「ものがたり」の源泉

昔むかし、あるところに……という「ものがたり」は、日本だけでなく世界中にあって、説話や伝説、おとぎ話は子どもが文学を学ぶ手習いのようなものだと感じていました。

ところが、「本居宣長」の第十六章で、本居宣長が、紫式部は「源氏物語」を書く上で、どれほど「ものがたり」というものに信頼を寄せていたかということを言っている、と小林秀雄先生に教えられ、今までの子どもじみた読み物という印象とは打って変って、「ものがたり」自体が人間とともに誕生した人間と一体の生きものと言っていい起源を持つほど、深遠なものに感じられてきました。

「ものがたり」には、これは「そらごと」だ、作りごとだとわかっていながら、その作りごとの中から迫ってくる何かしらの「まこと」、真実に、私たちの心がつかまれてしまう不思議な力があります。その力は、古くは書き言葉による読み物ではなく、語り手の話し言葉による「語り」によって伝わってきました。

たとえば、大阪南部の和泉市に古くから伝わる「くず伝説(信太狐)」はよく知られていますが、ここには母子の哀しみという「そらごとのまこと」があります。

―むかし、和泉の信太しのだの森で、ある男が狩りで捕らわれそうになっていた一匹の白い狐の命を救ってやりました。その後、男が恋人葛の葉姫をさらわれて失望しているところへ狐は恋人の姿に化けて訪ねていきます。そのうち二人は夫婦めおととなり、幸せな夫婦暮らしの中で、やがてかわいい男の子が生まれます。ところがあるとき、本物の葛の葉姫がもどってきてしまい、自分の正体がばれると恐れを感じた白狐は、森に逃げようとする動物の本能と、本来の姿を忘れて慈しんできた我が子への愛おしさに引き裂かれ、錯乱しながら障子に別れの歌を書き遺します。

「恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

筆を持つ手は次第に真っ白な前肢となり、ようやっとその筆を口に加えて書いたかと思うと、あっという間に森へ逃げ去ってしまいました。白狐の母を慕うあまり森に連れて行けとせがむ幼子おさなごは、父に手を引かれて母親に会いに行きます……。

このお話を聞くと、狐と人間の間に子どもが生まれるという「そらごと」と知りながら、私たちは人間や動物が持っている本能という「まこと」が想像されて、すっかり信太の森の深いところに連れていかれます。

けれどもこの短い伝説は、「白狐の命を救った人間の男と、その男の恋人に化けた白狐が子どもを生んだ」という事柄を伝えたいのではありません。語る人は、どんな場所で、どんな男で、と、白狐の様子や幼子の愛らしさなどを段々と語るうちに、自分の中にも迫ってくる「まこと」を聞かせたい一心で言葉をつむいでいくのです。聞く人も段々と紡がれた言葉に情景をありありと思い浮かべさせられ、ここにひそむ「まこと」を自らのうちに編み出していきます。「ものがたり」にはこのような語り手と聞き手とが次々と紡がれた言葉によって固有な「まこと」の価値を共に想像しながら生み出していく力があり、人間は日々の生活の中で、いつもその力に支えられて生きてきたことを紫式部はよく知っていた、と本居宣長は言っているのではないでしょうか。

ところで、『源氏物語』はこの例のような語り伝えの説話ではなく、文字という書き言葉によって画期的な文体を持った「物語文学」として完成されたものでした。小林先生は、紫式部が見つめていたものは、これら昔からある説話や伝説の持つ「語らひ」の力をどのように文章に現すかということであったと書かれています。

それは、私たちの国には書き言葉を生む文化がなかったということと深い関係があり、「語らひ」は、こういう言語環境のなかで生まれてきたものと考えられるからです。小林先生はこのように書かれています。

―「文字というさかしら」など待つまでもなく、私たちは自国語の完全な国語の組織を持っていた。自国の歴史というものが、しっかりと考えられる限り、これをどこまで遡ってみても、国語の完成された伝統的秩序に組み込まれた人間達の生活しか、見つかりはしない。……

その歴史は、古代の「祝詞のりと」や「宣命せんみょう」にまでさかのぼると宣長は書いていますが、宣長の信じるところは人間の「声」に現れる「あや」の力でした。たとえば、「おはよう」という挨拶には意味よりもまずその声で、口にする人がどんな気持ちで朝を迎えたかがわかりますが、私たちの祖先はこの「文」でお互いをわかり合って生活していたことになります。

さて、このしっかりと出来上がった「語り」の強固な力を誰も書き言葉に移すことに成功しなかったのですが、紫式部は見事に『源氏物語』で「そらごとのまこと」を物語の文体で伝えて人々の心をつかみました。光源氏という貴公子にさまざまな「物のあはれを知る」ということを演じさせ、そこには『源氏物語』固有の「まこと」が次々と現れます。それは、古女房を装った紫式部が、読者と「語らふ」つもりで書いた「ものがたり」と言っていいのではないでしょうか。

小林先生が「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」と言われている「ものがたりの源泉」は、人間の話し言葉に根源的にそなわっている言葉の本能から湧き出ている、と言えるのではないでしょうか。

(了)

 

風雅に従ふ

小林秀雄先生は、「本居宣長」の第二章に入ると、「彼の思想の一貫性」「彼の生きた個性の持続性」という言葉を繰り返し書かれている。「宣長の学問」というより先に、「宣長という人間」に驚かれている先生の言葉が出てくる、そのたびごとに、読む者は何かしら深遠なものに出会う予感を覚え、そのとっかかりとも結びとも言えそうな宣長の晩年のうたに、第三章で出会わされてはたと立ち止まる。

家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共

宣長が門人のために「先ず生計が立たねば、何事も始まらぬ」と詠み与えたこの歌は、単に学者としての生き方をさとしているだけとは思えない。ここにもまた、宣長の思想の一貫性、生きた個性の持続性が感じられるのである。

 

宣長の京都遊学時代は彼の人生の萌芽期であった。「学問に対する、宣長の基本的態度は、早い頃から動かなかった」として小林先生は、宣長が友人たちに宛てた書簡によってその態度を示している。(第五章)

―「不佞フネイノ仏氏ノ言ニ於ケルヤ、コレヲ好ミ、之ヲ信ジ、且ツ之ヲ楽シム、タゞニ仏氏ノ言ニシテ、之ヲ好ミ信ジ楽シムノミニアラズ、儒墨老荘諸子百家ノ言モマタ、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百ぼんぴゃく雑技ざつぎ」から「山川さんせん草木そうもく」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。このような態度を保持するのが、「風雅ニ従」うという事である。……

すべてこの世で出会う天地万象を我が物として受け入れ、それを好み、その事象を率直に信じ、楽しむ、この「好信楽」という基本的な態度、すなわち「風雅に従ふ」ということを宣長は忘れなかった。

