小林秀雄「本居宣長」全景

二十九 反面教師、賀茂真淵

 

1

 

前回、最後に、宣長の言う「『歌の事』から『道の事』へ」は、「『源氏物語』から『古事記』へ」だった、言葉の「あや」から「ふり」へだった、と言ったが、この「歌の事」「道の事」という言葉は、宣長の随筆集『玉勝間』七の巻の「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」と題された次の文に発していた。

―おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞいにしへ書共ふみどもを、かむがへさとれるのみこそあれ、其家の伝へごととては、うけつたへたること、さらになければ、家々のひめごとなどいふかぎりは、いかなる物にか、一ツだにしれることなし……

だが、この文は、次のように続いている。

―されば又、人にとりわきて、殊に伝ふべきふしもなし、すべてよき事は、いかにもいかにも、世にひろくせまほしく思へば、いにしへの書共を、考へてさとりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、露ものこしこめたることはなきぞかし、おのづからも、おのれにしたがひて、物まなばむと思はむ人あらば、たゞ、あらはせるふみどもを、よく見てありぬべし、そをはなちてほかには、さらにをしふべきふしはなきぞとよ。……。

ということは、この文は、一息で言うなら「歌の事」「道の事」と統括できる自分の学問は、旧来の学問とはまったくちがうものだ、旧来の学問は、学問の家に古くから伝わる『論語』や『古今集』に関する解釈、すなわち、家伝、師伝、秘伝等々と崇められる知識を授かることだと誰もが思いこんでいたし、今でもその旧習は根強いが、そういう通念で宣長の学問を見てくれるな、宣長の学問は、たしかに「あがたゐのうしの教のおもむき」によったものだが、世に言う家伝、師伝などとは一から異なり、すべて新たに宣長が究め、悟り得たことばかりである、しかもそれらは、悉く本に書き著している、懐中に秘めて他見を許さず、口伝によって後世に伝えようとしていることなど何一つとしてない……、ということを強く言いたかったまでで、「歌の事」「道の事」そのものに言及しようとしたものではない。

しかし、小林氏は、第十二章にこの文を引いて、次のように言っている。

―宣長が、「あがたゐのうしの教のおもむきにより」と言っている「あがたゐのうし」とは、言うまでもなく、賀茂真淵である。(中略)確かに宣長の学問は、「あがたゐのうしの教のおもむきにより」、「かむがへさとれるのみこそあれ」というものであったが、その語調には、学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える。それが二人が何の妥協もなく、情誼に厚い、立派な人間関係を結び得た所以なのだが、これについては、いずれ触れる事になろう。……

ところが、私には、宣長のこの文の語調から、「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える」とまでは読めず、むしろ小林氏の読みは深読みと言っていいとさえ思えるほどだったのだが、第十二章から下って第二十章、第二十一章と読み進め、再びここに戻って目をこらしてみると、この小林氏の受取り方は、学問というものは広大である、だからこそ宣長と真淵は「何の妥協もなく、情誼に厚い、立派な人間関係を結び得た」のだ、ということを言おうとしての深読みだったと思え、さらには、小林氏の言う「それが二人が何の妥協もなく、情誼に厚い、立派な人間関係を結び得た所以なのだが」は、「それが、宣長が何の妥協もなく、真淵との間で情誼に厚い、立派な人間関係を結び得た所以なのだが」と、宣長が真淵に対して貫いた態度こそが言われているとも読めるのである。

私は、敢えてわざわざ裏読みしているのではない、小林氏が第十二章以下に書き継ぐ真淵、宣長の交渉経緯が、おのずと私にこう読ませるのである。さらに言えば、真淵はたしかに偉大な師であったが、実のところは反面教師でもあった、と私には読め、だから宣長は「歌」についても「道」についても真淵と一線を画し、ついには真淵の「古道」とはたもとを分かって前人未到の「古道」に分け入った、これらすべて、宣長が真淵と「何の妥協もなく、情誼に厚い人間関係を結び得た」ればこそだったという展望がすでにして小林氏にあり、その展望が、「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える」と言わせたように思えるのである。

ただし、ここに「反面教師」という言葉を用いるについては、小林氏の叱声を覚悟しなければならない。この言葉は、近代になってから、それも第二次世界大戦後の中国で毛沢東が言い出したものである、したがって、元来を言うなら場違いも甚だしいばかりか、真淵、宣長とは相容れない言葉なのだが、しかし今日では、たとえば『日本国語大辞典』に「悪い見本として学ぶべき人、その人自身の言動によって、こうなってはならないと悟らせてくれる人」とあるような意味合で、すっかり日本語として通っている、そして、他ならぬ小林氏の「本居宣長」に、賀茂真淵はそういう教師としても明確に登場するのである。

たとえば第二十章で、真淵が宣長の詠歌を難じた手紙が紹介される、だが宣長は、平然と聞き流し、同じような歌を詠み続ける、あるいは真淵の「萬葉学」の個人教授に与りながら、「萬葉集」の成立をめぐる真淵の所説に異論を唱えて逆鱗にふれる……、こうした宣長を弟子にもった真淵の心意を汲んで、小林氏は書いている、

―この弟子は、何かを隠している。鋭敏な真淵が、そう感じていなかったとは考えにくい。従えないのではない、従いたくはないのだ。……

宣長は、真淵のどこに、何に、従いたくなかったのか。

さらに、同じく第二十章にこうある。

―宣長は、既に「古事記」の中に踏み込んでいた。(中略)「万葉」の「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。……

小林氏は、第十二章に、『玉勝間』七の巻から「おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて……」を引いた後、こう言っている。

―宣長が、真淵に名簿みょうぶを送って、正式にその門人となったのは、宝暦十四年正月(宣長三十五歳、真淵六十八歳)であり、真淵はこの年からあがたと号したのだが、五年を経て歿した。宣長は、自ら「県居大人之霊位」と書した掛軸を作り、忌日きにちには書斎のとこに掲げて、終生、祭を怠らなかった。……

この宣長の手向けは、まさに宣長が真淵と結んでいた「情誼に厚い、立派な人間関係」を髣髴とさせる。だが、こうして真淵の霊を祭り続けた宣長の心中は、世間並みの追慕や追善ではなかっただろうとも私には思える。では宣長は、真淵の霊に、何を手向けていたのか。学恩に対する謝辞はむろんだっただろうが、それと同時に、古学の功成らずして逝った真淵の無念に対する慰藉であっただろう。さらには、真淵が辿ろうとして果たせなかった「古道」を、真淵とはまったく異なる足取りで辿っていた宣長の年次報告であっただろう。

 

2

 

真淵は、宣長を識った年の八年前、宝暦六年(一七五六)六十歳の年から、畢生の『萬葉考』を書き続けていた。宣長も、詠歌に志した十九歳の頃から『萬葉集』に目覚めていたが、二十三歳の春、医者になるため京都に遊学して堀景山の門に入り、景山に教えられて契沖の存在を知り、契沖に導かれて本格的に『萬葉集』を研究するようになっていた。そういう二人の間で、宣長が真淵の門人となってすぐ、「萬葉集問目」が始められた。『萬葉集』に関する質疑応答の文通である。

―これは、真淵死去の前年まで五年間、「万葉集」二十巻にわたり、前後二回くり返されている。(中略)質疑は宣長謹問、あるいは敬問とあって、師弟の礼は取られてはいるが、互にその薀蓄うんちくが傾けられ、厳守されているのは、雑念を交えぬ学者の良心なのである。……

―宣長の質疑は、私案を交え、初めから難訓難釈に関していたし、真淵は、難問に接して、常に「是はむつかし」「此事、疑あり」という率直な態度をとっていたし、「問目」は尋常の問答録を越え、「万葉」の、最先端を行く共同研究という形を為した。……

しかし、宣長にとって『萬葉集』は、究極の目的ではなかった、手段だった。「古道」を究めるために『古事記』を読み解く、そのための下拵えだった。『本居宣長全集』(筑摩書房刊)第六巻の、大久保正氏の解説に言われている。

―宣長の学問において『萬葉集』の研究は、『古事記』研究への通路であった。宣長の上代学の本領はどこまでも『古事記伝』にある。宣長の上代学の目的は、「記紀」二典に備わる神の道を闡明せんめいすることにあり、その方法としては上代人の心に即応した『古事記』のことばを通じて、そこに記載されている世界をあるがままに明らかにしようとするものであった。……

この、神の道の闡明を目的とするということでは、真淵も同じだった、真淵は、宣長に宛てた最後の手紙(明和六年五月九日)で、

―万葉より入、歌文を得て後に、記の考をなすべきは拙が本意也。天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかゞふべく思ひて、今まで勤たり。……

と言っている。「記」は『古事記』、「拙が本意」は私の真にめざすところ、「人代を尽て」は『萬葉集』を読みぬき、「神代をうかゞふ」は『古事記』を熟読する、である。しかし真淵は『古事記』に到れず、『古事記』の手前の『萬葉集』すら精到を得ないうちに命が尽きたのだが、小林氏は、第二十章で言う。

―「万葉」に関する、真淵の感情経験が、はっきりと「万葉」崇拝という方向を取ったのは、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるという、今まで段々述べて来た、わが国の近世学問の「血脈」による。が、その研究動機について、真淵自身の語っているところを聞いた方がよい。「掛まくもかしこかれど、すめらみことをたふとみまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては、古へのふみを見る。古へのふみを見る時は、古への心言を解かんことを思ふ。古への心言を思ふには、先いにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには、万葉をよむ」(「万葉考」巻六序)。彼が、「大を好み」「高きに登らん」としたわけではなく、およそ学問という言葉に宿っている志が、彼を捕えて離さなかったのである。「高きところを得る」という彼の予感は、「万葉」の訓詁という「ひききところ」に、それも、冠辞だけを採り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した。その成果を取り上げ、「万葉」の歌の様式を、「ますらをの手ぶり」と呼んだ時、その声は、既に磁針が北を指すが如く、「高く直き心」を指していたであろう。……

真淵の「ますらをの手ぶり」という『萬葉』集約は、その著『にひまなび』に出るが、『萬葉考』でも真淵は『萬葉集』の本質を「まごころ」「まこと」に見、「ますらをぶり」を説いた。引き続き、小林氏の真淵評である。

―真淵は、「万葉集」から、万葉精神と呼んでいいものの特色を、鮮かに摑み出して見せた。彼の「万葉」研究は、今日の私達の所謂文学批評の意味合で、最初の「万葉」批評であり、この歌集の本質を突いている点で、後世の批評も多くの事は附加出来ぬとさえ言える。……

―「万葉集の歌は、およそますらをの手ぶり也」(「にひまなび」)という真淵の説は、宣長の「物のあはれ」の説とともに、よく知られてはいるが、これも、宣長の場合と同じく、この片言は真淵の「万葉」味読の全経験を、辛くも包んでいるのであり、それを思わなければ、ただ名高いばかりの説になるだろう。「万葉」の歌にもいろいろあるのだから、無論「ますらをの手ぶり」にもいろいろある。宣長宛の書簡のうちから引けば、「風調も、人によりてくさぐさ也。古雅有、勇壮悲壮有、豪屈有、寛大有、隠幽有、高而和有、艶而美有、これら、人の生得の為まゝなれば、いづれをも得たる方に向ふべし」(明和三年九月十六日)という事になる。……

―真淵に言わせれば、「万葉」の底辺で、人により時期により、とりどりの風調に分れているものの目指している頂上が、人麿という抜群の歌人の調べとなる。「柿本朝臣あそみ人麻呂は、いにしへならず、後ならず、一人のすがたにして、あらたま和魂にぎたまいたらぬくまなんなき。そのなが歌、いきほひは、雲風にのりて、み空行たつの如く、ことばは、大うみの原に、八百潮やほしほのわくが如し。短うたのしらべは、葛城かづらきのそつ彦真弓を、ひきならさんなせり。ふかき悲しみをいふときは、ちはやぶるものをも、なかしむべし」(「万葉集大考」)―「ますらをの手ぶり」という真淵の言葉は、無論、知的に識別出来る観念ではないのだから、「万葉集大考」が批評というより、寧ろ歌の形をとったのも尤もな事なのである。……

―「万葉」を「解かん」とする事は、これを「となへん」とする事と、彼には、初めから区別はなかった、と言って了えばそれまでだが、事は決して簡単ではなかった。四十年の労苦の末、「万葉」という「いとしも大なる木」の「ほつ下枝しづえの数々」を尽して、彼は自信をもって言う、「いでや、いほにもかはらぬ、天地あめつちにはらまれおふる人、いにしへの事とても、心こと葉の外やはある。しか古へを、おのが心言ことばにならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや。世の中に生としいけるもの、こゝろも声も、すて古しへ今ちふことのなきを、人こそならはしにつけ、さかしらによりて、ことざまになれる物なれば、立かへらんこと、何かかたからむ」(「万葉集大考」)……

「ところが、宣長には、こう言い送っているのである」、と言って小林氏が引いている宣長宛の手紙にはこうある。

―さて、おほよそ文字ヲ用うる時代より後に、書る文は堅し。其以前とおぼしきほめ言など、飛鳥あすか藤原の朝の人の不及言ども、古事記にも、紀にも、祝詞にも有を見給へ。此事をよく見得てより、いよいよ上古之人の風雅にて、弘大なる意を知也。宮殿を高く、又地をかためぬる事を、高天原たかまのはら垂木ちぎ高敷たかしき、下つ岩根に宮柱ふとしりてふ言、又祈年祭に、田夫の田作る事を、手なひぢに、水沫みなわかきり、むかももに、ひぢりこかきよせて、とりつくれる、おくつみとしを(年は稲の事也)てふ言の類、いと多し。是を考へ給へ。人まろなどの及ぶべき言ならぬを知るる也。神代紀も、よく古言古文を心得て、今の訓のなかばを、用ゐ合せて、よむ時は、甚妙誉の文也。今は文字にのみ依故に、其文わろし。故に古事記の文ぞ大切也。是をよく得て後、事々は考給へ。己先にもいへる如く、かの工夫がましき事を、にくむ故に、只文事に入ぬ。遂に其実をいはんとすれば、老衰存命旦暮に及べれば、すべ無し。(明和四年十一月十八日、宣長宛) ……

そして、再び小林氏の文である。

―真淵は、ただ老衰と「万葉考」との重荷をかこつのではない。彼の苦しみは、もっと深いところにあった事を、この書簡を読むものは、思わざるを得まい。更に言えば、その苦しみは、当人にも定かならぬものではなかったかと、感ぜざるを得まい。「かの工夫がましき事を、にくむ故に、只文事に入ぬ」という、その文事とは、勿論「万葉」であろう。「遂に其実をいはんとすれば、老衰存命旦暮に及べれば、すべ無し」とは何か。もし「ますらをの手ぶり」と言ったのでは「其実」を言った事にならないのなら、彼の言う「実」とは一体何なのか。そう問われているのは、むしろ真淵自身ではなかったか。問いは、彼が捕えたと信じた「実」から生れて、彼に向ったのではあるまいか。「道」とは何かとは、彼にとって、そのような気味合の問題として現れていたように見える。人麿の「古へならず、後ならず、一人のすがた」として、現に心に映じている明確な像が揺ぐのである。……

―「道」とは、何処からか聞えて来る、誰のものともわからぬ、あらがう事の出来ぬ、真淵が聞いていた内心の声だったと言えるが、それはソクラテスのダイモンのように、決して命令の形をとらず、いつも禁止の声だったように思われる。真淵の意識を目覚めさした声も、何が「道」ではないかだけしか、彼に、はっきりと語らなかったらしい。「ますらをの手ぶり」とは思えぬものを「手弱女たわやめのすがた」と呼び、これを、例えば、「迮細サクサイ」にして「鄙陋ひろう」なる意を現すものとでも言って置けば、きっぱりと捨て去る事は出来たが、取り上げた「ますらをの手ぶり」の方は、これをどう処理したものか、真淵のダイモンは口をつぐんでいたようである。……

―彼は、これを「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」という風に、様々に呼んではみるのだが、彼の反省的意識は安んずる事は出来なかった。「上古之人の風雅」は、いよいよ「弘大なる意」を蔵するものと見えて来る。「万葉」の風雅をよくよく見れば、藤原の宮の人麿の妙歌も、飛鳥あすか岡本の宮の歌の正雅に及ばぬと見えて来る。源流を尋ねようとすれば、「それはた、空かぞふおほよそはしらべて、いひつたへにし古言ふることも、風の音のごととほく、とりをさめましけむこゝろも、日なぐもりおぼつかなくなんある」(「万葉集大考」)という想いに苦しむ。あれを思い、これを思って言葉を求めたが、得られなかった。……

文中の「空かぞふ」は「おほよそ」の「おほ」にかかる枕詞、「日なぐもり」は「日の曇り」、すなわち薄日の意から地名「碓氷うすい」にかかる枕詞であるが、真淵はここは「おぼつかなく」の枕詞としているようである。

「藤原の宮」は、第四一代とう天皇(在位六八六~六九七)の代の六九四年に造営され、四二代文武(同六九七~七〇七)、四三代元明(同七〇七~七二一)と三代にわたった天皇の皇居を言う。時代としては平城遷都(七一〇年)の前の藤原京時代(六九四~七一〇)であるが、「萬葉集」について見れば柿本人麻呂の長歌短歌が朗々と響き渡った時期である。いっぽう、「飛鳥岡本の宮」は、「藤原の宮」より数十年早い、第三四代舒明天皇(在位六二九~六四一)と第三七代斉明天皇(同六五五~六六一)の皇居である。斉明天皇は舒明天皇の皇后であったが、舒明天皇の崩御後、即位して三五代皇極天皇となり、重祚ちょうそして斉明天皇となってからは舒明天皇と同じ地を皇居とした、これによって舒明天皇の皇居は「高市たけちの岡本の宮」と呼ばれ、斉明天皇の皇居は「のちの岡本の宮」と呼ばれたが、全二十巻、四五一六首に上る「萬葉集」の歌は、舒明、斉明両天皇の「飛鳥岡本の宮」の時代に始るのである。

「萬葉集」の開巻劈頭は、雄略天皇の御製である、これに舒明天皇の国見歌が続いている。雄略天皇は、舒明天皇からでは二〇〇年ちかくも遡った第二一代の天皇である、その雄略天皇の御製が、それもただ一首、巻頭に置かれているのは、雄略天皇が舒明朝から天武・持統朝に至る時代の人々に、古代国家を代表し、象徴する君主として仰がれていたからであろうと、新潮日本古典集成『萬葉集』の頭注にある。(ちなみに今年、令和三年から二〇〇年ちかく遡ると明治である。令和三年は、明治で言えば一五四年である)。

むろん真淵の念頭に、そうした「萬葉集」の編纂理念などはなかっただろうが、「『万葉』の風雅をよくよく見れば、藤原の宮の人麿の妙歌も、飛鳥岡本の宮の歌の正雅に及ばぬと見えて来る」と言われている「飛鳥岡本の宮の歌」とは、人々の間に歌というものが生れ出たばかりの頃の歌、という含意があっての「歌」である、と、少なくともそこには思いを致しておきたい。雄略天皇に続く舒明天皇の国見歌は、「大和やまとには 群山むらやまあれど とりよろふ あめ具山ぐやま 登り立ち 国見をすれば 国原くにはらは けぶり立ち立つ 海原うなはらは かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉あきづしま 大和の国は」である。また「萬葉集」中、最も人口に膾炙しているとまで言えるであろう額田王ぬかたのおおきみの歌、「にき田津たづに 船乗りせむと 月待てば しほもかなひぬ 今は漕ぎ出でな」は斉明天皇の時代に詠まれている。

 

3

 

かくして真淵は、明和六年(一七六九)十月に歿した。

―真淵の余生は、ただもう「万葉」との戦いに明け暮れた。明和五年十月に至って、漸く「万葉六巻迄草を終候」と宣長に報じている。彼は、「万葉集」の現在所伝の形に、不信を抱いていた。今の一、二、十三、十一、十二、十四の六巻だけが、「かみつ代より奈良の宮の始めまでの歌を」「此のおとゞ(橘諸兄たちばなのもろええらみて、のせられし物也」(「万葉集大考」)と信じていた。この「万葉集」の原形と考えられるものの訓釈だけでも、急いで仕上げて置きたかった。……

「奈良の宮」は、平城京である。

―宣長宛の真淵の書簡を次々に見て行くと、「衰老は年々に増候」、「老年あすもしらねば、心急ぎも申候事也」の類いの言葉が相つぎ、「学事は昼夜筆のかはく間なく候へども、諸事らち明ぬものにて、何ほどの功も出来候はず」、「世間の俗事は、一向不致候へ共、雅事も重り過れば、さてさて苦敷くるしく候也」とあって、「万葉考」という重荷を負い、日暮れて道遠きに悩む老学者の姿が彷彿として来るのである。……

―宣長は、入門とともに、「古事記」原本の校合きょうごうを始め、ついで真淵から「古事記」の書入本を度々借覧し、「古事記伝」の仕事を着々進めていたが、(中略)質疑の方は、「万葉」より「宣命」に入り、「古事記」を問おうとする段となって、師の訃に接したのである。宣長の「日記」(明和六年十二月四日)には、「師賀茂あがたぬし、去十月晦日みそかとりのこく卒去之よし、自同門楫取魚彦かとりなひこ告之。其状今日到来。不堪哀惜」とある。(中略)真淵の力は、「万葉」に尽きたのである。……

 

真淵に関して、小林氏は次のようにも言ってきた。

第六章では、「詠歌の所見について、契沖は、まだ明言していないが、真淵の影響で、歌道が古道の形に発展した宣長にあっては、もうはっきりした発言になる」と言って、「うひ山ぶみ」から引く。

―「すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、いにしㇸの世のくはしき意、風雅ミヤビのおもむきは、しりがたし」、「すべてよろヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、さればこそ師(真淵/池田注記)も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられたるなれ」……

そして、これを承けるかのように、小林氏は第二十章で言う、先にも別の引用意図で引いたが、

―彼は自信をもって言う、「いでや、いほにもかはらぬ、天地あめつちにはらまれおふる人、いにしへの事とても、心こと葉の外やはある。しか古へを、おのが心言ことばにならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや。世の中に生としいけるもの、こゝろも声も、すて古しへ今ちふことのなきを、人こそならはしにつけ、さかしらによりて、ことざまになれる物なれば、立かへらんこと、何かかたからむ」……

そういう信念に立って、真淵は、古道を究めようとするなら、「萬葉集」に即して歌を詠み、身体は現代にあっても心と言葉は古に還ろうとせよと教えたのである。

しかし、宣長は、真淵の教えに従わなかった。あるとき、自作の歌を送って添削を乞うた。真淵は手厳しい返事を寄越した。これも第二十章からである。

―二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。「万葉」経験と「源氏」経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しの利くようなものではなかった。真淵は、「万葉」経験によって、徹底的に摑み直した自己を解き放ち、何一つ隠すところがなかったが、彼のこの烈しい気性に対抗して宣長が己れを語ったなら、師弟の関係は、恐らく崩れ去ったであろう。弟子は妥協はしなかったが、議論を戦わす無用をよく知っていた。彼は質問を、師の言う「ひきき所」に、考証訓詁の野に、はっきりと限り、そこから出来るだけのものを学び取れば足りるとした。意識的に慎重な態度をとったというより、内に秘めた自信から、おのずとそうなったと思われるが、それでも、真淵の激情を抑えるのには難かしかったのである。……

―真淵が先ず非難したのは、宣長の歌である。「御詠為御見猶後世意をはなれ給はぬこと有之候。一首之理は皆聞えはべれど、風躰ふうていと気象とを得給はぬ也」(明和二年三月十五日、宣長宛)。歌を批評して貰おうという気持は、恐らく宣長には、少しもなかったであろう。詠草を見参に入れて、添削を請うという、当時の門下生の習慣に従ったまでの事だったろう。先きに引いた「玉勝間」中の回想文で言っているように、宣長は、在京時代、既に詠歌について、或る確信を得ていた。「人のよむふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたててよむふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける」―咎める人が現れても、今さら「よむふり」を改めようもなかったし、改める必要を認めなかった。真淵にしてみれば、古詠を得んとせず、「万葉」の意を得んとするのは、考えられぬ事であり、平然として、同じ風体の詠草を送りとどけて来る弟子の心底を計りかねた。「是は新古今のよき歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也。右の歌ども、一つもおのがとるべきはなし。是を好み給ふならば、万葉の御問も止給へ。かくては万葉は、何の用にたゝぬ事也」。だが、宣長は一向気にかけなかった様子である。「万葉」の問いを止めるどころか、間もなく「万葉集重載歌及び巻の次第」と題する一文を送り、歌集成立の問題について、「敬問」に及んでいる。これは、契沖に従って、全二十巻を家持やかもち私撰しせんと主張して、真淵の説に、真っ向から反対したもので、時代、ダテカキざまから見て、撰は前後二回行われたものとし、又これによって、現行本の巻の次第も改めるべきものとする意見である。……

―これが真淵を怒らした。「是は、甚小子が意にたがへり。いはゞいまだ万葉其外そのほか古書の事は知給はで、異見を立らるゝこそ、不審なれ。やうの御志に候はゞ、向後小子に、御問も無用の事也。一書は、二十年の学にあらで、よくしらるゝ物にあらず。余りにみだりなる御事と存候。小子が答の中にも、千万の古事なれば、小事には誤りも有べく侍れど、其書の大意などは、定論の上にて申なり。すべて、信じ給はぬ気、あらはなれば、是までの如く、答はまじき也。しか御心得候へ。もしなほ、此上に御問あらんには、けいの意を、皆書て、問給へ。万葉中にても、自己に一向解ことなくて、問はるゝをば、答ふまじき也。されども、信無きを知るからは、多くは答まじく候也。此度の御報に、如此御答申も、無益ながら、さすが御約束も有上あるうへなればいふ也。九月十六日」(明和三年、宣長宛)……

―これでは、殆ど破門状である。公平に見て、真淵の説が、「定論の上にて申」す説だったとは言えないし、宣長の提案が、「みだりなる事」だったとも思えない。書簡で爆発しているのは、たしかに真淵の感情だが、彼に女々めめしい心の動きがあった筈もないのだから、やはりこれは、その信念の烈しさを語っているものであろう。「万葉」は橘諸兄撰になるものという真淵の考えは、ただ古伝の考証に立った説ではない。上代の、「高く直きこゝろ」さながらの姿を写し出した「万葉集」の原形というものを、どうあっても想定したい、そのねがいによって育成された固い信念でもあった。従って、六巻の「万葉」と、「万葉ならざる」爾余じよ十四巻の「家々の歌集」との別、という自分の基本的な考えに対し、これを否定するはっきりした根拠も示さず、「二十巻ともに家持の撰也」と書き送って来る宣長の態度が、真淵には心外であった。それが、「自己に一向解ことなくて、問はるゝをば、答ふまじき也」という言葉の意味であろう。しかし、「惣て、信じ給はぬ気、顕はなれば、是までの如く、答はすまじき也」というような真淵の激語の依って来るところは、恐らくもっと深いところにあった。この書簡の前文でも、「詠歌の事、よろしからず候。既にたびたびいへる如く―」とあって、「巧みなるはいやし」と宣長の歌の後世風を難じている。宣長側の書簡が遺っていないので、推察に止るが、宣長も、たびたびの詰問に、当らず触らずの弁解はしていたらしい。だが、真淵は用捨しなかった。「貴兄は、いかで其意をまどひ給ふらんや。前の友有ば、捨がたきとの事聞えられ候は、論にも足らぬ事也。……

―真淵は疑いを重ねて来たのである。この弟子は何かを隠している。鋭敏な真淵が、そう感じていなかったとは考えにくい。従えないのではない、従いたくはないのだ。「信じ給はぬ気、顕は」也と断ずる他はなかったのである。……

 

私が、宣長にとって真淵は反面教師だったと言う理由のひとつは、この「従えないのではない、従いたくはないのだ」である。これは趣味の問題とか見解の相違とかいう次元の弾きあいではない、端的に言ってしまえば、まずは詠歌に関して真淵の言に従うことは、自分を殺すことになるのである。宣長にとって歌は、宣長が自分の生き方の基本的態度と明確に意識し位置づけていた「好信楽」の中核だった、己れそのものだった。

だが、真淵にとっての歌は、古学のための手段だった。「古へを、おのが心言ことばにならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや」という信念のもと、いわば自分も「いにしへ人」と化さんがための「萬葉語学」の一法だった。

三枝康高氏の『賀茂真淵』(吉川弘文館、人物叢書93)によれば、真淵の歌はたとえば次のような歌いぶりである。

九月十三夜、あがたにて

秋の夜の ほがらほがらと 天の原 照る月影に かり鳴き渡る
蟋蟀こほろぎの 鳴くやあがたの わが宿に 月影清し ふ人もがも
あがた居の 茅生ちふの露原 かき分けて 月見に来つる 都人かも
こほろぎの 待ち喜べる 長月の 清き月夜は けずもあらなん
にほどりの 葛飾かつしか早稲わせの 新絞にひしぼり みつつ居れば 月傾きぬ

真淵は、明和元年(一七六四)六十八歳の夏、日本橋の浜町に居を移して「あがた」と名づけ、しつらえもいにしえぶりに凝って手をかけ、つい棲家すみかとした。題詞に言われている「九月十三夜」がその年すぐの「九月十三夜」であったかどうかは明らかでないが、ともかく「あまたの人を招きて観月の宴を催し」、その宴で披露した歌が右の五首である。

三枝氏は、この五首を掲げた後に、こう言っている。

―すでに多くの人もいっているように、この一連の歌はじつに堂々たるもので、『万葉』や『古今』などの言葉を取ってはいるが、真淵一代の傑作であり、万葉調が自然に作者と融合してしまって、その間に寸分の隙もなくなっているのである。……

真淵が浜町に移った明和元年は、六月一日までは宝暦十四年だった、すなわち、一月には宣長が「新上屋」に真淵を訪ねた年である。ということは、真淵が宣長に、歌は「萬葉集」の言葉で、「萬葉集」の調べで詠めと言って示した自作の模範歌は、ここに引いた五首のような歌いぶりであったと見て大過はあるまい。なるほど、宣長は従いたくなかったであろう、断じて従いたくなかったであろう。

宣長が、いわば自分の分身として子供の頃から詠み続け、京都での遊学中もそれ以後も詠んでいたのは次のような歌だった、小林氏が第二章に引いている。

ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて

わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへし契りを

宝暦九年、三十歳の正月、真淵に入門する年の四年前である。これに、同じく第二章で小林氏が引いている『まくらの山』の歌を思い合せれば十分だろう、宣長から見れば、真淵の歌は自分が詠みたいと思っている歌ではなかったのである。

そればかりか、「古学」のための方途としても、すこしも「古風の歌」ではなかった、宣長の耳には、「萬葉」風の調べはまったくと言っていいほど聞えてこなかったと思われる。

三枝氏は、「この一連の歌はじつに堂々たるもので、真淵一代の傑作であり、万葉調が自然に作者と融合してしまって、その間に寸分の隙もなくなっているのである」と言っているが、私には寸分もうなずけない。憚りながら私は、二十代の半ばから三十代にかけて、新潮社創立八〇年記念「新潮日本古典集成」の編集に携わり、『萬葉集』『古今和歌集』ほかを担当して『萬葉集』の全四五一六首、『古今集』の全一一一一首をそれぞれ少なくとも三回は精読した。わけても、『萬葉集』の精読には二十四歳から三十九歳までの十五年をかけたが、幸いにもそういう仕事に恵まれて育った私の感性に、真淵の歌は何も訴えて来ないのである、かつてあれほど永く親しくつきあった「萬葉集」の歌と再会したような感覚にも襲われなければ、真淵の「萬葉愛」といったものも寸分たりと感じることがないのである。

思うにこれは、真淵の歌は「萬葉」歌語の切張りでしかないからである。否、ここに用いられている言葉のうち、「萬葉」歌語と言えるものは「茅生ちふ」と「こほろぎの待ち喜べる」と「にほどり葛飾かづしか早稲わせ」しかない。「茅生」はちがやが一面に生えたところを言う語で、「萬葉集」の巻第十二に「浅茅原 茅生に足踏み 心ぐみ 我が思ふ子らが 家のあたり見つ」と恋歌が見え、「こほろぎの待ち喜べる」は同じく巻第十に「こほろぎの 待ち喜ぶる 秋の夜を しるしなし 枕と我れは」とこれも恋歌があり、次いで「鳰鳥の」は同音の地名「葛飾」にかかる枕詞だが、「葛飾早稲」は下総しもうさの葛飾地方でとれる早生わせの稲で、同じく巻第十四に相聞歌「にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも そのかなしきを に立てめやも」がある。しかし他は、ことごとくが卑近な日常語である。なるほど「秋の夜の」「天の原」「鳴き渡る」「蟋蟀の鳴く」「わが宿」「長月の」「月夜」「月傾きぬ」も「萬葉」歌の各句索引にあたってみれば用例はある、だがこれらは「萬葉集」でなくてもしょっちゅう目にし耳にする通用語だ。ということは、真淵の歌は、「萬葉」歌語の切張りですらないのである。

したがって、私は、三枝氏の言う「万葉調が自然に作者と融合してしまって、その間に寸分の隙もなくなっている」にはまったく賛同できないのだが、真淵自身がこれらの歌を、「古へを、おのが心言ことばにならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや」という自説の実践、修練として詠んでいたとすれば、真淵は途方もない勘違いをしていたというほかない。

むろん、これらの五首だけでそうと決めつけては早計の誹りを免れまいが、これらのなかでわずかに「萬葉」歌語と言える「鳰鳥の 葛飾早稲の」も真淵の手にかかっては骨抜きにされてしまっているのである。第三句以下の「新絞にひしぼり みつつ居れば 月傾きぬ」が「萬葉」風からも「萬葉」調からも一気に遠ざかり、真淵が宣長に突きつけた酷評そのままに「一首之理は皆聞えはべれど、風躰ふうていと気象とを得給はぬ也」なのである、さらに言えば、「巧みなるはいやし」と宣長の歌に浴びせた小言そのままに、隠れもない後世風なのである。いまはもうこれ以上真淵の歌を深追いするいとまはないが、おそらくは真淵の他の歌の多くにあっても、「萬葉集」のなかでは溌溂と命の息吹を発していた「萬葉」歌語たちが、後世の卑近卑俗な日常語にまとわりつかれて身動きがとれなくなり、ひからびきった標本と化しているのではあるまいか。

ただし、真淵の歌を、宣長がこう読んだというのではない、こういうふうに読んだのは私で、私はただ、宣長が真淵に何かを隠し、真淵に学びはするが従わないという気骨を見せたその心底に思いを馳せ、そうか、それならこういうこともあったにちがいないと想像してみたにすぎないのだが、そこを要して言えば、真淵は口では「心こと葉」を唱えながらその実「ますらをの手ぶり」という観念の旗を振り回し、その結果として「萬葉集」の歌語、敢えていえば「萬葉集」の詞花言葉をひからびさせていっている、「『源氏物語』は可翫詞花言葉」と契沖に言われ、それを徹底敢行して「萬葉集」でも「可翫詞花言葉」が習い性となっていたであろう宣長は、「ますらをの手ぶり」と言っただけでは安心できず、「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」と次々「萬葉集」の言葉よりも惹句じゃっくまがいの観念語を翫ぶ真淵にはくみしたくなかっただろう、ということだ。真淵の言う「心ことば」からして契沖が言った「詞花言葉」とはまるで違っていたのである。

だからと言って宣長は、表向きは真淵に従い、萬葉風の詠歌だけを見せて怒りをかわすというような手練手管を弄しもしなかった。小林氏が、宣長は真淵と妥協することなく、と言った「雑念を交えぬ学者の良心」は、ここでも守られたのである。

 

私が真淵を反面教師と見るもうひとつの理由は、小林氏が第二十章で言っている次の言葉である。

―真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。「人代を尽て、神代をうかゞはんとするに―老い極まり―遺恨也」という真淵の嘆きを、宣長はどう読んだか。真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。そしてその事が、彼の真淵への尊敬と愛情との一番深い部分を成していたと想像してみてもよい。それは、真淵の訃を聞いた彼が、「日記」に記した「不堪哀惜」というたった一と言の中身を想像してみることにもなろう。この大事な問題については、いずれ改めて書かねばならぬ事になろう。……

その、「いずれ改めて書かねばならぬ」ときは、第四十三章以下でめぐってくる。

(第二十九回 了)

 

今言ヲ以テ古言ヲ視ルナカレ

1

 

今年(令和三年)の一月、幻冬舎から森功氏著『鬼才 伝説の編集人齋藤十一』が刊行された。

「齋藤十一」とは、「新潮社の天皇」と呼ばれて崇められ、恐れられた大編集者である。昭和十年(一九三五)九月、早稲田大学理工学部を中退して新潮社に入り、二十一年二月、三十二歳で看板雑誌『新潮』の編集を任された。以後、齋藤氏に見出され、鍛えられて出版界を賑わし、戦後の文学史に名を刻んだ作家の名は枚挙にいとまがない。

しかも齋藤氏は、『新潮』で辣腕をふるいながら、二十五年には『芸術新潮』を創刊、三十一年には『週刊新潮』を、五十六年には写真週刊誌『FOCUS』を出した。出版社系初の週刊誌『週刊新潮』はたちまち週刊誌ブームを巻き起し、『FOCUS』の五十九年一月六日号は二〇〇万六五〇部という週刊誌史上最高の発行部数を記録した。

こうして齋藤氏は、「新潮社の天皇」と言うに留まらず、戦後日本の出版文化の構築者、さらには精神文化の牽引者として巨大な足跡を残し、平成十二年十二月二十八日、八十六年の生涯を閉じた。

 

齋藤氏の死から六年、平成十八年の秋、美和夫人の手で追悼文集『編集者 齋藤十一』が編まれ、夫人の指名を受けて私も一文を草した。以下、その小文である。

 

 

 

微妙という事

池 田 雅 延

 

小林秀雄先生は、昼間はきわめて寡黙だった。お宅に参上するのは午後の三時が多かったが、その日の相談事が数分ですんでしまうと、部屋はたちまち静寂に領された。ぽつりとこちらが何かを切りだせば、さっと応じて下さるのだが、それもすぐに途切れて静寂がもどった。

だが時に、そういう空気を切り裂くように、いきなり先生が話しだされることがあった。あの日もそうだった。

「君、文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ」

そのまましばらく口をとざされ、そして続けられた。

「齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな」

私は、次を待った。しかし、一息いれて先生が私に向けられた質問は、まったく別の話題だった。私は二十代の終りだった。

 

