小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和二年(二〇二〇)二月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
田山麗衣羅
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和二年(二〇二〇)二月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
田山麗衣羅
Webディレクション
金田 卓士
令和二(2020)年が始まり、本誌も創刊後3回目の春を迎えようとしている。
昨年の12月には、紅葉が盛りを迎えていたなか、小林秀雄に学ぶ塾の有志で、小林先生にゆかりの深い神奈川県奥湯河原の温泉宿「加満田」を訪れた。今号の巻頭随筆には、その幹事役を務めた森康充さんが、紀行文を綴っている。先生が愛された「年越しの宿」の雰囲気を、行間から滲み出るものも含め、汲み取っていただければ幸いである。
*
「『本居宣長』自問自答」は、松広一良さん、冨部久さん、小島奈菜子さんが寄稿された。
松広さんが着目したのは、小林先生が本文(第27章)で、紀貫之に対して使っている、二つの「批評家」という言葉である。松広さんも言及している通り、本誌2019年9・10月号の橋岡千代さんによるエッセイ「批評家の系譜」では、小林先生が、本居宣長と紫式部を「批評家」と呼んだ趣旨が論じられており、この両篇を併せ読まれることで、先生が「批評家」と評する際の、その微妙なトーンの違いを味わっていただければと思う。
冨部さんは、小林先生が言う歴史を味うことと、宣長が言う歌を味うことの違いとともに、歴史と歌を、それぞれ「思い出す」ということに関し、その行為において共通するものについて思いを馳せている。宣長の「うひ山ぶみ」を熟読してみた冨部さんの眼には、小林先生の「歴史を知ることは、己を知ることだ」という言葉に繋がるものが映じてきた。
小島さんが注目したのは、古人達が使っていた、物と一体となった言葉である。彼らは「徴」としての言葉の力により、目には見えない神の姿を捉えた。言葉は、その機能である「興観の功」により、新しい意味を生み出していくとともに、物の「性質情状」を心中に喚起し、言霊の世界を作り上げる。その先に、ベルクソンの後ろ姿が見えてきた。
*
数学者である村上哲さんは、小林先生が「本居宣長補記 Ⅰ」の最終段落において言及している「虚数」という言葉の使いように驚いた。本居宣長が「暦法というものを全く知らぬ、人間の心にも、おのずから」備わっている暦の観念である「真暦」すなわち、古人なら誰でも行っていた「来経数」という「わざ」につき考え尽くしたところに関する件である。その感動を、村上さんは自らの「ウタ」へと昇華させた。
*
「人生素読」に寄稿された飯塚陽子さんは、現在、パリの大学院で文学を学んでいる。生の鋭い感覚と緩慢な死の気配とを同時に感じさせるその街は、墓参の日、濃霧に包まれていた。そこに眠っているのは、早逝した女性ヴァイオリニストである。彼女の奏でる音、「生きた何か」に救われてきた飯塚さんは、こう自問自答する。文学には、霧に沈んだ精神を掬い上げ、その精神に翼を与えることは、出来ないのだろうか……
*
冒頭で触れた、旅館「加満田」のある湯河原温泉の歴史は古い。箱根火山の一部をなす湯河原火山由来の温泉であり、「万葉集」に、
足柄の 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 子ろが言はなくに
と詠まれている。「土肥の河内」とは、今日の湯河原町の湯河原谷である。この歌は、巻第十四「東歌」に収められた相聞歌、すなわち恋心など個人の情を伝える歌であるが、歌意は、足柄の湯河原谷に湧きゆらぐ湯のように、ちらっとでも不安げにゆらぐ気持ちをあの娘が漏らしたわけでもないのにな……であり、まさに恋する「あずま男」の切ない気持ちが詠まれている。そんな「あずま男」の揺れ動く心持ちを思いながら、湯けむり立つなか浸かった「加満田」の朝湯は格別であった。
*
ところで、「万葉集」といえば、冨部久さんも紹介している通り、鎌倉の「小林秀雄に学ぶ塾」とは別に、東京・神楽坂の「新潮講座」において、池田雅延塾頭による「『新潮日本古典集成』で読む萬葉秀歌百首」と題した講座が、2020年4月より新たに始まる。小林先生の本の編集担当と並行して同「集成」の「萬葉集」も担当し、15年間にわたり5人の校註の先生方による註釈討議にも同席し続けた池田塾頭ならではの話に、大きく期待が高まっている。詳しくは、新潮講座のホームページを参照されたい。
(了)
二十三 「独」の学脈(中)
1
中江藤樹は、「論語」の訓詁は「郷党」篇に対してしか残さなかった。「学而」に始まり「尭曰」に至る「論語」全二十篇のうち、「郷党」は第十篇だが、その「郷党」では孔子はほとんど口を利かない。そこに写されているのは孔子の日常の挙止だけである。だがそれゆえにこそ藤樹の訓詁は「郷党」に集中した。
小林氏は言う。
――藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。……
「徳光」は人の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれる影である。
だから、と藤樹は言う。
――此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲ嘿識シ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ……
「端的」は、最も言わんとするところ、である。「嘿」は「黙」に同じ、「体認」は今日では実際に体験して会得すること、また心に刻みこむように会得すること、とされているが、ここは、実際の体験はなくとも的確に会得する、それも、実際に体験したと同じように心で確と会得する、の意であろう。小林氏が言っている「これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある」の「力量」は、この「体認」の力である。
小林氏は、藤樹には「郷党」が孔子の肖像画と映じていたと見ていいと言い、これを読んで、「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」という伊藤仁斎の言葉を思い出す、それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしていることが仁斎の著述の随所に窺われるからだと「画」を介して言う。「独」の学脈の二の手、伊藤仁斎の幕が開く。
「六経」は、中国における六種の経書、すなわち中国古代の聖賢の教えを記した六つの書で「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」「楽経」を言い、儒教の基本となっている。いっぽう「語孟」は「論語」と「孟子」で、「孟子」は孔子の教えを継いだ孟子の言行を弟子が編纂した書であるが、「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」とは、「六経」は描かれた絵そのものに譬えることができ、「論語」と「孟子」はそういう絵の描かれ方を見究めた書に譬えることができる、と言うのである。
伊藤仁斎は、藤樹に後れること約二十年、寛永四年(一六二七)に京都の町家に生れた。十一歳の年、「大学」の「治国平天下」の章を読んで儒学に志し、当初は深く朱子学を奉じたが、後にこれを疑って三十六歳の年、自力で「論語」「孟子」の言葉そのものへと遡る古義学を興し、「論語古義」「孟子古義」「語孟字義」、そして「童子問」を著した。没年は宝永二年(一七〇五)、享年七十九だったが、「語孟字義」は五十七歳の年、「論語古義」と「孟子古義」との成果に立って書き上げた書、「童子問」は最晩年に書いた古義学の概論とも言える書である。しかし、これらの書は、いずれも稿を改めること数度に及んで生前一書も刊行されず、刊行は仁斎の死後、嗣子東涯らの手によった。小林氏が、「仁斎は『語孟』への信を新たにした人だ」と言っているのは、この間の消息である。
「論語」は、孔子の言行や、孔子と弟子たちとの対話が記録された本だが、孔子の死後、弟子たちによって一書に編纂されて以来、二〇〇〇年以上にもわたって読み継がれた結果、その周辺にはありとあらゆる訓読や解釈が堆積し、「論語」の原文はそれらの訓読、解釈に押しひしがれんばかりになっていた。そこへ、朱熹の「論語集注」が現れた。
言うまでもなく朱熹は、中国の南宋時代に新しい儒学である宋学を集大成した学者だが、彼自身の儒学の体系は朱子学と呼ばれ、宋学と言えば朱子学をさすまでになっていた。ではその朱子学とは、どういう学問であったか、子安宣邦氏の『仁斎 論語』等に教わりながら概観してみる。
朱子学は、「性理学」とも呼ばれた。「性」とは人に備わっている生まれつきの性質のことだが、朱熹は、宇宙は存在としての「気」と、存在の根拠や法則としての「理」とから成るとし、人間においては人それぞれの気質の性が「気」であるが、人間誰にも共通する本然の性に「理」が備わっているとして「性即理」の命題を打ち立てた。人はこうしてその存在理由と根拠とをもっている、天も根拠をもっている、それが「天理」である、人は天理を本然の性として分かちもっており、これが「性即理」ということである、そしてこの「理」の自己実現が、人間すべての人生課題だと朱熹は言った。こうして朱子学は、「理気論」をもって宇宙論的に人間を理解しようとした。
さらにはこの「理気論」に、「体用論」が加わっていた。「体」とは本体、「用」とは作用である。人の本体として主宰的性格をもつのは心であり、人の運動的契機としての身は用である。心もその本体をなすものは性であり、心が動いて発現するのが情である。「理」と「気」も、「体」と「用」も、万事万物がもつ二つの契機であり、その間に優劣はないのだが、本体論的、本来主義的な構えを基本とする朱子学においては、「理」が「気」に対して、「体」が「用」に対して、心が身に対して、性が情に対して、静が動に対して、それぞれ優越することになる。ここから朱子学は、人間は心の本来的な静によって外から誘発される動を抑制せよという、禁欲的かつ修身的傾向を強く帯びていた。
そして朱熹は、「論語」をはじめとする経書もこの立場から解釈し、「論語」に関しては「論語集注」を著した。日本には鎌倉時代に伝えられ、室町時代には広く学ばれるようになっていたが、江戸時代になると幕府が朱子学を官学として保護したことも与って、「論語」の読み方は「論語集注」によって規定されるまでになっていた。
だが仁斎は、二十代の後半、身体が衰弱し、何かに驚いて動悸が激しくなるという病を得、首を俯し机によったきりで約十年、門庭を出ることなく外部との交渉を断った。この病患の十年があったことにもよって、仁斎は朱子学が人間を叱咤するどころか抑圧する思想の体系であると感じとり、三十代に至って朱子学からの離脱を決意した。そこを小林氏は、東涯が父親を語った「先府君古学先生行状」によってこう書いている。仁斎も青年時代、
――「宋儒性理之説」の吟味に専念したが、宋儒の言う心法も「明鏡止水」に極まるのに深い疑いを抱き、これを「仏老の緒余」として拒絶するに至った。……
「仏老」は仏教と老子、「緒余」は残りもの、あるいは端切である、要するに朱子学は、仏教や老荘思想の追随に過ぎないと仁斎は見たのである。
「明鏡止水」は、澄みきった静かな心境を言う言葉だが、そういう心境を掲げて修身を説く朱子学を仁斎は疑った。なぜか。
――藤樹が心法を言う時、彼は一般に心の工夫というものなど決して考えてはいなかった。心とは自分の「現在の心」であり、心法の内容は、ただ藤樹と「たゞの人」だけで充溢していたのである。仁斎の学問の環境は、もう藤樹を取囲んでいた荒地ではなく、「訓詁ノ雄」達に満ちていたが、仁斎にとっても、学問の本旨とは、材木屋の倅に生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった。……
仁斎が「論語古義」「孟子古義」に生涯をかけた気概の源泉はここにあった。彼は自分の註釈を「生活の註脚」と呼んだが、中国古代の聖人たちが説いた人間の道、すなわち人間の生き方は、「理」だの「気」だのといった観念を振り回して宇宙に求めたところで得られるものではない、いつの世にも変ることなく万人にあてはまる生き方は、我々人間の日常にある、平常にあるとして、仁斎はそれを「論語」に見出そうとしたのである。
小林氏は、第八章で、
――「藤樹先生行状」によると、藤樹は十一歳の時、初めて「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、壱是ニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」という名高い言葉に至って、非常に感動したと言う。「嘆ジテ曰ク、聖人学デ至ルベシ。生民ノタメニ、此経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ。コヽニヲイテ感涙袖ヲウルヲシテヤマズ。是ヨリ聖賢ヲ期待スルノ志アリ」と「行状」は記している。伝説と否定し去る理由もないのであり、大洲の摸索時代の孤独な感動が人知れぬ工夫によって、後に「大学解」となって成熟する、むしろそこに藤樹の学問の特色を認める方が自然であろう。……
と言い、最後に、
――藤樹に「大学」の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった。……
と言っていた。
そして、第九章の冒頭で、
――宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えず発明して、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。それほど、藤樹の立志には、はっきりと徹底した性質があった。……
と言っていた。
ここで言われている「発明」は、物事の、これまで表面には現れていなかった道理や意義を発見して明るみに出す意の「発明」だが、「教養」については「読書週間」(「小林秀雄全作品」第21集所収)でこう言っている、
