編集後記

年度があらたまる時機の刊行となる今号は、山の上の家での「自問自答」の提出を控えた四人の男女が織りなす、荻野徹さんによる対話劇で幕を開けた。中江藤樹が、「眼に見える下克上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた」という小林秀雄先生の言葉の深意をなんとかして汲み取ろうと、四人の談義は終わりそうにない……

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さん、黒瀬愛さん、安田博道さんが寄稿された。

溝口さんは、本塾への入門後、数年にわたる「自問自答」の蓄積や、松阪を訪れ「奥津紀おくつき」を正視するなかで直覚してきたことを通じて、「遺言書が宣長の思想の結実である」とは一体どういうことなのか、について思いを巡らせておられる。

黒瀬さんは、初体験となった「自問自答」のなかで、池田雅延塾頭から示唆された言葉を端緒として、「物の哀」を知ること、知らされるということについて、自身の過去の人生経験も自問自答の形で思い出しながら、新たなる一歩を踏み出された。

安田さんは、宣長と小林先生の言葉を丹念に追うなかで、宣長と老子の自然観の違いについて探求を深めておられる。宣長は「似て非なるもの」に言及する、されど「似て非なるものをにくむ」という言い方はしなかったであろう、と推し計る安田さんの言葉をじっくりと味わいたい。

 

 

「歴史と文学」の原弘樹さんは、2017年10月の「自問自答」で立てた主題を端緒として、思い巡らせてきたことを寄稿された。天武天皇が稗田阿礼に命じた「誦習よみならい」という言葉の本意に拘った原さんは「古事記伝」を紐解く。そこで原さんが直覚したものから、私たちの眼前に開けてくるものは何か。

 

 

村上哲さんは、「考えるヒント」のなかで、数学や物理学に親しく馴染んできた者として、科学者の態度について、小林先生が「信ずることと知ること」に引く、柳田國男氏や氏の作品に登場する人々の態度を熟視しつつ論じられている。村上さんが言うところの「人間が本来持っている態度」を何と呼ぼうか。

 

 

冒頭で触れた、荻野さんの対話劇に登場する中江藤樹について、小林先生は、「本居宣長」で言及したことに関して、「宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである」と書いている。

新年度の「小林秀雄に学ぶ塾」は、「本居宣長」を学んで七年目に入る。小林先生の執筆期間を念頭に十二年半かけて読む計画なので、ちょうど折り返し地点を回ったところである。急登を超え山の上の家の門を初めて叩いたときの自らの初心を思い出し、「本居宣長」という高嶺に向け、さらなる歩を進めて行きたい。

新年度の「自問自答」のテーマは、「道」である。

(了)

 

ドガの絶望

お前のベッドに求めるのは、夢など見ない 重い眠りだ、
後悔なんぞ 知るよしもない カーテンの下に 漂う眠り、
そいつはお前も、陰惨な 嘘八百のその後で 味わうやつ、
虚無ならば、お前のほうが、死者たちよりも 遥かに知る。
ステファヌ・マラルメ「不安」(抜粋)

 

いわゆる「印象派」と呼ばれている画家たちを中心とする「グループ展」は、1874年から84年にかけて、計8回開催された。彼らが、まだ危険な前衛派と見做されていた時代である。その過程で織りなされた画家たちの交流や時代の雰囲気が丹念にまとめられた、島田紀夫氏による「印象派の挑戦 モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い」(小学館)を面白く読んだ。

この「グループ展」のすべての回に参加したのは、ピサロ一人であり、次いで7回参加したのは、ドガとベルト・モリゾ、そしてアンリ・ルアールであった。展名は、都度変更された。第三回の「印象派画家たち(アンプレッショニスト)展」という名称に強く反発し、第四回を「独立派(アンデパンダン)展」としたのは、ドガの熱意であった。そのため、第五回展には、ルノワール、シスレー、セザンヌ、そしてモネが参加を見送った。逆に、第七回では、ドガとセザンヌを除く、第一回展の主要メンバーが久しぶりに一堂に会した。

「グループ展」は、もともと、当時の美術に関する権威的団体である美術アカデミーや、それにより主催されるサロン(官展)が保守的な基準に固執していることに反発し、「国家の保護なしに画家自身が組織した『私的な落選者展』という意味を持」って船出をしたものであった。ところが、同展に対する考え方は、とくにサロンとの距離感について、画家一人ひとり異なっており、その溝は回を追うごとに深まっていった。とりわけ、ドガの主張は一貫して強硬で、当初はドガの芸術に傾倒していたカイユボットですら、「……ドガが私たちのなかに不和を持ち込んだのです。彼にとって不幸なことですが、彼の性格は善良とは言えません」という手紙をピサロに書くような始末であった。

 

そんな「グループ展」の第三回に展示されたと考えられている、ドガ(1834~1917)による作品「リハーサル室での踊り子の稽古」を、東京丸の内の三菱一号館美術館で開催されていた「フィリップス・コレクション展」(*1)で観た。色彩は抑えられており、水墨画のような印象さえ受ける。小さな作品ではあるが、眺めていると、我が身は、自ずとリハーサル室の中に引きずり込まれる。大きな窓から差し込む光のなか、中央にポワント(つま先立ち)の姿勢をとる踊り子。その奥で、ポーズをとり稽古をつける先生、談笑する踊り子たち、練習用のバーに腕を乗せて何か考え込むようなしぐさの踊り子も。その場の、動と静のすべてがまさに眼前で繰り広げられているように感じ、見飽きることがない。ドガらしい、動き(ムーヴマン)に満ちた静止画である。

小林秀雄先生も「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)に書いている通り、ドガはアングル(1780~1867)を非常に尊敬しており、「なんでもいいから、線を引く勉強をし給え。……出来るだけ沢山の線を引いてみる事だ」というアングルの言葉を金科玉条として、アングルが強く惹かれていたイタリアのルネッサンスに傾倒し、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロなど巨匠の作品の模写を数多く重ねていた。

イタリア留学からパリに戻ったドガは、キャフェ・ゲルボアでマネやモネといった新進画家たちと出会う。ただ、彼らが官設のサロンに抗するように見出した、戸外での風景画制作に魅かれることはなかった。小林先生は言う。

「真に新しい仕事が起るのは、古い仕事への反抗によるものでもなければ、新しい個性の自己主張によるのでもない。古いものの実りある否定は、その徹底的な理解を通じてなされるより他はない。自己を実現することでもそうである。自己が徹底的に批判されていなければ、個性とは一種の弱点に過ぎない。ドガは、そういう芸術家の仕事に必至なパラドックスに悩んでいた。そういう時だ、ドガが馬と踊子という題材に出会ったのは」(同)

私が長く見入ってしまったのも、そんな踊り子作品の一つだった。

 

 

一連の「グループ展」もあえなく雲散霧消してしまうと、1892年の展覧会を最後に、ドガが作品を公開展示することは途絶えてしまった。その翌年、ルアール宅で知り合い、亡くなるまで交際が続くことになったのが、詩人で思想家のポール・ヴァレリイ(1871~1945)である。彼によれば、ドガは「偉大な、そして潔癖な芸術家であり、本質的に意識家であって、類なき、活気ある、精妙な、それ故に少しも休めない頭脳の持主であった。彼は頑固な意見や峻烈な批判の蔭に、何か言いようのない自分への疑惑と、自分の欲する通りに完全には為し得ない絶望とを隠していた」(「ドガ・ダンス・デッサン」吉田健一訳、新潮社版)

ドガの姪であるジャンヌ・フェブルによると、ドガは、友人の画家に宛てた手紙の中で、自らのことについて、こう告白している。

「私は、私自身に対して特別に厳しかったのです。……私はすべての人に対して、また私自身に対してさえ満足したことがなかったのです。この呪われた芸術のもとに、もし私が貴方の大変高貴で知的な精神を、そして恐らく、貴方の心さえも傷つけたとしたら、私は本当に貴方の許しを請わなければなりません」(「ドガの想い出」東珠樹訳、美術公論社)

ここに、周囲にはとげとげしく思われていたドガの、実体温を微かに感じないだろうか。そんなドガであるから、「制作の方法は、絶えずやりなおすということでした。ある動きのあるポーズを捕えるために、彼は二十回もデッサンをくり返し、カンヴァスや紙の上に幾度も幾度も描きなおすのでした」と、姪は思い出し、ヴァレリイもこう振り返る。

