やすらかにながめる、契沖の歌

小林秀雄先生が「宣長の自己発見の機縁」になったと明言する、江戸前期の真言僧にして古典学者である契沖(1640~1701)については、「本居宣長」の第六、七章で詳述されるのみならず、章を問わず言及されている。そのことに興味を覚えた私は、昨秋、彼が吸った空気を直に感じてみたいと、住持した妙法寺(現、大阪市東成区大今里)と隠棲した円珠庵(現、同天王寺区空清町)を訪れ、それぞれの場所の、往時の喧騒と静寂とに思いを馳せた。

そんな思いから、彼が生涯にわたって詠み続けてきた歌が収められた『漫吟集類題』(契沖全集 第十三巻 和歌、岩波書店)も入手し、六千首の和歌を、幾度となくながめてみた。ここで、敢えて「ながめて」と書いたのには理由がある。契沖が「万葉集」や「源氏物語」を前にして貫いた態度、すなわち、小林先生が「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直に見なければならぬ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.69)という態度にまねぶことが必須であると直覚したからである。

 

さっそく、契沖の歌を数首取り上げ、ながめてみることにしたい。

まずは、彼が身の回りの自然や、四季の変化を見つめ、感得したところの歌である。

 

音羽河おとはかわ きいれて植うる早苗にも 秋待つ民の 心をぞみる

(漫吟集類題 巻第五 夏歌上 1652)

水の色も 空に通へる 天河 星やは蛍 蛍やは星

(巻第四 夏歌下 1737)

秋は今 草の末葉うらばの 虫の音も 夜な夜な細き 有明の月

(巻第八 秋歌下 2988)

霜月の八日の朝、初雪の降れるに

鳥の音も 鐘も寝覚めの 後ながら 今朝驚くは 庭の初雪

(巻第十 冬歌下 3290)

 

青々とした水田に並ぶ早苗の緑に、農民の心持ちを、思う。

見渡せば、きらめく星と、蛍の光が、まじり合う。

か細い虫の音を耳にする夜、静かに浮かぶ、痩せた眉月まゆづき

そして、真白に一変した庭の景色に、はっと息を呑む朝。

契沖が、それらの事物を静かに見つめている姿が、その眼差しが、目に浮かんでは来ないだろうか。

 

肥後守ひごのかみ加藤清正に仕えた下川又左衛門元宜もとよしを祖父に持つ「契沖は、七歳で、寺へやられ、十三歳、薙髪ちはつ(坂口注:剃髪)して、高野に登り、仏学を修して十年、阿闍梨位を受けて、摂津生玉いくたま曼陀羅院まんだらいんの住職となったが、しばらくして、ここを去った」(同第27集、p.79)。

その後の消息については、高野山での修行時代から親交のあった義剛ぎごうによる「禄契沖師遺事」に詳しい。

「室生山(坂口注:奈良県宇陀郡から三重県名張市、一志郡にまたがる火山群)南ニ、一厳窟有リ、師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為オモヘラク、形骸ヲ棄ツルニ堪ヘタリト、スナハチ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニマミル、命終ルニヨシナク、ヤムヲ得ズシテ去ル」

何があったのか。徳川幕府による「寛永の諸大名の改易没収」の最中、特に豊臣氏に近かった家柄として自家の食禄を奪われる、という仕打ちへの憤りか。その影響を受け、わが兄弟も、まるで「さそり(坂口注:ジガバチの古名)の子」のように散り散りになってしまったことへの嘆きなのか。それとも、高野山の実態を認知したがゆえの幻滅か…

さておき、そのような、契沖の大いなる嘆きの数々を、もはやこれら四季の歌に見ることはできない。彼の眼差しは、ひたすら静かで、やすらかなのである。

 

続けよう。「漫吟集」のなかで、次に目が留まるのは、他人のかなしみに寄り添う哀傷歌である。おそらく寺の住持として日常的に多く見聞きしてきたのであろう。詞書もよく読んでおきたい。というのも、小林先生が、契沖と同様に、いわゆる隠士としての生き方を貫いた西行について書いた作品の中で「西行の様に生活に即して歌を詠んだ歌人では、歌の詞書というものは大事である」(同第14集、p.184)と注意を促しているからである。

 

娘を尼になしたる人の、その尼亡くなりて後、残れる衣を見て嘆くを聞て

脱ぎ捨し その着慣らしの 古衣ふるごろも 思ひも出し たち縫はずして

(巻第十二 哀傷歌 3840)

人の娘失へるを、ほとへ聞て、とぶらひつかはすに

亡き人に 頼むしるしの 忘れ草 花に咲てや 顔に見ゆらん

(同 3855)

捨て子多しときくころ

子を捨る 親の心や いかならん 返り見しつゝ 幾度いくたびか泣く

(同 5833)

 

契沖が見つめていたのは、事物や四季の運行だけではなかった。他人の哀しみもまた、静かに見定めていた。こんな歌があった。

 

ともしびを 人のためにと 掲ぐれば 心の闇も 残らざりけり

(巻第十一 釋教歌 3714)

 

小林先生が、「本居宣長補記Ⅰ」(『小林秀雄全作品』第28集所収)において、「この作の発想には、宣長の基本的な考えに、直ちに通ずるものがあると思われる」と言う、プラトンの著作「パイドロス」から引用し、ソクラテスが、宣長の言う「言霊」について語っていると紹介されている、こんなくだりがある。

「この相手こそ、心を割って語り合えると見た人との対話とは、相手の魂のうちに、言葉を知識とともに植えつける事だ、―『この言葉は、自分自身も、植えてくれた人も助けるだけの力を持っている。空しく枯れてしまう事なく、その種子からは、又別の言葉が、別の心のうちに生れ、不滅の命を持ちつづける』」

 

他人の哀しみに寄り添い、それを歌という言葉に変えて描写してきた契沖は、そういう行為を通じて、自らの大いなる嘆きを解かしていたのではあるまいか。のみならず、契沖の歌の言葉は、自らのこころの動きを、言葉にして詠んでもらった、その当事者たちをも助ける力となっていたのかも知れない。

 

さて、ここまでは、契沖の、生活記録と言ってもいいような独詠の歌をながめてきたが、数多の歌のなかでどうしても目に留まるのが、心友、下河辺しもこうべ長流ちょうりゅう(1624~1686)との唱和、いわゆる贈答歌のやりとりである。ちなみに長流もまた、契沖と同じように、武門の出でありながら、終には隠士として生きた人であったと言われている。

そんな二人の唱和は、長流が逝くまで永く続いた。小林先生も「本居宣長」本文にいくつか挙げているので、ここでは、そこには登場しない、唱和の姿をながめてみたい。

 

その桜を長流か伴ふ人、ふたりみたりして見に詣で来て、
暮れぬ、帰りなんと言へる折によめる
契沖

とめとめす 庭の桜に まかせしを 夕日に増る 花な見捨てそ

(巻第三 春歌下 1090)

かへし
長流

とくと見て 今日はたはれし 花の紐 夕べと聞けは なれしとそおもふ

(同 1091)

契沖の住持した曼陀羅院の花見に、長流が訪れ、とっぷりと日も暮れた時のことであろうか。私は、子どもの時分、友だちと夢中になって遊んでいて、屋外スピーカーから「夕焼け小焼け」の歌が流れてきたときの、切ない気持ちを思い出してしまった。

 

もう一つ、こんな唱和がある。二人は、離れた場所に住んでいた。

 

山住より、長流のもとへつかはしける
契沖

君といつ いほり並べて 中垣の 一木の梅を 二木ふたきとも見ん

(巻第二十 雑歌四 5626)

かへし
長流

我もいつ 庵並べて 松垣の ひまなく物を 君と語らん

(同 5630)

 

ここからも、小林先生の言うとおり「『さそりの子のやうな』境遇に育ち、時勢或は輿論よろんに深い疑いを抱いた、二つの強い個性が、歌の上で相寄る様が鮮かに見えて」は来ないだろうか。「唱和の世界でどんな不思議が起るか、二人は、それをよく感じていた。孤独者の告白という自負に支えられた詩歌に慣れた今日の私達には、これは、かなり解りにくい事であろう。自分独りの歎きを、いくら歌ってみても、源泉はやがて涸れるものだ」(同第27集、p.81)。

もちろん、自らのこころの動きを静かに見定め、それを言葉という道具を使って歌にする独詠という行為を通じて、激情は純化されよう。しかし、小林先生は、それだけでは足りない、と言うのである。

「めいめいの心に属する、思い解けぬ歎きが、解けるのは、めいめいの心を超えた言葉の綾の力だ。言葉の母体、歌というものの伝統の力である。二人に自明だった事が私達には、もはや自明ではないのである」(同p.82)

自らの魂の中に、唱和者の言葉を得た契沖は、長流に、こんな歌を贈っていた。

 

我をしる 人は君しも 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ

(巻第十八 雑歌二 5148)

 

小林先生は、こう自問自答している。

「長流が、契沖の唯一人の得難い心友であったという事実は、学問上の先輩後輩の関係を超えるものであり、おもうに、これは、契沖の発明には、なくてかなわぬ経験だったのであるまいか」(同p.83)

 

私は、こんなふうに、契沖の独詠を、そして、長流との唱和の姿を、幾度となくながめてみた。そうしてみたことで、契沖のこころの動きに、直に触れられたような気がした。そこにあるのは、日常の実生活の中で、やすらかに歌を詠み続けてきたという行為のみである。儒教的・仏教的な道徳規範による解釈や、既存の権威的存在からの伝授など、入る余地はない。契沖にとって、詠歌とは「師ニ随ツテ学バズ、義ヲシラベテ解セズ」(「厚顔抄」序)、「わが心を見附ける道」であり、「長流の知らぬ心の戦い」でもあったのである。宣長が師と仰いだ契沖の歌学は、このような心の戦いを続けながら、わが心を発見する道を歩んでいくなかで、築き上げられていったものではあるまいか。