――教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体験に基いて得られるもので、教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかに自ら現れる言い難い性質がその特徴であって、教養のあるところを見せようというような筋のものではあるまい。……
「本居宣長」の第九章で言われている「教養」も、まったく同じ「教養」である。日常の「生活体験に基いて得られ」た、「生活秩序に関する精錬された生きた智慧」である。中江藤樹は、そういう一般人の「教養」とまっさきに交渉したのである。伊藤仁斎は、紛れもなく藤樹の志を継いだのである。
2
小林氏は、中江藤樹から伊藤仁斎へという日本の近世の学脈は、「心法」という言葉によって貫かれていると見、その心法とは文字を読むときの心ではなく、絵を見るときの心だと言っているが、その「心法」は、藤樹では「体認」と言われていた、それが仁斎になると「体翫」になる。仁斎が「同志会筆記」で自ら回想しているところによると、
――彼は十六歳の時、朱子の四書を読んで既にひそかに疑うところがあったと言う。「熟思体翫」の歳月を積み、三十歳を過ぎる頃、漸く宋儒を抜く境に参したと考えたが、「心窃ニ安ンゼズ。又之ヲ陽明、近渓等ノ書ニ求ム。心ニ合スルコト有リト雖モ、益々安ンズル能ハズ。或ハ合シ或ハ離レ、或ハ従ヒ或ハ違フ。其幾回ナルヲ知ラズ。是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ヲ以テ求メ、跬歩ヲ以テ思ヒ、従容体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」……
「朱氏の四書」は、朱熹が「礼記」の中の「大学」「中庸」と「論語」「孟子」を四書と呼び、儒学の枢要書と位置づけてこれらに関わる註釈を集成した「四書集注」のことである。若き日の仁斎は、これを読んで「熟思体翫」の歳月を積んだというのだが、「体翫」の「翫」は「翫味」「賞翫」などとも言われるように、深く味わう意である。そうであるなら「体翫」は、身体で味わう、ということになるが、仁斎は生涯、「熟思体翫」の歳月を積み続けた、その端緒がここで語られている。
「是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ヲ以テ求メ、跬歩ヲ以テ思ヒ、従容体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、朱子の「四書集註」をはるかに上回る烈しさで「論語」と「孟子」を体翫したと言うのである。しかも、「悉ク語録註脚ヲ廃シテ」である。「語録」は、ここでは宋、明以後の中国で見られるようになった儒者や高僧の言葉を記録した書物のことで、たとえば朱熹に「近思録」、王陽明に「伝習録」などがあるが、仁斎はこれらを註脚、すなわち書物に施された割注などの類とともにいっさい斥け、「論語」と「孟子」の原文を、原文だけを、直かに読んだと言うのである。「寤寐ヲ以テ」は寝ても醒めても、「跬歩ヲ以テ」は片足踏み出すたびに、「従容」は焦ることなく、「自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、おのずからこうだと合点することがあってそこにはなんらまじりけはなかった、である。
こうして仁斎は、書を読むについて、重大な心法を身に着けた。
――彼の考えによれば、書を読むのに、「学ンデ之ヲ知ル」道と「思テ之ヲ得ル」道とがあるので、どちらが欠けても学問にはならないが、書が「含蓄シテ露サザル者」を読み抜くのを根本とする。書の生きている隠れた理由、書の血脈とも呼ぶべきものを「思テ得ル」に至るならば、初学の「学ンデ知ル」必要も意味合も、本当にわかって来る。この言わば、眼光紙背に徹する心の工夫について、仁斎自身にも明瞭な言葉がなかった以上、これを藤樹や蕃山が使った心法という言葉で呼んでも少しも差支えはない。……
語録や註脚に頼るのは、「学ンデ之ヲ知ル」であろう、「思テ之ヲ得ル」が体翫であろう。そして、「思テ之ヲ得ル」こそが「独学」であろう。
――彼は、ひたすら字義に通ぜんとする道を行く「訓詁ノ雄」達には思いも及ばなかった、言わば字義を忘れる道を行ったと言える。先人の註脚の世界のうちを空しく摸索して、彼が悟ったのは、問題は註脚の取捨選択にあるのではなく、凡そ註脚の出発した点にあるという事であった。……
――世の所謂孔孟之学は、専ら「学ンデ知ル」道を行った。成功を期する為には、「語孟」が、研究を要する道徳学説として、学者に先ず現れている事を要した。学説は文章から成り、文章は字義からなる。分析は、字義を綜合すれば学説を得るように行われる。のみならず、この土台に立って、与えられた学説に内在する論理の糸さえ見失わなければ、学説に欠けた論理を補う事も、曖昧な概念を明瞭化する事も、要するにこれを一層精緻な学説に作り直す事は可能である。……
――宋儒の註脚が力を振ったのは其処であった。仁斎が気附いたのは、「語孟」という学問の与件は、もともと学説というようなものではなく、研究にはまことに厄介な孔孟という人格の事実に他ならぬという事であった。そう気附いた時、彼は、「独リ語孟ノ正文有テ、未ダ宋儒ノ註脚有ラザル国」に在ったであろう。ここで起った事を、彼は、「熟読精思」とか、「熟読翫味」とか、「体験」とか「体翫」とか、いろいろに言ってみているのである。……
仁斎は、「体翫」の他にもいろいろに言って、自分自身の書の読み方の気味合をなんとか摑み取ろう、伝えようとしているらしいのだが、私はやはり、「体翫」に最も強く魅かれる。中江藤樹は「体認」と言っていた。近世の学問の夜明けを担った藤樹と仁斎が、ともに「体で」会得する、「体で」味わうと言っているところに彼らの学問のひときわ高い鼓動を聞く思いがするのである。それは、小林氏が、「本居宣長」を『新潮』に連載し始める四年前、『文藝春秋』に「考えるヒント」の一篇として「学問」(同第24集所収)を書いて、そこで次のように言っていたことにもよる。
――仁斎の言う「学問の日用性」も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。「論語」に交わって、孔子の謦咳を承け、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と告白するところに、嘘はない筈だ。この楽しみを、今、現に自分は経験している。だから、彼は、自分の「論語」の註解を、「生活の註脚」と呼べたのである。……
小林氏によれば、「体翫」とは、信頼する人間と、深く親しく、全身で交わることなのである。
3
こうして仁斎は、「論語古義」に四十余年をかけた。先にも述べたように三十歳を過ぎて朱子学を疑い、三十六歳で古義学を創始したが、「論語古義」の起稿もこの時期と見られている。と言うより、「論語古義」の起稿をもって古義学の創始と見られていると言うべきだろうか。四十歳の頃に初稿が成ったが、以後、七十九歳で没するまで補筆修訂を施し続け、多種の稿本が現在まで伝わっているという。「稿本」は、手書きの草稿である。生前最後の稿本では、各巻の内題が「最上至極宇宙第一 論語巻之一」などとなっているという。そこを小林氏は、次のように書いている。
――仁斎は、「童子問」の中で、「論語」を「最上至極宇宙第一書」と書いている。「論語」の註解は、彼の畢生の仕事であった。「改竄補緝、五十霜ニ向ツテ、稿凡ソ五タビ易ル、白首紛如タリ」(「刊論語古義序」)とは、東涯の言葉である。古義堂文庫の蔵する仁斎自筆稿本を見ると、彼は、稿を改める毎に、巻頭に、「最上至極宇宙第一書」と書き、書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷っている様子が、明らかに窺えるそうである。私は見た事はないが、かつてその事を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時、仁斎の学問の言わば急所とも言うべきものは、ここに在ると感じ、心動かされ、一文を草した事がある。……
「五十霜ニ向ツテ」は五十年ちかくに及び、の意、「稿凡ソ五タビ易ル」は草稿は五度書き改められた、である。倉石武四郎氏は明治三十年生れの中国語学者、中国文学者、昭和二十四年刊の『口語訳 論語』の「はしがき」でこの仁斎の逸話にふれている。
それはともかく、小林氏の文の、先を読もう。
――「論語古義」が、東涯によって刊行されたのは、仁斎の死後十年ほど経ってからだ。刊本には、「最上至極宇宙第一書」という字は削られている。「先府君古学先生行状」によると、そんな大袈裟な言葉は、いかがであろうかというのが門生の意見だったらしく、仁斎は門生の意見を納れて削去したと言う。そうだっただろうと思う。彼は穏かな人柄であった。穏かな人柄だったというのも、恐らくこの人には何も彼もがよく見えていたが為であろう。「論語」が聖典であるとは当時の通念であった。と言う事は、言うまでもなく、誰も自分でそれを確めてみる必要を感じていなかったという意味だ。ある人が、自分で確めてみて驚き、その驚きを「最上至極宇宙第一書」という言葉にしてみると、聖典と聞いて安心している人々の耳には綺語と聞えるであろう。門生に言われるまでもなく、仁斎が見抜いていたのは、その事だ。この、時代の通念というものが持った、浅薄で而も頑固な性質であった。彼にしてみれば、「最上至極宇宙第一書」では、まだ言い足りなかったであろう。まだ言い足りないというような自分の気持が、どうして他人に伝えられようか。黙って註解だけを見て貰った方がよかろう。しかし、どう註解したところで、つまりは「最上至極宇宙第一書」と註するのが一番いいという事になりはしないか。そんな事を思いながら、彼は、これを書いては消し、消しては書いていたのではあるまいか。恐らくこれは、ある人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者だけが知るためらいと思われる。軽信家にも狂信家にも、軽信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のない躊いであろう。……
――「論語古義」の「総論」に在るように、仁斎の心眼に映じていたものは、「其ノ言ハ至正至当、徹上徹下、一字ヲ増サバ則チ余リ有リ、一字ヲ減ズレバ則チ足ラズ」という「論語」の姿であった。「道ハ此ニ至ツテ尽キ、学ハ此ニ至ツテ極ル」ところまで行きついた、孔子という人の表現の具体的な姿であった。この姿は動かす事が出来ない。分析によって何かに還元できるものでもなく、解釈次第でその代用物が見附かるものでもない。こちら側の力でどうにもならぬ姿なら、これを「其ノ謦咳ヲ承クルガ如ク、其ノ肺腑ヲ視ルガ如ク」というところまで、見て見抜き、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、こちらが相手に動かされる道を行く他はないのである。……
先の引用のなかに、「一文を草した」とあったのは、昭和三十三年の秋、「論語」(同第22集所収)を書いたことを言っている。そこにはこうある。
――伊藤仁斎は「論語」の注釈を書いた時、巻頭に、「最上至極宇宙第一」と書いたという。仁斎の原稿は、今も天理図書館に、殆ど完全に保存されていて、それを見ると、「最上至極宇宙第一」の文字は、消されては書かれ、書かれては消されて、仁斎がこの言葉を注釈に書き入れようか、入れまいかと迷った様が、よく解るそうである。私は、かつて、この話を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時に、心を動かされたのを覚えている。こういう話から、昔の儒者は、仁斎のような優れた儒者でさえ、「論語」という一人の人間の言行録を、天下の聖典と妄信していた、と考えるのは、浅はかなことであろう。「論語」という空文を、ただわけもなく有難がっていた儒者はいくらでもいたが、仁斎のように、この書を熟読し、異常な感動を体験した人は稀れであったと見るのがよいと思う。恐らく、仁斎は、なるほど世間では、皆、「論語」を最上の書と口では言っているが、この書を読んだ自分自身の感動を持っている人は一人もいないことを看破したのである。彼は、自分の感動を、どういう言葉で現していいか解らなかった。考えれば考えるほど、この書は立派なものに思えて来る。自分の実感を率直に言うなら、最上至極宇宙第一の書と言いたいところだが、そんなことを言ってみたところで、世人は、徒に大げさな言葉ととるであろう。仁斎は迷い、書いては消し、消しては書いた。そんな風に想像してみても、間違っているとは思えない。恐らく、仁斎は、「論語」という書物の紙背に、孔子という人間を見たのである。「論語」の中に、「下学シテ上達ス」という言葉がある。孔子は自分の学問は、何も特別なことを研究したものではない、月並な卑近な人事を学び、これを順序を踏んで高いところに持って行こうと努めただけだ、と言うのである。仁斎が、「仲尼ハ吾ガ師ナリ」と言う時に感歎したのは、そういう下学して上達した及び難い人間であって、単なる聖人の理ではなかった。仁斎は、宋儒の天即理とか性即理とかいう考え方を嫌い、仲尼という優れた人間の言行に還るのをよしと考えた、気性の烈しい大学者であった。「仲尼ハ吾ガ師ナリ」という言葉は、「仁斎日札」のなかにあるのだが、その中で、彼はこういうことを言っている。儒者の学問では、闇昧なことを最も嫌う、何でも理屈で極めようとすれば、見掛けは明らかになるようで、実はいよいよ闇昧なものになる。道を論じ経を解くには、明白端的なるを要するのであり、「十字街頭ニ在ツテ白日、事ヲ作スガゴトク」でなければならぬ、という。彼の考えによれば、「論語」に現れた仲尼の言行とは、まさにかくの如きものなのである。……
「仲尼」は孔子の字である。字は中国で男子が元服のときにつけ、それ以後一生通用させた名であるが、孔子の字「仲尼」が三度にわたって出る小林氏の「論語」を、「本居宣長」第十章からの引用に続けて長く引いたのは、「最上至極宇宙第一書」にこめた仁斎の思いを小林氏に導かれてしっかり受け止めたかったからだが、それに加えて小林氏が、仁斎を、ここでまさに「体翫」していると思えたからである、しかもその「体翫」の息づかいは、より高く「学問」のほうから聞える、それを読者にも感じてほしいと希ったからである。