「ドガにとって一つの作品とは、無数の下絵と、それから又逐次的に行った計算との結果であった。そして彼には、或る作品が完成されるということは考えられなかったのに相違ないし、又画家が暫く立ってから自分が書いた絵を見て、それに再び手を入れたくならないでいられるということも、彼には想像出来る筈がなかった」

 

 

丸の内の美術館には、もう一枚、ドガの絵があった。

縦横ともに、1メートルを超える大きな作品、「稽古する踊り子」(*2)である。展示室に入ると、画中の壁のオレンジ色と、踊り子たちが身に着けたチュチュ(スカート)の水色のコントラストが、気持ちよく眼に飛び込む。二人は、練習用のバーに片足をかけて身体を伸ばしている。それぞれの足と手が左右対称をなし、構図としての安定感も心地よい。踊り子のひねった身体の動きとチュチュのふんわりとした感じに立体感を、手前の踊り子が画面から飛び出してきそうな錯覚さえおぼえる。

ただ、よくよく眺めていると、奇異な部分があることに気付く。左側の踊り子の左腕が二本。さらには、右側の踊り子の右腕の上にも、もう一本。二人が着地している足にも、どこか落着かない感じが残る。さらに時間をかけて見ていると、チュチュも、その外縁にうっすらと同じような形が見えてくる……

実は、これらのすべてが、ドガの修整の軌跡であった。本作は、彼が亡くなった時にアトリエの中にあったというから、私の眼が追っていたものは、まさに幾度も書き直され、逐次的な計算が行われていた跡だったのである。制作年表示には、「1880年代はじめ-1900年頃」とあったので、もしやと思い美術館に確認したところ、そんな背景を踏まえたもの、という回答であった。描き直しは、20年にも及んでいたのである。私は、今でも彼がその絵の前に立ち、黙々と修整を重ねている姿が見えたような気がした。

 

小林先生も触れているように、ドガは、十四行詩(ソンネ)をよく書いた。詩人のステファヌ・マラルメ(1842~1898)とも交流があり、手ほどきを受けた。ヴァレリイによれば、ドガがマラルメに対して、詩の制作の苦しさを訴えた時、マラルメは穏やかにこう答えたという。「だけど君、詩というのは思い付きで作るものじゃないんだ。……言葉でもって作るものなんだ」

このやりとりを踏まえて、ヴァレリイはこう言っている。

「ドガは、デッサンとはと言い、マラルメはことを教えたが、二人のこれ等の言葉はその各々の芸術に就て、それを『既に知っている』ものでなければ完全には、又有益には理解出来ないことを要約しているのである」

ドガによる習作過程は、「形式の見方」を、デッサンを通じて積み重ねていく訓練だったのであり、彼は、ソンネを制作する上でも同じように、脚韻や構成に関する約束事の中で最適な言葉を紡ぎ出していく作業を、一心に続けていったのではあるまいか。

姪によれば、ドガの詩作の努力が開花したのは、1890年前後、つまり彼が60歳の時であった。その頃になると、外出は減り、わずかな友人と会うだけで、大好きだったダンスの楽屋に通うこともなくなってしまう。大切な視力も、すでに落ち始めていた。

 

 

1912年、区画整理のため、25年間住んでいたアトリエからの強制的な立ち退きを余儀なくされると、ドガは完全に仕事を断念してしまった。78歳の彼は、既に全盲となり、聴力も低下した。彼は、友人のド・ヴァレルヌに宛てた手紙にこんな言葉を残していた。

「私は最後の日まですべてを見ることのできるあなたの目をうらやましく思います。私の目は、そのような喜びを与えてくれません。……」

一方、ヴァレリイは、末期のドガを思い出し、こう述懐している。

「ドガは常に自分のを感じ、又孤独さのあらゆる形態によってそれを感じていた人間であった。彼は性格から言ってであり、彼の性質の気品と特異さとによってであり、彼の誠実さによってであり、彼の驕慢な厳密さと主義や批判の不屈さとによってであり、彼の芸術によって、即ち彼が自分自身に要求したことに於てであった」

 

私は、ちょうどその頃に撮影されたと思われる、病床にあるドガの一枚の写真を見て、強い印象を受けた。天井を一心に見つめているようだ。見えていたのか…… いや、見えていた。彼は習作を続けていた。踊り子のデッサンを描いては消し、描いては消し……

彼は未完のデッサンを続けている。黙々と。今も、孤独と絶望のなかで。

 

 

(*1) 2019年2月11日で終了。

(*2) 本作と同様の構図のデッサン「踊り子のデッサン」(1900、オタワ・ナショナルギャラリー蔵)を、「近代絵画」(同前)の口絵で見ることができる。

 

【参考文献】

『マラルメ詩集』渡辺守章訳、岩波文庫

アンリ・ロワレット『ドガ――踊り子の画家』、創元社

(了)

 

編集後記

今号は、平成三十一(2019)年、初の刊行となった。

「巻頭随筆」には、鈴木美紀さんが寄稿された。本稿は、昨年11月、山の上の家で行われた「小林秀雄に学ぶ塾」の「質問」、すなわち、鈴木さんの「自問自答」から生まれたものである。小林先生の著作「本居宣長」に幾たびも向き合い、よし自分は読めている! と我が心のなかで秘かに快哉を叫ぶ瞬間はあれど、いざ300字の質問作りに入るや絶壁が立ち現れる、という状況は、塾生なら誰しもよく実感しているところであろう。

 

そんな「自問自答」は、当日の塾頭や塾生とのやりとりだけでは終わらない。その後、各自が日常生活を送るなかでの省察や熟成の時を経て、本誌への寄稿作品として生まれ変わる。

安田博道さんは、介護のために帰省したご実家で蘇った「お父さん」という言葉をきっかけに、ある直覚を得た。久保田美穂さんは、幼い頃に入院していた病室で、思わず自ら発してしまった言葉と真摯に向き合った。本田正男さんは、弁護士として接した少女が、審判廷でおじさん夫妻に放った「なんだ、来たのかよ」という悪態のような言葉の奥底にある色調の深みまで、思い出した。そして、小島奈菜子さんは、以前より、本居宣長や小林先生が使う「しるし」という言葉を、ひた向きに追い求め続けている。

 

 

「脳科学者の母が、認知症になる」(河出書房新社刊)という本を上梓した恩蔵絢子さんは、「私の人生観」に寄稿された。急に直面することになった状況下で、日々お母さまと向き合う構えや勇気は、小林先生の言葉や山の上の家での「自問自答」を通じて得られたものだという。読者各位には、ぜひ同書も手に取って、併せて味読いただきたい。

 

 

「人生素読」は、北村豊さんによる紀行文である。北村さんが直知しようと追い求めたのは、小林先生が下諏訪の「みなとや旅館」で言った「諏訪には京都以上の文化がある」という言葉であった。

有馬雄祐さんにとって、まさに「考えるヒント」となったのは、「人は歳をとるほど幸せになる」という言葉である。「高齢のパラドックス」を若者の側から見つめ直すという画期的な試みを寄せられた。

 

 

今号から新しく、三浦武さんによる連載「ヴァイオリニストの系譜」が始まった。小林先生は、旧制中学時代という若い時分から生涯をかけて、ヴァイオリンを、ヴァイオリニストを愛してこられた。今後読者が、小林先生による、音楽やヴァイオリンについての文章を読み進めるうえでも大いなる助けになるものと確信している。まずは、自ずとそう思わせる三浦さんらしい「序曲」からお愉しみいただきたい。

 

 

2019年1月某日、本年最初の塾が山の上の家で開かれた。塾生による「自問自答」発表後の午後の茶話会では、いくつもの話の輪が広がり、午前の発表内容について、「自分はこう思う」「私はこう考える」という会話が絶えない。この見慣れた光景を眺めながら、改めて感じたことがある。これは、小林先生のいう「対話」ではないか、と。

先生は、昭和53(1978)年、熊本県阿蘇で行われた、学生向けの講義「感想―本居宣長をめぐって―」の後の質疑応答で、女子学生が、身勝手な考えに陥らない自問自答について質問したのに応えて、こんなことを言っている。

「現実に語る相手がいる場合は、君は空想に陥ることはないだろう。二人で協力するし、向うの知恵もありますからね。向うが質問する場合もあるだろう。お互いに協力して知恵を進めることができる。(中略)だから最初に言ったように、ディアレクティークというもの、つまり対話というものが純粋な形をとった時、それは理想的な自問自答でありえるのです。……」(「学生との対話」国民文化研究会・新潮社編)

