説が一番立派な批評でもある」という批評作品の系譜に属している。もともとこの連載は、ラジオでの講演をきっかけに始まったものであったが、この作品が野間賞を受賞した際、小林秀雄は、「長く書いたが、苦労ではなかった。苦労もあったが、それも楽しく、読者に訴えようという気も強く持っていなかった」と語っている(「『近代絵画』受賞の言葉」)。「読者に訴えようという気」とは、彼が言った「早く獲物がしとめたい猟師」としての野心であり邪念でもあっただろう。そしてこの「平凡な解説」者に似て「一番立派な批評」家たらんとする覚悟を、彼は「近代絵画」を上梓した翌月以降、五年間、計五十六回にわたって断行した。それが、「感想」という名で『新潮』に連載されたベルクソン論であった。

 

実は、雑誌から求められて、何を書こうというはっきりした当てもなく、感想文を始めたのだが、話がベルグソンの哲学を説くに及ぼうとは、自分でも予期しなかったところであった。これは少し困った事になったと思っているが、及んだから仕方がない。心に浮かぶままの考えをまとめて進む事にするが、私の感想文が、ベルグソンを読んだ事のない読者に、ベルグソンを読んでみようという気を起こさせないで終ったら、これは殆ど意味のないものだろう、という想いが切である。

 

母親の死にまつわる或る忘れ難い経験の回想から書き出され、話がベルクソンの哲学に及んだ第三回の冒頭で、すでに彼はこのような「想い」を吐露している。きっかけは何であれ、連載がこのような形で始まった以上、彼の目的はベルクソンの哲学の「解説」を書くことであり、それは畢竟、「ベルグソンを読んだ事のない読者に、ベルグソンを読んでみようという気を起こさせ」ることに尽きる。とすれば、「勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る」のは必至であろう。「扨て、余談にわたったが」と断って、彼は「意識の直接与件」でベルクソンが扱った自由の問題に分け入るのだが、その後五年間、「余談」はもはや一行も書かれなかったと言ってもいい。そしてベルクソンの著作の、「『白痴』について Ⅱ」の言葉をふたたび借りれば、「幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところ」が延々と記述されて行くのである。「ゴッホの手紙」では、翻訳はあくまで翻訳としてその体裁を最後まで崩すことはなかったし、「『白痴』について Ⅱ」では、自由に再構成された登場人物たちの告白が地の文にそのまま現れるようになるとはいえ、それはあくまで小林秀雄の声色で語られ、彼の批評作品と呼べる姿を保っていた。それに対し、ベルクソンの著作をひたすら祖述しようとするこの「感想文」は、回を進むにしたがって、小林秀雄の解釈は勿論だが、彼の文体までもが消失して行き、遂には「平凡な解説」としか呼びようのないものに限りなく近づいて行く。まさに「全然兎が捕まらない批評」を、彼は書こうとしたのである。

ところが「『白痴』について Ⅱ」の時と同じく、第五十六回を発表したところで彼はソビエト旅行へ出発し、連載はまたしても中絶した。その理由については、彼自身が語った片言がいくつか残されている。だがその詮索よりも、彼が五年間もベルクソンの「解説」者に徹し続けたという事実の方が遥かに重要であると思われる。「自己を没却出来る」という小林秀雄の批評家的性向が、ここまで徹底して発揮されたことはなかった。先に引用した「余談」に続けて、彼は、「はからずも、ベルグソンの処女作を、又読み返して見る様な仕儀になり、書きながら、以前、この哲学者に抱いていた敬愛の情が湧然と胸に蘇る」と書いている。「無私ヲ得ントスル道」は、小林秀雄の胸中に湧出するこの「敬愛の情」から常に出発し、いつもまたそこへ帰って来る道であった。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

終戦翌年の暮れに「モオツァルト」を世に問い、翌年三月には三度目となるランボー論(「ランボオ Ⅲ」)を発表した半年後、小林秀雄は『夕刊新大阪』に「文芸時評について」という一文を寄せ、その最後に次のように書いた。

 

僕が文芸時評を中止しているのは、批評の形式による文学作品の確立という考えに、この数年来取りつかれているが為である。出来るか出来ないかやるところまでやってみねばならぬ。二兎は追えぬ。サント・ブウヴの大才を以ってしても「ポオル・ロワイヤル」を書く為には「ランディ」を止めねばならなかった。

 

「ポール・ロワイヤル」は、この修道院を中心とする十七世紀のジャンセニストの歴史を描いたサント・ブーヴ畢生の大著である。一方「ランディ(月曜)」とは、「月曜閑談」と題して毎週月曜日の新聞紙上に二十年近く発表された、この批評家のいわゆる「精神の博物誌」としての文芸評論を指す。戦前長らく続けられた小林秀雄の「ランディ」としての文芸時評は、昭和十六年八月の『朝日新聞』に発表された<長編小説評>(現行題「文芸月評 XXI―林房雄の『西郷隆盛』」)を最後に「中止」された。そして二ヶ月後、彼の「ポール・ロワイヤル」たるドストエフスキー論が、「カラマアゾフの兄弟」の連載として新たに開始されている。

ただし右の一文で言われた「批評の形式による文学作品の確立」という彼の考えには、ドストエフスキー論を最初に企図した頃の、批評的創作として作家の像を手ずから創り上げるという野心に加えて、もう一つの新たな創作要求が加わっていた。それは、「批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」という要求であった。これは、「モオツァルト」発表の十ヶ月前、文字通りの戦後第一声となった「コメディ・リテレール」座談会で言われた言葉である。小林秀雄は、「文学は又形である、美術でもある」とも言い、自分がこのように考えるようになったのは、造形美術に非常に熱中したからでもあると語った。

小林秀雄がいつその「造形美術」つまり骨董の世界に足を踏み入れ、親しむようになったのかは、単なる年譜的事実として一口に語れる問題ではないが、彼自身は、後に「骨董」と題するエッセイで、「狐がついた」時のことを次のように回想している。ある日、青山二郎に連れられて行った日本橋の古美術店「壺中居」で、鉄砂で葱坊主を描いた李朝の壺がふと眼に入った。するとそれが烈しく彼の所有欲をそそり、我ながらおかしい程逆上して、数日前に買ったばかりのロンジンの時計と交換して持ち還った、というのである。それは昭和十三年の秋頃、ないしはその年の十月から十二月にかけて満州、朝鮮、中国に渡った帰国後間もない頃の出来事であった。

前回触れたように、「ドストエフスキイの生活」の序文の前半二章(昭和十三年十月)と、後半三章を含めた全文(昭和十四年五月)が、その二ヶ月間にわたる大陸渡航にまたがるようにして発表されている。つまり骨董の「狐」たるこの「葱坊主」は、小林秀雄が、当時の彼にとっての「殆ど唯一の思想の淵源」(「『ドストエフスキイの生活』のこと」)を掘り進め、「歴史とは何か」の問いに突き当たった時に、「美とは何か」というもう一つの大きな問いとして突如彼の前に現れ、謎をかけ、取り憑いたということになる。「ドストエフスキイの生活」が刊行された翌月、小林秀雄は「慶州」という紀行文を発表し、朝鮮旅行中に訪れた仏国寺石窟庵の圧倒的な美しさの印象について語ったが、これもまた同じ時機に彼を見舞った「美とは何か」の謎かけであったと言えるだろう。「天井を穹窿状に畳んだ円形の後室」に鎮座する白い花崗岩の釈迦像と、同じく白色のドーム壁面に彫り込まれた菩薩の美しさに打たれる小林秀雄は、あたかも「葱坊主」の壺中に佇みながらその白磁の内壁を見上げているかのようである。

その小林秀雄が、骨董への傾倒についてはじめて語ったのは、それから三年余り経った昭和十七年五月、「『ガリア戦記』」というエッセイにおいてであった。

 

ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで、造形美術に、われ乍ら呆れるほど異常な執心を持って暮らした。色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮らすのが、容易ならぬ事だとはじめてわかった。今までいろいろ見て来た筈なのだが、何が見えていたわけでもなかったのである。文学という言葉の世界から、美術というもう一つの言葉の世界に時々出向いたというに過ぎなかった。そしていつも先方から態よく断られていたのだが、無論、そんな事はわからなかった、御世辞を真に受けていたから。と、そんな風にでも言うより他はない様な或る変化が徐々に自分に起った様に思われる。美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していたが、美と言うものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。