仁斎は、孔子を体翫した。孔子という信頼してやまない人と、深く親しく交わった。その仁斎を、小林氏は「最上至極宇宙第一書」という仁斎の肺腑の言を通じて体翫した、伊藤仁斎という信頼に価する人と、深く親しく交わろうとした。
思えば、小林氏の仕事は、「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「近代絵画」「本居宣長」……、いずれも「体認」「体翫」の結晶であった。
4
――仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。「大学定本」「語孟字義」の二書に感動した青年徂徠は、仁斎に宛てて書いている。「茫茫タル海内、豪杰幾何ゾ、一ニ心ニ当ルナシ。而シテ独リ先生ニ郷フ」(「与伊仁斎」)、仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている(「童子問」下)。ここで使われている豪傑という言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、倚ル所無キ」学者を言うのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、そういう人間の心法だったに違いない。言い代えれば、他人は知らず、自分は「語孟」をこう読んだ、という責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれているところに、豪傑を見たに違いない。読者は、私の言おうとするところを、既に推察していると思うが、徂徠が、「独リ先生ニ郷フ」と言う時、彼の心が触れていたものは、藤樹によって開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかった。……
小林氏は、伊藤仁斎に続いて、荻生徂徠と向き合う。
――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
徂徠は、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言している、が、彼は、
――学問は歴史に極まり、文章に極まるという目標があって考えを進めたわけでもない。そういう着想はみな古書に熟するという黙々たる経験のうちに生れ、長い時間をかけて育って来たに違いないのであり、その点で、読書の工夫について、仁斎の心法を受け継ぐのであるが、彼は又彼で、独特な興味ある告白を遺している。……
と小林氏は言って、徂徠の「告白」を引く。
――愚老が経学は、憲廟之御影に候。其子細は、憲廟之命にて、御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味仕候。夏日之永に、毎日両人相対し、素読をさせて承候事ニ候。始の程は、忘れをも咎め申候得共、毎日明六時より夜の四時迄之事ニて、食事之間大小用之間計座を立候事故、後ニは疲果、吟味之心もなくなり行、読候人は只口に任て読被申候。致吟味候我等は、只偶然と書物を詠め居申候。先きは紙を返せども、我等は紙を返さず、読人と吟味人と別々に成、本文計を年月久敷詠暮し申候。如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而無之事ニ候。此段愚老が懺悔物語に候。夫故門弟子への教も皆其通に候」(「答問書」下)……
「憲廟」は、徳川幕府の第五代将軍、綱吉である。私の経学、すなわち徂徠の四書五経の学問は、綱吉公のおかげであると言うのである。五代将軍綱吉と言えば、悪名高い生類憐みの令で知られるが、その生類憐みの令は将軍在位約三十年の後半、元禄・宝永期の弊政のひとつで、前半期の天和・貞享期には綱紀粛正策等で実を上げ、「天和の治」と称えられるほどだった。したがって、生類憐みの令も、当初は儒教・仏教による人心教化を意図していたと言われ、将軍となってすぐ、儒学の教えを幕政に反映させようと、幕臣を集めて自ら講義することもたびたびだったという。
その綱吉に、徂徠は講義をした。吉川弘文館の『国史大辞典』によれば、もともと徂徠は綱吉と縁があった。徂徠の父方庵は、将軍職に就く前、上野の国舘林藩主時代の綱吉の侍医だった。だが方庵は、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総の国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされた。
赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じた。だが暮しは困窮をきわめ、豆腐のからで食をつないだという逸話を残すほどだった。しかしその間、「訳文筌蹄」六巻を著し、これによって名を知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて将軍綱吉に謁し、ついには五百石の禄を得るまでになった。
柳沢吉保については多言を要すまいが、側用人とは歴とした徳川幕府の職名である。定員は一名で、将軍に近く仕えて将軍の命を老中に伝え、また老中の上申を将軍に取次ぐ要職である。格式は老中に次ぐが、職務上の権力は老中をしのいだ。吉保は、こうして将軍綱吉の後半期、綱吉の寵を恣にしたが、教養面では綱吉の学問上の弟子となり、その線上で徂徠らを召し抱え、中国古典の覆刻版を刊行するなどした。
しかし、徂徠は、「愚老が経学は、憲廟之御影に候」と言っているが、徂徠が綱吉から蒙った「御影」は、偶然の椿事だった。「其子細は」、すなわち、「憲廟之御影」というのを詳しく言えば、「憲廟之命にて御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味」する機会に恵まれたことだった。「素読」とは、「論語」などの漢籍を読むにあたって、先生が少しずつ区切って読む本文を、生徒は先生に続いて先生が読んだとおりに読む、声に出して読む。先生は語意や文意の説明はいっさいしない、「子曰く」「学びて時に之を習う」「亦説しからずや」……と、ひたすら本文だけを読んでいく。こういう音読を、何度も繰り返す、こうして「論語」なら「論語」を暗記させてしまう。これが当時の漢籍初学の常道だった。
小林氏は、岡潔氏との対話「人間の建設」(同第25集所収)で、大意、こう言っている。
――昔は、子供が何でも覚えてしまう時期、その時期をねらって素読が行われた。これによって誰でも苦もなく古典を暗記してしまった。これが、教育上、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきです。昔は、暗記強制教育だったと簡単に考えるのは悪い合理主義です。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかも知れないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。……
今日、「素読」が日常会話に上ってくることはまずないが、上ってきたとしてもさほど意識されていないか忘れられているのが「暗記」である。「素読」の主目的は「暗記」だったとさえ小林氏は言っているのである。ここで私が、あえて「素読」にまつわる小林氏の発言を引き、「暗記」という言葉に注意を向けてもらったのは、徂徠の告白にも「素読之忘れを吟味仕候」と見えているからである。徂徠が言っている「忘れ」とは、一語一句の訓読法の忘れもあるかも知れないが、「素読之忘れを吟味」するとは、「論語」の全文が生き生きと身体に入っているかどうか、それを見るということだっただろう。そうでないのであれば、現代の中間考査や期末考査のように、所々を抜き出して、精々一時間か一時間半ほどの間に正解を問えばよいではないか。「毎日明六時より夜の四時迄」というほどの時間と体力を、厖大に注ぎこむことはないではないか。「明六時」は、今日の時刻では午前五時から七時頃である、「夜の四時」は午後十時である。
こうして「素読之忘れ之吟味」は、夏の酷暑のさなか、連日十五時間前後にわたって行われ、毎日、時間が経つにつれて小姓も徂徠も朦朧となり、放心状態を繰り返すありさまだった。だが、「如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候」ということになった。「注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而無之事ニ候」ということを痛いほど知った。「曾而」は「まったく(~ない)」である。
小林氏がここで引いた徂徠の回想も、「体認」「体翫」に目覚めた得難い経験の告白と解してよいであろう。そこを徂徠は、「愚老が経学は、憲廟之御影に候」と言ったのである。先に、「体認」「体翫」とは、「体で会得する」「体で味わう」ことらしいと言ったが、いまはもっと進めて、「頭の介入を排して会得する」こと、「頭を介在させないで味わう」こと、と言い換えてもよいだろう。徂徠の告白を読み上げて、小林氏は言っている、
――例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと」詠めるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう。……
徂徠の経学は、古文の言葉をそこまで味わい会得しようとする強い信念のもとに研鑽が積まれた、それが徂徠の古文辞学だったと小林氏は言うのである。むろん藤樹の「体認」、仁斎の「体翫」も、同じ信念から出た言葉であった。
(第二十三回 了)
その七 収容所の音楽~シモン・ゴールドベルク
ベートーヴェンといえばわが国ではまず第九、その交響曲第九番作品125の日本初演は、1918年、板東俘虜収容所でのことだそうだ。日独戦で捕虜となったドイツ兵のうち約千人が収容されたこの徳島の収容所では、所長、松江豊寿陸軍中佐(のち大佐)のもと、いわば武士道精神に基づいた人道的な運営がなされていた。松江は下北半島斗南生まれの反骨の人である。斗南といえば、戊辰戦争で朝敵賊軍とされた会津藩士らが封ぜられたところ、松江の胸にはその先人の悲痛な記憶が刻まれていたことであろう。このドイツ兵たちもまた祖国のために戦ったのだ――戦争における敬意と尊厳、それが松江の反骨だ。もとよりそんなものは、今日の我々にはむろん、当時において既にお伽噺のようなものであっただろう。ともあれドイツ兵たちは、故郷を遠く離れた異国の地に、各自の技芸を揮って一つの豊かな共同体を築き、土地の日本人たちと交流しつつ、板東を、暫時の、もうひとつの故郷としたことであった。もとよりドイツ人である、生活に音楽は欠かせない。収容後まもなく心得のある者が集って幾つかの楽団が編成され、音楽会も定期的に開催されるようになる。そうして収容所に鳴り渡った音楽は、板東の民衆と松江とともにある、彼らの歓喜の歌であった。
それから二十年、第二次大戦の最中となると、もうそんなお伽噺は見つからない。たしかに、あのアウシュヴィッツの強制収容所でも、虜囚ユダヤ人の音楽活動が許容されることはあった。しかし、言うまでもないことだが、そこに牧歌的な雰囲気などは微塵も見出せないのだ。むしろ、民族殲滅の危機に晒されたユダヤ人らの、一人でも多く生き延びねばならないという、土壇場の、まことに切迫した現実がうかがわれるばかりである。
アルマ・ロゼというユダヤ人女性、彼女の母親はあのグスタフ・マーラーの妹、父親はルーマニア出身のヴァイオリニスト、アルノルト・ロゼである。アルノルトがアルマを伴い、伸張する第三帝国の強迫からロンドンへと逃れていったのは1938年のことだ。ところが、自身優れたヴァイオリニストであったアルマは、音楽活動を継続すべく大陸に戻って時機を見誤り、ゲシュタポに捕縛されるところとなってしまったのである。
ビルケナウの収容所にあっても、生来の音楽の使徒アルマは、女性囚人のオーケストラを組織して音楽活動を継続した。さすがは、ウィーン・フィルのコンサートマスターを57年にわたって務めた人の娘だ。その指導は厳格だったが、それはオーケストラの水準をごく高いものにしなければ「危険」だったからである。ナチスの「文化」政策の一翼を担うとみせて、団員たちの「存在理由」を確乎とし、「虐殺」の危機を遠ざけようとしたわけだ。
アルマは1944年、病に斃れるが、その名は、彼女の唯一のレコーディング、父アルノルトと演奏したバッハ作曲ドッペル・コンチェルトとともに不朽である。
シモン・ゴールドベルクが、楽旅の途上、それまでオランダ占領下にあったジャワ島で日本軍に捕えられ、その地の収容所に収監されたのは1942年のことである。楽旅とは言ったが、むろんロマンティックなものではない。彼はポーランド系ユダヤ人である。すなわち、ナチズムが台頭するなかでの、まことに不本意な流浪の生活だったのである。ジャワの先にはオーストラリアがありアメリカがあったはずだ。だが、妻のマリアとピアノのリリー・クラウスを伴ったその解放の旅は、開戦とともに東南アジアに侵攻した日本軍によって、突然、頓挫させられたのであった。
ところで、収容所においても、ゴールドベルクはなお上機嫌であった。おそらく彼には、不満というものがないのだ。かつてはあった他の可能性などという幻想を顧みない。与えられた今の現実を全てとし、受け入れ、その環境と条件の下で、能うかぎりの知恵を尽くして力を揮うのである。いささか唐突だけれど、私はふと「西遊記」の孫悟空とか三蔵法師を思ったりする。
凡そ対蹠的な此の二人(三蔵法師と孫悟空)の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺は気が付いた。それは、二人が其の生き方に於いて、共に、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。更には、その必然を自由と見做していることだ。金剛石と炭とは同じ物質から出来上っているそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方の甚だしい此の二人の生き方が、共に斯うした現実の受取り方の上に立っているのは面白い。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼等が天才であることの徴でなくて何であろうか?
