奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年八・九月号

発行 平成三十年(二〇一八)八月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十四 起筆まで(下)―思い出すという事

 

1

「無常という事」は、ある日、比叡山に行き、山王権現のあたりをうろついていると、突然、「一言芳談抄」のなかの一文が、「当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび」、その短文の節々が、「まるで古びた絵の細勁さいけいな描線を辿る様に心に滲みわたった」という小林氏自身の経験から書き起されているのだが、氏は、この経験を、執拗と言っていいほどに、あらゆる角度から思い返す。

―そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。……

しかし、あの日から何日か経ち、「無常という事」と題したこの文章を書いている今、あの美しさは氏の眼前にはない。

―あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを摑むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取戻すすべを自分は知らないのかも知れない。……

もしやあれは、幻想だったのか、空想だったのか……。いや、そうではない。

―空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。……

それはわからない。が、いま確かなことは、小林氏があの比叡山での出来事を、思い出している、ということだ。

―僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。……

前回、私は、小林氏が「無常という事」の最後で、「現代人には無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と言っている「常なるもの」とは、「死んだ人間」というもはや何物にも動じない歴史の形であり、それを現代人は見失ったと氏が言うのは、現代人は歴史を現代の側から解釈するばかりで、歴史に現れているのっぴきならない人間の形、それを思い出そうとはしなかったからであると書いた。この「思い出す」は、小林氏がここで言っている、「鎌倉時代を思い出す」という「思い出し方」を受けてのことである。

 

「無常という事」は、こうして比叡山での経験にこだわり、「今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ」と言った後、「歴史というものは、新しい解釈なぞでびくともするものではない、解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ」と転調し、また「生きている人間というものは仕方のない代物だ、死んでしまった人間こそはまさに人間の形をしている、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」と言った後に、

―歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。……

そう言って、すぐにこう続ける。

―思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。……

記憶するだけではいけないのだろう、思い出さなくてはいけないのだろう……。「無常という事」で、最も大事なくだりはここである。「現在」は不安定状態にある、しかし「過去」は安定状態にある。不安定から安定を見れば、安定は整然として美しい。思い出となればみんな美しく見えるとは、そういう人間に与えられた自ずからの心理作用によるのだが、その思い出が美しいと見えるところに不安定から安定へと向かう足がかりがあると言うのである。

前回は、宣長との関連で、歴史は解釈してはならないという小林氏の趣旨を先に見ていったのだが、歴史は解釈してはならない、それを言ったうえでより強く氏が言いたかったのは、歴史は思い出さなくてはいけない、ということであった。「無常という事」は、徹頭徹尾、その「思い出す」ということについて考えようとした文章なのである。「解釈してはならない」は、「思い出さなくてはいけない」ということをより強く言うための逆光だったのである。

 

しかし、小林氏は、あの体験をしてすぐ、「思い出す」ということに思い当っていたわけではない。

―あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。無論、取るに足らぬある幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利であるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。……

氏は、比叡山での経験を持て扱ったのである。なぜ突然、ああいう感覚が襲ってきたのか。しかも、あれほど自分を動かした美しさはいまはない、どこに消えたのか。消えたのではなく、いまも眼の前にあるのかも知れない、それを摑んで取戻す術を自分が知らないだけなのかも知れない……。

―こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。……

「美学に行き着かない」とは、この体験を論理的に、抽象的に分析したり整理したりはしないということだ。前回引いた「『ガリア戦記』」でも、「美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していた」と言われていた。氏は、あくまでもあの美の体験が、自分にとってどういう意味をもつものなのかを行きつ戻りつ知ろうとする。こうして氏が、あの体験を思い返し思い返しするうちに、期せずして辿り着いたのが「思い出す」という言葉であった。「無常という事」の前半部、比叡山での経験を締めくくる文章を、もう一度引こう。

―僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。……

ここでも最後は、「そうかも知れぬ。そんな気もする」と、断言は避けているが、あの比叡山でのひととき、自分は鎌倉時代を、まるで昨日のことのように「思い出して」いたのではなかったか、人間は、こういうふうに、はるかな昔も「思い出せる」ように造られているのではないだろうか……、小林氏は、そう言っているのである。

 

私たちは、日頃、「思い出す」という言葉は、自分自身の過去や、親族・知己に関わる事柄を言うときに使っている。先に小林氏が言っていた「僕はただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ」の「思い出す」は、ひとまず、その、私たちがふつうに口にしている「思い出す」であると解していいだろう。ここでの小林氏は、氏自身の経験を思い出している。

しかし、後で言われている、「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか」の「思い出す」は、そうではない。はるかに遠く隔たった、明らかに自分の記憶にはない時代を「思い出す」のである。しかも氏は、自分とは血のつながりはもちろん、行きずりの縁すらもない「なま女房」とその時代を「思い出して」いたのである。

そういう「思い出す」について、昭和四十五年八月に行った講演「文学の雑感」ではこう言っている(新潮文庫「学生との対話」所収)。この年は、「無常という事」からでは約三十年後、「本居宣長」の雑誌連載を始めてからでは五年後にあたっていた。

―今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです、歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうのです。織田信長が天正十年に本能寺で自害したということを知るのは、歴史の知識にすぎないが、信長の生き生きとした人柄が心に想い浮ぶということは、歴史の経験である。宣長は学問をして、そういう経験にまで達することを目的としたのです。だから、宣長は本当の歴史家なのです。……

「無常という事」の頃には、比叡山で不意をつかれてあやしい思いを伴っていた「思い出す」という経験が、ここでははっきりとした確信になっている。そして、言う。

―歴史を知るというのは、みな現在のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇ってくる。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。……

ということは、「僕はただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ、自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が」と小林氏が言っていた「思い出す」と、「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか」と言っていた「思い出す」とは、現在と過去、自分と他者、それらが渾然一体となった「思い出す」であったということなのだろう。だがそれは、「無常という事」を書いていたときはまだはっきり認識できてはいなかった。あれから三十年ちかくが経つ間に、氏は、「思い出す」という人間に具わっている能力は、重層構造であることの確信に達していたのである。

 

2

 

「無常という事」で言われた「思い出す」ということに、なぜこうも深入りするかについては、すでにもう察してもらえていると思う。講演「文学の雑感」で、宣長の学問は、「思い出す」ということ、すなわち、古えの手ぶり口ぶりが見えたり聞えたりするような想像上の経験に達すること、それが目的だったと小林氏は言っていた、これがそのまま「本居宣長」の本文に直結するのである。

近世日本の学問を拓いて、宣長の先達となった中江藤樹の足跡を第八章から辿り、第九章では伊藤仁斎に及び、第十章に至って荻生徂徠の歴史観を窺うくだりで小林氏は次のように言う。

―徂徠に言わせれば、「辞ハ事トナラフ」、言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている「事実」も「事」も「物」も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。……

そして、学問というものの急所を徂徠からも学びとった宣長は、「歴史を思い出す」という心法を、「古事記伝」で実践する。その一例を、第三十章から引こう。実を言えば、これは一例どころの段ではない、宣長の学問を象徴すると言っていいほどの場面なのだが、「古事記」の中つ巻、倭建命やまとたけるのみことが東征を余儀なくされるくだりである。

倭建命は、景行天皇の皇子で、父天皇の命によって西国に赴き、九州南部に跋扈していた熊襲くまそを討って大和に凱旋したが、天皇はすぐさま、次は東国に行って蝦夷えみしを討てと命じる。倭建命は伊勢神宮に詣で、斎宮として奉仕していた倭比売命やまとひめのみことに会って悲痛な心中を打明ける。小林氏が引いている宣長の訓をそのまま引く。

―「天皇すめらみことはやれを死ねとや思ほすらむ、いかなれか西のかた悪人等まつろはぬひとどもりにつかはして、返り参上まゐのぼほど幾時いくだらねば、軍衆いくさびとどもをもたまはずて、今更にひむがしの方の十二道とをまりふたみち悪人等まつろはぬひとどもことむけにはつかはすらむ、此れにりて思惟おもへば、猶吾なほあれはやく死ねとおもほしすなりけりとまをして、うれひ泣きてまかります時に、倭比売の命、草那芸剣くさなぎのたちを賜ひ」云々。……

この後に、「古事記」の原文をこう訓む理由が宣長自身によって事細かに記され、次いで倭建命の愁訴に対する宣長の所懐が述べられる。

―さばかり武勇タケマス皇子ミコの、如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける、しかれども、大御父天皇の大命オホミコトタガひ賜ふ事なく、誤り賜ふ事なく、いさゝかも勇気イサミタワみ給ふこと無くして、成功竟コトナシヲヘ給へるは、又いといと有難アリガタタフトからずや、(此ノ後しも、いさゝかも勇気イサミタワみ給はず、成功コトナシをへて、大御父天皇の大命オホミコトを、タガへ給はぬばかりのタケタダしき御心ながらも、如此カク恨み奉るべき事をば、恨み、悲むべき事をば悲みナキ賜ふ、これぞ人の真心マゴコロにはありける、此レ漢人カラビトならば、かばかりの人は、心のウチにはイタく恨み悲みながらも、はつゝみカクして、其ノ色を見せず、かゝる時も、たゞ例の言痛コチタきこと武勇タケきことをのみ云てぞあらまし、此レを以て戎人カラビトのうはべをかざり偽ると、皇国みくにの古ヘ人の真心マゴコロなるとを、よろヅの事にも思ひわたしてさとるべし)……

小林氏が、ここでこうして倭建命の告白に対する宣長の所懐を精しく引いているのは、必ずしも「歴史を思い出す」という心法を論じようとしてのことではない、宣長は、どういう態度で「古事記」の原文訓読に臨んだか、宣長の学問の「ふり」を言うためである。

―ここに明らかなように、訓は、倭建命の心中を思いハカるところから、定まって来る。「いといと悲哀しとも悲哀き」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。もし証拠はと問われれば、他にも例があるが、宣長は、阿礼の語るところを、安万侶が聞き落したに違いない、と答えるであろう。……

小林氏の言う宣長の学問の「ふり」については、またあらためてしっかり会得する機会を設けなければならないが、氏がここで宣長の所懐から引いて「倭建命の心中を思い度る」と言っている「思い度る」は「思い量る」であり、相手の心中に思いを馳せる、相手の気持ちを慮る、である。そうであるなら「思い度る」は、「思い出す」という心法そのものだったと言えるのであり、これらの総括とも言える言葉が、続けて連ねられる。

―「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人のココロの外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。……

小林氏の言う「思い出」とは、事件や出来事の輪郭、あるいは顛末を辿り直すことではない、それらの事件や出来事に関わった人の内側にある心を知ること、そうすることだけを「思い出す」と言っている。

これに続いて、講演「文学の雑感」でも言ったことが記される。

―過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。……

―歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか掴めない。年表的枠組は、事物の動きを象り、その慣性に従って存続するが、人のココロで充された中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している。倭建命の「言問ひ」は、宣長のココロに迎えられて、「如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける」という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである。……

 

こういうふうに、「無常という事」を「本居宣長」と読み合わせてみれば、一篇の詩として書かれた「無常という事」の表象も具体的になる。

―思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。……

多くの歴史家が、頭を記憶でいっぱいにしている、とは、彼らは歴史に関わる知識の蒐集整理にかまけてそこに手を取られ、足を取られてしまっている、ということだろう。そういう歴史家には、人の心で満たされた歴史の中身を虚心に酌み取ろうとする気持ちはなく、したがって、その心が、倭建命のようにはっきりと、しっかりとした「人間の形」を見せていてもそれを「思い出す」ことができない、そのために、彼らは彼ら自身が「一種の動物」状態に留まっている、だから「何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすのやら、解ったためしがない」のである。

―上手に思い出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。……

「過去から未来に向って飴の様に延びた時間」とは、自然科学的見地で言われる時間である。どこまでも永遠に、変ることなく続く時間である。そこでの一分は、誰にとっても全く同じ一分である。しかし、悦び哀しみが交差し去来する人間の心にとって、一分の長さはいつも同じではない、また誰にも同じ長さの一分ではない。近代における自然科学の発達は、そういう人間個々の感覚・感情を蔑ろにして自然科学的見地の時間を重視した。小林氏の言う「蒼ざめた思想」とは、そうした人間の血が通っていない、人間の体温が感じられない物理的時間を絶対視する考え方である。私たちは、そういう時間に縛られたままでいるかぎり「一種の動物」状態を抜け出すことはできない。なぜなら、動物は、その日その時で一分を長く感じたり短く感じたりすることはないだろうからだ。したがって、自分の生きる時間を自分で創り出そう、創り出せる、などとは思ってもみないだろうからだ。

だが、こんな動物状態も、私たちは抜け出そうと思えば抜け出せる。

―成功の期はあるのだ。この世は無常とは、幾時如何いついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。……

「常なるもの」、すなわち、永久に変ることのない「死んだ人間」を思い出すことから始めればよいのである。すべてが止った「死」を思うことによって、芸もなくめりはりもなく過ぎていく物理的時間から脱却する。小林氏は、「本居宣長」を宣長の遺言書を読むことから始め、伊邪那美命イザナミノミコトという「死んだ神」と、伊邪那美命に死なれた夫、伊邪那岐命イザナギノミコトを思い出して擱筆する。「無常という事」で奏でられた「歴史」の四重奏が、「本居宣長」に至って大管弦楽となったのである。

 

3

 

小林氏が、「歴史を思い出す」ということを最初に言ったのは、昭和十四年(一九三九)五月、創元社から出した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」においてであった。この年、氏は三十七歳、「無常という事」に先立つこと三年である。

前回も書いたが、「ドストエフスキイの生活」はドストエフスキーの評伝である。ということはドストエフスキーの歴史である。小林氏はこの「ドストエフスキイの生活」を昭和十年一月から十二年三月までの間、二十四回にわたって『文學界』に連載し、これにかなりの加筆を施して単行本にしたのだが、その「序」とされた文章は単行本刊行の約半年前から書き始められ、いったんは雑誌に発表された。氏は『文學界』連載時から「歴史」を書くことの難しさに屡々直面した、そこを吐露した文章も他にあるが、単行本に向けての加筆を進めるにつれ、「歴史」はどう書くべきかの肝心要が腹に入った、その肝心要を象徴する言葉が「思い出す」だったのである。