 

先に小林先生の「本居宣長補記Ⅰ」から引いた応答に引続き、ソクラテスは、パイドロスに「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」という文言を繋げている。この言い方を借りるなら、契沖は、事物と向き合い、他人と向き合い、そして自分自身と向き合ってきた詠歌の経験を通じて「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」の大事を、そういう言葉の綾の力を、悟得するところがあったと言ってもいいように思う。その経験は、のちに契沖が、長流のあとを継いで「万葉代匠記」に着手し、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直に見なければならぬ」という態度、すなわち宣長が言う「大明眼」を開くことになる原体験でもあったのではなかろうか。

 

【参考文献】

池田雅延「小林秀雄『本居宣長』全景(八)『あしわけ小舟』を漕ぐ(上)」(本誌2018年1月号)

同「同(九)『あしわけ小舟』を漕ぐ(下)」(同2月号)

同「同(十)詞花をもてあそぶべし」(同3月号)

久松潜一「契沖」吉川弘文館 人物叢書

藤沢令夫訳「パイドロス」、『プラトン全集』、岩波書店

(了)

 

編集後記

本誌『好・信・楽』は、今号をもって、創刊一周年を迎えることができました。読者の皆さまはもちろん、これまで寄稿頂いた皆さまに、心から感謝申し上げます。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、駒木崇宏さんと橋岡千代さんに寄稿頂いた。

駒木さんは、小林先生の「本居宣長」の文章や講演での語りに接してみて、自身が抱いていた、国語という教科や文字というものへの嫌悪感に向き合い、それらが解消されていく様を、飾ることなく綴られている。

橋岡さんは、「宣長の森」の中を歩いてきて、「言語表現の問題」という「不思議な木」に出会った。そこで立ち止まり、子育てや詠歌など、実生活上での経験も踏まえ、小林先生がいうところの「意識」、さらには「もののあはれを知るとは何か」という認識論にまで思いを馳せておられる。

お二人の、「自問自答」の歩みは続く…

 

 

3月17日から二日間の日程で、塾生有志が、本居宣長記念館の吉田悦之館長による「宣長十講」の講義「宣長学に魅せられた人々」を聴講すべく、松阪を訪れた。今号では、その二日間について特集を組み、館長によるご講義や記念館でのお話、そして妙楽寺の奥墓を前にして感じたことを、四人の方に寄稿頂いた。

安達直樹さんは、吉田館長が松阪という土地に「宣長の魂」を伝えようとされている姿を見て、小林秀雄先生が「教師」について語った言葉を思い出し、教師と弟子の共鳴が、「倦まずおこたらず」連綿と続いていくことの大切さを感得された。

小島由紀子さんは、館長のお話の一言一句にこころ動かされるとともに、初訪問となる松阪の地で、野辺に咲くすみれのように、いたるところに在る宣長さんの姿を体感され、「必ずまた松阪へ、山桜の奥墓へ」と自らに誓われた。

新田真紀子さんは、此の地で聴く館長のお話ぶりの中に、宣長さんの肉声を聴き取られたようである。そんな今回の体験を、「まるで時間旅行をしているようだった」と表現する。

荻野徹さんは、宣長さんの全人格がほとばしり出るような館長のお話に触れて、小林先生がいう「歴史に正しく質問しようとする」姿を、しかと見て取られている。「広告」という体裁とともに味読頂きたい。

 

 

「人生素読」には、石川則夫さんに、諏訪紀行を寄せて頂いた。小林先生と交流のあった女将さんとのやりとりも含めて、みなとや旅館に宿泊されていた先生の姿が目に浮ぶようである。「諏訪には京都以上の文化がある」という、先生の言葉の持つ奥行きと幅の広さに、直に触れてみたくなった。

 

 

「美を求める心」には、伊勢根付職人である梶浦明日香さんが寄稿された。梶浦さんは、職人の置かれた現状を目の当たりにし、「自分のこととして」自ら職人の世界に飛び込み、歩み出された。その一瞬の気付きこそ、茂木健一郎さんが、巻頭随筆で述べられた「エピファニー」そのものであろう。加えて、一本一本の木に、命を頂いている、その個性と向き合うという気持ちは、まさに小林先生が、職人について語るときに大切にされていたものでもある。

 

 

そんな梶浦さんの原稿を読んでいて、小林先生が「眼高手低」という言葉について書かれた「還暦」という文章を思い出した。

「芸術家は、観念論者でも唯物論者でもない。心の自由を自負してもいないし、物の必然に屈してもいない。彼は、細心な行動家であり、ひたすら、こちら側の努力に対する向う側にある材料の抵抗の強さ、図り難さに苦労している人である。彼の仕事には、たまたま眼高手低の嘆きが伴うというようなものではない。作品が、眼高手低の経験の結実であるとは、彼には自明な事なのである。成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処そこには、どうしても円熟という言葉で現わさねばならぬものがある。何かが熟して来なければ、人間は何も生む事は出来ない」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)

 

本誌「好・信・楽」も、塾生一同でこれから少なくとも七年間は続けていく、山の上の家での「『本居宣長』自問自答」の取り組みとともに、「眼高手低」の歩みを進めてまいります。

読者の皆さまの、ご指導とご鞭撻を、引き続きよろしくお願い申し上げます。

(了)

 

クマガイモリカズは、考える葦である

「或朝の事、自分は一ぴきの蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきを這い回るが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向うつむきに転がっているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂がみんな巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった」

 

中学生の時に新潮文庫で読んだ、志賀直哉氏の「城の崎にて」のこの一節は、私の体の奥深くに息づいていて、今でも何かの拍子にそれを思い出すと、頭の中がひんやりとしてくる感じを覚える。その文庫の表紙絵が、熊谷守一氏による「赤蟻」だった。守一氏は、志賀氏との親交が深く、例えば「志賀さんとは生成会で何度か会いましたが、鳥や虫や生きものの話題になると話が合った。植物の話もなかなか詳しかったが、わたしほど詳しくはありませんでした」と言っている(「蒼蠅 新装改訂版」、求龍堂)。

 

 

昨冬は、12月から3月にかけて、東京国立近代美術館において、熊谷守一氏(1880-1977)の大回顧展「生きるよろこび」(以下、本展)が開催された(その後、愛媛県美術館に巡回)。加えて、池袋の千早にある豊島区立熊谷守一美術館(以下、美術館)も含め集中的に足を運んでみたので、感じてきたことを綴ってみたい。

 

1.「轢死」(1908年、岐阜県美術館蔵)

当時の東京美術学校(現、東京芸術大学)近くの踏切(現、日暮里駅付近)で目の当たりにした、女性の飛び込み自殺を題材とした初期の作品である。ただ、画面の劣化が激しく全面真っ黒の様相で、初めて観た時には、横たわる女性の姿など、すこしも判別できなかった。しかし、会場に通うたびに、その姿は徐々に浮かび上がり、4度目には、はっきりと見て取ることができたことは不思議な体験であった。事件当日に描かれたスケッチと合わせて観ていくと、画家がその場で受けた衝撃と、その後、見知らぬ女性の孤独な死を見定めていった心持ちが伝わってくる。娘のかやさんが、こんなことを書いていた。

「地面を這う蟻や、花に来る虻をじっと見つめて描いたと言われる守一ですが、結局はひとの生と死を見つめて描いたと思われる。人の生を大事にするから生きとし生けるもの虫や猫などにまなざしが行く」(「モリはモリ、カヤはカヤ」、白山書房)

画家は、志賀直哉氏が、屋根の上に横たわる蜂を見入るがごとく、その女性の死を、静かに見つめていたのではあるまいか、私はそんなふうに思った。

 

2.子どもたちの死

人の死を目の当たりにした、ということでは、守一氏が、幼い次男を亡くした、まさにその瞬間を衝動的に描いた作品「陽ノ死ンダ日」(大原美術館蔵)も忘れられない。あまりに哀しい画である。彼の嗚咽が聞こえてくる。初めて本作を目撃した私は、ただただ立ち尽くすしかなく、涙が溢れて止まらなかった。彼の言葉を引いておく。

「苦しい暮らしの中で三人の子を亡くしました。次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死に顔を描きはじめましたが、描いているうちに、“絵”を描いている自分に気がつき、いやになって止めました。『陽の死んだ日』です。早描きで、三十分ぐらいで描きました」(「蒼蠅 新装改訂版」)

 

さらに、守一氏は、1947年、67歳の時に、長女の萬も亡くしている。萬は、戦時中の学徒動員による過労がたたり、肺結核を患い寝たきりとなっていた。その病中の萬を描いた作品群も本展にあったが、私が、より心動かされたのは、美術館で観た「仏前」(1948年)という、萬の供養に捧げられた作品である。氏らしい黄土色を背景に、両脇には仏具のようなものが置いてある。中央には、漆黒の盆の上に、白い卵が三個。氏の庭飼いの鶏が産んだものだという。

ベタ塗りの、ただそれだけの画である。しかし私は、三尊像のように、凛として微動だにせぬ盆上の白い卵三個に、深いかなしみを見定めようとしている、画家の心の動きを感じた。それは、前述の「陽ノ死ンダ日」の衝動的なかなしみとは別種の、より深いところを静かにゆっくりと流れている波動のようなものである。自ずと私は、かなしみの卵に向かい、と掌を合わせていた。

