奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  令和四年(2022)年秋号

発行 令和四年(二〇二二)十月一日

編集人  坂口 慶樹
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

副編集長

入田 丈司

副編集長・Webディレクション

金田 卓士

編集顧問

池田 雅延

 

編集後記

おなじみの、荻野徹さんによる「巻頭劇場」は、「元気のいい娘」の甥っ子が驚いたように発した、(友だちの)「ユータにもバーバがいる」という言葉から始まる。今回の四人の談話のテーマは、まさに「言葉」である。宣長は言葉の転義に注目した。この談話も、まるで生き物のように広がり、深まっていく。ゆうたくんの心の世界も、今回の直知をきっかけに、大きく大きく成長を遂げていくことだろう。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、片岡久さん、冨部久さん、鈴木美紀さん、越尾淳さんが寄稿された。

片岡さんが注目したのは、「本居宣長」の冒頭で紹介されている、小林秀雄先生が折口信夫氏の自宅を訪れた別れ際、駅の改札越しに折口氏から投げかけられた「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉である。片岡さんには、さらなる自問が湧いた。その前段で「古事記伝」の読後感が言葉にならないことをもどかしく感じ、それを「殆ど無定形な動揺する感情」と表現した小林先生の真意とは……?

一方、冨部さんも、「本居宣長」の最後に小林先生が綴っている一文を踏まえ、片岡さんと同じ折口氏の言葉に着目した。冨部さんは、池田雅延塾頭から、「本居宣長」や「モオツァルト」など、小林先生の作品の冒頭近くにおかれる身近なエピソードは、「結論です」と聞いて驚いた。しかしそれは、ただの結論ではなかった。先生の全集を紐解くことで、新たに見えてきたものがあった。

鈴木さんは、従来から「神世七代」が一幅の絵と見える宣長の眼が気になっていた。今年に入り、大切な学びの友の急逝に接し、在原業平の歌を思い出した。その歌を、繰り返し、繰り返し眺めてみた。近くには、契沖の「大明眼」があった。中江藤樹の眼には、「論語」の「郷党篇」が孔子の肖像画と映じていた。その心法が伊藤仁斎の学問の根幹をなしていた。そして、私たち塾生が「本居宣長」を十二年半かけて読んでいる意味が、鈴木さんの眼に映じてきた。

越尾さんは、「源氏物語」の「蛍の巻」において、光源氏と玉鬘との間で交わされる物語論に、宣長が紫式部の物語観を読み取ろうとしたことを小林先生が紹介されているくだりから、丁寧に本文を追っていく。越尾さんは、式部の豊かな読書経験から、物語には「まこと」と「そらごと」の単なる区別を超えた、固有の「まこと」があるということを彼女自身が体得していた、という。そこには、人がおのずと物語に惹かれてしまう本質があった。

 

 

村上哲さんは、宣長が門弟からの「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」という疑問に答えた「小手前の安心と申すは無きことに候」という言葉に注目している。そこから思いを馳せたのは、子を思う親のまごころだ。そこに「安心」はあるのか? 村上さんが向き合ったものは、その宣長の言葉そのものというよりも、むしろその言葉の姿、その答えを返した宣長の姿ではなかったか?

 

 

石川則夫さんによる「特別寄稿」のテーマは、前号に続き「物語」についてである。わけても今号では「その人間生活全般への拡張を見通せれば……」とのことである。そこには、「宣長が『物語』という用語について思い描いていた特殊な意味あい」があり、「宣長は『源氏物語』から非常に抽象度を高めた人間心理の原理論を抽出している」という。ぜひ「本居宣長」を手許において、じっくりと味読いただきたい。

 

 

今号も、手前味噌ながら、収穫の秋にふさわしく実り多き号となった。改めて全稿を読み直してみると、ある言葉や人物に着目し、たっぷりと時間をかけ向き合い続けた結果として、そんな豊饒な実りが育まれたのではないかと思われてくる……

 

実り多き、と言えば、この場を借りて、もう一つの大きな実りを紹介したい。この「小林秀雄に学ぶ塾」(通称、山の上の家の塾、鎌倉塾)の姉妹塾、兄弟塾として、池田雅延塾頭が講師(語り部)を務める「私塾レコダl’ecoda」の新しいホームページ 『身交ふ(むかう)』が、九月末に公開された。

「私塾レコダl’ecoda」の今後の日程や申し込みの手続きはもちろん、過去の講義概要や、塾生同士の交流の場である「交差点」など、盛りだくさんなコーナーが設けられている。本誌『好・信・楽』で築き上げてきた雰囲気を共有する姉妹誌、兄弟誌という位置付けであり、気軽にお立ち寄りいただき、お手許でさまざまにご愛顧いただければ幸いである。

 

本塾では、「私塾レコダl’ecoda」とも緊密に連携を図りながら、「本居宣長」を読む営みを、さらに豊かな実りをねがいつつ、留まることなく続けていきたい。早くも本年最後の刊行を迎え、引続き読者諸賢のご指導とご鞭撻を心底よりお願いする。

 

 

杉本圭司さんの連載「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、杉本さんの都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、杉本さんとともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十四 大和心という言葉

1

「大和魂という言葉」と題して、「大和心」にも一口とばくちまでは言い及んだ前回、私は最後を次のように結んだ、

―今回は「大和魂」に留め、「大和心」は次回とする、だが今回、これだけは言っておかなければならない。『精選版 日本国語大辞典』に、「大和魂」の一語意として、「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」とあるが、ここで言われている「大和魂」を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって、宣長の歌「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」は近代の「大和魂」とも国粋思想とも無関係に詠まれ、宣長六十一歳の自画自賛像に書かれているだけである。……

これを承けて、今回、ただちに「大和心」の観照に入りたいのだが、その観照を順当に運ぶためにも、前回言った「『大和魂』を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって……」以下を、次のように補正してから始めたい。

―「大和魂」を「朝日ににおう山桜花」に譬えたのは、元はと言えば江戸から明治になってにわかに欧米列強と対抗させられた大日本帝国の国粋主義、軍国主義の国策であり、その譬えの基となったのは本居宣長の歌、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」であるが、この宣長の歌は幕末以後の「大和魂」とも国粋主義思想ともいっさい関わりはない、宣長が六十一歳の還暦にあたって描いた自画像に、「筆のついでに」と前置きし、賛として書かれていただけである。……

さて、そこで、だが、宣長六十一歳の年と言えば寛政二年(一七九〇)である。慶長八年(一六〇三)に幕を開けた江戸時代が初期から中期へと移る頃であり、太平の元禄は九〇年ちかく前に過ぎ去っていたが、ペリーの黒船が浦和に現れ、動乱の幕末と呼ばれるようになる嘉永六年(一八五三)はまだ六〇年以上先という頃である。

ここから推しても宣長の念頭に勇武の気概などは毫もなかったと知られるのだが、こういう宣長の歌心を知ってか知らでか、明治になって国号を大日本帝国とした日本国の国粋主義思想、軍国主義思想が、幕末以来、勇武の標語ともなっていた「大和魂」を「朝日ににほふ山桜花」に譬えたのである。譬えただけではない、日本男児の散華さんげ、すなわち戦場での死の称誉を謀って故意に取合せたとさえ言えるのである。『日本国語大辞典』に、「大和魂」は「日本民族固有の気概あるいは精神」を言い、「朝日ににおう山桜」のように「清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう」とあるのは、大日本帝国が宣長の歌に無法にも盛り込んで引き出したイデオロギーである、俗にパッと咲いてパッと散る、桜はそこが美しいと言われるいさぎよさの通念に「大国学者」宣長の歌を着せ、あたかも宣長が身命を惜しむなと説いているかのように欺いて国民を使嗾しそうしたのである。

2

では、宣長の本意は、どうであったか、歌意をひととおり摘めば次のようになる。「敷島の」は「やまと」にかかる枕詞で、大和心って、どんな心ですか、と人に訊かれたら私はこう答える、大和心、それは、朝日ににおう山桜花のような心です、と……。

しかし、これでは要領を得まい、大和心の何たるかは知られまい。小林氏も易しい歌ではないと言っている。

氏は昭和三六年から五三年までの十八年間に計五回、真夏の九州各地で毎年催されていた「全国学生青年合宿教室」に講師として招かれ、日本全国から馳せ参じていた三、四百名の若者たちに諄々と語りかけたが、その「学生青年合宿教室」が昭和四五年八月、長崎県の雲仙で催されたときは「僕はこの頃ずっと本居宣長のことを書いていますので、それに関する感想をお話しします」と話し始め、続いてこう言った。以下、引用は新潮文庫『学生との対話』による。

―諸君は本居さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花」という歌くらいはご存じでしょう。この有名な歌には、少しもむずかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。……

―まず第一、山桜を諸君、ご存じですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。……

―山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。……

―「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。これは日本人でなければ使えないような言葉と言っていいと思います。「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。「草枕 たび行く人も 行き触れば 匂ひぬべくも 咲ける萩かも」という歌が「万葉集」にあります。旅行く人が旅寝をすると萩の色が袖に染まる、それを「萩が匂う」というのです。……

―それから「照り輝く」という意味にもなるし、無論「香に匂う」という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも「匂う」と言う。……

―だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。花の姿や言葉の意味が正確に分らないと、この歌の味わいは分りません。……

そういう「朝日ににほふ山桜花」の様を、宣長自身はこう書いている、

―花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……(『玉勝間』巻六)

恐らく、宣長の時代の人たちは、山桜という桜がどんな花であるかをよく知っていた。「におう」という言葉の意味合も、というより気配や趣きも、宣長が『玉勝間』に書いているような気配や趣きであることをよく知っていた。だから宣長も、「大和心」を人に問われれば「朝日ににおう山桜のような心です」と答えると詠んでいるのだが、小林氏は、「大和心」についてはこう言っている。

―「大和心を人問はば」という「大和心」もむずかしい言葉です。あの頃は誰も使っていない大変新しい言葉だったのです。江戸の日常語ではなかったのです。なぜならば、「大和心」という言葉は平安期の言葉なのです。平安朝の文学を知らない人には、「大和心」などという言葉は分らない。「大和魂」という言葉もやはりそうで、平安朝の文学に初めて出て来て、それ以後なくなってしまった言葉なのです。なぜか誰も使わなくなってしまったのです。江戸までずっとあの言葉はありません。……

となるといま一度、「大和心」という言葉が初めて使われている平安朝の文学、赤染衛門の歌を見ておこう、「本居宣長」の第二十五章に、次のように言われていた。

―赤染衛門は、大江匡衡おおえのまさひらの妻、匡衡は、菅家と並んだ江家ごうけの代表的文章もんじょう博士である。「乳母めのとせんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書があって、妻に贈る匡衡の歌、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかえし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとはしていない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。……

―この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発なタチならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才カラザエ、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」によりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。……