当時、歴史家たちは、歴史科学というものの構築をめざし、自然科学に準じて歴史にも一定不変の法則を見出そうとしていた。そのためには、俗に言われる「歴史は繰返す」ということが、事実として認められるということを何とか言おうとして躍起になっていた。これについては、後年、昭和十六年三月に発表した「歴史と文学」(同第13集所収)で精しく言っているが、当面の「序」では次のように言った。この一節に「思い出」という言葉が初めて出る。

―歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起ってしまった事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。……

―子供を失った母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくいたと語ってみても無駄だろう。類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎまい。掛替えのない一事件が、母親の掛替えのない悲しみに釣合っている。彼女の眼が曇っているのだろうか。それなら覚めた眼は何を眺めるか。……

―子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。……

―それは歴史事実に関する根本の認識というよりも寧ろ根本の技術だ。其処で、僕等は与えられた歴史事実を見ているのではなく、与えられた史料をきっかけとして、歴史事実を創っているのだから。この様な智慧にとって、歴史事実とは客観的なものでもなければ、主観的なものでもない。この様な智慧は、認識論的には曖昧だが、行為として、僕等が生きているのと同様に確実である。……

過去の事件や人物を、そっくりそのまま客観的に再現する、世の歴史家たちは、それが自分たちの仕事だと思っているが、そんなことは誰にもできない。できたとすればそれはただ表面を掻い撫でしたにすぎない。歴史とは、どこで何が起ったか、誰が何をしたかを調べることに留まるものではない、それらを調べたうえで、それに関わった人間たちは何を思ったか、考えたか、そこまで錘鉛すいえんを下げて彼らの気持ちを推し量る、そしてそれを私たちが生きている現代の糧とも指標ともする、そこに歴史を知ることの意味がある。そのためには、子供に死なれた母親が、子供の遺品を手がかりとして在りし日の子供の顔をまざまざと思い浮かべるように、与えられた史料を手がかりとして、昔の人々に思いを馳せ、能うかぎりその人たちの近くに寄って心を酌み、悦びも悲しみも共にする、この一連の心の用い方が小林氏の言う「歴史を思い出す」ということなのだが、この「歴史を思い出す」を、氏は「歴史事実を創る」とも言っている。

そうであるなら、本居宣長は、「古事記」という史料を得て、「古事記」に並んだ漢字をどう訓むか、その訓読如何をもって倭健命の告白を「創った」のである。「ドストエフスキイの生活」の「序」を書いた時期、小林氏は「古事記伝」を読み始めていたと思われるのだが、そのときすでに氏が倭健命の告白を聞いていたかどうかは微妙というほかないものの、ここで言っている「歴史事実を創る」という感触を、氏は「古事記伝」からも得始めていたと思ってみるのは必ずしも空想ではないだろう。

 

ここで一度、話がやや逸れるが、前回、小林氏が「古事記」を読もうとした動機には、昭和十二年前後の文壇、思想界における「日本的なもの」をめぐっての議論があったようだと言った。この流れをさらに遡ってみると、氏が昭和八年から本腰を入れて取り組んだドストエフスキー研究もそこに与っていたと思われるのである。

昭和四年の九月、「様々なる意匠」を二十七歳で文壇に撃ちこみ、華々しく駆けだした新進批評家小林秀雄は、近代文学後進国ならではの妄言で口角泡を飛ばしあう日本の文芸時評界に早々と見切りをつけ、三十歳になるやドストエフスキーにかかりきるようになった。そのドストエフスキー研究の最初の発言は昭和八年一月の作品論「『永遠の良人』」であったが、同年五月には「故郷を失った文学」(同第4集所収)を発表し、そこにこう書いた。最近、ドストエフスキーの「未成年」を再読し、以前読んだ時には考えてもみなかったことに気づいた、わけても、

―描かれた青年が、西洋の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失っているという点で、私達に酷似しているのを見て、他人事ではない気がした……。

小林氏が、「古事記」を読もうとしたきっかけは、世の「日本的なもの」をめぐっての議論を受け、日本についての自分独自のイメージをつかもうとしたことにあるのではないかと前回書いたが、それも実は、ドストエフスキーが「未成年」で描いた青年アルカージーに、小林氏自身の顔を見たことから始っていたとも言えるのである。その氏の眼前に、島崎藤村の「夜明け前」が出現したのである。

 

さて、そこでまた「ドストエフスキイの生活」の「序」に還る。

―僕は一定の方法に従って歴史を書こうとは思わぬ。過去が生き生きと蘇る時、人間は自分のうちの互に異る或は互に矛盾するあらゆる能力を一杯に使っている事を、日常の経験が教えているからである。あらゆる史料は生きていた人物のもぬけからに過ぎぬ。一切の蛻の殻を信用しない事も、蛻の殻を集めれば人物が出来上ると信ずる事も同じ様に容易である。……

―立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさえあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない。彼女は其処で、伝記作者に必要な根本の技術の最小限度を使用している。困難なのは、複雑な仕事に当っても、この最小限度の技術を常に保持して忘れぬ事である。……

「無常という事」で、「一言芳談抄」の一節が突然心に浮かんだと小林氏は言った。あの不意の出来事に氏は戸惑い、この出来事の意味を様々に手探りするというかたちで「無常という事」の前半部は進むのだが、あれは氏が、「思い出す」ということに関してまったく新たな発見をした、その体験記ということだったと言えるだろう。

一般に「思い出す」という行為は、意識的な、能動的な行為だと思われている。何かを思い出そうとして、そこに意識を集中するからその何かを思い出すことができると思われている。だが、どうやら、それだけではないらしい。「思い出す」とは、「思い出させられる」という、ほとんど無意識のうちに、受動的に、ある物ある事を知らしめられる、そういうことでもあるらしいのだ。

そしてこの無意識的、受動的な「思い出す」にも、「遺品」が手がかりとして作用する。いやむしろ、「遺品」はこちらの「思い出す」にこそ強く作用する。あの日、「一言芳談抄」のあの一節が氏の心に突然甦ったのは、氏が比叡山の山王権現付近という、「一言芳談抄」の十禅師社と同じ環境に身をおいたからである。太陽に光る青葉、石垣の苔のつき具合、これらすべて、三年前の「ドストエフスキイの生活」の「序」で言っていた死んだ子供の遺品にあたるものであり、これらの遺品が「一言芳談抄」をというよりも、そこで語られていた「なま女房」の心中を氏に「思い出させ」、氏はおのずと「なま女房」が口にしていた「無常」という言葉の含みを「思い出して」いったのである。

―愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。……

この一節も、心して読めば、並々ならぬことが言われている。子供に死なれた母親は、意識的に、能動的に、何度も子供のことを思い出そうとするだろう。だがそれと並行して、母親に子供を思い出そうとする意識は起っていないときでも、母親の目に愛児の遺品の何かが映った瞬間、母親は思いもかけなかったことを思い出させられる、そういうことがある。このことは、子供を亡くした経験はなくとも、親であったり恩師であったり、かけがえのない人を亡くした経験があれば即座にうなずけるだろう。人間の思い出すという能力は、そういうふうに造られている。そうであるなら、この過去想起の能力は、はるかな昔の他人を思い出すというかたちでもはたらくのではないか、小林氏は、「ドストエフスキイの生活」の「序」で、そう言っていたのである。その自らの仮説とも言える予感が現実になった、それが「無常という事」の経緯いきさつだったのである。

 

氏は、後年、歴史を考えるときは歴史の遺品に直に触れることを心がけるようになっていた。歴史を「思い出させて」もらうためにである。二度目の「平家物語」(同第23集所収)を書いたころは鎧の小札こざね(鉄や革の小さな板)を、「本居宣長」を書いていたときは勾玉を、常に懐中して触れ続けていた。

 

4

 

「本居宣長」は、昭和四十年から『新潮』に連載されたが、その第一回が載った同年六月号は五月上旬に発売された。直前にはゴールデンウイークがあったから、編集部の最終校了は四月二十四日か二十五日、ここから推せば、小林氏は、遅くとも四月十五日には第一回の原稿を書き上げていただろう。四月十一日は六十三歳の誕生日であった。

―雑誌から連載を依頼されてから、何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日が長くつづいた。……

と第一章で言っている。その雑誌の連載依頼を、小林氏はいつ受けたか。当時、『新潮』の担当編集者は菅原国隆氏で、小林氏から最も信頼された編集者のひとりであったが、小林氏が「本居宣長」の前に取り組んだベルグソン論「感想」の編集者も菅原氏であった。昭和三十三年五月に連載が始った「感想」は、三十八年六月まで続いて中断していた。その「感想」を中断したまま「本居宣長」を始めたのである。この間の経緯を、菅原氏は何ひとつ言い残しも書き残しもせずに世を去ったが、「感想」の中断から「本居宣長」開始に至る小林氏の心中を、菅原氏こそはよく酌みとっていたであろう。

当時、菅原氏とともに小林氏の身辺にいた郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」によれば、この年六月、「感想」の第五十六回を書き上げてソヴィエト、ヨーロッパの旅に出た小林氏は、旅から帰った直後、「感想」は第五十六回で打ち切り、最後の仕事として本居宣長を選ぶ、旅行中もそのことを考え、決心して帰ってきたと郡司氏に言ったという。小林氏が郡司氏に告げたというこの言葉は、必ずや菅原氏にも告げられたであろう。否、誰よりもまず菅原氏に告げられたであろう。とすれば、「雑誌から連載を依頼され」た時期は、実際には「雑誌が連載を承知した」時期であり、それは、小林氏がソヴィエト、ヨーロッパの旅から帰った昭和三十八年十月十四日からほとんど間をおかずしてのことであったと思われる。郡司氏によれば、小林氏が「本居宣長」第一回の筆を起したのは四十年の二月であった。「何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日」は一年余り続いたのである。

 

しかし、本居宣長について書きたいという小林氏の意志は、「感想」連載中にもうはっきり固まっていた。昭和三十一年以来毎年八月、九州各地を会場として国民文化研究会主催の全国学生青年合宿教室が行われ、その合宿教室へ小林氏は都合五度招かれたが、初めて赴いた三十六年八月、「現代思想について」と題した講義の後の質問に答えるなかで、いつか本居宣長について書こうと思っていると問わず語りに言っている。小林氏が、本居宣長に取り組む意志を公の場で口にした最初は私の知るかぎりここであるが、この小林氏の意志そのものは、それよりさらに遡った時期に動き始めていた。

「感想」の連載開始一年後の三十四年五月から、氏は「感想」と並行して「考えるヒント」を『文藝春秋』で始め、その第一回は「好き嫌い」と題して伊藤仁斎と本居宣長のことを語った。以後「考えるヒント」は、「言葉」「学問」「徂徠」「弁名」「考えるという事」……と、今から思えば「本居宣長」への助走ともとれる話題を相次いで登場させ、いっぽう「考えるヒント」を始めて一年後、三十五年七月には「本居宣長―『物のあはれ』の説について」を「日本文化研究」(新潮社)の一環として発表する。この「『物のあはれ』の説について」は、四〇〇字詰原稿用紙七十枚ほどの論考だが、これを発表した後、この問題はとても七十枚では書き尽くせない、いずれ本格的に書き直すという旨のことを言っている。したがって、小林氏が、「感想」を完成させた暁に、「本居宣長」を始めるつもりでいたことはまず確実と言っていい。

ところが、そうはいかなくなった。「感想」が回を追って行き詰り、そしてついに三十八年五月、『新潮』六月号に「感想」の第五十六回を載せ、六月、ソヴィエト連邦作家同盟の招きに応じてソ連へ旅立ち、その足でヨーロッパも廻って十月に帰国したが、以後「感想」が書き継がれることはなかったのである。

 

郡司氏に小林氏は、「感想」は第五十六回で打ち切る、最後の仕事としては本居宣長を選ぶ、それが自分の資質に適った最良の道だ、と言ったという。まさにそのとおりであっただろう。だが、ここでさらに小林氏の思いを酌んでみれば、旅行中、氏が考えていたのは、もはやぬきさしならなくなった「感想」の活路は、本居宣長にひらけているということではなかっただろうか。

そう思ってみるのは、「本居宣長」の行間から、ベルグソンとも話しこむ氏の声がしばしば聞えてくるからだが、「本居宣長」の刊行直後、氏は江藤淳氏との対談「『本居宣長』をめぐって」(同第28集所収)で、大意、こう言っている。

―私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのである。……

―ベルグソンの「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事な本だと言っていいが、その序文の中で、こういうことが言われている。自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識人は、哲学の観念論や実在論が存在と現象とを分離する以前の事物を見ている。常識人にとって対象は対象自体で存在し、しかも見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これをベルグソンは「イマージユ」(image)と呼んだ。……

―この「イマージュ」という言葉は、「映像」と訳してはしっくりしない。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方がしっくりする。「古事記伝」になると「性質情状」と書いて「アルカタチ」と仮名を振ってある。「物」に「アルカタチ」、これが「イマージュ」の正しい訳である。大分前に、ははァ、これだと思ったことがある。……

―ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ客観的でもない、純粋直接な知覚経験を考えていたのである。さらに、この知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われていることを芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。……

―「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがある。私たちを取り囲んでいる物のあるがままの「かたち」をどこまでも追うという学問の道、ベルグソンの言う「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を摑む道。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」とベルグソンの哲学の革新との間には本質的なアナロジーがあるのを私は悟った。宣長の神代の物語の註解は哲学であって、神話学ではない。……

「アナロジー」は、類似という意味のフランス語だが、小林氏が、宣長の「古事記伝」とベルグソンの哲学の革新との間に本質的なアナロジーがあるのを悟ったのは、「大分前」のことだと言う。この「大分前」は、少なくとも「本居宣長」を書き始めてからのことではあるまい。昭和十七年六月、「無常という事」を発表した頃には……、と思ってみることも可能だが、遅くとも戦後の二十五年ないし六年、折口信夫を訪ねた頃にはもう確実に感じとっていたであろう。そのアナロジーが、「感想」から「本居宣長」へと舵をきらせたのではないだろうか、ということなのである。

 

小林氏は、「宣長の神代の物語の註解は哲学であって、神話学ではない」とも言っている。氏のこの言葉から、ただちに連想されるベルグソンの本がある。「道徳と宗教の二源泉」である。氏は、ベルグソン論「感想」の連載第一回で、こう言っていた、

―事件後、発熱して一週間ほど寝たが、医者のすすめで、伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した。その間に、ベルグソンの最後の著作「道徳と宗教の二源泉」をゆっくりと読んだ。以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。……。

