『本居宣長』の〈時間論〉へⅧ ―徂徠の面影

一 「あやしさ」の表情を見つめること

 

『本居宣長』も最終部に近づく四十三回は、「古事記伝」に現れた神についての「長々しい註釈文の姿は、神をって、殆ど支離滅裂の体為テイタラクにも見える」と述べて、この宣長による「迦微」という言葉を註釈した文章の奇妙さに、ことさらに注目している。そこで神を説くための言葉と文章が、このような「姿」になるのは何故なのか。つまり、人に合理的な理解を得られるような言葉、容易に共有化が可能なような、分かりやすい説明文にならないのは何故か。実はそのことを問いかけるのが「宣長の真意」であり、その難問を説き明かす言葉を紡ぎ出そうとしても、神とは何かを考える行為自体がこれを許さなかったという事態、いわばある特権的な経験を十全に象る表現方法の特殊性という微妙な問題への想像力を、読者に促しているようにみえる。そして、この本質的な難問への逆向きな考察例として、熊沢蕃山の「三輪物語」を批判した宣長の文章を引いていく。これは周知のように『玉勝間』(1)の五の巻冒頭部の「熊澤氏が神典を論へる事」、「あやしき事の説」、「また」、「漢籍カラブミと神御典ノミフミとのけぢめ」という一続きの文章に展開される趣旨を踏まえているものである。神々の物語を叙述する手段として、「神書は、むかしの伝へをそのまゝかゝで、はるばる後の世に、寓言して書きたり」というのは、未開の古き世であったがためという不可抗力的な人智の限界を結論としてしまうこと。すなわち、「神書」の記す物語の「あやしさ」を、「理を明らか」にする術のない伝承者、書き手の知性の限界と表現技法の拙さに帰する儒学者の習癖に対して、宣長が言う「あやしきこと」とは何か、これをどう扱うのが適切なのかが説かれることになる。

 

まづ、神の御典ミフミを、いはゆる寓言也と見たるは、めづらしくもあらぬ、例のじゆしゴコロや也、すべて儒者は、世中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞ心得たり……(略)……人のサトリはかぎり有て、及ばぬところ多きことを、えさとらで、よろづの理を、おのがさとりもて、ことごとく知つくすべき物と思へる、からごころのひがごと也、すべて世中のことわりは、かぎりなきものにて、さらに人のみじかき智もて、しりつくすわざにあらざれば、神代の事あやしとて、凡人タダビトのいかでかはたはやすくはかりいはん……

(「熊澤氏が神典を論へる事」二三九)

 

「寓言」、たとえ話の向こう側には、必ずたとえられている事実が潜んでいる。そのどちらが主であるかと言えば、もちろん事実の方であり、それが合理的に解釈できれば「寓言」としての物語叙述のあり方は問題にされない、という受け止め方が「寓言」の「寓言」たる所以である。そしてこの読み方の前提こそが、世の事象の合理性には漏れも隙もないという思想であり、つまりは「理」から零れ落ちる謎や<怪>は一切あり得ない。それに対して、人智の限界を常に見据えている思想にとっては、拙き「寓言」と見えている物語叙述の<怪>は、それを遥かに遠ざけて見る合理論以前の、<怪>そのものが発動し、言葉を纏って象ろうとする表現動機の動きつつある形そのものを感じ取ろうとするだろう。さらに、こうした世界の合理的解釈の妥当性自体が時代や社会、文化によって相対的なものでしかなく、合理的解釈の納得の仕方や基準は、実はその時々で変化していること、すなわち、ある合理的解釈は厳密に言えばその時点での合理論に依存しているだけだということである。それは、たとえば近代哲学史を記した啓蒙書でも繙けば一目瞭然のはずなのだ。そうすると、この世の中に次々に現れる実に多様な<怪>も、ある合理的解釈に取り込まれたり、時を経れば他の合理的解釈へ回収されたりして、その了解の仕方は相対的と言わざるを得ない。つまり、今の「理」で解釈可能な<怪>は、その時には「事」として確認が可能であっても、時が過ぎれば「事」から再び<怪>へと変転する。そこを突いた宣長の批判が「あやしき事の説」の主眼なのである。

 

すべて神代の事どもゝ、今は世にさる事のなければこそ、あやしとは思ふなれ、今もあらましかば、あやしとはおもはましや、今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ

(「また」二四一)

 

<怪>で満ち溢れ、それらが錯綜している世界こそが先験的に存在し、その中からその時の「理」が了解可能な有様を、しかし限定的に構成している。つまり、あたりまえであるモノ、改めて思い巡らす必要もなく普通であるモノ、それらを前提として思考を出発させて不都合とは思われないモノ。たとえば、そういう疑う余地のない現実世界に我々が生きているということ、それ自体が実は現在の「理」による暗黙の了解に過ぎないのではないか、そういう地点まで退いて、自明の現実としか思われない世界を点検すれば、なんのことはない硬く不変と思って来た現実世界とは、我々の「理」という思想が組織した構築物であったというわけである。あるいはそれを「日常」と言い換えてもいい。しかし、この「日常」は、人智の遥かに及ばない自然の強大な力の前では、いとも簡単に崩壊してしまうではないか。そして、こうした経験が現在の「理」では想像もつかないほど頻繁に出現していた時にあっては、この「日常」を突き動かし反転させる強大な力との出会いの衝撃から、この経験を認識しようとする努力、それと向き合おうとする言葉の発生を深刻に考えてみる必要があるだろう。

したがって、「神書」に描かれた「あやしき」物語とは、原初に発生した「あやしき事」の威力についての切実な経験が、いつしか、誰の、ということもない言葉となり、文章となり、遂には物語となって展開して来たものであるという受け取り方へ姿勢転換することを求めているということなのであろう。それでは、我々にどういう姿勢を取ることを要請しているのであろうか。もう言うまでもなく、「あやしき事」を別の事へ、明解な「日常」の事へ置き換えることで理解したと納得するのではなく、「あやしき事」が伝承されて来た過程において、その身に纏った言葉の姿形を見定め、その淵源から身を起こした動きそのものを掬い取ろうとする行為、その中で淵源の威力を見定めようという努力と実践をしなければならない。すなわち、合理論を廃棄し、すべては、<怪>でしかないという不可知論の徹底まで、いったんは退いた上で、その<怪>の淵源から積み重ねられて来た言葉、それが「あやしき」物語であるならば、その言語行為に寄り添い、模倣しようとするような行為論への転換を決断するということなのだ。

論の端緒に戻るなら、「世中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれる」という認識は、実は限定的な「理」の働きの結果に過ぎない。しかし、この「理」の中にいるということに気づかない限り、「あやしき事」は我々から遥かに遠ざけられ、日常世界の普通のモノへと対象化されてしまうのである。

さて、『本居宣長』四十三回の前半部に引用、言及された「玉勝間」の文章について考察して来たが、こうした「神書」への対応の仕方の転換を促すことを、この『本居宣長』の本文は、「神代の伝説は、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語でなくなるわけはない」とした上で、さらに次のように敷衍している。

 

歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直かに結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確かめるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。

それが、宣長が「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を超えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「アヤしき」経験を、描き出すに到ったのである。

(四十三)

 

「あやしき」物語を「あはれ」と観じて、そのまま受け入れる行為を持続して行けば、その物語の<怪>は、遂に<神>の姿を帯びて見えてくるというのである。さらにこの「あはれ」の魅力に忘れずに保持する努力について、宣長が敢行したことが「自照を通じての「古事記」観照の道だった」とする。もちろんここで言う「自照」も「観照」も、通念的な意味合いで使用されているわけではない。向こう側に遠ざけられた対象を、主観を交えず冷静かつ客観的に観察する態度を言うのではない。この文脈においては、自らへの意識をそのまま深化させようとする努力の中で、「古事記」を観じていくという一連の行為においての動的認識を示唆しているのであって、ここでも、先に記した読書態度の転換へと我々を促し、我々を、読者を試みていると言うべきである。

 

二 文の表情を眺めること

 

この四十三回の後半では、宣長と真淵の関係についての「締め括り」を書くとして真淵の「国意考」に描かれた「古道」についての議論へ分け入り、宣長と真淵の学問の決定的な違いについて、四十七回までを費やして考察して行くことになる。そして、ここで問題となって来たのは、やはり「あやしき事の説」から身を起こした問題意識であり、真淵が「萬葉集」から「祝詞」へ、「万葉のますらをの手ぶり」からさらに遡って「人まろなどの及ぶべき言ならぬ」「上古人の風雅」を「祝詞」の文章表現に見て取って、自らの「古道」を解明しようとしたところへ言及していく。

 

「天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかがふべく思ひて、今まで勤たり。……」

(四十三回)

 

真淵が宣長へ送った最後の書簡をこのように引用しつつ、晩年の真淵においては、追究した「国意」の核心をなすべき「古道」への憧れに集中する余り、それは人為、人智を廃し、「心のいにしへ」へ還ることに他ならないと主張することになったところに注目する。この真淵の思いが、天地自然の道に従うことを是としたために、老荘思想の「天地自然」の重視と神道との親和性へ言及していくが、しかし、実はそこに宣長との決定的な差異があると次のように指摘する。真淵の「国意考」と、宣長の「直毘霊」の近似性を認めつつも、真淵が提出した「原型」を「宣長流に模倣した」記述が現れてはいるが、「その機微は深く隠れていた」とする。それが「老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長が称えた反対」に端的に示されていると、宣長の「くず花」を引用する。

 

「かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し。これかのさかしらを厭て、自然を尊むが故也、かの自然の物は、こゝもかしこも大抵同じ事なるを思ひ合すべし。但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしひて立てんとする物成る故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのまゝにてあらんこそ、真の自然には有べきに、そのさかしらを厭ひ悪むは。返りて自然に背ける強事也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然を立んとする道にはあらず、もとより神の道のまゝなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りて説くところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のまゝなる由をいえば也、そもそもかくの如く、末にて説くところの似たればとて、その本を同じといふべきにもあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、ただ古伝のまゝに説くべきもの也」

(四十三)

 

さて、上記のように真淵と宣長の「似て非なる」関係を叙述して来たところで、その主旨が真淵と宣長の思考の対比的な関係から、その是非を明らかにすることにあるのではないとする。つまり、「古道」と老荘思想との親和性を強調する真淵に対して、反論する宣長という構図を描くことが問題なのではないと、次のように続ける。

 

ここに、煩を厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じを摑まえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当たり、受け継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。

(四十三回)

 

実を言うと、私は、この先に記述されている一文に触発されて本稿を書き起こしていると言ってもいいので、この「生きた思想の持つ表情を感じ」取るとはどういうことか、それを目標に論を重ねて行くが、ここでまず、そのことを自ら証する文章として、引用文に続くところを確かめてみよう。

 

右の「くず花」中の文の表情を眺めていると、やはり宣長が、当時の儒家のうちで、最も重んじていた徂徠の顔が浮かんで来る事を、附記しておこう。……古道を言うのに、老子を持ち出すのは、賛成出来ないと言う宣長の口吻には、明らかに徂徠の老子観が感じられる。……

(四十三回)

 

真淵と宣長の「古道」、「神の道」の把握の仕方、その対照性について詳述しながらも、宣長の文章の深層に荻生徂徠の顔が透けて見えてくるという指摘は、しかし、単なる影響関係などという安っぽく稚拙な発想を述べているのではない。これは文の表情について眺め入るという経験に基づいて発想されていたことを、先の引用でも押さえたはずである。そして、「老子についての徂徠の考えは、既に書いたから繰返すまい」として、この四十三回は終わるのだが、このさりげない示唆に気づいた読者は、そのまま三十二回へ連れ戻されるのだ。そしてこのように必要に応じて読者に再読と熟考を促して止まないという文体の仕組みこそが、『本居宣長』全体を組み上げているのである。それは、本誌2022(令和4)年春号「<時間論>Ⅳ」の「三 旋回する文体」、また、同年夏号の「<時間論>Ⅴ」の最後に記した通り、「旋回する文体」の端的なあり方を示している。

 

三 徂徠の面影

 

『本居宣長』に荻生徂徠が登場するのは、四回、五回、九回、十回、十一回、三十二回、三十三回、三十四回そして先に引用した四十三回である。これらに記された徂徠の学問への言及と、そこに描かれた徂徠像について、実は本誌「好*信*楽」のバックナンバーにおいても多くの論考が重ねられて来ているので、まずは先行する諸論考について振り返ってみよう。

①坂口慶樹「「興」のはたらき・「観」のちから」(2018年2月号)、②安田博道「荻生徂徠が信じた[言葉]」(2019年9・10月号)、③小島奈菜子「言葉の世界で物を見る」(2020年1・2月号)、④池田雅延「小林秀雄「本居宣長」全景二十三「独」の学脈(中)」(2020年1・2月号)、以降、池田雅延の連載稿が続き、⑤「「本居宣長」全景」二十四「「独」の学脈(下)」(2020年3・4月号)、⑥「「本居宣長」全景二十六「言は道を載せて」」(2020年秋号)、⑦「「本居宣長」全景二十八「歌の事から道の事へ」」(2021年春号)、⑧「「本居宣長」全景三十二「反面教師、賀茂真淵(四)」」(2022年春号)の5本の論考がある。また同年同号には、⑨庄宏樹「なぜ「学問は歴史に極まる」のか」(2022年春号)があり、この次の号には、⑩小島奈菜子「「物」としての言葉」(2022年夏号)が掲載され、この後、小島論はこのテーマに関わる考察をさらに展開し、現在までこれを継続していると言って良いだろう。つまり、⑪「荻生徂徠の「物」と「心」」(2023年春号)、⑫「「興」―言語の本能としての比喩の働き」(2024年冬号)、⑬「「ながむる」―事物と人情が親和する行為」(2024年夏号)というように、2020年以降の小島論には荻生徂徠の言語論を『本居宣長』の全体を支える基本構造へ向けて拡張して行こうとする試みで一貫している。

これらの各論は、『本居宣長』に引用言及されている徂徠の言葉とその思想を、それぞれの論者が自らの言葉を傾けて、掴み取ろうとした試み。いわば、各々の<歌>の萌芽から紡ぎ出された文章に他ならないが、その要点のみを確かめておこう。

①坂口論は、『本居宣長』三十二回と三十四回に渡って言及される徂徠の言葉、特に『論語』陽貨第17の「詩」の「興」、「観」の機能の中、言語の本質としての「転義」の動きを見出すところ、「ここに何かがあると直覚した」というのは注目すべき表現である。②安田論は徂徠の言語論の核心部、「辞ハ事ト嫺フ」と命名行為の関係を考察する。③小島論は、「興」の効力から言葉としての名が「物」を喚起する過程を説き、ベルクソンの用語「イマージュ」へ展開する。徂徠の「物」を解こうとする序章であろう。さて、④から⑧まで徂徠に関わるすべてに目配りをした池田論中の白眉は⑤の「独の学脈(下)」である。吉川幸次郎の、解説の域を遥かに越えた、厖大にして緻密な「徂徠学案」(『荻生徂徠』日本思想大系36岩波書店所収)を繙きつつ、徂徠の編み出した「古文辞学」の方法の確認だけでなく、これを自らの文章として実践したものである。これは「古文辞」への関わり方、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なという徂徠の言の「体翫」(仁斎)に他ならない。⑨庄論は、「徂徠先生答問書」の「学問は歴史に極まり候事に候」というその「歴史」の内実を探って、「礼楽」を尊重した徂徠は「幽蘭」なる古琴の曲の復元まで試みたことを紹介する。

そして、⑩から⑬の小島論は、徂徠の詩論「興」、「観」の考察から「名」と「物」との本来的な絆を浮き彫りにしようという姿勢で一貫している。そこで特筆すべきは⑪から⑬の近作で、『本居宣長』にて引用、言及されている徂徠の言葉、文章をもう一度徂徠の著した原典に戻り、周囲の文脈を改めて確かめつつ、そこから再び『本居宣長』の文章を見つめ直すという高密度な論を展開している。小島論の核心は、まずは徂徠から宣長に繋がる言語論を逍遥するかに見えるが、実はこれらの考察の深部には徂徠の表現した「物」という概念に潜んでいる大きな拡がりへ、その可能性への強い憧れが感じられる。

以上、『本居宣長』全体に見え隠れする徂徠の言葉に関わる言及を、本誌の先行諸論において、簡潔にではあるが確認したこととする。

では、ここで『本居宣長』以外の小林秀雄の批評作品に引用言及される荻生徂徠の姿を見渡してみれば、さらに遡って幾つも拾うことが出来る。これについては『好*信*楽』2022(令和4)年春号「<時間論>Ⅳ」に詳しく記したところであるが、1958(昭和33)年の「新潮」5月号から1963(昭和38)年同6月号で中断するまで書き続けられたベルグソン論、「感想」の連載中に、中江藤樹、伊藤仁斎、そして荻生徂徠に関わる批評作品を矢継ぎ早に発表していたのであった。なかでも荻生徂徠の学問への言及がもっとも充実した内容を持ち、費やした紙数ももっとも多いだろう。

「文藝春秋」での連載稿「考へるヒント」シリーズを中心に、徂徠に触れている文章が、もちろん深浅の別はあるものの、随所に現れている。1961(昭和36)年は、「忠臣蔵Ⅱ」、「学問」、「徂徠」、「弁名」。翌1962(昭和37)年は、「考えるという事」、「ヒューマニズム」、「天という言葉」、1963(昭和38)年は、「哲学」、「天命を知るとは」、「歴史」、「物」。そして1964(昭和39)年には「道徳」(6月)というように「感想」連載中から中断の後を貫き、1965(昭和40)年の「本居宣長」連載開始に到るまでの時間において、徂徠への言及は繰り返されていたことになる。そして、これらの中で先ず押さえておきたい文章が「考えるという事」である。そこに、荻生徂徠の著作の読後感が率直に記されている。

 

徂徠は、宋儒の理学に正面から衝突し、これを批判したから、彼の知性の動きは、明らさまに現れている。その分析力の精到は、「弁道」や「弁名」を読んでいて感嘆の情を禁じ得ない。同時に、私は、感嘆してみて、初めて感得出来る何かが其処にある事を知る。

(「考えるという事」)

 

小林秀雄が荻生徂徠の著作を手に取り、これを精読する契機となったのは、1961年の「学問」冒頭部に記されているように、「忠臣蔵」で山鹿素行の思想を追跡する結果として、その先に拡がって来たのが「我が国の近世の学問とか思想とかという厄介な問題」であったというが、1958(昭和33)年には「論語」と題する文章があり、翌1959(昭和34)年には「好き嫌い」で伊藤仁斎についての詳述が見えるし、1960(昭和35)年には「言葉」において本居宣長の言語観に言及している。つまり、1960年前後の時期にこれらの話題に集中して取り組んでいるからには、特に伊藤仁斎から荻生徂徠への儒学思想の流れについても視野に入っていたはずであるし、1960年には「本居宣長―「物のあはれ」の説について」という充実した宣長論が展開されており、この作品の核心部に、本居宣長が繰り返し論じた言葉、言語の捉え方、その生態についての洞察が示されていたことは看過できない。これを踏まえれば、「考えるという事」がこの作品の後に続く変奏の一つとしての意味を帯びて来る。すなわち、「物のあはれ」の説の中に、単なる感覚的な美意識を脱して、極めて動的な言語観を把握した深層には、宣長と徂徠の言語観が親和性をもって重なっているという直観が、この「考えるという事」に表現されていると考えられるのである。

 

「考えるヒント」という題を貰って、考えつくところを、こうして書いているわけだが、前に、徂徠の「弁名」にふれたので、宣長が、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。

(「考えるという事」)

 

と開始されるが、つまり徂徠が実行した<弁名>という思考、儒教思想の依拠する概念語を改めて吟味するということを、宣長が「考える」という語の成立をどう解したか、そこに移行して確かめてみるということ。そして、それが「考える」という行為を正すことに繋がり、宣長自身の学問基盤を形成していたことを説きつつ、「この点では、徂徠も同様であったと見てよい」と言う。

 

彼の「弁名」によると、学問で貴ぶべきものは先ず「思」とか「思惟」とかの働きであるが、「思」とともに「謀」という働きを持たねば、学者としては駄目だ、と考えている。「思」は主として心に関して言われる言葉だが、「謀」とは、人の為に謀る、人に就いて謀ると言うように、主として営為、処置、術を指す言葉だ。「思」が精しくなり、委曲を尽せば、「慮」となり、「慮」を以って事に処せば、必ず「謀」となる。これは一貫した人間の働きであって、学者が、これを、ばらばらにしてよい訳はない。なるほど、これは、全く常識に適った見解である。宣長も徂徠も、この常識的見解を取って動かなかった思想家で、二人の眼には、当時の学問の大勢が、空漠たる物しりの多弁と映じていた。

(「考えるという事」)

 

というように「考える」という語の活動する領域を、「一貫した人間の働き」として把握するところに、宣長と徂徠の思想における根底の一致を見る。そして、宣長が「直毘霊」において「古の大御世には、道といふ言挙もさらになかりき、其はたゞ物にゆく道こそありけれ」と言い、古代の人々の生きる術が、それ自体として抽象化された概念である「道」などという言葉で表現されたことはなかったと注意を促す。そしてここでも宣長と徂徠との密接な関係に言及し、彼らの言語観を集約して説いている。

 

宣長の言う「物」には、勿論、精神に対する物質というような面倒な意味合いはないので、あの名高い「物のあはれ」の「物」である。宣長も亦徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」と言う事について、非常に鋭い感覚を持っていた。宣長は「下心」という言葉をよく使うが、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではないままに転じて行く。これが言葉に隠れた「下ごころ」であり、これを見抜くのが言語の研究の基本であり、言葉の表面の意味は二の次だ、という考えである。……(略)……宣長にとって、「物」とは、考えるという行為に必須な条件なので、「物」という言葉は、そのように働けば、それで充分な言葉なのである。前に言ったように、「考える」とは、何かをむかえる行為であり、その何かが「物」なのだ。徂徠が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」と言う時も、同じ事を言っているのである。

(「考えるという事」)

 

なお、この作品が書かれる少し前に「弁名」と題する文章を書いており、その終わり近くに徂徠の『弁名』の読後感を「徂徠の説くところは、生き生きとしていて、少しも古くなっていない。彼は言葉が、個人を越えた社会的事実である事を、はっきり見て取っていた」と述べ、「徂徠という人間が、言語問題の本質的な難解に当たって砕けている様が、躍如としているというところに「弁名」の魅力はある」と結んでいた。

もちろん、宣長と徂徠の関係、特に言語論的な親和性については夙に知られているところで、『本居宣長全集』第九巻の「古事記伝」の「解題」を草した大野晋(2)も、「今回の調査で判明した、宣長自筆の『徂徠集』と名づけた小冊」に言及し、「徂徠の学問の中心的な思想は、言は事であるという点にある。宣長は言葉によって事柄を明らかにするという徂徠の方法を、心の底深く学びとった。この方法が、後の、『古事記伝』全部を貫く基本的姿勢として確固と守り通されている」と指摘している。しかし、この「言は事」であるという言語論的思考の徹底性を具体的に、「歌」と「詩」という特殊な言語行為の中に探ろうという試みは、小林秀雄の『本居宣長』において、初めて精密かつ個性的な文体を以って実行された、というのが私の論点である。その四十三回の読解から、『本居宣長』以外の批評作品に荻生徂徠を説くところを見渡してみたが、それらの記述が、本居宣長の言語観と重なりあって『本居宣長』本文の大きな支えとなっているという構造を、改めて熟考すべきではなかろうか。

 

四 詩の機能

 

それでは、荻生徂徠を論じている小林秀雄の言葉に、さらに分け入って行こう。先に挙げた「弁名」の中には、徂徠の言語観を端的に把握した記述が見て取れるので、まずはそれを押さえておきたいが、「徂徠」において記された「古文辞学」の淵源、つまりは徂徠の学問の始発の動機が「四書五経素読の吟味役」を長く勤めた際に「本文ばかりを、年月久しく、詠め暮し」たという特殊な経験に胚胎しており、しかも、この経験の内実が経書の言葉自体についての学究的な指向性を有していたからではなく、それは「審美的な性質」(「弁名」)を帯びたものであり、それを考えなければ徂徠の創始した「古文辞の研究の筋道を、決して理解する事は出来ない」(同)とする。こうした言語、文章への向き合い方の示唆が『本居宣長』における「詩」についての考察へ向かって、小林秀雄の記述は進展して行ったように思う。

 

四書五経を、「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に」浮んだ様々な疑いを種として、経学とは、かくの如きものと合点するに至ったとまで極言している事は、既記の通りだが、このような書物に対する経験の性質について、こう言って誤解されなければ、その審美的な性質について、考えるところがなければ、彼の古文辞学の研究の筋道を、決して理解する事は出来まい。……(略)……

では、読むともなく、見るともなく、詠められた古文辞とは、徂徠にはどういう物であったか、無論、これは言い難い事だが、別段不思議な経験ではないだろう。例えば岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、これに対し、誰でも見るともなく、読むともない態度を取らざるを得まい。見えているのは岩ではなく、精神の印しに違いない。だが、印しは読めない。だが、又、読む事を私達に要求している事は確かである。言葉は、私達の日常の使用を脱し、私達から離れて生きる存在となり、私達に謎をかけて来る物となる。徂徠が、古文辞を詠め暮らして出会ったものは、そういう気味合いの言葉の現前であって、これが、彼が経学というものを合点する種となったと言うのは、この経験によって、言葉の本質に触れたと信じたという意味なのだ。

(「弁名」)

 

さらに、このことから「特定の古文辞に限らず、古い過去から伝承して来ている私達のすべての言葉には、みなその定かならぬ起原を暗示している意味不明の碑文の如き性質が秘められている事を知るであろう」と続け、それなら学問は「先ず言語の学でなければならぬ筈だ」と『弁名』という著作が文字通りに『弁名』と題された所以を指摘している。 この徂徠が「徂徠先生答問書」の下巻で、「朱子之新注」が「聖教のはしご」にはならないこと、そうした儒学の伝統的注釈を繙くことが、実は「古聖人之教」に近づく階梯ではないと答えた際に、それではどうすべきかと問者に示した自らの学に関わる経験を示す。素読の吟味で経書の本文だけを詠め暮らしていたことが自らの学問の動機になったこと、すなわち注釈に頼らず本文を見つめる読書を勧め、これを「愚老が懺悔物語」として自嘲気味に記している。これは先の「徂徠」に書かれたばかりではなく、『本居宣長』十回にも詳述されているが、重要なことは、「弁名」で徂徠の同じ経験を引き、そこに「審美的な性質」を見出したところである。

 

私達は、毎日、読んだり、話したりして生活している、つまり、私達が、社会生活に至便な言葉という道具を馳駆している限り、読むともなく、見るともなく、ただ、うつらうつらと書物を眺めるなどというような事は、ただぼ放心に過ぎまいが、徂徠が、自分が言葉というものについて自得するところがあったのは、この放心によった、と言うなら、話は違って来るだろう。話は逆になるだろう。

(「弁名」)

 

つまり、言語が情報伝達、言語的コミュニケーションの媒介としての記号である限り、あるいは、そのように我々の日常生活において運用されている限りは、我々は自ら馳駆している言葉、文章そのものに向き合うことをしない。一義的かつ透明な記号を使用していると思い込んでいる限りは、日常的コミュニケーションの場において、言葉はその度毎に消費され、伝達の機能を果たせばその場限りで雲散霧消してしまうのである。しかし、その眼前の言葉、文章が特定の指向対象と結合しない時、普通それは意味不明というケースとされ、それに対応する知識、意味をこちらが新たに補填して臨むという行為へ向かう。未知の単語にぶつかったら、辞書を調べてその意味するところを確認した後、再度読み直すというありきたりの作業をするわけだが、既定の意味なるもの自体が未知である場合にはお手上げということになる。確かに単語自体は新造語でない限りは意味の手がかりは得られるだろう。しかし、それが連なって現れる文章の発信元の明確な意思が露わになるような表現として構成されていない場合、発信元に送り返せない文章は、それ自体としての姿を我々に見せてくるばかりである。言葉そのものの姿形こそが露わになるような経験は、言い換えれば、日常の社会生活へ意味を還元するという言葉の通常の働きを諦めざるを得ない経験とは、とりもなおさず詩的言語との出会いという非日常的な世界を開く扉を押すことに他ならないのだ。

だから、「徂徠先生答問書」に記された徂徠の特殊な言語的経験は、詩の読み方を強いる経験だったというのであって、これこそが「言葉の本質に触れた」経験であり、しかもそれは「審美的な性質」のものだったと言うのである。

 

彼の語るところは、蕃山や仁斎とは又風が変わっていて面白い。いずれにしても、学問の方法を語るより、むしろその秘訣を語る。今言を以て、古言を視るなとは、言われればすぐ守れるようなやさしい忠告ではない。古言には古言に固有な姿がある。今言に代置されて会得されるのを拒絶している姿がある。これに出会うのがむつかしいと言うのである。

(「徂徠」)

 

こう記されているところから直ちに想い起こされるのは、『本居宣長』で論じられる「歌の事」であるが、これについては以前の拙稿でも書いたことであり、『源氏物語』の読解に関わる宣長の姿勢についても、『本居宣長』本文において繰り返し説かれ、「道の事」へ踏み込む準備として慎重に考察されているところであるから、ここで繰り返す必要もないと思う。しかし、荻生徂徠の詩論については、宣長と徂徠の言語観の重なりということを踏まえるなら、慎重に読み解いておかねばならないだろう。

「徂徠先生答問書」中巻で、最後の問者が、「詩文章ノ学ハ無益ナル儀」ではないかと問うのに対し、それは「宗儒ノ詞章記誦ナトト申候ヲ御聞入候事年久敷候故」の思い込みであり、つまりは「宋儒」の注釈学説等を記憶するばかりだから「詩文章」を侮る気持ちになるのだとして、「詩経」味読の効用を次のように述べる。

 

マツ五経ノ内ニ詩経ト申物御座候。是ハタタ吾邦ノ和歌ナトノヤウナル物ニテ、別ニ心身ヲ治メ候道理ヲ説タル物ニテモ、又国天下ヲ治候道ヲ説タル物ニテモ無御座候、古ノ人ノウキニツケウレシキニツケウメキ出シタル言ノ葉ニ候ヲ、其中ニテ人情ニヨクカナヒ言葉モヨクカナヒ、又其時其国ノ風俗ヲシラルヘキヲ、聖人ノ集メヲキ人ニ教ヘ給フニテ候、是ヲ学ヒ候トテ道理ノ便ニハ成申サス候へトモ、言葉ヲ巧ニシテ人情ヲヨノへ候故、ソノ力ニテ自然ト心コナレ、道理モネレ、又道理ノ上ハカリニテハ見エカタキ世ノ風儀国ノ風儀モ心ニ移リ、ワカ心ヲノツカラニ人情ニ行ワタリ、高キ位ヨリ賤キ人ノ事ヲモシリ、男ガ女ノ心ユキヲモシリ、又カシコキガ愚ナル人ノ心アハヒヲモシラルル益御座候。又詞ノ巧ナル物ナルユへ、其事ヲイフトナシニ自然ニ其心ヲ人ニ会得サスル益アリテ、人ヲ教ヘ諭シ諷諌スルニ益多ク候。殊ニ理屈ヨリ外ニ、君子ノ風儀風俗ト云モノノアル事ハ、是ヨリナラテハ会得ナリカタク候。(3)

 

この後には再び和歌に触れる箇所があるが、「此方ノ和歌ナトモ同趣ニ候得共、ナニトナク只風俗ノ女ラシク候ハ、聖人ナキ国故ト被存候」とだけ記している。

この徂徠の文章は、小林秀雄の諸作品にも引用されていないのだが、『本居宣長』三十二回冒頭で、村岡典嗣「徂徠学と宣長学の関係」中の「稿本」調査によって、宣長が徂徠の主要な著作を「京都遊学中に殆ど読まれていた事が確実になった」と記して、「今度、筑摩版全集で、未発表だった稿本に、初めて接した機会に、書いておきたい」としたその「稿本」に存在するものである。ここで言う「稿本」とは、筑摩版『本居宣長』全集第十三巻所収の未刊行の原稿「本居宣長随筆」を指しており、その中から「玉勝間」の項目へ採用された記述も多いものである。この随筆原稿に見える「詩」、「詩経」の項目にある徂徠『論語徴』からの引用については、『本居宣長』三十二回に明瞭だが、上の引用文は別の「詩」〔110〕に、「●答問書【荻生茂卿】曰、」と示されているように、「徂徠先生答問書」からの引用である。しかしこれは、『本居宣長』全五十回のどこに置かれていてもしっくり馴染む文章と思うのである。

(つづく)

【注】

(1)本居宣長『玉勝間』からの引用は、『本居宣長全集』第一巻(昭和43年5月筑摩書房)によった。

(2)大野晋「解題」(『本居宣長全集』第九巻 昭和43年7月筑摩書房)

(3)この荻生徂徠「徂徠先生答問書」からの引用文は、『本居宣長全集』第十三巻「本居宣長随筆」(筑摩書房 昭和46年9月)によっている。なお同文は『荻生徂徠全集』第一巻(みすず書房 昭和48年7月)所収の「徂徠先生答問書」においても漢字仮名遣いの別はあるが、すべて同文と確認できる。本文引用にあたっては漢字は新字に改めている。

○小林秀雄『本居宣長』と、その他の小林秀雄作品からの引用はすべて、『小林秀雄全作品』(新潮社)によった。

 

『本居宣長』の<時間論>へⅦ―神という古言フルコトのふり

一 はじめに

 

