「源氏物語」を読んでいこう

2017年4月より「小林秀雄に学ぶ塾」での学びの機会をいただき、もうすぐ二年が経過しようとしている。これまで、月に一度の講義に参加しながら、塾の派生活動である「源氏物語」の素読会、三か月に一度開催される歌会やほぼ隔月に行われる音楽塾などにも参加させていただいた。

毎月の講義では、塾生が自分なりの質問を立てたものを発表し、塾頭とのやりとりを中心としながら塾生全体でそのテーマについて考えを深めていく。質問に立つ前提として、小林秀雄先生が著した「本居宣長」を読み、自分なりのひっかかりをさぐり、質問という形式の自問自答へ整えなければならない。しかし、この本は、私に、簡単にひっかかりを見せてはくれなかった。それでも、前に述べた派生活動に参加しているうちに、私にとって「源氏物語」こそが「さぐるべきテーマ」ではないかと思うに至った。

2018年8月にようやく質問の場に立つ機会がめぐってきた。質問の趣旨は次のようなものだった。「本居宣長が『源氏物語』を読んだ道筋にたどりつくための読み方を考えてみたい。光源氏が『源氏物語』という、比類ない『夢物語』のなかで演じていたのは、すべての人が持ち合わせ、日常の中で感じる『もののあわれ』をあらわす人物像なのではないだろうか。また、本居宣長が言った『此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし』という言葉を考えてみたとき、物語に通底する『調べ』を感知して読んでいくことではないかという感触を得た。このように読んでいくことが、目的に通じる道なのではないだろうか」

質問の場において、塾頭から、今後も「源氏物語」を読んでいく上での、示唆にあふれた数々の教えをいただいた。その際、塾頭より「本居宣長」において、私の質問に密接に関係している六つの箇所を示された。何度も読み返し、とりわけ自分に語りかけてくるように思う箇所を熟視対象として抜粋したい。

 

……宣長が、「よろづの事にふれて、ウゴく人のココロ」と言う時に、考えられていたのは、「ココロ」のウゴきの、そういう自然な過程であった。あえて言ってみれば、素朴な認識力としての想像の力であった。彼は、これを『源氏』に使われている、「あぢはひを知る」という、その同じ意味の言葉で言う。「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言う。なるほど漠然とした物の言い方だ。しかし、事物を味識する「ココロ」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受け取る道はあるはずだ。宣長が選んだ道はそれである。「ココロ」が「ウゴ」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事はかなわぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きることであろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。

(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集「本居宣長」p.163~p.164)

 

言葉を介しての、私の心に強烈に刻まれた「経験」がある。今回、この文章を綴っていくうちに、私の心の中からその思い出はよみがえってきた。

その記憶は、九歳の頃にさかのぼる。急性腎炎という病に罹った私は同じ病室に入院していた六歳の女の子と仲良くなり、毎日のようにその子と遊んでいた。今、思い返すと、子どもは新しい経験を楽しむ能力が格段に優れているようだ。その「入院生活」を思い返してみても、毎日の新奇な経験を楽しんでいた記憶として残っている。長い修学旅行に参加しているかのような、高揚した気分。未知の発見が毎日あること。私の病には、これといった「治療」がなかったことが、それを可能にしていたのだけれど……日々安静にして規則正しい生活を送ること、それだけが課されていた。私は、その六人部屋のなかで、もっとも軽い病であり、唯一「退院できる見込みのある子ども」であった。その時分には、感知していなかったけれど……。同室の仲良しの女の子は、お人形のように愛くるしい容貌で、栗色の髪の毛が柔らかくカールしていて、顔の周りでふわふわと揺れていた。両親は、ほぼ欠かすことなく、つきっきりで彼女のそばにいた。ある日のこと。その子のベッドで遊んでいて、彼女の髪の毛が私のほほに触れた。その何本かが私の目の中に入った。こすったせいもあり、目から涙がでてきた。申し訳なさそうに、その子は「ごめんね」とくりかえしあやまった。お母さんは、申し訳なさそうに、ハンカチを手渡してくれた。どういうわけか、涙がなかなか止まらなかった。心と裏腹な表現をする自分の体に、やるせなさといらだちを感じていた。

「大丈夫だよ。こんなに柔らかい髪の毛なんだもの。きれいだよね。死んだら、この髪の毛が欲しいくらい……」

私の口から、そんな言葉が発せられた。

途端、室内の雰囲気が変化したことは子供ながらに感じたけれど、その正体は何なのか、すぐにはわからなかった。その日を境にその子の病状は、どんどん悪化していった、ように思っている。もしかしたら、私の記憶のなかで、そのように変容してしまったのかもしれない。母と二人になった場所で、私は尋ねた。どうしてあの日、あんなことを言ったのだろう、と。母は、すげなく答えた。仕方ないよ、言ってしまったものは。元にはもどせないよ、と。自分の置かれた状況がはっきりとわかるにつれ、味方になってくれる人が欲しかったのだと思う。だから、それを聞いて、がっかりした。心細さでいっぱいになった。今思えば、母は私の何倍もいたたまれなかっただろう。その子の病が深刻になっていくのを目にする部屋にいることがつらくなり、別の場所で過ごすように努めた。私が退院するころには、彼女はベッドから起き上がれなくなり、体が縮んだように小さくなっていた。もはや、言葉を発することはできなかった。それは、あっと言う間のことだったと記憶に刻まれている。退院してすぐに、彼女が亡くなった、と聞いた。

 

私が「物語」を読むのはなぜだろう、と考えたとき、第一義には、なまなましく「生きていること」が書かれている、その中に自分の身を置いて、作中の人物と話をしたいからだと思う。それは、だれかと会話している臨場感となんらかわりない。その経験で感じたような思いを物語の人物もしているかもしれない。それは、共感をもって会話していることと差異はないだろう。

人生を変えていくものは、常に自分以外にきっかけがあると思う。私は、その出来事の後、漠然とであったけれど「ことば」というものについて考えたと記憶している。「ことば」をめぐって生きていくことを、くりかえし考えたのだと思う。はたして、ことばとは、何を意味するのだろう。そして人生とは? 今の私にとって二つは、同じもののように思える。あるひとつの言葉が多くの側面と複雑な成り立ちや意味を持ち、影や光を与え得るように、ひとりの人間、ひとつひとつの人生経験も同じではないか。

小林秀雄に学ぶ塾への参加の機会をいただいて、「源氏物語」に出会ったことは、私にとって、ひとつの人生のテーマを示唆されたのだと感じている。本居宣長は「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言った。「源氏物語」を読んでいこう、と改めて思った。

その中に、あらわされた「よろづの事」をなまなましく感知して味わうのだ。

人生を味わうように読んでいくのだ。

作中の人物ひとり、ひとりと会話するように読んでいくのだ。

(了)

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年一月号

発行 平成三十年(二〇一八)一月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

「小林秀雄に学ぶ塾」サテライト塾のご案内

☆大阪塾についてのご案内

 

2018年1月から、池田雅延塾頭を講師とする「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」を年4回、関西学院大学梅田キャンパスにおいて開催中です。

 

* 2018年の予定
 第2回 4月14日(土) : 「本居宣長」について
 第3回 7月7日(土) : 「美を求める心」について
 第4回 10月13日(土) : 「ドストエフスキイの生活」について
 【13:00 開場 13:30 開会 15:30 閉会】


* 会費

 正会員
  年会費 :
8,000円
  勉強会1回単位会費 :
2,500円
 学生会員
  年会費 :
4,000円
  勉強会1回単位会費 :
1,500円

 

* お申込み・お問合せ
  宛先:ikedalabinkansai◆gmail.com
    ◆を@に変えてメールをお送りください。
  詳細は以下のTwitterにも掲載しています。
    小林秀雄と人生を縦走する勉強会‏ @ikedalabkansai

 

 

☆広島塾について

 

小林秀雄の思想に触れ、困難な現代を生きる糧とすることを目的とした池田塾をより広く知ってもらい、参加してもらうため、2015年に広島塾が発足しました。「池田塾in広島」と称して、春と秋に開催しています。

 

*第6回池田塾 in 広島

日時

2018年4月15日(日)14:00~17:00
※16:00~17:00 質疑応答

「無私を得るということ」

講師

池田雅延塾頭

参加費

一般3,000円、学生1,000円
(参加者数により変わる場合があります)

場所

合人社ウェンディひと・まちプラザ
広島市まちづくり市民交流プラザ

申し込み

お名前、ご住所、お電話番号をお書きの上、次のアドレスまでご連絡ください。
宛先:yositen2015◆gmail.com
◆を@に変えてメールをお送りください。

