夢と円熟

小林秀雄氏は「源氏物語」の最後の巻である「ゆめの浮橋うきはし」について、「此の物語の一見異様に見える結末こそ、作者の夢の必然の帰結に外ならず、夢がここまで純化されれば、もうその先はない。夢は果てたのである。宣長は、そう読んだ筈なのである」と言っているが、どうして、この「夢浮橋」の結末が、作者、紫式部の夢の必然の帰結に外ならないのか?

この私の疑問が生まれた背景となる、小林氏「本居宣長」の本文を精読してみよう。 

―彼は、「夢浮橋」という巻名は、「此物語のすべてにもわたるべき名也」(「玉のをぐし」九の巻)と書いている。但し、古註が考えたように、「世の中を、夢ぞとをしへたるにはあら」ず、「たゞ、此物語に書たる事どもを、みな夢ぞといふ意」であり、その「けぢめ」を間違えてはならぬとはっきり言う。それにしても、「光源氏ノ君といひし人をはじめ、何も何も、ことごとく、夢に見たりし事のごとくなるを、ことに、はてなる此巻の、とぢめのやうよ、まことにのこりおほくて、見はてずさめぬる夢のごとくにぞ有ける」と、当時の物語としては全く異様な、その結末に注意している。

だが、宣長がここで言う夢とは、夢にして夢にあらざる、作者のよく意識された構想のめでたさであって、読者の勝手な夢ではない。見はてぬ夢を見ようとした後世の「山路の露」にも、いては「源氏」という未完の大作を考える最近の緒論にも、宣長の「源氏」鑑賞は何の関係もない。「夢浮橋」という巻名は、物語全巻の名でもある、という彼の片言からでも明らかなように、式部の夢の間然かんぜんする所のない統一性というものの上に、彼の「源氏」論は、はっきりと立っていた。此の物語の一見異様に見える結末こそ、作者の夢の必然の帰結に外ならず、夢がここまで純化されれば、もうその先きはない。夢は果てたのである。宣長はそう読んだ筈なのである。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.166)

 

上記の文章の中に「夢」という言葉が十五回も使われている。即ち「夢」がここでは重要なキーワードとして取り扱われていることが分かる。

さて、「宣長がここで言う夢とは、夢にして夢にあらざる、作者のよく意識された構想のめでたさ」と小林氏は言っている。宣長もこの結末について、「まことにのこりおほくて、見はてずさめぬる夢のごとくにぞ有ける」と言っている。つまり、式部の「和漢無双の名手」としての筆力により、「物のあはれ」を強く感じさせつつ描かれた結末が、一旦これを読んでしまえば、これ以外にないと思われる豊富な余韻を残して終わっている。そこに、改めて作者の「よく意識された構想のめでたさ」が感じられるので、小林氏は「作者、紫式部の夢の必然の帰結に外なら」ないと断言したのではないか、というのが私の自答である。

ここで物語の結末がどうなっているのか、さらに具体的に検証してみよう。

要約すると、薫と匂宮という二人の男性に愛されて、その間で心が揺れ動いていた浮舟が自殺を図るが、宇治の院の庭で倒れていたのを助けられ、一命を取り留めて、その後、出家する。一方、浮舟が自殺したと思われた一年後、浮舟が生きているという噂を薫は聞きつけ、浮舟の弟に手紙を託して、ぜひとも会いたいという気持ちを浮舟に伝える。しかし、浮舟はその弟に面会もせず、帰してしまう。そこで、薫はなぜ返事すらくれないのか、あれこれ考えた末、自分がかつてしたように、他の男がかくまっているのではないか、と想像したところで終わるのである。

物語の一つの終わり方としては、浮舟が弟と涙の再会を果たして、薫とよりを戻すという大団円もあるのではないかと最初は考えたが、薫と匂宮との間で悩み抜いた末、死まで決意した浮舟が、再び元の鞘に収まることはないはずで、ここは薫の申し出を断固として拒否することしか考えられないだろう。つまりは、その一連の流れが紫式部の夢の必然の帰結となる。

以上のようなことを山の上の家の塾で発表したところ、池田雅延塾頭は、小林氏がここで使っている「夢」という言葉は、氏の文壇デビュー作である「様々なる意匠」に出てくる、「批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」の中の「夢」と同じものであろうと語られた。その瞬間、暗い足元ばかりを見て右往左往していた頭の中が、ぱっと明るく照らし出されたように感じた。それまで漠然としていた「夢」という言葉が、しっかりとした形、敢えて言うなら、「思想」という言葉に近いものとなって目の前に現れた。ここで、「思想」という言葉は、「イデオロギー」というような外向き、集団に向けたものではなく、小林氏が大変重要な意味を持たせている、人の核心のようなもの、その人をして、人生いかに生きるべきかを決定していく指針のようなものである。

「様々なる意匠」の、最も重要な主張とも言えるその個所は以下の通りである。

所謂いわゆる印象批評の御手本、例えばボオドレエルの文芸批評を前にして、船が波にすくわれる様に、繊鋭な解析と溌溂はつらつたる感受性の運動に、私がさらわれてしまうという事である。この時、彼の魔術にかれつつも、私がまさしく眺めるものは、嗜好の形式でもなく尺度の形式でもなく無双の情熱の形式をとった彼の夢だ。それは正しく批評ではあるが又彼の独白でもある。人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!(同第1集p.137)

 

池田塾頭はさらに、小林氏の、「式部という大批評家」(同第27集p.146)という言葉も取り上げられた。そして、「源氏物語」は、「式部という大批評家」が己の夢を懐疑的に語った産物であるということを示唆された。「本居宣長」の随所で宣長の一貫性を語る小林氏であるが、氏自身もまた、デビュー作から最後の大作まで、見事に一貫性をもった信念を胸に抱きながら筆を進めて来たことに感嘆せざるを得なかった。

 

それから日を置かずして、池田塾頭による、小林氏の「還暦」という作品についての講義があった。この中で気になった「円熟」という言葉について、氏はこう言っている。

―成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処そこには、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生むことは出来ない。……

―自由に円熟なぞ、誰にも出来ない。円熟するには絶対に忍耐が要る。……

―忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である。……(同第24集p.121、122)

 

頭の中の記憶を頼りに、過去の小林氏の作品を紐解くと、この「円熟」という言葉が使用されている作品が二つ見つかった。最初は小林氏が三十二歳の時に訳して本になったポール・ヴァレリーの「テスト氏との一夜」(同第6集所収)である。

―持続というものの精緻せいちな芸術、即ち時間というもの、その配分とその制度、り抜きの事物を特別に育て上げる場合の時間の消費量、―これがテスト氏の大きな探求の一つであった。彼は若干の観念の反覆を監視しては、これを数でこなした。その結果彼の意識した研究の応用は、遂に機械的なものとなった。彼はこの仕事全体を要約しようとさえ努めたのである。屡々しばしば彼はMaturare!(円熟せよ!)という言葉を口にした。(同第6集p.20)

 

ちなみに、「Maturare!」の訳については、「成熟せよ!」という他の翻訳者の訳文もある。「小林秀雄全作品」の脚注には、「ラテン語の他動詞maturo(成熟させる)の命令法受動態二人称単数形。受動態になることで意味は自動詞化し、『成熟せよ』となる」と書かれている。つまり、小林氏は通常は「成熟せよ!」と訳すべきところを、そこからさらに熟度を深化させ、「円熟せよ!」と敢えて訳しているのである。いずれにしても、小林氏が若い頃から「円熟する」という事に強い関心を寄せていたことは間違いないだろう。さらに言えば、これは単なる訳ではなく、むしろ自身の言葉として、自らに「円熟せよ!」と戒めの意味も込めて語ったものと感じられる。