「事件」というのは、昭和二十一年八月、泥酔して水道橋駅のプラットホームから転落し、九死に一生を得たが肋骨にひびが入った事故をいう。ところが氏は、「感想」の連載第一回で上記のようにふれたきり、「道徳と宗教の二源泉」にはまったく言及していない。他の主著「意識の直接与件論」「物質と記憶」「創造的進化」については、それぞれ真正面から論じている、だが、「道徳と宗教の二源泉」は、いっさい手つかずのままなのである。

ここから思いを致してみれば、小林氏は、「感想」は、最後は「道徳と宗教の二源泉」に還るつもりでいたのではあるまいか。ところが、連載開始から四年を経て、第五十回にさしかかるあたりから現代科学の問題に直面し、次第次第に身動きが取れなくなっていった。その窮境打開の活路を、氏は「道徳と宗教の二源泉」と「古事記伝」との間に見出し、ベルグソンの「常識の立場に立つ哲学」を日本の読者に伝えようとするなら、これから先は「古事記伝」を読んでもらうのが上策だ、氏はそう思い決めて日本へ帰ってきたのではあるまいか。

「本居宣長」第五十章で、氏は言っている。

―宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝説から読み取っていたのは、むしろ宗教というものの、彼の所謂、その「出で来る所」であった。……

「道徳と宗教の二源泉」は、四章から成っている。第一章は「道徳的責務」、第二章は「静的宗教」、第三章は「動的宗教」、第四章は「結論 機械説と神秘説」であるが、このうち第二章の「静的宗教」では、まさに「宗教というものの出で来る所」が考察されている。たとえば、ほんの一例だがこういうくだりがある。

―天体は、そのかたちによっても、その運行によっても個性化されている。この地上に生命を配剤する天体が一つあり、その他の天体はそれと同じほどの力は持たないが、やはり同じような性質をもっているはずである。それゆえ、それらの天体も、神であるのに必要な条件をそなえている。天体を神として信仰することがもっとも体系的なかたちをとったのは、アッシリアにおいてである。だが、太陽崇拝、それにまた天を崇拝することは、ほとんどいたるところで見いだされる。たとえば、日本の神道では、太陽の女神が、月の神と星の神々をしたがえて最上位に置かれている。(中村雄二郎訳)……

そして、ベルグソンは言う。こうした神話が誕生したのは、人間に「仮構」「虚構」の機能が自然に具わっているからである。人間は夢想し、あるいは哲学することができるが、まず第一に生きなければならない、したがって、人間の心理的構造は、個人的、社会的生活を維持発展させる必要に基づいている。「仮構機能」もその一つである。では、この「仮構機能」は、どんなことに役立つか。小説、戯曲、神話等は、いずれもこの機能に依存している、小説家や劇作家は常にいたわけではないが、人類は宗教なしですますことは決してなかった。宗教は「仮構機能」の存在理由であった。人間の「仮構機能」が先にあり、その「仮構機能」のはたらく場として宗教が生まれた。人間の個人的、社会的な必要が、人間の精神にこの種の活動、すなわち「仮構活動」を要求したに相違ない……。

あたかも、これと照応させるかのように、小林氏は、「本居宣長」第五十章の、先に引用した箇所の続きで言っている。「古事記」の「神世七代」の伝説ツタエゴトに、宣長は何を見たか……、それは、

―「神世七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。……

―生死の経験と言っても、日常生活のうちに埋没している限り、生活上の雑多な目的なり動機なりで混濁して、それと見分けのつかぬサマになっているのが普通だろう。それが、神々との、真っ正直な関わり合いという形式を取り、言わば、混濁をすっかり洗い落して、自立した姿で浮び上って来るのに、宣長は着目し、古学者として、素早く、そのカタチを捕えたのである。……

―其処に、彼は、先きに言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の眼にさらすのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えているココロの、退きならぬ動きを、誰もが持って生れて来たココロの、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々が、めいめいの天与の「まごころ」を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、「神世七代」の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか。……

いささかならず、先走りしすぎた感はあるが、「感想」の第五十七回を思い煩いながらソヴィエト、ヨーロッパの旅を続けていた小林氏の胸中に、ある日、「道徳と宗教の二源泉」と「古事記伝」とのこういうアナロジーが浮上し、それが日に日に氏の脳裏を領していったと「思い出して」みることはできないだろうか。

 

それにしても、なぜあのとき、小林氏は「意識の直接与件論」でも「物質と記憶」でも「創造的進化」でもなく、「道徳と宗教の二源泉」を、「道徳と宗教の二源泉」だけを読もうと思ったのか、である。

「感想」の第一章を読み返してみよう。

―終戦の翌年、母が死んだ。……

と書き出され、「母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした」と言って、次のように「事実」が記される。

―仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。……

これに続けて氏は、この「妙な経験」について様々に思いを巡らすのだが、この「妙な経験」を文章にしようとすれば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書くことになる、つまり、童話を書くことになると言い、後に「或る童話的経験」という題を思いついたりしたとも言っている。

むろん氏は、この「妙な経験」も、「無常という事」の経験と同様に持て扱い、ひとまずは「或る童話的経験」という言葉で括っておいて、もうひとつの「忘れ難い経験」を語る、それが先に書いた、母の死から二ヶ月後の水道橋駅での転落事故である。持っていた一升瓶は微塵になったが、氏自身は胸を強打したらしかったものの外傷はなく、外灯で光る硝子ガラスを見ていて母親が助けてくれたことがはっきりした、と書いている。

こうして氏は、伊豆の温泉宿へ療養に赴き、「道徳と宗教の二源泉」を時間をかけて再読するのだが、

―以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。……

と言う。

ここで言われている「経験」の意味するところは決して狭くはあるまいが、門を出るとおっかさんという蛍が飛んでいたという「事実」、そしてまたその母親が、自分の命を助けてくれたということがはっきりしたという「事実」、これが中心にあることはまちがいないだろう。こう書く直前で、氏は言っている。

―当時の私はと言えば、確かに自分のものであり、自分に切実だった経験を、事後、どの様にも解釈できず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生ま生ましい姿で、保存して置く事も出来ず、ただ、どうしようもない経験の反響の裡にいた。それは、言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも言っている声の様であった。……

小林氏が、あのときは読者の早呑み込みを恐れ、慎重に避けた言葉でいま敢えて言えば、氏の言う「童話的経験」は、ベルグソンの言う「神話的経験」だったのである。氏が、「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」と書くことは、氏の精神に具わっている「仮構機能」の自然な発露だからである。

 

こういうふうに見通してみれば、「本居宣長」は、「感想」の大団円であったと言えるかも知れない。あるいは「感想」は、結果において、「本居宣長」の壮大な序幕であったと言えるかも知れない。もとよりこれは、揣摩臆測の域に留まるが、少なくとも「古事記伝」を熟読する小林氏の五体には、「道徳と宗教の二源泉」が沁み渡っていた、このことを念頭において「本居宣長」を読み返せば、ベルグソンを断念して本居宣長を選ぶ、それが自分の資質に適った最良の道だと決意した小林氏を思い出そうとするとき、「道徳と宗教の二源泉」は大事な「遺品」となるのではあるまいか。

 

「感想」断念の理由を、小林氏自身は明確にしていない。わずかに岡潔氏との対談「人間の建設」(同第25集所収)で、次のように言っているのみである。岡氏からベルグソンのことは書いたかと訊かれ、

―書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。……

こうして「感想」は、小林氏自らの意志で永久封印された。

「感想」は本にしない、小林が死んだ後も絶対に本にはしてくれるな、全集に入れることも許さない……。小林氏本人から、私はこう言い渡された。だが私は、氏の遺言に背き、氏の死後、「感想」を第五次、第六次の「小林秀雄全集」に別巻として入れた。なぜそうしたかの理由は、それぞれ該当巻の巻頭に記した。

―著者の没後十数年を経る間に、かつての『新潮』連載稿に拠って、著者を、あるいはベルグソンを論じる傾向が次第に顕著となり、もし現状で先々までも推移すれば、著者の遺志は世に知られぬまま、著者の遺志に反する形で「感想」が繙読される事態は今後ともあり得るとの危惧が浮上した。よって、著作権継承者容認のもと、第五次「小林秀雄全集」および「小林秀雄全作品」に別巻を立ててその全文を収録し、巻頭に収録意図を明記して著者の遺志の告知を図ることとした。著者には諒恕を、読者には著者の遺志に対する格別の配慮を懇願してやまない。……

したがって、私は、もうこれ以上「感想」に立ち入ることはできない。今回ここで言及した雑誌連載第一回分のみは、昭和四十年五月、筑摩書房から中村光夫氏の編で現代文学大系第四二巻「小林秀雄集」が出た際、小林氏自身によって収録が認められている。昭和四十年五月といえば、「本居宣長」の『新潮』連載が始まった月であった。

(第十四回 了)

 

編集後記

まずは、平成30年7月豪雨により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げ、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

 

 

本誌は、発刊一周年を迎えた2018年6月号(5月刊行号)から隔月刊化したため、約二ヶ月ぶりの刊行となった今号では、3人の塾生が初寄稿されている。

 

巻頭随筆の秋山太郎さんには、山の上の家の集まりなどで身近に接していて、以前からそれらしき匂いを感じてはいたが、やはり学生時代は、世界中を巡るバックパッカーをされていた。今も、様々な旅先でつながっていく奇縁に驚き、その奇縁がまた、小林秀雄先生へとさらに一歩近づくための新たな学びの種にもなっているようである。

大学生の鈴木凛さんは、クリスマスの日の友人との会話からつながった縁で、今年度から入塾し、早くも5月の塾で自問自答に立った内容を、今回寄稿された。「他者の確信のない意見には頼らず、常に自分自身というものを主軸においた宣長の生き方」に触れて、「人生いかに生くべきか」という新たなる鈴木さんの自問自答は、今始まったばかりである。

クリスマスといえば、ハンガリーで医学を学び始めたばかりの青葉くららさんは、その時期に現地の教会で触れた弦楽七重奏に、思いもよらず、大きく揺さぶられる経験をしたという。長くピアノを演奏してきた青葉さんだからこそ感じた天恵であろう。その経験を十分に踏まえた、モーツアルトとショパンについてのくだりも、小林先生の音楽論とも共鳴し、興味が尽きない。

 

 

石川則夫さんには、前号に引き続き、諏訪紀行を寄せて頂いた。諏訪に息づいている生活文化は、すでに前号で予感されていたように、みなとや旅館で供される食事に止まらなかった。女将の小口芳子さんの一言からつながった散策は、日本の古層を巡る思索へと広がる。その広がりを、小林先生はしかと感じておられたのだろう。「諏訪には京都以上の文化がある」。石川さんに導かれ、読み進めるほどに、先生が発した言葉の持つ深遠さと広大さに驚きを禁じ得なくなる。

 

 

吉田宏さんは、6月の山の上の家に、本居宣長記念館の吉田悦之館長をお招きした際に感じられたことを綴られている。館長のお話に、小林先生の言葉も考え合わせ、宣長の「学問の名の下に行った全的な経験」の根幹にある想像力に思いを馳せる。その想像力を培うものは、「合法則性」や既存の枠組みから離れてみることと、歳月をかけるということにありそうだという「考えるヒント」を感得されたようである。

 

 

先日所用により、「世阿弥芸術論集」(新潮日本古典集成)を再読した。世阿弥は、「初心忘るべからず」という言葉が有名であるが、実は三つの初心があると言っている(「花鏡」奥ノ段)。未熟な頃の心構えである「若年の初心」、その時分時分にふさわしい芸に臨むという意味での「時々の初心」、そして、老後、初めての芸に挑むようなみずみずしい心構えである「老後の初心」である。

私は、本塾で学ぶ面白さの一つとして、小林先生を、本居宣長を学んでいるさまざまな段階にある塾生が一堂に会している点があると感じている。手前味噌となるが、例えば、本誌各号もまさにそうであるように、それぞれの段階にある初心の響き合いが、思いもよらぬ「花」を生むことも多いからである。今号には、読者諸賢に、どんな「花」を感じていただけるであろうか。

(了)

 

ブラームスの勇気

十四

ひどく退屈な街である。名高い祝典劇場は町はずれの森の中にある。これも全く無表情な建築であり、中に這入ってわかった事だが、劇場というよりむしろ巨大な喇叭なのである。全オーケストラを下に隠した舞台に向って、扇形にぎっしりと椅子が配置されている。通路もない、柱もない、二階もない。私達は喇叭の脇腹から番号順に詰込まれ、ドアを締められ、電気を消され、息を殺す。私は、バイロイトの劇場に来る者は、自分の趣味を家に置去りにしたワグネリアンという白痴になる、というニイチェの言葉を思い出していた。(「バイロイトにて」)

 

小林秀雄がワグネリアンの聖地バイロイトに到着したのは昭和三十八年八月二十三日の午後、宿泊先である郊外の退役軍人宅に荷物を置くや、市街へ引き返し、街角の本屋で「ニーベルングの指環」のフランス語訳を買い込むと、さっそくカフェテラスに入って読み始めたという。

四夜続くこの長大な劇場作品の序夜「ラインの黄金」は、その日の夜に上演され、翌二十四日に第一夜「ワルキューレ」、二十五日に第二夜「ジークフリート」、そして一日休みを挟んで第三夜の「神々の黄昏」が上演された。当地での案内役を引き受けた西村貞二の旅行記(「小林秀雄とともに」)によれば、中休みの日を含めて、小林秀雄は劇場で過ごす以外の時間はほとんど宿泊先に引き籠もり、ひとり「指環」の台本を読み続けたらしい。ちょうどワーグナーの生誕一五〇年、没後八〇年に当たる年で、七月二十三日の音楽祭開幕日には、この祝祭劇場で上演されることを許されたワーグナー以外の唯一の作品であるベートーヴェンの第九交響曲が演奏され、八月二十七日、小林秀雄が観た「神々の黄昏」をもって、この年のバイロイト音楽祭の幕が閉じられた。翌日、一行はフランクフルトに戻っているから、ただこの作品を聴くためだけに、小林秀雄はこの街を訪れ、五日間を過ごしたのであった。

その動機と感想を、彼はまず次のように語っている。

 

こんどバイロイトに行って、「指輪」を聴きましょうと思ったのは、こっちでは機会がないし、あの作曲はあの人が一生かけたもんだし、あれを聴けば、だいたいワーグナーというものは、こういうものかと納得できるだろうと思って聴いた。それはつらい骨の折れることだった。あのなかに入ってね、ときどき強い感動があるのですね。ぼくら、ほんとうにはよくわかりません。音楽的教養がちゃんとあって、ワーグナーを聴くなら別だが、ぼくらみたいなただ音楽が好き、面白いというだけなら先ず退屈なものですわ。(「音楽談義」)