不幸にして私は、齋藤十一さんの直属の部下であったことが一度もない。長く単行本の編集を任とする出版部にいて、菅原國隆さんや坂本忠雄さん、山田彦弥さんといった先輩たちから齋藤さんとの日々について聞かされるたび、烈しい羨望に駆られるのが常だった。とはいえ私は、幸いだった。『本居宣長』をはじめとして、小林先生の本を造らせていただいたおかげで、少なくとも三度、齋藤さんの謦咳に接したからである。

 

昭和五十二年の春先であった。新潮社に入ってようやく七年になろうかという頃で、私は出版部の席で仕事をしていた。昼すこし前だった。不意に右手に、のしかかってくるかのような影を感じた。齋藤さんだった。

それまで、齋藤さんとは言葉を交したことがなかった。社内の廊下で黙礼はしていたが、うなずいてもらったことすらなかった。私の後ろの椅子を引き寄せ、ほとんど真横に坐って齋藤さんは言われた。

「本居宣長な、全集の第一回配本にしようや」

「本居宣長」とは、言うまでもなく小林先生のライフワークで、昭和四十年から続いた『新潮』の連載が前年十二月に終了し、その年十月の刊行を期して編集作業が進んでいた。「全集」とは後に「新訂小林秀雄全集」と銘打った第四次全集で、これも刊行準備が進んでいた。

前年の秋、まだ「本居宣長」が終るとは誰も予想していなかった頃だ、佐藤亮一社長に呼ばれた。

「先生の全集を、また新しく造れないかと思ってね。今の全集は高くなって、簡単には買えない。大げさにいえば、いま日本人は小林秀雄が読めない。これでは出版社として怠慢ではないか」

昭和四十二年から出た第三次の全集は、背が本革であるなどのため製作費が嵩み、五十一年秋からの増刷各巻は定価三千円、今日でいえば五、六千円にも相当する本になっていた。だが新たに編集し、新たに本文を組めば、第三次全集とほとんど差のない定価になってしまう。当時の出版部長、新田敞さんと相談し、第四次全集は第三次の改訂・新装版とする、本文も紙型を流用する、それによって定価を抑えるという方針を固めた。小林先生の同意も得ていた。

一方「本居宣長」は、小林先生畢生の大業である。先生がその文章に精魂をこめられたように、新潮社は本づくりに精魂をこめる、本づくりの粋を結集する、それが決まって仕事はもう始まっていた。新刊『本居宣長』と第四次『小林秀雄全集』とは、本づくりにおいて両極端の理念を負っていたのだ。

しかし、これだけの経緯を、とっさには説明できない。

「『宣長』は、いい本にしますと、先生にお約束していますが……。全集は、普及版です」

言えたのはそれだけだった。齋藤さんはじっとしばらく私を見つめ、

「そうか。しっかりやってくれ」

ゆっくりとそう言って、腰を上げられた。

 

昭和五十八年三月一日、小林先生が亡くなられ、齋藤さんはただちに『新潮』の臨時増刊「小林秀雄追悼記念号」を出すと言われて、菅原さん、坂本さんを中心に各部署から十人ほどが召集された。私も呼ばれた一人だった。

第一回の編集会議が開かれることになっていた日、齋藤さんに来てくれと言われた。二十八号室にうかがうと、

「君も忙しいだろうがな、がんばってくれな」

出版部の席で聞いて以来の、直々に聞く齋藤さんの声だった。

 

最後にお会いしたのは、鎌倉の「なか川」だった。平成十二年の晩秋で、齋藤さんが新潮社を退かれて、そろそろ四年になろうかという時期だった。

平成十四年が小林先生の生誕百年にあたり、それを記念する第五次全集を十三年の四月から刊行することにして、その打合せで先生のご長女、白洲明子さんを訪ねた帰途のことだ。先生が亡くなられてからというもの、「なか川」にもご無沙汰がちになっていることにふと気づき、まだ日が高いがいいだろうかと電話で訊いた。

すると女将は、いらっしゃい早く、早くいらっしゃいと意外なほどの歓迎ぶりだ。店に行き着き、引き戸の前でふと予感が走った。入ってすぐ、カウンターのとっつきに、齋藤さんがいらっしゃった。ここが齋藤さんの指定席だ。いつものように夫人もご一緒だった。

挨拶しかけた私を制し、齋藤さんは言われた。

「僕に気を遣わずにな、勝手にやってくれ。僕はもう辞めた人間だからな」

はい、わかりました、と答えるや、

「できるだけ離れてやってくれ。あの辺でやってくれ」

そう言って、カウンターのいちばん奥を指さされた。

気がつくと、いつのまにか店は混んでいた。奥でひとりで飲んでいた私の前へ、これ、齋藤さんから、と言って女将が熱燗徳利を置いた。すぐに立ってお礼をというのも憚られ、こちらを向かれる瞬間を待って頭を下げた。

その熱燗がなくなりかけた頃、こんどは女将が、齋藤さんがこっちへいらっしゃいって、と呼びにきた。

「亮一君は、元気か」

次いで坂本君は、××君は、××君は、と訊かれ、あれはどうだと、齋藤さんが退かれた後に出た本について訊かれた。一瞬口ごもり、数字を見ないとわかりませんが、と応じた刹那だった。

「君、自分をごまかすのはよせ。数字など見なくても、何だって一目でわかるだろう、君はわかっているだろう」

そして、ぽつ、ぽつと、最近の雑誌や本を論評され、やがて、声を落して言われた。

「僕は、新潮社が心配でならんのだよ。社にいたときも心配だった、いまも心配だ……」

 

昨年の夏、第六次の全集『小林秀雄全作品』を出し終えた頃、小林先生の熱心な読者という青年の訪問を受けた。親しくなって飲んだ時、微妙ということの話をした。彼は活字を通じてだが齋藤さんのこともよく知っていた。高校時代、「モオツァルト」を読んで以来、小林先生を読み続けている、音楽を聴き続けているという青年は、しばらく視線をテーブルに落していたが、顔をあげて言った。

「『年齢』という文章で、耳順について書かれていますね……」

耳順とは孔子の言葉で、六十歳をいうが、これは孔子が音楽家であったことと大いに関係があるだろう、美術に夢中になった人なら目順といったかも知れないと前置きして、先生はこう書かれている。

―自分は長年の間、思索の上で苦労して来たが、それと同時に感覚の修練にも努めて来た。六十になってやっと両者が全く応和するのを覚えた、自分の様に耳の鍛錬を重ねて来た者には、人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す……。

感覚の修練は、小林先生終生のテーマだった。微妙ということを言われたあの日も、ずっと考えられていたのだろう。前夜、東京からかゴルフ場からか、先生と齋藤さんは一緒の車で帰られていたのだろうか。あるいはさらに、齋藤さんが私の席へ来られた前夜も、お二人は一緒の車だったのだろうか。

(了)

 

 

私の追悼文は、以上である。文中、最後の場面で私を訪ねてきた青年は杉本圭司さんで、杉本さんが口にした「年齢」は、『小林秀雄全作品』の第18集に入っている。

 

幻冬舎から出た森さんの本は、齋藤さんの死から二十年という節目に著された聞き書き評伝である。齋藤さんの後を託された元『新潮』編集長の坂本忠雄さんをはじめ、長年にわたって齋藤さんに仕えた社員、役員たちから齋藤さんの思い出を聞いて綴ったものだ。

だが、そのうちの一人として、主に齋藤さんと小林先生の親交について聞かれた私は、実は当惑している。約三〇〇頁の本の何ヵ所かに私の名が出て、池田はこう言った、こう話したと書かれているのだが、いずれも私の談話がきちんと再現されていないばかりか著者の一方的な解釈が加えられ、小林先生の思想も人柄も、凡庸凡俗に落ちてしまっているのである。

 

この本が刊行されてから約一ㇳ月、私はどうしたものかと悩んだが、事実と違うと表立って抗議したり、即刻修整を求めたりはしなかった。私がそういう挙に出て、私以外の人たちの談話も私の談話箇所と同じように見られるようになったとしたら、まずもってその人たちに迷惑がかかる、それより何より、齋藤さんの生涯が、何らかの留保つきで受け取られるようにさえなってしまいかねない、そこは避けたかった。しかも森さんは、かつて『週刊新潮』の記者だった、そういう履歴を利して、私がこれまでまったく知らなかった齋藤さんの齋藤さんたる所以をいくつも聞き出していた、これだけのことを聞いて記録に残した森さんの労を多とする気持ちも強かった。

しかし、このまま放置してはおけなかった。新潮社に入って二年目の夏、昭和四十六年八月に、私は小林先生の本を造る係を命ぜられ、五十八年三月、先生が亡くなるまでの十一年余り、先生の身近で『本居宣長』や『新訂小林秀雄全集』などを造らせてもらったが、先生が亡くなった後も第五次『小林秀雄全集』と、これからの日本を背負う若者たちに読んでもらうためにと脚注を附けた第六次全集『小林秀雄全作品』を造らせてもらうなどしたことによって、私は小林先生の作品だけではなく、人柄や生き方までも後世に語り伝える役割に恵まれることになった。平成二十四年の初め、茂木健一郎さんに頼まれて始めた「小林秀雄に学ぶ塾」は、幸いにも弟塾、妹塾が次々生まれて今では計九塾、塾生数は百数十人に達している。どこかひとつの塾に籍をおき、そのうえさらに二つも三つもの塾に顔を見せ続ける塾生も数多くいる。図らずもとは言え人生の第二ステージでこういう役割を課せられた私は、今回の森さんの勇み足を看過することはできないのである。

このまま森さんの記述に異議を唱えず、看過したとすると、私は森さんの記述を認めたことになり、小林先生の実像とは似もつかぬ凡庸凡俗な小林秀雄像を私が後世に残すことになるのである。そうなっては立つ瀬がない。まず誰よりも小林先生に対して申訳が立たないが、さらには先生のご遺族にも、また私に先生の係としての心得を授けて下さった社の先輩、菅原國隆さん、坂本忠雄さんにも顔向けができず、ひいては齋藤さんにも恩を仇で返すことになるのである。

 

かと言って、私は森さんを一方的に批難するつもりはない。フィクションであれノンフィクションであれ、人間の書く文章には思いもよらない錯覚や独断が忍びこむものだし、完全無欠な本などはどんなに手を尽くしても神経を張り巡らしても人間技では不可能に近いとさえ私は身に染みて思っている。だから私は、五十年に及んだ編集者生活を通して、『論語』の学而篇にある孔子の言葉、「あやまてばすなわち改むるに憚ることかれ」、同じく衛霊公にある孔子の言葉、「過って改めざる、是れを過ちとう」を拳拳服膺してきた。そこで今回も、森さんには私の言わんとしたところを確とわかってもらい、幸いにして増刷や文庫化の機会がめぐってきたときには該当箇所を修整して下さるようにと三度にわたって手紙を書いた、二度目の手紙にはこうも書いた、

―小生は森さんの経歴をほとんど知りません、が、森さんは週刊誌の記者としての経験は豊富におもちでしょうけれど、小生のような文芸編集者としての経験はおもちではないのではありませんか。文芸畑の著者、すなわち優れた小説家や批評家の言動には、大なり小なり「人生いかに生きるべきか」に関わる独自の含蓄があります。その哲学的な含蓄は、ちょっとした逸話や片言隻句からも感じられますから、文芸畑の編集者はその含蓄を刻々感じ取って著者の人生観に応じていくのです。しかしその含蓄は、私たちの日常生活次元の言葉、たとえば「受話器をガチャンと置いた」とか「照れ屋だった」といった言葉ではとらえきれないどころか、そういう言葉で括ってしまうとたちまち雲散霧消してしまう「微妙な哲学」です。こうした著者と編集者の間を結ぶのは、世に言う「阿吽の呼吸」です、文芸編集者はこの著者との間の「阿吽の呼吸」をおのずと身につけるのですが、小生は、小林先生の逸話や寸言を通して、小林先生と齋藤さんとの間に、また小林先生と菅原さんとの間にあった「阿吽の呼吸」をお話ししたのです。……

これに対して、森さんからは二度、詫び状をもらい、幻冬舎からも、増刷時、および文庫化の際には該当箇所が私の希望に沿って修整される旨の書面をもらったが、将来、当該書の二刷本と文庫版とで私が望むとおりに修整されるとしても、今すでに世に出てしまっている初版の記述は後世に伝わる。これは如何ともしがたいが、せめて「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生諸君と本誌『好・信・楽』の読者諸氏には、池田は森さんの記述を認めていない、認めるわけにはいかない、という意思表示だけはしておきたいと思った。

 

本来であれば、本誌にこういう部外の出来事の経緯などは書きたくない。しかし、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌である以上、小林先生を世間に誤解させるような情報や伝聞を聞き込んだときは修正する、修正を促す、これも大事な存在意義である。今号のこの小文は、そういうはざまに立っての決断であったが、そう決断するにあたっては、今回の森さんの本は、あるいは『好・信・楽』に恰好のケーススタディと言えるかも知れない、という思いも伴った。

「本居宣長」の第十章で、小林先生は次のように言っている。

―伊藤仁斎の「古義学」は、荻生徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……

「今言」とは現代語、通用語であり、「古言」とは古代語、古語である。荻生徂徠は、古代の言葉や文章を現代の言葉で解釈するな、古代の言葉は古代の言葉のままで何が言われているかを汲み取ろうとせよ、古文、古言から直接に古義を得ようとせよと言ったのだが、私がここで、今回の森さんの本は『好・信・楽』に恰好のケーススタディと言えるかも知れないと思ったと言うのは、私が森さんに語った小林先生の言葉は「古言」である、私は先生の「古言」を「古言」のまま森さんに伝えたのである。ところが森さんは、それを「今言」で受取り、「今言」で解釈し、「今言」で記述したのである。具体的には、以下に掲げる「現状」と「修整」とによって推し量られたいが、概して言えば「現状」が「今言」である、「修整」が「古言」である。

しかし、このような、「古言」の「今言」への移し替え、「古言」の「今言」による解釈は、森さんに限らず私たちの誰もが常日頃、そうとは意識せずに行っているのではあるまいか。小林先生の「本居宣長」を十二年かけて読むという「楽」でさえ、「古言」を「古言」のままに楽しむのではなく、「古言」を「今言」に移して楽しんだつもりになっている、ということはないだろうか。

 

 

◆「鬼才 伝説の編集人齋藤十一」(森功著 幻冬舎刊)要修整箇所一覧

 

●印は特記を要する修整理由である。

 

六六頁一七行目

現  状

創元社は現在、ミステリー出版の東京創元社に分かれていますけど、

修  整

創元社は今はミステリー出版で知られる東京創元社となっていますが、

 

六九頁一四行目~一五行目

現  状

……とおっしゃっていました。トルストイが描く人間の業がおもしろい。齋藤さんは……

修  整

……とおっしゃっていました。<削除→トルストイが描く人間の業がおもしろい。←削除>齋藤さんは……

●池田は、「トルストイが描く人間の業がおもしろい」などとは言っていない。池田が承知している小林先生のトルストイ評価の端的な表現は、同じ頁に引用されている「トルストイを読み給え」(『小林秀雄全作品』第19集所収)の中の「途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性」だけである。

 

八五頁一八行目~八六頁七行目

現  状

小林の担当編集者池田雅延によれば、小林は齋藤が音楽や美術に関する広く深い知見に脱帽して心酔し、最も親しくしてきた文士の一人だ。池田は担当編集者として小林との付き合い方が難しかった、と話した。

「担当としては、用事がなくても、月にいっぺんぐらいは小林先生のお宅へご機嫌うかがいで行かなければなりません。最初のうちはまず電話をかけていました。お手伝いさんにつないでもらうと、『僕はいま忙しいんだ。だからキミと話す暇なんかない』と電話をガチャンと切られる。それで、新潮社で先生を担当してきた先輩の菅原さんに相談しました。すると『電話口に出てくれるだけましだよ、俺なんかだと出もしない。だから直に訪ねるしかないんだよ』とアドバイスしてくれました。それを実践することにしたのです」

修  整

小林の書籍編集担当者池田雅延によれば、小林は、齋藤が音楽や美術に関する広く深い知見にも感服して最も親しくしてきた文士の一人だ。池田が小林の本を造る係を命じられた頃、小林はもう六年にもわたって『新潮』に「本居宣長」を連載していた。

「出版社の編集者は皆そうですが、大事な著者のもとへは少なくとも月に一度、いわゆる『ご機嫌伺い』に行きます。『新潮』編集部の坂本忠雄さんに連れられてご挨拶に伺った一ㇳ月後、お宅へ電話をしました、先生は、いきなり『何か用か』と訊かれ、私が「特にお話があってというわけではないのですが」と答えるや、『僕は毎日、宣長さんと話してるんだ、君と話している時間はないんだよ、来るのは用のあるときだけにしてくれたまえ』と言われてそれきりでした。何日かして、先輩の菅原國隆さんにこの話をしました。すると菅原さんは、さもありなんという顔で笑い、『君なんか、電話に出てくれただけましだよ、僕の若い頃は先生も若かったから電話にすら出てくれないなんてこともしょっちゅうだった。だから直に行くしかなかったんだよ』と言いました」

●池田は「小林先生との付き合い方が難しかった」などとは言っていない。そもそも池田に「小林先生とつきあう」などという不遜な感覚はなかったし、小林先生との接し方を、一般世間で言うような意味合いで難しいと思ったことは一度もない。

●小林先生は、「僕はいま忙しいんだ。だからキミと話す暇なんかない」というような言い方をされたのではない、「僕は毎日、宣長さんと話している、だから君と話している時間はないんだ」と言われたのである。「宣長さんと話している」は、「本居宣長を読んでいる。宣長のことを考え続けている」のいいである。また池田は、「電話をガチャンと切られた」などと世間一般並みの言い方はしていない。小林先生は、池田がかけた電話を「ガチャンと切る」などということは一度もされていない。

 

八六頁一五行目~一八行目

現  状

菅原さんが激務のために心筋梗塞で倒れてしまったときは、小林先生から『この大馬鹿野郎、てめえの身体が持たねえっていうことは、身体がてめえに教えてたはずだろ』と怒鳴られたそうです。先生は照れ屋ですからストレートには言いませんが、心から心配していたのでしょう

●池田は「先生は照れ屋ですからストレートには言いませんが」などと言っていない。小林先生は照れ屋どころか率直無比の人であった。

  ↓

修  整

その菅原さんは、後に齋藤さんに呼ばれて新潮から週刊新潮に移りましたが、激務のために心筋梗塞で倒れて長期欠勤し、やっと現場復帰が叶ったとき、一番に小林先生を訪ねて安心してもらおうとしました。ところが小林先生は、玄関で菅原さんの顔を見るなり、「この大馬鹿野郎! お前の身体がもう保たないとはお前の身体がお前に言っていたはずだ、その声を聞こうともせず生意気にぶっ倒れたりしやがって、大馬鹿野郎だ、お前は!」と雷を落としたそうです。小林先生は菅原さんの容体が心配でならなかった、その心配が安心に変るや雷となって落ちた、この雷こそは小林先生がどれほど菅原さんを大事に思い、頼りにしていたかを示すものでした

 

八六頁一九行目~八七頁一行目

現  状

鎌倉には小林をはじめ、永井龍男や林房雄、川端康成など錚々たる文士が住んだ。みなそれぞれ個性が強いだけに編集者は付き合いに苦労してきたのだろう。

修  整

<削除→鎌倉には小林をはじめ、永井龍男や林房雄、川端康成など錚々たる文士が住んだ。みなそれぞれ個性が強いだけに編集者は付き合いに苦労してきたのだろう。←削除>

●この前後の菅原さんに関わる話は、池田はすべて「苦労話」として話したのではない、小林先生の人柄と、菅原さんとの間にあった阿吽の呼吸を伝えようとしたのである。

 

八七頁二行目~八七頁七行目

現  状

さらに池田が言葉を足す。「私は菅原さんに言われた通り、アポも取らずに直接小林先生の住む鎌倉のお宅へ行って玄関のチャイムを鳴らしました。小林先生がいらっしゃるのはわかっています。だから五回、六回としつこくピンポンすると、奥の方からドタドタと大きな足音が聞こえてくる。そして玄関の扉がガラーッと開いた。そこに立っていたのはお手伝いさんではなく、先生本人でした。『いま小林はいませんっ』と言う。唖然とするばかりでしたが、『本人がいないというのだから、間違いない』とピシャリと扉を閉じてしまうのです」

●このくだりは池田の経験談になっているが、すべて菅原さんの経験である。菅原さんは、先に八五頁一八行目~八六頁七行目の「修整」に示した「僕の若い頃は先生も若かったから電話にすら出てくれないなんてこともしょっちゅうだった。だから直に行くしかなかったんだよ」に続けて次のように語ってくれたのである。なお、菅原さんも池田も、著者に面会、面談を申し入れるとき、「アポを取る」などとはどんな場合も言わなかった。

修  整

「ところが、鎌倉の先生の家へ行って玄関のチャイムを鳴らす、何度ボタンを押しても返事がない、そのうちドタドタドタっと床を踏む音がし、玄関のドアが荒々しく開いて先生が顔を出し、『小林はいません!』と言うなりバタン、こういうことが何べんもあった」

そのとき、菅原さんはどうしたのですか、と訊いた池田に、菅原は「本人がいないと言っているんだ、こんなにたしかなことはない、そのまま会社へ帰ったよ」と言って愉快そうにまた笑い、「小林先生は、原稿を書いているときはもちろん、何かを考えているときは自分に集中する、集中してしまう、他人の都合など頓着しない、そこにも先生の天才ぶりが表われている」と言ったという。

 

八七頁八行目

現  状

それが小林流の原稿催促の断り方なのだそうだ。

修  整

<削除→それが小林流の原稿催促の断り方なのだそうだ。←削除>

●池田は「それが小林流の原稿催促の断り方」などとは言っていない。小林先生は律儀で、池田の頼んだ原稿が二、三日、遅れそうになったとき、どれだけ待てるかと電話で問い合わされたことさえある。

 

八八頁一一行目~一二行目

現  状

それとともに、人間のパノラマをつくっているんだ、ともおっしゃっていました。

修  整

それとともに齋藤さんは、人間のパノラマをつくっているんだ、とも言っていました。

 

八九頁一三行目

現  状

小林や齋藤は孔子に習ったのだろう、と池田は推察した。たとえば……

修  整

小林や齋藤には孔子に通ずるものがあったのだろう、と池田は推察した。たとえば……

 

二〇五頁六行目~一二行目

現  状

斎藤さんにとっては、週刊新潮もトルストイが根本にあるのだと思います。でもそれだけではなく、齋藤さんは音を聴いて、物事を感じ取る訓練をしてきたのでしょうね。うまく説明できないけど、小林(秀雄)先生は『齋藤は音楽を聴いているから、こいつはイケる、こいつはダメだ、ということを感じ取っているに違いない』と言うんです。殺人事件報道の文字面を見ても、その裏に何があるか、という勘が働く。その微妙を嗅ぎ分ける力があると言っていました。それは文学を読んでいるだけでは無理で、音から判断するっていうようなことを言っていました

修  整

斎藤さんの作る週刊新潮には、その根本に小林先生に言われたトルストイがずっとあったと思います、が、それに加えて、音楽があったと思います。ある日、小林先生が私にこう言われました、「君、文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ。齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな」。先生が言われたのはこれだけでしたが、この先生の言葉を折々思い出しては反芻するうち、おぼろげながら私にもこういうことなのかなと思えるようになりました。そこを敢えて齋藤さんの場合で言いますと、齋藤さんは何年にもわたって音楽を聴き続けている、それによって人間界の出来事の微妙なトーンまでも感じ取り嗅ぎ分ける感性が磨かれ、その感性であらゆる物事の本質を直観している、ということのようなのです

 

二〇五頁一三行目

現  状

まさに微妙で難解な話である。

修  整

まさに微妙<削除→で難解←削除>な話である。

 

以 上

 

◆ひとまず、以上とする。まだ何ヵ所か、私としては不本意に思う件があるが、それらは小林先生の思想や人柄に直接抵触しないかぎり許容範囲の内としておく。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十八 歌の事から道の事へ

 

1

 

「本居宣長」の思想劇は、第十九章に至って舞台が移る、大きく移る。冒頭に、宣長の随筆集『玉勝間』の二の巻から引かれる。

―宣長三十あまりなりしほど、あがた大人うしのをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有て、そのこと、うしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典ミフミをとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、いにしヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず。……

あがた大人うし」は、賀茂真淵である。宝暦十三年(一七六三)五月、主君、田安宗武の命により、江戸を発って伊勢、大和、山城を経巡ったが、その旅の途次、松坂の旅宿「新上屋」に泊った。当初、そのことを知らずにいた宣長は、真淵は松坂から伊勢に向ったと聞いて残念がったが、幸い真淵は伊勢参宮の帰途にも「新上屋」に一泊した、その機をとらえて宣長は真淵を訪ね、面識を得、同年十二月、門下に連なることを許された。

このかんの次第は、やはり『玉勝間』に宣長自身が記し、七の巻の「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」ではこう言っている。

―おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞいにしへ書共ふみどもを、かむがへさとれるのみこそあれ、其家の伝へごととては、うけつたへたること、さらになければ、家々のひめごとなどいふかぎりは、いかなる物にか、一ツだにしれることなし……

「道の事も歌の事も」と言っていることに注意しよう。先に私が「本居宣長」の舞台が移ると言ったのはこのことである。『玉勝間』二の巻ではこう言っている。

―さて又道の学びは、まづはじめより、神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたてて、わざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇国みくにのいにしへの意をおもふに、世に神道者といふもののトクおもむきは、みないたくたがへりと、はやくさとりぬれば、師と頼むべき人もなかりしほどに、われいかでいにしヘのまことのむねを、かむがへ出む、と思ふこゝろざし、深かりしにあはせて、かの冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへて、せちなりしに、一年ひととせ此うし、田安の殿の仰セ事をうけ給はり給ひて、此いせの国より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有しをり、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へりしを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみじくくちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いといとうれしく、いそぎ、やどりにまうでて、はじめて、見え奉りたりき。さてつひに、名簿みやうぼを奉りて、教ヘをうけ給はることにはなりたりきかし……

ここに「田安の殿」と言われているのが田安宗武である。八代将軍、吉宗の次男で、享保十六年(一七三一)田安家を創立したが、和歌と国学を好んで初めは荷田在満に学び、延享三年(一七四六)、賀茂真淵を召し抱えた。『新潮日本文学辞典』によれば、宗武は「萬葉集」の歌人、柿本人麻呂、山部赤人を敬し、作歌も人麻呂、赤人に倣っていたことから真淵は宗武に刺激され、古代研究に本腰を入れるようになったという。

こうして真淵と初めて会った宝暦十三年五月二十五日、宣長は三十四歳だったが、医者になるための京都遊学から松坂へ帰り、真淵の『冠辞考』を見て古学の志を固めたのは六年前で、「新上屋」に真淵を訪ねた翌月の六月七日には『紫文要領』上下二巻を書き上げ、同年のうちに『石上私淑言』巻一・巻二・巻三も書き上げて、翌明和元年、『古事記伝』の準備にかかった。説によってはこの明和元年を『古事記伝』起稿の年とする。

いっぽう真淵は、六十七歳だった。七年前の宝暦六年、畢生の『萬葉考』に着手し、翌七年、『冠辞考』を書き上げていた。『冠辞考』は全十巻、一口で言えば枕詞の辞書である。『古事記』『日本書紀』、『萬葉集』に見られる枕詞三二六語を五十音順に配列し、それらの語義、用法などを詳細に考察した。冠辞とは何かについては後ほど精しく見る。

 

宣長は、そうとはっきり書いているわけではないが、第十九章の冒頭に小林氏が引いている真淵の言葉は、「新上屋」でも語られたと解していいだろう。真淵がこのような話をしなかったとは言えないと小林氏も言っている。

真淵は、続けてこう諭した。

―然るに、そのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず。古言をえむことは、万葉をよく明らむるにこそあれ。さる故に、吾は、まづもはら万葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ学びなば、其心ざしとぐること有べし。……

真淵は『萬葉考』に着手した年、六十歳だった。自分にはもう時間がない、だが貴君は若い、今から怠ることなく学べば古学の志を遂げられるだろう……、

―たゞし、世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を経ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだに、うることあたはず。まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり。此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところより、よくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ。わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ。ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、……

「ひがこと」は、事実や道理に合わないこと、である。

―此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよいよ万葉集に、心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろコトバをさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものの、神の御ふみトケる趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける。……

「から意」は「漢意」、中国から来た理詰めのものの考え方で、宣長が最も嫌った「さかしら」である。

ここまで引いて、小林氏は言う。

―右は、晩年の宣長が、「あがたゐのうしの御さとし言」として回想したところである。その通りだったであろう。ただ、こういう事は言える。学問の要は、「古言を得る」という「ひきき所」を固めるにある、これを怠って、「高き所」を求めんとしても徒事である、そう真淵から言われただけで、宣長が感服したわけはない。その事なら、宣長は早くから契沖に教えられていたのだし、真淵にしても、この考えを、自家の発明と思っていたわけではない。この晩成の大学者が、壮年期、郷里を去って身を投じた江戸の学問界は、徂徠学の盛時に当っていた。「心法理窟の沙汰」の高き所に心を奪われてはならぬ、「今日の学問はひきくひらたくただ文章を会得する事に止り候」(「徂徠先生答問書」下)と思え。これが、古文辞学の学則であった。だが、学則の真意は、これを実行した人にしか現れはしないし、「低き所をかためる」為に、全人格を働かせてみて、其処に現れて来る意味が、どんなに豊かなものかを悟るには、大才を要するであろう。真淵が「万葉」について行ったのはそれである。……

ではその「低き所」は、どのように「かため」られたか。

―ここに彼の経験談を引いて置く。読者は、仁斎の使った「体翫」という言葉を、そっくりそのまま真淵の「万葉」体翫と使ってよい事を、納得されるであろう。……

小林氏はそう言って、真淵の「万葉解通釈ならびに釈例」から引く。

―万葉を読んには、今の点本を以て、意をば求めずして、五タビよむべし。其時、大既訓例も語例も、前後に相照されて、おのづから覚ゆべし。さて後に、意を大かたに吟味する事一タビして、其後、活本に今本を以て、字の異を傍書し置て、無点にて読べし。初はいと心得がたく、又はおもひのほかに、先訓を思ひ出られて、よまるゝ事有べし。極めてよまれぬ所々をば、又点本を見るべし。実によくよみけりとおもはるゝも、其時に多かるべし。かくする事数篇に及で後、古事記以下和名抄までの古書を、何となく見るべし。其古事記、日本紀或は式の祝詞のりとノ部、代々の宣命せんみやうの文などを見て、又万葉の無点本を取て見ば、ひとり大半明らかなるべし。それにつきては、今の訓点かく有まじきか、又はいとよく訓ぜし、又は決て誤れりといふ事を知、かつ文字の誤、衍字えんじ、脱字ならんといふ事をも、疑出来べし。疑ありとも、意におもひ得んとすれば、また僻事ひがごと出来るなり。千万の疑を心に記し置時は、書は勿論、今時の諸国の方言俗語までも、見るたび聞ごとに得る事あり。さて後ぞ、案をめぐらすに、おもひの外の所に、定説を得るものなり。然る時は、点本はかつて見んもうるさくなるべし、其心を得る人も、傍訓にめうつりして、心づくべき所も、よみ過さるゝ故に、後には訓あるは害なり」(「万葉解通釈ならびに釈例」)……

「点本」とは仮名や返り点などの訓点、すなわち訓み方が付してある本である。「意をば求めずして、五タビよむべし」は、最初は意味をとろうとせずに繰り返して五回読め、である。すると、同じ言葉が何度か出てくるうち、その使われ方が互いに作用しあっておのずと訓み方や意味が会得されてくる、と言う。「無点」は訓点の付されていない状態である。「和名抄」は、平安時代中期に成った日本最初の漢和辞書、「日本紀」は『日本書紀』、「式」は平安期の律(刑法)と令(民法に相当)に関する施行細則で、一般には延喜五年(九〇五)、醍醐天皇の勅によって撰進された「延喜式」をさす。「祝詞」は神道で神に対して奏上する言葉、「宣命」は天皇の勅を伝える文書の一つであるが、こうして真淵が「万葉解通釈ならびに釈例」で言っていることも「新上屋」で宣長に言われたと想像してみて差支えなく、

―形は教えだが、内容は告白である。宣長は、「源氏」体翫の、自身の経験から、真淵の教えの内容が直知出来なかった筈はない。それが、「此御さとし言の、いとたふとくおぼえける」と言う言葉の意味なのである。……

しかし、そのあたりの機微は宣長自身の言葉から聞き分けるよりないとして、小林氏は第四章にも引いた『玉勝間』二の巻の「さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて……」のくだりを再び引き、これに続く件を掲げる。

―さて後、国にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辞考といふ物を見せたるにぞ、県居ノ大人の御名をも、始めてしりける。かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしも、いできければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに、信ずる心の出来つゝ、つひに、いにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ。かくて後に、思ひくらぶれば、かの契沖が万葉のトキゴトは、なほいまだしきことのみぞ多かりける。おのが歌まなびの有リしやう、大かたかくのごとくなりき。……

「いにしへぶりのこゝろことば」の「いにしへぶり」は、古代の様式、習慣であるが、では『冠辞考』の「冠辞」とは何か。

―真淵の呼ぶ冠辞とは、言うまでもなく、今日普通枕詞まくらことばと言われているもので、「記紀」「万葉」等から、枕詞三百四十余りを取り出し、これを五十音順に排列集成して、その語義を説いたのが「冠辞考」である。既に長流も契沖もこの特殊な措辞を枕詞と呼んで、その研究に手を染めてはいたが、真淵の仕事は、長年の苦心経営に成る綿密な組織的なもので、この研究に期を劃した。板行とともに、早速松坂に居た宣長が、これを読んだと言うのだから、余程評判の新刊書だったに相違ない。事実、語義考証の是非について、いろいろな議論が、学界を賑わしたのである。……

たとえば、『古事記』の允恭いんぎょう天皇の条に出る軽太子の歌に、

阿志比紀能アシビキノ夜痲陀袁豆久理ヤマダヲツクリ夜麻陀加美ヤマダカミ 斯多備袁和志勢シタビヲワシセ 志多杼比爾シタドヒニ……

(あしびきの 山田を作り 山だかみ したわしせ したひに……)

『日本書紀』の顕宗天皇の条に、

アシキノコノ傍山カタヤマニ牡鹿之角挙而吾儛者サヲシカノツノヲササゲテワガマヒスレバ……

あしの此の傍山かたやまに、牡鹿さをしかの角をささげて吾がまひすれば……)

『萬葉集』巻二に、

足日木乃アシビキノ 山之四付二ヤマノシヅクニ 妹待イモマツ……

(あしびきの 山のしづくに 妹待つと……)

等々とあり、ここに見られる「あしびきの」が冠辞、枕詞と言われるもので、今日ではこの「あしびきの」は「山」にかかる枕詞と説明されているのだが、やや先へ行って小林氏は言う。

―冠が頭につくが如く、「あしびきの」という上句は、「このかた山に」という下句に、しっくりと似合う。……

こうした冠辞、枕詞の実際を、いますこし広げて見ておこう。たとえば柿本人麻呂が『萬葉集』に初めて登場する歌は、「近江あふみの荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂かきのもとのあそみひとまろが作る歌」と題詞がある巻一の次の長歌だが、

玉たすき 畝傍うねびの山の 橿原かしはらの ひじりの御代みよゆ れましし 神のことごと つがの木の いや継ぎ継ぎにあめした 知らしめししを そらにみつ 大和を置きてあをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離あまざかる ひなにはあれど いはばしる 近江の国の 楽浪ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇すめろきの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂くひたる 霞立つ 春日はるひれる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも

この歌に見えている「玉たすき」「栂の木の」「そらにみつ」「あをによし」「天離る」「石走る」「霞立つ」「ももしきの」が冠辞、枕詞である。新潮日本古典集成の『萬葉集』には、それぞれ、次にきている「畝傍」「継ぎ継ぎ」「大和」「奈良」「鄙」「近江」「春日」「大宮ところ」にかかる、とある。

だが、こういう冠辞、枕詞は、それぞれどういう意味なのか、歌意や歌体にどう関わっているのかなど、多くは久しく不分明とされがちだった。そこを真淵は精査し、考究したのである。

「あしびきの」については、「やま いは あらし」にかかるとまず示し、次のように言っている。( )内は割注もしくは傍注である。

―古事記に、(允恭の条)阿志比紀能アシビキノ夜痲陀袁豆久理ヤマダヲツクリ、顕宗紀に、(むろ寿ほきの御詞)アシキノコノ傍山カタヤマ、万葉巻二に、(大津皇子)アシ日木乃ビキノ山之四付二ヤマノシヅクニ云云、(集中に此冠辞いと多く、字もさまざまに書たれど皆借字にて、且山に冠らせし意の異なる事なければ、はぶきてかつかつあぐ) こはいとおもひ定めかねてさまざまの意をいふ也、先私記には、山行之時引足歩也といひたれど、何のよしもなく、一わたりおもひていへる説と聞ゆれはとるにたらず、此冠辞はことに上つ代よりいひ伝へこし物なれば、大かたにて意得へくもあらず、既いへる如く足を引の、足いたむのと様に、用の語より之の辞をいふは、上つ代にはなし、然れは此あしびきのきは、必ず体の語にして、木てふ事ならん、こを以て思ふに神代紀に、遇突グツチノミコトを五きだにキリ給へば、そのカウベ身中ムクロ、腰、手、足、おのおのそれにつけたる、高山、短山、奥山、葉山となれるが中に、足はシギ山祇ヤマツミとなりぬといへり、此䨄は借字にて繁木山てふ意也、然れば安志妣木アシビキ志妣シビは繁木の謂也、さて山はさまざまあれどキノシゲきをめづれは、怱て山の冠辞とはせしならん、(志美と志妣と、清濁の通ふは例也) 且その繁木の上の阿てふ語には、あまたの説あり、其一つには、本このしぎ山は天にての事也、それがうへに上つ代に物をほめては、カグ山をアメノ香山、ヒラを天平瓮など様にいひつるなれば、こをもあめの繁木の山といふ意なる歟、天をば、あはれ(天晴)、あをむく(天向)などあとのみいふ事多し、ことに語をつづめて冠辞とせる例なれば也、二つには山をば紀にも集にも青山、青垣山、青菅山などいふが中に、巻二に、アオ香具山カグヤマ、畧春山跡ハルヤマト之美佐備立有シミサビタテリとよみて、之美は即繁也、これらに依るときは、青繁木の山てふ意なるを、あをのをを畧きしにや、青をあとのみいへる例は、暫おもひ定めぬこと有て挙ねども、語を畧きて冠辞とするは、右にいふが如くなれは、是も強ごとにはあらじかし、三つには、かの足ゆなりつるしぎ山なれは、繁木之山といふか、かかる上ツ代の哥ことばは、専ら神代のふることをもてよみたりけるをおもへば也、足をあとのみいふは、駒のあおと(足音)、あがき(足掻)てふ類ひ数へがたし、これらいかがあらんや人ただし給へ、思ひ泥みてみづから弁へがたし。……