2022年秋号までに、「物語」と「歌」、そして「道」という言葉をめぐって右往左往して来たように思われる。これらの言葉は『本居宣長』にちりばめられた言葉として指摘出来るものであり、反復して使用されている語彙としてページのそこここに存在するわけだが、しかし、その語彙だけを抽出して意味するところを吟味しても、それぞれの働き、その語彙を表現している文脈の動きを明示化しうるわけでもない。前稿の最後に記したところを想い起こせば、「『コト』の世界は、又『コト』の世界でもあったのである」(第二十四回)ということ、すなわち、『本居宣長』という書物全体を「事」として捉える我々の認識は、その意味を求めようとする願いが赴くところ、「言」として現れる一行一行を丹念に読み進める果てしのない行為を繰り返さざるを得ない。そうして、小林秀雄の『本居宣長』という「事」を、この書籍において使われている言葉たちの集積から、我々の読書行為の中で形成しつつある「言」の「ふり」へと遡り、これらの言葉たち自体の振る舞いの動きへと眼を向けなければなるまい。そして、この言葉たちが見せる振る舞い、動き方こそが、実は「物語」という文学を編み上げる源流なのだということに思いを致すことが重要なのである。

なお、本稿中で、『古事記』、本居宣長の『古事記伝』、そして小林秀雄の『本居宣長』のそれぞれの本文を引用するが、時に交錯する場合もあるので、少々ややこしくなることをお断りしておきたい。なお、それぞれの引用文中の振り仮名で、原則としてカタカナ表記は原文通りのもの、平仮名表記のものは、小林秀雄『本居宣長』の原文にあるものと、稿者が新たに付したものとがあるが、前後に重複している際は適宜省略している。また、神名に使用されている漢字表記は、『古事記』原文、本居宣長『古事記伝』で異なる場合がある。

 

二 神名という「コト」と「コト

 

それでは、「コト」と「コト」、そして「物語」としての<時間>が合流し、「ココロ」を整えて行こうとする箇所を考えていこう。それは『本居宣長』第三十八回において、次のように合流する。太安万侶おおのやすまろの「筆録の蔭に隠されていた」稗田阿礼ひえだのあれの「口ぶり」を求めて、「本の古言にカヘす」こと、つまり、「古事記」本文の言葉の総体から「古言のふり」を再生し、復元しようという困難を『古事記伝』はどのように克服したのか。

 

(※稿者注・宣長)は、「源氏」を熟読する事によって、わが物とした教え、「すべて人は、ミヤビの趣をしらでは有ルべからず」という教えに準じて、「古事記」をわが物にした。「古事記」が、「雅の趣」を知る心によって訓読ヨマれたとは、其処に記された「神代の古事フルコト」に直結している「神々の事態シワザ」の「ふり」が取り戻されて、自足した魅力ある物語として、蘇生したという事だ。

(第三十八回)

 

すなわち、「古事記」の記述が「古言のふり」へ、「神代の古事」に戻されたなら、そこにこそ「神々の事態」が目の当たりに顕現するということだ。このことを『本居宣長』第三十八回から第三十九回に至って、小林秀雄の書きぶりは詳細かつ大胆、そして不思議なくらいに拘泥している様子を見せる。あるいはこういう言い方が適切かどうか分からないが、この回の記述は『古事記伝』の注釈、本居宣長の文勢を踏まえつつも、遥かにこれを超えようとしているのではないか、そうした想いを私は禁じ得ないのである。本稿ではこのことを出来るだけ詳細に考察していきたい。

「さて、神という『コトバ』の『ココロ』という問題に直ちに入ろう」と、第三十八回後半部から、本居宣長による「神」という言葉の吟味が焦点になっていくが、「尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微カミとは云なり」と『古事記伝』の三之巻を引用しつつ、その「可畏き」という言葉の詳細な注釈が展開される「神世七代」の「阿夜訶アヤカ古泥コネノカミ」について説明される箇所を取り上げ、「ここの注釈には看過出来ない含みがあるので、曖昧な文だが、努めて宣長の真意を求めて、少し詳しく言う事にする」として考察を深めていく。しかし、その前に、三十八回から三十九回にかけてもっとも重要なことは、神への命名行為について論じているところであり、ここに「言」はそのまま「事」であったという発想の結実を見ていることである。すなわち、命名という行為は「言」を得ることで「事」を知るという必然的なわざであったことを明かしていく。

 

上古の人々は、神に直に触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己の直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立会ったもの、又、立会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神のココロを引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。

(第三十九回)

 

神名という言葉を得るという極めて単純かつ具体的な経験も、その経験内部での<嘆き>から自ずと生成していく動きであって、「尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物」との遭遇という<驚き>から起動していくものである、と言い添えてもいい。いわば、ここでも人間は、「もののあはれ」に捕らわれることなく、生きていくことなど出来ない相談だったということだ。これを踏まえて「阿夜訶アヤカ古泥コネノカミ」の注釈に関わる「看過出来ない含み」があるという読みを追跡してみよう。

 

問題の神は、神世七代も終りに近付いてりました神である。高天原に成りました神々は、本文に従えば「コト天神アマツカミ」であり、そのお姿は、先ず純粋で簡明なものであったと見てよいのだが、それも天之アメノトコタチノカミまでで、その次になると、国之クニノトコタチノカミと、御名の書きざまが変るのである。それから以下シモ、にわかに天神アマツカミの代が、地神クニツカミの代になったという言い方は避けたいが、その辺りから、神々のお姿には、その御名から推して、宣長の言い方で言えば、―「必ず地と成るべき物にヨリ生坐ナリマスべきこととぞ思はるゝ」、或は、「天に坐ス神とは見えず、此ノ地に坐ス神とこそ見えたれ」、―と言わざるを得ないものが現れて来る。神代の様も、少々混雑して来るのである。

そこで、国之常立神の次の、―「トヨクモノ神より古泥コネノ神まで九柱の御名は、国土クニハジメと神のハジメとの形状アリサマを、次第ツギツギクバおおせ奉りしもの」―と宣長は見た。

(第三十九回)

 

その後、いわゆる神世七代と記された箇所の注釈に入っていくが、まずは『古事記』の原文を掲げる。原文の割り注部は神名のみ方を指示する二行書きであるが本稿ではカッコの中に記しておく。

 

次成神名、國之クニノトコタチノカミ(訓常立亦如上)、次トヨクモ(上)神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

次成神名、宇比地邇ウヒヂニ(上)神、次、イモ須比智邇スヒヂニ(去)(此二神名以音)、次、角杙ツノグヒ神、次、妹活杙イクグヒ(二柱)、次、意富斗オホト能地ノヂ神、次、妹大斗乃辨オオトノベ(此二神名亦以音)、次、於母陀流オモダル神、次、妹(上)古泥コネ(此二神名皆以音)、次、伊邪那イザナ神、次、妹伊邪那イザナ神。(此二神名亦以音如上)

 

これを、新日本古典文学全集(小学館版)の書き下し文で示すと以下のようになる。

 

次に、成りし神の名は、国之常立神、次に、豊雲野神、此の二柱の神も亦、ひとりかみと成り坐して、身を隠しき。

次に、成りし神の名は、宇比地邇神、次に、妹須比智邇神、次に、角杙神、次に、妹活杙神、次に意富斗能地神、次に、妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神、次に、伊邪那岐神、次に、妹伊邪那美神。

 

では、『古事記伝』三之巻の神代一之巻に記された本居宣長による注釈はどうか、細部を具体的に確認してみよう。参照、引用する本文は三之巻の神代一之巻、板本の28丁から44丁までである。

「国之常立神」の前に現れた「天之アメノ御中主ミナカヌシノカミ」から「天之アメノトコタチノカミ」までは「コト天神アマツカミ」と明記されているので、これらは天上の成立とともに出現した神々であって、「国之常立神」からが「地と成るべき物に因て成坐るなり」とし、その時の「地」とはまだ「浮きアブラのごとくなる物」であって、クラゲのようにふわふわと漂っていたのであり、「是の漂へる国を修理ツクロカタ」す、つまり国土を確かに整え固めるのは、伊邪那岐、伊邪那美の二神のしわざを俟たねばならない。したがって、地上の生まれる兆しとして神世七代の神々が成るというのが、この箇所の背景と説いている。そこで問題となるのは、「国之常立神」から次々に現れる神々の名の意味である。本居宣長『古事記伝』の注釈の要点をまとめていこう。

「国之常立神」については「天之常立神」に準じた名であるとしているので確認すると、「常立」は「ソコ」、「曾伎ソキ」であり「至り極まる処」という。つまり地の兆しが極まるところに成った神である。次の「トヨクモヌノカミ」の「豊」は「物のサワにしてタラユタカなる意」、「雲」は「久毛」で「物集モノアツマりて」の意と「初芽ハジメテキザす」を兼ね、「」は「沼」で「水のタマれるトコロ」という。そして次の「宇比地邇ウヒヂニノカミ」、妹の「須比智邇スヒヂニ」はその表記からも推測出来るように「宇」は「宇伎ウキ」と同じで「どろ」であり、「須」は「土の水と別れたるを云う」、すなわち、スヒジも土砂と水、「邇」も「野」に通じ「沼」を意味しているとすれば、つまり海や天と分かたれた国土がまだ明確には現れない状態をイメージしていることになる。そして次の「角杙ツヌグヒノカミ」と妹「生杙イクグヒノカミ」は、「角」は「都怒ツヌ」であり、「物のわづかにナリソメ」て「未生イマダナラざる形」を言う。「杙」は「久比」で先の「久毛」と同じとみれば、「神の御形のナリソメたまへる由なり」であり「生杙」は「イキ活動ハタラソメる由の御名なり」ということになる。また次の「意富斗オホト地神ヂノカミ」、妹「大斗乃辨オオトノベノカミ」の「意富」、「大」はたたえる語として、「斗」は「処」、「地」と「弁」は男女に付す尊称と解すと、「此二神の御名は、彼ツチと成るべき物のコリナリて、国処クニドコロの成れる由にて、其れに女男の尊称タフトミナを付けたるなり」。そして、「於母陀流オモダルノカミ」と妹「阿夜訶アヤカ古泥コネノカミ」に至るが、この二神の名についての本居宣長の吟味については、『本居宣長』第三十九回に記してある通りである。

こうして改めて神世七代の神名についての『古事記伝』三之巻の注釈を見てくると、天地が別れ、水と土とが混じり合いつつも濃淡を帯びて来て、やがて海と州とに別れようとする前兆が現れる状態を、神々の出現の動きと共に言い表している文脈が浮かび上がって来ると言える。

そこで、私が問題にしたいのは、この先、「阿夜訶志古泥神」の後に続き、「伊邪那岐神」までを解く、その間の『古事記伝』の注釈記述である。どうやらこの箇所の宣長の注釈について、小林秀雄『本居宣長』第三十九回は「看過出来ない含みがある」と、極めて重要視しているからで、ここを精読するために、上記のように『古事記伝』中の神世七代の神名の吟味を引用紹介して来たのであった。具体的には、『小林秀雄全作品』の28巻、p88の3行目から4行目の間を埋める作業を試みたわけである。

 

三 神名の流れ

 

では、まず、「看過出来ない含み」があるという『古事記伝』三之巻から、神代一之巻の45丁の宣長の記述をよく見てみよう。

 

トヨクモヌノ神より古泥コネ神まで九柱の御名は國土クニの初と神の初との形狀アリサマを、次々に配り當て負せ奉りしものなり、其はトヨクモ宇比地邇須比智邇ウヒヂニスヒヂニ意富斗オホト地大斗乃辨ヂオホトノベと申すは、國土クニの始のさま、角杙活杙ツヌグヒイクグヒ淤母陀琉阿夜訶オモダルアヤカ古泥コネと申すは、神の始まりのさまなり、【但し國土も神も、其神の生坐ナリマシし時の形狀アリサマの、各其ノ御名の如くなりしには非ず、必しも其時の形狀にはかゝわらず、たゞ大凡オオヨソを以て、次第に御名を配當クバリアテたるのみなり、されば此の御名々々を以て、各其時の形狀とアテてはミルべからず、此レをよくわきまへずば、疑ヒありなむものぞ、マコトは神は、初メ天之アメノ御中主ミナカヌシよりして、いづれの神もみな、既に御形は満足タラヒせり、オモダルノ神に至り初てタラひ坐りとには非ず、又國土は、伊邪那岐伊邪那美ノ神の時すら、未だうきあぶら如くごとく漂蕩タダヨへるのみなりしを以てサトるべし】、然らば須比地邇の次に意富斗能地とつゞき、活杙の次に淤母陀琉とつゞくべきに、然は非ずて、國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差イリマガひたるは如何いかにと云に、未ダ國處クニトコロは成ざる前に、國之常立神よりして、次第ツギツギに神等はナリマセる【天之常立神以前五柱は、天神にて別なる故に、此に云ハず、此は國土の初メに就て云故に、國常立神より云々とは云り】故に意富斗能地神の先なる神を、角杙活杙となづけ奉り、さて御面ミオモタラはせるを見て可畏カシコむは、既に國處クニも成り、人物ヒトも生てのうへの事なる故に、大斗乃辨神の次なる神を、淤母陀琉阿夜訶志古泥と名け奉りしにぞあらむ、【書紀には、沙土スヒヂの次大戸之道オオトノヂとつゞき、又一書には、活樴イクグヒの次オモダルと續けり、】

 

さて、以上が『古事記伝』の注釈記述の全文になるが、小林秀雄の『本居宣長』第三十九回の該当箇所では、まず先述した国土生成の兆しとしてのイメージを押さえながら次のように記す。

 

そのうちに、動揺もようやく治まり、確かに国土クニ生成ウミナさむとする伊邪那岐、伊邪那美神の出現を待つばかりの世の有様となった時に、淤母陀琉オモダル阿夜訶アヤカ古泥コネノカミと申すナラビ坐す二柱の神が現れる。あたかも、その御名に注意されたい、とでも言う風に、宣長は、その註釈を書き進めているのである。

 

この先で特に「次のような考えが語られる」と言及するところが問題になる。それは『古事記伝』の引用文の最初の【……】部後半で、「實は神は、初メ天之御中主よりして、イヅれの神もみな、既に御形は満足タラヒ坐せり、面足ノ神に至り初てタラひ坐りとには非ず」というところ、つまり神々が次々に現れる状態を、時系列的に、次第にその姿が整って来た過程において、それぞれの御名を命名しているという『古事記』の「神世七代」の成立に関するごく普通の解釈、それを『古事記伝』は拒んでいるというところ、普通に読み流していては気づくこともない些細なところに、宣長の注釈は、ことさらに、「面足ノ神」が現れて初めて「御形は満足」したわけではないと、即座には分かり難い補足を加えているのである。そこに強く注意を促しているのが『本居宣長』第三十九回のこの引用に続く文である。つまり、「―更に言えば、(宣長自身は言及していないのだが)、―」とわざわざカッコを付けて断りながら、「『訶志古泥ノ神に至ってはじめて訶志古く坐すには非ず』という事になろう」と続けているのである。すなわち、この「阿夜訶志古泥神」の出現によって漸く「畏き」存在としての神威に触れたわけではないと、宣長の注釈に欠けているところを補足するように加筆までしている。いや、ここからの第三十九回の本文は、まさに本居宣長の注釈を超えるような小林秀雄の注釈と考えなければならないのではないか。そして、この宣長自身が「言及していない」注釈に続き、さらに次のように説いているのである。

 

そうに違いなかろうが、これは、あくまで事後の反省に属する事で、神の命名というひたむきな行為の関するところではなかった、というのが宣長の基本的な考えなのである。従って、この行為のしるしとして、淤母陀琉オモダル阿夜訶アヤカ古泥コネノカミが、大斗乃オホトノベノカミの次に、生れ坐したという出来事は、どうあっても動かせない事になる。それが動かせるなら、神代は崩壊して了うのである。

 

神々は歴史的な過程、つまり継起的に、徐々に十全な姿形となって、名付けられるたびに次第に全体を整えつつ、人々の前に顕現した、というように、「可畏カシコき物」との遭遇という経験のただ中で、異常な働きとしての神威に直に触れたことを、その神の姿として、顕現するたびごとに名付けて行ったのではない。ある特権的で絶対的な力を、その部分の圧倒的な威力において、その瞬間に名付けているので、命名された個々の神々の姿の全体は最初から「満足タラヒす」姿であったし、その存在も最初から「く坐す」ものであったというのである。ただ、こう解くことは、あくまでも「事後の反省に属する」というのは、名付けた圧倒的な力をもって、それをその神の一部分として認識し、命名した、その御名の背後にその神の姿の、その時には隠れていた全体が示唆されているはずだと勘違いするなというのである。

そこで、ここに続く文章をさらに注意して読んでみよう。

 

では何故、そのような出来事、つまり、神々の本来の性格を、改めて、確かめてみるというような出来事が起こったのか。伝えがないから解らないが、これは、周囲にそうなる条件があっての事だろう。多分、それは、―「既に国処も成り、人物もなりてのうへの事」であろう、と註釈は言っている。しかし、そのような事は、宣長には、恐らくどうでもいい事であった。周囲の条件を数え上げてみたところで、外的な説明が、命名という行為の自発性にまで届くわけがない。そういうはっきりした考えが、宣長にはあったと見てよい。実は、そう見てはじめて、彼の混乱した註釈に、一本、筋を通す事が出来るのだ。そういう考えを秘めていたところから、註釈が苦し気に乱れた、と逆に考える事も出来るのである。

(第三十九回)

 

では、一つ一つ解きほぐして行こう。まず、これまで説いてきた「面足ノ神」への補足説明部分が「彼の混乱した註釈」の一つではあるが、もう一つとして、神々の序列の記述、その語り方にあるようだ。しかし、この点についても、第三十九回の記述には、『古事記伝』三之巻、神代一之巻の45丁の本文全体を引用していないので、小林秀雄の『本居宣長』本文だけを読んでいては、実は見当が付きかねるところなのである。本居宣長の注釈が「混乱」し、「苦しげに乱れた」というのは次の箇所である。

 

らば須比地邇スヒヂニの次に意富斗オホト能地ノヂとつゞき、活杙イクグヒの次に淤母陀琉オモダルとつゞくべきに、然は非ずて、國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差イリマガひたるは如何にと云に、未ダ國處は成ざる前に、國之常立神よりして、次第ツギツギに神等は生坐る【天之常立神以前五柱は、天神にて別なる故に、此に云ハず、此は國土の初メに就て云故に、國常立神より云々とは云り】故に意富斗能地神の先なる神を、角杙活杙ツヌグヒイクグヒナヅけ奉り

 

この「國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差イリマガひたるは如何に」という難問についての注釈として、これだけの言葉ではどうにも腑に落ちかねる曖昧さ、不得要領の感が否めない。つまり「御名の次第の參差ひたる」というのは、神々の御名から、それぞれの流れ、系統が推測されるが、その系統が交錯しているというのである。この引用の前をもう一度確認すれば解るのだが、「トヨクモ宇比地邇須比智邇ウヒヂニスヒヂニ意富斗オホト地大斗乃辨ヂオホトノベと申すは、國土クニの始のさま、角杙活杙ツヌグヒイクグヒ淤母陀琉阿夜訶オモダルアヤカ古泥コネと申すは、神の始まりのさま」としている。つまり、前の五神は「国土」の生成状況を「次第ツギツギ」に命名した流れを言い、後の四神は「神」の生成状況を「次第」に命名した流れを示すと解されるわけで、それを踏まえるなら、「国土」系列の神名と「神」系列の神名がそれぞれ分けて記されるべきと考えられる。つまり、普通に考えるなら、国土たる大地の生成を終えてから、神と人の世が開始されるという順序が至当であろう。しかし、『古事記』原文の記述は次のような順序を示している。

 

次に、成りし神の名は、宇比地邇神、次に、妹須比智邇神、次に、角杙神、次に、妹活杙神、次に意富斗能地神、次に、妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神

 

したがって、いわゆる天地創世神話を当たり前のように思い描く現代の読者としては、「然らば須比地邇の次に意富斗能地とつゞき、活杙の次に淤母陀琉とつゞくべき」と神々の出現と御名の配列の系統の交錯が、系統の乱れのように見えるのだ。なぜ大地生成神話と神々生成神話とを区別して、順序立てて語らないのか。それを問題としながらも、『古事記伝』における宣長の注釈は、「未ダ國處は成ざる前に、國之常立神よりして、次第に神等は生坐る故に意富斗オホト能地ノヂノカミの先なる神を、角杙活杙ツヌグヒイクグヒと名け奉り」と言うだけなのである。

しかし、この「次第に」に現代の用法としての「しだいに」ではなく「ツギツギ」と宣長自身がわざわざルビを振っているところに、注意を払うべきなのではないか。まだ国土も定まらぬ前に、神々はツギツギに現れた。その度毎に間髪を入れず御名は命名されて行ったのだ。この『古事記』に使用される「次=ツギ」の語法については、『本居宣長』第四十八回に直接言及されていて、さて、実はここが『本居宣長』最大の問題提起となる箇所と考えるところなのだが、本稿では参照事項として示すのみに留めたい(『小林秀雄全作品』28・p176)

 

四 命名という「ふり」

 

さて、ここまで検討して来たように、神々の御形の生成と国土と神の生成の二つを語っていく神世七代の御名の記述について、『古事記伝』の注釈を精読しても、飛躍としか思えない補足部分と「次第に神等は生坐る」故にとしか、自ら立てた問い、「御名の次第の參差イリマガひたるは如何に」という本質的な問いに答えないところ、この二点を以て、神代一之巻の45丁の本文全体を小林秀雄は「混乱した註釈」と言うのである。しかし、その混乱の所以については、極めて踏み込んだ注釈を施していくのである。それは、ここでの本居宣長の解は『古事記』神世七代のこの記述を「古言」として再生し、その語り方をできるだけ復元してみること、そうした想像力を自らに強く求めた故に「苦しげに乱れた」のだと言うのである。つまり、神世七代の語り方が示すように神々が顕現していく有様を、そのまま俊敏に聴き取りつつ、これを神威に触れて即座に命名する行為の絶対性として受容し、認識する方法というべきだろう。

すなわち、『本居宣長』第三十九回の「彼の混乱した註釈に、一本、筋を通す事が出来る」というのは、いわば宣長の注釈を浮き彫りにするための補助線を、「命名という行為の自発性」に求めたということなのである。

それでは、以上を踏まえて、この先にある最奥、最後の踏み込みに向かってみよう。「命名という行為の自発性」という補助線を引いた上で、宣長の記した神代一之巻の45丁の本文を位置づけ直し、そこに浮び上がる光景に注目したい。『本居宣長』第三十九回の箇所をもう一度引用する。

 

この行為のシルシとして、淤母陀琉オモダル阿夜訶アヤカ古泥コネノカミが、大斗乃オホトノベノカミの次に、生れ坐したという出来事は、どうあっても動かせない事になる。それが動かせるなら、神代は崩壊して了うのである。

(第三十九回)

 

先に検討した神々の序列、その顕現の順序が、『古事記』本文では国土系列と神々系列とが交錯して記されているという箇所である。この交錯した記述は宣長によれば「次第ツギツギに神等はナリマセる故」というのみであった。そして、小林秀雄はこの「次第」、ツギツギという言葉の動き、その「古言」の「ふり」に眼を凝らして「命名という行為の自発性」を読み取り、さらに「其ノ可畏カシコきに触て、タダチに歎く言」という果敢な踏み込みを行ってみせたのであった。既に記したように、その時その時の一瞬に顕現する神々、その神威との邂逅は絶対的な経験と言う他にない。したがって事後の反省による整序とは自ずから異なるのは当然なのである。しかし、この動かせない序列を動かしたら、つまり、反省に基づく整序を施すとしたら、「神代は崩壊してしまう」というのは何故なのか。しかも、「神世七代」とするのではなく「神代」と記す限りは、ここでの注釈対象の神世七代の領域に留まる話ではなくなってしまうのは明らかであり、そうなるとこの「崩壊」というのが少なくとも『古事記』の上巻全体に及ぶことになる。「大斗乃オホトノ神、大淤母陀琉オモダル阿夜訶アヤカ古泥コネ」という語られ方を取っている順序が、入れ替わってしまうと「神代」という歴史が崩れ去ってしまうというのである。

 

五 神代という物語の<時間>

 

さて、この問題の輪郭を明確にするためには、「命名という行為の自発性」という補助線のさらなる考察が必要になって来る。本稿の冒頭部に記したところをもう一度振り返ってみたい。『古事記』の記述はその文字、文章から稗田阿礼ひえだのあれの語りへと回帰することを促していて、その始原ともいうべき経験の総体への想像力を行使できるか否か、というところまで小林秀雄の記述は踏み込んで行った。つまり、神の御名と言えば、それを唱える声の上げ下げまでを指摘する本居宣長『古事記伝』の注釈とは、文章としての神世七代の記述総体を、その元の形へ、「古言フルコト」へ帰そうという努力の表れなのだと見ているわけである。しかも、「古言」として復元された神の御名とは、あれかこれかの選択の末に定まっていくというものではなく、「タダチに歎く言」と考えなければならない以上、その経験の一つ一つから「自発的」に展開されたものである。この特殊かつ極めて具体的な経験から、となごととして生成する御名までの、心の動きとは、任意なものではないということだ。ここを押さえた上で、この命名行為の特権性という補助線を引き、それについて『本居宣長』の第三十九回以前に記して来たところを振り返ってみよう。

特に荻生徂徠について説くところの核心をなす問題は、言語の問題であったこと、それについては徂徠の『辨名』に言及されていたことを想い起こしたい。

 

ところで、「生民ヨリ以来、物アレバ名アリ」とは、これも言うを待たざることと考えられているが、意味合はまるで違うのである。名は、自然に有りはしないだろう。物につき、人が、名を立てるという事がなければ、名は無いだろう。しかし、この命名という行為は、あんまり自然で基本的なものだから、特に意識に上るという事がなく、誰もが、単に物あれば名ありと思い込んでいる。そういう風に、徂徠は考えている。凡そ、人間の意識的行為の、最も単純で、自然な形としての命名行為が、考えられている。言わば意識的行為の端緒、即ち歴史というものの端緒が考えられている。先王の行為を、学問の主題とした孔子にとって、名は教えの存するところであったのは、まことに当然な事であった。

徂徠は、「子路篇」から孔子の言葉を引く、「名正シカラザレバ、則チ言シタガハズ」と。言語活動とは、言わば、命名という単純な経験を種として育って、繁茂する大樹である。

(第三十二回)

 

さらに第三十四回で展開された「神」という言葉と「物」との関わりについての考察も見てみよう。

 

「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取り上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「シルシ」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質アル形状カタチ」は、決して明らかにはなるまい。直に触れて来る物の経験も、裏を返せば、「シルシ」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先でも後でもない。「古事記伝」の初めにある、「そもそもココロコトコトバとは、みな相称アヒカナへる物にして」云々の文は、其処そこまで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。「すべて意も事も、言を以て伝フものなれば、フミはその記せる言辞コトバムネには有ける」とつづく文も、「ココロ」は「心ばへ」、「コト」は「しわざ」で、「上ツ代のありさま、人の事態シワザ心ばへ」の「シルシ」としての言辞コトバは、すべてあらわであって、その外には、「何の隠れたるココロをもコトワリをも、こめたるものにあらず」という宣長の徹底した態度を語っているのである。

(第三十四回)

 

ここで引用されているのは、『古事記伝』一之巻の冒頭、「古記イニシへブミドモノ総論スベテノサダ」の終わり近くになるが、さらに補足すれば、上記の引用文「抑意と事と言とは、……」の後には、次の文も入っているのである。

 

此記は、いさゝかもさかしらを加へずて、イニシヘよりつたヘたるまゝに記されたれば、その意も事も言も相稱アヒカナて、皆上ツ代のマコトなり、是レもはら古ヘのコトムネとしたるが故ぞかし

 

ココロコトコトバ」の三者が相互に、しかも緊密に関係しつつ「シルシ」として機能するとは、これらの総体が本質としての言葉なのであって、ある出来事との遭遇とそこで感じ取られた心情や意味と、この総体としての経験をどう表現するかということは、一つ一つが独立した漸次的、段階的な過程なのではなく、すべてが一挙に獲得される「シルシ」と呼ぶしかない完結した経験であり、表現に他ならないということだ。したがって、この過程の全体が「マコト」なのである。そうであるからこそ、第三十四回で言及される「くず花」の引用文、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也」ということになるのである。すなわち、通念的な歴史上の一時代のように「神代」を想定し、その「神話」を想像上の産物としか捉えられないというなら、神代の神々を表現する言葉、神の御名の数々と、その御形が「目に見えた」ということは全く理解不能なのである。それは御名と御形とを引き離したが故なのだ。

さて、ここまでの考察を踏まえて、第三十九回において問題化した箇所、神世七代の神々の顕現する語り、その順序が一つの理屈によって整序されたとしたら、「神代は崩壊して了う」という文章に戻ってみたい。

そこで語られた神々の御名とは「次第ツギツギ」に生成して来る神威に直に触れて、直ちに歎く「シルシ」としての言葉の連続体であって、これを語っていく神々の物語の、その動きの総体こそが「神代」の「マコト」という歴史そのものである限り、この連続体を停止させ、組み替える行為が何をもたらしてしまうか、それは火を見るより明らかであろう。

そして、第三十九回の最終段落にも注意しておきたい。

 

要するに、淤母陀琉オモダル阿夜訶アヤカ古泥コネノカミの出現という出来事に、古代人の神の経験の性質が、一番解り易く語られていると宣長は考えた、と見てよいのだが、その神名の解によれば、この経験の核心をなすものは、―「其ノ可畏カシコきに触て、タダチに歎く言」にあったとするのだ。これは、明らかに、「古の道」と、「雅の趣」とは重なり合う、或いは「自然ノ神道」は「自然ノ歌詠」に直結しているという、言いざまであろう。彼は、「物のあはれ知る心」は、「物のかしこきを知る心」を離れる事が出来ない、と言っているのである。

(第三十九回)

 

ココロコトコトバとは、みな相称アヒカナへる物」だという見解が、おそらく『本居宣長』の中で最も重視されている思想であって、これと「もののあはれ」の説との重なり合う様をこの引用文は語っているのである。神世七代の語りによって顕現した神々の御名と御形の言葉を「古言」の「ふり」の動きへ再生しようとすれば、「道の事」は「歌の事」と同じであり、両者は二つの事を表現したものではない。それははっきりしているのである。

さらに、『本居宣長』のこの後の展開、第四十三回にはこの二つを踏まえて、より踏み込んだ記述が見られることを確認して、本稿を閉じたい。

 

神代の伝説は、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語ではなくなるわけはない。だが、「さかしら」の脱落が完了しないと、この事が受け入れられない。それが厄介な問題だ。「神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理もなく、つたなき寓言にこそはあれ」と頑なに言い張るからである。歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直に結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確かめるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。

(第四十三回)

 

「神代」、「古伝説全体」は、徹頭徹尾「シルシ」としての言葉に基づいた物語として成り立っているという。だから、その「ふり」を見失えば一挙に「崩れ去」ってしまうのだ。

 

(つづく)

 

注……本稿中の『古事記伝』本文は、『本居宣長全集』第九巻(昭和四十三年七月 筑摩書房刊)を使用した。なお本稿に引用、要約して示したところは、筑摩版全集九巻のp140(28丁)~151(45丁)にあたる。

 

『本居宣長』の<時間論>へⅥ―「物語」と「道」と「歌」

1 精神の古層

 

令和4年という年の夏も漸く過ぎて行ったが、今夏もまた、と繰り返すのも躊躇されるほどの異常気象であった。梅雨という季節が極端に短かったという話が広まったと思う頃、否、実は異様に長かったのだと、盛夏に至ろうとする間の長雨をも梅雨の延長上とする話が気象予報関連の人々から流れて来てもいた。そして、この秋の実りも心配されつつ、今年の秋刀魚は異様に小さいと首をかしげる鮮魚店の噂話も事実となって現れているこの頃である。以前、いささか言及しておいた「真暦」を生きていた遥か昔の人々ならば、この変動止む方のない季節の動きをどう捉えたろうか。そして、どのような言葉として受け止めていたろうか。

また一方で、今夏を長く記憶に留める出来事があった。ある特定の宗教団体と政治、特に我が国の政治の中心にいた為政者たちとの関わりについて、その契機となった7月初頭の事件があまりにも衝撃的なものだったこともあり、政治と宗教の関係についてかつてないほどの論議がなされ、これは現在も進行中である。マスコミ各社の報道に流される、その宗教団体への入会と脱会にまつわる家族や個々人の訴えは目を覆うばかりの被害を伝えているが、本来ならば人間の生の導きとなるべき信仰という精神内面の志が、宗教団体というかたちで社会内に構造化された時、場合によっては信徒の家族そのものの崩壊さえも起こしかねないという皮肉なありようは、実を言えば、我々の誰もが身近に知っているし、おそらくほとんどの人々がどこかで多少とも経験していることではなかろうか。また、それ故にこそ、この論議は今後も止めどなく続けられて終息をみることはあるまいと思われる。「政」という漢字が、日本語で「まつりごと」と訓まれる限りは、近代の意識において祭政一致がまことしやかに分離分割されたとしても、人々の生の営みにおいては、この祭事と政治の奇妙な融合が精神の深部に潜在的に息づいているのであろう。それにしても、信仰の証の高低を測るかのように高額な寄進を促す行為が再び批判の核心に据えられて来ているが、そこへ誘われる契機として、「先祖の障り」ということを持ち出すあたり、墓じまいなどということが巷で流布されている現代にあっても、我々の精神の古層にはまだまだ先祖を敬慕する心が根強く残存していることの証しなのであろうか。そうしたところ、まさしく急所を突かれたという想いが禁じ得ないのである。たとえば、柳田国男がこの現状を見たらどう言うだろうか。