 

3.二つの「ひまわり」

守一氏の作品は、年代による画風の変化も見どころである。そのことについて、本人は、このように言っている。

「私の絵が長い間にずいぶん変わってきているので、どうしてそんなに画風が変わったのか、とよく聞かれます。しかしこれには『若いころと年とってからでは、ものの考え方や見方が変わるので、絵も変わった』としか答えられません。自然に変わったのです」(「へたも絵のうち」、平凡社ライブラリー)

1928年に描かれた「ひまわり」という画があった。作品名とは裏腹に、くすんだ水色を背景に咲くひまわりの黄色は暗い。筆致もせわしなく、少々粗っぽくも見える厚塗りの油彩である。何かきっかけがあって衝動的に描いたものではないかと直覚したが、確認すると、前述の「陽ノ死ンダ日」と同年の制作であった。

一方、約40年後の1967年に描かれた「向日葵」(静岡近代美術館 大村明氏蔵)という作品もある。より明るい水色を背景に、四輪のひまわりは、花も葉も、単純簡明な形にデザインされたようだ。ただ、よく観ると、中央の管状花の部分が、一輪だけ、他のオレンジ色とは異なり黄緑色に塗られている。このことにより、絵全体にリズムが生まれ、ひまわりの生命感をいっそう感じさせる。昭和天皇が、守一氏の作品を観て「子供の絵か」と訊いたという話を、本人も披露しているが、ただの単純簡明とはいかない所もまた、守一作品の面白さなのである。

例えば、後年になると、いわゆる「影」を意識的につけた作品は少なくなる。一見平板に見えてしまうのである。しかし彼は、その理由について、こう語っている。

「影がたくさんありますわね。あの影をよしてしまうんですわ。色の寄せ集めでけっこう代用すると思います。実際影ってものは、陰気なもんでしょう。そこを影のない色を寄せ集めれば、困るほど影が出てくる。そのほうが、実際の影より陰気じゃないですわ」(「ディアローグ・1」『みづゑ』第780号)

 

4.熊谷守一の書

守一氏は、多くの書も残した。

美術館に「古佛坐無言」(1975年)という書があった。じっと眺めていると、字の全体が古佛と化し、黙々と只管しかん打座たざしているように見えてくる。私が目にしたものは、もはや外形的な文字の形ではない。むしろ書の内面から浮き上がってきた、性質情状あるかたちとも呼ぶべきものである。

書について、守一氏は、こんなことを語っている。

「何時だったか、わたしに信心の心があるかって聞かれたことがあります。実際に仏様を拝んだり、地獄極楽の世界を信じたりするのでなしに、こういうのが信心かなと、自分の心に思うことはよくあります。そういう意味では信心の心があると思います。『南無阿弥陀仏』の字にしても、信心があるのとないのと、書いた人で違います。見ればわかります」(「蒼蠅 新装改訂版」)

揮毫に臨み、題材となる字を聞いて「自分の心に思うこと」を、性質情状として、文字に表したのが、まさに彼の書なのであろう。「かみさま」、「すずめ」、「なのはな なのはな いちめんの菜の花」など、揮毫のすべてが、そのように出来上がっているように感じる。

ちなみに、志賀直哉邸(渋谷区東)に掲げられていた扁額「直哉居」も、守一氏の手になるものであった。

 

5.喜雨(制作年不詳)

1956年、76歳の時、守一氏は軽い脳卒中の発作を起こした。この頃から、外出も叶わなくなり、千早の自宅内だけが、すべての活動の場となった。したがって、後年の作品の題材に、元々好んでいた、猫や鳥などの動物や、蟻や蝶などの昆虫、そして草花が多くなるのは自然の流れでもあった。本人によれば、「遅い昼食のあとは夕方まで昼寝です。以前はよく庭にむしろを敷いてそこに寝ました。地面の高さで見る庭はまた別の景色で、蟻たちの動きを見ているだけで夕方になったときもあります」という。

写真家、土門拳氏に師事した藤森武氏は、最晩年の守一氏を撮影された方で、当時の守一邸について、このように言っている。

「庭もとても小さいんですが、先生が掘った深い池があって、僕は見た時、防空壕の穴かと思いました。もうだいぶ水が枯れてしまいましたが、魚なんかもいたらしいです。その掘った土が大きな築山になって、先生はその下にムシロをしいて寝転がって、虫や鳥を観察するんですね。『蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだよ』と言っていましたが、築山から降りてくる様子をじっと見ていたからわかったんじゃないかと思います」(「目の眼 2018年2月号」、目の眼)

守一氏は、もはや蟻や鳥を観察しているのではなく、自らが庭の動植物と化していたのだろう。少なくとも、観察されていた蟻には、そのように見えていたに違いあるまい。そうでなければ、家ネズミを飼い馴らすことなど、通常の人間には至難の業であるからだ。確かに彼は、人間というものに対して、こんな懐疑の念を表明していた。

「人間というものは、かわいそうなものです。絵なんてものは、やっているときはけっこうむずかしいが、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし人は、その価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです」(「へたも絵のうち」)

 

そんな守一邸の跡地に建った美術館に、「喜雨」という素描があった。作品名の通り、6匹の蛙が、慈雨を喜んでいるという、単純簡明なものだ。大ざっぱな鉛筆描きにも拘わらず、蛙たちが喜び踊る様を観ていると、何故かこちらまで心が浮き立ってくる。観ると、感じると、動くが一体化したような、その不思議な感覚は、仮に、守一氏が「喜雨」と揮毫した書があったとして、それを観て直覚するものと同じものなのであろう。

私は、そんなことを思いながら、彼の、こういう言葉を思い出していた。

「川には川に合った生きものが棲む。上流には上流の、下流には下流の生きものがいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きた方が、世の中によいとわたしは思うのです」(「蒼蠅 新装改訂版」)

「私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄にはいって、一番楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません」(「へたも絵のうち」)

 

彼にとって、自宅から外出できないということは、制約でも、監獄でもなかった。むしろ自宅や庭にあった小さな森には、限りない宇宙が広がっていた。そのなかで、愛する動植物たちとともに棲んだ熊谷守一は、見て、感じて、考え、描いた。かつ、それらの動きは、すべてが同時性をもって一体化していたように思う。

 

 

「人間は考えるあしだ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では、葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一たまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。

パスカルは、人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。そう受取られていさえすれば、あんなに有名な言葉となるのは難しかったであろう」

 

これは、小林秀雄先生の「パスカルの『パンセ』について」という作品の中の言葉である(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。難しい文章であり、頭ではわかったつもりでも、その理解に、うまく身体が付いていかないことを、ずっともどかしく覚えていた。今回改めて、熊谷守一氏の作品や言葉と、じっくりと相まみえてみたことにより、そこで小林先生が言わんとしたところを、体感できたように思った。

私は、確信した。クマガイモリカズは、考える葦であると。

 

 

私たち塾生にとって大切な学び舎である、小林先生の旧居、山の上の家の応接間にも、そんな守一さんの書が掲げられていた。その書は、先生が京都の骨董屋で一目見て気に入り、貰ってきたものだという。多くの来客を迎えてきたその書の白地は、今では、煙草の煙で茶色に変色してしまっている。そこには、こんな言葉が、書かれていた。

 

「ふくはうち をにはそと」

 

 

【参考文献】
* 「別冊太陽 小林秀雄」(平凡社)
* 「目の眼 2018年2月号」(目の眼)

 

【参考情報】
愛媛県美術館「熊谷守一 生きるよろこび」 4/14(土)~6/17(日)
豊島区立熊谷守一美術館「熊谷守一美術館33周年展」 5/11(金)~6/24(日)
志賀直哉旧居(奈良市高畑町)
 ご遺族から寄贈された扁額「直哉居」が、入口に掲げられている。

(了)

 

編集後記

弥生朔日、さる3月1日は、小林秀雄先生のご命日であった。

今年も、梅香るなか、ご息女の白洲明子はるこさんの墓参に塾生有志がお供をし、その後、山の上の家にてゆっくりと歓談させて頂いた。

今号では、その貴重な一日について特集を組み、橋本明子さんと松本潔さんに寄稿頂いた。

橋本さんは、「ごく普通の父娘の暮らし」の中にあった、数々の活き活きとしたエピソードを伺いながら、父親としての小林先生が、「生涯、家族を守った」姿を思い浮かべる。そこに、先生の文章の中でもひしひしと感じられる「人として大切にすべきこと」を感得された。

松本さんは、ご自身の実生活や実業家としての実体験も踏まえ、「小林先生の『実行家の精神』と、家族に対する深い責任感と愛情」を体感された。「人形」や「徳利と盃」という先生の作品は、今回、直に触れられた「家庭人としての小林先生」と響き合い、「ご家庭の空気が見えてくる気さえ」したという。

 

 

巻頭随筆には、森康充さんが、医者としての立場で、医者としての宣長さんについて、寄稿された。一見カルテのごとき関連情報の羅列に見える宣長さんの「済世録」について、「単なる帳簿」ではなく、「宣長の生きた証の一つである」という。小林先生の文章を長年愛読されてきた医師としての直観と洞察を味読頂きたい。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、溝口朋芽さんと山内隆治さんに寄稿頂いた。

溝口さんは、「本居宣長」の冒頭にある、謎多き「遺言書」をテーマに選んだ。「源氏物語」の「雲隠の巻」で宣長が出会った「死の観念」は、「古事記」の「神世七代」へと発展し、上古の人が千引岩ちびきいわを置くなかに、「生死を観ずる道」として完了した。その完了する、という行為を言葉にしたものが、くだんの「遺言書」ではないかと思いを馳せる。