日時 2017年10月22日(日)

    14時~15時  池田雅延氏「信じることと知ること」

    15時~16時  杉本圭司氏「小林秀雄と音楽」

    16時~17時  質疑応答懇談会

 

会場 広島市男女共同参画推進センター(ゆいぽーと)

 

参加費 一般3,000円、学生1,000円(参加者数により変わる場合があります)。

 

お申込み・お問合せ

 お名前、ご住所、参加希望の理由を簡単にご記入の上、ご連絡ください。

   宛先:yositen2015◆gmail.com

     ◆を@に変えてメールをお送りください。

 

     ――――

 

以 上

 

編集後記

今号もまた、多才な塾生の皆さんによる多様な作品の一つひとつが、輝いている。山の上の家での「自問自答」、素読会、歌会、自身の仕事を含めた実生活、そして美を求める道、それらを通じて生まれた、各稿が放つ光は多彩である。

 

「巻頭随筆」の有馬雄祐さんは、素読会の事務局を担当されている。今回は、素読対象の「物質と記憶」の著者、ベルグソンによる「時間」についての思考実験を例に挙げて、小林秀雄先生の批評の態度、人生の態度に迫る上で重要となる「主観と客観」について思索された。

 

「『本居宣長』自問自答」には、今年度、新たに入塾されたお二方、橋本明子さんと羽深成樹さんが寄稿された。

橋本さんは、「自問自答」に加えて、塾でも紹介のあった「没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」(於:町田市民文学館ことばらんど)で感じられたことも披露され、「よく考え、よく生きること」についての思いを新たにされた。

羽深さんは、「自問自答」の経験を通じて感得された、小林先生が言う意味での「合理的に考える事」について、普段の穏やかな語り口のままに綴られている。「論語と『やせ我慢』」(PHP研究所)という著書もおありで、今回の「自問自答」も、「論語」の中にある言葉が発端となっている。入塾後、宣長さんの人生態度に本格的に触れて「その思考の独創性、エッジの立ち具合に眼を開かされた」と、山の上の家で語っておられる姿が印象的であった。

 

今号の「もののあはれを知る」は、荻野徹さんによる「ボクもやってみた、本歌取り」。まずはその場面設定に驚かされる。一方で、本塾の歌会でも行っている本歌取りの本質が、「本居宣長」からの引用文とともに手際よく示されている。歌会常連の荻野さんらしい作品をお愉しみ頂きたい。

 

また、「美を求める心」は、三浦武さんの「野心家のヴァイオリン」。本誌2017年11月号の「女とヴァイオリン」の続編と位置づけられる。前稿が、ストラディヴァリウスという女の話だとすれば、本作は、グァルネリウスという男の話である。小林先生が、グァルネリを一番巧く使ったと言っているフーベルマンについて、その語り口の背景にあった仔細に迫る。

 

桑原ゆうさんは、「『本居宣長』自問自答」で、小林先生の「心」と「ココロ」の使い分けに注目された。作曲家としての経験も踏まえ、「事物の心の振動」という観点から、小林先生の「物事をよく感ずる心」に近づこうとしている。

先日(2017年11月4日)、桑原さん作曲による声明しょうみょう「月の光言こうごん」が、神奈川県立音楽堂で初演された。テーマは、小林先生も「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)のなかで触れている明恵上人で、京都栂尾とがのおの自坊、高山寺の裏山において、深夜の坐禅を終えて戻る折に、明るく輝く月を見たという場面設定である。

 

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月

 

明恵上人のこの歌は、一人の僧侶の「あー」という声から始まり、次第に合唱の輪が広がって、最後は約三十人の大合唱が堂内に響き渡るなか、大団円を迎える。小林先生は、前掲文のなかで、「私の非常に好きな物」として明恵上人の坐禅像図を挙げ、一面に松林が描かれ、坊様が木の股の恰好なところへチョコンと乗って坐禅を組んでいる、珠数じゅずも香炉も木の枝にぶら下っていて、小鳥が飛びかい、木鼠きねずみが遊んでいる、まことに穏やかな美しい、又異様な精神力が奥の方に隠れている様な絵である、と言われている。桑原さんも、この明恵上人の「樹上坐禅像」からインスピレーションを得たと「作曲ノート」で言っていた。

 

さて、この冬は、周期的に月が地球に最接近している時期に当たり、空気も澄んでいるため、ことさら十五夜が大きく見える。私は、桑原さんの声明を聴いた日の深夜、寝所で急に目が覚めた。朝かと思いきや、東京の自室の窓を開けると、あかあかと大きく輝く満月があった。もはや私の身体は、高山寺の鬱蒼とした木立のなかにあった。

ありがたいことに、データによれば、本誌の読者数は、刊行以来右肩上がりで増えているという。今号はもちろん、これまでの寄稿作品のすべてが、この世を明るく照らし始めているようだ。

思えば、本誌の発行人、茂木健一郎さんは、創刊号の「発刊の言葉」で、こう書かれていた。

「困難な時代の一隅を照らし出す一灯となれば幸いである」

 

小生、このたび、微力ですが、一隅を照らすお手伝いをさせて頂くことになりました。一意専心務めますので、どうぞよろしくお願いいたします。

(了)

 

ブラームスの勇気

小林秀雄は、批評家になろうとして批評家となった人ではなかった。小説家になることを夢見て文章を書き出した人であった。そのことを、彼は折に触れて書き、また語ってきたが、二十七歳で批評家として文壇に登場した翌年の暮れ、「時事新報」に発表した「感想」という一文に、すでに次のように書いている。

 

私は嘗て批評で身を立てようなどとは夢にも思った事がない、今でも思ってはいない。文芸批評というものがそんなに立派な仕事だとは到底信ずる事は私には出来ぬ。小説を書いても目下まず碌なやつは出来上らない。どうせ、恥を曝すのなら文芸批評でもやってた方が景気がよくていい。第一批評なら世間知らずでも出来る。理屈を間違わぬ様に云う位の芸当なら若年者で沢山だ。

 

学生時代、ボードレールやヴァレリーをはじめとするフランスのサンボリストたちの批評文学に心を奪われた彼が、批評とは「理屈を間違わぬ様に云う位の芸当」と心得ていた訳では無論ないが、小説を書くという望みを抱きながら書けないという壁を感じていたという意味で、これは当時の小林秀雄の偽らぬ心情の吐露であった。この一文は、「毎月雑誌に、身勝手な感想文を少し許り理屈ぽく並べ並べして来ている内に、いつの間にか批評家という事になって了った。批評家などと厭な名称である」と書き出されている。ここで小林秀雄が、立派な仕事だとは到底信じることはできないと言った「文芸批評」とは、直接には、その年の四月から『文藝春秋』に連載し始めた文芸時評を指していた。彼はその頃、「俺はもう暫く月評で暴れ廻ったら、あと誰が何といっても黙って、小説を書いてるんだ」とも言っていたという(河上徹太郎「小林秀雄」)。

小林秀雄の処女小説は、旧制一高に入学した翌年の大正十一年十一月、二十歳の時に同人誌に発表した「蛸の自殺」とされる。その処女小説を、彼は伝手を頼って敬愛する志賀直哉へ送った。するとこの「小説の神様」から、彼の小説を褒める手紙が届いた。それを読んだ小林秀雄は、これはもう、小説家になれるなと思ったそうである。これは後に、志賀直哉を前に自ら語ったところである(「志賀さんを囲んで」)。

その後、小林秀雄は同人誌に数篇の小説を発表した。だが大正十四年、中原中也、長谷川泰子と出会い、やがて「奇怪な三角関係」が生じることとなる二十三歳の春を境に、小説を発表しなくなり、批評を書き始めた。その「根本理由」を、戦後、彼は坂口安吾を相手に次のように語ったことがあった。

 

僕らは現実をどういう角度からどういう形式でもって眺めたらいいか判らなかった。そういう青年期を過して来た。僕なんかが小説が書けなくなった、その根本理由は、人生観の形式を喪ったということだったらしい。例えば恋愛をすると、滅茶々々になっちゃったんだよ。こんな滅茶々々な恋愛は小説にならねえから、あたしァ諦めたんだよ。諦めてね、もっとやさしい道を進んだ―のか何だか判らないけど、もっと抽象的な批評的な道を進んだのだよ。抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果して劣るものかどうか。そういう実験にとりかかったんだよ。(「伝統と反逆」)

 