さらに、

―〇巻三に、(家持)アシ石根イハネ許其思美コソシミ、こは奈良の朝となりていといひなれて、あしびきをやがて山のことにいひすゑて、石につづけたる也、〇巻八に、足引乃、(木)乃間ノマタチ八十一クグ霍公鳥ホトトギス、巻十一に、足檜乃アシビキノ下風アラシフク夜者ヨハ、〇巻十七に、安之比アシビ乎底母許之オチモコノ(彼面此面)、奈美波里ナミハリなどつづけしも、皆今少しあとの事也、(菅原贈太政大臣も、あし引の此方彼方と詠給へり)……

さらに、「後考」とことわって、

―万葉巻十四に、於布之オフシ許乃母登夜麻乃コノモトヤマノ麻之波爾毛マシバニモ能良奴伊ノラヌイ可多カタ牟可母ムカモ、この上三句は、オフ繁本シゲモトの此モト山の真柴マシバの如くにもと云也、本とは木だちをいへり、孝徳天皇紀に、摸謄渠登爾モトゴトニ播那波左該ハナハサケ謄摸ドモとよめり、しかれば此生繁本の山てふ言をもて、阿志備木アシビキの山といひて冠辞とせし也けり、何ぞといはば、かの之母等シモト繁木シミキなり、阿之備木の之備木も繁木にて、の濁るとと通ふ例も既いへるが如し、かくて阿とは五十音の始の阿と終の於と隅違に通はし云は譬は母を阿毛とも於毛ともいひ、於多伎オタギ阿多期アタゴと云類也、その於布の布を籠てあとのみ云は、ウマるを於布るといふを、又阿禮ますともいふが如し、此本文はいまだしき考へなれは今改む、……

以上が、『冠辞考』の、「あしびきの」の項の全文である。ここにこの長文を敢えて引用したのは、真淵の精査と考究がどれほどのものであったかを多少なりとも覗ってみたかったこともちろんだが、宣長が『玉勝間』に記した「はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど……」と、当初の疑念から徐々に説得され、ついには信服に至った心の経路を万分の一なりと推察しておきたかったからである。

 

ただし、こういう枕詞の考察・考究は、真淵が先覚者ではない。小林氏も言っているとおり、下河辺長流と契沖も、真淵に先立つこと六十年ないし七十年前、すでに手を着けていた。長流は『枕詞燭明抄』を残し、契沖は、『萬葉代匠記』の巻頭に「惣釈」を据え、そこに「枕詞」の項を立て、初稿本では長流の『燭明抄』に拠りつつ計三十二語、精選本では本文中で詳説する語も含めると三五〇語近くに考察を巡らしている。ゆえに精選本での語数は真淵の『冠辞考』を上回ると言っていいほどであり、考究の手堅さもけっして真淵に引けをとるものではないのだが、精選本の自筆稿本は水戸光圀に献上されたあと、水戸藩独自の『釈萬葉集』を編むための基礎資料として彰考館に秘蔵され、写本としても版本としても出回ることがなかった、そのため、初稿本しか見ることができなかったのみならず、精撰本についてはそれが存在することすら知る由もなかったと思われる宣長の目には、「契沖が万葉のトキゴトは、なほいまだしきことのみぞ多かりける」と映ったのも無理はないのである。

したがって、現代から見れば、真淵は必ずしも冠辞研究の孤高とは言えないのだが、宣長が「後に、思ひくらぶれば、かの契沖が万葉のトキゴトは、なほいまだしきことのみぞ多かりける」というような言い方をしたのは、かねて宣長には、「いかでいにしヘのまことのむねを、かむがへ出む、と思ふこゝろざし」が深かったからであり、下世話に言えば、志という欲が深かったからであり、そこへ「冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなり」、「つひに、いにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事」を悟ったと思えたからである。すなわち、真淵の『冠辞考』は、宣長に「いにしへぶりのこゝろことばのまことに然る事」を悟ったと思わせ、それによって「古へのまことのむね」、すなわち「道の事」へと分け入る入口を示した、『冠辞考』が『玉勝間』で特筆されたのは、そういう含みによってであると思われるのだが、そこをなお先回りして言えば、真淵の『冠辞考』は精査の規模や密度においてのみでなく、言葉の構造論、機能論とも言うべき側面で宣長を刮目させたと小林氏は言うのである。

 

2

 

―宝暦十三年という年は、宣長の仕事の上で一転機をかくした年だとは、誰も言うところである。宣長は、「源氏」による「歌まなび」の仕事が完了すると、直ちに「古事記伝」を起草し、「道のまなび」の仕事に没入する。「源氏」をはじめとして、文学の古典に関する、終生続けられた彼の講義は、京都留学を終え、松坂に還って、早々始められているのだが、「日記」によれば、「神代紀開講」とあるのは、真淵の許への入門と殆ど同時である。まるで真淵が、宣長の志を一変させたようにも見える。だが、慎重に準備して、機の熟するのを待っていなかった者に、好機が到来する筈はなかったであろう。……

ここで今一度、「影響」という言葉を想起し、そしてただちに忘れよう。宣長の古学は、真淵の影響によったのではない、宣長の内側での自発によった。この自発ということについて、小林氏は第四章に、やはり『玉勝間』の二の巻から引いてこう言っていた。

―ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……

この、宣長の思想から得ていた「自発性の感触」が、第十九章では小林氏にこう言わせるのである。

―彼の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。……

しかし、後世の学問界、思想界といった外の眼は、これを「自然」とは見なかった。「源氏物語」の読みではあれほど明晰、実証的だった宣長が、「古事記」では迷妄、独断に走ったと見た。そこを小林氏は、宣長の学問の「内的必然の律動」を聴き取って言う。

―「歌まなび」と「道のまなび」との二つの観念の間に、宣長にとって飛躍や矛盾は考えられていなかった。「物のあはれ」を論ずる筋の通った実証家と、「かむながらの道」を説く混乱した独断家が、宣長のうちに対立していたわけではない。だが、私達の持っている学問に関する、特にその実証性、合理性、進歩性に関する通念は、まことに頑固なものであり、宣長の仕事のうちに、どうしても折合のつかぬ美点と弱点との混在を見附け、様々な条件から未熟たらざるを得なかった学問の組織として、これを性急に理解したがる。それと言うのも、元はと言えば、観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して、極端に分化し、専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には、学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを想い描く事が、大変困難になったところから来ている。……

学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、小林氏がここで言っていることを裏側から読めば、当節の学者は学者ですらないが、思想家などではさらさらない、ということになるだろう。小林氏は、かつて「イデオロギイの問題」(『小林秀雄全作品』第12集所収)で言っていた、

―僕はマルクシストではないが、彼の著書から、いかにも自己というものを確実に捉えている彼の精神の強さは学んだ。これは何もマルクスに限らぬが、そういうしっかりと自分になり切った強い精神の動きが、本当の意味で思想と呼ぶべきものだと考える。だから出来上った形となったイデオロギイの方は模倣し得ても、その内的な源泉は模倣し得ない。マルクスが晩年、自分はマルクシストではない、と言ったという有名な逸話は、本当であろうと思う。……

思想とは、自己というものを確実に捉え、しっかりと自分になりきった強い精神の動きだと小林氏は言う。その「僕の精神」は、日々、

―何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても思想とはそういうものであろうと思う。……

そしてここから小林氏は、「感想(一年の計は…)」(同第19集所収)ではこう言ったのである、

―思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の目覚めた表現である。中途半端な理想論を笑うことは出来るが、徹底した理想を誰も笑うことは出来ない。はっきり見るだけでは足らず、はっきり欲しようとしなければ、あるいは外部の保証だけでは足らず、自分の個性的な命の保証を求めようとしなければ、思想というものはあり得ない。……

こういう、日常生活においては誰もが行っている思想活動により身を入れ、より確かな「現実を超えようとする精神の目覚めた表現」を得ようと邁進して初めて思想家と呼ばれ得るのだが、現代の学問界で絶対的テーゼとされている実証性、合理性、進歩性等々に縛られていては、「しっかりと自分になりきった強い精神の動き」も「現実を超えようとする精神の目覚めた表現」も望めまい。

だが、宣長は、学者であると同時に思想家であった、「外部の保証だけでは足らず、自分の個性的な命の保証を求め」てやまなかった。「古事記の注釈を物せむのこゝろざし」という早くからの宣長自身の自発性に駆られ、「はっきり見るだけでは足らず、はっきり欲しようとし」て『冠辞考』を読んだ。

ところが、その「欲しようとし」たものには、なかなか手が届かなかった。

―宣長が回想文で、われ知らず追っているものは、言わば書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性であり、その動きの中で、真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。……

―宣長の回想によると、彼のこの書の受取り方には、この書の評判の外にある、何か孤独なものが感じられる。彼は、これを一読して、「さらに思ひもかけぬ」「あまりこととほく、あやしき」ものと見たが、この「さらに信ずる心はあらざりし」という著作が、次第に信じられ、遂に、かの契沖の「万葉」研究も、「なほいまだしきこと」と言えるようになるまで、長い間の熟読を要したと言うのは、どういう意味であろう。……

―恐らく、宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった、と語っていると解する他はないように思う。「冠辞考」には、専門家の調査によると、例えば、延約略通の音韻変化というような、大変無理な法則が用いられていて、「冠辞考」を信じた宣長は、その為に、後日、多くの失考を「古事記伝」の中に持ち込む事となったという(大野晋氏、「古事記伝解題」)。そうには違いないとしても、私の興味は、無理を信じさせた真淵の根本思想の方に向く。仕事の企図を説いてはいるが、直観と情熱とに駆られて、走るが如き難解な、真淵の序文を、くり返し読みながら、私は、そういう事をしきりに思った。……

―真淵が、この古い措辞を、改めて吟味しようとした頃には、この言葉は既に殆ど死語と化して、歌人等により、意味不明のままに、歌の本意とは関係なく、ただ古来伝世の用例として踏襲されていた。死語は生前どんな風に生きていたか。例えば、冠辞の発明、活用にかけて、人麿は「万葉」随一の達人ではあったが、彼が独力でこれに成功したわけはなかろう。彼が歌ったように「言霊のたすくる国」に生きる喜び、自国に固有な、長い言語伝統への全幅の信頼が、この大歌人の才を保証していたであろう。真淵がひたすら想い描こうとしたのはそれである。……

「『言霊のたすくる国』に生きる喜び、自国に固有な、長い言語伝統への全幅の信頼」、真淵は、ひたすら柿本人麻呂を頂点とする萬葉歌人たちの言葉の現れ方を思い描こうとした。小林氏が、「宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった」と言った「真淵の強い精神」とは、ひとつにはこれであろう。

では真淵は、人麻呂たちが寄せていた「長い言語伝統への全幅の信頼」を、どういうふうに思い描いたか。「言語伝統への信頼」ということは、歌語という歌語すべてについて言えることだが、その「信頼」が最も自然に、必然的に託されているのが冠辞、枕詞であると真淵は見た。ゆえに、

―「万葉」の世界で、豊かに強く生きていたこの措辞の意味を、後世のさかしら心に得ようとしてもかなわぬ。強いて定義しようとすれば、その生態が逃げて了うであろう。この言葉の姿をひたぶるに感ずる他はない。真淵はそう言いたいのである。彼は感じたところを言うだけだ、冠辞とは、「たゞ歌の調べのたらはぬを、とゝのへるより起て、かたへは、詞を飾るもの」であると。事は、歌の調べ、詞の飾りの感じ方に関わる。真淵は言う、「いとしもかみつ世には、人の心しなほかりければ、言語こととひも少なく、かたち、よそひも、かりそめになん有けらし」。それが、やがて「身にかうむりあり、衣あり、くつあり、心にうれしみあり、悲しみあり、こひしみあり、にくしみあり」という事になる。詞の飾りに慣れ、これを弄ぶ後世人は、詞の飾りの発生が、身のよそおいと同じく、いかに自然であり、生活の上で必要であったかを忘れている。……

―冠辞が普通五音から成っているのも、わが国の歌が五七調を基調としているからであり、詞の飾りも、真淵に言わせれば、「おのづからあめつちのしらべ」に乗らざるを得なかった。歌が短歌の形に整備された「万葉」の頃となっても、「おもふこと、ひたぶるなるときは、ことたらず」という状態は依然として続いていたのであって、この状態を土台として、歌人等にあって、冠辞という一種の修辞の盛行を見たというのが真淵の考えだ。時代は下ったが、「心は上つ世の片歌かたうたにことならず、ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言みやびごともて飾れゝば也、たとへ貴人うまびとのよき冠りのうへに、うるはしき花させらんが如し」。……

―真淵の基本的な考えは、「おもふこと、ひたぶるなるときは、ことたらず」という言葉にあると言ってよいと思う。(中略)彼は又こうも言っている、「心ひたぶるに、言のすくなきをおもへば、名は後にして、事はさきにし有べし」―冠辞という名が生れて来る必然性は、「心ひたぶるに、言のすくなき」という歌人の健全な、緊張した内的経験に由来するのである。冠辞は、勿論理論にも実用にも無関係な措辞だが、思い附きのぜいでもない。ひたすら言語の表現力を信ずる歌人の純粋な喜び、尋常な努力の産物である。……

―「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず、言したらねば、思ふ事を末にいひ、あだこともとに冠ら」す、―調べを命とする歌の世界では、そういう事が極く自然に起る。適切な表現が見つからず、而も表現を求めて止まぬ「ひたぶるなる思ひ」が、何よりも先ず、その不安から脱れようとするのは当り前の事だ。自身の調べを整えるのが先決であり、思う事を言うのは末である。この必要に応ずる言葉が見附かるなら、「仇し語」であっても差支えあるまい。或はこの何処からとは知れず、調べに送られて現れて来る言葉は、なるほど「仇し語」に違いあるまいとも言えよう。それで歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事になろう。いずれにせよ、言語の表現性に鋭敏な歌人等は、「言霊の佐くる国」「言霊のさきはふ国」を一歩も出られはしない。冠辞とは、「かりそめなる冠」を、「いつとなく身にそへ来たれるがごと」く用いられた措辞であり、歌人は冠辞について、新たな工夫は出来たであろうが、冠辞という「よそほひ」の発生が必至である言語構造自体は、彼にとっては、絶対的な与件であろう。……

―真淵が抱いていた基本的な直観は、今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーアの価値に関して働いていたと言ってよいであろう。どこの国の文学史にも、詩が散文に先行するのが見られるが、一般に言語活動の上から言っても、私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸をとり集めて成っている。これは言語学の常識だ。……

「メタフォーア」とは、「隠喩法」である。『日本国語大辞典』には、「メタファー」と見出し語を立て、「ある名辞の元の概念から、よく似てはいるが別の概念に代えて、その名辞を使う比喩的表現」とあり、「隠喩法」の項では「修辞法の一つ。たとえを引いて表現するのに『のごとし』『のようだ』などの語句を用いない方法」と言って「人生は旅だ」「名を流す」等を例に挙げ、この隠喩という修辞法は、「文勢をひきしめ、印象を強める効果をもつ」と言っている。だが、小林氏が真淵の冠辞体験から連想した「メタフォーア」は、それだけではないようだ、氏の念頭には、孔子が言った「興の功」があったと思われる。小林氏は続けて言う。

―素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性を覆うわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう。「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という真淵の言葉を、そう解してもよいだろう。……

―この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗へんぱな傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙を埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言もて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。……

 

3

 

小林氏は、いま私が当面している第十九章からではかなり先になるが、宣長の学問が荻生徂徠の影響下にあったことに言及する第三十二章で、こう言っている。

―ここで、真淵の「冠辞考」について書いたところを、思い出して貰ってもいいと思う。「冠辞考」は、宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究であった。宣長の思想に大きく影響したものであった。真淵の文から浮び上って来るものは、やはり徂徠の言語観である。真淵が冠辞の名の下に直面したのは、徂徠の言う、詩に於ける「興之功」に他ならなかった。……

―孔子は、詩の特色として、興、観、羣、怨の四つをあげているが、肝腎なのは、興と観である、本文を古言通りに読むなら、そう考えざるを得ない、と徂徠は言う。……

徂徠の主著に、『論語徴』がある。宣長は京都遊学中にこれを書き写していた。

―宣長が書写した「論語徴」の全文は、「詩之用」は、「興之功」「観之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観の功とは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。……

ではその、物の意味に関する語の用法、「興之功」とは何か。

―徂徠が、「引譬連類」(譬へを引きて類を連ぬ/池田注記)という興の古註を是とする時に、考えているのは、言わば、言語の本能としての、比喩の働きであって、意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない。言葉の意味は、「其ノ自ラ取ルニ従ヒ、展転シテマズ」と、彼は言っているが、そういう言語の意味の発展の動力として、本来、言語に備っている比喩の働きが考えられている。この働きは、―「典常ヲ為サズ、類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、イヨイヨ出デテ愈新タナリ。タトヘバマユイトクガ如ク、コレスヰシンクニ比ス」と徂徠は言っている。……

先に、「メタファー」の訳語として『日本国語大辞典』から「隠喩法」を引き、「隠喩法」とは比喩的表現のひとつである、という意味のことを言ったが、小林氏がここで言っているところからより精密に言えば、「メタファー」の「比喩」は私たちがふだん口にしたり目にしたりしている人為的な「比喩」ではない、言語というものにもともと備わっている機能としての「比喩」である、私たちに比較的なじみの深い言い方で言えば、「言葉が言葉を呼ぶ」という現象である。そういう言葉の働きを、徂徠は、言葉は同類の語とすぐに結びついて連なり、新たな意味の世界を次々と生み出す、それはまさに繭から糸を紡ぐようにであり、火打石の火が薪につくようにである、したがって、言葉は常に同じではない、これが言葉の「興之功」ということである、と言った。

 

小林氏が、宣長の『玉勝間』に、

―真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。……

と言った自問、その自問に対する自答は、

―恐らく、宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった、と語っていると解する他はないように思う。……

であるが、「紙背に感じられた真淵の精神」とは、詩人、歌人の精神とともに言語学者の精神であった。小林氏に導かれてここまで辿ってきてみると、宣長が「思ひくらぶれば、かの契沖が万葉のトキゴトは、なほいまだしきことのみぞ多かりける」と言った「思ひくらぶれば」は、真淵が冠辞に即して示唆した「メタフォーア」に関してであったと解することもできるのだが、しかし宣長は、真淵の紙背に徂徠の精神をも感じていた。宣長は京都で徂徠の『論語徴』を写していたが、言葉は「類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、イヨイヨ出デテ愈新タナリ」という徂徠の言も、自らの詠歌の経験に照らして得心していただろう。しかし、それでもやはり、これは孔子が残した「言葉の興の功」に対する注解文として受け止めるに留まっていたかも知れない。ところが、松坂へ帰り、『冠辞考』と出会い、そこに続々と現れた、徂徠が言ったとおりの言葉の躍動を目の当たりにして、断然奮い立つものがあったのではあるまいか。

これが、『冠辞考』が宣長に、「歌まなび」から「道のまなび」に転ずる切っかけを作った、ということのようなのだ、が、そこには、「切っかけ」という以上のものがあった。宣長自身、『玉勝間』二の巻でこう言っていた。

―さて又道の学びは、(中略)はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたてて、わざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、(中略)かの冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへて、せちなりしに、……

ここからすれば、すでに宣長には二十歳の頃から「道の学び」の素志があり、その素志が三十歳を過ぎたころ、『冠辞考』と出会った、この出会いによって「道の学び」の素志がいっそう固まったのだが、その『冠辞考』との出会いは、とりもなおさず「古言の興之功」との出会いであった。こうして宣長は、「道の学び」の「ひきゝところ」(低きところ)は「古言の興之功」にあり、「学び」の要諦はその体翫にあると自得し、そう自得すると同時に「言葉のふり」に目覚めた、これが、小林氏の言う、『冠辞考』が「歌まなび」から「道のまなび」に転ずる切っかけを作った、ということなのではあるまいか。

そこをひとまず、急ぎ足で言ってしまえば、宣長は「歌まなび」、すなわち「源氏物語」の愛読では言葉のあやを味わい尽そうとした、しかし「道のまなび」、すなわち「古事記」の註釈にあたっては、言葉の「ふり」を感じ尽す、そこに気づいた。爾後宣長は『古事記』の言葉の「ふり」に一心不乱となり、その「ふり」を感得し尽したよろこびが、『古事記伝』を書き上げて詠んだ歌、

古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし

となった。

さらには、こうも言えるだろう。定家、契沖に言われて「源氏物語」で実践した「詞花言葉を翫ぶべし」を、『古事記』でも実践する、そうすれば必ずや『古事記』にも『古事記』の「もののあはれを知る道」が見えてくるはずだ、その『古事記』の「もののあはれを知る道」は、古言ふることの「ふり」に映っているはずだ……、宣長の胸中には、そういう思いが自ずと浮んでいただろう。

小林氏は、第二十八章で言っている、

―宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに摑んだが、その素早い端的な摑み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。……

 

(第二十八回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十七 まねびの道

 

1

 

第十章で、小林氏は、

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。……

と言い、これを承けて第十一章に言う。

―歴史意識とは「今言」である、と先きに書いた。この意識は、今日では、世界史というような着想まで載せて、言わば空間的に非常に拡大したが、過去が現在に甦るという時間の不思議に関し、どれほど深化したかは、甚だ疑わしい。「古学」の運動がかかずらったのは、ほんの儒学の歴史に過ぎないが、その意識の狭隘を、今日笑う事が出来ないのは、両者の意識の質がまるで異なるからである。歴史の対象化と合理化との、意識的な余りに意識的な傾向、これが現代風の歴史理解の骨組をなしているのだが、これに比べれば、「古学」の運動に現れた歴史意識は、全く謙遜なものだ。そう言っても足りない。仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。そうも言えるほど、意識の質が異なる。……

次いで、大意、こう言う。徂徠に言わせれば、歴史の真相は、「後世利口之徒」に恰好な形に出来上っているものではない、歴史の本質的な性質は、対象化されて定義されることを拒絶しているところにある、この徂徠の確信は、ごく尋常な歴史感情のうちに育った、過去を惜しみ、未来をねがいつつ、現在に生きているという普通人に基本的な歴史感情にとって、歴史が吾が事に属するとは、自明なことだ、歴史がそういうものとして経験される、その自己の内的経験が、自省による批判を通じて、そのまま純化されたのが徂徠の確信であった……。

そして、

―この尋常な歴史感情から、決して遊離しなかったところに、「古学」の率直で現実的な力があったのであり、仁斎にしても徂徠にしても、彼等の心裡しんりに映じていたのは儒学史の展望ではない。幼少頃から馴れ親しんで来た学問の思い出という、吾が事なのであり、その自省による明瞭化が、即ち藤樹の言う「学脈」というものを探り出す事だった。……

小林氏が言わんとしていることを、私たちの身近に引き寄せて聞けば、こういうことである。今日、「歴史」という言葉は溢れかえっている、新聞でも雑誌でも見ない日はないとさえ言っていいほどだ、だが、そこで言われている「歴史」は、過去を、すなわち過去の人間たちの言ったりたりしたことを、他人事ひとごととして扱っている、たしかに他人事にはちがいない、しかしその他人事が行くところまで行ってしまい、過去の人間たちをまるで鳥や獣を観察するのと同じ次元で観察している、そしてその観察結果を、現代人の理解が届く範囲でのみ整理し整頓してものを言っている……、これが小林氏の言う「歴史の対象化と合理化」である。なぜそうなったか、近代の歴史学が歴史学も科学であろうとし、客観的であれ、実証的であれのスローガンの下に、人間の内側を見なくなってしまったからである。

この近代の歴史家たちの、さらには知識人たちの、過去を上から見下ろす歴史意識に比して、藤樹、仁斎、徂徠らの歴史意識は謙虚だった。徂徠に言わせれば、歴史というものは、学者や知識人に都合のよいようには残っていない、歴史の本質的な性質は、後世人が観察し分析し、定義できるようなところには見出せない、徂徠はそう確信していた、この徂徠の確信は、一般普通人の生活感情によって育った、過去を惜しみ、未来をねがいつつ現在に生きている一般普通人にとって、過去の人間たちはまったくの他人ではない、隣人である、昔の人の名を聞けば、そこはかとなくではあっても今の人に覚えるのと同じような親近感を覚える、過去は誰にもこういうふうに経験される、徂徠自身のそういう内的経験が顧みられ、検証されて、徂徠の歴史に対する確信が成った、と小林氏は言うのである。

事情は、藤樹、仁斎の場合も同じだった。自分自身の内的経験が顧みられ、そこから発して過去の人間たちの呼び声を聞き、その呼び声に答えようとした、それが藤樹、仁斎、徂徠の学問の基盤だった。

永い間、日本の学問は、律令制以来の博士家や師範家に独占され、支配され、師から弟子への伝授というしがらみに縛られていた。その柵を藤樹らはった、学問を因襲から解き放った。彼らがそれを為しえたのは、

―彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。……

と小林氏は言い、続けて、

―過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。……

と言っている。

「官家」は、官位の高い家、あるいは貴人の家、であるが、ここでは「博士家」である。「博士」は平安期以来、大宝令の制下で大学寮、陰陽寮などに属した官職であり、「博士家」はその「博士」を世襲した家柄で、菅原家、大江家、藤原家、清原家などがあった。学問はそういう官家の「家業」だったのである。

では、官家、博士家の家業を超えて、藤樹、仁斎、徂徠たちが目覚めた学問とは何か、学問の伝統とは何か、である。

 

2

 

小林氏は、藤樹、仁斎、徂徠らの学問の基盤は、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに成立した、今日の歴史家たちが過去を他人事として対象化し、合理的に解釈することで失ってしまった過去との親密な交わり、それが彼等の意識の根幹を成していた、と言った後に、

―だが、そう言っただけでは足りまい。「経」という過去の精神的遺産は、藤樹に言わせれば、「生民ノタメニ、コノ経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ」、仁斎に言わせれば、「手ノコレヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、そういう風に受取られていた。過去が思い出され、新たな意味を生ずる事が、幸い或はよろこびとして経験されていた。悦びに宰領され、統一された過去が、彼等の現在の仕事の推進力となっていたというその事が、彼等が卓然独立した豪傑であって、しかも独善も独断も知らなかった所以である。……

「経」は「六経」と解してよい。先に「二十三 『独』の学脈―伊藤仁斎」で見たが、中国古代の七人の王が遺した治世の実績、すなわち「先王の道」を記録した六種の経書けいしょで、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。「生民」とはたみである。「手ノコレヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」は仁斎の言葉で、これも先に「二十三 『独』の学脈―伊藤仁斎」で見た。

そして、小林氏は、第十一章で言う。

―彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。……

氏は、第十一章の冒頭で、

―仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。……

と言ったが、「自負の念」は、自己顕示欲と一体であろう、己れを顕わそうとする欲が「斬新や独創」に狙いをつけさせる。今日の歴史家は、そういう「斬新や独創」を競って得た「自負」に悦びを見出している。だが、仁斎や徂徠は、そうではない、自己を過去に没入すること自体に悦びを覚え、その悦びが自己を形成し直す所以となっていた、すなわち「無私」に通じていた。小林氏が、仁斎や徂徠の歴史意識は、その質が今日の歴史家たちとはまったく異っていたと言うのはここである。

 

―随分廻り道をして了ったようで、そろそろ長い括弧かっこを閉じなければならないのだが、廻り道と言っても、宣長の仕事に這入はいって行く為に必要と思われたところを述べたに過ぎず、それも、率直に受取って貰えれば、ごく簡明な話だったのである。……

小林氏は、第十一章の半ばに至ってこう言う。その「ごく簡明な話」とは、

―「学」の字の字義は、カタドナラうであって、宣長が、その学問論「うひ山ぶみ」で言っているように、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚もこうにあるとは、学問という言葉が語っている。……

「まねび」は「真似をすること」であり、「模傚」は「模倣」と同義である。

―彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった。……

―従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。つまり、古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであったし、例えば徂徠の仕事に現れて来たような、言語と歴史とに関する非常に鋭敏な感覚も、この努力のうちに、おのずから形成されたものである。例えば仁斎の「論語」の発見も亦、「道」を求める緊張感のうちでなされたものに相違ないならば、向うから「論語」が、一字の増減も許さぬ歴史的個性として現れれば、こちらからの発見の悦びが、直ちに「最上至極宇宙第一書」という言葉で、応じたのである。……

これが小林氏の言う「ごく簡明な話」のすべてである。以下、順を追ってこの「簡明な話」を腹に入れよう。

 

「学」の正字は「學」だが、「學」とは「カタドナラ」ということを表した文字だと小林氏は言う。「本居宣長」の執筆中、氏が座右においてそのつど繙いた諸橋轍次の『大漢和辞典』にも、近年の大字典、白川静の『字統』『字通』『字訓』にもその旨の解字はないが、白川氏は『字訓』で、「まなぶ」の項に「學」は子供たちを教える建物とそこで行われること、すなわち今日の学校にあたる教育機関を表していると解字した後、「まね」の項で、「まね」は「まねぶ」と同根の語と言い、さらに次のように言っている。

平安時代前期に出来たわが国最古の仏教説話集『日本霊異記』に、「象り効う」の「効」の正字「效」をマネビとする訓があり、平安時代末期に成った字書『類聚名義抄』にはマネブ、ナラフと見えていて、中国の現存最古の字書『説文解字』は「效」を「る」と訓じている、『類聚名義抄』に言う「ナラフ」は「倣ふ」であり、古くは倣うことを「倣效」と言ったが、「效」と「學」とは古音が近く(heoˆとheuk)、双方に通じて用いられる字であった……。

おそらく、こういう経緯によって「學」に「象り効う」の字義が加わったのだろう。したがって、「學」を「象り効う」と解した伝統はたしかにあったのであり、小林氏が「模倣」と言わず、「模傚」と言ったのにも事由があったようなのである。

だが、私の遡及はここまでである。「學」の字義は「象り効う」であると明記した字書、あるいは文献に、今のところ私は行き着けていない。小林氏は何に拠ったのだろう、少なくとも『字訓』ではない、『字訓』が刊行されたのは小林氏の死後である。

 

そして宣長は、「うひ山ぶみ」を、

―世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一ㇳやうならず、そのしなじなをいはば……

と書き起し、「学問」のことを「物まなび」とも言っている。が、宣長にあって「物まなび」は、日本の学問をさし、中国の学問をさして言われていた「学問」とは使い分けがされている。「うひ山ぶみ」にはその理由も書かれているが、いまそこは措く。そもそもを言えば「物学び」という言葉は古くからあり、『日本国語大字典』はその用例を南北朝時代、北畠親房が書いた『神皇正統記』から採っている。

その「まなび」「まなぶ」とともに、かつては「まねび」「まねぶ」も用いられ、「まねび」「まねぶ」も「学び」「学ぶ」と書かれていた。「まねぶ」を、『広辞苑』は「まねる」と同源であると言い、『大辞林』『日本国語大辞典』は「まなぶ」と同源と言っている。ということは、「まなぶ」と「まねぶ」と「まねる」、この三つの言葉の根は同じであり、かつての日本人は、「まなぶ」と言うときも語感としては「まねる」を伴っていた、「まなぶ」とは何かを模倣することだという意識を自ずともっていた、そういう意識で「まなんで」いた、ということのようなのだ。

小林氏が、藤樹、仁斎、徂徠らは新しい学問を拓いた、だがそれは、「彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである」と言ったこともここにつながってくる。小林氏の言う学問の伝統とは、「まねぶ」だった、模倣するということだったと言ってよいのである。

 

しかし今日、「まなぶ」に「まねぶ」の語感はない。それどころか、私たちにはなんとなくだが「まなぶ」は高尚で、「まねる」は卑俗だという感じがある。これはどこからきたのだろう。「まなぶ」は人間に知恵がついてからの大人の行為、「まねる」は知恵がつく前の子供の行為という、慣用からくる認識差があるようだ。

さらには学校で、図画工作でも読書感想文でも、人真似はいけません、あなた独自のものを出しなさい、大事なのは個性です、独創性ですと、さんざ言われ続けたことがあるだろう。これは、おそらく、近代になってあわただしく輸入した欧米の個人主義などを、子供たちに闇雲に押しつけたということだったと思われるのだが、独創、独創と言われても子供たちは何をどうすれば独創になるのかがわからず、とにもかくにも人と違ったことをしておけば恰好がつくとなってその場かぎりの奇妙奇天烈な花火を誰も彼もが打ち上げた。

だが、小林氏はちがった、終始一貫、何事も「まず、まねよ」だった。それを最も精しく、最も強い口調で言っているのが「モオツァルト」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第15集所収)である。

―彼(モオツァルト、池田注記)の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。……

そして氏は、間髪を容れず畳みかける。

―模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。……

「模倣出来ぬもの」とは、すなわち自分である、自分の個性である、その自分の個性がどういうものであるかは、他人を模倣してみないでは見つけられない。他人を模倣してみて初めて見つけられる。「他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい」とは、歌の模倣は自分の肉声があってこそ成り立つ、どんなに巧みに他人を真似たとしても、自分の肉声は厳としてある、残る、ということであり、ぎりぎりの極限まで他人を模倣したとしても、完璧な模倣は実現しない、なぜなら、模倣の対象と自分とはついには別々の個体だからである。こうして模倣の対象と自分との間に現れる如何ともし難い差異、これが自分の個性である。

小林氏は、次いで、「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」と言っている。「僕自身の掛けがえのない歌」、それこそが個性の発現であり独創であり、模倣を徹底すればするほど模倣の対象と自分との差異はよりいっそう強く意識される、そこからさらなる高みに達しようとすれば、他人との差異、すなわち自分の個性のありように沿って訓練を積むほかなくなる、それが「僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」ということだろう。

そこを小林氏は、「本居宣長」では、「彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった」「古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」と言ったのだが、「モオツァルト」で、「模倣」に即して、モオツァルトの教養とは「殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった」と言ったその「精神上の訓練」は、「本居宣長」では「心法を練る」という言い方で言われているのである。

 

3

 

第十一章で、中江藤樹や伊藤仁斎、荻生徂徠たちにとって、古書を読むということは、古書を上手に模倣しようとしてのことだったと言った小林氏は、第九章では次のように言っていた。「二十二 『独』の学脈―中江藤樹」でも見たが、

―彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「もう」を、契沖は「萬葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「萬葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……

先に、小林氏が、学問の根本は模傚、模倣であると言って、「模倣」という言葉に格段の意味内容を見出しているさまを見たが、いまこうして第九章と第十一章を読み合わせてみると、「模倣」とともに「信」という言葉、「無私」という言葉が「学問」の線上に並んでいるのを見る。端的に言えば、藤樹、仁斎、徂徠たちの学問の姿勢は、「信」であり、「無私」であり、「模倣」であったということなのである。

小林氏が言っている「古典への信を新たにする」の「新たにする」は、より深くする、より強くする、の意と解してよいと思われるが、その「信」は、孔子が言った「述べて作らず、信じて古を好む」の「信」であると解し得る。この言葉は、「論語」述而じゅつじ篇の冒頭にある、というより「述而篇」という篇名はその原文「述而不作、信而好古」に基づいているのだが、吉川幸次郎氏によれば(朝日文庫『論語』)、「述べて」は「祖述」の意であり、「作る」は「創作」の意である。孔子は、「私は古書古文を祖述するのみである、創作はしない、古書古文を信じて愛好する」、そう言ったのである。

しかし、「祖述」という言葉には注意が要る。今日、「祖述」は、「甲は乙を祖述したに過ぎない」などという言い方で、人真似、二番煎じ、亜流等々と同義に解する向きが少なくないが、孔子は単に後追いするという意味で「述べて」と言ったのではない。『大漢和辞典』は、「祖述」の用例として、『中庸』の第三十章にある「仲尼祖述尭舜」(仲尼、尭旬を祖述す)を挙げている。「仲尼」は孔子である、「尭舜」は先に「二十六 言は道を載せて」で言及した先王、すなわち古代の聖帝である。だとすれば、「述べて」は、孔子が「六経」を補修するにあたって自らに言い聞かせた決意ととれる。そこから見れば、今日の辞書、たとえば『広辞苑』に「師・先人の説をうけついで学問を進め述べること」とあるうちの「進め述べること」、『大辞林』に「先人の学説を受け継いで発展させて述べること」とあるうちの「発展させて述べること」、『日本国語大辞典』に「前に発表された説をもとにして、補い述べること」とあるうちの「補い述べること」は、いずれも現代語としての「祖述」であり、孔子の言葉に照らせば「作る」にあたる行為である。孔子はそういう意味での「作る」もいっさいしないと言っているのである。吉川氏は、過去の文明は多くの人間の智慧の堆積であり、創作は自分一個人の恣意に陥りやすい、そうした考えのもとにこの言葉は生れているであろうと言い、しかしこうした過去の書物の祖述は手軽な古代主義からではない、過去の書物のうちからよいものを選んでよいと信じ、またそのなかの愛好すべきものを心から愛好するがゆえであると言っている。

 

続けて小林氏は、「彼等に仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」と、「信」と「無私」を同一平面で言っている。そこでいま一度、「信」という言葉の前に立ち返る。今日、私たちは、「彼が私のことをそんなふうに言うはずはない、私は彼を信じている」とか、「私はもう人間というものが信じられなくなった」とかと言う。こういうときの「信じる」は、物心いずれの面でも自分が不利益を蒙らないように、あるいは不利な立場に立たされないように他人の良心をあてにする、そういう期待があっての「信じる」である。しかし小林氏は、こうした現代一般の、自分本位の言い方とは真反対の意味合で「信」を言っている。それは、たとえ相手の術中に陥って不利益を蒙ろうともかまわない、不利な立場に立たされようともかまわない、自分はこの人こそは、この道こそは、と直覚した人や道にすべてを委ねる、そういう信仰心にも近い意味合いで「信」を言うのである。

氏は、昭和二十五年四月、四十八歳の年に書いた「信仰について」(同第18集』所収)でこう言っている。

―私は何かを欲する、欲する様な気がしているのではたまらぬ。欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に欲する。つまり自分自身を信じているから欲する様に欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。……

―後は、努力の深浅があるだけだ。他人には通じ様のない、自分自身にもはっきりしない努力の方法というものがあるだけだ。あらゆる宗教に秘義があるというのも、其処から来るのでしょう。私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。……

「宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄」、この自分自身を確と信じたうえで行われる「自己放棄」、これが小林氏の言う「信」である。ここを読むたび、私は「私の人生観」(同第17集所収)で言われている釈迦を思い浮かべる、同時に親鸞を連想する。親鸞は、専修念仏による往生を説いたほうねんを師としたが、『歎異抄』で言っている、

―念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはべるらん、また、地獄におつべきごふにてや侍るらん、総じてもつて存知ぞんぢせざるなり。たとひ法然聖人にすかされ参らせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行も励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は、一定いちぢやう、すみかぞかし。……

おそらく、「宗教的偉人の自己放棄」と言ったとき、小林氏の脳裏には釈迦とともに親鸞の自己放棄もあったであろう。

そこまで「信」を見透して言われた「彼等に仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」を熟考すれば、「信」と「無私」は、「自己放棄」を共通項として同義とさえ言ってよさそうなのである。しかも小林氏は、「信仰について」で、宗教的偉人に見られる驚くべき自己放棄も、他人には通じようのない、自分自身にもはっきりしない努力の方法があってのことであると言っている。一方、「本居宣長」では、「無私を得んとする努力」と言っている。「信」も「無私」も、努力なくしては得られない、その「信」と「無私」を、藤樹も仁斎も徂徠も、必死で得ようとした、小林氏はそう言っているのである。

 

4

 

小林氏は、色紙というものを好まなかった、が、わずかに遺した色紙のなかに、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という言葉がある。この言葉は、氏の文章中には見えないが、読者の間ではよく知られた言葉である。

杉本圭司氏の『小林秀雄 最後の音楽会』(新潮社刊)によれば、この言葉が最初に書かれたのは、当時、新進の文芸批評家であり、小林氏が顧問の立場で編集責任を負っていた出版社、創元社において部下でもあった佐古純一郎氏に色紙を望まれてのことで、時期は小林氏が四十九歳の年、昭和二十六年(一九五一)の後半だったと推測されるという。

昭和二十六年と言えば、一月、「ゴッホの手紙」を『芸術新潮』に連載し始めた年である。この連載は二十七年二月に及び、同年六月、新潮社から刊行したが、その本文の最後に氏はこう書いている。

―私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった。それよりも意外だったのは、書き進んで行くにつれ、論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近付くにつれ、私はもう所謂「述べて作らず」の方法より他にない事を悟った。読者は、これを諒とされたい。……

「ゴッホの手紙」は、その半ばまではゴッホの手紙を抜粋し、これに小林氏が論評を連ねるというかたちで書かれている、だがそのうち、徐々に氏の言葉は減っていき、最後はほとんど「述べて作らず」になっている。

小林氏にとって「作らず」は、批評的言辞が自ずと消滅したということだった。そしてこれが、小林氏が「ゴッホの手紙」という批評を書くことによって図らずも得た「無私」であった。ゴッホの手紙の苦しい気分に心を領され、自分の言葉を、ひいては自分自身を放棄させられて得た「無私」であった。その息づまるような実体験が、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という言葉に結実した……、私にはそう思える。杉本氏もそう言っている。

この「無私」を、小林氏はそのまま「本居宣長」でも得ようとした。第二章の閉じめに言っている、

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

 

『大漢和辞典』は、「述」は「のべる」だと言ったあと、この「のべる」には「したがう、先人のあとにしたがう」という意を含んだ用例があると一番に記し、『説文解字』に「述」は「循」だと説明があると言う、そこで「循」へ飛んでみると、「循」も大きくは「したがう」だが、細かく見れば「寄る、沿う」、「倣う、学ぶ」、「踏む」に相当する用例がいくつもある。ここから推せば、孔子が言った「述べて」の真意は「先人のあとに従って」なのである。孔子は、先人、すなわち尭、舜たち先王の治績の記録に、忠実に従おうとしたのである。そのためには、先王の治績が記された文書をそっくりそのまま写し取る、そこに専心したであろう。だとすれば、これは今日、絵や書の世界で言われる「臨摸」に近い。「臨摸」はすなわち「模倣」である、徹底して行われる「ナラウ、マネブ」である。

こういうふうに辿ってくると、小林氏が、因襲というしがらみに縛られていた日本の学問、その柵を藤樹らはった、彼らにそれが為しえたのは、彼らが学問の伝統に目覚めたというところが根本なのであると言った「学問の伝統」とは、「學」という字の字義「象り効う」であり、具体的には孔子がひらいた「述べて作らず、信じて古を好む」道だったと言ってよいだろう。

続けて、こうも言えるようだ。「無私」は、誰かを、あるいは何かを、「模倣」することによってこそ得られる、「模倣」の対象と一体になろうとする「努力」、それこそが「無私」をもたらす……。逆に言えば、「無私」を得ようとするなら、然るべき人を、物を、「模倣」せよ、極限まで「象り効え」、ということのようである。

小林氏は、昭和四十五年八月、長崎県の雲仙で行われた「全国青年学生合宿教室」に出向き、「文学の雑感」と題して講義したが、それに続いて、「批評とは無私を得んとする道である」について質問した学生に、こう答えている(新潮文庫『学生との対話』所収)。

―無私というのは、得ようとしなければ、得られないものです。客観的と無私とは違うのです。よく、「客観的になれ」などと言うでしょ? 自分の主観を加えてはいけないというのだが、主観を加えないのは易しいことですよ。しかし、無私というものは、得ようと思って得なくてはならないのです。これは難しいな、ちょっと口では言えないな。つまりね、君は客観的にはなれるが、無私にはなかなかなれない。しかし書いている時に、「私」を何も加えないで「私」が出てくる、そういうことがあるんだ。……

―君は、自分を表そうと思っても、表れはしないよ。自分を表そうと思って表しているやつは気違いです。自分で自分を表そうと思っているから、気が違ってくるんです。よく観察してごらんなさい。自己を主張しようとしている人間は、みんな狂的ですよ。そういう人は、自己の主張するものがどこか傷つけられると、人を傷つけます。……

―人が君を本当にわかってくれるのは、君が無私になる時です。君が無私になったら、人は君の言うことを聞いてくれます。その時に、君は表れるのです。君のことを人に聞かせようと思っても、君が表れるものではない。あるいは僕が君の言うことを聞きたいと思った時、つまり僕が無私になる時、僕はきっと表れるのです。……

ここで小林氏が言っている「僕が君の言うことを聞きたいと思った時、つまり僕が無私になる時」の「君のことを聞きたいと思う」が、『大漢和辞典』にあった「述」の字義「従う」であり「寄る、沿う」であり、「倣う、学ぶ」であり「踏む」であろう、すなわち、「模倣」であろう。

そしてさらに、「無私」の対語が「自負」である、とも言えるようだ。先に私は、「自負の念」は自己顕示欲と一体であろう、己れを顕わそうとする欲が「斬新や独創」に狙いをつけさせる、と言ったが、「己れを顕わそうとする欲」、すなわち自己顕示欲では己れは表れないと小林氏は言う。「斬新」や「独創」に必要な仕掛け、つまりは「新しい見方」の意識が先走り、「己れ」は二の次、三の次になるからでもあるだろう。

この「自負」について、小林氏はこう言っていた。

―歴史の対象化と合理化との、意識的な余りに意識的な傾向、これが現代風の歴史理解の骨組をなしているのだが、これに比べれば、「古学」の運動に現れた歴史意識は、全く謙遜なものだ。そう言っても足りない。仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。……

歴史に限ったことではない、何か新しい物事と真摯に向きあおうとするとき、「自負の念」は一番の障碍となる。己れの力量に対する過信と誇りが、いま目の前にある新たな物事をどう見るか、どの角度から見るかと、物事を対象化し合理化するための「観点」を求めるからだ。

この「観点」が、歴史と向きあうときは「史観」と呼ばれ、なかでもマルクス、エンゲルスに始る「唯物史観」は最も知られた史観と言ってよいが、こういう「史観」が心という人間本来の認識力を妨げる。「史観」に視野を限定され、全体が見えなくなる、認識できなくなる。歴史という先人に、従う、寄る、沿う、倣う、学ぶといったことがなくなる。「信」も「好」も、そこには生れない。

人間は、人間本来の認識力、すなわち、物事を見て知って、正しく認識する力は、「観点」などよりはるかに先に誰もが授かっている、それが、心である、そこを小林氏は、第十四章でこう言っている。

―よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれてウゴく、事に直接に、親密にウゴく、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。……

小林氏は、何事であれ、常にこの「観点を設けぬ、全的な認識力」を駆使して考えようとした。昭和十六年七月、三十九歳の年に書いた「パスカルの『パンセ』について」(同第14集所収)にこうある。パスカルは、「人間は考える葦だ」と言ったが、この言葉を、ある者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦のように弱いものだ、という意味にとった、またある者は、人間は、自然の威力には葦のように一とたまりもないものだが、考える力がある、ととった、いずれもそうではない、

―パスカルは、人間はあたか脆弱ぜいじゃくな葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。……

これをさらに、同時期に行った三木清との対談「実験的精神」(同第14集所収)ではこう言っている。

―パスカルは、ものを考える原始人みたいなところがある。何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめるというようなところがある。いろいろなことを気にしないで……。

「すぐそこから真っすぐに考えはじめる」「いろいろなことを気にしないで」がすなわち「観点などは設けずに」である。これが「本居宣長」では次のように言われるのである、

―彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていた。……

 

この「自己を形成し直す所以」が、先に仁斎、契沖、真淵、宣長と名を挙げて、

―学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……

と言ったうちの「無私を得んとする努力」、ひいては小林氏自身の「批評とは無私を得んとする道である」を照らし出す。「無私」は、小林氏の考えでは、何かを得るための、あるいは何かを実らせるための心的境地には違いないが、藤樹たちにとっては学問を実らせる、小林氏にとっては批評を実らせる、そのための心的境地ではないのである。藤樹たちにとって、学問はまだ目的ではない、手段である、小林氏にとって、批評はまだ目的ではない、手段である。そういう手段を用いて目ざす目的、それが「道」である、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている「道」である。

宣長は、寛政十年(一七九八)六十九歳の六月、「古事記伝」第四十四巻終章の清書を終え、明和元年(一七六四)以来、三十五年に及んだ「古事記伝」の注釈を完成したが、その四ヵ月後の十月、門人たちの懇望に応じて学問の手引き「うひ山ぶみ」を書き上げ、その「うひ山ぶみ」の最初に、ひとくちに学問と言っても多岐にわたる、だが、「ムネとしてよるべきすぢは何れぞといへば、道の学問なり」と言い、

―道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いささかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也……

と言っている。

この、学問の中軸は「道」を知ることであるという宣長の認識は中江藤樹以来のものであり、したがって学問は、藤樹、仁斎、徂徠、宣長たちが「道」を知るための手段であった、それと同様に、批評は小林氏が「人生いかに生きるべきか」を知るための手段であったのだが、学問も批評も、いきなり駆けだしたのでは覚束ない、「無私」を得ようとする努力とともにでなければあらぬかたへ迷走する。あらぬ方とは「自負」のかたである。したがって、学問によって、また批評によって、まず得るべきは「無私」であり、「道」は、学問によって、批評によって得られた「無私」によって、初めて得られるもののようなのである。

 

小林氏は、折にふれ、須臾しゅゆの間とはいえ自分が「無私」の境地にいたという経験を記している。まずは、「ゴッホの手紙」である。ゴッホの「烏のいる麦畑」を初めて見たとき、

―熟れ切った麦は、金か硫黄いおうの線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色にき出ている。空は紺青こんじょうだが、嵐をはらんで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管絃楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた―僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。むしろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。……

「ゴッホの手紙」は、この「巨きな眼」は何だったのか、なんとかして確かめてみたいという欲望に駆られて書き始められた。

その四年前、「モオツァルト」を書きあぐんでいたときは、次のようだった、同じく「ゴッホの手紙」からである、

―ある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K. 593)を聞いていた。夜来の豪雨は上っていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやって来る白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向って徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明晰な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。……

続いて、「花見」(同第25集所収)である。昭和三十九年、六十二歳の春、青森県の弘前を訪れ、

―外に出ると、ただ、呆れるばかりの夜桜である。千朶万朶せんだばんだ枝をして低し、というような月並な文句が、忽ち息を吹返して来るのが面白い。花見酒というので、或る料亭の座敷に通ると、障子はすっかり取払われ、花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する。「狐に化かされているようだ」と傍の円地文子さんが呟く。なるほど、これはかなり正確な表現に違いない、もし、こんな花を見る機は、私にはもう二度とめぐって来ないのが、先ず確実な事ならば。私は、そんな事を思った。何かそういう気味合いの歌を、頼政も詠んでいたような気がする。この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い、確か、そんな意味の歌であったと思うが、思い出せない。花やかえりて我を見るらん、―何処で、何で読んだか思い出せない。……

「頼政」は、これより前にも出ていて、平安時代末期の武将、源頼政である。ちなみに、「花やかえりて……」の上句は、「入りかたになりにけるこそ惜しけれど」である。

これらの、いつしか相手に見られていると思えた「無私」の境地、また思いがけない方向から感動が来たという「無私」の境地、それらの記憶が、「本居宣長」では国語の伝統意識につながり、宣長の「古言を得る」という古学の追体験につながるのである、すなわち、宣長の「まねびの道」につながるのである。第二十三章で言われている。

―互に「語」という「わざ」を行う私達の談話が生きているのは、語の「いひざま、いきほひ」による、と宣長は言う。その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に飜訳し合うという離れわざを、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語という巨きな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。……

(第二十七回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十六 言は道を載せて

 

1

 

さて、「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」である。

「職トシテ」は、主として、だが、この「世ハ言ヲ載セテ……」は、荻生徂徠の学問論であり、中国古典の研究心得とも言える著作『学則』の中に見え、小林氏の文脈では第十章の次の一節を承けて引かれている。

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「住家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……

ではなぜ徂徠は、「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言ったのか、「世ハ言ヲ載セテ以テウツ」るからである。小林氏は、第十章でこう言っている。

―「世ハ言ヲ載セテ」とは、世という実在には、いつも言葉という符丁が貼られているという意味ではない。徂徠に言わせれば、「辞ハ事トナラフ」(「答屈景山書」)、言は世という事と習い熟している。……

言葉というものは、その言葉が用いられた時代と一体である、相即不離であると徂徠は言っている……、と小林氏は言うのである。これを目にして私は、氏が第六章で、契沖の明眼との関わりで言っていた、

―「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す……

というくだりの古言と古意、雅言と雅意をおのずと思い合せたが、徂徠がこう言っていると小林氏に言われ、そういう意識をしっかり持って顧みれば、なるほど「今言ヲ以テ古言ヲ視」ては誤る。身近なところでは「本居宣長」のなかでも言われている「あはれ」である。「近言」の「あわれ」は悲哀を言う言葉だが、「古言」では歓喜にも感興にも言われ、強く心に迫ってくる物事の万般に対して言われた。その「あはれ」という「言」を載せて「世」は遷った、「世」が遷ったために「あはれ」という「言」も遷った。

 

と、こういう卑近な話にすると、そんなこと、わざわざ徂徠を持ち出してきて言われなくてもわかっています、「言」は「世」に載って遷ります、だから古語辞典というものがあるのでしょうと、小林氏に食ってかかりそうになっている現代人の物知り顔も目に浮かぶ。だが、氏がいまも生きていたら、ただちに言うだろう、それがわかっているなら、「源氏物語」を現代語訳で読んですますなどという手抜きは止したまえ、「源氏物語」にかぎらず古典の現代語訳こそは「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」行為そのものなのだ、さらに言うなら、古語辞典というもの自体が「今言ヲ以テ古言ヲ視」させている、古語辞典のおかげで古言はますます視えなくなっている……。では、どうすればよいか。今日の私たちにはとても無理だが、古文を古文のままに何度も熟読する、古語を用いて擬古文の実作に励む、それが要諦だと徂徠は古文辞復興の大先達、李攀竜りはんりょうおうせいていを通じて学び、実行した。

徂徠は、それほどまでの古文辞習練を積んで、「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」と言ったのである。したがって、徂徠の言う「遷ル」は、古語辞典を引いて間に合うような語意の変容だけではない。言葉によって捉えられ、言葉という鏡に映し出された時代時代の人生観、価値観、そういうものも「言」に載って「遷ル」のである。

ちなみに、「もののあはれを知る」という言葉の用例として残っている最古の文章は紀貫之の「土佐日記」だが、平安時代、「もののあはれ」は専ら歌人の用語であった、しかし、江戸時代になると、一般庶民の日常生活の場でふつうに使われていた、それを第六回「もののあはれを知る」で見た。

―新潮日本古典集成『本居宣長集』の校注者日野龍夫氏は、「解説」で次のように言っている。「物のあわれを知る」という言葉は、江戸時代人の言語生活の中ではごくありふれた言葉であった、したがって、その言葉によって表される思想も、江戸時代人の生活意識の中ではごくありふれた思想であった、通俗文学の中でも最も通俗的な為永春水の人情本に、「物のあはれを知る」ないし「あはれを知る」という言葉がしばしば出てくるほどである……。

さらに、

―時は江戸となり、貴族であった俊成の歌が、近松門左衛門や浮世草子といった大衆相手の作品世界に取り込まれ、「もののあはれを知る」は地下じげの娯楽のなかでもてはやされるようになった。『日本古典文学大辞典』には、この時代、「もののあはれ」は浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かった、とある。……

「世は言を載せて遷る」とは、たとえばこういうことを言っているのである。小林氏は徂徠の意を汲み、今は過ぎ去って見えない世を知ろうとすれば、手がかりは過去の人間たちの生活の跡だ、そういう手がかりのうちでも最たるものは言葉である、と受け、したがって、

―歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。……

と言うのである。

 

そういう「昔の言葉」のなかに、「道」という言葉がある。「道そのもの」は「道」という言葉に載っており、「道」という言葉は「世」に載って遷る。「世」が遷れば人の生き方や生活の意味合も変化する、それによって「道」という「言」に載った「道そのもの」のありようははっきりとは見て取れなくなり、人間いかに生きるべきかという問いが浮んでもおいそれとは答えられなくなった。昔は即答できたのだ、「道」がはっきり見えていたからだ。それができなくなった、「道」とは何かが明らかでなくなった。

 

しかし、「道そのもの」は今なお健在である。なぜなら「道そのもの」と一体の「道」という言葉は「言」に載って遷ったからである。つまり、「道」という言葉に載って、現代まで運ばれてきているからである。「道」という言葉の意味は判じにくくなったが、だからと言って「道そのもの」が消滅したわけではない、遠い昔の遺物となってしまったわけでもない。厳然と今に遷ってきている。「道そのもの」は、古今を貫透するのである。徂徠は「言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」を、「道ノ明カナラザル」現況の最大要因として言っていると思われるのだが、小林氏は、そこを一気に、「道そのもの」は「道」という「言」に載って「古今ヲ貫透スル」と読む。それは徂徠が、「徂徠先生答問書」で、

いにしへの聖人之智は、古今を貫透して、今日様々のヘイ迄明に御覧候。古聖人之教は、古今を貫透して、其教之利益、上古も末代も聊之替目無之候いささかのかはりめこれなくさうらふ左無御座候而さござなくさうらひては、聖人とは不被申まうされぬ事ニ候」……

と言っているからであり、

―徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す「経学」と、変るものに向う「史学」との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている。……

からである。

 

2

 

では、「古今ヲ貫透スル道」とは何か、どういうものか。小林氏は、第三十二章で次のように言う。

―「道」という古言は、古註には「道ハ礼楽レイガクフ」とある通り、はっきりと古聖人の遺した、具体的な治績を指した言葉であって、これを離れて、別に道というようなものはなかったのである。……

すなわち、「先王の道」である。試みにぺりかん社の『日本思想史辞典』を開いてみると、こう言われている。

―徂徠の言う「道」とは、孔子が学んだところの「先王の道」であり、燦然と完備した「礼楽」に象徴される先王の制作にかかるもの一般であり、それによって人間社会が理想的に存立せしめられたところの文化の体系である。徂徠は、孔子がこの「先王の道」を論定する場面に立ち会うことによって(「論語徴」)、また、先王によってそれが制作されることで人間社会が理想的に存立してきた原初の場面にまで立ち返ることによって(「弁道」「弁名」)、先王の古代の「文」なるありさまを描き出していくのである。……

「文」は「道」の古い言い方で、「『文』なる」は後に出る「礼楽」の行きわたった、というほどの意のようだが、そういう眼を借りて『学則』を見渡せば、徂徠の頭にあった「道」はたしかに「先王の道」なのである。

たとえば『学則』で、徂徠は次のように言っている。 

―それ六経りっけいは物なり。道つぶさにここに存す。……

「六経」は、儒学の根幹とされている六種の経書(中国古代の聖賢の教えを記した書物)で『書経』『易経』『詩経』『春秋』『礼記』『楽記』を言うが、「道」はこれらに精しく記されていると徂徠は言うのである。

『学則』は享保二年(一七一七)、徂徠五十二歳の年に書かれたと見られているが、徂徠の主著『弁道』『弁名』もこの頃に成っており、『学則』はこの二著と並行して書かれたと思われる。現に、「道」というものを弁別する、識別するという意味の書『弁道』にも、

―後世の人は古文辞を識らず。故に近言を以て古言を視る。聖人の道の明らかならざるは、職としてこれにこれ由る。……

と、『学則』とほぼ同じ文言を記し、しかも、古文辞を知らずに今言を以て古言を視たため「道」を誤解したり不分明にしてしまったりした実例をいくつか挙げてこれらを正している。ここから推しても『学則』で言う「道」は「先王の道」と解し得るのである。

 

では「先王の道」とは、どういうものか。『弁道』では、こう言っている。

―孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり。孔子は、平生、東周をなさんと欲す。(中略)そのつひに位を得ざるに及んで、しかるのち六経を脩めて以てこれを伝ふ。六経はすなはち先王の道なり。……

「先王」は、遠い昔の徳の高い王の意であるが、具体的には古代中国に出現した七人の統治者、古伝説上のぎょうしゅんに始り、王朝の創始者いん王朝の創始者とう、周王朝の創始者文王、武王、周公である。

「孔子は、平生、東周をなさんと欲す」は、孔子が周に倣って自分の生国で「先王の道」を実践し、東方の国、魯を、周のような国、「東周」にしたいと懸命だったことを言っている。しかしその孔子の志は受け容れられず、それならと孔子は「先王の道」を書物として後世に残すことを決意して『春秋』を筆削し、『書経』『易経』『詩経』『礼記』『楽記』の補修に努めた。そうして成ったのが「六経」であり、したがって「六経」は、とりもなおさず「先王の道」なのである……。

―先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり。けだし先王、聡明叡智の徳を以て、天命を受け、天下に王たり。その心は、いつに、天下を安んずるを以て務めとなす。ここを以てその心力を尽くし、その知巧を極め、この道を作為して、天下後世の人をしてこれに由りてこれを行はしむ。あに天地自然にこれあらんや。……

―けだし先王の徳は、衆美を兼備し、名づくるを得べきこと難し。しかるになづけて聖となす所の者は、これを制作の一端に取るのみ。先王、国を開き、礼楽を制作す。これ一端なりといへども、先王の先王たる所以はまたただこれのみ。……

「けだし」は、思うに、で、私(徂徠)が推測するところでは……だが、先王は聖人とも呼ばれている、これは、先王は「礼楽」を制作した、その「礼楽」制作を讃えてのことである、先王の功績は計り知れず、「礼楽」はそれらのほんの一端だが、先王が先王と仰がれる理由は「礼楽」を制作したからだとさえ言っていいほどなのである……。

「礼楽」の「礼」は礼儀で、社会の秩序を保ち、「楽」は音楽で、人心を和らげる作用があるとして、後に精しく出るが、先王たちは挙って「礼楽」の創出に意を用いた。

一言で言えば、「先王の道」とは、堯、舜ら「先王」と呼ばれる名君たちが残した、治世上の創造的実績である。それを象徴する言葉が「礼楽」である。

 

今にして思えば、小林氏が第三十二章で言っている「『道』という古言は、はっきりと古聖人の遺した、具体的な治績を指した言葉であって、これを離れて、別に道というようなものはなかったのである」は、第十章でも言っておいてもらうべきであった。それがそうなっていないのは、徂徠の言う「道」はすべて「先王の道」、「聖人の道」と解するのは『本居宣長』刊行当時のいわば一般常識であり、したがって小林氏は、第十章ではそれをわざわざことわろうとは思いもしなかったのだろうが、私にしてもなまじ徂徠の「道」は「先王の道」という聞き噛りの知識があったことによって、念のための加筆をとは進言せぬまま通ってしまったようなのだ。小林氏の本の担当者としての私の「傍目八目おかめはちもく」の迂闊であった。

 

3

 

「先王の道」、徂徠はそれを「六経」から読み取り、『弁道』に記した。『弁道』は次の一句から始まる。

―道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。……。

ゆえにここでは一端も一端、ほんの片端に留まるほかないのだが、先に引いた『弁道』の何か条かに加えてさらに何か条かを引き写す。

―けだし、先王の教へは、物を以てして理を以てせず。教ふるに物を以てする者は、必ず事を事とすることあり。教ふるに理を以てする者は、言語詳らかなり。物なる者は衆理のあつまる所なり。しかうして必ず事に従ふ者これを久しうして、すなはちこころ実にこれを知る。何ぞ言を仮らんや。……

「事を事とす」は、『書経』にある言葉を踏まえていると『日本思想大系 荻生徂徠』の注にあり、そこでは「事実に努める」と言われているだけだが、小林氏は第三十二章でこう言っている。

―物を明らめる学問で、「必ず事を事とすることあり」と言うのは、それぞれ特殊な、具体的な形に即して、それぞれに固有な意味なり価値なりを現している、そういう、物を見定めるということになろう。……

この条を含めて以下の各条、まさに「いにしへの聖人之智は、古今を貫透して、今日様々のヘイ迄明に御覧候。古聖人之教は、古今を貫透して、其教之利益、上古も末代も聊之替目無之候いささかのかはりめこれなくさうらふ」の代表格と言えるだろう。

―善悪はみな心を以てこれを言ふ者なり。孟子曰く、「心に生じて政に害あり」と。あに至理ならずや。然れども心は形なきなり。得てこれを制すべからず。故に先王の道は、礼を以て心を制す。礼を外にして心を治むるの道を語るは、みな私智妄作なり。何となれば、これを治むる者は心なり。我が心を以てわが心を治むるは、譬へば狂者みづからその狂を治むるがごとし。いづくんぞ能くこれを治めん。故に後世の心を治むるの説は、みな道を知らざる者なり。……

―もしそれ礼楽なる者は、徳ののりなり。中和なる者は、徳の至りなり。精微の極にして、以てこれにくはふるなし。然れども中和は形なく、意義のよく尽くす所に非ず。故に礼は以て中を教へ、楽は以て和を教ふ。先王の、中和に形づくれるなり。礼楽はものいはざれども、能く人の徳性を養ひ、能く人の心思しんしふ。心思一たび易れば、見る所おのづから別る。故に知者を致すの道は、礼楽より善きはなし。……

「中和」は、『弁名』の「中・庸・和・衷 八則」に、「中なる者は過不及なきの謂ひなり」「和なる者は和順の謂ひなり」とあって、それぞれ精しく説明されている。「ふ」は「変える」「変る」である。

 

これらすべて、今日なお深くうなずかされる「道」である、人生を、そして人世を、いかに生きるべきかの叡智である。こういう「道」の恩恵に、徂徠以前の日本人は与ることができなかった。徂徠は自ら編み上げた古文辞学を馳駆して古文古語のまま「道」を読み取った。「世」に載った「言」に載って幾世代もを遷ったため、世々の「言」に何重にも包まれ、隔てられてしまっていた「道」が、徂徠によって明らかになった。

 

4

 

小林氏が、「歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ」と言った後に、「ところで、生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから、如何に生くべきか、という課題に応答する事が困難になる。道は明かには見えて来ない」と言っている「道」は、「先王の道」であると解してここまできた。だが、「生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから」という言葉に重きをおけば、たとえば第十一章に小林氏が書いている次のような「道」が思い浮かぶ。

―宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。……

ここで言われている「他人の説く道」は、「六経」に見られる「道」ではない。主には朱子学の説く「道」である。朱子学の「道」を疑って抗った近世日本の学問の豪傑たちは、「自分の『道』」を求めて刻苦精励した。

小文の第三回「道の学問」で、私は、小林氏は「本居宣長」は思想のドラマを書こうとしたのだと言ったが、小林氏の言う「思想」とは私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、それはまた、小林氏の言う「道」も私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であったと言えるだろう、と書いた。彼ら学問の豪傑たちの求めた道は、まさに自分の生き方の模索であった。

ここから先は、そういう「道」を、「本居宣長」の中に見ていく。小林氏が徂徠の学問に即して言った「変るものに向う『史学』」の対象となる道、すなわち、時代の趨向あるいはその時代を生きた人たちの思案によって見出された「道」である。それらはいずれも「先王の道」から出て「先王の道」へ還る「道」であった。

 

―考える道が、「他のうへにて思ふ」ことから、「みづからの事にて思ふ」ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。…… (第六章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集76頁/以下、27―76と表記)

―詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、また寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。(中略)道は長かったが、遂に、倭歌のうちに、ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの「好信楽」のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。…… (第七章 27-83)

―彼(中江藤樹)は、時代の問題を、彼自身の問題と感じていた。彼が、彼自身の為に選んだ学問の自由は、時代の強制を跳躍台としたものだ。これを心に入れて置けば、「此身同キトキハ、学術モ亦異ナル事ナシ」と言う時の、彼の命の鼓動は聞ける筈だ。これは学説の紹介でもなければ学説の解釈でもない。自分は学問というものを見附けたという端的な言葉である。彼は、自分の発見を信じ、これを吟味する道より他の道は、賢明な道であれ、有利な道であれ、一切断念して了った。それが彼の孤立の意味だが、もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ。荒地に親しんで来た人々には、荒地に実った実には、大変よく納得出来るものがあった。…… (第七章 27-98)

―仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。…… (第九章 27-103)

―彼(伊藤仁斎)の考えによれば、書を読むのに、「学ンデ之ヲ知ル」道と「思テ之ヲ得ル」道とがあるので、どちらが欠けても学問にはならないが、書が「含蓄シテアラハサザル者」を読み抜くのを根本とする。書の生きている隠れた理由、書の血脈とも呼ぶべきものを「思テ得ル」に至るならば、初学の「学ンデ知ル」必要も意味合も、本当にわかって来る。この言わば、眼光紙背に徹する心の工夫について、仁斎自身にも明瞭な言葉がなかった以上、これを藤樹や蕃山が使った心法という言葉で呼んでも少しも差支えはない。…… (第九章 27-106)

―彼(仁斎)は、ひたすら字義に通ぜんとする道を行く「訓詁ノ雄」達には思いも及ばなかった、言わば字義を忘れる道を行ったと言える。先人の註脚の世界のうちを空しく摸索して、彼が悟ったのは、問題は註脚の取捨選択にあるのではなく、凡そ註脚の出発した点にあるという事であった。世の所謂孔孟之学は、専ら「学ンデ知ル」道を行った。成功を期する為には、「語孟」が、研究を要する道徳学説として、学者に先ず現れている事を要した。学説は文章から成り、文章は字義からなる。分析は、字義を綜合すれば学説を得るように行われる。のみならず、この土台に立って、与えられた学説に内在する論理の糸さえ見失わなければ、学説に欠けた論理を補う事も、曖昧な概念を明瞭化する事も、要するにこれを一層精緻な学説に作り直す事は可能である。…… (第九章 27-108)

―彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。ここでも亦、先きに触れた「経」と「史」との不離という、徂徠の考えを思い出して貰ってよいのである。…… (第十一章 27-120)

―古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであったし、例えば徂徠の仕事に現れて来たような、言語と歴史とに関する非常に鋭敏な感覚も、この努力のうちに、おのずから形成されたものである。例えば仁斎の「論語」の発見も亦、「道」を求める緊張感のうちでなされたものに相違ないならば、向うから「論語」が、一字の増減も許さぬ歴史的個性として現れれば、こちらからの発見の悦びが、直ちに「最上至極宇宙第一書」という言葉で、応じたのである。…… (第十一章 27-122)

―学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に摑まれていたのである。彼には、周囲の雰囲気など、実はどうでもいいものであった。むしろ退屈なものだったであろう。卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う「好信楽」とか「風雅」とかいう言葉は、その生きた味いを失うであろう。…… (第十一章 27-127)

―宣長が考えていたのは、彼が「物語の本意」と認めた「物のあはれを知る」という「道」である。個々の経験に与えられた、心情の動き、「あだなる」動きも「マメなる」動きも、「道」を語りはしない。宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、あるいは純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。…… (第十四章 27-154)

―そういう次第で、宣長の論述を、その起伏に逆わず、その抑揚に即して辿って行けば、「物の哀をしる」という言葉の持つ、「道」と呼ぶべき性格が、はっきり浮び上って来る。…… (第十五章 27-159)

―彼は、これを、「源氏」に使われている「あぢはひを知る」という、その同じ意味の言葉で言う。「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言う。なるほど漠然とした物の言い方だ。しかし、事物を味識する「ココロ」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。「情」が「ウゴ」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事はかなわぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。…… (第十五章 27-164)

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉を玩ぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。このを迷わすものを、彼は「魔」という強い言葉で呼んだ。…… (第十八章 27-202)

―この有名な歌集の註解は、当時までに、いろいろ書かれていたが、宣長に気に入らなかったのは、契沖によって開かれた道、歌に直かに接し、これを直かに味わい、その意を得ようとする道を行った者がない、皆「事ありげに、あげつら」う解に偏している、「そのわろきかぎりを、えりいで、わきまへ明らめて、わらはべの、まよはぬたつきとする物ぞ」と言う。…… (第二十一章 27-227)

―「和歌ハ言辞ノ道也。心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツヾクル道也」という彼の言葉は、歌は言辞の道であって、性情の道ではないというはっきりした言葉と受取らねばならない。歌は「人情風俗ニツレテ、変易スル」が、歌の変易は、人情風俗の変易の写しではあるまい。前者を後者に還元して了う事は出来ない。私達の現実の性情は、変易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生を享け、死ぬ事はないだろう。…… (第二十二章 27-252)

 

この後、第三十二章、第三十三章と、再び徂徠の言う「道」、そして宣長の「道」に言及されるのだが、小林氏が「本居宣長」で「道」という言葉に託した思いのほどは、以上を熟視することで汲み得ると思う。その氏の思いが端的に集約されているのがすでに引いた次の一節である。

―宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、あるいは純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。…… (第十四章 27-154)

契沖の「わが心を見附ける道」「歌学者として生きる道」、中江藤樹の「自分の学問の発見を信じ、これを吟味する道」、伊藤仁斎、荻生徂徠らの「古典への信を新たにする道」、そして本居宣長の「己れを知る道」「卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに求めた道」、「『物のあはれを知る』という道」、これらのいずれもが「個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、あるいは純粋な、と呼んでいい経験」である。

小林氏は、学問とは、誰もが知っていることをより深く知ろうとすることだと言っていた。上に抜き出した「道」という言葉の使われ方からすれば、氏は「道」についても、「道」とは誰もが歩いている道を歩くことだ、自分をより深く知ろうとして歩くことだ、と言っているようである。

と、こう思ったとき、脳裏に突然、小林氏の「モオツァルト」(『小林秀雄全作品』第15集所収)の一節が閃いた。

―モオツァルトは、歩き方の達人であった。目的地なぞ定めない、歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。……

突然ではあったが唐突ではなかった。藤樹、仁斎、徂徠、契沖、宣長……、彼らもまた歩き方の達人だったのだと小林氏に言われたかのようだった。

 

5

 

だが、小林氏は、「変るもの」に向けた目を、「変らぬもの」にもむろん向けている。徂徠に即して言えば「経学」の対象となる「道」である。

―物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこゝろを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなくいやしき身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、…… (第四章 27―50)

宣長の「家のむかし物語」からである。ここで言われている「大御国の道のこゝろ」は、「もののあはれを知る道」に次いで宣長の後半生を領した。

―宝暦十三年という年は、宣長の仕事の上で一転機をかくした年だとは、誰も言うところである。宣長は、「源氏」による「歌まなび」の仕事が完了すると、直ちに「古事記伝」を起草し、「道のまなび」の仕事に没入する。「源氏」をはじめとして、文学の古典に関する、終生続けられた彼の講義は、京都留学を終え、松坂に還って、早々始められているのだが、「日記」によれば、「神代紀開講」とあるのは、真淵の許への入門と殆ど同時である。まるで真淵が、宣長の志を一変させたようにも見える。だが、慎重に準備して、機の熟するのを待っていなかった者に、好機が到来する筈はなかったであろう。…… (第十九章 27-213)

「真淵」は、賀茂真淵である。宣長自身は「玉かつま」の七の巻でこう言っている。

―おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞいにしえ書共ふみどもを、かむがへさとれるのみこそあれ、……

「あがたゐのうし」は「県居の大人」で真淵のことだが、宣長は「道の事」も「歌の事」も真淵に導かれて、と言うのである。ところが、その真淵が、行き詰った。真淵は「萬葉集」を絶讃し、そこに日本固有の「道」があると主張したのだが、しかし、

―彼は、これを「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」という風に、様々に呼んではみるのだが、彼の反省的意識は安んずる事は出来なかった。「上古之人の風雅」は、いよいよ「弘大なる意」を蔵するものと見えて来る。「万葉」の風雅をよくよく見れば、藤原の宮の人麿の妙歌も、飛鳥岡本の宮の歌の正雅に及ばぬと見えて来る。源流を尋ねようとすれば、「それはた、空かぞふおほよそはしらべて、いひつたへにし古言ふることも、風の音のごととほく、とりをさめましけむこゝろも、日なぐもりおぼつかなくなんある」(「万葉集大考」)という想いに苦しむ。あれを思い、これを思って言葉を求めたが、得られなかった。…… (第二十章 27-229)

「空かぞふ」は「おほよそ」の「おほ」にかかる枕詞である。真淵は、人代を尽して神代を窺おうとした、ということは、「万葉集」を究めて「古事記」に向おうとした。だが、宣長は見て取っていた、

―「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。…… (第二十章 27-230)

真淵は、「万葉集」から得た「古道」を掲げて論を張った。だがその「古道」が真淵自身を縛った、「古事記」へは一歩も踏み出せなかった。「古道」を掲げるということ自体が、邪念だったようなのである。