(中島敦「悟浄歎異」)
三蔵法師には、所与の現実をそのまま肯ってたじろがぬ強靭さがある。悟空には、その現実に躊躇なく対処する身体的な実行家の楽観がある。その「天才」二人を前にして羨望し、実践的たり得ない我が身を顧みて落胆するインテリが沙悟浄なのだろう。俺は、事態を観念的に対象化し正確に分析して、それで済ましているだけではないのか。沙悟浄の歎きが聞こえてくるようである。そして私はシモン・ゴールドベルクという音楽家に、この二つの「天才」の高次の統合を見るのである。
シモン・ゴールドベルク8歳の写真がある。利発で明るい子供……そんな形容だけでは、その肖像が示唆する決定的な何かが抜け落ちてしまう。どこか無邪気でしかも神々しく、将来に輝かしい何かが約束されているような、ということは、もう何らかの使命を負っているといったような、そんな顔だ。彼はこの写真の貼られたパスポートを携えて家族に別れを告げ、ポーランドの故郷ヴォツワヴェックからベルリンへと旅立ったのであった。むろんヴァイオリニストとしての将来を嘱望されてのことである。それは、二十世紀にチェンバロを復活させた演奏家ワンダ・ランドフスカに見出されての首途であった。
ベルリンでは、稀代の名教師カール・フレッシュの門に入る。ゴールドベルクはもとより神童に違いなかっただろうが、フレッシュは神童とか天才という価値に懐疑的な人であった。それを認めないのではない。そんなものは、それだけでは若年期の栄光という、あまりに虚しい商品的性格に過ぎないというわけだ。幼いゴールドベルクはフレッシュの許で、妥協のない修行の日々を送ったことであろう。青年期を過ぎ、あからさまに色褪せていく天才ヴァイオリニストが少なくない中、彼は生涯を通じてその輝きを失わず、それどころかさらなる高みに昇りつめていくのだが、その根底には、この時期の徹底した基礎訓練があったものと思われる。
そしてさらに、オーケストラでの鍛錬。これもフレッシュの教育方針である。この頃、欧州の主要なオーケストラのコンサートマスターは悉くフレッシュ門下、ゴールドベルクもまもなく名門ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者エーリッヒ・クライバーの要請を受けて、その地位に就くことになる。そのとき16歳。前例のない若きコンサートマスターの誕生であった。しかし伝説はそこに止まらない。翌年にはベルリンのウィルヘルム・フルトヴェングラーの注目するところとなり、1929年、19歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任するのである。これも史上最年少だ。最年少であることが強調されることの中には、彼がヴァイオリン奏者として史上稀な卓越を若くして示したというだけではない、別の意味がある。権威あるオーケストラの誇り高い音楽家達を統率するには、演奏家としての技量だけではなく、音楽そのものに対する深い教養と、団員に信頼に値すると思われるだけの高い人格、そういったものも求められるであろう。そしてこの青年にその資格があったということである。
さて、かく順風満帆とみえる船出だが、しかし時は1930年代、世界恐慌を端緒として、不穏な空気が色濃くなってくる。ソリストとして、あるいはパウル・ヒンデミット、エマヌエル・フォイアマンとの室内楽で、全欧にその存在が知られると同時に、ユダヤ人としてベルリンに居続けることの困難もいやまして来る。フルトヴェングラーはドイツ人として、その音楽的ナショナリズムの構築と存続を、最も若く最も優れたこのポーランド出身のヴァイオリニストに懸けていたから、ぎりぎりまで慰留に努めたようだが、1933年、ナチス独裁体制が確立し、ユダヤ人に対する弾圧が始まると、さすがにゴールドベルクのドイツ脱出の要望を受け入れざるを得なくなった。ゴールドベルクは、他の多くのユダヤ人音楽家と同様にロンドンに赴き、そこを出発点として、先述のトリオやリリー・クラウスとのデュオを主とする演奏活動を、ドイツ圏を除く全欧で展開し始めた。1936年には日本にも足を延ばした。それは一見すると、オーケストラの一員としての義務を解かれた彼の、待ち望まれた旺盛な音楽活動と見える。一応それはそうに違いないのだが、そこにはある事情が、ポーランド国籍の者は一つの国に3か月以上滞在できないという理不尽な制約が背景としてあった。すなわち強いられた彷徨でもあったのであって、彼は音楽のために割くべき時間の多くを、役所の待合室でヴィザの発給をただ待つことに費やさねばならなかったのである。それでもようやくオーストラリアを経由してアメリカ合衆国に移住する見通しがたち、オランダ領東インドへとやって来たのだが、折悪しく侵攻してきた日本軍に捕縛され、その後その地のヨーロッパ人らとともに、終戦まで3年におよぶ抑留生活を強いられることになる。
収容所にあっても彼は音楽活動を継続した。オーケストラも組織した。まずは楽器を搔き集める。ヴァイオリンが十数挺、しかしながら弦がない。ギターの弦があってそれで代替する。弓が足りない分は、ちょうどいい、ピツィカート専用だ。ピアノは半ば壊れていたが、それでも音の出る鍵はあった。さて次は楽譜だ。これは彼の頭の中にある。それを書き出せばいいのだけれど、さて紙は……収容者は入所時に書籍二冊の携帯を許可されていた。本には余白がある。そこを切り取って繋ぎ合わせればいいのだ。一冊また一冊と供出され積み上げられた本の余白を、皆で手分けして切り出し、大小の紙片を揃える。ゴールドベルクは苦笑した。彼は自分が持ち込む書籍の選択にあたって、読み飽きることがないであろう辞書を選んでいたのである。しまった。辞書の余白はあまりにも少ない……。ともあれそうやって仕上がった白紙に、これも密かに持ち込まれていた鉛筆の芯の提供を得て、彼はスコアを一曲書き上げたのであった。それは、少年の頃、カール・フレッシュ先生に叩きこまれたベートーヴェン、そのたった一つのヴァイオリン・コンチェルトであった。
此の男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。其の火は直ぐに傍にいる者に移る。彼の言葉を聞いている中に、自然に此方も彼の信ずる通りに信じないではいられなくなって来る。彼の側にいるだけで、此方までが何か豊かな自信に充ちて来る。
(「悟浄歎異」)
人々はゴールドベルクのストラディヴァリウスを連係して守り抜いた。監視がやや緩やかな女性の収容棟に移して赤ん坊の寝床の下に隠し、窓から外にそっと落として、収容を免除されていた近隣のスイス人の医師に託した。また強制労働に際しては、敬愛するヴァイオリニストの手を傷つけぬために、その仕事を皆で分担した。微笑を絶やさず、いつも今なし得ることを考え、身体を動かしている。それが多くの人々を惹きつけ、協調を産み、人間の豊かな共同性を育む。真の教養人の姿がそこにあった。人々はどんなにか愉しく幸福であったろう。生き生きと躍動する収容者たちの姿が髣髴としてくるようだ。
音楽は楽しむだけのものではなく、その存在が必然的な価値をもつものであり、さらに、人が最も過酷な現実に晒され生きることへの危機に直面した時、人間が人間として求める〈不可欠な何か〉であるのだ。
(シモン・ゴールドベルクの言葉)
この時のコンチェルトは、さてどんな演奏だったろう。絶対に再現されることのない、一回きりの、かけがえのない音楽。ゴールドベルクの音と音楽は、澄み切った漆黒の天上に、銀の線条をもって縁取られた、彗星の、あるいは無数の恒星の軌道である。今、ドイツ退去の年に録音されたドヴォルザークの小品(スラヴ舞曲ホ短調作品26の2、ピアノ伴奏アールパード・シャーンドル、1934年)と戦後まもなくロンドンで録音されたヘンデルのソナタ(第四番ニ長調作品1の13、ピアノ伴奏ジェラルド・ムーア、1947年)を蓄音機で聴いてそのことを確かめた。地上から垂直方向に延びていくようなその美しさは、ストラディヴァリウスを奏した青年期も、その後のグァルネリウスの時代においても変わらない、ゴールドベルクの音であるように思われる。大地から立ち上がった人間が、目下の現実を超えて広大な大地と宇宙を遠望しつつその永遠を瞑想したとき、彼は、自分と自分を含む人間という地上の存在の無常とそれゆえのかけがえのなさとに思い至った。その天と地を媒介するものとして音楽というものが生れたとすれば、ゴールドベルクの演奏は、まさにそのようなものだ。それは真の救済である。
やがて終戦。解放されてシンガポールに赴き、そこで妻に再会した。ストラディヴァリウスも戻って来た。このストラドはベルリン・フィルのコンサートマスターに就任した頃、その給料をはたいて月賦で購入したものだ。まだ勘定は済んでいなかったが、そんなものは大戦の混乱のなかで有耶無耶になっていたに違いない。しかし律義者のゴールドベルクは自ら楽器商に出かけて行ってその支払いを続けた。かくしてすべてはもとに戻ったか。むろんそんなことはない。故郷の家族は一人の兄を除いて皆帰らなかった。ホロコーストという宗教的な比喩で語られるが、そんなものではあるまい。単なる虐殺であろう。ジャワに抑留されたシモンと、シベリアの収容所に送られていた三番目の兄だけが生き延びたのであった。敬愛するフルトヴェングラーとも再会したが、マエストロが肩を抱いて「酷い目に遭ったなあ、お互いに」と言った、その「お互いに」という一言が引っかかった。
しかし、ゴールドベルクの音楽は変わらなかった。芸術は、状況に翻弄されないためにこそある。この大宇宙の隅っこで束の間の人生を生きる他ない人間の、その脆さと哀れさをよく知って、その悲劇性ゆえの貴さを嚙みしめながら、正しく美しいものを求め続けた無私の芸術家、それがシモン・ゴールドベルクなのだと思う。
80歳を前にして、パリ音楽院に学んだ邦人ピアニスト山根美代子と再婚し、最晩年は北陸の立山に住んだ。ゴールドベルクによると、これは日本による二度目の捕囚ということになるらしい。その頃の彼の風貌は、また一段と美しい。そしてその姿のまま、しかも現役のヴァイオリニストのまま、その地を第二の故郷として生涯を閉じたのである。墓所は護国寺、まことに質素清潔な墓であった。
(了)
注)シモン・ゴールドベルク(1909~1993)の伝記、逸話およびその言葉等については、ゴールドベルク山根美代子著『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』(幻戯書房2009年刊)を参照し、引用させていただいた。
きみはボードレールの「腐肉」という前代未聞の詩のことをおぼえているかね。今なら僕はあの詩がわかると言いきれるかもしれない。……この恐ろしいもの、一見ただ胸の悪くなるようなものの中に、存在するすべてのものに通じる<永遠に存在するもの>を見ること、これが彼に課せられた使命だったのだ。
ライナー・マリア・リルケ「マルテの手記」(*1)
「実に不思議なことだ」。
この言葉が、ずっと気になっている。小林秀雄先生が、永井龍男さんとの対談で繰り返している、セザンヌ(1839-1906)についての発言である。
「セザンヌという人は、死ぬまで、まっとうな職人で押し通したんだ。芝居っ気なんか、てんでないね。まわりを見まわすようなところはないですね。考えているのは、要するにかんなのことだけだよ。どういうふうに刃を入れたら柱に吸い付くか、また吸いつかないかって、それだけですよ。死ぬまでそれだけですよ。……特にいい画をかき出してから、世間なんかと何の関係もないです。弟子もなし、友人もなし。世界の情勢も、フランスの情勢も何にも彼は知りはしなかった。全然引っこんでいて、画は出来上がったんです。そんなものがどうして全世界に訴えるのかね。実に不思議なことだ。実に不思議なことだと考えこまない奴は、僕は馬鹿だと思う」(「芸について」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収、傍点筆者)
*
2019年夏、東京、上野の国立西洋美術館は、「松方コレクション展」で沸いていた。三年前にフランスから帰還し、修復を受けたばかりのモネ「睡蓮、柳の反映」を目玉に、マネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ムンク等の作品が目白押しであった。
そんな名作が並ぶなか、ごく小ぶりの水彩画三点に強く惹き付けられた。セザンヌの水彩画である。いずれも、デッサン(素描)と色彩が気持ちよく溶け合っている。その一つ、「水差しとスープ容れ」は、容器や果物様の丸みの集合だけで構成されている。丸みと丸みがやさしく共鳴し、中身のスープの香りさえ伝わってくるようだ。縦横の明確な直線も見られず、必ずしも細部まで描き込まれていないにも拘わらず、自然な奥行を感じるなか、静物一つひとつの質量とともに、作品全体としての確たる安定感と統一感を覚える。
セザンヌの晩年の手紙には「実現」という言葉が頻出するが、まさにこれだと直観した。小林秀雄先生は、「近代絵画」(「セザンヌ」、同第22集、以下、「本作」)でこう述べている。
「彼の語るところ、自然の研究とか感覚の実現réalisationとかいう言葉が、しきりに現れるが、それは、当時の常識的な意味とはよほど異ったものだと考えられるので、彼が自然の研究という時に、彼が信じていたものは、画家の仕事は、人間の生と自然との間の、言葉では言えない、いや言葉によって弱められ、はばまれている、直かな親近性の回復にある、そして、それは決して新しい事ではない、そういう事だったと言えるだろう」(傍点筆者)
そんなセザンヌの水彩画に触れた感想を、小林先生が、「恐ろしく鋭敏な詩人」と評するリルケ(1875-1926)は、手紙にこう記している。
「なにもかもすべてを呼びさましてくれました。実に美しいものです。油絵と同様に確かなもの、油絵は重厚ですが、軽やかです。数枚の風景画、ごく軽く鉛筆の輪郭、そのところどころにいわばアクセントをつけ、確認したものとして、たまたま色彩がつけられています。一列に斑点が並んでいますが、それは見事なものでして、筆のタッチは確実、旋律がひとつ映っているようでした」(*2)
リルケが、セザンヌの画と本格的に向き合い始めるのは、彼の死の一年後、1907年の10月に開催されたサロン・ドトンヌ(*3)での「セザンヌ回顧展」からであるため、これは、その直前の、あくまで直観的な感想ということになる。