しかし「小説が書きたい」という願いは、自ら懸賞評論に応募してデビューし、世間から「批評家」と呼ばれるようになってからも、彼の胸中に長い間居座り続け、それは批評家としての成功と容易に引き換えられるものではなかったのである。彼は、その思いを直接告白したことはなかったが、「小説が書きたい」という願いがどれ程のものであったのかは、たとえば昭和三十四年の秋に放送されたラジオ放送(「文壇よもやま話」)の中で、今でも小説を書く気はあるかと問われたのに対し、小説を書くというのは芸であるから、さてやってみようと思って書けるものではないと保留しつつ、それでも書きたいという気持ちは今でも時々起きると答えているところに垣間見える。この時、彼は五十七歳であった。

「様々なる意匠」で、小林秀雄は、「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と啖呵を切った。『文藝春秋』で始めた文芸時評の第二回では、批評とは「他人の作品をダシに使って自己を語る」ことだとも言い放った。小林秀雄の批評文学の本質を自ら衝いた名台詞として後々まで引用されることになる、言わばとしての言葉を威勢よく吐きながら、当時の彼が、そのレーゾン・デートルそのものに深い疑念を抱いていたことは忘れてはならないだろう。先に引用した「感想」の最後は、次のような呟きで終えられていた。

 

人を賞めても、くさしてもあと口はよくないものである。批評は己れを語るものだ、創作だ、などと言ってみるが、所詮得心のいくものじゃない。あと口をよくしようなどとは思わぬ、今によくなるだろうとも思わぬ。人の事を兎や角言う事がそもそもつまらん事なのだ。

どうなる事やら。

 

その小林秀雄が、ついに批評家としての「自分の野心」を自ら明かし、「僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じている」と言明したのは、「様々なる意匠」によって世に出た六年後、最初の長編評論となる「ドストエフスキイの生活」の連載を開始した二ヶ月後のことであった(「再び文芸時評に就いて」)。

彼は言う―もし作家が自らの思想を人に訊ねられたら、その作品を示すだろう、では批評家がその思想を示せと言われたら、その批評作品を示すべきではないか。作家がその思想を獲得するために、世間を観察するだけでは足りず、自分の身を世間の、あるいは自らの実験材料に供するように、批評家もまた、ある論理に自分の身がどの程度まで、どんな風に堪えられるかを、批評家自ら材料となって実験しなければならぬ。その実験の果てに現れて来るのが、「批評精神の積極性」ともいうべきものである、と。そして二ヶ月前に開始した自らの「実験」について、次のように語るのだ。

 

僕がドストエフスキイの長編評論を企図したのは、文芸時評を軽蔑した為でもなければ、その煩に堪えかねて、古典の研究にいそしむという様なしゃれた余裕からでもない。作家が人間典型を創造する様に、僕もこの作家の像を手ずから創り上げたくてたまらなくなったからだ。誰の像でもない自分の像を。僕にも借りものではない思想が編みだせるなら、それが一番いい方法だと信じたが為だ。僕は手ぶらでぶつかる。つまり自分の身を実験してくれる人には、近代的問題が錯交して、殆ど文学史上空前の謎を織りなしている観があるこの作者が一番好都合だと信じたが為である。無論己れの教養のほども省みず、こういう仕事に取り附く事の無謀さはよく分っているが、僕等に円熟した仕事を許す社会の条件や批評の伝統が周囲に無い事を思う時、僕は自分の成長にとって露骨に利益を齎すと信ずる冒険を喜んで敢えてするのだ。駄目かも知れぬがやってみる。どんな人間を描き出すか自分にもわからないが、どんな顔をでっち上げたとしても、僕が現代人である限り、人々に理解出来ぬものが出来上る気づかいはない。それで僕には沢山だ、果して乱暴な批評家か。それとも何かもっとうまい理屈でもあるというのか。うまい理屈には飽き飽きした。僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じているのである。(「再び文芸時評に就いて」)

 

後に坂口安吾に向かって語られた、「抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果して劣るものかどうか。そういう実験にとりかかった」という、その「実験」が、ここに開始されたのである。それはまた、この評伝作品と並行して、その少し前に着手されていた一連のドストエフスキー作品論をも含むものであった。

「ドストエフスキイの生活」の連載が開始されたのは昭和十年一月であるが、その二年半前、三十歳となった小林秀雄は、「今度こそは本当に彼(ドストエフスキー)を理解しなければならぬ時が来たらしい」という予言めいた言葉を述べている(「現代文学の不安」)。半年後の昭和八年一月、この作家に関する最初の論文となる「『永遠の良人』」を発表し、同年十二月には二つ目の論考である「『未成年』の独創性について」を発表した。そして翌月、「僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている」(「文学界の混乱」)との宣言とともに、「『罪と罰』について Ⅰ」の連載を開始し(昭和九年二、五、七月)、それが終るとすぐさま「『白痴』について Ⅰ」の連載に取り掛かった(昭和九年九、十、十二月、昭和十年五、七月)。

最初の本格的なドストエフスキー作品論となった「『罪と罰』について Ⅰ」の最終回初出末尾には、連載中にこの論考を揶揄した大宅壮一に向けた「附記」があるが、その中で、小林秀雄は、「今僕にはドストエフスキイという人物で自分の批評能力をためしてみるという事だけで一杯なのだ」と書いている。ドストエフスキーを言わば金床として行われた、批評能力の鍛錬としての「実験」は、以後、「本居宣長」の擱筆まで四十年以上続くことになる「やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企て」(「本居宣長」第一回)の始まりであったと同時に、「小説が書きたい」という願いを捨て、彼が批評家として生きる道を見定めたということでもあった。小林秀雄が執筆した最後の小説は「Xへの手紙」である。「中央公論」の創作欄に掲載されながら、もはや限りなく批評的告白文に近いこの作品は、「『永遠の良人』」によってドストエフスキー探求の口火が切られる二ヶ月前の昭和七年十月に発表されている。以後、彼が小説を発表することはなかった。そして二年間にわたる「ドストエフスキイの生活」の連載を終えた二ヶ月後、小林秀雄は、嘗て小説家になるという夢を託して処女小説を送った志賀直哉に向けて、次のような手紙を書き送った。

 

僕はこの頃やつと自分の仕事を疑はぬ信念を得ました。やつぱり小説が書きたいといふ助平根性を捨てる事が出来ました。

 

「自分の仕事」とは、批評という仕事であった。この時、小林秀雄は、「小説が書きたいといふ助平根性」を確かに捨てた。だがその彼が、これと引き換えに抱いたもう一つの「助平根性」、すなわち批評という方法によって「僕にも借りものではない思想が編みだせる」という野心を捨て切るまでには、さらに四半世紀以上の時間を必要としたのである。

(つづく)

 

野心家のヴァイオリン

ヴァイオリンを「女とコンビ」だとした小林秀雄は、さらにその文脈で「ヴィトーとかモリーニなんて、みんなストラディヴァリウスですよ。もうストラディヴァリウスの素直な音を、女みたいに出しているんですよ、これがいいんですね」と言っている。ここは「ストラディヴァリウスの素直な音」を「女」に譬えているとみるべきところで、そうだとすれば、ヴァイオリンの名器のもう一派グァルネリウスは「男」にも譬えるべき「屈折した音」ということになるのかも知れない。「屈折」はともかく、確かに男性ヴァイオリニストの、ことに技巧に卓越した名人の系譜にはグァルネリウスの奏者が目立つようだ。「グァルネリウスという楽器はとても扱いにくい楽器なんですよ。つまり、個性を出そうとするやつにはいつでも従うんです。だけれども、うまく弾こうとするやつには、あまりにかたいんですよ。……あれは野心家にはもってこいの楽器なんです」。ストラディヴァリウスが女流の系譜に不可欠だとするなら、グァルネリウスはどこまでも個性的な野心家の系譜を支えてきた、そういう楽器だといえば、私などにも合点のいくところがある。

 

フィリップ・ニューマンて何者ですか―本誌連載「ブラームスの勇気」の杉本圭司氏からの電話であった。ナニモノという言い方だから単に素性を問うのではない。その人物(むろんヴァイオリニストだ)を知って、たぶん驚き、誰だ此奴は!という衝撃を質問にかえて言って寄越したのだ。とすれば、杉本氏はフィリップ・ニューマンを聴いたということになる。ではいったいどうやって?(オレだって聴いたことないのに……)。フィリップ・ニューマンは自らno record catalogueと称した、文字通り「伝説」のヴァイオリニストなのである。20世紀の名演奏家でありながら公式録音がない。だから聴きようがないわけだ。もっともヴァイオリニストの系譜を追うマニアックな連中はみんなその名を知っている。それはひとつのエピソードによるのである。