次に出てくるのは小林氏が四十六歳の時に行われた坂口安吾との対談である。

―まあどっちでもよい。それより、信仰するか、創るか、どちらかだ―それが大問題だ。観念論者の問題でも唯物論者の問題でもない。大思想家の大思想問題だ。僕は久しい前からそれを予感していたよ。だけどまだ俺の手には合わん。ドストエフスキイの事を考えると、その問題が化け物のように現われる。するとこちらの非力を悟って引きさがる。又出直す、又引きさがる、そんな事をやっている。駄目かも知れん。だがそういう事にかけては、俺は忍耐強い男なんだよ。癇癪かんしゃくを起すのは実生活に於てだけだ。……

―だから、進歩ぐらいしてやるけどさ、俺はほんとうは円熟したいんだ。……(同第15集p.232、235)

 

これは、小林氏の骨董趣味に対して執拗に食って掛かる安吾に、氏が思わず本音を漏らしたと思えるような箇所であるが、既に「忍耐」という言葉も共に出てきており、「還暦」における「円熟」という言葉は、この頃には氏の脳髄に染み渡っていたと思える。

こうして見ると、先に述べた「夢」という概念と同様、「円熟」という概念についても、小林氏の若い頃からの見事な一貫性を示し、人生いかに生くべきかということを模索し続けた氏の生き方を凝縮したような言葉と言える。そして、「本居宣長」という作品こそ、小林氏の批評家としての「夢」が結実したものに違いない。但し、この「夢」は「様々なる意匠」で使われている「夢」と同じものではない。その頃の小林氏の「夢」はまだ成熟はしていなかっただろう。それが、氏の絶え間ない「忍耐」を通じてやがて成熟し、さらなる「忍耐」によって遂に「円熟」に達したものが、「本居宣長」における氏の「夢」なのであるから。

今回の池田塾頭の二つの講義では、小林氏の複数の作品が連携し合って、さらに豊かな思想の物語が紡ぎ出されるということを教えて頂いた。本稿で取り上げた「夢」と「円熟」以外にも、小林氏の一貫性を示す言葉は、探せばきっとまだまだ見付かるに違いない。引き続き「本居宣長」を熟読しつつ、過去の作品も紐解きながら、小林氏の思想の全貌に少しでも近付くことが出来ればと思う。

(了)

 

本居宣長の墓と桜

本居宣長は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」であると常日頃、養嗣子大平をはじめとする弟子たちに教えていたにもかかわらず、晩年、「無き跡の事思ひはかって」、松坂の山室山の妙楽寺の境内に自らの墓所を定めた。宣長という思想的に一貫した人間が、どうして、そのような自らの思想とは相反した行動を取ったのか?

この問いが生まれた契機は、以下のように言われている小林秀雄氏「本居宣長」の第二章である。

 

―大平の申分はもつともな事であった。日頃、彼は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と教えられて来たのである。大平の「日記」は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう。妙楽寺の「境内に而、能キ所見つくろひ、七尺四方ばかり之地面買取候而、相定可レ申候」としたためたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世じせいと呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p38)

 

「古事記」にあるように、人は死んだらよみの国に行くだけであるから、死んでからのことをあれこれと思いはかることは「さかしら事」だと宣長は弟子に言っておきながら、自分は妙楽寺の境内に墓所を定め、さらにその墓所を千代のすみかとまで言っている。大平はこの宣長の行為が理解できず、そのことを日記にも書きしるしている。ところが、宣長はこのあとまた違う意味の歌も以下の通り詠んでいる。

 

―山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる、―「よみの国 おもはばなどか うしとても あたら此世を いとひすつべき」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」、だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、らちもない事だろう。私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。(同第27集p39)

 

このくだりを読むと、やはり、人は死んだらよみの国へ行くものだということを宣長は信じていたことになるだろう。つまり、晩年になって、宣長は死後の世界について、自分の思想を変えたわけではないということに落ち着く。では、なぜ、宣長は自分の墓所に関して自分の思想とは相反することをしたのだろうか?

宣長は、「葬式は、諸事『マツに』『麁相ソサウに』とくり返し言っているが、大好きな桜の木は、そうはいかなかった。これだけは一流の品を註文しているのが面白い」と小林氏は書いている。この桜は、遺言書の中で墓碑の後ろに塚を作り、そこに植えるように宣長が指示しているものである。また、宣長は遺言書を書き終えたあと、「まくらの山」と題して、桜の歌ばかり三百首も詠んでいる。遡れば、宣長には六十歳、及び四十四歳の時の自画自賛像があり、その両方に桜の歌が書かれている。さらには、以下のような記述もある。

 

―宝暦九年正月(三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへしちぎりを」とある。(同第27集p34)

 

宣長の桜好きには、常識を超えた激しいものがあるが、「契」となると、少し話が違ってくる。それは好き嫌いを通り越して、運命的な繋がりを意味するものである。例えば、夫婦の契りと言えば、昔は、現世だけでなく、あの世でも連れ添うという意味合いが強かったのではないか。それと同じように、自分は死んでからも桜と連れ添うという若い頃からの契りを守りたいという強い想いが、宣長をして、死後も桜と一緒にいるための墓所を、敢えて作らせたのではないかというのが、冒頭の自問に対する私なりの自答だった。

 

その後、本稿を書くために、再度、第一章、第二章を読んでいると、新たな疑問が湧き起こってきた。私の自答では、宣長自らはよみの国に行くわけだから、墓所はあくまで桜との契りを守るためだけのものであるという認識が強かったのであるが、それにしてはその墓所に対する異常なこだわりが目に付いたのである。つまり、墓所そのものにも、深い子細があるのではないかということである。

具体的に言えば、宣長は、本居家の菩提寺であるじゅ敬寺きょうじまでは空送カラダビで、遺骸はその前夜にひっそりと、山室山の妙楽寺に送るようにという指示を遺言書に記し、大平や弟子達にもそう言っていたのである。宣長は何のためにこういった複雑な指示を出したのだろうか? さらに言えば、本居家は仏教を代々信奉していたが、宣長は「直毘なおびのみたま」にあるように、神道説を取っていた。それなのに、自らの葬式は仏式で執り行うことを指示しているのである。これらのことを、小林氏は、「この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、『申披六ヶ敷まうしひらきむつかしき筋』の考えがあった」と言っている。

さて、本居宣長本人はこの風変わりな葬式を執り行う理由を明らかにしていないし、小林氏も詳しくは語っていないが、「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、……」とかなり断定的に、あたかも自分はその真相を知っていると言うかのような口調で小林氏は書いている。これについては、『好*信*楽』の令和四年(2022)夏号で、松広一良氏が以下のような考察をされている。

―「葬式が少々風変りな事」になったのは宣長自身、「『儒仏等の習気』は捨て」るべしと考えていたからであり、また「遺骸は、夜中密に、山室に送る」べしとする旨を遺言書で指示するほど遺骸の姿といえども自ら仏式に近づきたくない、「漢意に溺れ」てはいけないという強い思いがあったからと考えられる。

 