 

独力で作り上げた自問自答を塾頭にぶつける、塾生にぶつける、そして本誌に寄稿する。この営みの繰り返しこそ、理想的な自問自答であるし、私たち塾生が歩むべき道にほかならない。

そんなことを思っていると、窓の外には、寒風のなか大きく開いた梅一輪が、やさしく微笑んでいた。

(了)

 

編集後記

時が巡るのは早い。本誌も、今号をもって平成三十(2018)年最後の刊行となる。

「巻頭随筆」は、荻野徹さんが筆を執られた。猛暑となった7月の山の上の家で行われた「自問自答」は、大晦日の晩、男女四人によって繰り広げられる対話劇、という果実に熟した。古書を味読する態度について、対話という体裁のなかでこそ立ち現れる妙味を、まさに戯曲を愉しむように堪能いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、橋本明子さんと櫛渕万里さんが寄稿された。

橋本さんは、今回の自問自答の経験を通じて、学問や古典というものへの認識を新たにされたようである。加えて、百歳を生きた某思想史学者の偲ぶ会に参加した折、「思考を止めてはなりません」という生前の言葉を聞き、「宣長の真髄」を感得された。そこに橋本さんの、ある決意の声を聴いた。

櫛渕さんは、6回目となる「自問自答」をもとに綴られている。今回は、歴史と歌との間に共通する連なりがあるのではないか、という直覚が端緒となった。その連なりから聞こえ見えてきたものは、天武天皇の「哀しみ」であり、宣長のいう「もののあはれを知る心」の働きであり、さらには、両者に思いを馳せる小林秀雄先生の姿ではなかったか。

 

 

村上哲さんは、本居宣長が「言葉という道具の上手」であることについて、熟考を重ねた内容を「考えるヒント」に寄稿された。一見、哲学的な文章の外観はあるが、「赤ん坊」の例が出されているように、主題は人間誰しもが実生活のなかで体感していることであり、読者各位には、日常の所作や趣味など具体的な場面をイメージしながら読み進められることをお薦めしたい。

 

 

「人生素読」には、橋岡千代さんが寄稿された。母と子の日常を過ぎていく時間のなかにも、「もののあはれ」は満ちている。小林先生の「当麻」や「私の人生観」という作品は、そのことを橋岡さんに認識させてくれる契機となったようである。

なお、文中で言われている「うしろみの方の物のあはれ」については、池田雅延塾頭による「小林秀雄『本居宣長』全景 五・六」(本誌2017年10月号・11月号)も、併せてお目通しいただきたい。

 

 

「美を求める心」の酒井重光さんは、大阪塾に参加されている料理人である。本稿では、日々調理場で体感していることを踏まえ、小林先生が池田塾頭に仰った「甘味が一貫していないんだ。……魚の甘味の系統に……人間が施す甘味はすべて揃える」という言葉の深意に迫る。酒井さんならではの筆によって、味にも「美しい姿」を求めた小林先生の真髄に、また新たな光が当てられたように思う。

 

 

紅葉が美しくなる、この晩秋という季節を迎えると、小林先生が「天という言葉」について語っている文章が、思い出される。

「私は、長い歴史を通じて、人間の自覚という全く非実用的な問題が現れる毎に、この言葉が、人々の内的生活のうちに現れたのは、あたかも、同じ木の葉が、時到れば、繰返し色づくのを止めなかったようなものだ、天という言葉は沢山な人々によって演じられて来た自覚という精神の劇の主題の象徴であった、それを想って見ている」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)。

今号の多彩な作品のなかにも、人生の意味について自問する精神が通底していることを感じる。山の上の家の塾での「自問自答」の歩みも、年度終盤に向けて、一層実り豊かな学びを目指していきたい。

 

最後に、読者の皆さまの明年のご健勝を、心よりお祈り申し上げる。

(了)

 

覚園寺の鞘阿弥陀

小林秀雄先生の姿が写った、忘れられないモノクロ写真がある。仏閣境内の六地蔵の前を腕組みして歩いておられる。地面を向き口元が引き締まっている。一心に考え事をされているようだ。これは「芸術新潮」2013年2月号に掲載されたもので、仏閣とは、鎌倉市二階堂、薬師堂ケ谷どうがやつにある古刹、覚園かくおん寺である。撮影時期は1962年。「本居宣長―『物のあはれ』の説について」に続く、「学問」、「徂徠」、「弁明」等、後に連載される「本居宣長」に向けた助走も始まっていた。

 

 

覚園寺は1296年の開山である。境内に初めて入った時のことも忘れられない。しとしと降り続く雨の中、両側に山が迫る薬師堂ケ谷の緩い坂道を登っていく。青葉に降り注ぐ雨音が心地よい。翠雨に佇む茅葺き屋根の薬師堂は、只管打坐しかんたざする僧そのものだ。灯のない堂内に入る。本尊の薬師三尊が、見上げた眼に飛び込む。漏れそうになる驚歎を押し殺す。暗いだけに、その姿は大きく浮かび上がる。袖と裾先が長く下に垂らされていることで、天界からの来迎感も増しているように感じた。

しかし、私の眼を最も釘付けにしたのは、薬師三尊ではなかった。それは、三尊の右手奥、窮屈な空間に押し込められた阿弥陀如来坐像、通称「さや阿弥陀」である。

真正面を見据える眼差しは鋭い、と同時にやさしく微笑む。これこそ坐禅中の僧がそのまま仏に化したよう。来迎や救済という作為を感じない、人間らしい御仏である。明治期の廃仏毀釈により廃寺となった、近隣の理智光寺の本尊からの客仏であり、鎌倉から室町期にかけて作られた。

そんな鞘阿弥陀は、理智光寺の本尊として、一体何を見つめてきたのか?

 

かつて同寺があった場所には石碑のみが立ち、こんな碑文が刻まれていた。

「此所は……五峯山理智光寺の址なり 建武二年淵辺ふちのべ伊賀守義博は足利直義ただよしの命を承け 護良もりよし親王をちゅうし奉りしが 其御死相に怖れ 御首をかたわらなるやぶ中に捨て去りしを 当時の住僧拾い取り 山上に埋葬し奉りしといふ」

1335年、前幕府末期の執権の子、北条時行らが反乱を起こし鎌倉に迫っていた。尊氏の弟直義は、多勢を前に西走を決断したが、同時に監禁中の護良の処置を忘れることなく、配下の淵辺をして斬らせた。親王28歳の夏の事である。

後醍醐天皇の皇子大塔宮おおとうのみや護良は、監禁以前、鎌倉幕府討幕のため執拗なゲリラ戦を続けてきた。そこに1333年、後醍醐軍を討伐せんとしていた足利尊氏が突如後醍醐側に寝返り、事態が急転。尊氏は護良軍と連合して北条氏配下の六波羅探題を撃破する。しかし護良は尊氏に幕府再興の野望ありと反発。一方、天皇専制という建武新政の本質を徹底したい後醍醐は、護良の軍事力をなんとか直接支配下に移行したい。

そんな三つ巴の混沌が続く中、後醍醐は、護良に謀反の計画あり、という尊氏からの上奏を契機に、鎌倉流罪を決めた。護良は、実父である後醍醐に必死の武功を認められることなく、直義の監視下で禁固の身となっていたというわけである。

 

「太平記」には、その夏の兇行きょうこう場面が精しく描写されている。

淵辺が刀で首をこうとする刹那、護良は刃先をガシリと噛む。刀は切っ先一寸を口中に残し折れた。淵辺は改めて首を掻く。ぼとり、と落ちたその首は、くわえた刀を絶対離すまいと、淵辺を睨視げいしする。そんな首を献上できるか、淵辺は藪にうち捨てて去った……

まさにその首を拾い弔ったのが理智光寺の住職であった。ちなみに、護良の墓は同寺跡のすぐ横の山上に、今もある。鬱蒼と茂る木々の中を、まっすぐな階段が154段。かなりの急登である。

「ここまで高い場所に埋葬しなければならなかったのか……」

私は山上まで一気に登ると、整わない息で、そんな言葉を漏らしていた。

「太平記」は、この場面もそうであるように、国内外の故事と関連付けられた記述も多く留意を要するが、その現場に立った私には、護良の亡骸に接した住職たちの祈りが静かに捧げられてきたことは、間違いないことのように感じられた。