そこで、政治と宗教の論議をもう一度繰り返すと、この言い争いには、信仰という本来的に個人の深層に潜んでいる精神の志向性と、善悪正邪という共有知とその普遍性を要請する価値判断という決して交わることのない二つの領域がせめぎ合っているのである。これを簡潔に言い換えるならば、「信ずることと知ること」の問題ということになる。すなわち、このことは、小林秀雄が生涯をかけて追究した問題であり、書かれた文章、作品の深層に渦巻いている問いの姿であり、逆に言えば、この問いの姿を象った言葉の総体が、数々の作品となって現れていると捉えるべきであろう。もちろん、『本居宣長』という大著にもそうしたヴィジョンが透けて見えるはずであり、この手がかりを掴んで離さないということが、この著作を読解する上で、私が自らに課して来た努力のすべてと言えるのかも知れない。

さて、前稿では「物語」というものが如何なる語りの姿を現す言語行為であるのかについて、折口信夫『死者の書』を手がかりに考察を試みたが、そこでは、「当麻たぎまノ語部のうば」が「藤原南家の郎女いらつめ」へ向かって、彼女の潜在意識に働きかけようとする「昔語り」の語り方に、遙かなる過去におけるそこと、現在のここというかけ離れた時空を無化するように機能する「旋回する文体」が現れることについて詳述した。本稿では、こうした「物語」なるものの文化的な有り様にもう少々肉付けをしておきたい。そして、これもまた「精神の古層」に関わる独特な表情を持つものであることを考えてみたい。

 

二 「蛍」の巻再見

 

長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々絵物語などのすさびにて、明かし暮らしたまふ。明石の御方は、さようのこともよしありてしなしたまひて、姫君の御方に奉りたまふ。西の対には、ましてめづらしくおぼえたまふことの筋なれば、明け暮れ書き読み、営みおはす。つきなからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上などを、まことにやいつはりにや、言ひ集めたる中にも、わがありさまのやうなるはなかりけりと見たまふ。住吉の姫君のさし当たりけむをりはさるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭がほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへたまふ。

 

『源氏物語』第二十五帖「蛍」の巻、本居宣長がもっともこだわった物語論が展開される箇所の始まりである。ことの起こりは、例年にない長雨、つまり梅雨の季節が長引いている時、天気も心も晴れぬまま退屈な時間だけが流れていく屋敷の部屋の中から始まる。「西の対」に住む姫、玉鬘にあっては、見たこともない「絵物語」の数々にすっかり夢中になっているというところで、それらに描かれている登場人物たちは、本当か嘘か見当がつかないほどの特異な人生を送っているのだが、やはり自分のような数奇な運命を生きた人はいないのだと玉鬘は思っている。つまり、絵物語に展開されている人々の有様をいろいろ読みながら、自分のことと比較対照して、「わがありさまのやうなるはなかりけり」と嘆息しているわけである。そして、このことを本居宣長は「紫文要領」(1763年)において、『源氏物語』から「昔物語」、「むかし物語」の使用例を確認した上で、次のように説く。(なお、「紫文要領」本文の表記は大変読みにくいので、漢字、仮名遣いは現代表記へ整えている。)

 

大方、物語という物の心ばえ、かくのごとし、ただ世にあるさまざまの事を書けるものにて、それを見る人の心も、右に引けるごとく、むかしの事を今の事に引き当てなぞらえて、昔の事の物の哀れをも思い知り、又、己が身の上をも昔に比べ見て、今の物の哀れも知り、憂さをも慰め、心をも晴らすなり。さて、右のごとく、巻々に古物語を見る人の心ばえを書けるは、すなわち今又、源氏物語を見る人もその心ばえなるべき事を、古物語の上にて知らせたるものなり。右のように古物語を見て、今に昔をなぞらえ、昔に今をなぞらえて読み習えば、世の有様、人の心ばえを知りて、物の哀れを知るなり。とかく物語を見るは、物の哀れを知るという事第一なり、物の哀れを知る事は、物の心を知るより出て、物の心を知るは、世の有様を知り、人の情けの様をよく知るより出るなり。されば源氏の物語も右の古物語の類にして、儒仏百家の人の書の類にあらざれば、由なき異国の文によりて、論ずべきにあらず、ただ古物語をもてことわるべし。(「紫文要領」巻上)

 

ここを注意深く読み解くと、「物語」という語の意味するところは、「儒仏百家の人の書の類」とは本質的にジャンルを異にしたモノであり、後世の読者に未知のことを教え諭すというような学びの対象物、たとえば、『論語』、『孟子』や諸子百家の思想書などとして存在しているモノではなく、かつての有意義な情報を格納してある倉庫のような働きをするモノでもない。「物語」の本質は、玉鬘の姫君が、夢中になった絵物語のどこにも自分のように生きた登場人物が見当たらないと嘆き、わずかに「住吉物語」の姫君の経歴が我が身のそれと引き比べられると見ているところに、実は垣間見えると言うのである。つまり、「蛍」の巻の先の引用の後半部には、「住吉物語」中で、継母からの辛い仕打ちに耐えている姫君が、七十余歳となる主計頭かぞえのかみに盗まれそうになる場面が描かれており、その危機一髪の状況を読んだ時、それはそのまま玉鬘の姫君自身が、かつて肥後の豪族で野卑極まりない「かの監」、つまり、「玉鬘」の巻に登場した「大夫監たいふのげん」に危うく結婚させられそうになって逃げ出したという経験を重ね合わせるところ、そこに宣長は「住吉物語を読みて、我が身の上に有りし事を、思いあたるなり」と注目しているのである。つまり、玉鬘にとって、今は、光源氏によって六条院の西の対に庇護されている自分自身の、それまでの経験を顧みるということころに注目せよと言う。そこにこそ「物語」というモノの働き、逆に言えば、「物語」に記された他の人々の生き、経験している多様な有り様が、読んでいる自分自身の現在の経験の質と意味とを照らし出し、そこに自らの姿を発見していくプロセス、そうした一連の行為全体を「物語」と呼んでいるのである。どうやら、宣長がここで取り上げる「物語」とは、読む対象としての書物のことではないといった趣きがあるようなのだ。そして、「物語」の中の他者の経験を知り、それが自分の経験の自覚に結びつくとき、「世の有さま、人の心ばえを知りて、物の哀れを知るなり」という「心」という実在の先験的な動きを把握出来るというのである。

したがって、上記のことを思い切って簡潔に言うなら、「物語」を読むとは、己を読むということ、我が身の有り様を知ることだということになる。

これを「紫文要領」から33年後に成った「源氏物語玉の小櫛」のより分かりやすい評釈で確認してみよう。(漢字以外は原文のまま)

 

大かた物語をよみたる心ばへ、かくのごとし、昔の事を、今のわが身にひきあて、なすらへて、昔の人の物のあはれをも、思ひやり、おのが身のうへをむかしにくらべみて、もののあはれをしり、うきをも思ひなぐさむるわざ也、かくて右のごとく、巻々に、古物語をよみたる人のこころばへを書るやう、すなはち今源氏物語をよまむ人の心ばへも、かくのごとくなるべきこと、しるべし、よのつねの儒仏などの書を、よみたらむ心ばへとは、いたくことなるものぞかし。 (「源氏物語玉の小櫛一の巻」)

 

一読して明らかなように、33年の月日を閲しても、表記の細部の整理はおいて、この文章の主旨に変化したところはまったく認められない。ただし、念のための補足を少々すれば、「物語」はすべて「昔物語」、「古物語」とも書かれているのだが、上記のように、「昔の事」を尊重の対象として学び、それを現在に活かすという読み方を意味するのではない。そういう意味では、「物語」はいわゆる歴史書ではまったくないのである。『源氏物語』の中の人々が作中で「昔物語」を読むことによって、今の自分を認識しているように、その読み方で、今の読者も『源氏物語』を読まなければならないと言う。そして、そうした読書行為において、初めて、「大かた人のこころのありよう」が彷彿として来る。書かれた心理を読み取ることは、そのまま自らの心理を発見することであり、その認識と発見の行為論的な見定めとして「物語」という特権的な経験があるということなのだ。

さて、小林秀雄の『本居宣長』では、この間の事情をどのように記述していたか。

 

三 「物語」をいかに語るか

 

『本居宣長』十三回の後半から十八回にかけて、この「蛍」の巻の物語論への言及は始まっている。そこで特筆すべきなのは、先に記した「物語」を読む行為の具体相への考察、つまり、この経験の自照性、もしくは自証性とでもいうべき機能よりも、その結果、結論としての「もののあはれを知る」というヴィジョンの特権性と、なぜそれが可能になるのかという問題の方に、より焦点が当てられていることであろう。さらに、後者を解く鍵が、「物語」の文体、言語表現の本質を巡る考察に展開していくことは十六、十七回に詳述されている通りである。

 

式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる。

物語は、どういう風に誕生したか。「まこと」としてか「そらごと」としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が「物のあはれ」という言葉の姿を熟視したように、「物語る」という言葉を見詰めていただけであろう。「かたる」とは「かたらふ」事だ。相手と話し合う事だ。「かた」は「言」であろうし、「かたる」と「かたらふ」とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変わらぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、「日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし」と言ったのである。(十六回)

 

「物語」とは言うまでもなく「そらごと」によって作られている。すなわち虚構=フィクションであることは分かりきっている。しかし、人々は「世にない事、あり得ない事を物語る興味」など頭からないし、聞いてみる気もないのである。しかし、光源氏が玉鬘へ語りかけるように、「物語」に書かれていることについては、「はかなしごとと知りながら、いたづらに心動」かされてしまうことが起きる。うっかり真実と思い込みそうになる際に、これは「そらごと」であったと思い返す。騙されたと分かった上でも、現実に心を動かされた事実は動かない。では、この事態をどう処理するか、それは「そらごとをよくし慣れたる口つきよりぞ言ひ出すらむ」と反省するしかない。嘘をつくのが上手な者のまことしやかな口ぶりによって、うっかり騙されてしまうというわけだ。つまり問題は、言語表現の指し示す内容、出来事が「まこと」なのか「そらごと」なのかではなく、反省すれば「そらごと」なのに、まるで「まこと」のように読み手に思わせてしまう言語表現の方法に関わる問題へと考え方を変更しなければならないのだ。ということは、言語表現自体の持つリアリティ、説得力の強弱という問題にならざるを得ない。そうすると、要は「よくし慣れたる口つき」から表現された文体の力へ思い至ることになる。そして、このことは『本居宣長』十五回の半ばにおいて、次のように正確に扱われている。

 

彼(=本居宣長・稿者注)は、啓示されたがままに、これに逆らわず、極めて自然に考えたのである。即ち、「物語」を「そらごと」と断ずる、不毛な考え方を、遅疑なく捨てて、「人のココロのあるやう」が、直かに心眼に映じて来る道が、所謂「そら言」によって、現に開かれているとは何故か、という、豊かな考え方を取り上げた。取り上げれば、当然、物語には「そら言にして、そら言にあらず」とでも言うべき性質がある事、更に進んで、物語の本質は、表現の「めでたさ」を「まこと」と呼んで、少しも差支えないところにある事を、率直に認めざるを得なかったのである。(十五回)

 

書いてある内容が「そらごと」、虚構であることを前提としながら、それを表現する言葉遣いの「めでたさ」を要件として「人の情」の真相への想像力が展開されると説くわけである。

そこで再び『源氏物語』「蛍」の巻の本文へ眼を向けると、光源氏の会話中には、物語行為へと人が誘われてしまうこと、物語ることへの欲求が発動する契機について次のように書かれていた。

 

その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節ぶしを、心に籠めがたくて、言ひおきはじめたるなり。

 

これを「源氏物語玉の小櫛一の巻」の評釈で確認してみよう。

 

見るにもあかず、聞くにもあまるとは、見る事聞く事の、そのままに心にこめては、過しがたく思はるるをいふ、すべて世にあらゆる、見る物きく物ふるる事の、さまざまにつけて、うれしとも、おかしとも、あやしとも、をかしとも、おそろしとも、うれたしとも、うしとも、かなしとも、ふかく感ぜられて、いみじと思ふ事は、心のうちにこめてのみは、過しがたくて、かならず人にもかたり、又物にかきあらはしても、見せまほしくおもはるるものにて、然すれば、こよなく心のさはやぐを、それを聞見る人の、げにと感ずれば、いよいよさはやぐわざなり

 

本居宣長はこの引用文の後、『源氏物語』中に現れている登場人物たちの物語衝動とでも呼ぶべき表現箇所をいくつか挙げて行き、さらにこのことを敷衍して行く。

 

さて此の、何事にまれいみしと思ふことの、心にこめて過しがたきすぢは、今の世の、何の深き心もなき、大かたの人にても、同じことにて、たとへば世にめづらしくあやしき事などを、見聞たる時は、わが身にかからぬ事にてだに、心のうちに、あやしきことかな、めづらしき事かなと、思ひてのみはやみがたくて、かならずはやく人にかたりきかせまほしく思ふもの也、さるはかたりきかせたりとて、我にも人にも、何のやくもなけれども、さすれば、おのづから心のはるるは、人の情のおのづからの事にて、歌といふ物のよまるるもこれ也

 

この二つの引用文の間は『源氏物語』の用例を引いた十行ほどが挟まれているだけであるが、この後の文章が前の文章をそのまま反復しているわけではないのは、一目瞭然であって、もちろんその主旨の核心部には、「もののあはれ」を深く感ずるところから極めて自然に湧き起こってくる「かたり」への欲求という物語衝動が押さえられている。すなわち、ある感覚の発露から出発して、これが臨界に達した時、飽和状態の感覚が語るべき言葉の数々として発生し、「物語」として整序されるというプロセスは同一であることを示している。

しかし、最も注目すべきなのは、横溢した感覚が自発的に言葉へと変化していくという時の、その言葉という概念は、含意として聞き手の存在を既に想定しているということなのである。持って回った言い方になるが、「言葉」、「言語」という用語には、叫びとか絶叫という行為とは本質的に異なる意味があり、ある発せられた音声が「言葉」であるとは、聞き手の了解が得られる有意味な音声であることが前提になっているはずなのである。だから、「かたり」という用語も、その単語としての意味の中には、一人ではない複数の人々、ある人間の「かたり」を聞いている他の人間、「聞き手」がいること、つまり言語的コミュニケーションの存在を暗に含んでいるのである。逆に言えば、聞き手、読み手があってこそ、その音声は「言葉」であり、その白い紙片に記しづけられた黒線は、「文字」としてあることが可能になる。妙な例だが、縄文土器に現れたデザインは、今の我々には文字通り縄で記された紋様としか見て取れないが、これが「言葉」として、言語的コミュニケーションのプロセスにおいて確認出来る時が、将来、来ないとも限らないのである。また、このことは初めて学ぶ外国語の文字(特にアルファベット文字ではないもの)を読むことを想い起こせばよいだけのことかもしれない。

さて、問題を元に戻して「源氏物語玉の小櫛一の巻」の引用文の考察を続けると、まず前文に加筆されている箇所が一つ、そして、前文をさらに言い換えた箇所が一つあることが分かる。引用した後文の一行目から二行目に「今の世の、何の深き心もなき、大かたの人にても、同じことにて」とあり、これは「もののあはれ」の発動が、『源氏物語』の本文から解釈できるだけのことではなく、現代に生きている特に趣味もなく、和歌などに通じてもいない人々であってもあてはまる、人性上の普遍的なことであると言う。そして、言い換えている箇所を見ると、前文では「それを聞見る人の、げにと感ずれば、いよいよさはやぐわざなり」という箇所が、後文では「歌といふ物のよまるるもこれ也」となっているのである。

先に「かたり」、「言葉」、「言語」という用語についての回りくどい説明を繰り返したのは、この箇所を問題化しようという意図からであったが、『源氏物語』本文の精読から読み取れること、すなわち、登場人物たちにおける「物語」、「昔物語」を読む行為の意味を確認することと、それが『源氏物語』を今、読んでいる者の読み方を指定し、それに従いさえすれば登場人物たちと同様な経験を反復するはずだということ、それを踏まえて「源氏物語玉の小櫛」の引用文の後文にあっては、「大かた人にても、同じこと」というように、人間心理の一般的な機能分析へと一気に普遍化してみせる文言が展開されているのであって、これは本稿の二において詳述しておいたこと、本居宣長が「物語」という用語について思い描いていた特殊な意味あいを再認識させるに足ることと言えよう。つまり、ここでも本居宣長は『源氏物語』から非常に抽象度を高めた人間心理の原理論を抽出しているのであり、これはもう古典文学の一作品として存在する『源氏物語』という文学作品の解釈を超えており、読む者の視線の向こう側に対象としてある書物の中に客観的に指示可能な意味ではないだろう。小林秀雄『本居宣長』の十三から十八回、そしてまた二十四回などで言葉の限りを尽くし、執拗に記されていることは、こうした宣長自身の、我が身に引きつけた深読みなのである。しかし、その読み方とは、たとえば「紫文要領」や「源氏物語玉の小櫛」において述べられている通り、『源氏物語』の中の人々の生き方を、現在の我が身に照らして読むことに他ならなかったはずである。だから、本居宣長自身の深読みとは、彼自身の『源氏物語』の読書行為において、初めて我が身の複雑さに出会っただけのこと、とも言えるのだ。

さて、肝心のもう一つの言い換え箇所を見てみよう。しかし、これも先に述べた通りで、自分のいっぱいになった感覚からこぼれ出た「かたり」が他人に聞き取られると「こよなく心のさはやぐ」ことになるのだが、聞く人が「げにと感ず」れば感ずるほど、それだけ語った者の心は「いよいよさはやぐわざなり」となる。当たり前のことだが、自分の話を聞いて、全幅の信頼を寄せつつ感動してくれる聞き手がいれば、語り手の心は、ますますいっそう晴れやかになるわけである。では、聞き手が「げに」と本心から感動してくれるには、どうすれば良いか。『本居宣長』第十五回をもう一度振り返ろう。

 

物語の本質は、表現の「めでたさ」を「まこと」と呼んで、少しも差支えないところにある

 

横溢して止まない感覚の増大から、「かたり」が誕生するところにあって、その語り方を工夫すること。そして得られた「めでたさ」は、やがて「まこと」として聞き手、読み手に作用し、リアリティの強度として受け止められていくのである。そして、この言語表現の「めでたさ」を求めて行くまでの流れ、その全体を俯瞰すれば、引用後文の「歌といふ物のよまるるもこれ也」という結論に達するのは必然と言わなければならない。

ということで、これまでの考察は、次に引く『源氏物語』蛍の巻の光源氏の会話、玉鬘の姫君に向かってもっとも深く、長く説いて聞かせるところの最終部に着地する。

 

仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、悟りなき者は、ここかしこ違ふ疑ひをおきつべくなん、方等経の中に多かれど、言ひもてゆけば、一つ旨にあたりて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人のよきあしきばかりの事は変りける(*)。よく言へば、すべて何ごとも空しからずなるぬや

 

話題は、物語中に描かれる善人、悪人などの人物造型の差異について、それほど重大なことではないとしているところで終わろうとしているようだが、その最後の箇所である。描くことがら、対象が善であれ、悪であれ、何であれ、「よく言へば」という条件を乗り越えさえすれば、「物語」に書かれた事柄すべては、空しい「そらごと」ではなくなるという。この「よく言へば」とは、その表現に「めでたさ」が備わっていれば、という条件なのである。すなわち、現代語訳を試みるなら、<上手に表現すれば>とすべきところなのである。この場合の<上手に>とは、「めでたさ」という深々とした印象が匂い立つような美を意味することは言うまでもない。すなわち、<文学として>と拡張しても良いはずなのだ。

 

四 道のことと歌のこと

 

我々の普段の生活が本質的に言語生活そのものを意味しており、その際の「言語」とは何を意味するかについては、これまで記述して来たところで大体のイメージは描けたかと思う。この世に生まれ出るとは、日本語の中に、あるいは日本語で語り、聞かれる「物語」のただ中に産み落とされるということで、身の周りからとめどなく放射される身体的な刺戟に、身体的な反応を繰り返しつつ、いわば非言語的なコミュニケーションが蓄積されていく、そこに自らへ働きかける行為と共に聴覚を襲う音声を言語として認識するようになり、遂には日常的な会話に習熟していく。そしてある時、こうした言語的経験の延長線上に「物語」なるお話の世界が与えられ、これを読む楽しみに浸ることを覚える。そのように、幼児における言語習得のプロセスを考えることは極めて自然なことのように思われるところである。しかし、本当にそうだろうか。

人間は、言語なる有用な道具を手にしてから後にお話の世界を獲得していくのだろうか。自らの記憶が遡れる限りの昔、いや親の記憶に寄らなければ思い出せもしない時において、ほとんど身体的な欲求の世界に生きていた赤児が、泣き声を上げる度に何かが与えられたり、触覚に関わる温感が訪れたりする、そうした体感がすべてのような時にあっても、親がそれと認めた身体的な要求とそれへの反応として行われた様々な作業、「おまえは泣いているばかりだった」と回想される時間とは、既に身体を介したお話の時間ではなかったか。母親はしっかりと赤児の発する「物語」を聞き取り、赤児もまたその「物語」を体得していったはずである。そうして、この「物語」とは、明瞭な始点と終点を示すことはなく、一定の時間内で同じ長さを以て反復されるものではない。むしろ、一定の長さの同じ事を切断して反復することで、いつでも使用可能な記号として「言語」を約束事の中に共有化は出来たのである。

しかし、こうした硬い記号としての「言語」も、いつしか元の「物語」という流動体へ、本質的な動態へ帰ろうとする兆しを帯びて動いているはずなのだ。それならば、「言語」という概念は、日常的なコミュニケーションの回路、話し、聞く、書き、読むという回路の中に硬く閉鎖させて考えられるものではなく、その言語活動の総体の動きとして、「言語場」を包み込んだ動きとしての「物語」の中に置き直して考えるべきなのではないか。すなわち、「物語」とは、人間の生きていく有り様を紡ぎ出す文化装置としての大きな潮流をなしており、ここからある視点の下、特定の時空を始めと終わりのある出来事として切り出すことで、そのたび毎に記号として扱われる言語(日常言語)を確定させつつ、視点の変化(社会・環境の変化)につれてその時々の構造を更新していくという仕組み、そうした動き全体をいうことになろう。「紫文要領」で言う「昔物語」の読み方とは、そうすることによって読み手がこの潮流に参加する、あるいは戻って行こうとする機縁を述べていたことになる。さらに、こうした行為論上のプロセスは、「人の道」と言い換えてもいいはずなのだ。

さて、本稿の結論として、これまで考察して来たところをいっそう「」表現し切った小林秀雄『本居宣長』の第二十四回を確かめて終えようと思う。

 

私達は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである。言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何を措いても、生の現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう。……(略)……

ところで、この人生という主題は、一番普通には、どういう具合に語られるのか。特に何かの目的があって語られるのではなく、宣長に言わせれば、ただ「心にこめがたい」という理由で、人生が語られると、「大かた人の情のあるやう」が見えて来る、そういう具合に語られると言うのである。人生が生きられ、味わわれる私達の経験の世界が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもあるのだ。……(略)……

「物のあはれ」は、この世に生きる経験の、本来の「ありよう」のうちに現れると言う事になりはしないか。宣長は、この有るがままの世界を深く信じた。この「マコト」の、「自然の」「おのづからなる」などといろいろに呼ばれている「事」の世界は、又「コト」の世界でもあったのである。

 

この「コト」の世界というものが、また、「歌が出て来る本の世界」(同二十四回)であることは、先に記した通りである。してみれば、「道」の有り様が「歌」を引き出して来るのは「おのづからなる」ことなのである。

(つづく)

 

注……本稿に引用した「紫文要領」、「源氏物語玉の小櫛」の本文は、『本居宣長全集』第四巻(昭和四十四年十月十日 筑摩書房刊)にすべて寄っている。また本稿中にも補足したように、「紫文要領」本文については、宣長自身の修正、訂正文が随所に書かれており、確定した本文は未定のまま活字化されているので、本稿では内容は変更しないよう留意しつつ、漢字の表記や仮名遣いを現行の形に改めてあることを再度お断りしておく。

また、本稿中に引用した『源氏物語』蛍の巻は、所謂「青表紙本」の本文に基づいているが、『新日本古典文学全集』(小学館刊)を参照して、漢字表記を分かりやすい現行の形に適宜整えてある。

また、光源氏の会話文として引用した(*)を付した箇所、「菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人のよきあしきばかりの事は変りける」の「菩提と煩悩との隔たり」というこの二者は、常識的には、悟りと悩みの差異であり、その隔たりは大きいものであるが、ここでは「方等経」(=法華経などの大乗経典)が念頭にあり、大乗仏教中の用語としての「煩悩即菩提」を意味している。したがって、ここでは、一見すると大きな距離だが、実はほとんど表裏一体のものなのだという意味である。

 

『本居宣長』の<時間論>へⅤ―停止と循環をめぐって

1 物語への想像力

 

生と死が厳とした境界に阻まれてはいるが、ある時を定めての交歓が必ずしも不可能ではなかったということ。これが、例えば柳田国男の文化的想像力の結実であった。すなわち、この二者は元々隣り合わせの世界であり、その間の扉を開けるに相応しい方法が遙かな昔から家々の中で引き継がれて来たということである。これまで本誌に繰り返し記したところをもう一度確認しておくばかりであるが、こうした文化に生きる者の人生観においては、生と死は相互に補完する機能を有するということを了承した場合、この文化を育み、その度ごとに証するものが言葉であり、文章としてあったことは明らかであって、もちろん、事は言葉と文章の有り様によって読み取られ、身体に刻み込まれ、また語られていったという過程を想像しなければならない。したがって、生と死への洞察の次には、言語の機能についての本質的な批判が必要であり、それを俟って初めて学的対象としての言語なる無機的な組織以前に、本来的に先行している物語という行為、言葉を紡ぎ出しつつ対象を象り、整えようとする有機的な動きの方へ注意を向けるべきなのである。

端的に言えば、『本居宣長』中で執拗に言及される「もののあはれ」という心と言葉として整序される以前の、先験的な働きは、あらゆる認識の起源を問題化することによって、「歌のこと」と「道のこと」という二つの方向性を一つとして起動するものであることを表現していたのである。したがって、天与の経験を言葉に整えるとは、言語論的には文章を作成することだが、同時に、実はなんらかの物語を発動させることに他ならないはずなのである。

具体的に考えてみよう。『本居宣長』の終わり近くには、神名、神の御名の吟味についての記述が現れる。そして、「天照大御神」という「御号みな」が文章として成り立っているということを明らかにしている。

 

天照大御神という御号を分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。という事は、御号とは、即ち当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿であると言ってもいい、という事になろう。御号を口にする事は、誰にとっても、日についての、己れの具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。

(四十一)

 

さらに、『本居宣長』中では露わなかたちでは扱われなかった<時間>については、『本居宣長補記Ⅰ』に宣長の「真暦考」を取り上げて、暦法以前の時の認識を考察することを通して、「もののあはれ」という働きそのものを原初の経験として踏まえる物語行為を経て、過去を現在に見出していったという見通しを表現しているのである。

遙かな昔、未だ暦を持たないまま長い時代を生きていた人々の時間感覚を、「来経数けよみ」という「わざ」として、次のように記すところが注意される。

 

親の忌日が、暦に書かれているわけもないのだから、秋が訪れるごとに、其人ソノヒトのうせにしは、此樹の黄葉のちりそめし日ぞかし」と、年毎に、自分でその日を定めねばならない。創り出さねばならないと言ってもいいだろう。暦を繰ってすませている人々が、思ってもみない事だが、各人が自分に身近かな、ほんのささやかな対象だけを迎えて、その中に、われを忘れ、全精神を傾け、「その日」を求めた。他の世界は消えた。そのような勝手な為体ていたらくで、何一つ違わず、うまく行っていた。何故かと問われれば、「真暦」が行われていたからだ、と答えるより答えようが宣長にはなかった。

(「補記Ⅰ」三)

 

遥かな時間を遡って、祖先たちが語ることを得た神の「御号」も、暦のない時代の「来経数」も、言語行為の原初的機能である物語行為の遂行によって初めてそれと認められるということならば、その物語行為の文体はどのような特質を帯びていなければならないか。しかし、現代に生きる我々が親しんでいる物語とは、暦法に習熟し、生活の基盤として疑いようのない時間という制度に、ほとんど洗脳されてしまった後の作成物であり、これを我々は毛ほども疑うことがないということに、改めて驚いてみることが必須なのだ。昔話、伝説、説話として、いつのまにか我々の生活を導いてきたはずの物語も、出来事に日付が入るのが当たり前になり、過去から未来へのベクトルを本質として、単一方向の一次元連続体として流れ始めて既に久しいのである。

本稿では、物語がそうなる以前の姿に想いを致してみたい。

 

2 「芸術新潮」の創刊

 

1950(昭25)年1月に「芸術新潮」が創刊された。創刊の経緯について等の説明は創刊号には見あたらないが、この雑誌の構成から見た編集方針は、終戦直後から小林秀雄が創刊準備に奔走し、1946(昭21)12月に刊行が実現した「創元」に基づいているのではないかと、池田雅延氏から教示を得たことがある。当時にあっては他に類を見ない芸術文化の総合雑誌であり、豊富な写真やカラー図版などを駆使しつつ、評論や随筆、小説作品も掲載されるものであった。その後、この雑誌は「新潮」とともに小林秀雄の作品が次々に発表される場として展開していくことになる。1月創刊号には「秋」、2月号は「蘇我馬子の墓」、3月号に「雪舟」、そして4月号では青山二郎との対談「『形』を見る眼」と矢継ぎ早に発表している。また周知のように翌年から「ゴッホの手紙」の連載開始や、1956(昭31)年からは「近代絵画」の連載を「新潮」から引き継ぐなど、重要な作品発表が続いていくことになる。

さて、そこで肝心なのは、この年に書かれた作品の内容である。もちろん、詩や音楽といった西欧文化に関する文章も少なくないが、1年間を通して見ると、日本古典、古代文化に関する批評文が圧倒的に増加し、おそらくこの年に、古典や伝統といった言葉の意味合いを自らにおいて確立したのではないかと思われるくらいの充実した内容を持っている。それほど、古典への思考の密度が高められた表現が横溢しているのである。「芸術新潮」創刊号に掲載された「秋」は20年ぶりに訪れた奈良、二月堂の風景から書き起こされ、奔流のように湧き上がる「時間」と「歴史」の想念に自問自答を反復する思考を描き出し、2月号の「蘇我馬子の墓」では飛鳥の「石舞台」古墳に触発された思いを「日本書紀」の記述を丹念に追跡することで、武内宿禰、蘇我馬子、そして聖徳太子の人としての形を浮き彫りにすると同時に、古典や伝統について独自の思考を紡ぎ出していく。

 

 

伝統という言葉は、習慣という言葉よりも、遥かに古典という言葉に近いと私は考えたい。そして古典とは、この言葉の歴史からみても、反歴史的概念である。

 

といった激しい言葉が現れる。つまり、古典と過去、或いは古典と昔という隣り合う概念は親和性を有してはいないと言うのだ。しかし、それはどういうことなのか。古典とは「反歴史的概念」なのだというこの思考には容易ならぬものがあり、ここから多くの問いを経た後の遥か彼方、最終到達点として、『本居宣長』という作品が私に突きつける<時間論>が現れて来るように思うのである。

さて、やや飛躍し過ぎた話を元に戻せば、要は1950年の年頭から継続された古典領域への記述において、幾つかの山、思考の頂点が窺われるということ。そして、その中でもこの年の終わり近くに書かれた「偶像崇拝」(「新潮」11月)に注目したいのである。そこに古典と伝統という概念の直かな手触りを感じさせるような言葉が、折口信夫の著作をめぐって発せられているからである。また、その背景として、小林秀雄は折口信夫との交流を、この年の2月「古典をめぐりて」(「本流」第1号・国学院大学刊)と11月「燈下清談」(「図書新聞」)と2回の対談において行っていることも特筆に値しよう。

 

3 古物語ふるものがたりの覚醒

 

折口信夫の『死者の書』は1939(昭14)年1月から3月、「日本評論」に連載された小説である。単行書となって出版されたのは4年後の1943(昭18年)であったが、おそらく小林秀雄は初出稿を読んでいたと思われる(注1)。しかし、批評文としての明確な言及は、1950(昭25)年 11月の「新潮」誌上に発表された「偶像崇拝」の文中に現れる。

それは、この年の夏、高野山で開催された「夏期大学の用事で出向いた」際の経験で、同年9月の「高野山にて」(「夕刊新大阪」)にも簡潔に触れているところである。そこでの用事の合間には、霊宝館に掲げられていた「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を「毎日飽かずながめた」とあり、この「来迎図」の成立に関わる考察を、折口信夫の著作を通して描き出しているところが「偶像崇拝」の文中に現れる。仏教美術が、仏教のドグマを表現することと、芸術表現の自律性を志向することとのせめぎ合いの中で、その芸術としての自由を行使している有り様について記し、「「来迎図」の画因は、「観無量寿経」のドグマを超えている、このことを明言した最初の人は折口信夫氏である」として、所謂「山越し弥陀」形式の「来迎図」の「画因」を解く折口の表現の特殊性を次のように記している。

 