私も、「ほとけの国を ねがふおろかさ」という、前に引用した歌にあるように、宣長は正統な仏式での葬式を避けたかったのではないかと思っていたので、松広氏のこの考察には大いに首肯させられた。また、松広氏は、「端的には『儒仏等の習気』は捨てるべきと考えているからなのだが、それなら樹敬寺に葬るのを止めたらいいではないかとなりそうであり」との疑問を投げ掛けている。このことについては、本居家は代々仏教を信奉する家柄であり、世間体などを考慮に入れると、形式的には仏式での葬式も行う必要があると宣長は思ったのではないか、ただ、その理由について、公にすることは憚られた、葬式を執り行う樹敬寺としても、宣長から、儒仏は信じていないが、葬式だけはやってくれと言われたとすれば、断ることだってあり得るだろう、と私なりに想像してみた。この件だけではなく、宣長の頭の中には、自らの思想と周囲を取り巻く現実との間をめぐる様々な葛藤が渦巻き、その詳しい真相については誰も分からない、「申披六ヶ敷筋」なるものがあったということではないだろうか。

 

ところで、私自身も一度、この山室山の本居宣長奥墓おくつきと呼ばれる場所を、池田雅延塾頭や塾生と共に訪れたことがある。小林氏が書いている、「簡明、清潔で、美しい」という言葉を、身をもって感じることができたのは、大いなる収穫であった。なお、本やネットなどには、奥墓は山頂にあるとの記述があるが、その割には、周りに木が生い茂っていてやや薄暗く、山頂の少し手前という印象が残っている。そこで、閃いたのが最初に取り上げた歌である。

山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め

恐らく、宣長は風が強く吹いて花が散りやすい山頂は避け、その下の、周りが木々に囲まれた、静かな場所を選んだのではないか。この点においては、宣長は墓よりも桜を優先したように感じられる。

今回、様々なことを考えさせられたその奥墓を、山桜の花が見頃、すなわち七分咲きの時期に、是非とも訪れたいとの思いが胸をよぎった。

(了)

 

読むこと、書くことにより、見えてくるもの

「本居宣長」を全編通して読んだのはこれで五度目くらいだろうか。そして、かなりの時間と労力を費やしてやっと辿り着いた第五十章の最後の一文はこう書かれている。

 

ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

ここで言われている彼の最後の自問自答とは、第一章に出てくる、生前に書かれた本居宣長の遺言書であるが、注意すべきは「自問自答を」ではなく、「自問自答が」と言われている格助詞の使い分けである。文意としては「を」でも「が」でも通じるが、「を」は「本を読む」「仕事を終える」のように単に動作の対象を表す格助詞であり、「が」は「リンゴが食べたい」「君が好きだ」のように希望や好悪の対象となるものを他と区別して強調する格助詞である。ということは、小林氏は単に「宣長の遺言書を」もういちど読んでほしいと言っているのではなく、他のものは後回しにしてもよいから宣長の遺言書だけはもういちど読んでほしい、そう言っているのである。

この、「自問自答を」ではなく「自問自答が」と言った小林氏の意図を汲もうと第一章から再び読み始めると、もうおなじみとなった小林氏が折口信夫宅を訪問するエピソードの中の、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と折口氏が言った言葉が頭の中で今まで以上に引っ掛かった。

「本居宣長」においては、大雑把に言って、和歌、「源氏物語」、そして「古事記」、古学が宣長の学問の対象になっているが、折口氏は宣長の「古事記伝」を読み上げて強い関心を示していた小林氏に対し、「古事記伝」よりも「源氏物語」研究の重要性を説くのである。そして、小林氏は、このエピソードをわざわざ第一章の最初に持ってきたのである。何故か?

本居宣長が長らく誰も読めなかった「古事記」を解読することができ、さらに「古事記伝」を完成させることができた大きな理由の一つとしては、小林氏はこう書いている。

 

彼は、「源氏」を熟読する事によって、わが物とした教え、「すべて人は、ミヤビの趣をしらでは有ㇽべからず」という教えに準じて、「古事記」をわが物にした。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集 76頁8行目~)

 

このことを踏まえ、宣長にとっての「源氏物語」の重要性を、十年余りの長い連載となる「本居宣長」において、小林氏は第一章を書く時に既に念頭に置かれていて、これを最初に言わなければならないと思われていたからではないかという考えが湧き起こった。これは、全文を読んだあと、まだ頭の中に「古事記」を読み解く上での「源氏物語」の熟読の重要性という事が頭に残っていたからこそ、直観できたことだった。

なお、小林氏が折口氏を訪れたのは、昭和二十六年頃ではないかという、折口氏の弟子で当時その場に居合わせた岡野弘彦氏の証言があるが、このあたりの、そして、その前後の事情については、池田雅延塾頭が二〇一七年九月号の「好・信・楽」に「折口信夫の示唆」というタイトルで遥かに詳しくまた深く考察されている。

そして、この第一章を読んで、池田塾頭が以前に話された言葉も思い出した。それは、茂木健一郎塾頭補佐が、池田塾頭に、「モーツアルト」でも、ベルグソン論である「感想」でも、「本居宣長」でも、小林氏が冒頭に身近な話を持って来られるのは、読者を本論に導くために入りやすい環境を作ろうとしてのことなのでしょうかという趣旨の質問をされた時のことだった。すると、池田塾頭は即座に、「そうではなく、あれは結論です」と言われた。意外な返答に驚いたが、この時はその言葉の真意を十分納得できないでいた。要するに、全文の繋がりを十分理解していなかったため、冒頭の身近な話が結論だという考えには全く思い至らなかったからである。今回は、本文の内容がある程度頭の中に残っているうちに、第一章を再度読んでみたからこそ、池田塾頭の、小林氏は最初に結論を話されるということを実感し、また納得できたのであった。小林氏自身が言われているように、「自分の著作は一度読んだだけでは分からないから、何度も読んでみる必要がある」ということの証であろう。

さらに全集を紐解いていると、小林氏の若い時の著作にも、結論を先に持ってくるということの大事さを匂わせる言葉が見つかった。

 

よく冠履顚倒かんりてんとうの論文を読まされる。しまいの一行を真っ先に書いてくれれば、読者の労は省けるものを。一行で書ける処を十行に延ばす才能をもった人は、どんな結論が出来て来るかわからない思案の切なさを知らぬ俐巧(りこう)ものである。冷静に思案するは易い、感動し乍ら思案するは難い。(同第2集 168頁9行目~、「批評家失格」)

 

俺の様な人間にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだという事を信じたまえ。―これは俺の手紙の結論だ。真っ先きに結論を書いて了ったが、人はよくこれを俺の詐術さじゅつだと言って非難する……(同第4集 63頁3行目~、「Xへの手紙」)

 

ただ、ここで注意しなければいけないのは、小林氏の言う「結論」は、通常の論文などで見られる、序論・本論・結論の「結論」ではないということである。小林氏は戦後間もない頃に行われた「コメディ・リテレール」という座談会でこう言っている。

 

文章が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。批評家は、文章は、思想なり意見なりを伝える手段に過ぎないという甘い考え方から容易に逃れられないのだ。批評だって芸術なのだ。そこに美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ。(同第15集 29頁12行目~)

 

つまりは、結論が解らないから、それを解ろうとして、まずは自分自身が納得出来る結論を探し求めて書くということになるのだろう。しかし、それは単に内向きのものだとすれば、批評にはならない、そこに芸術としての美しさ、自分だけでなく、他人も美しいと思う文章が書けていないと批評にはならないと小林氏は言っている。

とすると、小林氏の批評の冒頭におかれる結論とはどういうものだろうか。

それは小林氏が直感でその批評対象の最も大事な、言わばこれが肝だと思う部分、輪郭は曖昧でもその奥で主調低音が鳴っているような部分ではないだろうか。それを冒頭に置き、その中の曖昧な部分を、書くことによって突き止めていくということをされてきたのではあるまいか。

そういった小林氏の思考の軌跡を丹念に追いながら、自分は散文を書いているのではない、詩を書いているのだという小林氏の文章、その芸術としての美しさを同時に味わうということを、今後も続けて行きたいと切に願っている。