 

 

さて、冒頭に紹介した写真が撮影された1962年7月前後の先生の著作には、ある表現がよく目に付く。(「小林秀雄全作品」第24集、新潮社刊、傍点筆者)。

「……眼前に在るのは、或る歴史の一時期の、或る民族の創った或る様式の建築物には違いないが、そういうこちら側から、先方に話しかける言葉が、いかにも空しいものと感ずる。からだ」(「ピラミッドⅡ」)

「(徂徠は)歴史とは何かと問うより、むしろと覚悟した人だったと言ってもよい」(「考えるという事」)

そして、撮影直前の6月に発表された「つば」ではこう言っている。

「私の耳は、乱世というドラマの底で、うである」

いずれも、向き合う事物、わけても歴史という過去の事物に対しては、こちら側から積極的に語りかけるよりも、むしろ自然に聴こえてくるのを待つ、そんな態度を強調している。これを、池田塾頭による本誌「小林秀雄『本居宣長』全景(十三)」にある「現在と過去、自分と他者、それらが渾然一体となった」意味での「思い出す」ということ、と言い換えてもよいだろう。

それらの言葉を念頭におきつつ、鞘阿弥陀や「太平記」ともう少し向き合ってみよう。

 

 

「太平記」の当該箇所を読むと、王朝による直轄専制への武士の不安、戦の論功行賞や土地の所有権をめぐる雑訴判断等について、人々の不満暴発が近いことをひしひしと感じる。

「世の盛衰、時の転変、歎くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人ざふにんの如くにてあるべし。……忠ある者は功をたのんでへつらはず、忠なき者はおうに媚びさうを求め……」(巻12)

この雰囲気は、「京童ミヤコワラハノ口ズサミ」を綴ったという「二条河原落書」とも共鳴する。

「此頃都ニハヤル物…ニハカ大名…キツケヌ冠、上ノキヌ……賢者ガホナル伝秦ハ 我モ我モトミユレドモ……関東武士ノ籠出仕カゴシユツシ……諸人の敷地不定サダマラズ……アシタに牛馬ヲ飼ナカラ、ユフベニ賞アル功臣ハ……サセル忠功ナケレトモ、過分ノ昇進スルモアリ……」(「建武年間記」)

 

これは、京や鎌倉という都だけの話ではない。日本全土が恩賞の具と化し、目まぐるしい中央の動きは地方にも素早く波及した。そんな不穏かつ不安定な空気に覆われていた中でも、理智光寺の住職たちは、鞘阿弥陀への祈りを、「此頃都ニハヤル」世人の不安や不満を黙殺するように、ひたすら続けていたのであろう。

 

「鎌倉廃寺事典」(有隣堂刊)によると、理智光寺はその後衰微し、江戸期には東慶寺に属した。同書には、理智光寺が廃寺となる直前、江戸末期の状況を知る人の、貴重な語りが残されていた。

「山田時太郎氏は『……理智光寺はその石段前に二間に三間位の大きさの庫裏くりがあり、隣にお婆さんが留守居をしてゐて、手習師匠でした。私共も習ひに通つたものです。廃寺となつたのは鎌倉宮(*)御造営の頃で、当時安置されてゐた安(阿)弥陀尊像は覚園寺に移されました』と語っている」。

 

私は、小さな庫裏の中の鞘阿弥陀の姿を、そして本尊を守ることを天命と知ったお婆さんがひとり祈りを捧げている姿を、思い浮かべてみる……。

お婆さんは、自らの現生の救済や後生ごせの平安を頼んでいたのではない、極楽往生というような宗教思想とは無縁に、朝な夕なと無私無心にてのひらを合わせていた、ただそれだけではなかったか。

私は、紅葉しつつある木々に包まれた覚園寺を改めて訪れ、ひんやりとした薬師堂に佇む鞘阿弥陀を眼の前にして、自ずとそんなことを思い出していた。

 

 

後日談がある。鎌倉市立図書館で出会った、覚園寺の元住職、大森順雄氏の著書「覚園寺 不忘記」に、鞘阿弥陀の逸話があるので紹介したい。

1951年、大森氏が薬師三尊の修理費捻出に苦心していた頃、戦災で焼失した芝増上寺の本尊の代わりとして、鞘阿弥陀に白羽の矢が立った。下見に来た増上寺の管長さんに値段を尋ねられた大森氏は、腹中「たとえ覚園寺が貧乏していても仏を売って修理費を捻出しようとは毛頭思っていない。もしそんなことをしたならば、この寺の歴史にぬぐうことの出来ない汚点を残すことになる」と思い、即座に断った。

ただ、管長が帰った後もその是非に悩み、堂内で鞘阿弥陀と長い時間向き合ってみた時のことを、「……その時、『縁があれば行くさ、縁がなければ残るさ』という声をきいた。そしてあとは成行にまかせた。この鞘阿弥陀は鎌倉を去るのはお嫌だったのであろう。また御縁もなかったのであろう」と述懐している。

 

私は、鞘阿弥陀について、本稿始めに「来迎や救済という作為を感じない、人間らしい御仏」と書いたが、そう感得した理由が少しは分かったように思う。

小林先生は、「信仰について」(同第18集)のなかで、このように言っている。

「私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。彼等の清らかな姿は、私にこういう事を考えさせる、自己はどんなに沢山の自己でないものから成り立っているか、本当に内的なものを知った人の眼には、どれほど莫大なものが外的なものと映るか、それが恐らく魂という言葉の意味だ、と」。

 

先生の言葉を借りれば、私がその御仏に見たものは、ただ真率に生き、静かな祈りを捧げる、理智光寺の住職や手習師匠のお婆さん、そして大森住職たちの魂だったのかもしれない。

いや、容易たやすく分かった気になってはいけない。小林先生の言う「乱世というドラマの底で、不断に静かに鳴っているもう一つの音」を聴くには、まだまだ足りない。耳を澄ませて、上手に思い出すことが必要なのだ。もっと、もっと……。

 

 

(*)鎌倉宮は、主祭神を護良親王として明治天皇の勅命により造営された。鎌倉市役所の解説「かまくら観光」によると、明治新政府が「王政復古」のスローガンのもと、中央集権国家の形成に邁進していく上で、楠木正成に次いで取り上げたのが護良親王であった。ちなみに、建武新政以前の北条氏との戦闘のなかで、護良が奈良、般若寺に潜伏中、追手の捜索に遭うも仏殿の大般若経を収めた箱に隠れたため事なきを得たという逸話が、「般若寺の御危難」として「尋常小學読本」巻九(1918年発行)に、英雄譚のように掲載されていた。

 

【参考文献】
井上章『覚園寺』中央公論美術出版
佐藤進一『南北朝の動乱』(「日本の歴史9」)中公文庫
山下宏明校注『太平記』(「新潮日本古典集成」)新潮社

(了)

 

編集後記

まずは、今夏猛威を振るった台風と、北海道胆振東部地震によって亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表し、被災された皆さまに心よりお見舞いを申し上げます。

 

今号は、大島一彦さんに特別寄稿いただいた。日本画家である地主悌助じぬしていすけの画業について語る小林秀雄先生の言葉が、庄野潤三の文業について語る言葉のように読めた、という直観は、ついに小林先生が庄野潤三について語った言葉の発見に至る。大島さんによれは、ペンを手に執るや、これまで心の奥底にしまってきた直観が次々と去来し、気付けば擱筆していたという。これこそ小林先生のいう「無私なる精神」か、と静かに述懐されていた姿が印象的だった。

庄野潤三は小説家である。昭和29(1954)年に書いた「プールサイド小景」によって芥川賞を受賞、同35年には、大島さんの文中にもあるように「静物」で新潮社文学賞を受けた。他に代表作としては、長篇「浮き燈台」や「夕べの雲」(読売文学賞)などがある。

 

 

「巻頭随筆」を寄せられた木村龍之介さんは、シェイクスピア作品の演出家である。木村さんは、死んだはずのシェイクスピアに呼びかける…… 返事はない。広島の街で、死者の言葉に耳を傾ける…… 何も聞こえない。

そして再び、演出家として舞台に戻り、彼らに呼びかける…… それは、死者たちが残した言葉に込められた「ふり」を信じることでもあるのだろう。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、岩田良子さん、渋谷遼典さん、溝口朋芽さんの力篇が揃った。