 

初めて訪れたバイロイトでのワーグナー体験が、「つらい骨の折れること」であり、「先ず退屈なもの」であったのは事実であろうが、オペラは「眼をつぶって聞く」とまで書いた小林秀雄が、四夜、延べ十五時間前後に及ぶ劇場音楽を「我慢して聞いた」(と彼は右の対談の録音では語っている)のは、それだけ、「ワーグナーというものは、こういうものかと納得」したい思いがあったからであろう。バイロイトへ来る前、小林秀雄はザルツブルク音楽祭へも出向いているが、もともと彼が望み、西村が苦労して手配したコンサートを、いざ現地に到着してみると、「おれはモーツァルトの生まれたザルツブルクにきただけで、もう音楽的な気分にひたれた。それで十分なんだよ」と言って、二晩もキャンセルしてしまったという。滞在最終夜の「魔笛」についても、ぐずぐすしている彼の尻を叩いて劇場まで引っ張って行ったと西村は書いている。モーツァルトについては、小林秀雄は十七年前に発表した「モオツァルト」で、既に十分「納得」済みだったのである。

ワーグナーを納得したいという彼の思いはしかし、この作曲家に対する音楽的関心だけから発したものではなかっただろう。彼が本当に「納得」したかったのは、おそらく、一八六〇年、パリのイタリア座で一人の詩人を震撼させ、「精神的手術を受けた」と言わしめたところの音楽であった。そしてその詩人が、翌年のパリ・オペラ座における「タンホイザー」のフランス初演に際して発表した「リヒャルト・ワーグナーと『タンホイザー』のパリ公演」に書き残し、小林秀雄が生涯にわたって幾度も引用し続けた一節、「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」(小林秀雄「表現について」より)という言葉の意味するところを、ワーグナーの音楽から直に聞き取りたいという要求であったに違いない。自分を批評家ならしめた一詩人が、ワーグナーという一詩人に見出した「最上の批評家」を、すなわちボードレールの批評精神の精髄を、彼は自らの耳で確かめたかったのである。

帰国して程なく、『芸術新潮』に発表した「バイロイトにて」というエッセイでは、この舞台作品に接した直接の印象はほとんど語られなかった。彼自身、それは無理な話だと言い、「私は、ただ、あの巨きな喇叭のなかで、毎晩、神妙に、茫然として耳を澄ましていただけなのである」と書いている。だがこの旅行から帰った三年後に行った「音楽談義」の中で、小林秀雄は、この長大な作品のどこで「強い感動」を覚えたのかについて、はっきりと、しかも執拗に何度も語った。その一つは、最終夜「神々の黄昏」の第三幕第二場で、主人公ジークフリートが殺害され、有名な葬送行進曲とともにその棺が運ばれて行く場面であった。

 

何度もいうけれども、「神々の黄昏」の中でジークフリートが死ぬ。あそこでテューバがでてくるだろう、お葬式で。ボッ、ボッ、ウーというのがあるでしょう、向うへいくときに暗いんだよ。少し坂道になっていて、そこをだんだん棺が進んでゆくんだ。あのなかで音楽が鳴っているわけですよ。それは見なくてもいいんですけどね。何ともいえない。あれはお葬式というものじゃ、ぜんぜんないんだよ。これはジークフリートというもんなんだ。ジークフリートというものを、おまえたちは見てきたろう、一幕からずっと。いまや死んだんだ。貴様ら、ジークフリートをどういうふうに思うか、そういうふうなものがあの音楽ですからね。ワーグナーはということをしきりにいってるでしょう。あすこの音楽はたしかにに違いないと納得した。ショパンだって、ベートーヴェンだって、ぜんぜん考えつかなかった葬送行進曲ですよ。だれも書けないし、書いたことがないですよ。

 

「タート」とは、自作に「楽劇(Musikdrama)」という呼称が冠せられることを嫌ったワーグナーが、自分の劇作品は「形象化された音楽の行為(ersichtlich gewordene Taten der Musik)」であると書いた、その「行為Tat」である(ワーグナー「<楽劇>という名称について」)。小林秀雄は、昭和二十五年に発表した「表現について」をはじめ、この「行為Tat」について何度か言及しているが、ここでは、彼にこのワーグナーの言葉への基本的な理解を与えたパウル・ベッカーの「西洋音楽史」から引用しよう。ベッカーは、この「形象化された音楽の行為」という言葉に、ワーグナーの作品を貫く一つの精神が示されていると言った上で、次のように説いている。

 

それは次の二箇条の事柄を含んでいる。すなわち第一に、ワーグナーは音楽活動としての和声の転調や、旋律の進行や、リズムの躍動などの音楽現象を、音の「行為」(Tat)、すなわち各音及びその相互関係が演じる一つの(Handlung)であると考えたこと。第二に、舞台上の諸情景は前記の音楽活動のであり、音楽形式の活動がそのまま演劇の上に形象化されたものであるとしたことである。

つまり簡単に言うと、ワーグナーによれば、音はいわば役者であり、和声はその演技であり、あるいは逆に歌手は人間に化身した音であり、その演技は和声の活動なのであった。(河上徹太郎訳)

 

注意したいのは、あくまでも「音楽の行為」が形象化したものが舞台であり、「舞台上の行為」を抽象化したものが音楽ではないという点である。情念や観念の運動が音に化身するのではなく、音そのもののダイナミックな運動が一つの情念や観念と化して舞台上に躍り出たもの、それがワーグナーの言った「行為Tat」であった。

「<楽劇>という名称について」の中で、ワーグナー自身は「行為Tat」という言葉そのものについてはほとんど語っていないが、「楽劇(Musikdrama)」という言葉における「Musik」と「Drama」の関係について、およそ次のように書いている。――音楽とは、それ自体一つの芸術であるばかりか、もとを正せば全ての芸術の精髄でさえあったのに対し、ドラマは、語源から言えば「行為」もしくは「事件」を意味する語であり、舞台上で演じられるそれは、嘗ては羊を生贄に捧げる際に歌われた合唱歌を起源とする悲劇の一部であった。つまり音楽は、元来ドラマの母親であったのであり、その古の栄えある面目を取り戻した時、「Musik」は、もはや「Drama」の前に冠すべき語でも後に置くべき語でもない。諸君は、普段、音楽の本質をおぼろげにしか感じ取っていないのである。音楽が鳴り渡る時、その響きにこもる意味合いを舞台に見て取るがよい。舞台上の寓意を通じて、音楽はその本質を諸君の眼の前に現すであろう。……

ワーグナーは、この「舞台上の寓意」を通じて「音楽の本質」が立ち現れる様を、聖人伝を語り聞かせて宗教の奥義を子供たちに悟らせる母親のやり方に喩えている。ドラマは「寓意」であり、音楽が「奥義」なのである。

ちなみに「ニーベルングの指環」の作曲開始にあたって執筆されたこの芸術家のもっとも有名な論文「オペラとドラマ」の基本命題は、「ドラマこそ表現の目的であり、音楽はその手段である」というものであった。そのワーグナーが、「意志と表象としての世界」に出会ったのは、「オペラとドラマ」を発表した三年後である。世界の本質は一にして全なる意志であり、その意志を、一切の媒介なしに直接模写したものが音楽であるとした、ショーペンハウエルの音楽形而上学の洗礼を浴びて以後、ワーグナーにとって「手段」であったところの「音楽の本質」が、根底から覆されたのであった。ショーペンハウエルは、世界は肉体を与えられた音楽であり、もしも音楽を完全に説明することに成功したとすれば、それはそのまま世界を説明したことになると断言した哲学者である。「形象化された音楽の行為」というワーグナーの言葉は、そのショーペンハウエルとの邂逅を経て、実に二十六年の歳月を費やした「ニーベルングの指環」が遂に完成に近づきつつあった一八七二年、まさに「神々の黄昏」第三幕の作曲にあたっていた年に書かれたものであった。

そのワーグナーの「行為Tat」に、小林秀雄はどう応接したか。彼はただ、「神妙に、茫然として耳を澄ましていただけ」ではなかったはずだ。小林秀雄はワーグナーを、「大シンフォニスト」と呼び、「オーケストラの表現力の万能を本能的に信じている音楽家」と書いている(「バイロイトにて」)。そして当時、ヴィーラント・ワーグナーとヴォルフガング・ワーグナーによって確立され、ヨーロッパのオペラ界を席巻した「新バイロイト様式」による革新的な舞台演出についても、舞台なんてつまらないと一蹴し、そのもたらす感動は、結局は音楽の力であると断定した(「音楽談義」)。

百年前、ボードレールがワーグナーの音楽から一大啓示を受け取ったのも、パリ・オペラ座で上演された歌劇「タンホイザー」ではなく、その前年にイタリア座で行われたオーケストラ・コンサートにおいてであった。ボードレールが見出した「最上の批評家」とは、「交響楽作者」としてのワーグナーだったのであり、「人間霊魂の擾乱を音の幾多の結合によって訳出する芸術家」(佐藤正彰訳)が蔵したものなのであった。ボードレールは、イタリア座で聞いた「ローエングリン」序曲と「タンホイザー」序曲について、と書いている。

しかしそれは、ボードレールと小林秀雄がワーグナーを「眼をつぶって」聞いた、つまり一切の造形的、演劇的、文学的、思想的な形象や観念とは無縁の純器楽的な和声音楽として聞いたということではなかった。むしろ、純粋な器楽音楽として聞いたワーグナーこそ、小林秀雄にとっては「ただ音楽が好き、面白いというだけなら先ず退屈なもの」であったに相違なく、台本がなくてもその音楽を理解し得るとボードレールが言ったのは、と言えるほど、音楽そのものの雄弁が、特定の観念を聞く人に迅速正確に暗示するという意味で言ったのであった。「ニーベルングの指環」四部作の大詰めで、小林秀雄がジークフリートの葬送行進曲に震駭した時、それはもはや、ただの「お葬式」でも「行進曲」でもなかった。その「強い感動」の震源は、四夜続いたこの大シンフォニーの終楽章で展開された「音楽の行為」が、彼の眼前に暗示してみせた或る一つの形象にあった。

「音楽談義」の録音で、「あすこの音楽はたしかにに違いない」と語った後、小林秀雄は、ジークフリートを送るというそのが、つまりはこの葬送行進曲そのものが、それまでのこの主人公の全歴史を要約していると言う。それは確かに、ある種の行進曲であったが、そのリズムによって棺が進むのではない、ジークフリートという「時の流れ」そのものが進むのである。そして「神々の黄昏」第三幕第二場から第三場にかけて繰り広げられるこの音楽の一大行為の背後で、嘗て青年時代に俘囚となった一人の詩人にして自分を批評家ならしめた「最上の批評家」の、批評精神と抒情精神の精髄が鳴り響くのを聞き分けた時、その「音楽の行為」はまた、小林秀雄の「過去の一切」を映し出すあの「巨きな濁流」となって形象化したはずである。ティンパニが「死の動機」を刻み、低弦が不吉な唸り声を上げ、ワーグナーチューバとホルンがユニゾンで咆哮する行進曲を聞きながら、小林秀雄がしたのは、あの一種鬼気に充ちて謎めいた「壮麗なパノラマ」ではなかったか。バイロイトの「巨大な喇叭」の開口部へ向かって進む棺の中に横たわっていたのは、ジークフリートという「永遠の若者」だけではなかっただろう。その棺の中に小林秀雄が見ていたのは、彼自身の文学的青春そのものであっただろう。彼がワーグナーの声をはっきりと聞いたのは、おそらくその時である。君はこの「ジークフリート」をどう思うか、と。

(つづく)

 

ひとりのクリスマス

孤独に押しつぶされそうになったのは昨年十二月のこと。ハンガリーでの留学生活がスタートし半年たったあたりで真っ黒な何かがドンと私に覆いかぶさってきた。クリスマスと合わせた約二週間の冬休暇は、翌年の大学入試に備え勉強しようと、特に旅行の計画を立てずにいたのだがどうやらこれが間違いだったようだ。休暇中に多めに勉強し貯めを作っておくはずが、現実は逆で勉強への意欲はほとんど湧かなかったのである。クリスマスと新年の日付は予想以上に爛々と光って見え、かえって「一人で過ごす云々」という頭の中の考えを際立たせる。時期的にも、冗談を言っていられないほど夜の長い季節で、私は何に対しても気力という気力を失いかけていた。

 

どうせ勉強が手に付かないなら、とコンサートやオペラをネットで漁り、都合良く行われる教会でのオ−ケストラのコンサートを一つ、何も考えず安値で購入した。

オーケストラだと思って行ったコンサートは当日蓋を開けてみれば弦楽七重奏で、演目も殆ど知らずに券を買った自分に少々落胆したものの、弦が聴けるならまあいいか、と特に期待もせず私は席に着いた。このコンサートが、―小林秀雄の大阪道頓堀でのあの経験―とまではいかないが、私を組み替えた出来事となる。

 

パッヘルベルのカノンに始まり、ヴィヴァルディ、バッハ、サン=サーンス、そしてモーツァルトが続く。教会の端の席で、じっと固まって弦楽七重奏に耳を傾けていたのだが、演奏も半ばくらいの頃、急に、締め付けられていた脳がふと緩んだ気がした。息が苦しかったわけではなかったのに呼吸が突然楽になる感覚を覚え、何故か「嗚呼、大丈夫だ、生きていける」と思ったのだった。

理由は未だに分からない。何の曲だったかも正直覚えてない。しかし、年末のこのコンサートが、来る二〇一八年への心配を一気に軽くしてくれた気がする。弦の音が、目には見えない何かの縛りを解き、私は救われた気分になったのである。

凍てついた夜空の下、旧市街の真ん中のその教会だけがポッとオレンジの光に包まれて光っている、あの景色が脳裏に焼き付いている。

 

クラシック音楽は、母の嗜好で三歳から始めさせられたピアノのおかげもあり、幼少期からよく聴いている。だから、今回もクラシックが聴きたいという一心で券を買ったのだ。

 

ピアノは結局高校卒業時まで続け、その間に色々な作曲家の曲を弾いてきた。弾く側として誰が好きかと言われると、好きなのはショパン、苦手なのはモーツァルトである。大学に入ってからはピアノに触れる機会がほとんどなくなってしまったので演奏者としての最近の嗜好は分からない。