 

山内さんの、山の上の家の自問自答は、上田秋成による本居宣長への難詰を、小林先生が「架空の問題」と呼んだことについてであった。その後も思索は続き、「本居宣長」の脱稿後、先生が「変な気持ち」と呼んだ内容に及び、さらに、清々しい「好、信、楽」の道へと続いていく。

 

 

「美を求める心」の飯塚陽子さんは、パリ在住である。カルチェラタンを、「群衆の動いてゆく浪の中に沈み込みつつ」あるように歩き続けながら、詩人ボードレールが、うごめく都市まちについて感じた「感覚的実体」、そして「整調された運動」を直覚する。その横を早足で通り過ぎ去ったのは、小林秀雄先生ではなかったか。

 

風薫る皐月がやってくる。

(了)

 

編集後記

編集担当としては、嬉しくもまた、奇遇に驚くばかりなのであるが、その嬉しい驚きを繋ぐテーマは、私たちの学び舎、山の上の家の「椅子」である。

光嶋裕介さんは、「巻頭随筆」において、その「肘掛のついた上品なアンティーク調の椅子」に注目された。ただし、その視線が注がれた対象は、坐っているべき人の「不在による強い存在感」である。建築家ならではともいえる、その「空席」への視線は、「師への眼差し」へと昇華する。

奇しくも、「人生素読」で、冨部久さんの眼が向かった先もまた、その「二脚の木製椅子」である。素材や製作の起源を求めて、関連書籍の著者まで辿って行かれた熱意は、木材の専門家としてのそれだけではない。日々の生活のなかでも、美を求める心を持ち続けておられた小林先生に対する「深い愛情」でもある。

お二人の視線は、私たち塾生の、その「椅子」を見る眼もまた変えさせてくれる明眼である。

 

 

「美を求める心」に寄稿された、橋岡千代さんは、地元京都で求道を続けている「茶の湯」の世界における美について、からだ全体で味わうという実体験をもって綴られている。読み進めるにつれて、あたかも自分自身が静謐の茶室に坐し、一期の喫茶に臨んでいるように感じてくる。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、櫛渕万里さんと村上哲さんに寄稿頂いた。

櫛渕さんは、小林先生が「うひ山ぶみ」から引く、「此身の固め」、「甲冑をも着ず素膚にして戦ひて」という言葉に注目された。あきらめることなく追い求めた結果、その正体が「やまとたましひを堅固くする」ことにあったことを突き止める。それは「生きた心が生きた心に触れる」体験でもあったという。

村上哲さんは、「古事記伝」の「伝」たる名付けの由縁について、思いを馳せておられる。宣長さんにとっては、外からの註釈で「古事記」を説きなすのではなく、「古言のふり」に従って「ただ『伝へ』る事こそが重要であったに違いない」という。このこともまた、宣長さんが言うところの「やまとだましひ」「やまとごころ」の現れと言えよう。

思えば、光嶋さんが「巻頭随筆」で、「知識としての情報を手に入れるといった類の『交換原理』」ではなく、「模範解答のない『切実な問い』を発見し、その答えらしきものを『考え続ける』深度」こそが肝心と感得されていることも、くわえて橋岡さんが実践されている、五感を十全に発揮し、茶の湯と一体化する態度もまた、「やまとごころ」と言えるのではなかろうか。

 

 

謝羽さんの小説「春、帰りなむ」は、後編に入り、いよいよ話もクライマックスを迎えた。小説という、私たちの実生活に、より近い形の描写として読み直すことで、参考附記の小林先生の文章にある「大和心、大和魂」について書かれた内容を、より親身に、さらに深く味わえることと思う。夫婦による、歌の贈答の織りなす綾とともに、じっくりとお愉しみ頂きたい。

 

 

私たちの塾も、新しい仲間を迎え、新しい年度を迎えようとしている。本号の原稿を読み直してみて、こういう思いを新たにした。

2018年度もまた塾生の皆さんとともに、「やまとだましひ」を知るという直き態度で「本居宣長」にむかい、その「椅子」に坐っておられるべき小林先生との対話を深めながら、百尺竿頭に一歩を進めていきたい。

(了)

 

編集後記

2018年も、早や3月号の発刊を迎えた。

先日、富士山麓にあるクレマチスの丘を訪れた。冷たい風が吹きつけるなか、いまだ冬枯れしている芝生のなかに見つけたクロッカスは、黄色のつぼみを大きく膨らませ、春を今かと待ちながら、優しく微笑んでいるように見えた。私たちの塾でも、この時季恒例の入塾募集を終え、4月からの新しい仲間との出会いを、首を長くして待っているところである。

まさに今回の巻頭随筆には、入塾を希望されている方や、入塾後間もない方のことも念頭に置きながら、塾生最若手の一人である原弘樹さんが、この塾で自問自答を行う、ということについて、自身の実体験を通じて体感・体得したことを、率直に記された。

 

 

今号の「本居宣長『自問自答』」には、金田卓士さんと小島奈菜子さんが、山の上の家での質問内容をもとに、さらに一歩思索を深めた成果を寄稿された。

小島さんは、小林先生が使っている「しるし」という言葉の意味について、以前より自問自答を続けている。自ら声を発し、自らその声を聞く。発声したものを心にぴたりと合致させる努力が結実した時に、言葉という「徴」が生まれるのではないかと、そんな思索を重ねる小島さんのすがたを見ていると、「之ヲ思ヒ之ヲ思ヒ、之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」という荻生徂徠の言葉が聞こえてきた。

金田さんは、今回の自問自答を通して、大学時代に荻生徂徠の『論語徴』について教えを受けていた恩師が、化するがごとく、音楽や絵画などの「物」に直に触れるという体験の大事を、身をもって教えてくれていたことを思い出し、恩師への感謝の念を、そして、もの学びへの思いを新たにされている。

 

 

今月は、教鞭をとっておられるお二方にも寄稿頂いた。

大島一彦さんは、大学で英文学を研究されている。親しく教えを受けたという松原正氏は、小林秀雄先生とも交流があった。今回は、松原氏から聞いたその交流の具体的な様子について、以前発表されていたエッセイを、本誌に転載頂いた。思えば、3月1日は、小林先生のご命日である。塾生にとって、先生のありし日の姿は、今となっては想像するしかないのだが、大島さんの文を読んでいると、小林先生の姿がまざまざと映じ、あの甲高い肉声も、直に聞こえてくるようである。

「人生素読」の長谷川雅美さんは、大学院のゼミで学びつつ、高校で国語を教えておられる。池田塾頭による新潮講座にも長く通っており、小林先生の文章の素読を通じて自得したことも踏まえて、授業に工夫を凝らしておられる。長谷川さんと生徒達との教室での生き生きとしたやりとりが鮮明に活写されており、その場にいるかのような心持ちになる。

 

ちなみに、新潮講座は、現在「小林秀雄の辞書」というテーマで、毎月第一木曜日に開講中である。小林先生の文章中にある言葉を、毎回2語ずつ取り上げ、それがどのような意味合いで使われているか、池田塾頭が厳選された、その語が使われている文章を素読し、参加者どうしの対話も含め、味読を深めつつ体得していく場となっている。塾生及び本誌読者の皆さんのご参加をお待ちしている。詳しくは、以下のURLをご参照ください。

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01k3a4zccv2i.html

 

 

謝羽さんは、本誌初となる小説を寄せられた。謝さん自身としても初めて書いた小説になる。大江匡衡おおえのまさひら赤染衛門あかぞめえもん、とくれば、舞台は平安中期であろうか、もはや塾生には馴染みの人物であろう。次号との2回分載であり、早くも次号の展開が気になるところではあるが、まずは今号をじっくりとお愉しみ頂きたい。

 

 

以上のように、今月は、塾生最若手の一人である原さんに始まり、新潮講座に参加されている長谷川さん、そして、謝さんの小説、というように、全体として新しい動きも感じられる誌面になったように思う。

まだまだ寒い日もあるが、ひと作品ずつ味読頂くとともに、誌面からわき上がる、あの、浮き浮きするような春の香を、その萌しのようなものを感じ取って頂ければ幸いである。

(了)

 

ゴッホ、日本にまねぶ

2017年の後半は、日本画、特に浮世絵師による肉筆画を、積極的に観て廻った。

8月、箱根の岡田美術館では、喜多川歌麿の大作「雪月花」三部作を観た。「深川の雪」(同館)、「品川の月」(フリーア美術館)、そして「吉原の春」(ワズワース・アセーニアム美術館、今回は複製画展示)という、いずれも横幅が約3m、縦が約1.5mという、大型の肉筆画を、三作同時に観ることができる貴重な機会であった。なかでも、最晩年に描かれた「深川の雪」の美しさは、忘れることができない。

料亭の中庭には、真白な雪がうっすら積もっている。屋内には、芸者衆と女中、計26人の女性が連なる。芸者衆は、辰巳芸者と呼ばれた粋筋で、着物も落ち着いた深い色合いなだけに、真白な顔の連なりが、新雪のように鮮やかで美しい。外に手を出して沫雪を摑もうとする女、旨そうな平目の煮付を運ぶ女、寒い寒いと火鉢から離れない女、というように、一人ひとりの動きが生き生きと描き出されている。眺めていると、彼女たちの喧しい声と、三味の音が、心地よく聴こえてくる。そんな風景を、歌麿自身が愉しんでいたに違いあるまい。

ちなみに本作は、フランスの小説家エドモン・ド・ゴンクールも、パリの東洋美術商ジークフリート・ピングの店で見せられた、と書き残している(「歌麿」平凡社東洋文庫)。

 

