小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和四年(二〇二二)七月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和四年(二〇二二)七月一日
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
盛夏のなかでの刊行を迎えた今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から開幕する。いつもの四人は、いつもの「本居宣長」に加えて、法隆寺の宮大工棟梁であった西岡常一さんらのお話が聞き書きされた「木のいのち木のこころ<天・地・人>」という本の話題で盛り上がっている。件の「元気のいい娘」によれば、読後感がそっくりなのだという…… なぜそうなるのか? 四人の対話も、旋回しながら、さらなる深みへと進んでいくようだ……
*
「『本居宣長』自問自答」には、小島奈菜子さん、北村豊さん、松広一良さんが寄稿された。
小島さんは、小林秀雄先生が「本居宣長」の中で「人間にとって言葉とは何か?」という問いについて思索を深めていることに接して、幼い頃、看護師であったお母様と、ある患者さんのお宅を訪問した時のことを鮮明に思い出した。その記憶を抱きつつ、荻生徂徠や宣長の言語観を汲みつくす先生の思索に時間をかけて向き合ってきた。小島さんは、宣長が言っている「物」の感知という経験の深意を、「徴」としての言葉の本質を、いよいよ直知されたように思う。
北村さんの自問は、宣長が古学の上で扱った上古の人々の「宗教的経験」の具体的な内容についてである。北村さんは、国学者である宣長の旧邸に仏壇があったことに関する、大正天皇皇后の率直な疑問に対して、「熱心な仏教徒であった祖先の心を大切に思って……」と案内者が応答したエピソードを紹介している。人間は「知恵より経験の方が先」だという小林先生の言葉も踏まえて、その案内者の言葉を、よくよく噛み締めたい。
松広さんが注目したのは、宣長が長い遺言書に書いた「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」という小林先生の言葉である。その「思想」とは何か? なぜ「そうなるより他なりようがなかった」のか? 松広さんは、二つの着眼点からその深層を追究していく。その謎解きの行方やいかに……
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村上哲さんによれば、「本居宣長」を何度も読み返すなかで「存在感を持って佇んでいる、不思議な言葉」がある。それは、「死」という言葉である。村上さんは、「『死』のあとに残されたものと如何に向き合うかということ」が、「本居宣長」で提示されている問いの一つだと言う。それでは、「あとに残されたもの」とは一体何なのか? 読者のお一人おひとりが、自らの実体験を思い出しながら、村上さんの話に耳を傾けてみていただければと思う。
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石川則夫さんに特別寄稿いただいている「『本居宣長』の<時間論>」も連載五回目を迎える。前回までは、柳田国男が示す歴史観に関し、「死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿」への想像力を喚起することについて論じてこられた。今回からは、そのことが「『本居宣長』最終部に示唆される歴史観とどう重なり、旋回する文体とどう関わることなのか」について、いよいよ本編開始となる。文中で紹介されている小林先生の著作はもちろん、折口信夫氏の「死者の書」も座右に置いて、じっくりと向き合いたい。
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今号は、ご覧の通り「『本居宣長』自問自答」を中心に、全体として生と死にまつわる論考が多く、期せずして特集号となった観がある。小林先生にも、それこそ「生と死」という題名の論考があり、「死は前よりしも来らず。かねて後に迫れり。……沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」(生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである)という兼好法師の考えを紹介している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)。
生と死については、それ以外にも、「還暦」という論考の中で、こう述べている。
「私達の未来を目指して行動している尋常な生活には、進んで死の意味を問うというような事は先ず起らないのが普通だが、言わば、死の方から不思議な問いを掛けられているという、一種名付け難い内的経験は、誰も持っている事を、常識は否定しまい。この経験内容の具体性とは、この世に生きるのも暫くの間だ。或は暫くの間だが確実に生きている、という想いのニュアンスそのものに他なるまいが、これは死の恐怖が有る無いというような簡明な言い方をはみ出すものだろうし、どんな心理学的規定も超えるものだろう。日常生活の基本的な意識経験が、既に哲学的意味に溢れているわけで、言わば哲学的経験とは、私達にとって全く尋常なものだ、という事になる。ただ、このような考え方が、偏に実証を重んずる今日の知的雰囲気の中では、取り上げにくいというに過ぎない。人の一生というような含蓄ある言葉は古ぼけて了ったのである」。
私事ではあるが、大正の時代から一世紀を越えて生きた祖母が初春に亡くなり、先だって郷里で初盆供養を行ってきた。改めて祖母との思い出を、その一生を振り返り、本堂での読経を終えて外に出ると、クマゼミの蝉時雨に包まれた。その刹那、はっとした。音も時間も止まった。眼に飛び込んできたのは、抜け殻につかまって羽化せんとしている真白の若蝉だった。
(了)
三十三 大和魂という言葉
1
今回も、賀茂真淵である、賀茂真淵から、である。また真淵か、性懲りもなく、と嘲笑れそうだが、性懲りもないのは真淵なのである。小林氏は、宣長が用いた「大和魂、大和心」という言葉に説き及ぶ第二十五章で、まずはこう言うのである。
――真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた、「丈夫の、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」という意味に解した(「爾比末奈妣」)。「万葉」の「ますらをの手ぶり」が、「古今」の「手弱女のすがた」に変ずる「下れる世」となると、人々は「やまと魂」を忘れたと考えた。……
――しかし、「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。「やまと魂」は、「源氏」に出て来るのが初見、「やまと心」は、赤染衛門の歌(「後拾遺和歌集」)にあるのが初見という事になっていて、当時の日常語だったと見ていいのだが、王朝文学の崩壊とともに、文学史から姿を消す。従って、真淵は、「手弱女」の用語を拾って、勝手に、これを「丈夫」の言葉に仕立てたとも言えるわけだが、真淵には、そんな事を気にした様子は、一向に見られない。では当時、どういう意味の言葉であったか。宣長の流儀で、無理に定義しようとせず、用例から感じ取った方がよかろう。……
そう言って小林氏は、「大和魂」の用例を「源氏物語」から引く。
――「源氏」の中の「大和魂」の用例は一つしかないが、それは、「乙女の巻」の源氏君の言葉に見られる。「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるゝ方も、強う侍らめ」 ――才は、広く様々な技芸を言うが、ここでは、夕霧を元服させ、大学に入学させる時の話で、才は文才の意、学問の意味だ。学問というものを軽んずる向きも多いが、やはり、学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く働かす事も出来ると、源氏君は言うので、大和魂は、才に対する言葉で、意味合が才とは異なるものとして使われている。才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方は、これを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである。……
続いて小林氏は言う、
――試みに、「源氏物語新釈」を見てみると、真淵は、この文について、次のように書いている。「此頃となりては、専ら漢学もて、天下は治る事とおもへば、かくは書たる也。されど、皇朝の古、皇威盛に、民安かりける様は、たゞ武威をしめして、民をまつろへ、さて天地の心にまかせて、治め給ふ也。人の心もて、作りていへる理学にては、其国も治りし事はなきを、偏に信ずるが余りは、天皇は殷々として、尊に過給ひて、臣に世をとられ給ひし也。かゝる事までは、此比の人のしることならずして、女のおもひはかるべからず」――真淵らしい面白い文だが、これでは、註釈とは言えまい。「源氏」という「下れる世」に成った、而も女の手になった物語に対する不信の念が露骨で、「大和魂」という言葉の、ここでの意味合などには、一向注意が払われていない。「大和魂」という調法な言葉は、別に自分流に利用すればよい、というわけであった。……
次いで、小林氏の目は、「今昔物語」に向けられる。
――もう一つ。「今昔物語」に、「明法博士善澄、強盗ニ殺サレタルコト」という話がある(巻第二十九)。或る夜、善澄の家に強盗が押入った。善澄は、板敷の下にかくれ、強盗達の狼藉をうかがっていたが、彼等が立去ると、後を追って門前に飛び出し、おのれ等の顔は、皆見覚えたから、夜が明けたら、検非違使の別当に訴え、片っ端から召し捕らせる、と門を叩いて、わめき立てたところ、これを聞いた強盗達は、引返して来て、善澄を殺した。物語作者は附言している、――「善澄才ハメデタカリケレドモ、露、和魂無カリケル者ニテ、此ル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也」と。これで見ると、「大和魂」という言葉の姿は、よほどはっきりして来る。やはり学問を意味する才に対して使われていて、机上の学問に比べられた生活の知慧、死んだ理窟に対する、生きた常識という意味合である。両者が折合うのは、先ずむつかしい事だと、「今昔物語」の作者は言いたいのである。……
と、こう言って、小林氏は再び「源氏物語」に注目する。
――すると源氏君の方は、何の事はない、ただ折合うのが理想だという意見になるわけだが、作者式部の意見となれば、これは又別なわけで、主人公に、そう言わせて置いて、直ぐつづけて、大和魂の無い学者等について、語り始める作者の心の方が大事であろう。夕霧の大学入学式の有様が、おかしく語られ、善澄のような博士たちの、――「かしがましう、のゝしりをる顔どもゝ、夜に入りては、中々いま少し、掲焉なる火かげに、猿楽がましく、わびしげに、人わろげなるなど、さまざまに、げに、いと、なべてならず、さま異なるわざなりけり」という風に、ずらりと居並ぶのが面白い。これは、この作者が、時として示す辛辣な筆致の代表的なものであり、この辺りの文で、作者の眼は、「大和魂」の方を向いていると見るのが自然である。……
続いて、「大和心」の用例である。
――今度は、赤染衛門の歌について、「大和心」の用例を見てみる。赤染衛門は、大江匡衡の妻、匡衡は、菅家と並んだ江家の代表的文章博士である。「乳母せんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書があって、妻に贈る匡衡の歌、――「果なくも 思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の 乳母せむとは」――言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかえし、――「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳に附けて あらすばかりぞ」――この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとはしていない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。……
――この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発な質ならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」によりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。……
2
では宣長は、「大和魂」「大和心」という言葉をどう解し、どう用いたか、である。
――宣長も真淵のように、「大和魂」という言葉を、己れの腹中のものにして、一層強く勝手に使用した。例えば、「うひ山ぶみ」で、「やまとだましひを堅固くすべきこと」を、繰返し強調しているが、その「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりた」る、「皇国の道」「人の道」を体した心という意味である。彼は、「やまとだましひ」という言葉の意味を、そこまで育て上げたわけだが、この言葉が拾い上げられたのは、真淵のと同じ場所であった筈だ。(中略)彼は、「源氏」を、真淵とは比較にならぬほど、熱心に、慎重に読んだ。真淵と違って、この言葉の姿は、忠実に受取られていたと見てよく、更に言えば、この拾い上げられた言葉は、「あはれ」という言葉の場合と同様に、これがはち切れんばかりの意味をこめて使われても、原意から逸脱して了うという事はなかったと見て差支えない。……
宣長が、「うひ山ぶみ」で、「やまとだましひを堅固くすべきこと」を強調している件は、たとえばこうである。
――初学の輩は、宣長が著したる、神代正語を、数十遍よみて、その古語のやうを、口なれしり、又直日のみたま、玉矛百首、玉くしげ、葛花などやうのものを、入学のはじめより、かの二典(「古事記」「日本書紀」/池田注記)と相まじへてよむべし、然せば二典の事跡に、道の具備はれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし、又件の書どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固まりて、漢意におちいらぬ衛にもよかるべき也、道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし、……
――初学の輩、まづ此漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅固くすべきことは、たとへばものゝふの、戦場におもむくに、まず具足をよくし、身をかためて立出るがごとし、もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず、素膚にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならずからごゝころに落入るべし。……
――漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固まりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり。……
宣長は、「大和魂」を戦場に赴く武士の甲冑、すなわち防具に譬え、学問という戦場で「漢意」の刃先から身を衛るのは「大和魂」である、「皇国の道」「人の道」を体した心であると言い、「漢学」に対する「和学」といった技芸や知識よりも、「和学」を働かせる心延え、すなわち「皇国の道」「人の道」を体した心を養い、堅固にすることが先だと説いている点、たしかに小林氏の言うとおり、宣長は「大和魂」の原意から逸脱してはいないのである。「皇国の道」「人の道」を体した心とは、「皇国の道」「人の道」に則って判断し、行動する心構えである。「やまと魂を堅固くする」とは、そういう心構えをしっかり腹に入れるということだろう。
しかし真淵は、「学問」に対する「心延え」、あるいは「心構え」という原意には目もくれず、「大和魂」という言葉は真淵が読み取った「萬葉集」の歌心の集約、または反映と解し、そういう意味合で平然と使い通した。
小林氏は、先ほども引いたとおり、
――真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた、「丈夫の、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」という意味に解した。(中略)しかし、「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。……
と言っているのだが、そこをさらに踏み込んでみると、真淵が終生絶対視した『萬葉集』には、「やまと魂」どころか「魂」という言葉さえ全二十巻、四五一六首中に一例しかないのである。巻第十五の「中臣朝臣宅守、狭野弟上娘子と贈答する歌」と総題を置いて配列された六十三首中に、
――魂は 朝夕に たまふれど 我が胸痛し 恋の繁きに
とただ一度、「娘子」の歌として見えているだけなのである(『国歌大観』番号三七六七)。
ここをさらに、伊藤博氏の『萬葉集釋註』で見てみると、『日本書紀』に「識性」「識」「神色」の語が見え、古訓にタマシヒとある、また石山寺本大唐西域記長寛点に「心ニ信ジ意ニ悟リニキ」とあり、『倭名抄』(二)には「魂、多末之比」とあり、さらに『名義抄』には「魄」「識」「性」「神」「精」「精霊」「霊」「魔」「魂魄」をタマシヒと訓む、と記されているが、これら「タマシヒ」の表記状況から推して「タマシヒ」という概念自体、上代ではそれ相応の共通認識に達していたとは言い難いのではあるまいか。因みに契沖は、「タマシヒトハ、思ヒオコスル心サシナリ」(『萬葉代匠記 精撰本』)と註しているのみである。