折口氏の様な仕事は、先ず絵に関する深い審美的経験による直覚があり、それに豊かな歴史的教養が絡んで、これを塩梅するという風な姿をとる。つまり、詩人によって見抜かれたものは、当然詩人の表現を必要とするという事になる。従って、折口氏の「来迎図」の画因という微妙な観念を掴むのには、氏の中将姫を題材とした「死者の書」という物語、或はその解説の為に書かれた小論、解説と言っても、詩人の表現に満ちているのだが、「山越し阿弥陀像の画因」(「八雲」第三しゅう)を読むより他にないのであるが……

 

高野山に赴いて久しぶりに見た「阿弥陀二十五菩薩来迎図」について、「高野山にて」の小文では折口作品に触れてはいないが、「偶像崇拝」では眼前の「来迎図」を巡る想念の中で、「死者の書」と「山越し阿弥陀像の画因」が重なり合い、彼岸の中日、まさに没しようとする夕日を背景にして、二上山の山頂から鞍部の谷筋に沿って静々と降りてくる阿弥陀仏の幻像が彷彿として来たのかもしれない。「偶像崇拝」の文章は、折口の論じた「日祀り」や「山ごもり」、「野遊び」の民俗を紹介しつつ、「死者の書」の核心部を描いていく。

 

藤原南家のいらつが、彼岸中日の夕、二上山の日没に、仏の幻を見たのは、渡来した新知識に酔ったその精神なのだが、さまよい出たのは、昔乍らの日まつ祀りの女の身体であった。女心の裡に男心の伝説が生きていないわけがない。「当麻たぎま」の化尼けにめいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる。招いているのは二上山にいる大津皇子の霊である。或は、天若日子あめわかひこの霊かも知れぬ。恵心僧都は、当麻の地はずれで生まれ、学成って、比叡横川よかわの大智識となった。「往生要集」の名は唐まで聞えた。彼が新知識の山頂で、阿弥陀の来迎を感得した時、それは、彼の幼い日に毎日眺めた二上山の落日に溶け込んだのである。折口氏は、そういう素直な感動をそのまま動機として取上げ、大胆に「山越し阿弥陀」を描いた処に、彼の巨大性があったとする。自ら釈迢空しやくちようくうと名告るこの優れた詩人は言う、「今日も尚、高田の町から西に向って、当麻たいまの村へ行くとすれば、日没の頃を選ぶがよい。日は両峰の間ににわかに沈むが如くして、又更に浮きあがって来るのを見るであろう」。

 

これは簡潔にして要を得た絶妙な批評であり、難解で知られる小説作品の主題を浮き彫りにしたに留まらず、その表現の奥に蠢く折口信夫の古代への想像力の鮮烈なイメージを素描した文章とも言えよう。もちろん折口の作品、論考を徹底的に読み込まなければ書き込めないものであるが、そのあたりの状況は、先に記した2回の対談を通して想像することは容易である。

「死者の書」は恵美押勝の権勢が漸く著しくなる世にあって、大伴の氏上として生きる家持の複雑な心理が事細かく描かれている。やがて来る藤原氏中心の律令国家の新制度に抗して、「大伴氏のふるい習しを守って、どこまでも、宮廷守護の為の武道の伝襲に、努める外にない」という覚悟を秘めつつ、眼前のそこここに現れた新時代の新制度や生活様式に疑念を禁じ得ないという家持の視点を横に配置して、「中将姫」伝説、藤原南家の郎女の失踪事件を物語るという構成である。

 

の人の眠りは、しずかに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した、した、した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。

 

という冒頭部で、作中の滋賀津彦(大津皇子)が、刑死後に葬られた二上山の頂の塚の中で覚醒していく様子と、徐々に古い記憶が蘇り、愛した女性、耳面刀自みみものとじ(不比等の娘)への恋情が執心となって顕れて来る様子、そして、藤原南家の郎女が邸から失踪し、二上山の麓の万法蔵院(当麻寺)へ潜んでいる姿、「南家の郎女の神隠し」が物語られていく。そして女人結界の禁を犯して侵入した郎女が幽閉された部屋に、ひっそりと佇んでいたのが「当麻たぎまの語部のうば」であった。

 

郎女さま

緘黙しじまを破って、却てもの寂しい、乾声からごえが響いた。

郎女は御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生まれなさらぬ前 の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。

一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋り出した。姫は、この姥の顔に見知りのある気がしたわけ訣を、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじようなおむな媼が、出入りして居た。郎女たちの居の女部屋にも、何時もずかずか這入って来て、憚りなく古物語りを語った。あの中臣の志斐媼しいのおむな―。あれと、おなじ表情をして居る。其も、尤もであった。志斐老女が、藤氏の語部の一人であるように、此も亦、この当麻の村の旧族、当麻たぎまの真人まひとの「氏の語部」、亡び残りの一人であったのである。

 

「偶像崇拝」において小林秀雄が次のように要約していたのは、この姥の語りのことである。

 

当麻たぎまの」の化尼けにめいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる。招いているのは二上山にいる大津皇子の霊である。或は、天若日子あめわかひこの霊かも知れぬ。

 

藤原の家のかつてのあり方、中臣と二つに分かれた所以、そして「代々の日の御子さま」に仕えてきた「中臣の家の神業」について、「遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ」と「当麻真人の、氏の物語り」を語り続けていく当麻の語部の姥の表情は次第に、藤原南家の志斐の姥が「本式に物語りをする時の表情」に近づいていく。それを郎女が見ていると「今、当麻の語部の姥は、かみがかりに入るらしく、わなわな震いはじめて居るのである」という特殊な心身の状態、一人の語部の人格が綻び、語りの言葉そのものが自らを紡ぎ出していく境位へ入っていく姿が描かれる。すなわち、自らの意思を喪失した語部の口から出て来る言葉はリズムを帯びた歌謡となって表現されていくが、その表現主体はもはや姥という存在ではなく、代々受けついできた神業としての語りという行為そのものであり、二上山の塚に眠る滋賀津彦の霊が耳面刀自としての「藤原処女」を求めているその声となって顕れるのである。歌い終えてぐったりした姥は、さらに滋賀津彦の霊が目覚め、藤原の血筋の郎女をこの二上山の麓へ招き寄せたと物語っていくのである。

語部の語る古物語を疑うことなど教えられずに育てられた郎女は、「詞の端々までも、真実を感じて聴いて居る」が、世はもはや氏の語部の神の業など顧みない時代になっていた。

 

4 古物語の終焉

 

折口信夫が「死者の書」において描いたものは、古代における<近代>の始まりであって、漢才からざえと言われた学識の源であり、次々に渡来して新奇を競う中国由来の文物が知識人の学問を席巻した時代である。

大伴家持は自らの古い家筋の伝えをまだまだ守っていこうとする人物だが、やはり漢土もろこしの才に抗えない魅力を感じることを恵美押勝へ素直に告げる。愛読した宋玉そうぎよく王褒おうほうの詩を離れて「近頃は、方を換えて、張文成を拾い読みすることにしました」と言うと、押勝も肯いつつ、こう答える印象的な場面がある。

 

(押勝)おれなどは、張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気の尽きてしもうた心持ちがする。―じゃが全く、文成はええのう。あの仁に会うて来た者の話では、猪肥いのこごえのした、唯の漢土もろこしびとじゃったげなが、心はまるで、やまとのものと、一つと思うが、お身なら、諾うてくれるだろうの。

(家持)文成に限ることではおざらぬが、あちらの物は、読んで居て、知らぬ事ばかり教えられるようで、時々ふっと思い返すと、こんな思わざった考えを、いつの間にか、持っている―そんな空恐ろしい気さえすることが、ありますて。お身さまにも、そんな経験おぼえは、おありでがな。

(押勝)大ありおおあり。毎日毎日、其よ。しまいに、どうなるのじゃ。こんなに智慧づいては、と思われてならぬことが―。

 

張文成とは万葉歌人たちに愛読された『遊仙窟ゆうせんくつ』の作者であり、中国の恋愛伝奇小説として文字通り一世を風靡した物語であった。男性主人公が仙界へ闖入し、そこで出会った二人の仙女に歓待されて恋愛三昧に耽っていくという世界は、押勝、家持等の理想世界でもあったというわけである。しかし、それよりも、中国渡来の文物に憧れ、これにすっかり馴染んできた者が、ふと気づく我が身の変貌に、古来の大伴氏、その氏上家の矜恃を胸底に潜めていた家持の、進取と保守に切り裂かれた精神が垣間見られることが重要である。これを宣長風に言うなら、自然と、知らず知らずのうちに身についてしまったからごころの強さに気づき愕然とする、というところであろうか。その後、二人の会話は藤原南家の郎女が失踪した事件に触れていくが、郎女の早熟さ、漢才の博識を指摘しつつも、藤原の氏姫、いつきひめとしての神の業に就く資質が、生まれついてからあったことを押勝はそれとなくほのめかす。郎女の今後を案じる家持に対して「気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は―もう、人間の手へは戻らぬかも知れんぞ」と独り言を続けるのみになる。しかし、その頃、当麻寺に籠もっている郎女の寝所には、夜な夜な密かに近付いてくる足音が聞こえるようになっている。そして、夢とうつつの境に浮かんで見えたのは「黄金の髪」の中から「匂い出た荘厳な顔」、「閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る」。これが、郎女の幻像として顕れた阿弥陀来迎の図柄となるが、その裏側には、二上山の塚の玄室で覚醒した滋賀津彦の霊が耳面刀自を求めて彷徨い出てきたという、昔ながらの光景が広がっている。ここでも、斎姫の資質を有する郎女の感応力が鋭敏に応じたという古代さながらの生き方と、それへ上書きされていった漢才、つまり<近代>の二重写しが描写されていくのである。

失踪した郎女が当麻寺に止め置かれていることを知った藤原南家は、姫の奪還と守護のために寺内で近侍することになるが、既に新制度下に暮らし始めた仕え人たちにあっては「郎女の魂があくがれ出」てしまったとしか思いつかない。それでもさすがに事の異常さを感じて、「魂ごいの為に、山尋ねの呪術をしてみたらどうだろう」と昔ながらの対処法を唱える者も出て来るが、即座に否定される。

 

乳母は一口に言い消した。姫様、当麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計わずに、私にした当麻真人の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。当麻語部とか謂った蠱物まじもの使いのような婆が、出しゃばっての差配が、こんな事を惹き起こしたのだ。……あらぬ者の魂を呼び出して、郎女様におつけ申しあげたに違いない。もう、軽はずみな呪術は思いとまるとしよう。

 

もはや新社会に拡がった<近代>の思考にあっては、氏の家の昔語り、神代からの言い伝えを、氏上の祭の際に物語って聴かせるという特権的な地位を与えられ、祖先の栄光を再現前させるような力を持った語部の働きは、「蠱物使い」、「蠱物姥の古語り」などと蔑まれ、かつての権威は地に落ちているのであった。

「死者の書」の最後は、うち捨てられた古代そのものが、国の中心から、そして氏の上の家からも追いやられてしまう有様、当麻語部の姥の流浪を予見させるように終わっていく。

 

もう、世の人の心は賢しくなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、信をうちこんで聴く者のある筈はなかった。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言う者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だったなど言う話が、どの村でも、笑い咄のように言われるような世の中になって居た。当麻語部の媼なども、都の上﨟じようろうの、もの疑いせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、たちまち違った氏の語部なるが故に、追い退けられたのであった。

そう言う聴きてを見あてた刹那に、持った執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又廬堂に近い木立の陰でも、或は其処を見おろす山の上からでも、郎女に向かってする、ひとり語りは続けられていた。……秋深くなるにつれて、衰えの、目立って来た姥は、知る限りの物語りを、喋りつづけて死のう、と言う腹を決めた。そうして、郎女の耳に近い処をともとめて、さまよい歩くようになった。

 

当麻語部の姥のように、氏族の伝統と誇りを堅持してきた語部たちが、うち捨てられ、それぞれが語っていた神代からの物語に誰も耳を傾けなくなった時代を「死者の書」は悲哀をこめて描いていた。そして物語が神から離れてしまった時に、古物語は終焉を迎えたのである。

 

5 古物語の残照

 

折口信夫はここで日本文学史における芸能及び芸能民の成立過程を論じていることになるのだが、その歴史的展開については、本稿とは別の話になる。それよりも先述した小林秀雄が把握した古物語の機能について、もう一度振り返ってみよう。

 

当麻たぎま」の化尼けにめいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる

 

郎女が当麻の語部の姥から聴かされる「天若日子」の物語は、聴き入っている郎女にとって、「生まれぬ先から知っていた事」としてその心身を領していくのであって、いわば氏族の淵源を語る神話の内部にもう一度生きること、先祖とともに生きることを強要されていくことなのだ。しかし、その前提として、「もの疑いせぬ清い心」、「詞の端々までも、真実を感じて聴いて居る」という聴き手としての資質が重要なことになる。

こうした昔物語の聴き手の有りかたは、もちろん、書かれた物語の読み手となっても同様に引き継がれていったはずで、それは『本居宣長』の第十三回を想い起こせば足りることである。『源氏物語』の「蛍」の巻の物語論について書かれたところを再読しよう。長雨の徒然に絵物語に読み耽る玉鬘の君と、物語論にかこつけて彼女を口説き落とそうと迫る光源氏との間に交わされる会話である。そこで、源氏は「空言」ばかりの物語に女は「あざむかれ」ているばかりだとからかうが、物語に夢中になっている玉鬘は「たゞ、いと、まことのこととこそ、思ひ給へられけれ」と反論する。

 

玉鬘の源氏に対する抗議だが、当然、玉鬘の物語への無邪気な信頼を、式部は容認している筈である。認めなければ、物語への入口が無くなるだろう。「まこと」か「そらごと」かと問う分別から物語に近附く道はあるまい。先ず必要なものは、分別ある心ではなく、素直な心である。

 

すなわち、物語が開く道へ自ら歩んでいこうとする者は、耳に入ってくる語りに一心に聴い入るか、眼前の文章の流れに身を寄せて読み耽るかの差異はあっても、いつの世にも存在しているということであり、さらに言えば、人間の心身の生きている仕組みそのものと、一見したところ幾つもの対象としてあるような物語という言葉の総体が、実は二つのものではないということを暗示してはいないか。つまり、語り、聴き、書き、読むという基本的な言語行為は、いくつかの単語を言語記号としてやりとりしているのではなく、単語一つの発声と聴取の過程においても、言外の物語行為というフレームが起動し、コミュニケーションの全体を覆っているのであって、発話を理解するとは、この物語システムの中にいるからこそなのではなかろうか。

さて、話を戻して、「死者の書」における物語論の可能性を抽出してみよう。古物語の語り手の「神懸かり」にまで至る極度の集中力と、その聴き手の「魂があくがれ出」るまでの感応力、その相互作用の力が臨界に到達するとき、「生まれぬ先き」の時空において、神話の姿が幻像となって顕現する。そうしたことが郎女の精神構造を組み直し、二上山から降りて来る不可思議な力を素直に迎え入れた時、しかし、それまで育まれた「漢才」の言葉によってその力は、「なも阿弥陀ほとけ。あなとうと、阿弥陀ほとけ」(「死者の書」十七回)と自然に象られて現れたのである。昔物語の語りによって昔の人々の心理や行為の時空へと我が身は誘われていくが、そこで把握された「生まれぬ先」の経験は、今の、<近代>の言葉によって認識される他にない。したがって、「死者の書」、死んだ者たちの書物とは、先祖たちの古物語という口承文化に上書きされた<近代の小説>なのである。

しかし、次々に生み出される新しい物語たちも、それを構成する言葉は大きく変化していったとしても、連綿と続く日本語という言語構造に他ならないなら、その表現の深層に潜む言霊の方は生き続けているはずである。遙か昔に終焉を迎えた古物語の語り、神懸かった語部の身体を仲介者とすることによってのみ発動された物語の神の力は、物語に入り込もうとする集中力、物語が本来持っている読む者への誘惑を、遮り、妨げることさえしなければ、いつでも復活、覚醒する可能性を秘めているのではあるまいか。

当麻の語部の姥の昔語り、昔物語が郎女の未生以前の宿命を語ることによって、神々の時間と空間の拡がりの遙か彼方へと、聴く者の想像力を飛翔させるが、その時空とは物語行為のただ中にあって初めて顕現するのであって、その時と場所とはいつでも同じ一つの成り立ちにおいて留まっているのである。したがって、昔物語を語る行為はいつでも同じ言葉を反復しているのがその本来的なあり方であり、その意味では、物語行為の緩慢な動きそのものには直線的なベクトル、我々が通念として抱いている時系列上に出来事が並びつつ、始まりから終わりまでを区切るような直線上のある線分を表現したのもではなかったのだ。

もはや誰も聴く耳を持たなくなったその時代、「聞く人のない森の中」で「つぶつぶと物言う」語部の生き残りと同じように、当麻氏の語部の最後の生き残りの姥が我が身に伝承されてきた古物語のすべてを郎女の耳へ聴かせようと「ひとり語り」を続けていたという。その「つぶつぶ」と果てしなく続けられる語りの詞章は、同じ時、同じ場所を示しつつ、くるり、くるりと旋回しているはずなのである。

(つづく)

 

注(1)本誌2017年12月号の拙稿「小林秀雄 その古典との出会い」において、1939(昭14)年春から堀辰雄が鎌倉小町へ転居した際、堀から折口信夫の業績について話を聞いていたことを記したので、参照されたい。

 

なお、本稿で引用、言及した折口信夫「死者の書」は、角川ソフィア文庫版を使用している。これは注記も豊富で多様な折口の用語についても適切な解説が盛り込まれており、現在もっとも読みやすい版である。ただし、この文庫版の以前には、中公文庫の中に「死者の書」は収められていたが、これには「山越しの阿弥陀像の画因」も収録されているので合わせて読みたいところである。

 

『本居宣長』の<時間論>へ Ⅳ

一 小林秀雄の欧州旅行

 

この3月3日を以て新潮講座の神楽坂教室が終了した。4月からのオンライン開催の案内を受けてはいるが、新宿センタービルでの講座出発から大学院のゼミ生共々参加してきた身にとっては寂しい限りである。この間、ゼミ生の顔ぶれも次々に変わり、講座に参加する人々にも変化があったことは言うまでもない。しかし、その時々に印象深い出会いがあったことは大きな喜びであり、講師・池田雅延さんを囲んで語り合い、盃を交わし合った人々の面影が今も眼に浮かぶ。

この最終回を聴講した後、いつものように帰途を共にしていた柏木成豪さんから「小林秀雄のソ連・欧州旅行の行程の詳細を調べてまとめてみたので」と資料を頂戴した。小林秀雄に関する精力的な調査をされている柏木さんからは様々な恩恵を受けているが、欧州旅行の記録とは意外なところに注目されたと思っていると、「小林秀雄の従弟の西村貞二と一緒に行っている」と言う。なるほどそうだったなと思い起こしつつ、小田急線の途中駅で別れた後、その資料に眼を通していると次のような言葉が記されているのに気づき、ハッとした。小林が西村貞二に語った言葉の要約であった。

 

尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥のみ、会心作はモオツアルトと私の人生観くらいか?

 

帰宅してから、そうか西村貞二かと思い当たって書棚を探すと西村貞二の『小林秀雄とともに』(1994(平6)年2月 求龍堂)が見つかった。まるで忘れていた本であった。西村貞二はその兄・西村孝次とともに小林秀雄の従弟にあたる。貞二は東北大学教授で西洋近世史研究者、 孝次は明治大学教授でワイルド、ローレンス研究で知られた英文学者であり、『わが従兄・小林秀雄』(1995(平7)年7月 筑摩書房)の著書もある。

さて、久しぶりに手に取った『小林秀雄とともに』を繙いてみると、その第1章が「小林秀雄とともに―ドイツ・オーストリア・イタリアの旅」(初出は「新潮」1992(平4)年5月)であり、これが本書の中心をなす文章である。つまり、西村貞二が小林秀雄とともにヨーロッパの国々を旅した記録が主軸となっているわけだが、まずはこの旅に関わる事情を確認しよう。

小林秀雄年譜によれば、1963(昭和38)年6月末、「ソ連作家同盟の招きにより、安岡章太郎、佐々木基一とソビエト旅行に出発、二十六日出帆」とある。そして、このソビエト訪問の後、引き続き「西ドイツ政府からドイツ旅行を招待された」と貞二が記している。こうした経緯で同年10月14日の帰国まで、ほぼ3ヶ月間に渡るソビエト・ヨーロッパ旅行が果たされたのだった。また、この旅の所産として、「見物人」(1963(昭38)年11月)、「ネヴァ河」(同)、「バイロイトにて」(1964(昭39)年1月)、「ソヴェトの旅」(同2月)が発表されているが、それらの文章にソビエト以降、ドイツ、オーストリア、イタリアの行程に付き添っていた同伴者の記述は見られない。わずかに「見物人」の中に「従弟」の一語が見出せるのみである。そのドイツ以降の旅における小林秀雄の様子を知る手がかりとして従弟・西村貞二の記した文章は貴重なのである。

 

このドイツ旅行に関しては、『見物人』と『バイロイトにて』という短いエッセーがあるほかは、当人の口から何事も語られていない。たまたま私はドイツ旅行に同行することとなり、克明にメモをとった。かれの言動をジロジロ観察するような下心はなく、かれが常々いう「無私の精神」で日々の行程を記録したのである。

 

『小林秀雄とともに』の「はじめに」にはこう記され、「旅人小林秀雄のなまの姿を伝えたいと念願するだけ」と「克明なメモ」を取った時から、ほぼ30年の月日を閲した後に「小林秀雄とともに」を書き起した動機が明らかにされている。

ところで、この西村貞二の記録文を読み返し、その時期について確かめてみると、1963年6月末からのこの長い旅は、小林秀雄の著作を精読している者にとっては、ある特別な意味合いを帯びていることに改めて気づくのである。それについてもう少し記しておきたい。あるいはこのことがなければ、私がハッとした驚きの所以に辿りつけないかもしれないからだ。それは先に引用した小林秀雄年譜のソビエトへ向けて出発したという記事の続きを見れば一目瞭然なのである。

 

……二十六日出帆。「新潮」に連載中のベルグソン論「感想」は六月号(第五十六回)で未完のまま打切られた。

 

第5次全集において初めて収録された「感想」が著者小林秀雄の強い意向で刊行されなかったという異例な作品であることは夙に知られている。そして、その内容が「私は、学生時代から、ベルグソンを愛読して来た」と告白めいた言葉を示して開始されたベルグソン論であり、1958(昭33)年の「新潮」5月号から1963(昭38)年6月号まで56回の掲載(この間の休載は5回を数えるのみ)という長大な作品であったことから、小林秀雄研究者の間でも注目を集めるものであったことも周知の事実であろう。その「感想」を打ち切ったこととソビエト・ヨーロッパ旅行との関わりはどうなのか。帰国後に「感想」を再開する意思はあったのか。そうした事情について小林自身は何も書き残していない。「刊行してくれるな、今後の全集にも入れるな」と強く念押しされたと最後の担当編集者であった池田雅延さんから教えられたことはあったが、それは何故なのか不明なままである。しかし、この旅へ出発したソビエト訪問の際に同行していた安岡章太郎の言葉が、第3次全集の月報第3号(第5巻付録 昭和42年8月)にこう見えるのである。

 

しかしドストエフスキイをふくめて、旅行中の小林さんの口からは、文学の話はほとんど出なかった。一度だけ、「感想」という題で雑誌に連載され、中途でやめられたベルグソンの話が出たとき、小林さんは「ああ、あれは失敗だよ。この年になっても、まだあんなカン違いをするのだから、イヤになるよ」と、寝台車のなかで枕を抱えこみながら言われたことがあるきりだ。

 

「あんなカン違い」が何を意味するのか、たとえば、ベルグソンの『持続と同時性』に端を発したアインシュタインとの時間論争へ分け入っていく第50回以降の展開に関わるのかどうか。おそらくはこのあたりを示唆する小林秀雄の言葉が連載中断の2年後、1965(昭40)年8月に行われた数学者の岡潔との対談に見られる。

 

岡 ベルグソンの本はお書きになりましたか。

小林 書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません……

 

おそらく未完の「感想」についての小林秀雄自身の言葉はこのあたりがよく知られていると思われるが、この岡との対談「人間の建設」(1965(昭40)年「新潮」10月号)は、同年の「新潮」6月号から連載開始した「本居宣長」の 第4回(9月号)発表直後(発売日8月上旬として、京都での対談は8月16日)になされたものであった。「本居宣長」の連載開始は「感想」中断のちょうど2年後にあたり、ベルグソンから本居宣長へと思考の対象をすっかり変えて、いよいよ深みへ進んで行こうという時期であったはずである。このことは、同年11月27日に国学院大学にて行われた小林秀雄の講演「雑感」(新潮CD第8巻『宣長の学問』)を聴いてみると、その1年後の連載第10回前後までの内容がこの時の講演に盛り込まれていることが分かり、この講演時には今後の見通しのかなり具体的なところまでが成り立っていたと考えられる。つまり、1965年、63歳になっていた小林秀雄はライフワークとすべき著述へと精神集中していたはずなのである。しかし、「人間の建設」ではその対談全体の三分の一ほどの分量がアインシュタインとベルグソンの話題になっているのであって、対談の相手が数学者であるだけに「感想」で書こうとしたところを改めて確かめているような口調とも受け取れるところもある。すなわち、「感想」で書き切れなかったことについては「本居宣長」連載時にも胸中にわだかまっているところがあったと推測されるのである。

さて、この問題は、「感想」から「本居宣長」への思考の移行と接続という方向へ導かれていくのだが、まず本稿で押さえておきたいのは、おそらくこうしたベルグソン論への想いを心の奥に潜ませながらのソビエト・ヨーロッパ旅行であっただろうということ。そうした小林秀雄の心底に抑圧され、深く沈殿していた想念のありように身を置いてみるとき、西村貞二の書き残した「克明なメモ」がある意味で具体的な形となって浮かび上がって来るように思うのだ。

本稿は、私が本誌にこれまで書き綴ってきた『本居宣長』の<時間論>への考察をより深めていこうと企図するものだが、ふとしたことから再読を迫られた西村貞二の記述の中に、看過することの出来ない言葉、小林秀雄の発言を見出したため、その言葉に誘われるままこれまでの思考を振り返ってみることとなった。そして、私の問題提起の新たな構え、より明瞭な組み直しを可能にする予感に導かれるまま、回り道かもしれないが、考察を試みてみたい。

 

二 旅行中の会話から

 

ソビエト旅行を終えた小林は、7月20日にパリ着、白洲春正夫妻と白洲兼正と4名で28日パリ発、途中1泊し、コルマール経由で29日、西村貞二が滞在していたフライブルクへ到着した。この行程はパリから春正運転の自動車だったようである。 8月30日までが西ドイツ政府の招待旅行であった。ここからミュンヘン経由でザルツブルクへ、ウィーンフィルハーモニーで「魔笛」など聴き、そして、8月5日のウィーンでの夕食時の会話に「ベルグソン論」が出現する。西村貞二の記すところを見ていこう。

 

八時前、加藤(周一)さんに教わった、レストラン「シュタイデル」へ夕食に行く。食通の店なのだそうだ。シェリー酒、ワインに鳥料理で小林はすっかりよっぱらう。「世間じゃあ俺のことを毒舌家といってやがる。冗談じゃねェ、俺はほめてばかりいるんだ。アラ探しすることじゃなくて美点をほめることが、批評の真髄なんだ。ベルクソン論?ああ、五年つづけたよ。が、失敗だった。ベルグソンをはきちがえ、途中で気がついたが、もう手遅れだった。だから二度とやる気はない」

 

また、8月10日、当時の西ベルリン3泊目で動物園見物後の夕食時。

 

夜は最上等のフランスワインを飲む。フロイト、ツヴァイク、ベルグソン、カント論、日本の徂徠、仁斎、藤樹論。私はドイツの哲学、歴史学の総ざらい。あまり多岐にわたったため、とてもメモしきれなかった。

 

そして、ハンブルクを経てヴュルツブルグからローテンブルグのホテル・アダムへ投宿した8月18日の晩餐の際、先述した柳田国男、正宗白鳥への言及が現れるのである。ここは西村貞二も重要視したのか、かなりな分量の小林の言葉を記しているので、その場の様子が窺われるところから引用したい。

 

タウバー河畔に突如としてあらわれたローテンブルクの城門をくぐったとき、わが目を疑った。まるで中世都市に迷いこんだような錯覚にとらわれたから。じっさい、ローテンブルクほど完全に中世都市の姿を再現した町はないそうだ。現代の都会生活の喧噪から逃れるためか、中世という時代に郷愁を感じるためか、ともあれ見物客が多い。城壁、ヤコブ教会、市役所、マルクト広場などを見てまわるうちに雨となった。ホテル「アダム」に入る。ミシュランに載っていない三流どころのホテルだが、古びて気分がいい。小林はすっかり気に入り、一本五十マルクのモーゼルワインを二本、二人で(尤も三分の二はかれ)あけ、メートルが上がった。それからというものは、ベルグソン、徂徠からはじまって現代作家に及ぶ。当たるを幸いなぎ倒す。私も酩酊してメモがとり切れないが、ざっとこんな調子。

「谷崎には美がわからんのだよ。志賀直哉は青年の文学でというものがない。人を征服する。滝井孝作なんかその例だ。だから俺は三十五歳のときに志賀直哉から離れたんだ。室生犀星も若い。老年になってから芸が細かくなっただけサ。ただ宇野浩二は、もう十年も経ったら見直されるよ。俺が尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥しかいない。会心の文章? やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツアルト』ぐらいかなァ。玄人からみると、文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい。読み返す気を起こさせるからネ。お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ。何しろ君なんか単純な考えだからナ。」……(略)……。

十一時にやっとみこしを上げる。一泊十マルクの安宿で百マルクの酒をくらったのは近来の痛快事である。払わされる西ドイツ政府こそいい面の皮だ。かまうものか。相手はヨーロッパ一の金満家なのだから。

 

私は、この小林秀雄の話の中に論点を見出し、思考を展開したいのだが、この旅の終わり近くにもう一箇所引用しておくべきところがあるので、そちらをまず見ておきたい。

8月29日、フランクフルトの「ザヴィニー・ホテル」での夕食時。

 

八時から下の食堂で夕食をとる。これまで何べんも歴史論をやった。が、今宵ほど激論したことはない。虫の居所でも悪かったのか、徂徠や宣長を引き合いに出して、いやに挑戦的である。宣長はえらい人だとは思うが、はっきり言って私の性に合わない。しかしうっかり宣長私観でも述べようものなら、忽ちコテンコテンにやっつけられるのはわかり切っているので、もっぱらヨーロッパの歴史学や歴史家を楯にとって応戦する。ところが行き詰まると「君はまだ歴史がわかっちゃいないねェ、もっと考えなきゃあ」とくる。

 

以上が西村貞二の「克明なメモ」に基づいた「小林秀雄とともに――ドイツ・オーストリア・イタリアの旅」に見られる小林秀雄の言葉から、私が気になるところを引き抜いた箇所である。そこで再び、ナホトカへ向かう船に乗る前の時間へ戻り、「感想」第56回を書き終えるまでの小林秀雄の述作について、この会話の中に現れた固有名詞、言及された人々を扱った文章を挙げてみよう。

まず言えることは、ベルグソン論としての「感想」を連載し始めた1958(昭33)年の翌1959(昭34)年には、「好き嫌い」(5月)、「良心」(11月)が発表されており、1960(昭35)年、「言葉」(2月)、「本居宣長―「物のあはれ」の説について」(7月)、1961(昭36)年、「学問」(6月)、「徂徠」(8月)、「辯名」(11月)、1962(昭37)年は、「考へるといふ事」(2月)、「ヒューマニズム」(4月)、「還暦」(8月)、「天といふ言葉」(11月)、1963(昭38)年、「哲学」(1月)、「天命を知るとは」(3月)、「さくら」(4月)、「歴史」(5月)、「物」(7月)に至るまで、先の小林の口から出てきた人々に関する述作が続いているのである。そして、この最後の「物」(「文藝春秋」7月号)の発表の後、ソビエト・ヨーロッパ旅行へ向かっていた。つまり、ここに挙げた作品群には、「日本の徂徠、仁斎、藤樹」と「宣長」について再三言及がなされており、こうした人物たちの思想へ踏み分けて行こうとする試みは、「感想」連載中の5年間において繰り返し書かれていたということなのである。したがって、そうした述作の経験が、西村貞二への数々の言葉となって語られていたということになる。小林秀雄はベルグソン論へ集中しながらも、ほぼ同時に1965(昭40)年6月からの「本居宣長」連載稿に流れ込んでいく数々の言葉と思考を、同時並行的に書き続けていたのである。

これが押さえておきたい1点目のこと、しかし、これは見やすいことなので、次に2点目に考えたいこと、これが本稿の要点となる。

 

三 旋回する文体

 

私が驚いたところをもう一度抜き出してみる。

 

 俺が尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥しかいない。会心の文章? やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツアルト』ぐらいかなァ。玄人からみると、文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい。読み返す気を起こさせるからネ。お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ。

 

まずは補足になるが、本誌の2020年5・6月号(6月)の「小林秀雄と柳田国男」と同年秋号(10月)の「続・小林秀雄と柳田国男」に小林秀雄と柳田国男の接触を時系列に挙げ、両者の交流の実際について考察しておいたが、敗戦直後の柳田邸訪問から1950(昭25)年の折口信夫との対談「古典をめぐりて」、1958(昭33)年「国語という大河」以降の柳田への言及は、1965(昭40)年の大岡昇平との対談「文学の四十年」へ飛んでしまうと記したのであった。しかしながら、この西村貞二による記録を見ると、大岡との対談の2年前にドイツ、ローテンブルグのホテル・アダムでの会話に「柳田国男」の名が現れていたことになる。しかも、「尊敬する」人物として、あの志賀直哉を脇に寄せて、正宗白鳥と2名のみときっぱりと挙げているところをみると、1935(昭10)年の夏、霧ヶ峰ヒュッテでの「山の会」で初めて出会った柳田国男の記憶は、戦後も、そして『本居宣長』刊行に至るまで消え去ることなく、その敬意も失われることなく抱き続けていたことが分かる。しかし、そうであるのに柳田国男への直接な記述、まとまった批評文はほとんどないのだ。ただ、こうした柳田国男への言及が時折ではあるが表現されていて、そこには常に敬愛の情を感じさせる文言を伴うことに、私は非常な驚きを覚えるのである。