宣長は、真淵の挫折を他山の石とした。

―宣長の正面切った古道に関する説としては、「直毘なおびのみたま」が最初であり、又、これに尽きてもいる。「直毘霊」は、今日私達が見るように、「コノクダリは、道といふことの論ひなり」という註が附けられて、「古事記伝」の総論の一部に組み込まれているものだが、論いなど何処にもない。端的に言って了えば、宣長の説く古道の説というものは、特に道を立てて、道を説くということが全くなかったところに、我が国の古道があったという逆説の上に成り立っていた。…… (第二十五章 27-282)

 宣長は、我が国の神典の最大の特色は、天地の理などは勿論の事、生死の安心もまるで説かぬというところにある、と考えていた。彼にとって、神道とは、神典と言われている古文が現している姿そのものであり、教学として説いて、筋の通せるようなものではなかった。…… (第二十六章 27-292)

宣長が「家のむかし物語」に書いた「大御国の道のこゝろ」とはこれであり、その「こゝろ」は「特に道を立てて、道を説くということが全くなかった」ところにあった。「古事記」をはじめとする神典に書かれていること、それらの姿がそのまま「道」であると宣長は取った。小林氏が第六章に引いていた「紫文要領」の言葉、「やすらかに見る」が思い合せられる。

 

宣長の「古事記」は、徂徠の「六経」であった。その「古事記」を宣長は「今文ヲ以テ」は視ず、「今言ヲ以テ」は解かなかった。「古文から直接に古義を得ようとする努力」を三十五年にもわたって続け、「道を立てて道を説くということ」はまったくなく、「生死の安心もまるで説かぬ」という「大御国の道」に到った。これが、宣長が歩きとおした「聖学」の道であった、「如何に生くべきか」を求めて歩んだ「無私」の道であった。

(第二十六回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十五 精神の劇

 

1

 

前回、荻生徂徠の「古文辞学」のことをよく知ろうとして、第十章の次の文章から入った。

小林氏は、まず、伊藤仁斎の「古義学」は徂徠の「古文辞学」に発展した、これを古典研究上の歴史意識の発展と呼んでもよいだろうが、歴史意識という言葉は現代語である、しかも今日では、常套語に過ぎなくなってしまっている、だが、

―仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出かみだした彼等の精神は、卓然として独立していたのである。言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。……

と言って、すぐさま次のように言っていた。「学則」は徂徠の著作である。

―「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」(「学則」二)、既に過ぎ去って、今は無い世が直接に見えるわけがない。歴史を知ろうとする者に現に与えられているものは、過去の生活の跡だけだとは、わかり切った事だ。この所謂いわゆる歴史的資料にもいろいろあるが、言葉がその最たるものであるのに疑いはないし、他の物的資料にしても、歴史資料と呼ばれる限り、言葉をになった物として現れる他はあるまい。歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。……

以前、この小文の第十回「詞花を翫ぶべし」で、私は、小林氏は「本居宣長」で、「人間にとって言葉とは何か」を書こうとしたのである、と言い、「本居宣長」の全五十章を通して、氏の主題は人間にとって言葉とは何か、そこに集中しているのである、と重ねて言った。この「言葉」は、あのときすでに、「歴史」と「道」と、三者一体で考えなければならないときが来るとは思っていた。第十章で目にしていた徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」がはっきりと脳裏にあったからである。

 

2

 

これを承けて今回は、荻生徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」にいよいよしっかり向き合うときが来たと思っていた。ところが、それと並行して、新型コロナウイルス禍のため四か月にわたって休会を余儀なくされてきた「小林秀雄に学ぶ塾」をなんとか再開すべく準備を始めた私の手許に、塾当日、口頭質問に立ってもらうことになっていた溝口朋芽さんから「自問自答」の要旨が送られてきた。

―小林先生は、伊藤仁斎や荻生徂徠の学問に対する姿勢について語る際、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」(第十章)と表現しています。また、第五十章の最終段落において「純粋な精神活動」「徹底した一種の精神活動」という表現があり、それら「精神」について触れた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっています。小林先生は「精神」という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、書き終わる頃には、宣長の「精神」と「遺言書」が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか。そうであるから、最後に「また遺言書に戻る他ない」と書いたのではないでしょうか。……

鋭い着眼である。今回は徂徠の言葉としっかり向き合おうと思っていたにもかかわらず、それをひとまず措いて溝口さんの自問自答に立ち寄り、そこで足が止ってしまった。溝口さんの自問自答が、前回私が引いた小林氏の文、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」から始められていたということがきっかけだったが、溝口さんはそのうち特に「精神」という言葉に刮目して、優れた自問自答を試みていたからである。

 

正直言って私は、この「精神」に意表をつかれた。次いで、溝口さんが今回の自問自答のために精査したという「本居宣長」における「精神」の用例全十箇所をつぶさに読み、私自身の不覚に気づいた。小林氏の文章を読んでいると、行く先々で「精神」という言葉に何度も出会う。そういう出会いの経験を重ねているうち、氏の言う「精神」はどういう語感で言われているかもおのずと納得できてわが身に具わる。だが今回は、それが不覚のもとになった。前回の引用、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」の「精神」も、語感に変りはない、だが、背景は特殊だった。その特殊な背景は、同じ文章の直前で言われている「言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、『道学』であり」のなかの「道学」だった。この「道学」にいま一度言及する必要がある、否、言及することで小林氏の言う「彼らの精神」を逆光のなかに浮かび上がらせることができる、私はそう思った。

溝口さんが精査して示した「本居宣長」のなかの「精神」は、表面的にはこれまでと変わらぬ小林氏の「精神」である、さらに言うなら、私たちの身近で使われている「精神」とも大差はない印象である。しかし私は、比較的早く、「本居宣長」のここぞというくだりで小林氏が何度も「精神」という言葉を繰り返した理由に行き着いた。小林氏が近世学問の創始者と位置づける中江藤樹の出現まで、「精神」は日本の学芸、学問から完全に抜け落ちていた、締め出されていた。その「精神」を、日本の学問に、藤樹、仁斎、徂徠、契沖たちが生き生きと吹きこんだのである。

 

3

 

日本の学芸、学問からの「精神」の脱落は、まずは官家の世襲、家業という旧習旧弊によってであった。「官家」とは官位の高い家、貴人の家だが、小林氏は第十一章で言っている。

―過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。……

「あたかも財物の如く伝承されて」を一言で言えば、古来の古記録や古文書といった学問的遺産の多くは何百年にもわたって官家、公家の秘蔵に帰し、官家、公家はそれらを代々家蔵しているということを鼻にかけるだけで外部の閲覧は許さず、官家、公家自身がそれらを繙き、「過去の人間から呼びかけられる声を聞」くということすらもまったくないと言っていいまでの死蔵状態が続いていた。

ここで小林氏が言っている官家の世襲、家業、それがどれほど狷介かつ頑迷だったかの記録が水戸の彰考館に残っている。小文の第九回「あしわけ小舟を漕ぐ(下)」で見たとおり、水戸藩の第二代藩主、徳川光圀は、若くして修史の志を抱き、藩主となるや史書編纂のための「彰考館」を設け、全国から俊英学者を招聘して日本史の編纂事業を大規模に推し進めた。その成果が、今日、「大日本史」の名で知られる大部の史書なのだが、事は当初、けっして順風満帆ではなかった。順風満帆でないどころか、出帆早々、難題に直面した。

修史のために必須の古記録、古文書等、史料の蒐集が意のままに運ばない、という以上に、至る所で暗礁に乗り上げた。ひとえに官家、公家の狷介、頑迷という暗礁だった。徳川御三家の一角をもって鳴る水戸藩の藩主、徳川光圀のたっての懇望、懇請であったが、まるで通じなかった。官家、公家にしてみれば、水戸家といえども所詮は成り上がりの武家、当家は由緒も家格もちがうという意識が強硬だった。官家公家のこの武家蔑視は、水戸家に対してだけではなかった、「大日本史」に先立って徳川幕府が編んだ「本朝通鑑」も同じ苦汁を飲まされた。幕府の権威をもってしても京都の官家公家はしたたかだったのである。

光圀は、説得に腐心した。貴家は、古来の記録や文書を独り占めして何を誇ろうというのか、先々までこのままでは財産としての値打ちもないではないか、と言い、こうも言った。

―わが国にとって貴重きわまりない古記録や古文書はその大半が京都に集中している、もしまた京都に大火や地震が起ってそれらを焼失したとしたらもう取り返しがつかない。今回光圀が古記録、古文書の閲覧書写を願い出ているのは、まずは古記録、古文書の副本を東日本に置こうとしてのことだ、そうしておけば、もし京都に大火や地震が起ったとしても完全消失は免れ得る。……

光圀は、そうまで言って官家、公家の蒙を啓こうとした。光圀のこの言は、方便ではなかった、本心だった。こうして光圀の説得は徐々に功を奏し、光圀の要請に応じる官家、公家が相次ぐようになった。しかし、借覧は許されなかった。一件一件、水戸の彰考館から館員が出向き、何日もかけて現地で書写し、それを水戸へ持ち帰るということが繰り返された。

こうした官家公家に対する閲覧交渉は、光圀の前に先例がなかったわけではない。山鹿素行の「武家事紀」、徳川幕府の「本朝通鑑」ではすでに行われていた。だが、これらの先行例はいずれも小規模、光圀の規模とは同日の談ではなかった。彰考館の館員を何人も派遣して行った光圀の史料蒐集は京都に留まらず、奥羽地方から九州一帯にまで及んでいた。

 

この光圀の立志と行動力がなかったとしたら、どうなっていたか。契沖の「萬葉代匠記」も「古今余材抄」も現れておらず、宣長が契沖の「一大明眼」によって真の歌学に目覚めることもなかったかも知れないのである。

小文の第九回「あしわけ小舟を漕ぐ(下)」に書いたが、契沖は、天和三年(一六八三)頃、光圀の委嘱を受けて「萬葉代匠記」の執筆にかかり、貞享四年(一六八七)頃に初稿本を完成、さらに元禄二年(一六八九)、初稿本の全面改稿にかかり、翌三年、その結果を精選本として光圀に献じた。

初稿本は初稿本で、今日なお輝き続ける大著だが、光圀はそのすべてをよしとして満足はしなかった。契沖が叩き台として用いたのは、当時最も流布していた木活字本の寛永版本であった。契沖は他の本はほとんど見ず、寛永版本だけで本文改訂や改訓を行い、註釈を施していた。契沖にはそうするほかに術はなかったのだが、光圀の不満はまさにそこにあった、契沖の用いた本が寛永版本だけであったことにあった。

そこで光圀は、水戸家で集めた四種の写本を校合した「四点萬葉」とその他の本を契沖に貸し与え、契沖は、それらの、より精密な校訂本を叩き台として再び「萬葉集」全巻を読み解いた、それが精選本だった。初稿本から精撰本まで、要した歳月はわずかに七年ほどだった。契沖の学識の広さ深さと集中力を思うべきだが、光圀の識見にも思いを致すべきである。光圀が手広く手堅く本を集めていたればこその七年だったのである。

かくして水戸光圀は、小林氏の言う「物的遺産の精神的遺産への転換」を図り、「過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じた」先覚者のなかでも格段の第一人者であった。

 

そしてこの、日本の学芸、学問からの「精神の脱落」に、朱子学が拍車をかけていた。

中江藤樹が出現するまでの日本の学問と言えば、儒学と禅であったが、禅はともかく儒学は人間本来の「精神」を完全に締め出していた。小林氏は、藤樹に始り仁斎、徂徠、宣長と続いた学者たちの精神は、「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた」と言い、彼らの学問は道学であったと言っているが、まずもってこの「道学」という言葉には注意が要る。このことは第三回「道の学問」でひととおり書いたが、「道学」とはそもそもは中国宋代(九六〇~一二七九)に成った新儒学、「宋学」の別称であった。

岩波書店の『哲学・思想事典』等によれば、「道学」という言葉は仏教や道教でも使われたが、宋学を興した程明道、程伊川ら以後は、おおむね彼らの学派を指すようになり、そこで言われた「道」は、自己修養の道、徳治の要諦等を指していた。「徳治」とは、徳を具えた王が国を治める意である。宋はその後、現在の浙江省杭州に都を移し、一一二七年以後は「南宋」と呼ばれるようになった。その南宋の初期にしゅが現れ、それまでの「道学」を集大成して今日言われる朱子学を打ち立てた。

その朱子学は、理気二元説を説いた。理気二元説については第二十三回「『独』の学脈(中)」で概観したが、宇宙は根本原理である「理」と、質量としての「気」から成り、この両者が相伴って万物をなす、と朱子学は言い、物質を形成する素材およびその運動を「気」とし、「気」を統制する原理であり、その運動に内在して全存在を貫く根拠となるものを「理」とし、したがって「気」としての人間は、「理」をよく理解し「理」に忠実に生きようと努力する、それが人間の道である、人生の目的であると説いた。朱子学が「道学」と呼ばれたのはこういう教説によってである。これはたとえば小学校の先生が、抽象的、観念的な日々の実行目標を黒板に書き、これを生徒に一方的におしつけて遵守を迫るようなものであった。そこでは、人それぞれの「自発的精神」は当然のように無視され抑圧された。

 

4

 

だが、朱子学の「道学」は、ここまでである。小林氏が仁斎、徂徠の名を挙げて言っている「彼等の学問は、当時の言葉で言えば、『道学』であり」の「道学」は、朱子学の別称としての「道学」ではない。藤樹、仁斎、徂徠たちによって「精神」が注ぎこまれた、日本の「道学」である。しかもそれは、朱子学の換骨奪胎などではなかった、まったく新しい学問の創造であった。藤樹、仁斎、徂徠たちが、理論や観念によってではなく、人間生活の有りようをありのままに見て「道とは何か」を問う学問を生み出したのである。したがって、「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた彼等の精神」、その「精神」を端的に言えば、何事につけても人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能である。その動因を、小林氏は第五十章で次のように言っている、

―宣長の考えによれば、「禽獣きんじうよりもことわざしげく」、「物のあはれをしる」人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省のワザは、言わば、人の一生という限定された枠の内部で、各人が完了する他はないものであった。しかし、其処に要求されているような根底的な直観の働きは、誰もが持って生れて来た、「まごころ」に備わる、智慧の働きであったと見ていい。……

 

溝口さんが探索してきた小林氏の「精神」という言葉は、どれもがそういう背景を負っていた。いずれ溝口さんには、今回の自問自答を敷衍して本誌への寄稿を頼むつもりだが、そのときにはぜひとも溝口さんが精査した「精神」という言葉が含まれる「本居宣長」のくだりをすべて抜粋列挙して下さることを今のうちにお願いしておこう、そして読者には、溝口さんの自問自答はもちろんだが、そこに列挙される「精神」という言葉の用例をもすべて熟読して下さることをお願いして、ここには一か所、私が今回、溝口さんのおかげではっとなるほどの覚醒に誘われた第五十章の一節を引かせてもらう。

―宣長は、「雲隠の巻」の解で、「あはれ」の嘆きの、「深さ、あささ」を言っているが、彼の言い方に従えば、「物のあはれをしるココロウゴき」は、「うき事、かなしき事」に向い、「こゝろにかなはぬすぢ」に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理なく意識化、或は精神化が行われる道を辿るものだ、と言う。そういうココロのおのずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのである。この観念は、私達が生活している現実の世界に在る何物も現してはいない。「此世」の何物にも囚われず、患わされず、その関わるところは、「彼の世」に在る何かである、としか言いようがない。この場合、宣長が考えていたのは、悲しみの極まるところ、そういう純粋無雑な意識が、何処からか、現れて来る、という事であった。と言って、こういうところで、内容を欠いた抽象観念など、宣長には、全く問題の外にあった。……

これこそは、小林氏が、溝口さんが自問自答で言っていた「小林先生は『精神』という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、本を書き終わる頃には、宣長の『精神』と『遺言書』が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか」に大きくうなずいている文章であり、宣長があの類い稀な「遺言書」を書くに至った理由の正鵠と言えるであろう。

 

本来ならば、本誌にはまず塾生諸賢の自問自答を載せ、必要に応じてそれを私が後追いする、というのが順序だが、今回は質問者の溝口さんを差し置いて、私が抜け駆けするかたちになった。この非礼は溝口さんにも読者諸賢にもお詫びし、ほんの一言、ここに釈明を付記させてもらう。

冒頭で述べたとおり、今回は徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」としっかり向き合うつもりでいた。ところが、その前に溝口さんの自問自答に立ち寄り、溝口さんが小林氏の「精神」に注目していることを知って翻然と私に閃くものがあった、「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」は、徂徠の「学説」などではない、「精神」である、「精神」の歎声である、そう閃いた瞬間から、私は小林氏の「本居宣長」での「精神」の何たるかを、多少なりとも明らめないではいられなくなったのである。

 

5

 

さて、ここからは余談である。今回の主題からすれば余談であるが、この機会に聞いておいてもらうに越したことはないと自負する余談である。

水戸光圀の今日一般に知られている名は水戸黄門であろう。「黄門」は中納言の唐名で、光圀が権中納言であったところからそう呼ばれたのだが、水戸黄門と言えば助さん格さんである。だがこれは、幕末から明治にかけて生まれた講談「水戸黄門漫遊記」の話であり、史実の光圀は全国漫遊などはしておらず、遠出と言っても精々鎌倉の寿福寺に赴いた程度である。

したがって、助さん格さんも虚構なのだが、モデルはいる。彰考館で修史に励み、ともに彰考館総裁となって世に知られた佐々十竹じっちく(通称、介三郎)と安積澹泊(通称、覚兵衛)である。光圀の命を受けて全国の名家へ古文書の書写蒐集に赴いた彰考館員たちが、「漫遊記」では佐々介三郎と安積覚兵衛の名を借りて、水戸黄門のお供とされたのである。水戸黄門の諸国漫遊自体が、彰考館員たちの史料採訪旅から想を得たかとも言われている。

(第二十五回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十四 「独」の学脈(下)

 

1

 

前回すでに引いたが、小林氏は第十章で、次のように言っている。

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学こぶんじがく」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……

伊藤仁斎の古義学については、前回、小林氏の文脈に沿ってその成り立ちを辿ったが、荻生徂徠の古文辞学については、それがどういう学問であったか、どういう経緯で成り立ったか、小林氏はほとんど書いていない。第三十二章に至って、宣長の学問が徂徠学の影響下にあったことを考察する、そこに、

―徂徠の主著と言えば、「弁道」「弁名」の二書であるが、彼は、ある人の為に、二書の内容をとって、平易な和文を作った(「徂徠先生答問書」)。「答問書」三巻は、「学問は歴史に極まり候事ニ候」という文句で始まり、「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候」という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない。即ち「古文辞学」と呼ばれた学問の体裁なのである。……

―言葉の変遷という小さな事実を、見詰めているうちに、そこから歴史と言語とは不離のものであるという、大きな問題が生じ、これが育って、遂に古文辞学という形で、はっきりした応答を迫られ、徂徠は、五十を過ぎて、病中、意を決して、「弁道」を書いた。書いてみると、この問題に関して、彼は、言わば、説いても説いても説き切れぬ思いをしたのであるが、その姿が、其処によく現れているのである。……

と言われているだけである。

むろんその第三十二章から第三十三章を精読すれば、古文辞学の何たるかは髣髴ほうふつとしてくるのだが、いま第十章で小林氏の言わんとしているところを呑み込もうとすれば、やはり古文辞学とはどういう学問であったか、少なくともその輪郭は目にしておく必要がある。なぜなら、小林氏は、仁斎から徂徠へと、「古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された」と言った後、ただちに次のように言うからである。それも、改行なしで、である。

―これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出かみだした彼等の精神は、卓然として独立していたのである。……

小林氏の文章には、論理の飛躍が多いとよく言われるが、あるいはここもそう言われているかも知れない。仁斎から徂徠へと、古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された、ここまではいちおう納得できる、だがそれが、なぜ古典研究上の歴史意識の発展と呼べるのか、唐突感が拭えない。しかも、小林氏は、そういう読者の唐突感は一顧だにせず、続けてやはり、改行なしで、

―言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。……

と、言って、「道とは何か」という問いまで掲げ、小林氏は一目散に突っ走る。

だが、これは、けっして論理の飛躍などではないのである、小林氏にしてみれば、論理の飛躍どころか、「古文辞学」とはどういう学問であったか、その結論なのである。この結論は、当然ながら氏が古文辞学なるものの心髄を見ぬき、見極めたうえで言っているのだが、「本居宣長」に荻生徂徠を初めて本格的に登場させる第十章において、「これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが」と、いきなり「歴史」という言葉を持ち出してきたについては確たる理由がある。徂徠は、早くから宋儒、朱子学に没入していた、しかしあるとき、ある偶然から、一気に古文辞学に目覚めた、その目覚めの決定的な動因が、「言葉も変遷する、言葉にも歴史がある」ということを、自ら発見した驚きにあったのである。

だが、小林氏は、その経緯、すなわち徂徠の古文辞学者としての実生活にはまったくふれず、徂徠が実生活から抽象した学問の思想、すなわち「学問は歴史に極まり候事ニ候」、「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候」へと直行する。この直情径行は、小林氏の流儀の一典型である。

しかし私は、やはり徂徠の実生活を追うことから始めたい。とにもかくにも古文辞学の輪郭なりと目にしないでは、小林氏が到達した徂徠の思想という高峰への道は踏み出せない、踏み出せたとしても観念論に迷いこんでしまうであろうことが明らかだからである。

 

 

2

 

ひとまず、『日本古典文学大辞典』(岩波書店)、『日本思想史辞典』(ぺりかん社)等に予備知識を求めてみよう、古文辞学とは、荻生徂徠が中国明代の古文辞派の示唆を受けて唱えた新学問である。

中国では、明代に古文辞派と呼ばれる文人たちが、それまで規範とされていた宋代の詩文を退け、文は秦・漢に、詩は盛唐に範を取る擬古主義的な文学運動を始めた。秦・漢の文、それがすなわち古文辞である。その運動の代表的存在であった李攀竜りはんりょう王世貞おうせいていらの詩文集を、四十歳の頃、偶然入手し、衝撃を受けた徂徠は、彼らにならって擬古主義的文学運動を起した。こうして始った蘐園けんえん派と呼ばれる徂徠一門の詩文は、八代将軍吉宗の時代の享保から九代家重、十代家治時代の宝暦にかけて一世を風靡した。

徂徠は、それと同時に、李攀竜、王世貞の示唆によって詩文の歴史的変遷を見る目を得、熟読、実作という古文辞理解の要諦も心得た。それが小林氏も言っている「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なである。徂徠は、今文今言、すなわち現代の文章や言葉で古文古語を解そうとするな、ひたすら古文辞に習熟することで古文古語に即した古意を得よと言い、そしてついに、古文辞のありように相即したいにしえの光景、すなわち「礼楽」を行き渡らせた先王のまつりごとの跡を目の当りにした。「礼」は礼儀で、社会の秩序を保ち、「楽」は音楽で、人心を感化する作用があるとして、古代の中国においてともに最重要視されていた。「先王」は、遠い昔の徳の高い王の意であるが、具体的には古代中国に出現した七人の統治者、古伝説上のぎょうしゅんに始り、王朝の創始者いん王朝の創始者とう、周王朝の創始者文王、武王、周公を指して言われる。

 

徂徠は、偶然入手した李攀竜、王世貞らの詩文集に、衝撃を受けた。その衝撃の経緯と実態は、日本思想大系『荻生徂徠』(岩波書店)の吉川幸次郎氏による解説、「徂徠学案」に精しい。この吉川氏の「徂徠学案」を、まずはしっかり、古文辞学とは何かを教わるために読んでいこうと思う。吉川氏のこの文章を、小林氏も熟読していたはずなのである。

吉川氏は、中国文学の泰斗として夙に著名だが、日本近世の学問にも造詣が深く、日本思想大系『荻生徂徠』『本居宣長』両書の校注者の先頭に立ち、昭和五十年には岩波書店から『仁斎・徂徠・宣長』を出し、小林氏の『本居宣長』と同じ年、昭和五十二年には筑摩書房から『本居宣長』を出している。

小林氏は、吉川氏の「徂徠学案」を読んでいた……、そこを私は、小林氏から明確に聞いたわけではない。にもかかわらず、熟読していたはずであるとまで言うのは、「本居宣長」の『新潮』連載中、小林氏は折あるごとに吉川氏の示教を仰いでいたし、吉川氏は随時、読後感を手紙に書いて送ってきていたからである。その吉川氏に報いようと、『本居宣長』の刊行後、小林氏は京都へ赴き、気心の知れた行きつけの店へ吉川氏を招いて謝意を表した。小林氏七十五歳、吉川氏は七十三歳の冬だった。

 

そういう次第で、以下、できるだけ吉川氏の文章を忠実に引き、吉川氏の直話を小林氏の傍で聴かせてもらうような気持ちで読んでいく。が、何分にも原文は、基本的には専門研究者を念頭において書かれている、そのため、ところどころ、一般読者は読み煩うかと懸念される表記や言葉遣いが見受けられる。ついては、その種の懸念の湧く箇所は、文意に影響しない範囲で表記や言葉遣いの一般化を図らせてもらおうと思う。この点、吉川氏にはげてご宥恕をいただけるよう懇願し、さっそく読み始める。日本思想大系『荻生徂徠』はA5判の本で総頁数八三一頁、そのうち吉川氏の「徂徠学案」は一一一頁に及んでいる。

 

吉川氏は、「徂徠学案」を「一 学説の要約」「二 第一の時期 幼時から四十まで 語学者として」と書き進め、「三 第二の時期 四十代 文学者として」で、徂徠の李攀竜、王世貞との邂逅に立ち会う。

―藩主吉保の厚遇に甘えつつも、けっきょくは語学の技術者としての柳沢藩邸の生活、また将軍綱吉の儒学のお相手という光栄と束縛、その中にいた徂徠に、衝撃を与えたのは、明代十六世紀後半の古典文学者、李攀竜、あざな于鱗うりん、王世貞、号は弇州えんしゅう、この二人の著者と四十歳の頃に邂逅し、宋代の文学が、文学の堕落として忌避され、詩、文ともにより古い文学との合致をめざすのを読んだことによる。この衝撃によって、従来は宋ないしは宋的な詩文を実作の典型としていた惰性から、徂徠は文学の実作者としてまず脱却する。そうして李氏王氏とともに、散文は西紀前、秦漢の「古文辞」、詩は、古体すなわち自由詩型においては三世紀以前の漢魏、近体すなわち定型詩の律詩絶句においては八世紀前半の盛唐を排他的に典型とし、その完全な模倣をもって、新しい文学の主張とした。ただし、儒学説はなお宋儒を離れない。しかしまず宋の文学を捨てることが、次の時期である五十歳以後、儒学説においても宋儒を捨てて新しい学説を樹立する前提となったのであり、以後の彼のすべての発足点は、李王(李攀竜と王世貞/池田注)の書との邂逅にある。この邂逅を、彼は「天の寵霊」、天の特別な恩寵によるとしている(「弁道」まえがき、及び「屈景山に答う」)。……

李攀竜、王世貞との出会いが、徂徠に詩文の実作、さらには古文辞学への目をひらかせたというのである。だが実際は、今言(現代語)でたやすく出会いと言ってしまえるような出会いではなかった、出会った後にたいへんな苦労を味わうことになった出会いだった。

―彼の晩年の弟子である宇佐美灊水しんすいが、師の遺著『古文矩』を、明和元年に刊行したが、その序文によれば、ある蔵書家が破産して庫ごと売り払うと聞き、本好きの徂徠は、家財の全部を売り、なお足らぬところは借金して一括ひきとった。その中に、李王二家(李攀竜と王世貞/池田注)の書が偶然含まれていたというのである。筆者不明の『蘐園けんえん雑話』も、宇佐美からの聞き書きとして同じことを言い、かつ一括購入の額は百六十金、徂徠三十九歳か四十歳のできごととする。……

―得たところの二家の書とは、いずれも詩文の全集であって、李の『滄溟そうめい集』十六巻、王の『弇州えんしゅう山人四部稿』百七十四巻であったはずである。多作家の王は、他にも多くの著書を持つが、李は他に著書がない。もっとも上総かずさ時代の徂徠の読書として上述した『唐詩訓解』など、著者編者の名を李に仮託したものは別である。……

―李攀竜という名、王世貞という名は、李に仮託された『唐詩訓解』その他によって、徂徠は早くから知っていた。二人の文学の傾向、ことに詩のそれも、何種かの明詩の選本が、早く輸入され、あるいは覆刻されていたことによって、向学な彼の知識にあったに相違ない。今は全集を得て、二人の文学の全貌に接することとなったのである。……

―李の『滄溟集』、また大きな巻数をもつ王の『四部稿』、いずれも中国の詩文集の常として、実作の集積であり、議論の書でない。まだしも王の『四部稿』は、詩約三千首、文約二千首のほかに、附録として文学評論の巻「芸苑巵言しげん」をもつが、李の『滄溟集』は、詩約千首、文約五百首、すべて実作である。文学者の伝記、他人の詩文集への序文、また書簡には、文学論の断片が見いだされるが、文章のおおむねは、行政官なり軍人の伝記、それらの赴任を送る文章、学校神社などの創建あるいは改修についての叙述などであり、詩はそれらを素材とするoccasional poemsなのを大多数とする。……

 

そして、ここからが、李攀竜、王世貞との真の出会いである。

―徂徠の感心したものは何であったか。両人の言語の緊迫である。ことに文章の文体として現れるそれである。従来読みなれて来、またみずからの実作の典型として来た宋代の文章、すなわち欧陽修と蘇軾そしょくを代表者とするそれ、またすなわち李王二氏が文章の堕落として排撃これつとめるそれとは、完全に異質であると感じられたことである。そうして久しく模索していたものが、ここにあるという予感を、おそらくはもった。……

―しかし、しばらくは驚きとともに、当惑の中にいた。従来から読みなれた宋代の文章と、文体がちがうばかりでなく、特殊な難解さに満ちる文章だったからである。しかしやがて難解の主因となるものを見いだした。二家の文章は、典型との強い合致を求める結果、典型とする古典、最も多くは『史記』、ついでは『左伝』『戦国策』など、それらの成句を、自己の表現しようとする事態の表現として、一字一句ちがわぬ形で使い、その綴りあわせをもって、みずからの文章とすることであった。……

―一例として、おなじく「古文辞」の一党である友人徐中行じょちゅうこうの父の伝記「長興の徐公敬之の伝」(『滄溟集』二十)は、次のようにはじまる。「公は名はかん。始めまずしきに居りし時、まちの諸生の間に遊ぶも、能く厚く遇せらるるし。之れを久しくして弟子に室に里中に授く。其の好みに非ざる也」。はじめは同郷の青年たちから相手にされず、寺子屋の教師をいやいやしていたという事態をいうが、そのうち「始居約時」という表現は、『史記』の「張耳陳餘列伝」に、「張耳陳餘、始居約時」すなわち「張耳と陳餘とは、始め約しきに居りし時に」というのをそのまま使い、「遊邑諸生間、莫能厚遇也」というのは、おなじく『史記』の主父偃しゅほえんの伝の「遊斉諸生間、莫能厚遇也」すなわち「斉の諸生の間に遊ぶも、能く厚く遇せらるるき也」、それをやはりそのまま使う。以下千字ばかりのこの伝記の文章、ほとんどそうである。あるいは李攀竜の文章のすべてが、そうした形にある。徂徠には、そのことが衝撃を与え、以後の新学説樹立の契機となった。……

―しばらくは読みにくさに閉口した李王二家の文章の、読みにくさの主因がそこにあることを発見したかれは、李王がみずからの文章のために句をひきちぎってきた原典どもの原文を、読み返してみた。むろんこれまでにも読んでいたのを、このたびは李王の文章との関係を考慮の中心におきつつ、読み返してみた。そうしてさらにいくつかのことを発見し、また発見の結果にもとづいて、いくつかの主張を創始した。……

 

こう言って吉川氏は、「(1)『古文辞』の実作による『古文辞』原典の把握」と見出しを立て、

―李王の難解の秘密、また文体の秘密が、そこにあることを発見してのちの徂徠は、単に李王の文章が読めるようになったばかりではない。以下のことを発見した。このように李王が原典の句をひきちぎって来て、自己の表現しようとする事態の表現に転用することにより、いいかえれば自己身辺の経験を原典の句に充填することにより、原典の句そのものが、急にはっきりと具体性をもって把握されて来ることである。まわりくどい注釈を通じて原典を読むよりも、ずっと直接に、生き生きと把握される。……

―『史記』にもいろいろ後人の注釈があるが、「張耳陳餘伝」の「始居約時」について、注釈は、「貧賤に在るの時也」と、いわでもの陳腐な訓詁を与える。そんな解説に頼らずとも、李の文を読めば、徐中行の父という近ごろの人間が、若いころにいた状況と同じ状況に張耳陳餘という古代の英傑も、その発足時にはいたということが、いきいきと身近につかめる。「主父偃伝」についても同じである。しからばここに原典把握の新しい方法がある。従来の方法は、原典をむこうに置いて読むという、いわば受動的な方法であった。そうではなく、能動的な方法として、李王のなしたごとく、みずからの体験を、原典の言語で書く。「古文辞」で書く。つまり原典の「古文辞」の中に自己の体験を充填する。そうしてこそ原典の「古文辞」は、自己の体験と同様に、自己身辺のものとして完全に把握される。そう考えた彼は、それを自己の学問の方法として利用した。それがすなわち彼のいわゆる「古文辞の学」である。……

―以上の経過を告白するのは、京都の堀景山、すなわちのちに宣長の医学の師となった人あての書簡である。書簡は、のち「学則」の附録の一つともなっているように、徂徠自身も重視する書簡であり、執筆は儒学説においても反宋儒の旗幟きしを鮮明にしてのちの、晩年のものであるが、李王の「古文辞」に邂逅してのおどろきののちに、如上の方法を考えついた経過を叙した部分を摘めば、「不佞ふねいは幼きり宋儒の伝注を守り、崇奉すること年有り。積習のざす所、亦た自ずから其の非を覚えざりき矣」。しかるに「天の寵霊にりて」、天の特別な恩寵により、「中年におよびて、二公の業を得て以って之れを読む」。王李二公である。「其の初めは亦た入るに難きに苦しめり焉」。能力者と自負する彼も、何ともとっつきにくかった。その原因は、「けだし二公の文はこれを古辞にる」。古代のみが生産した文学性に富む言語、それを李王の文章は史料としている。「故に古書に熟せざる者は、以って之れを読む能わず」であり、やがてさとったことは、「古書の辞の、伝注の解する能わざる者を、二公はこれを行文のさわりに発して渙如たる也。た訓詁をたず」。「伝注」すなわち注釈では要領を得ない箇所を、李王が自己の文章のさわりにとり入れることによって、ぱっとかがやき出し、注釈を不用にする。「蓋し古文辞の学派、だ読むのみならん」。それではだめであって、「亦た必ずこれを其の手指しゅしより出だすを求む焉」。筆をもつ自分の手から吐き出さねばならぬ。「能くこれを其の手指より出だせば、しこうして古書は猶お吾れの口より自ずから出づるごとからん焉」。早い時期の議論として、中国語を理解するにはその中へ飛び込んで中国語を日本語のごとく身近なものにせよという論理、それが今や古今を超越するものとしてはたらく。そうしてこそ「れ然る後に直ちに古人と一堂の上に相いゆうし」、昔の人と同じ座敷で挨拶を交わし、「紹介を用いず焉」。通訳はいらない、注釈はいらない、「豈に郷者さきには門墻もんしょうの外に徘徊し、人の鼻息を仰いで以って進退する者の如くならん」。注釈者の鼻息をうかがってうろうろしていたころとは、情勢がちがって来る。「豈に婾快ならず哉」。同じく「学則」の附録とした安積澹泊あての書簡でも、同様の経過をいい、且つこの勉強をした時期には、李攀竜の言に従い、後漢以後の文章には、一さい目をふれなかったという。……

 

次いでは、「(2)注釈の否定」と見出しを立て、

―このように「古文辞の学」によれば、秦漢の原典を原形のままに把握できるという認識は、注釈をもって、単に不用であるばかりでなく、反価値的な存在であり、原典の破壊であるという思考、それは早く上総の独学時代にきざし、また大奥の女中の素読の先生であることによってもつちかわれたらしいが、それを一そう決定的にした。上引の堀景山あての書簡は、宋儒の注釈の棄却を決定したのちのものであるが、中国後世の注釈の中国古代の原典に対する関係は、「冗にして俚」なる、冗長で卑俗な中国後代語をもって、「簡にして文なる」、簡潔で文学的な中国古代語を翻訳するものであって、原形の破壊であることは、日本語の「訓読」の中国語に対する関係と、同様であり、原文の「意」は伝え得ても、原文の「文采の粲然たる者」は「得て訳す可からず矣」とする。また別に詩人入江若水あての書簡に、「和訓を以って華書(中国の書/池田注)を読む」のは、「意」を得ても「語」を得ずといい、更にさかのぼっては、早く「訓訳示蒙」に、「詞ヲ得ズシテ意ヲ得ルモノハ必ナヒコトナリ」という。それらは、日本語による中国語のいいかえを破壊とするのであったが、今や中国語による中国語のいいかえも破壊だとする。要するにすべてのいいかえは、破壊である。こうしてひとり宋儒のいわゆる「新注」のみならず、それ以前の「古注」、すなわち二世紀の鄭玄じょうげんを中心とする漢魏人の儒書注釈に対しても、限度をともなった尊敬をしか払わない。……

「簡にして文なる」の「文なる」を、吉川氏は単に「文学的な」とだけ言っているが、より具体的には、語彙の選択、そして言い回しに繊細な神経が張り巡らされ、それによってそこはかとない美や品性が感じられる、そういう文章の趣きを徂徠は言っているのであろう。「文采の粲然たる者」の「文采」はまさに文章の「あや」であり、「粲然たる」は「燦然たる」に同じであるが、『大漢和辞典』は「文」の字義の最初に「あや」を掲げ、その下に「色を交錯させて描き出した系統のある模様」の項目を立てて典拠を数々挙げている。そして、今日「文章」という言葉に使われている場合の「文」の字義、「語句を綴って思想感情を表したもの」は、それよりかなり遅れて掲げられている。ここから推せば、「文」の本来の字義は「あや」であり、「文章」の「文」も、いくつかの色を交錯させて描き出される模様のように、いくつかの言葉を交錯させて織り上げられる言葉の模様という意味合が、比喩であったにせよ本来だったのではないだろうか。だとすれば、「簡にして文なる」の「文」はまちがいなく「あや」であり、「文なる」は、言語表現に適切な配慮が施されることによっていわく言い難い風韻が感じられるようになっている、そのさまを言っているのであろう。

 