フィリップ・ニューマンはベルギー派の巨匠ウジェーヌ・イザイに教えを乞うべくその邸を訪れた。ところがイザイは既にまつの病床にあって面会は謝絶、廊下での演奏だけが許された。彼はイザイ作の難曲、無伴奏ヴァイオリン第4番を奏した。それを聴いたイザイは言った「すばらしい、けれどフィナーレが少しはやすぎたようだね」……。

その後ニューマンはイザイに代わってエリザベートベルギー王妃のヴァイオリン教師となり、またイザイ・コンクール(後のエリザベート王妃国際音楽コンクール)の開催に尽力するなど、まさにイザイの後継として活躍するのだが、録音はおろか公開演奏すらほとんど行わず、我々はこのエピソードと、それに「ニューマンはまさしくイザイの再来である」というユーディ・メニューヒンの言葉を手掛かりに、その幻影を追い「伝説」を織ってきたのであった。

……実はたった6曲だが録音があるのである。それは死の前年に門弟たちの前で行ったブリュッセルでのライヴだ。もっともプレスされたLPレコードは僅かに300枚という私家版であるから、一般の愛好家にとってはそれもまた一つの「伝説」みたいなものである。

私にしてもno record catalogue氏のそのレコードを、いつかは聴いてみたいと念願するものの手に入る見込みはなく、かえって幻影への思いを強めつつ、嘆き、しかし楽しんでもきたわけだ。ところがそれを杉本氏は聴いたという。「濃厚で強烈で。グァルネリの真髄です」。CDになっているのを見つけたのだそうだ。早速拝借して聴いた。それはまことに濃厚で強烈、グァルネリの真髄というのに異議のない音であった。しかも驚異的とでも形容すべき高度な技巧である。「技巧派」ときけば「無内容」と応ずる向きもあるが、とんでもない話で、圧倒的に優れた音楽的表現を実現するためには圧倒的な技巧が欠かせまい。たしかに収録曲のなかには技巧そのものを伝えるようなプログラムも含まれていたが、実はその演奏こそが、私にはいちばん忘れ難い。タレガ作曲「アルハンブラの思い出」のヴィルトゥオーゾ的編曲版だ。弟子たちに自分が生涯を賭して習得した技術のすべてを伝えようとしているかのような、その会場の空気が蘇る。先生の日ごろの流麗な演奏の底に潜んでいる大いなる秘密を、生徒たちはまざまざと見たことであろう。それはいかにも感動的な光景のように思われた。

杉本氏の見立ての通り、フィリップ・ニューマンのヴァイオリンはグァルネリウスである。1741年のグァルネリ・デル・ジェスで、しかも「ヴュータン」と命名されている。アンリ・ヴュータンはイザイの師だ。シャルル・ド・ベリオを起源とするベルギー派の重鎮であり、ド・ベリオが突然若い歌手と「駆け落ち」してしまったために、10歳かそこらでその後継を務めねばならなかったという、正真正銘の神童である。圧倒的な技巧を持った少年ヴュータンは、シューマンからは「小さなパガニーニ」と呼ばれ、当のパガニーニの前でも演奏してこの悪魔的な巨人に衝撃を与えたと言われる。かかる伝聞と遺された作品(例えば「アルプス一万尺」の旋律の強烈なヴァリエーションがある)から、おそらく歴史上最も偉大なヴァイオリニストの一人であったと推察しても、妄想ということにはならないであろう。そのヴュータンのヴァイオリンがニューマンの楽器なのだ。「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば足りた」パガニーニの魂がここに系譜をなしているのである。

 

さて、小林秀雄はグァルネリウスの奏者としてブロニスワフ・フーベルマンの名を挙げている。「あれはとっても圧力が要るんです、あの楽器は。それでおもしろいことを言っていたよ。たとえばテノールがうまくなると、声を割るでしょう、て言うんだよ。声を割る―、あれができるのはグァルネリウスだけなんですね。声が割れるんですよ……そういう楽器ですから、あれは野心家にはもってこいの楽器なんです。これを一番うまく使ったのがフーベルマンだったと思うんです。ところが、フーベルマンといわれてもこれは僕が中学時代、あの頃、ヨーロッパを風靡したそうだね、フーベルマンの音というのは。これはグァルネリウスなんです」。

フーベルマンはポーランド系のユダヤ人だ。ポートレートの印象は強靭偏屈傲岸不遜、ひょっとしたら、ベートーヴェンみたいな人だったのではないか。当時、というよりも全歴史を通じてというべきか、ともかく最大の教師であり、国際的なキャリアの緒に就くためには是非とも通過せねばならぬ必須の要件でもあったかのヨゼフ・ヨアヒムの門を敲くべく、弁護士の父親はほとんど全財産をつぎ込むようにして神童をベルリンに送り出したが、当人はヨアヒムからその助手を教師にあてがわれて失望し、まもなくその地を去ってしまった。もっともヨアヒムは、必ずしもこの10歳の少年に冷淡だったわけではなさそうだ。はじめて演奏を聴いたときには歓喜のあまり涙したというし、裕福ではない生徒のために奨学金の世話もしている。しかしながら今、レコードに遺されたフーベルマンの演奏を聴くと、ひょっとしたらヨアヒムとは相性がよくなかったのではないかとも思う。よく知られているようにヨアヒムは、幼時にメンデルスゾーンの薫陶をうけ、シューマンに交わり、後にはブラームスと同盟してリストやワーグナーに対峙したという、所謂古典派の象徴みたいな人である。それに対してフーベルマンは、これはいかにも個性派なのだ。それがベルリン以前からのものなのか、ヨアヒムに決別した結果なのかはわからないが、私にはちょっと類例のない演奏家と思われる。独特の節回しは、むしろ歌謡の伝統に連なるのではないか。その故か、フーベルマンほどその評価や好悪の別れる「巨匠」もまた少ない。決定的な師らしい人を持たなかった独学のヴァイオリニストにとって、その師となったのは聴衆であり、おそらくそのことが、ヨーロッパ全土の熱狂といくらかのしかし無視すべからざる反発、そして音楽の大衆化を促したのではないか。

1734年のグァルネリ・デル・ジェス「ギブソン」を携え、瞠目すべき技巧と抒情性をもって不安な時代の欧州を駆け抜けたフーベルマンの姿は、そのおよそ100年前、故郷のジェノヴァを出て、フランス革命後の欧州各地を遍歴し、比類ない技量でシューベルトやシューマン、そしてショパンをも圧倒しつつ、民衆を昂奮の坩堝に巻き込んだパガニーニの面影に重なる。パガニーニの彷徨は、共同体的な絆を断たれ、誰もが故郷喪失者となる近代という時代の宿命の象徴だ。一丁のグァルネリ「カノン」を道連れに、聴衆の魂を奪うために、そのためだけに旅した。他方フーベルマンの音楽は、忌まわしい分断の時代へと突き進む当時のヨーロッパにあって、その統一を夢想する社会的ロマン主義に繋がっているとみえる。パレスチナにおけるユダヤ人のための管弦楽団の創設は、そのような彼の「功労」の最も重要な一項目である。そしてその真摯なヒューマニズムの音楽哲学は、他ならぬベートーヴェンの「クロイツェル」の録音に早くも現れていたと考えてみたが、さてどんなものだろう。

 

グァルネリウスの似合うヴァイオリニストは、やはり個性的で野心的だ。そして何処か孤独だ。それはジュゼッペ・グァルネリという放蕩無頼の問題児、そしてたぶんその故に、自らのヴァイオリンにイエス・キリストを象徴する十字架のロゴマークを入れなければならなかった「デル・ジェス」の職人の魂に関わる問題でもある。

(了)

 

注  ⑴ 「音楽談義」、1967年。新潮CD『小林秀雄講演』第6巻所収。

⑵ アマーティ一族、ストラディヴァリ一家に続く、イタリア・クレモナのヴァイオリン職人の家系による製作品。そのうち、バルトロメオ・ジュゼッペ・アントーニオ・グァルネリ(1698-1744)の作は、イエス・キリストを示すロゴマークがあることから、「デル・ジェス(イエスの)」と称され、ストラディヴァリウスとともに、ヴァイオリンの最高峰とされる。

⑶ 「ヴァイオリニスト」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第19集所収。

 