 

この一節では、「ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで」とあり、また「が、文字通り僕を憔悴させ」とも書かれていることから、あたかも「壺中居」での「葱坊主」との邂逅はこの一年前の出来事であり、そこから一気に彼の眼が開かれ、骨董熱が昂じたように見える。しかし実際には、昭和十三年の秋から暮れ頃までの間に「葱坊主」を衝動的に買った後(正確に言えば「時計と交換した」後)、青山二郎を指南役とした一、二年の「苦行時代」(青山二郎「小林秀雄と三十年」)があったのであり、「ガリア戦記」が書かれる一年前の昭和十六年頃になって、ようやく、「『眼が見える』と言う所まで来」た(同)ということだったらしい。彼自身書いている通り、その変化は「徐々に」起こったのである。それがまた、右の一節で、「今までいろいろ見て来た筈なのだが、何が見えていたわけでもなかった」、「既に充分承知していたが……はじめて明かしてくれた」という言い方が執拗に繰り返された所以でもあった。文はさらに次のように続いている。

 

美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく、恰もそれは僕に言語障害を起こさせる力を蔵するものの様に思われた。それでも眼が離せず見入っていなければならないのは、自分の裡にまだあるらしい観念の最後の残滓が吸い取られて行くのを堪えている気持ちだった。

 

しかし「『ガリア戦記』」において、小林秀雄が語ろうとしたのは、右で言われた骨董への開眼という事実そのものではなかった。彼が伝えたかったのは、骨董への開眼によってもたらされた、文学に関するある新たな啓示についてであった。重要なのは、十年余り続けてきた文芸時評の舞台を彼が降りたのが、「ここ一年ほどの間」であったという事実なのである。

 

文学に興味を持ち出して以来、どの様な思想もただ思想としては僕を動かした例しはなかった。イデオロギーに対する嫌悪が、僕の批評文の殆どただ一つの原理だったとさえ言えるのだが、今から考えるとその嫌悪も弱々しいものだった様に思われる。好んで論戦の形式で書いたという事が既にかなり明らかな証拠だろう。そして今はもう論戦というものを考える事さえ出来ない。言葉と言葉が衝突して、シャボン玉がはじける様な音を発するという様な事が、もう信じられないだけである。(同)

 

六年前、「様々な評家が纏った様々な意匠に対する反駁文」(「私信」)としての批評文、右の言葉で言えば「イデオロギーに対する嫌悪」をほとんど唯一の原理とする批評に飽き足らなかった小林秀雄は、「ある作家並びに作品を素材として創作する」ことを企図した。それが当時彼が目論んだ「本当の批評文」であり、その野心の結果生み落とされた批評作品が「ドストエフスキイの生活」であった。ところがその脱稿とほぼ時を同じくして彼に取り憑いた骨董への異常な執心が、彼に「言語障害」を起こさせ、彼の裡にあった「観念の最後の残滓」を吸い取り、美とは「言語道断な或る形」であるという事実を身をもって思い知らせた。この美の経験の渦中で、何よりも彼を驚かせたのは、たまたま手に取った「ガリア戦記」という古代ローマ文学が、あたかも古代ローマの美術品の様に彼に迫り、沈黙を強いたという事実である。それは文学というよりも、地中から掘り起こされた戦勝記念碑の破片のように現れ、石のザラザラした面や強い彫りの線として感じられた。それまで「文学という言葉の世界から、美術というもう一つの言葉の世界に時々出向いたというに過ぎなかった」小林秀雄の中で、言わばいうことが起こったのである。

そして彼は呟くのだ、「文学というものは、元来君等が考えているほど文学的なものではないのだ」と。これは、骨董という「狐」の存在なしには決して吐き得なかった台詞であり、「文学的な、あまりに文学的な」近代ヨーロッパ文学によってこの世界に眼を開かれ、批評家となった小林秀雄にとって、文学に関するコペルニクス的大転回であった。この時期、小林秀雄は西洋から日本へ回帰したということが言われるが、むしろ彼は、観念から形へ回帰したと言った方がよい。あるいは観念から形へ回帰するというその心の傾斜の在り様が、いかにも日本的なのである。しかもこの啓示の中の「文学」という言葉が、翌月発表された「無常という事」においては、そのまま「歴史」に置き換えられる。歴史もまた、彼にとっては、美しく感じられる「動かし難い形」として立ち現れるようになるのである。「ドストエフスキイの生活」の執筆によって、「批評とは何か」の問いが、「歴史とは何か」の問いに呑み込まれていったように、今また骨董との出会いにより、「歴史とは何か」の問いが、「美とは何か」という問いに包摂されてゆく。「批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」という彼の要求は、この三つの問いの衝突と融合のダイナミズムから生れたものであり、それはつまり、彼を憔悴させた一口の壺のように、「強く明確な而も言語道断な或る形」としての批評を生み出したいという欲求なのであった。

「『ガリア戦記』」が書かれた昭和十七年から翌十八年にかけて、『文學界』を舞台として発表されたエッセイ群、とりわけ日本の古典をめぐって書かれた諸篇は、すべてこの「言語道断な或る形」としての歴史と文学を主題としながら、これを綴る彼の批評文それ自体が「言語道断な或る形」であることを願っている。世阿弥の「美しい『花』」も(「当麻」)、歴史という「解釈を拒絶して動じないもの」も(「無常という事」)、「『平家』という大音楽」も(「平家物語」)、兼好の「物が見え過ぎる眼」も(「徒然草」)、西行が詠んだ「いかにかすべき我心」(「西行」)や、実朝の歌が伝える「悲しい調べ」の数々も(「実朝」)。これら白洲正子が「きらきらした」と評した一連の散文は、「コメディ・リテレール」座談会が発表された五日後に、『無常という事』として創元社から上梓された。新作の批評作品という意味では、小林秀雄の戦後第一作は「モオツァルト」であったが、刊行に際して入念に手を入れたその推敲の跡を見れば、昭和十八年の秋以降長らく沈黙していた小林秀雄が、戦後最初に世に問うたのは『無常という事』であったとも言える。そしてこの『無常という事』諸篇の背後で構想し続け、四年の歳月をかけて書き上げた「モオツァルト」において、彼が目論んだ「たしかな美の形式」としての批評文学は一つの極点に達した。

続けて取り組まれた「ゴッホの手紙」の連載において、彼のこの新たな野心が、この画家の苛烈なまでの「無私」に触れることによって次第に消失していったことはすでに見た。だがまたそれは、彼の骨董の「狐」が落ちたということでもあったのだ。小林秀雄が骨董についてその事実を明かしたのは、昭和二十六年一月に発表した「真贋」においてであるが、『文體』で連載開始された「ゴッホの手紙」が雑誌廃刊とともにいったん中断され、一年半の期間をおいて『芸術新潮』であらためて再開されたのも、同じ昭和二十六年一月のことであった。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

二年と三ヶ月、全二十四回にわたって続けられた「ドストエフスキイの生活」の連載が完結したのは昭和十二年三月であるが、この長編評論が小林秀雄の最初の「批評作品」として上梓されるまでには、さらに二年余りの月日を要した。各章にはかなりの加筆修正が行われるとともに、五章に及ぶ序文が新たに書き加えられ、さらにニーチェの「この人を見よ」の一節をエピグラフとした上で、昭和十四年五月、創元社より刊行された。

翻訳書や編集者に請われて書いたと思しき二、三の例外を除けば、小林秀雄は自著にあとがきを添えるということをしなかった人だが、翌々月の『文學界』の編集後記は、彼が自ら進んであとがき的文章を草した珍しい例の一つである。その冒頭は、次のように書き出された。

 

僕は今度「ドストエフスキイの生活」を本にして、うれしいのでその事を書く。彼の伝記をこの雑誌に連載し始めたのは昭和十年の一月からだ。それは二年ばかりで終ったが、その後、あっちを弄りこっちを弄り、このデッサンにこれから先きどういう色を塗ろうかなぞと、呑気に考えているうちに本にするのが延び延びになって了った。ゆっくり構えたから、本になっても別に、あそこはああ書くべきだったという様な事も思わない。勿論自慢もしないが謙遜もしない。(「『ドストエフスキイの生活』のこと」)

 