つまり、「大和心」とは、外から学んで得た技芸、智識に対して、それらの技芸、智識を十全に働かす心ばえとか人柄とかに重点が置かれていた言葉らしいのである。だが宣長はそうとは言わず、ただ「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」とだけ歌った。なぜか。宣長にしても小林氏のように、「大和心」とは技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか人柄とかに重点を置いた言葉だと、言おうと思えば言えただろう。だが宣長はそうはせず、「大和心を人問はば」と問題を提起し、「朝日ににほふ山桜花」と受けて事足れりとした。事足れりとしたというより、そうとでも言うほかなかったか、あるいはそう受けるのが、ということは、「大和心」は「山桜」で受けるのが最もふさわしいと思い決めたか、恐らく後者であろう。「大和心」もまた時と所に応じて「にほふ」ものだ、宣長は赤染衛門の歌と逸話からそう感じとり、その「にほひ」は「大和心」も「山桜」も他の言葉に換えては言い表せない、山桜の美しさは、「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……」(『玉勝間』巻六)と描きとるしかなかった、それと同断である。

大和心と山桜の歌を、そういうふうに読み取ってみると、「大和心を人問はば」は実体のない修辞句、あるいは強意句と思えてくる。「人に問われたら」を宣長は現実問題として言っているのではない、自問自答の問いとして言っている。「大和心」の何たるかは曰く言い難い、しかしこの言葉を赤染衛門の歌によって知り、その場で感じ入った宣長は、ただちに「朝日ににほふ山桜花」を思ったのではないだろうか。そしてそのうちますます「大和心」の微妙な働きに思いが及び、この心はとても一言では言えないとこの心に思いを馳せるたび自分がこの世でいちばん好きな「山桜の花」が脳裡に浮かぶ、そういう歌なのではないだろうか。だからこそ還暦を祝う自画像の賛としたのではないだろうか。

そこを小林氏は、「『匂う』はもともと『色が染まる』ということです。それから『照り輝く』という意味にもなるし、無論『香に匂う』という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも『匂う』と言う。だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも『匂う』という感じになるのです」と言い、これによって「大和心」という心は、照り輝く心であり、香りの高い心であり、艶々とした心であり、元気いっぱいの心である、これに接した人は必ずと言っていいほどこの心に染まる、感化を受ける、そういう心だと暗に言おうとしたのではないだろうか。

3

こうして大和魂と大和心についても精しく説いた小林氏の『本居宣長』は、昭和五十二年(一九七七)十月三十一日に新潮社から出た。私はその本づくりを担当させてもらったのだが、普通の本なら9ポイント活字で組むところをそれより大きい10ポイント活字で組んだ。「本居宣長」は小林氏六十三歳の春から七十四歳の秋まで月刊雑誌『新潮』に連載されたが、十一年半に及んだ原稿の総量は四〇〇字詰め原稿用紙にして一五〇〇枚分はあり、これを9ポイント活字で組むと七五〇頁にはなる。これでは途轍もなく高い本になって売れ行きが心配になるから8ポイント活字で組んで総ページ数を少なくし、定価を押さえて少しでも読者が買いやすい本にしようとするのだが、小林氏の文章は緊密緻密で多くの読者は息が続かず、その結果、「難解」というレッテルを貼って遠ざけられるという憾みをかこちがちだった。そこを私は逆手にとったのだ、10ポイントの本は明らかに9ポイントの本より視野が明るい、書店で手にとった読者に「これなら読めそうだ」とまず思ってもらおうという戦法に出たのである。本づくりの経験はまだ七年という駆け出しではあったが、周囲を見回して私には勝算があった。

昭和四十年代の半ばから五十年代にかかろうとする頃、日本の出版界は年々右肩上がりの好況が続いてどんな本もよく売れたが、出版各社はこの人こそと大事にしている著者のこれぞと言える本を刊行すると、時をおかずにその本の特装本を造って少部数の限定版として出し、それらの特装本もよく売れていた。逆から言えば、一冊の本の特装版が出るということは、版元の出版社がその本の中身を高く評価し、自信と誇りをもって出版しているということのメッセージでもあった。私は、「本居宣長」は、普通の本より特装本を先に出すことで中身の価値と魅力を訴えようと思ったのだ。

そしてそこには、もうひとつの思惑があった。「本居宣長」は、近代日本の知の領域で小林氏が初めて到達した最高峰と言ってよかったが、同時にそれは、永年にわたって文章の職人として腕を磨き続けてきた小林氏の文章術の至芸であり極致だった。そうであるなら、その知、その術を盛る本は、近代日本の出版界において最古参の一角を占め、本を造る技術についてありとあらゆる工夫を重ねてきた新潮社のすべてを結集した本こそがふさわしい、そういう思いがあった。

たしかに、これではいっそう高い本になる。だが、一年後には、第三次「小林秀雄全集」の新装普及版を出すことが決っていて、そこには、「本居宣長」も入れることになっていた。読者に買ってもらいやすい本は、こうして一年後に第四次「小林秀雄全集」の一巻として出せる、そうであるなら「本居宣長」は初版をむしろ値段の高い特装版で出し、小林秀雄のコアの読者にまずしっかり買ってもらう、そういう方針でいきたい……、編集会議の席で私はそう言った。異論が出ないではなかったが、私の構想は認められた。製作担当のA先輩は、その端正な刷り上がりで高く評価されていた精興社を本文の印刷所と決め、本文用紙を漉く、表紙の布を織る、染める、外函を組み立てる、そういう手業てわざの名人たちを連携各社に頼んで確保し、見返し、扉、口絵と、本の隅々に至るまで彼らの足並みを綿密に調整してくれた。装幀担当のS女史は、書名の字体、表紙の布、見返しの絵と、宣長にふさわしい景色を次々提案してくれて、見返しの絵には日本画の奥村土牛氏に山桜を描いてもらえることになった。校閲担当のN先輩は、『本居宣長全集』と首っ引きで小林氏の本文を読み、氏に確認したり進言したりする必要があると思われるくだりを何ヵ所も指摘してくれた。

こうして単行本『本居宣長』は世に出た。当初、四〇〇字詰原稿用紙にして一五〇〇枚分ほどあった『新潮』の掲載稿は、小林氏の手で約五〇〇枚分が削られ、最終的には10ポイント活字一段組、菊判六〇九ページで函入り、定価四〇〇〇円の本になった。今なら一〇〇〇〇円にもそれ以上にも相当する定価の本だったが、発売と同時に増刷が相次ぎ、発売半年で五〇〇〇〇部、十か月足らずで一〇〇〇〇〇部という売れ行きとなった。新聞、雑誌に相次いで書評が出たが、編集部に寄せられる投書も夥しい数になっていた十一月の末、筆跡から推して年輩と思われる読者から封書が届き、そこには大要、こう書かれていた。

―私は、本居宣長が多くの若者を死なせたと、第二次世界大戦の終戦直後から宣長を憎みぬいていました。そこへ、永年愛読し、尊敬してきた小林秀雄先生が、『新潮』に「本居宣長」を連載され始めました。先生に裏切られた気がして、以後先生の本は手に取ることさえしなくなりました。「本居宣長」が本になったことは知っていましたが、買おうという気はまるでありませんでした。ところが先日、近くの本屋で『本居宣長』を見かけ、思わず識らず買っていました。そして、気がついたら最後まで読んでいました。大きな誤解でした、悪いのは宣長ではなく、宣長を戦争に利用した軍人たちでした。無知で頑迷だった私にこの本を読ませて下さり、目を覚まさせて下さったのは、この本を造られた人たちです。私が本屋でこの本を買ったのは、本の姿に魅せられたとしか言いようがありません、最後まで読み通したのは、活字の表情に引き込まれたとしか言いようがありません。編集部をはじめ印刷所、製本所ほか、この本を造って下さった皆さんに、どうかよろしくお伝え下さい……。そう書かれていた。

封書を送ってきた読者は、戦地へ行って辛くも還ってきた人なのであろう。小林氏が「本居宣長」を書き始めてからの十二年半、氏に対して固く閉ざしていた心を氏の「本居宣長」によってひらかれ、真の宣長と初めて出会うことができたのである。

本居宣長が、多くの若者を死なせたとは、こういうことだ。

先ほども記したように、宣長の歌、「敷島の 大和心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」は、還暦の年、宣長が自画像を描いてそこに添えたもので、「大和心」とは、日本人が日本人らしく日々を生きるについての知恵や気配りを言った平安時代の言葉であった。

ところが、第二次世界大戦中、この歌は「愛国百人一首」に採られたばかりか、日本の軍部は戦意高揚のために悪用した。「大和魂」と「大和心」を「勇猛にして潔い日本民族固有の精神」と説明し、その潔さはぱっと咲いてぱっと散る山桜にも譬えられると本居宣長先生は言っている、われら日本男児は御国のために、天皇陛下のために潔く散るのだと若い兵士に吹き込んだ。そしてあの「神風特攻隊」の部隊名も、「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名づけ、宣長は散華を、戦死を称揚する思想家とされた。

4

『本居宣長』を世に送って一か月が過ぎた十二月、私は小林氏の応接間で『本居宣長』の売行き状況を報告するとともに、宣長を誤解させられていた読者のことを伝えた。氏は、「そうか……」と、短く言われただけで黙された。

小林氏は、宣長が蒙った誤解と憎悪、糾弾という人的災禍については、「本居宣長」のなかでも周辺の著作でも言及していない。思うにこれは、氏の深慮遠謀であっただろう。戦後二十年、三十年が経っていたとはいえ、小林氏が宣長弁護に出れば、まず間違いなく宣長糾弾勢力が観念的反旗を翻してくる。これによって宣長が着せられた濡れ衣はいっそう重くなるばかりか、またしても宣長の学問が誤解される、それなら宣長弁護はおくびにも見せず、黙って宣長の学問を見てもらう、読んでもらう、これに如くはない、小林氏はそう思案して「本居宣長」に臨んだのではなかっただろうか。この小林氏の深慮遠謀こそは氏の「大和心」のなさしめたところであっただろう。『本居宣長』にこめられた小林氏の「大和心」は、朝日ににおう山桜のように読者の眼間まなかいでにおっていたであろう。

(四十三 了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その十五 パッセージ

 

きみ、茂吉なんか読む? きみもあっちのほうだろ?

