ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その六 蓄音機の一撃~ジネット・ヌヴーと出会った夏

 

いつだったか、電話を寄越した勤務先の若い職員が、その通話の最中に唐突に言いだしたことがあった。

「おつかれさまです、センセエ、あの、明日の打ち合わせのことなんですが…………あの、スミマセン、その、後ろで鳴ってるの、なんですか」

蓄音機の音は格別だ。受話器越しでもわかってしまう。気の毒に、以来彼は、蓄音機という得体の知れない機械に心を奪われたままのようで、今でも顔を合わせればその話だ。早く買えばいいのにと思うのだが、何を恐れているのか、なかなか買わない。

私自身の蓄音機との出会いも同じようなものだった。もう三十年も昔のことだ。

夏の最中の夕暮れ時、私は下駄をつっかけてアパートを出た。煙草を切らしたのだったか、夕涼みがてらにぶらぶら歩く路地裏の、傾きかかったような三軒続きのひと部屋から、それはとつぜん聞こえてきた。ヴァイオリンか。だがそんなことが問題でもなかった。なにか非常に濃密な、手でつかめそうな音があふれ出していたのである。私は、植物の生い茂った小さな庭越しに、開け放された縁側を見た。薄いカーテンに電球の灯り、外から透けて見える小さな部屋の、いったいどこで鳴っているのか。あたりを領するような、それでいてむしろ静かな、そんな不思議な音……。

ふと、カーテンがめくられ、四十くらいの男性が半身を現わした。

「いい音でしょ。聴いていかれません?」

気づかれて私はうろたえたが、いいんですか、ありがとうございます、ではちょっと……促されるままに庭に入り、縁側にあがりこんだ。庭には茄子が生り、トマトが植えられ、向日葵が丈高く育っている。人のよさそうなメフィストフェレスは関西弁だった。

「知っとる? 蓄音機」

「いえ……」

「針、付け替えんねん」

彼が針を外しにかかると、そのごそごそいう音が、もう部屋いっぱいに鳴るのである。そして新しい針をとり付け、クランクを回してゼンマイを捲き、針をそっと下した。レコードと針との摩擦音が「ちりちりちり」と鳴って、これも部屋を満たす。すぐそこで鳴っているのだけれど、どこで鳴っているのかわからない。既に空間は変容しはじめている。まもなく、舞曲風のピアノの旋律が鮮明繊細に奏でられ、そこに突然、ヴァイオリンが鳴り渡った。緻密で伸びやかな、圧倒的な弦の響き。これはなんだ。聴いたことがない。しかしなんという郷愁……世界は一変した。

異様な興奮のなかで、これならわかる、と私には思われた。何が? それはよくわからない。よくわからないが、レコード一面の演奏が済んで、自分の人生が、新たな次元に入り込んだことは確かであった。

「ジネット・ヌヴーや。知らん?」

「いや、クラシックはあんまり……」

「知らんか、そやけど関係ないやろ?」

「関係ないですね、すごいもんです」

「今日はこの人の誕生日や、8月11日、70歳。ボクひとりでお祝いしとったんよ。もっともこの人、30で亡くなったからなぁ……飛行機事故や」

私はビールを買ってくることにした。

「ハバネラ形式の小品」というラヴェルの曲だと言っていた。が、私は果して「音楽」を聴き、それに感動したのだろうか。どうも怪しい。そんなことよりも、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストにまさしく出会った、その奇妙な感触の方が確かだ。彼女は間違いなくあそこに現れた……ジネット・ヌヴーという、かつて存在したヴァイオリニストによる、疑う余地のない、それは強烈な一撃だった。

 

小林秀雄は「演奏会の聴衆」について、「これはもうはっきりした或る態度を持って、音という事件に臨んでいると言えるだろう」と書いている。「演奏会の聴衆」と「レコード・ファン」とを対比させた文脈だ。「レコード・ファン」は「いつも同じ音を発する機械」に対して「全く受身な知的な且孤独な態度をとらざるを得ない」。しかし「演奏会の聴衆」はというと、それは「音という事件」の渦中にいるというわけだ。

「音という事件」、それは演奏というものの一回性を示唆している。ライヴでの演奏家は、白紙にも喩えられるべき「無」をその立脚点として、自らのそれまでの人生を賭した演奏を、線と形と色彩として、不可逆性の裡に描き出さねばならないのである。その宿命に服するように、レコーディングを拒み、ひたすらライヴに賭けた演奏家もいる。自ら「ノー・レコード・カタログ」と称したフィリップ・ニューマンなどはその典型だ。他方、苦しい格闘を強いられた演奏家もいるのである。ウラディミール・ホロヴィッツはその全盛期の12年間、ステージに立つことができなかった。グレン・グールドは遂にステージを去ってスタジオに籠ってしまった。厳格な一回性を強いる純白の舞台は、最高度の実現を可能にする条件であると同時に、第一級の演奏家にとってさえ、いや第一級であればこそ、想像を絶する危機的な場所でもあるらしい。そう気づかされて、粛然とする。人生の一回性という決定的に切迫した真実、人は、虚無にも誘われかねないこの真実から眼をそらすべく、現世に集中するという「知恵」の発動を許されているが、演奏家は、むしろその現実に敢えて直面すべきことを強いられている、といっていいだろうか。いずれにせよ、演奏家はその一回性における高次の達成という使命に挑み、聴衆は演奏会場でその現場に立ち会い、演奏家の人生と己の人生との感動的な交点を幻想しつつあるのである。

 

ところで、古いレコードを蓄音機で聴く「レコード・ファン」の体験は、もとより反復可能なものに相違ないが、彼らは、それがあたかも一回性のものであるかのごとき感慨の裡にいるもののようだ。言い換えれば、おそらく彼の胸は、この演奏がかつて行われたのだというその歴史的一回性に衝きあげられているのである。それを「音という事件」と呼ぶことに私は躊躇しない。彼は今や「レコード・ファン」の特権であるはずの「知性」を、演奏を対象化し冷静な分析を試みる賢明なる「知性」を奪われている。それはおそらく、蓄音機によって再生されるのが、音楽そのものであると同時に、その演奏家の肉体であり、またその時間その空間でさえあるからだろう。彼はその時空にさらわれて、演奏家その人に出会っていないともかぎらないというわけだ。

小林秀雄が勘違いしているのではない。生きた時代が違うというに過ぎない。なにしろあの頃のレコードといえば、おおむね同時代の演奏家のその演奏の記録であったのだから。たとえば音楽青年小林秀雄が蓄音機で聴いていたに違いない、ミッシャ・エルマンやフリッツ・クライスラー、ジャック・ティボーといった、歴史に名を留めるヴァイオリニストたちは、その全盛期に日本を訪れ、小林秀雄は「その都度必ずききに行った」し、「それは又見に行く事でもあった」と述懐するのである。ところが、言うまでもないことだが、かかる人々の演奏は、今日の我々にとっては、既に過ぎ去った遠い時代の記憶なのである。加えて、エルマンもクライスラーも不世出だということがある。最早優れた音楽家は出現しないなどといいたいのではない。そういうことではなく、彼らは「最初の」演奏家なのだ。彼らこそが、今日のすべての演奏家の原点であり、例外なく、切実な動機をもって、人生を賭けて時代を拓いたのだ。そして、そういう人々に対する敬意が、私に蓄音機のゼンマイを捲けというのである。

ところが、「でもやっぱりナマには敵わないでしょう?」という問いを、私は幾度も受けてきた。蓄音機愛好家であるという私に対する、これは一種の反駁なんだろうと思う。しかしながら、蓄音機で聴くのと演奏会で聴くのとでは、今日では、その経験の意味がまるで違っている。双方のあいだには単純な比較を拒絶するものがあるのである。

言うまでもなく演奏会は楽しい。そんなことはわかりきったことである。この私にしても、演奏会一般の楽しみを否定することなどありえない。習いたての子供らの「スリリングな」ピアノ発表会であっても、演奏会は楽しい。近所の小さなお嬢さんなら、その盛装に応じて、こちらもきちんとネクタイを着用し花束なども拵えて、いそいそと出掛けようかというものだ。まして一流の演奏家が、蒼ざめた面持ちで、覚悟を決めて白紙に臨む、そんな、まさしく一回性の演奏会に立ち会えたなら、それは一生の宝である。

ところが蓄音機で音楽を聴くというのは、そのような時空の共有などもはや叶わぬ過去への、想像力の飛翔なのである。失われたはずの過去との思いがけない邂逅、それは歴史に推参する契機をさえ与えてくれると言っても、あながち誇張ではないであろう。

 

書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない。

(小林秀雄「読書について」)

 

レコードを聴くことと書物を読むこと、これらをすっかり同じだということはできないかも知れない。しかしながら、書物なりレコードなりを介して、その向こうにいる人間に出会い得るという点ではよく似ているだろう。ヴァイオリニストから出て来たものを、再び元のヴァイオリニストに返す事が、レコード音楽を聴く技術の全てであるか、そういう問いは残るが、元のヴァイオリニストが、ふと見えてしまうということ、少なくともそんな気がするというくらいのことなら、それはどうやらありそうだ。

二十代も終わりにさしかかったあの夏の宵、私は、蓄音機が再生するジネット・ヌヴーの音楽に身を委ねながら、まったく未知の人である彼女に邂逅したと思ったのだった。それは、レコードを通して、既に亡いジネット・ヌヴーに思いを馳せたというようなことではなかった。彼女は蓄音機によって再生される音の最中に、たしかにいたのであった。かくして死者は、あるいは過去は、現在に持続するのかも知れない。そしてそれは、失われたはずのものでもある。その狭間に私どもは置かれ、救済されながらも翻弄されて、せつない思いにとらえられる。蓄音機の音楽は、いつも、哀しみのような感動を連れて来る。

(了)

 

杉本圭司『小林秀雄 最後の音楽会』(新潮社刊)

何年か前の夏、杉本さんにご足労いただいて、私が講師を務めている予備校の受験生、特に浪人生諸君を相手に講演してもらったことがあった。そこで杉本さんは「小林秀雄、小林秀雄」と「連呼」され、小林秀雄へのこの傾倒ぶりは、これはどうやら三浦どころの段ではないぞと直観した生意気盛りの聴衆に、ただちに冷やかされるところとなった。この「連呼」の意味するところ、それは本書「あとがき」に著者自身が書かれている。

もとより聴衆の印象は「連呼」に止まるものではなかった。必ずしも順潮ならざる青年期を経て、ようやく小林秀雄を読むというその事に志を定め、その一筋に連なって今日まで来られた、その半生を回顧し織り交ぜられての講演は、受験失敗という挫折とともに、思いがけず自らの人生について考えることになってしまった浪人生諸君には、今日の自分に思いをいたす契機となり、明日の励みとなったことである。

己を語って「私」を主張せず、ただ聴衆とともに感じ考えようとするかのような杉本さんの語りは、その風貌と「小林秀雄」の名前とともに、しばらくのあいだ教室の語り種となった。翌年も講演をお願いした。そのときには、大学生となった前年の聴衆らによって、「杉本先生」は、半ば伝説のようになっていたものである。

杉本さんは、2013年、小林秀雄没後三十年の年に、「契りのストラディヴァリウス」で眼の覚めるようなデビューを果たされ、本年9月、それを開巻劈頭とする『小林秀雄 最後の音楽会』を上梓された。それは本当に待ち望まれたことであった。その記念の書評をとのことで身に余る光栄だが、仰ぎ見るようなこの著を評することは私には難しい。その山麓を逍遥しょうようするくらいのことで勘弁していただきたいと思う。

 

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1951年秋、戦後初めて来日した大物ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインの演奏に接した小林秀雄は、その感慨を「あなたに感謝する」と題してただちに『朝日新聞』に書き(現題「メニューヒンを聴いて」)、年明けには「ヴァイオリニスト」という小論において、「私は、ヴァイオリンという楽器が、文句なく大変好きなのである」と告白した。ヴァイオリンばかりではなく、小林秀雄の傍らには常に音楽があったのだが、その最晩年、亡くなる一年前の入院療養前後にはまったく音楽を聴こうとしなくなったのだそうだ。それは、音楽とともにあった小林秀雄の文学的生涯の終わりを示唆していた。

しかし「亡くなる二ヶ月前の或る夜、小林秀雄は、もう一度、音楽の方へ振り返った。病院から自宅に戻ったその年の暮れ、テレビで放映されたユーディ・メニューインの演奏会を、彼は最後まで聴いた」と、本書の第一部「契りのストラディヴァリウス」にある。

それが小林秀雄の「最後の音楽会」だ。戦後まもなく、知命五十歳になんなんとする頃、メニューイン奏でるストラディヴァリウスの音に「あゝ、何んという音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」と感激した小林秀雄は、八十年の生涯を終えようとするとき、あたかも惑星の軌道が交差するかのように、再び恩人メニューインに邂逅したのであった。

感傷をそそのかされかねない逸話である。しかし杉本圭司の眼には、そもそも単なるエピソードとは見えていないのである。彼はいつもそうだ。彼はしばしば沈黙するが、そんなとき、彼は偶然と見える光景の底に、宿命の気配を看取しつつあるのである。

たとえば。小林秀雄がベッドから起きて来て妻と聴いたという「最後の演奏会」のプログラムである。ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、それにフランクのイ長調ヴァイオリン・ソナタ。杉本圭司はこれを、「私」を去って凝視する。すると、このプログラムが、濃密な時間性と立体性を帯びて、思いがけない相貌を浮かび上がらせるのである。

これらの衛星とその配列は、小林秀雄という天体の骨格を示唆しているかのようだ。第一曲には「観念と形」の問題が映し出され、第二曲では「美」とその倫理性が語られる。そして第三曲はまさしく「宿命」であるか。セザール・フランクという名とその曲には、「共に『辛い文学の世界』を彷徨ほうこう」する「痛ましい宿命」を分かちもった河上徹太郎との、さらには富永太郎、中原中也らとの記憶がつき纏うのである。だとすれば、三十一年前の「あなたに感謝する」には「バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった」と書いた小林秀雄だが、この「最後の音楽会」でも、同じような思いの裡に、「ブラウン管に映し出されるストラディヴァリウスの共鳴盤を追って、満ち足りていたのだろうか」。

 

考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる。そういう経験をいう。

(小林秀雄「考えるという事」)

 

杉本圭司もまた、そういう意味合いで一筋に考える。そして動かし難い確信に逢着する。

 

富永太郎が夭折した十二年後、中原中也は三十歳の若さでこの世を去り、河上徹太郎は、昭和五十五年九月二十二日、七十八歳でその生涯を閉じた。そして昭和五十七年十二月二十八日、秋雨の降る日比谷公会堂から三十一年後、ブラウン管の中で、ふたたび、第三楽章レチタティーヴォ・ファンタジアが嬰ヘ短調のコーダに沈む。「バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった」はずはない。

(「契りのストラディヴァリウス」)

 

どうでもよい事であったはずはない。かくして小林秀雄と音楽について考えることは、そのまま小林秀雄の人生とその相貌について思いを致すことに連なるのであった。

 