また小林氏は、
――「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。……
と言っているのだが、だからと言って「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉は女性が言い出し、女性だけが口にしていたと言うのではないだろう。これらは「当時の日常語だったと見ていい」と小林氏も言っているように、現に「源氏物語」のなかで作者紫式部は「大和魂」という言葉を光源氏に言わせているのである。紫式部の時代、「大和魂」という言葉は、男性たちの間でも折々口頭に上っていたのであろう。したがって、「大和魂」という言葉は、真淵の言うような「ますらをの手ぶり」を集約したり、反映したりした言葉ではありえなかったとはっきり言えるのだが、しかしこういう真淵の、「大和魂」の「ますらをの手ぶり」への強引な逸脱は、単簡に原意逸脱と言ってはすまされない問題を孕んでいた。『萬葉集』において「魂」の用例は一首しかないにもかかわらず、しかもそれは「娘子」の歌の中であるにもかかわらず、「大和魂」を「丈夫の、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」の集約または反映と解した真淵の強引な観念先行思考形態は、真淵一代では終らなかったのである。
3
先に、宣長が、「大和魂」を武士の甲冑に譬え、学問という戦場で漢意の刃先にかかって手負いとならぬよう、初学のうちから大和魂を堅固めることが緊要だと言っている件を見たが、宣長の学問は、終始、「攻め」ではなかった、小林氏は第四章で言っていた。
――「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、(中略)私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……
したがって、「大和魂を堅固くする」という思想も、宣長にあっては「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和な」自己表現だったのである。
ところが、真淵はそうではなかった。『萬葉集』を代表する才媛歌人、額田王も大伯皇女も大伴坂上郎女も差し置いて、一方的に『萬葉集』は「ますらをの手ぶり」と真淵萬葉学の学説ならぬ標語を打ち出し、その線上で「大和魂」も「攻め」に使った。
そしてこの真淵の「攻め」は、真淵に輪をかけたような「孫弟子」の出現を招いた。厳密には「孫弟子」どころか弟子筋とも言えないのだが、宣長の死後、宣長の学問に烈しく自己を投影し、自分は宣長から選ばれたと信じて横様に門下を標榜したと推察されている平田篤胤は、『霊の真柱』なる書を著し、「大和魂」を「勇武を旨とする」方向へといっそう逸脱させた。小林氏は、大意、第二十七章でこう言っている。
――篤胤の古道は、宣長の「直毘霊」の祖述から始まったが、古道を説く以上、天地の初発から、人魂の行方に至るまで、誰にでも納得がいくように説かねばならぬ。安心なきが安心などという曖昧な事ではなく、はっきりと納得がいって安心できるもの、自分は、それを為し遂げた。『霊の真柱』は「古学安心の書」と呼べるもの、「古学の徒の大倭心の鎮」であると言う。宣長の「やまと魂を堅固める」という言葉とは、言わば、逆の向きに使われて、その意味合は大変違ったものになっている。……
「宣長の『やまと魂を堅固める』という言葉とは、逆の向きに使われて」と言っている小林氏の心意に思いを致そう。
――篤胤は言う、「とかく道を説き、道を学ぶ者は、人の信ずる信ぜぬに、少しも心を残さず、仮令、一人も信じてが有まいとまゝよ、独立独行と云て、一人で操を立て、一人で真の道を学ぶ、是を漢言で云はゞ、真の豪傑とも、英雄とも、云ひ、また大倭魂とも云で御座る」(「伊吹於呂志」上)、このような短文にも、気負った説教家としての篤胤の文体の特色はよく現れている。解り易く説教して、勉学を求めぬところが、多数の人々を惹きつけ、篤胤神道は、一世を風靡するに至った。これにつれて、「やまと魂」という言葉は、その標語の如き働きをしたと言ってよい。「やまと魂」を「雄武を旨とする心」と受取った篤胤の受取り方には、徳川末期の物情の乗ずるところがあって、その意味合の向きを定めた事は、言って置かねばならない。吉田松陰の「留魂録」が、大和魂の歌で始まっているのは、誰も知っている事だし、新渡戸稲造が「武士道」を説いて、宣長の大和心の歌を引いているのも、よく知られている事である。……
「留魂録」は、徳川末期の安政五年(一八五八)、大老井伊直弼が尊王攘夷派に対して行った大弾圧、安政の大獄で投獄された吉田松陰が、安政六年十月二十六日、処刑される前日に江戸伝馬町の牢獄で書いた遺書である。冒頭に「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」の歌が据えられている。
また新渡戸稲造は 明治から昭和期にかけての教育者、農政学者だが、キリスト者として国際親善に尽力し、著書「武士道」を明治三二年(一八九九)アメリカで出版(原題Bushido,theSoul of Japan)、翌年日本でも刊行した。その第十五章「武士道の感化」に宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」を引いている。
こういうふうに、平田篤胤以後、「大和魂」という言葉は時代の波風によっても大きく変容させられたと言えるのだが、その変容は宣長が生まれてすぐの享保一八年(一七三三)、松岡仲良の『神道学則日本魂』によってもすでに始っていた。
仲良は熱田神宮の神職の子で、垂加流の神道家である。宣長より約三十歳年長だったが、皇位の天譲無窮性を強調し、「神道学則日本魂」の附録答問に「明けても暮れても、君は千代ませませと祝し奉るより外、我国に生れし人の魂はなきはず也。只此の日本魂を失ひ玉ふなと、ひたすらに教るはこのゆえなり」と言い、「やまとだましひ」を「日本魂」と書いている。
4
こうして、いま、私が執拗に「大和魂」という言葉の変容史を追っているのは、小林氏が言った原意、すなわち、
――大和魂は、才に対する言葉で、意味合が才とは異なるものとして使われている。才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方は、これを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである。……
を、それこそ知識として得てそれでよしとするのではなく、私たち自身の実体験として得て身に備えたいからである、あたかも宣長が言った「もののふの甲冑」のようにである。
それというのも、かつて宣長たちが相対した「カラゴコロ」に加えて、今日の私たちは「デジタルゴコロ」とも相対している。「もし此身の固めをよくせずして」デジタル文明の華、ソーシャルメディアに現を抜かせば、「甲冑をも着ず、素膚にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならず『デジタルゴコロ』に落入る」だろうからである。現に私の目には、もう何人もの手負いが映っている。
その手負いぶりを一言で言えば、何事に関しても「沈黙するということ」に耐えられず、自分のことであろうと他人のことであろうと、見たり聞いたり感じたりすればすぐさまツイッターだ、ブログだ、フェイスブックだと手当り次第に発信しまくる多弁症候群である。これが亢進すると、もう沈黙が、沈黙の時間だけが醸してくれる思考の熟成は望めなくなり、薄っぺらで腰の据わらぬ人間になるしかなくなる。
ではその「大和魂」を、どうやって身に備えるかだが、これは容易である、きわめて容易である。『小林秀雄全作品』を全巻、通読する、それだけでよいのである。いきなり『全作品』の全巻通読とはいかないようなら、≪小林秀雄に学ぶ山の上の家塾≫の弟妹塾≪私塾レコダl’ecoda≫のホームページに、「小林秀雄山脈五十五峰縦走」と題して池田が小林氏の主要作品五十五篇の紹介文を載せている、まずはこの五十五篇から通読する、文意がわかってもわからなくてもよい、まったくわからなくてもよいから毎日見開き二頁、とにかく読む、すると何篇か読み上げた頃、小林氏と会って両手で握手したような気持ちになる、もうこれだけで「デジタルゴコロ」に陥る心配はなくなる。なぜかと言えば小林氏の文章は、学問のみならず各種の論説から文明の利器とのつきあい方に至るまで、学んで得た智識を適切に働かすための知慧や心延えに満ちているからである、すなわち小林氏の文章は、「大和魂」の原意で書かれているからである。
私はけっして思いつきを言うのではない。これが私の思いつきでないことは、鎌倉の≪山の上の家塾≫で「本居宣長」を九年以上、毎月読んできた塾生諸賢には無理なく肯ってもらえると思う。そして本誌『好・信・楽』に載っている文章は、いずれも塾の前後、各自が「自問自答」で沈思黙考した時間の賜物であるということにも頷いてもらえると思う。
だがしかし、その前に、どうしてもしておいてほしいことがある。これも宣長に倣って言えば、今日言われている「大和魂」という言葉は「清く濯ぎ去て」、真の「やまと魂をかたくする事を、要とすべし」、ということである。
というのは、今日、「大和魂」という言葉は、専ら運動選手のスポーツマン・シップ、あるいはファイティング・スピリットといった「雄武を旨とする」面で言われることが多く、それ以外の面ではほとんど耳にすることがないせいでもあろう、「才」が外から得た智識に関係するのに対し、大和魂はこれを働かす知慧に関係すると言われても、今日の「大和魂」が頭にあると、すぐにはしっくりこないのである。
「本居宣長」の第二十五章は、世の学者連中に向かって、「人間は、学問などすると、どうしてこうも馬鹿になるのか」と嘯いている一般生活人の常識に光を当てることが小林氏のさしあたっての主眼である。したがって、それさえ明識できればひとまずは十分と言ってよいのだが、そこがそうはいかないのである、いきにくいのである。
おそらくこれは、「やまとだましひ」という「古言」を、「やまとだましい」という「近言」で視てしまうからである、「本居宣長」第十章に、荻生徂徠を引いて「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」な、と言われていたが、それなら古言の「やまとだましひ」はどういう波風を受けて近言の「やまとだましい」になったのか、その跡をまずは辿ってみよう、そこから古言の「やまとだましひ」へ一気に推参しようと私は思い、手始めに大槻文彦の『言海』と、『言海』の増補改訂版『大言海』を開いてみた。
『言海』には、こう言われていた。
大和心:(一)日本の学問、皇国の学才、日本学。
(二)御国人の気節の心。大和魂。日本胆。
大和魂:(一)「大和心」に同じ、日本の学問。日本学。
(二)日本人に固有なる気節の心。外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神。ヤマトゴコロ。日本胆。
『大言海』には、こう言われていた。
大和心:(一)古くは漢学の力あるを漢才と云いしに対して、我が世才に長けたること。漢学の力に頼らず、独り自ら活動するを得る心、または気力の意なり。
(二)転じて、我が日本国民の固有する忠君、愛国、尚武、廉潔、義侠の精神。日本の国体を本位として、外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神の活動。またわが国の道徳の精華。やまとだましひ。和魂。<池田注/用例として宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」が引かれている>
大和魂:(一)「大和心」の(一)に同じ。また、日本の学問。日本学。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>
(二)偉大なる精神。確乎たる意思。厳然たる強直の念。不撓の耐忍力。皇国人の廉直勇猛。国民上の精神。かみのみち。「大和心」の(二)に同じ。日本胆。<池田注/用例として「神道学則」が引かれている>
次いで、『広辞苑』にはこう言われていた。
大和魂:①漢才すなわち学問上の知識に対して、実生活上の知恵・才能。和魂。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>
②日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる。<池田注/用例として「椿説弓張月」が引かれている、「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂成れど多くは慮(おもいはかり)の浅きに似て、学ばざるの誤なり」>
大和心:①「大和魂」①に同じ
②日本人の持つ、やさしく、やわらいだ心情。<池田注/用例として宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」が引かれている>
次いで、『大辞林』にはこう言われていた。
大和魂:①大和心。和魂。(漢学を学んで得た知識に対して)日本人固有の実務・世事などを処理する能力・知恵をいう。<池田注/用例として「源氏物語」乙女の巻、「今昔物語」巻二十九が引かれている>
②[近世以降の国粋思想の中で用いられた語]日本民族固有の精神。日本人としての意識。
大和心:「大和魂」①に同じ。
次いで、『精選版 日本国語大辞典』にはこう言われていた。
大和魂:①「ざえ(漢才)」に対して、日本人固有の知恵・才覚または思慮分別をいう。学問・知識に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力。やまとごころ。やまとこころばえ。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>
②日本民族固有の気概あるいは精神。「朝日ににおう山桜花」にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された。やまとだま。やまとぎも。<池田注/用例として「椿説弓張月」が引かれている、『広辞苑』の項に同じ>
大和心:①「大和魂」①に同じ。
②やさしくやわらいだ心、優美で柔和な心情。
こうして我が国の代表的な国語辞書で辿ってみるかぎり、「大和魂は才に対する言葉で、才が学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方はこれを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである」と小林氏の言う「大和魂」の意味合は、基本的にはいまもきちんと受け継がれているようである。
だが、「大和魂」のこういう基本的含意が、今日の私たちにはすぐにはしっくりこないというのは、各辞書が記す他の一面の語意、『言海』では「日本人に固有なる気節の心。外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神」、『大言海』では「皇国人の廉直勇猛。国民上の精神。我が日本国民の固有する忠君、愛国、尚武、廉潔、義侠の精神。日本の国体を本位として、外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神の活動。またわが国の道徳の精華」、『広辞苑』では「日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる」、『大辞林』では「[近世以降の国粋思想の中で用いられた語]日本民族固有の精神。日本人としての意識」、『精選 日本国語大辞典』では「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」等々を、今なお私たちが引きずっているからであろう。それらが本来の含意にかぶり、本来の含意を見てとりにくくするからであろう。
むろん、戦後に義務教育を受け、今日の日本人の大半を占めるに至っている世代に、上述のような近言の「大和魂」意識はほとんどないと言っていいだろうが、先ほども述べたように、プロ、アマを問わずスポーツ選手の口からはしばしば「大和魂」という言葉が聞こえてくる。そういうときの「大和魂」には、暗黙のうちにも『広辞苑』に言われている「日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる」か、『精選 日本国語大辞典』に言われている「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう」が影を落としていて、どちらかと言えば宣長のような「衛り」の「大和魂」ではなく、篤胤以来の「攻め」の「大和魂」になっている。
しかも、近言の「大和魂」には、大和民族、日本国家、といった、近代の天皇制下で生まれた国民統御のイデオロギーがバックボーンとなっている。たしかに小林氏も、宣長の言う「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりた」る「皇国の道」「人の道」を体した心という意味である、彼は、「やまとだましひ」という言葉の意味を、そこまで育て上げた、と言っているが、ここで言われている「皇国の道」「人の道」は、近代の天皇制下で言われた意味合とはまるでちがうということを何よりも先に念頭におかなければならない。近代の「皇国の道」は、為政者たちが国民を御するために編み出し、国民を縛った集団的道徳律だが、宣長が言った「皇国の道」「人の道」は、日本に生れて日本で生きる私たちは、この日本で日本人としてどう生きれば生きたと言えるのか、そこが祖先の事跡として具体的に語り継がれている歴史、という意味である。そしてその歴史のなかでもこれぞという生き方の心構えを端的に言った言葉、それが「やまとだましひ」であると宣長は言うのである。