「あっちのほう」とは出身地のこと。たしかに「あっちのほう」で、私の郷里は米沢街道、大峠という難所の南側の麓である。越えれば米沢。斎藤茂吉のふるさと上山はその先である。もっとも、問われた先生は四国のご出身であったから、山形もその南の福島も、「道の奥」ということでは「いっしょくた」だったかも知れない。

茂吉はもう人麻呂だよ、迂闊だった、この歳まで……。

酔って、こんなふうに慨嘆されていた。「迂闊」という言葉が新鮮だった。もっともこちらは茂吉も人麻呂もよく知らなかった。だから「慨嘆」の内容もよくわからなかった。こんどお会いする時までに読んでおきます、くらいの返事をしたばかりで、その折の貴重な会話はおしまいになってしまった。

貴重な会話であった。ドイツ文学者であり文芸批評家でもあった先生だが、一年に一度ご一緒させていただく酒席で、「文学」に触れられたのはこの時がはじめてであった。そして最後になってしまった。不勉強な私は「こんどお会いする時」を期するほかなかったが、先生の急逝で、それは果たされなかった。

先生は茂吉に何を思われたのだろう。相変わらず、茂吉も人麻呂もロクに読みもせぬ怠惰だが、茂吉の歌を目にするたびに、先生の慨嘆を思い出す。思い出すだけで何もしないのだけれど、そんなことが積み重なったせいか、茂吉のいくつかの歌は頭に刻まれることになった。

 

たとえば「死にたまふ母」の連作では、次の三首が心にのこる。

 

みちのくの 母のいのちを ひと見ん 一目みんとぞ いそぐなりけれ

 

死に近き 母にそひの しんしんと とおのかはづ てんきこゆる

 

のど赤き 玄鳥つばくらめふたつ 屋梁はりにゐて 足乳たらちねの母は 死にたまふなり

 

「みちのくの」の歌は、私などにもたいへんわかりやすい。母の「いのち」を一目見よう、せめて一目、それだけのことだ。生きてください、というのではない。過剰な願望などはない、母の死は受け入れる。ただ最後に一目、その「いのち」を……。他家の養子となるべく、早く郷里を離れた茂吉であるから、実母への思いはひとしおであったかも知れない。切迫した心情がひしひしと迫る。結句は後に「ただにいそげる」と改められた。私が最初に記憶したのも、その、いわば同時性の強調されたかたちで、そのせいか「ただにいそげる」の方がはるかに生々しく、自然に入ってくるように感じられる。こちらの息もあがってくる。

「遠田のかはづ」になるとそれが落ち着いている。「いのち」を見、「添寝」できる安堵かも知れない。そのときあたりをすっかり領しているのが、夜の蛙声だ。その最中に包まれて、やがて時空の分節が曖昧になってくる。「しんしんと」という副詞も妙だ。読むうちに、それが下の七七につながるのか。あるいは上の五七から来ているのか、よくわからなくなってくる。そしてその不分明が、ここでの雰囲気を、地上が天上に結ばれていく気配を醸している。

そして「玄鳥」の歌である。冬を越して還ってくる「のど赤き玄鳥」、それはあたかも人の暮らしに寄り添うかのように語られるが、そんなものは感傷に過ぎず、その本質は、むしろ、人間的な情など超越したところに実存する宇宙の、その止むことのない節奏の象徴である。もとより、ここで根本にあるのは母の死であり、無常の悲しみだ。が、それも、その永遠のうちに処を得てこそ乗り越えられるだろう。「死にたまふ母」全五十九首、『赤光』所収の連作のなかでもその数の多さが目立っている。もとよりそれは感傷にたゆたう徒な時間の長さではない。感傷を超えんとする格闘の時間なのである。

 

「ヴァイオリニストの系譜」として十数人の紹介を試みるうちに、その演奏に対して偏狭になっていく自分を感じていた。むろん、つくりものの感傷を演じただけの演奏というものは、ジャンルを問わず、若い頃から切って捨てていたが、そうではなく、やむを得ない感傷というものもあり、しかしその克服に赴かずそこに留まるかのような「悲しき玩具」としての音楽というのが別にあって、そういうものには寛容であるべきだと思いながら、ここにきて少しく過敏になっているというわけなのだ(しかもそこにうっすらと自己嫌悪の気配も漂う)。そして、そうなって来た起点に、どうやら「茂吉」のことがあるらしい、そう思い至ったのである。まさしく迂闊なことであった。私は自分の「出自」に気づかぬまま来たわけである。それは、私のようなものには、あまりに厳しい芸術観であるからだろう。

あの過酷な時代に、過酷な境遇におかれた群衆のなかから、際立ったヴァイオリニストが出現したということ、これは容易に予想できたことであった。その典型的な一名がヴァーサ・プシホダである。それは私の、現時点での確信である。次回、彼についてもう少し考えてみたいと思う。

 

(了)

 

『本居宣長』の<時間論>へⅥ―「物語」と「道」と「歌」

1 精神の古層

 

令和4年という年の夏も漸く過ぎて行ったが、今夏もまた、と繰り返すのも躊躇されるほどの異常気象であった。梅雨という季節が極端に短かったという話が広まったと思う頃、否、実は異様に長かったのだと、盛夏に至ろうとする間の長雨をも梅雨の延長上とする話が気象予報関連の人々から流れて来てもいた。そして、この秋の実りも心配されつつ、今年の秋刀魚は異様に小さいと首をかしげる鮮魚店の噂話も事実となって現れているこの頃である。以前、いささか言及しておいた「真暦」を生きていた遥か昔の人々ならば、この変動止む方のない季節の動きをどう捉えたろうか。そして、どのような言葉として受け止めていたろうか。

また一方で、今夏を長く記憶に留める出来事があった。ある特定の宗教団体と政治、特に我が国の政治の中心にいた為政者たちとの関わりについて、その契機となった7月初頭の事件があまりにも衝撃的なものだったこともあり、政治と宗教の関係についてかつてないほどの論議がなされ、これは現在も進行中である。マスコミ各社の報道に流される、その宗教団体への入会と脱会にまつわる家族や個々人の訴えは目を覆うばかりの被害を伝えているが、本来ならば人間の生の導きとなるべき信仰という精神内面の志が、宗教団体というかたちで社会内に構造化された時、場合によっては信徒の家族そのものの崩壊さえも起こしかねないという皮肉なありようは、実を言えば、我々の誰もが身近に知っているし、おそらくほとんどの人々がどこかで多少とも経験していることではなかろうか。また、それ故にこそ、この論議は今後も止めどなく続けられて終息をみることはあるまいと思われる。「政」という漢字が、日本語で「まつりごと」と訓まれる限りは、近代の意識において祭政一致がまことしやかに分離分割されたとしても、人々の生の営みにおいては、この祭事と政治の奇妙な融合が精神の深部に潜在的に息づいているのであろう。それにしても、信仰の証の高低を測るかのように高額な寄進を促す行為が再び批判の核心に据えられて来ているが、そこへ誘われる契機として、「先祖の障り」ということを持ち出すあたり、墓じまいなどということが巷で流布されている現代にあっても、我々の精神の古層にはまだまだ先祖を敬慕する心が根強く残存していることの証しなのであろうか。そうしたところ、まさしく急所を突かれたという想いが禁じ得ないのである。たとえば、柳田国男がこの現状を見たらどう言うだろうか。

そこで、政治と宗教の論議をもう一度繰り返すと、この言い争いには、信仰という本来的に個人の深層に潜んでいる精神の志向性と、善悪正邪という共有知とその普遍性を要請する価値判断という決して交わることのない二つの領域がせめぎ合っているのである。これを簡潔に言い換えるならば、「信ずることと知ること」の問題ということになる。すなわち、このことは、小林秀雄が生涯をかけて追究した問題であり、書かれた文章、作品の深層に渦巻いている問いの姿であり、逆に言えば、この問いの姿を象った言葉の総体が、数々の作品となって現れていると捉えるべきであろう。もちろん、『本居宣長』という大著にもそうしたヴィジョンが透けて見えるはずであり、この手がかりを掴んで離さないということが、この著作を読解する上で、私が自らに課して来た努力のすべてと言えるのかも知れない。

さて、前稿では「物語」というものが如何なる語りの姿を現す言語行為であるのかについて、折口信夫『死者の書』を手がかりに考察を試みたが、そこでは、「当麻たぎまノ語部のうば」が「藤原南家の郎女いらつめ」へ向かって、彼女の潜在意識に働きかけようとする「昔語り」の語り方に、遙かなる過去におけるそこと、現在のここというかけ離れた時空を無化するように機能する「旋回する文体」が現れることについて詳述した。本稿では、こうした「物語」なるものの文化的な有り様にもう少々肉付けをしておきたい。そして、これもまた「精神の古層」に関わる独特な表情を持つものであることを考えてみたい。

 

二 「蛍」の巻再見

 

長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々絵物語などのすさびにて、明かし暮らしたまふ。明石の御方は、さようのこともよしありてしなしたまひて、姫君の御方に奉りたまふ。西の対には、ましてめづらしくおぼえたまふことの筋なれば、明け暮れ書き読み、営みおはす。つきなからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上などを、まことにやいつはりにや、言ひ集めたる中にも、わがありさまのやうなるはなかりけりと見たまふ。住吉の姫君のさし当たりけむをりはさるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭がほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへたまふ。

 

『源氏物語』第二十五帖「蛍」の巻、本居宣長がもっともこだわった物語論が展開される箇所の始まりである。ことの起こりは、例年にない長雨、つまり梅雨の季節が長引いている時、天気も心も晴れぬまま退屈な時間だけが流れていく屋敷の部屋の中から始まる。「西の対」に住む姫、玉鬘にあっては、見たこともない「絵物語」の数々にすっかり夢中になっているというところで、それらに描かれている登場人物たちは、本当か嘘か見当がつかないほどの特異な人生を送っているのだが、やはり自分のような数奇な運命を生きた人はいないのだと玉鬘は思っている。つまり、絵物語に展開されている人々の有様をいろいろ読みながら、自分のことと比較対照して、「わがありさまのやうなるはなかりけり」と嘆息しているわけである。そして、このことを本居宣長は「紫文要領」(1763年)において、『源氏物語』から「昔物語」、「むかし物語」の使用例を確認した上で、次のように説く。(なお、「紫文要領」本文の表記は大変読みにくいので、漢字、仮名遣いは現代表記へ整えている。)

 

大方、物語という物の心ばえ、かくのごとし、ただ世にあるさまざまの事を書けるものにて、それを見る人の心も、右に引けるごとく、むかしの事を今の事に引き当てなぞらえて、昔の事の物の哀れをも思い知り、又、己が身の上をも昔に比べ見て、今の物の哀れも知り、憂さをも慰め、心をも晴らすなり。さて、右のごとく、巻々に古物語を見る人の心ばえを書けるは、すなわち今又、源氏物語を見る人もその心ばえなるべき事を、古物語の上にて知らせたるものなり。右のように古物語を見て、今に昔をなぞらえ、昔に今をなぞらえて読み習えば、世の有様、人の心ばえを知りて、物の哀れを知るなり。とかく物語を見るは、物の哀れを知るという事第一なり、物の哀れを知る事は、物の心を知るより出て、物の心を知るは、世の有様を知り、人の情けの様をよく知るより出るなり。されば源氏の物語も右の古物語の類にして、儒仏百家の人の書の類にあらざれば、由なき異国の文によりて、論ずべきにあらず、ただ古物語をもてことわるべし。(「紫文要領」巻上)

 