連載を始めた直後に語られた「僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じている」(「再び文芸時評に就いて」)というその「喜び」が、ここにも溢れているのだが、四年半の歳月をかけ、現実に批評文においてものを創り出したところの「喜び」は、連載開始時に表明された彼の「野心」が、彼の企図した通りに成就したという意味での喜びではおそらくなかった。それはむしろ、当初抱いた「野心」が、彼の中で次第に滅却し、ついにこれに打ち克ったところの喜びであった。序文の最後の章で、彼は次のように書いている。

 

ドストエフスキイという歴史的人物を、蘇生させようとするに際して、僕は何等格別な野心を抱いていない。この素材によって自分を語ろうとは思わない、所詮自分というものを離れられないものなら、自分を語ろうとする事は、余計なというより寧ろ有害な空想に過ぎぬ。

 

重要なのは、この序文が、本篇を書き出すにあたっての彼の心構えを述べたものではなく、二年余りの連載を終え、さらに二年余りの推敲を経た末に獲得された彼の確信を語ったものであったということである。初めての長編評論に取り組むにあたり、彼がどれ程の「格別な野心」を抱いていたかは既に見たとおりである。

序文の前半二章は、連載を終了した一年半後の『文學界』昭和十三年十月号に掲載され、後半三章を加えた全文が、単行本刊行と同じ月の『文藝』に発表された。その最終行は、「要するに僕は邪念というものを警戒すれば足りるのだ」という一文で結ばれ、本文に架橋しているが、全篇の脱稿とともに克服されたこの「邪念」とは、何よりも連載開始当時の彼の「野心」、すなわち、作家が人間典型を創造するように、「誰の像でもない自分の像」としての作家の像を創り上げること、またそれによって、「僕にも借りものではない思想が編みだせる」という彼の企図そのものを指していた。連載がちょうど折り返し地点に差し掛かった昭和十一年二月に発表された「私信」という一文には、その「邪念」としての彼の「野心」が消滅して行く過程の一端が窺える。ロシア文学者である中山省三郎に宛てて書かれたその手紙の中で、小林秀雄は、批評家生活の出発点となった「様々なる意匠」以降、自分が書き続けてきたのは「様々な評家が纏った様々な意匠に対する反駁文」であり、別言すれば「裸で立っている自分を省みての自己弁解文」に過ぎないと断った上で、次のように綴った。

 

しかし裸体もあまり曝していると、始めは寒い風も当る気でおりますが、だんだん温って来て、晒す事が無意味になって来ます。もう充分だという気がして来ます。君はどんな着物を着ているかと言うのにも飽きたし、特に、自分はこういう風に着物を脱ぐと人に語るのにも飽きて来ました。そして僕は本当の批評文を書く自信が次第に生れて来るのを感じて来ました。言いかえれば、ある作家並びに作品をとして創作する自信が生まれて来るのを覚えたのです。

僕は、自分の批評的創作のとして、ドストエフスキイを選びました。近代文学史上に、彼ほど、豊富な謎を孕んだ作家はいないと思ったからであります。僕は彼の姿をいささかも歪めてみようとは思いません。また歪めてみようにも僕にはその力がありません。彼の姿は、読めば読むほど、僕の主観から独立して堂々と生きて来るのを感じます。すると僕はもはや批評という自分の能力に興味が持てなくなる、いやそんなものが消滅するのを明らかに感じます。ただ、ドストエフスキイという、いかにも見事な言うに言われない人間性に対する感覚を失うまいとする努力が、僅かに僕を支えているのです。

 

前段では、彼の「野心」が「自信」へと育ちつつあったことが示されながら、後段では、その野心の「消滅」が既に予見されている。ここで言われた「ある作家並びに作品を素材として創作する」、あるいは「自分の批評的創作の素材として、ドストエフスキイを選」ぶという彼の口ぶりは、批評とは「他人の作品をダシに使って自己を語る」ことだという嘗ての発言の延長線上にあるものである。一方、その「自己を語るダシ(素材)」としてのドストエフスキーは、読めば読むほど、彼の主観から独立して堂々と生きて来るのが感じられた。「主観」とは、批評し、創作しようとする小林秀雄の意識そのもの、彼が語ろうとした「自己」そのものであろうが、もはや彼にはその「自己」に興味が持てなくなる、いやそんなものが消滅するのが明らかに感じられる、と言うのである。

「ドストエフスキイの生活」が刊行された二ヶ月後、この作品を巡って雑誌『批評』の同人が小林秀雄を囲む「歴史と文学」という座談会が行われたが、この「邪念」としての「野心」について、彼はあらためて次のように語った。

 

ドストエフスキイを書こうとしても、始めはどう書こうか、こう書こうかと云う事を考える。そして自分のドストエフスキイとして考える。だけど段々色んなものを見て行くと、こう云う風なものを書き度いなんて、そういう気持ち、それを僕は邪念と云うけれども、そんなものはなくなってしまう。自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ちになるんだね。

 

十余年後、二つ目の評伝作品となる「ゴッホの手紙」において開かれた「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の道が、既にここに胚胎しているのである。「ゴッホの手紙」の最終節に書かれた言葉で言えば、「邪念」とは、「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念」であり、彼の心を占めていたはずのドストエフスキーに対する「批評的言辞」であった。小林秀雄の「無私ヲ得ントスル道」の、言わば最初の「螺階的な上昇」が、ここに行われたのである。

ただし、「歴史と文学」で語られた「自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ち」とは、直接には、ドストエフスキーの評伝を書き上げた小林秀雄が「歴史の方法」について問われて答えた言葉であり、この作品が実らせた果実としての序文が、「批評について」ではなく、「歴史について」の副題を持つものであったことは忘れてはならないだろう。右の発言に続けて語られたのも、「伝記作家と小説家」の違いについての話であり、絶対に客観的にならなければいけない、自己を無にしなければいけないと彼が発言したのは、「伝記を書くための実際的な条件」としての言葉であった。

「ドストエフスキイの生活」を、小林秀雄は「長編評論」として企図し、これを「本当の批評文」「批評的創作」として書こうとした。しかし「ドストエフスキイの」を書く以上、それは「本当の批評文」であると同時に「本当の歴史文」でもなければならない。そこでは「創作」や「創造」ということが、文学の世界におけるそれとはまた異なる位相の営みとして新たな意味を生じたはずである。連載を開始した時点で、小林秀雄がそのことをどこまで意識し、見通していたのかは定かでないが、冒頭に引いたの中で、「わからないから書くのだ。それが書くという奇妙な仕事の極意である」と言われた、その「極意」を知った仕事がこの評伝であった以上、「本当の批評文」を書こうとする彼の努力が、自ずと「本当の歴史文」を紡ぎ出す契機となる、そしてついに一つの確固たる歴史観を形成するに至ったことは、おそらく彼の予期しないところであったに違いない。彼の最大の「喜び」もまた、その点に存したであろう。

「歴史と文学」では、このあと「伝記作家と小説家」から「伝記と批評」に話題が移り、小林秀雄が昔、志賀直哉論を書いた時に、自分の中にあるものをはっきりさせるためにこの作家をだしに使ったと書いたことについて、それと今の話とは大分違っているのではないかと山本健吉に問われている。山本が指摘したのは、昭和十三年二月に発表された二度目の「志賀直哉論」の冒頭で、学生時代に書いた未発表の志賀直哉論を振り返って小林秀雄が書いた言葉である(ただしここでは「だし」とは言われていない)。これに対し、小林秀雄は、「違って居るかも知れませんね」と一言答えただけだが、続けて、伝記だけでなく文芸批評としてもそういう態度がなくてはいけないのではないかと問われると、「そうですな」と気のない風な返事をしている。しかしさらに、山本がサント・ブーヴの名を挙げ、この批評家はそういう自己というものを没却してしまった人でしょうと畳み掛けると、自らの「批評家的性向」について、次のように断じるのだ。

 

あゝ、そうだ。でも矢張りそう云う事は、批評家と云うものは、半分以上天性だね、矢張り自己を没却出来ると云う性質は、僕には若い頃からあったね。それで、そう云う事をまあ段々、そのもう少し深く意識して来るか、来ないかだけで、自分の中のものを明にするために誰々をだしに使うと云う言葉だって、結局或る批評家的性向が言わせるんだよ。自分を失う様な性向が言わせるんだねえ。

 