今回の考察は「大和魂」に留め、「大和心」は次回とする、が、今回、ここでこれだけは言っておかなければならないことがある。
『精選版 日本国語大辞典』に、「大和魂」の②として、「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」とあるが、ここで言われている「大和魂」を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって、宣長の歌「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」は近代の「大和魂」とも国粋思想とも無関係に詠まれ、宣長六十一歳の自画自賛像に書かれているだけである。詳しくは次回に記す。
(第三十三回 了)
眩い円光から放射状に光を放つ金色の阿弥陀如来が飛雲に乗り、同じく金色に彩られた二十五体の菩薩群を従えながら、急峻な山岳を一気にすべり降りるかのように画面左上の山上から斜め四十五度の角度で急降下する。弥陀の足下には険しい山塊が切り立ち、その峡谷を川が流れ滝が落ち、満開の桜と思しき木々が山間の其方此方に点景されている。流れ渦巻く雲の上では菩薩たちが、笙、箏、琵琶を奏で、舞を舞っているが、飛雲の先鋒となって蓮台を捧げ跪く観音菩薩は、その先の屋形内に端座する一人の念仏行者を、今まさに迎え入れようとしている――
嘗て小林秀雄が坂本忠雄氏に、ベートーヴェンの晩年の作品、あれは「早来迎」だと語った時、小林秀雄は、知恩院所蔵のこの「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を思い浮かべていたに違いない、と、私はこの講話の冒頭でお話しした。ところがそのことをまた坂本忠雄氏も直覚されていたのではないかという事実に、迂闊ながら、そして大変遺憾なことながら、氏が亡くなられた後になってはじめて気がついた。まず小林秀雄のこの言葉が最初に活字になったのは、前にも述べた高橋英夫氏の「疾走するモーツァルト」であるが、その終章で、高橋氏は坂本氏とのやり取りを次のように伝えている。
「(S氏)西洋人には、時々ああいうすごいのが出るのだ、とおっしゃってたですね(杉本注:小林秀雄がベートーヴェンを『通俗の天才』だと評したことを踏まえての発言)。また、それとどうつながるのか咄嗟には分かりませんが、ベートーヴェンの晩年の作品について、あれは『早来迎』だ、と言われたのを憶えてます。どういうことなのか、折口信夫の『死者の書』にえがかれている阿弥陀仏の山越しの『来迎』なんかをすぐ連想するわけですが、それは『来迎』ですね。『早来迎』という言葉もあるのでしょうか」
「(高橋)初めて聞きましたが、きっとあるのでしょうね。つまり何か決定的な来迎の一瞬が予告的に、迅速に発現するというのでしょうか」
「(S氏)ただ、晩年のベートーヴェンが焦っている、というニュアンスの発言ではなかったですね」
この文章が発表されたのは「新潮」昭和六十一年六月号で、小林秀雄が亡くなった三年後である。この時には、坂本氏にも高橋氏にも「早来迎」の具体的なモデルはなかったようだ。
しかしそれから二十七年経った二〇一三年、小林秀雄の没後三十年にあたる年の「芸術新潮」二月号に、坂本氏は「初めに音楽ありき 小林さんと聴いたクラシック」という一文を寄せ、この「早来迎」についてあらためて自ら書き記した。ここでも氏は、小林秀雄が「ベートーヴェンは通俗の天才だ」と語ったことに感銘したことを言い、続けて次のように書いている。
また晩年の小林さんは「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる。早来迎だよ」とも言っていた。ベートーヴェンが死を見据えながら紡ぎ出した最晩年の曲を、如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図に比する自在さには驚いた。
「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」とは、ベートーヴェンの楽曲構造の特徴として言ったものなのか、それともこの作曲家の生涯の「終わりになると」の意味で、つまり晩年のベートーヴェンの音楽の特徴として言ったのか、仮に前者として捉えれば、全曲が終楽章に向かって、あるいは終楽章のコーダに向かって「しだいに早くなる」のはベートーヴェンの初期から後期に至るまでの多くの作品に見られる特徴であり、その傾向はむしろ若い頃の音楽の方が強いとも言える。一方、後者の意味であったとしても、後期の音楽が前期の音楽よりもテンポが速くなっているということはなく、これも敢えて言うなら逆と言った方がいいかもしれない。しかし坂本氏は、この小林秀雄の言葉を「ベートーヴェンが死を見据えながら紡ぎ出した最晩年の曲」に対する言葉として受け取り、その「早来迎」を「如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図」と表現した。このときも氏は、折口信夫の「死者の書」のモチーフにもなった「山越阿弥陀図」を連想していたのか、あるいは他の来迎図のイメージが脳裡にあったのか、今となっては確かめるすべはない。ただ昨年の春、この講話の第一回を氏にお送りした時、お返事を頂き、そこには「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は何れ誰かが書かねばならぬテーマであること、それを先生の「早来迎」から書き始め、知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」だと具体的に言われたことに感銘した、と書いてくださっていたから、上掲の一節を書いたときには、氏には知恩院の「早来迎」のイメージはなかったものと思われた。
ところが先般、氏の訃報に接し、あらためてこの一文を読み返していたところ、「如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図」という一節が、知恩院の「早来迎」を示唆する以外の何物でもないように思われて来た。少なくともそれは、「山越阿弥陀図」よりも知恩院の来迎図のイメージに近い。そう思わせた所以は、氏が書かれた「雲の尾を長く引いて」という描写もさることながら(ただし弥陀や菩薩が乗る飛雲の棚引く様子そのものは、たとえば折口信夫が「山越しの阿弥陀像の画因」で称賛した禅林寺の「山越阿弥陀図」などにも見える)、何よりも「死を前にした人間を急いで迎えに来る」というその来迎の速度感の表現にあった。おそらく氏は、それを知恩院の「早来迎」というモデルを介さずに小林秀雄の言葉から直接感知していたに違いない。さらに言えば、それはすでに「疾走するモーツァルト」で高橋英夫氏が言われた「何か決定的な来迎の一瞬が予告的に、迅速に発現する」というイメージによって示唆されていたものでもあった。それがはじめて、知恩院の「早来迎」という現実の図像と結びついたことで、氏の中に「感銘」が生じたということであったのだろう。ちなみに氏からの手紙には「非常に具体的に」と書かれていたのだが、氏にとって具体的だったのは私の論ではなく「阿弥陀二十五菩薩来迎図」のvisionそのものであったのだ。
もともと「観無量寿経」には、阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩が多くの従者を引き連れて念仏行者のもとに現れ、来迎を告げるやいなや、あっという間に極楽浄土へ往生させる様が説かれている。その往生の「早さ」をもっとも見事に視覚化したのが、知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」なのであり、それが数ある来迎図の中でこの図が「早来迎」の名で親しまれるようになった所以でもあった。その「早来迎」を、小林秀雄は晩年のベートーヴェンの音楽に聞き取っていたのである。「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」と語られたその「テンポ」とは、したがって、ベートーヴェンの音楽における単に物理的な(ということはまた、現世のという意味でもあるが)「テンポがしだいに早くなる」様だけを言ったわけではなかっただろう。晩年のベートーヴェンの音楽が、往生を願う者を救う、その救助の「早さ」を言ったということであっただろう。
一方、八十歳のゲーテを震駭させた「壮年期のベエトオヴェンの音楽」は、この作曲家が三十七歳から三十八歳の年にかけて書いたシンフォニーであった。その最終楽章は、文字通り「終りになるとテンポがしだいに早くなる」音楽の最たるものである。天馬空を行くが如きアレグロで疾駆するその楽章は、コーダにおいてはプレストとなり、凄まじい勢いで加速しながらハ長調の堂々たるカデンツをもって幕を下ろす。この「終り」もまた、ある種の自己救助の音楽であり、往生を遂げた者の音楽であると言って間違いではないだろう。それはあの「運命の動機」によって開始される嵐のような第一楽章、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」というこの作曲家の「宿命の主調低音」に対する一つの解決であり、言わばその「運命の喉首を締め上げてみせた」結果勝ち取られた勝利の凱歌であった。ここでもベートーヴェンは、自分の撒いた種をたしかに刈り取ったと言える。しかし小林秀雄が「モオツァルト」の第一章に挿入した一行――「彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて、恐らくゲエテは全く無関心であった」というその「孤独」と「救助」――小林秀雄の「ベエトオヴェン」においてはもっとも関心が深かったはずのそれは、この作曲家が第五シンフォニーにおいて辿り、成就したものとは決定的に「具合」の異なるものであった。それはあくまでも、ベートーヴェンが「晩年」になってはじめて分け入り、成し遂げたところのものであったのだ。
小林秀雄がベートーヴェンの晩年の作品を「早来迎」だと語ったことについては、実はもう一人、証言者がいる。大江健三郎である。小林秀雄が亡くなった時の「新潮」追悼記念号に寄せた一文で、大江氏は、「小林氏はベートーベンの後期のソナタの最終楽章は、みな『来迎図』のようだ、といわれた」と記しているのだ(「『運動』のカテゴリー」)。大江氏は「早来迎」ではなく「来迎図」と書いている。しかし大江氏が回想しているのは、他ならぬ坂本忠雄氏とともに小林邸を訪れたときのエピソードなのである。坂本氏は、小林秀雄とはベートーヴェンの器楽曲をよく一緒に聴いたと回想していたが(「小林秀雄と河上徹太郎」)、このときも、小林秀雄は自宅のステレオ装置でソロモンの弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタのレコードを大江氏に聞かせたという。無論、それは「後期のソナタ」であっただろう。そして坂本氏が小林秀雄から「あれは『早来迎』だ」と聞いたというのも、おそらくはこの時だったに違いない。ということはまた、小林秀雄が氏に語った「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」というその「終り」は、「後期のソナタの最終楽章」のことだったということになる。
「後期のソナタ」とは、一般にはベートーヴェンが四十五歳から五十二歳になる年までに作曲した作品一〇一、一〇六、一〇九、一一〇、一一一の五つのピアノ・ソナタを指す。しかし「来迎図のような最終楽章」を持つ後期のソナタということになれば、それは五つのソナタの中でも特に作品一〇九、一一〇、一一一の最後の三つのソナタということになるだろう。この三曲は、いずれも「ミサ・ソレムニス」という大作の作曲の狭間に生み落とされたもので、後期五曲のかけ替えのない星座の中でも、さらにもう一つの、最奥の星座を形成するソナタ群である。そのうち作品一〇九と一一一の終楽章は、ベートーヴェンが若い頃から得意にした変奏曲で書かれており、一方、作品一一〇は長い助奏を持つフーガである。これらの「最終楽章」は、いずれも第五シンフォニーのようなアレグロあるいはプレストで邁進する勇ましい音楽ではない。アンダンテあるいはアダージョを基調とする緩徐楽章である。しかもその静謐な音楽の歩みの中で、「終りになるとテンポがしだいに早くなる」のである。
小林秀雄が坂本忠雄氏に語った「早」さの秘密は、これら三つの「最終楽章」を聴くことによって明らかとなる。その「孤独」と「救助」の実相は、第五シンフォニーの最終楽章におけるそれとは確かに「具合」の異なるものであった。これらのソナタにおいては、「孤独」はもはや嘆かれるべきものでも、そこからの脱出を試みるべきものでも、これと闘って打ち克つべき相手でもない。言わば「孤独」であるという厳然たる人間的事実の真率な承引が、同時に自己以外の人間存在の全的な容認ともなり、それが自ずと自己自身の最善の「救助」となるような、どこまでも澄んだ、優しい、開かれた救いの歌として歌われるのである。それは「人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければなかった」(「モオツァルト」)作曲家のあの「かなしさ」と同じく「早」いのだが、そしてまた同様「涙の裡に玩弄するには美しすぎる」のだが、その「早」さと「美」しさは、決して僕らを置き去りにして先に行きはしない。金色の阿弥陀如来が飛雲に乗って山上から降り来たり、僕らの「涙」を拭って一瞬のうちに往生させるように、僕らの全身全霊を包摂しながらあっという間に彼方へと連れ去ってしまう。その彼方が何処なのかは、おそらく誰も知らない。しかしこの「早来迎」が、人間には「人生の無常迅速」を超える力が確かにあるという事実を僕らに知らしめ、証明する音楽であることは確かなのではあるまいか。
勿論、このベートーヴェン晩年の「孤独」と「救助」は、この最後の三つのソナタの最終楽章だけに現れるものではなく、たとえば作品一〇九のヴィヴァーチェにも、一一〇のモデラート・カンタービレにも、あるいは一〇六、「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の巨大なアダージョ楽章にも見出せるものである。さらに言えば、後期のピアノ・ソナタ群の後に書かれた、この作曲家最晩年の弦楽四重奏曲群にも聞き取ることができるはずのものである。敢えてそれをどの曲のどの楽章と特定する必要はないのかもしれない。それよりも「後期のソナタ」の全体が、あるいはベートーヴェンの晩年の音楽の全容が、一つの来迎を告げる音楽なのだと考える方が自然かもしれない。
しかし私は、この講話の冒頭でお話しした通り、小林秀雄が「あれは『早来迎』だ」と語った音楽を、敢えて一曲のピアノ・ソナタに限定しようと思うのである。それは、第五シンフォニーの最終楽章と同じく、ハ長調の調べをもって救助されるソナタであったと。すなわち小林秀雄が語った「早来迎」とは、ベートーヴェンの三十二曲のピアノ・ソナタの最後を締め括る、あの長大な変奏曲、アダージョ・モルト・センプリーチェ・エ・カンタービレであったと私は思う。この不世出の批評家が、もしも「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼はおそらくこの一曲を選択し、「モオツァルト」にト短調クインテットのアレグロ主題を掲げたように、その最終楽章のアリエッタ主題を掲げたに違いない。そしてこの最後のピアノ・ソナタの最終楽章が「早来迎」であることの真の所以は、何よりもそれが、ベートーヴェンが書いた最後のハ短調アレグロ・コン・ブリオを救助するための最終楽章であるところにあったと思うのだ。
そのことを予感したのは、しかし私だけではなかった。坂本忠雄氏もまた、小林秀雄が語った「早来迎」をこのソナタの裡に見出していた。先に引用した「初めに音楽ありき」の一節に続けて、氏もまた書いている、「私は、永年愛聴する二楽章しかなく、緩急が自在に交錯する最後のピアノ・ソナタ第三十二番にもそれを感得する」と。
(つづく)
※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものである。
その十四 アウトサイダー~ヴァーシャ・プシホダ
寒いのが苦手だ。それが全身に現れるらしく、そういう季節になると、寒そうですね? としょっちゅう心配される。寒いですね、と返すけれど、ほんとうはそう寒いとも思っていない。寒そうにはしているが、寒さには人一倍強いのである。若い頃は厳冬の雪山にだって登っていた。ところが、苦手なのだ。苦手というより嫌いなのだろう。
これは、どうやら青年時代の記憶に由来する、いわば拒絶反応なのだ。下町の運送屋で毎朝トラックを洗っていた。大きなブラシを洗剤に浸してごしごし擦り、蛇口全開のホースで洗い流す。冷水を全身に浴びることになる。冬は地獄だ。凍てつく、というやつである。長靴の中も水浸し、足先も指先も直ちに痺れてくる。それを8時までに2台か3台、毎朝やった。ほんとうは二人でやるのだが、もう一人はたいてい来ない。「いじめ」である。小さな運送屋で、免許も持たず、しかも大卒。誰もまともに付き合おうなどとは思いもしないのである。ある朝などは、凍った地面に足をとられて転倒し、全身ずぶぬれになり、あまりの冷たさになんだか諦めたような気分に堕ちて、そのまま仰向けになって、星空の去った明け方の天蓋を眺めていた。
私は単純に孤独だった。そして何をやっているのかわからなかった。この悠久の宇宙のなかにいて、自分のたかだか数十年の人生などゼロに等しいと思った。そのゼロをこんな辛い思いまでして生きる意味など、いったいどこにあるだろう?