 

なぜモーツァルトが苦手かと言うと誤魔化しが一切利かないからだ。どれを取ってもモーツァルトの曲はよく磨かれた鏡となり、弾いている私のコンディションを正確に映し出す。ペダルで誤魔化そうとしてもすぐバレるし、心に引っかかる何か心配事があるときは全くピアノが鳴ってくれない。コンクールの緊張はタッチミスとなって現れる。モーツァルトの曲で一度コンクールに出たことがあるのだが、事前に全く同じ部屋を借りて練習したにも拘わらず結局本選には進めず奨励賞止まりだったことがある。聴くのは好きだが弾くとなると心から好くことができなかったモーツァルト。その気持ちが鏡に映ったのだろう。

 

小林秀雄の「モオツァルト」を初めて読んだのは二十歳前後のことであるが、読みながら思わず「ひぇっ」と声を漏らしてしまったのを覚えている。私の頭に引っかかる、モーツァルトを心から好けない何かを、するりと絶妙な言葉で表現されているのを見つけたからだ。

 

「モオツァルトは、ピアニストの試金石だとはよく言われる事だ。彼のピアノ曲の様な単純で純粋な音の持続に於いては、演奏者の腕の不正確は直ぐ露顕せざるを得ない。曖昧なタッチが身を隠す場所がないからであろう」 (新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)

 

翻って、ショパンは弾いていて気持ちが良い。多少のタッチミスは道端の些細な石ころでそれより演奏で表現したいのは曲全体の流れ、つまり道そのものである。石ころの無い道に越したことはないのは分かっているが、技術が完璧でない私の道には石ころが出てくることがある。曲を弾いている最中にそれらに躓いている暇はないし 、ショパンの曲ならそれらを道にさり気なく組み込める。だから気持ちが良いのだと思う。モーツァルトの曲では小さな石ころにさえスポットライトが当たってしまうのだ。

 

先ほどの引用に続き小林秀雄は浪漫派についても語る。

「だが、浪漫派以後の音楽が僕らに提供して来た誇張された興奮や緊張、過度な複雑、無用な装飾は、僕等の曖昧で空虚な精神に、どれほど好都合な隠所を用意してくれたかを考えると、モオツァルトの単純で真実な音楽は、僕等の音楽鑑賞上の大きな試金石でもあると言える」 (同)

 

小林秀雄は「過度な複雑、無用な装飾」という言葉で浪漫派を表現した。確かにそうかもしれない。ショパンは、しかし、浪漫派音楽家の一人とは言われているが、他の同時代の浪漫派音楽家の中ではかなり異色な存在だということに少し触れたい。

文学や言葉が音楽の中に融合していったということが一九世紀の浪漫派音楽の特徴のひとつなのだが、多くの作曲家は作品に標題を付けている。しかし、ショパンの作品の中で標題付きのものは、あるにはあるが非常に少ない。また、当時の周りの浪漫派音楽家と違い、彼は文筆上の仕事を全く行わなかった。

もう一つ気になることがある。ショパンはモーツァルトを尊敬している。彼の葬儀において、本人の生前からの希望でモーツァルトの「レクイエム」が演奏されたことからはっきり分かるだろう。

 

私の好きな中田耕治のショパン批評の中にこんな一説がある。

「私にとってショパンはおよそロマン主義の音楽家ではない。あえていえば、強靭なリアリストにほかならない。だからこそ、ショパンの内面にはやはり『他人にはうかがい知れぬ一つの世界』 があると考える。それはもとより孤独な制作を彼に強いたに違いないし、だからこそ、私のような何も知らない人間の心をつよく打つのだと思っている。他人にはうかがい知れぬ一つの世界をかいま見る思いで、私はいつもショパンを聞く。モーツァルトは誰が演奏してもモーツァルトだが、ショパンは誰が演奏してもその人のショパンなのだ」(1)

だから、モーツァルトは試金石になりうるし、ショパンはそうはなれない。中田耕治は、「それでいいのではないだろうか」とこの文章を締めくくるが、私もそれでいいと思う。両者とも音楽家といえども私には比べることは出来ない。音楽鑑賞という点において、例えば、モーツァルトはこう聴け、ショパンはこう聴け、という鑑賞の仕方というのがあるとすれば私は知らないので何も言えないが、その中であの作曲家が試金石とかそうでないとか云々というのがあるだけで、結局音楽は己の好きなように聴くので良いのではと個人的に考える。その時々でモーツァルトの態度が変わる反面、ショパンはいつまでも心地好い、ということはあるかもしれないが。

 

音楽は勝手に私の心を揺さぶる。どうして揺さぶられているのか分からない。それがいい。それでいい。少なくとも今の私にとっては。

 

これからハンガリーでの長い留学生活が待っている。遠い先など考えられず、兎に角明日の試験を乗り越えるので必死な生活になるだろう。しかし、「モオツァルトは歩き方の達人であった」と小林秀雄が言うように、まずは目の前の課題に必死になる生活を全うするので良いのでは、と思っている。と言うより、そうやって進んで行く他はなさそうだ。先のことなど、先になった時に考えればいい。

心が折れることなど山ほどあるだろう。折れに折れて立ち上がれなくなった時はコンサートにでも足を運び慰められながら、ドナウ川の景色を前にぼうっとしながら、明日を生きていきたい。

 

(1) 遠山一行『ショパン』新潮文庫 p191

(了)

 

続・諏訪には京都以上の文化がある

下諏訪温泉のみなとや旅館を出立しようとした際に、女将さんに、「是非見学しなさい」と勧められた諏訪大社前宮と上宮の間にある歴史資料館とは、正式な名称を神長官じんちょうかん守矢もりや資料館という施設であった。茅野市宮川の地に建っており、下諏訪からは諏訪湖をぐるっと反対側に回りこんだ方向で、中央自動車道の諏訪インターの裏側の山麓に位置している。上社本宮と前宮を繋ぐ県道の中間よりやや前宮よりになろうか。しかし、それを目指して意識していないかぎりほとんどの人間は資料館の存在には気付かないで通過するだろう。私たちも本宮参りの後、前宮へ向かいつつ「このあたりのはず」と探していたのでなんとか見つけることが出来たと思う。「神長官守矢資料館」という案内板こそあるものの、県道から山側へ入るところにクルマ5台分ほどの駐車場らしき空地があるのみである。そこから山へ向かう細道をしばらく歩くと右手に資料館らしき建造物が見えてくる。それほど大きくはないが、片流れ屋根が2階から1階へ大きく広く設置された、やや奇抜なデザインである。入ってみて建築家・藤森照信氏の設計になることと知った。氏は茅野市内の生まれという縁で依頼を受け、その基本設計にはこの敷地の主、守矢家の長大な歴史を踏まえたイメージから発想されたというものである。

まず、資料館に入ってみる。入口で履物を脱ぎ、スリッパで館内へ進むと学芸員の方が説明してくれる。誰もいないので暇なのだろうか、しかし、今日は土曜なんだがな、と思いつつ説明をお願いする。展示物は入口から奥へ拡がるロビーとその奥の部屋のみとそれほど広くないが、入った右手の壁面を見ると一驚せざるを得ない。壁の下から3メートルほどの高さまで、一面に牡鹿の頭と猪の頭がビッシリと据え付けられている。往年の狩猟愛好者とかハンターが、自らの獲物の首から角の生えた頭部を剥製にして飾り付けているリビングの装飾品のあれだ。 動物愛護が通念となった今からは、悪趣味極まりないかもしれないが、その鹿、猪の頭部がズラッと20ばかり並んでいる。その手前には串刺しにされた兎が立てられ、その横にはなにやら妙な串焼き肉のような黒ずんだ物体が何本か立っている。説明を聞きながら解説板を読むと、黒ずんだ物体は、鹿の脳みそ、猪の頭皮や鹿肉。レプリカではあるが、供え物として陳列されている。鯉らしき魚類もある。

つまりこのグロテスクな陳列物は総体としてなんなのか。「なんだと思われますか」と聞かれたってこちらは圧倒されてため息くらいしか出ない。で、聞いてみると、これらはすべて生け贄であり、諏訪大社上社の祭である「御頭祭おんとうさい」の時に神前に捧げられる供物を再現したものだという。そして、その祭についての説明が始まる。本来は旧暦3月に行われた祭祀だが、現在は4月15日に行われており、上社前宮の祭祀として位置づけられ、上社にあっては御柱祭に次いで重要な神事であること。資料館の復元展示は、江戸後期の紀行作家・菅江真澄が当地の祭礼を見て描き残した絵と祭の様子の記事を元にしているらしい。その記事によれば、神への供物は鹿の生首75頭分が並べられており、足りない場合は猪の首で補ったなどかなり詳細な内容を持っており、つまり江戸期に行われていた「御頭祭」の祭事内容が髣髴とするものだという。なぜ75頭かは不明というしかないが、少なくとも例年の祭祀に臨んでその数の鹿を狩っていたということにはなり、他の動物、魚類の生け贄なども含めれば、相当大がかりな狩猟をこの祭祀のために繰り広げていたわけだ。また、奥の部屋には鎌倉期から伝承されている古文書類や、この地に幾つか発見されている遺跡の出土品などが展示されている。しかし、もうこちらは「御頭祭」が頭から離れない。さすがに現在は3頭ほどの鹿の剥製頭部を捧げるくらいにされているそうだが、こんな祭があったことはまったく知らなかった。諏訪出身の友人もいるが「御柱祭」以外の祭について聞いたこともないし、相手から話してくれたこともなかった。四社参りの経験がある者には分かるが、上社本宮は下社秋宮に匹敵するか、それ以上の広さと拝殿などの神社としての設備が整っている。それに比べれば、上社前宮という社は本当に小規模なもので、山内に御柱4本がそびえ立つものの、あとは小ぶりな本殿(諏訪四社のうち唯一の本殿)とその手前の拝殿くらいしか目につかない神社である。しかし、諏訪四社の内もっとも古い社とされ、ある意味ではこの神社本来の原始自然信仰を伝えているような佇まいとも言えるかもしれない。ご神体である守屋山へ向かう登山路の中腹に鎮座する前宮のそこここに古びた遺物、遺跡が散在しており、その一つ一つを丁寧に見て歩くとすると、半日くらいは要するのではないかと思われるほどだ。それだけに現代風のお宮参りを提供するのは本宮へ譲っているようにも見える。本殿前から踵を返して、急な階段と坂路を降っていくと、思いのほか近くに、八ヶ岳がパノラマのように浮かんでいる。蓼科山、天狗岳、横岳、少し奥に赤岳の頂が見えている。かつて何度も登った山々をこうしてしばらくの間、見渡しているとしみじみとしてくるものだ。

それでは「御頭祭」とはなにか。この祭祀において祭られている神とはなんという神なのか。

神長官守矢資料館の復元供物の壁横にその由緒が掲示されていた。

 

守矢家について

(守矢氏は)今から千五・六百年の昔、大和朝廷の力が諏訪の地におよぶ以前からいた土着部族の族長で、洩矢神と呼ばれ、現在の守屋山を神の山としていた。しかし、出雲より進攻した建御名方命タケミナカタノカミに天龍川の戦いに敗れ、建御名方命を諏訪明神として祭り自らは筆頭神官つまり神長官となった。中央勢力に敗れたものの祭祀の実権を握り、守屋山に座します神の声を聴いたり山から神を降ろしたりする力は守矢氏のみが明治まで持ち続けた……

 

これはおそらく守矢家に伝わる物語をまとめたもののように思われるが、つまり、現在の諏訪信仰の核としてある出雲系建御名方命信仰以前の神が、守矢氏が祭ってきた「洩矢神」であったという説明である。こうした経緯を踏まえて前宮こそが諏訪信仰発祥の地とも言われることになったようだ。さて、資料館での説明を聞き終えて外へ出て引き返す途中、資料館の入口を出た右手奥に大きな屋敷があり表札には「神長官 守矢」とある。ここが現在の守矢氏の住居であり、守矢家の祈祷殿もその前までは入ってよいようである。そして、もう一度資料館入口へ戻り、資料館を過ぎて山へ向かう小道を上がっていくと開けた草地に出て、そこに小さな社が見つかる。ここに祭られている神が「ミシャグジ神」とあり社殿は御左口神社と立て札がある。社殿の四隅には小さな御柱が立てられている。茅野市教育委員会の説明板もあった。

 

神長官邸のみさく神境内社叢

……みさく神は、諏訪社の原始信仰として、古来専ら神長官の掌る神といわれ、中世の文献「年内神事次第旧記」・「諏訪御符札之古書」には「前宮二十の御左口神勧請・御左口神配申紙は神長の役なり」とある。このみさく神は、御頭(おんとう)みさく神ともよばれ、諏訪地方みさく神祭祀の中枢として重んじられてきている。

 

ミシャグジ神、ミサク神、洩矢モリヤ神、そして祭主としての守矢氏、しかし、現在の御頭祭を掌っているのは上社前宮であり、祭神は八坂刀売神ヤサカトメノカミすなわち建御名方命の妻となっているのである。そして、上社前宮、本宮ともにご神体は守屋山となっている。特に本宮には拝殿はあるが本殿は存在しない。これは下社春宮、秋宮も同様である。

はてさて、摩訶不思議というか奇怪な信仰形態が残存するのがまさしく諏訪という土地なのだといまさらながら思いながら帰途についたが、中央道をドライブしながらも諏訪信仰の複雑なイメージが頭から拭い去れない。そう言えば、新田次郎が故郷(上諏訪・角間新田)の想い出としてどこかで書いていたが、上諏訪から霧ヶ峰の方へ上るとやはり諏訪大社の祭祀の遺跡という場所があったという。八島ヶ原という土地で御射山ミサヤママツリが大規模に行われ、中世からは北条氏など武士が中心になって御狩の神事が行われたという。もちろん現在でも上社、下社の両社とも御射山祭が執り行われているが、ミサヤマという名称もまた気になるところなのである。「諏訪にまつわる神名には、なんとなくアイヌ語に近いような語感が漂っている気がするね」などと話しつつ諏訪の旅を終えた次第。