10月、大阪、天王寺の、あべのハルカス美術館で観た、葛飾北斎の「なみ図」(小布施町上町自治会)もまた、忘れられない。本作は、同町にある祭屋台の天井画であり、「男浪」と「女浪」と言われる二枚からなる。彼の代表作の一つである「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」(大英博物館)でも見られる、今まさに獲物を捕らえんとする、猛禽類の爪のような形をした波頭も、もちろん恐ろしい。が、より不気味に引き込まれるのは、らせん状に奥深く続く波の深淵である。手前の波の薄緑は、奥になるほど青く変わり、濃紺の闇へと移りゆく。見入っていると、自分の身体は、その深淵の中に閉じ込められてしまうかのようである。

会場隣のモニターで流れていたNHKのドキュメンタリー「北斎“宇宙”を描く」によれば、彼の画が、観る者に、そういう身体感覚を覚えさせるのには、理由があるという。

色彩の違いは、波長の違いでもある。可視光は、波長の長い順に、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫となる。私達は、その波長差により、藍よりも青、青よりも緑が、より近くにあると感じる。北斎は、色彩をそういう順に描き分けることで、立体感や深淵性を表現していたのだ。彼は、生涯を通じて水、特に波の動きに大きな興味を持っていた。現代科学の知見に引けを取らない描写力は、長い時間をかけて波を凝視し、我が物となしえた成果なのであろう。

 

11月、東京、原宿の太田記念美術館で、北川英山えいざんの特別展を観た。知名度は高くないが、歌麿と、渓斎けいさい英泉えいせんや月岡芳年らの幕末の絵師達をつないだのが、英山である。「懐中鏡を見る美人」という画があった。町娘なのか、落ち着いた赤茶色の着物を粋に着こなした若き女性が、左手を頬に当てながら、右手に持つ小さな鏡に一心に見入っている。着物の裾から僅かに見える両足の指先の様子から、緊張の色がうかがえる。これから大切な人と会うのかもしれない。その姿は、鏡をスマホに変えれば、現在、私たちが電車の中や街角でよく見かける女性の姿に重なる。彼が、文政年間のモデルに観て取ったのは、そういう女性の変わらぬ心のあり様だったのではなかろうか。

 

さて、本稿では、前稿(本誌2017年12月号「ゴッホ、ミレーにまねぶ」)に続き、ゴッホのまねびについて取り上げる。日本画の模写を繰返し、また自室の壁を、日本画で一杯にして愉しんでいたゴッホが、日本画の、そして日本人の何をまねび、まなんだのかについて、小林秀雄先生の言葉にも寄り添いつつ思いを馳せてみたい。

 

そもそも小林先生は、「ゴッホについて」という講演のなかで、ゴッホが弟テオを中心に宛てた書簡集の内容を踏まえずに、彼の絵を見ることは不可能であって、絵では現しきれない不思議な精神は手紙の方に現れている、手紙の方にも現しきれなかったものが、絵に現れている、ということを言っている(「小林秀雄講演」第七巻 新潮社)。

まずは、先生が「比類のない告白文学」と呼ぶ、その書簡集の言葉から始めよう。

1886年3月、ゴッホはパリに居を移し、前述の画商ピングの店で大量の浮世絵に接し、多数の模写を残している。現在、京都で開催中の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(以下、本展)でも観られる「花魁(渓斎英泉による)」(ファン・ゴッホ美術館)もその一つである。歌麿や北斎等、日本画への傾倒はやまず、1888年2月には、彼のなかで憧れの日本そのものでもあった南仏、アルルへ移った。

「この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のために僕には日本のように美しく見える……(中略)水が風景のなかで美しいエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるで日本版画のなかで見るのと同じような感じだ」(B2、友人のE.ベルナール宛)

そこでは、「『色彩のオーケストレーション』に心労するゴッホに、日本の版画の色彩の単純率直なハーモニーが、いつも聞こえてい」た(「ゴッホの手紙」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集所収)。

小林先生は、ベルナール宛ての手紙にある「日本人は、反射を考えず、平板な色を次々に並べ、動きと形とを捕える独特の線を出しているのだ」(B6)というゴッホの言葉を紹介した上で、ゴッホが日本の絵から直覚したところ、として次の手紙を引いている。

「日本の芸術を研究していると、賢者でもあり哲学者でもあり、而も才気煥発かんぱつの一人の人間が見えて来る。(中略)彼は、ただ草の葉の形をしらべているのだよ。併しこの一枚の草の葉から、やがて凡ての植物を描く道が開かれる、それから季節を、田園の広い風景を、動物を、人間を。彼の生活は、こうして過ぎて行く。(中略)自ら花となって、自然の裡に生きている単純な日本人達が、僕等に教えるものは、実際、宗教と言ってもいいではないか。(中略)僕等は、この紋切型の世間の仕事や教育を棄てて、自然に還らなければ駄目だ。……僕は日本人がその凡ての制作のうちに持っている極度の清潔を羨望する。決して冗漫なところもないし、性急なところもない。彼等の制作は呼吸の様に単純だ」(No.542)

確かに、本展でも観たアルル時代の作品「タラスコンの乗合馬車」(ヘンリー&ローズ・パールマン財団)と「寝室」(ファン・ゴッホ美術館)には、平板な色遣いや構図に、浮世絵の跡を追うこともできるし、「糸杉の見える花咲く果樹園」(クレラー=ミュラー美術館)に見られる、鮮烈な花の白さに、私は完全に心を摑まれてしまった。

 

続いて、「放談八題」という、小林先生と井伏鱒二氏、そして洋画家でゴッホ書簡集の翻訳もあるはざま伊之助氏との座談(同、第18集所収)にある先生の発言にも注目したい。

「これは僕の想像だけど、彼(坂口注:ゴッホ)が日本の版画なんかに影響を受けたのはわかりきっているし、自分でも書いていますが、たとえば水墨なんかも見ているんじゃないかな。雪舟と同じような巌を描いている」

本展においても、その指摘に該当するとおぼしき「渓谷」という作品があった(クレラー=ミュラー美術館)。渓谷を歩く二人の女性は、もはや岩の中に溶け込み、画面中央には、雪舟の「慧可えかだん図」の岩にある、髑髏しゃれこうべの眼窩のような黒い穴が口を開けている。

先生が雪舟の画に見たものは、「恐らく作者の精神と事物の間には、曖昧なものが何もないという事だろう。分析すればするほど限りなく細くなって行く様なもの、考えれば考えるほどどんな風にも思われて来るもの、要するに見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神」であった(「雪舟」、同第18集所収)。

加えて、この文章とほぼ同時期に書かれた「私の人生観」(同第17集所収)のなかで、釈迦に始まる仏教者の観法が、わが国の、雪舟をはじめとする水墨画家の画法に通じており、そこには、芭蕉の言う、其貫道する物は一なり、ということ、換言すれば「何々思想とかイデオロギイとかいう通貨形態をとらぬ以前の、言わば思想の源泉ともいうべきもの」が、雪舟ら達人の手によって捕まえられていた、と言う。先生の言葉を借りて敷衍しよう。

「(近代科学の言う)因果律は真理であろう、併し真如しんにょではない、truthであろうが、realityではない。大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない。在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない、見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである」

すなわち、室町時代のわが国の水墨画家にとっては、「画筆をとって写す事の出来る自然というモデルが眼前にチラチラしているなどという事は何事でもない」のであって、彼らはあくまで宋代・元代の舶来画を観て、精神の烈しい工夫を重ね、在るがままの、真如としての自然に迫ったのである。

 

さらに先生は、其貫道するところの一つとして、正岡子規が好んで使った「写生」という言葉も取り上げ、斎藤茂吉の「短歌写生の説」(鐵塔書院)を参考に、こう書いている。

「写生とはsketchという意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統を段々辿って行くと、宋の画論につき当たる。つまり禅の観法につき当たるのであります。だから、斎藤氏は写生を説いて実相観入という様な言葉を使っている。(中略)空海なら、目撃と言うところかも知れない、空海は詩を論じ、『すべからく心を凝らして其物を目撃すべし、便すなわち心を以て之を撃ち、深く其境を穿れ』と教えている。そういう意味合いと思われるので、これは、近代の西洋の科学思想がもたらしたrealismとは、まるで違った心掛けなのであります」

なるほど、私達が、例えば小中学校の写生大会、と言う時には、子規や茂吉が言う意味の「写生」として使っていることは、ほとんどないのではなかろうか。これに関しては、前述の「放談八題」の中で小林先生は、「ゴッホとセザンヌには、日本人の感覚で、非常によくわかるはずのものがある」という、ドイツの建築家ブルーノ・タウトによる見解を披露しているが、そのタウトが、著書「日本文化私観」(講談社学術文庫)の中で、日本の小学校の、あるクラス全員の絵を見せてもらった時のことを、次のように指摘しているのが興味深く、読者の皆さんにも思い当たる節があるのではなかろうか。

「皆景色を描いたものであって、どれもこれも退屈な、外国風な描き方のものばかりで、それだけに上手に描けていればいる程、ますます面白みがなくなっているという始末であった。このように、小学校時代に子供達から内的な絵、つまり子供達のあの純真な、自然な感覚を刈り取ってしまえば、換言すれば子どものように純真であり、自然でもある、偉大な日本文化をおさない人達の前で否定してしまえば、その結果は彼等を、ただに自然の奴隷にしてしまうばかりでなく、全く行き当りばったりなお手本の奴隷にしてしまう他はないのである」

 

さて、ゴッホ自身も、書簡集のなかに以下のような言葉を残しており、「雪舟と同じような巌を描いている」という小林先生の「想像」の跡を追って、おぼろげながら見えてきたものと重なり合うところもある。