ドストエフスキーという「歴史と文学」へ推参したことが、「自己を没却出来る」という小林秀雄の「或る批評家的性向」を目醒し、自覚させ、これを鍛えた。それはまた、「批評とは何か」という文壇登場以来彼を悩ませてきた問いが、ここにおいて、「歴史とは何か」という巨大な問いに丸ごと呑み込まれ、新たな相貌をもって彼の眼前に迫ったということでもあった。以後、この二つの問いは、彼の中で益々分かち難く結ばれて行くことになる。『ドストエフスキイの生活』を刊行した同じ月に、小林秀雄がサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳出版しているのは偶然ではない。ボードレールとともに最大の影響を与えられたこの近代批評の創始者の、たとえば次のような一節を、自覚しつつあった我が身の「批評家的性向」として、彼は受け止め、訳したはずだからである。

 

批評は僕にとって一つの転身である。僕は自分が再現しようとする人物のうちに姿を隠そうと努めている。僕はその人になる、文体さえもその人になる、僕はその人の言葉遣いを借用してこれを装う。

 

僕は歴史家ではない、併し、歴史家の特質は備えている。

 

「ドストエフスキイの生活」を上梓した二年後、小林秀雄は文芸時評の舞台を降り、以後、二度とこの舞台に上がろうとはしなかった。一方、創造的な批評を書く、誰の像でもない自分の像としての作家の像を手ずから創り上げるという彼の野心が、ここで放棄されたわけでは決してなかった。むしろこの野心は、骨董というもう一つの歴史との邂逅と開眼とにより、新たな生を受け、このあと爆発的に開花することになる。小林秀雄が日本橋「壺中居」で李朝の壺に出くわし、逆上したのは、「歴史について」の前半二章が『文學界』に発表された、おそらく直後のことであった。やがて太平洋戦争が勃発し、小林秀雄の次なる「螺階的な上昇」が始まる。白洲正子の言った「きらきらしたもの」が、彼の批評の行間に輝き出そうとしていた。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

小林秀雄は、批評家になろうとして批評家となった人ではなかった。小説家になることを夢見て文章を書き出した人であった。そのことを、彼は折に触れて書き、また語ってきたが、二十七歳で批評家として文壇に登場した翌年の暮れ、「時事新報」に発表した「感想」という一文に、すでに次のように書いている。

 

私は嘗て批評で身を立てようなどとは夢にも思った事がない、今でも思ってはいない。文芸批評というものがそんなに立派な仕事だとは到底信ずる事は私には出来ぬ。小説を書いても目下まず碌なやつは出来上らない。どうせ、恥を曝すのなら文芸批評でもやってた方が景気がよくていい。第一批評なら世間知らずでも出来る。理屈を間違わぬ様に云う位の芸当なら若年者で沢山だ。

 

学生時代、ボードレールやヴァレリーをはじめとするフランスのサンボリストたちの批評文学に心を奪われた彼が、批評とは「理屈を間違わぬ様に云う位の芸当」と心得ていた訳では無論ないが、小説を書くという望みを抱きながら書けないという壁を感じていたという意味で、これは当時の小林秀雄の偽らぬ心情の吐露であった。この一文は、「毎月雑誌に、身勝手な感想文を少し許り理屈ぽく並べ並べして来ている内に、いつの間にか批評家という事になって了った。批評家などと厭な名称である」と書き出されている。ここで小林秀雄が、立派な仕事だとは到底信じることはできないと言った「文芸批評」とは、直接には、その年の四月から『文藝春秋』に連載し始めた文芸時評を指していた。彼はその頃、「俺はもう暫く月評で暴れ廻ったら、あと誰が何といっても黙って、小説を書いてるんだ」とも言っていたという(河上徹太郎「小林秀雄」)。

小林秀雄の処女小説は、旧制一高に入学した翌年の大正十一年十一月、二十歳の時に同人誌に発表した「蛸の自殺」とされる。その処女小説を、彼は伝手を頼って敬愛する志賀直哉へ送った。するとこの「小説の神様」から、彼の小説を褒める手紙が届いた。それを読んだ小林秀雄は、これはもう、小説家になれるなと思ったそうである。これは後に、志賀直哉を前に自ら語ったところである(「志賀さんを囲んで」)。

その後、小林秀雄は同人誌に数篇の小説を発表した。だが大正十四年、中原中也、長谷川泰子と出会い、やがて「奇怪な三角関係」が生じることとなる二十三歳の春を境に、小説を発表しなくなり、批評を書き始めた。その「根本理由」を、戦後、彼は坂口安吾を相手に次のように語ったことがあった。

 

僕らは現実をどういう角度からどういう形式でもって眺めたらいいか判らなかった。そういう青年期を過して来た。僕なんかが小説が書けなくなった、その根本理由は、人生観の形式を喪ったということだったらしい。例えば恋愛をすると、滅茶々々になっちゃったんだよ。こんな滅茶々々な恋愛は小説にならねえから、あたしァ諦めたんだよ。諦めてね、もっとやさしい道を進んだ―のか何だか判らないけど、もっと抽象的な批評的な道を進んだのだよ。抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果して劣るものかどうか。そういう実験にとりかかったんだよ。(「伝統と反逆」)

 

しかし「小説が書きたい」という願いは、自ら懸賞評論に応募してデビューし、世間から「批評家」と呼ばれるようになってからも、彼の胸中に長い間居座り続け、それは批評家としての成功と容易に引き換えられるものではなかったのである。彼は、その思いを直接告白したことはなかったが、「小説が書きたい」という願いがどれ程のものであったのかは、たとえば昭和三十四年の秋に放送されたラジオ放送(「文壇よもやま話」)の中で、今でも小説を書く気はあるかと問われたのに対し、小説を書くというのは芸であるから、さてやってみようと思って書けるものではないと保留しつつ、それでも書きたいという気持ちは今でも時々起きると答えているところに垣間見える。この時、彼は五十七歳であった。

「様々なる意匠」で、小林秀雄は、「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と啖呵を切った。『文藝春秋』で始めた文芸時評の第二回では、批評とは「他人の作品をダシに使って自己を語る」ことだとも言い放った。小林秀雄の批評文学の本質を自ら衝いた名台詞として後々まで引用されることになる、言わばとしての言葉を威勢よく吐きながら、当時の彼が、そのレーゾン・デートルそのものに深い疑念を抱いていたことは忘れてはならないだろう。先に引用した「感想」の最後は、次のような呟きで終えられていた。

 

人を賞めても、くさしてもあと口はよくないものである。批評は己れを語るものだ、創作だ、などと言ってみるが、所詮得心のいくものじゃない。あと口をよくしようなどとは思わぬ、今によくなるだろうとも思わぬ。人の事を兎や角言う事がそもそもつまらん事なのだ。

どうなる事やら。

 

その小林秀雄が、ついに批評家としての「自分の野心」を自ら明かし、「僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じている」と言明したのは、「様々なる意匠」によって世に出た六年後、最初の長編評論となる「ドストエフスキイの生活」の連載を開始した二ヶ月後のことであった(「再び文芸時評に就いて」)。

彼は言う―もし作家が自らの思想を人に訊ねられたら、その作品を示すだろう、では批評家がその思想を示せと言われたら、その批評作品を示すべきではないか。作家がその思想を獲得するために、世間を観察するだけでは足りず、自分の身を世間の、あるいは自らの実験材料に供するように、批評家もまた、ある論理に自分の身がどの程度まで、どんな風に堪えられるかを、批評家自ら材料となって実験しなければならぬ。その実験の果てに現れて来るのが、「批評精神の積極性」ともいうべきものである、と。そして二ヶ月前に開始した自らの「実験」について、次のように語るのだ。

 

僕がドストエフスキイの長編評論を企図したのは、文芸時評を軽蔑した為でもなければ、その煩に堪えかねて、古典の研究にいそしむという様なしゃれた余裕からでもない。作家が人間典型を創造する様に、僕もこの作家の像を手ずから創り上げたくてたまらなくなったからだ。誰の像でもない自分の像を。僕にも借りものではない思想が編みだせるなら、それが一番いい方法だと信じたが為だ。僕は手ぶらでぶつかる。つまり自分の身を実験してくれる人には、近代的問題が錯交して、殆ど文学史上空前の謎を織りなしている観があるこの作者が一番好都合だと信じたが為である。無論己れの教養のほども省みず、こういう仕事に取り附く事の無謀さはよく分っているが、僕等に円熟した仕事を許す社会の条件や批評の伝統が周囲に無い事を思う時、僕は自分の成長にとって露骨に利益を齎すと信ずる冒険を喜んで敢えてするのだ。駄目かも知れぬがやってみる。どんな人間を描き出すか自分にもわからないが、どんな顔をでっち上げたとしても、僕が現代人である限り、人々に理解出来ぬものが出来上る気づかいはない。それで僕には沢山だ、果して乱暴な批評家か。それとも何かもっとうまい理屈でもあるというのか。うまい理屈には飽き飽きした。僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じているのである。(「再び文芸時評に就いて」)