ここを注意深く読み解くと、「物語」という語の意味するところは、「儒仏百家の人の書の類」とは本質的にジャンルを異にしたモノであり、後世の読者に未知のことを教え諭すというような学びの対象物、たとえば、『論語』、『孟子』や諸子百家の思想書などとして存在しているモノではなく、かつての有意義な情報を格納してある倉庫のような働きをするモノでもない。「物語」の本質は、玉鬘の姫君が、夢中になった絵物語のどこにも自分のように生きた登場人物が見当たらないと嘆き、わずかに「住吉物語」の姫君の経歴が我が身のそれと引き比べられると見ているところに、実は垣間見えると言うのである。つまり、「蛍」の巻の先の引用の後半部には、「住吉物語」中で、継母からの辛い仕打ちに耐えている姫君が、七十余歳となる主計頭かぞえのかみに盗まれそうになる場面が描かれており、その危機一髪の状況を読んだ時、それはそのまま玉鬘の姫君自身が、かつて肥後の豪族で野卑極まりない「かの監」、つまり、「玉鬘」の巻に登場した「大夫監たいふのげん」に危うく結婚させられそうになって逃げ出したという経験を重ね合わせるところ、そこに宣長は「住吉物語を読みて、我が身の上に有りし事を、思いあたるなり」と注目しているのである。つまり、玉鬘にとって、今は、光源氏によって六条院の西の対に庇護されている自分自身の、それまでの経験を顧みるということころに注目せよと言う。そこにこそ「物語」というモノの働き、逆に言えば、「物語」に記された他の人々の生き、経験している多様な有り様が、読んでいる自分自身の現在の経験の質と意味とを照らし出し、そこに自らの姿を発見していくプロセス、そうした一連の行為全体を「物語」と呼んでいるのである。どうやら、宣長がここで取り上げる「物語」とは、読む対象としての書物のことではないといった趣きがあるようなのだ。そして、「物語」の中の他者の経験を知り、それが自分の経験の自覚に結びつくとき、「世の有さま、人の心ばえを知りて、物の哀れを知るなり」という「心」という実在の先験的な動きを把握出来るというのである。

したがって、上記のことを思い切って簡潔に言うなら、「物語」を読むとは、己を読むということ、我が身の有り様を知ることだということになる。

これを「紫文要領」から33年後に成った「源氏物語玉の小櫛」のより分かりやすい評釈で確認してみよう。(漢字以外は原文のまま)

 

大かた物語をよみたる心ばへ、かくのごとし、昔の事を、今のわが身にひきあて、なすらへて、昔の人の物のあはれをも、思ひやり、おのが身のうへをむかしにくらべみて、もののあはれをしり、うきをも思ひなぐさむるわざ也、かくて右のごとく、巻々に、古物語をよみたる人のこころばへを書るやう、すなはち今源氏物語をよまむ人の心ばへも、かくのごとくなるべきこと、しるべし、よのつねの儒仏などの書を、よみたらむ心ばへとは、いたくことなるものぞかし。 (「源氏物語玉の小櫛一の巻」)

 

一読して明らかなように、33年の月日を閲しても、表記の細部の整理はおいて、この文章の主旨に変化したところはまったく認められない。ただし、念のための補足を少々すれば、「物語」はすべて「昔物語」、「古物語」とも書かれているのだが、上記のように、「昔の事」を尊重の対象として学び、それを現在に活かすという読み方を意味するのではない。そういう意味では、「物語」はいわゆる歴史書ではまったくないのである。『源氏物語』の中の人々が作中で「昔物語」を読むことによって、今の自分を認識しているように、その読み方で、今の読者も『源氏物語』を読まなければならないと言う。そして、そうした読書行為において、初めて、「大かた人のこころのありよう」が彷彿として来る。書かれた心理を読み取ることは、そのまま自らの心理を発見することであり、その認識と発見の行為論的な見定めとして「物語」という特権的な経験があるということなのだ。

さて、小林秀雄の『本居宣長』では、この間の事情をどのように記述していたか。

 

三 「物語」をいかに語るか

 

『本居宣長』十三回の後半から十八回にかけて、この「蛍」の巻の物語論への言及は始まっている。そこで特筆すべきなのは、先に記した「物語」を読む行為の具体相への考察、つまり、この経験の自照性、もしくは自証性とでもいうべき機能よりも、その結果、結論としての「もののあはれを知る」というヴィジョンの特権性と、なぜそれが可能になるのかという問題の方に、より焦点が当てられていることであろう。さらに、後者を解く鍵が、「物語」の文体、言語表現の本質を巡る考察に展開していくことは十六、十七回に詳述されている通りである。

 

式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる。

物語は、どういう風に誕生したか。「まこと」としてか「そらごと」としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が「物のあはれ」という言葉の姿を熟視したように、「物語る」という言葉を見詰めていただけであろう。「かたる」とは「かたらふ」事だ。相手と話し合う事だ。「かた」は「言」であろうし、「かたる」と「かたらふ」とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変わらぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、「日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし」と言ったのである。(十六回)

 

「物語」とは言うまでもなく「そらごと」によって作られている。すなわち虚構=フィクションであることは分かりきっている。しかし、人々は「世にない事、あり得ない事を物語る興味」など頭からないし、聞いてみる気もないのである。しかし、光源氏が玉鬘へ語りかけるように、「物語」に書かれていることについては、「はかなしごとと知りながら、いたづらに心動」かされてしまうことが起きる。うっかり真実と思い込みそうになる際に、これは「そらごと」であったと思い返す。騙されたと分かった上でも、現実に心を動かされた事実は動かない。では、この事態をどう処理するか、それは「そらごとをよくし慣れたる口つきよりぞ言ひ出すらむ」と反省するしかない。嘘をつくのが上手な者のまことしやかな口ぶりによって、うっかり騙されてしまうというわけだ。つまり問題は、言語表現の指し示す内容、出来事が「まこと」なのか「そらごと」なのかではなく、反省すれば「そらごと」なのに、まるで「まこと」のように読み手に思わせてしまう言語表現の方法に関わる問題へと考え方を変更しなければならないのだ。ということは、言語表現自体の持つリアリティ、説得力の強弱という問題にならざるを得ない。そうすると、要は「よくし慣れたる口つき」から表現された文体の力へ思い至ることになる。そして、このことは『本居宣長』十五回の半ばにおいて、次のように正確に扱われている。

 

彼(=本居宣長・稿者注)は、啓示されたがままに、これに逆らわず、極めて自然に考えたのである。即ち、「物語」を「そらごと」と断ずる、不毛な考え方を、遅疑なく捨てて、「人のココロのあるやう」が、直かに心眼に映じて来る道が、所謂「そら言」によって、現に開かれているとは何故か、という、豊かな考え方を取り上げた。取り上げれば、当然、物語には「そら言にして、そら言にあらず」とでも言うべき性質がある事、更に進んで、物語の本質は、表現の「めでたさ」を「まこと」と呼んで、少しも差支えないところにある事を、率直に認めざるを得なかったのである。(十五回)

 

書いてある内容が「そらごと」、虚構であることを前提としながら、それを表現する言葉遣いの「めでたさ」を要件として「人の情」の真相への想像力が展開されると説くわけである。

そこで再び『源氏物語』「蛍」の巻の本文へ眼を向けると、光源氏の会話中には、物語行為へと人が誘われてしまうこと、物語ることへの欲求が発動する契機について次のように書かれていた。

 

その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節ぶしを、心に籠めがたくて、言ひおきはじめたるなり。

 

これを「源氏物語玉の小櫛一の巻」の評釈で確認してみよう。

 

見るにもあかず、聞くにもあまるとは、見る事聞く事の、そのままに心にこめては、過しがたく思はるるをいふ、すべて世にあらゆる、見る物きく物ふるる事の、さまざまにつけて、うれしとも、おかしとも、あやしとも、をかしとも、おそろしとも、うれたしとも、うしとも、かなしとも、ふかく感ぜられて、いみじと思ふ事は、心のうちにこめてのみは、過しがたくて、かならず人にもかたり、又物にかきあらはしても、見せまほしくおもはるるものにて、然すれば、こよなく心のさはやぐを、それを聞見る人の、げにと感ずれば、いよいよさはやぐわざなり

 

本居宣長はこの引用文の後、『源氏物語』中に現れている登場人物たちの物語衝動とでも呼ぶべき表現箇所をいくつか挙げて行き、さらにこのことを敷衍して行く。

 

さて此の、何事にまれいみしと思ふことの、心にこめて過しがたきすぢは、今の世の、何の深き心もなき、大かたの人にても、同じことにて、たとへば世にめづらしくあやしき事などを、見聞たる時は、わが身にかからぬ事にてだに、心のうちに、あやしきことかな、めづらしき事かなと、思ひてのみはやみがたくて、かならずはやく人にかたりきかせまほしく思ふもの也、さるはかたりきかせたりとて、我にも人にも、何のやくもなけれども、さすれば、おのづから心のはるるは、人の情のおのづからの事にて、歌といふ物のよまるるもこれ也

 

この二つの引用文の間は『源氏物語』の用例を引いた十行ほどが挟まれているだけであるが、この後の文章が前の文章をそのまま反復しているわけではないのは、一目瞭然であって、もちろんその主旨の核心部には、「もののあはれ」を深く感ずるところから極めて自然に湧き起こってくる「かたり」への欲求という物語衝動が押さえられている。すなわち、ある感覚の発露から出発して、これが臨界に達した時、飽和状態の感覚が語るべき言葉の数々として発生し、「物語」として整序されるというプロセスは同一であることを示している。

しかし、最も注目すべきなのは、横溢した感覚が自発的に言葉へと変化していくという時の、その言葉という概念は、含意として聞き手の存在を既に想定しているということなのである。持って回った言い方になるが、「言葉」、「言語」という用語には、叫びとか絶叫という行為とは本質的に異なる意味があり、ある発せられた音声が「言葉」であるとは、聞き手の了解が得られる有意味な音声であることが前提になっているはずなのである。だから、「かたり」という用語も、その単語としての意味の中には、一人ではない複数の人々、ある人間の「かたり」を聞いている他の人間、「聞き手」がいること、つまり言語的コミュニケーションの存在を暗に含んでいるのである。逆に言えば、聞き手、読み手があってこそ、その音声は「言葉」であり、その白い紙片に記しづけられた黒線は、「文字」としてあることが可能になる。妙な例だが、縄文土器に現れたデザインは、今の我々には文字通り縄で記された紋様としか見て取れないが、これが「言葉」として、言語的コミュニケーションのプロセスにおいて確認出来る時が、将来、来ないとも限らないのである。また、このことは初めて学ぶ外国語の文字(特にアルファベット文字ではないもの)を読むことを想い起こせばよいだけのことかもしれない。

さて、問題を元に戻して「源氏物語玉の小櫛一の巻」の引用文の考察を続けると、まず前文に加筆されている箇所が一つ、そして、前文をさらに言い換えた箇所が一つあることが分かる。引用した後文の一行目から二行目に「今の世の、何の深き心もなき、大かたの人にても、同じことにて」とあり、これは「もののあはれ」の発動が、『源氏物語』の本文から解釈できるだけのことではなく、現代に生きている特に趣味もなく、和歌などに通じてもいない人々であってもあてはまる、人性上の普遍的なことであると言う。そして、言い換えている箇所を見ると、前文では「それを聞見る人の、げにと感ずれば、いよいよさはやぐわざなり」という箇所が、後文では「歌といふ物のよまるるもこれ也」となっているのである。