彼は、別の友人に宛てた書簡で、この「風雅」について「論語」の「浴沂詠帰」の話を引く。

―晩年不遇の孔子と弟子達との会話である。もし世間に認められるような事になったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人曾晳そうせきだけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこうこたえた、「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ブウニ風シ(雨乞あまごいの祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。孔子、これを聞き、「ゼントシテ、嘆ジテハク、吾ハ点(曾晳)ニクミセン」……

理想とする先王の行ったまつりごとの道を再現しようとして失敗した孔子は、弟子たちと各地を放浪しながら問答し、先王の教えを六経に書き残した。その孔子の教えに従う弟子たちは、思い思いに国の政に対して勢い込んで持論を披瀝した。しかし、曾晳そうせきという弟子だけは大変違った意見を述べた。「私は、晩春のころ、合い物の薄手の服をきて、元服をおえた青年たちと、まだ元服前の少年たち数人を引き連れて、南方のという川に行きたいのです。皆で川に入り、水浴をした後は、あの雨乞の祭の舞をまう土壇の上で風にあたって涼み、歌をうたいながら帰ってくる、それがしたいのです」……孔子は、この曾晳の意見に、深くため息をついて、「……私も曾晳に同感だ」そう応えたという。

ここで押さえておくべきは、曾晳の士民すなわち一般生活人としての志であり、それを引いている宣長の儒学観である。宣長が生きた時代は、学問と言えば朱子学であり、その厚みは人々の日常の隅々まで覆っていた。しかし小林先生は宣長の儒学観をこう書かれている。

―儒学の本来の性格は、朱子学が説くが如き「天理人欲」に関する思弁の精にはなく、生活に即した実践的なものと解すべきものだが、それも、品性の陶冶とうやとか徳行の吟味とかいう、曖昧で、自己欺瞞ぎまんや空言に流れやすいものにはなく、国を治め、民を安んずるという、はっきりした実際の政治を目指すところに、その主眼がある。……

ここで言われている「天理人欲」とは、「小林秀雄全作品」(新潮社刊)第27集の脚注によれば「天然自然の道理と、人間の欲望」であり、「思弁の精」とは「抽象的理論の精密さ」である。

そして宣長は、友人に言っている、「儒と呼ばれる聖人の道は、『天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道』であって、『ヒソカニ自ラ楽シム有ル』所以ゆえんのものではない」と。治めるべき天下も、安んずる民も持たない身分の我々が、曖昧な空理空論をもてあそんだり、実生活から逸脱して、聖人の道が何の役に立つのか……。

これを承けて、小林先生は言う。

―宣長が求めたものは、如何いかに生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。彼は、はっきり意識して、これを、当時の書簡中で「風雅」と呼んだのであり、これには、好事家こうずかの風流の意味合は全くなかった……。

ここに書かれている宣長の「聖学」とは、無論「己を知る道」という学問であるが、私は今回の山の上の家の塾での自問自答で、あまりにも宣長の残した「聖学」にばかり眼が行き、彼の「俗」を素通りしていたことに気づかされた。宣長が言っている「小人の立てる志」という「俗」を知らなければ、宣長の「道」は理解できないであろう。

冒頭に取り上げた「家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共」という歌も、この「俗」を基本とする宣長の「学問」に向かう姿勢であった。小林先生は言われている、「俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う『好信楽』とか『風雅』とかいう言葉は、その生きたあじわいを失うであろう」と。

宣長は、先王の道を背負い込んだ孔子という人の心に会いに行き、儒学の大道を見つめる、「万葉集」に「俗中の真」を究めた契沖の跡を追って古人と古伝説に会いに行く、「源氏物語」の味読を通して「物のあわれを知る」紫式部に会いに行く……こうして「人生いかに生きるべきか」を考えるという高いところをめざした彼の「聖学」は、また彼の「俗」に還って学問の手仕事につくのである。それは日常生活の場である住居の一階と、宣長自ら鈴屋すずのやと名付けた二階の書斎を行き来する生活そのものであった。ということは、宣長は「俗中」にあって「道」の学問の花を咲かせたのである。 

 

ここでこういうことを言うと唐突に聞こえるかもしれないが、私は宣長の「俗」を読む一方で、小林先生の「歴史の魂」(「小林秀雄全作品」第14集所収)の次のくだりが気になっていた。

―芭蕉は自分の態度を風雅と名づけました。彼に言わすと風雅というものは、造化ぞうかに従い四時しいじを友とすというのでしょう。風雅ということが今日非常に誤解されているけれども、それは、消極的な態度でも洒落しやれた態度でもない。少くとも日本人が抱いて、大地に根差した強い思想です。己れを空しくして、いろいろな思想だとか、意見だとか、批判などにわずらわされないで自然の姿が友となって現れて来る、自然と直接につき合うことが出来る。そういう境地は易しくはないのです。そうなると見るもの花にあらずという事なし、という事になる。……

これはまた、宣長の「風雅」であり「好信楽」ではないだろうか……。すると偶然にも、この「自問自答」を書いていたある日、「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」というサテライト塾で、最後に広島塾の方が「小林先生の言われている芭蕉の風雅」について質問された。

池田雅延塾頭は、即座に「高く心を悟りて俗に帰るべし、です」と言われた。そして、「この言葉は、新潮社に入って五年目、二十七歳の春、麻生磯次先生の本『芭蕉物語』をつくらせてもらってその文中で出会い、そうか、なるほど、と心に強く残った言葉です……」と続けられた。その瞬間、私の中で宣長と芭蕉の「風雅」が重なり、さっそく『芭蕉物語』を求めて開いてみた。すると、芭蕉は杉風さんぷうという弟子にこう説いている。

―高くを悟る、のというのは風雅の誠をいい、風雅の誠を責め求めて、それを自分のものとして体得することをいう。そのためにはすぐれた和漢の古典に接して、その高い詩精神を味得しなければならない。そして風雅の誠を十分に悟り、その上で俗に帰る。俗に帰るというのは、漢詩、和歌、連歌などの雅なるものから通俗卑近な世界に帰り、卑俗の中から詩美を発見することである。……(麻生磯次著『芭蕉物語』下、新潮社刊)

小林先生が、批評家として最後に「本居宣長」という大作を残された、その大きな仕事の根幹には、宣長のことを書きながら宣長だけでなく、「消極的な態度でも洒落れた態度でもない。少くとも日本人が抱いて、大地に根差した強い思想」が書きたかったのではないだろうか。「風雅」を極めるという宣長の学問の志は、すなわち日本の優れた文学者や芸術家たちに貫道している伝統でもある、私には小林先生がそう言われているように聞こえる。