その運送会社の目の前、古い雑居ビルの地階がNEWPORTというバーで、夜通しロックなんかを鳴らしていた。私の出勤は明け方だが、まだ看板が出ていることもあった。ある朝、ボブ・ディランのNorth Country Bluesが聴こえてきたので、仕事前にちょっと覗いてみることにした。薄暗い店内は10席足らずのカウンターだけで、もとより客はなく、痩せた、髪の長い、マスターらしい男が洗い物をしていた。そして、どうぞ、毎朝大変だね、と、こちらの方をろくに見もせずに言った。私は、はあ、とか、いや、とか、意味のない返事をして、カウンターの一番手前に腰かけた。ウィスキーというわけにはいかないね? コーヒーいれようか。あ、ありがたいです。
大きなカップで出された熱いコーヒーで手と体を温めながら、私は、ディランの弾くギターの単調な繰り返しに次第に説得されていくようだった。その宇宙的な、無限性をはらんだテンポの内部に、有限の人生が歴史として定位されていく、そんなことを考えようとした。音楽がそんな思索の可能性をもって聴こえたことはなかったから。そして、私はまったく私流にボブ・ディランという音楽を理解したと思った。ありがたかった。
バッハもモーツァルトもベートーヴェンも、その音楽の根底に流れているのは、非情の宇宙の根源的なリズムだろう。一流の演奏家に求められる圧倒的な技量のひとつは、そういうものの再現力にちがいないと思う。リストは、嵐のなかの巨木を指して、あれがショパンだといった。激しい風雨に叩かれ翻弄される枝条と枝葉、しかしその幹は身じろぎもしない。ショパンのマズルカは、健全な信仰を生きる農民たちの、宇宙の規矩を越えぬ人生の奔放である。世界の8番目の不思議と言われたアート・テイタム、その超絶技巧は、十指が夜空の星々の動きに対応しつつ、根幹にビッグバン以来の一つの原理を潜ませている。彼が炸裂させる、ドヴォルザークのユモレスクやマスネのエレジーのめくるめく変奏は、天蓋に散らばる無数の太陽系だ。
それらは救済ではないのか。救済といってわかりにくければ、超克といってもいい。間違ってはいけないが、それは癒しではない。癒しというのは、結局のところ、忘却にすぎない。むろんそういう癒しが、つまりひとときの忘却が、夜ごとの安眠に有効な場合もあるだろう。が、それでは済まない、忘却を許さぬ苦しみが我々にはある。それに我々は向き合って、克服しなければならない。
チェコのヴァイオリニスト、ヴァーシャ・プシホダ。彼の演奏はまったく独創的である。「どうしても想像することができない妖艶極まる音色」と評した人がいたが、同感だ。音色だけではない。たとえば、クライスラー作曲「愛の悲しみ」の録音があるが、これがなんとも魅力的な舞曲になっている。むろん舞曲として作られたものではあるが、もはやクライスラーのウィーン風ではない。プシホダのグァルネリウスが奏でる一本の描線は、そのまま独自の生命をもって躍動し始める。ともすると凡庸になりがちな旋律が、突然光彩を放つ。そして土着の舞曲に仕上がってしまうのである。どこからかボヘミアの匂いがたちのぼってくるようだ。他ならぬ彼の肉体が、この歌をそんなふうに変容させてしまうのだろう。
さて、私は、彼のヴァイオリニストとしての系譜を書こうとしている。ところがそれが見えてこない。父親から手ほどきを受けた後、プラハ音楽院ではアントニーン・ベネヴィッツ門下のヤン・マルジャークを師としているというから、チェコの偉大な教師シェフチークに近く、ヴィオッティからクーベリックを経てシュナイダーハンに至る系譜に属しているとはいえる。あの完璧な技巧は、なるほどシェフチークの伝統かも知れない。が、他のシェフチーク門下、たとえばエリカ・モリーニとの間に類縁性などないようだ。彼は、誰にも似ていないのではないか。ヴィオッティはむろん、マルジャークやシェフチークにも録音はなさそうだから、迂闊なことは言えないのだけれども、少なくとも、シュナイダーハンとも、クーベリックとさえも、彼は異なっている。
彼の系譜は、9世紀頃、西アジアあたりからやって来た、フィデル以前の流浪の音楽家たちから直接つながってきているのではないか。女たちの歌や踊りの伴奏を起源とするヴァイオリンという楽器の歴史は、イタリアの何人かの職人の手によって自立した楽器へと飛翔し、独奏音楽の主役となり、まもなく室内楽を生みだすに至るが、それでもなお、ヨーロッパ辺境の風土と身体性を宿したまま、都市的に洗練された後のクラシックの本流に抗いながら、流浪の楽器弾きの命脈を保ってきたようにみえる。それこそがヴァイオリンの出自であり、本質である。プシホダはその系譜の末裔なのである。それは、師弟関係のなかで継承されるものではなく、ヴァイオリンもしくはフィデルという楽器そのものを媒介として生成されてきた伝統なのだ。
音楽院を出たあと、活躍の場に恵まれなかった若きプシホダは、さすらうようにしてイタリアに赴き、ミラノあたりのカフェで弾いて糊口をしのいでいた。たまたまあるカフェの店主に気に入られて小さなコンサートを催したとき、客席の紳士が立ち上がって叫んだ。現代のパガニーニだ! この一声で運命が変わった。恩人はアルトゥール・トスカニーニであった。プシホダはまもなく、かつてのパガニーニのように、全欧州を駆けめぐるようになった。新大陸のハイフェッツに対して旧大陸のプシホダ。が、彼の演奏は標準語にはならなかった。ボヘミアの方言たるを失わなかった。彼はあくまで旅芸人の系譜であり続けた。
サラサーテ作曲「アンダルシア風ロマンス」の古い録音がある。「ロマンス」ではあるが、そこはアンダルシア地方の歌、フラメンコのリズムを潜ませている。それは、ヒターノのものだ。が、同時に、どこかボヘミアのにおいがたちのぼってくる。プシホダの本領である。
もうひとつ、プシホダを語るうえで決定的な一曲がある。パガニーニ作曲「ネル・コル・ピウ変奏曲」。パイジェッロのオペラ「美しき水車小屋の娘」にあるアリアの変奏曲である。この曲こそはパガニーニの神髄だろう。オーストリアのヴァイオリニスト、ハインリヒ・エルンストは、パガニーニの演奏を舞台袖でひそかに聴いてこの曲をマスターし、それを当人の前で披露して驚嘆されたと伝えられている。エルンストの故郷は現在のチェコである。プシホダと同郷といってもいいのかもしれない。プシホダもまた、この曲に狙いを定めるようにして、研鑽を積んだであろう。二次大戦前に二度録音している。凄まじい技巧の生みだす絢爛に、人生の抒情が重なる。済んだ大気に星雲が広がる。その宇宙論的構成は、殊に二回目の録音で極まっているかのようだ。きっとパガニーニはこんなふうに弾いたのだろうと思わせるものがあるのである。
私は長く、このレコーディングをもってプシホダの頂点と考えていた。大戦中もヨーロッパにとどまり、ドイツでも旺盛な音楽活動を行った彼は、ドイツ風の名前を名乗ったり、バッハを録音したりして、それはそれで魅力的だが、ボヘミアンとしての本領から遠ざかろうとしているようにもみえる。戦後はさらにその傾向が顕著だ。いかにも不似合いなモーツァルトの録音があったりする。最初の妻、アルマが、離婚後とはいえアウシュヴィッツで亡くなったりしたこともあって、当時の彼の評判は、人間に対しても音楽に対しても、芳しいものではなかったようだ。30代までの輝きはもはや失われたのだ。そう、私も思い込んでいた。ところが60歳で亡くなる、長いとは言えない人生の、その最晩年にもう一度、彼にとっては運命の地であるイタリアで「ネル・コル・ピウ変奏曲」を録音していたのである。このLPレコードはほとんどみかけない。ようやく手に入れて聴いてみて、彼の戦後は雌伏の時間であったことを悟った。この一回の録音のために彼は生きたのだ。
戦後の音楽は、非情の無限性を見失い、感傷に過ぎない抒情性だけを増幅させてきたように見える。プシホダはそこにくさびを打ち込んでいる。彼のおかげで衰滅を免れ、あるいは回復したものもあるであろう。そう信じたい。
注)
ヴァーシャ・プシホダ Vasa Prihoda 1900-1960
アート・テイタム Art Tatum 1909-1956……アメリカのジャズピアニスト。ハーレム・スタイルの究極(丸山繁雄)。彼の演奏する店には、ホロヴィッツ、その義父トスカニーニ、ギーゼキング、チッコリーニらが訪れた。
ヤン・マルジャーク Jan Marak 1870-1932
アントニン・マルジャーク Antonin Bennewitz 1833-1926
ジョバンニ・バッティスタ・ヴィオッティ Giovanni Battista Viotti 1755-1824
ヤン・クーベリック Jan Kubelik 1880-1940
ウォルフガング・シュナイダーハン Wolfgang Schneiderhan 1915-2002
オタカール・シェフシーク Otakar Sevcik 1852-1934
エルンスト Heinrich Wilhelm Ernst 1814-1865
(了)
1 物語への想像力
生と死が厳とした境界に阻まれてはいるが、ある時を定めての交歓が必ずしも不可能ではなかったということ。これが、例えば柳田国男の文化的想像力の結実であった。すなわち、この二者は元々隣り合わせの世界であり、その間の扉を開けるに相応しい方法が遙かな昔から家々の中で引き継がれて来たということである。これまで本誌に繰り返し記したところをもう一度確認しておくばかりであるが、こうした文化に生きる者の人生観においては、生と死は相互に補完する機能を有するということを了承した場合、この文化を育み、その度ごとに証するものが言葉であり、文章としてあったことは明らかであって、もちろん、事は言葉と文章の有り様によって読み取られ、身体に刻み込まれ、また語られていったという過程を想像しなければならない。したがって、生と死への洞察の次には、言語の機能についての本質的な批判が必要であり、それを俟って初めて学的対象としての言語なる無機的な組織以前に、本来的に先行している物語という行為、言葉を紡ぎ出しつつ対象を象り、整えようとする有機的な動きの方へ注意を向けるべきなのである。
端的に言えば、『本居宣長』中で執拗に言及される「もののあはれ」という心と言葉として整序される以前の、先験的な働きは、あらゆる認識の起源を問題化することによって、「歌のこと」と「道のこと」という二つの方向性を一つとして起動するものであることを表現していたのである。したがって、天与の経験を言葉に整えるとは、言語論的には文章を作成することだが、同時に、実はなんらかの物語を発動させることに他ならないはずなのである。
具体的に考えてみよう。『本居宣長』の終わり近くには、神名、神の御名の吟味についての記述が現れる。そして、「天照大御神」という「御号」が文章として成り立っているということを明らかにしている。
天照大御神という御号を分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。という事は、御号とは、即ち当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿であると言ってもいい、という事になろう。御号を口にする事は、誰にとっても、日についての、己れの具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。
(四十一)
さらに、『本居宣長』中では露わなかたちでは扱われなかった<時間>については、『本居宣長補記Ⅰ』に宣長の「真暦考」を取り上げて、暦法以前の時の認識を考察することを通して、「もののあはれ」という働きそのものを原初の経験として踏まえる物語行為を経て、過去を現在に見出していったという見通しを表現しているのである。
遙かな昔、未だ暦を持たないまま長い時代を生きていた人々の時間感覚を、「来経数」という「わざ」として、次のように記すところが注意される。
親の忌日が、暦に書かれているわけもないのだから、秋が訪れるごとに、其人のうせにしは、此樹の黄葉のちりそめし日ぞかし」と、年毎に、自分でその日を定めねばならない。創り出さねばならないと言ってもいいだろう。暦を繰ってすませている人々が、思ってもみない事だが、各人が自分に身近かな、ほんのささやかな対象だけを迎えて、その中に、われを忘れ、全精神を傾け、「その日」を求めた。他の世界は消えた。そのような勝手な為体で、何一つ違わず、うまく行っていた。何故かと問われれば、「真暦」が行われていたからだ、と答えるより答えようが宣長にはなかった。
(「補記Ⅰ」三)
遥かな時間を遡って、祖先たちが語ることを得た神の「御号」も、暦のない時代の「来経数」も、言語行為の原初的機能である物語行為の遂行によって初めてそれと認められるということならば、その物語行為の文体はどのような特質を帯びていなければならないか。しかし、現代に生きる我々が親しんでいる物語とは、暦法に習熟し、生活の基盤として疑いようのない時間という制度に、ほとんど洗脳されてしまった後の作成物であり、これを我々は毛ほども疑うことがないということに、改めて驚いてみることが必須なのだ。昔話、伝説、説話として、いつのまにか我々の生活を導いてきたはずの物語も、出来事に日付が入るのが当たり前になり、過去から未来へのベクトルを本質として、単一方向の一次元連続体として流れ始めて既に久しいのである。
本稿では、物語がそうなる以前の姿に想いを致してみたい。
2 「芸術新潮」の創刊
1950(昭25)年1月に「芸術新潮」が創刊された。創刊の経緯について等の説明は創刊号には見あたらないが、この雑誌の構成から見た編集方針は、終戦直後から小林秀雄が創刊準備に奔走し、1946(昭21)12月に刊行が実現した「創元」に基づいているのではないかと、池田雅延氏から教示を得たことがある。当時にあっては他に類を見ない芸術文化の総合雑誌であり、豊富な写真やカラー図版などを駆使しつつ、評論や随筆、小説作品も掲載されるものであった。その後、この雑誌は「新潮」とともに小林秀雄の作品が次々に発表される場として展開していくことになる。1月創刊号には「秋」、2月号は「蘇我馬子の墓」、3月号に「雪舟」、そして4月号では青山二郎との対談「『形』を見る眼」と矢継ぎ早に発表している。また周知のように翌年から「ゴッホの手紙」の連載開始や、1956(昭31)年からは「近代絵画」の連載を「新潮」から引き継ぐなど、重要な作品発表が続いていくことになる。
さて、そこで肝心なのは、この年に書かれた作品の内容である。もちろん、詩や音楽といった西欧文化に関する文章も少なくないが、1年間を通して見ると、日本古典、古代文化に関する批評文が圧倒的に増加し、おそらくこの年に、古典や伝統といった言葉の意味合いを自らにおいて確立したのではないかと思われるくらいの充実した内容を持っている。それほど、古典への思考の密度が高められた表現が横溢しているのである。「芸術新潮」創刊号に掲載された「秋」は20年ぶりに訪れた奈良、二月堂の風景から書き起こされ、奔流のように湧き上がる「時間」と「歴史」の想念に自問自答を反復する思考を描き出し、2月号の「蘇我馬子の墓」では飛鳥の「石舞台」古墳に触発された思いを「日本書紀」の記述を丹念に追跡することで、武内宿禰、蘇我馬子、そして聖徳太子の人としての形を浮き彫りにすると同時に、古典や伝統について独自の思考を紡ぎ出していく。
伝統という言葉は、習慣という言葉よりも、遥かに古典という言葉に近いと私は考えたい。そして古典とは、この言葉の歴史からみても、反歴史的概念である。