さて、この信仰の対象となった神の名について思い巡らすと、ミシャグジシンという音からは、シャグジ、シャクジンを連想するのは自然だろう。シャクジンとは「石神」であり、柳田国男の最初期の論考『石神問答』(明治43年)で説かれたもので、村々の土地、領域の境目に祭られた神、「塞の神」すなわちサイノカミ、サエノカミと言われ、外来する悪霊や疾病を防ぎ止める防災神を想定していた。これはまた、いわゆる道祖神信仰の源流をも示唆していた。また、このシャグジ、シャクジン、ミシャグジと呼ばれる神のほぼ関東一円の分布状況を指摘しており、事実、現在においてもこの神の社は読み方の多少のズレはありつつも、広く定着しているようだ。しかし、こうした神の性格に基づけば、境界にあって守護をするという位置づけを重視することになり、この神に生け贄を捧げて大がかりな祭祀を行うというのもちょっと考えにくい。また、石、岩という特定の自然物が神の降臨地、顕現地を示すことも連想するならば、磐座イワクラとしての信仰という側面も見いだせないこともない。

それでは、ということで諏訪信仰に関わる文献を幾つか繙いてみると、ミシャグジ神に隣接、関連する神名が次々に現れてくる。漢字表記で、御左口神、ソソウ神、チカト(千鹿頭)神、ますます謎は深まるばかり。諏訪周辺に散在する考古学的遺跡、古墳の数々とその出土品の特徴などから古代諏訪地方の信仰を考察する研究もあり、その時間的空間的な拡がりは日本列島内にとどまらない様相を呈している。たとえば縄文期の遺跡としては八ヶ岳周辺から出土される黒曜石で作られたヤジリなどの製品類、これはこの山域に豊富な黒曜石の鉱脈が存在したところから有力な生産地(採掘跡の遺蹟もある)として他地域とのさかんな交流を跡づけるものとされ、諏訪湖を巡る高台には多くの縄文期の遺跡が発掘されている。また、諏訪湖から天竜川が流れ出る地、岡谷市の周辺では、弥生期の集落遺構や、5~7世紀にかけての古墳群が分布する。その中にはいわゆる前方後円墳の形式を持つものも見受けられ、大和朝廷に属する有力な豪族の墳墓と考えられてもいるようだ。これは長野県の地図を開いてみれば一目瞭然とするが、岡谷から辰野、そして伊那谷にかけては天龍川に沿って緩やかな平地が拡がっている。そこは豊富な水資源に基づいた稲作の好適地とみなされたはずで、同様に塩尻峠の向側から松本、大町に到る犀川から、姫川に沿って拡がる平地もまたそうである。つまり山岳近辺には縄文期の遺跡があり、大きな河川に開かれた平地には弥生期の遺跡が見られるわけだ。そこに狩猟民族と稲作民族との時間的な前後関係から、そのどこかで接触、葛藤、そして融合という二元的かつ重層的なあり方が長大な歴史の流れを経て、現在の同一空間内に併存している状態が考えられることになる。

特定の氏族が先祖代々の居住地を移動するということは、現在の我々にはなかなか実感が湧かないが、たとえば北アルプス上高地、大正池から遙かに望む穂高岳連峰の穂高とはもと穂高見命ホタカミノミコトという神の名であり、大綿津見命オオワタツミノミコトの子とされる。つまりもともと海人、海洋民族の神であり、その子孫が安曇氏である。もと北九州、志賀島を本拠としていた氏族とされ、天龍川を遡って塩尻峠を越え、松本の北方、安曇野にその名を残している。もちろん穂高神社をこの地に祭り、上高地には奥社、奥穂高岳山頂には嶺社を祭っている。その海洋民族としての記憶は例大祭の「御船神事」、船型の山車に残存していると言われる。そして、この民族も諏訪に関わっているという説もある(穂高見命の妹が、八坂刀売命=諏訪下社の祭神)。

また一方で『古事記』、『日本書紀』に登場する「州波」、「須波」=「スワ」の地名が現れる文脈、『古事記』の建御名方神の諏訪地方封印の物語もさることながら、『日本書紀』持統天皇五年六月の記事に注目する金井典美氏の論考を紹介したい(注)。当該記事に見える「須波」は、この年四月から続いた長雨の被害について、公卿、役人たちに酒肉禁止の精進をさせ、都と畿内の寺々の法師には経典朗唱をさせて降雨の沈静化を祈ったということの後に、

 

辛酉に、使者を遣して、竜田風神、信濃の須波水内等の神を祭らしむ。

 

と記す箇所に金井論は注目して、「信濃の須波水内」とは、現行の註釈書類に説かれている「須波」と「水内」の二箇所の信仰地名ではなく、「スワノミズチ」、つまり諏訪湖のミズチ=蛇神を示すのではないかという推測を展開している。つまり、持統紀五年の記事において古代諏訪神の蛇神(水神)としての神威が、時の権力者からも崇敬されていたことを読み取ろうというもので興味深い。

さらに『常陸国風土記』の「行方郡における夜刀ヤツカミの説話」の記述内容を紹介して次のように述べる。

 

ヤハズノマタチという豪族が西の谷のアシの繁る湿地を水田に開墾したので、そこに生息していた蛇は追い払われる結果となった。しかし、蛇はその谷水田の周辺にしきりに出没したので、人々が耕作するのに邪魔になったし、その蛇を見た人の家は絶えてしまうという迷信もあって、何かと障害になった。豪気のマタチは怒って、蛇を剣で打ち殺し、谷水田の最奥部、わずかに堤を築いて池になっているところへ出て行って山に向かい、ここから上は神のすみかとして、これ以上土地を奪うことはしない。しかしここから下は人間の領地であることを認めよ。そうすれば……

 

以下は原文の訓読文を引用しよう。「今より後、吾、神のはふりと為りて、永代とこしへに敬い祭らむ、ねがはくは、な祟りそ、な恨みそ」と言って神社を作って祭ったという説話である。

この説話が意味しているところは、もうお気づきのようにいわゆる「蛇退治」(ヨーロッパ風に言えば、ドラゴン退治のアンドロメダ型神話)、すなわちスサノオとヤマタノオロチの物語を強く連想させるものがあるが、その前に、水田耕作地の拡充に関わる土地、特に山間部の湿地帯の侵略、略奪と、土地の神、すなわち山の神=狩猟民族との闘争と和睦、そしてその後の契約に関わる歴史を想像させるのである。

してみると、この山の神としての蛇神を斎き祭る場所は文字通りの「境界」であって、柳田国男が指摘した「塞の神」という性格もここにうかがうことが出来よう。どうやら山の神=土地の神(地霊)と水田耕作に関わる神をいったんは二元的に分離してみることによって、錯綜的かつ重層的な諏訪信仰のアウトラインは浮び上がって来るように思える。

そして、金井論では、先の引用に続けて以下のように結論づけている。

 

諏訪神社も祭神タケミナカタは元来出雲系の神であって、高天原の武神タケミカヅチに追われ、諏訪に入ったという神話を背負っているだけに、タケミナカタ以前の地主神への慰霊祭祀が、神社の神事・縁起のなかにはっきりあらわれている。いわゆる諏訪でいうモレヤノ神というのがそれであるが、元来は人格神化する前の土地神なのである。

 

このモレヤノ神の末裔こそが代々の神長官・守矢氏の一族であるようだ。神長官守矢資料館の手前にある守矢氏邸の主は、「オミシャグジさま」を斎き祭り続けて七十八代を継承する守矢早苗氏であり、『諏訪信仰の発生と展開』には早苗氏の文章「祖父真幸の日記に見る神長家の神事祭祀」が寄せられている。この守矢氏が担って来た祭祀の数々は代々一子口伝という掟が守られ、親から子へ一対一の「口碑伝授であって古代から代々先祖の歴史を、順を追って暗記させる口伝」であったという。しかし、明治五年の神官世襲制廃止に伴い明治三十年に逝去した七十六代守矢実久氏で途絶え、その一部を伝授されたのが早苗氏の祖父真幸氏であり、真幸氏の遺言により孫の早苗氏が七十八代となったが、口伝自体は伝えられなかったという。それにしても近代が喪失せしめたものの大きさを今さらながらに思い知る他にない。

 

前稿に記した通り、ふとした思いつきから下諏訪温泉へ足を留めたこと。みなとや旅館に残されていた小林秀雄の言葉。女将・小口芳子さんの一言。これらの偶然の連続がなければ諏訪信仰の源流を考えようとも思わなかったろう。しかし、このいくつかの偶然から展開した私の想いを先へ先へと促していた力は、小林秀雄の「諏訪には京都以上の文化がある」という言葉そのものの力に他ならない。白洲正子とともにみなとや旅館を訪れた小林秀雄がそう語ったのは、昭和55年5月とある。それは「本居宣長補記」を終了したかどうかの時と重なり合うはずである。その「補記」の終わり近くに伊勢神宮の外宮の祭神が、御食津神ミケツカミとして「食穀」を司る豊受ノ大神であることについての宣長の考えを紹介し、これを敷衍していること、それと下諏訪来訪の所感としての小林秀雄の言葉とが、私の想いの中で結びついていく。もちろん偶然かもしれないが面白いことである。

日本列島に稲作、水田耕作が伝わったのは縄文晩期と言われるが、九州から中部、関東へ伝播するのには500年ほどかかったという説もある。おそらく、自然の湿地帯への種蒔きから、人為的な湿地の耕作へと進んだのであろう。天龍川、姫川などの河口から遡っていった稲作民族の神が狩猟民族の神と出会っていく気が遠くなるほどの歴史が、現在に凝縮して一枚の巨大な壁画のように見渡せるのが諏訪大社にまつわる多様な祭祀群と考えたい。そして、宣長の述べる通り、「食穀」には、つまり、なにを主食とするかには、およそ人間生活のすべてがこれに関わっており、その神への信仰と表裏一体をなしつつゆっくりと動いて来たのであろう。こうした人間生活のすべてについて「文化」という言葉を発するべきなのだと、あの小林秀雄の言葉は、私を、強く、激しく促し続けている。

 

(注)金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷」(『諏訪信仰の発生と展開』古部族研究会編 1978年10月 同書は現在、人間社文庫・日本の古層④として再刊されている)また、同氏の単著である『諏訪信仰史』(名著出版 1982年4月)からも多くの教示を得た。付け加えれば、諏訪大社の祭祀や信仰に関わる書籍や研究論文、果てはインターネットサイトなど枚挙に暇がないが、噴飯物も溢れるほどあり、歴史を調査し記述するという作業にも当事者の想像力の確かさが試されるものだと痛感した次第。これは今回のささやかな作業の副産物だった。

(了)

 

「全的な経験」の価値 ―吉田悦之館長をお迎えして

「今日は、旧暦では五月(さつき)の四日ですね」と、冒頭、吉田悦之館長は言われた。吉田館長が作成された本居宣長の年譜を見ていると、吉田館長のお仕事は本居宣長から地続きで行われているように思われる。本居宣長の仕事は終わっていないのだ。そしてこう続けられた、「本居宣長の学は、実践の学です」と。

2018年6月17日、山の上の家で初めて外からの講師となる、本居宣長記念館の吉田悦之館長が講義をされた時のことである。

 

吉田館長は、招聘された一講師ということではもちろんない。吉田館長と池田塾とのおつきあいは、池田塾第1期生の須郷信二さんのご尽力により、2014年10月19日、吉田悦之館長、池田雅延塾頭、茂木健一郎塾頭補佐によるトークイベント「小林秀雄『本居宣長』の魅力~私が『本居宣長』を鞄にひそませるわけ~」が松阪市で開催されたことに端を発している。2015年には、同じく松阪市で開かれた鈴屋学会と本居宣長記念館共催の公開講座「宣長十講」で「小林秀雄と宣長の謎」と題して池田塾頭が講義を行った。また、2017年には、津市で開催された「宣長サミット」のパネルディスカッション「今、なぜ、宣長か」(パネリスト:田中康二、ピーター・J・マクミラン、森瑞枝、吉田悦之の各氏)に池田塾頭がコーディネーターとして参加した。その間も、須郷さんをはじめとする塾生たちが、幾度となく本居宣長記念館や奥墓を訪れ、吉田館長や学芸員の皆さんにご案内をいただいたりし、同館で学びを続けておられる松阪の人たちと同席・交流させていただくこともあった。それらを思い起こせば、機が熟して吉田館長を池田塾にお迎えしたというのが最も相応しいだろう。もちろんこのたびも須郷さんの周到なご配慮があったことはいうまでもない。

 

吉田館長から本居宣長の話をお聞きする時、実に生き生きとしたものを感じ、時間があっという間だったという人が多いと思う。その一部を紹介したい。

 

「古典あるいは人と徹底的に向き合ったのが宣長です」

「十代の宣長は書斎で本と向き合っていた。歌を唱和するにしても誰もいなかった」

「宣長は個の時間と集団にいる時間を行きつ戻りつしていたが、集団の中にいてもいつでも個になれた」

「堀景山という先生にめぐり合い、仲間を得ることによって、学問が飛躍的に進みだした」

「宣長は人と会うのが大好きだった。古典を通じて過去の人とも対話したし、未来を見据え、未来の人とも対話をしていた。そうして志をだんだん育ててゆくことができた人だった」

「宣長は非常に効率の悪い方法で学問をした」

「宣長は、何事も自分の一生のうちに結論は出なくてもよいと考えていた」

「日本という国を自分の手で(地図を書くことで)全部体験している。怖いものを感じる」

「エンドレスで自分の知識を更新してゆく。ばらばらだった知識が繋がってくる。今はみんな賢くなって、無駄な事をしなくなった。自分の専門分野の本だけを読み、あらゆる本を興味を持って読む人がいない。宣長が今の学問界を見たらがっかりします。国文学はやがて衰退するでしょう」

「宣長は暦がない時代に思いを致し、喜びを感じていた。そういう喜びに自分の喜びを重ね合わせたのが小林秀雄さんだった。今の時代は、そういうことをするのは難しいが、幸いにも小林秀雄さんが挑んでくださった。よき先達であり、あらまほしき人です」

「宣長の全体と向き合った最後の人が小林さんだった」

「小林さんの『本居宣長』を読むのは、実践の学といえる」

 

聞きながら、ふだん池田塾で小林秀雄先生を学んでいることと、一致していることが多いと感じられたのはなぜだろうか。本居宣長と小林先生には、何かを分かるということに際しての、歳月のかけ方が似ているということがまずある気がした。そして、その際、広くいえば、想像力の用い方が、似ているのではないだろうか。

 

吉田館長は「自分の専門分野のことだけをしている」と今の学問界の問題を指摘されたが、それを聞いて私は「本居宣長」の中にある、小林先生の文章を思い浮かべた。

 