さて、小林秀雄と音楽といえば、やはり作品としても音楽家としても「モオツァルト」が思い出されるだろう。さらにいえば、作品「モオツァルト」で語られている「僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」というあの話か。「街の雑沓の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った」。そして自ら問う。「一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、その頃よりよく理解しているだろうか」「あの頃、僕には既に何も彼も解ってはいなかったのか。若しそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいるという事になる」。杉本圭司によれば、この自問自答が「全十一章にわたるこの作品の全篇において繰り返されている」のである。

ただし、「モオツァルト」執筆の直接の動機は、「道頓堀の経験から十四年経った昭和十七年五月、当時、伊東に疎開していた青山二郎の自宅で聴いたニ長調弦楽クインテットのレコードによって与えられたものであった」。

 

僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明晳めいせきな形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。

(小林秀雄「ゴッホの手紙」)

 

「無定形な自然」に映りこんだ「精巧明晳な形式」として、いわば無時間の相をもって実存する「聴覚的宇宙」。杉本圭司はこの「聴覚的宇宙」を、「ドストエフスキーの『至高なる刹那』としての意識の臨界点、少なくとも、これと本質的なアナロジーを持つ経験であっただろう」という。「言わば、それは、調であった」とも。そしてそれは「無常という事」の冒頭に現れているのである。

 

突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたった。

(小林秀雄「無常という事」)

 

杉本圭司は、俊敏な遊星となって惑星のあいだを経廻りながら、ひとつのコスモスを織り上げようとするかのようだ。遊星はこのあと、小林秀雄の人生にとって最も切実な経験に違いない母の死に立ち止り、モオツァルトとの間を往還しつつ、ベルグソンに赴く。そしてプルーストの「超時間(エクストラ=タンポレル)の存在」を経て、「他者の記憶が己れの記憶の裡で鳴り、他者の歴史が己れの歴史の裡で思い出される精神」というべき「小林秀雄の批評精神」に到達するのである。

 

小林秀雄は、批評家としての己れの『時』を見出したのだ。そして以後、彼が歩み始めた道は、嘗て「時間」の問題に直面したベルクソンが、自らの哲学的方法の開眼について述べ、それを受けて書いた小林秀雄の言葉を借りて言えば、「失われた時を求めて」、前人未到の道であった。

(本書第二部「小林秀雄の『時』 或る冬の夜のモオツァルト」)

 

私には、杉本圭司もまた、小林秀雄という巨星の軌道を追って、その孤独な「前人未到の道」を辿りつつある人とみえる。

 

その小林秀雄が親身に交わり、己が身に感じて生きたところの巨星は、たとえばドストエフスキーであり、モオツァルトであり、ゴッホである。そして「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」というこの批評家の「道」は、ゴッホを巡る「螺階的上昇」を経て、「『ゴッホの手紙』を擱筆しようとしていた小林秀雄が、ついに『批評的言辞は私を去った』と自覚した瞬間に開けた道であった」。それは、常に音楽とともにあり、「『何よりもまず音楽を』(ヴェルレーヌ)とねがう抒情詩人の血を引く文学者の一人であった」小林秀雄が、「主題を叩き付けるように提示し、コーダに向かって一直線に邁進する」ベートーヴェンのダイナミズムから、「主題が和声の細緻な網の目に織り込まれながら、紆余曲折の裡に進展する」ブラームスの書法へと旋回する決定的な契機だったのである。

「本居宣長」を「ブラームスで書いている」と言った小林秀雄の境地が、本書の第三部「ブラームスの勇気」で開示される。「自身の音楽の価値に対しても極めて懐疑的」で「過去の巨匠たちの音楽への憧憬と尊敬を生涯持ち続け」たブラームスを、小林秀雄は「あいつ」と呼ぶ。そして独りごちるのである。「誰がわかるものかい、ブラームスという人のね、勇気をね、君。……」。

 

周りからは擬古典主義、ベートーヴェンの二番煎じと揶揄されながらも、ベートーヴェンが残した偉大な足跡と労苦を辿り、ベートーヴェンが実現した音楽の意味を理解し、これを我が物とするところに自らの喜びを見出そうとした。言わば、「述べて作らず、信じて古を好む」の道を行くことが、作曲家としての自らの使命であり宿命であると自覚した人であったのだ。

(「ブラームスの勇気」)

 

小林秀雄にとってブラームスは同志であった。「本居宣長」の執筆という「孤独な仕事を続けるために、彼がその都度、ブラームスから『勇気』をもらい続けた」。もっとも「それはあくまで彼の晩年の書斎の中だけで生起した、この作曲家との内奥の交感の軌跡」である。だから小林秀雄はブラームスについて、「ついに一行も書き残さなかった」のではないか。

そう書き記す杉本圭司もまた、自らの使命と宿命を自覚し、たびたび小林秀雄の著作を繙いては、意志と忍耐と勇気というものを学んできたに違いないのである。そうでなければ、メニューインのヴァイオリンに再会し、フランクのソナタで来し方を回顧し、セザンヌの「どんな宗派にも属さぬ宗教画」の前へと天体の軌道を閉じていった、小林秀雄のその末期に至るまでの長い旅路を辿りぬくことはできなかったであろう。

辿りぬいて、小林秀雄という、複雑で豊富な軌道を包摂した天体を、そのまま我々にも親しい大地の存在に返してくれる人を、我々は、ずいぶん長い間待っていたような気がする。小林秀雄を、巧みに解釈し、簡潔に要約したり抽象したりして、小林秀雄という人間とは凡そ隔たる像を作りあげ、それを讃えたり難じたりする、そういう「知的」な人達はたくさんいたが、そういうことにはもううんざりしていたところだ。

 

批評は原文を熟読し沈黙するに極まる。

(小林秀雄「正宗白鳥の作について」)

 

杉本圭司に教わったことの第一は、この「熟読」である。それは敬意と信頼によってのみ支えられる無私の行為なのだ。小林秀雄は、批評について、「主張の断念という、果敢な精神の活動」だと言う。そして杉本圭司は、その系譜を、いま、たしかに継いでいる。

 

ところで、小林秀雄の「最後の音楽会」の最後の音楽、新聞テレビ欄にも「ほか」とあるだけで知り得なかったはずのその日のアンコール曲は、どうやらブラームスだったらしい。それが奏でられた刹那……いやいや、ブラームスだと知れただけで充分だ。余計な空想などはやめておくのが賢明である。

 

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杉本さんの言葉に耳を傾けていると、それまで茫漠としていた小林秀雄という銀河の星々が、ひとつひとつ輪郭をもってあらためて発見され、また相互に連なって、太陽系のような惑星系をいくつも構成しはじめる。それが我々の、地上の世界の秩序となり救済となって、小林秀雄を読もうか、という気にさせてくれる。そういう意味でも、この『最後の音楽会』は、本当の教養の書だ。

「小林秀雄連呼」の翌年だったか、予備校でお願いした講演の中身は、まさにブラームスの「勇気」についてであった。杉本さんは、小林秀雄が最後に聴いたであろうブラームスのアダージョを、メニューインの演奏で聴くというプログラムをもってしめくくりとされた。

私は教室の外に出てそれを聴いていたのだが、廊下にも伝わり来る聴衆の静寂には、なにか格別なものがあった。それはなにも学生諸君が、ブラームスの、本音を思わずほとばしらせたというようなあの旋律に、感傷を誘われたということではなかったと思う。

小林秀雄を読むことに魂を打ち込んできた杉本さんであるから、「最後の音楽会」に隠された「ブラームス」という、驚くべき秘密に漕ぎつけられたのだ。それが学生にもわかったのだ。ブラームスのような無私を得んとして本居宣長に従った小林秀雄が、その人生の最後に聴いたのが、他ならぬブラームスだった。これはもう偶然なんかではない。そういうことだったのだ。それを発掘するのは、やはり無私に徹して小林秀雄を読みぬき、語り、知らず知らず天命に従って半生を生きて来られた杉本さんを措いて他にありえない。そしてすべてはまったき調和を得てコスモスへと昇華したわけだ。

杉本さんがブラームスのアダージョに邂逅した時にすべては完結していた。このたびの出版はその記念である。と同時に、いて三十有余年、ようやく本当の小林秀雄研究の地平が拓かれる、その黎明を告げてもいる。この一冊は、私には生涯の座右となるが、彼はさらに、「螺階的に」上昇しなければ済まないであろう。

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その五 パリのヴァイオリニスト~ジネット・ヌヴー

 

新しい靴かチョコレートか……靴にしろと親父はいう。チョコレートは食っちまえばそれで終わりだ。だが、その、食っちまえば終わりのチョコレートこそが13歳の少年を魅惑するのだ。困惑のあまり彼は泣きだした。主催者は、身体は逞しいがどうにも幼い、アルジェリアからやって来たらしいこの少年に、靴とチョコレートの両方を手渡して片目をつぶった。KOできるのに攻め切れなかった。優しい子だ。だが、たしかにいいパンチをもっている。こいつは強くなるぞ……マルセル・セルダンの初めての「ファイト・マネー」である。

カサブランカでの「デビュー」から十数年、セルダンは連戦連勝のプロボクサーになり、アフリカ北部に駐留した連合軍の兵士らによって、その「怪物」の噂は大西洋を越えた。北アフリカだけじゃない、ヨーロッパでも敵なしさ。前のめりの凄いファイターだ。負けたのは二回きりでそれも反則負け、もう百勝以上も稼いでいるらしいぜ。ウェイト?ウェルターかミドル。ミドルならトニーが相手だ。鋼鉄の男トニー・ゼール。さすがにトニーには……。

1948年9月21日ニュージャージー州ジャージーシティ、「伝説」は「歴史」になる。鮮烈な左フック、かろうじて立ち上った王者トニー・ゼールだが、次の第12ラウンド、開始を告げるゴングが鳴ってもコーナーに座ったままだった。チャンピオン・ベルトははじめてフランスにもたらされた。パリは熱狂した。セルダンこそ英雄だ。あのカルパンティエが出来なかったことをやったんだ。

ところが初防衛戦には敗れてしまう。1949年6月デトロイト、「レイジング・ブル」のジェイク・ラモッタ戦であった。激戦最中に肩を負傷、肝心の左が使えない。そして第10ラウンド、試合の続行は、最早不可能だった。

むろん、このままでは終われない。セルダンは再戦を望んだ。そして新チャンピオンはそれを受け入れた。勝つか、死ぬかだ……セルダンは、雪辱のチャンスに恵まれた喜びをそう表現した。

 

セルダンに会ってはいけない、あなたがいないと何もできない男になってしまうから……占い師にそう言われた。「だから彼から離れないの」。エディット・ピアフは男から離れられない女だ。そして離れずには済まない女だ。

パリ20区ベルヴィル地区の路上で生まれた女。アクロバットの大道芸人とカフェを流す歌手が両親だったが、若すぎる母親に棄てられて、祖母の手で、ノルマンディーの娼婦の街で育てられた。ある日突然目が見えなくなった幼い彼女に、たくさんの歌を教え、光が戻るように祈ってくれたのは娼婦たちだ。やがて奇跡のように視力が戻り、貧しい街角で、小さなからだを震わせて、雀のように歌っていた。

そんな彼女にも幸運は廻って来た。二十歳になる頃だ。シャンゼリゼ通りでナイトクラブを経営するルイ・ルプレの目に留まり、その店「ジェルニーズ」で歌えるようになった。ピアフという芸名はルプレにつけて貰ったものだ。翌年にはレコーディングもした。それからたくさんの恋をし、別れ、その度に泣いた。彼女にとって恋は、いつもひとときの、せつない、悲しい物語だった。

悲しみに暮れて歌うピアフに、パリは喝采を贈り続けた。彼女の歌には人生の真実がある。コクトーもボーガットもピアフのために書こうと思った。

たくさんの歌手を育てもした。イヴ・モンタン、シャルル・アズナヴール、ジルベール・ベコー……。イヴ・モンタンとの出会いは、パリ解放の1944年、モンマルトルのムーランルージュだった。この子はうまくなる。共演者に抜擢し、アパルトマンの部屋に呼び入れて、一緒に暮らして歌を仕込んだ。そして稀代のシャンソン歌手イヴ・モンタンが誕生した。と同時に、ピアフは身を退こうと思った。彼と暮らした日々―薔薇色の人生! それは郷愁ではない。楽観でも、希望でさえもない。決意である。私はこの人生をこそ薔薇色だというのだ。

 

ある晩、楽屋にやって来たのは、がっしりした体格の、優しい目をした男だった。なぜ悲しい歌ばかり歌うんだい? なぜ人を殴るの? ピアフは欧州チャンピオン、マルセル・セルダンを知っていた。それからは毎晩のように手紙を書いた。

その後、セルダンはアメリカで世界チャンピオンになり、まもなくアメリカでベルトを失う。雪辱を期したリベンジ・マッチはニューヨーク、1949年12月2日に決まった。

「はやく会いたい。飛んで来て」。試合までにはまだ日があった。セルダンはニューヨーク近郊に籠って、人生を賭けた一戦に万全を期すつもりであった。途を急ぐわけではないのだが、ちょうどニューヨークにいたピアフの、その電話の声には、なにか胸がしめつけられるものがあった。航路の予定を急遽変更し、オルリー空港に向かった。はやく行ってやらないと。

しかし、ピアフは既に「別れ」を思っていた。彼にはカサブランカに家族がある。いつまでも一緒にいてはいけないのだ。彼が世界チャンピオンに返り咲くとき、そっと彼から離れよう。それは別離を急ぐかのような電話だった。「もう待っていられない」。この青空が崩れ落ちても、この大地が割れてしまっても、あなたの愛さえあれば、わたしはかまわない……《愛の讃歌》は、本当は「おわり」の歌だ。あなたが死んで遠くへ去っても、あなたの愛があるなら、わたしはかまわない、そのときわたしも死ぬから……。

 

ジネット・ヌヴーは、ドラクロアの絵画に描かれたマリアンヌに似ている。それは民衆を導く「自由」、フランスの象徴である。

音楽を宿命として生れて来た。曾祖父にシャルル=マリー・ヴィドールがいる。ヴィドールは、セザール・フランクの後任としてパリ音楽院オルガン科の教授になった人であり、ダリウス・ミヨーやマルセル・デュプレの師である。ヌヴーの母親はヴァイオリンの教師、父親もヴァイオリンを弾き、兄はピアノを学んだ。5歳でエコール・シュペリウール・ド・ミュジークのマダム・タリュエルに入門、はじめての演奏会でシューマンの《コラールとフーガ》を披露した。公式のデビューは7歳、パリのサル・ガヴォーでブルッフの協奏曲を弾いた。その二年後にはパリ高等音楽院一等賞とパリ市名誉賞を受賞し、スイスの公演では「ペティコートをつけたモーツアルト」と称えられた。さらに、ジョルジュ・エネスコのレッスンを受けた10歳のとき、この偉大な師の助言を、「私は自分で理解したようにしか弾かない」と言って撥ねつけ、エネスコ先生が微笑んで許した話、その三年後、これもまた偉大な教師カール・フレッシュに入門した際、「君には天から授かった才能がある、私はそれには触れたくない、私にできるのは純粋に技術的な忠告だけだ」と言わしめた話……ヌヴーの少女時代は、栴檀の双葉の頃の芳しさを語る逸話に事欠かないのである。