といった激しい言葉が現れる。つまり、古典と過去、或いは古典と昔という隣り合う概念は親和性を有してはいないと言うのだ。しかし、それはどういうことなのか。古典とは「反歴史的概念」なのだというこの思考には容易ならぬものがあり、ここから多くの問いを経た後の遥か彼方、最終到達点として、『本居宣長』という作品が私に突きつける<時間論>が現れて来るように思うのである。
さて、やや飛躍し過ぎた話を元に戻せば、要は1950年の年頭から継続された古典領域への記述において、幾つかの山、思考の頂点が窺われるということ。そして、その中でもこの年の終わり近くに書かれた「偶像崇拝」(「新潮」11月)に注目したいのである。そこに古典と伝統という概念の直かな手触りを感じさせるような言葉が、折口信夫の著作をめぐって発せられているからである。また、その背景として、小林秀雄は折口信夫との交流を、この年の2月「古典をめぐりて」(「本流」第1号・国学院大学刊)と11月「燈下清談」(「図書新聞」)と2回の対談において行っていることも特筆に値しよう。
3 古物語の覚醒
折口信夫の『死者の書』は1939(昭14)年1月から3月、「日本評論」に連載された小説である。単行書となって出版されたのは4年後の1943(昭18年)であったが、おそらく小林秀雄は初出稿を読んでいたと思われる(注1)。しかし、批評文としての明確な言及は、1950(昭25)年 11月の「新潮」誌上に発表された「偶像崇拝」の文中に現れる。
それは、この年の夏、高野山で開催された「夏期大学の用事で出向いた」際の経験で、同年9月の「高野山にて」(「夕刊新大阪」)にも簡潔に触れているところである。そこでの用事の合間には、霊宝館に掲げられていた「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を「毎日飽かずながめた」とあり、この「来迎図」の成立に関わる考察を、折口信夫の著作を通して描き出しているところが「偶像崇拝」の文中に現れる。仏教美術が、仏教のドグマを表現することと、芸術表現の自律性を志向することとのせめぎ合いの中で、その芸術としての自由を行使している有り様について記し、「「来迎図」の画因は、「観無量寿経」のドグマを超えている、このことを明言した最初の人は折口信夫氏である」として、所謂「山越し弥陀」形式の「来迎図」の「画因」を解く折口の表現の特殊性を次のように記している。
折口氏の様な仕事は、先ず絵に関する深い審美的経験による直覚があり、それに豊かな歴史的教養が絡んで、これを塩梅するという風な姿をとる。つまり、詩人によって見抜かれたものは、当然詩人の表現を必要とするという事になる。従って、折口氏の「来迎図」の画因という微妙な観念を掴むのには、氏の中将姫を題材とした「死者の書」という物語、或はその解説の為に書かれた小論、解説と言っても、詩人の表現に満ちているのだが、「山越し阿弥陀像の画因」(「八雲」第三輯)を読むより他にないのであるが……
高野山に赴いて久しぶりに見た「阿弥陀二十五菩薩来迎図」について、「高野山にて」の小文では折口作品に触れてはいないが、「偶像崇拝」では眼前の「来迎図」を巡る想念の中で、「死者の書」と「山越し阿弥陀像の画因」が重なり合い、彼岸の中日、まさに没しようとする夕日を背景にして、二上山の山頂から鞍部の谷筋に沿って静々と降りてくる阿弥陀仏の幻像が彷彿として来たのかもしれない。「偶像崇拝」の文章は、折口の論じた「日祀り」や「山ごもり」、「野遊び」の民俗を紹介しつつ、「死者の書」の核心部を描いていく。
藤原南家の郎女が、彼岸中日の夕、二上山の日没に、仏の幻を見たのは、渡来した新知識に酔ったその精神なのだが、さまよい出たのは、昔乍らの日まつ祀りの女の身体であった。女心の裡に男心の伝説が生きていないわけがない。「当麻」の化尼めいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる。招いているのは二上山にいる大津皇子の霊である。或は、天若日子の霊かも知れぬ。恵心僧都は、当麻の地はずれで生まれ、学成って、比叡横川の大智識となった。「往生要集」の名は唐まで聞えた。彼が新知識の山頂で、阿弥陀の来迎を感得した時、それは、彼の幼い日に毎日眺めた二上山の落日に溶け込んだのである。折口氏は、そういう素直な感動をそのまま動機として取上げ、大胆に「山越し阿弥陀」を描いた処に、彼の巨大性があったとする。自ら釈迢空と名告るこの優れた詩人は言う、「今日も尚、高田の町から西に向って、当麻の村へ行くとすれば、日没の頃を選ぶがよい。日は両峰の間に俄かに沈むが如くして、又更に浮きあがって来るのを見るであろう」。
これは簡潔にして要を得た絶妙な批評であり、難解で知られる小説作品の主題を浮き彫りにしたに留まらず、その表現の奥に蠢く折口信夫の古代への想像力の鮮烈なイメージを素描した文章とも言えよう。もちろん折口の作品、論考を徹底的に読み込まなければ書き込めないものであるが、そのあたりの状況は、先に記した2回の対談を通して想像することは容易である。
「死者の書」は恵美押勝の権勢が漸く著しくなる世にあって、大伴の氏上として生きる家持の複雑な心理が事細かく描かれている。やがて来る藤原氏中心の律令国家の新制度に抗して、「大伴氏の旧い習しを守って、どこまでも、宮廷守護の為の武道の伝襲に、努める外にない」という覚悟を秘めつつ、眼前のそこここに現れた新時代の新制度や生活様式に疑念を禁じ得ないという家持の視点を横に配置して、「中将姫」伝説、藤原南家の郎女の失踪事件を物語るという構成である。
彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した、した、した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。
という冒頭部で、作中の滋賀津彦(大津皇子)が、刑死後に葬られた二上山の頂の塚の中で覚醒していく様子と、徐々に古い記憶が蘇り、愛した女性、耳面刀自(不比等の娘)への恋情が執心となって顕れて来る様子、そして、藤原南家の郎女が邸から失踪し、二上山の麓の万法蔵院(当麻寺)へ潜んでいる姿、「南家の郎女の神隠し」が物語られていく。そして女人結界の禁を犯して侵入した郎女が幽閉された部屋に、ひっそりと佇んでいたのが「当麻の語部の姥」であった。
郎女さま
緘黙を破って、却てもの寂しい、乾声が響いた。
郎女は御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生まれなさらぬ前 の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。
一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋り出した。姫は、この姥の顔に見知りのある気がしたわけ訣を、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじようなおむな媼が、出入りして居た。郎女たちの居の女部屋にも、何時もずかずか這入って来て、憚りなく古物語りを語った。あの中臣の志斐媼――。あれと、おなじ表情をして居る。其も、尤もであった。志斐老女が、藤氏の語部の一人であるように、此も亦、この当麻の村の旧族、当麻真人の「氏の語部」、亡び残りの一人であったのである。
「偶像崇拝」において小林秀雄が次のように要約していたのは、この姥の語りのことである。
「当麻」の化尼めいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる。招いているのは二上山にいる大津皇子の霊である。或は、天若日子の霊かも知れぬ。
藤原の家のかつてのあり方、中臣と二つに分かれた所以、そして「代々の日の御子さま」に仕えてきた「中臣の家の神業」について、「遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ」と「当麻真人の、氏の物語り」を語り続けていく当麻の語部の姥の表情は次第に、藤原南家の志斐の姥が「本式に物語りをする時の表情」に近づいていく。それを郎女が見ていると「今、当麻の語部の姥は、神懸りに入るらしく、わなわな震いはじめて居るのである」という特殊な心身の状態、一人の語部の人格が綻び、語りの言葉そのものが自らを紡ぎ出していく境位へ入っていく姿が描かれる。すなわち、自らの意思を喪失した語部の口から出て来る言葉はリズムを帯びた歌謡となって表現されていくが、その表現主体はもはや姥という存在ではなく、代々受けついできた神業としての語りという行為そのものであり、二上山の塚に眠る滋賀津彦の霊が耳面刀自としての「藤原処女」を求めているその声となって顕れるのである。歌い終えてぐったりした姥は、さらに滋賀津彦の霊が目覚め、藤原の血筋の郎女をこの二上山の麓へ招き寄せたと物語っていくのである。
語部の語る古物語を疑うことなど教えられずに育てられた郎女は、「詞の端々までも、真実を感じて聴いて居る」が、世はもはや氏の語部の神の業など顧みない時代になっていた。
4 古物語の終焉
折口信夫が「死者の書」において描いたものは、古代における<近代>の始まりであって、漢才と言われた学識の源であり、次々に渡来して新奇を競う中国由来の文物が知識人の学問を席巻した時代である。
大伴家持は自らの古い家筋の伝えをまだまだ守っていこうとする人物だが、やはり漢土の才に抗えない魅力を感じることを恵美押勝へ素直に告げる。愛読した宋玉や王褒の詩を離れて「近頃は、方を換えて、張文成を拾い読みすることにしました」と言うと、押勝も肯いつつ、こう答える印象的な場面がある。
(押勝)おれなどは、張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気の尽きてしもうた心持ちがする。――じゃが全く、文成はええのう。あの仁に会うて来た者の話では、猪肥えのした、唯の漢土びとじゃったげなが、心はまるで、やまとのものと、一つと思うが、お身なら、諾うてくれるだろうの。
(家持)文成に限ることではおざらぬが、あちらの物は、読んで居て、知らぬ事ばかり教えられるようで、時々ふっと思い返すと、こんな思わざった考えを、いつの間にか、持っている――そんな空恐ろしい気さえすることが、ありますて。お身さまにも、そんな経験は、おありでがな。
(押勝)大ありおおあり。毎日毎日、其よ。しまいに、どうなるのじゃ。こんなに智慧づいては、と思われてならぬことが――。
張文成とは万葉歌人たちに愛読された『遊仙窟』の作者であり、中国の恋愛伝奇小説として文字通り一世を風靡した物語であった。男性主人公が仙界へ闖入し、そこで出会った二人の仙女に歓待されて恋愛三昧に耽っていくという世界は、押勝、家持等の理想世界でもあったというわけである。しかし、それよりも、中国渡来の文物に憧れ、これにすっかり馴染んできた者が、ふと気づく我が身の変貌に、古来の大伴氏、その氏上家の矜恃を胸底に潜めていた家持の、進取と保守に切り裂かれた精神が垣間見られることが重要である。これを宣長風に言うなら、自然と、知らず知らずのうちに身についてしまった漢意の強さに気づき愕然とする、というところであろうか。その後、二人の会話は藤原南家の郎女が失踪した事件に触れていくが、郎女の早熟さ、漢才の博識を指摘しつつも、藤原の氏姫、斎姫としての神の業に就く資質が、生まれついてからあったことを押勝はそれとなくほのめかす。郎女の今後を案じる家持に対して「気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は――もう、人間の手へは戻らぬかも知れんぞ」と独り言を続けるのみになる。しかし、その頃、当麻寺に籠もっている郎女の寝所には、夜な夜な密かに近付いてくる足音が聞こえるようになっている。そして、夢とうつつの境に浮かんで見えたのは「黄金の髪」の中から「匂い出た荘厳な顔」、「閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る」。これが、郎女の幻像として顕れた阿弥陀来迎の図柄となるが、その裏側には、二上山の塚の玄室で覚醒した滋賀津彦の霊が耳面刀自を求めて彷徨い出てきたという、昔ながらの光景が広がっている。ここでも、斎姫の資質を有する郎女の感応力が鋭敏に応じたという古代さながらの生き方と、それへ上書きされていった漢才、つまり<近代>の二重写しが描写されていくのである。
失踪した郎女が当麻寺に止め置かれていることを知った藤原南家は、姫の奪還と守護のために寺内で近侍することになるが、既に新制度下に暮らし始めた仕え人たちにあっては「郎女の魂があくがれ出」てしまったとしか思いつかない。それでもさすがに事の異常さを感じて、「魂ごいの為に、山尋ねの呪術をしてみたらどうだろう」と昔ながらの対処法を唱える者も出て来るが、即座に否定される。
乳母は一口に言い消した。姫様、当麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計わずに、私にした当麻真人の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。当麻語部とか謂った蠱物使いのような婆が、出しゃばっての差配が、こんな事を惹き起こしたのだ。……あらぬ者の魂を呼び出して、郎女様におつけ申しあげたに違いない。もう、軽はずみな呪術は思いとまるとしよう。
もはや新社会に拡がった<近代>の思考にあっては、氏の家の昔語り、神代からの言い伝えを、氏上の祭の際に物語って聴かせるという特権的な地位を与えられ、祖先の栄光を再現前させるような力を持った語部の働きは、「蠱物使い」、「蠱物姥の古語り」などと蔑まれ、かつての権威は地に落ちているのであった。
「死者の書」の最後は、うち捨てられた古代そのものが、国の中心から、そして氏の上の家からも追いやられてしまう有様、当麻語部の姥の流浪を予見させるように終わっていく。
もう、世の人の心は賢しくなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、信をうちこんで聴く者のある筈はなかった。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言う者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だったなど言う話が、どの村でも、笑い咄のように言われるような世の中になって居た。当麻語部の媼なども、都の上﨟の、もの疑いせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、忽違った氏の語部なるが故に、追い退けられたのであった。
そう言う聴きてを見あてた刹那に、持った執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又廬堂に近い木立の陰でも、或は其処を見おろす山の上からでも、郎女に向かってする、ひとり語りは続けられていた。……秋深くなるにつれて、衰えの、目立って来た姥は、知る限りの物語りを、喋りつづけて死のう、と言う腹を決めた。そうして、郎女の耳に近い処をと覓めて、さまよい歩くようになった。
当麻語部の姥のように、氏族の伝統と誇りを堅持してきた語部たちが、うち捨てられ、それぞれが語っていた神代からの物語に誰も耳を傾けなくなった時代を「死者の書」は悲哀をこめて描いていた。そして物語が神から離れてしまった時に、古物語は終焉を迎えたのである。
5 古物語の残照