「観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して、極端に分化し、専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には、学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを想い描く事が、大変困難になった……」

(「小林秀雄全作品」第27集、p.214)

 

そして、小林先生の言葉も合わせて次のように考えた。なぜ私達は、「宣長の仕事」を「想い描く事が困難」になってしまったのだろうか。「本居宣長」全体を読むと、宣長の「学問の名の下に行った全的な経験」の根幹にあるのは、想像力だと思われる。では、今日の「極端に分化し、専門化している」学問の形式に慣れた私達の想像力はどうなっているのだろうか。ある形式の内に自覚無く居続けることによって、自由に想像力を馳駆する能力が衰えているばかりか、「合法則性」からかけ離れた「想像力」というものが信じられなくなっているのではないだろうか。自らの「全的な経験」の価値などは思いも寄らず、それを積むことも眺めることも深めることもできない不幸に陥っているような気がする。これでは歳月をかけて、想像力を存分に発揮し、何かに向き合うことなど、とうていできないだろう。

「幸いにも小林秀雄さんが挑んでくださった。よき先達であり、あらまほしき人」と吉田館長は言われた。挑むという表現が、その実行の困難を深く表しているように思った。逆にいえば、学問をするには、それぐらいの覚悟が必要だということだろう。

 

最後に、大変印象に残った、吉田館長が話されたご自身のことについて書きたい。これは、夜になってからの歓迎会の席のことなので、ここでご紹介することは躊躇したのだが、それがなかったら「今の自分はない」と言われるほどの貴重なご経験のお話だったので、お許しいただきたい。

本居宣長記念館で働き始められた頃から、理由は詳しくは仰らなかったが、よんどころない事情で(よくない意味ではない)、ほとんど仕事らしい仕事ができずに、「10年ぶらぶらした」そうだ。お聞きしたその一日のスケジュールは、何かにつけていろいろと喧しい昨今と比べると、破天荒といってもよくて、宴席は哄笑と羨望のため息に包まれた。もちろん誇張してお話ししてくださったのだが、凄みを感じたのは、ただ10年何もせずぶらぶらしたのではなく、一人で「本居宣長全集」を読んでいたと言われたことだ。そこで何かに「開眼」されたのであって、その期間がなかったら「今の自分はない」ということだろう。

吉田館長のお話を伺っていると、いつも全体から余裕のようなものを感じる。誰でも10年ぐらいは、こうあらねばならぬという枠組みから距離を置いて(何も飛び出す必要はないと思う)、「ぶらぶらする」とよいのではないだろうか。まずは、手軽な答、あるいは正解などは、大したことではないという当たり前なことが、はっきりと感じられはしまいか。

 

(了)

 

やすらかにながめる、契沖の歌

小林秀雄先生が「宣長の自己発見の機縁」になったと明言する、江戸前期の真言僧にして古典学者である契沖(1640~1701)については、「本居宣長」の第六、七章で詳述されるのみならず、章を問わず言及されている。そのことに興味を覚えた私は、昨秋、彼が吸った空気を直に感じてみたいと、住持した妙法寺(現、大阪市東成区大今里)と隠棲した円珠庵(現、同天王寺区空清町)を訪れ、それぞれの場所の、往時の喧騒と静寂とに思いを馳せた。

そんな思いから、彼が生涯にわたって詠み続けてきた歌が収められた『漫吟集類題』(契沖全集 第十三巻 和歌、岩波書店)も入手し、六千首の和歌を、幾度となくながめてみた。ここで、敢えて「ながめて」と書いたのには理由がある。契沖が「万葉集」や「源氏物語」を前にして貫いた態度、すなわち、小林先生が「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直に見なければならぬ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.69)という態度にまねぶことが必須であると直覚したからである。

 

さっそく、契沖の歌を数首取り上げ、ながめてみることにしたい。

まずは、彼が身の回りの自然や、四季の変化を見つめ、感得したところの歌である。

 

音羽河おとはかわ きいれて植うる早苗にも 秋待つ民の 心をぞみる

(漫吟集類題 巻第五 夏歌上 1652)

水の色も 空に通へる 天河 星やは蛍 蛍やは星

(巻第四 夏歌下 1737)

秋は今 草の末葉うらばの 虫の音も 夜な夜な細き 有明の月

(巻第八 秋歌下 2988)

霜月の八日の朝、初雪の降れるに

鳥の音も 鐘も寝覚めの 後ながら 今朝驚くは 庭の初雪

(巻第十 冬歌下 3290)

 

青々とした水田に並ぶ早苗の緑に、農民の心持ちを、思う。

見渡せば、きらめく星と、蛍の光が、まじり合う。

か細い虫の音を耳にする夜、静かに浮かぶ、痩せた眉月まゆづき

そして、真白に一変した庭の景色に、はっと息を呑む朝。

契沖が、それらの事物を静かに見つめている姿が、その眼差しが、目に浮かんでは来ないだろうか。

 

肥後守ひごのかみ加藤清正に仕えた下川又左衛門元宜もとよしを祖父に持つ「契沖は、七歳で、寺へやられ、十三歳、薙髪ちはつ(坂口注:剃髪)して、高野に登り、仏学を修して十年、阿闍梨位を受けて、摂津生玉いくたま曼陀羅院まんだらいんの住職となったが、しばらくして、ここを去った」(同第27集、p.79)。

その後の消息については、高野山での修行時代から親交のあった義剛ぎごうによる「禄契沖師遺事」に詳しい。

「室生山(坂口注:奈良県宇陀郡から三重県名張市、一志郡にまたがる火山群)南ニ、一厳窟有リ、師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為オモヘラク、形骸ヲ棄ツルニ堪ヘタリト、スナハチ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニマミル、命終ルニヨシナク、ヤムヲ得ズシテ去ル」

何があったのか。徳川幕府による「寛永の諸大名の改易没収」の最中、特に豊臣氏に近かった家柄として自家の食禄を奪われる、という仕打ちへの憤りか。その影響を受け、わが兄弟も、まるで「さそり(坂口注:ジガバチの古名)の子」のように散り散りになってしまったことへの嘆きなのか。それとも、高野山の実態を認知したがゆえの幻滅か…

さておき、そのような、契沖の大いなる嘆きの数々を、もはやこれら四季の歌に見ることはできない。彼の眼差しは、ひたすら静かで、やすらかなのである。

 

続けよう。「漫吟集」のなかで、次に目が留まるのは、他人のかなしみに寄り添う哀傷歌である。おそらく寺の住持として日常的に多く見聞きしてきたのであろう。詞書もよく読んでおきたい。というのも、小林先生が、契沖と同様に、いわゆる隠士としての生き方を貫いた西行について書いた作品の中で「西行の様に生活に即して歌を詠んだ歌人では、歌の詞書というものは大事である」(同第14集、p.184)と注意を促しているからである。

 

娘を尼になしたる人の、その尼亡くなりて後、残れる衣を見て嘆くを聞て

脱ぎ捨し その着慣らしの 古衣ふるごろも 思ひも出し たち縫はずして

(巻第十二 哀傷歌 3840)

人の娘失へるを、ほとへ聞て、とぶらひつかはすに

亡き人に 頼むしるしの 忘れ草 花に咲てや 顔に見ゆらん

(同 3855)

捨て子多しときくころ

子を捨る 親の心や いかならん 返り見しつゝ 幾度いくたびか泣く

(同 5833)

 

契沖が見つめていたのは、事物や四季の運行だけではなかった。他人の哀しみもまた、静かに見定めていた。こんな歌があった。

 

ともしびを 人のためにと 掲ぐれば 心の闇も 残らざりけり

(巻第十一 釋教歌 3714)

 

小林先生が、「本居宣長補記Ⅰ」(『小林秀雄全作品』第28集所収)において、「この作の発想には、宣長の基本的な考えに、直ちに通ずるものがあると思われる」と言う、プラトンの著作「パイドロス」から引用し、ソクラテスが、宣長の言う「言霊」について語っていると紹介されている、こんなくだりがある。

「この相手こそ、心を割って語り合えると見た人との対話とは、相手の魂のうちに、言葉を知識とともに植えつける事だ、―『この言葉は、自分自身も、植えてくれた人も助けるだけの力を持っている。空しく枯れてしまう事なく、その種子からは、又別の言葉が、別の心のうちに生れ、不滅の命を持ちつづける』」

 

他人の哀しみに寄り添い、それを歌という言葉に変えて描写してきた契沖は、そういう行為を通じて、自らの大いなる嘆きを解かしていたのではあるまいか。のみならず、契沖の歌の言葉は、自らのこころの動きを、言葉にして詠んでもらった、その当事者たちをも助ける力となっていたのかも知れない。

 

さて、ここまでは、契沖の、生活記録と言ってもいいような独詠の歌をながめてきたが、数多の歌のなかでどうしても目に留まるのが、心友、下河辺しもこうべ長流ちょうりゅう(1624~1686)との唱和、いわゆる贈答歌のやりとりである。ちなみに長流もまた、契沖と同じように、武門の出でありながら、終には隠士として生きた人であったと言われている。

そんな二人の唱和は、長流が逝くまで永く続いた。小林先生も「本居宣長」本文にいくつか挙げているので、ここでは、そこには登場しない、唱和の姿をながめてみたい。

 

その桜を長流か伴ふ人、ふたりみたりして見に詣で来て、
暮れぬ、帰りなんと言へる折によめる
契沖

とめとめす 庭の桜に まかせしを 夕日に増る 花な見捨てそ

(巻第三 春歌下 1090)

かへし
長流

とくと見て 今日はたはれし 花の紐 夕べと聞けは なれしとそおもふ

(同 1091)

契沖の住持した曼陀羅院の花見に、長流が訪れ、とっぷりと日も暮れた時のことであろうか。私は、子どもの時分、友だちと夢中になって遊んでいて、屋外スピーカーから「夕焼け小焼け」の歌が流れてきたときの、切ない気持ちを思い出してしまった。

 

もう一つ、こんな唱和がある。二人は、離れた場所に住んでいた。

 

山住より、長流のもとへつかはしける
契沖

君といつ いほり並べて 中垣の 一木の梅を 二木ふたきとも見ん

(巻第二十 雑歌四 5626)

かへし
長流

我もいつ 庵並べて 松垣の ひまなく物を 君と語らん

(同 5630)

 

ここからも、小林先生の言うとおり「『さそりの子のやうな』境遇に育ち、時勢或は輿論よろんに深い疑いを抱いた、二つの強い個性が、歌の上で相寄る様が鮮かに見えて」は来ないだろうか。「唱和の世界でどんな不思議が起るか、二人は、それをよく感じていた。孤独者の告白という自負に支えられた詩歌に慣れた今日の私達には、これは、かなり解りにくい事であろう。自分独りの歎きを、いくら歌ってみても、源泉はやがて涸れるものだ」(同第27集、p.81)。

もちろん、自らのこころの動きを静かに見定め、それを言葉という道具を使って歌にする独詠という行為を通じて、激情は純化されよう。しかし、小林先生は、それだけでは足りない、と言うのである。

「めいめいの心に属する、思い解けぬ歎きが、解けるのは、めいめいの心を超えた言葉の綾の力だ。言葉の母体、歌というものの伝統の力である。二人に自明だった事が私達には、もはや自明ではないのである」(同p.82)

自らの魂の中に、唱和者の言葉を得た契沖は、長流に、こんな歌を贈っていた。

 

我をしる 人は君しも 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ

(巻第十八 雑歌二 5148)

 

小林先生は、こう自問自答している。

「長流が、契沖の唯一人の得難い心友であったという事実は、学問上の先輩後輩の関係を超えるものであり、おもうに、これは、契沖の発明には、なくてかなわぬ経験だったのであるまいか」(同p.83)

 

私は、こんなふうに、契沖の独詠を、そして、長流との唱和の姿を、幾度となくながめてみた。そうしてみたことで、契沖のこころの動きに、直に触れられたような気がした。そこにあるのは、日常の実生活の中で、やすらかに歌を詠み続けてきたという行為のみである。儒教的・仏教的な道徳規範による解釈や、既存の権威的存在からの伝授など、入る余地はない。契沖にとって、詠歌とは「師ニ随ツテ学バズ、義ヲシラベテ解セズ」(「厚顔抄」序)、「わが心を見附ける道」であり、「長流の知らぬ心の戦い」でもあったのである。宣長が師と仰いだ契沖の歌学は、このような心の戦いを続けながら、わが心を発見する道を歩んでいくなかで、築き上げられていったものではあるまいか。

 

先に小林先生の「本居宣長補記Ⅰ」から引いた応答に引続き、ソクラテスは、パイドロスに「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」という文言を繋げている。この言い方を借りるなら、契沖は、事物と向き合い、他人と向き合い、そして自分自身と向き合ってきた詠歌の経験を通じて「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」の大事を、そういう言葉の綾の力を、悟得するところがあったと言ってもいいように思う。その経験は、のちに契沖が、長流のあとを継いで「万葉代匠記」に着手し、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直に見なければならぬ」という態度、すなわち宣長が言う「大明眼」を開くことになる原体験でもあったのではなかろうか。

 

【参考文献】

池田雅延「小林秀雄『本居宣長』全景(八)『あしわけ小舟』を漕ぐ(上)」(本誌2018年1月号)

同「同(九)『あしわけ小舟』を漕ぐ(下)」(同2月号)

同「同(十)詞花をもてあそぶべし」(同3月号)

久松潜一「契沖」吉川弘文館 人物叢書

藤沢令夫訳「パイドロス」、『プラトン全集』、岩波書店

(了)

 

陶冶

私が小林秀雄という人に向き合うたびに感じる茫洋さを、私はまだ上手く理解することができないでいる。ましてやその全体像を摑み切ることなどできない。氏の言葉をいくら口の中で反芻しても、ただ字面を追っているだけのように感じてしまう。何とも言いづらい自らの身体実感でしかない「小林秀雄」の偉大さを目の前にして、氏への畏敬の念とともにもどかしさを感じる。

私は、鎌倉の山の上の家に行くたびに、この感情を繰り返し繰り返し経験しているが、慣れることはできない。それは、常に大きな海原に一人ぽつねんと浮いているような心もとなさだ。ふと、「難しい」という言葉が口をつくたびに「いや、難しくない、難しくない。もっと自然に考えるんだ」と言い直す日々。ページをめくるたびに、“何となく”わかったような気持ちになってしまって、私の頭の中の思考回路はクルクルと同じところを旋回して一向に進まなかった。それは時に私に、小さい頃に祖母の家で飼っていた雑種犬が庭で自分の尻尾を咥え同じところをぐるぐる回っている光景を思い出させたし、ある時はメビウスの輪の上をとぼとぼ一人歩く自分の姿を思い起こさせた。