次いでは、「(3)後代の中国文と非連続であること」である。

―しかしより重要な思考は、次にある。なぜ後世の注釈は、そのように秦漢の「古書」を正しく解釈し得ないのか。秦漢の古書の文章は、「古文辞」すなわち古代独特の修辞であって、古代に独特なものであるゆえに、後世の中国文とは非連続なのである。そもそも「古文辞」を構成するものは「古言」であり、後代の「今言」と非連続なのである。なぜ非連続かといえば、秦漢の「古文辞」は「簡にして文」なのに対し、「今言」は「冗にして俚」である。この非連続を生んだ最もの原因は、助字を多く挿むか挿まないかにある。最初、貧乏なころは、人から馬鹿にされたという事実を、後代の宋的な「今言」ならば、「其始居於貧約之時、莫能見厚遇也」などと長ったらしく言うであろうところを、省き得るだけの助字を省いて、「始居約時、莫能厚遇」と表現を凝縮させるのが「古文辞」の「古言」である。この非連続は日本語が中国語との間にもつそれと同じである。日本語はテニヲハまた動詞の語尾変化、それらを必須とするゆえに、せっかく「簡にして文」な李于鱗の原文、「始居約時、莫能厚遇」を、「始メ約ニ居リシ時ハ、能ク厚ク遇セラルルシ」と、冗長にしてしまう。あるいは中国後代の「今言」さえも、日本語による訓読は、「其ノ始メ貧約ニ居リシ時ハ、能ク厚ク遇セルル莫キ也」と、一そう冗長にしてしまう。つまり日本語はこのように常に「冗にして俚」なのに対し、中国語は一般的には「今言」といえども「簡にして文」なのであるが、同様の非連続の差違が、中国語自体の中でも、「古文辞」を構成する中国古代の「古言」と、中国後代の「今言」との間にある。要するに二者は、ひとしく中国の文章語であるけれども、同一の言語でない。更にあるいは後代の中国語の中でも、文章語と口語を比較すれば、後代の文章語の「其始居於貧約之時、莫能見厚遇也」が、後代の口語では更に冗長に、「起初他在窮約的生活的時候児、他没能勾受到很好的待遇」などとなるであろうことも、およそ言語には「簡にして文」なるものと「冗にして俚」なるものとが、非連続としてある旁証となる。このように中国「古文辞」の「古言」と、中国後代の「今言」との間にある非連続、その関係が認識されないため、中国後代の注釈は「古文辞」の「古言」をば「今言」と同じ条件で読み、「今言」をもって「古言」を翻訳する。ゆえに誤謬だらけなのである。学問をするには、そこのところをまずよく認識しなければならない。以上、「訳文筌蹄せんてい」の「題言」、ただし挙例は私(吉川氏/池田注)の作文による補入である。……

「訳文筌蹄」は徂徠の著作で、一言で言えば漢文学習のための高度な字書である。この書については前回、次のように記した。徂徠の父方庵は、五代将軍徳川綱吉の上野こうずけの国舘林たてばやし藩主時代、綱吉の侍医であったが、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総かずさの国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされた。赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じた。暮しは困窮をきわめたが、その間、「訳文筌蹄」六巻を著し、これによって名を知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて将軍綱吉に謁した……。

その「訳文筌蹄」は、日本思想大系『荻生徂徠』の「荻生徂徠年譜」には、元禄五年(一六九二)二十七歳の頃、門人に口授筆記させ、正徳元年(一七一一)四十六歳の年、刊行したとある。ということは、徂徠が初めて世に名を知られた「訳文筌蹄」は写本だったのであり、吉川氏がそのつど言及している「題言」は、板行に際して書き足されたのである。徂徠が李攀竜、王世貞と出会ったのは三十九歳ないしは四十歳の年であった。吉川氏は「徂徠学案」の「第二の時期 四十代 文学者として」をほとんど「訳文筌蹄」の「題言」に拠って書いている。徂徠の古文辞学の自信、確信は、李攀竜、王世貞との出会いから数年かけて、艱難辛苦のうちに固まったのである。ただし、『日本国語大辞典』は、刊行年を徂徠四十九歳から五十歳にかけてのこととしている、私にはその刊行年を、どちらがどうとも言うことはできないが、『日本国語大辞典』の説に立って顧みるなら、徂徠の古文辞学は、ほぼ十年の歳月を閲して打ち立てられたのである。

 

次いでは、「(4)『古文辞』の『古言』と『今言』の非連続は時代の推移を原因とすること」と立てて続けられる。

―この非連続は何によっておこったか。時代の変遷のためであるとする思考は、「訳文筌蹄」の「題言」には見あたらないが、次の時期の書である「学則」の第二則にはっきり現われる。「世は言を載せて以って遷り、言は道を載せて以って遷る」。各時代による言語の変遷ということ、現代われわれの認識としては普通であるが、彼以前の日本、ないしは中国では、いかようであったか。彼の思考は、たとい完全な創見がないにしても、一つの画期であったのではないか。少なくとも徂徠自身としては、新しい覚醒であったのであり、この覚醒以前は、宋人の文章も古代の文章の連続と誤認していたゆえに、宋人の文章を典型として、その雰囲気の中に安んじていたことが、宋人の儒学説に安住し、古典の真実の獲得を困難にしていたと、藪震庵あての書簡にいう。いわく、聖人の「道」は、今や直接には知り得ない。それはただ書物の「辞」によって知られる。ところで「辞の道も亦た時とともに汚隆する也」。汚隆は盛衰の意、つまり「学則」の「世は言を載せて以って遷る」である。そうして前にも引いたように、「不佞も初めは程朱の学に習い、而うして欧蘇の辞を修む」と、宋の儒学と文学を勉強して、「其の時にあたりては、意に亦たおもえらく先王孔子の道はこに在り矣」としていたと、懺悔をしたうえ、この錯誤の原因は、「是れ他無し、宋の文に習いし故也」。宋の欧陽修や蘇軾の文学を、古代とは非連続であることに気づかないままに、勉強していたからである。「後に明人の言に感ずる有りて」、李王二氏による覚醒である。「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」。かく言語の時代による非連続に気づくことによって、はじめて宋代の言語による文学の雰囲気から脱却して、正しい道に進み得たとする。……

「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」、李攀竜、王世貞と出会って初めて、言葉にも歴史があるということを知ったと言うのである。

 

次いでは、「(5)『古文辞』優越の理由その一、叙事」である。

―なぜ「古文辞」は、このように他の言語とは非連続に優越するのか。その理由として徂徠がまずいうのは、それが事実を叙する文章であることである。文章には叙事と議論とがあるとする意見は、宋文から脱却する以前の「風流使者記」にすでに見えるが、秦漢の「古文辞」、またそれにならう李王の散文が、「簡にして文」であり得るのは、議論よりも叙事を主とするゆえであり、叙事こそ文章の本来であるという思考が、「訳文筌蹄」の「題言」ではなお幾分の猶予をのこしつつ見える。次の「蘐園けんえん随筆」巻四では、「六経りっけいの文の如きは、皆叙事なり」といい切り、『左氏春秋』『楚辞』『史記』『漢書』、みな名文の代表だが、どれも議論でないと、いい添える。こうして事実を叙述する文章としての「古文辞」の尊重は、やがて事実そのものの尊重へと赴く。次期における儒学説の結論が、「六経」の内容について、「礼」と「楽」は「事」、すなわち事実そのものであり、「詩」と「書」は「辞」、すなわち事実と密着した修辞であるとする主張、そうして「事」と「辞」とを総括する語が「物」であり、「六経」は「其れ物」、すなわち標準的事実にほかならぬと「学則」第三則でなされる宣言、それら後来の儒学説、みなこの時期の文学説に発足しよう。……

「六経」とは、先述の七人の先王が設定した政治の方法、すなわち「先王の道」を記録した六種の経書けいしょ(儒教の最も基本的な教えを記した書物)で、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。『書』は最初から書物として存在していたが、元来は口頭歌謡であった「詩」、元来は実演の技術であった「礼」と「楽」を孔子が書物化し、『易』『春秋』、これらも「先王の道」が記されたものと孔子が認定して「六経」とした。以上のことは吉川氏「徂徠学案」の「一 学説の要約」に書かれている。

 

次いで、「(6)議論の否定と信頼の必要」と立て、

―このように叙せられた事実そのものの尊重へとのびるべき叙事の文章の尊重に対し、議論の文章は嫌悪される。嫌悪は、議論の一種である注釈を反価値とする段階で、すでにきざしているが、「訳文筌蹄」の「題言」では、宋人の文章が、助字を多く加えて「冗にして俚」、非文学であり非真実であるのは、議論にばかりふけり、文章の正道である叙事の能力を失ったからだとする。……

―「学則」の第三則に、「れ之れを言う者は、一端を明らかにする者也。一を挙げて百を廃す。害ある所以なり」。「言う者」とは議論者をさす。なぜ議論は「一端」片はしを「明らか」にし得るのみで、一方的であるのか。複雑に分裂する現実のすべてを、人間は知り得ないとする思考が基底にあるほかに、特殊な思考が併存する。議論は必ず論敵を予想し、それを克服しようとするゆえに、必ず一方的であり、誤謬におちいるとする思考である。宋儒はことにそうである……

 

これを挟んで、「(7)『古文辞』優越の理由その二、修辞による事実との密着」が続けられる。

―何ゆえに「古文辞」は、事実に密着したすぐれた言語であるのか。古代人の特殊な修辞法によってそうなのである。「訳文筌蹄」の「題言」にはいう、言語にまず必要なのは、「達意」すなわち事実の伝達である、『論語』の「衛霊公」篇の孔子の語に、「辞は達するのみ」というようにである。同時にまた孔子は、『易』の「けん」の卦の「文言ぶんげん伝」で、「辞を修めて其の誠を立つ」という。つまり「達意」と「修辞」の両者は、文章に必須な二つの条件である。まただからこそ更なる孔子の語として、『左氏春秋』の襄公二十五年の条に見えるものには、「言は以って志を足し」、言語は意思の充足、「文は以って言を足す」、修飾された文章こそ言語の充足、というのである。孔子は更につづけていう、言語の第一段階は、「もの言わざれば誰か其の志を知らんや」であり、「達意」は言語の基礎であるけれども、「言のかざらざるは、行わるること遠からず」、修飾されない言語は、広い普及力をもたない。このように、「修辞」は「達意」とともに文章の必須の条件である。……

―古代の「古文辞」の中でも、より多く「達意」に傾くものと、より多く「修辞」に傾くものと、二種があるのは事実だが、大体としては両者が渾然と分裂していないのが、西紀前の前漢までの「古文辞」の文章である。それが紀元一世紀二世紀の後漢から六朝・唐初にかけては、「修辞」偏重におちいったのを救わんがため、「達意」でおしかえしたのが、唐の二大散文家、韓愈かんゆと柳宗元である。ところが宋の欧陽修以下に至っては、「達意」のみが惰性的なものとなり、文章が堕落した。それをこんどは「修辞」で振るいおこしたのがすなわち李攀竜、王世貞であり、「大豪傑と謂う可し矣」。以上は「訳文筌蹄」の「題言」の説に、『左氏春秋』の孔子の語を、他では彼がしばしば引くのを加えた。……

―つまり、「古文辞」とは、いにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである。あるいは「辞」という一字、それだけでもその意味だとするのは、次の書簡である。「れ辞と言とは同じからず。しかるに足下は以って一つと為す。倭人の陋也」。「辞」はただの言語ではない。あなたはそれを同一視している。日本人は冗長な「言」ばかりになれて、修飾された「文」を心得ないゆえの誤認である。「辞なる者は」、何か。「言のかざれる者也」。さればこそ古典にも、「辞をたっとぶとい、辞を修むと曰い、文は以って言を足すと曰う」。……

―このように「修辞」という属性が「叙事」という属性と併存することは、以下のことを結果する。すなわち「修辞」は「叙事」のための「修辞」であり、事実を言語に密着させるための「修辞」ということにならねばならない。また「修辞」があればこそ「叙事」が可能になり、文章が事実に密着し得るとしなければならない。堀景山あての書簡に、議論ばかりしている宋人の文章は、「辞をしりぞく。故に事を叙する能わず」というのは、まさしくその意味である。……

―またこのように事実に密着した「修辞」が「古文辞」であるとすることは、更にやがてその学説の結論として、「道」はすなわち「辞」において求められるという主張を完成して行ったとせねばならぬ。「道」を「辞」において求めるということは、「辞」をもって「道」を伝達する過程とするのには止まらない。そのような表白も見えないではない。藪震庵あての書簡に、古代から遠ざかったわれわれにとり、「其の得て知る可き者は、辞のみ」といい、また「故に今の以って準と為す可き者は、辞にくはし焉」というのなどは、なおその方向にある。……

―つまり「古文辞」は事実と密着した「修辞」であるゆえに、それ自体が事実であり、事実であるゆえに「法」であり「義」であり「先王の道」なのである。またこのように「修辞」こそ文章の正道であるとする文章論は、すべての事象が、修飾を価値とし、素朴簡単を価値としないという思考へとのびる。「弁道」また「弁名」の「文」の条に、「先王の道」、またその記載である「六経」は、修飾された存在すなわち「文」的な存在であるゆえに、至上の価値なりとする。……

言葉には、それを存在せしめる必須の条件が二つある、その一つを、徂徠は物事の伝達という意味の「達意」であると言い、もう一つは「達意」とともに孔子が強調している「修辞」であると言う。そして徂徠は、「達意」はどんな言葉にも当然の条件であるが、「修辞」は、それを欠いた言語でも言語として成り立つことは成り立つ、しかし、「古文辞」には、「修辞」は欠くべからざる条件である、逆に言えば、「修辞」を欠いた言語は「古文辞」とは呼べないと徂徠は言っている、という意味のことを吉川氏は言い、ここから「修辞」という言葉をめぐって様々に考察を重ねるのだが、私たちにはまず、孔子が言った「辞を修めて」、すなわち「修辞」と、現代語の「修辞」とを明確に識別してかかる必要があると思われる。

今日、「修辞」の「修」は「修飾」の「修」、つまりは「かざる」と解され、「修辞」という言葉は、「辞」の見栄えをよりよくする、あるいは増幅するといった意味合で使われていると言っていいだろう。しかもそこへ、英語「rhetoric」(レトリック)の訳語としての「修辞」がかぶさり、「辞」を社交的に、あるいは戦術的に装飾する、さらに進んで、相手の歓を「辞」で買う、といった、虚飾もしくは巧言のニュアンスまでが漂うに至っている。だが、孔子が言った「修辞」にも、徂徠が言った「修辞」にも、吉川氏が言っている「修辞」にも、そういった意味合は微塵もないことをまずはよく腹に入れたい。

なるほど、吉川氏の文中にも、「修飾された文章こそ言語の充足」とか、「修飾されない言語は広い普及力をもたない」とかと言われているが、これらの「修飾」は、現代語の「修飾」と同じではないのである。もし同じだったとしたら、それまでに吉川氏が縷々力説した「簡にして文」の「簡」と相容れなくなるだろう。吉川氏は、こう言っていた。

―そもそも「古文辞」を構成するものは「古言」であり、後代の「今言」と非連続なのである。なぜ非連続かといえば、秦漢の「古文辞」は「簡にして文」なのに対し、「今言」は「冗にして俚」である。……

もはや、言うまでもあるまい、現代語の「修辞」が孕む「修飾」という概念は、「簡にして文」どころか「冗にして俚」そのものなのである。

では、吉川氏の言う「修飾された文章」を、どう解すべきか。結論から言えば、「修飾された」は、「あやある」なのである。

先に「文」の字義を見て、「文」の本来の字義は「あや」であり、「文章」の「文」も、いくつかの色を交錯させて描き出される模様のように、いくつかの言葉を交錯させて織り上げられる言葉の模様という意味合が本来だったのではないか」と書いた。そしてそういうふうに織り上げられる言葉は、「繊細な神経を張り巡ら」して選びぬかれた言葉であり、それらが交錯することによって、一語一語では見られなかった美や品性の輝く文章が現れる、それらをさして吉川氏は「修飾された文章」と言っているのではないだろうか。

そのことは、後に続く吉川氏の文章自体によって裏づけられる。

―「古文辞」とは、いにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである。……

したがって、吉川氏の言う「修飾された文章」とは、それを書く人間の工夫もさることながら、最終的には言葉が言葉そのものの力によって己れを飾った文章、のいいなのである。言葉にそういう力を発揮させるために、人間は苦心し、神経を張り巡らせるのである。

吉川氏は、古文辞とはいにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである、と言った後さらに、「辞」という一字、それだけでもその意味であり、「辞」はただの言語ではない、「辞なる者は」何か、「言のかざれる者也」、だからこそ古典にも、「辞をたっとぶとい、辞を修むと曰い、文は以って言を足すと曰う」のであると言う。

「文は以って言を足す」とは、言葉というものは語意、文意の上にあやを具えて初めて事足り、十全に機能するようになる、の意であろう。このことについては、孔子が『左氏春秋』で、「言のかざらざるは、行わるること遠からず」、あやを具えない言語は広い普及力をもたない、と言っていたが、「古文辞」は、その語意、そして文意を、より深く、より広く、世に浸透させるに不可欠なあやを具えた言語の世界であり、「修辞」とは、そういうあやのにおいたつ世界を生み出すべく用語を的確に選び、整然と布置する行為をさして言った言葉である、と同時に、そうすることによって現れ出たあやのにおいたつ言語の全体、また文章の全体をとらえても言われた言葉と解し得るだろう。

言葉があやを具えるとは、言葉の一語一語が永い年月にわたって使われているうち自ずと色彩を帯び、語感という音を蓄え、そういう色や音が交錯することによって絵が浮び、音楽が鳴り、語意、文意以上のことが相手の視覚にも聴覚にも伝わるようになる、それを言うのであろう。

そこでさて、最初に還って「修辞」の「修」だが、『大漢和辞典』を引いてみると、「修」には、第一に「おさめる、おさまる、ととのえる、ととのう」という字義が掲げられ、次いで「つくろう、なおす」が掲げられ、その次に「かざる」がくる。ここから推せば、『易』の「辞を修めて其の誠を立つ」の「修めて」は、明らかに「かざって」ではなく「ととのえて」であると理解できるだろう。吉川氏も別途、朝日文庫『論語 中』では、『易』の「辞を修めて其の誠を立つ」は、言葉をととのえて誠実さを打ち立てる意であると説いている。

繰り返して言おう、徂徠が言った言葉の二つの必須条件、「達意」と並ぶ「修辞」に、現代語が帯びている「修飾」の意味合は毫もない。そこを吉川氏は次のように書いてもいた。

紀元一世紀二世紀の後漢から六朝・唐初にかけては、文章が「修辞」偏重におちいった、それを「達意」でおしかえしたのが唐の韓愈かんゆと柳宗元である、ところが宋の欧陽修以下に至っては「達意」のみが惰性的なものとなり、文章が堕落した、それを「修辞」で振るいおこしたのが李攀竜、王世貞であり、徂徠は「大豪傑と謂う可し矣」と言っている……。

李攀竜、王世貞の詩も文も、「簡」に徹しきっていた、装飾などは影すらなかった、そこはもう繰返すまでもないだろう。

 

次いで、「(8)『古文辞』の優越の理由のその三、含蓄」である。

―「古文辞」の優越の理由として、彼の主張するものは、更にある。種々の方向へと伸びるべき意味の可能性を、渾然と未分裂に包括した文体であることである。「訳文筌蹄」の「題言」に、「含蓄多くして、余味有り」。「題言」には更にいう、そうした文体のゆえに、「古文辞を熟読する者には、つねに数十の路径有り」。意味が数十の方向に放射される。しかも秩序をもった放射であって、「心目の間に瞭然として、条理みだれず」。ゆえに「読んで下方に到るに及んで、数十の義趣、漸次にはためかず、篇を終るに至りて、一路に帰宿す」。光彩陸離と放射された数十の路線が、やがて篇末に至って、はっきり焦点をむすぶ。それが「古文辞」である。後世の文章は、議論の分析を事とするため、放射するものは、ただ一本の線である。そればかり読んでいる人間は、「だ一条の路径を見るのみ」。要するに「古文辞」は、その「修辞」のゆえに、包括的な、ひきいだされるべきすべての可能性を内蔵するところの濃密な文章である。……

 

次いで、「(9)古代の事実の一般的にもつ含蓄」である。

―「訳文筌蹄」の「題言」には、「含蓄」はこのように古来の文章である「古文辞」の属性であるばかりでなく、古代の事実一般の属性であるとする思考が、言及されている。つまり古代の事実は、人間の事実の原形であり、後代の諸事実は、原形である古代の事実の中に含蓄されていたものの変化であるにすぎない。いいかえれば、後代の諸事実は、新しいように見えるものも、古代の事実を研究すれば、みなその中に未分裂のものとして含蓄されているとするのである。だから学問の方法は、まず古代の事実を押えてこそ、後代の事実がわかるのであり、文章の勉強もまた、「古文辞」からはじめねばならぬ。たとい含蓄のゆえに読みにくくとも、むしろ読みにくいゆえに、そこからはじめねばならぬ……

 

次いで、「(10)『古文辞学』の目的」である。

―こうして「古文辞」のみならず古代の事実は、後代に分裂した事実のすべてを含蓄する。ゆえにまず根本である「古」を押えよと、「訳文筌蹄」の「題言」は説きおこすのであり、同様の思考は、竹春庵あての書簡の一つにも見える。「且つ古なる者は本也、今なる者は末也」。ゆえに「流れに滞る者は、何んぞ其の源をらんや。後世の載籍は海の如し」、後世の書物は無数である。その中に沈没していては、「能く為す莫き也」、どうにもならない。「孔子も泰山に登りてのち天下を小さしとす」でないか。しかしこのように「古文辞」あるいは古代の研究からはじめるのは、なお学問の方法であって目的ではない。時間空間を超えてことならない人間の事実を、「古文辞」の研究によって確認し、ほりさげること、それこそが学問の帰結であるとする主張、それが「訳文筌蹄」の「題言」の結語となっている。……

―古今という時間、天地人という空間、その差違を超えて、パイプを通すのを学者の任務とする。私はそれをやる。「故に華と和とを合して之れを一つにす、是れ吾が訳学」。まず日本と中国の間にパイプを通すのである。そうして今や、「古今を合して之れを一つにす、是れ吾が古文辞学」。そう宣言する。……

 

次いで、「(11)『古文辞学』の方法」である。

ではどうしてパイプを通すか。「古文辞」の中に、自己を投入するのである。「古文辞」の通りの文体で、みずからの文章を書く。ことに「古文辞」の書の成句を、李王がしたように、自分が表現しようとする事態の表現として、せいぜい転用することが望ましい。これを摸擬であり剽窃ひょうせつであると評する者が、李王の周辺にも徂徠の周辺にもあった。堀景山あての書簡に彼は昂然と居直っていう、すべての学問は、そもそも模倣ではないか。またそもそも日本人が中国語を書くということが、模倣でないか。いかにもはじめのうちは、模倣であり剽窃であるかも知れない。しかし「久しく之れと化すれば」、「習慣は天性の如く」なり、「外り来たるといえども」、むこうにあったものが、「我れと一つと為る」。それがいやなら、学問などせぬがよい。「故に摸擬をとがむる者は、学の道を知らざる者也」……

 

次いで、「(12)『古文辞学』の資料」である。

―ではこのように古今に通ずる「古文辞学」のパイプのむこうの口となる文献は、何か。結論をさきに言えば、西洋紀元以前、つまり前漢以前の文献は、みなそれである。李王のいわゆる「文は則ち秦漢」が、すでにその意味であるが、徂徠の場合は、「世は言を載せて以って遷る」という思考の上に、前漢までは「先王の道」が確乎と存在した「世」、あるいはその延長であった「世」であるゆえに、みな事実と密着した修辞であるとする説明が、やがて「先王の道」への思考を深めたのちには加わる。……

―「六経りっけい」が最上の「古文辞」であることは、いうまでもない。「六経」を編定したのは孔子であって、孔子は、尭舜ら七人の「先王」のごとく「道」の作為者たる地位にいなかったけれども、このように「六経」を編定し、「先王の道」を後世に伝えることによって、作為者たる「先王」と同じく「聖人」の呼称を受ける。……

ここにもいま一度、記しておこう、「六経」とは儒学の根幹となる六種の経書けいしょで、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。ただし『楽記』は、秦の始皇帝による言論統制政策「焚書坑儒」の犠牲となって滅びたとされている。

 

 

3

 

吉川幸次郎氏「徂徠学案」の引用は、ここでひとまず措く。ひとまずというには随分多量に引用したが、私としては、小林氏が、

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した、古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……

と言ったあと、すぐに続けて、

―これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していた……

と言っている徂徠の歴史意識、それがどういうもので、どういうふうに徂徠はこれを摑み、咬出したか、そこを徂徠の実生活に即して目撃したいと希ったのが最初だった。

私の希いは、ただちに叶えられた。徂徠は四十歳の頃、明の李攀竜、王世貞との邂逅に恵まれ、同じ中国語でありながらそれまでなじんでいた宋の詩文とはまったく異なる言葉の世界、すなわち古文辞の世界が広がっていることを知った。

この古文辞との衝撃の出会いによって、徂徠は言葉も変遷するということに初めて気づいた。「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」、つまり、言葉にも歴史があるということを知ったのだ。時代による言語の変遷ということ、そこに気づいた徂徠の思考は、たとえ完全な創見とは言えないにしても一つの画期だったのではないかと吉川氏は言っている。その徂徠の画期的な発明は、まさに小林氏の言う卓然として独立していた豪傑たる精神の賜物であり、こうして徂徠に備わった古典研究上の歴史意識にはなるほど伊藤仁斎の歴史意識からの発展が明らかに見て取れ、同じく小林氏の言うとおり「道とは何かという問いで緊張していた精神」によって着色されていた。そのことが、吉川氏の「徂徠学案」を読んでいくにつれてどんどん明瞭になり精緻になり、気づいてみればこれほどの量にもなる引用、というより引き写しになった。

 

本来ならこの引き写しを縮約し、その結果としての要約で小林氏の言う徂徠の「歴史意識」を照らしだす、という手順を踏むべきなのだが、今回は、敢えてそれを行わず、そっくりそのままこの引き写しを読者にお届けしようと思う。なぜかと言えば、引き写しの縮約にかかろうとした私の手を、吉川氏の文体が制したからである。一言で言えば、吉川氏の文章の縮約は、吉川氏の文体の「破壊」そのものである。吉川氏は徂徠とともに言っていた、すべて言い換えは破壊である……、氏のこの言がまざまざと目の前に甦り、ただちに私は思い当った、吉川氏の文章は、荻生徂徠という事実を叙した修辞なのである、だからこの文章を縮約したり要約したりすれば、たちまち徂徠はいなくなってしまうのである。したがって、私が徂徠に関して何かを言おうとするなら、私の文章に吉川氏の文章をそのまま取りこむに如くはない、これを言い換えれば、拙いながら私の徂徠経験を、ということは小林氏に教えられた徂徠の学者像を、吉川氏の文章に充填する、そうすることによってこそ私は吉川氏の説くところを寸分違えず理解できる……。徂徠が李攀竜、王世貞に教わったことを私も実行するのである、いささか牽強付会の気味がないではないが、そう思った瞬間から吉川氏の記述の縮約ということは私の念頭を去った。今回の大半が吉川氏の文であるのは、以上のような経緯による。

もっとも、こういう勝手な措置が気儘に講じられるというのも、本誌『好・信・楽』がWeb雑誌であったればこそである。『新潮』とか『文藝春秋』とかの、古くからの紙の雑誌であればとてもこうはいかない。

 

では、なぜ、言葉も変遷するか。言葉は世とならっている、習い熟している、ゆえに世が遷れば言葉も遷る。徂徠はそれを知った、それを知って人間に与えられている言葉というものと新たに向き合った。すると脳裏に次々思想が湧いた。そこを小林氏は、次のように言っている。

―「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」(「学則」二)、既に過ぎ去って、今は無い世が直接に見えるわけがない。歴史を知ろうとする者に現に与えられているものは、過去の生活の跡だけだとは、わかり切った事だ。この所謂いわゆる歴史的資料にもいろいろあるが、言葉がその最たるものであるのに疑いはないし、他の物的資料にしても、歴史資料と呼ばれる限り、言葉をになった物として現れる他はあるまい。歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。ところで、生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから、如何に生くべきか、という課題に応答する事が困難になる。道は明かには見えて来ない。これは当然であるが、困難や不明は、課題の存続を阻みはしないし、道という言葉がそれが為に、無意味になるわけでもない。「言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」のである。道は何を載せても遷らぬ。道は「古今ヲ貫透スル」と徂徠は考えた。歴史を貫透するのであって、歴史から浮き上るのではない。……

―徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す「経学」と、変るものに向う「史学」との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている。これは、既に「人ノホカニ道無ク、道ノ外ニ人無シ」(「童子問」上)と言った仁斎が予感していたところとも言えるのだが、徂徠の学問には、この「人」に「歴史的」という言葉を冠せてもいい程、はっきりした意識が現れるのであり、それが二人の学問の、朱子学という窮理きゅうりの学からの転回点となった。この支柱が、しっかりと摑まれた時、徂徠が学問の上で、実際に当面したものが、「文章」という実体、彼に言わせれば、「文辞」という「事実」、あるいは「物」であった。彼は言う。「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得して、書籍のまま済し候而、我意を少もまじえ不申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下)。……

―私はここで、二人の思想に深入りする積りはない。ただ、其処に現れた歴史意識と呼んでいいものの性質、特に徂徠が好んで使った歴史という言葉の意味合を、彼自身の言ったところに即して言うに止めるのだが、(中略)無論、徂徠は、歴史哲学について思弁を重ねたわけではないし、又、学問は歴史に極まり、文章に極まるという目標があって考えを進めたわけでもない。そういう着想はみな古書に熟するという黙々たる経験のうちに生れ、長い時間をかけて育って来たに違いないのであり、その点で、読書の工夫について、仁斎の心法を受け継ぐのであるが、彼は又彼で、独特な興味ある告白を遺している。……

そう言って引かれるのが、前回も見た次の逸話である。

―愚老が経学は、憲廟けんべう御影おかげに候。其子細は、憲廟之命にて、御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味仕候。夏日之永に、毎日両人相対し、素読をさせて承候事ニ候。始の程は、忘れをも咎め申候得共、毎日あけ六時むつどきより夜の四時よつどき迄之事ニて、食事之間大小用之間ばかり座を立候事故、後ニは疲果ツカレハテ、吟味之心もなくなり行、読候人はただ口に任て読被申候。致吟味候我等は、只偶然と書物をナガめ居申候。先きは紙を返せども、我等は紙を返さず、読人と吟味人と別々に成、本文計を年月久敷ひさしく詠暮し申候。如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来しゅつらいいたし、是を種といたし、只今は経学は大形おほがた如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而かつて無之事ニ候。此段愚老が懺悔物語に候。夫故それゆゑ門弟子への教も皆其通に候」(「答問書」下)……

「経学」は四書五経、すなわち儒教の根本経典とされる『大学』『中庸』『論語』『孟子』の「四書」と、先に記した「六経」から『楽記』を除いた「五経」を研究する学問の意で、ここで徂徠があの放心経験を回想しているのは、あれが後年、宋儒から脱するに至る大きな契機となった、それが言いたいのだと受け取ってよいだろうが、吉川氏の「徂徠学案」によれば、時期としては李攀竜、王世貞と出会ったのもこの頃である。とすればあの放心経験は、宋儒から脱する契機となったということもさることながら、それに先立って、古文辞との出会いにこそ与って力があったと言うべきかも知れない。

そう思って、これも前回引いた次のくだりを読み返せば、小林氏ははっきり「古文辞」と言っている。吉川氏は、李攀竜、王世貞の詩文と出会った徂徠は、しばらくは驚きとともに当惑の中にいたと言っていた。それまで読みなれていた宋代の文章と、文体がちがうばかりでなく、特殊な難解さに満ちた文章だったからである。

―例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと」ながめるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう。これが、徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」という考えの生れた種だと合点すれば、歴史の表面しか撫でる事が出来ないのは、「古書に熟し不申候故」であるという彼の言分も納得出来るだろう。……

たしかに徂徠は、「古文辞」を、こちらの思惑でどうにでもなるどころか、自分たちがこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と見てとった。その一端が、吉川氏の「徂徠学案」にも鮮明に描かれていた。そしてこれが、徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」という考えの生れた種だと小林氏は言っている。すなわち、小林氏が第十章で注視した、徂徠の歴史意識の源流であった。

 

(第二十四回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十三 「独」の学脈(中)

 

1

 

中江藤樹は、「論語」の訓詁は「郷党」篇に対してしか残さなかった。「学而」に始まり「尭曰」に至る「論語」全二十篇のうち、「郷党」は第十篇だが、その「郷党」では孔子はほとんど口を利かない。そこに写されているのは孔子の日常の挙止だけである。だがそれゆえにこそ藤樹の訓詁は「郷党」に集中した。

小林氏は言う。

―藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。……

「徳光」は人の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれる影である。

だから、と藤樹は言う。

―此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲ嘿識もくしきシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ……

「端的」は、最も言わんとするところ、である。「嘿」は「黙」に同じ、「体認」は今日では実際に体験して会得すること、また心に刻みこむように会得すること、とされているが、ここは、実際の体験はなくとも的確に会得する、それも、実際に体験したと同じように心で確と会得する、の意であろう。小林氏が言っている「これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある」の「力量」は、この「体認」の力である。

小林氏は、藤樹には「郷党」が孔子の肖像画と映じていたと見ていいと言い、これを読んで、「六経ハナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノゴトシ」という伊藤仁斎の言葉を思い出す、それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしていることが仁斎の著述の随所に窺われるからだと「画」を介して言う。「独」の学脈の二の手、伊藤仁斎の幕が開く。

「六経」は、中国における六種の経書、すなわち中国古代の聖賢の教えを記した六つの書で「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」「楽経」を言い、儒教の基本となっている。いっぽう「語孟」は「論語」と「孟子」で、「孟子」は孔子の教えを継いだ孟子の言行を弟子が編纂した書であるが、「六経ハナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノゴトシ」とは、「六経」は描かれた絵そのものに譬えることができ、「論語」と「孟子」はそういう絵の描かれ方を見究めた書に譬えることができる、と言うのである。

 

伊藤仁斎は、藤樹に後れること約二十年、寛永四年(一六二七)に京都の町家に生れた。十一歳の年、「大学」の「治国平天下」の章を読んで儒学に志し、当初は深く朱子学を奉じたが、後にこれを疑って三十六歳の年、自力で「論語」「孟子」の言葉そのものへと遡る古義学を興し、「論語古義」「孟子古義」「語孟字義」、そして「童子問どうじもん」を著した。没年は宝永二年(一七〇五)、享年七十九だったが、「語孟字義」は五十七歳の年、「論語古義」と「孟子古義」との成果に立って書き上げた書、「童子問どうじもん」は最晩年に書いた古義学の概論とも言える書である。しかし、これらの書は、いずれも稿を改めること数度に及んで生前一書も刊行されず、刊行は仁斎の死後、嗣子東涯らの手によった。小林氏が、「仁斎は『語孟』への信を新たにした人だ」と言っているのは、この間の消息である。

 

「論語」は、孔子の言行や、孔子と弟子たちとの対話が記録された本だが、孔子の死後、弟子たちによって一書に編纂されて以来、二〇〇〇年以上にもわたって読み継がれた結果、その周辺にはありとあらゆる訓読や解釈が堆積し、「論語」の原文はそれらの訓読、解釈に押しひしがれんばかりになっていた。そこへ、朱熹の「論語集注しっちゅう」が現れた。

言うまでもなく朱熹は、中国の南宋時代に新しい儒学である宋学を集大成した学者だが、彼自身の儒学の体系は朱子学と呼ばれ、宋学と言えば朱子学をさすまでになっていた。ではその朱子学とは、どういう学問であったか、子安宣邦氏の『仁斎 論語』等に教わりながら概観してみる。

朱子学は、「性理学」とも呼ばれた。「性」とは人に備わっている生まれつきの性質のことだが、朱熹は、宇宙は存在としての「気」と、存在の根拠や法則としての「理」とから成るとし、人間においては人それぞれの気質の性が「気」であるが、人間誰にも共通する本然の性に「理」が備わっているとして「性即理」の命題を打ち立てた。人はこうしてその存在理由と根拠とをもっている、天も根拠をもっている、それが「天理」である、人は天理を本然の性として分かちもっており、これが「性即理」ということである、そしてこの「理」の自己実現が、人間すべての人生課題だと朱熹は言った。こうして朱子学は、「理気論」をもって宇宙論的に人間を理解しようとした。

さらにはこの「理気論」に、「体用論」が加わっていた。「体」とは本体、「用」とは作用である。人の本体として主宰的性格をもつのは心であり、人の運動的契機としての身は用である。心もその本体をなすものは性であり、心が動いて発現するのが情である。「理」と「気」も、「体」と「用」も、万事万物がもつ二つの契機であり、その間に優劣はないのだが、本体論的、本来主義的な構えを基本とする朱子学においては、「理」が「気」に対して、「体」が「用」に対して、心が身に対して、性が情に対して、静が動に対して、それぞれ優越することになる。ここから朱子学は、人間は心の本来的な静によって外から誘発される動を抑制せよという、禁欲的かつ修身的傾向を強く帯びていた。

そして朱熹は、「論語」をはじめとする経書もこの立場から解釈し、「論語」に関しては「論語集注」を著した。日本には鎌倉時代に伝えられ、室町時代には広く学ばれるようになっていたが、江戸時代になると幕府が朱子学を官学として保護したことも与って、「論語」の読み方は「論語集注」によって規定されるまでになっていた。

 

だが仁斎は、二十代の後半、身体が衰弱し、何かに驚いて動悸が激しくなるという病を得、首をし机によったきりで約十年、門庭を出ることなく外部との交渉を断った。この病患の十年があったことにもよって、仁斎は朱子学が人間を叱咤するどころか抑圧する思想の体系であると感じとり、三十代に至って朱子学からの離脱を決意した。そこを小林氏は、東涯が父親を語った「先府君古学先生行状」によってこう書いている。仁斎も青年時代、