折口信夫はここで日本文学史における芸能及び芸能民の成立過程を論じていることになるのだが、その歴史的展開については、本稿とは別の話になる。それよりも先述した小林秀雄が把握した古物語の機能について、もう一度振り返ってみよう。
「当麻」の化尼めいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる
郎女が当麻の語部の姥から聴かされる「天若日子」の物語は、聴き入っている郎女にとって、「生まれぬ先から知っていた事」としてその心身を領していくのであって、いわば氏族の淵源を語る神話の内部にもう一度生きること、先祖とともに生きることを強要されていくことなのだ。しかし、その前提として、「もの疑いせぬ清い心」、「詞の端々までも、真実を感じて聴いて居る」という聴き手としての資質が重要なことになる。
こうした昔物語の聴き手の有りかたは、もちろん、書かれた物語の読み手となっても同様に引き継がれていったはずで、それは『本居宣長』の第十三回を想い起こせば足りることである。『源氏物語』の「蛍」の巻の物語論について書かれたところを再読しよう。長雨の徒然に絵物語に読み耽る玉鬘の君と、物語論にかこつけて彼女を口説き落とそうと迫る光源氏との間に交わされる会話である。そこで、源氏は「空言」ばかりの物語に女は「あざむかれ」ているばかりだとからかうが、物語に夢中になっている玉鬘は「たゞ、いと、まことのこととこそ、思ひ給へられけれ」と反論する。
玉鬘の源氏に対する抗議だが、当然、玉鬘の物語への無邪気な信頼を、式部は容認している筈である。認めなければ、物語への入口が無くなるだろう。「まこと」か「そらごと」かと問う分別から物語に近附く道はあるまい。先ず必要なものは、分別ある心ではなく、素直な心である。
すなわち、物語が開く道へ自ら歩んでいこうとする者は、耳に入ってくる語りに一心に聴い入るか、眼前の文章の流れに身を寄せて読み耽るかの差異はあっても、いつの世にも存在しているということであり、さらに言えば、人間の心身の生きている仕組みそのものと、一見したところ幾つもの対象としてあるような物語という言葉の総体が、実は二つのものではないということを暗示してはいないか。つまり、語り、聴き、書き、読むという基本的な言語行為は、いくつかの単語を言語記号としてやりとりしているのではなく、単語一つの発声と聴取の過程においても、言外の物語行為というフレームが起動し、コミュニケーションの全体を覆っているのであって、発話を理解するとは、この物語システムの中にいるからこそなのではなかろうか。
さて、話を戻して、「死者の書」における物語論の可能性を抽出してみよう。古物語の語り手の「神懸かり」にまで至る極度の集中力と、その聴き手の「魂があくがれ出」るまでの感応力、その相互作用の力が臨界に到達するとき、「生まれぬ先き」の時空において、神話の姿が幻像となって顕現する。そうしたことが郎女の精神構造を組み直し、二上山から降りて来る不可思議な力を素直に迎え入れた時、しかし、それまで育まれた「漢才」の言葉によってその力は、「なも阿弥陀ほとけ。あなとうと、阿弥陀ほとけ」(「死者の書」十七回)と自然に象られて現れたのである。昔物語の語りによって昔の人々の心理や行為の時空へと我が身は誘われていくが、そこで把握された「生まれぬ先」の経験は、今の、<近代>の言葉によって認識される他にない。したがって、「死者の書」、死んだ者たちの書物とは、先祖たちの古物語という口承文化に上書きされた<近代の小説>なのである。
しかし、次々に生み出される新しい物語たちも、それを構成する言葉は大きく変化していったとしても、連綿と続く日本語という言語構造に他ならないなら、その表現の深層に潜む言霊の方は生き続けているはずである。遙か昔に終焉を迎えた古物語の語り、神懸かった語部の身体を仲介者とすることによってのみ発動された物語の神の力は、物語に入り込もうとする集中力、物語が本来持っている読む者への誘惑を、遮り、妨げることさえしなければ、いつでも復活、覚醒する可能性を秘めているのではあるまいか。
当麻の語部の姥の昔語り、昔物語が郎女の未生以前の宿命を語ることによって、神々の時間と空間の拡がりの遙か彼方へと、聴く者の想像力を飛翔させるが、その時空とは物語行為のただ中にあって初めて顕現するのであって、その時と場所とはいつでも同じ一つの成り立ちにおいて留まっているのである。したがって、昔物語を語る行為はいつでも同じ言葉を反復しているのがその本来的なあり方であり、その意味では、物語行為の緩慢な動きそのものには直線的なベクトル、我々が通念として抱いている時系列上に出来事が並びつつ、始まりから終わりまでを区切るような直線上のある線分を表現したのもではなかったのだ。
もはや誰も聴く耳を持たなくなったその時代、「聞く人のない森の中」で「つぶつぶと物言う」語部の生き残りと同じように、当麻氏の語部の最後の生き残りの姥が我が身に伝承されてきた古物語のすべてを郎女の耳へ聴かせようと「ひとり語り」を続けていたという。その「つぶつぶ」と果てしなく続けられる語りの詞章は、同じ時、同じ場所を示しつつ、くるり、くるりと旋回しているはずなのである。
(つづく)
注(1)本誌2017年12月号の拙稿「小林秀雄 その古典との出会い」において、1939(昭14)年春から堀辰雄が鎌倉小町へ転居した際、堀から折口信夫の業績について話を聞いていたことを記したので、参照されたい。
なお、本稿で引用、言及した折口信夫「死者の書」は、角川ソフィア文庫版を使用している。これは注記も豊富で多様な折口の用語についても適切な解説が盛り込まれており、現在もっとも読みやすい版である。ただし、この文庫版の以前には、中公文庫の中に「死者の書」は収められていたが、これには「山越しの阿弥陀像の画因」も収録されているので合わせて読みたいところである。
私は、ふとした時、亡くなった人の声が聞こえることがある。
唐突にこんなことを言うと、奇異に聞こえるであろうし、少々正確さに欠ける物言いになるだろう。より正確に言おうとするならば、目の前にいないはずの知人の声が聞こえる、ということになる。
なるほど、それは幻覚に違いない。幻覚には違いないが、しかしどうにも、幻覚の一言で済ませる気にはなれない。物理的因果関係に対する誤謬を幻覚というなら、私達の「いのち」こそ、幻覚にすぎまい。
あえて言うならば、この声は、私がその人と共鳴した、「いのち」の残響だろう。
この声が聞こえると、少し、その人に会いたくなる。だからだろうか、亡くなった人の声が聞こえると、少し、かなしくなる。
涙が出るわけではないし、気分が沈むわけでもない。
ただ、あの人と会えないということを思い出すのだ。
あるいは、このかなしさは、故郷に帰る術を失った、私の中の「いのち」のなげきなのだろうか。
――女神が、国に還らんとする男神に、千引石を隔てて賜う「汝国」という言葉を、宣長は次のように註した、――「汝国とは、此ノ顕国をさすなり、抑モ御親生成給る国をしも、かく他げに詔ふ、生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける」と。(小林秀雄「本居宣長」第五十章 新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.204より)
*
小林秀雄著『本居宣長』の中で、印象的な、あるいは象徴的と言いたくなるような言葉はいくつもあるが、何度も読み返すうえで、幾重にも絡まる言葉たちとは別種の存在感を持って佇んでいる、不思議な言葉が、ひとつある。
それが、「死」という言葉だ。
いや、言葉というより、概念、あるいは出来事、もしくは、「死」という「もの」といった方がいいかもしれない。「死」という言葉そのものは、珍しく、というべきか、『本居宣長』という著作の中で、そこまで特徴的な使われ方をしてはいない。「死」にまつわる場面こそ、著作全体を通しても印象的で重要な部分を占めてはいるが、そのような場面において、「死」という言葉そのものは、意外なほど平易な意味合いで使われている。少なくとも私には、そのように思われた。
もちろんそれは、私自身がいまだ「死」というものに実感を持てていないということもあるに違いない。それに加え、我が身をもって体験することはできず、本当にそれを体験した人の語るところを聞くこともできない、「死」というもの自体が持つ特殊な性質もあるだろう。
――私達は、現に死を嘆いていながら、一方、死ねば、もはや嘆くことさえ出来なくなるのをよく知っている。生きている人間には、直かに、あからさまに、死を知る術がないのなら、死人だけが、死を本当に知っているといえるだろう。これも亦、解り切った話になるではないか。まさしく、そのような、分析的には判じ難い顔を、死は、私達に見せているのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.198)
先程、「死」という言葉が意外なほど平易な意味合いで使われているといったが、それは当然、軽いということではない。『本居宣長』という著作自体、宣長の墓と遺言書に始まり、最後には、宣長が門人達の「小手前の安心はいかゞ」という問いになんとか答えようとする中で、「死」を「かなしむより外の心な」き古の人々の、古書熟読を通して宣長に発明された、「神の御名」という「徴」を詠むという行為によって悲しみを見定める「術」が語られ、また宣長の遺言書という自問自答に帰ってくる……と、一息に言ってしまっては乱暴にすぎるが、一応はそのような形をとっていると言えよう。
また、その作中においても、契沖の遺言書や、ついにゆく道に臨んだ在原業平の歌、源氏の君の雲隠れや、未遂に終わった浮舟の入水、ほとんど死を命じられたに等しい倭建命の嘆きなど、たびたび、「死」にまつわる印象的な場面が表れてくる。
そもそも、宣長本人をはじめ、作中の登場人物達をつないでいる学問というもの自体、古書吟味を通じた歴史への推参である以上、各々の最終的な目的地や到達点はともかく、その道筋において、今は亡き人を如何に思い出すか、そういう一筋を外れることはできまい。「死」そのものはともかく、少なくとも「死」のあとに残されたものと如何に向き合うかということは、『本居宣長』という著作を通して、常に提示されている問いとすら言えるだろう。
先に、私は「死」というものに実感を持てないといった。もちろんそれは、「死」というものと向かい合う経験の少なさから来ている面もあろうが、その一方で、「死」という言葉に実感を持てない自分を発見させたのは、近しい人が亡くなり、その遺体を目にするという事件、いうなれば、「死」の足跡を否応なく見せつけられるという経験からだった。
とはいっても、かの人が亡くなった瞬間を目にしたというわけではない。それでも、確かにそこにあったはずの命、目の前にある体と密接に繋がっていたはずの、自分のよく知るあの命が、今やその体からいなくなってしまっている、この動かしがたい感じに対して、「死」という言葉は、あまりにも「死」という概念しかあらわしていない、そんな風に思われてしかたがなかった。
これは、なにも思索の上だけの話ではなく、実際にこの事件を経てのち、私は「死」という言葉を使わなくなっていった。正確に言えば、「死」という概念や事件について話す時に強いて「死」という言葉を避けはしないが、具体的な人物について、殊に、近しい人、私がその命を知っている人について話す時、気が付けば、「死」という言葉を避けるようになっていた。もとより軽々に使うような言葉ではないが、それでも、あえてこの言葉の使用を避けている自分に気づき、驚くことすらある。
そんな時、「死」の代わりに使われる言葉が、「なくなった」、あるいは「いなくなった」だ。また、現代的でもないし立場的に正確な言い方でもないだろうが、時に「かくれた」とすら、言いたくなる時がある。
「かくれた」はともかく、ある人が「なくなった」「いなくなった」というのは、そう特殊な用法でもないだろう。もちろん、私はここで文法的な正誤を問いたいわけではない。ただ、あの人の、この世に遺された体を前にした時の、私が受け止めたところを言い表すならば、こちらの方がよりしっくりくる、ということだ。
いったい、何がそこから「いなくなった」のか。
それはもちろん、私たちが「いのち」とよぶものだ。
「いのち」とは何か。
この問いに明答する術を私は持たないが、明瞭な定義を持ちえないようなこの言葉に、しかし、はっきりとした実感を抱いていない人はいないであろう。
私たちは、目の前の花が造花か生花か確かめようとする時、その花に触れようとする。分析的に言うなら、水分含有量や自然物と人工物の規則性の違いなどを確認しているといえようが、私たちはそんなことを意識して手を伸ばすわけではあるまい。ただ、私たちがその花に対して持つ「いのち」の手触りを、そこに確かめようと手を伸ばすのだろう。
「いのち」と一言にいってしまったが、当然ながら、この世に同じ「いのち」などというものは二つとない。私の知る一人一人、一匹一樹が、それぞれの「いのち」を持っており、誤解を恐れず言うならば、全ての「いのち」に共通する点などない、とすら言えるだろう。唯一、我々各々が持つ実感だけが、「いのち」という言葉を支えている。少なくとも私には、そう見るほかないように思われる。
もちろん、生物学的、医学的、あるいは法学的に、それぞれ命の定義を与えることはできようし、各分野の探求や実践において、強いてそれらを避ける必要もあるまいが、それはその分野における現時点での限界と必要性に応じて用意された物差しや手桶の類であり、私たちの生活が育んだ「いのち」の趣きを全うするものではない。
そんな、私の実感と直かに結び付いた、この世に唯一無二の「いのち」が、目の前の体から「いなくなって」しまった。それが、「死」という事件の跡を目の当たりにした私の、率直な感想だった。
ただし、その一方で、この、目の前から「いなくなった」「いのち」を、消滅したとすることもまた、私には想像しがたいことだった。
かの「いのち」と容易に再会することが叶わないことはわかる。しかし、私が確かに持つこの「いのち」の感触が、跡形もなく消え去るところなど、私には到底想像できない。そしてそれは、決して私だけが持つ感想ではないだろう。
現代でも、世人は「死」を「永久の別れ」という。相手はなにも人間に限るまい。禽獣から物品に至るまで、私たちが「いのち」を感じる時、そこには、「時間」や「空間」という秩序だった生活法則では覆いきれない、「なにものか」を感じ取っているはずだ。
――瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
(崇徳院、「詞花集」)
別れとは、期待でもあるだろう。もちろん、私は亡くなった人の「いのち」がどこにいったのかと聞かれても、ただ、「ここではないどこか」としか、答えようがない。末に逢える保証などどこにもない。確かなのは、目の前にいないということだけだ。それでも、あの「いのち」はきっとあり続ける。そう思われないならば、古歌も古学も、なべて学問は、詮無きことではあるまいか。
――註の味いに想到する読者は、神代の「風儀人情」が、あるがままに語られ、その「あはれ」が、あるがままに伝えられるのに聞き入る宣長の情の姿を、直かに感じ取る筈なのである。この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の「心ばへ」を、わが「心ばへ」としていたに相違ない。(同、第28集p.204)
(了)