 

後に坂口安吾に向かって語られた、「抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果して劣るものかどうか。そういう実験にとりかかった」という、その「実験」が、ここに開始されたのである。それはまた、この評伝作品と並行して、その少し前に着手されていた一連のドストエフスキー作品論をも含むものであった。

「ドストエフスキイの生活」の連載が開始されたのは昭和十年一月であるが、その二年半前、三十歳となった小林秀雄は、「今度こそは本当に彼(ドストエフスキー)を理解しなければならぬ時が来たらしい」という予言めいた言葉を述べている(「現代文学の不安」)。半年後の昭和八年一月、この作家に関する最初の論文となる「『永遠の良人』」を発表し、同年十二月には二つ目の論考である「『未成年』の独創性について」を発表した。そして翌月、「僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている」(「文学界の混乱」)との宣言とともに、「『罪と罰』について Ⅰ」の連載を開始し(昭和九年二、五、七月)、それが終るとすぐさま「『白痴』について Ⅰ」の連載に取り掛かった(昭和九年九、十、十二月、昭和十年五、七月)。

最初の本格的なドストエフスキー作品論となった「『罪と罰』について Ⅰ」の最終回初出末尾には、連載中にこの論考を揶揄した大宅壮一に向けた「附記」があるが、その中で、小林秀雄は、「今僕にはドストエフスキイという人物で自分の批評能力をためしてみるという事だけで一杯なのだ」と書いている。ドストエフスキーを言わば金床として行われた、批評能力の鍛錬としての「実験」は、以後、「本居宣長」の擱筆まで四十年以上続くことになる「やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企て」(「本居宣長」第一回)の始まりであったと同時に、「小説が書きたい」という願いを捨て、彼が批評家として生きる道を見定めたということでもあった。小林秀雄が執筆した最後の小説は「Xへの手紙」である。「中央公論」の創作欄に掲載されながら、もはや限りなく批評的告白文に近いこの作品は、「『永遠の良人』」によってドストエフスキー探求の口火が切られる二ヶ月前の昭和七年十月に発表されている。以後、彼が小説を発表することはなかった。そして二年間にわたる「ドストエフスキイの生活」の連載を終えた二ヶ月後、小林秀雄は、嘗て小説家になるという夢を託して処女小説を送った志賀直哉に向けて、次のような手紙を書き送った。

 

僕はこの頃やつと自分の仕事を疑はぬ信念を得ました。やつぱり小説が書きたいといふ助平根性を捨てる事が出来ました。

 

「自分の仕事」とは、批評という仕事であった。この時、小林秀雄は、「小説が書きたいといふ助平根性」を確かに捨てた。だがその彼が、これと引き換えに抱いたもう一つの「助平根性」、すなわち批評という方法によって「僕にも借りものではない思想が編みだせる」という野心を捨て切るまでには、さらに四半世紀以上の時間を必要としたのである。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

ブラームスの友人であり、八巻に及ぶ浩瀚なブラームス伝を書いた音楽評論家のマックス・カルベックによれば、ブラームスが第一シンフォニーの最初の着想を得たのは、一八五五年、二十二歳の時であった。

ブラームスは、作曲の際にとったノートやスケッチなどはすべて破棄してしまうのが常であり、音楽学者に対して、「私の死後、作曲の過程を勝手に推測しないでほしい」と要請するような人であったから、その二十二歳の時の着想が、現在の第一シンフォニーとどこまで関連があり、どのような経過を辿って最終的な形に至ったのかはほとんど何もわかっていない。しかし少なくとも、その頃からブラームスが交響曲を作曲するという大きな宿願を抱き、何度か作曲を試みながら挫折していたことは事実であった。たとえば一八五四年に作曲した二台のピアノのためのソナタを交響曲にしようとして、第一楽章をオーケストレーションするまでに至るが、結局断念してピアノ協奏曲に転換しているし、一八五九年には管弦楽のための四楽章のセレナードを交響曲に発展させようとして、やはりこれも果たせずに終わっている。

ブラームスの伝記に、現在の第一シンフォニーに直接繋がる記録が表れるのは、一八六二年、二十九歳の時である。六月、クロイツナッハ近くのミュンスター・アム・シュタインの山荘で共に休暇を過ごした友人のアルベルト・ディートリヒは、そこで草稿段階のハ短調の交響曲を目にしたと伝えている。またクララ・シューマンは、七月一日付のヨアヒム宛の手紙で、ブラームスから最初の交響曲の第一楽章のスコアを受け取った驚きを伝え、その冒頭部分をヨアヒムに紹介している。それは、後に完成する第一シンフォニー第一楽章の原型となるものであった。

その後十二年間、第一シンフォニーの作曲は、少なくとも歴史資料の上では中絶したかに見える。しかし出版社から「交響曲のことを忘れないように」との催促を受けていることや、作曲家マックス・ブルッフの書簡に、ブラームスの「交響曲のスケッチ」や「交響曲の楽章」についての言及が見付かるなど、その創作が水面下で進行していた痕跡は残されている。そして一八六八年九月十二日のクララの誕生日に、ブラームスは、アルプスで聴いたという角笛のメロディに歌詞をつけた楽譜をプレゼントするのだが、その旋律が、後に第一シンフォニー終楽章の冒頭で歌われるホルン主題となるのであった。

その第四楽章の作曲にブラームスが本格的に着手したのは一八七四年の夏になってからで、全四楽章が完成を見たのは、二年後の一八七六年九月、ブラームスが四十三歳の時であった。カルベックによって伝えられる最初の着想から数えると、実に二十一年の歳月をかけて作曲したことになる。しかも完成の数年前、ブラームスは、「私はけっして交響曲を作曲しないだろう」という言葉まで残しているのである。それ程までに、ブラームスにとって、ベートーヴェンの後に交響曲を作曲するということは、ほとんど実現不可能な大事業と思われたのだった。ある手紙の中で、彼は次のように告白している。

 

自分はベートーヴェンを大いに尊敬しており、ベートーヴェンがシンフォニーについてはすべてをやり尽くしたので、自分の背後にいるベートーヴェンを意識し、ベートーヴェンのシンフォニーを聴きながら、自分もシンフォニーを書くことは容易なことではない。

 

一方、最初の弦楽四重奏曲の成立についても、第一シンフォニーとまったく同じことが言える。ベートーヴェンの九つのシンフォニーが、交響曲というジャンルにおける前人未到の偉業であったのと同じように、ベートーヴェンの十六曲の弦楽四重奏曲もまた、この楽曲形式において「すべてをやり尽くした」と言っていい程の高みに達していた。もともとブラームスは、二十歳でシューマンを訪ねた時にすでに作曲済みの嬰ヘ短調とロ短調のカルテットを持参していたが、これは破棄された。現在のハ短調第一カルテットの起源、少なくともその要素は、この失われた最初のカルテットにあると見なされているが、ブラームスはその後も、少なくとも二十曲以上のカルテットを作曲し、破棄したと言われる。

第一カルテットは、一八六五年の末にはいったん初期稿が仕上げられ、翌年八月にクララの前で試演された。しかしその後も推敲が重ねられ、最終的に出版されたのは第一シンフォニーが完成する三年前の一八七三年、ブラームスが四十歳のときである(この時、イ短調のもう一つのカルテットと同時に出版された)。つまり弦楽四重奏というジャンルにおいても、その最初の一曲を産み落とすまでに、第一シンフォニーと同じく二十年の歳月を要したのである。

 