 

(了)

 

連綿と生き続けるもの

「巻十九、旋頭歌、かへし、―春されば 野べにまづさく 見れどあかぬ花 まひなしに ただなのるべき 花の名なれや―コレハ春ニナレバ 野ヘンニマヅ一番ガケニサク花デ 見テモ見テモ見アカヌ花デゴザルガ 其名ハ 何ンゾツカハサレネバ ドウモ申サレヌ タダデ申スヤウナ ヤスイ花ヂヤゴザラヌ ヘ、ヘへへ、へへ」(「古今集遠鏡」より)

 

「本居宣長」第二十一章は、宣長が賀茂真淵から破門状同然の書状を受け取った一七六六年の秋から始まるが、その途中、時代を一気に進めて一七九三年に成った「古今集遠鏡」についての考察がある。そして、小林秀雄先生は言う。

―この「古学」「古道学」の大家に、「古今集」の現代語訳があると言えば、意外に思う人も、あるかも知れないが、実際、「遠鏡」とは現代語訳の意味であり、宣長に言わせれば、「古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言に訳せる」ものである。

その一例として、冒頭に引いた旋頭歌が挙げられている。この、「まひなしに」というのは「贈り物なしに」という意味だが、宣長はこれを「何ンゾツカハサレネバ」とかなり砕けた口語調に訳している。また最後の「ヘ、へへへ、へへ」というのも、歌の詠み手の気持ちを推量して付け加えた、大胆な言葉である。

宣長が「古今集」を現代語に訳していたというだけでも驚きだが、その前に小林先生はこうも言っている。

―「古事記伝」も殆ど完成した頃に、「古今集遠鏡」が成った事も注目すべき事である。これは、「古今」の影に隠れていた「新古今」を、明るみに出した「美濃家づと」より、彼の思想を解する上で、むしろ大事な著作だと私は思っている。

確かにあの、いつ完成するかも分からない畢生の大作である「古事記伝」を書き進めながら、「古今集」の現代語訳という仕事が並行して行われていたということは意外に感じた。しかし、彼の思想を解する上で大事な著作だとは、すぐには思えなかった。

そこで、この「古今集遠鏡」とはどういうものであるかを、詳しく探ってみることにした。本を買い求めて読んでいくと、次のような句が目に入った。

 

秋きぬと めにはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

秋ガキタトイフテ ソレトハッキリト目ニハ見エヌケレド ケフハ風ノ音ガニハカニカハッタデサ コレハ秋ガキタワトビックリシタ

 

おどろかれぬる、は、オドロイタと訳しただけでも十分意味は通じるが、宣長は敢えてそれを、ビックリシタと訳している。確かにその方が生き生きとした、直接的な感情が伝わってくる。この歌もそうだが、現代語に訳されたいくつかの歌は、それまで硬く凍っていた言葉が融解して生命感溢れるイメージに変貌し、四方に解き放たれるような感覚を味わうことが出来た。ただ、ここで注意しなければならないのは、意味を掴んだなら、もう一度元歌に立ち戻り、その本来の姿を味わい直すことだろう。「姿は似せ難く、意は似せ易し」と宣長が言っている歌の姿を。

 

さて、このように現代語に訳された歌を見ると、宣長の訳は自由奔放に行っていると思われるかもしれないが、最初のはしがきのところで、雅言を俗言に訳す時の言わば法則のようなものを細かく述べている。

例えば、

 

〇けりけるけれは、ワイと訳す、春はきにけりを、春ガキタワイといへるがごとし、またこその結びにも、ワイをそへてうつすことあり、ごのきれざるなからにあるけるけれは、ことに訳さず、

 

〇すべて何事にまれ、あなたなる事には、アレ、或はアノヤウニ、又ソノヤウニなどいひ、こなたなる事には、コレ、或は此ヤウニなどいふ詞を添て訳せることおほきは、其事のおもむきを、さだかにせむとてなり、

 

などとあり、いかにも学者らしく、綿密かつ分析的に雅言の訳し方がいくつも述べられている。

 

こうして「古今集遠鏡」がどういうものかはある程度分かったが、宣長と歌との関係はいつ始まったのか。調べてみると、「玉勝間」に、十七八なりしほどより、歌詠ままほしく思ふ心いできて、詠みはじめけるを、という叙述があり、京都に遊学する前の早い時期から、宣長の中に歌心が芽生え始めていたことが分かる。その頃に読んだ歌を挙げておく。

 

新玉の 春来にけりな 今朝よりも 霞ぞそむる 久方の空

(「栄貞詠草」)

 

その後、本格的な歌論である「あしわけをぶね」は宣長が二十九歳の時に成ったとされているが、「本居宣長」第十二章に「松坂帰還後、書きつがれたところがあったにせよ、大体在京時代に成ったものと推定されている」とある。「本居宣長」では第六章からその文章が引用され始めるが、その後も第三十七章に至るまで頻繁に引用される。その内容は、もちろん歌論が中心であるが(歌の用から始まって、契沖、萬葉・三代・新古今など六十余りの題のもと、宣長の考えが、小林先生の言う「沸騰する文体」で書かれている)、そこから「紫文要領」や「古事記伝」にまで至る道筋も示唆されている。つまり、ここにはのちの宣長の学問の種が既に播かれていて、彼は後年そこから出た芽を果実になるまで育てていったのである。

 

好色 ……〇歌は心のちりあくたをはらふ道具なれば、あしきこといでくるはづ也。〇歌の道は、善悪のぎろんをすてて、もののあはれと云ふことをしるべし。〇源氏物語の一部の趣向、ここを以て貫得すべし、外に子細なし。

 

鬼神も感ず・ふしぎ 〇……今現になきを以て古(いにしえ)もあるまじとは、大きなるあてすいりやう也。古のこといかではかり知るべき。古のことしるは、只書籍也。その書にしるしおけることなれば、古ありしこと明らか也……

 

そして、宣長は「源氏物語」と「古事記」に関わる有名な歌をそれぞれ残している。

 

なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも

(「玉のおぐし」九の巻)

古事の 文をら読めば いにしへの 手振り事問ひ 聞き見るごとし

(「詠稿」十八)

 

また、宣長は「あしわけをぶね」を書いた二十九歳の時に嶺松院の歌会に参加し、そこでリーダー的存在になる。その頃にこんな歌を詠んでいる。

 

あし引きの 嵐も寒し 我妹子が 手枕離れて 独寝る夜は

(「石上稿」七)

 

この歌会に参加していた愛弟子の須賀直見が三十五歳で亡くなった時に、宣長はその死を悼む歌を詠んでいる。

 

家を措きて いづち往にけん 若草の 妻も子どもも 恋ひ泣くらんに

(「石上稿」十二)

 

やがて三十五歳になると、遍照寺の歌会にも参加するようになる。その後も宣長は歌を詠み続け、生涯で残した歌は約一万首に及ぶと言われている。その中に、「古事記伝」を脱稿したのちの晩年近く、桜の花ばかりを三百首詠んだ「枕の山」がある。このことは「本居宣長」の第一章の最後に詳しく述べられている。小林先生もその中から三首選んでいるが、どれも味わい深い趣がある。

 

我心 やすむまもなく つかはれて 春はさくらの 奴なりけり

此花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに

桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな

 

さらにもう一首挙げておこう。

 

花さそふ 風に知られぬ 陰もがな 桜を植ゑて のどかにを見む

 