野ざらしの旅寝をする中で、己れを空しくし、自然を友とした芭蕉の境地とはどういうものだったのか……僭越ながら、ここに私の思い浮かぶ句を一つ挙げる。

ほろほろと 山吹散るか 滝の音

吉野川の、初夏の瀑声に消え入りそうに舞い散る山吹の色が、句の中では消えるどころか、滝の音を消して、ゆっくり落ち続けるのである。

これこそは、芭蕉の「俗」であり「風雅」である。それは宣長の「俗」であり「風雅」に通じる、私にはそう思える。

ちなみに、池田塾頭は、「芭蕉物語」の本の帯にこう書かれている。

―人間の道と風雅の道とに隔たりがあってはならない。正しい俳諧は人の道を正しく踏むところに生まれると芭蕉は考えていた。淋しい境涯に徹して自分の心を見つめてみたい、旅の誘惑に身を任せたいと思った。……

 

(了)

 

観るということ

買い物の途中で、花鳥画の美しいポスターが目につき、その美術館に入ってみた。日本を含め東洋の古い絵が並んでおり、小動物や植物の命がいきいきとしている楽しい展覧会であった。

そこへ一点、二羽の雀がはなもちのように一本のわびた竹の枝にうずくまっている。なんだろうとその地味な墨絵の細部を眺めていたら、霧の中にすっと伸びて消えかかる竹の枝が、妖艶な細い女性の指先のようで、思わず見惚れた。するとますます特別な枝になってきた。

真ん中のくっついた雀に目を移すと、一見寒そうに体を膨らませて寄り添う二羽の姿は、単純ではなかった。黒く縁どられた目は何かを狙っているわけではないが、野生の鋭さをたたえ、くちばしは鋭くとがっている。奥の雀は毛づくろいをしており、手前の雀は一番いい状態で枝に体重を乗せている。それぞれの雀は、いつもこうしているのだろう、こういうふうに竹の枝を住処にしているのだろう。

下方では細かい雨を吸った笹が一枚ずつぴんと張り、濃淡をほどよく散らした墨色には清涼感がある。改めて退いて眺めると、一幅の景色に満ちた雨の湿度がこれほど美しいものかと感心させられた。その雨を二羽の雀の生えそろった柔らかい坊主頭が溌溂はつらつはじき、したたかな生命力を放っている。私はしばらくの間、秋の一村に立っている気分であった……。

 

村雨むらさめの秋ぞさびしさまさりける 竹につがひしぬれ雀かな

 

あのとき、不意にこんな歌が口をついて出たのだったが、そのうちいつしか、竹の小枝に雀が乗っているだけのことが、何か途轍とてつもない一大事よりももっと深いものをこちらに伝えてくるのはなぜだろうと考え始めていた。不思議な画家だ……彼の絵はどの絵を観ても間違いなくその自然の奥に連れて行かれる。私は、絵の傍らに添えられていた「伝牧谿もっけい」という文字をじっと眺めた。

 

牧谿は、宋代の中国の画僧である。だが、どういう人物なのか伝記も少なく、作品はほとんど日本にしか残っていない。室町時代、足利将軍家に愛され、長谷川等伯など後の日本画家に与えた影響は大きい。今日に至っても人気の高いこの画僧の、何がこうも私たち日本人の心をとらえるのか。

彼の描く自然は、私たちが知りすぎるほどよく知っている自然である、その姿が、懐かしい生命力を持って優美に描かれる。これを目にして私たちは、自分では整理のつかない混沌とした自我の中から自ずと求めているものに出会わされる……牧谿は、私にとって、そういう謎めいた画家である。

 

そんなことを思いながら牧谿の雀に見入っていた私の脳裏に、ふと小林秀雄先生が言われていた「観」が浮んだ。先生は「私の人生観」という演題で講演依頼を受けて「人生観」の「観」にまつわることを話され、それが「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)に収められているが、その中に、「観は、日本の優れた芸術家達の行為のうちを貫道しているのであり、私達は、彼等の表現するところに、それを感得しているという事は疑えぬ」とし、文学ではたとえば西行だと言って歌を引かれている。その文章をここに写してみる。

 

―西行の歌に託された仏教思想を云々うんぬんすれば、そのうちで観という言葉は死ぬが、例えば、「春風の花を散らすとみる夢はさめても胸の騒ぐなりけり」と歌われて、私達の胸中にも何ものかが騒ぐならば、西行の空観は、私達のうちに生きているわけでしょう。まるで虚空から花が降って来る様な歌だ。厭人えんじんも厭世もありはしない。この悲しみは生命にあふれています。この歌を美しいと感ずる限り、私達は、めいめいの美的経験のうちに、空即是色くうそくぜしき(*1)の教えを感得しているわけではないか。美しいと感ずる限りだ、感じなければえんなき衆生しゅじょう(*2)である、まことに不思議な事であります。前にもお話しした通り、空観とは、真理に関する方法ではなく、真如を得る道なのである、現実を様々に限定する様々な理解をむなしくして、はじめて、現実そのものと共感共鳴する事が出来るとする修練なのである。かくの如きものが、やがてわが国の芸術家の修練に通じ、貫道して自分に至ったと芭蕉は言うのだが、今日に至っても、貫道しているものはやはり貫道しているでありましょう。仏教によって養われた自然や人生に対する観照的態度、審美的態度は、意外に深く私達の心に滲透しているのであって、丁度雑踏ざっとうする群衆の中でふと孤独を感ずる様に、現代の環境のあわただしさの中で、ふと我に還るといった様な時に、私はよく、成る程と合点するのです。まるで遠い過去から通信を受けた様に感じます。決して私の趣味などではない。私はそうは思わぬ。正直に生きている日本人には、みんな経験がある筈だと思っています。人間は伝統から離れて決して生きる事は出来ぬものだからであります。ただ何故私達は、生きる為に、そんな奇妙な具合に伝統とめぐり会わねばならぬか、それだけが問題だ。これはたしかに、日本独特の悲劇であって、かような悲劇を見て見ぬ振りをする文化主義者など、合理的道化に過ぎぬ。何故なら伝統のない処に文化はないからです。……

 

観法は、日本では天平時代に始まり、鎌倉の新興仏教で途絶えたあとに宋の禅宗とともに再び伝わった。牧谿はその源流の画僧である。家に帰るなり先生の文章を何度も読み返した。

ここにその文章をそのまま引用したのは、先生は生前、「批評は引用に尽きるのだ。この文章の急所はここだと直観し、まちがいないと確信できたら、そこを過不足なく引く。それができたら批評家の言い分など一言だって必要ないのだ」と仰っていたと池田塾頭にうかがっていたからだが、牧谿の雀に、西行の桜に、同質の「芸術家に貫道するもの」が、先生の言葉を書き写すことで、より鮮明に自分の中に現れるような気がしたのである。

 

だが、先生が、「この歌を美しいと感ずる限り、私達はめいめいの美的経験の内に、空即是色の教えを感得しているわけではないか。美しいと感ずる限りだ」とこちら側が感じることの重要さを繰り返しているのはどういうことか。