「古事記」の冒頭にある「神世七代」の伝説につき、令和三(2021)年度の小林秀雄に学ぶ塾における自問自答を踏まえた論考において、私は本居宣長の訓み(*1)を紹介した上で「上つ代の人々が、自ら直観したことを、心躍らせ、心寄せ合いながら、切実に語り、伝え合ってきた肉声そのものである」と記し擱筆した(「上ツ代の人が実感した『生き甲斐』」、本誌2021年夏号所載)。
その伝説につき、小林秀雄先生は「本居宣長」五十章で、このように言っている。
「彼等(坂口注;神代を語る無名の作者達)の眼には、宣長の註解の言い方で言えば、神々の生き死にの「序次」は、時間的に「縦」につづくものではなく、「横」ざまに並び、「同時」に現れて来る像を取って映じていた」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)。
しかも、この、「縦」ではなく、「横」ざまに「同時」に現れて来るということについては、四十八章と五十章の二箇所でも、次のように言及されている。
「高天原に、次々に成り坐す神々の名が挙げられるに添うて進む註解に導かれ、これを、神々の系譜と呼ぶのが、そもそも適切ではない、と宣長が考えているのが、其処にはっきり見てとれる。註解によれば、次何の神、次何の神とある、その次という言葉は、――『其に縦横の別あり、縦は、仮令ば父の後を子の嗣たぐひなり、横は、兄の次に弟の生るゝ類ヒなり、記中に次とあるは、皆此ノ横の意なり、されば今此なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とある次まで、皆同時にして、指続き次第に成リ坐ること、兄弟の次序の如し、(父子の次第の如く、前ノ神の御世過て、次に後ノ神とつづくには非ず、おもひまがふること勿れ)』、――と言う。『神世七代』の神々の出現が、古人には『同時』の出来事に見えていた、それに間違いはないとする。神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様に並列して現れるのであって、とても神々の系譜などという言葉を、うっかり使うわけにはいかない。『天地初発時』と語る古人の、その語り様に即して言えば、彼等の『時』は、『天地ノ初発ノ』という、具体的で、而も絶対的な内容を持つものであり、『時』の縦様の次序は消え、『時』は停止する、とはっきり言うのである」。(同)
「『神世七代』の伝説を、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、『天地の初発の時』と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。『神世七代』が描き出している、その主題の像である。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである」。(同)
一方、宣長自身も、「古事記伝」の中で、このことに三度言及している(*2)。
このように、小林先生も宣長も重ねて強調している「神代を語る無名の作者達」の眼には、神々が「縦」ではなく、「横」ざまに「同時」に現れて来るように見えていたということ、「神代七代」の伝説が、一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知できるように語られているということが、具体的にどういうことなのか、というのが今回の自問である。
今一度、冒頭に紹介した小林先生の言葉をながめてみよう。
「神々の生き死にの「序次」は、時間的に「縦」につづくものではなく、「横」ざまに並び、「同時」に現れて来る像を取って映じていた」。
「像」とある。ここで、令和三(2021)年十一月に有馬雄祐さんが、本塾の中で行った、「かたち」という言葉の用例分析を思い出したい。有馬さんは、「物の『かたち』は、あるがままの情が物に直に触れることで観えてくるもの」、「理が介在する以前の事物の純粋な知覚経験」と言っている(*3)。それでは、ここでいう「像」とは何か? 宣長は何を観たのか?
用例分析の通り、小林先生は、本文において「かたち」という言葉を、「かたち」、「形」、「性質情状」、「像」というように使い分けていて、「像」という字で「カタチ」と読ませているのは、五十章のみである。先に紹介した先生の文章の中に、こんな言葉がある。
「『天地の初発の時』と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている……。では、彼は何を見たか。『神世七代』が描き出している、その主題の像である。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映った」。宣長が見ていたものは、「間違いなく、上古の人々が抱いていた、揺るがぬ生死観であった」。
それでは、宣長には、なぜ「その主題の『像』」、すなわち上古の人々の「生死の経験」、「生死観」を観ずることができたのか? 小林先生は、これを「宣長の第二の開眼」と捉えたうえで、「開眼は、『記紀』の『神代の巻』から直かにもたらされたものだが、これは『源氏』の熟読によって、彼が予感していたところが、明瞭になった事だった、と言えるのである」と述べている。
続けて、宣長の「源氏」論における「雲隠の巻」について詳述する。「雲隠」とは、「幻の巻」と「匂兵部卿の巻」との間に置かれた、名のみあって本文のない巻のことである。「幻の巻」では、翌年に出家を控えた源氏の一年間の動静が描かれ、次の「匂兵部卿の巻」との間に八年間の空白が置かれている。源氏の最期については、後の「宿木の巻」において、「二三年ばかりの末に世を背きたまひし嵯峨の院」と、出家後二三年で亡くなったことが、静かにそれとなく語られるのみである……
そこで小林先生は、「主人公の死は語られはしなかったが、その謎めいた反響は、物語の上に、その跡を残さざるを得なかったのである。宣長は、作者式部の心中に入り込み、これを聞き分けた」と断言したうえで、「繰返して言おう」と述べて、こう続ける。
「……われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。……己れの死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめていない人はないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下ろしている……愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確かめる事によって完成した」。
そして、そのような、上古の人々の意識が、悲しみの極まるところで、「無内容とも見えるほど純化した時、生ま身の人間の限りない果敢無さ、弱さが、内容として露わにならざるを得なかった。宣長は、そのように見た。『源氏』論に用意されていた思想の、当然の帰結であった、と見ていい」。「宣長の第二の開眼」もまた、第一のそれと同じく「源氏」から来たのである。
その後、小林先生は、「古事記」で語られている、伊邪那美神の死に向き合う伊邪那岐神の嘆きについて、宣長が「生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける」と註した想いを汲んだうえで、このように言っている。
「この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。そう言う宣長によれば、「人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省の事は……各人が完了する他はない……。しかし、其処に要求されている……直観の働きは、誰もが持って生れて来た、「まごころ」に備わる、智慧の働きであった……。そして、死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける。休む事のない生の足どりが、「可畏き物」として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しない……」。
すなわち、そのように生死を観ずることもまた人性の基本構造であり、古人の「心ばへ」をわが「心ばへ」とする者は、宣長であれ小林先生であれ私達であれ、自身の「心ばへ」が古人のそれと同様に、人性として生死を観じている、ということに思い至らざるを得ない。
以上、本文から離れぬよう小林先生の言葉を追ってきたものの、これだけでは十分に肚に落ちたとは言い切れず、若干理屈が先立った感もある。改めて本文に立ち還ってみたい。
そうすると、伊邪那岐と伊邪那美の最後の別れの場面の後にある、先生の言葉が大きく気になり始めた。これまで十数回も向き合ってきて、不覚にも読み飛ばしていた一文である。
「神代を語る無名の作者達は、『雲隠の巻』をどう扱ったか。彼等にとって、『雲隠の巻』は、名のみの巻ではなかった。彼等は、その『詞』を求め、たしかに、これを得たではないか」。
小林先生は、「古事記」の「神世七代」の伝説を語り合ってきた古人が、後の世に生きた紫式部の「源氏物語」に遺された「雲隠」をどう扱ったか、と書いているのである。時系列が完全に逆転しているようだ。しかし、その直前には、こう書かれている。
「この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。
だとすれば、上記の一文は、宣長の「心ばへ」に乗り移った無名の作者達は、「雲隠の巻」をどう扱ったか、と読めば、その含意がわかるような気もしてくる……
いや、そう理屈張らなくても、この前後の文章を、眺めるように、繰り返し繰り返し読んでみると、その逆転が、不思議なこと、辻つまの合わないこととは思えなくなってくる。前後には、こんな記述が続いて現れる(以下、傍点筆者)。
「宣長は、ここ(坂口注;伊邪那岐神の嘆きの件)の詳しい註の中で、契沖に倣って、『万葉集、巻二』から歌を一首引いている。高市皇子の薨去を悼んだ(坂口注;柿本)人麿の長歌は有名だが、これにつづく短歌で、『或書反歌』とあるもの、――「哭沢の 神社に神酒すゑ 禱祈れども わが王は 高日知らしぬ」――『万葉』の歌人が、伊邪那岐命の嘆きを模倣している状は、明らかであろう」(*4)(*5)。
「今度は、伊邪那岐の嘆きだが、それより、ここで注意すべきは、嘆きを模倣するのは、万葉歌人ではなく、宣長自身であるところにある(*6)。……この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。
これらの文章の連なりを、「生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける」という宣長の嘆きの声とともに、眺めるように、それこそ「古事記」の伝説や「萬葉集」の長歌を、音として聴くような感覚で読んでみると、神代を語る無名の作者達、萬葉の歌人、紫式部、契沖、宣長、それぞれの「心ばへ」が、横一線に並んでいるように観えては来ないだろうか……
逆に言えば、そのように「横ざま」に観えてくる時の私たちの心持ちは、学生時代に、歴史の試験で覚えた時のような、例えば縄文→弥生→奈良→平安→鎌倉……という人為的に設定された時代区分による時系列的な整理として想起する時のそれとは、大いに異なっているようには感じられないだろうか……
小林先生は、そういう感覚を、その微妙なところを、読者になんとか伝えようとして、あえてこのような書き方をされたのではないかとさえ思えてくる。
本稿の冒頭で、昨年度の「自問自答」についての拙稿における結語部分を紹介した。それが、「神世七代」の伝説を、古人の生きがいという側面から光を当てたものだとすれば、本稿は、古人が死をどのように観じてきたのか、という側面から照射したものとなる。
そこから浮かび上がってくるものは、古人たちが長い時間をかけて見つめ続けてきた、のみならず、私たちでもそうせざるをえない宿命にある、「死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様」なのである。
(*1)(「神代一之巻・天地初発の段」、本居宣長「古事記伝」倉野憲司校訂、岩波文庫より)
天地初発之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並独神成坐而。隠身也。
次国雅如浮脂而。久羅下那洲多陀用弊琉之時。如葦牙因萌騰之物而成神名。宇麻志阿斯訶備比古遅神。次天之常立神。此二柱神亦独神成坐而。隠身也。
上件五柱神者別天神。
次成神名国之常立神。次豊雲野神。此二柱神亦独神成坐而。隠身也。次成神名宇比地邇神。次妹須比遅邇神。次角杙神。次妹活杙神。次意富斗能地神。次妹大斗乃弁神。次淤母陀琉神。次妹阿夜訶志古泥神。次伊邪那岐神。次妹伊邪那美神。
上件自国之常立神以下。伊邪那美神以前。併称神世七代。
(*2)「其に縦横の別あり、縦は、仮令ば父の後を子の嗣たぐひなり、横は、兄の次に弟の生るゝ類ヒなり、記中に次とあるは、皆此ノ横の意なり、されば今此なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とある次まで、皆同時にして、指続き次第に成リ坐ること、兄弟の次序の如し、(父子の次第の如く、前ノ神の御世過て、次に後ノ神とつづくには非ず、おもひまがふること勿れ)」(同上)
「此は父子相嗣如く、前の神の御代過て、次ノ神の御代とつづけるには非ず。上にも云る如く、此ノ七代の神たちは、追次ひて生リ坐て、伊邪那岐伊邪那美ノ神までも、なほ天地の初の時なり。(「同・神世七代の段」同)
「天之御中主ノ神より此ノ二柱ノ神までは、さしつづきて次第に同ジ時に成リ坐て、此ノ時も即かの国稚浮脂ノ如クニシテ漂蕩る時なり。(「同・淤能碁呂嶋の段」同)
(*3)関連論考として、有馬雄祐「『かたち』について」、『好・信・楽』2021年秋号(通巻30号記念号)所載
(*4)(「神代三之巻・伊邪那美命石隠の段」、本居宣長「古事記伝」倉野憲司校訂、岩波文庫より)
故爾伊邪那岐命詔之。愛我那邇妹命乎。謂易子之一本乎。乃匍匐御枕方。匍匐御足而哭時。於御涙所成神。坐香山之畝尾木本。名泣澤女神。葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。
……○泣澤女ノ神。萬葉二ノ巻に、哭澤之、神社爾三輪須恵、雖祷祈、我王者、高日所知奴、【昔かく人の命を此ノ神に祈りけむ由は、伊邪美ノ神の崩リ坐るを哀みたまへる御涙より成リ坐る神なればか】
(*5)「萬葉集」二の巻所収のこの歌(二〇二番歌)については、参考まで、伊藤博氏による解説(「萬葉集釋注」一、集英社)も付しておく。
――二〇二の歌も「或書の反歌一首」とあるのによれば、反歌として機能したのであり、これは、長歌の異文系統の反歌だったのではないかと思われる。
哭沢の神社に神酒の瓶を据え参らせて、無事をお祈りしたけれども、そのかいもなく、我が大君は、空高く昇って天上を治めておられる。
というこの歌は、確実に皇子薨去直後の詠である。左注によれば、「類聚歌林」には、檜隈女王が哭沢の神社で霊験のないのを怨んだ歌として伝えるという。
檜隈女王は伝未詳。死をとどめようとする祈りは死者に縁深い女性が行なう習いであった。……この女性は、高市皇子の娘または妻のいずれかであろう。……遺族の慟哭をいくらかでも鎮めてやりたいとの心やりから、薨去直後のその歌を人麻呂の殯宮挽歌に包み込んだことから、この異伝が生じたのであろう。
(*6)(「神代四之巻・夜見國の段」、同)