昨秋は、横浜美術館で、セザンヌの「りんごとビスケット」という静物画を見た(*4)。台上には14個の果物、右端には、淡い色合いのビスケットが2枚載った皿が半分だけ描かれている。まずは近接して見る。果物のみならず、台、皿、床、壁も含めて、画面の殆どが、小林先生も本作で紹介している「画面に平行した、平たい、段階をなして並列している小さな面である」独特の筆触から出来ている。その面が、一つの塊をなして大きな面を形作り、それらの組み合わせにより、自然な立体感が創出されている。
逆に少しずつ画面から離れて見ると、タッチの跡は消えて、果物の重量感が増してくる。引き込まれ無心に見ていると、赤や黄色、そしてオレンジ色の果物一つひとつが鳴り始める。室内楽の合奏のように、調和ある響きが心地よく聞こえてくる……
小林先生は、このような感覚を読者に伝えようと、「リルケの言葉を借りたくなる」としてこう言っている。
「リルケは、セザンヌの絵の魅力を夫人に説明しようとして、いろいろな風に手紙で書いているが、それは、いつも色と色との純粋な関聯という一と筋の道を辿って書いている。彼の言葉はあたかもセザンヌの辿った道を極力模倣しようと努めている様に見えるが、リルケは、遂に、『色の内分泌作用』という面白い言葉を見附けている」(同前)
リルケは、あたかも、生物の消化器官内で、食物の内容に応じて無意識的に行われる消化酵素の分泌調整機能のように、「それぞれの色の内部で、他の色との接触に耐える為に、強化と弱化との分泌が、実に自然に行われている様だと言う」のである。
さて、小林先生が、本作の要所で、その直覚したところを取り上げるリルケは、プラハ生れのオーストリアの詩人である。二十代前半から欧州諸国を旅し、パリでは、1903年に、心酔した彫刻家ロダン(1840-1917)の評伝を発表。邸宅に寄宿するなど親密にしていたリルケが、ロダンに宛てたこんな手紙が残っている。
「いかに生くべきか? そして貴方は答えて下さいました、『仕事をすることによって』と」(*5)
ロダンに、質朴な手仕事の粋を見出し、芸術家として生きる態度を学んだリルケが、次に傾倒することになるのが、当時、既に他界していたセザンヌであった。つまり、先に紹介した、リルケの手紙は、まさにそういう時期に認められたものだったのである。そこで、リルケは、セザンヌの何を模倣しようと努めたのか。小林先生の言葉に耳を傾けてみよう。
「リルケの考えでは、画家にしても詩人にしても、存在とか実存とか呼ばれているものに対する態度によって、その真偽がわかるのである。これは態度であり良心であって、単なる観察ではない。『存在するもの』に、愛らしいものも、厭わしいものもない。選択は拒絶されている。『腐肉』(*6)も避けられぬ。だから、大画家にとって、見るとは自己克服の道になる。熟考も、機知も精神的自由さえ安易な方法と思われる様な職人的な努力になる。セザンヌが、自然の研究だ、仕事だ、と口癖の様に言っていたという事は、画家は、識見だとか反省だとかいうものを克服して了わねば駄目だという意味なのである。これは、意志とか愛とかいうものの、一種苛烈な使用法の問題だとも言えるので、リルケはいかにもリルケらしい言い方で、それを言っている。『私はこれを愛する』と言っている様な絵を画家は皆描きたがるが、セザンヌの絵は『此処にこれが在る』と言っているだけだ、と言う」(同前)
上野の東京都美術館では、本作でも紹介されている「カード遊びをする人々」(カルタをする二人の男)と、じっくりと向き合う時間を持つことができた。(*7)
不思議な画である。背広、机、そして奥の壁など、一つひとつの物は、必ずしも明度の高い色ではない。にも拘わらず、光が溢れている。遠くから離れて見ても、その輝きは変わるところがない。「光は絵の内部からやって来る様だ。……凡ては色の関係から来る。全体の調和が、画面を万遍なく巡回する光を生む」(同)。これもまた「内分泌作用」の一つなのであろう。
改めて画面と向き合ってみる。カード遊びに興じる二人の会話が聞こえてくる…… さらに時間をかけて向き合う。会話は途絶え、無言のゲームが続く。私は沈静感に浸り、画面に吸い込まれる。自らの感覚も無くし、ただ静寂のみが、そこに在る……
このような感覚を、小林先生は、こう表現している。
「彼等は画中の人物となって、はじめてめいめいの本性に立ち返った様な様子であるが、二人はその事を知らず、二人の顔も姿態も、言葉になる様なものを何一つ現してはいない。ただ沈黙があり、対象を知らぬ信仰の様なものがあり、どんな宗教にも属さぬ宗教画の感がある」(同)
展示室のこの画の前には、大きな人だかりができていた。観客一人ひとりが、近くのパネルにある詳細な解説文の内容も忘れてしまったかのように、無心に視入っていた、いやむしろ、画面に視入られていた、とさえ私には見えた。観客たちは、セザンヌが、「感覚の実現」すなわち、言葉が阻んでいる、自然との「直かな親近性の回復」、「直かな取引」を行うさまに見入っていたように感じたのである。それは、セザンヌの心眼に映じていたものに見入ること、セザンヌ本人と一体化することであるとも言えよう。
リルケもまた、同様にセザンヌの作品と向き合った。その時リルケは、何を思っていたのか? 鋭敏な彼は、小林先生のように「実に不思議なことだ」と考え込まなかったであろうか?
ちなみに、同じ部屋の片隅では、セザンヌが、画家のベルナールに宛てた手紙の肉筆にも触れることができた。野外での製作中、雷雨に打たれたことが原因でその生涯を閉じることになる約二年前、当時65歳のセザンヌは、このように認めていた。
「画家は自然の研究のために全身全霊をささげ、教えとなるような絵を制作するよう努めなければなりません。芸術についてのお談義はほとんど無用です。仕事をすることで固有の技能が進歩します。それだけで、世の馬鹿者どもに理解されないことの十分な埋め合わせになります」(*8)
あたかも一つの絵画作品のような、しっかりとした筆記体の姿が美しかった。ベルナールに導かれて書いた、という面もあったのかもしれないが、その手跡から、人間と自然との間には、私心も言葉も介在無用だという、彼の強い信念を汲み取ることができた。
その後リルケは、「むろんぼくには大変な魅力のある試み、セザンヌについて書くという試みには慎重であらねばならないのだ」(*9)と手紙に書いていた通り、ロダン論に続けてセザンヌ論を著すことを断念するに至る。それに続く言葉にも注目したい。
「私的な観点から絵を理解する人間は、絵について書く資格はないのだ。事実以上のことや、事実以外のことをその絵で体験したりすることもなく、こころ静かにその絵があるがままにあるその存在を確認することを知っているならば、その絵にたいし、もっと正当な立場にあることは確かなことだろう」
詩人リルケは、セザンヌ論について「正当な立場」を堅持し、沈黙を守った。
1910年には、セザンヌの作品に出会う前の1904年、ローマの仮寓で最初の一行を書き始めてから少しずつ執筆を進めてきた「マルテ・ラウリツ・ブリゲの手記」(通称「マルテの手記」)が出版された。見ること、生きること、愛すること、及びそれらに胚胎している死というものについて、身を以て綴った書である。彼は、ひそかにこんな手紙を残していた。
「ブリゲの死、それこそセザンヌの生、晩年三十年の生に当る」(*10)
この書は、一世紀以上を経た今でも多くの読者を得て、世界中で読み継がれている……
(*1) リルケ「マルテの手記」高安国世訳、講談社文庫、「腐肉」については、(*6)を参照。
(*2) 「リルケ美術書簡」、塚越敏編訳、みすず書房
パウラ・モーダーゾーン-ベッカー宛、1907年6月28日付
(*3) ベルギーの建築家ジュールダン、ルドン、カリエール、ボナール、ドニ、ルオー、マチスらによって、国民美術協会による「サロン・ナシオナル」の保守性に対抗し、1903年に結成された「秋の展覧会」
(*4) オランジュリー美術館コレクション「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」
(*5) アンジェロス「リルケ」富士川英郎・菅野昭正訳、新潮社
(*6) ボードレールの詩集「悪の華」に収録された詩。真夏に恋人と見かけた、道端で腐敗しつつある動物の死体を歌う。「セザンヌは、この詩を好み、晩年に至っても、一語も間違いなく暗誦していた」。(本作)
(*7) コートールド美術館展。本作で紹介されているものは、ほぼ同じ構図のオルセー美術館蔵のもの。ちなみに同展は、愛知県美術館(2020年1月3日~3月15日)、神戸市立博物館(同3月28日~6月21日)でも開催予定。
(*8) 1904年5月26日付、「エミール・ベルナールに宛てたセザンヌの手紙」永井隆則訳、『コートールド美術館展 魅惑の印象派』図録、朝日新聞社・NHK・NHKプロモーション
(*9) 同前、当時の妻クララ宛、1907年10月18日付
(*10) クララ宛、1908年9月8日付
【参考文献】
リルケ「マルテの手記」大山定一訳、新潮文庫
高安国世「わがリルケ」新潮社
(了)
文学を学ぶということは、死者たち、それも空虚ならざる死者たちとともに、時間や空間に入り込むことです……。私が師と仰ぐ人の言葉である。もの悲しい色に染まったパリを眺めつつこの教えを反芻すると、そのたびに、ああ、これは死者と死者が生きているかのように付き合った小林秀雄のことではないか、と思い至る。何語であろうと、文学の本質は想像力なのだ。そう思うと、東と西を隔てる海や大陸が随分ちっぽけに感じられる。図書館は死者らで満ちあふれた魔の洞窟である、という妙句があるが、文学を愛する者というのは、その魔の洞窟から死者たちを解放し、彼らとともにこの世界の「無限」を遊歩する人のことであるかもしれない。
「無限」の代名詞たるパリは奇妙な街で、滞在者に生の鋭い感覚を絶えず要求するという気難しい一面を持ちながら、常に緩慢な死の気配を充満させている。しかしその死に不気味さはなく、むしろ活発な都会の情景に見事なほど馴染んでいる。とりわけセーヌ川は興味深い。年中汚らしく混濁していて、暗くなればネズミが飛び出し、例えばロワール川のような、天国を思わせる色彩の美しい調和はまるでなく、ただ地上の死のにおいが漂っている。欄干がこんなに低くて、衝動的に身を投げる人がいるのではないかと心配になる。しかしそんなセーヌで私たちは写真を撮り、古本の陳列を眺め、ジョギングをし、クルーズを楽しみ、愛を語らうのである。セーヌの岸辺には、必ず人間の生活がある。
この街には、生き生きと死に出会うための条件が揃っているようだ。私の日常も例外ではない。たとえば、ウィーン風の喫茶店を横目に狭い医学部通りをすり抜けてオートフイユ通りに差し掛かるとボードレールの産声が、ギリシャ料理屋からの帰りに陽気な足取りでデカルト通りに入るとヴェルレーヌの絶命の声が、いつも聞こえてくるような気がする。死者との微笑ましい邂逅を、パリは可能性として秘めているらしい。とは言っても、「死者とともに時間や空間に入り込む」と実感できるほどの文学経験は、どんな土地にいようとそう簡単には得られないものである。あるいは、死そのものを経験することなしにはあり得ない、と言ってもいいかもしれない。
十月の最後の週はペールラシェーズ墓地へ行くと決めていた。それがトゥッサンの休暇と一致しているのは偶然で、あるヴァイオリニストの七十回目の命日に合わせて墓参りをしたいという、それだけのことだった。パリの墓地は観光スポットでもあるし、私にとっては日常の延長だった。何事もなく済むはずの用事であったが、秋という儚い季節のいたずらか、当日の朝私はある奇怪なイマージュに引き摺り込まれ、些か墓参りを躊躇うこととなった。
その日は小さな動揺とともに始まった。早朝に見た悪夢の後味が残る、鉛のような体を引きずって台所へ行くと、窓の外が不安を掻き立てる白っぽい灰色で覆われていた。降った雪にしては光が足りないし、降る雪にしては動きが足りない。
それは濃霧だった。見慣れた景色が、仄白い水の埃に溶け込み、ほとんど消失していた。道路も建物もなかった。アパルトマンのすぐ隣にある背の高い木々だけが、うっすらと輪郭を保っていた。まだ半分ほど濃緑の葉が生きており、枝に点々と残る枯れ葉は、水滴に支えられるかのように宙にとどまっていた。目を凝らすと、舗装された中途半端な色の地面に落ち葉が広がっているのが分かった。こんなに濃い霧を見るのはいつぶりだろう。暖かい部屋が霧に侵食される恐れはないのに、私は深い緑を見詰めながら無意識に息をひそめていた。
今年の初秋霧は、不意打ちで私を捕らえた実に幻想的な画面だった。しかしその非日常的な魅力に反して、霧のタブローは私を憂鬱な気分にさせた。あの美しく悲しいギリシャ映画のせいだろうか。そうかもしれない。しかし同時に、胸の奥底で別の何かがじんと疼くのを私は感じていた。どんなに痛ましい映画であろうと、映画の記憶は痛みにはならないはずだ。ヴェルコールは長引く沈黙を立ち籠める霧に譬えたが、その時私の胸の痛みは、霧の中で沈黙していた。
窓から目を逸らすと、朝食用の古代小麦パンがとぼけた色でこちらを眺めていた。そうだ今日はペールラシェーズへ行くのだ、と当初の予定を思い出すと、じんわり空腹を感じた。すると突然、数年前の強烈な記憶が色彩とともによみがえってきた。胸の疼きの正体は、奇妙な色合いに塗りたくられたその記憶であるらしかった。外の霧が人の骨の色をしていることを、私はその時確信した。窓枠のステンレスは、大きな骨壺の色で、霧に抗う孤独な緑は、流れる灰を受け止めた草の色だった。アパルトマンの窓から見た霧の風景は、たしかに死の色に染まっていた。あの遺灰が沈黙を連れて街に広がったかのようであった。そこにとどまり続ける死の痕跡は、私を戦慄させた。
数年前の夏の終わり、ソローニュという沼沢の多い森林地帯で知人の散骨をした。彼の遺言は、「大好きな森に、見晴らし台から遺灰を全部撒いてくれ」というものであったが、それを叶えることはできなかった。手のひらに乗る量ならまだしも、人間一人分の灰が風に乗って遠くまで舞うということはない。もし見晴らし台から散骨すれば、草木ではなく人間が切り拓いた散策道にまとまって落ち、人の足に踏まれることが明らかであった。遺族は、森の中で最も美しいと思われる一角に遺灰を「置く」ことを提案した。森に還りたいという故人の願いを尊重するならば、その方が賢明であった。