去年の冬、高校からの親友と共に池袋で過ごしたクリスマスの日、親友の一人がこんなことを言っていた。「本当の運命の人ってね、一度別れたとしても必ずまた出会うのよ」。そうだといいな、と軽く相槌を打ちながらすぐにその言葉を飲み物で流し込んだ。数日後、運命の人について考えてみたが、思い当たるような節もなく、また最近そんな出会いもなかったので、年越しの除夜の鐘の音が街に響くたびにその言葉は忘れていった。しかし、新年を迎え、定期試験が始まったころ、私は大学の学部の事務室で一枚の貼り紙と出会った。それは、山の上の家の「小林秀雄に学ぶ塾」のサテライト塾として、私が暮らす大阪で新たに持たれることになった「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」についての貼り紙だった。友人が私に話した運命の人の定義に当てはめるのなら、まさに「小林秀雄」は私の運命の人に違いなかった。

私が小林秀雄という人に初めて出会ったのは高校三年生の現代文の時間だった。その出会いは、私にとって氏とのファーストコンタクトでありワーストコンタクトであった。今思うと、私は随分歪んだ小林秀雄像を教えられていたのだと痛感する。現代文の先生の「ええ、小林秀雄という人の文章はとても難解な文章であって、高校生のあなたたちに理解することは極めて難しいでしょう」という常套句を挟んで始まる授業に私は辟易し、渋々音読をして、何となく教科書の文章を目で追っていた。定期試験では“東大式”とか何とかいう問題形式で試験が行われた。数日後、テスト返却が行われ、目の当たりにした点数に私は言葉が出なかった。過去最低点を記録したからだった。解説を読んでもわからない、先生に質問してもお茶を濁され、私はその時から小林秀雄という人をだんだんと忘れていった。しかし、人生とは不思議なもので、今私は毎月鎌倉に通い、小林氏の旧家で様々な方と時間を共にしている。

また、大学生になって「個の時間」を長く過ごすようになってから、それも年が明けた一月ごろに私の遅咲きの学問上の転機がやってきた。私の心の目を開いてくれたのが小林氏の本であった。

山形の高校を卒業し、大学進学のために関西の土地に一人やってきた。心にぶら下げていた漬物石がなくなったような気がして、身の軽くなる思いがした。一人見知らぬ土地での初めての生活で出会う「初めての感覚」にいつもドキドキワクワクしていた。上手くは言葉にすることの出来ない動き出す気持ちを、行動を起こすことで宥めていたように思う。馬に乗って内モンゴルの大草原を駆けてきたり、甘く切ない恋をして、少しだけ大人の女性になった気分を味わったりもした。ホースバーで働いて、競馬の知識も付けた。モンゴルで仲良くなった友人と共にヨーロッパを放浪したりもした。とにかく、「人間はいつ死ぬかわからない」という言葉を言い訳にやりたいことをなりふり構わずやっていた。慌ただしい一年を終え、少しずつ自分という人間の形が見えてきているような気がしていた。しかし、一月の大阪での勉強会を境に私の考えは変わっていった。勉強会後の飲み会の席で言われた言葉を私は今でも覚えている。「鈴木凜にしかできない鈴木凜という生き方をするんだよ」……この言葉を聞いた時に、私は涙が溢れた。

そして今年度から「小林秀雄に学ぶ塾」、通称「池田塾」の塾生ともなり、小林氏と本居宣長という人に向き合う時間ができてからというもの、私は自分が全く自分の尺度で物事を捉えていないことに気づかされ衝撃を受けた。これまでの私の生き方が「鈴木凜」という生き方でなかったわけではない。ただそれは、私自身で私の人生を運んでいくということに目が向けられておらず、両腕を振り回して何とか起こした小さな上昇気流に過ぎず、他の人と自分は違うのだという恥かしい自尊心に塗られた顔をいつも鏡越しに眺めていたことに気づいたのがこの時だった。私の知っている私など氷山の一角にすぎなかった。私は、確信の無い意見に振り回されては自分を見つめることの出来なくなる、そして時として本当の自分はこんな人間じゃないんだと思いあがるような18歳の小娘の、それ以上でも以下でもなかった。

本居宣長という人は、実に自然に自分自身を尺度として物事を考えることのできる人であった。小林氏は、『本居宣長』第二章で「自分の身丈にしっくり合った思想しか、決して語らなかった」、また第五章では「極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしない」と記している。また、氏は「文学と自分」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集所収)でも以下のような文章を書かれている。

―常に己れの身に照らし合わせてものを考えようと努めないから、考えが空想に走る。考えが空想に走ってはならぬとは誰も言う。具体的に物は考えなければならぬという。口には言うが実際にそういうことの出来ている人間は実に少ないものです。

まさに、ここでいう“実際にそういうことの出来る人間”の一人が本居宣長という人間であったのだと感じる。そして、決して自分勝手ではなく、確かに社会に生きているという洗練された姿が小林氏の心を打ったのではないだろうか。他者の確信のない意見には頼らず、常に自分自身というものを主軸においた宣長の生き方に私は深い憧憬の思いを抱く。いつの世も、大半の人は他者からの同調圧力や評価、詳しく知りもしない複雑な理論など、他者の確信のない意見を自然に飲み込むことの出来る人ばかり。「自分自身」を尺度とするという簡明率直なことを、何故私たちはためらってしまうのだろうか。疑うことは自分自身が傷つかないための予防線を張るようなことなのかもしれない。信念は活力であり、疑いは自らを麻痺させる。彼は、自分を信じて、信じつくしたのだ。そこには、極めて自然で凛とした彼の姿がある。私にとって、本居宣長という人は簡明率直であり複雑精緻な人のように思われる。しかし、この相反する性質が彼の魅力なのだと強く思う。彼の生きた本居宣長という人間に神々しささえ感じてしまう。本居宣長という人間が小林秀雄という人間の言葉を通して訴えかけてくる、人生の深い洞察が私の胸にこだまする。

私は、私を信じていけるだろうか。信じていけるような気がする。悲観も楽観もない、等身大の自分で、自分自身を陶冶していきたい。この時間は私自身が如何に生きるべきか、を模索する大切な時間であり、それについて考える然るべき時なのだ。

最後に小林氏の言葉を同じく「文学と自分」から引用する。

―成る程、己れの世界は狭いものだ、貧しく弱く不完全なものであるが、その不完全なものからひと筋に工夫を凝らすというのが、ものを本当に考える道なのである、生活に即して物を考える唯一の道なのであります。

今日も、氏の瑞々しい言葉の数々に耳を澄ます。そして、心に鏡を置き、静かに丁寧に自分自身を映し出していこう。

(了)

 

旅の空から

年のうち、20回以上は旅に出ている。若いころは、イラン・キプロス・モロッコ・ポーランド・チェコ・ネパール・インドなど海外でのバックパッカーをやっていたので、いまでも旅はすべてリュックで行く。基本的に仕事で旅に出ることはないので、いわゆるスーツケースなるものは持ったことがない。旅の最中にスーツを着るのはお伊勢さんの御垣内参拝をさせていただくときくらいのものだが、そういうときでもソフトケースにスーツを入れてリュックと一緒に持っていく。(実は、日常的な出勤もリュックで行っている)

旅の目的は、高校時代の同級生との登山であったり、歌舞伎・文楽・その他の芝居・落語を楽しむことであったり、祭りを見ることであったり、神社さんにお参りすることであったり、小林秀雄さんの文章に学ぶ会であったりするが、旅先での様々な出会いがおもしろい。

昨年、岐阜県は瑞浪へ行き、移築された歴史ある相生座という小屋で歌舞伎を観たとき、遅れて入った私に「お客さん、席わかりますか」と舞台から声を掛ける人がいる。なんと中村勘九郎さんだった。こんなことは、歌舞伎座などの大きい劇場ではあり得ない。江戸の風情を感じさせる地歌舞伎の小屋の内部も素晴らしかったが、観客と演者との接近感がたまらない。

今年の正月に、大阪の国立文楽劇場へ竹本織大夫さんの襲名披露公演に行き、お仲間と楽屋裏で織大夫さんにご挨拶させていただいた際、偶然、鎌倉で小林秀雄さんの「本居宣長」を読む池田塾でご一緒させていただいている山内隆治さんと遭遇した。お互い、示し合わせたわけでもないのに不思議なものである。

山内さんとは、今年4月に開催された大阪と広島での池田塾でもご一緒させていただいた。広島でいろいろとお話をしたのだが、そのときは気づかなかったことが後日、判明する。山内さんは記録映画アーカイブのプロジェクトに尽力されているのだが、私の父である秋山矜一が岩波映画という記録映画の会社で監督として撮った作品がこのアーカイブに65作品も保存されていることがわかったのだ。父は昨年亡くなったのだが、過疎問題や日本再発見シリーズなどの作品があり、山内さんのご厚意で上映会を企画していただけるとのことで、たいへん楽しみにしている。

毎月開催される鎌倉での池田塾では、塾生が事前に提出する「質問」に対して池田塾頭がお話をされるのだが、大阪と広島の池田塾では塾頭が講義形式でお話をされる。鎌倉ではあまりお話にならない内容を聴けたのは貴重だった。

広島での池田塾の翌日、現地の幹事である吉田宏ご夫妻のご案内で、広島県庄原市東城町で満開の千鳥別尺山桜を愛でながら地酒「神雷」をいただいたのも忘れがたい。少しでも時期をはずしたり、雨が前日に降ったりしたら、見頃の山桜には会えなかったわけで、仲睦まじいご夫妻の人徳のおかげと感謝するばかりである。山桜といえば、本居宣長さんである。宣長さんの桜の歌で最もよく知られているのが「しきしまの 大和心を 人とはば 朝日に にほふ 山ざくら花」だが、山桜を目の前にして、その美しさにうっとりするしかない気持ちは今も昔も変わらないのかもしれない。

 

先日、黒田月水さんという土佐琵琶奏者の方主催の伊勢ツアーに参加して、本居宣長さんが暮らした松阪に旅をした。松阪駅までお迎えにいらしていただいたのは初めてお会いする方だったが、創業天正三年という老舗の和菓子屋さんである柳屋奉善さんの奥さまだった。伊勢の地の空気感がとてもいい。山や緑に囲まれている感覚もいい。柳屋奉善さんの敷地の奥には庭があるのだが、喫茶室のお客さんだった左官職人さんが手づくりで最近つくられた茶室があり、柳屋奉善さんのご主人がいろいろな楽器の演奏をしながら伊勢松阪の歴史を話してくださったのが興味深かった。その後、茶室で月水さんの演奏を聴いてから鯛屋さんという、これまた老舗の旅籠に泊まって松阪牛の夕食を楽しんだ。以前、池田塾のメンバーで松阪合宿をした際に山内隆治さんが幹事だったのだが、その際、鯛屋さんの大女将にお世話になったことがわかった。大女将にはお会いできなかったのだが、池田塾のメンバーがお世話になったお礼を伝言していただいた。

翌日、伊勢ツアーのメンバーは午前10時に外宮さんに向けて出発することになっていたのだが、その前に私にはどうしても寄りたいところがあった。本居宣長さんが暮らした建物を移築した鈴屋と本居宣長記念館である。1時間弱と短い滞在時間だったが、「古事記伝」にまつわる興味深い資料を見ることができた。写真撮影可なのもうれしい。帰り際に、本居宣長記念館館長の吉田悦之さんが書かれた「宣長にまねぶ」を購入させていただいた。吉田さんとお話しする時間がなかったのが残念だが、それはまたの機会に取っておこうと思う。

伊勢の外宮さんには、柳屋奉善さんのご主人に運転していただき車で移動したのだが、その後、森の奥に連れて行っていただき、湧水を飲ませていただいた。このご主人はケーナを常に持っていて吹くなど、老舗の大旦那というより粋人という感じの方で、数年前にマヤの最高神官さんが来日されたときにもセレモニーの幹事をされたという。セレモニーは国内3か所で計画されたのだが、マヤにも「人間は最初、水の中から現われた」などという言い伝えがあるとのことで、伊勢の地が選ばれたのは当然という気がする。ちなみに他の2か所は悪天候等のため実施されず、伊勢でマヤの最高神官さんがお祈りを捧げるセレモニーが実現したとのお話だった。それでは、伊勢のどこでこのセレモニーは行われたのか。それは、その晩に、伊勢ツアーメンバーが泊まる二見浦の音無山だという。

二見浦の宿に着いた私が、ひとりで夫婦岩のある興玉神社さんにお参りして、宿に戻ろうかと歩いていたら、高潮時の避難場所として音無山の表示が出ているではないか。よし、これは行くしかないと音無山にビルケンシュトックのサンダルで登りはじめた。標高はそんなに高くないが、汗が噴き出てくる。かつては伊勢参りの方たちが多く訪れケーブルカーまであったというのが信じられないくらい、ひっそりとしている。それでも山頂から見る海の景色は素晴らしく、セレモニーの地にふさわしい。

急いで宿に戻ってきて、ひとっ風呂あびてから、黒田月水さんの活動30周年記念演奏会を聴く。「壇ノ浦」や「嫗」など迫力ある土佐琵琶の演奏と語りに酔いしれた。

「平家物語」も琵琶法師が語ってきたものであり、語りのリズムや腹式呼吸など、文楽との共通性も感じる。文楽の太夫さんは、合びき(尻引き)をお尻に入れて、腰をぐっと伸ばして、足をつま先立ちにして語るという。腰が定まらないと声が出ないのだ。「嫗」には「古事記」に出てくる淤能碁呂嶋などカミにゆかりのある日本各地の名が出てくる。そもそも、「古事記」は天武天皇が稗田阿礼に誦習(暗唱)させたものであり、声に出してみるのがいい。

翌日は、伊勢ツアーのメンバーで内宮さんの御垣内参拝を初めてさせていただいた。旅の最中にスーツ・ネクタイなのはこのときくらいだが、身が引き締まる思いがする。天気に恵まれ、最高の旅になったことはツアーメンバーの皆さんのおかげであると感謝したい。

旅を通じて、新たな出会いがあったり新たな学びがあったりする。あらためて、「古事記」を読み直してみたいと思う。

(了)