ボクもやってみた、本歌取り

アノ、ここ、座っていい? この図書館ときどき来るんだけど自習室は受験生ばかりで息が詰まるから、宿題とかこのロビーで。「ほう、草庵集かい」って、オジサン知ってるの? 変な宿題でサ。ボクの高校の国語の先生がモトオリノリナガって人の大ファンで、その人がどうのこうので、トンアとかいう昔のお坊さんの作った和歌をもとに、本歌取りっていうパロディみたいなことさせてる。「確かに、宣長さんは、頓阿の歌は手本になるといっているね」って、オジサン、ノリナガさんと友達なの? 結構昔の人みたいだよ、ノリナガって人。オジサンひょっとして、メージとかショーワとかの人、それって江戸時代だっけ? オジサンくらいになると、そのあたり、もうどうでもいいよね。

でね、ボクに割り当てられたトンアさんの「本歌」は、これ(注1)。

 

小萩原 花咲く秋ぞ 紫の 色こき時と 野辺は見えける

(「草庵集」456 巻第四 秋上)

 

でもこれには、さらに「本歌」があって、

 

むらさきの 色こき時は めもはるに 野なる草木ぞ わかれざりける

(「古今集」雑上・在原業平、「伊勢物語」四十一段)

 

「伊勢物語」のこの段は、むかしむかし、お嬢さん育ちの姉妹がいて、一人が貧乏人と、一人が金持ちと結婚したんだけど、貧乏人と結婚したほうの女の人が夫の着物の洗い張りを自分でしようとして、でもそんな召使のするようなことしたことないから着物がやぶれちゃって、ただただ泣くばかり、これを気の毒に思った金持ち男が立派な着物に歌を添えて貧乏男に贈ったという話。歌は「紫の色が濃い時は、目のとどく遥か遠くまで、野に生えている草木はみな紫草と区別がつきません。妻を愛する心が強いので、その縁者であるあなたのことも、他人事とは思われないのです」という意味で、「貧しい義弟を物的に援助するとき、相手が抱くかもしれない惨めな劣等感を、この歌は注意深く拭い取る暖かさを有する」ということなんだって(注2)。大人の美学ってことかな。でもちょっとビミョー、女どうしどうなんだろう、ボクには女のキョーダイいないからわかんないけど。

 

で、このナリヒラくん(アイドルだったらしい)の歌を本歌として詠んだトンアさんの歌。一面の萩の野原に花が咲く秋となり、紫の色が濃く色づく時節と見えることだなあ、この野原は、というような意味らしい(注3)。言ってることはわかるけど、だからどうしたの、って感じだよね。原っぱを眺め渡したら、やっぱハラっぱ見えちゃった、みたいな。

 

だいたい、トンアさんて、有名じゃないよね。百人一首にも入ってないし、ノリナガさんはほめてたのかな。

 

<<宣長は、頓阿を大歌人と考えていたわけではない。……「新古今ノコロニクラブレバ、同日ノ談ニアラズ、オトレル事ハルカ也」>>(注4)

 

げっ、だめ出しされてるわけ。なんでそんな人が手本なの?

 

<<「頓阿の歌は、……異を立てず、平明暢達を旨としたもので」、「一番手近な、有効な詠歌の手本になる筈だ」。「その平明な註釈は、歌の道は、近きにある事、足下にある事を納得して貰う捷径であろう」>>(注5)

 

ショウケイとか、オジサンむずかしいこと言うね。でも確かに、目を閉じて頭の中に一面に花咲く秋の野原を思い浮かべて、眼の前全部ムラサキだあって感じるの、そんなにむずかしいことじゃないよね。いまならインスタだね。でも、言葉だけでおんなじことができるのかな。

 

<<「此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也」>>(注6)

 

もの読み知らぬ童ってなんかちょっと馬鹿にされてる気もするけど、でもそうか、無理して難しい言葉を使わなくていいし、今のことばでもいいんだ。まず自分がよく分かるものじゃないとね。

でも、本歌取り、なんかルールみたいのがあるんだよね、言葉を一句か二句もらって、でも季節は変えて、とか。トンアさんは「紫の 色濃き時」を取ったんだね。で、ナリヒラくんの歌にあるビミョーな人間関係はスルーして、ただただ、紫の美しさだけを思い浮かべて詠んだんだね。トンアちゃんの頭の中の紫色って、どんなんだったのかな。風が吹いて草がそよげば、一面の紫も波を打って、いろんな色合いが見えたんだろうな。トンアちゃんも、少しだけ心がしくしくしたんじゃないのかな。

 

<<宣長にとって、歌を精しく味わうという事は、……(歌の歴史の)巨きな流れのうちにあって、一首々々掛け代えのない性格を現じている、その姿が、いよいよよく見えて来るという事に他ならない。>>(注7)

 

あっ、それでノリナガさんはトンアちゃんを薦めているわけか。陳腐だとか平凡だとか決めつけちゃダメなんだね。決めつけといえば、パパがさ、フランス出張のお土産にヴィトンのお財布買ってきてくれたんだけど、ボクにはローズピンクで弟がブルー。こういう決めつけって、だからヘーセー生まれは古いんだっつーの。

あっ、ローズピンク、そうか、紫ばかりというのは、ちょっと切ないよね。季節を春にして、春っぽいカラーで、温ったかくしたいな。野原一面のサクラソウ。薄紅色の可憐な花と明るい青空が引き立てあって、いや、一面ピンクがいいな。夕日が紅色に空を染め、野原を照らし、空と地面の境もなくなって、ぼんやりと融けあって、ピンクのふわふわの中にみんながつつまれている。恥ずかしいけど、こんなのどうかな。

 

夕日照り 色こき時ぞ さくら草 空も融くると 野辺は見えける

 

「伊勢物語」の姉妹。今や境遇が大きく隔たって、後戻りできない。でも、二人がまだ子供のころ、一緒に野原で遊んで、さくら草を摘んだなんてこともあったんじゃないかな。貧乏な女の人も、そのころのことを思い出して、ちょっとほっこりすることもあるんじゃないかな。ボクの歌はへたくそだけど、あの女の人に暖かいものが届くといいな。

 

<<(宣長は)自分にとっては、歌を味わう事と、歴史感覚とでも呼ぶべきものを練磨する事とは、全く同じ事だと、端的に語っているだけである。歌を味わうとは、その多様な姿に一つ一つ直に附合い、その「えも言はれぬ変りめ」を確かめる、という一と筋を行くことであ(る)。>>(注8)

 

そうか、本歌取りって、ただのパロディごっこの言葉遊びじゃないんだね。本歌を詠んでぴんと来たり来なかったり、自分で言葉を並べてみてしっくり来たり来なかったり、この繰り返し。どの句を取ろうかな、どんなふうに趣かえてみようかな。オモムキなんて、先生の受け売りでよくわかんないけど、ゲームの世界観みたいなやつかな。こういうの、自分の頭の中だけのやりとりにみえちゃうかな、キモイかな。でも、そうじゃない。本歌っていうのは、うまく言えないけど、確かに、そこに、在る。不思議。本歌取りって、タイムマシン付SNSみたいだ。

 

<<宣長は議論しているのではない。自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ。>>(注9)

 

オジサンのいうこと、ちょっと分かる気がする。男女4人のビミョーな関係にビミョーな歌を投げ込んじゃうナリヒラくんがただのイケメンじゃないことも分かったし、トンアちゃんも、ぱっとしないけど一生懸命なとこが意外とかわいいかも。友達が増えた気がする。でもこの人たち、大昔の人なんだよね、どのくらい? 戦前生まれってやつ?

 

<<現在が過去を支え、過去が現在に生きるとは、伝統を味識している者にとっては、ごく当たり前な心の経験であろうが、そのような伝統の基本性質でさえ、説明を求められれば、窮するであろう。伝統に関する知は、伝統と一体を成しているとも言えるからだ>>(注10)

 

オジサン、また難しいこと言っちゃって。せっかく何かわかった気がしてたのにサ。えっ、「だから質問しなさい」って、オジサンに質問するの? 「本当にうまく質問することが出来たら、もう答えは要らない」って。あれ、オジサンの今のセリフ、どっかで読んだよ。そうだ、先生が貸してくれた本。バッグに入ってるから、見せてあげるね、ちょっと待ってて。これこれ、小林秀雄『学生との対話』。

あれ、オジサン、どこ、うそっ、消えちゃった。

あっ、この写真の人。

マジ、ヤバイ!