岩田さんは、七月、本塾の会場である山の上の家で口頭質問に立った際、「木の絵を描いてみてください」という全員ワークから始めた。それは、私たちがふだん、いかに自分の眼で物を見ていないかを、まざまざと痛感させられる経験であった。水墨画を学んでいる岩田さんの眼は、光琳、乾山の作品へ、さらにはそこから、「論語」を先入観にとらわれず、画家と同じように自分の眼で見つめた仁斎へと注がれる。

渋谷さんは、『本居宣長』という大きな山の登山道で、脇の小径のような言葉を見つけた。その「文の流れに耳を澄まし、言葉が読む者を自らの内に招き入れてくれるのを待」ってみると、「言葉」と「歴史」と「道」が三位一体となって織りなされる、荻生徂徠や本居宣長の、学問へ向かう態度の根本が見えてきたと言う。

溝口さんは、『本居宣長』に頻出する「発明」という言葉に注目している。その用例を追っていくなかで、「発明」が、「実験」や「冒険」という言葉と共鳴することを見出す。そこで溝口さんは、「発明」に言及するたびに小林先生の強い思いが、「ふり」となって文章に現れてくることを直覚した。そこには、『本居宣長』を読む私たちの「冒険の扉」が開かれている。

 

 

「美を求める心」の亀井善太郎さんは、演奏家としての経験も豊富で、今は聴衆としても会場に頻繁に足を運んでいる。前述の岩田さんが、眼を研ぎ澄ますことに注目したのと対照的に、耳を澄ますという感覚について身をもって思索を深めている。亀井さんが会場での生演奏にこだわり続けているのは、「言葉にならないもの」をしかと聴くためなのであろう。

 

 

「人生素読」には、熊本県在住の本田悦朗さんに寄稿いただいた。小林先生の「常識について」という文章を踏まえ、先生が思いを込めて使われる「常識」というものと、「言葉」というものの働きが重なり合う様について思いを馳せておられる。長きにわたり、先生の作品を丹念に読み込まれてきた本田さんならではの考察に瞠目しつつ、小林先生が繋いで下さったご縁に心から感謝したい。

 

 

「『本居宣長』はブラームスで書いている」という小林秀雄先生の言葉を主題として、本誌創刊号から15回にわたって連載を続けてきた杉本圭司さんの「ブラームスの勇気」が、今号をもって完結を迎えた。新生面を拓く小林秀雄論として毎号愉しみにしている、との読者の方の声も多く聞いていただけに、さびしくなると思われる向きも多いことと察するが、近々、新潮社から単行本として出版される。ぜひお手にとって、一冊の本としてもお愉しみいただきたい。

 

 

「死んだはずの彼に呼びかける」という木村龍之介さんの巻頭随筆を読んでいて、思い出したことがある。以前、広島塾(池田塾in広島)の会場になっていた合人社ウェンディひと・まちプラザは、市立袋町小学校の敷地の中にある。爆心地に近かったため大きく被爆し、避難所として使われていた校舎の一部が、今でもその時のままに資料館として保存されている。その壁面には、身内や自身の消息を確認し合う伝言の筆跡も残っている。過酷な状況下にも拘わらず、その時間を必死に生きた人たちの手によって、チョークで丁寧に書かれた端正な文字、その一言ひとこと一声ひとこえに、本誌読者の皆さまにも触れていただけたらと切にねがう。

(了)

 

編集後記

まずは、平成30年7月豪雨により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げ、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

 

 

本誌は、発刊一周年を迎えた2018年6月号(5月刊行号)から隔月刊化したため、約二ヶ月ぶりの刊行となった今号では、3人の塾生が初寄稿されている。

 

巻頭随筆の秋山太郎さんには、山の上の家の集まりなどで身近に接していて、以前からそれらしき匂いを感じてはいたが、やはり学生時代は、世界中を巡るバックパッカーをされていた。今も、様々な旅先でつながっていく奇縁に驚き、その奇縁がまた、小林秀雄先生へとさらに一歩近づくための新たな学びの種にもなっているようである。

大学生の鈴木凛さんは、クリスマスの日の友人との会話からつながった縁で、今年度から入塾し、早くも5月の塾で自問自答に立った内容を、今回寄稿された。「他者の確信のない意見には頼らず、常に自分自身というものを主軸においた宣長の生き方」に触れて、「人生いかに生くべきか」という新たなる鈴木さんの自問自答は、今始まったばかりである。

クリスマスといえば、ハンガリーで医学を学び始めたばかりの青葉くららさんは、その時期に現地の教会で触れた弦楽七重奏に、思いもよらず、大きく揺さぶられる経験をしたという。長くピアノを演奏してきた青葉さんだからこそ感じた天恵であろう。その経験を十分に踏まえた、モーツアルトとショパンについてのくだりも、小林先生の音楽論とも共鳴し、興味が尽きない。

 

 

石川則夫さんには、前号に引き続き、諏訪紀行を寄せて頂いた。諏訪に息づいている生活文化は、すでに前号で予感されていたように、みなとや旅館で供される食事に止まらなかった。女将の小口芳子さんの一言からつながった散策は、日本の古層を巡る思索へと広がる。その広がりを、小林先生はしかと感じておられたのだろう。「諏訪には京都以上の文化がある」。石川さんに導かれ、読み進めるほどに、先生が発した言葉の持つ深遠さと広大さに驚きを禁じ得なくなる。

 

 

吉田宏さんは、6月の山の上の家に、本居宣長記念館の吉田悦之館長をお招きした際に感じられたことを綴られている。館長のお話に、小林先生の言葉も考え合わせ、宣長の「学問の名の下に行った全的な経験」の根幹にある想像力に思いを馳せる。その想像力を培うものは、「合法則性」や既存の枠組みから離れてみることと、歳月をかけるということにありそうだという「考えるヒント」を感得されたようである。

 

 

先日所用により、「世阿弥芸術論集」(新潮日本古典集成)を再読した。世阿弥は、「初心忘るべからず」という言葉が有名であるが、実は三つの初心があると言っている(「花鏡」奥ノ段)。未熟な頃の心構えである「若年の初心」、その時分時分にふさわしい芸に臨むという意味での「時々の初心」、そして、老後、初めての芸に挑むようなみずみずしい心構えである「老後の初心」である。

私は、本塾で学ぶ面白さの一つとして、小林先生を、本居宣長を学んでいるさまざまな段階にある塾生が一堂に会している点があると感じている。手前味噌となるが、例えば、本誌各号もまさにそうであるように、それぞれの段階にある初心の響き合いが、思いもよらぬ「花」を生むことも多いからである。今号には、読者諸賢に、どんな「花」を感じていただけるであろうか。

(了)

 

やすらかにながめる、契沖の歌

小林秀雄先生が「宣長の自己発見の機縁」になったと明言する、江戸前期の真言僧にして古典学者である契沖(1640~1701)については、「本居宣長」の第六、七章で詳述されるのみならず、章を問わず言及されている。そのことに興味を覚えた私は、昨秋、彼が吸った空気を直に感じてみたいと、住持した妙法寺(現、大阪市東成区大今里)と隠棲した円珠庵(現、同天王寺区空清町)を訪れ、それぞれの場所の、往時の喧騒と静寂とに思いを馳せた。

そんな思いから、彼が生涯にわたって詠み続けてきた歌が収められた『漫吟集類題』(契沖全集 第十三巻 和歌、岩波書店)も入手し、六千首の和歌を、幾度となくながめてみた。ここで、敢えて「ながめて」と書いたのには理由がある。契沖が「万葉集」や「源氏物語」を前にして貫いた態度、すなわち、小林先生が「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直に見なければならぬ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.69)という態度にまねぶことが必須であると直覚したからである。

 

さっそく、契沖の歌を数首取り上げ、ながめてみることにしたい。

まずは、彼が身の回りの自然や、四季の変化を見つめ、感得したところの歌である。

 

音羽河おとはかわ きいれて植うる早苗にも 秋待つ民の 心をぞみる

(漫吟集類題 巻第五 夏歌上 1652)

水の色も 空に通へる 天河 星やは蛍 蛍やは星

(巻第四 夏歌下 1737)

秋は今 草の末葉うらばの 虫の音も 夜な夜な細き 有明の月

(巻第八 秋歌下 2988)

霜月の八日の朝、初雪の降れるに

鳥の音も 鐘も寝覚めの 後ながら 今朝驚くは 庭の初雪

(巻第十 冬歌下 3290)

 