こうしてみると、宣長の頭の中には様々な学問と共存して常に歌があり、歌を詠んだり、歌と関わることは生きることと同等の重みがあったように思われる。それは、難解な「古事記」の註釈を完成することができるかどうかも分からない晩年近くになっても変わらなかった、と言うよりは、むしろその難業の最中であったからこそ、それと併せて歌に関する「古今集遠鏡」を書くということが、宣長にとってはある種の心の救済にもなっていたのではないだろうか。

ちなみに、第六章では宣長の以下のような言葉が引用されている。

「僕ノ和歌ヲ好ムハ、性ナリ、又癖ナリ、然レドモ、又見ル所無クシテ、妄リニコレヲ好マンヤ」という宣長の言葉は、又契沖の言葉でもあったろう。

「すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、古ヘの世のくはしき意、風雅のおもむきは、しりがたし」

 

なお、宣長は、その遺言書において、墓には山桜の木を植えるようにと花ざかりの絵まで描いて、この世を去っている。そして、小林先生は第一章で挙げた三首の歌の手前で、こんな風に言って締めくくっている。

―彼には、塚の上の山桜が見えていたようである。

恐らく宣長は奥津紀の場所を選ぶに当たって、先ほど挙げた歌を念頭に、風が吹いても桜の花びらが散りにくい場所を選んだのではないだろうか。そして、宣長が眠る山室山には、毎年春になると山桜の花が咲き続ける。宣長の歌心は、今日に至るまで連綿と生き続けているのである。

(了)

 

参考文献:

「古今集遠鏡」(平凡社)

「排蘆小船・石上私淑言」(岩波書店)

 

『源氏物語』という孤高の山

小林秀雄の『本居宣長』は、氏が折口信夫氏の大森のお宅を訪問した際のエピソードから始まる。本居宣長の「古事記伝」を読んでいた小林氏が折口氏にその話題を持って行ったが、どうも話が噛み合わないまま別れることになった。しかし、駅まで小林氏を見送りに行った折口氏が、改札口に入った小林氏を呼び止めて、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言ったとのことである。そのエピソードを敢えて冒頭に置いたことの深い意味を知るには、小林氏の「源氏」に纏わる思索をまずは丹念に辿っていくしかない。

では、私も改めて「源氏」を手掛かりに、宣長さんの思いの中にもっと深く入ってみようと思う。

その前に、作者の紫式部はどういう人だったのか、ここでおさらいをしてみよう。

生年は970~978年とはっきりとしない。父、藤原為時は花山天皇の読書役だった人で、式部も幼少の頃より漢文を読みこなし、また和歌も詠んでいた。998年ごろ、親子ほど年の差がある藤原宣孝と結婚し一女を儲けるが、間もなく夫は死去。その後、藤原道長の要請で宮中に上がり、その娘、彰子に仕える。まさに時の権力の中枢近くにいて、そこで繰り広げられる人間模様を目の当たりにしていたに違いない。そして、諸説あるが、1012~1019年に亡くなっている。いずれにしても長命ではなかったようだ。残した作品は、和歌の『紫式部集』、『紫式部日記』、そして『源氏物語』である。

 

さて、『本居宣長』の中で源氏について深く考察されているのは第十二章から十八章である。その中心で絶える事のない光彩を放ち続けているのは、「物の哀をしる」という言葉である。いや、光彩という表面的なものは一部であって、そこからは人の心に湧き起こる様々な感情が、尽きる事のない源泉のようにこんこんと湧き出ている。

宣長は二十代だった京都留学時代に著わした「あしわけ小舟」と題する問答体の歌論において、既に「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ」と断言している。のちに書かれた「玉のをぐし」においては、「―此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人のココロのあるやうを書るさまは、やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」と言って絶賛している。そして、「紫文要領」では、「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」と言っている。つまり、紫式部は誰にも増して「物のあはれをしり」、かつこれを「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人の情のあるやうを」『源氏物語』において書き表したということになるのだろう。

そういったことを考えているうちに、次のような疑問が湧き起こった。「物のあはれをしる」ということに関して人よりずば抜けた感性や才能がありさえすれば、『源氏物語』のような、世界でも類を見ない素晴らしい小説が書けるのだろうか、と。……いや、それは必要条件ではあるが、十分条件ではないはずだ。そういうずば抜けた感性や才能を持った人は、この世には多くいるが、『源氏物語』のような小説を書ける人は古今東西ほんの一握りしかいないだろう。もちろん、若い頃から歌を詠むという習慣や訓練は、式部にとって豊かな滋養となっていただろうし、様々な事件があり、ありとあらゆる感情の渦巻く朝廷の中枢にいたことも、題材には事欠かないということがあっただろう。だが、そういう環境にいた人は式部以外にも複数いるはずだ。そのほかに『源氏物語』を書く事が出来るための十分条件としての要素はないのだろうか? そう思って、その答えを『本居宣長』のテキストに求めてみた。

以下、その手掛かりになると思ったところを列記してみる。

―「源氏」は、作者の見聞した事実の、単なる記録ではない。作者が源氏君に言わせているように、「世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる」味いの表現なのだ。(中略)もっと根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物と情との緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を「みるにもあかず」と観ずるに至った。この思いを、表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得たところを、宣長は、「無双の妙手」と呼んだ。(「小林秀雄全作品」第27集15章p163~165)

ここで言われているのは、朝廷において生きる人々の、「みるにもあかず、聞にもあまる」「情」の曖昧な働きを、式部は表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得た、その能力は並ぶものがない、ということだろうか。いや、それだけなら、一流の小説家が行う一般的な手法と相違はないが、ここでは、「緊密な交渉」という言葉を注視したい。即ち、「交渉」というからには事物から情を捕らえるという一方向だけでなく、捕らえた情から新しい観点で事物を眺めるということを繰り返し「緊密」に行うことにより、式部は、遂には「世にふる人の有様」という人生図を、心眼をもって描き出す事が出来た、それが『源氏物語』だということなのだろう。宣長は、最終的に式部の事を「無双の名手」と呼んでいるわけであるから、つまりは比べる者がいないほどの名手ということであるから、ここは極めて十分条件に近い要素が述べられていると見てよいだろう。

 

―情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕らえられている、と宣長は見た。(第27集18章P201)

一見分かりにくい文章だが、これは作者の豊かな感情による叙情と、その叙情から少し身を離したところで状況を俯瞰して把握する叙事とが、ぶつかり合いながら奏でる人生の機微を捕らえる異常な力を式部は持っていたということで、先の引用とも重なるが、その能力が一流作家の中でも抜きん出ていたということだろう。そういう意味では、これも単なる必要条件というよりは、十分条件に近い条件と言えるのではないか。

 

―作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成した事を言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点でもあり、同時に帰着点でもあった。(中略)(当時の知識として通じていたはずの儒仏の思想の)影響にもかかわらず、何故式部は此の物語を創り得たかに、彼の考えは集中していたとまで言ってよい。この、宣長の「源氏」論の、根幹を成している彼の精神の集中は、研究の対象自体によって要請されたものであった。それは、詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序が規定した即物的な方法だったので、決して宣長の任意な主観の動きではなかった。(第27集18章p204~205)

要約すれば、式部は「物のあはれを知る」人間が抱く、「あはれ」という不完全な感情経験を、儒仏の思想の影響を受けず、誰にもまねのできない詞花言葉の工夫によって表し、客観的秩序を持つ『源氏物語』を創り出したということになるのだろう。ここにも、「誰にもまねのできない詞花言葉の工夫」という言葉がある。「誰にもまねのできない」ものであるという以上、これもまた、十分条件に近い条件ではないだろうか。

 