故人の長女が、大きすぎる銀色の骨壺を一息にひっくり返した。鮮やかな緑のグラデーションに、白っぽい灰色が乱暴に差し込んだ。それは完成間近の風景画のタブローに、画家が自虐的に石灰でも投げつけたかのようであった。遺灰には粉らしい軽やかさは全くなく、真っ直ぐ、重たく、草木の根元へ落ちた。あれが人間の重さか。死んでも、灰になっても、人間は重いのか。陰鬱な秋に移行する直前の、晩夏の最後の明るさと潤いを、重苦しく乾燥した灰が、数秒の間支配した。
不謹慎だと思ったが、その時私はランボーの『酩酊船』を思い出していた。なぜ夜は緑なのだろう、なぜ雪は眩しがるのだろう、と心の中で呟いた。それは信仰する宗教を持たない私の、身勝手な祈りの文句であったのかもしれない。瑞々しい濃緑の森は生死の間隙から漏れ出た緑の夜で、一切の光を拒む遺灰はこの世界の煌めきに眩惑している……そう信じてもよかったのだが、生を持て余す私の目には、やはり無言の灰が虚しく映るだけであった。「祈り」は虚空に浮いた。
何をどう歪めようと、人間の灰は乾いた剥き出しの固体であり、苦しい現実だった。もし夢の中であれば、画面ごと溶けていったであろうに。どんなに悲しくても、水の中を深く沈んでゆけたのに。私は二本足で立って、この目で乾燥と虚無の色を見詰めるしかなかった。そこに詩情の生まれる余地は、その時はなかった。私は促されるままに、パンジーの花を灰の上に投げた。
ペールラシェーズ墓地は墓地だから、当然、遺骨は墓の下にあって隠蔽されている。そこに幼稚な安堵を覚えて、霧から視界を取り戻した昼過ぎに私は家を出た。何度も乗り換えをする必要があり、最終的には、普段利用することのない濃いブルーのメトロ2番線に乗った。私の家からこれほど行きづらい場所も他になかった。
ペールラシェーズ墓地は、「無限」のパリにある小さな無限空間だった。まず、広大である上に複雑な構成であるため、訪れた人は全体を把握することができない。区画はあるのだが、それを控えたところで簡単には目的の墓へたどり着けないので、あってないに等しい。加えて、この小さな無限空間には無数の死者が埋められており、つまり、目には見えない深さがある。私は野暮な足取りで死者の天井を歩いていたが、この縦横の広がりをそら恐ろしく感じた。霧こそ姿を消したものの、灰色の空が相変わらず頭上にのっぺりと広がっており、晴れたとは言い難かった。
目当てのヴァイオリニストの墓は、区画11のメユール小径の半ばにあるらしかった。想像より大分道幅が狭く、本当にここでいいのだろうかという不安を覚えつつ息を切らして坂道を上ると、突然ひと際美しい墓が目に入った。これだ、という確信めいたものがあったので、手元の地図は見なかった。もう秋であるのに、その一角だけはなぜか初夏の爽やかさがあった。ひょっとすると、ここは一年中爽やかなのかもしれない。その早すぎた死を悼む誰かが、常に新鮮な空気を送ってやっているのかもしれない。
私は、以前からただこのヴァイオリニストの音楽が好きであった。何かを痛切に感じるような時、私の心は、彼女の音楽とともに歓びそして悲しむことを望んだ。それは、七十年前に夭逝した音楽家とともに私が今を生きていることの証かもしれなかった。遠い過去の演奏であるのに、聴くたびに生きた何かと出会う。そして、これは間違いなくこの人の音だ、と思う。その確信が幾度も私を救った。すべてが息をひそめ、すべてが姿を眩ませる濃い霧のただ中で立ちすくむような時、唯一聞こえてくる音に気高い生き様を見定めると、私は霧に包まれる恐怖から救われ、再び人間の精神を信じることができた。この冷めた陶酔が、魂ある人間として生きることを肯定してくれた。
圧倒的な演奏を聴く時、人はごく自然に遥かな時間の厚みに入り込み、そこで雁字搦めの「生」から解放され、逆説的に「生」の実感を得る。端的に言えばそれは、自分は生きている、と思い知ることだ。人生について絶えず自問自答する人間の精神は、そのような飛翔の機会を暗がりで待っている。苦悶の雨に濡れた魂が、心地よい旋律と甘やかな音色に暖を取るような時、問うことを倦まぬ精神はきっと、その慰めの彼方に待つ雨夜の月を探しに行くだろう。
音楽を聴くというのは、つまり、生きることの尊さを確かめるために精神を解き放つことではないだろうか。放っておいては否定されるその尊さを、人は生き続けるために確かめなければならない。音楽は束の間の休息でもあるが、その実、切迫した何かに立ち会うための、果てしない時の旅でもある。清々しい墓の前に立っていると、辺りの澄み切った空気が旅人の出立を待っているかのように思われた。
十月が終わろうとしていたあの日、広大な墓地の目立たぬところにひっそりと存在する美しい場所で、私は「生」の限界を強く意識しながら、しかし時間の支配から自由だった。死者とともに生きる歓びを感じていた。時間の芸術たる音楽は、立ち籠める霧を恐れることはなかった。
子どもの頃はなぜだか、向かい風の中を進むことに深刻な苦痛を感じていた。実際には軽い逆風への抵抗が生を突き動かしていたが、それを認めるには幼過ぎた。大人と呼ばれる年齢になってすぐ思い知ったのは、私にとって本物と思われる苦痛はいつも霧の中にあるということだった。重さも運動もないために、抗うことさえ叶わぬ、どうしようもない悲しみというのがこの世にはあった。それは、ヘッセが詩に書いた孤独とも少し違う。意味もなければ実体もない、死の気配だけが漂うただの悲しみだった。この類の悲しみに囚われて日常を生きるのは、たしかに苦痛だった。人はこれを憂鬱と呼ぶのかもしれない。
文学には、霧に沈んだ精神を優しく掬い上げる力がある。漠とした悲しみは圧倒的な現実であり、実際に日常生活へ倦怠と停滞をもたらすものであるが、それを実用の言葉によって捉えるのは難しい。だから生命の滲み込んだ文学の言葉が要請される。最後に救済が用意されているかどうかは、大した問題ではないだろう。人の心の繊細な震えが、生きた言葉を静かにただ待っているのだ。音楽のように鮮やかな飛翔を実現することはできないが、いやだからこそ文学は、心の震えに寄り添いつつ精神の自由を夢みるのである。
掬い上げた精神に翼を与えることは、文学には出来ないのだろうか。言葉は思いの外、立ち籠める霧に対して無力である。霧を晴らして現実を暴こうとすれば、本質が蒸発してしまう。無限の霧に支配されることを許せば、沈黙と停止を余儀なくされる。
しかしそんな時、仄白い世界の不自由を逆手にとって想像を巡らせることができるとしたら……。精神は無限の世界を駆け巡り、プリズムのような詩の言葉を生むだろう。重く鈍い憂鬱の塊は、躍動する文学へと昇華するだろう。死を不動から解放するのは、人間の想像力であるに違いない。きっとしなやかな想像のその先に、死者とともに生きるという一つ次元の高い経験があるはずだ。「本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね」、と小林秀雄は言う。空想は空虚でありうるが、想像には必ず充実した生命が脈打っている。
霧の中にはいつも憂鬱があった。緩慢な死の気配が憂鬱に養分を与え、刻一刻と霧を濃くし、そこに留まることが宿命であるかのように思われた。しかし音楽は軽やかに勝利し、文学は想像力によって和解した。本当の楽観は、こうやって訪れるのかもしれない。
無力であることを知った人間は、もはや無力ではない。霧を貫く生命の音に魂を震わせ、血を巡らせるように精神を世界に行き渡らせ、生み落とされた詩句を静かに彫琢するならば、荒涼の地に生きる人間は、霧の白さに抗う深い緑を、あるいは虚無を受け止める瑞々しい緑を、孤独に育ててゆけるはずだ。いつかささやかな緑が育てば、目に映る景色は昏い現実の断片などではなく、生と死の抱擁を描く広大なタブローとなるだろう。そして緑を守った人間は詩人となり、死者とともに遊歩する自由を、真の意味で獲得するだろう。
いつかまた、憂鬱の塵埃が視界を覆いつくすのだろうか。構わない。儚くとも靱い一葉の生命を心に守り抜く覚悟さえあれば、それは、死者とともに無限へ旅立つ契機となるのだから。
トゥッサン(Toussaint)……カトリック教会の祝日の一つ。11月1日が諸聖人の日(トゥッサン)で、翌日11月2日が死者の日とされる。
(了)
「本居宣長補記Ⅰ」の最後に、「虚数」という言葉がある。この言葉がどれほど私を驚かせたか、おそらくそこまで到達する事は出来まいが、先ずは、私を驚かせたその情景を、眺めさせてもらいたい。
――時間単位を光速度という虚数で現さねばならない、そういう思想史の成行きの裡で、「来経数」と呼ばれていた古人の時間の直かな体得につき、宣長がその考えを尽したところは、どういう照明を受けるであろうか。それを考えてみることは空想ではない。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.300)
ここを読んで、私は、小林秀雄と言う人がどこまで物理や数学の感覚を持っていたのか、非常に知りたくなった。というのも、この文章は、物理学の知見を持っていない人間に書けるものではないし、物理学の知見を持っているだけの人間に書けるものでもないからだ。専門知識云々ではなく、物理というものを身につけた人の文章であると見えたからだ。
なるほど、ここで使われている用語は、必ずしも物理学における正確な使い方ではないとも言える。だがそれは、小林秀雄は物理学の専門家でない事以上の、何を言っているだろうか。季節の和歌を詠む人々が暦法を目指して詠んだわけではないように、そうでありながら、誰よりも「こよみ」というものを、「時を知る」というコトを知っていたように。
小林秀雄は、物理学を利用して宣長の考えを正当化したのではない。ただ、物理学の行きついた、「『時を知る』という言葉の意味」(同第28集、p.300)、万物に共通・共有なる「時間」という観念の危機と刷新につき、「科学」というものに依存している現代の思想や社会に染められた私達にとって、「真暦」や「来経数」というものについて本居宣長という人が考えを尽くしたところは、決して他人事ではない、そう言っているのだ。
無論、宣長が異をとなえた当時の暦法よりは、現代技術に裏打ちされた今の暦の方が天体に対し正確であるし、そも、桜の開花時期など季節の移り変わりの出来事を日時のみに依存するのではなく、気象観測に頼むところが大きいという点においては、当時の暦法より「真暦」に近いと、言って言えなくはないだろう。もっともそれは、あくまで技術的な水準の話であって、宣長の難じた暦法の考え方は変わらず存在し、そこからすれば、当時の暦法も現代の暦も、大差はないと言っていい。すなわち、世の移ろいの見極めを気象学者や公共機関に任せきりにするのではなく、一人一人が自ずから行っていたという事、この一人一人の「わざ」が「こよみ」というものの根っこにある事こそが本居宣長という人の得た確信なのであって、この確信こそが、小林秀雄を驚かせたのだ。
実際、電子機器が生活の至るところで働く現代において、本居宣長の抱いたこの確信が決して無縁でない事は、良くわかるだろう。数多の機械を制御する時計群は、折に触れ互いに同期している事を確認し、同期し続ける事を求められる。そして、この機械に支えられている私達の生活もまた、その便利さを許容する瞬間、この時計に同期する事を求められる。しかし、この時計群の指し示す時間は、決して、私達の命や心そのものではないだろう。でなければ、私達が目覚まし時計のベルに苛立つ理由など、どこにもないはずだ。
とはいえ、この便利な生活を全て捨て去れなどという気はない。宣長も、生活を蔑ろにして良いなどと、言うような人ではない。彼は誰よりも確かな生活人であり、生活を捨て去ったところに彼の学問など、あるはずがない。
だが、そんな生活人たる本居宣長は、しかし決して、生活の秩序に屈服せよとは言わなかっただろう。或いは、人の心が生活に服従する事など出来る筈がない、とすら言ったかもしれない。ただ生きる事に満足出来るならば、人には言葉などなかっただろう。
少し話を進めすぎたかもしれない。今一度、「真暦」というものにつき、宣長が抱いた確信に立ち戻ろう。
「時を知る」、時を測るというのは、一人一人がめいめいに行う「わざ」であり、一個人の中でさえ、木花の振る舞い、空気のにおい、月の満ち欠けやお日様の明け暮れに至るまで、全ての「わざ」は、同種ではありえても、同一ではありえない。であると同時に、この種の「わざ」は、時代を問わず全ての人が、少なからず身に付けているものだ。でなければ、秩序ある「生活」というものを持つ事など出来まい。暮れゆく夕日から「時を知る」事が、どれほどしっかりとした「わざ」であるか、私達も日々感じているところだろう。まして、この「わざ」が切実であった古の人々の感ずるところは、どれほどのものか。
――時を測るという、生活を秩序づける根柢的な行為を語っている古言には事を欠かぬ。これを慎重に忠実に辿りさえすれば、今日の人々もおのずから、この古人の「わざ」の直中に導かれる。その内容を成す暦の観念の発生が、明らかに想い描かれた時、「うけひかぬ人かならず有べけれど、かならずかくあらではえあらぬわざぞかし」という強い発言となったのである。(同第28集、p.294)
人が一つの人である以上、また、生活が複数人の集まりで行われる以上、その生活を秩序づける中で各々の「わざ」を束ねる観念が形成される事も、当然の成り行きであろう。しかし、この観念が、人々の全ての「わざ」を受け止められる保障も必要も、実のところありはしない。なるほどこの観念は必要があって生み出されたものだが、逆に言えば、用さえ成せば、それで事足りるものだ。これを更に逆様に言うなら、用を成さないような観念は、それがどれほど強固な理論を備えていたとしても、ここでは無用の長物に過ぎない。
重要なのは、そこにある観念が人々の「わざ」と確かに響きあっている事であり、それは人々の「わざ」から切り離された観念でもなければ、一個人の「わざ」だけに左右されてしまう観念でもないという事だ。この観念の上に人々の「わざ」があるのではなく、この観念が根をはっているところに人々の「わざ」があるという事だ。
この、人々の「わざ」とそこにある観念との、微妙な関係を摑んで放さない事こそ、本居宣長という人の手つきであり、これを分断して分かりやすく整理する用など、彼の頭にあるはずもない。というより、本当に丹念に整理を進めたならば、自ずから元の微妙な関係に立ち返る他ない、そういうところに、彼の徹底した分析力は向かっていくのだ。
――暦法の合理化の限りを尽くそうとする、「こちたき」分析力が、分裂を知らぬ「大らかな」生き方に収斂する、そういう形で、彼の説くところが終るのを、読者ははっきりと見るだろう。(同第28集、p.295)
*