「観る」ということは、無心に生命を見つめることだとすれば……たとえば一輪の花を写生しようとしたとする。私たちは花びらに走る細かな脈や、透けそうな薄さを目で追っていくうちに、自分が蟻になったような気分になって、雄蕊についた黄色い花粉がこぼれんばかりで圧倒されたり、透明な雌蕊の液体が危険なものに見えたり、そのうち微細な生き物の潤いや呼吸に包まれて、その完璧な配列から目が離せなくなる。それは、雨雲の動きであったり、せせらぎの流れであったりするかもしれないが、すべてこの世の命は完璧につくられていると感じる瞬間、自分自身の中にもそのかけがえのない、命のありがたさが宿る、それが「観る」ことではないだろうか。

お釈迦様はその昔、自分の息子が父親殺しを企むという、韋提希いだいけ夫人の苦しみを取り除くために、荘厳な極楽浄土を観る説法をした。それは、西に沈む太陽を見て、夕日の円さをじっと観続ける、次に無色透明の清らかな水を観る……というように自然を観想する方法である。心にあらゆる形を観想するということは、あらゆる命の尊さで心を満たすと言うことで、そういう観方を会得しなければ西方浄土は現れないことを諭されたのだろう。「観る」ということは、生命の美を知るという一つの手続きだ。命以外に何を美しいというのか……わからないながら私はそう考えた。

 

牧谿の墨絵には、優美でいながら野生の命のほとばしりがある。西行の「騒ぐ」と歌った桜には、消えて行くべき命の麗しさがある。彼らの詩魂は「観」によって鍛えられ、絵や歌となって私たちを驚かすのだが、図らずも自分自身に出会ったようにつかまれたこの心にも同じ「観」が流れているにちがいない。そのことを小林先生は「伝統」と書かれているのだろう。私は思いがけず、雀や桜という私自身に出会えたことで、長年曇り空であった心に晴れ間ができたような気分になっている。

 

(*1)空即是色……「般若心経」の中の言葉。「空」であることによってはじめて万物が成り立つということ。

(*2)縁なき衆生……仏縁のないもの。転じて、救い難い者。

(了)

 

批評家の系譜―紫式部、本居宣長、小林秀雄

人々は批評という言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいうことを考えるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいうものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考える、そういう風に考える人々は、批評というものに就いて何一つ知らない人々である。

(小林秀雄「批評に就いて」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第3集所収)

 

国語辞典、たとえば『広辞苑』は、批評とは「物事の善悪、美醜、是非などについて評価し、論ずること」と言っている。しかし、小林先生の批評はそうではない。「論ずる」のではなく「考える」のである。小説や音楽、絵画など、ものをつくる人々の立場に立って、その人の身になって考える、それが先生の批評態度である。

なぜこういうことを言うかというと、先生の「本居宣長」(同第27、28集所収)を読み進めているとき、ぱっと目に入ってきた言葉があったからだ。第十四章で、先生は、紫式部が「源氏物語」の中で物語というものについて書いているくだりに対する宣長の発言を評して、宣長という「大批評家は、紫式部という大批評家を発明した」と言っている。

 

宣長は「蛍の巻」の光源氏と玉鬘の会話を評して言う、「此段、表はたゞ何となく、源氏君と玉かづらの君との物語なれ共、下の心は、式部が此源氏物語の大綱総論也、表は、たはむれにいひなせる所も、下心は、ことごとく意味有て、褒貶ほうへん抑揚して、論定したるもの也、しかも、文章迫切ならず、たゞ何となく、なだらかにかきなし、又一部の始めにもかゝず、終りにもかゝずして、何となき所に、ゆるやかに、大意をしらせ、さかしげに、それとはいはねど、それと聞せて、書あらはせる事、和漢無双の妙手といふべし」(「紫文要領」巻上)。これを承けて、小林先生は言っている。「宣長の読みは深く、恐らく進歩した現代の評釈家は、深読みに過ぎると言うであろうが、宣長が古典の意味を再生させた評釈の無双の名手だった所以ゆえんは、まさに其処そこにあった」……。

 

光源氏は、かつて愛した夕顔の娘、玉鬘を養女として引き取っている。長雨の続くある日、絵物語を読む玉鬘のもとにやって来た源氏は、「あなむつかし。女こそ、物うるさがりせず、人にあざむかれんと、生れたるものなれ……」と話しかける。雨に乱れる髪も気にせず、本当のことなど書いていない物語の虚言そらごとにわざわざ騙されてむやみに感動している、女というのは困ったものだ、どんなに世の中には嘘をつきなれた者がいて、その口で、根も葉もない話を作っていることだろう、そうは思わないかと。

しかし玉鬘は、「げに、いつはり馴れたる人や、さまざまに、さもくみ侍らん。たゞ、いと、まことのこととこそ、思ひ給へられけれ」と、日頃嘘をつきなれている人はそう思われるのかもしれませんが、私には本当のこととしか思えません、とやり返す。

これに続けて小林先生は、「作者式部は、源氏と玉鬘とを通じて、己を語っている、と宣長は解している」と書いている。そして、式部は、物語は「童子わらわの娯楽を目当てとする俗文学であるという、当時の知識人の常識」に少しも逆らわなかった、なぜなら、この娯楽の世界は、式部には「高度に自由な創造の場所」と見えていたにちがいないからだ、と言っている。

機嫌を損ねた玉鬘に、源氏は、「こちなくも聞こえおとしてけるかな。神代よりよにある事を、しるしおきけるななり、日本紀などは、たゞかたそばぞかし、これらにこそ道々しく、くはしきことはあらめ」と物語を悪く言ったことを謝り、神代の昔からある物語は、「日本書紀」よりも優れている、なぜなら、「日本書紀」には、この世の中や人間について、ほんの一部が書かれているだけだが、これらの物語には「日本書紀」以上にくわしくこの世の道理にかかわることが書いてあるよね、と笑って言って玉鬘の気持ちに同意する。

こうして、紫式部のオブラートに包んだ物語論を読み解く宣長とともに式部の物語論を読み進めて小林先生は次のように言う。

 

「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ。自分の書くこの物語こそ「わざとの事」、と本当に考えていたのは式部であって、源氏君ではない。式部の「日記」から推察すれば、「源氏」は書かれているうちから、周囲の人々に争って読まれたものらしいが、制作の意味合いについての式部の明瞭な意識は、全く時流を抜いていた。その中に身を躍らして飛び込んだ時、この(宣長という)大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。

 

玉鬘は、物語を分別ある心で読んでいるのではない。「そらごと」か「まこと」かにかかわらず、物語の筋に翻弄されながら、素直な心でその物語に動かされている。宣長にしても同じことで、「うそごとながらうそごとにあらず」という紫式部が作った言葉の世界に乗り移って楽しんでいる。「判断とか理性とか冷眼とか」ではなく、「愛情と感動」で読んでいる。様々な研究や評価の書を借りてではなく、愛情と感動でしかこの「源氏物語」は味わえないと宣長が確信していたからである。先へ行って、先生は、「物のあはれ」という言葉の意味合について考察するくだりで、「よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている」と言っている。