エネスコもフレッシュも、この少女には、何か既に確定した音楽的性格というものがあると判断したのではないかと思う。彼女はそれを表現するしかないのだし、またそうしなければならないのである。それは信念とか信仰と呼ばれる態度に近い。音楽家としての出発点に当って、その表現を志すべく許されたのは、ヌヴーにとっていかにも幸福なことであっただろう。後年、ジャック・ティボーは、ヌヴーを「女司祭」と評している。また、同じフレッシュ門下のイダ・ヘンデルが、ヌヴーを称して「カリスマ」だったと言っている。ヌヴーが弾くと、それが正しいのだと皆信じてしまうのだ、と。その悪魔的な感化力は、ヌヴーその人の、溢れんばかりの情熱と揺るぎない確信とに由来していたに違いないのである。

もっとも、信念と情熱だけでは、一時代のヴァイオリニストたるには不足だろう。カール・フレッシュに入門する前、ヌヴーは11歳でパリ音楽院のジュール・ブーシュリのクラスに入り、わずか八か月でプルミエ・プリを獲得している。これはヘンリク・ヴィエニャフスキ以来の快挙であって、ヌヴー神話の頂点をなすエピソードだ。しかしながらその翌年のウィーンのコンクールでは4位に敗れるのである。ヌヴーの母親はそれを不当だと言っているが、審査員であったカール・フレッシュは、ヌヴーが滞在するホテルに手紙を届け、自分のレッスンを受けるように促し、同時にその将来を約束したのであった。入門は、ヌヴー家の経済的な事情で二年後になったが、その際のフレッシュの言葉が、先に紹介した、技術的な忠告云々であったということには、見逃せない意味があったわけだ。事実ヌヴーは、ベルリンやブリュッセルで、約四年にわたってフレッシュのレッスンを受けた後の1935年、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際コンクールでは、大本命ダヴィド・オイストラフ、地元ポーランドのアンリ・テミヤンカ等を抑えて優勝したのである。それはヌヴーが何かを克服したことを意味するだろう。とはいえヌヴーの本領は、やはりその憑依的な雰囲気だ。バッハのシャコンヌ、ヴィエニャフスキの嬰ヘ短調協奏曲、その他の課題曲、そしてラヴェルのツィガーヌ……2位に甘んじたオイストラフは妻に宛てて、ヌヴーの演奏を評して「悪魔的にすばらしい」と書いた。若い日のオイストラフの、あの繊細な技巧と圧倒的なスケールを上回るものがヌヴーにあったとすれば、それはやはり、その「カリスマ」的な「感化力」だったのではないか。

そしてこのときから、ジネット・ヌヴーは「フランスのヴァイオリニスト」になるのである。ジャック・ティボーが、ヌヴーの師ジュール・ブーシュリに宛てた手紙がある。そこに、この16歳の少女にかけられた期待の大きさと性格とがうかがわれようというものだ。

 

旅行から戻り、ワルシャワで開催されたヘンリク・ヴィエニャフスキ生誕百年を記念する国際コンクールで、我々の愛しきフランス人少女ジネット・ヌヴーが成し遂げた快挙を伝える『ル・モンド・ミュジカル』誌の記事を読ませてもらった。この記事は我が国の輩出した新進気鋭の若手演奏家を正当に評価する一方で、この成功が全面的にはフランスのものではないかのようにほのめかしている。というのも貴誌によれば、ジネットが我々の最上の友人で極めて偉大な二人の芸術家、ジョルジュ・エネスコとカール・フレッシュのもとでコンクール曲に磨きをかけたとされるからだ。……しかしながら私は、彼女が我々の偉大なフランス学派の申し子であると認識している。彼女の本当の指導者であるジュール・ブーシュリが、パリ音楽院の優秀な一等賞受賞者の一人に育て上げたからだ。……ジネット・ヌヴーの輝かしい優勝はまさにフランスのものであり、そのように万人の心に刻まれるべきだ。……

(ジャック・ティボー ジュール・ブーシュリ宛書簡 1935年4月22日) 

 

以後のヌヴーは、往くとして可ならざるはないといった趣である。ハンブルク、ベルリン、ミュンヘン、モスクワ、アムステルダム、もちろんパリ……バロックから現代曲まで、何処で何を弾いても絶賛された。大西洋も渡った。アメリカで、カナダで……モントリオールでは《ラ・マルセイエーズ》に迎えられた。レコーディングも行われた。1938年ベルリンでのことだ。ジョセフ・スークの小曲やリヒャルト・シュトラウスのソナタ、そしてタルティーニのヴァリエーションに大好きなショパンのノクターン、そんな演奏が稀少なSP盤に遺されている。しかし1940年、ナチス・ドイツが侵攻しフランス第三共和政が崩壊すると、ヌヴーはドイツ軍からの演奏要請をすべて拒絶して、民衆の前から姿を消し、自宅アパルトマンに蟄居したのであった。その間のヌヴーの生活はわからない。彼女は音楽を自らの宿命としていたであろうから、その意味をあらためて考えていたかも知れぬ。単に音楽一族に生まれた、というようなことではなく、まさに民衆の生きる糧としての音楽、それを担わねばならぬという覚悟を生きること、それこそが「フランス流」の宿命であり、ヌヴーはそれを責務として、自らにあらためて課したのではなかったか。

1944年8月、パリ解放。ヌヴーも解き放たれて、旺盛な演奏活動に戻る。1945年11月から翌年8月にかけて、ロンドン・アビィロード・スタディオで録音された、シベリウスとブラームスのコンチェルトを含む9曲は、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストが、音楽の使徒として、全身全霊をうちこんで、民衆に伝え、未来に遺そうとした人生の記録である。どの一曲どの一小節にも、「ジネット・ヌヴー」が貫かれている。

ところで、幾つか遺されたライヴの音源は、それらを凌いで一層見事であるように私には思われる。ヌヴーはやはりライヴの人だ、と言いたくなる。たとえば、1948年5月3日ハンブルクでのブラームスのコンチェルト、1949年1月2日ニューヨークでのラヴェル・ツィガーヌ……それらは凄まじいばかりのコンセントレーションで、聴く者たちを圧倒する。常軌の裡にはらまれた奔放の気配……破壊と創造が一体となって押し寄せて来るのである。

「ヴァイオリンは私の職業ではない。使命です」。その使命を果たさんがために、ヌヴーは世界を駆け廻った。そしてパリに戻った1949年秋、10月20日はサル・プレイエルでの演奏会であった。プログラムには、バッハ、ヘンデル、ラヴェル、それにシマノフスキの名が並ぶ。バッハのシャコンヌは、あの幼い日、エネスコ先生の「伝説の」レッスンで「自分が理解したように」弾き、ワルシャワのコンクールではイザイ以来の名演と激賞された曲だ。ラヴェルのツィガーヌも、やはりワルシャワで熱狂の渦を作り出したにちがいない、ヌヴーのいわば代名詞だ。

ところでこの演奏会は、特にConcert d’adieuと題されていた。「さよなら演奏会」。ヌヴーは一週間後に訪米をひかえていたのである。

 

空港に到着するや、セルダンはすぐに新聞記者たちに取り囲まれた。船での渡米と聞いていましたが?―急ぎの用事だ。小さな雀を放っておけないんだ。―ピアフさんですね?―そう。彼女もラガーディア空港まで羽ばたいて来るよ。ニューヨークからね。―世界再挑戦に向けてコメントを。―勝つか、死ぬか、だ。それがチャンスをくれたチャンピオンに対する礼儀だろう。……あそこにも記者諸君が集まっているようだが……。―ジネット・ヌヴーさんです。―これは光栄だ。ニューヨークでコンサートなんだね。私もこの次はカーネギーホールで防衛戦かな。道を教えてもらわなくちゃ。

……こんばんは!ヌヴーさん。ボクシングのマルセル・セルダンです。奇遇ですね。演奏会ですね?―ええ。コンサートです。兄のジャンと。―これはこれは。私はマディソン・スクエア・ガーデンで試合です。もっとも少し先なのですが。演奏会はやはりカーネギーホール?まだ行ったことがないのですが、どうやって行くのでしょう?地下鉄?バス?―練習!ものすごく練習するんです!―ははあ。なるほど。僕も今回はずいぶん練習したから、行けるかな。―行けますとも!でもその前にヴァイオリンをお持ちにならないといけませんね……ご覧になります?―それは是非!……これが?―ええ、ストラディヴァリウス。ストラディヴァリウス・オモボーノ。1730年につくられたそうです。―ほお……それにしても随分小さいし華奢なものですね。こんな手で持ったら壊してしまいそうだ。―だいじょうぶですよ。お持ちになってみて!―いいのですか……感激だなあ。これからあんなに素敵な、しかも大きな音が出るんですね。雀みたいに……

実際にどんな会話が交わされたのか、それはわからない。が、冗談好きのセルダンと快活なジネットのあいだのやり取りが髣髴とするような写真がある。セルダンがヴァイオリンを持って、いたずらっぽい目をして何か話している。ジャンはこみあげてくるような笑顔でセルダンを見ている。ジネットはその話に惹きこまれたり、破顔一笑したり。それはひとときの、まことに和やかな光景であった。

 

この直後の奇禍については人も知る通りである。10月27日21時、ニューヨーク・ラガーディア空港行エール・フランス国際定期便ロッキード・コンステラシォン機は、定刻通りパリ=オルリー空港を発った。が、数時間後の翌28日未明、経由地のポルトガル領アゾレス諸島サンタマリア空港から60マイルほど離れたサンミゲル島の山麓に墜落し、11人の乗員と37人の乗客は残らず死んでしまったのであった。午後、空港には、ピアフが、恋人を迎えるべくやって来た。親友マレーネ・ディートリッヒが先に来て彼女を迎えた。それが「救い」だ。

 

ジネット・ヌヴーの墓所は、パリ20区ペールラシェーズにある。小高くなった所に、やや湾曲した長方形の、白く簡素な墓碑が立っており、横顔が彫られた円形のブロンズが、その中央にはめ込まれている。足許には、十字とヴァイオリンのレリーフが施された、墓碑と同じ石材の白い棺、その両側は小さな赤い実をつけた常緑の低木が、包むように、斑の入った葉を繁らせている。清潔で慎ましい風情である。幼い彼女が「悲しいのが好き」と言って愛したショパンの墓もごく近い。

エディット・ピアフも、1963年10月、このペールラシェーズにやって来た。パリで最も愛された二人の女性の、14年目の邂逅だ。こちらは黒の御影石。平らな広いところに横たわり、棺の上にはいつも、パリの誰かが手向けた、赤い薔薇である。

 

 

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ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1949 フランスのヴァイオリニスト。

マルセル・セルダン……Marcel Cerdan 1916-1948 フランス領アルジェリア出身のボクシング選手。

ジョルジュ・カルパンティエ……Georges Carpentier 1894-1975 フランスのボクシング黎明期の英雄。ライトヘビー級世界チャンピオン。ヘビー級のタイトルを賭けてジャック・デンプシーに挑み、4ラウンドKO敗戦。美しい容貌と華麗なステップで「蘭の男」と呼ばれた。なんと10月28日に亡くなっている。

エディット・ピアフ……Edith Piaf 1915-1963 フランスのシャンソン歌手。しばしばパリ20区ベルヴィル地区の路上で生まれたとされるが、病院での出生が書類の上では確認されている。「ピアフ」は俗語で「雀」。

ジャン・コクトー……Jean Cocteau 1889-1963 フランスの詩人、作家。ピアフの死に衝撃を受け、その晩、心臓発作で死去。

ジャック・ボーガット……Jacque Bogut ? フランスの詩人。

ジョルジュ・エネスコ……Georges Enesco 1881-1955 ルーマニア出身のヴァイオリニスト、作曲家。

カール・フレッシュ……Carl Flesch 1873-1944 ハンガリー出身のヴァイオリニスト。

ジュール・ブーシュリ……Jules Boucherit 1877-1962 フランスのヴァイオリニスト。

ジャック・ティボー……Jacques Thibaud 1880-1953 フランスのヴァイオリニスト。カール・フレッシュ、ジョルジュ・エネスコ、ジャック・ティボーは、パリ音楽院マルタン・マルシック教授の同門である。

イダ・ヘンデル……Ida Haendel 1925- ポーランド出身のヴァイオリニスト。

ヘンリク・ヴィエニャフスキ……Henryk Wieniawski 1835-1880 ポーランド出身のヴァイオリニスト。

ハンブルクでのブラームスのコンチェルト……ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮、ハンブルク・北ドイツ放送交響楽団。

ニューヨークでのラヴェル・ツィガーヌ……シャルル・ミュンシュ指揮、フィルハーモニック交響楽団。

 

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その四 秋の日のヴィオロンのため息~ジャック・ティボー

 

……やがて窓が明るみ、二人は店を出る。

―雨は降り止まず、街全体が中国の水墨画のように霞んでいた。リュクサンブール庭園にさしかかった時、不意に、彼は庭園の木々を差し示した。よく見ると、その指差す先にぽつんと一点、秋には珍しい小枝の緑である。それは清々しく私の心を打った。

「あの小さな緑を御覧……。世の中は、あたかもこの雨や風のように灰色だが、我々は、必ず、あの緑でなければいけないね……」

その時、その人、ヴェルレーヌの口から零れたこの呟きは、そのまま飄然と霧雨の彼方へ消えて行った寒々とした後姿とともに、今なお、私の胸に耐え難い郷愁を疼かせる。

それから三月ほど経った一八九六年一月九日、新聞は僅か十行ほどで、この詩人の訃を報じたのであった。

(ジャック・ティボー『ヴァイオリンは語る』)

 

詩人の眼にこの人の世は、蒼然たる暮色であった。そしてその灰色の光景に、一点仄かに光る緑があれば、彼はそれに執着した。十七歳のランボオは、まずヴェルレーヌによって見出されたのである。この二人の愛の彷徨は、ブリュッセルでのとある日、撃鉄の音とともに突然終わった。もっともヴェルレーヌの放蕩は止まず、その後の学校教師時代にも、教え子の美少年と出奔している。が、六年に及んだその漂泊も友の死によって終わり、自ら破壊した家庭との和解は果たされず、その転落の晩年は、パリの娼婦に救済されるようにして、辛うじて露命をつないでいたのである。