青々とした水田に並ぶ早苗の緑に、農民の心持ちを、思う。

見渡せば、きらめく星と、蛍の光が、まじり合う。

か細い虫の音を耳にする夜、静かに浮かぶ、痩せた眉月まゆづき

そして、真白に一変した庭の景色に、はっと息を呑む朝。

契沖が、それらの事物を静かに見つめている姿が、その眼差しが、目に浮かんでは来ないだろうか。

 

肥後守ひごのかみ加藤清正に仕えた下川又左衛門元宜もとよしを祖父に持つ「契沖は、七歳で、寺へやられ、十三歳、薙髪ちはつ(坂口注:剃髪)して、高野に登り、仏学を修して十年、阿闍梨位を受けて、摂津生玉いくたま曼陀羅院まんだらいんの住職となったが、しばらくして、ここを去った」(同第27集、p.79)。

その後の消息については、高野山での修行時代から親交のあった義剛ぎごうによる「禄契沖師遺事」に詳しい。

「室生山(坂口注:奈良県宇陀郡から三重県名張市、一志郡にまたがる火山群)南ニ、一厳窟有リ、師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為オモヘラク、形骸ヲ棄ツルニ堪ヘタリト、スナハチ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニマミル、命終ルニヨシナク、ヤムヲ得ズシテ去ル」

何があったのか。徳川幕府による「寛永の諸大名の改易没収」の最中、特に豊臣氏に近かった家柄として自家の食禄を奪われる、という仕打ちへの憤りか。その影響を受け、わが兄弟も、まるで「さそり(坂口注:ジガバチの古名)の子」のように散り散りになってしまったことへの嘆きなのか。それとも、高野山の実態を認知したがゆえの幻滅か…

さておき、そのような、契沖の大いなる嘆きの数々を、もはやこれら四季の歌に見ることはできない。彼の眼差しは、ひたすら静かで、やすらかなのである。

 

続けよう。「漫吟集」のなかで、次に目が留まるのは、他人のかなしみに寄り添う哀傷歌である。おそらく寺の住持として日常的に多く見聞きしてきたのであろう。詞書もよく読んでおきたい。というのも、小林先生が、契沖と同様に、いわゆる隠士としての生き方を貫いた西行について書いた作品の中で「西行の様に生活に即して歌を詠んだ歌人では、歌の詞書というものは大事である」(同第14集、p.184)と注意を促しているからである。

 

娘を尼になしたる人の、その尼亡くなりて後、残れる衣を見て嘆くを聞て

脱ぎ捨し その着慣らしの 古衣ふるごろも 思ひも出し たち縫はずして

(巻第十二 哀傷歌 3840)

人の娘失へるを、ほとへ聞て、とぶらひつかはすに

亡き人に 頼むしるしの 忘れ草 花に咲てや 顔に見ゆらん

(同 3855)

捨て子多しときくころ

子を捨る 親の心や いかならん 返り見しつゝ 幾度いくたびか泣く

(同 5833)

 

契沖が見つめていたのは、事物や四季の運行だけではなかった。他人の哀しみもまた、静かに見定めていた。こんな歌があった。

 

ともしびを 人のためにと 掲ぐれば 心の闇も 残らざりけり

(巻第十一 釋教歌 3714)

 

小林先生が、「本居宣長補記Ⅰ」(『小林秀雄全作品』第28集所収)において、「この作の発想には、宣長の基本的な考えに、直ちに通ずるものがあると思われる」と言う、プラトンの著作「パイドロス」から引用し、ソクラテスが、宣長の言う「言霊」について語っていると紹介されている、こんなくだりがある。

「この相手こそ、心を割って語り合えると見た人との対話とは、相手の魂のうちに、言葉を知識とともに植えつける事だ、―『この言葉は、自分自身も、植えてくれた人も助けるだけの力を持っている。空しく枯れてしまう事なく、その種子からは、又別の言葉が、別の心のうちに生れ、不滅の命を持ちつづける』」

 

他人の哀しみに寄り添い、それを歌という言葉に変えて描写してきた契沖は、そういう行為を通じて、自らの大いなる嘆きを解かしていたのではあるまいか。のみならず、契沖の歌の言葉は、自らのこころの動きを、言葉にして詠んでもらった、その当事者たちをも助ける力となっていたのかも知れない。

 

さて、ここまでは、契沖の、生活記録と言ってもいいような独詠の歌をながめてきたが、数多の歌のなかでどうしても目に留まるのが、心友、下河辺しもこうべ長流ちょうりゅう(1624~1686)との唱和、いわゆる贈答歌のやりとりである。ちなみに長流もまた、契沖と同じように、武門の出でありながら、終には隠士として生きた人であったと言われている。

そんな二人の唱和は、長流が逝くまで永く続いた。小林先生も「本居宣長」本文にいくつか挙げているので、ここでは、そこには登場しない、唱和の姿をながめてみたい。

 

その桜を長流か伴ふ人、ふたりみたりして見に詣で来て、
暮れぬ、帰りなんと言へる折によめる
契沖

とめとめす 庭の桜に まかせしを 夕日に増る 花な見捨てそ

(巻第三 春歌下 1090)

かへし
長流

とくと見て 今日はたはれし 花の紐 夕べと聞けは なれしとそおもふ

(同 1091)

契沖の住持した曼陀羅院の花見に、長流が訪れ、とっぷりと日も暮れた時のことであろうか。私は、子どもの時分、友だちと夢中になって遊んでいて、屋外スピーカーから「夕焼け小焼け」の歌が流れてきたときの、切ない気持ちを思い出してしまった。

 

もう一つ、こんな唱和がある。二人は、離れた場所に住んでいた。

 

山住より、長流のもとへつかはしける
契沖

君といつ いほり並べて 中垣の 一木の梅を 二木ふたきとも見ん

(巻第二十 雑歌四 5626)

かへし
長流

我もいつ 庵並べて 松垣の ひまなく物を 君と語らん

(同 5630)

 

ここからも、小林先生の言うとおり「『さそりの子のやうな』境遇に育ち、時勢或は輿論よろんに深い疑いを抱いた、二つの強い個性が、歌の上で相寄る様が鮮かに見えて」は来ないだろうか。「唱和の世界でどんな不思議が起るか、二人は、それをよく感じていた。孤独者の告白という自負に支えられた詩歌に慣れた今日の私達には、これは、かなり解りにくい事であろう。自分独りの歎きを、いくら歌ってみても、源泉はやがて涸れるものだ」(同第27集、p.81)。

もちろん、自らのこころの動きを静かに見定め、それを言葉という道具を使って歌にする独詠という行為を通じて、激情は純化されよう。しかし、小林先生は、それだけでは足りない、と言うのである。

「めいめいの心に属する、思い解けぬ歎きが、解けるのは、めいめいの心を超えた言葉の綾の力だ。言葉の母体、歌というものの伝統の力である。二人に自明だった事が私達には、もはや自明ではないのである」(同p.82)

自らの魂の中に、唱和者の言葉を得た契沖は、長流に、こんな歌を贈っていた。

 

我をしる 人は君しも 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ

(巻第十八 雑歌二 5148)

 

小林先生は、こう自問自答している。

「長流が、契沖の唯一人の得難い心友であったという事実は、学問上の先輩後輩の関係を超えるものであり、おもうに、これは、契沖の発明には、なくてかなわぬ経験だったのであるまいか」(同p.83)

 

私は、こんなふうに、契沖の独詠を、そして、長流との唱和の姿を、幾度となくながめてみた。そうしてみたことで、契沖のこころの動きに、直に触れられたような気がした。そこにあるのは、日常の実生活の中で、やすらかに歌を詠み続けてきたという行為のみである。儒教的・仏教的な道徳規範による解釈や、既存の権威的存在からの伝授など、入る余地はない。契沖にとって、詠歌とは「師ニ随ツテ学バズ、義ヲシラベテ解セズ」(「厚顔抄」序)、「わが心を見附ける道」であり、「長流の知らぬ心の戦い」でもあったのである。宣長が師と仰いだ契沖の歌学は、このような心の戦いを続けながら、わが心を発見する道を歩んでいくなかで、築き上げられていったものではあるまいか。

 