「画家は自然の色から出発するのではなく、自分のパレットの色から出発するのがよい(中略)色が自然のなかでよく映えているのと同様、それらが僕のカンヴァスの上でよく映えているなら、僕の色が文字通り正確に忠実であるかどうかはそれほど気にしない」(No.429)

「正確な素描、正確な色彩、これは多分追及すべき本質的なものではない。なぜなら鏡のなかの現実の反映は、たとえ色彩その他すべてによってそれを定着することが可能だとしても、それはけっして絵ではないし、写真以上のものでもない」(No.500)

「北斎は、君(坂口注:テオ)に同じ叫びをあげさせる――だが、この場合、君が手紙で『これらの波は鉤爪だ。船がそのなかに摑まえられた感じだ』と言うとき、それは彼の線、彼の素描によってなのだ。そこで、たとえ、全く正確な色彩とか全く正確なデッサンで描いたとしても、こうした感動を与えることはあるまい」(No.533)

 

しかしながら、前稿に続き、ゴッホのまねびについて筆を進めてきて、私の中では、こんな思いが強くなるばかりである。ゴッホが、日本の何をまねびまなんだのか、という問いを分析的に深め、切り分けて見せるようなことは、これ以上意味をなさないのではあるまいか。それは、汲んでも汲んでも、汲みつくせないのではなかろうか……

「ゴッホの手紙」の終盤において、小林先生の言葉は消え、ほぼ書簡からの引用に終始している。ただ、本文の最後に「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた」と記された。

ゴッホは、私が箱根で観た歌麿の「深川の雪」をパリで観たのかもしれない。北斎による、波の繊細な画法も、渓斎英泉の美人画も、まねびまなんだのだろう。しかし、彼の作品が、日本画や日本人からまなんだものだけで出来上がっているわけではない。彼の画と手紙を丹念に眺めてみると、ミレーにも、ドラクロアにも、レンブラントにもまなんでいる。ボリナージュ地方(ベルギー)の炭坑での伝道活動と伝道師資格の剥奪。ハーグ(オランダ)での身重の娼婦との生活と別れ。夢にまで見たゴーギャンとの共同生活と訣別。とにかく優しく接してくれる、アルルの郵便配達夫ルーラン。まるで贈答歌のような、弟テオとの頻繁な手紙のやり取りは、最期まで途切れることがなかった。そして、そういう過去の記憶ではち切れんばかりになった、いつ発作に襲われるかわからぬ、自らの肉体との対峙。

そんな彼の人生の一切合切が、画にもなり、手紙にもなった。それらのすべてに、彼の精神が、生ま生ましい味わいを湛えている。私は今、小林先生が、画と手紙の両方に当たらなければその精神は理解できないと言った真意を、自身の言葉を抑えざるをえなかった先生の心の動きを、加えてそれらの重量を、全身で感じている。

 

【参考文献】

 *「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房)

【参考情報】

 *「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」

  京都展:京都国立近代美術館、2018年1月20日~3月4日

 

「興」のはたらき・「観」のちから

小林秀雄先生による「本居宣長」では、三十二章と三十三章の二章にわたり、荻生徂徠が本居宣長に与えた影響が、詳しく記されている。

その冒頭、小林先生は、こう書いている。

「この徂徠の著作の中で、詩について語ろうとして、孔子の意見を援用している箇所は、稿本に、重複を厭わず、すべて引写されている。私はこれを確かめながら、宣長がそこに、徂徠学の急所があると認め、これを是とし、これに動かされたと推定して、先ず間違いはないと思ったのである」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.10)

力強い言葉だと感じた。ここに何かがあると直覚した。

一昨年、2016年の11月、塾の質問に立った私は、孔子が詩の特色としてあげている「興」と「観」を踏まえて、徂徠が「論語徴」の中で、「詩之用」として強調する「興之功」と「観之功」に関わる質問を行った。但し、その質問は、残念ながら、論点は絞り切れず、本文からも離れてしまうというように、全く要領を得ずに終わってしまった。池田塾頭からは、小林先生が注意を促している「天下ノ事、皆ナ我ニアツマル」という「観之功」に関する徂徠の言葉に集中して考えるように、という助言を頂いた。

 

そもそも、小林先生は、「詩」が教えるのは凡そ言語表現の基本であるという孔子の考えを前提に、徂徠が言うところの「興之功」を「言語は物の意味を伝える単なる道具ではない、新しい意味を生み出して行く働きである」とし、「観之功」を「物の名も、物に付した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である」と表現されて、「そういう働きとしての言語を理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい」と言う。

加えて、徂徠がいう「天下」については、「人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事」であり、「此の共通の基盤に、保証されているという安心がなくて、自分流に物を言って、新しい意味を打出す自由など、誰にも持てる筈はない」と言う。したがって、「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」とは、そういう世界において、例えば、盛代にあっては衰世を、男性は女性のことを、平常時には乱世を知ることができるというように、言語の「観之功」という働きのおかげで、人は、自ら直面していないことであっても、我が事のように、まざまざと味識・体験できることだと言えよう。

 

私は、それから約1年間、このような意味合いでの「興・観の功」を念頭において、「本居宣長」の全文を、何度となく読み返し続けてみた。そうすると、「ながむる」という言葉を例に、その「転義」について書かれている箇所がよく目に入った。「転義」とは、言葉が新しい意味を帯びて変化していくことであり、まさに「興之功」である。早速、以下に引用してみたい。

「『三代集』(坂口注:勅撰和歌集のうちはじめの三集、『古今』『後撰』『拾遺』の各和歌集のこと)の頃まで、『ながむる』は声を長くする事、転じて、物思う事、の両様の意に使われていたが、『千載』『新古今』の頃から、意が又転じて、物を見る事だけに言われるようになった。『視』『望』と同義の『眺』の字をあてて、使っている内に、この言葉の伝統的な含みが、忘れられて了った」(同第28集、p.73)

「読者の中には、くだくだしい引用と思われる人もあるかも知れないが、それは、『ながむる』の転義につき、ここで示されている、宣長の強い興味を想像してみないからである。それは、事物につき、『物の心、事の心をしる』と言われた親身な経験をする際の、身心の動きの、まことに鮮やかな『シルシ』なのである」(同第28集、p.74)

さらに、「長息するという意味の『ながむる』が、つくづくと見る意味の『ながむる』に成長する、それがそのまま歌人が実情を知る、その知り方を現わす、と宣長は見るのである」(同第27集、p.262)

「歌人が非常な興味を以て行っているところは、いずれは、辞書の裡に閉じ込められて了う語義を、生活に向かって解放する事だ。語は、歌われ、語られる事により、歌人の心に染められ、そのココロを新たにして、生き還り、生き続ける事が出来るのである」(同第28集、p.81)

そして、小林先生は、「宣長が着目したのは、古言の本義よりもむしろその転義だったと言ってよいのである。古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働きの中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ。そういう考えなのだ」と言うのである(同第27集、p.271)。

 

まさに宣長は、このような態度で、「興・観の功」を意識しながら「万葉」に向かい、「古今」に向かい、そして「源氏物語」へと向かって行ったのではあるまいか。さらに言えば、同様の向かい方で、「古事記」という前人未踏の山に独り分け入ったのではあるまいか。私は、そんな思いを強くしていった。

例えば、宣長は、「古事記伝」のネノカミの註釈の中で「可畏カシコき」という言葉について、「訶志古カシコは古書に、畏、可畏、恐惶、懼などの字を書て、(中略)おそるゝ意なり、(又賢をも、智あるをも云は、然る人は畏るべき故に、ウツりていふなり)」とし(同第28集、p.87)、「シコしと云ときは、猶ゆるやかなるを、阿夜可畏アヤカシコと云は、其ノ可畏きに触て、直ちに歎く言なれば、いよいよセチなり、は、男をも女をも尊む称なり」と言う(同p.88)。

このように「阿夜訶志古泥神」という神の名もまた、歎く、という古人の身心の動きを伴う言葉から産まれていたのである。

小林先生は、宣長について「丁度、『源氏』が語られるそのサマを『あはれ』という長息ナゲキの声に発する、断絶を知らぬ発展と受取ったように、神の物語に関しては、その成長の源泉に、『あやし』という、絶対的な『なげき』を得た」(同、p.174)とも書いている。

 

以上のような直覚と思考を重ね、昨年、2017年11月の、私の「自問自答」はこうなった。

「小林先生は、詩や言語に関して孔子が挙げる『観之功』、即ち『人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能』について、徂徠が『天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル』という言い方に注意を促している。それは『外からは、決して摑む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方』そのものだからである。そこに先生は、宣長が『古事記』を読みコナし果せた急所があると、直覚されたのではあるまいか。例えば宣長は『ながむる』という言葉の、声を長くする事、物思う事、物を見る事、という転義に強い興味を示す。そこに、物との親身な経験をする歌人の身心の動きのシルシを見たように『古事記』をわが物にしたのではないか」(299字)

 

しかしながら、山の上の家での質問に立った当日、池田塾頭との対話を通じて、以下のことが判然とした。上記の自問自答において、前半部分はよいとしても、後半の例示部分が不十分、というよりもむしろ、言語が「新しい意味を生み出して行く働き」という意味での「興之功」、すなわち、言葉の「転義」という点で、小林先生がより重きを置かれていたことに、全く言及できていなかったのである。

本来、言葉は、その言い方、身振り等によって、瞬間瞬間に、その意味が転じて行くものである。そのことを宣長は、こう表現している。

「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも(坂口注:いまいましくも)聞こゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、よみ人の心を、おしはかりえて、そのいきほひをウツすべき也」(「古今集遠鏡」、同第27集、p.267)