ティボーは、この時十五歳。パリ音楽院マルタン・マルシック教授のクラスに入って二年が過ぎようとしていた。が、いま一つ結果を出せずにいた。ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキは入学して六ヵ月でプルミエ・プリを獲得し卒業したのだ……まさかそんな神話的な列伝に自らの名を連ねようと思っていたわけではなかったにせよ、八歳にしてシャルル・ド・ベリオとアンリ・ヴュータンの曲で最初の演奏会を成功させ、さらには巨匠ウジェーヌ・イザイにその才能を保証された身としては、出世に少々手間取りすぎていはしないか、このままでは市井の凡庸な一ヴァイオリン奏者として終る他ないのではあるまいか、つまりは自分には特に秀でた芸術家たるの資格などなかったのではないか……街のカフェでアルバイトの演奏を済ませた後、驟雨に遭って店先に佇んでいたティボーの胸中に、そんな不安はなかっただろうか。たぶんそんな気分のところに、先ほどまで客席にあって演奏を聴いていた一人の詩人―ヴェルレーヌがやって来たのである。ティボーは誘われるままに近くの酒場に赴き、そこで語り明かしたのであった。ティボーもまたなかなかの美少年であったから、詩人はそこに眼をつけたのであったかも知れない。いずれにせよ、文学、芸術、分けても音楽……話題は尽きなかったことであろう。ひょっとしたら、ヴェルレーヌは、持てる最後の情熱を、この美少年の芸術家に、その芸術家の魂に注いだのであったかも知れない。事実、ほどなくティボーは一等賞を得てパリ音楽院を卒業するのだから、この夜の思いがけない邂逅こそが、少年ヴァイオリニストの人生をその閉塞から救ったという、その可能性もないとはいえないわけだ。

さて、驟雨の中の緑。それが芸術の本性ならば、ティボーの音楽はまさにそういうものであった。故郷のボルドーからパリにやって来たばかりのティボーに、よく知られた伝説がある。パリでは当初叔父のアパルトマンに居候した。その叔父は、人生に意欲を失った無気力な人であった。ところがある時、ティボーがヴァイオリンを取りあげて一曲奏でると―それはバッハ「G線上のアリア」であった―叔父はにわかに陽気になり仕事に励むようになった。またアパルトマンの他の住人たちも、廊下を渡り階段を伝って響いてくるその音を聴いて、離婚の危機を忘れて仲直りをしたり、自殺を思いとどまったり、つまりは悉く救済され、皆、幸福を指して生き始めたのであった……。

「澆季の世に枯渇した尊い夢を私たちへ齎すためにこの地上に現れた人こそ、ヴェルレーヌだった」とはティボーの述懐だが、ティボー自身もまた、その混濁の時代にささやかな「夢」を齎すべく、大衆の前に現れた人であったのだ。

 

「ビクター洋楽愛好家協会」と銘打たれた戦前日本のレコード・コレクションがある。これは志の高い企画だ。全八巻。1935年に始まる第1巻から1940年の第6巻までは、毎年10月から月一枚ずつ、一年をかけて各巻十二枚、予約制で頒布された。艶やかなその盤面から、質のよいシェラックであることが見てとれる。もっとも途中から盤質が劣化しはじめるが、レコードなどは戦費調達のための課税政策の恰好の標的であったから、それもやむを得ないことであったろう。続く第7巻と第8巻はそれぞれ六枚頒布となって企画も縮小し、1942年、計八十四枚をもって完結した。

第1巻の最初の一枚RL-1はヤッシャ・ハイフェッツだ。これは、当時の日本において、クラシック音楽の主役が、まさにヴァイオリンであったことを示唆している。ヴァイオリンを携えた旅芸人とその末裔たち……村の辻に立っていたヴァイオリニストが、街に出、カフェで弾き、やがて国境を越えてとうとう海を渡った……彼らは、少なくとも二十世紀の半ばまでは、漂泊者の魂を受け継いでいたように思われる。そのお陰で極東のこの国も、1921年のエルマンを皮切りとして、以後続々とその第一級の奏者を迎えることができたわけだ。

もとよりこの企画、ヴァイオリンだけでは無論ない。RL-7はあのシャリアピンだ。その十八番というべき「ヴォルガの舟歌」と「蚤の歌」の熱唱は、コレクター志望の青年が古いレコードを聴き始める頃、その道の先輩たちに、「マスト・アイテム」だと念を押されることになる一枚である。シャリアピンは、1936年2月、来日公演の折にこれを録音し、その年の暮れに亡くなった。つまりこの日本盤が、不世出のバスの、最後のレコーディングになったのだった。

しかしながら、やはり、今でもひと際人気の高いのは、ヴァイオリン独奏のRL-11であるらしい。曲はヴェラチーニのソナタ。ジャック・ティボーがたった一曲、日本の音楽好きの大衆のために遺してくれた貴重な日本録音、もとより「マスト」である。

この「ビクター洋楽愛好家協会」盤はよほど売れたようで、今でも、たとえば神田あたりの老舗のSPレコード店を訪ねれば容易に見つかるし、よほど都会から隔たった寒村の旧家の蔵に眠っていたりもする。第1巻から3巻までは専用の豚革のアルバムがあるが、「そのせいで日本中から豚がいなくなってしまったのよ」とは、某レコード店の偉大なるおかみさんである。

私の郷里の実家にも、その第1巻はあった。たぶん今でも、探せば家の何処かに見つかるであろう。

 

それを蔵の奥から掘り出したのは、受験勉強最中の夏であった。私はそこに籠って勉強漬けを装っていた。蔵の中はいつも涼しいのである。少しは勉強もしたけれど、古い漆器をくるんだ戦前の新聞紙だの早逝した祖父が遺した本だの書簡だの、そちらの方が面白いのは当たり前で、そんなものを不思議な情熱をもって読み耽ったり、漸くそれに飽く頃には気持のよい午睡に身を任せたり。そんな、後になれば苦しい後悔に襲われるとわかっていて、しかしどうにもならないという、焦燥を内包した安逸のある日、驚くほどの存在感をもってそいつは出現した。如何にも重厚なアルバムである。もとより開いてみてはじめてレコード・アルバムと知れたので、最初はなんだかわからなかった。アルバムの一頁一頁がレコードのスリーヴになっている。ハイフェッツ、フィッシャー、そしてシャリアピン……その時分の私はクラシック音楽など聴いてはいなかったが、聞き覚えのある名前ではあったから、一枚ずつ捲っては、順番にレーベルの文字を読んでいった。ところが、それがおおむね終わろうという最後の方の一頁、そこだけが空になっている。裏表紙の一覧表で確認すると、それはジャック・ティボーの盤、ヴェラチーニのソナタであった。

「ビクターのレコード、一枚なくなってるね」

晩酌を始めた父に私は言ってみた。そのいきさつに興味があったわけではない。珍しく親父と話す話題がある、それだけのことだった。父は私を見た。

「ビクターのレコード?」

「蔵の中のだよ。昔の」

「ああ、あれはもう聴きようがないやつだ。捨ててしまえばいい」

「そう?聴けないのか。一枚だけなかったよ」

父の眼は宙を彷徨うようだ。

「……ベラチーニ、だな。チボー」

「そうそう、そう書いてあった」

「べラチーニのソナタ、あれは俺が学生の頃好きだったんだ」

「……」

「それで海軍に持って行った」

「……戦争に」

「そう。聴くことなんかないのだけれど」

「……」

「でも一回だけ聴けた。昼飯にレコードをかける習慣で、そのときにかけてもらったんだ」

「案外さばけているもんだね」

「海軍はな」

 

ジャック・ティボーは戦前に二度来日している。一回目は1928年のことだ。1921年エルマン、22年ジンバリスト、23年クライスラーとハイフェッツ……続々とやって来た一流ヴァイオリニストは、そのほとんどがユダヤ系の、秀でたメカニックをもつ腕利きだ。エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツはロシア系ユダヤで、サンクトペテルブルクからアメリカに移ったレオポルト・アウアー門下、クライスラーは言わずと知れたウィーン派だが、その出自はポーランド系ユダヤである。そうした文脈のなか、ユダヤ系以外の、フランス派のヴァイオリニストとして初めてやって来たのが、ティボーだった。

 

「本日世界的大提琴家ティボー氏入京す! 欧米に赴かずかくの大芸術家の神技に接し得るは日本現代人の幸福なり。妄りに料金額の高きを責むるは愚かなり。芸術の真価と来演の諸費とを考へれば、寧ろ二円、五円、七円は廉なり。廿六日よりの開演を御期待あれ」

(『読売新聞』昭和3年5月23日付 帝国劇場広告)

「……彼の演奏は実に繊細と典雅の二字に尽きる。……ウイーンの古謡やそこの優雅な舞曲を何人もウインナ人のようには弾く事が出来ないように、フランクやフォーレやサン=サーンスの作品は正に彼のために書かれたものの感がある。……」

(「ティボーを迎えて」近衛秀麿)

「……久しぶりで本当の芸術家の芸術に接したという感じがいたします。たしかにそれはクライスラーと並び称せらるべき第一流のヴァイオリニストです。宣伝沢山で来る旅芸人達と一緒にしてはいけません。ティボー氏の演奏が=その風采までが=全く予期した通り精錬し切った「フランセ―」そのものであった事は、うわさで聞いた通り、レコードを通してあこがれていた人達にとって、どんなに親しさと満足とを感じさせたでしょう。アウアー門下の人達の派手な技巧や、強大な音になれた日本人にティボー氏の粋な、むしろ渋過ぎる演奏が本当に受容れられるものであろうかという事は、在留フランス人をはじめ、ティボーを知る程の人達が心配していた事のようでした。が、実際ティボー氏の演奏に接して見ると、それは全くき憂で、今更ながら、日本人ほどフランス趣味のわかる国民はないという事をつくづく感じさせます。……」

(「ティボー氏を聴く」野村胡堂あらえびす)

 

「日本人ほどフランス趣味のわかる国民」云々はともかく、ジャック・ティボーの抒情性は、たしかに日本の民衆の裡にある感受性に深いところで共鳴する、親和的な性格のものであった。

二回目の訪日は1936年、この年は先述のシャリアピンの他に、チャップリン等も来日した。また16歳の諏訪根自子が単身渡欧した年でもある。他方、二二六事件も日独防共協定締結もこの年で、どうやら得体の知れないエネルギーが充満した、華やかで危機的な、そんな季節だったようだ。

その最中にティボーはやって来た。批評家たちは悉く絶賛、ことにフランクのヴァイオリン・ソナタを称える文面が目立つが、これは第一回来日公演のときと同じである。ティボーといえばフランス気質、パリ気質なのである。もとよりティボー自身はフランス南西部ボルドーの出身であるから、彼のパリ気質は、彼自身のパリへの憧れによる創造物であるかも知れない。

 

「……従来エルマン、ジンバリストはもとよりあの完璧な巨匠クライスラーに至るまで、来朝した世界的ヴァイオリニストの中に私はいわば芸の切売りの如きものだけしか見出せない淋しさを感じていた。しかしティボーが来て初めて私は、一人の人間がヴァイオリンを弾くのに接したのであった。音楽家がヴァイオリンを弾くのですらない。人間がヴァイオリンを弾くのだ。……」

(「ティボー」河上徹太郎)

「……其の後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない。それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラヂオも、私の渇を癒してはくれなかった。……」

(「ヴァイオリニスト」小林秀雄)

 

実はティボーは「最後」ではない。翌1937年にも、エルマンが二回目の来日を果たしている。しかし、小林秀雄にとって「最後」は「チボー」だったのだろう。後にふり返れば、それはやはり「最後」というべき光景だった。

フランスからやって来たヴァイオリニストが、身体としてこそ実存する人間として、工匠の肉体が確かに作り出し、二百年の時間を超えて持続するヴァイオリンを、今まさに混沌の世を生きつつある自分の、その目の前で奏でている。このような偶然の邂逅が、一回性の切実な邂逅への愛惜こそが、信じるに値するヒューマニズムというものがもしあるとするならば、その唯一の根拠なのではないか。

 

ところで、私の父が海軍応召に際して持参したレコードというのは、この1936年5月27日に録音されたものである。ヴェラチーニ作曲ソナタホ短調、ピアノ伴奏タッソ・ヤノプロ。ヴェラチーニなどという作曲家は、ロックばかり聴いている青年には全く無名であるから、蔵の一件の時には、どんな曲かもわからなかった。

それから十年も経った頃、私は大学を終え、かといって次の人生の展望も定まらぬまま、まことに頼りなく生きていたのだが、そんなところに親父が上京して私の下宿に泊まるということがあった。あの時は弱った。大学だか海軍だかの集まりで、引っ込んでいた東北の郷里からいそいそと上京なさったわけだが、狭い部屋で面突き合わせても、「おう、どうだ」「どうって、まあ元気にやってますよ」「そうか」「……」、まことに気まずいことであって、つまりコミュニケーションというものが、ない。もっとも親父と息子というのは、いつの世もそんな感じなのに違いない。せがれどもを見ていても、私と何かのはずみで二人きりになったときなど、たしかに困惑している。もっとも私の場合、親父がその胸の裡に帝国海軍という青春の誇りを温存していたから、それを焦点にただ対決していれば格好はついた。戦争だの封建主義だのと言って侮蔑し拒絶するという態度をとることで、自分の位置を定めることができたわけである。それに対して我が家の諸君は、その親父が帝国海軍でも企業戦士でさえもないから、対決するにもしようがないらしい。頑固親父というのは、息子を困惑させぬための配慮であるかも知れない。

その頃の私は、親父と対決する時期はむろんとうに過ぎていたから、それなりに友好的にやってやろうと思っていた。それでちょっと悪戯心を起こした。あのヴェラチーニの盤を親父に聴かせてやろうか。その少し前に、私は小さな蓄音機を手に入れていて、ジャズやロックの古いレコードを聴いたりし始めていたのである。私は自分の思い付きに心が弾んだ。どんな顔をするだろう。親父はあの出征の時を最後に、学生時代に好きだったという「チボー」など、一度も聴く機会のないままに生きて来たに違いない。そう考えると、もう躊躇などない、早速神保町に出かけたのであった。すると目的の盤はすぐ見つかった。試聴させてもらうと、いかにも甘く感傷的な旋律である。びっくりした。あの親父が、如何に青年時代とはいえ、こんなものを好むだろうか。それも死を覚悟した出征の時に。

親父がやって来た日は、朝から雨で、彼は近所の史跡の木立を散策する予定を立てていたのだが、結局のところ億劫がって、寒い部屋で煙草を吸ってばかりいた。

「……なんだ、それは……蓄音機か」

「そう」

「そんなものを持ってるのか」

「なにか聴いてみますか」

「いや、いい。俺には珍しくもない。しかし、そんなもの、今でも売ってるのか」

「売ってるんだよ。いい音がするもんだね」

「いい音がするって、ステレオみたいなのに比べたらダメだろう」

「そんなことはないよ。こっちの方がいい」

「懐古趣味だ」

「御冗談。そんな過去はオレにはないよ。歴史との邂逅です」

私はレコード棚から件の盤を取り出してターンテーブルに置いた。クランクを回して発条を溜め、サウンドボックスを慎重におろした。シェラックに刻まれた溝を鉄針が滑る。そのノイズがしばらく続いた後、優しく微笑ましい、舞曲風の誘うような旋律がぱっと輝く。親父は顔をあげた。遠くに森でも見るような、そんな眼をして、凍結した。演奏はメヌエットから活気あるガヴォットへと移り、やがて片面が終わった。私はレコードを取りあげ、裏返し、針を付け替えて後半の演奏に取りかかる……。