先に小林先生の「本居宣長補記Ⅰ」から引いた応答に引続き、ソクラテスは、パイドロスに「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」という文言を繋げている。この言い方を借りるなら、契沖は、事物と向き合い、他人と向き合い、そして自分自身と向き合ってきた詠歌の経験を通じて「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」の大事を、そういう言葉の綾の力を、悟得するところがあったと言ってもいいように思う。その経験は、のちに契沖が、長流のあとを継いで「万葉代匠記」に着手し、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直に見なければならぬ」という態度、すなわち宣長が言う「大明眼」を開くことになる原体験でもあったのではなかろうか。

 

【参考文献】

池田雅延「小林秀雄『本居宣長』全景(八)『あしわけ小舟』を漕ぐ(上)」(本誌2018年1月号)

同「同(九)『あしわけ小舟』を漕ぐ(下)」(同2月号)

同「同(十)詞花をもてあそぶべし」(同3月号)

久松潜一「契沖」吉川弘文館 人物叢書

藤沢令夫訳「パイドロス」、『プラトン全集』、岩波書店

(了)

 

編集後記

本誌『好・信・楽』は、今号をもって、創刊一周年を迎えることができました。読者の皆さまはもちろん、これまで寄稿頂いた皆さまに、心から感謝申し上げます。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、駒木崇宏さんと橋岡千代さんに寄稿頂いた。

駒木さんは、小林先生の「本居宣長」の文章や講演での語りに接してみて、自身が抱いていた、国語という教科や文字というものへの嫌悪感に向き合い、それらが解消されていく様を、飾ることなく綴られている。

橋岡さんは、「宣長の森」の中を歩いてきて、「言語表現の問題」という「不思議な木」に出会った。そこで立ち止まり、子育てや詠歌など、実生活上での経験も踏まえ、小林先生がいうところの「意識」、さらには「もののあはれを知るとは何か」という認識論にまで思いを馳せておられる。

お二人の、「自問自答」の歩みは続く…

 

 

3月17日から二日間の日程で、塾生有志が、本居宣長記念館の吉田悦之館長による「宣長十講」の講義「宣長学に魅せられた人々」を聴講すべく、松阪を訪れた。今号では、その二日間について特集を組み、館長によるご講義や記念館でのお話、そして妙楽寺の奥墓を前にして感じたことを、四人の方に寄稿頂いた。

安達直樹さんは、吉田館長が松阪という土地に「宣長の魂」を伝えようとされている姿を見て、小林秀雄先生が「教師」について語った言葉を思い出し、教師と弟子の共鳴が、「倦まずおこたらず」連綿と続いていくことの大切さを感得された。

小島由紀子さんは、館長のお話の一言一句にこころ動かされるとともに、初訪問となる松阪の地で、野辺に咲くすみれのように、いたるところに在る宣長さんの姿を体感され、「必ずまた松阪へ、山桜の奥墓へ」と自らに誓われた。

新田真紀子さんは、此の地で聴く館長のお話ぶりの中に、宣長さんの肉声を聴き取られたようである。そんな今回の体験を、「まるで時間旅行をしているようだった」と表現する。

荻野徹さんは、宣長さんの全人格がほとばしり出るような館長のお話に触れて、小林先生がいう「歴史に正しく質問しようとする」姿を、しかと見て取られている。「広告」という体裁とともに味読頂きたい。

 

 

「人生素読」には、石川則夫さんに、諏訪紀行を寄せて頂いた。小林先生と交流のあった女将さんとのやりとりも含めて、みなとや旅館に宿泊されていた先生の姿が目に浮ぶようである。「諏訪には京都以上の文化がある」という、先生の言葉の持つ奥行きと幅の広さに、直に触れてみたくなった。

 

 

「美を求める心」には、伊勢根付職人である梶浦明日香さんが寄稿された。梶浦さんは、職人の置かれた現状を目の当たりにし、「自分のこととして」自ら職人の世界に飛び込み、歩み出された。その一瞬の気付きこそ、茂木健一郎さんが、巻頭随筆で述べられた「エピファニー」そのものであろう。加えて、一本一本の木に、命を頂いている、その個性と向き合うという気持ちは、まさに小林先生が、職人について語るときに大切にされていたものでもある。

 

 

そんな梶浦さんの原稿を読んでいて、小林先生が「眼高手低」という言葉について書かれた「還暦」という文章を思い出した。

「芸術家は、観念論者でも唯物論者でもない。心の自由を自負してもいないし、物の必然に屈してもいない。彼は、細心な行動家であり、ひたすら、こちら側の努力に対する向う側にある材料の抵抗の強さ、図り難さに苦労している人である。彼の仕事には、たまたま眼高手低の嘆きが伴うというようなものではない。作品が、眼高手低の経験の結実であるとは、彼には自明な事なのである。成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処そこには、どうしても円熟という言葉で現わさねばならぬものがある。何かが熟して来なければ、人間は何も生む事は出来ない」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)

 

本誌「好・信・楽」も、塾生一同でこれから少なくとも七年間は続けていく、山の上の家での「『本居宣長』自問自答」の取り組みとともに、「眼高手低」の歩みを進めてまいります。

読者の皆さまの、ご指導とご鞭撻を、引き続きよろしくお願い申し上げます。

(了)

 

クマガイモリカズは、考える葦である

「或朝の事、自分は一ぴきの蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきを這い回るが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向うつむきに転がっているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂がみんな巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった」

 

中学生の時に新潮文庫で読んだ、志賀直哉氏の「城の崎にて」のこの一節は、私の体の奥深くに息づいていて、今でも何かの拍子にそれを思い出すと、頭の中がひんやりとしてくる感じを覚える。その文庫の表紙絵が、熊谷守一氏による「赤蟻」だった。守一氏は、志賀氏との親交が深く、例えば「志賀さんとは生成会で何度か会いましたが、鳥や虫や生きものの話題になると話が合った。植物の話もなかなか詳しかったが、わたしほど詳しくはありませんでした」と言っている(「蒼蠅 新装改訂版」、求龍堂)。

 

 

昨冬は、12月から3月にかけて、東京国立近代美術館において、熊谷守一氏(1880-1977)の大回顧展「生きるよろこび」(以下、本展)が開催された(その後、愛媛県美術館に巡回)。加えて、池袋の千早にある豊島区立熊谷守一美術館(以下、美術館)も含め集中的に足を運んでみたので、感じてきたことを綴ってみたい。

 

1.「轢死」(1908年、岐阜県美術館蔵)

当時の東京美術学校(現、東京芸術大学)近くの踏切(現、日暮里駅付近)で目の当たりにした、女性の飛び込み自殺を題材とした初期の作品である。ただ、画面の劣化が激しく全面真っ黒の様相で、初めて観た時には、横たわる女性の姿など、すこしも判別できなかった。しかし、会場に通うたびに、その姿は徐々に浮かび上がり、4度目には、はっきりと見て取ることができたことは不思議な体験であった。事件当日に描かれたスケッチと合わせて観ていくと、画家がその場で受けた衝撃と、その後、見知らぬ女性の孤独な死を見定めていった心持ちが伝わってくる。娘のかやさんが、こんなことを書いていた。

「地面を這う蟻や、花に来る虻をじっと見つめて描いたと言われる守一ですが、結局はひとの生と死を見つめて描いたと思われる。人の生を大事にするから生きとし生けるもの虫や猫などにまなざしが行く」(「モリはモリ、カヤはカヤ」、白山書房)

画家は、志賀直哉氏が、屋根の上に横たわる蜂を見入るがごとく、その女性の死を、静かに見つめていたのではあるまいか、私はそんなふうに思った。

 

2.子どもたちの死

人の死を目の当たりにした、ということでは、守一氏が、幼い次男を亡くした、まさにその瞬間を衝動的に描いた作品「陽ノ死ンダ日」(大原美術館蔵)も忘れられない。あまりに哀しい画である。彼の嗚咽が聞こえてくる。初めて本作を目撃した私は、ただただ立ち尽くすしかなく、涙が溢れて止まらなかった。彼の言葉を引いておく。

「苦しい暮らしの中で三人の子を亡くしました。次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死に顔を描きはじめましたが、描いているうちに、“絵”を描いている自分に気がつき、いやになって止めました。『陽の死んだ日』です。早描きで、三十分ぐらいで描きました」(「蒼蠅 新装改訂版」)

 

さらに、守一氏は、1947年、67歳の時に、長女の萬も亡くしている。萬は、戦時中の学徒動員による過労がたたり、肺結核を患い寝たきりとなっていた。その病中の萬を描いた作品群も本展にあったが、私が、より心動かされたのは、美術館で観た「仏前」(1948年)という、萬の供養に捧げられた作品である。氏らしい黄土色を背景に、両脇には仏具のようなものが置いてある。中央には、漆黒の盆の上に、白い卵が三個。氏の庭飼いの鶏が産んだものだという。