では、小林秀雄が柳田国男の学問、その文章においてどういうことを読み、どこに深い敬意を感じていたのか。それは先の稿に記しておいた通りであるから繰り返さないが、たとえば、戦後の時期だけを考えても、もっとも精神を集中していたと思われる「感想」ベルグソン論の5年間、さらに「本居宣長」の完結から刊行までの11年間、それらの時間を通して、小林秀雄の胸中のどこかに柳田国男への想いが底流として一貫し、先の「感想」中断直後の胸中のわだかまりの奥底に秘められていたのではないか。日本近世の思想家たちを次々に書いていった時間の深層には柳田国男への想いが沈潜していたと考えられるように思うのだ。その集約が1976(昭51)年3月の三越三百人劇場での講演「信ずることと知ること」であったことも既に書いたが、この講演冒頭に柳田国男の『故郷七十年』を紹介する際にこう語るところが印象的である。

 

近頃僕は『故郷七十年』っていう本をね、初めて読んだんです。これは柳田さんが、えー、昭和33年に出した、昭和33年、もうそのころ83です、先生は。それで神戸の新聞に、神戸新聞に連載した思い出話なんですね。

 

「もうそのころ83です、先生は」と、思わず「先生」と呼ぶ。これは本講演に1度だけだと思われるが、語りの中でふとそう呼びかける口調と言おうか、その微妙なニュアンスに柳田国男への敬愛の情が漂っているように感じられるのである。

さて、ここまでは西村貞二の記録文の中に「柳田国男」の名を見出した私の驚きについて、その所以を述べてみたに過ぎないが、実を言うと、もっとも驚いたのはその後文なのである。「文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい」と語っていたが、さて、これはいったいどういうことなのか。そして「お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ」と言い添えるところ、実はここもまた、以前の稿に記したことに関連しており、私としてはもう一度そこへ立ち返るよう誘われているのである。

端的に言えば、ああ、そうか、そういうことかというような感触があり、それが『本居宣長』の終結部の不思議な印象へ、その記された言葉によって読者が連れ去られていく特殊な時空とでも言う他にないところへと強く促される。そういう想いを禁じ得ないのである。つまり、2021年春号(4月)の冒頭に記した「1 不思議な読書」とした文章に、『本居宣長』という書物が喚起する強い読後感、というより読中感について記したこと、何遍読んでも「どこに何が書かれていたかどうもハッキリしない」、「何遍読んでも何が書いてあったのか、その記憶の保存が難しい」という経験はあながち間違いではなく、これは『本居宣長』の記述方法の問題ではないかとしておいた。すなわち、「開いているページの垂直方向へ、紙面からその深みへ向かって沈み込むような思考を促していく、そういう文体が創られているのではないか」と推測のみを残しておいた。そして、また同様なことを2021年秋号(10月)の最終部「四 生死の二分法を超えること」に、『本居宣長』最終章の五十回を読み終えようとする時のことを記しておいた。

 

もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

この最終段落が、再び第一回へと読者を誘うことになっており、このことを私は「『本居宣長』という作品がループ状の読書行為を促している」と記した。文字通り、『本居宣長』の文体は、「グルグル始めから終わりまで廻っている」のである。確かにこの時は、西村貞二に向かって、ワイングラスを傾けながらの、かなり酔いが回っていた際の話であって、文壇の大家への忌憚のない批評がその口からあふれ出した語りの中での言葉ではある。しかし、こういう文体の趣について、「学者には、こういう機微はわからんだろうナ」と言い添えるところ、つまり、ここで言う旋回する文体と学者とは対照的な概念であるとも読めるのだ。

 

四 文体と学者

 

もう少し柔らかく表現すると、「グルグル始めから終わりまで廻っている」ような文体を創造する表現者、すなわち作家、文学者と、そうした文体の有り様を想像したこともない学者という対立図式が思い浮かぶ。では、学者が何故そうなのかと言えば、学者は学問上の考察を書き記す文章に、いつでもどこでも正確な理解が期待できる客観的な論理性をこそ求めるものの、文章表現上における文体、いわゆるスタイルなどというものは表現内容とは関わりのない装飾品とみなして一顧だにしないのが普通だからである。

こうした文体のあり方そのものへの注意は、「ベルグソンの最後の作は、次の様な文で終わっていた」と始められた「感想」の第2回にも明確に示されていたことを想い起こそう。『道徳と宗教の二源泉』の最終文について引用してこう書いている。

 

無論、これだけの引用では、彼の言葉のはっきりした意味はつかめない。ただ、今、私が言うのは、翻訳は下手だが、こういう物の言い方の事なのである。と言っても、ベルグソンを愛読した事のない人には、感じは伝え難いのだが、仮に、よくない言葉で言ってみれば、こういう一種予言者めいた、一種身振のある様な物の言い方は、これまでベルグソンの書いたもののうちには、絶えてなかったものなのである。……(略)……扨てもう黙るとしようか、と彼は極く低声に呟いたのだが、小石は一つ落ちて、彼の文体の静かな水面は揺いだ。

 

小林秀雄は「ベルグソンを文学的に読む」という表現を使っているが、それはとりもなおさず「物の言い方」、「文体」に焦点を据えて読み解くということに他ならないだろう。そして、この文学者対学者という対立図式は、『本居宣長』の全体に一貫して投影されていたこと、その構図を背景にして繰り返し説かれていたことは、本居宣長自身による極めて個性的な文体への注意であったことを思い起こしたい。たとえば、その第1回で、宣長の遺言書を引用しつつ次のように記していた。

 

この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。

 

また、同回の終わり近く、宣長没後に刊行された歌集『枕の山』の後記を引用するところにも次のように見える。

 

文の姿は、桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、或は、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示しているからだ。

 

第3回の『本居氏製』として売り出された「六味地黄丸」の「薬の広告文」を提示している箇所を記憶している読者も多いだろうが、そこにも「まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる」と書き添えられていることに注意すべきなのである。また、随所に現れる「古語ふるごとのふり」という宣長の言葉もまた「文体」、「文の姿」を指し示しているのであって、そう名指されるものが言語的実在としてどのような働きを見せるものなのか、ここに『本居宣長』と題された書物の核心が存すると、私は思っている。

それでは、グルグルと旋回を繰り返すような文体と、そこに書かれているものは何かを常に探し求めようとする文章がどういう関係に置かれているのか。その簡潔な指摘というところを『本居宣長』に探してみれば、第40回以降あたりから最終回までにわたって書かれたところを読み直してみるべきだろう。

前稿までに考察して来た柳田国男の作品、特に『先祖の話』が提示する歴史観が、「死という事象の柔らかさ」、あるいは「死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿」への想像力を喚起することを繰り返し記して来たが、それが『本居宣長』最終部に示唆される歴史観とどう重なり、旋回する文体とどう関わることなのか。さらに考察を深めて行かねばなるまい。

今、私の念頭にあることは、柳田国男の著作において提示された生と死が表裏一体となった人生観と歴史観、それを補助線として踏まえて行けば、『本居宣長』の終結部に言及される<時間論>、それは「神々の系譜」ではなく、「絵」としての<時間>であることが見えて来るということである。

 

「神世七代」の伝説を、その語り方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地の初発の時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。(五十)

 

さらに、ここで指摘される「その語り方」というのが、「グルグル始めから終わりまで廻っている」旋回する文体と重なり合う、といった光景なのである。

(つづく)

 

『本居宣長』の<時間論>へ Ⅲ ―生と死の時間

一 おっかさんという蛍

 

1946(昭21)年の5月が終わる頃、小林秀雄は母を失った。

 

母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかったし、話した事はない。尤も、妙な気分が続いてやり切れず、「或る童話的経験」という題を思い附いて、よほど書いてみようと考えた事はある。今は、ただ簡単に事実を記する。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私はもうその考えから逃れる事が出来なかった。

 

このように「妙な経験」の「事実を記」しつつ、「実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである」と書き、その時の状況や心情がこのように順序立てて進行したのではないと言う。

 

その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何もかも当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。

 

当時、「扇ヶ谷の奥」の家から横須賀線の踏切まで歩いていた「私」は、蛍を見失ってから、いつもは決して吠えかかることなどしない「S氏の家」の犬に背後からずっと吠えかかられ、くるぶしを舐められながらも振り返らずに歩き続けていたが、背後から「男の子が二人、何やら大声で喚きながら」走って行った。その子供たちは踏切番に向かって「火の玉が飛んで行った」と言っていた。

 

私は、何んだ、そうだったのか、と思った。私は何の驚きも感じなかった。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基づいていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事後の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直截な経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。と言う事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。

二ヶ月ほどたって、私は、又、忘れ難い経験をした。

 

この経験とは、坂口安吾が「教祖の文学―小林秀雄論―」(昭22・6)で「去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かったという話をきいた。泥酔して一升ビンをぶらさげて酒ビンといっしょに墜落した由で、この話をきいた時は私の方が心細くなったものだ」と書き出していた。いわば、この事故を戯画化しつつ批評家・小林秀雄批判を展開したことで広く知られる評論であるが、事故は1946(昭21)年の8月の半ばに起きたという。これを「忘れ難い経験」と言い表すのは、次のような意味あいがあったからである。

 

或る夜、おそく、水道橋のプラットフォームで、東京行の電車を待っていた。まだ夜更けに出歩く人もない頃で、プラットフォームには私一人であった。私はかなり酔っていた。酒もまだ貴重な頃で、半分呑み残した一升瓶を抱えて、ぶらぶらしていた。と其処までは覚えているが、後は知らない。爆撃で鉄柵のけし飛んだプラットフォームの上で寝込んでしまったらしい。突然、大きな衝撃を受けて、目が覚めたと思ったら、下の空地に墜落していたのである。外壕の側に、駅の材料置場があって、左手にはコンクリートの塊り、右手には鉄材の堆積、その間の石炭殻と雑草とに覆われた一間ほどの隙間に、狙いでもつけた様に、うまく落ちていた。胸を強打したらしく、非常に苦しかったが、我慢して半身を起し、さし込んだ外灯の光で、身体中をていねいに調べてみたが、かすり傷一つなかった。一升瓶は、墜落中握っていて、コンクリートの塊りに触れたらしく、微塵になって、私はその破片をかぶっていた。私は、黒い石炭殻の上で、外灯で光っている硝子を見ていて、母親が助けてくれた事がはっきりした。断って置くが、ここでも、ありのままを語ろうとして、妙な言葉の使い方をしているに過ぎない。私は、その時、母親が助けてくれた、と考えたのでもなければ、そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである。

 

では、この二つの経験をどう処理すべきなのか。しかし「いろいろ反省してみたが、反省は、決して経験の核心には近付かぬ事を確かめただけであった」という無力感に苛まれる自らを表現する他に術がない。この書こうとしても書けない状況について思い悩んだ末、自身がこれまで書き記して来たこと、あるいは、文章を書く行為の意味について言及していく。

 

当時の私はと言えば、確かに自分のものであり、自分に切実だった経験を、事後、どの様にも解釈できず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生ま生ましい姿で、保存して置くことも出来ず、ただ、どうしようもない経験の反響の裡にいた。それは、言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも言っている声の様であった。併し、今も尚、それから逃れているとは思わない。それは、以後、私の書いたもの、少なくとも努力して書いた凡てのものの、私が露わには扱う力のなかった真のテーマと言ってもよい。

 

さて、前稿(2021年夏号掲載)の末尾に引用した蛍にまつわる経験を綴った文章を読みつつ、私にとって、それと二重写しになって浮かび上がった小林秀雄の文章が上の引用文、一つ目の「或る童話的経験」であった。そしてこれは小林秀雄自身の強い意向によって未刊行に終わった「感想」(ベルグソン論「新潮」昭33・5~38・6)の連載第1回の冒頭に掲げられているエピソードであり、もう一つの「忘れ難い経験」とともに母親の死去に関わる自身の不可思議な経験に捉えられ、どうにも逃れることが出来ないことを再確認したという文章である。そして、この経験を合理的に処理することが不可能だと自覚したところから、「感想」と題されたベルグソン論が書き出されているところに注意したい。 すなわち、この特殊な経験の姿を見いだそうとする懸命な言葉が、「おっかさんという蛍」であり、また「母親が助けてくれた事がはっきりした」という表現とならざるを得なかったこと、さらに「何もかも当り前であった」というまったく疑念を差し挟む余地のない経験そのものを指向するものでもあったことである。では、その私から過ぎ去ろうとしない経験、言い換えれば、日付とともに過去へ追いやられ、安定した記憶の倉庫にしまい込まれる出来事、誰が見ても明らかな事実として、交換可能な記録へと整理されることを拒んで止まない経験の機能に寄り添ってみること、かつ、その動きのままを表現することは出来るのであろうか。しかし、それこそが「私が露わに扱う力のなかった真のテーマ」だと言うのである。もちろん他の誰であっても、これを「露わに扱う」ことは出来ないのではないか。

「感想」第1回はこの二つの個人的な経験の姿を素描した後、この「真のテーマ」を引き摺りながら、「私」が先の事故後の療養で「伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した」ことを記している。

 

その間に、ベルグソンの最後の著作「宗教と道徳との二源泉」をゆっくりと読んだ。以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。私は、学生時代から、ベルグソンを愛読して来た。

 

母親が死に、自分から過ぎ去ってしまった事実に、真っ正面から抗うような二つの経験は、「私」においてはまったく終了していない。そのどうにもならない反響の中で、「宗教と道徳との二源泉」(注・書名は「感想」初出のママ)を読んでいくことが「楽想の様に鳴った」という。これはしかし、この五十日間の読書の時間において、この著作がなんらかの解釈装置を与えてくれたのではない。学生時代からの「愛読」の経験が先の「反響」して止まない私の経験に「楽想」、楽曲の構想を与えてくれたと言うのである。多様な音が鳴り響くばかりの耳に、主題や旋律という音楽的感興が示唆されたということ。したがって、「反響」は徐々に整えられていったのである。こうして、五十六回で中断された「感想」は、繰り返し愛読したベルグソンの著作を次々と論じていく体裁を取っていった。その第二回では早くも主題となる問題提起が端的に示されるが、それは「哲学者は詩人たり得るか」という、不思議な問いであった。

 

体験したもの感得したものは、言葉では言い難いものだ。という事は、事物を正直に経験するとは、通常の言葉が、これに衝突して死ぬという意識を持つ事に他ならず、だからこそ、詩人は、一ったん言葉を、生ま生ましい経験のうちに解消し、其処から新たに言葉を発明することを強いられる。ベルグソンが、自ら問うたところは、こういうやり方は、果たして詩人の特権であるか、それとも、詩人の特権と見られるほど深く世人の眼に覆われてしまった当り前な人生の真相なのであるか、という事であった。 彼は先ず「意識の直接与件論」でこの問題を提出した。誤解を恐れずに言うなら、それは、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった。実在は、経験のうちにしか与えられていない。言い代えれば、私達は実在そのものを、直接に切実に経験しているのであって、哲学者の務めも亦、この与えられた唯一の宝を、素直に受容れて、これを手離すまいとするところにある。其処からさまよい出れば、空虚と矛盾とがあるばかりだ。……(略)……彼も亦詩人の様に、先ず充溢する発見があったからこそ、仕事を始める事が出来た。彼にとって考えるとは、既知のものの編成変えでは無論なかったが、目的地に向っての計画的な接近でもなかった。先ず時間というものの正体の発見が、彼を驚かせ、何故こんな発見をする始末になったかを自ら問う事が彼には、一見奇妙に見えて、実は最も正しい考える道と思えたのである。これは根柢に於いて、詩人と共通するやり方である。最初にあったのは感動であって、言葉ではない。ただ、感動は極度に抑制されただけである。

 

母親の死にまつわる二つの抗いがたい経験は、こうした文章の、文体の流れとなって、楽曲の姿を現していくのである。しかし、この「感想」とだけ題されて1958(昭33)年5月から1963(昭38)年6月の5年間にわたって「新潮」誌上に連載された文章は、第五十六回を以て中断し、未完のまま破棄された。その理由については、わずかな発言を踏まえた憶測を出ないし、何故書けなかったのかを追究することにそれほど意味があるとも思えない。それよりも、中断された最後のページ、「新潮」昭和33年5月号第五十六回の219ページを再確認してみよう。

 

存在するもの、生成するものの内的本質が何であるにせよ、私達は、その中にいるのだ。「私達の内部の深みに下りて行って見給え、接触するところが深ければ深いほど、私達を表面へ突返す力も強くなるだろう。哲学的直観とは、この接触であり、哲学とは、この弾み(élan)である」と彼は言う。

これも定義ではない、そのニュアンスを感じなければならない言葉である。哲学的直観とは、或る根源的な観念というような言葉ではなく、意識の直接与件を保持しようとする現実の努力なのだ。意識が、外界に向って身体の動作によって己を現さんとする自然的な傾向に抵抗する努力なのである。実在との接触は認識論の問題ではない。実在の究極的二重性が、内的努力という形で経験されているのだ。誰の経験の中にも在る、この言わば純粋な経験を、通常、言葉によって混濁した経験を診断して救い出すのが大事なのである。

 

そして、次の文章で最終回を終えていた。

 

ベルグソンの仕事は、この経験の一貫性ユニテの直観に基くのであり、彼の世界像の軸はそこにある。「哲学は、ユニテに到着するのではない。ユニテから身を起すのだ」

 

長大な「感想」の記述は文字通り紆余曲折を経てはいるが、最終回となったこのページで、先に見た第一回から説き起こされた主題へ、自らの「妙な」そして「忘れ難い」経験へと戻って行ったのである。すなわち、その切実な経験とは、<母親>が実にかけがえのない実在だったということの確信であり、それとの接触が呼び起こした反動がベルグソンの著作を再読していく過程を通して音楽のように演奏されて来たのであったが、その果てに再びあの経験の「ユニテ」を想い起こすところへ帰らざるを得なかったということになる。

 

二 死を迎え入れる言葉

 

母親の死という絶対的な経験と、そこから、あたかも奔流となって噴き出して来た音響的幻覚を「感想」の文体は迎え入れることが出来たのだろうか。言い換えれば、ベルグソンの著作を再読することは<母親>という実在への言葉、これを象る文章たり得ていたのだろうか。しかし、それを追究することは先述したように、「未完」のままの破棄という筆者自身の覚悟を読み取るに如くはないとして、それよりも、1961(昭35)2月の「文藝春秋」に「言葉」(「本居宣長に、『姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ』という言葉がある」と始まる)が書かれ、同年7月に刊行された『日本文化研究』8号(新潮社)に「本居宣長―『物のあはれ』の説について―」が発表されており、このことを確認しておいた方がいいだろう(1)。そして、この年は「感想」の第二十~三十回の連載時期に相当しており、ベルグソンを論じる上で最も重要な著作である『物質と記憶』を論じ始めたところとなっている。連載回数に注目すれば、「感想」も全体のちょうど半ばに達する頃であり、この連載も佳境に入って来たところと言ってもいいだろう。しかし、先の2つの論述内容を確かめると、そこには本居宣長に関する豊富な知見が披瀝されており、それをかなりな分量(二つ合わせると原稿用紙換算で90枚弱になろう)で発表していたことになる。さらに、それらは1、2年間で学び得るような知見ではとてもないほどの詳しさ、深さを併せ持つものでもあった。すなわち、「感想」連載の途中、それもおそらく早い時期、もしかしたらその連載の前後あたりに、もう一つの「楽想」、その主題が奏でられ始め、芽を出し、枝葉となって伸びていたこと、それもまた「ユニテ」としての経験のもう一つの弾みであったことを確かめておこう。

端的に言えば、ベルグソンの著作を改めて再読し、その全体像へ向かって書き進めながら、一方では本居宣長の著作を読むこと、書くことは、ほぼ同時期に開始されていたのである。結果として見れば、こちらの枝葉こそが後々に大地へ根を張り、やがて大樹となって行ったのだ。

さて、未完のまま中断し、未刊行とされた「感想」の第1回の終わりには、ベルグソンの遺書を読むくだりがあり、「本居宣長」の連載第1回も遺言書を読み進めていくところから始まっているので、両者の近似を指摘する論者もあるが、しかし、ベルグソンの遺書と本居宣長の遺言状の内容は相当な差異があると言わねばならない。つまり、ベルグソンは刊行した著作以外の遺稿類の閲覧を禁止しただけだったが、本居宣長のそれは、自らの死後の処置、墓の設計図から、葬送の式次第、その後の祭り方などを詳細に記述したものであり、「本居宣長」の記述は、「この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい」と、遺言書の文体に注意を促すものであった。また、これを「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿」とも記していることに焦点があると考える。いわば、本居宣長自身の死を迎え入れる言葉が連なっている文章への注目を指摘しておきたい。

さて、そうしたテーマに関連して想起されるのが、小林秀雄が古稀を迎えた際に書かれた「生と死」という文章である(正確にはその前年である1971(昭46)年11月に行われた講演を翌年「文藝春秋」2月号に発表したもの)。これは「文藝春秋」が刊行50周年を迎えるにあたり、自らの文筆生活の50年間を振り返って「吾が身の変り方」に改めて想いを致すといった内容であるが、家族に「近頃、親父も呆けた」と言われることについて、こう記している。

 

呆けたという特色は、そんなものではない。棺桶に確実に片足をつっ込んだという実感です。人は死ぬものぐらいは、誰も承知している。私も若い頃、生死について考え、いっそ死んで了おうかと思いつめた事があるが、今ではもう死は、そういう風に、問題として現れるのではない。言わば、手応えのある姿をしています。先だっても、片付けものをしていたら、昔、友達と一緒に写した写真が出て来た。六人のうち四人はもういないのだな、と私は独り言を言います。その姿が見えるからです。

 

「その姿が見える」とは、もちろん、写真を手にしてそこに残る亡き友人たちの撮影像に見入っているわけではない。そしてこうしたことが「棺桶に片足を突っ込む」という「経験が生んだ」言葉を味わうことなのだと言う。また、その先の本文には『徒然草』からの引用が見える。

 

人の一生の移り変りでは、移り変るのが我々自身なのであって、我々が、外から、その移り変りの序でを眺めるという性質のものではないのである。この意味合から、兼好は、死期に序でなし、と言うのです。だが、人々は、なかなか、これを納得しない。死から顔をそむけたがるからだ。「死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり」と言う。これもずい分強い言い方である。潮干狩に行った人々は、皆、潮は沖の方から満ちて来ると思って沖の方を見る。「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」―生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである、というのが兼好の考えなのです。

 

さらに、「吾が身の移り変りは、四季の移り変りとは様子の違うところがある。まるで秩序ついでの異なるものだと言ってもいい」と続けて、

 

そのように人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私達には与えられていない。その事が納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。

 

したがって、生きることと死ぬことはまるでコインの裏表のように、実は一体となっていることが示唆されて来る。それでは、生の中に常に兆し続けている死の姿を見つめて、これを迎え入れるとはどういうことなのか。「生と死」はこの後に『論語』の孔子と子路の問答に言い及び、子路について「ソノ死ヲ得ザラン」と言わざるを得なかった孔子の想いに触れつつ、「孔子が死を得ると言うところを、兼好なら、死を迎えるとか、待つとか言うだろう」と論じていく。その次に「先月、志賀直哉さんがお亡くなりになった」と転じ、無宗教で執り行われた葬儀に触れて、しかし、その「宗教的経験の方は、志賀さんの心のうちで、全く個性的な形で現れる事になる。古稀の志賀さんに、こういう文章がある」と、このように引用している。

 

私は少し極端に迷信嫌いなもあって、縁起の悪い事をしたり、云ったりする事が好きだ。益子の浜田庄司君に骨壺を焼いて貰い、今、それを食堂に置き、砂糖壺に使っている。最初は自家の者も余り喜ばなかったが、習慣的に段々何とも思わなくなり、家内も浜田君に同じ物を頼み、既にそれも焼けているそうだ。学校や役所の廊下にある痰壺のような焼場の骨壺が厭やなのと、砂糖壺の必要があって、浜田君に頼んだのである。

 

これは、志賀直哉の「年頭所感」と題する文章で、1952(昭27)年1月3日に発表されたものであるが、これを単なるいたずら好きのエピソードではなく、「個性的な形」として現れざるを得ない「死を得る工夫」なのだとして、さらにそれが「ひそかに練られる所は、この作家の全作品の歴史が創られて来たその内省と同じ場所」であると言う。ややわかりにくい表現かもしれないが、たとえば「城の崎にて」(1917(大6)年)を読み返し、「自分」の周りの生き物たちの必然の死と偶然の死、そして「自分」の偶然の生を見つめ、生と死が渦巻く経験から逃れることができない「自分」は何を感受していたのか。その最終部の感懐を確かめてみると、自らの死生観を一般化しようとする知的な営為に走ることなく、「死を得る工夫」が文章表現上に練られている様相に気づかされるのである。

 

死んだ蜂はどうなったか。其の後の雨でもう土の下に入ってしまったろう。あの鼠はどうしたろう。海へ流されて、今頃は其の水ぶくれのした体を塵芥と一緒に海岸へでも打ち上げられている事だろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。……

 

三 死を待望する言葉

 

さて、こうした話題を考えていくともう一つ、挙げておきたい作品が思い浮かぶ。1942(昭17)年に発表された「バッハ」である。これは、バッハの夫人であったアンナ・マグダレーナ・バッハの著書『バッハの思い出』を読んだ感動から書き起こされたものだが、ここには先に紹介してきた言葉より、もう1歩を進めた言葉が展開されているのである。バッハ夫人の言葉は次のように引用される。

 

「私が、少し不注意に或いは落着かずピアノを鳴らしたりすると、彼は、手を、私の肩に落しました。そんな事さえ、今でもはっきり思い出せるのですから、この伝記は、在りのままに、正確に書き度いと思っています。それは、半ばやさしい半ば不機嫌な小さな揺ぶり方でした。私が今、わざともう一度不正確の罪を犯しさえすれば、ああ、彼の手を肩の上に感ずる事が出来ようか」。誤解しない様に、この老夫人は、過ぎ去った日を惜んでいるのではない。過去があまり眼の辺りにあるのに驚嘆しているのである。こういう風に始った伝記は、次の様に終る。「伝記を書き終った今となっては、私の存在も終りに達したと思われます。この先き更に生きている理由がありませぬ。私の真の存在はセバスティアンが死んだその日に終りを告げて了ったのですから」。こんな風に書く為には、どれほど完全な充足した生活の思い出が必要であったか、心弱い女性の泣き言と見ず、そういう風に思い廻らす能力を、近代人は、次第に見失って来たのではあるまいか。

 

バッハの音楽の不思議な魅力が、「こんなに鮮やかに言葉に移されるとは殆ど奇蹟だ」とまで賛辞を惜しまない批評となっており、「読後、バッハの音楽を聞きたい心がしきりに動き、久しく放って置いたレコードの埃を払っ」て蓄音機を聞いたと記しているが、しかし、この批評文は具体的なバッハの音楽、『バッハの思い出』中に溢れている楽曲の数々に言及することはなく、バッハ夫人自身の思い出が湧き出す勢いのまま描き出されたような、その筆致に寄り添うように書かれていく。「回想記は、バッハの音楽に近付く唯一の方法を明示している」として、これを「フーガの技法」を繰り返し聞きながら確かめたと言うのである。

そして最後に「長いから引用はしない」と断って、バッハの死後、その思い出とともに生きて来たバッハ夫人に訪れた一つの確信について要約している。

 

これは早くから感じて驚いていた事だが、彼はその事について一言も語らなかったし、私達は幸福で多忙だったし、熟考してみる暇がなかった事なのであるが、それは、バッハは常に死を憧憬し、死こそ全生活の真の完成であると確信していたという事だ、今こそ私はそれをはっきりと信ずる、と。

 

バッハにいよいよ最後の時期が近づいて来た時のことを回想する箇所、『バッハの思い出』の「終焉」の章に、この文章は現れる。今、ダヴィッド社の1967年刊行の訳本(山下肇訳)によって確認してみる。

 

この最後の時期にいたって、ある深いおおらかな明るさが、彼の上にあらわれました。死というものは彼には、少しも恐ろしいものではなく、むしろ生涯にわたってたえずあこがれていた希望でありました。死は常に彼には、あらゆる人生の真の完成であるように思われたのでございます。彼の音楽にも、この魂の情調はよくあらわれていました。死とこの世からの別離という観念が、彼のカンタータに表現されるときほど、彼のメロディーが美しくまた情熱的になったことはありません。

 

確かに、作中にはバッハが抱いていた「死への憧憬」に触れる箇所がいくつか出てくるのだが、「セバスティアンが生きているうちに、彼の憧憬がこれほど強いものだとは感じ」なかったし、「天賦を持たない人間には、このことは理解できない」とも書き添えられており、夫人はこれを説明することの困難さを率直に訴えている。しかし、「彼が世を去って、ありし日の彼の人柄、気質、言葉などを、こうしてよくあれこれと思い見るようになり、いつもすぎ去った時代にばかり自分の心をむきあわせるようになってから」だんだん分かるようになったと言うのである。

すなわち、これは、ただ己の死を待つ、準備するというよりもさらに能動的な、しかし、覚悟というような張りつめた悲壮感が漂っているのでは決してなく、むしろ、やすらかで平穏な生を内側から支えている、そうした確信と言えるものなのかもしれない。

 

四 生死の二分法を超えること

 

小林秀雄『本居宣長』という作品は、死という絶対的な事象を取り扱っている文学だと思っていた。これは単行書が世に出てから4、5年目あたりの私の感想であったと思う。それから40年近くの時間を閲してみると、あの宣長の遺言書を読み解いていく冒頭部と、そして最終章、第五十章の印象がかくも強かったのかと改めて思う。最終章を終えようとする際に、「ここまで読んで貰えた読者」を再び第一章の遺言書へ誘おうとする記述に沿って読み進めれば、『本居宣長』という作品がループ状の読書行為を促していることにも気づくことになる。全編のそこここで呼びかけられる「読者」という言葉に成り代わろうと精読して来た者は、いやでも再び遺言書へ向かわざるを得ない。そして「最後の自問自答」というテーマを課せられる。しかし、そのループ状になる読書行為を何年も、何回も繰り返して現在に至っている私の中では、『本居宣長』を読むことにおいて浮上する死のイメージは絶対的な、強ばったようなものではなくなっている。その感覚を頼りにして、「本居宣長」連載の最終年前後に窺われる柳田国男の著作への言及を掘り起こすことも、これまでの本誌において試みて来た。あの『山宮考』を考えた頃からもうかなりの時間が経ってしまったが、本稿もまた、死という事象の柔らかさについて、小林秀雄のいくつかの文章に読み込めるところを拾い集めてみたという体裁になっている。まずは生と死の時間を哲学的考察のように直接に問題化するよりも、この時間の周辺部を少しずつ拡げていくことが出来ればと考えている。

『本居宣長』のループ軌道の先に見えて来つつあるものは、死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿なのである。そこへ向かってもう少し自分の言葉を探して行きたい。

(つづく)

 

注(1)「小林秀雄『感想』と宣長論の交錯―昭和三十五年の記述を考える―」(「國學院雑誌」第105巻11号 平成16年4月)で、この点を考察したことがある。

 

続『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ

1 柳田国男の歴史観

 

この4月、ある新聞の投書欄に眼が止まった。

 

ぽかぽかしたとても暖かな春の日。たしか小学3年生。1年から担任だった大好きな男の先生の家庭訪問がとても待ち遠しかったあの日。

庭には真っ白なユキヤナギの花がしだれ咲き、黄色いスイセンの花もたくさん。いくつもの小さなガラスの空き瓶にこの2種類の花を挿し、門から庭を通って縁側まで先生が歩くだろう両側に、位置を何度も確認しながら並べました。そうすることがとてもうれしかったのです。

私の父は、私が生まれて13日後に戦死。34歳でした。茶の間に飾られていた、コスモスの花に囲まれ笑う軍服姿の写真。私のお父さんなんだなーと一人で時々眺めていましたが、寂しさや悲しさはありませんでした。母の苦労とぬくもり、姉と兄の優しさは感じていました。

先生はいつも腰に手ぬぐいをぶら下げて、眼鏡の下の汗をふきふき。腰をかがめて小さな私たちと一緒にお遊戯、鬼ごっこなどを真剣にしてくださいました。私にとっては父の代わりだったのだと思います。

あの日の光景、先生の笑顔。かけがえのない幸せな思い出なのです。

(「朝日新聞」声 4/10)

 

今年75歳になる女性の文章である。「春」をテーマにした投書欄であったが、この文章の見出しは「先生の通る道、花を飾り待った」とあった。書き手の年齢から察するに戦後しばらく経った昭和20年代の終わり頃であろうか。この見出しを見て、読み出した時、ハッとした。そして、ああ、これが柳田国男の言う<歴史>なのだと感動したのである。この当時の小学3年生の子供の仕草とその気持ちの中に『先祖の話』は生きていると感じ入り、そうか、こういうかたちである人の言葉、文章の中に忽然として心意は顕れるのか、伝承とはそういうものだったか。そしてこのように具体的な行為や表現として形になるのが柳田国男の描き出した<歴史>というものなのだ、と思った。しかし、正確に言えば、この投書を読んですぐそこまで了解したわけではなかった。