紫式部が王朝文化の直中で花開いた物語によって表現したかったのは、「人間はいつの世も、不安定な感情経験とともに生きている」ということであったろうし、それを宣長は素直に自分の身の上に引き受け、式部の言葉の表現力に入り込んだ。小林先生は、宣長がこういう直観力、洞察力、認識力を存分に駆使して紫式部という「作者」と出会い、真正面から向かいあった、ここを捉えて宣長を「大批評家」と言ったのであろう。

 

小林先生の「ドストエフスキイの生活」や「モオツアルト」、「ゴッホの手紙」などはよく知られている。これらはまさに、「いつの世にも不安定な感情経験とともに生きている」人間の生き方についての批評文であるが、その批評文の規範となったのは近代批評の創始者、一九世紀フランスのサント・ブーヴの仕事であるという。サント・ブーヴは作品そのものを論じるだけでなく、作品の奥にいる作者に会いに行き、その作者の人間像をつかんで批評したと聞く。

私は、本居宣長に出会った小林先生が、日本にはこんなにも早くからサント・ブーヴがいたのかと驚かれたことを想像してみる。そして、紫式部や宣長の通ってきた物語味読という批評の道を、自らも辿っていることを楽しまれていたにちがいないと思っている。

繰り返すが、宣長という「大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい」と小林先生は言った。先生は、宣長に対しても、紫式部に対しても、単に「批評家」ではなく「大批評家」と言っている。「本居宣長」の中で、先生が「批評家」という言葉を使ってこれほど興奮している所は他にない。これは、長い間、サント・ブーヴの衣鉢を継いで「批評」を書いてきた先生の、一言では言い切れぬ強い思い入れがあったからだろうと思う。

(了)

 

いもの

大和の葛城かつらぎというところに、当麻寺たいまでらというお寺がある。ここには、阿弥陀仏の浄土に憧れ続けたお姫様の伝説がある。あるとき、山にこもった姫は、念仏三昧ざんまいののち生身しょうじんの阿弥陀仏を拝することを祈願した。すると、どこからともなく老尼が現れ、それなら蓮の糸で曼荼羅まんだらを織りあげよと言う。姫は言われたとおり一夜で見事な曼荼羅を織りあげ、極楽往生したと伝えられている。老尼は阿弥陀仏の化身であった。

小林秀雄先生の作品に、お能について語った「当麻たえま」がある、お能の「当麻」はこの中将姫の物語である。

 

豊臣秀吉の醍醐の花見はよく知られているが、そこから小一時間ほど登った上醍醐に、清瀧宮せいりゅうぐうがある。この清瀧は、空海が唐からお連れした雨乞いの明神で、諸国を浮遊されて、ここに定住することをお決めになったという。朝のニュースでは、この冬一番の冷え込みで吹雪になるということであったが、その日は冬至のあくる日で、半年つづいた陰の季節がすみ、やっと日が長くなり始める一陽来復いちようらいふくであった。空は青く、空気も澄んでいて、こんな吉兆はないと、私は幼い息子の手を引いてこの龍神様に会いに出かけた。

 

小学校に上がったばかりの息子は、内弁慶で、友だちと外で遊ぶより、母親相手に小さな部屋を駆け回る方が好きであった。息子の相手をしていると、家のことなど何もできなくなるので、私はよく夕飯を一緒につくって、家事も子どもの相手もと一石二鳥を決め込んでいた。子どもサイズのエプロンをつけ、小さな台に上った息子は、真剣な目で食材を見つめ、もしかしたら、私が思う以上に料理の手伝いを楽しんでいたかもしれない。

ところが、息子の手を自分の手で覆うようにしてピーマンを切っていたときのことである。転がりやすい形を押さえるように、私は包丁を手前にすっと引いた。確実に引き切ったあとに残った嫌な感触、思わず悲鳴を挙げた。不覚にも私の手の下から出ていた息子の小さな人差し指の先を、一緒に切ってしまったのである。木のまな板はみるみる赤くにじみ、私はとっさに切り離れた肉片を探したのか、あふれた血でよく見えない指先を先に何かで縛ったのか……気が遠くなって、今となってはどうやって救急病院に駆け込んだのかも覚えていない。幸い、傷は骨まで達しておらず、お医者様は、日にちがたてば、新しく肉が盛り上がってくるでしょうと仰った。

処置はするだけした。でも、本当に指はもとに戻るのだろうか。爪は残るのだろうか。私は包帯が取れるまで、毎日頭がちかちかし、何をしていても指のことが頭から離れなかった。これはもう神様にお願いに上がるしかないということで、上醍醐の龍神様にお会いしに行ったのである。

 

私も息子も辰年ではないが、龍神様にと思ったのには訳がある。その年のいつだったか、ブータン国王夫妻が来日され、震災直後の福島の子どもたちに残された龍のお話が、ずっと私の心を引き付けていた。国王は仰った。君たちは龍を見た事があるかと。一人一人の背中には龍が住んでいて、龍はその人の経験を食べて成長しているらしい。近くにいた紳士を指して、国王は、「この人には、髭を生やした立派で大きな龍が見える」と仰った。すると子どもたちはじっと目を凝らしてその紳士の背中を見つめた。小さな心を力づけられた国王の言葉は、慈しみが深く、私はありがたくて涙が出た。そんなことで、あと数日で辰年になることでもあるし、きっと一番ご利益がある神様に違いないと思ったのである。

その日はありがたいことに、山の頂も晴天で、白く吐く息の向こうには、遠く大阪の景色が見渡せた。私たちは持ってきたお弁当をお供えして、お社の周りで遊び、お下がりをお腹いっぱい食べて機嫌よく山を下りた。山の気は陽光を浴び、春一番の香りで満ちていた。

しかし、指に巻きついた太い包帯はなかなか小さくならない。息子も周りの子どもたちも、まだまだ小さいから、学校で過ごす時間に不意に指を突いたり突かれたりしないだろうか……そう思っていたら案の定、雑巾がけをしていて指を踏まれたと学校から連絡があったりする。

心配の虫がわらわらと広がり、もっと早く治せないものかと今度はお守りになる物を作ることにした。私は子どもの龍が、宝珠を見つめている刺繍ししゅうを刺したパジャマを思いついた。寝ている間にぐんぐん傷がふさがっていく気がしたからだ。出来上がると、息子にブータン国王の龍のお話をよく聞かせて、自分と同じ小さな龍を育てるようにと着せてやった。

 

今思えば、滑稽な話であるけれど、私はあのとき、いつだって母親は、自分の手の中におさまらない母親というものがあることを知った。母親は、子どもを生んだ瞬間に、愛しさと同じ分だけの悲しみを引き受けている。子どもは無防備に、日に日に母の肉体から離れていく。母は大海の前の小さな背中を見つめて祈るしかなくなる。