小林先生も、こう言っている。

「何も音声のアヤだけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザの、多かれ少かれ意識的に制御された文は、すべて広い意味での言語と呼べる……」(同第28集、p.48)

加えて先生は、具体例を挙げている。例えば、「お早う」とか「今日は」という挨拶の言葉を、子どもの頃、その意味を知ってから使い始めたという人はいない。また、阿呆という言葉と、馬鹿という言葉は、その意味は同じだとしても、私たちは実生活において、それぞれの言葉を、状況に応じ微妙に使い分けている。このように、私たちは、日常的に、簡単な挨拶や微妙な言葉の使い分けを実践することによって、日々の生活を、より生き生きと、彩り豊かなものにしていると言えよう。

以上のように、「転義」には二つの態様があることを踏まえれば、「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」という言葉の意味合いも、さらに立体的、動態的に感得できる。

 

私は改めて、寛政十年、「古事記伝」が完成した時に、宣長が詠んだ歌を口にしてみた。

 

古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし

 

ここに、小林先生が、その「歌のココロを、有りのままに述べているまでだ」として、宣長の仕事について、彼を画家にたとえて書いている文章がある。

「『古事記』を注釈するとは、(『古典フルキフミ』に現れた神々の『御所為ミシワザ』という)モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、『歌の事』が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える」(「本居宣長補記Ⅱ」、同第28集、p.352)

 

画家が描こうとしたのは、その歌にある「古事」すなわち、古人によって生きられ、演じられた出来事と言い換えてもよい。古人は、小林先生が言う「広い意味での言語」を使ってどのように歌い、語り、生きてきたのか。画家、本居宣長は、そんなふうに、古人が生きてきた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、自身がこれを生きてみた。そういう味識・体験による再生の行為を通じて、自らの心眼にまざまざと映し出されてきた手ぶりを、耳に聞こえてきた口ぶりを、「古事記伝」という作品として、見事に描き切ったのである。

さりながら、絵画作品は、画家の力だけで完成するものではない。それを観る者による、全身で感受するための努力や態度もまた欠かせない。小林先生は、十二年六ヶ月という歳月をかけて、宣長の作品を眺めた。私達、塾生も、そういう小林先生の姿を、同じ時間をかけて眺めようとしている。

巌から湧き出た大河の源流の一筋のように、孔子の言葉に始まる、徂徠が「興・観の功」と呼んだ言語表現の働きは、脈々と、今日もその流れを止めない。

(了)

 

編集後記

今号もまた、多才な塾生の皆さんによる多様な作品の一つひとつが、輝いている。山の上の家での「自問自答」、素読会、歌会、自身の仕事を含めた実生活、そして美を求める道、それらを通じて生まれた、各稿が放つ光は多彩である。

 

「巻頭随筆」の有馬雄祐さんは、素読会の事務局を担当されている。今回は、素読対象の「物質と記憶」の著者、ベルグソンによる「時間」についての思考実験を例に挙げて、小林秀雄先生の批評の態度、人生の態度に迫る上で重要となる「主観と客観」について思索された。

 

「『本居宣長』自問自答」には、今年度、新たに入塾されたお二方、橋本明子さんと羽深成樹さんが寄稿された。

橋本さんは、「自問自答」に加えて、塾でも紹介のあった「没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」(於:町田市民文学館ことばらんど)で感じられたことも披露され、「よく考え、よく生きること」についての思いを新たにされた。

羽深さんは、「自問自答」の経験を通じて感得された、小林先生が言う意味での「合理的に考える事」について、普段の穏やかな語り口のままに綴られている。「論語と『やせ我慢』」(PHP研究所)という著書もおありで、今回の「自問自答」も、「論語」の中にある言葉が発端となっている。入塾後、宣長さんの人生態度に本格的に触れて「その思考の独創性、エッジの立ち具合に眼を開かされた」と、山の上の家で語っておられる姿が印象的であった。

 

今号の「もののあはれを知る」は、荻野徹さんによる「ボクもやってみた、本歌取り」。まずはその場面設定に驚かされる。一方で、本塾の歌会でも行っている本歌取りの本質が、「本居宣長」からの引用文とともに手際よく示されている。歌会常連の荻野さんらしい作品をお愉しみ頂きたい。

 

また、「美を求める心」は、三浦武さんの「野心家のヴァイオリン」。本誌2017年11月号の「女とヴァイオリン」の続編と位置づけられる。前稿が、ストラディヴァリウスという女の話だとすれば、本作は、グァルネリウスという男の話である。小林先生が、グァルネリを一番巧く使ったと言っているフーベルマンについて、その語り口の背景にあった仔細に迫る。

 

桑原ゆうさんは、「『本居宣長』自問自答」で、小林先生の「心」と「ココロ」の使い分けに注目された。作曲家としての経験も踏まえ、「事物の心の振動」という観点から、小林先生の「物事をよく感ずる心」に近づこうとしている。

先日(2017年11月4日)、桑原さん作曲による声明しょうみょう「月の光言こうごん」が、神奈川県立音楽堂で初演された。テーマは、小林先生も「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)のなかで触れている明恵上人で、京都栂尾とがのおの自坊、高山寺の裏山において、深夜の坐禅を終えて戻る折に、明るく輝く月を見たという場面設定である。

 

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月

 

明恵上人のこの歌は、一人の僧侶の「あー」という声から始まり、次第に合唱の輪が広がって、最後は約三十人の大合唱が堂内に響き渡るなか、大団円を迎える。小林先生は、前掲文のなかで、「私の非常に好きな物」として明恵上人の坐禅像図を挙げ、一面に松林が描かれ、坊様が木の股の恰好なところへチョコンと乗って坐禅を組んでいる、珠数じゅずも香炉も木の枝にぶら下っていて、小鳥が飛びかい、木鼠きねずみが遊んでいる、まことに穏やかな美しい、又異様な精神力が奥の方に隠れている様な絵である、と言われている。桑原さんも、この明恵上人の「樹上坐禅像」からインスピレーションを得たと「作曲ノート」で言っていた。

 

さて、この冬は、周期的に月が地球に最接近している時期に当たり、空気も澄んでいるため、ことさら十五夜が大きく見える。私は、桑原さんの声明を聴いた日の深夜、寝所で急に目が覚めた。朝かと思いきや、東京の自室の窓を開けると、あかあかと大きく輝く満月があった。もはや私の身体は、高山寺の鬱蒼とした木立のなかにあった。

ありがたいことに、データによれば、本誌の読者数は、刊行以来右肩上がりで増えているという。今号はもちろん、これまでの寄稿作品のすべてが、この世を明るく照らし始めているようだ。

思えば、本誌の発行人、茂木健一郎さんは、創刊号の「発刊の言葉」で、こう書かれていた。

「困難な時代の一隅を照らし出す一灯となれば幸いである」

 

小生、このたび、微力ですが、一隅を照らすお手伝いをさせて頂くことになりました。一意専心務めますので、どうぞよろしくお願いいたします。

(了)

 

ゴッホ、ミレーにまねぶ

雨混じりの、蒸し暑い日であった。

今年の8月初旬、七夕祭りで賑わいを見せている仙台に、私はいた。夕刻、授業を終えた予備校生達が、三々五々集まり、気付けば、大きな教室は一杯になっていた。河合塾仙台校が、放課後に開催している「知の広場」で、現代文講師の三浦武さんの進行により、池田雅延塾頭と杉本圭司さんによる講演「小林秀雄にまねび、まなぶ」が始まった(*)。

 

そこで、池田塾頭は、「学問」と「学習」の違いについて、概ね次のように説かれた。

「予備校生の皆さんが今やっているのは、『学習』であって、『学問』ではない。『学習』とは、人間社会で生きていく上でのルール、換言すれば、既に誰かが発見したもの、産み出したものを習うこと。一方、『学問』とは、人類の未だ知らないことを明らかにし、人類のために貢献することである。それでは、『学問』をしていく上で、一体どういう心掛けが必要になるのか。小林秀雄先生は、『本居宣長』第十一章(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)の中でこう仰っている。

「宣長が、その学問論『うひ山ぶみ』で言っているように、『学問』とは、『物まなび』である。『まなび』は、勿論、『まねび』であって、学問の根本は模倣にあるとは、学問という言葉が語っている」

小林先生は、模倣の達人として、モーツァルトとゴッホを挙げておられる。モーツァルトは、あらゆる音楽的手法を、知識として知るだけではなく、真似して再現して見せた。ゴッホは、ミレーや、日本の浮世絵を、何枚となく模写した。

そういう、模倣に模倣を重ねた、その先においてこそ、自分の真の個性に出会うことができるのである」

塾頭は、真剣な眼差しで聴き入る予備校生達に対して、噛んで含めるように説き、こういう趣旨の言葉で、話を結ばれた。

「皆さんは、来春の目標を目指して、まずは『学習』に邁進してください。晴れて大学生になった暁には、思う存分『まねび』、『学問』を実践してください。健闘を祈ります」

その言葉を聞き、力強く頷いた予備校生達の姿を目の当たりにして、30年前、京都の予備校に通っていた私は、当時の心境を思い出し、胸がはち切れそうになっていた。

 

私は、東京に戻ると、早速ゴッホの書簡集を読み直してみた。

彼は、とても率直な人らしく、気になっていることが、そのまま文面に頻出する。例えば、「ゴーギャン」「芸術家組合」「ルーラン」「ミレー」「日本画」という言葉を何度も目にする。