先に「かたり」、「言葉」、「言語」という用語についての回りくどい説明を繰り返したのは、この箇所を問題化しようという意図からであったが、『源氏物語』本文の精読から読み取れること、すなわち、登場人物たちにおける「物語」、「昔物語」を読む行為の意味を確認することと、それが『源氏物語』を今、読んでいる者の読み方を指定し、それに従いさえすれば登場人物たちと同様な経験を反復するはずだということ、それを踏まえて「源氏物語玉の小櫛」の引用文の後文にあっては、「大かた人にても、同じこと」というように、人間心理の一般的な機能分析へと一気に普遍化してみせる文言が展開されているのであって、これは本稿の二において詳述しておいたこと、本居宣長が「物語」という用語について思い描いていた特殊な意味あいを再認識させるに足ることと言えよう。つまり、ここでも本居宣長は『源氏物語』から非常に抽象度を高めた人間心理の原理論を抽出しているのであり、これはもう古典文学の一作品として存在する『源氏物語』という文学作品の解釈を超えており、読む者の視線の向こう側に対象としてある書物の中に客観的に指示可能な意味ではないだろう。小林秀雄『本居宣長』の十三から十八回、そしてまた二十四回などで言葉の限りを尽くし、執拗に記されていることは、こうした宣長自身の、我が身に引きつけた深読みなのである。しかし、その読み方とは、たとえば「紫文要領」や「源氏物語玉の小櫛」において述べられている通り、『源氏物語』の中の人々の生き方を、現在の我が身に照らして読むことに他ならなかったはずである。だから、本居宣長自身の深読みとは、彼自身の『源氏物語』の読書行為において、初めて我が身の複雑さに出会っただけのこと、とも言えるのだ。

さて、肝心のもう一つの言い換え箇所を見てみよう。しかし、これも先に述べた通りで、自分のいっぱいになった感覚からこぼれ出た「かたり」が他人に聞き取られると「こよなく心のさはやぐ」ことになるのだが、聞く人が「げにと感ず」れば感ずるほど、それだけ語った者の心は「いよいよさはやぐわざなり」となる。当たり前のことだが、自分の話を聞いて、全幅の信頼を寄せつつ感動してくれる聞き手がいれば、語り手の心は、ますますいっそう晴れやかになるわけである。では、聞き手が「げに」と本心から感動してくれるには、どうすれば良いか。『本居宣長』第十五回をもう一度振り返ろう。

 

物語の本質は、表現の「めでたさ」を「まこと」と呼んで、少しも差支えないところにある

 

横溢して止まない感覚の増大から、「かたり」が誕生するところにあって、その語り方を工夫すること。そして得られた「めでたさ」は、やがて「まこと」として聞き手、読み手に作用し、リアリティの強度として受け止められていくのである。そして、この言語表現の「めでたさ」を求めて行くまでの流れ、その全体を俯瞰すれば、引用後文の「歌といふ物のよまるるもこれ也」という結論に達するのは必然と言わなければならない。

ということで、これまでの考察は、次に引く『源氏物語』蛍の巻の光源氏の会話、玉鬘の姫君に向かってもっとも深く、長く説いて聞かせるところの最終部に着地する。

 

仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、悟りなき者は、ここかしこ違ふ疑ひをおきつべくなん、方等経の中に多かれど、言ひもてゆけば、一つ旨にあたりて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人のよきあしきばかりの事は変りける(*)。よく言へば、すべて何ごとも空しからずなるぬや

 

話題は、物語中に描かれる善人、悪人などの人物造型の差異について、それほど重大なことではないとしているところで終わろうとしているようだが、その最後の箇所である。描くことがら、対象が善であれ、悪であれ、何であれ、「よく言へば」という条件を乗り越えさえすれば、「物語」に書かれた事柄すべては、空しい「そらごと」ではなくなるという。この「よく言へば」とは、その表現に「めでたさ」が備わっていれば、という条件なのである。すなわち、現代語訳を試みるなら、<上手に表現すれば>とすべきところなのである。この場合の<上手に>とは、「めでたさ」という深々とした印象が匂い立つような美を意味することは言うまでもない。すなわち、<文学として>と拡張しても良いはずなのだ。

 

四 道のことと歌のこと

 

我々の普段の生活が本質的に言語生活そのものを意味しており、その際の「言語」とは何を意味するかについては、これまで記述して来たところで大体のイメージは描けたかと思う。この世に生まれ出るとは、日本語の中に、あるいは日本語で語り、聞かれる「物語」のただ中に産み落とされるということで、身の周りからとめどなく放射される身体的な刺戟に、身体的な反応を繰り返しつつ、いわば非言語的なコミュニケーションが蓄積されていく、そこに自らへ働きかける行為と共に聴覚を襲う音声を言語として認識するようになり、遂には日常的な会話に習熟していく。そしてある時、こうした言語的経験の延長線上に「物語」なるお話の世界が与えられ、これを読む楽しみに浸ることを覚える。そのように、幼児における言語習得のプロセスを考えることは極めて自然なことのように思われるところである。しかし、本当にそうだろうか。

人間は、言語なる有用な道具を手にしてから後にお話の世界を獲得していくのだろうか。自らの記憶が遡れる限りの昔、いや親の記憶に寄らなければ思い出せもしない時において、ほとんど身体的な欲求の世界に生きていた赤児が、泣き声を上げる度に何かが与えられたり、触覚に関わる温感が訪れたりする、そうした体感がすべてのような時にあっても、親がそれと認めた身体的な要求とそれへの反応として行われた様々な作業、「おまえは泣いているばかりだった」と回想される時間とは、既に身体を介したお話の時間ではなかったか。母親はしっかりと赤児の発する「物語」を聞き取り、赤児もまたその「物語」を体得していったはずである。そうして、この「物語」とは、明瞭な始点と終点を示すことはなく、一定の時間内で同じ長さを以て反復されるものではない。むしろ、一定の長さの同じ事を切断して反復することで、いつでも使用可能な記号として「言語」を約束事の中に共有化は出来たのである。

しかし、こうした硬い記号としての「言語」も、いつしか元の「物語」という流動体へ、本質的な動態へ帰ろうとする兆しを帯びて動いているはずなのだ。それならば、「言語」という概念は、日常的なコミュニケーションの回路、話し、聞く、書き、読むという回路の中に硬く閉鎖させて考えられるものではなく、その言語活動の総体の動きとして、「言語場」を包み込んだ動きとしての「物語」の中に置き直して考えるべきなのではないか。すなわち、「物語」とは、人間の生きていく有り様を紡ぎ出す文化装置としての大きな潮流をなしており、ここからある視点の下、特定の時空を始めと終わりのある出来事として切り出すことで、そのたび毎に記号として扱われる言語(日常言語)を確定させつつ、視点の変化(社会・環境の変化)につれてその時々の構造を更新していくという仕組み、そうした動き全体をいうことになろう。「紫文要領」で言う「昔物語」の読み方とは、そうすることによって読み手がこの潮流に参加する、あるいは戻って行こうとする機縁を述べていたことになる。さらに、こうした行為論上のプロセスは、「人の道」と言い換えてもいいはずなのだ。

さて、本稿の結論として、これまで考察して来たところをいっそう「」表現し切った小林秀雄『本居宣長』の第二十四回を確かめて終えようと思う。

 

私達は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである。言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何を措いても、生の現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう。……(略)……

ところで、この人生という主題は、一番普通には、どういう具合に語られるのか。特に何かの目的があって語られるのではなく、宣長に言わせれば、ただ「心にこめがたい」という理由で、人生が語られると、「大かた人の情のあるやう」が見えて来る、そういう具合に語られると言うのである。人生が生きられ、味わわれる私達の経験の世界が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもあるのだ。……(略)……

「物のあはれ」は、この世に生きる経験の、本来の「ありよう」のうちに現れると言う事になりはしないか。宣長は、この有るがままの世界を深く信じた。この「マコト」の、「自然の」「おのづからなる」などといろいろに呼ばれている「事」の世界は、又「コト」の世界でもあったのである。

 

この「コト」の世界というものが、また、「歌が出て来る本の世界」(同二十四回)であることは、先に記した通りである。してみれば、「道」の有り様が「歌」を引き出して来るのは「おのづからなる」ことなのである。

(つづく)

 

注……本稿に引用した「紫文要領」、「源氏物語玉の小櫛」の本文は、『本居宣長全集』第四巻(昭和四十四年十月十日 筑摩書房刊)にすべて寄っている。また本稿中にも補足したように、「紫文要領」本文については、宣長自身の修正、訂正文が随所に書かれており、確定した本文は未定のまま活字化されているので、本稿では内容は変更しないよう留意しつつ、漢字の表記や仮名遣いを現行の形に改めてあることを再度お断りしておく。

また、本稿中に引用した『源氏物語』蛍の巻は、所謂「青表紙本」の本文に基づいているが、『新日本古典文学全集』(小学館刊)を参照して、漢字表記を分かりやすい現行の形に適宜整えてある。

また、光源氏の会話文として引用した(*)を付した箇所、「菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人のよきあしきばかりの事は変りける」の「菩提と煩悩との隔たり」というこの二者は、常識的には、悟りと悩みの差異であり、その隔たりは大きいものであるが、ここでは「方等経」(=法華経などの大乗経典)が念頭にあり、大乗仏教中の用語としての「煩悩即菩提」を意味している。したがって、ここでは、一見すると大きな距離だが、実はほとんど表裏一体のものなのだという意味である。

 

小手前の安心と申すは無きことに候

「小手前の安心と申すは無きことに候」

小林秀雄著『本居宣長』全五十章、その最終章の口火を切った本居宣長のこの言葉は、宣長の門人達と共に、数多くの現代人を困惑させたことだろう。ということはつまり、ここで語られる宣長と門人達の答問は、現代の私達にとっても、決して他人事ではないということだ。

 

――門人に言わせれば、なるほど上ッ代の道は、結構なものだったとは理解出来るが、「小手前の安心と申すは無きこと」という真実は、今も猶動かぬ、という主張となれば、別問題であろう。そのような確信に、一体どういう次第を踏んで行き着けたのか、それが、まるで説かれていない以上、やはり、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」という疑い心は、ぬぐえないと言うのである。そう訴えられてみれば、それももっともな事と思われ、さてどう説いたものか、という事になったわけだ。(小林秀雄「本居宣長」第五十章 新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.191より)

 

なるほど、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と疑う心は、人々が誰に言われるともなく備えている「人のまごころ」と言えようが、そこに明答を求めるとなれば、途端に話は込み入ったものになる。『本居宣長』においては、ここに話を踏み入れることで、古伝について宣長の到達した信念を浮き彫りにしていくのだが、私はここで、一度、明答を求めるこの態度自体を忘れてみたい。すなわち、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」、「その性質アル情状カタチ」を見定めてみたい。というのも、明答を求める、いや、物事に明答を得られるであろうという、学者流の態度を忘れることさえできれば、「小手前の安心と申すは無きこと」という真実は、さほど私達と縁遠いものではないように思われたからだ。

さて、この「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」を見定めるにあたり、自らの身に直接降りかかる物事の上で見定めようとすると、少々話が難しくなる。というのも、自身に関する物事においては、実際に対処せねばならぬ以上、問いに明答が出ようが出まいが、自らの身の振るまいという答えを出さねばならない。この、実生活の上で不可避に案出させられる答えに眼を滑らせず、「人のまごころ」から生まれた問いを見定めるには、まさに、宣長の到達したような信念が必要となるだろう。

そこで、ここでは本来的に自分では対処できない、それでいて、ともすれば自分以上に我が事と思われるような身の上、すなわち、愛する人にかかわる物事に注目してみたい。特に、親が子に対するような心配をつぶさに眺めてみれば、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」も、「小手前の安心と申すは無きことに候」という宣長の返答にならないような言葉も、鮮やかに見えてくるように思われるのだ。

例えば、息子が一流大学を出て一流企業に入ったとして、あるいは娘が裕福な家に嫁いだとして、親が我が子を本当に心配しなくなることなど、果たしてあり得るだろうか?