―「宋儒性理之説」の吟味に専念したが、宋儒の言う心法も「明鏡止水」に極まるのに深い疑いを抱き、これを「仏老の緒余」として拒絶するに至った。……

「仏老」は仏教と老子、「緒余」は残りもの、あるいはぎれである、要するに朱子学は、仏教や老荘思想の追随に過ぎないと仁斎は見たのである。

「明鏡止水」は、澄みきった静かな心境を言う言葉だが、そういう心境を掲げて修身を説く朱子学を仁斎は疑った。なぜか。

―藤樹が心法を言う時、彼は一般に心の工夫というものなど決して考えてはいなかった。心とは自分の「現在の心」であり、心法の内容は、ただ藤樹と「たゞの人」だけで充溢していたのである。仁斎の学問の環境は、もう藤樹を取囲んでいた荒地ではなく、「訓詁ノ雄」達に満ちていたが、仁斎にとっても、学問の本旨とは、材木屋のせがれに生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった。……

仁斎が「論語古義」「孟子古義」に生涯をかけた気概の源泉はここにあった。彼は自分の註釈を「生活の註脚」と呼んだが、中国古代の聖人たちが説いた人間の道、すなわち人間の生き方は、「理」だの「気」だのといった観念を振り回して宇宙に求めたところで得られるものではない、いつの世にも変ることなく万人にあてはまる生き方は、我々人間の日常にある、平常にあるとして、仁斎はそれを「論語」に見出そうとしたのである。

小林氏は、第八章で、

―「藤樹先生行状」によると、藤樹は十一歳の時、初めて「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、イツニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」という名高い言葉に至って、非常に感動したと言う。「嘆ジテ曰ク、聖人学デ至ルベシ。生民ノタメニ、此経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ。コヽニヲイテ感涙カンルイ袖ヲウルヲシテヤマズ。是ヨリ聖賢ヲ期待スルノ志アリ」と「行状」は記している。伝説と否定し去る理由もないのであり、大洲の摸索時代の孤独な感動が人知れぬ工夫によって、後に「大学解」となって成熟する、むしろそこに藤樹の学問の特色を認める方が自然であろう。……

と言い、最後に、

―藤樹に「大学」の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった。……

と言っていた。

そして、第九章の冒頭で、

―宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えず発明して、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。それほど、藤樹の立志には、はっきりと徹底した性質があった。……

と言っていた。

ここで言われている「発明」は、物事の、これまで表面には現れていなかった道理や意義を発見して明るみに出す意の「発明」だが、「教養」については「読書週間」(「小林秀雄全作品」第21集所収)でこう言っている、

教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体験に基いて得られるもので、教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかにおのずから現れる言い難い性質がその特徴であって、教養のあるところを見せようというような筋のものではあるまい。……

「本居宣長」の第九章で言われている「教養」も、まったく同じ「教養」である。日常の「生活体験に基いて得られ」た、「生活秩序に関する精錬された生きた智慧」である。中江藤樹は、そういう一般人の「教養」とまっさきに交渉したのである。伊藤仁斎は、紛れもなく藤樹の志を継いだのである。

 

2

 

小林氏は、中江藤樹から伊藤仁斎へという日本の近世の学脈は、「心法」という言葉によって貫かれていると見、その心法とは文字を読むときの心ではなく、絵を見るときの心だと言っているが、その「心法」は、藤樹では「体認」と言われていた、それが仁斎になると「体翫」になる。仁斎が「同志会筆記」で自ら回想しているところによると、

―彼は十六歳の時、朱子の四書を読んで既にひそかに疑うところがあったと言う。「熟思体翫」の歳月を積み、三十歳を過ぎる頃、漸く宋儒を抜く境に参したと考えたが、「心ヒソカニ安ンゼズ。又之ヲ陽明、近渓等ノ書ニ求ム。心ニ合スルコト有リトイヘドモ、益々安ンズルアタハズ。或ハ合シ或ハ離レ、或ハ従ヒ或ハ違フ。其幾回ナルヲ知ラズ。是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ゴビヲ以テ求メ、跬歩キホヲ以テ思ヒ、従容ショウヨウ体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」……

「朱氏の四書」は、朱熹が「礼記」の中の「大学」「中庸」と「論語」「孟子」を四書と呼び、儒学の枢要書と位置づけてこれらに関わる註釈を集成した「四書集注」のことである。若き日の仁斎は、これを読んで「熟思体翫」の歳月を積んだというのだが、「体翫」の「翫」は「翫味」「賞翫」などとも言われるように、深く味わう意である。そうであるなら「体翫」は、身体で味わう、ということになるが、仁斎は生涯、「熟思体翫」の歳月を積み続けた、その端緒がここで語られている。

「是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ゴビヲ以テ求メ、跬歩キホヲ以テ思ヒ、従容ショウヨウ体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、朱子の「四書集註」をはるかに上回る烈しさで「論語」と「孟子」を体翫したと言うのである。しかも、「悉ク語録註脚ヲ廃シテ」である。「語録」は、ここでは宋、明以後の中国で見られるようになった儒者や高僧の言葉を記録した書物のことで、たとえば朱熹に「近思録」、王陽明に「伝習録」などがあるが、仁斎はこれらを註脚、すなわち書物に施された割注などの類とともにいっさいしりぞけ、「論語」と「孟子」の原文を、原文だけを、直かに読んだと言うのである。「寤寐ヲ以テ」は寝ても醒めても、「跬歩ヲ以テ」は片足踏み出すたびに、「従容」は焦ることなく、「自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、おのずからこうだと合点することがあってそこにはなんらまじりけはなかった、である。

こうして仁斎は、書を読むについて、重大な心法を身に着けた。

―彼の考えによれば、書を読むのに、「学ンデ之ヲ知ル」道と「思テ之ヲ得ル」道とがあるので、どちらが欠けても学問にはならないが、書が「含蓄シテアラハサザル者」を読み抜くのを根本とする。書の生きている隠れた理由、書の血脈とも呼ぶべきものを「思テ得ル」に至るならば、初学の「学ンデ知ル」必要も意味合も、本当にわかって来る。この言わば、眼光紙背に徹する心の工夫について、仁斎自身にも明瞭な言葉がなかった以上、これを藤樹や蕃山が使った心法という言葉で呼んでも少しも差支えはない。……

語録や註脚に頼るのは、「学ンデ之ヲ知ル」であろう、「思テ之ヲ得ル」が体翫であろう。そして、「思テ之ヲ得ル」こそが「独学」であろう。

―彼は、ひたすら字義に通ぜんとする道を行く「訓詁ノ雄」達には思いも及ばなかった、言わば字義を忘れる道を行ったと言える。先人の註脚の世界のうちを空しく摸索して、彼が悟ったのは、問題は註脚の取捨選択にあるのではなく、凡そ註脚の出発した点にあるという事であった。……

―世の所謂孔孟之学は、専ら「学ンデ知ル」道を行った。成功を期する為には、「語孟」が、研究を要する道徳学説として、学者に先ず現れている事を要した。学説は文章から成り、文章は字義からなる。分析は、字義を綜合すれば学説を得るように行われる。のみならず、この土台に立って、与えられた学説に内在する論理の糸さえ見失わなければ、学説に欠けた論理を補う事も、曖昧な概念を明瞭化する事も、要するにこれを一層精緻な学説に作り直す事は可能である。……

―宋儒の註脚が力を振ったのは其処であった。仁斎が気附いたのは、「語孟」という学問の与件は、もともと学説というようなものではなく、研究にはまことに厄介な孔孟という人格の事実に他ならぬという事であった。そう気附いた時、彼は、「独リ語孟ノ正文有テ、未ダ宋儒ノ註脚有ラザル国」に在ったであろう。ここで起った事を、彼は、「熟読精思」とか、「熟読翫味」とか、「体験」とか「体翫」とか、いろいろに言ってみているのである。……

仁斎は、「体翫」の他にもいろいろに言って、自分自身の書の読み方の気味合をなんとか摑み取ろう、伝えようとしているらしいのだが、私はやはり、「体翫」に最も強く魅かれる。中江藤樹は「体認」と言っていた。近世の学問の夜明けを担った藤樹と仁斎が、ともに「体で」会得する、「体で」味わうと言っているところに彼らの学問のひときわ高い鼓動を聞く思いがするのである。それは、小林氏が、「本居宣長」を『新潮』に連載し始める四年前、『文藝春秋』に「考えるヒント」の一篇として「学問」(同第24集所収)を書いて、そこで次のように言っていたことにもよる。

 仁斎の言う「学問の日用性」も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。「論語」に交わって、孔子の謦咳を承け、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と告白するところに、嘘はない筈だ。この楽しみを、今、現に自分は経験している。だから、彼は、自分の「論語」の註解を、「生活の註脚」と呼べたのである。……

小林氏によれば、「体翫」とは、信頼する人間と、深く親しく、全身で交わることなのである。

 

3

 

こうして仁斎は、「論語古義」に四十余年をかけた。先にも述べたように三十歳を過ぎて朱子学を疑い、三十六歳で古義学を創始したが、「論語古義」の起稿もこの時期と見られている。と言うより、「論語古義」の起稿をもって古義学の創始と見られていると言うべきだろうか。四十歳の頃に初稿が成ったが、以後、七十九歳で没するまで補筆修訂を施し続け、多種の稿本が現在まで伝わっているという。「稿本」は、手書きの草稿である。生前最後の稿本では、各巻の内題が「最上至極宇宙第一 論語巻之一」などとなっているという。そこを小林氏は、次のように書いている。

―仁斎は、「童子問」の中で、「論語」を「最上至極宇宙第一書」と書いている。「論語」の註解は、彼の畢生の仕事であった。「改竄補緝カイザンホシフ、五十霜ニ向ツテ、稿オホヨソ五タビカハル、白首紛如タリ」(「刊論語古義序」)とは、東涯の言葉である。古義堂文庫の蔵する仁斎自筆稿本を見ると、彼は、稿を改める毎に、巻頭に、「最上至極宇宙第一書」と書き、書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷っている様子が、明らかに窺えるそうである。私は見た事はないが、かつてその事を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時、仁斎の学問の言わば急所とも言うべきものは、ここに在ると感じ、心動かされ、一文を草した事がある。……

「五十霜ニ向ツテ」は五十年ちかくに及び、の意、「稿凡オホヨソ五タビカハル」は草稿は五度書き改められた、である。倉石武四郎氏は明治三十年生れの中国語学者、中国文学者、昭和二十四年刊の『口語訳 論語』の「はしがき」でこの仁斎の逸話にふれている。

それはともかく、小林氏の文の、先を読もう。

―「論語古義」が、東涯によって刊行されたのは、仁斎の死後十年ほど経ってからだ。刊本には、「最上至極宇宙第一書」という字は削られている。「先府君古学先生行状」によると、そんな大袈裟な言葉は、いかがであろうかというのが門生の意見だったらしく、仁斎は門生の意見を納れて削去したと言う。そうだっただろうと思う。彼は穏かな人柄であった。穏かな人柄だったというのも、恐らくこの人には何も彼もがよく見えていたが為であろう。「論語」が聖典であるとは当時の通念であった。と言う事は、言うまでもなく、誰も自分でそれを確めてみる必要を感じていなかったという意味だ。ある人が、自分で確めてみて驚き、その驚きを「最上至極宇宙第一書」という言葉にしてみると、聖典と聞いて安心している人々の耳には綺語と聞えるであろう。門生に言われるまでもなく、仁斎が見抜いていたのは、その事だ。この、時代の通念というものが持った、浅薄で而も頑固な性質であった。彼にしてみれば、「最上至極宇宙第一書」では、まだ言い足りなかったであろう。まだ言い足りないというような自分の気持が、どうして他人に伝えられようか。黙って註解だけを見て貰った方がよかろう。しかし、どう註解したところで、つまりは「最上至極宇宙第一書」と註するのが一番いいという事になりはしないか。そんな事を思いながら、彼は、これを書いては消し、消しては書いていたのではあるまいか。恐らくこれは、ある人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者だけが知るためらいと思われる。軽信家にも狂信家にも、軽信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のないためらいであろう。……

―「論語古義」の「総論」に在るように、仁斎の心眼に映じていたものは、「其ノ言ハ至正至当、徹上徹下、一字ヲ増サバスナハチ余リ有リ、一字ヲ減ズレバ則チ足ラズ」という「論語」の姿であった。「道ハ此ニ至ツテ尽キ、学ハ此ニ至ツテキハマル」ところまで行きついた、孔子という人の表現の具体的な姿であった。この姿は動かす事が出来ない。分析によって何かに還元できるものでもなく、解釈次第でその代用物が見附かるものでもない。こちら側の力でどうにもならぬ姿なら、これを「其ノ謦咳ケイガイクルガ如ク、其ノ肺腑ハイフルガ如ク」というところまで、見て見抜き、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、こちらが相手に動かされる道を行く他はないのである。……

 

先の引用のなかに、「一文を草した」とあったのは、昭和三十三年の秋、「論語」(同第22集所収)を書いたことを言っている。そこにはこうある。

―伊藤仁斎は「論語」の注釈を書いた時、巻頭に、「最上至極宇宙第一」と書いたという。仁斎の原稿は、今も天理図書館に、殆ど完全に保存されていて、それを見ると、「最上至極宇宙第一」の文字は、消されては書かれ、書かれては消されて、仁斎がこの言葉を注釈に書き入れようか、入れまいかと迷った様が、よく解るそうである。私は、かつて、この話を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時に、心を動かされたのを覚えている。こういう話から、昔の儒者は、仁斎のような優れた儒者でさえ、「論語」という一人の人間の言行録を、天下の聖典と妄信していた、と考えるのは、浅はかなことであろう。「論語」という空文を、ただわけもなく有難がっていた儒者はいくらでもいたが、仁斎のように、この書を熟読し、異常な感動を体験した人は稀れであったと見るのがよいと思う。恐らく、仁斎は、なるほど世間では、皆、「論語」を最上の書と口では言っているが、この書を読んだ自分自身の感動を持っている人は一人もいないことを看破したのである。彼は、自分の感動を、どういう言葉で現していいか解らなかった。考えれば考えるほど、この書は立派なものに思えて来る。自分の実感を率直に言うなら、最上至極宇宙第一の書と言いたいところだが、そんなことを言ってみたところで、世人は、いたずらに大げさな言葉ととるであろう。仁斎は迷い、書いては消し、消しては書いた。そんな風に想像してみても、間違っているとは思えない。恐らく、仁斎は、「論語」という書物の紙背に、孔子という人間を見たのである。「論語」の中に、「下学シテ上達ス」という言葉がある。孔子は自分の学問は、何も特別なことを研究したものではない、月並な卑近な人事を学び、これを順序を踏んで高いところに持って行こうと努めただけだ、と言うのである。仁斎が、「仲尼ハ吾ガ師ナリ」と言う時に感歎したのは、そういう下学して上達した及び難い人間であって、単なる聖人のことわりではなかった。仁斎は、宋儒の天即理とか性即理とかいう考え方を嫌い、仲尼という優れた人間の言行に還るのをよしと考えた、気性の烈しい大学者であった。「仲尼ハ吾ガ師ナリ」という言葉は、「仁斎日札にっさつ」のなかにあるのだが、その中で、彼はこういうことを言っている。儒者の学問では、闇昧あんまいなことを最も嫌う、何でも理屈で極めようとすれば、見掛けは明らかになるようで、実はいよいよ闇昧なものになる。道を論じ経を解くには、明白端的なるを要するのであり、「十字街頭ニ在ツテ白日、事ヲスガゴトク」でなければならぬ、という。彼の考えによれば、「論語」に現れた仲尼の言行とは、まさにかくの如きものなのである。……

「仲尼」は孔子のあざなである。字は中国で男子が元服のときにつけ、それ以後一生通用させた名であるが、孔子の字「仲尼」が三度にわたって出る小林氏の「論語」を、「本居宣長」第十章からの引用に続けて長く引いたのは、「最上至極宇宙第一書」にこめた仁斎の思いを小林氏に導かれてしっかり受け止めたかったからだが、それに加えて小林氏が、仁斎を、ここでまさに「体翫」していると思えたからである、しかもその「体翫」の息づかいは、より高く「学問」のほうから聞える、それを読者にも感じてほしいとねがったからである。

仁斎は、孔子を体翫した。孔子という信頼してやまない人と、深く親しく交わった。その仁斎を、小林氏は「最上至極宇宙第一書」という仁斎の肺腑の言を通じて体翫した、伊藤仁斎という信頼に価する人と、深く親しく交わろうとした。

思えば、小林氏の仕事は、「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「近代絵画」「本居宣長」……、いずれも「体認」「体翫」の結晶であった。

 

4

 

―仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。「大学定本」「語孟字義」の二書に感動した青年徂徠は、仁斎に宛てて書いている。「茫茫タル海内カイダイ豪杰ガウケツ幾何イクバクゾ、一ニ心ニ当ルナシ。而シテ独リ先生ニムカフ」(「与伊仁斎」)、仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている(「童子問」下)。ここで使われている豪傑という言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、ル所無キ」学者を言うのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、そういう人間の心法だったに違いない。言い代えれば、他人は知らず、自分は「語孟」をこう読んだ、という責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれているところに、豪傑を見たに違いない。読者は、私の言おうとするところを、既に推察していると思うが、徂徠が、「独リ先生ニ郷フ」と言う時、彼の心が触れていたものは、藤樹によって開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかった。……

小林氏は、伊藤仁斎に続いて、荻生徂徠と向き合う。

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「ぶんがく」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……

徂徠は、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言している、が、彼は、

―学問は歴史に極まり、文章に極まるという目標があって考えを進めたわけでもない。そういう着想はみな古書に熟するという黙々たる経験のうちに生れ、長い時間をかけて育って来たに違いないのであり、その点で、読書の工夫について、仁斎の心法を受け継ぐのであるが、彼は又彼で、独特な興味ある告白を遺している。……

と小林氏は言って、徂徠の「告白」を引く。

―愚老が経学は、憲廟けんべう御影おかげに候。其さいは、憲廟之命にて、御小姓衆四書五経どく之忘れを吟味仕候。夏日之永に、毎日両人相対し、素読をさせてうけたまわり候事ニ候。始の程は、忘れをも咎め申候得共、毎日あけ六時むつどきより夜の四時よつどき迄之事ニて、食事之間大小用之間ばかり座を立候事故、後ニは疲果ツカレハテ、吟味之心もなくなり行、読候人はただ口に任て読被申候。致吟味候我等は、只偶然と書物をナガめ居申候。先きは紙を返せども、我等は紙を返さず、読人と吟味人と別々に成、本文計を年月久敷ひさしく詠暮し申候。如此かくのごとく注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来しゅつらいいたし、是を種といたし、只今は経学は大形おほがた如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而かつて無之事ニ候。此段愚老が懺悔物語に候。夫故それゆゑ門弟子への教も皆其通に候」(「答問書」下)……

「憲廟」は、徳川幕府の第五代将軍、綱吉である。私の経学、すなわち徂徠の四書五経の学問は、綱吉公のおかげであると言うのである。五代将軍綱吉と言えば、悪名高い生類憐みの令で知られるが、その生類憐みの令は将軍在位約三十年の後半、元禄・宝永期の弊政のひとつで、前半期の天和・貞享期には綱紀粛正策等で実を上げ、「天和の治」と称えられるほどだった。したがって、生類憐みの令も、当初は儒教・仏教による人心教化を意図していたと言われ、将軍となってすぐ、儒学の教えを幕政に反映させようと、幕臣を集めて自ら講義することもたびたびだったという。

その綱吉に、徂徠は講義をした。吉川弘文館の『国史大辞典』によれば、もともと徂徠は綱吉と縁があった。徂徠の父方庵は、将軍職に就く前、上野こうずけの国舘林たてばやし藩主時代の綱吉の侍医だった。だが方庵は、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総かずさの国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされた。

赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じた。だが暮しは困窮をきわめ、豆腐のからで食をつないだという逸話を残すほどだった。しかしその間、「訳文筌蹄せんてい」六巻を著し、これによって名を知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて将軍綱吉に謁し、ついには五百石の禄を得るまでになった。

柳沢吉保については多言を要すまいが、側用人とは歴とした徳川幕府の職名である。定員は一名で、将軍に近く仕えて将軍の命を老中に伝え、また老中の上申を将軍に取次ぐ要職である。格式は老中に次ぐが、職務上の権力は老中をしのいだ。吉保は、こうして将軍綱吉の後半期、綱吉の寵をほしいままにしたが、教養面では綱吉の学問上の弟子となり、その線上で徂徠らを召し抱え、中国古典の覆刻版を刊行するなどした。

しかし、徂徠は、「愚老が経学は、憲廟之御影に候」と言っているが、徂徠が綱吉から蒙った「御影」は、偶然の椿事だった。「其さいは」、すなわち、「憲廟之御影」というのを詳しく言えば、「憲廟之命にて御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味」する機会に恵まれたことだった。「素読」とは、「論語」などの漢籍を読むにあたって、先生が少しずつ区切って読む本文を、生徒は先生に続いて先生が読んだとおりに読む、声に出して読む。先生は語意や文意の説明はいっさいしない、「のたまわく」「まなびてときこれならう」「またよろこばしからずや」……と、ひたすら本文だけを読んでいく。こういう音読を、何度も繰り返す、こうして「論語」なら「論語」を暗記させてしまう。これが当時の漢籍初学の常道だった。

小林氏は、岡潔氏との対話「人間の建設」(同第25集所収)で、大意、こう言っている。

―昔は、子供が何でも覚えてしまう時期、その時期をねらって素読が行われた。これによって誰でも苦もなく古典を暗記してしまった。これが、教育上、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきです。昔は、暗記強制教育だったと簡単に考えるのは悪い合理主義です。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかも知れないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。……

今日、「素読」が日常会話に上ってくることはまずないが、上ってきたとしてもさほど意識されていないか忘れられているのが「暗記」である。「素読」の主目的は「暗記」だったとさえ小林氏は言っているのである。ここで私が、あえて「素読」にまつわる小林氏の発言を引き、「暗記」という言葉に注意を向けてもらったのは、徂徠の告白にも「素読之忘れを吟味仕候」と見えているからである。徂徠が言っている「忘れ」とは、一語一句の訓読法の忘れもあるかも知れないが、「素読之忘れを吟味」するとは、「論語」の全文が生き生きと身体に入っているかどうか、それを見るということだっただろう。そうでないのであれば、現代の中間考査や期末考査のように、所々を抜き出して、精々一時間か一時間半ほどの間に正解を問えばよいではないか。「毎日あけ六時むつどきより夜の四時よつどき迄」というほどの時間と体力を、厖大に注ぎこむことはないではないか。「明六時」は、今日の時刻では午前五時から七時頃である、「夜の四時」は午後十時である。

こうして「素読之忘れ之吟味」は、夏の酷暑のさなか、連日十五時間前後にわたって行われ、毎日、時間が経つにつれて小姓も徂徠も朦朧となり、放心状態を繰り返すありさまだった。だが、「如此かくのごとく注をもはなれ、本文ばかりを、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来しゅつらいいたし、是を種といたし、只今は経学は大形おほがた如此物と申事合点参候事に候」ということになった。「注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而かつて無之事ニ候」ということを痛いほど知った。「曾而」は「まったく(~ない)」である。

小林氏がここで引いた徂徠の回想も、「体認」「体翫」に目覚めた得難い経験の告白と解してよいであろう。そこを徂徠は、「愚老が経学は、憲廟之御影に候」と言ったのである。先に、「体認」「体翫」とは、「体で会得する」「体で味わう」ことらしいと言ったが、いまはもっと進めて、「頭の介入を排して会得する」こと、「頭を介在させないで味わう」こと、と言い換えてもよいだろう。徂徠の告白を読み上げて、小林氏は言っている、

―例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと」ながめるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう。……

徂徠の経学は、古文の言葉をそこまで味わい会得しようとする強い信念のもとに研鑽が積まれた、それが徂徠の古文辞学だったと小林氏は言うのである。むろん藤樹の「体認」、仁斎の「体翫」も、同じ信念から出た言葉であった。

 

(第二十三回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十二 「独」の学脈(上)

 

1

 

―歯落口すぼまり、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……

歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないところへ他の器官にも増してとりわけ舌が不自由になり、難儀していますが、そうではあっても口を閉じてものを言わなくなれば、いよいよ独りで生まれて独りで死ぬ身そのものでしょうから、講義を乞われれば一途に辞退はしないで務めようと思っています……。

これは、契沖が晩年、高弟たちに請われて始める「萬葉集」の講義を控え、昵懇の後輩、石橋新右衛門に聴講を勧めた手紙の一節である。この手紙を、小林氏は第七章に引き、契沖が行き着いた学問の核心「俗中の真」を読者に伝えたのだが、氏はいま一度これを引いて第八章を書き起す。

―先きにあげた契沖の書簡の中に、「さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故」とあるが、面白い言葉である。当人としては、「万葉集」のこうえんを開くに際しての、何気ない言葉だったであろうが、眺めていると、いろいろな事が思われる。これは、学問に対する契沖の基本的な覚悟と取れるが、彼にあっては、学問と人間とは不離なものであるから、言葉はこの人物でなくては言えない姿に見えもする。のみならず、彼の人格は、任意に形成されたというような脆弱なものではなかった筈だから、この人が根を下した、時代の基盤というものまで語っているように思われる。地盤は、まだ戦国の余震で震えていたのである。……

こうして第八章からは、本居宣長の学問を生んだ近世の学問の来歴が辿られる。小林氏は、第四章で、「契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であったと宣長は言う」、「契沖は、宣長の自己発見の機縁として語られている」と言ったが、その宣長の自己発見の機縁となった契沖の「独」という言葉を軸に、氏は氏自身が近世学問の祖と位置づける中江藤樹へ、そして伊藤仁斎へと遡る。藤樹、仁斎の生涯と学問も、自己発見という「独」で貫かれていたのである。

ここで語られる「独」は、ひとまず「個」と言い換えてみてもよいだろう。すなわち、小林氏が、文壇に出た「様々なる意匠」以来、変ることなく追い求めてきた「個」である。近現代の思想や学問は、「個人」を排除し、「集団」を基準として客観主義、実証主義に走った。藤樹らの学問は、そういう近現代の学問とは根本的に異なり、どこまでも「個」に徹した藤樹、仁斎、契沖らの学問が宣長に受け継がれたのである。だが、近現代の学者たちは、宣長の学問を、似ても似つかぬ自分たちの客観主義、実証主義の先駆と決めつけて平気でいる、とんでもない勘違いだ、まずはそこを正さなければならないという思いが小林氏の心底にある。

 

小林氏は、先に、契沖が身を置いた時代の地盤は、まだ戦国の余震で震えていたと言ったが、その戦国時代とはどういう時代であったか。氏はまず戦国と呼ばれる時代の相を指し示し、契沖より約三十年早く生まれた藤樹の「独」、同じく約二十年早く生まれた仁斎の「独」が、いかにして自覚されたかを追っていく。

―戦国時代を一貫した風潮を、「下剋上」と呼ぶ事は誰も知っている。言うまでもなく、これは下の者が上の者に克つという意味だが、この言葉にしても、その簡明な言い方が、その内容を隠す嫌いがある。試みに、「大言海」で、この言葉を引いてみると、「コノ語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。随分、乱暴な解と受取る人も多かろうと思うが、それも、「下剋上」という言葉の字面を見て済ます人が多いせいであろう。「戦国」とか「下剋上」とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、「大言海」の解は、それを指示している。……

たしかに、「下剋上」に「でもくらしい」は唐突である。わけても現代の私たちには、「でもくらしい」すなわち「デモクラシー」という外来語の訳語としては「民主主義」しか持ち合せがない。『大言海』は、国語学者の大槻文彦が日本で初めて著し、明治二十二年から二十四年にかけて刊行した国語辞典『言海』の増補版で、昭和七年から十年にかけて完成した全四巻、索引一巻の国語辞典であるが、現代を代表する国語辞典の『広辞苑』『大辞林』はいずれも単語の「民主主義」「民主政体」を併記しているに留まり、『日本国語大辞典』は、その上に「民主的な原理、思想、実践。また日常生活での人間関係における自由や平等」と記してはいるものの、これとても近代以後に舶来した西欧のイデオロギーである、おいそれとは「下剋上」に結びつかない。

だが、小林氏の言うところを子細に読んでいけば、たしかに「下剋上」は、「でもくらしいトモ解スベシ」と思えてくる。

―歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが、戦国時代は、この動きが、非常な速度で、全国に波及した時代であり、為に、歴史は、兵乱の衣をまとわざるを得なかったが、……

―この時代になると、武力は、もはや武士の特権とは言えなかったのであり、要するに馬鹿に武力が持てたわけでもなく、武力を持った馬鹿が、誰に克てた筈もなかったという、極めて簡単な事態に、誰も処していた。武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなっていた。……

いま言われている「馬鹿」は、旧来の身分や家柄の上に胡坐をかき、自分にとって有利な制度や因習に寄りかかり続けているお坊ちゃん、とでもとればわかりやすい。戦国時代の下剋上は、前時代までの身分や家柄、制度や因習等をことごとく無に帰さしめ、人間ひとりひとり、皆が皆、それぞれに素手で、自力で生きていくことを余儀なくされた。しかし、これを裏返して言えば、人は生まれや育ちにかかわらず、誰もが公平かつ平等の境涯に身をおける日がきたということだ。ゆえに「下剋上」は、「でもくらしい」なのである、『日本国語大辞典』が言う「日常生活での人間関係における自由や平等」と通底するのである。

小林氏が、「『戦国』とか『下剋上』とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、『大言海』の解は、それを指示している」と言って、「歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが」と言っているのは、室町時代末期の応仁元年(一四六七)に起って一〇〇年続いた応仁の乱の時代、すなわち戦国時代に揉まれて人それぞれの工夫次第、努力次第で自分の生き方の扉を自分で開けられる時代が来た、これは、歴史の摂理からして当然の帰結であったと小林氏が見てのことである。

第八章の起筆に契沖の言葉「いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故」を引き、この言葉は契沖が根を下した時代の基盤というものまで語っているように思われる、地盤はまだ戦国の余震で震えていたのである、と小林氏は言った。だがそれは、契沖が生きた元禄の世になっても世情は騒然としていたというのではない。戦国の「下剋上」が日本の文明にもたらした「独」の自覚と追究、このまったく新たに経験された精神の活動は、なおも烈しく揺れていたと言うのである。

 

2

 

戦国時代は、「下剋上」を徹底して実行し、尾張の国の一下民からついには関白の座を手中にするまでに至った豊臣秀吉によってひとまずけりがついた、しかし、「下剋上」の劇は、この天下人秀吉の成功によって幕が降りてしまったわけではない、「下剋上」という文明の大経験は、まず行動のうえで演じられたのだが、これが相応の時をかけて、精神界の劇となって現れたと小林氏は言い、

―中江藤樹が生まれたのは、秀吉が死んで十年後である。……

と転調して、次のように続ける。

―藤樹は、近江の貧農の倅に生れ、独学し、独創し、遂に一村人として終りながら、誰もが是認する近江聖人の実名を得た。勿論、これは学問の世界で、前代未聞の話であって、彼を学問上の天下人と言っても、言葉を弄する事にはなるまい。……

中江藤樹は、慶長十三年(一六〇八)に生れた。関ヶ原の戦からでは八年、徳川家康が江戸に幕府をひらいてからでは五年の後である。当初、二十代の頃には朱子学をたっとんだが、三十七歳の年に陽明学に出会って転じ、日本の陽明学派の始祖となった。朱子学、陽明学、ともに儒学の一派であり、儒学界の二大潮流をなしていたが、藤樹の学問は陽明学の枠に収まるものでもなかった。

小林氏は、続けて言う。

―藤樹は、弟子に教えて、「学問は天下第一等、人間第一義、別路のわしるべきなく、別事のなすべきなしと、主意を合点して、受用すべし」と言っている。……

学問は、この世で最も大切な仕事であり、人間にとっていちばんの大事である、ゆえにそこからそれた道へ走ったり、それ以外のことに手を出したりしている余裕はない、この肝心の主旨をよく心得て理解し、実践しなければならない。

―又言う、「剣戟けんげきを取て向とても、それ良知のほかに、何を以てたいせんや」。……

人が武器を手にして向かってきたとしても、こちらは良知で立ち向かう。「剣戟」は剣と矛。「良知」は人に生まれつき具わっている知力、判断力の類で、藤樹の学問を象徴する語であるが、第九章であらためて言及される。

こうして、

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

「眼に見える下剋上劇」とは、他人に勝とうとする戦いである。「眼に見えぬ克己劇」とは、自分に勝とうとする戦いである。「剋」も「克」も何かに勝つという意味であるが、藤樹は自分が自分と戦う内面の戦いを始め、その戦いを学問と呼んだというのである。

 

続いて小林氏は、「藤樹先生年譜」に拠って、藤樹が祖父吉長に引取られるかたちで移り住んだ伊予の国(現在の愛媛県)大洲おおず藩での藤樹十三歳の年と、十四歳の年の出来事を読ませる。

まずは十三歳の年、吉長の身辺で刃傷沙汰が起った。小林氏は、その顛末を記した「年譜」の記事を、そっくりそのまま引用する、というより、写し取る。敢えて私も小林氏に倣う。

―是年夏五月、大ニ雨フリ、五穀実ラズ。百姓饑餓キガニ及バントス。コレニヨリテ、風早ノ民、去テ他ニ行カント欲スルモノオホシ。吉長公コレヲ聞テ、カタクコレヲトヾム。郡ニ牢人アリ。其名ヲ須卜ト云。コノ者、クルシマト云大賊ノ徒党ニシテ、ナリヲ潜メ、久シクコヽニ住居ス。今ノ時ニ及デ、先ヅ退カントス。彼スデニ他ニ行バ、百姓モマタ従テ逃ントスルモノ多シ。コレニ因テ、吉長公、シモベ三人ヲ遣ハシテ、カレヲトヾム。僕等帰ル事遅シ。吉長公怪ンデ、ミヅカラ行テ、カレヲ止メ、ツ法ヲ破ル事ヲノノシル。須卜、イツワリ謝シテ、吉長公ニ近ヅク。其様体ツネナラズ。コレニ因テ、吉長公馬ヨリ下ントス。須卜刀ヲ抜テ走リカヽリ、吉長公ノ笠ヲ撃ツ。吉長公ノ僕、コレヲ見テ、後ロヨリ須卜ヲ切ル。須卜キズカウムルトイヘドモ、勇猛強力ノモノナレバ、事トモセズ、後ヲ顧テ、僕ヲフ。コノ間ニ、吉長公ヤリヲ執テ向フ。須卜亦回リ向フ。吉長公須卜ガ腹ヲ突透ス。須卜ツカレナガラ鑓ヲタグリ来テ、吉長公ノ太刀ノツカヲトル。吉長公モ亦自カラノ柄ヲトラヘテ、互ニクム。須卜痛手ナルニ因テ、倒テイマシ死ス。須卜ガ妻、吉長公ノ足ヲトラヘテ倒サントス。吉長公怒テ、亦コレヲ切ル。スデニシテ、自ラ其妻ヲ殺ス事ヲ悔ユ。ノチ須卜ガ子、其父母ヲ殺セルヲ以テ、甚ダコレヲ恨ミ、常ニウラミムクイントシテ、シバシバ吉長公ノ家ニ、火箭ヒヤヲ射入ル。其意オモヘラク、家ヤケバ、吉長公驚キ出ン。出バスナハチコレヲ殺サント。吉長公其意ヲウカヾヒ知ル。故ニヒソカニ火箭ノ防ヲナス。シカレドモ、其意イマコトゴトク賊盗等ヲ入テ、アマネク此ヲ殺サント欲ス。故ニカヘリテ門戸ヲバ開カシム。イマシ先生ニイヒイハク、今天下平ニシテ、軍旅之事無シ。ナンヂ功ヲナシ、名ヲ揚グベキ道ナシ。今幸ニ賊徒襲入セントス。我賊徒ヲウタバ、爾彼ガ首ヲトレ、又家辺ヲ巡テ、賊徒ノ入ヲウカヾヘ。先生コヽニオイテ、毎夜独家辺ヲ巡ル事三次ニシテ不ㇾ怠。時ニ九月下旬、須卜ガ子数人ヲイザナヒ、夜半ニ襲入オソヒイラントス。吉長公アラカジメ此ヲ知ル。イマシ僕等ニ謂テ曰、今夜賊徒襲入ントスル事ヲ聞ク。イヨイヨ門戸ヲ開キ、コトゴトク内ニ入シメヨ。我父子マサニ彼ヲ伐タン。爾ヂ等ハ、門ノ傍ニカクレ居テ、鉄炮テツパウヲ持チ、モシ賊逃出バ、コレヲウテ。必ズ入時ニアタツテ、コレヲウツ事ナカレト。夜半、賊徒マサニ入ントス。僕アハテヽ先ヅ鉄炮ヲ放ツ。賊驚テ逃グ。吉長公此ヲ逐フ事数町、遂ニ追及ブ事アタワズシテ返ル。是ニ於テ先生ヲシテ、刀ヲ帯セシメ、共ニ賊ヲ待ツ。先生少シモ恐ルヽ色ナク、賊来ラバ伐タント欲スル志オモテニアラワル。吉長公、先生ノ幼ニシテ恐ルヽ事ナキ事ヲ喜ブ。冬、祖父ニ従テ、風早郡ヨリ大洲ニ帰ル」……

ここまで写して、小林氏は言う。

―長い引用をいぶかる読者もあるかも知れないが、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っていると思うので、それを捕えてもらえれば足りる。……

そう言ってすぐ、長い引用の本意を言う。

―藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。「年譜」が呈供する情景は、敢えてこれを彼の学問の素地とも呼んでいいものだ。……

藤樹の学問が育った土地は、全くの荒地であった、とは、そこが荒地であったればこそ藤樹の学問は藤樹自らの丹精で芽をふき、育ったのだと小林氏は言いたいのである。小林氏の心裡には、現代の学者は異口同音に研究環境への不平を鳴らすが、一度でも藤樹の学問環境を思ってみたことがあるか、藤樹に比べればはるかに恵まれている諸君が、藤樹に比肩できるだけの学問をしているか、そこを自問してみるがよい、という存念がある。したがって、私たち読者には、藤樹の時代の「学問」も「学者」も、現代の「学問」や「学者」とは完全に切り離して読んでほしい、そう願ってこれを言っている。しかもここだけではない、同じ第八章の終盤に至って藤樹の著作「大学解」に言及し、「若い頃の開眼が明瞭化する。藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」と言った後に、念を押すように言うのである。

―ここで又読者に、彼の学問の種が落ちたあの荒涼たる土地柄を心に描いてもらいたい。今日の学問的環境などは、きっぱりと忘れて欲しいと思う。……

 

次いで、同じ大洲での、十四歳の年の出来事を読ませる。

―或時家老大橋氏諸士四五人相伴テ、吉長公ノ家ニ来リ、終夜対話ス。先生以為オモヘラク、家老大身ナル人ノ物語、常人ニ異ナルベシト。因テ壁ヲ隔テ陰レ居テ、終夜コレヲ聞クニ、何ノ取用ユベキコトナシ。先生ツイニ心ニ疑テ、コレヲ怪ム」……