いつも気になる記事は切り抜いておくのだが、この文章は読み捨てただけで新聞は処分してしまった。しかし、後々まで心に残り、気になってしかたがない。前稿を書き終えてその続きをと思っていた頃だったせいか、もう一度読んでおきたく図書館で新聞のバックナンバーを閲覧して再確認できた次第である。

さて、この問題提起について、前稿で記したところを再掲し、もう一度確認しておきたい。

柳田の想像力は、暦というものがまだ行き届かない昔へ、日本全国どこへ行っても1月1日の元旦という特別な日を迎えて年が改まる、という共通認識に至っていなかった暮らしの中の人間へと舵を切って進んで行く。暦の制定と普及とは極めて政治的なしくみの中で強制される最たるもので、これが人々の生きる時間を意識的に制御し、支配していく社会構造をもたらす始原であることも明瞭である。この時間の観念を制度化した暦の下で、何々時代、何世紀、何年のどの地域ではこうした葬送儀礼や年中行事が行われており、それがどのような過程によってこう変化したとか、こう改まったなどと、歴史的時間のそこここに民間習俗を印しづける、そういう歴史的考察を柳田は行ってはいない。したがって、取り上げられたある習俗や祭りの形式が日本全国の時間的な垂直方向、空間的な水平方向に必ずしも整序されているわけではない。多くの事例に垣間見られる幾つかの切片が組み合わされることで、その先に浮かび上がる人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在が、柳田国男の考える歴史なのではなかろうか。

つまり、先の投書をそのまま読めば、遥か昔の小学生時代、父親のいない自分にとって、今から思えば父親の代わりであったような存在として回想される先生、慕わしく憧れていた教員が家庭訪問に来てくれる時を楽しみに待ち望み、そのまま家で待っているだけでは気が済まなかった思いを改めて確かめている文章となる。しかし、その待ち焦がれた先生が我が家の玄関からそこで腰掛けて談話をするはずの縁側まで、その道筋の両側を、自ら手折った花々を飾っていった。その所作には、尊い人を我が家へお迎えする最大限の歓迎の心持ちがこもっていたことは紛れもないが、「そうすることがとてもうれしかった」という感性の記憶をそのままに記しているところに感じ入るものがあった。この子供には何故だか分からないながらも、そうせざるを得なかったという、いわば身体が自然にそうすることを促し、自分はただその動きに従っていたというような思いが見え隠れしていると思うのだ。これを、尊い存在を歓待する所作、喜んで迎え入れようとする思いの現れであり、誰かがそうすることを教えたわけでもないという無意識の所作であったことに焦点を当てるなら、この子供が咲き誇っている花々を手折り、小さな瓶に挿しながら、迎え入れる道を一所懸命に飾っていく姿の向こう側に、『先祖の話』で柳田が見出していった行事と作法に思い及ぶのである。

たとえば、かつて正月前後に行われた行事に「松迎え」と言われるものがあり、いわゆる松飾りの起源としてこれを柳田は注視し、「明きの方の山から」松の木を迎える所作を次のように記している。

 

山ではこの木と思うものに神酒を供え、新しい縄を持参して丁寧に背負うて来る慎みだけは、年の若い年男たちも皆持っている。松は屋敷うちの最も清浄な場所に横にして置き、これを休ませると言って、この時も神酒を上げる家があった。そうしていよいよこれを立てるに先立って、ほどよいところから下を削り尖らせることを、お松様の足を洗うなどと言っているのである。

(二一 盆と正月との類似)

 

これに対して盆の行事としては、「明きの方」すなわちお迎えする吉方ということと、「松その他の縁の木の利用が無いこと」という差異は認められるものの、「盆花採り」という行事が見られるという。

 

盆花採りといって、山に登っていろいろの季節の花を手折り、それをきまって盆棚の飾りにしているのである。その日は十一日という村が多いのは、あまりに早くからでは萎れてしまうためで、それと同一の目的からとも見られるのは、それから数日前に盆道作り、または盆草苅りとも称えて、山の高いところから里へ降りてくる小路を、きれいに掃除をしておく習わしである。

(同)

 

また、盆の祭りに触れて「盆路造り」という作法をこう紹介する。

 

盆草苅りまたは盆路造りということがあった。大抵は七日またはその以前に、山から降りてくる一筋の小径を、村中が共に出て苅り払うので、それと同時に墓薙はかなぎということもするから、これが高いところから石塔のあるあたりまで、みたまの通路をきれいにしておく趣旨であったことが判る。

(五八 無意識の伝承)

 

ここで柳田が注意しているのは、かつての正月の行事と盆の行事が、祖霊を我が家へ迎え入れるための準備であることであったが、そこから祖霊の鎮まっている場所へと考察は移行していく。

 

無難に一生を経過した人々の行き処は、これよりももっと静かで清らかで、この世の常のざわめきから遠ざかり、かつ具体的にあのあたりと、大よそ望み見られるような場所でなければならぬ。少なくともかつてはそのように期待せられていた形跡はなお存する。村の周囲のある秀でた峰の頂から、盆には苅り払い、また山川の流れの岸に魂を迎え、または川上の山から盆花を採って来るなどの風習が、ひろく各地の山村に今も行われているなどもその一つである。

(六六 帰る山)

 

こうして、柳田の筆致は、山から降りて来る先祖の霊魂をどう迎えて来たかというところから、死して後の霊魂が赴くところ、すなわち遥かに望む秀峰への信仰を解き明かす方向へ移って行き、多くの神社の大祭が卯月八日(旧暦4月8日)であることを押さえつつ、その神社の立地条件の共通性を見出して行く。

 

少なくともその目ぼしいものに、背後の霊山の崇敬を負うている御社のあることは事実である。山宮里宮の二つの聖地があって、順次に二所の祭を執り行うものは、その関係が今も明らかであるが、そうでなくとも神渡御の儀式がよく発達していて、祭の最も深い感激が、特に臨時の祭場に御降りを仰ぐ瞬間にあるものが、この日の祭には多いのではないかと思う。

(六七 卯月八日)

 

暦以前の時代の人々にあっては、季節の移り変わりの節目節目に<時間>の経過を感じていたであろうが、新年、年が改まるという実感を味わうのはいつであったか。もちろん、今の正月や旧正月ではないはずで、山宮の祭が卯月に行われることが多い事例から、これを遡上していけば、「それが大昔の新年だったから」(同)という推測が浮かび上がって来る。そして、こうした新年とは、「苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか」(三〇 田の神と山の神)という収穫への期待に満ちた喜びの時であるよりも、実は不安に苛まれるばかりの時であったはずだと柳田は言う。田植えを迎える時、はたしてこの苗が健やかに育っていくかどうか、植え終えてからの太陽と水の恵みを一心に祈願するということは、その人々の親の親のそのまた親へ、すなわち先祖の助力を祈願することに他ならないということなのだ。

こうした祖霊への信仰を想定してみれば、先の投書に見られるのは、尊い存在を我が家へ迎え入れ、歓待するという心性の顕れであり、それが人々の心の深層に残存しているのではないかと、私には思われるのである。

 

2 先祖と共に暮らすこと

 

さて、ここまで随分と時間をかけて『先祖の話』に展開される柳田の思考の動線をたどって来たわけだが、そろそろその結論を描いておきたい、とは言っても前稿に記したように、柳田の文体は、問題の基礎的考察を積み上げて行った末に、論考の最終結論へ至るというような体裁を採っていないので、全81回の記述からそこここに垣間見られる発想の先に浮かぶ光景を、私の読みで切り取り、私の言葉で綴っていくしかない。そのことを承知の上でまとめてみよう。

 

御先祖になるという言葉には、二つのやや違った意味があると言っておいたが、煎じ詰めてみれば二つとも、盆にこうして還って来て、ゆっくりと遊んでいく家を持つようにと、いう意味であることは同じであった。以前はあるいは正月と二度、もしくは彼岸の中日とその他、別に定まった日があったように私は考えるのだが、その点はどうきまろうとも、とにかく毎年少なくとも一回、戻って来て子孫後裔の誰彼と、共に暮らし得られるのが御先祖であった。死後には何らの存在もないものと、考えている人々は言うに及ばず、そうでなくてもそんなことは当てにならぬと、疑っている者にもこれは重要な話ではないだろうが、我々の同胞国民は、いつの世からともなくこれを信じ、また今でもそう思っている人々が相当の数なのである。この信仰の強みは、新たに誰からも説かれ教えられたのでなく、小さい頃からの自然の体験として、父母や祖父母と共にそれを感じて来た点で、若い頃にはしばらく半信半疑の間にあった者でも、年をとって後々のことを考えるようになると、大抵は自分の小さい頃に、見たり聴いたりしていた前の人の話を憶い出して、かなり心強い気持ちになってこれを当てにするようになるのみか、家の中でもそれを受け合うべく、毎年の行事をたゆみなく続けて、もとはその希望を打ち消そうとするような、態度に出ずる者は一人も無かった。すなわちこの信仰は人の生涯を通じて、家の中において養われて来たのである。

(六一 自然の体験)

 

「無意識の伝承」が育まれていく過程をこのように極めて簡潔に、しかし力強く描いているが、重要なのはこの過程の内実であって、「暦」以前の人々の生活を思い見た地点から実に長大な時間がここには流れており、その中を貫流する伝えごとが、言葉として、概念として頭へ入っていったのではなく、文字通りに幾多の人々の心身に刻み込まれていったということなのだ。そしてこのことを『先祖の話』の文章の内側に、深さとして想像すること、それが非常に難しいのである。柳田は、読者の想像力を少しでも促していくように、身近な民俗事例の多くを取り上げて言葉を尽くして来たのだった。しかし、大事なことは、「この信仰は人の生涯を通じて、家の中において養われて来た」ということで、すなわち、死んだらどこへいくのかという疑問に発する数々の倫理的な問題を言葉で説明することは絶えてなかったということであり、その回答は毎年反復される行事と儀式と所作の中に溶かし込まれて来たということなのである。

たとえば、ここで『本居宣長』の最終回を思い起こせば、「生死の安心」を問われるならば、「安心なきが安心、とでも言うべき逆説が現れる」(『本居宣長』五十回)というところと通い合う問題と改めて気づいてみてもいい。神道に教義がないことは、繰り返し説かれていたところであった。それを、民俗という思想には生活様式としての崩してはならない形はあるが、なぜそうでなければならないかという根拠を説明し、相手を説得する言葉は持っていないと言い換えても構わないことになるだろう。このことは柳田も繰り返し説いて来たところでもあった。

 

私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、恐らくは世の初めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。これがいずれの外来宗教の教理とも、明白に喰い違った重要な点であると思うのだが、どういう上手な説き方をしたものか、二つを突き合わせてどちらが本当かというような論争はついに起こらずに、ただ何となくそこをあけぼのぞめのようにぼかしていた。そんなことをしておけば、こちらが押されるに極まっている。なぜかというと向こうは筆豆の口達者であって、書いたものがいくらでも残って人に読まれ、こちらはただ観念であり、古くからの常識であって、もとは証拠などの少しでも要求せられないことだったからである。

(二三 先祖祭の観念)

 

このように、日本人の祖霊信仰の持ち方、その有り様を通時的な視野において考察し、そこに貫道する動きの断面を、共時的に思い描く時、柳田の摑もうとする<歴史>の姿が降臨して来るのである。それを「死の親しさ」と言い表している。

 

生と死とが絶対の隔絶であることに変わりはなくとも、これには距離と親しさという二つの点が、まだ勘定の中に入っていなかったようで、少なくともこの方面の不安だけは、ほぼ完全に克服し得た時代が我々にはあったのである。

(六四 死の親しさ)

 

ここで言う「時代」も、いわゆる歴史の教科書にあるような何々時代といったものを指すのではもちろんないことは、先に記した通りであるが、祖霊の存在を肌に感じて信じていた人々にとって、死とはどのようなものであったか。

 

日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持ちを、抱いていたということにはいくつもの理由が挙げられる。

(同)

 

と言って、柳田は「四つほどの特に日本的なもの、少なくとも我々の間において、やや著しく現れているらしいもの」を次のように挙げる。

 

第一には死してもこの国の中に、霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭だけではなしに、いずれか一方のみの心ざしによって、招き招かるることがさまで困難でないように思っていたこと、第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成するものと思っていたことで、これによって子孫のためにいろいろの計画を立てたのみか、更に再び三たび生まれ代わって、同じ事業を続けられるもののごとく、思った者の多かったというのが第四である。

(同)

 

このような構図を想像していくと柳田国男の祖霊観の端的なイメージが得られるのだが、さらにもう一点、これに付け加えるべきことがある。こうしてこの世とあの世の交通が緩やかに連続し、生と死の境界に日を定めて隙間が現れるような経験を共有する生活の中で、この世を去った者がいつまでもその名を呼ばれ、生きていた時の姿をもって顕れるのではないということ。すなわち、かつての家々においては、新たな死者を祀るのは、祖霊を祀っている御霊みたまだなとは異なる仮のたま棚を作って祀るという作法があって、しかし一定の年月が経過すれば、新しい霊魂も祖霊の中に含めて祀るということである。

 

人は亡くなってある年限が過ぎると、それから後は御先祖さま、またはみたま様という一つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようである。

(二五 先祖正月)

 

また、一人の死者の弔い上げ、つまり死んでから年忌の終了する期間を調べ、三十三年の法事が済めば「人は神となる」という各地の習俗を挙げてこう論じる。

 

つまりは一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていたのである。

(五一 三十三年目)

 

こうして死者の霊魂が徐々にその個性を脱ぎ捨てて行くことを、柳田特有の言葉で「まわる」と言う。すなわち近代以降の常識が、後生大事にしている個性などというものは実は汚濁に他ならず、死後になれば漸くこの汚れは拭い去られていく、魂全体が澄み切った時、晴れて先祖の霊とひとつに合体していくというのである。

これを現代にも生きている具体的な生活、暮らし方における発想形式と捉えるなら、たとえば、日本の伝統芸能の担い手たちの襲名という作法や、工芸職人等の社会に息づく代替わりのみを名乗る「何代目○○」という同一の名前を受け継いで行く習慣を連想してもいいのであろう。そうした世界にあっては、確かに特定の個人に備わった固有性とは邪魔者以外の何ものでもあるまい。つまり、これは日本文化の基層部を形成する人生観の問題を示唆するが、ここでは補足するに止めておく。

さて、このように『先祖の話』が示唆している日本人の祖霊信仰のあり方を受け入れた後に、この柳田国男のヴィジョンがその奥に垣間見せようとする重要な問題について考えてみなければ、あるいは、柳田の想像力が指し示すその先に拡がる人々の生のありようを摑もうとしなければ、この希有な書物の可能性を引き出したことにはなるまい。『先祖の話』の読了後、私に迫って来る問いとは何か、それは次のように言えばいいだろうか。

このような死生観に立っていた人々の、また、我々の身体にも確かに刻み込まれている<生>とは、現代の我々が現代の社会制度を前提として把握している<生>の姿とはまるで異なるものだったはずだということである。

 

3 時間への思考

 

小林秀雄が書いて来た文章を、全集を通して思い浮かべてみると、その折々に特権的な言葉、つまり様々な作品、文章を通してあちらこちらに思い当たる用語がある。それぞれ異なる対象について言葉を連ねつつ、何回も反復して現れ、そのたび毎に特徴的な強いイメージを喚起する文体を形成している、そういう言葉である。

「歴史」や「言葉」、「姿」、「形」などが思い浮かぶが、「時間」もまた独特な表情を持って使われて来た言葉である。しかし、これらの言葉は、使用されている作品中において各々が固有のイメージに包まれてはいるものの、それらを包み込む文体においては繊細ではあるが強靱な一筋の糸によって結びつけられているように思う。

 

歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。

 ……中略……

上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時いつ如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。

 

いまさら出典を記す必要がないほど、人口に膾炙した、作中の文言を借りれば、鎌倉時代の「絵巻物の残闕」のような鮮やかな文体である。そして、ここに溶かし込まれている「時間」という言葉も、「歴史」と「形」とともにここでの色合いを帯びて現れるが、しかし、ここでの「時間」は単一のベクトルに領されており、「歴史」とは対極に位置するものであろう。同じ1942(昭17)年の「ガリア戦記」の末尾にも、「サンダルの音が聞こえる、時間が飛び去る」と使われている。この時期の文章は、『本居宣長』に現れる<時間>への問い、そのプロローグだったかもしれない。いや、実は「人生斫斷家アルチュル・ランボオ」を書き、「千里眼ヴォワイヤン」の思想を摑んだ時から通念的な<時間>を組み替えようとする試みは始められていたと言ってもいいのかもしれない。ともあれ、「無常という事」の一節に表現された、人の生から死へ至る「飴の様に延びた時間」は、死という消滅点を仮構したことによって有限性を帯び、暦、日付、時計によって幾重にも網掛けすることで、生体の死の時に至るまでの詳細かつ客観的な階梯を設計したとも言える。しかしこの時間とは、「現代に於ける最大の妄想」であるならば、これを崩壊させなければ、『本居宣長』における最も難解な箇所へたどり着くことは出来ないと、私には思われるのである。

それは『本居宣長』第四十八回にこう記されている。

 

高天原に、次々に成りす神々の名が挙げられるに添うて進む註解に導かれ、これを、神々の系譜と呼ぶのが、そもそも適切ではない、と宣長が考えているのが、其処にはっきり見てとれる。註解によれば、ツギニ何の神、ツギニ何の神とある、そのツギ二という言葉は、―「ソレ縦横タテヨコワキあり、縦は、仮令タトヘば父の後を子のツグたぐひなり、横は、の次にオトの生るゝ類ヒなり、記中にツギニとあるは、皆此ノ横の意なり、されば今此なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とあるツギニまで、皆同時にして、指続サシツヅ次第ツギツギに成リ坐ること、兄弟の次序ツイデの如し、(父子の次第ツイデの如く、サキノ神の御世過て、次に後ノ神とつゞくには非ず、おもひまがふることナカれ)」、―と言う。「カミ七代ナナヨ」の神々の出現が、古人には、「同時」の出来事に見えていた、それに間違いはないとする。

神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様よこざまに並列して現れるのであって、とても神々の系譜などという言葉を、うっかり使うわけにはいかない。「天地初発時アメツチノハジメノトキ」と語る古人の、その語り様に即して言えば、彼等の「時」は、「天地ノ初発ノ」という、具体的で、而も絶対的な内容を持つものであり、「時」の縦様の次序は消え、「時」は停止する、とはっきり言うのである。

 

最終の第五十回では、このことを再確認しようと書き方を変えて記している。

 

「神世七代」の伝説ツタエゴトを、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地アメツチ初発ハジメの時」と題する一幅いっぷくの絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。「神世七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。

 

そして、また伊邪那岐命と伊邪那美命が「黄泉比良坂」の「千引石」を挟んで語り合う場面への宣長の註解を踏まえて次のように記している。

 

女神が、その万感を托した一と言に、「天地アメツチ初発ハジメの時」の人達には自明だった生死観は、もう鮮かに浮び上って来たに違いない。彼等の眼には、宣長の註解の言い方で言えば、神々の生き死にの「序次ツイデ」は、時間的に「タテ」につづくものではなく、「ヨコ」ざまに並び、「同時」に現れて来るカタチを取って、映じていたのである。

 

この記述の難解さはもはや指摘するまでもないだろう。そして、私が柳田国男の『山宮考』から『先祖の話』まで引きずって来たこだわりは、我々の心身の奥底までも支配し、制御している<時間>という思想を如何にして崩していくかというところにあったのである。

さて、このことは次稿に展開、拡張していきたい。そして、ここまで執拗に読み続けてきた『先祖の話』について一通りの記述を終えたことに安堵しつつ、その締めくくりと言ってもいいような一文を掲げて本稿を終えよう。これもたまたま眼にした新聞の投書の一部である。書き手は68歳になる方であった。

 

妻と孫と一緒に近くの川にホタルを見にいきました。歩く途中、竹やぶの横から白く光るものが近寄ってきました。ホタルでした。

川辺からちょっと離れて迷ったのでしょうか。光は消えずに、ふわふわ、ゆらゆらと、私たちに向かってきます。妻が手を差し出すと右手の小指にとまり、二度三度、光を放ちました。私たちはしばらく、その光とともに歩きました。

少し手を揺らすくらいではホタルは離れません。孫は「指輪みたいでキレイだね」とうれしそうです。川に着いて橋の上から「飛んでいけ」と促しても、そのままです。その姿に、昨年末と今年初めに旅立った義父母の姿を感じました。私には2人の魂がそこにいるように見えました。

橋にはたくさんの人。川面を映す光にため息がもれています。すると、妻の指にとまっていたホタルがふと飛び上がりました。そして仲間が待つ川辺ではなく、夜空に上っていきました。遠く消えていく光を追いながら、魂への感謝と社会の安寧を祈っていました。

(「朝日新聞」声6/24)

 

同様な経験を持つ人も多いのではないかと思うが、本誌の読者の皆さんには、きっと思い当たる文章をよくご存じのことと思う。

 

(つづく)

 

『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ

1 不思議な読書

 

教員として担当している大学院の演習授業では、6年前から小林秀雄『本居宣長』を扱って来た。この令和2年度は『本居宣長補記』へ進んだので、『本居宣長』は5年間かけて精読したことになる。もちろん院生たちは年度ごとに入れ代わる者の方が多いのだが、教員は不変なわけで、私自身はその年月『本居宣長』と向き合って来た。1年間に10章ずつのペースだったから、本当にゆっくり精読、熟読した5年間だったはずである。そのはず、なのであるが、しかし、今もって不思議なことには、どこに何が書かれていたかどうもハッキリしないのだ。まあ、漠然と、近世儒学のこと、源氏物語のこと、古事記のこと、神話理解のしかたのことなどだいたいのトピックスは数えられるが、全体の構造、構成、各章の論の指向性が、どう展開し、どのような形で組み上がっているかとなると、また本文をあれこれめくりながら思い出さねばならないという次第で、1週間に1度の授業のたびにその前後関係を読み直すということを性懲りもなく反復して来たのであった。今にして思えばどうも我ながら情けなく、頭の出来か、年齢のせいかと狼狽えるばかり。本誌の読者の皆さんならば、『本居宣長』もかなり読み込まれている方が多いと思うので、皆さんはどうですか、と尋ねてみたいと常々思っていたのである。

これは、なんとも不思議な読書体験であり、まことに奇妙な読後感と言うしかないように、折に触れて考えていたのだが、最近になって、これはどうもこっちの問題ではなく、あっちの問題かもしれないという気が、ちょっとして来た。というのは、小林秀雄の『本居宣長』という文章は、もともとそういう読後感を抱かせるように書かれているのではないのか、ということ。そう思い始めたのは、これまで本誌で書いてきた柳田国男の著作の幾つかを読んでいて、ほとんど同じ読後感に襲われたためである。前々稿(2020年5・6月号)に柳田国男『先祖の話』の重要性について触れて置いたが、この『先祖の話』という著作を読み込みながら、本当に『本居宣長』と同じような読後感、何遍読んでも何が書いてあったのか、その記憶の保持が難しいという感覚を味わったからである。また、それより以前、柳田の『山宮考』について書いた際にも、この著作独特の難解さを指摘しておいたが、それは『先祖の話』と共通する性質のものだったと改めて気づかされたのである。

それを一言で言うなら、この2人は、ある時、ある場所において確定している出来事や物事、経験を、明らかにすべき対象として書いているのではないということ。つまり、「ことがら」を書いているのではないのだ。だから、そこで何が書かれていたのかを記憶すること、書かれているはずの何かを意識的に保持することが難しいのであって、逆に言えば、そうではない書き方自体に注意を向けるように書いているとも言えようか。だから、『本居宣長』も『先祖の話』も、ページを繰るごとに一つ一つの理解を階段状に積み重ねていき、最終ページで全体を俯瞰するような読書行為の達成感がはなはだ乏しいのである。いわば、ページの進行方向に沿って知見が開かれていくのではなく、開いているページの垂直方向へ、紙面からその深みへ向かって沈み込むような思考を促していく、そういう文体が創られているのではないか。

読んでいて、時折、ハッと気づくと、同じページを開いたままかなりの時間が過ぎ去っている。その間、我を忘れてどこかに彷徨っていた感覚だけがうっすらと残るような読書体験。そこで一瞬ちらついたかと思われる光景を、どう言葉にするか。そういう読後感を繰り返して来たように思うのだ。

そうは思うものの、一方で、柳田国男の学問は日本民俗学という学的体系を整えた知的営為を身上としているはずであり、この国の地域に根付いた民間伝承、基層文化の発掘と体系化を、厖大な調査研究に基づいて達成してきたと評価されている。したがって、そうした社会文化の分析考察も客観的事実の報告が肝心と考えられているわけだが、しかし、どうもそうではないのではないか。少なくとも小林秀雄が「柳田さんの学問の秘密」と看破したもの、それは「含みのある文章」でないと書けないものだったと言うのは、確たる事柄を知らせるための文章では書くことが出来ないことがあるということ、そこに本当の柳田国男の学問があるのだということではなかったか。

柳田国男の『先祖の話』には、難解な学術用語などは少しも見あたらない。もちろん民俗学的考察の基盤となる民間伝承の事例は豊富に示されているが、それらの報告を集成して結論を付け加えた論考では全くないのである。しかし、そのために難解であり、何度も繰り返し読まなければそのことに気づけない。で、それはどういうことなのか。そこから稿を起こしたい。

 

2 承前

 

1974(昭49)年の夏から1977(昭52)年の秋にかけて小林秀雄は「本居宣長」を執筆しながら柳田国男の著作を次々に読み込んでいった。その圧巻と言えるのが1976(昭51)年3月の三越三百人劇場での講演であったことは前稿(2020年秋号)に記した通りである。そしてまた、連載時にはなかった柳田国男の学説が『本居宣長』(1977(昭52)年10月刊)において加筆され、刊行に向けた推敲過程で新たに組み込まれていたことも想起しておきたい。つまり、「本居宣長」の終結、完成にむけての数年間に、柳田国男の学問が小林秀雄の文章に流れ込んでくる、その動きの追跡を試みたのだが、では、その現れがどのような姿=文体を取っているのか。それを描くことが私の取り組むべき課題であり、願いでもある。柳田の『山宮考』に惹きつけられた時からの想いをさらに展開してみたい。

さて、柳田国男『先祖の話』の簡単な紹介程度は前々稿(2020年5・6月号)で済ませたものの、その核心部については触れないままだったので、まずはそこから考察しておかなければならない。この論考が日本人の祖霊観、死生観を浮き彫りにした画期的な考察であったことは周知のことであるが、先述したように、それはどうも通り一遍の評価に過ぎないように思われる。また、民俗学の研究者間では1960年代から本格的な検討が加えられてもいたようだが、この論考で柳田が採集して取り上げた民俗や行事の実態への再考や、それらで組み上げられた思想、イデオロギー批判(国家主義、全体主義批判)が目に付くようである。しかし、小林秀雄が強く言い切った柳田国男の学問の秘密、その核心部を捉えようとする読みが、すなわち「文章の含み」を感受するという言葉で示そうとしている思考の針路は、いわゆる学術的批判の展開とはまた微妙に異なるように思うのだ。ともあれ、まずは『先祖の話』の文体が読者をどこへ促そうとしているのか、それを考えていこう。

 

3 なぜ「話」なのか

 

柳田国男の著作のいくつかに触れたことのある人なら、ああそう言えばと思い当たるだろう。柳田は自らの著作や論考のタイトルに「~論」とはせず、圧倒的に「~の話」という語を使う。それは『先祖の話』という著作にも端的に示されているわけだが、それがなにを意味するか。もちろん柳田が開拓していった民俗学の対象領域が文字の蓄積として残されて来た文献類ではなく、口頭伝承に基づいた資料類であったことに関わることは間違いないが、柳田は、たとえば『遠野物語』がそうであったように、ある昔話の語り手から聴き取った物語、話を自らの手で筆記し、その文体に載せて世に送り出していった。だから、公表された文章や刊行された著作は文字を介して読み取られる、黙読される文章に他ならない。にもかかわらず、柳田はそれらを「話」と題することが多かった。どうもこれはある種の確信めいた想いを潜めていたものではなかったか。私の、一つの結論を先に言ってしまえば、柳田国男は自分の文章や著作を、実は聴いて欲しかった、眼で読むよりも耳を傾けてしっかりと聴き取る読者を想定していたのではなかったか。私にはそう思われてならないのである。この『先祖の話』という著作の画期的な意味あいは、あるいはこのことだけに気づけばよいと言ってもかまわない。柳田が残した多くの文章は聴くように読むことを読者に促していて、その先に、話し、聴くという行為によって開かれる人生の真相が示唆されているのではないか。では、そこにはいかなる生が、生き方、考え方が展開されているのだろうか。それを掴み取ることこそが『先祖の話』の核心だと思うのである。

では、その縁取り、この「話」のもっとも外に張り巡らされた「聴く」という縁取りの切片を確かめてみよう。以降、引用文の丸括弧内は『先祖の話』内の各回の見出しである。

先祖とは、ある家、家族の起こりとしての最初の人間、いわゆる初代の人間、家系図の筆頭者の意味だというのは、「文字によってこの語を知った者」のとらえ方で、

 

耳で小さい時からこの言葉を聴いて、古い人たちの心持ちを汲み取っている者は、後に文字をり、その用法を学ぶようになっても、決してそういう風には先祖という語を解してはいない……(略)……一ばん大きな違いは、こちらの人たちは、先祖はまつるべきもの、そうして自分の家で祀るのでなければ、どこも他では祀る者の無い人の霊、すなわち先祖は必ず各家々に伴うものと思っている。(一、二通りの解釈)

 

と柳田は記す。この文字で学んだ者と、耳で聴いて知っている者の差異は、『先祖の話』の見逃せないところであって、この対立は随所に現れてくる。そしてこの第一回から、「文字の教育」がもたらした「新しく単純な」方ではなく、

 

いつの世からともなく昔からそうきめ込んでいて、しかもはっきりとそれを表示せず、従って世の中が変わっていくと共に、知らず知らずのうちに誤ってしまうかも知れない古い無学者の解釈の方に、力を入れて説いてみようとするのである。

 

と、この論考の取るべき針路を示している。その道筋を追うことは、はっきりそれと指さすことも困難な、「耳で聴いて」体得している所作や振る舞い、習俗など、この列島に暮らして来た人々の、長すぎるような歴史において我々の身体に馴染んで来ているがゆえに、その奥底にすっかり隠れてしまっている文化の姿を想いみるという思考へ誘っていくのである。また、「門松の由来」について説明する箇所で、信州などで松飾りの注連縄に付ける藁でつくられた壺や皿について紹介しつつ、「オヤス」とか「ヤスノゴキ」と呼ばれるそれらは、「すなわち神に供物をさし上げる食器」であり、

 

年男は年越しの晩と三箇日、また六日・十四日の夕祭などにも、必ず供物を持ってまわって、この松の木の藁皿の中に少しずつ上げる。これを親養いというのを見ると、オヤスという語の語源は明らかである。(二〇、神の御やしない)

 

と説き、そうしたことが「書物で学問をする人からは見落とされている」とはっきり批判する言葉も見える。さらに、正月になると家々を訪れて幸いをもたらすいわゆる年神の姿に言い及ぶ箇所では、「春の初めにきの方から、我々の家を一つ一つ、訪れ寄りたまう年の神の性質」を、「我が国の固有信仰の系統の外にあるものででもあるような、やや奇抜に過ぎた想像をしているが」と暗に宗教学者等の説を批判しつつ、

 

もともとこういうことを考えかつ守っているのは、学問や講義と最も縁の遠かった、平凡通俗の人々が主であって、しかも彼らのすることには地方や階級を超えた一致があり……(二二、歳徳神の御姿)

 

と指摘する箇所もあり、同じ二二回にはさらに続けて、

 

春毎に来る我々の年の神を、商家では福の神、農家ではまた御田の神だと思っている人の多いのは、書物の知識からは解釈の出来ぬことだが、たとえ間違いにしても何か隠れた原因のあることであろう。一つの想像はこの神をねんごろに祀れば、家が安泰に富み栄え、ことに家督の田や畠が十分にその生産力を発揮するものと信じられ、かつその感応を各家が実験していたらしいことで、これほど数多くまた利害の必ずしも一致しない家々のために、一つ一つの庇護支援を与え得る神といえば、先祖の霊をほかにしては、そう沢山あり得なかったろうと思う。

 

御霊、精霊、生霊など宗教史から見ればそれぞれに異なる意味を持ち、その祭りの意味も異なっているのは現代における各神社の年中行事に明らかだが、祖霊を広く表していた「みたま」を漢字表記「御霊」としてから、音読み「ゴリョウ」が平安初期の祟る神専用の語となり、それとの区別で「精霊(ショウリョウ)」や「聖霊」も使われたが、「精」と「聖」の意味するものが異なると唱える説に対しても「耳でこの語を知った者にはその説は通用せぬ」と退け、経験の本質を表現する言葉がそれに当てられた文字、漢語によって歪められてしまう弊害を鋭く指弾する。

 

精霊とみたまと、二つどちらが古いかは言わずとも判っている。それよりもどうしてこのような古いい国語があるのにすき好んで発音のかなり面倒な漢語なんかを採用したのかが問題になるのだが……(略)……漢語の輸入が我々の言葉の意義を混乱させる原因となっていることは、もちろんこれが最もはなはだしい一例でもあるまいが、ここでもやはり言葉の変わってきた道筋を明らかにしておかぬと、死んでどこへ行くかという大切な問題を、考えてみることが出来ぬのである。(三七、精霊とみたま)