だが小林秀雄は、ブラームスがこの二曲をそれぞれ二十年もかけて完成させたという、その時間の長さだけをもって、ブラームスの「忍耐」と呼んだわけではなかった。また、ブラームスがベートーヴェンという偉大な先人に果敢に挑み、これを乗り越えようとしたところに「勇気」を見たということでもなかっただろう。「音楽談義」の中で、小林秀雄は、自分はもう世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは恥ずかしくて書けないと言い、ブラームスみたいに書きたいと思っているのはそういうことだと語っていた。つまりブラームスは、ベートーヴェン以上のものを作って世間を感動させてやろうとか、ベートーヴェンよりも上手いと言われるものを書こうとしたわけではないのである。第一シンフォニーと第一カルテットに費やした二十年とは、ベートーヴェンへの挑戦と超克の二十年ではなかった。少なくとも小林秀雄は、そうは考えていなかった。

指揮者のハンス・フォン・ビューローが、ブラームスの第一シンフォニーを「第十」と呼んで激賞したのは有名な話である。この音楽は、ベートーヴェンの九つのシンフォニーを継承する十番目のシンフォニーだというのである。しかしこの賛辞は、このシンフォニーが、ベートーヴェンの九つのシンフォニーの模造品であり、焼き直しであるとの批判と表裏一体でもあった。事実、この曲にはベートーヴェンのシンフォニーとのアナロジーが随所にあり、終楽章の主題がベートーヴェンの第九シンフォニー終楽章の主題とよく似ている点や、楽器編成や主題の扱いが第五シンフォニーを彷彿とさせること、何よりもハ短調で開始されてハ長調の勝利のコラールで終るという第五シンフォニーのイデー、「苦悩より歓喜へ」というベートーヴェンの音楽と思想の根幹を成す理念を再現しているという点で、正しくベートーヴェンの嫡子であり、模倣であった。そのことは、同じくハ短調で書かれ(この調性は、若い頃の小林秀雄の造語を借りれば、ベートーヴェンの「宿命の主調低音」であった)、ベートーヴェンのカルテットの書法を徹底的に研究した末に作曲された第一カルテットについても同様に言えるだろう。

ブラームスに対しては当時から、シューマンの「新しき道」に代表されるような「ベートーヴェンの再来」としての賞賛と期待が寄せられる一方で、新ドイツ楽派からの批判を中心に、「擬古典主義」とか「ベートーヴェンの二番煎じ」といった類の批判や皮肉が常にあった。今でも、四曲あるブラームスのシンフォニーの中で、ブラームスの本領が発揮されているのは二番以降のシンフォニーであり、ベートーヴェンの影が濃厚な第一シンフォニーには低い評価を与える専門家や好事家は少なくない。小林秀雄も、そのことはよく承知していただろう。しかし彼は、あくまでもを取り上げ、この曲をブラームスが書き上げたことを讃え、ここにこの作曲家の忍耐と意思と勇気を観じて、幾度も聴き続けたのである。

「音楽談義」の最後のところで、「誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君……」と呟いた後、小林秀雄は、「ブラームスだって、もっとすごい才能があれば、えらいことをしたでしょうけれども……」と付け加えている。それに続けて、「あとの兵六玉の……ではないですね……」と言っているようだが、聞き取れない。おそらく、彼が言おうとしたことは、次のようなことであったに違いない。

―もしもブラームスに、ベートーヴェンを凌駕する程の凄い才能が与えられていたとしたら、ベートーヴェンの音楽とは一線を画す革命的な音楽を発明して、音楽史を塗り替えようとしたかもしれない。しかしブラームスには、自分にはベートーヴェンを超えるような才能はないという非常に鋭い自意識があった。彼だけではない、そのような才能は音楽史上誰にも与えられてはいないという事実を誰よりも深く思い知っていたのである。それはまた、ブラームスのベートーヴェンに対する理解と尊敬の深度、すなわち彼の批評精神の鋭さの表れでもあった。同じくベートーヴェンに触発され、ベートーヴェンの音楽から出発したあらゆる浪漫派音楽家達、無数の「兵六玉」たちの中で、ベートーヴェンの音楽に対するブラームスの理解は群を抜いて深いものであった。だから彼は、リストやワーグナーのように、ベートーヴェンの先を行こうとする「未来音楽」を夢見たり、たとえばショパンやドビュッシーのようにベートーヴェンとは敢えて異なる道を歩いてみようとすることはできなかったのである。そして周りからは擬古典主義とかベートーヴェンの二番煎じと揶揄されながらも、ベートーヴェンが残した偉大な足跡と労苦の一つ一つを忠実に辿り、ベートーヴェンが実現した音楽の意味を完全に理解し、これを我が物とするところに自らの喜びを見出そうとした。言わば、「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の道を行くことが、作曲家としての自らの使命であり宿命であると自覚した人であったのだ。そういうブラームスの無私な努力の裡で、自ずとブラームス自身の真の個性が磨かれ、発揮され、遂にブラームスは、ブラームス以外の誰にも書けないような音楽を書き残すに至った。それが、ベートーヴェンと二十年間向き合った末に完成させた第一シンフォニーであり、第一カルテットであった。ここに、ブラームスの忍耐と意思と勇気のすべてがあるのだ。世間があっと驚くようなものを発明しようとすることや、他とは異なる個性を競うことよりも、それは遥かに勇気を要する仕事なのだ。だが世間は、これをベートーヴェンの模造品だと言うだろう。誰がわかるものか、ブラームスという人の勇気をね、君……。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

高橋英夫氏が小林秀雄旧蔵のLPレコードを閲覧した時、モーツァルト、ベートーヴェン、バッハに次いでブラームスのレコードがかなりの数出てきたこと、そしてブラームスを何かかけてみようと思い立った氏が、偶々手に取った交響曲第一番のレコードをジャケットから抜き出したところ、「盤面が汚れていて、何度もかけた跡が明瞭だった」ことは既に書いた。高橋氏によれば、そのLPレコードは、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるものだったという。カラヤンはこの曲を大変得意にした指揮者で、正規のスタジオ録音だけでいっても生涯に六度録音している。そのうちベルリン・フィルとのレコードは三種存在するが、その二回目の録音が発売された時、小林秀雄は既に「山の上の家」を降りていたから、彼がこの家で「何度もかけた」のは、一九六三年(昭和三十八年)十月にベルリンのイエス・キリスト教会で録音されたベルリン・フィルとの最初のレコードであったことになる。

小林秀雄は、ヴァイオリニストやチェリスト、ピアニストといった器楽奏者への想いや好みについてはしばしば語ったが、指揮者については殆ど何も語らなかった。活字として残されているのは、昭和三十四年三月に発表された「小林秀雄氏とのある午後」という座談会での発言で、フルトヴェングラーとカラヤンについてそれぞれ一言触れているのみである。ちなみにカラヤンについては、テレビで見たその指揮ぶりについて、「ちゃんと見せるような型になっている、芸人だなあ。指揮者は芸人でなくちゃいけない」と、この指揮者のスタイリッシュな通俗性を批判する音楽評論家やレコード・マニアの議論とは無縁の、いかにも彼らしい評を下している。

そのカラヤンのブラームスを繰り返し聴いたというのも、偶々誰かが彼のレコードラックに持ち込んだLPを、ブラームスを聴くために毎回取り出したというまでで、この曲の数ある録音の中で特にこの演奏を好んだということではなかっただろう。しかし小林秀雄が「山の上の家」で暮らした時期に、数あるブラームスの楽曲の中から交響曲第一番のレコードを選び出し、盤面が汚れるほど聴き続けたという事実は、決して偶然ではなかった。カラヤンとベルリン・フィルによる最初のLPレコードが日本で発売されたのは、「本居宣長」の連載が開始された同じ年である。つまり小林秀雄は、「山の上の家」で「本居宣長」を執筆した十年半の間に、このレコードを「何度もかけた」のである。

ブラームスの最初のシンフォニーは、おそらく、「本居宣長」を執筆していた小林秀雄に特別の感銘と共感を与え続けた音楽だったのだ。「小林さんはモーツァルトのほかに、ブラームスも好きだった」と伝えた追悼対談の中で、大岡昇平は、小林秀雄は「彼(ブラームス)がベートーヴェンの第九の上に、ハ短調交響曲第一番を書いたことを、とても賞めていた」と証言している。そして「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語った「音楽談義」の最後に彼の口から出た曲名は、「第一シンフォニー」であった。