「もういい」

「……」

「もういい、ありがとう」

親父は、ほとんど灰になった煙草を指に挟んだまま、しばらくは、ターンテーブルに回り続ける「べラチーニ」の盤を見ていた。

 

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ジャック・ティボー……Jacques Thibaud 1880-1953 三度目の来日を行程に含む演奏旅行に発って間もなく、搭乗機エール・フランス・コンステレーションがフランスアルプスのモン・スメ峰に激突。妻から贈られて以来、手許から放すことがなかったストラディヴァリウス「バイヨー」とともに不帰となった。1953年9月1日。パリでは音楽葬が、日本でも追悼演奏会が行われた。

ヴェルレーヌ……Paul Marie Verlaine 1844-1896
秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの/ひたぶるに/身にしみて/うら悲し

ランボオ……Jean Nicolas Arthur Rimbaud 1854-1891 フランス、アルデンヌ出身の詩人。

マルタン・マルシック……Martin Marsick 1848-1924 ベルギー出身のパリ音楽院教授。

ヘンリク・ヴィエニャフスキ……Henryk Wieniawski 1835-1880 ポーランド出身のヴァイオリニスト。

プルミエ・プリ……一等賞。

シャルル・ド・ベリオ……Charles de Beriot 1802-1870 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

アンリ・ヴュータン……Henri Vieuxtemps 1820-1881 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

ウジェーヌ・イザイ……Eugene Ysaye 1858-1931 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

大衆の前に現れた人……たとえば「国際大芸術家協会」というティボーのプロジェクトがある。1935年に設立されたその組織は、シネフォニーと称する音楽短編映画を構想し、一般大衆に音楽芸術を普及するために聴覚に視覚を加えた音楽鑑賞の場を作り出した。ティボー自身も、タッソ・ヤノプロの伴奏でシマノウスキの「アレトゥーズの泉」やアルベニスの「マラゲーニャ」を収録、他にニノン・ヴァランやコルトーらも参加している。

シェラック……二十世紀前半のレコードの原料で、カイガラムシの分泌物から精製する樹脂状の物質。

それで終了となった……シャリアピンやティボーの盤等、人気のあったものは、戦後再発されている。なお「ビクター洋楽愛好家協会」については、神田富士レコード社のSさんに教えていただきました。

シャリアピン……Fyodor Chaliapin 1873-1936 ロシアのオペラ歌手。

ヴェラチーニ……Francesco Veracini 1690-1768 イタリアのヴァイオリニスト。

SPレコード……二十世紀前半に普及したレコード。スタンダード・プレイング。この呼称は日本独特のものだ。二十世紀後半に普及したLPレコードが一分間に約33回転であるのに対して、これはおおむね78回転である。78rpm。

アルバム……レコード複数枚にわたる組み物を収納する冊子状のもの。78回転時代のレコードは片面四分強の演奏時間であったから、交響曲などは一曲が数枚に及ぶことになる。それを収めるのがアルバムである。LPレコード一枚をアルバムと呼ぶのはその名残である。

フランク……Cesar Franck 1822-1890 フランクのソナタはティボーの代名詞で、アルフレッド・コルトーとの二度の録音があるし、この来日直前のモスクワ公演では、聴衆が客席にいたコルトーを歓声と拍手で促して、急遽このデュオによるフランク・ソナタのライヴが実現したそうだ。

アルフレッド・コルトー……Alfred Cortot 1877-1962 ティボーとのデュオ、それにカザルスを加えたトリオは一種の伝説になっている。大戦中、ヴィシー政権やナチスとの関りから絶縁状態となった。戦後、ティボーは関係の修復を望んでコルトーを訪ねたが、拒まれたようだ。しかしながら、ティボー遭難の報に接して、コルトーは悲痛なコメントを寄せている。「近いうちに、友よ、あの世で!」

 

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その三 浪人時代の記憶~ミッシャ・エルマン

 

青年男子は不満の塊だ。むき出しのダイナマイトみたいなもので、火気は厳禁である。目の前の一切が、理不尽で不純でばかばかしく苛立たしい。親や教師など、どんなにもっともらしいことを言ったところで、所詮は、夾雑物で視界が曇ってしまった、いわば「終わった」人たちである。そして、そのように世の中を鑑定する自分のことは疑いもしない。そこには、絶対に純粋な自己と愚かで不純な他者があるばかりだ。青年期特有のこういった感情は、どうせ未熟な自分自身に対する不満の、その屈折した投影にすぎないのだろうが、そんな話は薬にもしたくない。鑑定を共有できる二、三の友人があれば、彼等だけが信頼に価する存在なのである。もはや世間との和解に至る途は断たれている―そう確信した者同士が、ともに引きこもり、たとえば音楽を聴き、文学を語り、少女に恋をする。そのときの音楽や文学や少女が、ありふれた凡庸と不純から遠く隔たったものであることは言うまでもない。かかる意味で、彼らのありようは、陰にこもってはいるが反逆的だ。それは、親や教師や学校や勉強や社会や、およそあらゆる「不純な」制度に対する離反なのである。(青年諸君、そんな顔をしなさんな。私は自身の青春を顧みて書いているだけだ)

もっとも、その青年たちも、やがて大学に進んだり就職したりするうちに、なし崩しに社会化していくことになるのだが、その途中にちょっとした「逸脱」の一時期が挟まることがある。「浪人」だ。思い返せば、それはなかなかに思い出深い有意義な人生の挿話なのだが、その最中にいる諸君にとっては、もとより意義など検証している場合ではない。ただただつらい。それは、社会的属性を剥奪された宙ぶらりんの一年ないし数年であり、社会に反逆し得ていたはずのその自意識が呆気なく挫かれた、自己喪失の一年ないし数年である。公認の制度によって組織化された人生の文脈から、突然逸脱を強いられてしまった「白紙」の自分……そんな切実な場所に思いがけず立たされてしまった、そう言いたげな顔が、たとえば予備校の教室にはちらほら見える。しかしながら、諸君、自意識を挫かれ、自己を喪失した諸君だからこそ、真に意義ある自己探求の途に就けるということでもあるのである。

 

青年期の、わけても浪人時代の心理的現実というものは、今も昔も、そう大きくは変わらないのではないか。たとえば梶井基次郎。その学生時代の日記や書簡などを拾い読みしていると、およそ一世紀の隔たりを越えて、その切ない気持や荒んだ心が、こちらの胸にも沁みてきて、やり切れない。おどろくほど純度の高い詩的な結晶をなすあの作品群の底にあるのは、ありきたりだが切実な、逃れようのない苦悩だったのだ。かくも美しい秩序を拵えあげなければ、とても耐えられぬほどの混沌だったのだ。

梶井もまた「浪人生」であった。第三高等学校に入る前に、大阪高等工業学校の受験に失敗している。その前に、異母弟が高等小学校を終えたばかりで奉公に出されたことから、あるいは父の放蕩が家計を苦しめていたことから、それらに対する義と反逆とで、中学を退学したこともある。また三高でも、選んだのは理科であった。彼の進路にはしばしばある種の無理ないし不自然を感じる。そして、町人の子だから学問に打ち込めないのだと悲観してみたり、かといって、打ち込める何ものも見つからないと焦燥を訴えてみたり。さらに怠惰、悔恨、早くも兆した肺病の不安……。

 

二日夜エルマンと握手す

ああ此感激に過ぐるものなし。

(1921年3月3日 友人宛はがき)

 

当時の梶井に信じられたのは、二、三の友人を別にすれば、漱石、谷崎、学内で見かける西田幾多郎先生、それに、友達と金を出し合って買う舶来盤のレコードくらいだ。彼にとってそれらは皆、現実の醜悪と塵埃から隔絶した、純粋で高貴な存在だったろう。そんな梶井の前に、折よく現われたのが、エルマンだったのである。演奏会当日は進級のかかる試験の最中であったが、かまってはいられなかった。

 

京都は一日二日エルマンの演奏会あり、二円だ。京都で聞く気はないか。大阪なんぞよりずつと気持がいいだらう。しつかりお互ひに勉強しておいてどちらかの日にカンフオタブルに享楽しようぢやないか。

(同2月16日 友人宛はがき)

 

その夜、エルマンのストラディヴァリウスは、梶井の耳にどんなふうに鳴っただろう。濃密で柔らかな、エルマン・トーンと称されたあの音。ひょっとしたら、京都市公会堂のエルマンは、「幾つもの電燈が驟雨のように浴せかける絢爛」のなかで、「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」、そんな純度の高い音色を響かせてくれたのだったか。梶井はその感激のまま、会場の外でエルマンを待った。ややあって姿を現し、車に乗り込もうとするヴァイオリニスト。梶井は群衆のなかから飛び出し、やや腰をかがめて、しかし無遠慮に手を差し出す。すると、ロシア生まれの偉大なその人は、貧し気な学生の無作法に、わざわざ手袋をはずして応えたのである。感極まって涙した。温かい手やった、匂いがこの手に残ってるわ。

 

レオポルト・アウアー教授は、その日滞在するロシア南部エリザベートグラードのホテルで、未知の父子の来訪を告げられた。いつものことだ。ヴァイオリンを抱えた息子とその天才を信じる父親の不意の訪問。だが、たいていは、貧しい親子の果敢ない幻想なのだ。憂鬱なことである。演奏会直前の教授はその支度に忙しいこともあって、その応接を弟子に委ねた。わずかな時間でも仮眠をとらねばならない。それから演奏会用の衣装に着替え、さてストラディヴァリウスと指を馴らしておこうか……本番直前のそんな時、部屋の扉は叩かれたのであった。「教授! あの少年の演奏は絶対お聴きになるべきです」。……翌朝再びやってきた少年―それは、通い始めたばかりの音楽学校があるオデッサから、アウアー教授がたった一晩滞在するだけのこの街まで、長い旅路をやって来た、しかもその旅費を、衣服を売って工面しなければならなかったという父親に連れられた、小柄なユダヤ系の少年であった―彼はひと息をつく暇もなく楽器を取り出しヴィエニャフスキのコンチェルトを弾き始める。アウアー教授は、旅立ちの荷物をまとめながら聴くつもりであった。が、ほんの数小節進んだところで片付けの手を停め、身体を起こさねばならなかった。なるほど、これは確かに聴くべき演奏だ。そして机に向かい、躊躇なくペンを執りあげたのである。ペテルブルク音楽院グラズノフ院長宛に、ただちに一筆啓上せねばならない

タリノエという小さな村の、ヘブライ語教師の父にヴァイオリンの手ほどきを受け、その後パブロ・サラサーテの推薦を得て、オデッサ音楽院フィデルマン教授の生徒となっていたミッシャ・エルマン、彼の世界的ヴァイオリニストへの途は、この瞬間に開かれたのであった。1904年、エルマン十三歳であった。

もっとも全てが順風満帆だったわけではない。この頃のユダヤ人は常に朔風に曝されていた。首都サンクトペテルブルクにも居住制限があり、エルマン少年が父親とともにその街に住んで音楽院に通うということさえ容易ならざることであった。アウアー教授は当局に対し、エルマンが入学できないなら教授を辞すると、脅迫まがいの啖呵を切ったと伝えられている。アウアーは「皇帝のソリスト」であるから、これには役人たちも黙従するほかはなかったであろう。また、アウアー自身の出自も、ハンガリーの貧しいユダヤ人の家庭である。エルマンの他、エフレム・ジンバリスト、トーシャ・ザイデル、ヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシテインと、才能において突出したユダヤ系ヴァイオリニストがそのクラスに参集したのは、偶然ではなかった。

アウアー教授の下でエルマンは、なんでもたちどころに出来てしまうというような、神話的な天才ではなかった。そのかわり、どんなに困難な課題を与えられても、必ず次のレッスンまでには克服して来るという、並外れた学習能力を示した。その結果、彼は、その歳のうちに、ロシアを代表するヴァイオリニストの一人になっていったのである。

サンクトペテルブルクでのデビューは、レオポルト・アウアー急病につきその代演という形式であった。形式? そう。これはアウアー教授の仮病であり常套なのだ。自分を目当てに集まってくる「一流」の聴衆を裏切り、失望の色を浮かべる人びとの前に無名の少年を立たせ、その思いがけない演奏によって聴衆の失望をもう一度、逆から裏切って喝采させるという筋書きである。それは、二重の裏切りによる一種の賭けだ。エルマン少年はメンデルスゾーンのコンチェルトを弾ききって、その賭けに、おそらくそれが賭けであることに気づきもせずに勝ち、そのままロンドン・デビューまで、一直線に駆け抜けるのである。

以後半世紀をかるく越えて、エルマンは一流であり続けた。ヴァイオリニストの世界においてこれは稀有と言っていいだろう。もっとも彼の少年時代、ヨーロッパはフリッツ・クライスラーとブロニスワフ・フーベルマンが主役であった8。またロシア革命を機に、アウアー一門の拠点はアメリカに移り、それとともに同門の後輩ヤッシャ・ハイフェッツの時代が幕を開ける。さらに十年後、今度は同じロシア系ユダヤ人イエフディ・メニューヒンの登場だ9。つまり、エルマンはいつも二番手だったと評する向きもあるのである。少年ハイフェッツがニューヨークに登場した日の、よく知られたエピソードがある。その熱狂の演奏会場で、エルマン「今夜はばかに暑かないか?」ゴドウスキー「ピアニストは平気さ!」10。また、エルマンがしばしば上機嫌に語ったというこんな一つ話もある。コンサートにやって来ては必ずサインをもらって帰る少年に、エルマン「どうしてそんなに僕のサインが要るんだい?」少年「友達と交換するのさ。エルマン五枚でクライスラー一枚!」。

しかしながらエルマン自身、エフレム・ジンバリストとともに、ロシア系ユダヤ人ヴァイオリニストとして初めて世界を席巻した人であり、また器楽奏者として初めて、レコードでその盛名を確乎たるものにした人である。実際、二十世紀初頭の栄光のテナー、エンリコ・カルーソー11と吹き込んだマスネ「エレジー」などは記録的なベストセラーだ。かくしてアメリカ商業主義の最中にあってその恩恵を受けながら、彼には、それに翻弄されない強靭さがあった。エルマンが途を拓いて、のち多くの、特にユダヤ系のヴァイオリニストが活躍するようになり、たぶんそのせいで、エルマンはソリストとしての活動から遠ざかり、四重奏などに比重を移した時期もあった。が、晩年はやはりソロに戻り、最後まで一流の演奏を披露し続けたのである。それを可能にしたのは、神童でありながらさらに研鑽を重ねた、サンクトペテルブルクでの日々だろう。レオポルト・アウアーは多くを教えない。何はさておき、自分自身で考えさせ克服させる教師だ。その許で、神童エルマンが、格闘して身につけたものの尊さと実現したことの偉大さを思う。彼は言う、「今のヴァイオリニストたちは、もっと私に感謝すべきだ」。エルマンは「二番手」だったのではない。先駆者であり、牽引者なのである。それは今でも変わらない。