 

今日ならば「みたま」が歴史ある最も良い単語だと決すれば、たとえ平仮名で書いてもこれを続けて使おうと言うべきところだが、以前の有識層は気の毒なもので、何かこれに該当する男文字が見つからぬとなると、文書にはもうこの語を使うことが出来なかったのみか、晴れの場合にはこれを口にすることも躊躇したのである。先祖という漢語がややまた限られた意味に用いられた原因も、あるいはこの「みたま」という語の代わりにしたためかも知れない。幽霊や亡霊という語なども、最初はその欠を補うために、考え付かれたものかと思われ、それをただ亡くなった故人の霊という意味に使っていた例はいくらもある。しかも結果は御承知のごとく、その幽霊の特に浮かばれぬもの、出れば必ず人をきゃっと言わせるものに限られ、まるで妖怪の仲間か隣人かのごとき、非凡のものに限られるようになった。つまりは適切な対訳もないのに、なお是非とも漢字で表現しようとした弊害、すなわち私などのいわゆる節用せつよう(注1)なるものであった。(三八、幽霊と亡魂)

 

さらに、もう一例を挙げると「盆の祭」に言及するところでも、

 

我々が書物の通説と学者の放送をさしおいて、是非ともまず年寄や女児供の中に伝わるものを求めようとするのも、尋ねるのが痕跡であり、また無意識の伝承だからである。そうして今日の普通教育によって、最も早く消えてしまうものも、こういう方面に散乱した、文字と縁の薄い資料だからである。(五八、無意識の伝承)

 

というように、柳田国男が遥かに見通そうとしたところはこの「無意識の伝承」の姿であり、その全体像に迫ろうとして努めたところが、これまで引用して来た通り、話を聴くという姿勢の保持であり、文字、漢字を介さない人生の中、すなわち音声と所作という行為において育まれてきた文化なのだ。したがって、文字として、漢語として、文章として残された事柄、出来事、祭礼、年中行事の手続きや由来書などの鍵となる用語や概念を、その表記のまま信頼するのではなく、それらの起源へ、耳で聴き、身体に刷り込んで来た道筋を遡って行こうとする、いわば耳の想像力を働かせようと極めて繊細かつ大胆な文体を編み出していったのである。

 

4 先祖への想い

 

耳に関わる想像力を喚起していくこと、それが最も重要なことなのだが、その輪郭くらいは示したこととして、次に『先祖の話』の要点だけには触れておかねばならない。

『先祖の話』は先に引用したところで分かるように、ほぼ3~4ページ分と短い章立てで81回がまとまっている体裁である。その1回ごとに柳田が採集した話、見聞した物事が配され、そこから捉え得た実相が記述されていくのだが、小さな事例を次々と解き明かしながら、突然、それまで足下を注視していた視線を高く上げ、遙かに遠景を見通そうとするような記述が起ち上がって来る。

 

「先祖の話」において、自分のまず考えてみようとすることは二つ、その一つは毎年の年頭作法、次には先祖祭の日の集会慣習だが、両者はもと同じ行事の、二つの側面を示すものではなかったろうか(一四、まきの結合力)

 

つまり正月行事を家々や、ここでいう「まき」(一定の土地に居住する同族集団)の中ではどのように行われたか、そして、祖霊をどのように扱っているのかを確認しようという企図を述べるのだが、「両者はもと同じ行事の、二つの側面を示す」という言い方がそれで、これは、この回の前文、またこの一四回までの論述の流れからは理解できない語句なのである。

第一回からここまでは「家」がどのように存続して来たか、分家が如何にして派生し、一族集団がどう変化していったのかが、社会状況や生業のありかたも含めて歴史的、社会学的に考察されて来たところであって、ここで初めて「まき」内の年頭作法、先祖祭などを考えるのだな、と分かるものの、即座に「両者はもと同じ行事」と言われても戸惑うばかりであって、次の一五回には「めでたい日」という見出しで「いわい」という語の用法など説明し、終わりに「もとは正月も盆と同じように、家へ先祖の霊の戻ってくる嬉しい再会の日であった。そのことをやや詳しく話してみたいのである」と記していく。つまり、このように細かい事例分析を示しながら、時折、この考察がどこへ向かおうとしているのか、行き着くべき遠い目的地を一瞬垣間見せるわけで、この示された映像、風景とでも呼びたいものをその都度保持して先に読み進んでいかないと、単なる民間習俗、儀礼の事例研究だけを読み取り、その真偽を論じるような反応を呼び起こすことに終始してしまうのである。

さて、先の引用文に見えること、正月と盆の行事がもとは同じものであったこと、そのどちらもが家々の先祖が訪れてくる日、「嬉しい再会の日」であったことを柳田は全国に分布する正月行事の実態、年取り行事や作法、また正月とは別にその前後の日時に行われる先祖祭りの例、そして、盆行事においても同様な事例を発掘していく。これらの実証的な分析考察においても、もっとも重視されるのは、各々の行事の際に唱えられる言葉、人々の中で交わされる言葉の数々である。「みたま」と「精霊(ショウロウ)」、「御霊(ゴリョウ)」の検討から始まり、「荒御霊(アラミタマ)」、「外精霊(ホカジョウロ)」なども言うに及ばず、「仏」をなぜ「ホトケ」というか、それは「大仏」を「オサラキ」と読む理由とつながっており、「ホトケ」、「サラキ」、「ホトキ」、「ホカイ」という言葉に共通する意味が、いずれも霊に捧げる供物を入れる器を示していることを解き明かしていく。また、「マツリ」(祭)と「ホカイ」の違いなどおよそ古い日本の葬送儀礼に関わる言葉を一つ一つ点検していくが、そこに貫かれている姿勢は、先に述べた通りの、漢語、文字として表現された語彙を、再び、話し、聴く言語行為において育まれてきた言葉へ戻していこうという方法であり、その発生史を想像した上での意味を探っていくということであった。

そして、柳田の想像力は、暦というものがまだ行き届かない昔へ、日本全国どこへ行っても1月1日の元旦という特別な日を迎えて年が改まる、という共通認識に至っていなかった暮らしの中の人間へと舵を切っていく。暦の制定と普及とは極めて政治的なしくみの中で強制される最たるもので、これが人々の生きる時間を意識的に制御し、支配していく社会構造をもたらす始原であることも明瞭である。この時間の観念を制度化した暦の下で、何々時代、何世紀、何年のどの地域ではこうした葬送儀礼や年中行事が行われており、それがどのような過程によってこう変化したとか、こう改まったなどと、歴史的時間のそこここに民間習俗を印しづける、そういう歴史的考察を柳田は行ってはいない。したがって、取り上げられたある習俗や祭りの形式が日本全国の時間的な水平方向に必ずしも並んでいるわけではない。多くの事例に垣間見られる幾つかの切片が組み合わされることで、その先に浮かび上がる人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在が、柳田国男の考える歴史なのではなかろうか。

もちろん『先祖の話』が始原として出発するのは稲作をしている人間たちの暮らしである。生活上の実態としても、文化的な象徴としても特権的な食料として、米が担ってきた役割を踏まえた上で、あまりにも長い時間この列島に生きてきた人々、その思想が、柳田の言う〈民俗〉であるはずなのだ。

やや先走ったものの言い方になったので、もう少し『先祖の話』の要点を探っていこう。暦以前の先祖祭りの日について、その多くが4月15日前後に分布していることを踏まえて、

 

私の想像はやや進み過ぎるかも知れぬが、年と稲作との関聯かんれんは日本では特に深い。以前公の暦本のまだ隅々まで頒布せられなかった時代には、民間ではあるいは初夏の満月の日をもって、年の初めと見ていたので、これも新年に先祖を祀っていた古い慣行が、公の正月と分離独立して、保存せられている例ではないかというのである。(二九、四月の先祖祭)

 

1年の節目としての正月と盆は、暦の強いる印しでしかなく、公に従う暮らしが続いていけば正月に新年を祝う習慣が固定していくが、稲作を生活の中心部に据えていた暦前の暮らしを想いを致せば、年の規準は春と秋であり、そこから時間の羅針盤は動いていくのである。そして、稲を実らせてくれるのは、「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終わりにはまた田から上って、山に還って山の神となる」(三〇、田の神と山の神)という稲作の神であり、その祭りだけは元の年の時間に置かれていることになる。そして冬の間だけ山におられる神は、その田を開き、子孫に残して来た先祖以外には考えられないと柳田は言う。

 

我々の先祖の霊が、極楽などへ往ってしまわずに、子孫が年々の祭祀を絶やさぬ限り、永くこの国土の最も閑寂なるところに静遊し、時を定めて故郷の家に往来せられるという考えがもしあったとしたら、その時期は初秋の稲の花の漸く咲こうとする季節よりも、むしろ苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか。(同)

 

政治的な、文化的な様々な要因が関わって、この先祖を祀るべき時を指し示す羅針盤は公の正月と盆を軸に、あちらこちらと彷徨いながら、その痕跡だけを習俗として残していく。やがては、先祖を敬う日はもっぱら盆の行事に集約され、正月に祀るお供えは、年神様、歳徳神への祭りとだけしか分からなくなっていく。

 

5 「山宮」の霊魂から<時間論>へ

 

『先祖の話』の終盤にさしかかると、そこには『山宮考』への発想が具体的に現れていることに気づく。そこまで記されてきた年頭作法、先祖祭り、葬送儀礼に関わる供物等の確認などの考察はすべて「山宮」の思想へ収斂していくように思われる。この死出の旅路はどう考えられてきたのか。各地に今も残る「さいの川原」の「さい」について次のように説いている。

 

赤城山中の賽の川原という話を知ってから、私は改めて今までの旅行の途次に、または書物や人の話で聴いた諸国の賽の川原を、数えかつ考えてみている。最初に言うべきことはこの地名には漢字が無い。すなわち生まれからの日本思想で、仏法はただこれを地獄の説明に借用したに過ぎぬということである。……(略)……言葉の起こりは道祖神のサエと一つであるべきことは、古い頃からこれを説いた人も一人ならずある。これが多くの霊山の登り路に、同じ言い伝えを持って今も残っているのは、むしろ仏教を離れた深い意味のある、一つの現象だと私は思っている。(六八、さいの川原)

 

そして、柳田国男の確信が吐露される文章が目立つようになってくる。

 

そこでまた一つの自分の想像を述べると、生と死との隔絶は古今文野(注2)の差を問わず、これを認めない者は無いのだけれども、その境目については今日のものと、異なる考え方がもとはあったろうかということである。簡単に言ってしまうならば、亡骸をあの世のものとは認めず、それもこの世の側に属せしめていたのではあるまいか。霊の存在を確実に信じた人ならば、それが肉体を立ち退く瞬間から、あの世は始まるものと思うのは当然である。(七〇、ほうりの目的)

 

では、霊魂が離れた後、この世に残された遺体、「現世生活の最後の名残」はどうしたか。

人のあまり行かない山の奥や野の末に、ただ送って置いて来ればよかったのである。(同)

もう少し『先祖の話』について書かなければならない。まとめ上げるのが非常に困難な著作であることは最初に断っておいたが、この『話』への私の確信の、せめて輪郭くらいは描ききらなければ、小林秀雄『本居宣長』の<時間論>に接続が出来ないからである。

(つづく)

 

(注1) 節用禍……『節用集』、室町時代に成立した国語辞書。日常語の用字、語釈などをイロハ順に記載した。つまり、言葉の漢字表記を求めるのに便利であったことから、ここで柳田は、話し言葉を漢字、漢語に置き直すことが禍いとなったとするのである。

(注2) 文野……「文」は雅びな階層で学のある人々、「野」は俗人、庶民階層。

 

続・小林秀雄と柳田国男

1 小林秀雄からの言及

前稿の最後に柳田国男『昔話と文学』の序文を長々と引用し、それが、ただならぬ文章であると記しただけで擱筆してしまい、読まれた方にはなんのことやら意味不明に思われたのではないかと思う。で、どういう訳かと言うと、これも明確には言いがたい性質のものなのだが、「日本文学史」や「日本文学概説」などという講義を長年、芸も無く繰り返してきた者にとって、最も悩ましい問題は、日本文学の特質とは何か、それをどう把握して説いたら良いかということで、この悩みを抱いて教壇に立って来た者ならば、必ず、あの柳田国男の知見、1938(昭13)年時点であのような認識に立っていたことに驚嘆するはずなのである。今、これについて詳細に語る術が私にはないのだが、私なりのある漠然とした方向性を得たという想い、それが「ただならぬ」という言葉になってしまったのだった。

さて、前稿で考察したように、小林秀雄が創元社編集顧問に着任し、『創元選書』を企画、その第1巻柳田国男『昔話と文学』が刊行されたのは1938(昭13)年12月10日、柳田63歳の年の暮れであった。この選書シリーズはその後かなりな刊行数に達し、出版業としては大いに成功したと言ってよいが、その第1巻についてかなりな思い入れや拘りが想定されるものの、この時期の前後には、小林が柳田に直接言及した文章は見あたらない。戦後になって、漸く、しかし、わずかな言及が現れてくる。

まずは、小林秀雄による柳田国男への言及が、いつ、どのようになされたか、それを時系列に整理しつつ、そこに現れる柳田国男観の展開を考えてみたい。

1950(昭25)年2月に発表された折口信夫との対談「古典をめぐりて」(「本流」創刊号)において国文学史と美術史とを総合するような歴史書が欲しいと小林が発言したときに、折口は「柳田先生のなさって居られる為事しごと――あれともう少し領域の違う方面にやっぱりあれだけ大知識人が、二、三人でもあると、余程よくなるのだと思いますがね」と語るが、小林はそれに応じて「ああいう博学な人が二、三人といっても大へんな事だ」と言う。柳田国男、すなわち博学な人物、この対談ではそれだけである。しかし、1958(昭33)年1月の「国語という大河」(「毎日新聞」)では、様々な国語教科書に採用される自らの文章への複雑な思いを述べながら、次のような言及が見える。

 

そういう次第だが、うれしかった経験もある。だが、たったいっぺんだけだ。それは、柳田国男氏が、氏の編集する国語教科書に、山に関する私の紀行の全文を選んで下さった時である。うれしかったというのは、私の文章なぞから、強いて選んでもらえるなら、この種の文章よりほかにはなさそうだと思っていたからである。

 

1935(昭10)年の8月に霧ヶ峰ヒュッテの「山の会」でその謦咳に触れた後、敗戦直後に自ら柳田邸へ赴き「創元」創刊に関わる相談を持ちかけた民俗学者・柳田国男への敬意は、敗戦後にもそのまま続いていたということである。しかし、この後は1965(昭40)年11月の大岡昇平との対談「文学の四十年」で、柳田が亡くなる前に呼ばれて筆記を依頼されて会いに行った経験を語る時へ飛んでしまう(前稿参照)。そして次には、『本居宣長』第二十八回の「稗田阿礼」についての記述箇所、すなわち「阿礼女性説は、柳田国男氏にあっては非常に強い主張(妹の力、稗田阿礼)となっている」に現れることになるが、しかし、驚くべきことにこの箇所は『新潮』連載時の「本居宣長」第二十九回(昭和45年4月)には記述がなく、阿礼女性説は折口信夫の論説としてのみ言及されていたのである。つまり、雑誌連載を終えた昭和51年12月以降から単行書『本居宣長』(昭和52年10月刊)の原稿成立の間に新たに加筆、修正されていると見なければならないが、これはこれで私にとっては興味深いことであって、『本居宣長』刊行前の昭和52年という時期に柳田国男の『妹の力』所収の「稗田阿礼」論が改めて組み込まれたことは、後に振り返ってみたい。

さて、これ以降の文章については、1974(昭49)年1月の「波」(新潮社)に掲載された「新年雑談」になる。これは『八丈実記』を刊行して菊池寛賞を受賞した同姓同名の編者、小林秀雄への祝意を表した文章だが、その『八丈実記』の著者である近藤富蔵という人物について「僕は柳田国男さんからはじめて話を聞きました」そして、この富蔵が自らの行状について「読本風に書いた」もの、「『鎗北実録』という面白いものがあるから、と柳田さんに薦められて読んでみたのである」と見えるが、この実録は相当気に入ったようで、「重蔵富蔵父子という事で、何か書けないかと思ったりして、家内に写させたものを今も持っている。ただそんな事をふと思っただけで済んでしまったが、誰かよくしらべて書いたら面白いのではないかと思う」とまで述べている。

この文章は1973(昭48)年の暮れに書かれたと思われるが、実はこれまでの小林秀雄全集類には未収録になっている「近藤富蔵の事」という文章が、この年の「文藝春秋」12月号に掲載されており、これは同誌の「第21回菊池寛賞発表」のページに「菊池賞受賞を喜ぶ」(p380)という欄があり、各受賞者への賛辞が簡単に書かれている記事で、小林の文章には「新年雑談」とほぼ同内容が記されている。しかし、この文章では、

写本「鎗北実録」を、柳田氏から拝借したのだが、非常に面白かったし、この人物について書いてみる気はないかと言われた事もあったし、家内に筆写させ、今も所持している。

 

と記されているのである。つまり、写本は柳田国男から借りて読んだもので、その際に、「この人物について書いてみる気はないか」と促されたとも読める。いつ、どこかは不明だが、小林秀雄と柳田国男との交流の一端をうかがわせる記述である点、見逃せない文章であろう。

そして、その翌年1974(昭49)年8月5日の鹿児島県霧島で行われた「国民文化研究会・全国学生青年合宿教室」における講演「信ずることと考えること」(原題)には、柳田国男の具体的な著作への、まとまったかたちでは初めてと言える言及が現れて来るのである。

 

 

2 柳田国男「ある神秘な暗示」をめぐって

先ず、この時期について小林秀雄の側から見れば、連載中の「本居宣長」の第五十二回が同年7月号、五十三回が8月号、五十四回が9月号に掲載されている。そして、このあたりの話題は本居宣長と上田秋成との「呵刈葭かがいか」論争の考察に入って来たところであり、論旨から言ってもまさしく、信ずることから身を起こす学問の姿と、物事を対象化して分析、考察していくいわゆる自然科学的思考法との対比を、古代人の奉じた神を問う論争に典型的なかたちで露呈してくることに注視し、その記述に集中していたところであった。いわば「本居宣長」の記述もいよいよ佳境に入って来たところであり、「信ずる」から出発する学問とはどういうものか、どういうかたちを取るものなのかについて、思い巡らしていた時期の講演であったと言えよう。

霧島での講演は、当時TV出演で一世を風靡したユリ・ゲラーの念力実験から、精神感応なる超常現象の話をめぐるベルグソンの思考方法に及び、そして霧島へ来る前に初めて読んだという柳田国男の『故郷七十年』、その「ある神秘な暗示」という文章についての読後感から次のように説き始めている。これは「信ずることと考えること」1974(昭49)年8月5日、霧島での講演録音(新潮CD『小林秀雄講演第二巻』)からそのまま文字起こししてみよう、それは後に活字化され、文章として整理されたものよりも、小林秀雄の息づかい、言葉を発する際の抑揚のあり方などに、柳田国男への想い、敬愛の情が実によく表現されているからである。出来るだけその肉声を聴き取るように読んで欲しい。

 

こないだね、僕は、こっち来る前に、柳田国男さんのね、故郷七十年という本を読んでた。昔から僕は聞いてた本だけども、ん、読まなかった、諸君、読んだ人あるかねえ、んー、柳田国男さんていう人は、諸君もよく読むといいですよ。あの、ハイカラみたいな本ばっかり読まないでね、ハイカラみたいな本、今、だいたいハイカラみたいな本、ろくな本はないです。

 

この発言後に、柳田国男『故郷七十年』中の「ある神秘な暗示」、すなわち柳田が14歳の時、茨城県の布川に預けられていた時の経験を語るものであるが、当時住んでいた旧家の庭に小さなほこらがあり、これは亡くなったお祖母さんを祭ったものだと聞いて、好奇心から中を覗いてみたという経験である。祠の中には美しい蝋石の玉があった。それを見た瞬間に、実になんとも表現できないような「異常心理」に陥り、昼間の空に輝くいくつもの星を見てしまう。その時、たまたま頭上高く飛んでいたヒヨドリの鋭い鳴き声で我に返ったという話を語り終えて、

 

僕はそれを読んだときね、非常に感動しましてね、ははあ、これで僕は柳田さんという人はわかったと思いました。そういう人でなけりゃ民俗学なんていうもんはできないんですよ、民俗学というのもひとつの学問です、学問だけど科学ではないですよ、科学の方法みたいな、あんな狭っ苦しい方法では民俗学っていう学問はできないんです。それからもっと大事なこと、もっと大事なことは、ヒヨが鳴かなかったら発狂するっていうような、そういう神経を持たなけりゃ民俗学っていうものはできないんです。そういうことをよく諸君考えてごらんなさい、諸君は目が覚めないか、そういう話を、僕はほんとにそのときに、はっと感動してね、あっ柳田さんの学問の秘密っていうのはここにあったんだ、こういう感受性にあったんだ。

 

というようにほとんど一気呵成の勢いで自らの感動をほとばしらせている。その語勢には聴いている者をこの感動の中に巻き込んでいく激しさが表れているのである。次いで柳田の話をもう一つということで、『山の人生』中の最初の話、「一 山に埋もれたる人生ある事」を紹介していく。これは明治の30年代後半あたりのこと、「西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男」が、自分の2人の子供を「まさかりで斫り殺した」事件の記録を、当時法制局参事官職にあってこれを読んだ柳田の思い出話なのだが、柳田自身はこの話の中でどのような想いを持ったのか、これが自分の学問、民俗学とどういう関係があるのかについてまったく言及していない。ただ、「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる」とだけ述べるに止まっている。しかし、小林秀雄はこの『山の人生』が刊行された大正15年に思いを馳せつつ、明治の終わりから大正期にかけての文学に大きな流れをもたらした自然主義、柳田の友人、田山花袋らが主導していった自然主義から私小説への潮流が、どれほど矮小な人生観を小説に仮託し続けてきたか、そこに現れた「空想で描いてみる世界」の人生よりも、「山に埋もれたる人生」の方が真実であり、そこには遙かな昔から今日まで、日本人の知恵として育まれて来た人生観があるのだという痛切な想いが、この話を書いていた柳田の胸中に去来していたはずだと説いているのである。

この霧島での講演は、ベルグソンへの言及が分量としては多く、柳田への言及は先に挙げた二つの著書に触れるだけなのでその半量くらいに止まっていた。そして、この講演が、後に「信ずることと知ること」として文章化され、『新訂小林秀雄全集』(第4次全集)の別巻Ⅰ(昭54年)に収録されたのであった。この全集の書誌Ⅱの解題によれば、

 

『日本への回帰』第一〇集、国民文化研究会刊、昭和五〇年三月。「諸君!」昭和五一年七月号に再掲・昭和四九年八月の国民文化研究会における講演に基く。

 

と記載されている。しかし、この霧島での講演の録音テープがそのまま新潮カセット文庫(昭六〇年十二月)で発売されてみると、その講演での言葉、文章は全集収録本文とはだいぶ異なっていることに気づく、その点について、このカセット文庫に付された解説(現行CD版にも掲載されている)によって、霧島での講演録音がそのまま活字化されなかった事情は明らかになるが、実はその時の講演だけではなく、その翌々年(昭51年)の3月になされたもう一つの講演を経て定稿とされた文章が、先の『新訂全集』本文なのだ。少々ややこしい話になるのだが、これはまた後に触れるとして、今は時系列の順を追って進めていこう。霧島の8月5日の講演から約2ヶ月後に「古田君の事」(『回想の古田晁』筑摩書房私家版 1974(昭49)年10月)に、再び柳田国男への言及が現れる。

これは筑摩書房の創業者であった古田晁の「一周忌に、友人ども相寄り、一文を草して、霊前に供えるという事で、書く事を約したままでいたところ、編集者から催促を受けた。それが、丁度、『故郷七十年』を読んだところであった」というのである。この古田晁追悼の文章は次のように始まる。

 

「定本柳田国男集」は、筑摩書房の優れた出版物の一つである。柳田さんの厖大な研究は「故郷七十年」と題する思い出話で終わるのだが、その中に、「ある神秘な暗示」という談話がある。十四歳の時の不思議な経験が語られている。

 

そして先に挙げた小さな祠を覗き見て「異常心理」に襲われた経験を紹介し、こう述べる。

 

この少年時の思い出の淡々たる記述は、人を引きつけずには置かぬ一種の名文であって、私は読んで、柳田さん自身の口から、その学問の秘密を打ち明けられたように思われた。

それはやっぱりそうだったかという強い感じであった。蝋石に宿ったお祖母さんの魂が、まざまざと見えるという、古人にとっては解りきった事実の中に、何の苦もなく、極めて素直に入りこめる柳田さんの、場合によっては狂気にも誘われ兼ねない天賦の感受性、或いは想像力に、出会う思いであった。これが柳田さんの学問の原動力をなしていた。そして、これは非常な抑制力によって秘められていた。この人にはこの人の持って生まれて来た魂の、全体的な動きというものがあり、それは、その学問の方法を受けついだ人々にも受けつぐ事は出来なかったものに相違ない。

 

この後に先の引用、この文章を書いている経緯について触れ、「故郷七十年」を読んでいたところだったと書いて、こう続く。

 

序でに、余計とも思われる事を言えば、今年初めてだが、裏庭の錦木の茂みに、鵯が巣をかけ、卵が三つ孵った。親は、高空で鳴く暇もなく、毎日、朝から餌をはこぶので苦労している。雛は、巣から高々と首を延ばし、精一杯に開けた口は、空を仰いで、満天の星を望んでいるような様子をしている。そういう次第で、ペンを取り上げると、私はわれ知らず、古田君の魂の行方を追うようであった。

 

ヒヨドリが営巣して雛を孵す時期がほぼ6月~8月頃とすれば、霧島での講演の直前に『故郷七十年』を読んでいたのであろうか。古田晁の命日は1973(昭48)年10月30日であって、その一周忌に文集を出すということであり、「編集者から催促を受けた。それが、丁度、『故郷七十年』を読んだところであった」というところを踏まえるなら、先の霧島での講演の直前に書かれたものではないかと推測されるが、柳田を語る文章の整い方をみれば、講演で語られた言葉に基づいて、かなり推敲されたようにも思われる。

さて、1974(昭49)年には8月と10月に柳田への言及を含む講演と文章が確認できるのだが、もう一度「信ずることと知ること」に戻し、1976(昭51)年に行われたもうひとつの講演について見てみよう。これが「古田君の事」の後に続く柳田への言及になる。

 

 

3 「信ずることと知ること」成立の経緯

現行の『小林秀雄全作品』にも収録されている「信ずることと知ること」が、実は2回の講演に基づいて成立していたこと、いわば文章作品としての「信ずることと知ること」の生成過程といったものが、『小林秀雄 学生との対話』(2014(平26)年3月 新潮社刊)の刊行によって明らかになった。本書には霧島での講演後、これをその翌年にはじめて活字化した「初稿版」と昭和51年3月の講演を経て成立した「定稿版」の両者を掲載し、次のような解説を付しているのである。

 

「信ずることと知ること」は、昭和四十九年八月に「信ずることと考えること」の題下に講義された後、翌年、改題されて国民文化研究会発行の「日本への回帰」第10集に掲載された(本書三〇頁から収載のもの)。小林秀雄はその後も思索を重ね、五十一年三月に東京で講演を行い、「諸君!」同年七月号に改訂稿を発表、これを決定稿とした。同じテーマが、講義をし、学生と対話し、講義録を作り、さらに時間を経て講演し、改稿されることで、作品にどれほどの深まりと表現上の工夫が齎されたか味読いただきたい(同書158ページ)

 

では、「初稿版」と「定稿版」でどこが異なるか。今、本稿で問題としている柳田国男に関わる小林秀雄の言及というところだけ取り上げれば、柳田国男の著作として紹介し、説いていく対象の数が違うのだ。1974(昭49)年8月の霧島講演とその活字化「初稿版」では、『故郷七十年』と『山の人生』の2著だけに言及しているが、「定稿版」では、これに加えて、『遠野物語』の「序文」と「山人考」、次に『遠野物語』中の第61話、そして『妖怪談義』にも言及しているのである。この4点の増加が何を意味するか。端的に言えば、霧島での講演から、小林は柳田国男の著作をさらに読み進めていったということである。それでは、1976(昭51)年3月の講演とはどのようなものだったのか。

これは福田恆存の依頼によって同年3月6日に、文京区本駒込にあった三越三百人劇場で行われた講演であった。この講演は録音されており、同年中にCBS・SONYからLPレコード小林秀雄講演「信ずることと知ること」と題して発売されたのである。私はこのアナログレコードを忘れもしない大学入学時(昭52年)に、秋葉原にあった石丸電気本店のレコード売場で購入し秘蔵していたが、世の中がCD時代になってからこのLPレコードを聴くこともなくなり、内容に柳田国男の話題があったとは記憶しているもののその全体はすっかり忘れていたのである。ところが、先だってふとしたことからこの音源に再び触れることを得て(本誌でもお馴染みの荻野徹さんのご厚意による)、一聴して驚嘆した。というのは、この三百人劇場での講演内容は、最初から最後まで柳田国男についてだけ語っていたものだったからだ。

 

 

4 三越三百人劇場における講演

1976(昭51)年3月6日、三越三百人劇場での講演「信ずることと知ること」の冒頭部はこう始められている。これも出来るだけ忠実に文字起こししてみる。

 

今日は僕、柳田さんの話を、ちょっと、ほんのわずかですけど、しようと思ってね、それで失礼しようと思ってんだ。実はね、今日はこの本持ってきた、これは柳田さんの本です。全集の中の本です、あの有名な「遠野物語」がのっかってる全集の一つですがね、実はこれはちょっと他でもしゃべったことがあるんですがね。

 

つまり、この時から2年前の夏、霧島での講演を踏まえることを示唆しつつ、その時と同じように「近頃僕は『故郷七十年』っていう本をね初めて読んだんです」と語って、やはり「ある神秘な暗示」という一節に言及していく。その読後の感動は次のような言葉となっている。

 

もしもヒヨドリが鳴かなかったら発狂したかもしれない、そういう非常な、あの、経験だなあ、そういう感受性を、がだね、柳田さんの学問の中でどのくらい大きな役目をしてるかっていうことは、僕は、柳田さんの本を読んでてよく分かるんですね。(……中略……)ははあ、これで分かった、ここに民俗学ってものを生かしている本当の命があるんだということを、私はそのとき、悟ったんですよ。あんとき、僕は柳田さんを好きでよく読んでいるんですけどね、そのとき、僕は、はっと目が覚めた。ははあそうか、やっぱりそうだったか……。

 

すなわち、この『故郷七十年』中の「ある神秘な暗示」の読後感について、小林は1974(昭49)年8月に講演し、同年10月に書き、そして1975(昭50)年3月に「信ずることと知ること」初稿版を書き(正確には聴講した学生のノート原稿に加筆、修正した)、さらに1976(昭51)年3月にまたこの講演で言及し、同年7月に「信ずることと知ること」定稿版を書く、という都合5回に渡って語り、書く行為を繰り返していたことになる。

三百人劇場の講演は、次に『山の人生』第1話に触れていくが、これは霧島での講演とほぼ同じである。しかし、その後は、『遠野物語』の「序文」に言及していく。

「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」を読み上げて、「随分激しい言葉を言っていますね」と語り、この「平地人」とは現代の「インテリ」のことだと近代知性に凝り固まった人間への鋭い批判を展開している。しかし、この序文の文言「平地人を戦慄せしめよ」という強い口調を取り上げるところ、これは、たとえば小林秀雄の遺作となった「正宗白鳥の作について」の第5回(「文學界」1981(昭56)年9月)で触れている、フロイトの『夢判断』の巻頭言「天上の神々を動かし得ざりせば、冥界を動かさん」への注目と同様な意味合いを持っているのではないか。つまり、柳田国男とフロイトに、その時代を占有している知性を根元から壊乱させるような力、しかし、それは、実に孤独な精神によって培われるしかなかった力、そのようなものを小林秀雄は、「平地人を戦慄せしめよ」という柳田の激しい語勢に、確かに感じ取っていると、私には思われるのである。

また、講演は『遠野物語』第61話を読み上げて、山中で白鹿に出会い、これを魔性のものと思って対決した猟師の話に、自然の力と人間の心との交流が開かれる異常な経験の姿を読み取っていく。そして、三百人劇場の講演は、最後に『妖怪談義』の一節を引用していく。

 

「化け物の話を一つ、出来るだけきまじめに又存分にしてみたい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、従って或民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれに由って、通常人の人生観、分けても信仰の推移を窺い知るに在った……(中略)……私は生来お化けの話をすることが好きで、又至って謙虚なる態度を以て、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっと断念してしまったわけは、一言で言うなら相手が悪くなってきたからである。先ず最も通例の受返事は、一応にやりと笑ってから、全体オバケというものは有るもので御座りましょうかと来る。そんな事はもう疾くに決している筈であり、又私がこれに確答し得る適任者でないことは判りきっている筈である……(中略)……無いにも有るにもそんな事は実はもう問題でない。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が昔は多いにあり、今では少しはある理由が分からないで困っているのである」。

 

この文についても、柳田が極めて婉曲に表現しているところを読み取って、次のような語勢で聴衆を柳田の文脈の内側へと強く誘っていくのである。ここでの小林の口調もまたたたみかけるような力が漲っている。

 