冒頭の文章には未だ至っていないが、どうか、ここまでにさせてもらいたい。これ以上続けても、私は、同じ事を繰り返す事しか出来ない。そして、冒頭の、「虚数」という言葉に私が抱いた驚きも、ここに書き留めた話と、同心円を描いているのだ。
とは言え、このままでは、物理や数学の知見をお持ちでない方も、物理や数学の知見をお持ちの方も、ピンと来るものが無いかも知れない。なので最後に、この話の詞書として、物理学の側からも、解説めいた余談を置かせてもらおうと思う。
本文で話の書き出しとした「時を知る」、時を測るという事についてだが、これは言うまでもなく、物理学の最も基礎にあるものだ。
本誌2018年1月号に有馬雄祐氏が書いたように、殆どの、いや、時間という変数を含む全ての物理的数式は、それ自体では時間の進む早さに頓着しない、どころか、その向きにすら頓着しない(それゆえ数式を破綻させる特異点と出会わない限り過去へと遡れる)のだが、しかし、時間という変数そのものを抜き去ってしまえば、物理学は空中分解するしかない。
また、時を測るという事は、繰り返す何かを世の中に見出すという事だが、本当の事を言えば、世の中に繰り返される事など、何一つとしてない。しかし、繰り返すものなどない世の中に、繰り返すと見えるものを見出すところから出発し、繰り返すと看做したものの法則を確かめ合う、それが物理学というものだ。こう言えば、物理学は傲慢なものと見えるだろう。しかし、そもそも生活とは、生活の秩序とは、そういうものだろう。だからこそ、科学は生活を便利にするのだ。
かように、「時を知る」という事は物理学の根底に関わる問題であり、特殊相対性理論によって「『時を知る』という言葉の意味が、根柢から問い直された事」が、どれほど重大事件であったか、多少は分かっていただけただろうか。
特殊相対性理論は、光速度を受け入れるために純粋時間・純粋空間を否定する代わり、複数の時空間の捉え方、即ち観測点の間に変換式を設ける事で、物理学の空中分解を防いだ。つまり、全ての観測点が従うべき純粋な時間や空間など必要なく、逆に、変換式さえ通せば、任意の観測点が基準となるという事だ。これを更に進めて言えば、物理学とは、変換式で繋がり得る観測点のみを扱うという事でもある。これが、物理学の要請する客観性だ。取り上げられた観測点を離れた時空間の想定は、客観的にそうあるべき世界ではなく、計算を簡略化するための便宜的観念に過ぎない。
――或る観測点が、他のどんな可能な観測点にも、変換式により正確に連結されるものである以上、或る部分的な観測点は、そのままで絶対的な観測点でもあるという意味だ。「天地のありかた」は、何処から何処まで一様で、純粋な計量関係に解体され、物理学が要請する客観性と同義の言葉となる。(同第28集、p.300)
そして、この変換式の中で、時間という、直接物差しを当てる事の出来ない観測対象が、空間、即ち人工的加工によって作られた物差しで計量しうる領域、或いは物差しそのものの延長線上と呼んでもいい世界に対し、虚数として、文字通り軸の違う、しかし、物差しを利用する=数を利用する限り暗黙の内に発明されている有り方として表現される。これが、どれほど驚くべき事か。もう一度、冒頭に置いた、この文章に続く、小林秀雄の文章を眺めてもらいたい。
この驚きを本当に知ってもらうには、「虚数」というものについても話さなければならないだろうが、しかし、ここまででも、充分、驚きうる事は分かってもらえると思う。
無論、小林秀雄という人がこれを意図して「虚数」という言葉を置いた、と言えば、深読みが、というより、牽強付会が過ぎるだろう。ただ、小林秀雄という詩魂が垣間見せたこの言葉に、日本語と数学に育てられた私の詩魂は、感かずにはいられなかった。
だから、始めに言った通り、この余談は、あくまでも私の驚きを知ってもらうための詞書のようなものであり、今回の話は、「本居宣長補記Ⅰ」の文章の解説ではなく、小林秀雄の文章に現れた情景を目の当たりにした私が、詠まずにはいられなかったウタなのだ。
(了)
過去の出来事の逃れ難い想起や、それに伴う感情の嵐から自分を立て直そうともがいていた私は、『本居宣長』のメインテーマのひとつである言語を主題とした文章に、まさに蒙を啓かれる思いだった。
堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。詞は、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入って行く。
詠歌の行為の裡にいなければ、「排蘆小船」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、或は「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。
(第三十六章 『小林秀雄全作品』第28集 p.58 13行目〜)
私も言葉を使って考えてはいたが、自力で心を立て直すことは叶わなかった。本来言葉は、私が使っている体のものではなかったのだ。
「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。「古事記伝」の初めにある、「抑意と事と言とは、みな相称へる物にして」云々の文は、其処まで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。
(第三十四章 同p.44 12行目~)
古人達が使っていたのは物と一体の言葉であり、私が使っていたような、物を離れていかようにも変転可能な抽象的な言葉ではなかった。以前『好*信*楽』2018年3月号に寄稿した「『徴』という語をめぐって」の中でも書いたことだが、ここで言われている「徴」は、「直接知覚できない物事の徴候、あらわれ」という通常の意味合いではなく、物事を認識しようと努力する行為の結果生み出される「物」を意味している。「意と事と言と」が「相称」ってはじめて、徴としての力を持つ「物」となる。そのとき、言葉の形と意味とは分割されておらず、ひとつの表現行為があるだけだ。和歌における枕詞や、身近なところでは挨拶のように、言葉は人々の間を流通するうちに形を整える役割だけだったり、意味を伝える役割だけが現存したりするが、元来すべての言葉は徴としての力を持っており、古人達はこの、物と言葉が一体の世界に生きていた。彼等は、神という物だけを見ていたのではなく、またそこに自分の心を投影していただけでもない。動揺の源である神々と、古人達自身が神々に対して抱いた親しみや畏れの感情が、言葉の力によって秩序づけられ、それぞれの「性質情状」が表れた「物」として見えていた。神々と同様、自分自身の心も、確かに感じるものの目には見えない。その姿を捉えるには、第三十六章で言われているように「言葉によって、限定され、具体化され、客観化され」ることが必要なのだ。
今の我々の目には見えない神の姿が、古人達の目には見えていたと宣長は言う。先に引いた第三十四章で描かれる宣長の言語観は、荻生徂徠の言語観から引き継がれたものであり、第三十二章で小林秀雄は次のように言う。
言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。そういう言語観に基いて、徂徠が、興観の功という言葉を使用しているのは、明らかであり、そういう働きとしての言語を、理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい。そういう事にかけては、言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事に、自足している、歌うたう者、或は、これに耳を傾ける者に、如くものはなかろう。
(同p.13 14行目〜)
古人達は、上記の意味でみな「歌うたう者」であった。歌が「妄念ヲヤムル」ように、神々に出会って動揺する心を鎮めようと努力し、歌を詠むように神々に名を付けた。「天」「照らす」「大」いなる「神」と既存の言葉を連ねて生まれた「天照大御神」という名が、唯一無二の太陽神を意味する新たな「物」となったように。生み出された名が持つ「物の姿を、心に映し出す力」が、古人達の目に神の姿を見せていたのだ。
上記で言及されている「興観の功」のうちの「興」、つまり新しい意味を生み出して行く働きにより必然的に、「天下ノ事」が「皆ナ我レニ萃」り、万物の認識が進んでいくと、どういう事になるか。
正常な意味合で、言語生活というものは、何ヶ国語に通じていようが、語学の才などとはまるで違った営みである。自国の言語伝統という厖大な、而も曖昧極まる力を、そっくりそのまま身に引受けながら、これを重荷と感ずるどころか、これに殆ど気附いていない、それほど国語という共有の財が深く信頼されている、そういうことである。徂徠が「天下」という名で呼んだのは、この世界だ。人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事である。この共通の基盤に、保証されているという安心がなくて、自分流に物を言って、新しい意味を打出す自由など、誰にも持てる筈はない。
(同p.14 10行目〜)
古人達の努力から生まれた言葉の記憶が、蓄積され、組織されてできる意味の世界、つまり「自国語の言語伝統」が、今度は古人達の言語生活の基盤となって彼等を養う、それが彼等の住んでいる言霊の世界である。冒頭の第三十六章からの引用文中で言われている「心の動揺がわが所有に変ずる」とは、その神と再び出会った時に思い出すことができ、未来の自分を含めた他人と共有し蓄積することができる「物」、つまり言葉の記憶になることだ。「興の功」とともに「観の功」である「物の姿を、心に映し出す力」、つまり物の「性質情状」を心中に喚起する「徴」としての言葉の力が、言霊の世界を作り上げている。
「徴」という語は、『本居宣長補記Ⅱ』(同第28集所収)の締めくくりに現れる時も「性質情状」という語とともにある。
彼(本居宣長)の熟考された表現によれば、水火には水火の「性質情状」があるのだ。彼方に燃えている赤い火だとか、この川の冷い水とか言う時に、私達は、実在する「性質情状」に直かに触れる「徴」としての生きた言葉を使っている(「有る物の徴」という言葉の使い方は「くず花」にある)。歌人は実在する世界に根を生やした「徴」としての言葉しか使いはしない。
(同p.389 7行目〜)
『本居宣長』が刊行された後に行われた江藤淳との対談の中で小林秀雄は、宣長の言う「性質情状」が、ベルグソンの言う「イマージュ」の正訳だと言い切っている。
あの人の「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事で、一番読まれていない本だと言っていいが、その序文の中で、こういう事が言われている。自分の説くところは、徹底した二元論である。実在論も観念論も学問としては行き過ぎだ、と自分は思う。その点では、自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、実在論にも観念論にも偏しない、中間の道を歩いている。常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。(中略)
ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。
「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に性質情状です。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。
(同p.228 14行目〜)
『物質と記憶』第七版の序文にあるベルグソン自身の言葉は、次の一節にある。
本書の第一章が示そうとするのは、観念論も実在論も同じくいきすぎた主張であるということ、すなわち物質というものを、それについてわれわれがもっている表象に還元してしまう〔=観念論〕のは誤りだが、しかし物質とは、われわれの中に表象を生み出しつつも当の表象とはまったく本性の異なるものだとする〔=実在論〕のも同様に間違っている、ということである。
(アンリ・ベルクソン『物質と記憶』杉山直樹 訳 講談社学術文庫 p.9 10行目〜)
先に挙げた第三十四章(同p.45)にある、「直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、『徴』としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない」という言葉の裏には、このベルグソンから受け継いだ考えがあるのではないだろうか。古人達の心の徴である『古事記』を通して、宣長も「観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物」を見ていたと言えるのではないだろうか。言葉の世界で物を見る、宣長の言う「言辞の道」が、「実在論にも観念論にも偏しない、中間の道」であり、「主観的でもなければ、客観的でもない」、人間本来の「純粋直接な知覚経験」を、私達の元に甦らせてくれるものではないだろうか。
(了)
「歴史を知ることは、己れを知ることだ……」
「本居宣長」の第30章に出てくる小林秀雄氏のこの言葉の真意を、一昨年十一月の山の上の家の塾の自問自答で何とか摑み取ったという感覚を脳裏に残したまま、もう一度第1章から読み進めていた時、第6章で本居宣長の以下の言葉にぶつかった。
「すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也」(「うひ山ぶみ」)
そしてこの小林秀雄氏と本居宣長の二つの言葉は、それぞれ歴史と古歌に言及したものではあるが、両者には通底するところがあるのではないだろうか、というのが昨年十月の私の、山の上の家の塾における自問自答の要旨であった。これに対し、池田雅延塾頭がまずおっしゃったのは、「通底」というのは便利な言葉だが落とし穴がある、むしろ、その違いをまずはっきりと認識する必要がある、ということだった。