最後其妹伊邪那美命身自追来焉。爾千引石引塞其黄泉比良坂。其石置中。各對立而度事戸之時。伊邪那美命言。愛我那勢命。爲如此者。汝國之人草一日絞殺千頭。爾伊邪那岐命詔。愛我那邇妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。
……○汝ノ國とは、此ノ顕國をさすなり。抑モ御親生成給る國をしも、かく他げに詔ふ、生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける。
【参考文献】
・『源氏物語』(「新潮日本古典集成」、石田穣二・清水好子 校注)
【備考】
・坂口慶樹「上ツ代の人が実感した『生き甲斐』」、「好・信・楽」2021年夏号
(了)
「本居宣長」第一章で、小林秀雄氏は、宣長の葬式について「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、……」と記している。「葬式が少々風変りな事」については確かに頷ける。しかし「そうなるより他なりようがなかった」とみなすことができる「彼が到達した思想」とは何を指すのか、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかった」と記したのは何故なのか、この二点を明らかにしたいというのが本稿の趣旨である。
確かに宣長が指示した葬式は風変りである。宣長は樹敬寺と妙楽寺の両方に墓を設けることとしたが、これは「両墓制」と呼ばれ、当時の風習からしても不自然ではない。単に埋葬用と墓詣り用に分けるためだった。しかし両墓制と言えども宣長のように、樹敬寺の詣り墓は仏式で、妙楽寺の埋め墓は神道式でというのは当時も珍しかったのではないか。また宣長は「他所他国之人」に対しては妙楽寺の方を案内せよと記している。「他所他国之人」は埋め墓に詣ってくれということであり、それは埋め墓の趣旨とは異なる。そして何より風変りな点は妙楽寺に遺骸をいれた棺を夜中に密かに送り届けるように指示した点である。樹敬寺経由で妙楽寺に送り届けるのならまだしも、何故直接、しかも夜中に密かに妙楽寺なのか、何故樹敬寺へは空送なのか、これらは奉行所ならずとも抱く疑問であり、奉行所も「申披六ケ敷筋」と言わざるを得なかったのも当然である。直接妙楽寺ということを事前に奉行所に断っておけと遺言書にいれたことを考えると、宣長自身も了解が得られるだろうかと多少は不安に思っていたのだと思う。上述のような葬式に宣長は何故拘ったのだろうか。
おそらく宣長は、死後妙楽寺に直接行きたかった、樹敬寺を経由したくなかった、そういうことだろう。だから遺骸をいれた棺を直接妙楽寺に送り届けるように指示し、然も樹敬寺を経由しなかったことを人目に触れさせたくなかったのだ。そして本居家およびその親戚筋、近隣の人々、あるいは宣長の思想に賛同しない人たち、もしくは理解できない人たちには葬式に参列しても違和感なく見送ってもらい、その人たちの墓詣りは樹敬寺に行ってもらうこととしたのだろう。宣長も本居家の一員として対外的にそのように配慮したのだが、それは宣長の性格が生来戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったためであろう。そして他所他国の人が遠路はるばるわざわざ詣ってくれるということは宣長の思想に少なくとも理解ある人であろうから、その人には妙楽寺の方に案内せよとしたのだろう。ではなぜ宣長は死後妙楽寺に行きたかったのだろうか。
それは宣長が死後の世界に行くにあたり「安心なきが安心」とも言うべき「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたからだった。これが「彼が到達した思想」を成すものの第一のポイントと思われる。「真実の神道の安心」を得た上で死後の世界に行くことにしたために妙楽寺の埋め墓の墓石は頭が四角錐状にとがった神道独特の形にして、しかも墓碑の字は「本居宣長之奥津紀」とした。「奥津紀」は神道でよくみられる様式である。また霊牌を用意することとし、そこには後諡「秋津彦美豆桜根大人」を記すように指示した。霊牌は仏教の位牌に相当する神道の呼称であり、「大人」とするのはこれも神道でよくみられる様式である。また後諡は仏教の戒名に相当する神道の呼称である。しかしながら宣長が死後の世界に行くにあたり「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたのはなぜだろうか。なお、宣長は、自分の妻は樹敬寺に葬る事として、妙楽寺の墓碑の字を本居家とはせず本居宣長とし、自分の一人だけの墓にしたのは何故かというのも謎なのだが、小林秀雄氏もこのことについては一切触れていない。
宣長が死後の世界に行くにあたり「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたのは「本居宣長」第五十章にあるように「物のあはれをしる」人間として「生死を観ずる道に踏み込んでいた」からと思われる。「死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける、休む事のない生の足取りが、『可畏き物』として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生が初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しない」からだった。またかねてから「道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、『生死の安心』がおのずから決定して動かぬ、という事にならなければ」ならないと考えていたが、「これに就いての、はっきりした啓示を、『神世七代』が終るに当って、彼は得た」からだった。その啓示とは「人は人事を以て神代を議るを、我は神代を以て人事を知れり」だった。もっとも、以上述べたことだけを以て何故「葬式が少々風変りな事」になったのかを十全に説明することはできない。
「葬式が少々風変りな事」になったのは宣長自身、「『儒仏等の習気』は捨て」るべしと考えていたからであり、また「遺骸は、夜中密々、山室に送る」べしとする旨を遺言書で指示するほど遺骸の姿といえども自ら仏式に近づきたくない、「漢意に溺れ」てはいけないという強い思いがあったからと考えられる。こうした「『漢意』の排斥」が上述の「彼が到達した思想」を成すものの第二のポイントと思われ、宣長にとって「儒仏等の習気」は捨てるべき対象であって、それだけ「真実の神道の安心」を得た上での葬式にすることを強く希望していたのだった。それは「本居宣長」第五十章にあるように上古においては「ただ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理屈を考る人も候はざりし也、さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也」ということだったのだが、宣長は「儒や仏は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろいろと理屈を申すは、真実の道にあらざる事、明らけし」と考えていたからだった。
上述の「彼が到達した思想」を成すものの第一のポイントと第二のポイントを踏まえれば「葬式が少々風変りな事」は「そうなるより他なりようがなかった」と言わざるを得ないであろう。しかし、とくに「漢意」排斥の思想を奉行所に納得してもらうのは難しいはずだ。いくら「吾邦の大道」は「自然の神道」であり、儒仏とは無縁と言っても、だから遺骸をいれた棺を直接しかも夜中に密かに妙楽寺に、というのは何故なのか、何故樹敬寺へは空送なのかを説明することはできない。端的には「儒仏等の習気」は捨てるべきと考えているからなのだが、それなら樹敬寺に葬るのを止めたらいいではないかとなりそうであり、まさに「申披六ケ敷筋」と言わざるを得ない事柄だった。
(了)
小林秀雄氏は、「宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だった」と論じます。宣長のいう「宗教的経験」とはどのようなものと小林氏は受け取ったのでしょうか。
小林氏は続けて次のように記しています。
宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝説から読み取っていたのは、むしろ宗教というものの、彼の所謂、その「出で来る所」であった。何度言ってもいい事だが、彼は、神につき、要するに、「何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏きものを迦微とは云なり」と言い、やかましい定義めいた事など一切言わなかった。勿論、言葉を濁したわけではなし、又、彼等の宗教的経験が、未熟だったとも、曖昧だったとも考えられてはいなかった。神代の物語に照らし、彼等の神との直かな関わりを想い、これをやや約めて言おうとしたら、おのずから含みの多い言い方となった、ただ、そういう事だったのである。
(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集 200頁10行目~)
宗教というと、教団や組織、あるいは体系だった聖典や経典といったものを現代の私たちは思い浮かべがちですが、宣長は、宗教の「出で来る所」である神の存在を、「可畏き物」であるとしか言いようがないと述べています。何かすぐれた、恐るべき能力をもった人や、海・山といった自然、狐や狸などの動物、それら全部をそのまま神だと素直に受け入れました。「人々めいめいの個性なり力量なりに応じて、素直に経験されていた」という、今日の信仰態度とは異なった「なだらか」な、「のどやかなる」一貫した姿勢があった。こうした原初の純粋性、それが宣長にとって「宗教的経験」であり、小林氏も宗教とは本来そういうものであったと考えられたのではないでしょうか。
小林氏は次のように述べています。
「何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり」とあったのは、飽くまでも後世の人々の為になされた註釈である事を、繰返し言って置きたい。上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。
(同第28集 86頁13行目~)
一方で、本居宣長は、桜の名所吉野山の吉野水分神社で、父・定利が、子授け祈願をして翌年に授かったということを子供の頃に度々母親から聞かされたため、自身を水分神社の申し子であると『菅笠日記』に記しています。「みくまりの 神の誓いの なかりせば これのあが身は 生まれこめやも」と歌にも詠んでおり、成人してからも水分神社の方向に向って毎朝祈りを捧げていたと伝えられています。
また、二十歳の時に宣長は、松阪の浄土宗樹敬寺で五重相伝を受けており、これは非常に信仰の厚い人やその家族が、朝から夕方まで五日間に渡って受ける儀式で、そこで血脈をもらう、それはお坊さんになることに準じるものですが、本文中で村岡典嗣氏のいう「その家庭の宗教たる浄土宗的信仰の習性」があることは全く無視できないように考えます。
先般、松阪の本居宣長旧邸を訪れた際、そこに仏壇がありました。大正天皇皇后はその旧邸をご見学の際、国学者の家に仏壇があることを意外に思われておつきの一人が案内の人にたずねたところ、「宣長は、自分の思想とは別に、熱心な仏教徒であった祖先の心を大切に思い、この仏壇を拝んでいたのです」とこたえたといいます。
以上のような、現代的な考えでの「宗教」と、宣長との具体的な関わり合いを取り上げてみると、宣長には幅広くゆるやかな信仰があったことが伺えます。しかし、小林氏が言うように、こうしたことを「いろいろと取集めてみても、そういう資材なり、手段なりをどう扱って、どういう風に開眼するに到ったかという、宣長の思想の自発性には触れる事は出来まい」との言葉は、ここで考える「宗教的経験」について、まさに当てはまることであるので、これ以上触れないことにします。古代人の、もっと原初的な体験について小林氏は指摘していると考えるからです。
音声資料として、小林氏のCDの講演集『日本の神道』(新潮社、「小林秀雄講演」第二巻「信ずることと考えること」所収)に「宗教的経験」ついて大切と思われることを話されていたので、紹介すると、「神学はいらなかった。信仰があれば足りた。生きた信仰というものは人間の宗教的経験だな、個人の。神は非常に私的な経験、僕の個人的な経験を通じて神は経験される。僕の哲学を通じて、あるいは僕の神学を通じて神を知るんじゃないんです。そんなもの後からこしらえるものなんです、人間の知恵が。だけど知恵より経験の方が先なんです。だから古代の信仰は全部神を祀った」と語っています。
小林氏の「古事記伝」からの重要な引用をここでも繰り返します。
古伝による神の古意については、「古事記伝、三之巻」に詳しい。大事な文であるから、引用は省けない。
「凡て迦微とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐ス御霊をも申し、又人はさらにも云ハず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり、さて人の中の神は、先ヅかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐スこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人とは遙に遠く、尊く可畏く坐シますが故なり、かくて次々にも神なる人、古へも今もあることなり、又天ノ下にうけばりてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴ル神神鳴リなど云ヘば、さらにもいはず、竜樹霊狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子に意富加牟都美命と云名を賜ひ、御頸玉を御倉板挙神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉のよく言語したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其ノ御霊の神を云に非ずて、直に其ノ海をも山をもさして云り、此らもいとかしこき物なるがゆゑなり、)抑迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤きもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々多くして、最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微き獣なるをや、されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差ひあることを、わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めて論ひがたき物になむありける」
(同第28集 77頁1行目~)
宣長は、古人に準じて、何か恐るべき力をもった人や、海や山、木、こういったものを神秘的なものとして信じ、尊敬の態度、親愛の態度を示しました。これは人間が人間として生まれた原初的な経験であり、まだ自分たちはそれを持っており、人間の根本的な経験としてこれを信じると宣長はいうのです。
(了)