さて、私は答えに辿り着けたのだろうか? 第12章から18章までを読み込んで私が感じたのは、これこそ唯一無二だと思える十分条件は見当たらなかったが、十分条件に近い条件、そしてそのほか必要条件のようなものはそこかしこに見受けられた、ということだ。それらの条件が積み重なった、類まれなる資質を持ち合わせた紫式部によって描かれた『源氏物語』という山は、豊かな裾野に詞花言葉の花が咲き乱れる、世界でも類を見ない孤高の山となっていたということではないだろうか。

この孤高の山を楽しみ、味わいながら登り詰めたのが本居宣長である。そして、折口信夫に誘われて、小林秀雄もまた宣長の味わい方を辿りながら、その頂上を見極めたに違いない。

(了)

 

宣長さんを「思い出す」

「歴史を知ることは、己れを知ることだ……」

「本居宣長」の第30章に出てくる小林秀雄氏のこの言葉の真意を、一昨年十一月の山の上の家の塾の自問自答で何とか摑み取ったという感覚を脳裏に残したまま、もう一度第1章から読み進めていた時、第6章で本居宣長の以下の言葉にぶつかった。

「すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也」(「うひ山ぶみ」)

そしてこの小林秀雄氏と本居宣長の二つの言葉は、それぞれ歴史と古歌に言及したものではあるが、両者には通底するところがあるのではないだろうか、というのが昨年十月の私の、山の上の家の塾における自問自答の要旨であった。これに対し、池田雅延塾頭がまずおっしゃったのは、「通底」というのは便利な言葉だが落とし穴がある、むしろ、その違いをまずはっきりと認識する必要がある、ということだった。

確かに、歴史上の人物を味う事と、古歌を味う事は根本的に違っている。前者で味うべきは、ありとあらゆる人間経験の多様性であるのに対し、後者では、歌の世界に限定して得られる意味合である。また、「本居宣長」の本文をよく読むと、歴史を知ることは結果的に己れを知ることに繋がるという趣旨に対して、「うひ山ぶみ」からの引用文は、古歌の深き意味を知ろうとするなら歌をみづからよむべきだ、と説いている。つまり、後者では、みづから歌を詠むということをしないでは古歌の意味合を精しく知ることはできないと言っていて、自分と対象との間の方向性が、歴史上の人物を味うときとは逆になっている。だがこれは、どちらも一方向性的なものではなく、自分と対象との検証をさらに深めていけば、いずれも双方向性となることは自明であろう。

以上のようなことを踏まえたうえで、池田塾頭はさらにおっしゃった。上記のような違いはあるが、歴史を思い出すということと、古歌を思い出すということ、この、「思い出す」という行為においては、共通のものがある、と。そして、例えば、「万葉」の歌を「思い出す」には、万葉の言葉が自在に使いこなせるくらいにならないとその「ふり」が見えてこないと釘を刺された。

「思い出す」ということ。小林秀雄氏の最重要キーワードのひとつであるこの言葉の重みを考えるなら、「思い出す」という行為を、頭の中で想像して蘇らすというだけでは軽過ぎるだろう。それは単に想像するだけでなく、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感を駆使し、全身全霊をもってして味う、ということでなければならない。また、過去をこちらに呼び寄せるのではなく、こちらが過去の方に遡って行って味うべきものに違いない。そういう意味において、この「本居宣長」は、小林秀雄氏が、自ら編み出した意味での「思い出す」という行為を、三十数年にも渡って実践した、途方もない精神力の軌跡と言えるだろう。

 

そんなことを考えながら、自分が本居宣長という人物をうまく「思い出す」には何をどう実践していけばよいかに想いを巡らした。

まずはその著作を徹底して読むことだろう。そう思って、手始めに今回の自問自答の発端となった「うひ山ぶみ」をじっくりと読んでみた。これは本居宣長が亡くなるわずか三年ほど前に、学問をこれから学ぼうとする人のために書いた入門書のようなものである。構成としては、最初に総論のようなものがあり、そのあと各論に続くが、その総論の最初の方で、「世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一トようならず……みづから思ひよれる方にまかすべき也」とあり、また、「その学びやうの次第も……ただ其人の心まかせにしてよき也」とある。要はどの学問を選んでもよいし、その学び方も各自自由にやってよいという事であるが、続けて、「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」とある。これは、池田塾頭が「随筆 小林秀雄」(『Webでも考える人』連載)に書かれていた「頭の良し悪しは、思考を継続できるかどうかにかかっている」という小林秀雄氏の言葉を思い起こさせる。そして、「其中に主としてよるところを定めて、かならずその奥をきはめつくさんと、はじめより志を高く大にたてて、つとめ学ぶべき也」とある。さらに、学問を続けていくなかで、「その主としてよるべきすじは、何れぞといへば、道の学問なり」とある。つまり、何をどう学んで行こうとも、道というもの、人の道はいかなるものかということに力を用いるべきだと言うのである。そのためにくりかえし読むべきは、「古事記」「日本書紀」であるが、「殊に古事記を先とすべし」と言い、その際、大事なこととして、「漢意からごころ儒意を、清くすすぎ去て、やまと魂をかたくする事を要とすべし」ということが繰り返し述べられている。

「うひ山ぶみ」に何度も出てくるこの「やまと魂」という言葉について、もし、山の上の家の塾に通っていなかったなら、戦時中の国粋思想を鼓舞するのに用いられた、日本古来の武士の勇ましい魂というふうに読んでいただろう。そうではなく、「やまと魂」とは、もともとは「源氏物語」を初出とする、日本人が持つ「もののあはれ」の感情から来た言葉で、本居宣長は「古事記伝」において、倭建命やまとたけるのみことが西方の蛮族の討伐を終え、疲労困憊して戻ってくると、父の景行天皇はすぐに今度は東征を命じたため、倭建命は叔母の倭比売命やまとひめのみことを訪ね、「父天皇は自分は死ねと思っておられるのか」と涙を流して嘆いた、その人間らしい心こそが「やまと魂」であると言っている、と池田塾頭に教わった。「敷島のやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という本居宣長の歌も、「もののあはれ」の感情から自然と綻び出た素直な歌だと思えば、より味わい深く感じられる。

さらに読んでいくと、次のような言葉に出会った。

「書を読むに、ただ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限りあるものなるに、みづから物の注釈をもせんと、こころがけて見るときには、何れの書にても、格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也」

本居宣長の注釈というのは、単に意味を解説するだけでなく、「古事記伝」における倭建命についての注釈のように、「やまと魂」を働かせ、相手の心の中に入り込んで書かれたものであり、ここでこうして書を読むについて言われていることも、古歌を「みづからの事にて思ふ」のと同じ心ばえを働かせて読めと言っているのではないだろうか。そして、これはまさに、小林秀雄氏の、「歴史を知ることは、己れを知ることだ」という言葉に繋がるものであろう。

 

ところで本居宣長は、「古事記」「日本書紀」などの歴史ものの次には、「万葉集をよくまなぶべし」と言っている。まさに神の思し召しとしか思えないのであるが、この4月から、池田塾頭が新潮講座で「『新潮日本古典集成』で読む萬葉秀歌百首」を開講される。塾頭によると今回テキストとされる「新潮萬葉」は、小林先生の「本居宣長」でも重要な位置を占めている契沖の「萬葉代匠記」「古今余材抄」の精神に則っているのだそうだ。「不才なるひとといへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也、又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすこともあり」という「うひ山ぶみ」に出てくる本居宣長の有難い言葉に大変励まされたので、是非ともこの機会に「万葉集」を真剣に学ぼうと思っている。

(了)

 