これまで紹介してきた「音楽談義」でのブラームスに対する小林秀雄の発言には、まだ続きがある。彼がブラームスについて一番言いたいことは、実はその続きのところにあるのである。ベートーヴェンのような「元気のいい、リズミカルなインスピレーション」とは異なる、肌目の細かい、主題を織(折)るようなブラームスの書法について語り、この作曲家を「本質的に老年作家である」と断じた上で、彼は次のように発言する。

―僕は好きですよ、ブラームス。あれをセンチメンタルというのは俗論です。あいつの意思を知らないのです。あいつのセンチメンタリズムというのはとても表面的なこと。あいつの忍耐とか意思とか勇気なんてものは全部あの中に入っていますよ。これはやはり健全なる音楽家です……

ここで言われた「あいつの忍耐とか意思とか勇気」とは、他ならぬベートーヴェンにこそ相応しい言葉であろう。しかしそれがブラームスにもあると彼は言い、しかも、そのブラームスの「意思」は、ベートーヴェンのそれとは違って世間にはなかなか理解されないものだというのである。

対談ではこの後、既に触れた四十年前の道頓堀のエピソードが回想され、その「モオツァルト」を書き終えた後に惹かれるようになったというシューベルトの話に移り、さらに話題はチャイコフスキーからシューマンを経て、シベリウスとグリーグ、ドビュッシーとラヴェルとが比較される。あるいはストラヴィンスキー、ヒンデミット、シェーンベルク、武満徹といった現代音楽が批判され、ベートーヴェン、ヴェルディ、ショパンと続いて、四年前、バイロイトで聴いたワーグナーについて存分に語られる。そして五時間に及んだこの対談の最後の最後に、もう一度、彼はブラームスについて語り出すのだ。もはや独白に近いもので、聞き取れない箇所もあるが、彼のブラームスに対する思いは、この最後の独語にもっとも強く表れている。バイロイトで体験したワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の最終場面の感動について繰り返し語った彼は、しかし、「あの人(ワーグナー)を僕は尊敬するが、愛しません」とはっきり断った後で、次のように語った。

―僕はできるかどうか知らないが、一生懸命書いているんだよ。もう僕は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは書けないと思ってきたのだ。書けないね、もう、恥ずかしくて。僕がブラームスみたいに書きたいとこの頃思っているのはそういうことなんだよ。ブラームスって、あんた、聴くか? ブラームスってのはいいですね。僕は段々ブラームスを好きになりましてね。あんなものは誤解のかたまりだと僕は思っています。誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君……

そして不意に、「あの人のカルテットいいですね」と語り出し、「どうしてあんなものができたかと思うくらいのものですね。あれは第一シンフォニーと同じものです。偉いものですよ」と嘆じて、この対談はお開きになるのである。

「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語った時に、彼の脳裏で鳴っていた音楽、そして「あいつの忍耐とか意思とか勇気は全部あの中に入っている」と言われた「あの中」とは、ブラームスの他のどの曲よりも第一シンフォニーであり、カルテット(おそらくはシンフォニーと同じく最初の弦楽四重奏曲)であっただろう。だがなぜ、この二つは彼にとって「同じもの」なのか。またこの二曲をブラームスが作曲したことの何が「偉い」のか。小林秀雄が聴き取ったその意味を汲み取るためには、この二つの音楽が作曲された経緯を少しばかり知っておく必要がある。

 

ブラームスが生まれたのは一八三三年五月七日、ベートーヴェンはすでに六年前、シューベルトは五年前に亡くなっていた。シューマンとショパンが二十三歳、ワーグナーが二十歳の時で、ベートーヴェンによって端を開かれたロマン主義音楽がいよいよ隆盛を極めようとしていた時代にあたっていた。

ブラームスの作曲家としてのキャリアは、二十歳の時にシューマンの元を訪れ、そこで弾いて聞かせた自作の曲に驚嘆したシューマンが、「新しき道」というタイトルの論説を発表して、このうら若き「ミネルヴァ」を華々しく世に送り出したことに始まる。シューマンに紹介されて楽壇に出たということはまた、ブラームスが、リストとワーグナーに代表される新ドイツ楽派という当時の「未来音楽」とは袂を分かち、古典的な音楽の可能性を新たに拓く「第二のベートーヴェン」として世に出たということを意味した。ブラームスはシューマンに会う三ヶ月ほど前にリストを訪ねているが、その時、作曲されたばかりのロ短調ソナタをリストが弾いて聞かせたところ、ブラームスは居眠りをしてしまい、それに気づいたリストは怒って部屋を出ていったという逸話が残されている。その真偽はともかく、ヴァイマールの邸宅に滞在した時、ブラームスがリストの音楽に数多く触れたこと、そして聴けば聴くほどその音楽に批判的になり、結果、リストの機嫌を損ねたことは事実だったようである。

音楽史上有名なブラームスと新ドイツ楽派の対立、とりわけワーグナーとの確執についてはしかし、ロマン主義の標題音楽的発想を否定して、音楽は音楽以外のものを表現しないとする絶対音楽の立場を標榜した音楽美学者エドゥアルト・ハンスリックをはじめとする反ワーグナー派の人々が、ブラームスを自分たちの主張の体現者として必要以上に担ぎ上げた側面も少なからずあった。そもそもブラームスという作曲家は、当時の「未来音楽」に共感できなかったばかりでなく、自身の音楽の価値に対しても極めて懐疑的で、自分を含めた現代の音楽よりも、モーツァルトやハイドン、バッハ、ヘンデル、あるいはもっと古い、その当時は誰も見向きもしなかったルネサンス期のポリフォニー音楽に至るまで、過去の巨匠たちの音楽への憧憬と尊敬を生涯持ち続け、その研究に多大な労力を費やした人でもあったのである。ブラームスは、それら歴史上の天才たちに比べれば、自分の音楽は何物でもないという強い自己批判精神の持ち主で、例えば、「自分のピアノ協奏曲が今日もてはやされるのは、モーツァルトのピアノ協奏曲の本当の良さを誰も理解していないからだ」といった類の発言をいくつも残している。

その中でも、ベートーヴェンは、ブラームスがもっとも尊敬した作曲家であり、かつ、もっとも身近に存在した古典であった。シューマンが「新しき道」を発表した三ヶ月後、ブラームスは、友人であったヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムに宛てて次のような手紙を書いている。

 

ヨハネスは何処にいる。彼はまだティンパニも太鼓も鳴り響かせないのか。彼はいつもベートーヴェンの交響曲の開始部分を思い起こし、似たようなものを作ろうと努めることになるだろう。

 

以後、ヨハネス・ブラームスによって意識され続けたベートーヴェンという桎梏、中でもその最も重たく気高い「ベートーヴェンの交響曲」という十字架は、彼を取り巻く時代が要請したものであったと同時に、ブラームスが自ら進んで選択し、背負い続けたものでもあったのである。

(つづく)

 

ブラームスの勇気

「ゴッホの手紙」を上梓した一年後の昭和二十八年五月、角川書店の昭和文学全集の一巻として『小林秀雄・河上徹太郎集』が刊行された。小林秀雄の文章が網羅的な文学全集に収録された最初である。その中扉に、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という彼の書が掲げられている。小林秀雄の読者なら知らぬ者のない言葉であるが、彼がこの文句を直接文章の上で書いたことはなかった。折に触れて請われた色紙に書いたことから知られるようになったのだが、これを眼にした読者には、如何にもこの批評家の生涯が一言の裡に尽くされているように思われ、やがて人口に膾炙したのである。

小林秀雄がいつ頃からこの言葉を筆にするようになったのかは定かでない。少なくとも印刷されたものとしては、この文学全集に掲載されたものがもっとも古い筆蹟であろう。もともと彼は自ら好んで色紙を書くような文学者ではなかったし、止むを得ず筆を執らなければならない時に選んだ言葉は、「君子豹変 小人革面」「知ル者ハ言ハズ 言フ者ハ知ラズ」「頭寒足熱」といった故事成語か、吉田兼好や本居宣長などの言葉であるのが常だった。彼が敢えて自らの言葉を色紙に記したことは、この言葉の他にはなかったのではあるまいか。