こういう文章の意味、分かりますか、こういう文章の含みが。ここには大変な含みがあります。だいたいね、柳田さんの文章は、みんな、含みがあります。含みで読ませるように出来ているからね、だから、難しいんですよ。柳田さんの学問ってものはね、含みのない文章じゃ表現することが出来なかった学問です。さっきも言ったようにね、ああいう、発狂するかしないか、ヒヨドリの声ひとつだというような心を持っていないと出来ない学問なんですよ、これは冗談でも何でもないんです、今、そういう学問がなくなっちゃったんです。文章の含みによって真理を語るっていう様な学問がね。そりゃあ文士はやってますよ、詩人は。だけどそういう学問だってなきゃ駄目なんです。それでなきゃ人間の学問はできませんね、人間に関しての、あるいは歴史に関しての……。

 

オバケの話を聞かせてくれと地方に行って頼めば、なんだ田舎者と思って馬鹿にするなと怒られるようになった。また逆に、都会ではオバケの話をしても「ニヤリ」と笑われておしまいになる。つまり、もう既にオバケという存在はかつての迷信の一つとして遠ざけられ、極めて意識的かつ合理的な日常生活においては忘れ去られたことになってしまっている。しかし、暗がりに潜む化け物は退治されたかもしれないが、心の奥底に追いやられた化け物は、底知れぬ不安として居座り続けているではないか。今もまだ、暗闇の中で恐怖を感じる人は、少なくなってはいるが必ずいるし、化け物話の風説はいまだに流布しているのであるから、我々の心の世界の奥行きと拡がりがどれほど遠くにまで及んでいるか。本当は計り知れないものであるはずだが、現代人は心の世界の隅々まで科学の発達によって知り尽くしたと自負し、それが恐れというものを追放したと思い込んでいる。

というように三百人劇場の講演は展開し、昔の人々が自然とあまりに近づいて、深刻な取り引きを結んでいた。その結び方を通して、神の恵みや神の怖しさを悟ることが出来たのだ、それは人間の心、魂の問題だった。そして、なぜそう出来たかといえば、この肉体と心というような区別などなかった、魂というものを持っていたからである。

柳田国男は、そういう魂のあり方が受け入れられなくなったことを嘆いているのだ、ということを最後に話してこの講演は終わっている。

 

 

5 柳田国男論

1976(昭51)年3月6日の本講演が伝えることは、先に挙げたフロイトの『夢判断』が実行した、人間心理の暗がり、「冥界」へメスを入れるような思考とまったく同様な、日本人の心の伝承的な真実を明るみへ出そうという画期的な学問が柳田国男の民俗学であること。しかし、その学問の前提として、柳田国男という、極めて繊細な感受性を生まれながらに帯びていた個性を必要とし、かつ、その個性に満ちた表現を以てしか成し遂げられなかったということなのである。注意すべきことは、柳田の民俗学という学問の成果は、その個性的な文体と切っても切り離せないということ。すなわち、言語的表現の意味というものは、その字面、そこに現れている文字自体には宿っていないという難解だが具体的で経験的な真実を懸命に伝えようとしていることである。そうした想いこそが、「こういう文章の意味、分かりますか、こういう文章の含みが」という、聴衆の心へ叩きつけるような語勢となってほとばしり出てしまうのである。

そして、さらに注意したいのは、この「文章の含み」なる働き、力の出所が「古田君の事」でそれとなく記されていたこと、柳田の人並み外れた感受性が「これは非常な抑制力によって秘められていた」と書き添えていることと深いつながりがあるはずだと、私には思われるのである。

さて、この講演を経て後、「信ずることと知ること」は定稿版へ整うのだが、おおまかに言えばその前半は霧島での講演で、後半が柳田国男の学問について、そこに三百人劇場での講演が接続されている。しかし、どうやら、この講演記録の文字起こしで定稿版のすべてが成立しているわけではない。極めて些細なことかも知れないが、この講演内容を注意して聴いた上で、文字化された定稿版を読み直すと、定稿版において柳田国男の「山人考」が「山人」の由来を説く引用文とともに付け加えられていることが分かるのだ。つまり、三百人劇場の講演から定稿版擱筆までの間に、さらに柳田国男の文献を確認していたことになる。

以上のような経緯を振り返ると、1974(昭49)年の夏、霧島での講演を皮切りに、1976(昭51)年の「諸君!」7月号の「信ずることと知ること」定稿版に至るほぼ2年間に、小林秀雄は柳田国男の著作のあれこれを渉猟していたことが分かってくる。そこで、先に少々触れた、『本居宣長』の稗田阿礼女性説の件に戻ってみたい。

繰り返せば、『新潮』連載時の「本居宣長」第二十九回(昭和45年4月)には、阿礼女性説は折口信夫の論説としてのみ言及されており、雑誌連載を終えた昭和51年12月以降から単行書『本居宣長』(昭和52年10月刊)の準備としての連載原稿推敲の間に、柳田国男の説が新たに加筆、修正されていると見なければならないが、すなわちこれまで叙述して来た小林秀雄の柳田国男への注視の時間を踏まえれば、少なくともその2年間あたりで、柳田国男『妹の力』所収の論文「稗田阿礼」を読んでいたということになると思うのである。

もちろん霧島での講演直前に柳田国男を初めて読んだわけではない。小林秀雄と柳田国男との邂逅から創元選書第1回『昔話と文学』刊行(1938(昭13)年12月)、そして敗戦直後の柳田邸訪問等、その付かず離れずの関係は戦前から継続していたことは前稿で記した通りである。たしかに、柳田国男論は書かれなかったが、先に記した三百人劇場での講演はそのままで実に見事な柳田国男論であった、時は『本居宣長』の完成に向けて集中されていたとは言え、あるいはその先に、柳田国男論が書かれていても不思議ではなかった、そう私には思われるのである。

 

 

6 「お月見」

 

柳田国男は1962(昭37)年8月8日、ひどく暑い夏の日に逝去したという。享年87歳。その年の秋、10月27日発行の「朝日新聞」PR版・四季の欄に小林秀雄は「お月見」という小文を寄せていた。

 

知人からこんな話を聞いた。ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をした。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集まって一杯やったのがたまたま十五夜の夕であったといったような事だったらしい……

 

と始まる小文は、宴席の途中で誰もが月の出を待つように空を見上げる、ところがその席にスイス人が数名加わっていて、賑やかな宴会の途中に月を見上げて静まり返った日本人たちに「今夜の月にはなにか異変があるのか」と質問したという逸話である。そして、次のように終わっていく。

 

お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却する事はむずかしいなどと口走ってみたところで何がいえた事にもならない。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。私は、自然とそんな事を考え込むようになった。……

 

日本人が長年の間に培って来た自然への独特な感受性は、我々の身体のどこかに、必ず潜んでいる。しかし、それは我々には意識化できないもので、たまたま外国の人が鏡となった場合に、漸く、自らの姿がそこに写されるように浮かび上がる。そうしたことを生涯かけて掘り起こして来たのが柳田国男の民俗学であったことは疑いない。そして、そうつくづく思っていると、この「お月見」という小文には、柳田国男への追悼という「含み」がある、私にはそう読めて来るのである。

 

(了)

 

小林秀雄と柳田国男

一 『山宮考』後日譚

昨年の本誌11・12月号に本居宣長の奥墓について記した際に、柳田国男『山宮考』(1947(昭22)年)の重要性を強調しておいたが、その後、さらにいろいろと思い巡らしたところがあり、現時点での続編めいたものを記しておきたいと思う。というのも、先の拙文で紹介した、小林秀雄『本居宣長』の第一回から言及される宣長の遺言書への批評がますます気がかりになって来ているからである。これを「彼の思想の結実であり、敢て最後の述作」(一)と言い、さらに「むしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える」(二)とまで重視するところ、そしてそれは外部からは「申披六ヶ敷筋もうしひらきむつかしきすじ」としか見えない質の思想であったと評するところに、私は、柳田国男『山宮考』が掘り起こした古代の葬送神事の心性を重ね合わせた風景を描いてみたつもりであった。しかし、改めて柳田国男の仕事の道程を考えてみると、民俗学を開きつつ追究し続けたのが日本人の祖霊信仰であり、そのかつての姿と『本居宣長』の先の記述とが、私の中でより強く二重写しになり、かつ、小林秀雄と柳田国男の関係も再考すべきではないかという想いが日増しに強くなって来たのである。

先の文章で『山宮考』が非常に難解な論考であるとしたが、その周辺をもう少し広げて1945(昭20)年の敗戦以降の柳田の思考のありようを確認してみると、精髄としての「山宮考」を取り巻いている文脈が徐々に明らかになって来る。そこで、書誌的な情報を時系列に整理してみると、1946(昭21)年から翌年にかけての柳田の著作『新国学談』三部作として、『祭日考』、『山宮考』、『氏神と氏子』の3冊が並んでいたことになるが、また一方で、昭和の戦前期から折に触れて記していた論考、それは神の依代として神聖視されて来た樹木、神木、門松等への考察類があり、柳田が長年にわたって注意を払って来た対象は、山の樹木類に神の存在を見いだすという心性であったことも明らかである。なお、これらは戦後に記された論考類も含め『神樹篇』としてまとめられ1953(昭28)年に刊行されている。そして、もう一つの注意すべき論考が『先祖の話』なのである。

『先祖の話』は先の著作類に先んじて戦時中、1945(昭20)年4月から5月にかけて執筆され、敗戦後の1946(昭21)年4月に刊行されている。その序文は刊行前年の10月に書かれており、その中に本書の企図については「もちろん始めから戦後の読者を予期し」ていたとはっきりと述べている。また、最終回、「八一 二つの実際問題」の冒頭は次のように書き起こされている。

 

さて連日の警報の下において、ともかくもこの長話をまとめあげることが出来たのは、私にとっても一つのしあわせであった。いつでも今少し静かな時に、ゆっくりと書いてみたらよかろうにとも言えないわけは、ただ忘れてしまうといけないからというような、簡単なことだけではない。

 

この最終回を擱筆した日付は昭和20年5月23日と記されている。つまり、この「連日の警報」とは東京上空を襲った米軍機、B29の爆撃警報であり、3月15日の大空襲後も毎日のように続いた空襲下で『先祖の話』は書き続けられたのである。先の序文には「この度の超非常時局」という語もみえるが、柳田があり得べき戦後の日本社会を念じつつ、空襲の最中に筆を走らせていたことは実に重い意味を帯びていよう。

それでは、ここで私の想定する「山宮考」を囲む文脈の動きを簡潔に描いてみよう。

昭和、戦前期に散見する柳田の関心の底流には、神を宿す樹木を斎き祭る心性への注視が継続していた。そして、敗戦直前に書いていた『先祖の話』が戦後直ちに刊行される。続いてそこで展開された要点の具体的な深化として、『祭日考』、『山宮考』、『氏神と氏子』と詳細な考察が発表されていった。そして、これらの核心部に潜んでいる思想が日本人の伝統的な死生観に関する大きな見通しなのである。生と死という絶対的な強度をもって人間を拘束する経験と対峙し続けながら、人々はどのような作法を以てこれを受容していったのか、これを迎え入れる術と知恵をどのように育んで来たのかについて紡ぎ出された柳田の文章は、読み手の想像力を果てしなく促して止まない魅力に満ちている。

たとえば、柳田の見通しの端的な一例は『先祖の話』の自序に見える。

 

家の問題は自分の見るところ、死後の計画と関聯し、また霊魂の観念とも深い交渉をもっていて、国毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論はこれから何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ悪しかれ多数の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、またどうなっていくべきであるか。もしくは少なくとも現在において、どうなるのがこの人たちの心の願いであるか。それを決するためにも、まず若干の事実を知っていなければならぬ。

 

家が代々継がれていき、また分家が徐々に広がっていき、先祖からの血筋が血統として縦の集団を結成していくことの意味、そうした家々に生死を反復してきた人々の生活にほぼ無意識化して引き継がれてきた行動様式の内側に、柳田は言葉にならないまま育まれている世界認識の方法を示唆していくのである。そして、戦後の日本社会を見据えた上でどうしてもこれを書かなければならなかった理由の一つとしては、他国へ出て行きそのままその土地に住み着き、そこで「一つの家を創立しよう」とする人々が増加してきたからだと最終回に改めて記しているが、もう一つの「実際問題」として、「家とその家の子無くして死んだ人々との関係如何である」として、「少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒の言う無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけにはいくまいと思う」とも言う。つまり、この『先祖の話』の最初に「家の存続」を大きな問題として掲げた柳田の発想の動機がもう一度最後に記され、これがなぜ戦中において書かれなければならなかったのかが明かされるのである。

 

二 小林秀雄と柳田国男

さて、『先祖の話』の内部へ入っていく前に、まずは小林秀雄と柳田国男との関わりについて、分かる限りのところを押さえておきたい。

小林秀雄と大岡昇平との対談「文学の四十年」(「日本の文学」43『小林秀雄』中央公論社 昭40・11、同書の月報に掲載)は、小林が同年6月からの「本居宣長」連載開始の直前に『正宗白鳥全集』の監修に携わっていたせいか、正宗白鳥の文体の話題から始まって徐々に佳境に入っていく。大岡が「終戦後の正宗白鳥さんとの対談はおもしろかったな」と切り出し、正宗白鳥との対談、「大作家論」(『光』昭23・11)について語り合った後に、「あのころ、あんたは柳田国男を泣かせたり、よく年寄りをいじめたときだったけれど」と言うのに対し「それは絶対にデマだよ」と小林は否定しつつ、柳田国男について次のように語り出す。

 

柳田さんが亡くなる前、向こうから呼ばれて三度ほど録音機持って行ってるよ。つまりあの人は、なにか晩年気になったことがあったらしい。というのは道徳問題だよ。日本人の道徳観、それを言い残しておきたかったんだよね。筆記をとってくれというので行ったけれど、結局それは駄目だったな。話がみんな横にそれちゃって、中心問題からはずれてぐるぐる回ってしまってね。あの人の研究の話をして、面倒な、辛い話になり、愚痴みたいなことになってしまった。

 

しかし、これに対して、大岡は柳田の研究方法、研究姿勢へのややシニカルな発言を返すのみだが、小林は続けて、

 

それはぜんぜん違うね。やはり日本の将来の思想問題が心配だったということだとおれは思ったね。おれは君の言うような感じをあの人に持っていないもの。

 

と述べている。この対談での柳田の話題はこれまでであるが、柳田国男の最晩年の思想の焦点を小林が「道徳問題」、「思想問題」と推定しているところは見逃せないものがあると思うのである。

柳田が逝去したのは1962(昭37)年8月の初めであった。

小林秀雄が柳田国男をいつ、どこで知ったのか明確には分からないが、『遠野物語』(1910(明43)年)以来、口碑、民間伝承、習俗等を採集し続け、1935(昭10)年には民間伝承の会を発足し、日本民俗学を創始した在野の研究者の存在に、その前後には気づいていたのではないか。柳田が日本の伝統の姿を掘り起こそうと企図していたその年に、「私小説論」は書かれているが、そこには次のような言葉も見える。

 

社会的伝統というものは奇怪なものだ。これがないところに文学的リアリティというものも亦考えられないとは一層奇怪なことである。伝統主義がいいか悪いか問題ではない。伝統というものが、実際に僕等に働いている力の分析が、僕等の能力を超えている事が、言いたいのだ。

 

また、当時の現代作家の作品よりも通俗作家の時代物、髷物といった作品がなぜ大きな人気を呼んでいるかについて、

 

現代人のなかに封建的残滓がいかに多いかという証拠だが、又この感情の働くところには、長い文化によって育てられた自由な精錬された審美感覚が働いているのであって、この感覚が、現代ものに現れた生活感情の無秩序と浅薄さを看破し、髷ものに現れた人々の生活様式や義理人情の形式が自分等から遙かに遠いと知りつつ、社会的書割りのうちに確然と位置して、秩序ある感情行為のうちに生活する彼等の姿に一種の美を感ずる。……(中略)…… 過去に成熟した文化をいくつも持ち、長い歴史を引き摺った民族の眼や耳は不思議なものだと思う。僕はこの眼や耳を疑う事が出来ない。

 

と、民族の伝統を認識するところは注目に値する。すなわち、ここで言う「文学的リアリティ」の濃度が、読者を作品へ惹きつける力であることは、1933(昭8)年の傑作として谷崎潤一郎『春琴抄』を評価した際の実感であったはずであり(「文芸批評と作品」昭和8・12 大阪朝日新聞)、また、同年の「故郷を失った文学」(「文藝春秋」昭和8・5)の最終部、「歴史は否応なく伝統を壊す様に働く。個人は常に否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する」と記していたことを踏まえるなら、小林がこの時期から「伝統」という言葉を自身の言葉として発音していたことが明瞭になってくるからである。そして、これ以降に文壇を賑わせる、いわゆる「日本的なもの」の問題について、1937(昭12)年には正面からこれを論じた批評も書いているが、こうした文壇的問題が拡がる以前から、おそらく私小説を考えることを契機として日本文学の伝統とは何かという問題に逢着していた小林の姿勢も浮かび上がってくるだろう。

さて、先に述べたように小林と柳田との正確な邂逅の時は明らかではないが、あるいはこれが最初の出会いではないかと推測できる出来事はあった。2019(令元)年に刊行された『柳田國男全集』(別巻1 筑摩書房)は非常に詳細な年譜を1巻にあてた労作であり、これを読み進めていくと小林秀雄の名が直接登場する出来事が2件見出せる。まずはこの柳田年譜に見える小林秀雄について洗い出してみよう。

その最初は1935(昭10)年8月で、「私小説論」の第4回(結論)の原稿を書き終えた直後と言って良い。この年の夏、7月下旬から9月まで小林秀雄は深田久弥、北畠八穂と共に霧ヶ峰で一夏を過ごしており、その間に小林は柳田に会い、柳田の話を聞いていたと思われるのである。

 

三 霧ヶ峰ヒュッテ「山の会」

柳田年譜、昭和10年から引用する。

 

八月一七日 二一日まで梓書房発行の雑誌『山』が主催する「霧ヶ峰山の会」に参加するため家族七人で新宿から中央線に乗り、上諏訪で降りて霧ヶ峰に向かう。詩人長尾宏也が建て、話題となっていた霧ヶ峰ヒュッテに泊まる。講師は他に武田久吉、辻村太郎らで、石黒忠篤、中西悟堂、尾崎喜八、小林秀雄、深田久弥などが集まる。この日の新聞に、小林秀雄、深田久弥が消息を絶つとの報道があり、話題となる。夜、赤星平馬と千枝夫婦も参加する。午前中は講話、午後は散策、夜は雑談会で、怪談話などする。

 

この「山の会」は、梓書房の岡茂雄が中心となって全体を5泊6日で行う講話会で、深田久弥も開催に協力していたようである。1932(昭7)年の南アルプス・鳳凰山登山以来、小林は深田との山行やスキーを頻繁にしており、おそらく深田の誘いによっての参加だったのだろう。ちなみにこの「山の会」は2005(平17)年に霧ヶ峰のヒュッテ・ジャヴェルにおいて復活され現在まで続けられている。そのhpによれば、1935(昭和10)年の会の講師は、「登山家の木暮理太郎・民俗学の柳田國男・植物学の武田久吉・中央気象台長の藤原咲平」とあり、辻村太郎は予定していたが欠席となっており、聴講生としては「尾崎喜八・中西悟堂・松方三郎・村井米子・小林秀雄・深田久弥・北畠八穂・大岡昇平・青山二郎・中村光夫・飯塚浩二・石黒忠篤ら」とより詳しく記載がある。つまり当時の小林秀雄交友圏の核心にいた人々が一斉に集まっていたのである。この会について小林はこの翌年に書いた「山」という小品で少し触れている。

 

昨年信州霧ヶ峯で一と夏を過した時、武田久吉博士が来て、植物の名前をみんな教わっていたが、あの草ぼうぼうの草っ原の草一本々々の名前が解ってしまったらどうなるかと思った。

 

と記し、散歩に寄った八島ヶ池で「山椒魚の子供」がいると石原巌に指摘され、「小屋の爺さんに佃煮にしろ」と言ったら「あれは井守だ」と正された話から、中学3年時の雲取山登山で遭難しかけた話でこの小品は終わる。また、『深田久弥・山の文学全集』Ⅰ(1974(昭49)・4 朝日新聞社)には「霧ヶ峰の一夏」(1936(昭11)・7)が収録されていて、この霧ヶ峰ヒュッテ滞在時の様子や「山の会」のことも具体的に書かれている。

 

去年ひと夏を霧ヶ峰で暮らした。

上諏訪から三里の道を自動車で上がって行ったのは、七月下旬のよく晴れた暑い日であった。

 

と始まり、「二、三日おくれて小林秀雄君がやってきて、僕の隣の室に腰を据えた。ともにここで一夏過ごすためである」とあり、午前中は勉強、午後は散歩という毎日が紹介され、霧ヶ峰高原の地勢や展望などが語られていく。この時の小林の勉強とは、アラン『精神と情熱とに関する八十一章』の翻訳作業を指しているはずである。そして「外歩きから帰って一風呂浴びると夕食になる。永い滞在客は僕等夫婦と小林君だけだったが、入れ代わり立ち代わり新しいお客があるので、食堂の夕餐はいつも賑やかだった」と、こうしたお客の中に、「文学界」仲間も入っていたのだろう。さすがに山の紀行文に慣れた深田だけに、霧ヶ峰周辺の自然観察は行き届いていて、八島平近くの「旧御射山」(もとみさやま)にある小さな社が「諏訪明神の元」であること、すなわち諏訪大社下社の山宮のことまで触れている。

さて、「山の会」についてはこう書いている。

 

このヒュッテに五日間、僕もその計画の一端に預かった「山の会」が開かれ、講師に武田久吉博士が来られたのを幸いに、そのお供をして、見あたり次第の花の名前を教えていただいた。……(中略)……この「山の会」には、武田さんの他に柳田国男、藤原咲平、木暮理太郎、中西悟堂、尾崎喜八の諸氏も見えて、それぞれ専門の話をされた。僕などは一介の文学書生で、自然界の諸現象にははなはだ無智であったが、これらの諸氏のお話を聞いて大いに得るところがあった。「山の会」は午前に諸先生の話があり、午後は幾組かに分かれての山歩き、夜はお茶を飲みながら笑声の絶えない団欒を過ごした。会員は二十人にも足りなかったが、和かな楽しい集まりであった。

 

この会に柳田が参加したのは、おそらく中西悟堂の誘いではなかったかと思われる。中西はこの前年に「日本野鳥の会」を設立し、柳田は賛助会員として会員誘致の手助けをしていたからである。では、柳田は何の話をしたのだろうか。小林も深田もこれに触れてはいないが、先に引いた柳田年譜の「八月一七日」では「夜は雑談会で、怪談話などをする」とあったが、翌「一八日」は講師として「午前中の講話で「狩と山の神」について講演する」とあり、「一九日」には「山の幻覚のこと」などを話したあと、参加者全員に見送られ、「みんなより一足先に家族と共に帰京する」と見える。この2泊3日の滞在時の「夜の雑談会」で柳田が他にどんな話をしたか年譜の記事からは分からないが、小林にとっては柳田の学問に直接触れた最初の機会であったと思われる。そこでもう少しこの「山の会」について調査を進めると、梓書房の岡茂雄が著した『炉辺山話』([新編] 平凡社ライブラリー 1998(平10)年)中に「霧ヶ峰「山の会」」が見出せる。また、その文中に中西悟堂「「山の会」の素描」なる文章が引用されており、これは石原巌編集により1934(昭9)年から1936(昭11)年にかけて梓書房から発行された月刊誌『山』第2巻9号(1935(昭10)年9月)に掲載されており、この『山』の同年9、10、11月号には、8月の「山の会」で行われた講演も収録されていた。そして幸運なことに、小林が聴講したであろう柳田の「狩と山の神」は10月号に掲載されているのである。

この岡の文章と中西の文章を読み比べていくと「山の会」のだいたいの様子も浮かび上がって来る。岡の参加は遅れて20日、帰京する柳田一行とすれ違うところからヒュッテに入る記述になるが、岡の文章が書かれたのが1972(昭47)年であるのに対して、中西は19日に霧ヶ峰へ入り、「山の会」直後に起筆しているようで、より正確な記述であろうと思われる。しかし、中西の文章でも柳田の帰京は20日となっていて、柳田年譜の19日は要修正かもしれない。17日の講話は不明、18日は柳田「狩と山の神」、19日は藤原咲平、中央気象台長で霧ヶ峰の麓、角間新田の出身、作家の新田次郎の伯父である。その藤原の山の気象に関する講話、20日は木暮理太郎「登山談義」、その夜に中西悟堂は野鳥の話をしている。そして21日は尾崎喜八「山と芸術」となっており、この尾崎の講話に触れて「けさは小林秀雄氏が新たに加わっている」と中西は記しているが、ここまでの講話に小林が参加していなかったかどうかは分からない。たとえば午前中はアランの翻訳で部屋にこもっていたのかもしれない。ただし中西が来たのは19日であるから、18日の柳田の講話を小林が聴講していたことは推測できるだろうし、すくなくとも午後や夜の談話には参加していたはずである。

この中西の文章から小林秀雄に関わるところを引用しよう。19日の夜の談話の様子から。

 

夜は全員が一室に集まって、長いテーブルを取り巻いての雑談会だ。……(中略)……心おきない、寛仁の空気でいっぱいな雑談会は話の止め度がなく、やがてどの辺りからか怪談に移ってゆく。柳田さんが、二人の人が同じ場所で同じコンディションの中に一つのヴィジョンを見得るものだと言われる。誰も彼も話題が豊富だ。尾崎君も、松方さんも武田さんも、街の、あるいは山の怪をどしどし提供する。

 

そして、8月21日の最終日には、

 

(朝)食後、午前の講話は先ず尾崎君の話。けさは小林秀雄氏が新たに加わっている。……(中略)……最後の夜の座談会は、議論に終始した。小林秀雄氏から「科学者は無機物の世界をも支配しようとしますか」という難問が出て、武田博士がこれに答え、尾崎君はジャン・ジオノを語り、科学は神秘道に通ずるという話になる。それから、吾々は如何に山に登るかという話になって、石原巌君、小林秀雄氏、深田久弥氏、尾崎君のあいだに一しきりの論争。

 

といった具合に続いている。おそらく、この年の8月17日から20日の4日間にわたる滞在期間において、柳田国男は民間伝承、民間信仰、昔話等の採集経験から得た多くの談話を小林秀雄の周辺に残して去ったのではないか。18日の柳田の講話記録を読めば、明らかに1909(明42)年に著した『後狩詞記』(のちのかりことばのき)に端を発した「山の神」に関する考察がテーマとなっているし、夜の雑談会での怪談話も柳田の知見を踏まえた独自な思考を伴っていたはずである。

この夏の霧ヶ峰ヒュッテでの柳田との邂逅は、小林にとって忘れがたい印象となっていたと私は思う。そしてそれこそが1938(昭13)年に一つの実りをもたらすのだ。

しかし、その前にもう一つの柳田との関わりを見ておきたい。

 

四 雑誌『創元』創刊への動き

先述した柳田年譜に見えるもう一つの小林秀雄の記事は、戦後の1945(昭20)年9月に入って、7日、14日と15日の3回にわたって小林が成城の柳田邸を訪問していたということであった。3回の訪問は次のように記されている。

 

九月七日 以前、山の会で会ったことのある小林秀雄が初めて自宅にやって来て、雑誌を創元社から出すので協力してほしいと言われる。

 

九月一四日 小林秀雄が来たので、「二十三夜」の原稿を渡そうと探したが、見つからなくて困る。

 

九月一五日 小林秀雄が再び訪ねてきたので、神道の研究の話をする。

 

7日の記述ではっきりするのは、先述した霧ヶ峰ヒュッテで開催された「山の会」の時が、少なくとも柳田国男にとっては、小林秀雄との初めての出会いだったことである。先には記さなかったが、この「山の会」は1935(昭10)年8月17~21日の1度だけで終わっている。それは翌年の夏には開かれないまま、その12月23日に霧ヶ峰ヒュッテは失火によって焼失してしまったからである。つまり「山の会」はヒュッテの再建もままならないうちに立ち消えになってしまったのであった。

また、ここで言う「雑誌を創元社から出す」とは、おそらく翌1946(昭21)年12月に創刊された『創元』のことであろう。創刊の準備期に小林が柳田にどういう協力を要請したのかは分からないが、同年10月5日には小林の従兄・西村孝次が柳田邸を訪れ、同じ雑誌の相談をしているようである。さて、小林は7日に訪れた際に、14日に受け取るはずの原稿依頼もしたのだろうが、柳田は14日には渡せず、翌15日に再訪した小林に手渡した上で、「神道の研究の話」をしたということになる。もちろんこれは小林が大岡に語った「呼ばれて三度ほど録音機持って行ってる」という時期ではない。しかし、この時の柳田は『先祖の話』を書き上げ、7月に原稿を筑摩書房の唐木順三に一括して手渡しており、8月下旬からは、「氏神祭や山宮祭について考え始め」、9月9日には柳田邸へ戦後初めて集まった門下生たち(木曜会)へ「氏神と山宮祭について話す」と記されているところを考えれば、この時期の柳田が小林に語った「神道の研究」の内実は『先祖の話』と『山宮考』、『氏神と氏子』の内容に関わるもの、すなわち日本人の固有信仰の姿をいかに浮き彫りにしていくかというものだったと想像されるのである。

さて、以上が柳田年譜から読み取れる小林秀雄の動きであるが、話を再び1935(昭10)年に戻し、8月の「霧ヶ峰山の会」からほぼ3年後、1938(昭13)年12月10日に刊行された「創元選書」に触れておきたい。

 

五 『創元選書』の創刊

1935(昭10)年の夏、霧ヶ峰ヒュッテでの滞在で小林秀雄はアランの『精神と情熱とに関する八十一章』を訳していたが、翌年の夏も再び深田久弥、北畠八穂とともに青森県十和田の蔦温泉(小林秀雄「蔦温泉」1936(昭和11)年9月)で過ごしている。おそらくこの夏も同書の翻訳を続け、その年の秋あたりに伊豆の湯ヶ島(小林秀雄「湯ヶ島」1937(昭和12)年2月)で仕上げているようだ。第5次小林秀雄全集別巻2所収の年譜によれば、1936(昭11)年12月に「アラン『精神と情熱とに関する八十一章』(翻訳)を創元社より刊行、「『精神と情熱とに関する八十一章』訳者後記」を附す。これが機縁で、この頃から創元社顧問となり、創元選書(昭和十三年十二月創刊)の企画に参与した」と記されている。この『創元選書』の企画立案を主導していたのが小林秀雄であることは夙に知られているところであり、その第1回の刊行が、1938(昭13)年12月10日発行の柳田国男『昔話と文学』、野上豊一郎『世阿弥元清』、宇野浩二『ゴオゴリ』の3点であったことも周知のことである。しかし、では、なぜ『創元選書』の第1号が柳田国男の著作であったのか、それが分からなかったのである。

『私小説論』の以前から度々散見していた「伝統」への言及を総体的に捉えれば、昭和初期文学の状況を「時評」しつつ、これを「故郷を失った文学」(1933(昭8)年5月)と断じた認識は極めて自然に、そしてゆっくりと日本文学の「故郷」へと促されていったのではなかったか。そうした時に「山の会」で出会った柳田国男の思索の一端に触れた経験は、少しずつ小林秀雄の脳裏にしみわたって行ったのではないだろうか。

 

六 終わりに

本稿の当初のもくろみは、柳田国男『先祖の話』の思考の構造を追跡することによって、『本居宣長』の最終章から第1回へと還流する文体を浮き彫りにしようとすることであった。しかしその前に、どうしても考えておきたい柳田国男のことについて紙数を費やさざるを得なかったので、ひとまずは「小林秀雄と柳田国男」という主題にとどめ、別稿を期したい。

最後に、柳田国男は『創元選書』第1号の創刊にあたって丁寧な自作解説を「序」として寄せており、日付は「昭和十三年十一月二十九日」と記されている。そこにただならぬ一節が見えるので引用して擱筆としたい。なぜ本書の題名が『昔話と文学』とされたのかが示唆されているからだ。もちろん、編集顧問として小林秀雄も熟読したはずである。

 

昔話を中心にした民間の多くの言語芸術は、常に今日謂う所の文学と相剋して居ります。人に文字の力が普及して、書いたものから知識を得る機会が多くなると、それだけは口から耳への伝承が譲歩します。小児か文盲の者かが主たる聴き手ということになれば、彼等の要求は又新たに現れなければなりません。一方には又その古くからのものを排除してしまった空隙には、ちょうどそれに嵌まるような文学が招き入れられるのであります。一口に言ってしまえばただ是だけですが、それには時代もあり土地職業の変化もあって、この文学以前とも名づくべき鋳型は、かなり入り組んだ内景を具えておりました。それへ注ぎ込まれたものの固まりである故に、国の文学はそれぞれにちがった外貌を呈するのではないかと私などは思って居ります。何べん輸入をしてみても文学の定義がしっくりと我邦の実状に合ったという感じがせぬのもそうなれば少しも不思議はありません。単なる作品の目録と作者の列伝とを以て、文学史だと謂って我慢をしなければならなかったのも、原因は或いは斯ういう処にあったかも知れぬのであります。テキストの穿鑿に没頭する此の頃の研究法というものに、私たちはちっとも感心しては居りませぬが、それをひやかすことは此書物の目的では無く、勿論我々の任務でもありません。本意は寧ろ文学の行末を見定めたいという人々に、出来ることなら明瞭に又手軽に、今まで積み上げられたものの輪郭を御目にかけたい為で、それには愈々昔話の採集を、広く全の隅々に届くように、我人ともに心がけなければならぬということを、実例に依って御話がして見たかっただけであります。

(了)