今時このような紋切り型の、時代錯誤とすら言える理想像を持つ人が多いとは思わないが、そのような理想の不在など、親の不安の源泉ではあるまい。子がどれだけ成功しようと、どれだけ安定した生活を得ようと、親は子を心配してしまうものだ。なるほど、それは時として、子や周囲からは杞憂と見えるものになるかもしれないが、杞憂という故事からして、解釈や教訓という「あるべき答え」を忘れ、その姿をつぶさに観察してみるなら、有り得ないことであっても憂いてしまうこの心のうごきこそ、「人のまごころ」のあり方ではないだろうか。

もちろん、対処のしようがない不安は杞憂として忘れてしまうのが「正解」だろう。杞憂にかかずらってばかりでは実生活が成り立たない。どころか、杞憂を晴らすことに専心してしまえば、それこそ実生活を壊すことになるだろう。

しかし、仮に不安を忘れることができたとて、不安が湧かなくなるわけではあるまい。人が人である限り、不安の種は尽きぬものだ。あえて生態学的な言い方をするなら、それは人という種が獲得した、変化する環境に対し未然に適応する余地を生み出す能力ですらあるだろう。もっとも、このような言い方も、「人のまごころ」「その性質アル情状カタチ」の一面に機能的な説明を与えればこうなるという一例を上げただけであり、当然ながら、宣長の見定めたところがそうであったということではない。

では、宣長の言う「小手前の安心と申すは無きことに候」とはどういうことなのだろうか。いや、発言の意味内容を問うことが、まずズレているのかもしれない。重要なのは、「小手前の安心と申すは無きことに候」と話す、宣長の態度だ。

 

「源氏物語」の注釈において、本居宣長という人は「物のあわれ」という言葉に注目したが、その眼目は、「物のあわれ」とは何かというより、むしろ「物のあわれを知る」ということに向いていた。そして、「物のあわれを深くしり給へる」源氏君の「かくれ給へる」を語らず、しかし黙さぬところに、「紫式部の、ふかく心をこめたる」を知り、「雲隠の巻」という、物語が行きつく姿を見た。

 

――物語の目的は、「其時代の風儀人情」を、有りのままに書き、その「あわれ」を伝える、という他にはないとする作者式部の心ばえを体して、源氏君は生きている(中略)それなら、宣長に残された問題は、一つだ、という言い方も出来るわけだ。何故、作者は、物語から主人公の死を、黙って省略して、事を済まさず、「雲隠の巻」というような、有って無きが如き表現を必要としたのか、と。言ってみれば、そういう問いを、宣長は解こうとはせず、この問いの姿に見入ったのである。(同、第28集p.197より)

 

「本居宣長」という学問は、ここに極まる。そう言いたくなるほど、この宣長の姿は私の目に焼き付いた。

現代において、いや、おそらく宣長の時代や、それこそ孔子や仏陀の時代にあっても、「問い」の「答え」と言えば、多くの人が「普遍的な答え」というものに魅かれてきただろう。もちろん、現実には各場面に合わせた個別の答えを出さねばならないが、それは場当たり的な、断片的答えに過ぎない、そう考えてしまう傾向に、心当たりはないだろうか。そして、究極の「普遍的な答え」を得たならば、それはあらゆる「問い」に答える、あるいは少なくとも答えられるようになる、そんな考えに魅了される人は、決して少なくないように見える。

しかし、宣長にとって、普遍的なのは「答え」よりもむしろ「問い」だったのではないだろうか。

もちろん、このような言い方がすでにして現代的であり、多分に語弊を含むであろうし、むしろ語弊があるということをこそ知っていただきたいが、宣長を魅了してやまぬのは、答えの瞭然性など全く知らぬところにたたずむ、ほどき難い「問いの姿」であった。

いらぬ誤解を招かぬよう言っておくが、宣長は答えてはならぬと言っているわけではない。答えを求めぬ問いなど、もはや問いではないだろう。しかし、万人があらゆる状況において頷ける「普遍的な答え」など、宣長の眼中にはなかったのではないだろうか。宣長はむしろ、人々が文字通り場に当たり考え出した答え、そして、人々に各々の答えを求めてやまぬような問いそのものにこそ、眼を引かれていたのかもしれない。私は、まさにこの意味合いにおいて、「問い」を普遍的と言いたくなってしまったのだ。

 

さて、「小手前の安心と申すは無きことに候」と言った宣長の姿に、話を戻したい。ここにもきっと、宣長のあの眼差しがあるのではないだろうか。

「小手前の安心と申すは無きことに候」と言っても、個別の不安を相談されたならば、宣長も相談者と共に、その不安に対応する術を考えただろう。しかし、こと不安一般をどうすればいいかと問われたならば、不安を発明する「人のまごころ」「その性質アル情状カタチ」という「物のあわれ」を知ることをこそ、重要と見ていたのではないだろうか。

これは、答えであって答えでない。むしろ問いかけだ。どうすれば安心が得られるかという答えを得ようとする前に、「小手前にとりての安心はいかゞ」という「疑い心」を、もっとじっくり、ながめてみよと言っているのだ。ながめ方は、宣長本人が散々説いてきているし、『本居宣長』第五十章に、「生死の安心」という「小手前にとりての安心」の極まるところをめぐって、古の人々がいかにしてその心をながめてきたのかが、つぶさに描かれている。それはまさに、我々はナニモノなのかという、太古に人が人となった時から、遥かな未来まで変わることのない問いかけだ。

 

子の心配をしないでいられる親は、もはやその子の親ではあるまい。「小手前にとりての安心はいかゞ」という「疑い心」を持たぬようになれるのならば、それは果たして人であるか?

 

(了)

 

物語の魅力とは

本稿が掲載されている『好・信・楽』は二〇二二年(令和四年)秋号である。日本人にとって秋という季節は、米をはじめ多くの作物が収穫期を迎え、その豊かな実りを大いに味わう「食欲の秋」である(もっぱら私はその口だ)。さらに、「読書の秋」としても知られている。戦後、読書の力で平和な文化国家を築こうと、出版社、書店、図書館などが協力し、一九四七年(昭和二二年)以降、秋に「読書週間」を設け、国民的行事として定着してきた。読書と平和にこのような関係があるとは感慨深い。

一口に読書といっても、試験勉強といった必要に迫られて無理に本を読むのは辛いことだが、秋の夜長、静かに古今東西の物語を読み、その世界に没入できることは、何にも代えがたい喜びであると感じる方も多いことだろう。では、なぜ人は物語に惹かれるのか。そんなことを秋の夜長に考えてみることにしたい。

 

「源氏物語」の第二五帖「蛍の巻」では、長雨に降りこめられて絵物語を読む玉鬘たまかずらと光源氏が物語について話し合う場面がある。宣長はこの場面に作者である紫式部の物語に対する本意が表れていると見て、「紫文要領」で詳しく評釈を書いている。

光源氏は物語に夢中になっている玉鬘をからかい、玉鬘は機嫌を損ねる。これを見て源氏は笑い出して冗談を言う。宣長はここに注目し、

 

「物語こそ『神代より、よにある事を、しるしをきけるななり、日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし、これらにこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ、とてわらひ給』――作者は、その自信を秘めて現さなかった。源氏君を笑わせなければ、読者の笑いを買ったであろう。『人のきゝて、さては、神世よりの事を記して、道道しく、くはしく、日本紀にもまされる物のやうに思ひて、作れるかと、あざけられん事を、くみはかりて、その難を、のがれん為に、かくいへる也』」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集144ページ)

 

「紫式部日記」では、「源氏物語」の読み聞かせを聞いた一条天皇が、作者の紫式部は「日本書紀」を読んだに違いなく、本当に学識があるのだろうと言ったのを聞いた左衛門の内侍が、式部のことを学識をひけらかす「日本紀の御局みつぼね」とあだ名をつけて言いふらしたことについて、式部は侍女の前ですらはばかるようなことを、宮中でするものかと反論する。この「日本紀の御局」は、高校の古典の教科書にも登場する有名な箇所であるが、日記のとおり、式部は「白氏文集」といった漢籍や「日本書紀」の愛読者であり、その読書経験が「源氏物語」に生かされていると考えるのが自然ではないだろうか。

 

「騙されて、玉蔓が、物語を『まこと』と信ずる、その『まこと』は、道学者や生活人の『まこと』と『そらごと』との区別を超えたものだ。それは宣長が、『そら言ながら、そら言にあらず』と言う、『物語』に固有な『まこと』である。此の物語は、『世にふる人の有様』につき、作者の見聞を記したものだが、宣長の解によれば、作者が実際に見聞した事か、見聞したと想像した事かは問題ではない。ただ、源氏君に言わせれば、『みるにもあかず、聞にもあまること』と思った、作者の心の動きを現わす。作者は、この思いが、『心にこめがたくて、いひをきはじめたる也』と。宣長の註によれば、『人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき事もあるまじけれ共、これはめづらしと思ひ、かなしと思ひ、おかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心に計思ふては、やみがたき物にて、必人々にかたり、きかせまほしき物也』、『その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるといふ物なり、されば此物語、物の哀をしるより外なし』」(同第27集144ページ)

 

豊かな読書経験から、物語には、「まこと」と「そらごと」の単なる区別を超えた、物語に固有の「まこと」があるということを式部自身が体得していた、ということである。つまり、式部は一人の愛読者として、種々の物語から喜怒哀楽、いろいろな感情が自分の中で湧き上がる経験を多くしたことであろう。その時、物語に書かれていることが本当か否か、何かの事実を下敷きにしているのかどうか、そんなことは考えの外だったに違いない。物語によって揺り動かされる自分の心の動きをただ素直に見つめていたのではないだろうか。その心の動きは式部にしかない固有の、本当の心の動きであり、これが「もののあはれ」である。そうした重大な経験に基づいて、式部は自分も人に語りたい、伝えたいことを、しっかりと他人に届けたいと考え、心を込めて「源氏」という物語を書き上げたのだとは考えられないだろうか。