 

(注1) 和歌文学大系65巻『草庵集/兼好法師集/浄弁集/慶運集』77頁

(注2) 新潮日本古典集成『伊勢物語』56頁(渡辺実校注)

(注3) 前掲(注1)77頁(酒井茂幸校注)

(注4)~(注10) いずれも、『小林秀雄全作品』第27集所収『本居宣長』第21章より。順に、(注4)238頁、(注5)238頁、(注6)237頁、(注7)241頁、(注8)241頁、(注9)241~242頁、(注10)243~244頁。

(了)

 

合理的に考えるという体験

「考えるとは、合理的に考えることだ」と小林秀雄は言った(文春文庫『考えるヒント』所収「良心」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収)。なぜ、そんなことを言うのかといえば、「現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている」。

 

「合理的に考える」ということについて、私なりに体験したことがある。私は、公務員だったので、公共性を突き詰めようと考えを巡らすうちに、「論語」に行き当たった。孔子は、乱世に秩序をもたらそうとし、どうしたら穏やかで幸せな暮らしを実現できるかを考え抜いた。その結晶が「論語」である。だとすれば、「論語」は、公共性の教科書ともいうべきものではないか。

その「論語」を読んで、不思議に思ったことがある。いわゆる、ことばの「定義」がないのだ。「仁」ということばは100回以上出てきて、孔子が最も重視した徳だとされている。しかし、「仁」とは何かといえば、直接的な問答は「はん、仁を問う。子曰く、人を愛す」(顔淵篇)とあるだけだ。だから、「仁」とは愛情に関する徳だということは分かるが、それ以上は、他の文脈から解いていくしかない。

「中庸」という徳もそうだ。よう篇に「子日く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな」とあり、「中庸」は最上の徳と孔子自身が語っているが、「中庸」とは何か、について、「論語」には書かれていない。「論語」とは別に、「中庸」という書物があり、君子の中庸は「時にちゅうす」、小人の中庸は「忌憚きたんなし」などと書いてあるが、これだけ読んでもよく分からない。

 

私は、当初、これらのことに違和感があった。定義がないとは、大事なことがすっぽり抜け落ちているではないか。そう思って、いろんな書物を物色しているうちに、小林秀雄の「中庸」(角川文庫『常識について』所収、同第25集所収)という文章に行き当たった。これを読んだ時の衝撃は、今でも忘れられない。まさしく、目からウロコである。そうか! これが「中庸」か! と初めて理解した(少なくとも、そういう体験ができた)。

そして、了解したのである。なぜ、「論語」にことばの定義がないのか。「仁」や「中庸」は、ことばで説明し、定義できるものではなく、すべきものでもないのだ。様々な文脈で使われている中で、その意味を考え、自分の経験と照らし合わせ、感得するしかないのだ、と。

同時に感じたのは、小林秀雄という人の思考の深さと論理の明晰さである。「中庸」が何かは、ことばでは定義できず、その意味を自分で考え、感得するしかない。しかし、何らかの手がかりがなければ、そもそも、どこから手を付けたらよいかすら分からない。そんな時、小林秀雄は、膨大な知識に裏付けられた深い思考と、明晰な論理展開によって、迷える読み手を案内し、「分かった!」という体験の地点まで、導いてくれるのである。

 

もちろん、小林秀雄が丁寧に案内してくれても、「分かる」のは読み手だから、本人が「思惟」しなければ、「分かる」ところまでたどり着けない。また、「分かった」と思っても、それが正しい分かり方であるという保証はない。しかし、分かり方が他人と違うことが分かれば、また、考えていけばよいだけのことである。

そして、思ったのだ。このプロセスこそ「合理的に考える」ことではないかと。「能率的に」考えれば、辞書を引き、「中庸とは片寄らず、中正なこと」という説明を読み、なるほど、バランスよくやれ、ということだな、と理解して、以上、終わり ! である。しかし、これで「中庸」を「分かった」とは言えない。「考えている積りだが、実は考える手間を省いている」だけである。

合理的に考えるには手間がかかる。しかし、そのプロセスを踏んでいくことで、思わぬ発見や感動がある。そこが面白い。池田塾頭は、「小林秀雄の批評は認識活動だ」と仰ったが、この世の事象が「何か」を合理的に突き詰めていくこと、そんな「認識活動」が小林秀雄の魅力である。

 

私は、昨年(2017年)の11月、山の上の家の塾での「質問」を用意する過程で、再び、「合理的に考える」体験をさせていただいた。それは、「詩」と「楽」が古人にとって、いかに重要な学問だったかについてである。

古人が学んだという「詩書礼楽」のうち、「書」と「礼」は想像がつくが、「詩」と「楽」がどんなものだったかは、想像が難しい。「論語」には、「詩」と「楽」について、「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(泰伯篇)、「子曰く、詩三百、一言以てこれをおおう、曰く、思いよこしま無しと」(為政篇)などの章があり、「詩」や「楽」が当時の学問で重要な位置を占めていたことは想像できる。しかし、現代の感覚では、詩や音楽は娯楽に近く、学問の世界で、なぜそんなに重要だったのか、理解できない(池田塾の塾生は別として)。

中国文学の大家の子安宣邦氏も、「論語における詩と楽とは、それらがまだ人々の共同世界とのかかわりを失っていなかった時代の迹を残すもの」であり、もはや、詩と楽が生活に欠かせないような意味をもたなくなった現代では、その重要さは理解できないと言っている(子安宣邦著「思想史家が読む論語」)。

 

ところが、である。小林秀雄は、「古代人にとっての詩や楽」の理解の端緒となる「合理的思考」を「本居宣長」の第32~35章の中で展開している。

私が興味をひかれたのは、徂徠が、詩の「観の功」について、「天下ノ事、皆ナ我レニあつまル」とし、「興の功」についても、同じ趣旨のことを説いているというくだり(同第28集「本居宣長 下」p.13。以下、ページのみ示す)である。この部分を読んだ時、「天下の事がすべて自分のところに集まるというのは、何と剛毅な!」と思った。

孔子は、「詩ハ以テ興スベク、以テ観ルベク、以テつどフベク、以テ怨ムベシ」(陽貨篇)とし、詩の特色として、興、観、羣、怨の四つを挙げている。徂徠は、この中で、興と観が肝腎だとし、興の功と観の功を説いている。興の功は、薪についた火が広がるように、比喩、連想が感興をもたらす効用であり、観の功は、世の人情風俗などについて、知らない世界を知ることのできる効用をいう。このような興観の功を存分に発揮させれば、その場にいたような感動や共感を得、あらゆることを知ることができるから、「天下ノ事、皆ナ我レニ萃ル」というわけだ。

 

なぜ、このようなことが可能になるのか。そのカギは、古人の言語生活という世界の性質と、その言語を学ぶ、学び方の双方にある。

言語生活とは、「人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事」であり、「徂徠が『天下』という名で呼んだのは、この世界だ」(p.14)。古代の人々は、言語を意味伝達の手段として分析的に使っていたのではなく、「ただ言語を信じ、言語活動のうちに素直に生きていたのだが、言語は、そういう人々にしか見せない顔を見せていたと、そう宣長は考えている」(p.47)。

 

徂徠は、そのような言語の生態を「あや」と言っている。「何も音声の文だけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体のわざの、多かれ少なかれ意識的に制御された文は、すべて広い意味での言語」(p.48)なのであり、「言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、そのしるしとして生きている理由を、即ち言葉のそれぞれの文に担われた意味を、信ずる事に他ならない」(p.49)のである。

この言葉の「文」の交換という「一種の実験を、反覆して、やり直して行かなければ、言語共同体は、生きつづける事が出来まい。それほど、共同生活の精神に寄せる私達の信頼の情は深いのである。言ってみれば、各自が、この精神を信じて、これを自分流にわがものとする以外に、この精神の普遍性を保証するどんな道もない」(p.52)。

 

そこで、「天下ノ事、皆ナ我レニ萃ル」ための第二のカギが、言語への接し方、言語の「学び方」になってくる。

徂徠は、学問とは「思フコトヲ貴ブ」ことだと考えた。学問の仕方として、「理」と「思フ(思惟)」がある。「理」とは、論理を知ることである。徂徠は、「弁名」の中で「物」と「名」の関係性を説いているが、「理とは名とは言えぬ、道という統名の仲間入りは出来ぬ」から、名でも物でもないもの、すなわち、「無名無物なる者とでも言うより仕方なかった」(p.23)。

これに対し、「物」とは「形有り準有るもの」であり、「詩」や「楽」がこれにあたる。それらは、「それ自身の動かせぬ定式定準を具えていた」と徂徠は見ていた。だから、「詩」、「楽」を学ぶというのは、「それぞれ特殊な、具体的な形に即して、それぞれに固有な意味なり価値なりを現している、そういう、物を見定めるという事になろう」(p.29)。