 

最晩年に、ヘンデル「ソナタ四番ニ長調」の録音がある。これは不朽だ。エルマンの代表的な録音と言えば、まずは、先に触れたカルーソーとの録音、そして自らの出自に根差す「エリ、エリ」や「コルニドライ」「ヘブライの旋律」といったユダヤの音楽、それにアウアー因縁のチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」12などが挙がるだろう。もとより異議のないことだ。が、それらを措いてあのヘンデル、と言いたい気持ちが私にはある。故郷の大地の香気と古典の高次の統合。それがヴァイオリン音楽というものであり、その点で、彼は一貫してエルマンなのである。その確信に満ちた演奏が人生を貫く。そして、世に翻弄されつつ生きねばならない人たちを救済し続けている。

 

 

音を記憶するのは難しい事だから、あの時のエルマンの音色は未だ耳に残っていると言えば噓になるが、彼の特色ある左足の動きや、異様に赤いヴァイオリンのニスの色を思い浮かべると、もはや消え去った音色が、又何処からか聞えて来る様な気持ちになる。

(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)

 

小林秀雄もまた、このとき「浪人生」であった。名門府立一中では学校生活が一高受験に一元化されてしまうために、その風潮に反発して、文学にマンドリンそれに硬式野球、要するに勉強以外のことに明け暮れていた。妹の高見澤潤子は、「兄のレジスタンス」だったと言っている。そうに違いない。そしてたぶんそのせいで、小林秀雄は一高の受験に失敗したのであった。

 

兄は中学卒業の年に一高の入学試験に失敗して、一年間浪人した。私は平生、いろいろ兄に教えてもらって、随分恩恵をこうむっているくせに、兄が不合格だときいた時、同情するどころか、どういう言葉を使ったか忘れてしまったが、かなり手きびしい、屈辱的な言葉を兄にいったのである。私としてはいつものように、兄からどなりかえされると覚悟していた。ところが、兄は思いがけなく机に顔をふせるようにして泣き出したのである。

(高見澤潤子『兄 小林秀雄』)

 

小林秀雄にも、高を括る、というような、そんな生意気な少年時代があったわけだ。その生意気の鼻をへし折られて、浪人の一年が始まった。では、あの小林秀雄はどんな浪人生であったのか……まことに興味深いが、その間のことは、何ひとつ書き遺されていない。何もわからない。何もわからないが、やはり、この世を凝視しつつ自分をゼロと見定めるというような、そんな謙虚な「没落」の時間を過ごすことはあっただろうと想像してみる。

 

……莚を敷いた、薄暗い船室がある。周囲に船に酔つた時の用意らしく、十五六の瀬戸引の洗面器がずらりと掛けてあつた。それが、船の振動で姦しい音を立てて居た。顔色の悪い、繃帯をした腕を首から吊した若者が石炭酸の匂ひをさせて胡坐をかいて居た。その匂ひが、船室を非常に不潔な様に思はせた。傍に、父親らしい瘦せた爺さんが、指先きに皆穴があいた手袋で、鉄火鉢の辺につかまつて居る。申し合はせた様に膝頭を抱へた二人連の洋服の男、一人は大きな写真機を肩から下げて居る、一人は洗面器と洗面器の間隙に頭を靠せて口を開けて居る。それから、柳行李の上に俯伏した四十位の女、―これらの人々が、皆醜い奇妙な置物の様に黙つて船の振動でガタガタ慄へて居るのだ。自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄へなければならない。それが堪らなかつた。然し自分だけ慄へない方法は如何しても発見出来なかつた。

(小林秀雄「一ツの脳髄」)

 

世の中や世の人々を醜く思うのは、青年の特権だ。しかし、そのような世の中や世の人々を、対象化しようとしてしきれず、眼差しが自分自身へと折れ曲がってくるまでには、ある種の成熟が必要だろう。自分もまた例外ではあり得ない。等しく醜く愚かな存在である。「自分だけ慄へない方法」などありはしないのだ。もとより「一ツの脳髄」は1924年の発表というから、1920年の「浪人生小林秀雄」からはなおしばらく隔たる。が、小林秀雄も「浪人生」なら、特権の放棄と健全な没落は、そのときすでにその視野に入っていただろうと思う。

 

さて、その浪人生活の終りを飾ったのがエルマンである。1921年2月帝国劇場の公演に、受験勉強追い込み最中の小林秀雄は出かけている。その小林秀雄の耳にどんな音が鳴ったのだったか。「音を記憶するのは難しい事」だが、今、振り返って「何処からか聞えて来る様な気持になる」というその音は。それはやはり、青春の混沌にとって救済となるような、純度の高い、高貴なものであったに違いない。帝劇の椅子に身を委ねたまま陶然となった、あの甘美でしかも端正なスラヴの音色。濃密な音響のなかで見るヴァイオリニストの光景が、夢のように生々しい。しかしながらそれは、その帰らぬ時代への愛惜の念であると同時に、惜別の記憶でもある。というのは、このエルマンの演奏会の一か月後、まさに一高受験の最中に、小林秀雄は父親の急逝に遭わねばならなかったからである。

 

高等学校の入学試験を受けなければならないので、皆と別れて一人病院を出たのは、父がもう駄目だと云はれた朝だつた。

総てのものが妙に白けて見える人通りもない未明の街を、「俺が帰る頃には、もう死んで居るだらう」と毛利侯爵の長いセメントの塀に沿つてポロポロ涙を落し乍ら歩いた自分の姿が頭から消えると、医者がギュッと胸を押したがポカンと口を開いた儘息をしなくなつた父の顔が浮ぶ。「家に持つて帰る」と京都の伯父が赭い壺からお骨を半紙に移すのを見て身慄ひした事、葬式の済んだ晩、母と妹と三人で黙りこくつてお膳を囲んだ時の、三角形の頂点が合はない様な妙にぎごちない淋しさ。―謙吉の追懐は風船玉の様に後から後から出来てはポカリ、ポカリと消えて行つた。

(小林秀雄「蛸の自殺」)

 

一般に、男子の青春が、父との対決を通して社会に対峙しつつ自立していく過程であるといってよければ、小林秀雄は、父との関係を経由することなく、何の庇護もないなかで、直接に社会との対峙を強いられ、その中で己の自立を図らねばならなかったということになる。漸次的に経験されるはずの人生の転機が一挙に訪れたわけだ。小林秀雄は父の死に際して「こんなに悲しいことはない」と言った。その悲しみは、四十六歳で死なねばならなかった父その人の悲しみであることは無論だが、同時に、自分の青春を青春たらしめてくれるはずの父という存在、それを唐突に奪われたという悲しみ、いわば青春喪失の悲しみでもあったのではないか。

小林秀雄にとって、ミッシャ・エルマンの思い出は、その鮮やかな切断面である。それは、なにかしら原点のような豊富さも含む歴史であった。

 

たしかルッジェーロ・リッチ13が、フィドル14は名人の楽器だ、と言っている。ヴァイオリンと身体の完全な調和。そういうことは、たとえば私などには、実際にステージを見ないとわからないところがある。まさに「名器を自在にあやつる名人の演技」に「目のあたり」接してはじめてわかるというわけだ15。小林秀雄もその夜帝劇のステージに、正真正銘の「名人」を見た。「ヴァイオリンとはかくも玄妙不思議なものであるかと驚嘆した」との述懐があるが、誇張のないところだろう。また、「人々の魂を奪う感動を創り出すのに、彼には民謡の一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せれば足りたのである」とも言っている。もっともこれはパガニーニについての記述だが、この確信の起源こそ、まさしく帝劇のエルマンなのではないかと思う。マスネの瞑想曲、ドヴォルザークのスラヴ舞曲、ユモレスク……どれも名曲というのでは必ずしもないかも知れない。いや、名曲であるかどうかは問題ではないのだ。名人の名演であれば足りる。すなわち、曲目などなんでもよろしいということになる。さらに言えば、「一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せた」という、その「乗せる」という感じは、エルマンの演奏風景にぴったりだ。エルマンの弓のさばきというのか、その軽さは印象的である。弾きながら音楽に合わせてよく動く人だったようだが、そもそも弓の動きそれ自体が、もはや舞踏そのものである。

 

その後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない、それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラジオも、私の渇を癒してはくれなかった。

(「ヴァイオリニスト」)

 

我が国の音楽的光景においても、エルマンは一つの原点をなす。エルマンは、何といっても、日本にはじめてやって来た、掛け値なしに第一流のヴァイオリニストであり、名人である。そして彼に続いて、ジンバリストもクライスラーもハイフェッツもティボー16も来日したのである。その後の、戦争を挟んだ「十何年」の中断は、むろん不幸なことではあったが、それがかえってヴァイオリン音楽というものへの愛惜を、そして愛惜としての歴史というものを、ささやかながら教えてくれたことであった。

 

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1 Mischa Elman(1891-1967)

2 梶井基次郎(1901-1932)……『檸檬』の作家。梶井基次郎については、『梶井基次郎全集』(新潮社)、大谷晃一『評伝 梶井基次郎』(河出書房新社)を参照させていただいた。

3 梶井基次郎「檸檬」より。

4 Leopold Auer(1845-1930)……オーストリア・ハプスブルク家統治下のハンガリーに生まれた。同じユダヤ系マジャールのヨーゼフ・ヨアヒムの高弟としてサンクトペテルブルク音楽院の教授を務め、後、ロシア革命を機に渡米。アウアーについては、角英憲訳『レオポルト・アウアー自伝』(出版館ブック・クラブ)を参照させていただいた。

5 ウクライナ黒海沿岸の港湾都市。音楽院があり、ダヴィド・オイストラフをはじめ、多くの逸材を輩出した。

6 Aleksandr Glazunov(1865-1936)……作曲家。ロシア革命までサンクトペテルブルク音楽院の院長を務めた。手許の資料では院長就任は1905年。アウアーとエルマンとの出会いはその前年だが、アウアーの『自伝』には、エルマンの自分のクラスへの編入と奨学金の給付を求める推薦状を「……院長として音楽院を率いていた偉大なるアレクサンドル・グラズノフ」に宛てて書いた旨の記述がある。

7 Eflem Zimbalist(1889-1985),Toscha Seidel(1899-1962),Yascha Heifetz(1901-1987), Nathan Milstein(1903-1992)

8  Fritz Kleisler(1875-1962),Bronislaw Huberman(1882-1947)

9  Yehudi Menuhin(1916-1999)

10  Leopold Godowsky(1870-1938)……ポーランド系ユダヤのピアニスト。

11 Enrico Caruso(1873-1921)……イタリア・ナポリ出身のオペラ歌手。

12 チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトは、はじめレオポルト・アウアーに献呈されたが、アウアーは「演奏不能」としてこれを拒否したという。アウアーはこのことについて、作品には「大きな価値がある」ものの「まったく弦楽的な語法で書かれていない非ヴァイオリン的な箇所がいろいろとあった」ために「全面的な改訂の必要を感じた」が、その作業を「先延ばしにしてしまった」、「私が悪かったと率直に認めるものである」と前掲の『自伝』に記している。

13  Ruggiero Ricci(1918-2012)……アメリカ合衆国のイタリア系ヴァイオリニスト。

14 擦弦楽器、特にヴァイオリンを指すが、あえてフィドルというときには、その民族音楽との関係が強調されるようだ。ヴァイオリンは歌い、フィドルは踊る。

15 「名器を自在にあやつる名人の演技」およびそれに続く引用は、小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。

16  Jacque Thibaud(1890-1953)……フランスのヴァイオリニスト。「最後に来たのはチボーだったが」とあるが、ティボー来日の翌1937年にエルマンが再訪している。

 

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その二 運命愛のひと~ダヴィッド・オイストラフをめぐる系譜

 

1945年1月23日ベルリンのブラームス……人間が人間として生きることさえままならぬとき、なんとか自らを人間に繋ぎとめようという、その切実な思いが、一瞬の芸術として結晶する。ゆえにその演奏が録音に遺された「幸運」を言ってみたりもするわけだ。言ってみたりはするものの、では現代の我々に、その録音から何が聴こえてくるというのか。フルトヴェングラーの指揮によるあの演奏には、どこか狂気じみた、いわばディオニュソス的なものが溢れ出している。もとより演出ではない。眼下に奈落が見えていればこそだ。その人生の一瞬が感動の要件なのだ。すなわちそこで実現されていた音楽は、きわめて特殊な、一回性の、「彼等」だけのものであって、芸術的普遍性をもって今日の私どもにそのまま連なってくるというような、美学的なものではない。

作家の五味康祐は、「その場に居合わせたかった演奏会」としてこのコンサートを挙げている。それを揶揄して「つまり、いつ殺されるかわからないような、そんな運命の最中にいたかったのか」と嘲笑した人があった。そんなのは五味ナントカの安っぽい感傷だ、というわけだ。しかし私は、五味は「本気」だったのだと思う。いずれ妄想にすぎないにせよ、思いは命と引き換えだったのだと思う。音楽を「聴く」ということについての彼の執念には、凄まじいものがあると思われるからだ。つまり、そうでもしなければあの演奏は本当にはわからないという、痛切な思いがあったのではないか。

といって、ではその、薄っぺらなコピーに過ぎざるところのレコードを黙殺できるかというと、どうもそれも難しい。ときにふと棚から取り出してターンテーブルに載せてしまう。そして感傷の誹りを承知のうえで、ちょっと涙ぐんだりもしてしまいかねないというわけなのだ。

これはどういうことだろうか。音楽に感動しているというより、音楽のもたらす感動に感動しているだけではないのか。

 

予備校で現代国語など教えていると、時々不遜なヤツがやって来て、「先生、文学なんか読んで何か意味があるんですか」などとおっしゃる。形式上は質問だが、これは「文学になど意味はない」という反語であり、一種の抗議である。わざわざ言いに来るヤツは僅かだが、そう思っている諸君は少なくないだろう。なるほど君には意味がないのだろう。それは君が人生の危機を知らない幸福者だからだ。奈落の淵に置かれた人間は、文学とか芸術とかを求めるものらしいぜ? 生きるに必要なものを求め尊重するのは当然だ。それは生物として生きる人間にとって必然的なことだ。ということは、ひょっとしたら、生きるに必要のないものこそが、生物としての人間ではなく、それを超えて、人間としての人間を成り立たせているのかも知れないじゃないか。君は、物事を合理的に考えようとしているのだろうが、どうせならそれを合理主義として徹底してみたらいい。純粋に必要ということだけを価値として考えるなら、自分が、この宇宙にたった一回存在するということ自体、無意味だということになるんじゃないか? そのような虚無に陥らぬために、文学の切実な意味を知ってそれに賭けた人間の感動をわかっておくというような、そんな経験もまた必要なものかも知れないよ?