けれど、祈りはそう簡単に「祈り」にはならない。自分の心が神様に届いたと安心できるには、何か手立てが必要なのだ。私がとっさに息子のパジャマを作ったのも、無意識に、この「糸に託す」という手立てを思ったからであろう。昔から女たちが針仕事をしてきたのは、単に暮らし向きのためだけではなく、無心に手を動かすことで信じる力を得る、大事な時間がそこにあったからではないだろうか。

 

小林先生の「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)に、次のようなくだりがある。

 

日輪に想いを凝らせば、太陽が没しても心には太陽の姿が残るであろう。清洌せいれつ珠のごとき水を想えば、やがて極楽の宝の池の清澄せいちょうな水が心に映じて来るであろう。水底にきらめく、色とりどりの砂の一粒一粒も見えてくる。池には七宝しっぽう蓮華れんげが咲き乱れ、その数六十億、その一つ一つの葉を見れば、八万四千の葉脈が走り、八万四千の光を発しておる、という具合にやって行って、こんどは、自分が蓮華の上に坐っていると想え、蓮華合する想をし、蓮華開く想を作せ、すると虚空こくう仏菩薩ぶつぼさつ遍満へんまんする有様を観るだろう。

 

これは、「観無量寿経かんむりょうじゅきょう」でお釈迦様が「る」修練について説かれたものを、小林先生がわかりやすく書かれたくだりだが、私には、浄土の世界が色とりどりの絹糸に託され、見厭きぬ世界が広がっていくのが見える。プツン、スー……と針と糸が通る音さえ聞こえてきそうだ。このお経の世界こそは、中将姫が織った当麻曼荼羅の姿であっただろう。

中将姫の観た浄土の世界には、砂粒から大樹まで、一つ一つの風景に心が宿り、そのすべての命が慈愛に満ちている。姫は、かたじけなさに、はらはら涙を流したに違いない。そばにいた人々も、蓮茎を集め、染井を掘っているうちに、ただならぬ甘美な世界に恍惚となって曼荼羅の仕上がりを待ったであろう。……幾筋かの蓮糸はすいとれて一枚の絵になっていくように、私は、人々の心も姫の一心な思いにつられ、そこに現れた浄土を拝んだような気がしている。このさきわいの国に導いた老尼は阿弥陀如来の化身であったが、中将姫の悲しみにあふれた命が、この国をひたすら信じなければ、当然何も現れることはなかったのである。

 

小林先生の「当麻」(同第14集所収)では、中将姫の無心な念仏が聞こえ、浄土への切実な憧れが苦しいほど迫ってくる。

 

……中将姫の精魂が現れて舞う。音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになってしまっている。そして、そういうものが、これでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えずささやいている様であった。音と形との単純な執拗しつような流れに、僕は次第に説得され、征服されて行く様に思えた。……中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥沼から咲き出でた花のように見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。

 

……私は思わずからっぽの空を見上げた。そこには「花」の余韻がいつまでも広がっていて、五色の糸が確かに見えたような気がした。

女たちはいものをしながら、相変わらず悲しみにあふれているけれども、「繍う」という糸に託した祈りには「花」が隠れている。そして悲しみの中にある豊穣ほうじょうを少しずつ受け入れていくような気がする。

ふと、本居宣長の「うしろみの方の物のあはれ」という言葉が浮かんだ。

 

もう、手足が飛び出して着ることのなくなったパジャマの龍は、今の息子には可愛すぎる、が、その分だけ経験を食べ、そろそろ青年に向かう龍が、息子の背中にいてくれるだろうか……。

(了)

 

言葉から人間を知るということ

私たちは、誰かの言葉が心にしみて生きる勇気をもらったりすることもあれば、そんな気はなくても出てしまった言葉で人を傷つけたりすることもある。言葉は美しくもなるし恐ろしくもなる。また、素晴らしい詩や小説に出会うと、自分の枠から抜け出た世界へ連れて行かれたり、日記や手紙を書くと心が整理されて落ち着いたりするという、心の切り替えを促す手がかりにもなる。人は普段、言葉に埋もれて生きているせいか、それ自体が人間にとってどのように大切なものなのか、その意味を考えることには無頓着である。そして、考えようにもその働きはなかなか見定められるものではない。

小林秀雄先生の『本居宣長』には、この立ち止まってもなかなか正体がつかめない言葉への見通しが幾筋もの光のように放たれている。

 

入塾して間もない昨年の春、池田塾頭から、小林先生は『本居宣長』を執筆される際、折口信夫氏に「本居宣長は源氏ですよ」と助言されたというお話を伺った。自然と私は、その意味を追うように、この殿堂のような作品を読み進めて行ったのである。

しかし、「『源氏物語』の味読による宣長の開眼」は、そう易々とは景色を現さない。読む人は、引用された宣長の原文を咬みしめ、前へ戻りつ先にあずけられつしながら、丁寧な小林先生の語り口をじっと見つめることで、全容が浮かび上がってくる仕掛けを知るのである。そこには、必ず見入ってしまう花や木のある寄り道があり、その香りに誘われて、ついもとの道を忘れてしまうほどだ。私はこの、宣長の森をくるくると冒険しながら、「言語表現の問題」という謎めいた不思議な木に遭遇してしまった……。

 

本居宣長と言えば、「物のあわれ論」が有名であるが、小林先生はこれを、宣長にとっては、歌人たちが当たり前に扱ってきた言葉ではなく、日常語として使われようとも、その含蓄する意味合いの豊かさに驚くべき力を持つ表現性であったと言う。そしてそれをまず、「物のあわれ」と「物のあわれを知る」とに区別して、「物のあわれを知る」とはどういうことかに読者の関心を誘う。

 

そもそも「物のあわれ」とは何か。宣長に聞いてみると、「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、こころの深く感ずることをいふ也。俗には、たゞ悲哀ひあいをのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上いそのかみ私淑ささめこと」巻一)と言っている。現代の感覚では、「あわれ」と聞けば、物悲しいとか、情趣を催す言葉のイメージしかなかったけれど、この、喜びも悲しみも、最初はすべて「あわれ」であったという言葉の成り立ちの中に身を置くと、人間の「心」のスケール感を省みざるを得ない。便利さや効率のおかげで、一見いつも平常心を備えているかのような現代人からすると、衣食住や生死が、今よりはるかに思うままでなかった古代の人の心の景色は、もっともっとダイナミックだったのだろう。

しかし、宣長は続ける。「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、たゞかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)と。「あわれ」はこうして何時の間にか、特に悲哀の意に使われるようになっていった。人は、願いが叶うと、すんなり次の行動に移して、それまでの切実な願いは忘れてしまうが、叶わない場合は、そこに深さ浅さはあるけれども、悲しみや苦痛に立ち止まって、自分の心を見つめてしまう性質があるというのだ。

 