ゴーギャンとは、アルルの黄色い家で共に暮らし、「芸術家組合」を作ることが、ゴッホの永年の夢であった。しかし、切なる夢は、切なすぎる思い出として霧消した。

ソクラテスによく似た、アルルの郵便配達夫「ルーラン」は、数少ない友人の一人であった。あの災厄のような発作が起き、ゴーギャンが去った後の、汚れてしまった部屋を掃除してくれたのも、また「まるで老兵が初年兵をいたわるような寡言な厳しさと思いやりをもって」親身に接し続けてくれたのも、ルーランであった。

そして、「ミレー」と「日本画」は、まさに先の塾頭のお話の通り、ゴッホの「まねび」の対象そのものであった。小林先生も、「ミレー」について、こう書かれている。

「僕は、彼の手紙に現れるミレーという字を、幾つも幾つも追い乍ら、ここには、何かしら運命的とも呼ぶべき、深い出会いがある事を感じた。絵も見ない前に、ミレーという画家が、ゴッホに、少なくとも絵に没頭して以来最初の、そして恐らくは最大の影響を与えて了った、そんな風に感じた」(「ゴッホの手紙」、同第27集所収)

 

ミレーは、日本での人気も高く、さる2014年には、生誕二百年を迎えたこともあり、多数の解説書が出版されている。しかし私は、敢えてそれらに目を通したい気持ちを抑え、山梨県の甲府に向かった。ともあれ、小林先生がそこまで明言するミレーの原作と一対一で向き合い、単純率直に、その場で直覚するものを大切にしたかったのだ。山梨県立美術館への道すがら、海原のように広がる葡萄畑では、翡翠のように綺羅めく果粒の一つひとつが、初秋の太陽の光を浴びて、うんうんと、収穫直前の最後の成長のひと踏ん張りをしているように見えた。

この美術館は、自然に恵まれた「農業県山梨」に相応しいと、農民を多く描いたミレーの代表作を収集してきており、今や知る人ぞ知る「ミレーの美術館」となっている。

ミレー館に入る。山梨らしい赤ワイン色の壁紙が、諸作と溶け合って心地よい。

しかし、最初の作品「ポーリーヌ・V・オノの肖像」(1841-42年頃)を観た途端、私は、彼女の瞳に、雷に打たれたように釘付けにされてしまった。彼女は、ミレーの最初の妻であったが、病弱のため、結婚の三年後に他界した。まるで瞳そのものが、生きている。涙を溜めているようでもある。見つめていると、画中の彼女は、必死に私に話しかけようとする。が、思い余りて言葉にならぬ。気付けば私は、不首尾を承知の上で、彼女との対話を幾度となく試みていた。

続いて「落穂拾い、夏」(1853年)を観る。思っていたよりも小品である。刈り取った穀物の穂が、高く高く積み上げられていく作業を遠景にして、前景の三人の女性が、地面に残してもらった落穂を無心に拾っている。三人とも、真下の大地を凝視する。うち二人の腰は、痛いほどに曲げられている。そして、そこに会話は、ない。

このように、ミレーの作品には、重力を感じさせるものが多い。彼ほど、画中の人物が、鉛直方向、つまり真下にある大地を向いている作品、また、そうではなくても、目には見えぬ、力強い垂直の軸を感じさせる作品が多い画家は、いないのではないかと思う。この感覚は、実際に農作業に従事しなければ出せない、作家の野性に由来するものであろう。このことは、有名な「晩鐘」でも同様であるし、その他「種をまく人」「くわを持つ男」「葡萄畑にて」等、枚挙に暇がない。加えて、画中の人物の多くは、仕事中の農民であり、作業に一心に集中し、無言を貫いている。辛かろうが、苦しかろうが、そこに誇張や感傷性の表現はない。あるのは、ただ静謐のみ、である。

その他の作品も丹念に観て回り、こう思った。「私は農夫中の農夫です」と語っていたミレーにとって、闘うべき、かつ、祈るべき対象は、彼の伝記を書いたロマン・ロランが言うところの「万物が生まれでて万物がふたたび帰ってゆく、原初的な『無窮の』存在物である」大地という自然であったのではあるまいか。

 

一方、ゴッホにも、農民の家族を描いた、有名な作品「馬鈴薯を食う人々」(1885年、同第20集口絵参照)がある。一日の労働を終えた一家五人が、暗く煤けたように見える部屋の中で、馬鈴薯を食べている。五人の視線は、交わらぬ。料理の品数のみならず、団欒にあるべき会話も、ひたすら乏しい。

私が、この作品を持ち出してきたのは、農民画家と世間に呼ばれてきたミレーを、単に画題としてゴッホが模倣した、という趣旨ではない。本作を描いた二年半前に、ゴッホが書いたとして、小林先生が引用されている手紙に注目したかったのである。

「どんなに文明人になってもいいが、都会人になってはならぬ、田舎者でなければならぬ。どうも正確な表現が出来ないが、口を開かせずに働かせる何かしらが、人間の裡になければならない。喋っている事を超えた或るもの、繰返して言うが、行為に導く内的沈黙というものがなければならぬ。立派なことを仕遂げるには、そういう道しかない。何故か。何が起ころうと驚かぬ或る感情を人間は持つからだ。働く―次は? 僕は知らない―」(No.333)

 

私は、ゴッホの画を観ていると、静物画や風景画であっても、独特の緊張感を覚えることがある。ましてや、自画像であれば、なおさらである。それは、小林先生が「ゴッホの手紙」の冒頭で触れている、上野の東京都美術館で、「烏のいる麦畑」の複製画を観て、その前にしゃがみ込んでしまった時に覚えられた感じに近いのかもしれない。

「僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つのおおきな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる」(「ゴッホの手紙」)

 

併せて、ゴッホの手紙を読み進めて行くと、こんなことを思う。彼にとって、闘うべき、かつ祈るべき対象は、風景や生物や人物というものに始まって、大地から生れ出た、自分の肉体という自然に行き着いたのではあるまいか、と。

少し長くなるが、ゴッホが、サン・レミイの、鉄格子の嵌まった窓のある療養院にいた1889年9月、大地に帰る、十ヵ月前に書いた手紙を引いておく。

「治療法などないのである。もし一つでもあるなら、それは仕事に熱中するだけだ。この事を、僕は以前にも増してつくづく考え込んでいる。そして、病気が醸成されていたパリ時代の僕より、はっきりと病気になって了った現在の僕の方が増しであろうと思う様になった。今仕上げた背景に火の燃えている肖像を、パリ時代の僕の肖像と並べて掛けて見れば、その事が君にも解るだろう。現在の僕はあの時よりは健康に、ずっとずっと健康に見えるだろう。この自画像は、手紙より現在の僕を、恐らく君によく語っているだろう、君を安心させるだろう、とさえ僕は考えているのだ。描き上げるには、かなり苦しかったがね」(No.604)

 

ところで、そもそもヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、ジャン・フランソワ・ミレーの何をまねび、まなんだのだろうか。もちろん、ゴッホは、「驚くべきミレーの描線」の模写を繰返した。確かに、素描の勉強を本格的に始めた当初は、画中の人物が真下を向く、ミレーらしき画を多数描いている。しかし、その答えは、後のゴッホの作品を観て一目瞭然、というように、俄かに了解できる類のものではあるまい。

 

小林先生が、「ミレーに関する限り、僕の判断は、すべてこの書に負うのである」と仰るように、先生をして、ミレーがゴッホに最大の影響を与えたと確信させた、ロマン・ロランによる書物がある(『ミレー』、蛯原徳夫訳、岩波文庫)。

その中にあるミレーの言葉を、心静かに、噛みしめたい。

 

「美をつくりだすものは、描かれた物そのものよりも、それを描かずにはいられなかったという気持ちの方が大切です」

「(私は、)何も口に出してはいないが、人生の過重を自覚し、苦しみながらも叫び声や不平などもらさず、人間の運命の法則を忍びつつ、しかもその償いなどを誰にも要求していない、あの画中の人物などを、愛した」

「私は苦しみをのがれようとは思わないし、私を禁欲的にしたり無関心にしたりする信条を見つけ出そうとも思いません。苦しみは芸術家にもっとも強い表現力を与えるものかもしれません」

 

分かりきったことを言うようであるが、これはゴッホの言葉ではない。ミレーの言葉である。

 

気付けば私の身体の中で、新たな欲求が、ふつふつと湧いてきた。

ゴッホは、一体、もう一つの模倣の対象であった、日本画の何をまねび、まなんだのか。無私なる精神とともに、ミレーや日本画等の模倣を繰返してきた末に、ゴッホの作品に立ち現れた、彼にしか表現し得なかったもの、そういう画家の魂に、直に触れてみたい。その魂とは、小林先生の言う、例えば、各人の鼻の形状が千差万別である、というような「単なる個人々々の相違という意味」での個性ではない。「個人として生まれたが故に、背負わねばならなかった制約が征服された結果」(「ゴッホの病気」、同第22集所収)として作品に立ち現れて来た、画家の真の個性そのものである。

 

今まさに、小林先生が衝撃を受けたという、上野の山の美術館では、「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」展が開催中である。

 

(*)当日の講演の詳細は、「Webでも考える人」(新潮社)で、池田塾頭が連載中の「随筆 小林秀雄」二十二「模倣について」を参照ください。     http://kangaeruhito.jp/articles/-/2183

 

【参考文献】
*「ゴッホの手紙(上、中、下)」(硲伊之助訳、岩波文庫)
*「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房)
【参考情報】
山梨県立美術館
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」
 東京展:東京都美術館、2017年10月24日~2018年1月8日
 京都展:京都国立近代美術館、2018年1月20日~3月4日

(了)