小林秀雄氏の椅子

北海道の山々にも遅い春が訪れる。

うず高く降り積もった雪が濁流となって海に流れ出すと、雪の下には、はや若い命が息づいている。

私はまだ深い残雪を踏み分けながら、山道を急いでいた。

昨年、九州の段谷福十氏と契約した下駄棒十万足の納期が切迫していたのである。

ふと、私は道端の異様なふくらみを持った「タモの切り株」に目がとまった。

タモはモクセイ科に属し、北海道の代表的な木材である。

この地方では、冬、雪の上で立木を伐採すると、乾いているような粉雪の上をソリで山出しする。雪の下で切り倒すから、雪がとけると地上に一メートルもの高さのある切り株が顔を出すのだ。

私は衝動にかられて、やにわに腰に下げた手斧を振りあげ、その切り株のふくらみを削った。黒くなった樹皮の下から真白い木肌に、うずを巻いたような「もくめ」が現れた。

その、あまりの美しさに、私はしばらく我を忘れて見惚れていた。

「朽ちるにまかせているこの沢山の切り株。このなかには、このように美しい杢木が少なからずある。生かす道はないだろうか? もし、生かすことが出来たら―」

 

北三会発行『ツキ板に生きる―尾山金松の生涯―』冒頭より

 

歴史にタラレバは禁物だが、それでも、私は思わずにはいられない。もし、下駄職人であった尾山金松さんが、大正9年にこの「タモの切り株」を見逃していたら、そして、仮に目に留めたとしても、手斧を持っていなくて削ってみることが無かったら、そしてさらに、これが一番肝要なのだが、削って現れた「もくめ」が、玉杢たまもく(うずを巻いたような木目のこと)ではなく、何の変哲もない木目だったら(実は、美しい玉杢が現れるタモ材は、数十本に一本くらいの希少な存在なのである)、どうなっていたことか?

恐らく、タモの玉杢を下駄に貼った「すずらん履」も、昭和新宮殿の国産材による簡潔かつ風格のある内装も、ニューヨーク・リンカーンセンターにある音楽ホールのモアビ材による華麗な演出も、そして、最近では、JR九州の「ななつ星in九州」の豪華列車内にふんだんに使われている銘木壁紙シートもこの世に存在しなかったことだろう。

しかし、これら三つの偶然がたまたま積み重なって、賽は投げられたのである。

この尾山金松氏を創業者とし、ツキ板(注・ツキ板とは木材を薄く切削したものを言い、現在の日本での標準厚みは約0.2㎜である)を始めとする銘木製品の製造に特化した北三株式会社に、私は1980年に入社した。以来ほとんど毎日のように、様々な木の、ありとあらゆる木目を眺め、味わい、吟味し、製品にして世に送り出してきた。

 

太古の昔より人類の傍らにあって慣れ親しんできた木材は、人々に安らぎや寛ぎを与えてくれる有り難い自然素材である。そして、人の顔が一人一人違うように、同じ樹種でも丸太を削った後に現れる木目は、その色柄が厳密に言えばみんな違う。色の薄いものもあれば、濃いものもあり、年輪間隔の広いものもあれば、狭いものもある。枝の位置に至っては、一つとして同じものはない。人が生まれ育ってきた環境によって、様々な個性を持つのと同じように、木もまた、親木の持つ遺伝子、根付いた場所の土壌の質、太陽の光の当たり具合、気温や気候、その他様々な因子により、様々な個性を持つのである。だから、長年ずっと木目を見ていても決して飽きることはない。新しい木に出会うたびに、また新しい発見があるのだ。

 

こんな自分であるから、小林秀雄氏の山の上の家でも、自然とそこで使われている様々な木に目が行くのであるが、ある時、池田塾頭に氏が使われていた椅子についてお伺いすると、いかにも歴史を感じさせる二脚の木製椅子を指さされ、「これは小林先生がご存命の時からありました。先生をお訪ねした日はいつも、私もこの椅子に坐って先生とお話ししました」とおっしゃった。座には荒々しい木目の浮かぶケヤキのような木が使われていて、背や脚の部分は針葉樹のようなのっぺりとした木が使われている。裏をよく見ると、『YEW WOOD WINDSOR CHAIR』という文字と共に、判別し辛い数字が手で書かれたシールが貼ってあった。

その後、『ウィンザーチェア大全』という本が日比谷図書館に所蔵されていることが分かり、さっそく仕事の帰りに立ち寄って借りてみた。読んでみると、ウィンザーチェアとは17世紀後半にイギリスで生まれた木製椅子のことで、シンプルでありながら美しいデザインを持ち、頑丈かつ座り心地が良く、世界的にも人気のある椅子であるとの記載がされていた。

使われている木についてであるが、YEW WOODは日本ではイチイと呼ばれ、針葉樹にしては重厚な材質を持つことから、家具によく使われる木であることは知っていた。中でも、小節が適度に入っているものが好まれるが、この椅子に使われているものもまた、節が所々に入っていて、かつては枝であった痕跡が味わい深い。

そしてケヤキだと思ったのは、ELMであることも分かった。ホラー映画(エルム街の悪夢)や昭和の歌謡曲(高校三年生)の歌詞でも有名なこの木は、日本では欅の代用として家具等に使われる。ちなみに、ELMもケヤキもニレ科の木である。人馬等に輸送の手段が限られていた当時の家具職人は、まずは地元にある木を切って、これを利用したとされている。それはどこなのかと本のページをさらに繰っていると、様々な形をした椅子の写真が掲載されていて、鎌倉の山の上の家にあるものは、イギリス中部のヨークシャー辺りで製作されたボウバックタイプのものと同じ形状をしていることが分かった。

ここまで分かれば、今度はいつ頃制作されたものなのかの確証を得たくなった。シールの数字は辛うじて『179X』とは読めるが、このシールが200年以上前に貼られてそのまま残っているとは考えにくい。そこで、本の著者の一人である西川栄明氏に連絡を取って話を伺うと、その形状から、19世紀初頭(18世紀の終わりも入るに違いない)に作られたものではないかということであった。とすると、シールに記載されている数字はある程度信頼できるものだと言える。フランスではナポレオンが帝政を始め、日本では寛政の改革が終焉を迎えた時代に、世紀を跨いで日本の鎌倉の山の上の家にやって来る運命を持った二脚の椅子が、イギリスのヨークシャー地方で誕生したのだ。

 

同書では、日本にウィンザーチェアを系統的に紹介した人物としては、バーナード・リーチ、柳宗悦、そして濱田庄司が挙げられている。彼らは白樺派の志賀直哉や武者小路実篤とも交流を持っていたので、小林秀雄氏は親しかった志賀直哉を通じて、ウィンザーチェアのことを知っていたのかもしれない。氏がどういういきさつでこの椅子を手に入れたのかについて思いを巡らせていたところ、奇しくも去る3月1日、小林秀雄氏の命日にその娘さんである白洲明子さんが北鎌倉の東慶寺に墓参される折、池田雅延塾頭と塾生の有志とで同行する機会に恵まれ、その後の山の上の家での茶話会で、直接明子さんにお伺いしてみた。すると、椅子は、小林家が山の上の家へ引っ越して来た日、秀雄氏自らが横浜に行って買ってきたものだという。恐らく、本物の骨董品を見射貫くと同じ目をもってして、伝統を引き継ぐ優れた家具職人が作ったウィンザーチェアもまた購入されたのだろう。

第五次小林秀雄全集別巻IIの表紙や季刊誌『考える人』2013年春号には、氏がこの椅子に座っておられる写真が掲載されている。氏の様々なる思索のいくつかを、このウィンザーチェアがしっかりと支えていたこともあったに違いないと思うと、大変感慨深いものがある。

 