さて、宣長によれば、「歌」とは、この「あわれ」をはらすために生れた最初の「物」であるという。しかしそれはどうも、私たちが思っている歌のような、心の動きによって、何かを表現したい感情から作られたものとは違うというのだ。もっと原初的な叫びのかたちであり、頭で考えて発話する言葉よりも先に発生したものであるらしい。

「たへがたきときは、おぼえずしらず、声をさゝげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばゝりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよくあやありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。たゞの詞とは、かならずコトなる物にして、その自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづからあやある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑言」巻一)

身近な例でいえば、私は、「たゞの詞」(橋岡注:日常の発話)の表現を知らない赤ん坊の泣き声を想像する。赤ん坊の欲望の表し方は、その種類によってトーンが違う。眠くてたまらない時は、激しく始まり、だんだん弱くなって眠りにつくが、その自分の声のリズムに慰められながら安心して寝入っていくように見える。この、泣くというリズミカルな「かたち」が歌の始まりに似ているのではないだろうか。

そしてその歌より重要なことは、この「カタチ」なのだと宣長は言う。それは赤ん坊が、泣くというリズムによって「安定する」、こういう妙技が、人間の性情の中に組み込まれているからだろう。小林先生も、「歌とは、先ず何をいても、『かたち』なのだ。或は『あや』とも『姿』とも呼ばれている瞭然りょうぜんたる表現性なのだ。歌は、そういう『物』として誕生したという宣長の考えは、まことにはっきりしているのである」と付け加えられている。それ故に、人々が古来、深い悲しみや願いからやる方なしに発した嘆きは、歌となり、礼、楽、舞踏などに発展し、「カタチ」に基づく表現性として、それらは今日でも芸術という創造の道に広がっているのだろう。

 

ところで、宣長には「和歌の功徳」という考え方がある。

「『心ニオモフ事』は、これを『ホドヨクイイツゞクル』ことによって死に、歌となって生れ変る。歌の功徳は、勿論もちろん歌の誕生と一緒であるから、『心ニオモフ事』のうちに在るはずはない」。この考え方を受けて先生は、「もし、『心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイイツゞクル』詠歌の手続きが、正常に踏まれ、詠歌が成功するなら、誕生したその歌の姿は、『マコトノ思フ事ヲ、アリノマゝニヨムト云モノニナル也』と宣長が言っている事になる」と言う。

私は、この「和歌の功徳」のくだりがとても好きだ。これまで、心が動いた経験から出る感情は、ずっと心の糧として無くならないものだと信じていた。それを、自分の思考でどうにか表現したものが歌なり文章なりになり、きっかけとしての心の動きも、「カタチ」となった言葉も、すべて一つの「私自身」と思い込んでいた。しかし宣長は、それを人間の内面の機能として、意外な、しかし本質的な心の働きとしてこちらの認識を新たにする。「実の心」と「歌の実」は直に連続していない別物だと。小林先生は、それを「『言辞ノ道』がはらんでいる謎めいた性質」であり、「詠歌の『最極無上』とする所は、自足した言語表現の世界を創り出すところにある」と言っている。私は自分の思い込みが清々しくくつがえされ、この辺りから、「物のあわれを知る」の「知る」に目を向けよと言う小林先生の声がしっかり聞こえてくるのだった。

 

歌は、まず「カタチ」、あるいは「あや」や「姿」として誕生したとすれば、「歌とは、意識が出会う最初の『物』だ」と先生は言うが、その「意識」とは何か。先生は、「何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向かって広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は『すべて心にかなはぬ筋』に現れるとさえ言えよう」と言っている。これは先ほどからの「物のあわれ」の出現と同じで、意識もここで関わるということである。

私には、意識とは、心が哀しみを感じたとき、自分の経験から知る様々な色の哀しみの中から一瞬にそれを察するもので、それによって、少しずつ深い「認識」へ降りていくような、その「認識」の入り口にある道案内のイメージがある。謂わば直観に似たものかもしれない……だがこれでは戯言のようなので、物慣れない自作だが、かつて詠んだ歌を例に挙げてみる。

 

雨宿り いかづち鳴りて 巻く雲の 色に染まれり 恋心はや

 

二人で駆けこんだ路辺の軒下、雷鳴が轟いて、「意識」が現れる。不意の夕立で恋心が意識され、雨雲の広がりや稲妻によって空がみるみる変化する様に、もどかしく、整理のつかない不安を覚え、すっかり濡れた髪をあきらめる時間は、その心をより深くかみしめる認識の時間だ。

 

小林先生はこのように言う。「堪え難い悲しみを、行動や分別のうちに忘れる便法を、歌道は知らない。悲しみを、そっくり受納れて、これを『なげく』という一と筋、悲しみを感ずるその感じ方の工夫という一と筋を行く。誰の実情も、訓練され、馴致じゅんちされなければ、その人のはっきりした所有物にはならない。わが物として、その『かたち』を『つくづくと見る』事が出来る対象とはならない」。はちきれそうな悶々とした思いは、単なる錯乱であり、「自分」ではない。それが歌に成ることによって、そこではっきり「恋」という我が心を所有するのである。

 

「物のあわれを知る」の「知る」とは、この、歌の極意にある「認識」であると言えよう。そしてまた、不安定な心を「カタチ」として安定させていくこの「認識」は、歌に限ったことではない。「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。 ―中略― 言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい」と先生は言う。それは、私たちが、日常の中で様々な困難に遭遇しても、悲哀の呻きに分裂することなく安定を保とうとする「認識」、生きる上での必須の肉体の機能のことであると私は思う。

 

宣長の森で出会ったものは、「源氏物語」や和歌の御簾の向こうにくっきり見える、「言葉は肉体機能である」とでも言っているような宣長と小林先生の大きな影であり、自分自身の影でもあった。小林先生は、宣長を「人間通」と表現されているが、それは、言葉から人間を知ろうとして得た宣長の確信に基づくのだろう……いずれそう見定めたいと願いつつ、私は、まだまだ先を急げない森の深さに圧倒されるばかりである。

(了)

 

沈黙の花

このごろは、季節と言えば春、それも淡雪が思い出したように降る時季が一番気になるようになった。それは数年前の三月、明日我が子に会えるという臨月に見た景色がきっかけである。

しばらく外をゆっくり歩けないと思った私は、桂川の土手を散歩することにした。少し向こうには吹雪でぼんやり霞む嵐山が見え、淡雪が横から下から顔にはり付いてくる。引き返そうかと思っていたら、一瞬にして雪が止み、今度は木漏れ日にぽかぽかした浅みどりの山肌が現れた。薄紅色の小枝も交り、なんとも長閑な春の山だと思っていたら、また吹雪……数秒後に山のてっぺんは雪化粧である。こんなことがあるのだなぁと、この繰り返し反転する景色を眺めていて、私はそうかと楽しくなった。以前から気になっていたが、嵐山の麓の渡月橋や中州は強風がよく吹いている。「嵐」という国字は、もともと山から降りてくる風を表すそうだが、もしかしてこの言葉はこの場所で生まれたのかもしれない……そう思って見ると、山の上から川に吹き下ろす風の道が見えるようだ。