ある時、家老の大橋某が四、五人を連れて来て、祖父吉長と夜通し話すということがあった。藤樹は、家老という身分の高い人物の話である、普通人とは違っていようと思い、壁に隠れて一晩中聞いていたがなんらこれといったことはない。藤樹はこれを不審にも不可解にも思った。

この一幕を引いて、小林氏は言う、

―これが藤樹の独学の素地である。周囲の冷笑を避けた夜半の読書百遍、これ以外に彼は学問の方法を持ち合せてはいなかった。……

藤樹が祖父と家老の話を盗み聞きしたのは、藤樹自身が連夜、夜半の読書百遍に勤しんでいた、そうしたある夜、たまたま家老が訪ねてきた、ということだったのであろう。

 

だが、しかし、

―間もなく祖父母と死別し、やがて近江の父親も死ぬ。……

祖父と家老の話を盗み聞きした年の八月、祖母が六十三歳で死に、翌年九月、祖父が七十五歳で死に、藤樹十八歳の正月、父吉次が五十二歳で死んだ。

―母を思う念止み難く、致仕ちしを願ったが、容れられず、脱藩して、ひそかに村に還り、酒を売り、母を養った(二十七歳)。名高い話だが、逸話とか美談とか言って済まされぬものがある。家老に宛てた願書を読むと、「母一人子一人」の人情の披瀝に終始しているが、藤樹は、心底は明さなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり、それが、彼の言う「全孝の心法」(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。これは朱子学でも陽明学でもあるまい。……

日本の陽明学の始祖とされる藤樹の学問は、その基本に、陽明学以前の「全孝の心法」があったようだと小林氏は言う。「本居宣長」において、「心法」という言葉はここが初出であるが、第九章、第十章と、「心法」は次第に重きをなしてくる。

 

3

 

さてここまで、小林氏が辿った藤樹の実生活を、ある程度忠実に追ってきた。これは、なぜ小林氏は、藤樹の学問を語るに先立って、これほどまでも精しく「藤樹年譜」を引いたのか、その気持ちを汲もうとしてのことなのだが、小林氏は、要するに、

―藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。……

と、この「荒地」という藤樹の学問環境を強く印象づけたいがために、大洲における祖父身辺の刃傷沙汰まで省略なしで引いたのである。

その背景には、優れた学問は、なべて学者の自画像である、自画像でなければならない、という小林氏の持論があった。藤樹の学問の素地としての荒地をしっかり目に入れることで、藤樹の自画像を見る目を養う、しかしそれは、単にこの人の生立ちはこうだった、だからこの人にこの発言がある、というような、因果関係を直線的に見てとろうとしてのことではない。優れた学問、学者には、必ず他者の追随を許さない「発明」がある、すなわち、それまで表面には見えていなかった物事の仕組みや道理を明らかにするという意味の「発明」である。その「発明」はいかにして成ったか、そこを跡づけようとして小林氏は素地に見入るのである。藤樹の場合は、まず「学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり」と先に小林氏は言っていた。

 

こういうふうに見てくると、優れた学者は学者自身が自分の学問の素地にそのつど見入っているようにも思えてくる。小林氏は、「本居宣長」を『新潮』に連載していた時期の昭和五十年(一九七五)夏、『毎日新聞』の求めに応じて友人、今日出海氏と対談し、「交友対談」と題して九月、十月、同紙に断続連載したが(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)、そのなかで、こういうことを言っている。

―今西錦司という人の「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだらなかなか面白い。こっちは生物学者じゃないから、彼の学問上の仮説をとやかく言う事は出来ないが、今西さんはこの本の序文で、「これは私の自画像である」と書いている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉というのは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると書いている。これは面白い事を言う学者がいるなと思った。……

今西錦司氏は、小林氏と同じ明治三十五年生れの生物学者で京大教授を務めた人だが、この「学者の自画像」という学問観は、小林氏が今西氏に教えられたと言うより、昭和四十年から「本居宣長」を書いてきて、中江藤樹、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、本居宣長と出会い、他ならぬ彼らから彼らの「自画像」を何枚も見せられていた、しかしこの「学者の自画像」という学問観は、現代ではもう跡形もなくなっているのだろうと小林氏は悲観していた、その小林氏の前に、今西氏が現れた、今西氏の言に小林氏は一も二もなく膝を打ち、その感激を今氏に語った、事の経緯はそういうことだっただろう。

小林氏は、「本居宣長」の連載開始よりも十数年早い昭和二十四年十月、『私の人生観』を出して、そこですでにこう言っていた(「小林秀雄全作品」第17集所収)。

―私がここで、特に言いたい事は、科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と験証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかいうものとは関係がないという事です。そんなものは単なる言葉に過ぎませぬ。実際には、様々な種類の科学があり、見る対象に従い、見る人の気質に従い、異った様々な見方があるだけです。対象も持たず気質も持たぬ精神は、科学的見方という様な漠然たる観念を振り廻すよりほかに能がない。……

こういう経緯をいまここであらためて思い起してみると、藤樹もまた自分の学問の素地を幾度も顧み、そのつど目を凝らしていたのではないかと思えてくる。小林氏は、「藤樹先生年譜」は、その文体から判ずれば藤樹から単なる知識を学んだ人の手になったものではない、と言っているが、それはあたかも、この年譜は自筆年譜ではないかとさえ思われる、あるいは、学問という藤樹の自画像のデッサンとさえ思われる、そう小林氏は言っているかのようである。それかあらぬか、日本思想大系『中江藤樹』(岩波書店)の尾藤正英氏による解説には、大要、次のように記されている。

今に伝わる「藤樹先生年譜」の写本はほぼ二つの系統に大別されるが、この両系統の本のいずれもが正保四年(一六四七)以降の記事は簡単であり、また外面的な事実の記述に留まっている、しかし、正保三年までの記事は藤樹の内面に立ち入った精細な記述に富み、それ以外の生活状況などの描写にしても、藤樹自身の回想にもとづいて記録されたのでなくては、これほどまでの迫真性には達しえないと思われる点が少なくない、藤樹がある時期、自分の生涯をまとめて語るということがあったのかどうか、そこはわからないが、正保三年、藤樹は三十九歳で健在であり、事の次第の如何を問わず、いくらかは藤樹自身、この年譜の作成に関与するところがあったと思われる、その意味ではこの年譜は、形式上は門人の著述だが、内容上からは藤樹の自伝に近い性格を帯びたものとみなすことが許されよう……。

では、なぜ正保三年までは精細で、正保四年以降は簡単なのか。藤樹は慶安元年(一六四八)、四十一歳で死んだ。正保四年と言えば死の前年である、「年譜」に注ぐ情熱も体力も、もはや衰えてしまっていたのだろうか。

だがそうなると、小林氏が一字の省略もなく写し取り、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っている、それを捕えてもらえれば足りると言った藤樹十三歳の年のあの記事は、藤樹自身の手になったものかも知れないのである、少なくとも藤樹の口述を門弟が筆記し、それに藤樹が直々加筆したかとは思ってみたくなるのである。

 

4

 

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

藤樹の学問について、第八章でこう言った小林氏は、第九章に至って言う。

―何故学問は、天下第一等の仕事であるか、何故人間第一義を主意とするか、それは自力で、彼が屡々しばしば使っている「自反」というものの力で、咬出さねばならぬ。「君子ノ学ハ己レノ為ニス、人ノ為ニセズ」と「論語」の語を借りて言い、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」とも言う。……

今日、「独学」という言葉は、「学歴」に対して用いられることが多いが、「学歴」とはどういう学校を卒業したかという経歴である、そのため、「独学」は、「学歴」なるものを有しないことを言う語としてなにがしかの陰翳かげを帯びてしまっている。

しかし、藤樹の言う「独学」は、そうではない。突きつめて言えば、「寸分たりとも他人の力は借りず、徹頭徹尾、自力で学ぶ」という意味であり、どこで学んだかだけが幅をきかす「学歴」よりもはるかに上位に置かれている。否むしろ、そういう「学歴」なるものには何を得たかの中身は知識しかない、そこを藤樹は、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」と強い口調で言う。すなわち、先生なり友人なりが百人いようと何の役にも立たない、なぜ学問は、天下第一等の仕事であるか、なぜ人間第一義を主意とするか、という根本の問いは、自分独りでする独学でなければ一歩たりとも進まない、と言うのである。

これに伴い、先に出た「良知」の風向きも変ってくる。

―普通、藤樹の良知説と言われているように、「良知」は彼の学問の準的となる観念であり、又これは、明徳とも大孝とも本心とも、いろいろに呼ばれているのだが、どう呼んでも、「独」という言葉を悟得する工夫に帰するのであり、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」であると論じられている。……

ここで小林氏が言っている「準的となる観念」の「準的」には、「目標、目的」と「標準、基準」の両意があるが、一般には藤樹の言う「良知」は人すべてに内在している知力、判断力を意味する言葉であると解されており、この「良知」を正しく使って正しく生きる術を人々に知らしめる、それが藤樹の学問だとされている、そこから推せば、小林氏は、「良知」は藤樹の学問の「目標、目的」と思われているが、この最終目標と思われている「良知」も所詮は手段に過ぎない、最終の目的は「良知」を用いて「独」という言葉をどう悟得するかである、そのことは、藤樹自身が、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」という言葉で言っている、すなわち「独」は、「良知」のなかでも別格の呼び方であり、幾人もの聖人たちの学問を貫いているものである、と小林氏は言うのである。

 

こうして以下、藤樹の言う「独」の含蓄が示される。

―「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ」、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、ル所無シ」という覚悟は出来るだろう。そうすれば、「貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ」、そういう「独」の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ」という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う「人間第一義」の道であった。……

「聖凡一体、生死マズ」は、聖人も凡人も変るところはない、生死の問題は誰にも止むことなくつきまとうのである、であろう。

―従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい。学問をする責任は、各自が負わねばならない。真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何いかんによる。それも、めいめいの「現在の心」に関する工夫であって、そのほかに、「向上神奇玄妙」なる理を求めんとする工夫ではない。このような烈しい内省的傾向が、新学問の夜明けに現れた事を、とくと心に留めて置く必要を思うのである。……

「心法」「心術」という言葉が、徐々に重きをなしてくる。「心法」は、藤樹が「翁問答」で言っている「全孝の心法」に基づく言葉で、これについてはすでに第八章でふれられているが、小林氏は、この「心法」にも思想のドラマを観ていくのである。「『向上神奇玄妙』なる理」は、ここでは私たちの日常を遠く離れた、雲を摑むような抽象的人生論、あるいは宇宙論ととっておけば十分だろう。

―藤樹の学問は、先きに言ったように、「独」という言葉の、極めて実践的な吟味を、その根幹としていたが、契沖の仕事にしても、彼の言う「独り生れて、独死候身」の言わば学問的処理、そういう吾が身に、意味あるどんな生き方があるか、という問に対する答えであった。二人が吾が物とした時代精神の親近性を思っていると、前者の儒学の主観性、後者の和学の客観性という、現代の傍観者の眼に映ずる相違も、曖昧なものに見えて来る。契沖の学問の客観的方法も、藤樹の言うように、自力で「咬出し」た心法に外ならなかった事が、よく合点されて来る。……

ここで、「咬出す」という言葉の語気と気魄にあらためて打たれよう。学問は「天下第一等人間第一義之意味を御咬出」す以外に別路も別事もないと藤樹は言った、これを承けて小林氏は、こんな思い切った学問の独立宣言をした者は藤樹以前に誰もいなかった、「咬出す」というような言い方が、彼の切実な気持を現している、と言っていた。

―そういう次第で、藤樹の独創は、在来の学問の修正も改良も全く断念して了ったところに、学問は一ったん死なねば、生き返らないと見極めたところにある。従って、「一文不通にても、上々の学者なり」(「翁問答」改正篇)とか、「良知天然の師にて候へば、師なしとても不苦候。道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」(「与森村伯仁」)という烈しい言葉にもなる。……

「一文不通にても、上々の学者なり」は、文章が読めなくても立派な学者である。「良知天然の師にて候へば、師なしとても不苦候」は、人間誰にも具わっている「良知」は天然の師であるから、人間の師がいないからといって困ることはない。「道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」は、道というものは言葉で表しきれないところにある、だから、読み書きができなくても支障はない。

―学問の起死回生の為には、俗中平常の自己に還って出直す道しかない。思い切って、この道を踏み出してみれば、「論語よみの論語しらず」という諺を発明した世俗の人々は、「論語」に読まれて己れを失ってはいない事に気附くだろう。「心学をよくつとむる賤男賤女は書物をよまずして読なり。今時はやる俗学は書物を読てよまざるにひとし」(「翁問答」改正篇)、……

―当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……

「書を読まずして、何故三年も心法を練るか」は、直前に引かれている藤樹の高弟、熊沢蕃山の「其比そのころ中江氏、王子の書を見て、良知の旨をよろこび、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。朝夕一所にをるはうばいにも、学問したることをしられず、書を見ずして、心法を練ること三年なり」(「集義外書」)に発している。「王子」は中国、明の儒学者、王陽明、「集義外書」は蕃山の著作である。

 

5

 

―「藤樹先生年譜」によれば、三十二歳、「秋論語ヲ講ズ。郷党ノ篇ニ至テ大ニ感得触発アリ。是ニ於テ論語ノ解ヲ作ラント欲ス」とある。彼は、「論語」のまとまった訓詁に関しては、「論語郷党啓蒙翼伝よくでん」しか遺さなかった。この難解な著作を批評するのは、元より私の力を越える事だが、尋常の読者として、何故彼が、特に「郷党篇」を読んで「大ニ感得触発」するところがあったかを想ってみると、この著作は彼の心法の顕著な実例と映じて来る。……

「郷党ノ篇」、すなわち「郷党篇」は、「論語」に見られる全二十篇のほぼ中央に位置している。藤樹の心法とは、どういうものであったか、それがここで顕著に示されると小林氏は言う。

―「がく」から「郷党」に至る、主として孔子自身の言葉を活写している所謂「上論語」のうちで、普通に読めば、「郷党」は難解と言うよりも一番退屈な篇だ。と言うのは、孔子は、「郷党」になると、まるで口を利かなくなって了う。写されているのは、孔子の行動というより日常生活の、当時の儀礼に従った細かな挙止だけである。孔子の日頃の立居ふるまいの一動一静を見守った弟子達の眼を得なければ、これはほとんど死文に近い。……

「論語」は第一の「学而」に始り第二十の「尭曰」に至るが、これら全二十篇のうち「学而」から第十の「郷党」までがまず出来たと伊藤仁斎が言い、今日ではこの前半十篇が「上論語」と呼ばれている。「郷党」に記された孔子の日常の一例としては、小林氏が第五章に引いた厩火事の一件がある。それにしても、なぜ藤樹は、「ほとんど死文に近い」ような「郷党篇」に、しかも「郷党篇」だけに触発されたのだろうか。

―藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。「郷党」のこの本質的な難解に心を致さなければ、孔子の教説に躓くだろう。道に関する孔子の直かな発言は豊かで、人の耳に入り易いが、又まことに多様多岐であって、読むものの好むところに従って、様々な解釈を許すものだ。この不安定を避けようとして、本当のところ、彼の説く道の本とは何かを、分析的に求めて行くと、凡そ言説げんせんの外に出て了う。そこで、藤樹は、「天何ヲカ言ハンヤ、愚アンズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」という解に行きつくのである。……

「徳光」は、ある人物の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれた影である。「郷党篇」に描かれた孔子の日常生活の挙止は、孔子の徳の影であり、この影から、影を生んだ徳の光を思い描くためには、「論語」を読む側にそれを思い描けるだけの力量が要る、ということである。「言説言詮の外に出て了う」は、言葉では表現できないところに肝心要があるということを知る、の意である。「天何ヲカ言ハンヤ、愚アンズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」は、天はものを言うだろうか、言わないではないか、それと同じである、私が思うに、無言とは、声も聞えず匂いもしない道というものの真実そのものである……。「愚」は自分を謙遜して言う語、「按ズ」は考えをめぐらす意である。

―「郷党」が、鮮かな孔子の肖像画として映じて来るのは、必ずこの種の苦し気な心法を通じてであると見ていい。絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない。……

藤樹は、「郷党篇」の神髄を、「描画」という言葉で表した。小林氏はかつて、李朝をはじめとする焼物に魂を奪われ、雪舟や鉄斎、ゴッホやセザンヌの絵に何年も見入ったが、ここはその自分自身の痛切な体験をしっかり重ねて言っている。氏は氏の「人生いかに生きるべきか」を考えぬく必然から、「言説言詮の外」にある焼物や絵画に正対した、それと同じ向き合い方を、藤樹が「郷党篇」を文字で描かれた絵と見てしていた。

―「此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲモクシキシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ」、藤樹は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。「啓蒙」では、初学の為に、大意の摑み方について忠告し、「翼伝」では、専門的な時代考証を試みる。しかし、これら「聖」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る「聖像」に取って代る事は出来ない。……

これは、小林氏の、生涯一貫した批評の姿勢でもあった。この姿勢は、「本居宣長」においても貫かれている。すなわち、ここの引用本文は、次のように読み換えられるのである。

「小林秀雄は、自分が『感得触発』したその同じものが、即ち彼が本居宣長の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。時には、大意の摑み方について忠告し、時には時代考証を試みる。しかし、これら宣長の学問に関する知的理解は、小林秀雄が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る宣長の『肖像』に取って代る事は出来ない……」。

この「自分が正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である……」は、まぎれもなく「独」の思想である。「自分」という「独」、「読者」という「独」、小林氏は、藤樹とともに、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」と、いままた念を押すのである。

これも原初に遡れば、氏がボードレールに学んだ象徴詩の書法であった。人生いかに生きるべきかを考える究極の知恵は、それを果てまで考えぬく人たちの間では、洋の東西を問わず、時の新旧を問わず、まったく同じ趣で湧くのだと、氏は強く、あらためて言いたかったであろう。

―私は、これを読んでいて、極めて自然に、「六経ハナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」(「語孟字義」下巻)という、伊藤仁斎の言葉を思い出す。それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしている事が、仁斎の著述の随所に窺われるからだ。……

こうして「独」の学脈は、滔々とうとうと藤樹から仁斎へと流れ下るのである。

(第二十二回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十一 俗中の真

 

1

 

第七章で、契沖の歌歴と下河辺長流との唱和を見た小林氏は、そのまま続けて契沖の書簡を引く。

―契沖は、元禄九年(五十七歳)、周囲から望まれて、円珠庵で、「万葉」の講義をしたが、その前年、泉州の石橋新右衛門直之という後輩に、聴講をすすめた手紙が遺っている。契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったかがわかるであろう。……

ここで、「周囲から望まれて」と言われている「周囲」は、今井似閑、海北若冲ら、契沖の高弟たちである。したがって、このときの講義の内容は、当時の「萬葉」学の最高峰に位置するものだったと言っていいのだが、開講は元禄九年五月十二日だった。

そして、この「手紙」が宛てられた石橋新右衛門直之について、小林氏は「後輩」としか言っていないが、契沖にとって石橋新右衛門は、格別の後輩だった。手紙の日付は元禄八年九月十三日である。

第九回に精しく書いたが、契沖は三十歳の頃、高野山を下りて和泉の国の久井村に住み、その約五年後、久井から二里ばかり(約八キロメートル)北にあった池田村万町の伏屋重賢宅に移った。契沖の祖父元宜は豊臣秀吉の臣、加藤清正に仕えたが、重賢の祖父一安は秀吉に仕えた、その豊臣恩顧のゆかりから重賢が招いたらしい。

伏屋家は豪家であり、重賢は好学の人で、日本の古典の書籍を数多く所蔵していた。契沖はここに寄寓して重賢の蔵書を読破、その読書経験が後の古典研究の契機ともなり素地ともなったのだが、契沖は石橋新右衛門とも重賢の縁で識ったのである。

重賢は、和泉の国にこの土地のことを記した書物がないことを惜しみ、『泉州志』の編纂を志した。だが重賢は志を果さないまま世を去り、契沖も泉州を離れることになった、が、契沖はその前に、重賢の遺志を重んじて後継者を求めた。そこに現れたのが石橋新右衛門だった。新右衛門はよく契沖の期待に応えて重賢の遺志を成就せしめ、契沖は自ら跋文を書いた。石橋新右衛門は、そういう後輩であった。

いまここに記した石橋新右衛門の人物像は、小林氏の「本居宣長」を読む上からは必ずしも知っておかなければならないことではない。小林氏としても、読者に読み取ってほしいのは新右衛門への手紙に覗える契沖の「行き着いた確信」であり、そういう小林氏の思いからすれば、石橋新右衛門の人物像に寄り道して読者に時間を食わせる註釈は不本意であるだろう。それを承知であえて私が寄り道しているのは、新右衛門がこういう人物だったと知って契沖の手紙を読めば、契沖の「行き着いた確信」がいっそうの生気を帯びるからである。

正直言って、私は当初、漠然とではあるが新右衛門を和泉の国の豪商くらいに思い、学問に関しては初心者もしくは好事家のように決めつけていた。そして、小林氏が引いている契沖の手紙も、新右衛門が諸事繁多を理由に「萬葉」講義に出られない旨を言ってきた、その新右衛門の欠席届に対して契沖が書き送ったものと想像裡に解していた。だが、そうではなかった。契沖と新右衛門とは、強固な絆で結ばれていた。契沖の手紙は、そうした新右衛門の人間像を知って読むのと知らずに読むのとでは、言葉の重みが断然ちがうのである。手紙文の中に出る「俗中の真」も、契沖自ら奔走した『泉州志』の編者に向けての言葉と知って読めば、その含蓄にいっそう思いを致すことになるのである。

 

さてそこで、小林氏が引いた契沖の手紙である。

―(前略)拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候、……

これが、小林氏の言う、「契沖が行き着いた確信」の入口である。

この引用にある「(前略)」は、言うまでもなく小林氏がそこまでの文を割愛したことをことわっているのだが、筑摩書房版『契沖全集』第十六巻で原文を繙いてみると、この手紙は、契沖が所望した松の木二本を新右衛門が送ってくれたことに対する謝辞に始まり、松をめぐっての蘊蓄が随想風に記され、その後に、こう記されている。

―又此比このごろ万葉講談之様なる事催被申沙汰有之候故拙僧存候は、貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候……

そしてこの後に、先に引いた「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候……」が来るのである。

小林氏が略した原文を、わざわざ復元して読者の眼前に供した私の思いはもうお察しいただけていると思う。先に石橋新右衛門は契沖にとって格別の後輩だったと言ったが、その格別とは単に恩人伏屋重賢との縁を介しての後輩というだけではない、「萬葉」講義の開講に際して、「貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候」、すなわち、貴君は聡明で、一を聞いて二も三も知る人だ、と言って送るほどの後輩だったのである。

ゆえに、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」……、この契沖が、「萬葉集」に関して明らかにしたことは、「萬葉集」が編まれてこのかた随一であると思う、その証拠は古書を見てもらえばわかる、水戸光圀候のご家来衆のなかにも、そう思って下さる方がいられる……は、他の誰でもない、石橋新右衛門に向って言われているのである。「拙僧万葉発明」の「発明」は、それまで隠れていた事理などを新たにひらき、明らかにすることをいう「発明」である。

契沖の言うとおり、「萬葉集」は契沖によって初めて全貌が明らかになり、初めて全歌が正当に読み解かれたのだが、石橋新右衛門への手紙で契沖自らそのことを言っているのは、それを自慢したくてのことではない。契沖が「萬葉代匠記」の初稿本を書き始めたのは天和三年(一六八三)四十四歳の頃であり、書き上げたのは貞享四年(一六八七)四十八歳の頃である。これに次いで精撰本を書き始めたのは元禄二年(一六八九)五十歳の頃であり、書き上げたのは翌三年、五十一歳の年と見られている。だが契沖が、新右衛門と識ったのは、初稿本を書き始めるよりも前、四十歳になるかならぬかの頃である。以後ずっと新右衛門は契沖の至近に居た。だからいま小林氏が読んでいる手紙を契沖が新右衛門に書いた元禄八年九月という時期、新右衛門は契沖に「萬葉代匠記」のあることを十分心得ていたであろうし、契沖の方から「代匠記」のことを語って聞かせたことも幾度かあったであろう。契沖という人は、己れを誇ることのまったくなかった人だから、自慢話などはもとよりあろうはずはないのだが、ならばなぜ今になってわざわざ「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候」と言い、「且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」と言うかである。

思うにこの年、すなわち「萬葉代匠記」の成稿から五年が過ぎて五十六歳となった元禄八年、折しも今井似閑、海北若冲ら、高弟たちから「萬葉」講座を請われることがあり、それによって契沖は、自分が為し遂げた仕事を初めてじっくり顧みる機会に恵まれ、契沖自身、自分の為した仕事に驚いたのではあるまいか。その驚きが、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候」と言わしめ、次の言葉を吐かしめたのではあるまいか。

―煙硝も火を不寄候時は、不成功候様ニ、少分は因縁を借候て、早々成大事習目前之事ニ御座候、……

火薬も火がつかないと役に立たないというが、取るに足りないこの身も因縁を蒙ったおかげで、大きな仕事の完成がもう目前になっている……。「少分」は卑しい身分、またその者、ここは自分のことを言っている。

ということは、契沖の萬葉学は、「萬葉代匠記」の成稿後も熟成を続けていた。その熟成がまもなく絶頂を迎える予感がすると契沖自ら言い、だからこそこれから始める講義は、貴君にぜひ聴いてほしいと、契沖は強い口調で新右衛門に言うのである。

―あはれ御用事等、何とぞ他へ御たのみ候而、御聴聞候へかしと存事候、……

世間の用事は誰かに頼んで、私の「萬葉」講義をぜひともお聴きになるように……。ここで言われている「用事」は、特にこれと言った用事ではなく、単にふだんの仕事というほどの意であるが、新たに始める「萬葉」講義には、契沖自身、燃えるものがあったのである、そのことを初めて新右衛門に知らせるのである、そういう観点から読めば、この「御用事等」は、たとえどんな仕事であっても、というほどの語気で読めるだろう。

そして、言う、

―世事は俗中之俗、やう之義は、俗中之真ニ御座候、……

世間の事は俗中の俗であり、「萬葉集」を読むということは俗中の真なのです……。

これがまさに、小林氏の言う「契沖が行き着いた確信」である。自分自身で書き上げた「萬葉代匠記」に自分自身が驚き、その驚きのなかで確信した「俗中の真」なのである。

おそらく、この「俗中の真」という言葉は、このとき初めて契沖の脳裏で光った。契沖は常日頃からこの言葉を口にしていたのではない、ましてや誰彼かまわずお題目のように唱えていたのではない、相手が石橋新右衛門だったからこそ、新右衛門に聴聞を説得しようとしたからこそ、閃いたのであり、契沖自身、自ら発した「俗中の真」に、その場で説得されたと思えるのである。

現代語の「俗」には「低い」「卑しい」という語感が先に立つが、契沖の言う「俗」にそれはない。したがって「俗中の俗」とは、低級なことのなかでもとりわけ低級、というような意味ではない。「俗中の」の「俗」は単に「世の中」「人の世」であり、言い換えれば私たち人間の日常生活の意である、そしてそういう「俗」の中の「俗」とは、生きるために否応なく誰もがこなさなければならない目先の諸事である。これに対して「俗中の真」とは、日常の生活経験から不変の真理を掬い上げて味わうことである、過去から現在へは言うまでもなく、現在から未来へまでも変わることのない人性の基本を知ることである。「加様之義」は、「萬葉集」を深く読むことである。「萬葉集」には目先の諸事が四五〇〇首にも歌われている、その膨大な目先の諸事から、昔も今も変わることなく皆人に通じる真を掬う営為、すなわち歌学である。

―貴様御伝置候ヘバ、泉州歌学不絶地と成可申も、知レ申まじく候、必何とぞ可被思召立候、……

貴君が伝えおかれれば、泉州は歌学の永久に絶えない地となるかも知れないのです、なにとぞ思い立って下さいますよう……。

最後は、こう言って筆を擱く。

―歯落口すぼまり、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……

歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないところへ他の器官にも増して舌が不自由になり、難儀していますが、独りで生まれて独りで死ぬ身に変わりはないので、講義を乞われれば辞退はしないで務めようと思っています……。

 

2

 

契沖が石橋新右衛門に書いた手紙を、ここでこういうふうに読んだのは小林氏ではない、私である。私とても小林氏の読み筋に沿って読もうとし、そのため、小林氏が最初に言った「契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったか」、そこをわかろうとして読んでいくうちおのずとこうなったのだが、それというのも小林氏が、契沖の手紙を読み終えてすぐ、こう言っていたからである。

―読んでいると、宛名は宣長でも差支えないように思われて来る。……

少なくとも文章の表面ではほとんど小林氏が顧みていなかった石橋新右衛門を、敢えて私が表面に立たせようとしたのは、小林氏のこの一文があったからである。つまり、石橋新右衛門に宛てた契沖の手紙は、小林氏に「宛名は宣長でも差支えない」とまで思わせるほどの意力に満ちていた、それは、石橋新右衛門という人が、契沖にとってはあれほどの人物だったからであり、なればこそ契沖は、永年歌学に生きて行き着いた確信を、「俗中の真」という一語に託して新右衛門に明かした、そしてその一語にこめられた意力は、後に、本居宣長が契沖の「百人一首改観抄」に感じ、続いて同じく「勢語臆断」に感じた意力とまったく同じだと小林氏も強く感じたにちがいないと思えたからである。だからこそ氏は、即刻続けてこう言ったのである。

―「勢語臆断」が成ったのは、この手紙より数年前であるが、既に書いたように、これは、二十三歳の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写した最初のものである。……

「勢語臆断」は、契沖の「伊勢物語」の註釈書であるが、以下、その最終段の本文全文と契沖の註釈である。

―「むかし、をとこ、わづらひて、心ちしぬべくおぼえければ、『つひにゆく みちとはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを』―たれたれも、時にあたりて、思ふべき事なり。これまことありて、人のをしへにもよき歌なり。後々の人、しなんとするにいたりて、ことごとしき歌をよみ、あるひは、道をさとれるよしなどをよめる、まことしからずして、いとにくし。たゞなる時こそ、狂言綺語もまじらめ。今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生のいつはりをあらはすなり」……

ひととおり、現代語訳を添えておこう。

―昔、男が病気になって、死にそうに思えたのでこう詠んだ、「最後に行く道であるとは前から聞いていたが、昨日今日のこととは思っていなかったのに……」。誰もが死に臨んで思うことである。この歌には偽りのない本心が詠まれていて、人生の教訓としてもよい歌である。業平より後の時代の人間は、死に臨んでことごとしい歌を詠み、あるいは道を悟ったという意味の歌などを詠んでいるが、本心が感じられずたいへん見苦しい。ふだんのときなら狂言綺語が混じってもよいだろう、だが、これが最期というときは人間本来の心に還れと言いたい。業平はその一生の誠心誠意がこの歌に現れ、後の時代の人は最期の歌に一生の偽りを現している……。

「狂言綺語」は、道理に合わない言と巧みに飾った語の意で、物語、小説、戯曲の類を卑しめて言われることが多いが、「勢語臆断」の文脈では単に繕い飾った言語の意である。契沖の別の言葉でいえば、「ことごとしき歌」や「道をさとれるよし」の言葉である。

契沖の註釈を受けて、小林氏は言う。

―契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。……

小林氏が、主として「萬葉集」のことばかりが言われている契沖の手紙を読み終えたにもかかわらず、「萬葉集」には一言もふれずに「勢語臆断」へと飛んだのは、契沖の手紙に見えた「俗中の真」からただちに「勢語臆断」中の「狂言綺語」を連想したからであろう。さらに言えば、氏は、一刻も早く「契沖は、『狂言綺語』は『俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候』と註してもよかった」と言いたかった、言いたかったとまでは言わないまでも、契沖の言う「俗中の真」をわかろうとすれば、「狂言綺語」が恰好の対概念になる、そう考えたのであろう。

しかし、そうなると、「加様之義」は在原業平の歌ないしは死に臨んでの態度、となって支障はないとしても、「俗中の俗」は「狂言綺語」の語意語感に染められて、卑しいもの、蔑むべきもののなかでもとりわけ卑しいもの、蔑むべきものを言う言葉となり、契沖が手紙で用いた「俗中の俗」からは逸脱してしまう恐れが出てくるのだ。そこには注意が要る。

先回りしていえば、小林氏は、「俗」を卑しんだり蔑んだりは決してしていないのである。それどころか、まったく逆である。先へ行って、第十一章にはこう記される。

―卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、もっともな考えではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味のあるものは、恐らく、彼には、どこにも見附らなかったに相違ない。……

そしてここから、宣長の学問の骨子とも言うべき「俗」が、鮮明に映し出されていくのである。

ではなぜ小林氏は、契沖は「狂言綺語」は「俗中之俗」と註してもよかったなどと、読者を誤解の淵へ追いやるような言い方をしたかである。結論から言えば、契沖の手紙文を踏まえて言ってみれば、結果としてこうなったというだけのことで、氏がほんとうに言いたかったことは、「加様之義は、俗中之真ニ御座候」にあった。「加様之義」と言われている在原業平の「歌」にあった。

氏にとって、人間が生きる、生きているということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にあった。端的に一例を示せば、昭和三十二年(一九五七)二月、五十四歳の冬に発表した「美を求める心」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)で次のように言っている。

―悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……

―詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。……

この「美を求める心」の「詩」を「歌」に、「詩人」を「歌人」に置き換えて読めば、ただちについ前回見た契沖、長流の唱和をはじめとして、「本居宣長」のそこここが浮んでくるが、先に小林氏にとって人間が生きるということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にあると言ったことの意味合も容易に理解していただけると思う。もっと言えば、関心よりも価値である。小林氏が関心を振り向け価値を置くのは、何かに悲しんでいる人その人ではない、何かに悲しんでいる人がその悲しみを言葉の姿に整えてみせた歌や詩である。そしてこのまま「美を求める心」に即して続ければ、悲しみは「俗中の俗」である。それが歌や詩となって言葉の姿をとったとき、「俗中の真」が立ってくるのである。

―宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と註した。……

「右の契沖の一文」は、「勢語臆断」最終段の契沖の註釈文である。

―この言葉の、宣長の言う「本意」「意味ノフカキ処」では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい。……

「この言葉」とは、「ほうしのことばにもにず……法師ながら、かくこそ有りけれ」という宣長の「玉かつま」の言葉である。契沖の基本的な思想は「勢語臆断」の業平評に縮図的に表れており、業平の歌のような正直な古歌から人生の要諦を汲み上げるのが歌学である、そういう歌学がとりもなおさず俗中の真ということである、と宣長は解して腹に入れていた、さらに契沖は、こういう俗中の真に徹し、そのために狂言綺語をまず排斥した、この狂言綺語の排斥が契沖学の急所であったとも宣長は見てとっていた、というのである。

小林氏の関心は、常に「人間と言葉、言葉と人間」にあった。「俗中の真」は契沖の最初の発言からして当然だったが、「俗中の俗」も「狂言綺語」を対置することで「人間と言葉、言葉と人間」の領域に絞って考察された。

 

―義公は、契沖の「代匠記」の仕事に対し、白銀一千両絹三十匹を贈った。今日にしてみると、どれほどの金額になるか、私にははっきり計算出来ないが、驚くべき額である。だが契沖は、義公の研究援助を、常に深謝していたが、権威にも富にも全く関心がなかった。先きにも挙げた安藤為章の「行実」には、「師以テ自ラケズ、治寺ノ費ニ充テ、貧乏ヲニギハス」とあるのが、恐らく事実であった事は、契沖の遺言状でわかる。彼は、六ヶ条の、まことに質素な簡明な遺言を認め、円珠庵に歿した(元禄十四年正月、六十二歳)。それは、契沖の一生のまこと、ここに現れ、と言ってよいもので、又、彼の学問そのままの姿をしているとも言えると思うので、引用して置く。……

 契沖の遺言状は、「彼の学問そのままの姿をしている」と小林氏は言う。事実、契沖の遺言状には、狂言綺語は一語として交らず、在原業平と同様に、契沖は「心のまことにかへ」って「一生のまこと」をあらわしている。

小林氏は原文で引いているが、ここでは久松潜一氏の「伝記及伝記資料」(旧「契沖全集」第九巻)に拠りながら、一条ごとに趣意をとってみる。

 

一、何時拙僧相果候共……

契沖がいつ死のうとも、円珠庵は理元がそのまま住み続けてほしい。円清の旧地であるから、自分が生きていたときと同じにしてほしい。もし余所へ出たいと望んだときは、飢渇の心配のないようにしてほしい。

(「理元」は長く契沖の身辺にあって契沖を助けた僧で、円珠庵の墓碑に円珠庵二世として名が残る契真かと久松潜一氏の「伝記及伝記資料」にある)

一、水戸様より毎年被下候飯料……

水戸光圀様から毎年いただいている手当は、早めにすべてをまとめて返納してほしい。もともとこれを頂戴することは自分の本意ではないと常々思っていたが、無力のために御恩を蒙ってきたのである。

一、年来得御意候何も寄合ご相談候而……

永年ご厚意をいただいた方々でご相談下さり、数年の間は理元が引き続きかつがつでも暮していけるようにしていただきたい。自分は裕福でないので頼んでおきます。

一、拙僧平生人を益可申方を好候而……

自分は平生から人に益をもたらすことを好み、損を及ぼすことは好まなかったが、先年、無調法をして多くの人に損をおかけしたことを甚だ残念に思っている。力が出ればお返ししたいと思う甲斐なく今に至っている。その人たちは何ともお思いになってはいないだろうが、自分は心底このように申し訳なく思っている。

一、妙法寺を退候節……

妙法寺を退去したとき、覚心へ銀三枚、深慶へ二枚、今之玆元へ一枚、故市左衛門と作兵衛へ各一枚を与えたいと人を通じてそう言いもしそう思っていたが、この円珠庵にその銀を使ってしまったため、これまたいつかはいつかはと心底思ってはいた。円智、おばなどへも、少しは与えたいと思っている。そのほか九兵衛など、別に少々与えたいと思ってきたが、実際は願いと違ってしまっている。

一、歌書、萬葉、余材抄等数部は、理元守可被申候……

歌道に関する書、「萬葉集」、「古今余材抄」など数点の書物は、理元が守ってほしい。その他、下河辺長流の書いたものや自分が書き写しておいたものは、皆で相談して形見として分けられたい。

 

以上である。「ことごとしき歌」も、「道をさとれる」由も、記されていない。

 

(第二十一回 了)