そして今、池田塾での勉強中は、その二脚の椅子の上に小林秀雄氏の大きな遺影が載せられている。氏は少し微笑みながら、我々をじっと眺めている。優しそうではあるが、その透徹した視線に見詰められていると、自然と背筋が張ってくる。本物に少しでも近づき、その魂に触れることがあなたがたの使命だと、その瞳は我々塾生にしっかりと語り掛けてくれているような気がする。

(了)

 

小林秀雄の訊き上手

小林秀雄氏の文章に初めて触れたのは、高校二年の時、現代国語の教科書に載っていた『無常という事』によってだった。

確か夏に入ろうかという物憂い季節のことで、教室内はねっとりとした空気が充満し、開けっ放しの窓からは校庭で体育の授業を受けている生徒たちの歓声が、寄せては返す波音のように聞こえていた。そこへいきなり、父親に連れられてよく虫捕りに行った比叡山の深い緑、その中の古びた神社で祈りを捧げる白装束の巫女のイメージが飛び込んできて、不意に辺りの音は掻き消え、そのあとに続く、何度読んでもその奥底には辿り着けないような文章の中へと入り込んでしまったのである。

その不思議な体験のあと、私は新聞配達のアルバイトで貯めていた金で氏の全集を買い、のめり込むようにして読んだ。

 

その後、京都から東京に移り住み、本命大学の受験日を間近に控えたある日、三百人劇場で氏の講演会があるというのを何かの伝手で知った私は、二年目の浪人であとがなかったにも拘らず、迷わずその会場へ赴くことを決めた。

三月初めのまだ寒い日だったが、熱気とともに溢れ返る人々が見守る中、氏は飄々とした出で立ちで登壇した。少し間を置いてから聞こえてきたのは、まさに江戸落語を聞いているような軽妙な語りだった。実際、最初は客席から笑い声が絶えなかった。しかし、そのあと、話が柳田国男十四歳の時のエピソードに及ぶと、一同静まり返って氏の一語一語を緊張しながら追った。柳田国男は、庭にある祖母を祀った祠がずっと気になっていて、ある時、恐る恐る開けてみると、中に蝋石があった。それを見て、何とも言えない不思議な気持ちに襲われた彼が、ふと見上げると、青空に数十の星が輝いているのが見えた。と、その時、ヒヨドリの鳴き声がして我に返ったという。もし、ヒヨドリの鳴き声が聞こえなかったら、私は発狂していたかもしれない。そういう柳田国男の感受性こそが、彼の民俗学の根源にある。それをしかと感じ取った感動を語る小林氏の話に、私は『無常という事』を読んだ時と同じような不思議な気持ちを覚えたのだった。

 

落語家の古今亭志ん生に似ているとも言われる氏の語り口のうまさは、生来的なものもあるかもしれないが、実は、事前に相当練習した努力の賜物であったらしい(池田雅延塾頭談)。恐らく、一級の話し上手の人たちは、最初から話し上手だったわけではなく、努力することによってそうなったに違いない。その氏の話し上手は、あとでかなり手を加えられているという話だが、様々な作家たちとの対談でも遺憾なく発揮されている。それはそうだろう、批評家として、古今東西の詩や小説や評論を読み尽くし、徹底的に考察し尽くして来ているのだから。中身がぎっしり詰まった引き出しは山ほどある。また、大作家たちも負けてはいない。作品からだけでは出てこない生々しい思いや隠された意図などを次々と吐露していく。ここで氏の話し上手と同時に注目したいのは、氏の訊き上手である。執拗に氏に食って掛かる坂口安吾をなだめすかし、最後の方で、「……アリョーシャは人間の最高だよ。涙を流したよ。……」と言わせたり、『金閣寺』を世に出したばかりの三島由紀夫が斜に構えてなかなか本音を言わない中、「……美という固定観念に追い詰められた男というのを、ぼくはあの中で芸術家の象徴みたいなつもりで書いた……」と語らせたりするのはお手の物だが、ここでは全く専門領域の違う二人の学者との対談に注目したい。

一人は日本人で初めてノーベル賞を受賞した、物理学者の湯川秀樹。文学と物理は全く相容れないと一見考えられるが、「人生いかに生きるべきか」を問い続けた氏にとって、この、宇宙を含めた世界とはいったいどのような原理に基づいて成り立っているのか、そして動いているのかを解き明かそうとするアインシュタインなどの物理学者達の理論に興味が無いはずがなく、確率論や量子論、二元論やエントロピーの増大といった難解な問題を湯川秀樹に対して徹底的に訊くのである。そうして、そこにはやはり芸術と同じような人間的な尺度、人間の感性的な問題があるということを導き出す。

さらに注目したいのは、数学者の岡潔。現在では、門外漢にとってはなじみが薄いかもしれないが、その全盛期には、日本にはKIYOSHI OKAという数学者のグループがあって、次々と素晴らしい論文を出してくると海外の数学者達は思っていたというエピソードがあったくらいだから(池田雅延塾頭談)、その実力は推して知るべしだろう。

その岡潔を前にして、氏はもともと抽象的だと認識していた数学について、「このごろ抽象的になった……」という岡潔の書いたものに疑問をぶつける。そして、「数学にも個性がある」という言葉を導き出した後、さらに、「……数学は知性の世界だけに存在し得るものではない……感情を入れなければ成り立たぬ……」という驚くべき発言を岡潔にさせている。そして、「……言葉というものを、詩人はそのくらい信用している……それと同じように数学者は、数というものが言葉ではないのですか……」と氏は問いかけ、岡潔の同意を得ている。とにかく、文学者と数学者という、あまり共通項はないと思われていた二者が織り成す、息の合った対話のハーモニーが素晴らしい。

また、この対談の中で、氏の訊き上手の原点を示唆する重要な発言がある。

「ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと……」

つまり、訊き上手というのは、常に様々な知識を吸収し、大事なことは徹底的に考え抜き、その中で自らの人生と関連づけて、さらに高みを目指して問い続けることができる人のことを言うのだろう。また、他人に対して訊くのがうまいということは、常日頃、自分自身に対しても、訊く(問いかける)ことがうまくなくてはいけないのではないか。

ちなみに、塾頭補佐の茂木健一郎氏も『質問力』という本を出されており、いい質問を出し、それによって脳の可能性を広げ、最高の結果を引き出す、それが重要だということを分かりやすく書かれているが、その本質は、まさに小林秀雄氏の訊き上手と繋がるものである。

 

小林秀雄氏の文章に初めて接してから四十年余りたった現在、私は老若男女の混じった塾生とともに、氏の息遣いと佇まいの残り香が漂う鎌倉の山の上の住居で、池田塾頭のもと、氏の畢生の大作『本居宣長』を勉強している。その内容は、例えば、『ことば』をテーマに、塾生が池田塾頭に質問したいと思う内容を取り上げ、それに対して自分の意見を言い、池田塾頭とともに答えを求めながらさらにその質問を深く掘り下げていく、といったような形式で行われる。時には池田塾頭の厳しい指摘で部屋の中に緊張感が漲る。不思議なことに、やや見当違いの質問が出て来た時の方が、そこから学ぶことは多い。息抜きに、ふと外を眺めると、庭の緑が眩しく目に映る。執筆で疲れた氏の目を、かつて癒したに違いない樹々の緑が。

 

この池田塾で学ぶ我々に対して、氏は現在もずっと問い続けている。

「君たちにとって、人生はいかに生きるべきものなのか、人生の意味とは何なのか?」と。

我々にとって、その答えを出すことはさほど重要ではない。むしろ、その質問をずっと心の中で問い続けることこそが重要なのだ。

(了)