だから、「『詩書礼楽』を学ぶ者は、そういう古人の行為の迹を、古人の身になって、みずから辿ってみる他ない」、「作った人の制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる他に、道はあるまい」ということになる(p.30)。

 

だとすれば、「物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ」。これに対し「理を以てする教えとなると、その理解は、物と共感し一致する確実性には、到底達し得ない」。観察に基づく「分析的な記述的な言語がどんなに精しくなっても、習熟の末、おのずから自得する者の安心は得られない」ということになる(p.31)。

このように、「詩書礼楽」という「物」を「思惟」し、これに習熟すれば、「其ノ心志身体既ニひそかニ之ト化ス」(p.31)ことになり、古人の遺した言語生活の世界に入り込むことになる。これが「天下ノ事、皆ナ我レニあつまル」という状態で、それは、「全的な経験、体験、体得」(p.32)と考えられる。

 

私自身は、到底、その境地には達し得ない。しかし、小林秀雄の思考(正確には、小林秀雄が辿る徂徠の思考)に沿って、「合理的に考える」過程を通じ、「天下ノ事、皆ナ我レニあつまル」ということが何なのかは、少し理解が進んだように思う。この知的体験が小林秀雄の魅力なのである。

(了)

 

言霊について

毎朝、毎晩、小林秀雄先生の事を考えている。通勤電車で押し合いへし合いしながら、小林先生の『本居宣長』や、池田雅延塾頭の『随筆 小林秀雄』(『Webでも考える人』連載)を読む。読むたび、富士山の麓に立った小人の気持ちになり、到底、小林先生のように生きることはできないと悟るが、このように生きた先生に強い憧れを抱く。本物に触れながら「よく考え、よく生きる」、それはどのような事なのか、そうすることで何を見たり感じたりできるようになるのか、今さらだが私も、残りの人生で少しずつ、学びたいと思っている。

 

山の上の家で月に一度、池田塾に参加し、池田塾頭の言葉から、様々な私の間違った思い込みを知ることは、自身の無知を思い知らされて辛いものではあるが、本当に得難い経験である。知らなかった、気づかなかった世界へ、親切に導いていただいている。

 

例えば昨年(2017年)10月、私が初めて立った質問は、「言霊について」であった。池田塾頭は、言霊について、次のような説明を下さった。

 

「言霊とは、人間の言語活動を成り立たせているものであり、その場その場で、思いもよらない意思の伝達を成立させているものでもある。一方、人が成長の過程で、生まれた時とは違う自分を獲得するように、言霊も成長する。また、時代の変遷に伴い、言霊は従前の働きを失ったり、自身を鍛えて蘇ったりする。つまり、言霊は、日常性と歴史性を備えているものである」

 

こうして、10月の塾では、言霊には日常性のみならず、歴史性があることを知った。そして、翌11月の塾では「言語は主体的に生きている。辞書に載っている言葉の意味は、決して定まったものではない」、つまり、そこに言霊が存在していることを、より深く理解した。

 

同時に、生き物である言葉を、日頃無意識に使っていることを思って恐ろしくなり、時に無機質な物として、乱暴に扱ったことを深く反省した。続く午後の歌会では、池田塾頭の「(その言葉を使っては)情景を謳うのではなく、説明する日本語になってしまうよ」という、ある歌への一言から、これまで私は、何かを説明するための日本語しか使ってこなかったことを知って目が覚めた。

 

* * *

 

その池田塾頭が11月の塾で、「小林先生を知るために、先生の生きた時代感を知ってほしい」と、お薦めになった特別展「没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」(於:町田市民文学館ことばらんど)に足を運んだ。池田塾頭は、この企画段階から力を入れて支援されたという。ご事情により行くことが叶わなかった方もいらっしゃると思うので、ここで少し展示の様子をご紹介したい。

 

会場最寄りの町田駅は、複数の路線が乗り入れる大きな駅だった。クリスマスの飾り付けが始まった商業ビル、人々で賑わう飲食街を抜け、「市民文学館」に辿り着いた。町田には古くから多くの文人が住んでいたことも開設の背景にあるのだろう、ここは、言葉や文学の魅力を伝えるための公共施設だという。1階には資料館、その左手の階段を上って2階の会場に一歩入ると、そこは、活気溢れる昭和の文学界だった。展示室には、言霊が満ちていた。

 

谷田氏は1923(大正12)年、神戸市生まれ。大阪府立池田師範学校、東京高等師範学校を卒業して、京都帝国大学文学部に進み、卒業論文として「堀辰雄論」をまとめた。「(当時の文学は)荒廃した戦後の文学愛好者の心を潤した」と、展示室の壁にあった。戦後とは、すべての国民が渇望を満たそうとした時代だった。

 

大学卒業後、谷田氏は、大阪府立桜塚高校の教諭として働き始める。一方で、堀辰雄研究をさらに進め、1953年(昭和28年)、「堀辰雄全集」の編纂に参加したのを契機に新潮社に入社、名編集者として歩み出す。池田塾頭も、後輩編集者として教えを受けたそうだ。

 

谷田氏が手掛けたのは、『武者小路実篤全集』、室生犀星『杏っ子』、幸田文『流れる』、安部公房『砂の女』、遠藤周作『沈黙』など、誰もが知る話題作であるという。展示室には、骨太で個性あふれる文豪らの写真と、当時発刊された本や、その原稿が並ぶ。原稿用紙の文字も、几帳面だったり芸術的だったり、それぞれ極めてユニークである。カメラが趣味だったという谷田氏撮影の写真の中で、文豪らは肩を近付け、打ち解けたおおらかな笑顔を見せたり、話す者を一心に見つめ、その言葉に耳を傾けたりしている。

 

展示室の壁に、遠藤周作の言葉があった。

 

「あの頃のことを思い出すと、皆、仲間の各作品に、注意ぶかく、それぞれ影響を与えたり、受けたりしたものである。少くとも私にはどんな日常的な話も、この会の連中の口から出ると、面白く感ぜられたものだ」(『構想の会のこと』より)

 

構想の会とは、後に「第三の新人」と呼ばれる小説家グループの母体である。遠藤周作が構想の会で抱いた心情は、まさに、私が池田塾で得たそれだと思った。人を信じ、「身交う(むかう)」場所、それが池田塾である。

 

私的な話で恐縮だが、谷田氏が特に活躍された昭和40年代、50年代は、私の幼少期に当たる。これまでの人生の中で最もゆっくり時間が流れ、若い家族が全員揃って笑って過ごした呑気な時代だ。展示された本の紙質、活字の大きさや形、装丁や挿絵の色やタッチ、すべてが当時そのもので、懐かしかった。

 

* * *

 

私の今の職場は、リベラルアーツ、換言すれば、講義型ではなく対話型の、少人数による全人教育を中心に据える私立大学の事務室である。その大学の職員である私の勤務時間のほとんどは、次々に届くメールを捌いたり、運営上の仕組みを作るため打ち合わせたり、資料を作ったりするために充てられる。そこでは、効率的な手法と、平易で短い言葉がよしとされる。

 

その一方で職員には、人がよく生きるための教育とはどのようなものか、そのための組織や制度をどう組み立てるのかといった、教員の議論を支援する仕事もある。また、受験生や高校生、そして彼らの家族、母校を思う同窓生に、自学の現状や教育の意義を説く場面もある。時には、学生の悩みを聞くこともある。ところが、日頃、短い時間で合理的判断を繰り返すだけの頭では、「どのような教育を追求すべきか」について、よく考えることは難しい。学生に語りかける言葉も選べない。

 

私が池田塾への入塾を希望したのは、このような毎日を過ごす中で「若者の将来に責任を持つ者の端くれとして、日常とは違う視座を持たなくては」と、思うようになったからである。多くの社会人は、そのような事は重々承知で、多忙なスケジュールの合間を縫い、それぞれの方に合った様々な方法で、よく考え、よく生きるための努力を重ねてこられているのだろう。

 

最後に、ぜひ池田塾の皆様と共有したいことが一つある。私の勤める大学で、かつてプラトンを教えていた、学生から大変慕われた哲学の教員は、元旦には必ず本居宣長の『うひ山ぶみ』を読んでいたそうだ。私にこの事を教えてくれた教員は、所々鉛筆で書き込みのある『本居宣長』(昭和52年10月30日発行 昭和52年12月15日4刷)を見せてくれた。よく考え、よく生きることを志向する人の辿り着く先は、同じなのかもしれない。

(了)

 