 

宣長は、「あしわけ小舟」で「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」と端的に記しているように、何とも言い難い心の動きを捉えて、自分でも理解し、他人に伝えるには「歌」という形を採ることが最も的確ではないか。小林先生はこう記している。

 

「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。」(同第27集261ページ)

 

こうした考えを式部も持っていたのではないか。だからこそ、人の心の動きを捉える最初で、直接的な形式である歌を中心にした歌物語を、詞花言葉を駆使して作り上げることで、他に類を見ないめでたき器としての「そらごと」が生まれたのではないか。ただ、その器に盛られている「まこと」はその物語にしかなし得ない、本当の心の動きなのである。

 

「物語は、どういう風に誕生したか。『まこと』としてか『そらごと』としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が『物のあはれ』という言葉の姿を熟視したように、『物語る』という言葉を見詰めていただけであろう。『かたる』とは『かたらふ』事だ。相手と話し合う事だ。『かた』は『言』であろうし、『かたる』と『かたらふ』とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、『日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし』と言ったのである」(同第27集181ページ)

 

宣長も式部同様、一人の愛読者であった。だからこそ、物語に書かれていることに余計な分析を交えず、素直な信頼の情に基づいて、時を超えて式部と語りあうことができた。それ故、およそ八〇〇年も前に式部が「源氏物語」に込めた「もののあはれ」という「まこと」が、宣長の心にもきちんと再生されたのではないだろうか。

 

ところで、「そらごと」の「まこと」は物語により異なる。とすれば、他人を憎んだりするような、いわば「あしきまこと」を呼び覚ます「そらごと」もあるのだろうか。

私は、それはあると考える。正直に言えば、私自身、人を憎いと思ったことがあるし、そうした感情を持ったことがないという人は稀だろう。「そらごと」次第では、「あしきまこと」が読者の心に生じることは十分あり得ることではないか。では、こうした自分の感情とうまく付き合うにはどうしたらよいのだろう。

 

自分でも確信を持った答ではないのだが、一つ考えられるのは、愛読者であることを続ける、ということではないだろうか。良きにつけ、悪しきにつけ、物語を読むときに自分の中に生じる心の動きが、「そらごと」によるものだとは自覚できるはずだ。そうでなければ空想と現実との区別がつかず、生活することができなくなってしまう。「そらごと」から生じた自分の心の動きを受け止め、なぜそう思ったのかと自分を見つめ直し、受容していく。それは経験を積むことで、よりうまくできるようになると考えられるから、愛読を続けていくことが大事と思われるのだ。つまり、「あしきまこと」に流されてしまうのではなく、反面教師として学び、善く生きるために生かすことができるのではないか。その前提として、人は善なる方向に進みたいと思っている存在である、と信じたいのだが。

 

つらつらと書き連ねてきてしまったが、人が物語に惹かれるのは、そらごとのなかに、良くも悪くも本当の自分の心の動きを捉え、より善く生きたいと願う存在だから、というのが私の結論である。だからこそ、洋の東西を問わず、紙でできた本が液晶画面に変わっても、今日も人々は物語を読み続けているのではないか。この世界には病気や暴力、貧困に苦しんでいる人々がたくさんいる。しかし、私が考えるように人間が物語を必要とする存在であるならば、もう少し希望を持ってもいいのではないか、とも思うのである。

 

(了)

 

かなしみの淵で一つの眼が開く

初春に、ずっと一緒に学んできた大切な仲間の、あまりにも突然な訃報が届いた。まず絶句し、何とも言えぬもどかしい気持ちの中で、不意に思いだしたのが小林秀雄先生の「本居宣長」第七章に出てくる在原業平の歌であった。

 

終にゆく みちとはかねて 聞かしかど きのふけふとは 思はざしりを

 

亡くなった当の本人が一番びっくりであったと思うが、業平と同じようなことを思う時間は、はたしてあったのだろうか、それすらも許されずに、あっという間に逝ってしまったのだろうか。兎に角やるせなかった。そんな中で、業平の歌は、素直に何度も繰り返し眺められた。歌という研ぎ澄まされた言葉の塊があることが、ありがたかった。「今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ」ている、と「本居宣長」にあるが、心底、そのとおりだと思った。実生活の悲しい経験が、「本居宣長」への感度を明らかに深めていることに驚いている。

 

昨年は、塾内では質問として実を結ばなかったものの、第五十章を中心に読んでいた。

 

―「神世七代」の伝説ツタヘゴトを、その語られ方に即して、仔細に見てゆくと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地アメツチ初発ハジメの時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。「神代七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。

 

「神世七代」が一幅の絵と見える宣長の眼が、ずっと気になっていたわけであるが、業平の歌が思い出されたことにより、その周囲を再読すると、今度は、宣長が契沖について「大明眼」という言葉を使っていたことが気になってくる。業平の歌は、京都留学中の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写したという「勢語臆断」の抜粋にある。そして、その抜粋の次の文章におのずと目が行く。

 

―契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と註した。宣長の言う契沖の「大明眼」という言葉は、実は、「やまとだましひなる人」という意味であったと、私は先まわりして、言う積もりではないが、この言葉の、宣長の言う「本意」「意味ノフカキ処」では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい。(第七章)

 

「大明眼」と「やまとだましひなる人」のことを、敢えてここで一緒に書いてあることに、はっとする。そして、「大明眼」を取り掛かりにすると、また幾つも抜粋したくなる箇所がでてくる。

 

―ところで、彼(筆者注;宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受け取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。(第六章)

―彼は、ここでも、「他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるもの」と言えた筈だろう。自分は、ただ、出来上った契沖の学問を、他のうえにて思い、これをもどこうとしたのではない。発明者の「大明眼」を「みづからの事にて思」い、「やすらかに見る」みずからの眼を得たのである、と。(同)

―宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を「我物」にする事、その為の「見やう、心の用ひやう」にあった。(同)

 

第六・七章の契沖の話に続き、第八章には中江藤樹の話が続く。藤樹の学問に対する態度として心法という言葉が出てくるが、それを受けての次にあげるいくつかの部分も気になる。

 

―書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。(第九章)

 

―尋常の読者として、何故彼が、特に「郷党篇」を読んで「大ニ感得触発」するところがあったか想ってみると、この著作は彼の心法の顕著な実例と映じて来る。「学而」から「郷党」に至る、主として孔子自身の言葉を活写している所謂「上論語」のうちで、普通に読めば、「郷党」は難解と言うよりも一番退屈な篇だ。と言うのは、孔子は、「郷党」になると、まるで口を利かなくなって了う。写されているのは、孔子の行動というより日常生活の、当時の儀礼に従った細かな挙止だけである。孔子の日頃の立居ふるまいの一動一静を見守った弟子達の眼を得なければ、これはほとんど死文に近い。藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。「郷党」のこの本質的な難解に心を致さなければ、孔子の教説に躓くだろう。(第九章)

 

―「郷党」が、鮮かな孔子の肖像画として映じて来るのは、必ずこの種の苦し気な心法を通じてであると見ていい。絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない。「此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲ嘿識モクシキシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ」、藤樹は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生まれるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。「啓蒙」では、初学の為に、大意の掴み方について忠告し、「翼伝」では、専門的な時代考証を試みる。しかし、これら「聖」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る「聖像」に取って代わる事は出来ない。

私は、これを読んでいて、極めて自然に、「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」(「語孟字義」下巻)という、伊藤仁斎の言葉を思い出す。それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしている事が、仁斎の著述の随所に窺われるからだ。(第九章)

 

第五十章の宣長の眼から、第六・七章の契沖の大明眼に飛び、第八・九章の藤樹の心法へと話は飛んだが、飛んではいても、繋がるものはある。我々が、「本居宣長」を十二年かけて読むことも、例えば一つには心法を練るためであろうことが見えてきた。「本居宣長」に対する信を新たにしょうとする苦心とも言えるか。苦心かどうかは分からないが、実感はある。「本居宣長」の文章は変わらないのに、読みはじめた頃には気にならなかった所が、すごく気になり、何度も読み返してしまう自分がいる。らせん階段を登るようにとか、石から彫刻を彫り出すようにとか、これまでも、色々な言葉で塾では語られてきたが、最終的には、個々の心裏に本居宣長像が映じて来ることが期待されている。期待されてはいるものの、生むのは我々個々の力量による。「論語」の「郷党」が鮮やかな孔子の肖像画として見える、「古事記」の神世七代が「天地の初発の時」と題する一幅の絵と見える、そういう眼に、今回思いが至ったことが、これからしばらくは、自分なりの一つの読み筋になると思っている。

 

(了)

 

読むこと、書くことにより、見えてくるもの

「本居宣長」を全編通して読んだのはこれで五度目くらいだろうか。そして、かなりの時間と労力を費やしてやっと辿り着いた第五十章の最後の一文はこう書かれている。

 

ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

ここで言われている彼の最後の自問自答とは、第一章に出てくる、生前に書かれた本居宣長の遺言書であるが、注意すべきは「自問自答を」ではなく、「自問自答が」と言われている格助詞の使い分けである。文意としては「を」でも「が」でも通じるが、「を」は「本を読む」「仕事を終える」のように単に動作の対象を表す格助詞であり、「が」は「リンゴが食べたい」「君が好きだ」のように希望や好悪の対象となるものを他と区別して強調する格助詞である。ということは、小林氏は単に「宣長の遺言書を」もういちど読んでほしいと言っているのではなく、他のものは後回しにしてもよいから宣長の遺言書だけはもういちど読んでほしい、そう言っているのである。

この、「自問自答を」ではなく「自問自答が」と言った小林氏の意図を汲もうと第一章から再び読み始めると、もうおなじみとなった小林氏が折口信夫宅を訪問するエピソードの中の、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と折口氏が言った言葉が頭の中で今まで以上に引っ掛かった。

「本居宣長」においては、大雑把に言って、和歌、「源氏物語」、そして「古事記」、古学が宣長の学問の対象になっているが、折口氏は宣長の「古事記伝」を読み上げて強い関心を示していた小林氏に対し、「古事記伝」よりも「源氏物語」研究の重要性を説くのである。そして、小林氏は、このエピソードをわざわざ第一章の最初に持ってきたのである。何故か?