ベタ塗りの、ただそれだけの画である。しかし私は、三尊像のように、凛として微動だにせぬ盆上の白い卵三個に、深いかなしみを見定めようとしている、画家の心の動きを感じた。それは、前述の「陽ノ死ンダ日」の衝動的なかなしみとは別種の、より深いところを静かにゆっくりと流れている波動のようなものである。自ずと私は、かなしみの卵に向かい、と掌を合わせていた。

 

3.二つの「ひまわり」

守一氏の作品は、年代による画風の変化も見どころである。そのことについて、本人は、このように言っている。

「私の絵が長い間にずいぶん変わってきているので、どうしてそんなに画風が変わったのか、とよく聞かれます。しかしこれには『若いころと年とってからでは、ものの考え方や見方が変わるので、絵も変わった』としか答えられません。自然に変わったのです」(「へたも絵のうち」、平凡社ライブラリー)

1928年に描かれた「ひまわり」という画があった。作品名とは裏腹に、くすんだ水色を背景に咲くひまわりの黄色は暗い。筆致もせわしなく、少々粗っぽくも見える厚塗りの油彩である。何かきっかけがあって衝動的に描いたものではないかと直覚したが、確認すると、前述の「陽ノ死ンダ日」と同年の制作であった。

一方、約40年後の1967年に描かれた「向日葵」(静岡近代美術館 大村明氏蔵)という作品もある。より明るい水色を背景に、四輪のひまわりは、花も葉も、単純簡明な形にデザインされたようだ。ただ、よく観ると、中央の管状花の部分が、一輪だけ、他のオレンジ色とは異なり黄緑色に塗られている。このことにより、絵全体にリズムが生まれ、ひまわりの生命感をいっそう感じさせる。昭和天皇が、守一氏の作品を観て「子供の絵か」と訊いたという話を、本人も披露しているが、ただの単純簡明とはいかない所もまた、守一作品の面白さなのである。

例えば、後年になると、いわゆる「影」を意識的につけた作品は少なくなる。一見平板に見えてしまうのである。しかし彼は、その理由について、こう語っている。

「影がたくさんありますわね。あの影をよしてしまうんですわ。色の寄せ集めでけっこう代用すると思います。実際影ってものは、陰気なもんでしょう。そこを影のない色を寄せ集めれば、困るほど影が出てくる。そのほうが、実際の影より陰気じゃないですわ」(「ディアローグ・1」『みづゑ』第780号)

 

4.熊谷守一の書

守一氏は、多くの書も残した。

美術館に「古佛坐無言」(1975年)という書があった。じっと眺めていると、字の全体が古佛と化し、黙々と只管しかん打座たざしているように見えてくる。私が目にしたものは、もはや外形的な文字の形ではない。むしろ書の内面から浮き上がってきた、性質情状あるかたちとも呼ぶべきものである。

書について、守一氏は、こんなことを語っている。

「何時だったか、わたしに信心の心があるかって聞かれたことがあります。実際に仏様を拝んだり、地獄極楽の世界を信じたりするのでなしに、こういうのが信心かなと、自分の心に思うことはよくあります。そういう意味では信心の心があると思います。『南無阿弥陀仏』の字にしても、信心があるのとないのと、書いた人で違います。見ればわかります」(「蒼蠅 新装改訂版」)

揮毫に臨み、題材となる字を聞いて「自分の心に思うこと」を、性質情状として、文字に表したのが、まさに彼の書なのであろう。「かみさま」、「すずめ」、「なのはな なのはな いちめんの菜の花」など、揮毫のすべてが、そのように出来上がっているように感じる。

ちなみに、志賀直哉邸(渋谷区東)に掲げられていた扁額「直哉居」も、守一氏の手になるものであった。

 

5.喜雨(制作年不詳)

1956年、76歳の時、守一氏は軽い脳卒中の発作を起こした。この頃から、外出も叶わなくなり、千早の自宅内だけが、すべての活動の場となった。したがって、後年の作品の題材に、元々好んでいた、猫や鳥などの動物や、蟻や蝶などの昆虫、そして草花が多くなるのは自然の流れでもあった。本人によれば、「遅い昼食のあとは夕方まで昼寝です。以前はよく庭にむしろを敷いてそこに寝ました。地面の高さで見る庭はまた別の景色で、蟻たちの動きを見ているだけで夕方になったときもあります」という。

写真家、土門拳氏に師事した藤森武氏は、最晩年の守一氏を撮影された方で、当時の守一邸について、このように言っている。

「庭もとても小さいんですが、先生が掘った深い池があって、僕は見た時、防空壕の穴かと思いました。もうだいぶ水が枯れてしまいましたが、魚なんかもいたらしいです。その掘った土が大きな築山になって、先生はその下にムシロをしいて寝転がって、虫や鳥を観察するんですね。『蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだよ』と言っていましたが、築山から降りてくる様子をじっと見ていたからわかったんじゃないかと思います」(「目の眼 2018年2月号」、目の眼)

守一氏は、もはや蟻や鳥を観察しているのではなく、自らが庭の動植物と化していたのだろう。少なくとも、観察されていた蟻には、そのように見えていたに違いあるまい。そうでなければ、家ネズミを飼い馴らすことなど、通常の人間には至難の業であるからだ。確かに彼は、人間というものに対して、こんな懐疑の念を表明していた。

「人間というものは、かわいそうなものです。絵なんてものは、やっているときはけっこうむずかしいが、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし人は、その価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです」(「へたも絵のうち」)

 

そんな守一邸の跡地に建った美術館に、「喜雨」という素描があった。作品名の通り、6匹の蛙が、慈雨を喜んでいるという、単純簡明なものだ。大ざっぱな鉛筆描きにも拘わらず、蛙たちが喜び踊る様を観ていると、何故かこちらまで心が浮き立ってくる。観ると、感じると、動くが一体化したような、その不思議な感覚は、仮に、守一氏が「喜雨」と揮毫した書があったとして、それを観て直覚するものと同じものなのであろう。

私は、そんなことを思いながら、彼の、こういう言葉を思い出していた。

「川には川に合った生きものが棲む。上流には上流の、下流には下流の生きものがいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きた方が、世の中によいとわたしは思うのです」(「蒼蠅 新装改訂版」)

「私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄にはいって、一番楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません」(「へたも絵のうち」)

 

彼にとって、自宅から外出できないということは、制約でも、監獄でもなかった。むしろ自宅や庭にあった小さな森には、限りない宇宙が広がっていた。そのなかで、愛する動植物たちとともに棲んだ熊谷守一は、見て、感じて、考え、描いた。かつ、それらの動きは、すべてが同時性をもって一体化していたように思う。

 

 

「人間は考えるあしだ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では、葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一たまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。

パスカルは、人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。そう受取られていさえすれば、あんなに有名な言葉となるのは難しかったであろう」

 

これは、小林秀雄先生の「パスカルの『パンセ』について」という作品の中の言葉である(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。難しい文章であり、頭ではわかったつもりでも、その理解に、うまく身体が付いていかないことを、ずっともどかしく覚えていた。今回改めて、熊谷守一氏の作品や言葉と、じっくりと相まみえてみたことにより、そこで小林先生が言わんとしたところを、体感できたように思った。

私は、確信した。クマガイモリカズは、考える葦であると。

 

 

私たち塾生にとって大切な学び舎である、小林先生の旧居、山の上の家の応接間にも、そんな守一さんの書が掲げられていた。その書は、先生が京都の骨董屋で一目見て気に入り、貰ってきたものだという。多くの来客を迎えてきたその書の白地は、今では、煙草の煙で茶色に変色してしまっている。そこには、こんな言葉が、書かれていた。

 

「ふくはうち をにはそと」

 

 

【参考文献】
* 「別冊太陽 小林秀雄」(平凡社)
* 「目の眼 2018年2月号」(目の眼)

 

【参考情報】
愛媛県美術館「熊谷守一 生きるよろこび」 4/14(土)~6/17(日)
豊島区立熊谷守一美術館「熊谷守一美術館33周年展」 5/11(金)~6/24(日)
志賀直哉旧居(奈良市高畑町)
 ご遺族から寄贈された扁額「直哉居」が、入口に掲げられている。

(了)