評論家の佐古純一郎は、昭和十八年に創元社に入社し、当時顧問を務めていた小林秀雄の知遇を得て以来、親炙した人であった。佐古純一郎は、その二年前に『文藝』が募集した第一回「文藝推薦」評論で佳作第二席となりデビューしたが、その時の審査員の一人が小林秀雄であった。佐古はまた、小林秀雄論を単行本として世に問うた最初の人である。その佐古純一郎が、ある時、無理を言って色紙を所望したところ、小林秀雄が書いたのが同じくこの「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」であった。以後、佐古は小林秀雄が亡くなるまで、書斎に入るたびにその色紙をじっと見つめるのがならわしだったという(「『人格』のリアリティ」)。

佐古純一郎に宛てたその色紙が書かれたのはいつのことであったのか。昭和十八年に入社してから昭和二十九年に角川書店に移るまで、佐古はほとんど毎週小林秀雄と顔を合わせて指導してもらったというから、創元社に勤めた十年余りの間のことではあっただろう。角川に移った六年後、佐古は同社の「人生論読本」シリーズの一冊である『小林秀雄』を編集・解説したが(昭和三十五年十二月)、その中扉にも「批評トハ無私ヲ…」の色紙が掲載されている。おそらくはこれが、小林秀雄が佐古純一郎のために書いたものであろう。先の『小林秀雄・河上徹太郎集』掲載のものと筆蹟がよく似ているが、署名がフルネームではなく「秀雄」と書かれているところに、佐古への親しみと情愛が伝わってくるようである。

あるいはこの言葉は、もともと佐古純一郎の懇請に応じて書かれたのが最初だったのではあるまいか。というのも昭和二十六年十二月、甲陽書房から出版された佐古の第一評論集『純粋の探求』に、小林秀雄は序文を寄せているのだが、そこには、「私は批評というものの根本義は、己れを捨てる、その捨て方の工夫にあると思っている」という、この色紙のヴァリアントのような文句が記されているからである。短いものなので全文を引用する。これは、佐古純一郎に宛てて書いた「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」についての、彼の自注である。

 

佐古君は、いろいろ苦しんだ末、遂にキリスト教の信仰に入った人である。既に確固たる信仰を持った人について、論をなす事は出来ないのである。更に言えば、佐古君自身も己れの信仰について論をなす事は出来ないのである。従って、佐古君の評論は、私の様な宗教を持たぬものの評論とは異なると思う。異ならねばならぬと思う。評論は佐古君にとって信仰という目的の為の手段である筈である。私は批評というものの根本義は、己れを捨てる、その捨て方の工夫にあると思っているから、信仰を深める手段として有力な仕事であると考える。宗教の危険は神学にある。神学とは批評の力を恐れるから出来上るのである。先ずよく信ずるからこそよく疑えるという道を恐れるから神学を頼むのだ。

 

「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」とは、三年前に受洗した若き批評家に向けて、おそらくはその処女評論集の序文とともに書き送られたものであり、同時にこの「道」はまた、「ゴッホの手紙」を擱筆しようとしていた小林秀雄が、ついに「批評的言辞は私を去った」と自覚した瞬間に開けた道でもあった。『純粋の探求』が刊行されたのは、「ゴッホの手紙」の連載が終了する二ヶ月前であった。

この「批評トハ無私ヲ…」について、後に小林秀雄はある学生から直接問われたことがある。昭和四十五年八月九日、既に「本居宣長」の連載が半ばに差しかかろうとしていた頃、長崎県の雲仙で行われた講演(「文学の雑感」)でのことである。彼は、それは難しい、一口には言えないと断りながらも、およそ次のように答えた。

―無私というのは、得ようとしなければ得られないものなのです。客観的ということと無私とは違う。客観的になれ、主観を加えてはいけないというが、主観を加えないということは易しいのです。無私は得なければいけない。君は客観的にはなれるが無私にはなかなかなれない。何にも「私」を加えないで君が出てくるということがあるのです。自分を表そうと思っても君は表れはしない。自分を表そうと思って表している人、自己を主張しようとしている人は皆狂的です。そういう人は自己の主張するものが傷つけられると、人を傷つけます。人が僕を本当に解ってくれる時は、僕が無私になる時である。僕が無私になったら、人は僕の言うことを聞いてくれます。そういう時に僕は表れるのだ。僕を人に聞かそうと思っても僕は表れるものではない。僕が君の言うことが聞きたいと思った時に、僕が無私になる時に、僕はきっと表れるのです……

彼の色紙には、「批評トハ無私ヲ道デアル」と書かれたものもあるが、右の学生との問答からすれば、重点は「無私」とは何かを問うよりも、これを「得ル」あるいは「得ントスル」意思の働きそのものにあったことがわかるのである。だからこそそれは「道」なのであろう。『純粋の探求』序文で「己れを捨てる、その捨て方の工夫」と言われたのもまた同じことを示唆していたはずである。そしてゴッホという絵描きは、小林秀雄にとっては、この「無私ヲ得ントスル」意思の言わば化身の如きものとして彼の前に現れたのだった。「ゴッホの手紙」の第一回で、彼はそれを「自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志」と呼び、三年後の「近代絵画」で再び取り上げた時には、この芸術家の驚くべき「天賦の無私」について次のように書いた。彼が学生に語った「無私ヲ得ントスル道」は、そのまま書簡全集に表れたゴッホの「無私ヲ得ントスル道」であったことがわかるだろう。

 

ひたすら自分を自分流に語る閉された世界に、他人を引き入れようとする点で、普通人の告白も狂人の告白と、さほど違ったものではない。自分自身を守ろうとする人間から、人々は極く自然に顔をそむけるものである。他人を傾聴させる告白者は、寧ろ全く逆な事を行うであろう。人々の間に自己を放とうとするであろう。優れた告白文学は、恐らく、例外なく、告白者の意志に反して個性的なのである。彼は、人々とともに感じ、ともに考えようと努める、まさに其のところに、彼自身を現して了うのである。ゴッホの手紙が、独立した告白文学と考えても差支えない様な趣を呈しているのも、そういう性質による。決して彼しか見舞わなかった様な不思議な彼の歎きも、人々が和して歌う歌の様に現れているし、いかにも彼らしい希いも、万人の祈りの様に書かれている。

 

近代文学を毒した自己告白、自己反省の欺瞞と不毛については、彼が戦前から言及し続けた主題であったし、ゴッホの書簡集に見出された「無私」はまた、彼が描いたモーツァルトという「自己告白の不能者」に、あるいは西行が達した「『読人知らず』の調べ」や実朝の「深い無邪気さ」に、そしてドストエフスキーという「如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』」の裡にも等しく看取し得るものである。しかしゴッホにおいて、その「無私」は、芸術と生活の結界を破った剥き出しの姿で立ち現れ、「機関車の様に休みなく」描き、書き、ついにそれは、小林秀雄に対してこの画家に対する「批評的言辞」の放棄を迫ったのであった。ちなみに彼が「予め思いめぐらしていた諸観念」とは、たとえば次のようなものであった。

 

生活そのものがもしも芸術になったら、キリストみたいになっちゃうよ。それはもう一番偉いことじゃないのかな。そうしたら芸術なんてない。人生には装飾があれば足りるよ。一番大事なものが生活になっちゃえば……(略)僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵のなかに美があるだとか、そういうものが文化というものかもしれないさ、だけど、もしもそんなものがつまらなくなれば、自分自身が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。僕はそれが書きたいと思っている。でなければ、何もゴッホを取上げる理由はないんだよ。(青山二郎との対談「『形』を見る眼」)

 

この対談は『文体』の休刊後、『芸術新潮』であらためて連載が再開される九ヶ月前に行われたものである。ここで言われた彼の着想の、おそらく直接のきっかけとなったベルナール宛の書簡(No.XI)は、連載第七回で確かに取り上げられている。しかしそれは、ゴッホの「不安な孤独な時間を救う」独白の一つとしてであって、「キリストという芸術家にあこがれた人」という彼の批評的観念が表立って展開されることはなかった。「何事かを決定的に」る働きとしての小林秀雄の批評精神は、ゴッホの複製画と書簡全集を貫くあの「或る一つの巨きな眼」に進んで見据えられることによって、自ら敗北を期したのである。だが彼は、「ゴッホを取上げる理由」を手放したわけでも見失ったわけでもなかった。「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念」や「批評的言辞」といった「私」が去った果てに生み落とされた、この一篇の「書簡による伝記」(この副題は単行本となった時に付与された)は、だったからである。

主題がただれるのではない、批評家小林秀雄という「私」がれるのである。

(つづく)