 

「幸福」な時代を生きる我々の想像力などの手には負えないのだろうが、それでも、あの時代あの瞬間のベルリン市民が、音楽を切実に「必要」としたということ、これは考えておかねばならないことのように思われる。フルトヴェングラーが、ナチスとの緊迫した関係におかれながら、あえてぎりぎりまでベルリンに留まり続けた理由もそこにあるのではないか。亡命すれば、それは単に保身というだけでなく、ナチス政権に対する抗議の表明にもなる。しかしながら、では祖国に残る人々はどうなるのか? 彼等は、時の政権の性格などとは関係なしに、自らの国で、これからも人間として生きていかねばならないのである。フルトヴェングラーは自らに義務と責任を課し、命懸けでそれを全うしようとしたのではないか。暗闇の中で再開された演奏には、芸術に託して追求された、運命に拮抗する人間の勝利が賭けられていた、そう考えることはできないか……もとより、実証に基づいて言うのではない。ひとつの可能性として言うのである。希望である。

 

「人間に何かが足りないから悲劇は起るのではない、何かが在り過ぎるから悲劇が起るのだ。否定や逃避を好むものは悲劇人たり得ない。何も彼も進んで引受ける生活が悲劇的なのである」(小林秀雄「悲劇について」)

 

ダヴィッド・オイストラフの音は、真っ直ぐに「来る」。躊躇いがない。ひじょうに率直な、大きな演奏だ。今、私はそう思うようになった。手許にある幾つかのオイストラフ評を引いてみても同じである。「深く、バランスの取れた、音楽家としての技倆のともなった、気高さ、誠実さ、そして、飾り気のなさ」「その音の大きさ、幅、よく伝わる響き、またアーティキュレーションの朗々たる豊かさとビロードのように温かい肌ざわり」「その演奏の説得力と音楽的な純粋さ」「すべすべと肌理こまかく、硬質な力強さ」「ロシアの自然を感じさせる瑞々しい抒情性」……聴けばわかる、とでも言いたくなるようなその感触を、なんとか表現しようと言葉を探し重ねている、その評者の気持がうかがえる。私もまったく同感である。

だが、はじめは別段いいとも思っていなかった。技術的な問題などは私にはわからない。ただ、こっちに「来る」何かがなかったのである。

ところが、である。吉田秀和が、オイストラフのレコードを聴いて愉悦に浸る小林秀雄を描いているのだ。

「数年前、大磯の大岡昇平さんのお宅で、小林さんにお目にかかった。少しお酒が入ると、小林さんが、レコードをききたがり、『名人をきかせろ、名人をきかせろ』と言った。大岡さんが、『そう、何があるかな』といって、探したが、なかなかうまいのが出てこない。失礼だと思ったが、私が立って、大岡さんのコレクションをひっかきまわしてみると、いろいろモオツァルトの珍しい曲とか何とかはあっても、名人の名演と呼べるほどのレコードはほとんどない。やっと、オイストラフの独奏したシベリウスのヴァイオリン協奏曲がみつかったので、それをかけると、小林さんはとても陽気になり、一段と早口になって、『こうこなくっちゃ、いけません』とか何とか言いながら、真似をしたり、陶然とききほれたり、それを見ているのは、本当に楽しかった」(『ソロモンの歌』)

……これは困った。小林秀雄がオイストラフをいいと言ったらしい。となれば、オイストラフが悪いとは、すなわち私が悪いということだ……まさかそんなふうに従順に考えたわけでもないが、オイストラフを聴き直さねばならない仕儀になったとは、これは直ちに思ったことだ。ソヴィエト連邦の巨匠オイストラフなど、東西冷戦の心理的緩和剤として捏造された希望としか、それまでの私には見えていなかったのである。鉄のカーテンの彼方にも存在した尊敬すべき人格者、それはそうかも知れぬが、そもそも生産性至上主義の偏狭な合理主義的空間に芸術など育つはずもないのだから、巨匠オイストラフとはいえ、どうせ大したヴァイオリニストではない、というわけなのだった。事実、いまひとつ覇気に欠けるような、そんな演奏も彼にはある。だから、小林秀雄の称賛も、ひょっとしたら大岡昇平ならびに吉田秀和の親切に報いた挨拶にすぎないのではないか……。

まもなく、私は自らの偏見を糺されることになる。件のシベリウス、ヴァイオリン協奏曲。オイストラフはそれを幾たびも録音している。民族的な香りといい全三楽章の見事な構成といい、多くのヴァイオリニストを誘惑してきた名曲であるから、既に少なからぬ録音があるわけで、そこにさらに一枚を加えるとなれば、さすがに生半可なことはできないに違いない。それを、四回だか五回だか、とにかく呆れるほど繰り返し吹き込んでいる。もとより各地のオーケストラの要請に応えたにすぎないのかもしれないが、やはりオイストラフ自身にも並々ならぬ思いがあったのではないか。私の手許には三種あるが、みなそれぞれに違ってそれぞれにいい。北欧の風と大地の香気が立ち上るストックホルムのもの、いかにもロシアンとでも称すべき怒涛のモスクワのもの、そして美学的な構築が図られたフィラデルフィアのもの。

小林秀雄の聴いたのはどれだろう。それはともかく、「少し」、かどうかは疑わしいが、とにかく「酒が入って」、小林秀雄が「名人をきかせろ」と、おそらくは上機嫌に繰り返した、そのまことに率直な要求は、他でもない、ヴァイオリンが聴きたいということであったろう。音楽で「名人」といえば、少なくとも小林秀雄にとってはヴァイオリニストだし、「私はヴァイオリンという楽器が、文句なく大変好きなのである」と書いてもいる。そこで大岡昇平と吉田秀和という弟子筋の二人があれでもないこれでもないと棚をひっかきまわした挙句、ようやく鳴り始めたのがたまたまオイストラフだった。シベリウスのコンチェルト第一楽章冒頭である。まずは静謐、北欧の黎明の大気に乗って、一頭の猛禽類が悠然と線を引いて舞う。その切れ目のない一筆書きの旋律を、オイストラフという正真正銘のヴァイオリニストが、そのストラディヴァリウスが、渾身の演奏で描ききるのだ。「こうこなくっちゃ、いけません」……。さてどんなものだろう。もとより私の空想にすぎないが、しかしいずれにせよ、この夜のオイストラフは、師匠の意に見事にはまったようである。

 

1908年、オデッサに生まれたダヴィッド・オイストラフが、当地の音楽院に入学したのは15歳、1923年である。それは、十月革命後の内戦に赤軍が勝利しソヴィエト連邦が成立した、その翌年だ。そして1924年にはレーニンが没し、ほどなくスターリンが権力を掌握することになる。オイストラフの音楽家としての始動は、かかる転換期に重なっている。しかもその当時、あの、綺羅星の如く居並んでいた国内の「先輩たち」は一人も残っていなかった。エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ヤッシャ・ハイフェッツ、そして彼等の師であるレオポルト・アウアーも、皆アメリカに渡ってしまった後だった。サンクトペテルブルクのアウアー一門は去ってしまったが、幸いなことに、アウアーの系譜を継ぐ名教師ピョートル・ストリャルスキーはオデッサに健在だった。オイストラフは五歳でその門下となり、そのままオデッサ音楽院、ストリャルスキーのマスタークラスに入ったのである。

ベルギーのアンリ・ヴュータン、ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキの後継として、1868年サンクトペテルブルクの音楽院にやって来たハンガリーのレオポルト・アウアー、このマジャールのユダヤ人教師によって確立されたヴァイオリン演奏の頂点ともいうべきロシア派は、上に述べたように一門を挙げて亡命、アメリカ合衆国にその拠点を移したが、ストリャルスキーによって本国にもその系譜は遺されていたのである。そこでオイストラフは、よほど大切に育てられた。エルマンやハイフェッツや、さらには後のメニューヒンが、セーラー服に半ズボン姿で活躍したその歳頃に、オイストラフは国家のヴァイオリン部門を担うべく将来を嘱望され、その才能の「時熟」のために第一級の教育を受け続けていたのである。彼が本格的な演奏活動に移行するのは、その教育課程をすべて終えた十八歳になってからだ。

ピョートル・ストリャルスキーが偉大な教師であったことは疑いない。オイストラフ以前にも、ナタン・ミルシテインという俊才を世に出している。となれば、その演奏を聴いてみたくもなるのだが、録音は存在しないようだ。これはよくあることで、殊にかつてのロシアや東欧では、その部門の第一位は教育に専心し、したがって録音活動等はしない傾向とみえる。晩年になって、自分の演奏がままならなくなる頃に、ようやく後継者のために僅かに録音するくらいのものなのだ。アウアーにも公式の録音はない。現代の我々にとっての録音活動が、専ら同時代平面上での、水平軸での普及を眼目とした商行為であるのに対し、二十世紀初頭のそれは、ときに後世への保存と継承を本質とする、縦軸の教育的行為であったことがわかる。ミルシテインは亡命してしまったが、オイストラフはロシアに留まり、師を立派に継承した。だとすれば、ストリャルスキー先生は、もはやご自身の録音のことなどお考えにならなかったであろう。音楽家の最大の仕事は教育だ、自分の名はどうでもよろしい、優れたものが受け継がれ育まれさえすれば……ひたすら個の達成を価値として生きねばならない現代人は、ただ嘆息し、仰ぎ見るばかりである。

ロシア派のロシアでの系譜はダヴィッド・オイストラフに託された。そして彼はモスクワ音楽院教授としてそれに応えた。息子のイゴール・オイストラフの他、ヴィクトル・トレチャコフ、ヴァレリー・クリモフ、マルク・ルボツキー・ヴィクトル・ピカイゼン、オレグ・カガン、ギドン・クレーメル……門下には錚々たるヴァイオリニストの名が並ぶ。が、他方、オイストラフには膨大なディスコグラフィーもあるのである。それは、言ってみれば、ソヴィエト連邦はその文化的内実によっても西側世界を圧倒せねばならない、という国家の方針の表れだ。それに応えたオイストラフはどこまでもロシアの人なのである。すべては、自分を育ててくれた国家のためだと言っている。ソ連を出て西側で暮らすつもりはないか、とメニューヒンに尋ねられて、何から何まで国家の世話になり、国家のお陰でヴァイオリニストになれたのに、その国家を捨てることなどできない旨を答えてもいる。その国家がソヴィエト連邦のことかどうか、それはわからない。しかし、政治体制の如何にかかわらず、祖国はあり、祖国の人々はいる。オデッサに生まれたロシア系ユダヤ人として、彼は祖国のために忠実であったのだ。彼は宿命に抗わず、それをすべてとして受け容れていた。

さて、1954年ロンドン・アルバートホール、翌年ニューヨーク・カーネギーホール。この二つのコンサートの成功で、オイストラフは世界が注目するヴァイオリニストになった。ロンドンでは、ハイフェッツと比較して称賛する批評も現れた。カーネギーホールのコンサートは、これはオイストラフにとっても記念すべき音楽会であったろう。この日のホールのスケジュールは、二時半からミッシャ・エルマン、五時半からがオイストラフで、八時半からはストリャルスキー門下の先輩ナタン・ミルシテインというプログラムであった。三人ともウクライナの出身のロシア系ユダヤ人である。さらに客席にはポーランド系ユダヤ人のフリッツ・クライスラーの姿もあった。「彼が深く物思いに沈んでわたしの演奏に聞き入っており、それから立ち上がって拍手してくれたのを見ると、私は感激のあまり、夢を見ているような気分になった」(マーガレット・キャンベル『名ヴァイオリニストたち』阿部宏之訳)

この頃、オイストラフはヴァイオリニストとしての人生の頂点にいた。そしてこの後、さらに高まる国家の要求に、演奏会とレコーディングの、息つく暇もない苛酷なスケジュールに、ただただ翻弄されていったのである。しかもそれに何の不満も抱かず、いつも上機嫌で、ときにはヴィオラを構えたりタクトを振ったりしながら、演奏家として、プロフェッサーとして、故郷と故郷の人々のために、幸福に生き抜いて、そして疲れ切ってしまったオイストラフ。その晩年の人生は悲劇的である。遺された音源に、その本領とは隔たるものがあるのもやむを得ない。しかしながら注意深くその演奏に耳を傾ければ、やはりオイストラフという人の人となりが見えてくるのである。

 

ソヴィエトでの録音に、ヴィターリのシャコンヌがある。聴けば一瞬で救済されるような、どんな人生も肯定されるような、そういう健全な音楽である。その感触は生涯を通じて変わらない。

 

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注)

ダヴィッド・オイストラフ(1908-1974)……ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市オデッサに生まれる。ユダヤ系。父はアマチュアのヴァイオリニスト、母は合唱団の歌手。家は貧しくストリャルスキーはレッスン料を免除した。

1934年モスクワ音楽院助手、1935年国内コンクールで優勝し、そのまま必勝を期して、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場するが、カール・フレッシュ門下のジネット・ヌヴーの熱演に一位を譲った。しかし、1937年のブリュッセルの第一回イザイ・コンクールでは優勝してその地位を確乎たるものにし、1938年にはモスクワ音楽院教授に就任、続く戦時中には多くの慰問演奏会を行い、1941年スターリン国家賞を受賞した。戦後1946年のプラハの春音楽祭での成功で世界の注目を浴びるが、まもなく東西冷戦構造のなかで国際的なキャリアは中断、1951年のフィレンツェの音楽祭で西側の舞台に復帰した。1958年には国連総会で演奏、1960年レーニン賞、1961年カザルスのプラド音楽祭に招待。ショスタコーヴィチの二つのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフのヴァイオリンとピアノのためのソナタ等、オイストラフに献呈された作品の多さが、彼の国家における地位を示唆している。また、ソロ活動の他、第一回ショパンコンクールの覇者レフ・オボーリンとのデュオや、それに同年で同僚のチェロ奏者スビャトスラフ・クヌシェヴィツキ―を加えたトリオでも活躍した。

1974年、コンセルト・ヘボウの指揮者を務めるべく訪れていたアムステルダムで、一日がかりのリハーサルの後急死した。享年六十六。

 

シベリウスのヴァイオリン協奏曲……ニ短調、作品47。1903年発表、1905年改訂。オイストラフのものとして紹介した三種はそれぞれ、シクステン・エールリンク指揮ストックホルム祝祭管弦楽団(1954年)、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団(1970年?)、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(1959年)。

 

エフレム・ジンバリスト(1889-1985)……ロシア・ロストフ州出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。

 

ミッシャ・エルマン(1891-1967)……ウクライナ・キエフ近郊出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。

 

ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)……現リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1917年にアメリカ合衆国に移った。

 

レオポルト・アウアー(1845-1930)……ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1868年よりサンクトペテルブルク音楽院のヴァイオリン科教授となり、ロシア派を確立する。1918年にアメリカ合衆国に移った。

 

ナタン・ミルシテイン(1903-1992)……オデッサ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ピョートル・ストリャルスキー門下、のちレオポルト・アウアーに師事。1925年にアメリカ合衆国に移った。

 

イエフディ・メニューヒン(1916-1999)……ニューヨーク出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ルイス・パーシンガー門下。のちジョルジュ・エネスコ、アドルフ・ブッシュに師事。

 

フリッツ・クライスラー(1875-1962)……ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父はポーランド・クラカウ出身である。ウィーン音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガーⅡ世に師事、のちパリ音楽院でランベール・マサール門下。

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その一 ヴァイオリニストの話をする前に

 

「休日は ?」「クラシック音楽を聴いています」「ほぉ ! いいですねぇ」……どこかひっかかる。たしかに「クラシック音楽」は「いい」。ところが、「いい」というそのニュアンスに抗う気分もこちらにはある。ロックにもジャズにも「いい」ものはあるし、クラシックにも、こういっちゃなんだがどうでも「いい」ようなものがたくさんあるような気がするし。そもそも「クラシック音楽」が豊かな趣味的生活の、さらには、ひょっとしたら、その趣味的生活を支える富裕な経済的生活の、その象徴みたいになっていないか。それが「いい」か?