本居宣長が長らく誰も読めなかった「古事記」を解読することができ、さらに「古事記伝」を完成させることができた大きな理由の一つとしては、小林氏はこう書いている。

 

彼は、「源氏」を熟読する事によって、わが物とした教え、「すべて人は、ミヤビの趣をしらでは有ㇽべからず」という教えに準じて、「古事記」をわが物にした。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集 76頁8行目~)

 

このことを踏まえ、宣長にとっての「源氏物語」の重要性を、十年余りの長い連載となる「本居宣長」において、小林氏は第一章を書く時に既に念頭に置かれていて、これを最初に言わなければならないと思われていたからではないかという考えが湧き起こった。これは、全文を読んだあと、まだ頭の中に「古事記」を読み解く上での「源氏物語」の熟読の重要性という事が頭に残っていたからこそ、直観できたことだった。

なお、小林氏が折口氏を訪れたのは、昭和二十六年頃ではないかという、折口氏の弟子で当時その場に居合わせた岡野弘彦氏の証言があるが、このあたりの、そして、その前後の事情については、池田雅延塾頭が二〇一七年九月号の「好・信・楽」に「折口信夫の示唆」というタイトルで遥かに詳しくまた深く考察されている。

そして、この第一章を読んで、池田塾頭が以前に話された言葉も思い出した。それは、茂木健一郎塾頭補佐が、池田塾頭に、「モーツアルト」でも、ベルグソン論である「感想」でも、「本居宣長」でも、小林氏が冒頭に身近な話を持って来られるのは、読者を本論に導くために入りやすい環境を作ろうとしてのことなのでしょうかという趣旨の質問をされた時のことだった。すると、池田塾頭は即座に、「そうではなく、あれは結論です」と言われた。意外な返答に驚いたが、この時はその言葉の真意を十分納得できないでいた。要するに、全文の繋がりを十分理解していなかったため、冒頭の身近な話が結論だという考えには全く思い至らなかったからである。今回は、本文の内容がある程度頭の中に残っているうちに、第一章を再度読んでみたからこそ、池田塾頭の、小林氏は最初に結論を話されるということを実感し、また納得できたのであった。小林氏自身が言われているように、「自分の著作は一度読んだだけでは分からないから、何度も読んでみる必要がある」ということの証であろう。

さらに全集を紐解いていると、小林氏の若い時の著作にも、結論を先に持ってくるということの大事さを匂わせる言葉が見つかった。

 

よく冠履顚倒かんりてんとうの論文を読まされる。しまいの一行を真っ先に書いてくれれば、読者の労は省けるものを。一行で書ける処を十行に延ばす才能をもった人は、どんな結論が出来て来るかわからない思案の切なさを知らぬ俐巧(りこう)ものである。冷静に思案するは易い、感動し乍ら思案するは難い。(同第2集 168頁9行目~、「批評家失格」)

 

俺の様な人間にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだという事を信じたまえ。―これは俺の手紙の結論だ。真っ先きに結論を書いて了ったが、人はよくこれを俺の詐術さじゅつだと言って非難する……(同第4集 63頁3行目~、「Xへの手紙」)

 

ただ、ここで注意しなければいけないのは、小林氏の言う「結論」は、通常の論文などで見られる、序論・本論・結論の「結論」ではないということである。小林氏は戦後間もない頃に行われた「コメディ・リテレール」という座談会でこう言っている。

 

文章が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。批評家は、文章は、思想なり意見なりを伝える手段に過ぎないという甘い考え方から容易に逃れられないのだ。批評だって芸術なのだ。そこに美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。(同第15集 29頁12行目~)

 

つまりは、結論が解らないから、それを解ろうとして、まずは自分自身が納得出来る結論を探し求めて書くということになるのだろう。しかし、それは単に内向きのものだとすれば、批評にはならない、そこに芸術としての美しさ、自分だけでなく、他人も美しいと思う文章が書けていないと批評にはならないと小林氏は言っている。

とすると、小林氏の批評の冒頭におかれる結論とはどういうものだろうか。

それは小林氏が直感でその批評対象の最も大事な、言わばこれが肝だと思う部分、輪郭は曖昧でもその奥で主調低音が鳴っているような部分ではないだろうか。それを冒頭に置き、その中の曖昧な部分を、書くことによって突き止めていくということをされてきたのではあるまいか。

そういった小林氏の思考の軌跡を丹念に追いながら、自分は散文を書いているのではない、詩を書いているのだという小林氏の文章、その芸術としての美しさを同時に味わうということを、今後も続けて行きたいと切に願っている。

 

(了)

 

折口信夫氏の大森駅での呼びかけ

「本居宣長」には、その冒頭から、この書の成立に関わる、一大事件が記されています。「本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだ事がある」と、小林秀雄先生はまずそう言います。ところがその道の信頼すべき大家である折口信夫氏宅を訪れると、折口氏は「古事記伝」に批判的であった橘守部の説を持ち出すなどして煮え切らず、小林先生自身も「話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の『古事記伝』の読後感を、もどかしく思った」上に、別れ際に折口氏から、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」という、気迫のこもった言葉を投げかけられ、恐らくは「古事記伝」を軸にして本居宣長を描きたいというねがいを胸に折口氏を訪ねた小林先生の目論見は、折口氏のこの言葉によって宙吊り状態になったように見えます。

私には、折口氏はこの別れ際の言葉で、何を小林先生に伝えたかったのか、という疑問がずっとありました。そしてこの言葉が、小林先生の訪問への折口氏の応答だとすると、その問いであるはずの小林先生の「古事記伝」の読後感が、「一向に言葉に成ってくれぬ」のはなぜか、「それが、殆ど無定形な動揺する感情であることに、はっきり気附いたのである」という文章は何を意味しているのかという疑問が、さらに湧いてきました。

 

以前、山本学さんの朗読で聞いた「無常という事」(小林秀雄エッセイ集 キングレコード、原文は新潮社刊「小林秀雄全作品」第14集所収)に、「先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿るように心に滲みわたった。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか」という一節がありました。その短文とは、ある若い女が「ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり」という文ですが、山本学さんの朗読の効果もあってか、なま女房が深夜に鼓を打ちながら、巫女の姿でうたう様子が浮かび、ゾッとしながら聞いたことを思い出します。

小林先生が折口氏宅で気づいた「殆ど無定形な動揺する感情」というのも、あの比叡山での「ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた」、あの時と同じものだったのではないでしょうか。比叡山での経験について、「僕は、ただある充ち足りた時間があったことを思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」があったのだと書かれています。小林先生は、あの時に「実に巧みに思い出していた」ものこそが、歴史というものではなかったかと自問しています。その先で「歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映ってくるばかりであった」と記して、「『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ」と語ります。そして、この「解釈」から逃れるには、非常に難しいが、「心を虚しくして」「上手に思い出す」ことが、唯一のやり方であると記します。

小林先生が折口氏宅で、言葉にならなかったのは、「解釈を拒絶して動じないもの」を、「上手に思い出す」ことができない状態であったからではないでしょうか。

 

昭和二五年二月、小林先生は折口信夫氏に招かれて、対談をしています。「古典をめぐりて」という題で、国学院大学から刊行された雑誌『本流』に掲載されたものですが(同第17集所収)、ここで二人は宣長と「古事記伝」についての感想を述べています。

 

小林 僕は伝統というものを観念的に考えてはいかぬという考えです。伝統は物なのです。形なのです。妙な言い方になりますが、伝統というものは観念的なものじゃないので、物的に見えて来るのじゃないかと思うのです。本居宣長の『古事記伝』など読んでいて感ずるのですが、あの人には『古事記』というものが、古い茶碗とか、古いお寺とかいう様に、非常に物的に見えている感じですな、『古事記』の思想というものを考えているのではなくて、『古事記』という形が見えているという感じがします。

折口 宣長のしたところを見ると、漠然と出来ている『古事記』の線を彫って具体化しようとして努力している。私等とても、そういう努力の痕を慕い乍ら、彫りつづけている。だが刀もへらも変わってきた気がする。も一度初めから彫りなおしてもよいのではないかという気もします。

 

小林先生が折口氏の自宅を訪ねたのは、昭和二十五、六年であったと言われていますが、その少し前に行われたと思われるこの対談では、二人の宣長への評価と「古事記伝」の理解の仕方は、同じ方向を向いているように感じられます。さらに対談の「批評」についての話し合いの中で、折口氏は小林先生にこのように問いかけます。

 

折口 一つお暇なときに、何か解釈に堪える力のある、豊かな作物の、何か古いものの研究を聞かして頂きたいと思います。どうか、もう一遍都合をつけて頂きたいものです。今まで誰も考えたことのない新しい註釈事業が出来そうなものだと思うのです。

 

この折口氏の言葉は、刀もへらも変わってきている今、国学研究者とは全く違う小林先生の彫刻刀でもって、初めから彫り出してくださいと、折口氏が依頼していると考えるのは思い過ぎでしょうか。折口邸での二人のやりとりが、この対談を踏まえたものだったとすると、折口氏は小林先生が、「古事記伝」の読後感を言葉にできない状態が、何を表そうとしているか、非常によく理解されていたし、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだった」のではないかという小林先生のつぶやきの意味も、了解した上で「黙って答えられなかった」のだと思います。では、折口氏は「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉で何を小林先生に伝えたかったのか。

 

折口信夫氏は、著作である「歌の話」の冒頭で、短歌の起こりにつて、「短歌の出来るまでには、いろんな形をとおって来ています。第一に、世間の人は、短い単純なものが初めで、それが拡がって、長い複雑なものとなるという考え方の、癖を持っています。ところが物質の進化の方面と、精神上のこととは反対で、複雑なものをだんだん整頓して、簡単にして行く能力の出来て来ることが、文明の進んでゆくありさまであります。短歌などもそれで、日本の初めの歌から、非常な整頓が行われ行われして、こういう簡単で、思いの深い詩の形が出来たのであります」と述べています。遠い祖先の時代からあった「たたえ言」が「ものがたり」というものになり、「ものがたり」の肝心な部分が、「歌」となったため、「時代が移ると、言葉の意味や、昔にいい習わしたわけが、わからなくなるために、後世では、なんの理くつもわからない『いい習わし』となって」しまい、「称え言」や「ものがたり」が作られた時の、複雑で豊かな精神を、思い出すことができなくなったのだと言います。この折口氏の論に沿って、「歌」から「称え言」に時代を遡るためには、現在を複雑とし、そこから古代を単純として解釈しようとする、物質の進化の歴史ではなく、現在の「心の動き」から、古代人の精神の複雑さを「上手に思い出し」ながら、精神の歴史を蘇らせて、形にすることが必要です。折口氏は小林先生との対談で、「無常という事」を二度取り上げながら、小林先生の批評の方法に、歴史の形を彫り出す新しい刀やへらを期待していたのだと感じます。

 

折口氏が大森駅の改札口で、「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉で小林先生に呼びかけ、伝えたかったのは、「解釈を拒絶して動じないもの」を、「上手に思い出す方法」だったのではないでしょうか。「歌」からいきなり「退っ引きならならぬ人間の相しか現れぬ」、「古事記」の世界を彫り出そうとすると「言葉にならない」。本居さんは紫式部に導かれつつ、「源氏物語」という「此世のものがたり」によって、「心の動き」を形にし、具体的に彫っていきました。なま女房が「此世のことはとてもかくても候」と心を動かしつつうたう、無常なる生者の「ものがたり」が、「後世」との出会いを信じる道でした。なま女房の願う後世は、「解釈を拒絶して動じない」、古代から連綿とつながる「常なるもの」でありましょう。折口氏は別れ際の言葉で、本居さんにとって、「源氏」という「此世」の「生死無常のものがたり」こそが、小林先生が比叡山で出会った、遠い古代の、「常なるもの」をありありと思い出す道であったことを、伝えたかったのではないでしょうか。

 

(了)