確かに、歴史上の人物を味う事と、古歌を味う事は根本的に違っている。前者で味うべきは、ありとあらゆる人間経験の多様性であるのに対し、後者では、歌の世界に限定して得られる意味合である。また、「本居宣長」の本文をよく読むと、歴史を知ることは結果的に己れを知ることに繋がるという趣旨に対して、「うひ山ぶみ」からの引用文は、古歌の深き意味を知ろうとするなら歌をみづからよむべきだ、と説いている。つまり、後者では、みづから歌を詠むということをしないでは古歌の意味合を精しく知ることはできないと言っていて、自分と対象との間の方向性が、歴史上の人物を味うときとは逆になっている。だがこれは、どちらも一方向性的なものではなく、自分と対象との検証をさらに深めていけば、いずれも双方向性となることは自明であろう。
以上のようなことを踏まえたうえで、池田塾頭はさらにおっしゃった。上記のような違いはあるが、歴史を思い出すということと、古歌を思い出すということ、この、「思い出す」という行為においては、共通のものがある、と。そして、例えば、「万葉」の歌を「思い出す」には、万葉の言葉が自在に使いこなせるくらいにならないとその「ふり」が見えてこないと釘を刺された。
「思い出す」ということ。小林秀雄氏の最重要キーワードのひとつであるこの言葉の重みを考えるなら、「思い出す」という行為を、頭の中で想像して蘇らすというだけでは軽過ぎるだろう。それは単に想像するだけでなく、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感を駆使し、全身全霊をもってして味う、ということでなければならない。また、過去をこちらに呼び寄せるのではなく、こちらが過去の方に遡って行って味うべきものに違いない。そういう意味において、この「本居宣長」は、小林秀雄氏が、自ら編み出した意味での「思い出す」という行為を、三十数年にも渡って実践した、途方もない精神力の軌跡と言えるだろう。
そんなことを考えながら、自分が本居宣長という人物をうまく「思い出す」には何をどう実践していけばよいかに想いを巡らした。
まずはその著作を徹底して読むことだろう。そう思って、手始めに今回の自問自答の発端となった「うひ山ぶみ」をじっくりと読んでみた。これは本居宣長が亡くなるわずか三年ほど前に、学問をこれから学ぼうとする人のために書いた入門書のようなものである。構成としては、最初に総論のようなものがあり、そのあと各論に続くが、その総論の最初の方で、「世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一トようならず……みづから思ひよれる方にまかすべき也」とあり、また、「その学びやうの次第も……ただ其人の心まかせにしてよき也」とある。要はどの学問を選んでもよいし、その学び方も各自自由にやってよいという事であるが、続けて、「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」とある。これは、池田塾頭が「随筆 小林秀雄」(『Webでも考える人』連載)に書かれていた「頭の良し悪しは、思考を継続できるかどうかにかかっている」という小林秀雄氏の言葉を思い起こさせる。そして、「其中に主としてよるところを定めて、かならずその奥をきはめつくさんと、はじめより志を高く大にたてて、つとめ学ぶべき也」とある。さらに、学問を続けていくなかで、「その主としてよるべきすじは、何れぞといへば、道の学問なり」とある。つまり、何をどう学んで行こうとも、道というもの、人の道はいかなるものかということに力を用いるべきだと言うのである。そのためにくりかえし読むべきは、「古事記」「日本書紀」であるが、「殊に古事記を先とすべし」と言い、その際、大事なこととして、「漢意儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を要とすべし」ということが繰り返し述べられている。
「うひ山ぶみ」に何度も出てくるこの「やまと魂」という言葉について、もし、山の上の家の塾に通っていなかったなら、戦時中の国粋思想を鼓舞するのに用いられた、日本古来の武士の勇ましい魂というふうに読んでいただろう。そうではなく、「やまと魂」とは、もともとは「源氏物語」を初出とする、日本人が持つ「もののあはれ」の感情から来た言葉で、本居宣長は「古事記伝」において、倭建命が西方の蛮族の討伐を終え、疲労困憊して戻ってくると、父の景行天皇はすぐに今度は東征を命じたため、倭建命は叔母の倭比売命を訪ね、「父天皇は自分は死ねと思っておられるのか」と涙を流して嘆いた、その人間らしい心こそが「やまと魂」であると言っている、と池田塾頭に教わった。「敷島のやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という本居宣長の歌も、「もののあはれ」の感情から自然と綻び出た素直な歌だと思えば、より味わい深く感じられる。
さらに読んでいくと、次のような言葉に出会った。
「書を読むに、ただ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限りあるものなるに、みづから物の注釈をもせんと、こころがけて見るときには、何れの書にても、格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也」
本居宣長の注釈というのは、単に意味を解説するだけでなく、「古事記伝」における倭建命についての注釈のように、「やまと魂」を働かせ、相手の心の中に入り込んで書かれたものであり、ここでこうして書を読むについて言われていることも、古歌を「みづからの事にて思ふ」のと同じ心ばえを働かせて読めと言っているのではないだろうか。そして、これはまさに、小林秀雄氏の、「歴史を知ることは、己れを知ることだ」という言葉に繋がるものであろう。
ところで本居宣長は、「古事記」「日本書紀」などの歴史ものの次には、「万葉集をよくまなぶべし」と言っている。まさに神の思し召しとしか思えないのであるが、この4月から、池田塾頭が新潮講座で「『新潮日本古典集成』で読む萬葉秀歌百首」を開講される。塾頭によると今回テキストとされる「新潮萬葉」は、小林先生の「本居宣長」でも重要な位置を占めている契沖の「萬葉代匠記」「古今余材抄」の精神に則っているのだそうだ。「不才なるひとといへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也、又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすこともあり」という「うひ山ぶみ」に出てくる本居宣長の有難い言葉に大変励まされたので、是非ともこの機会に「万葉集」を真剣に学ぼうと思っている。
(了)
小林秀雄氏の「本居宣長」には「批評家」という言葉が使われているところが三個所ある。まず第14章で「この大批評家(=宣長)は、式部という大批評家を発明した」としているところであり、次は第17章で「谷崎氏には、秋成の場合とほぼ同じように、言わば作家と批評家の分裂が起った」としているところ、三個所目は第27章で「彼(=貫之)の資質は、歌人のものというより、むしろ批評家のものだった」というところ、および「『女もしてみむとてするなり』という言葉には、この鋭敏な批評家(=貫之)の切実な感じが籠められていた」というところである。最初の第14章については既に「好・信・楽」2019年9・10月号で橋岡千代氏が論じている。ここでは三個所目の第27章について、なぜ氏が貫之を批評家と呼んだのかをみてみる。
まず一個所目の「本居宣長」第27章の「彼の資質は、歌人のものというより、むしろ批評家のものだった」とあるところの「批評家」だが、これは「古今集」の「仮名序」に関連して説かれたものである。「古今集」は貫之自身が編集に参加した勅撰集であるが、当時の和歌は、宮廷における権威、すなわち漢詩漢文に追われて「すっかり日蔭者」になっていた。それをまた「改まった場所に引出す」にあたって貫之は和歌の「本質や価値や歴史を改めて説く序文を必要」と考え、漢詩文に慣例として使われている序文としての「真名序」とは別に「仮名序」を和文で書いて用意したのだった。貫之が「仮名序」を書いた理由は、そもそも「和文は、和歌に劣らぬ、或る意味では一層むつかしい、興味ある問題として、常日頃から意識されていた」からだった。また「万葉集」以来の「言霊の不思議な営み」に対して貫之はかねてから感慨を抱いていたことから、和歌が「反省と批評とを提げて出て来る」にあたっては「言霊が、自力で己を摑み直すという事が起」こった、それを受けて「言霊の営みに関する批評的意識を研い」でいたのであり、それを「仮名序」に反映させた。加えて貫之は「漢文の日本語への翻訳」にも習熟していたため、これが「自国語の構造なり構成なりに関する、鮮明な意識」を養い、和文の体を生み出す下地になっていたのであろう。そうした結果として「古今集」の代表的歌人である業平の歌について「心余りて、言葉足らず」という評を残すにいたり、それは後に名評として宣長も引くほどだった。小林秀雄氏は以上のことがらを踏まえて貫之のことを「批評家」と呼んだものと推定される。
つぎに貫之についての二個所目の「『女もしてみむとてするなり』という言葉には、この鋭敏な批評家の切実な感じが籠められていた」とあるところの「鋭敏な批評家」だが、これは「土佐日記」に関連して説かれたものである。「土佐日記」は「女が書いたという体裁になって」いて、「当時、男の日記は、すべて漢文で書かれていた」のを貫之は「女性自身に語らせるという手法を取って」和文を書いた、しかも「自分には大変親しい日常の経験を」「統一ある文章に仕立て上げ」たのだった。貫之は生活のうちで磨き上げられてきた和歌の体に対抗して「平凡な経験の奥行の深さを、しっかり捕える」ことを狙って「和文制作の実験」をした。つまり「言葉が、己れに還り、己れを知る動き」であるところの「日記の世界」に入って、当時「女性に常用されていた」「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて「和文に仕立て上げ」ることを試みたのだった。小林秀雄氏は以上のことがらを踏まえて貫之のことを「鋭敏な批評家」と呼んだものと推定される。
上述の「鋭敏な批評家の切実な感じ」の文中には「鋭敏な」と「切実な」という二つの形容詞が付されている。これは「仮名序」が「真名序」に対抗したのに対し、「土佐日記」で意識された和文の体が対抗したのは和歌の体であったことからきたと思われる。すなわち、「和歌の体と和文の体との基本的な相違」は、和歌では「必ずしも文字を必要としない」のに対し、和文には「黙って眼で読む体」であることから文字が必須であり、且つ和文の体は平仮名があって初めて磨かれるものであるところにあった。しかも平仮名は「女性に常用され」ていたのに対し男性が常用していたのは相変わらず漢文だった。これら、わが国の言葉が初めて経験する新事態を前にして、貫之が「和歌では現すことが出来ない、固有な表現力を持った和文の体」を目指し、「観念という身軽な己れの正体に還ってみて、表現の自在」を自得しつつ言霊をも取り込んだ和文の体を明らかにし、且つ漢文の形式的内容的依存性から脱却するためには女性を騙ってでも和文の日記を書くという実験に着手せねばならないという切迫感があったのだと思われる。しかも貫之にはそれができた。以上のことから「鋭敏な」と「切実な」という二つの形容詞が付されたものと推定される。
「『源氏』が成った」のは上述の実験と「同じ方法の応用によった」のだということ、このことは「宣長を驚かし」ていた。そして「宣長は、『古今』の集成を、わが国の文学史に於ける、自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向の開始と受取っ」ており、「その一番目立った現れを、和歌から和文への移り行きに見」ていた。貫之は「古今集」の「仮名序」で「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」としたが、「やまと歌の種になる心が、自らを省み、『やまと心』『やまと魂』という言葉を思いつかねばならないという事は、『古今』時代からの事」であり、「そういう事になるのも、から歌は、作者の身分だとか学識だとかを現すかも知れないが、人の心を種としてはいないという」貫之の批評がまずあったからなのだった。
宣長は「土佐日記」にある「『もののあはれ』という片言」が「源氏」に至って豊かな実を結んだことにも驚いていた。貫之自身はこの問題の深さに特に注目はしていなかったものの「仮名序」では「人麿なくなりにたれど、歌の事とどまれるかな」としており、これは「自信に溢れた、歌の価値や伝統に関する、わが国最初の整理された自覚」だったといえるのであり、宣長はこれを起点として「物のあはれ」論を書いたのだった。以上述べた宣長を驚かせた二通りの件は、宣長も貫之のことを、今日の言葉で言うなら批評家と暗に認めていた、小林秀雄氏はそこをも確と見て取っていたと思われる。
以上、小林秀雄氏がなぜ貫之を批評家と呼んだのかをみてみたが、最後に、冒頭に述べた三個所のうちの二個所目の谷崎潤一郎と上田秋成の場合について概観してみる。氏は谷崎潤一郎について、その晩年の随筆集である「雪後庵夜話」の中の「源氏という人間は好きになれないし、源氏の肩ばかり持っている紫式部には反感を抱かざるを得ないが、あの物語を全体として見て、やはりその偉大さを認めない訳には行かない」という個所を取り上げ、「作家と批評家との分裂が起こった」としている。氏は谷崎が「源氏」の現代語訳を試みたのは「『源氏』の名文たる所以を、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい」とした上で、谷崎が「『源氏』の偉大さ」そのものを論じることなく式部の「人性批評の、『おろかげなる』様」のみを記したという点に注目し、谷崎の「源氏」経験のことを「大変孤独な事件」とした。このことから氏は谷崎が作家としてはともかく「源氏」の批評家としては失格だったとみなしたといえる。上田秋成についても谷崎と同様のことがいえるのであり、秋成の「ぬば玉の巻」は「源氏」論だが、氏はこれをまともなものではないとしている。秋成は「『源氏』の詞花言葉」を「翫んで、『雨月物語』を書いた」人だが、「ぬば玉の巻」では「式部の文才を称え」たものの「源氏」について「物語の内容」や「大旨」を問うておらず、これは谷崎が「源氏」の偉大さを論じなかったことと似ており、秋成も谷崎同様「源氏」の批評家としては失格だったと氏はみなしたといえる。以上より、氏が考える批評家とは対象の作品及びその作者を合わせてきちんと論じることのできる人のことを指していると推定される。
(了)