「心」と「情」

「本居宣長」はいつも、光源となって私の内面を照らし、その影かたちの細部までを浮き上がらせる。読み返すたびに、新しい”引っかかる語”が眼前に立ち現れ、私がいま何を考えているのか、何に興味があり、何を必要としているのかを教えてくれる。“引っかかる語”とはつまり、自身の内の奥底で問題意識を持っている事柄に関係する単語であり、それは「本居宣長」を読んでいくための方位磁針にもなるだろうと思われる。

私は、楽譜でも本でも、音や言葉の構成要素を分類し、それらの関係性を見つめるために、ラインマーカーを引きながら読んでいくのが好きだ。「本居宣長」を読むにあたっても、”引っかかる語”を文中に見つけるたびに印をつける。”引っかかる語”は読み返すたびに増え、単語ごとに色を変えて印をつけていくので、私の「本居宣長」はとてもカラフルだ。

 

“引っかかる語”のひとつに「こころ」がある。「本居宣長」において「こころ」は、「心」、「ココロ」、「こころ」または「こゝろ」と書き分けられ、表記の違いによって意味が違う。「こころ」または「こゝろ」と平仮名で表記されるのは、主に、本居宣長や賀茂真淵らの文章から引用されている場合である。また、「意」にも、「ココロ」とルビが振られる場合がある。「ココロ」は、その漢字のとおり「意味」という語義で使われているようだが、それをわざわざ「ココロ」と読ませるのだから、何か意図するものがあるに違いない。そこで、「こころ」については、表記の違いによってさらに色分けし、印をつけることを徹底して行った。私が「こころ」という単語に引っ張られてしまうのは、やはり、作曲家として、人の心の働きについて知りたいと、無意識ながらも、常に思っているからだろう。私は作曲という行為を通して、自分の、そして、人の心が如何につくられているかを知ろうとしている。

 

今回は、「心」と「ココロ」の微妙な違いに焦点を当ててみたい。私なりに「本居宣長」を精査した結果、人の心には「心」と「ココロ」の両方を用い、事物の心には「心」のみが用いられていることがわかった。つまり、人の心は「ココロ」になり得るが、事物の心は「ココロ」にはなり得ないということのようだ。私たちは日頃、「心」という言葉を曖昧に使ってしまっている。一般的には、人の精神活動をつかさどるもの、気持ち、物事の本質などを意味するが、そもそも「心」とは何であろうか。まず人の「心」について考えてみたい。小林秀雄先生は「紫文要領」から、以下の部分をたびたび引用している。

「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるゝにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、151頁、8行目)

すべての事を心で味わい、事の質を自らの心で分別する。人の「心」には、事物を味わい、分別する働き、つまり、事物を味識する働きが備わっているというのである。さらに本文を参照していく。

「『感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪なる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也』(『紫文要領』巻上)、よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事に触れてウゴく、事に直接に、親密にウゴく、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない」(同第27集、151頁、18行目)

「しかし、事物を味識する、『ココロ』の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。『ココロ』が『ウゴ』いて事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証することは出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう」(同第27集、164頁、4行目)

「『人の実の情をしるを、物の哀をしるといふなり』(『紫文要領』巻下)。『人の実の情』は知り難い。こんなに不安定なものはないからだ。『感は動也といひて、心のうごくこと』(『玉のをぐし』二の巻)だからだ」(同第27集、262頁、2行目)

以上の参照箇所などから、人の「心」とは、事物に触れた際に機能するセンサーのようなものであろうと思われる。その感じて動く性質、それ自体が、心を「心」たらしめる。そして、人の心の機能は、その心の本体を所有している本人でさえ、コントロールすることができない。心が事物に触れたら最後、自ずからその機能が働いてしまうのだと強調されている。

ココロ」は、動いている状態の「心」の本体とその機能を表すようだ。「『ココロ』の曖昧な働き」「『ココロ』が『ウゴ』いて事物を味識する様」「ウゴく人のココロ」などのように、「ココロ」は必ず、動きを伴っている。「心」は事物に触れて動く。その動くさまが「ココロ」であり、「ココロ」が自らその動きの質を見極めることによって、対象の事物を味識する。

人はみな、本能的に、「心」を自らの内に所有していることを知っている。が、実のところ、自分の内に心が在ることを意識するのは、気持ちや感情を見出したとき、つまり、「心」本体が「心」として機能して動き、「ココロ」となって「ココロ」の機能が働いたときだ。それらの働きは瞬時に起こるので、すべてを一緒くたにしてしまいがちだが、本質的には「心」と「ココロ」の機能が、実情や感情を見出している、というのが正しいのではないだろうか。

「問題は、人の情というものの一般的な性質、更に言えば、その基本的な働き、機能にあった。『うれしき情』『かなしき情』という区別を情の働き浅さ深さ、『心に思ふすぢ』にかなう場合とかなわぬ場合とでは、情の働き方に相違があるまでの事、と宣長は解する。何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は『すべて心にかなはぬ筋』に現れるとさえ言えよう」(同第27集、150頁、9行目)

 

事物の「心」は、その事物の「本質」という語義で使われている。しかし、事物の心といっても、「事の心」と「物の心」とは、私たちにとって大きく違うように思う。「事」とは出来事であり、「事」が起きたとき、私たちはすでにその出来事に関わっていて、起こった「事」を自身の内に受け取っているので、自然に、事の心を自らの心で感じることができる。しかし、物の心は知り難いように思う。なぜなら、物の心のほうから、人の心に近づいてくることはないと思われるからだ。私たちが積極的に「物」に関わり、物の心を知ろうと努力しない限り、私たちの心が物の心に触れることはできないだろう。

ココロ」というのが、動いている「心」の状態とその機能であるならば、本文中で、事物に対しては「ココロ」が使われていないことに、納得がいく。事物の心は人の心のようには機能しない。しかしながら私は、事物の心も、ある一定の動きを持っているのではないかと感じることがある。私たちの心は、おのずから、音という、物理的には空気の振動にすぎないものに、美しさや感情など、様々なものを聴き出そうとする。その聴き出そうとする努力により、感動することができる。そのとき「心」は、実際に空気の振動によって振るわせられ、それによって感動を見出しているのではないだろうか。

「心が事に触れてウゴく」という表現に、心同士が物理的に「触れて」いるような感覚を得ることができる。「心が事に触れてウゴく」とき、人の心と事物の心とは、現実に「触れ」合っているのではないだろうか。事物の心はある一定の振動を持ち、人の心は、実際に事物の心に触れることによって、事物の心の振動を受け取る。すると、人の心は事物の心と共振する。人の心は共振を引き起こされることによって、事物の心の振動の質を知ることになる。これが、「事の心を知り、物の心を知る」ことではないだろうか。

「触れる」ということに関しては、小林先生の文章にこのような表現がある。

「焼き物好きは、いつの間にか、触覚に基づいて視力を働かすようになっている。陳列棚の焼き物も、硝子越しに、触るように見ているものだ」(同第25集、132頁、10行目)

「心が事に触れ」ることを「事物とココロとの交渉」とも言い換えることができるようだ。

「宣長が、『源氏』に、『人のココロのあるやう』と直観したところは、(中略) ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れてくる事物とココロとの緊密な交渉が行われている世界である」(同第27集、164頁、13行目)

さらに、小林秀雄先生の文章のなかには、「物に心が在ったら」などと、物を人に見立てるような表現が時折見られ、それらにも、事物の心の振動を感じることができる。

「『源氏』という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向に気に掛けはしまい。だが、凡そ、文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう」(同第27集、196頁、14行目)

「誰にとっても、生きるとは、物事を正確に知ることではないだろう。そんな格別な事を行うより先きに、物事が生きられるという極く普通な事が行われているだろう。そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしている、私達の直接経験の世界に現れて来る物は、皆私たちの喜怒哀楽の情に染められていて、其処には、無色の物が這入って来る余地などないであろう。それは、悲しいとか楽しいとか、まるで人間の表情をしているような物にしか出会えぬ世界だ、と言っても過言ではあるまい」(同第27集、277頁、2行目)

「私は壺が好きだ。もし焼き物に心があるなら、盃も徳利も皿も鉢も、みんな壺になって安定したい、安定したいと願っているようにさえ感じられる」(同第25集、133頁、12行目)

 

おそらく、この世の事物の心は、すべて振動している。私たちは、自らの心の機能を鍛えていくことによって、より多くの事物の心の振動を察知することができるようになり、より深く、事物との交渉を試みることができるのだろう。私たちは事物と関わることによって、自らの心をチューニングすることができるのだ。

(了)