 

吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ

(古今和歌集 巻五・秋下 文屋康秀)

 

昔の人の心を想像すると、なお勝手な思い込みを正当化したくなるが、それにしても自分の目に間違いないと思わせるほど、一瞬の中にある自然の力は凄まじい。こんなことを思いながら、実際には大きなお腹に眠る命を抱えて、あの時は訳のわからぬ不安と愛おしさで胸が締めつけられそうであった。けれど、この泣き笑いの景色を眺めているうちに、私の気持ちは治まっていったのである。

小林先生は、「眺める」ことについて、『本居宣長』の中で宣長のこんな言葉を引用されている。

 

物思ふときは、常よりも、見る物聞く物に、心のとまりて、ふと見出す雲霞草木にも、目のつきて、つくづくと見らるゝものなれば、かの物おもふ事を、奈我牟流ナガムルといふよりして、其時につくづくと物を見るをも、やがて奈我牟流ナガムルといへるより、後には、かならずしも物おもはねども、たゞ物をつくづく見るをも、しかいふ事にはなれるなるべし(「石上私淑言」巻一)

 

今は、このような、心に這い上ってくる、直な自然は、わざわざ会いに行かなければ出会えないほど身近なものではなくなってしまったが、古の人は、どんな瞬間にも自分の心を現しているかのような自然と、当たり前に対話をしていたように思う。それほどに、自然には「人目を捕らえて離さぬ」美しさがあり、これは小林先生が『美を求める心』で仰っている「私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験」であると思う。

心動かされるものに出会うため、展覧会に出かけるのは楽しいことであるが、何となくここ数年、徐々にその回数が減ってきた。私の場合、それが自然を取り込む「お茶」に移行し、流れる時間の中で、からだ全体で美に出会う方が楽しくなってきたのかもしれない。

「茶の湯とは ただ湯を沸かし 茶を点てて のむばかりなる事と知るべし」と利休居士は言っているが、この一見日常の所作を非日常にすり替えていく一連の時間には、小林先生の言う「小さな、はっきりした美しさの経験」が、何百年もの人々が導く知恵や経験と相まって詰まっている気がするのだ。「お茶」は、ガラスケースの向こうの作品と向き合うのとは違って、数人の人の気が行き交う中で、感じることの蓄積された「自分」が、直に五感を通して動き出し、突然現れる美を待つ時間なのである。

 

三月の初旬、まだ雪が落ちては溶ける中、私と友人五名は山裾の知人宅の茶事に出かけていった。私たちは身支度をして、寒い腰掛待合で晴れたり曇ったりする空に淡雪を見ながら、ご亭主が迎えに来るのを待った。庭の木々や敷き詰められた苔は水分をたっぷり吸ってきらきらしている。どこからか種が飛んできたのだろう、つぼ菫がつくばいの石の間から顔を出している。露地の丸い飛び石も、よく打ち水を吸い込み、朝の陽光に湯気が立っている。茶庭に飛び石が敷かれたのには実用もあるけれど、その形や配置は大人でも飛んで渡りたくなる楽しさがある。気持ちが弾んだ先に、小さなにじり口が静かに待っている。

薄暗い三畳ほどの茶室の戸を開けると、何か背筋の伸びる難しい禅語が床に掛けてあり、私はわからないながら拝見し、自席に着いた。

ご亭主は、まず一番に火をおこしてくださる。これがうまくいかなければ、おいしいお茶がいただけないし、部屋もぬくもらない。釜が上げられると、真っ赤に菊の花が燃えているような種火が三つ炉中を暖めていた。それをのぞく私たちの顔も火照ってくる。そこへご亭主は大小きれいに洗われた炭を配して、最後に香をべる。

釜が煮える間、私たちは時季の一汁三菜と酒をご馳走になる。このころから気持ちが和ぎ、会話も弾んで掛物の字のありがたさがわかってくる。「明歴々露堂々」。なるほど、森羅万象は堂々とその姿をあらわにして真理を語っているという、春の自然の躍動を感じ、この時期には噛みしめやすい言葉である。

私たちは一旦、庭に出て気分をリセットする。見上げると、雲の間から真っ青な空が美しい。あんなに寒かったのに、冷たい空気が気持ちよくて、思い切り深呼吸をした。どこからか遅がけの梅の香りがし、鶺鴒せきれいが木の上で鳴いている。もう一度手や口を蹲で清めて茶室に入ると、今度は軸に替わって暗い床に一輪の白い花が、ぽっと明かりのように活けられている。その小さい蕾をそばでよく見ると、薄桃色の西王母という椿であった。西王母は、孫悟空にも出てくるが、一度食べたら三千年寿命が延びると言われる桃を庭に持つ仙女の名前である。霧が落ちたように瑞々しく活けられた姿は、部屋いっぱいに広がる練り香の清い香りに包まれ、妖艶な仙女が確かにいる気配が感じられた。上巳じょうしの節句を祝って数ある椿の中から、ご亭主があちこち探されたに違いない。

ここからはクライマックス。ご亭主はすっと襖を開け、無言でお辞儀をし、私たちも無言でそれを受ける。音は、シュンシュンと湯けむりを立てる釜の煮え音と、かすかにご亭主が茶を練る茶筅ちゃせんの音だけだ。その間、薄暗くしている窓の簾が外から巻き上げられ、畳にゆっくり陽が差し始める。陰から陽への室礼である。

そこで、出された一碗の濃茶を皆でいただく。分かっているけれど、実際、その茶の甘さは至福である。あとからあとから、ご亭主のお気持ちが全身に行き渡ってくる。私たちは、皆で回しのんだ茶碗をゆっくり拝見する。古萩で、少しゆがんだ形が州浜のように三角であり、釉薬ゆうやくは薄く、手にしっとりなじみがいい。色は川のような空のような、少し寒そうな色合いの景色で、銘は「帰鴈」。この時季、北方へ帰っていく渡り鳥……後になって知ったのだが、本居宣長も「朝帰鴈」という歌を詠んでいる。

 

朝霞 月も今はの 山端を 越えて消えゆく 春の鴈金かりがね

 

茶の湯はできるだけ日常の言葉を少なくし、自然や、人々の手仕事の技、道具の語らない力に話させて、美を求めようとする時間だ。小林先生は、「言葉の邪魔が入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかったような美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう」と仰っている。茶事は、同じ道具、同じ季節、同じ場所で行われたとしても、そこで味わう豊かな時間はそのたびごとに一回きりだ。それは、毎年巡り来る季節の美しさに似ている。茶を楽しむ人々はそこにしか咲かない美を見つけるために、じっと心を開けて待ち続けるのだろう。「お茶」にはそういう「沈黙の花」に出会う、限りない美の楽しみがある。

(了)