「午後のひととき、クラシック音楽をお楽しみください」……こんな文句がラジオから聞えてきたこともあった。そのとき一緒にいたK君は不自然に黙った。K君は西洋美術史を専攻する若い研究者だが、話が音楽、ことにクラシックになると、哲学者の顔で語り始め、しばしば止まらなくなるので、K君の前でクラシック音楽を話題にするときにはしかるべき覚悟を要するのである。そんなK君の沈黙だ。私は傍らにあって彼の不機嫌を悟った。

「午後のひととき、か」

「僕はそんなふうに音楽を聴いたことはありません」

「同感。では ?」

「ええと……人生の一瞬 !」

 

最小限の食物が一個の身体を支えるとき、丹念に嚙みしめられる二百グラムのパンは、深く痛切な祈りがこめられた物となる。二百グラムの重さのまま、それをはるかに越えたいわば根柢的な重さを獲得する。

(『小さなものの諸形態』市村弘正)

 

その「深く痛切な祈り」へと飛翔する想像力がなければ、人は一切れのパンがもつ「根柢的な重さ」などに気づかぬまま、それを単なる消費物へと貶めてしまうだろう。現に今日、パンならぬ芸術でさえ、少なくともこの「豊かな」国では、人々のひとときの感傷に応えるだけの、果敢ない役を担わされていないか。ベートーヴェンが、南京虫に食われながら命がけで音楽を創り、吹雪の日に雷鳴とともに死んだのは、そんなもののためだったのか。そんなはずはないのである。芸術とは、その創造にせよ、あるいはその享受にせよ、人間が人間として生きるために必須の何かだったのである。それともそんなことは、私の狭隘な芸術観に過ぎないのだろうか。

 

そうかも知れない。しかしながらたとえば、二次大戦中のベルリンでのある出来事は、芸術というものの一つの可能性についてよくよく考えさせてくれるもののように思われる。

1945年1月23日、連日の空襲で壊滅寸前にあったナチス政権末期のこの都市にあって、ベルリン・フィルハーモニーは、なお定期演奏会を開催している。それは政権の矜持を懸けたプロパガンダではあっただろうが、そうした為政者の意図を超え、民衆の切実な思いの凝縮される場にもなっていたであろう。その演奏会は日常として継続されねばならなかった。ただ、一年前の空襲でフィルハーモニーの建物が破壊されたために、演奏会場だけはアドミラルパラストという赤い絨毯の敷かれた劇場に変更されていた。モーツァルトの歌劇「魔笛」より「序曲」、同じく「交響曲40番ト短調」、そしてブラームスの「交響曲1番ハ短調」、以上が当日のプログラムである。指揮、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。

既に前年、フルトヴェングラーは、自らの名がゲシュタポのブラックリストに加えられていることを知らされていた。また、ヒトラー側近の建築家として首都ベルリンの設計を担っていた閣僚アルベルト・シュペーアから、ただちに亡命すべきことを示唆されてもいた。そんな差し迫った状況に彼はあった。

連夜の空襲で、その日の開演も午後三時に繰り上げられていた。そしてプログラムはモーツァルトの「交響曲40番」へと滞りなく進んでいた。ところがその第二楽章でのこと、突然、館内は闇に閉ざされた。照明が落ちたのだ。空襲 ? だがフルトヴェングラーは陶酔から覚醒しなかった。突然の停電にもかかわらず、タクトは振り続けられた。団員たちは、一人また一人と弓を持つ手をおろし、口もとから管を離していった。もとよりそれもやむを得ないことであった。暗闇のなか、非常灯がいくつか青く光っている。第一ヴァイオリンだけが少し長く演奏していたようだが、それも束の間のことだった。やがて完全な静寂が訪れ、フルトヴェングラーの視線は音楽家たちの上にさまよい、次に背後の聴衆に振り向けられた。タクトはおろされた。それは……それは何かの敗北であった。

舞台裏にさがった団員たちは、ひとかたまりに佇んだ。その沈黙の真中にフルトヴェングラーは悄然と立っていた。聴衆は数人ずつになってロビーや中庭に散っていた。いつか夜になっていた。煙草に火を点け、手を擦り合わせながらひそひそと言葉を交わすが、彼らには何のあてもなかった。が、会場を離れる者もいなかった。皆、瓦礫を踏み越えてきたのである。これが最後だ、誰もがそう感じていたのである。

おおむね一時間の後、送電の復旧を待たずに、フルトヴェングラーは決断した。団員は持ち場に帰った。灯りのない舞台の上で、振り上げられるタクトがかすかな光芒となり、最後の音楽の最初の音が響いた。ティンパニーによる「運命」の鼓動。それは中断したモーツァルトではなく、プログラムの最後、ブラームスの「交響曲1番」第一楽章であった。それはいかにも必然的な選択であった。居合わせた人びとには、ブラームスを媒介とした沈黙の連帯こそが求められていたのである。フィナーレには黎明の旋律が「歓喜」の楽章のように流れ、聴衆は、おそらく、ベートーヴェンを起源として育んできたドイツ的伝統に陶酔したことであろう。そして緘黙の裡に熱狂したことであろう。と同時に音楽は、生存の意志を訴える叫びともなって、全楽章を貫いたのであった。

 

ブラームスは、この最初の交響曲の創作に、着想からおおむね20年の歳月を要した。ベートーヴェンの九つの交響曲があったからである。その九曲の正統に続く一曲、「第九」のあとの一曲を音楽史上に現す……ブラームスにとって、少なくとも交響曲を作曲するということは、そういうことに他ならなかった。それゆえ、数年に及んだ推敲を経てようやく発表されたこの作品には、自らベートーヴェンの後継たらんとし、歴史に推参せんとしたブラームスの、その芸術家としての人生を賭した格闘の痕跡があるはずである。ハンス・フォン・ビューローは、この一曲を「ベートーヴェンの十番目の交響曲」と称賛した。「ドイツ3B」だの「新約聖書」だのと、とかく気の効いた言い回しが印象的なビューローの言葉であるから、そのまま受け取るべきではないかも知れないが、またこの言葉によってブラームスはかえって迷惑を被ることもあったであろうから、「交響曲10番」みたいな言い方はやめておくのが賢明だろうが、それでも、そういいたくなるような鼓動は、たしかに音楽の底に脈打っているように思われる。ブラームスは1897年に没したが、その魂はベートーヴェン以来のドイツ音楽史に融け合って生き続けていたかも知れない。そして常に深い畏敬の念と謙譲とを以て史上の作曲家に向き合い、その作品を、既に存在するものとしてではなく、その都度生成されるべきものと考えたフルトヴェングラーが、いま、それを現前させた。ドイツに留まらざるを得ない多くの同胞のために、奈落にあっても生きるべき一つの根拠を提示し続けるために、亡命を選ばず母国に留まったフルトヴェングラー。そのベルリンでのフィナーレに立ち合った聴衆は、演奏会場の外で確実に進行する亡国の激浪に翻弄されながらも、信頼に足る唯一の実在である音楽に依ってそれに耐え、ドイツ民族の系譜に自らを見出したのではなかったか。

 

1945年のこのブラームスの1番は、フルトヴェングラー専属のレコード・エンジニアであり盟友ともいうべきフリードリヒ・シュナップ博士によって、停電復旧後の第四楽章のみではあるが、録音されている。

 

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注)

1945年1月23日……この日、同じベルリンで、ベートーヴェン「皇帝」も録音されている。ピアノ、ヴァルター・ギーゼキング。最初期のステレオ録音として再生音楽史に遺るものだが、そんなことより、背後に、高射砲か何かの不穏な音が聞こえるのである。

 

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954)……ベルリン生まれ。1922年ベルリン・フィル常任指揮者に就任。ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュの後継である。1933年に帝国音楽院副総裁(総裁リヒャルト・シュトラウス)の地位に就くなど要職にはあったが、ヒンデミット事件での振舞い等から、単純にナチス側の人間だとは断定するわけにはいくまい。しかしながら、大戦勃発後もドイツに留まったということもあって、戦後は所謂「非ナチ化」のための裁判を闘わねばならなかった。アルトゥール・トスカニーニやヴラディミール・ホロヴィッツ、ナタン・ミルシテイン等のユダヤ系の音楽家による批判はその後も続いたが、イエフディ・メニューヒンはユダヤ人ながら、フルトヴェングラーを擁護したのであった。戦後のメニューヒンは「落ちた」との評判が専らだが、少なくともフルトヴェングラーとの共演は、そんなことはない。

 

ハンス・フォン・ビューロー(1830~1894)……フリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)、ついでフランツ・リストの就いて学んだピアニストであるとともに、リヒャルト・ワーグナーの高弟として近代的指揮法を創始した指揮者でもあった。ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演を担当。ベルリン・フィル常任指揮者。むろんワーグナー派に属したが、妻(リストの娘コジマ)がワーグナーのもとに走った頃から、徐々に一派を離れ、古典派ブラームスに与するようになった。バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ3B」と名付けたり、またバッハの平均律クラヴィーアがピアノの「旧約聖書」であるのに対し、ベートーヴェンの三十二のソナタは「新約聖書」であると称賛したり、なかなかうまいことを言う、おそらくは当代きっての教養人であったと思われる。ブラームスの交響曲1番を「ベートーヴェンの10番」と賛辞を送ったのも彼だが、それをブラームスの驕りであるかのごとく受けとめる向きもあっただろう。

 

フリードリヒ・シュナップ(1900~1983)……音楽学を修めた哲学博士。実際の演奏の緊張や均衡を活かすべく、ただ一本のマイクロフォンの絶妙な配置によって優れた録音を実現した。フルトヴェングラーは「何も行わない」シュナップを信頼し、戦中録音のほとんどを委ねている。戦後は北西ドイツ放送局に移り、1951年にもフルトヴェングラーの指揮でブラームスの1番を録音した。このときのコンサート・マスターは、シュナップと同様にベルリンから北西ドイツ放送交響楽団に移籍していたエーリッヒ・レーンであった。1945年1月23日の演奏会のコンサート・マスターは、このレーンか、ゲルハルト・タシュナーか、ということになるのだが、私にはちょっとわからない。タシュナーはチェコの人であるし、1941年に入団したばかりであるから、あのライヴの民族的高揚ということを考えると、やはりレーンか……などと考えてみたくもなるが、根拠があって言うのではない。なおジネット・ヌヴーのソロとハンス・シュミット・イッセルシュテットの指揮によるブラームスのヴァイオリン協奏曲のライヴ録音があるが、それも、その音質の傾向から、シュナップ博士による録音ではないかと、私は想像している。無私の録音技術こそが、きわめて個性的な表現を実現するという逆説であるか。「そういう風にはみえないでしょうが、私は内気な人間なんです。出しゃばるのが嫌いなんですよ」。

(了)

 

野心家のヴァイオリン

ヴァイオリンを「女とコンビ」だとした小林秀雄は、さらにその文脈で「ヴィトーとかモリーニなんて、みんなストラディヴァリウスですよ。もうストラディヴァリウスの素直な音を、女みたいに出しているんですよ、これがいいんですね」と言っている。ここは「ストラディヴァリウスの素直な音」を「女」に譬えているとみるべきところで、そうだとすれば、ヴァイオリンの名器のもう一派グァルネリウスは「男」にも譬えるべき「屈折した音」ということになるのかも知れない。「屈折」はともかく、確かに男性ヴァイオリニストの、ことに技巧に卓越した名人の系譜にはグァルネリウスの奏者が目立つようだ。「グァルネリウスという楽器はとても扱いにくい楽器なんですよ。つまり、個性を出そうとするやつにはいつでも従うんです。だけれども、うまく弾こうとするやつには、あまりにかたいんですよ。……あれは野心家にはもってこいの楽器なんです」。ストラディヴァリウスが女流の系譜に不可欠だとするなら、グァルネリウスはどこまでも個性的な野心家の系譜を支えてきた、そういう楽器だといえば、私などにも合点のいくところがある。

 

フィリップ・ニューマンて何者ですか―本誌連載「ブラームスの勇気」の杉本圭司氏からの電話であった。ナニモノという言い方だから単に素性を問うのではない。その人物(むろんヴァイオリニストだ)を知って、たぶん驚き、誰だ此奴は!という衝撃を質問にかえて言って寄越したのだ。とすれば、杉本氏はフィリップ・ニューマンを聴いたということになる。ではいったいどうやって?(オレだって聴いたことないのに……)。フィリップ・ニューマンは自らno record catalogueと称した、文字通り「伝説」のヴァイオリニストなのである。20世紀の名演奏家でありながら公式録音がない。だから聴きようがないわけだ。もっともヴァイオリニストの系譜を追うマニアックな連中はみんなその名を知っている。それはひとつのエピソードによるのである。

フィリップ・ニューマンはベルギー派の巨匠ウジェーヌ・イザイに教えを乞うべくその邸を訪れた。ところがイザイは既にまつの病床にあって面会は謝絶、廊下での演奏だけが許された。彼はイザイ作の難曲、無伴奏ヴァイオリン第4番を奏した。それを聴いたイザイは言った「すばらしい、けれどフィナーレが少しはやすぎたようだね」……。

その後ニューマンはイザイに代わってエリザベートベルギー王妃のヴァイオリン教師となり、またイザイ・コンクール(後のエリザベート王妃国際音楽コンクール)の開催に尽力するなど、まさにイザイの後継として活躍するのだが、録音はおろか公開演奏すらほとんど行わず、我々はこのエピソードと、それに「ニューマンはまさしくイザイの再来である」というユーディ・メニューヒンの言葉を手掛かりに、その幻影を追い「伝説」を織ってきたのであった。

……実はたった6曲だが録音があるのである。それは死の前年に門弟たちの前で行ったブリュッセルでのライヴだ。もっともプレスされたLPレコードは僅かに300枚という私家版であるから、一般の愛好家にとってはそれもまた一つの「伝説」みたいなものである。

私にしてもno record catalogue氏のそのレコードを、いつかは聴いてみたいと念願するものの手に入る見込みはなく、かえって幻影への思いを強めつつ、嘆き、しかし楽しんでもきたわけだ。ところがそれを杉本氏は聴いたという。「濃厚で強烈で。グァルネリの真髄です」。CDになっているのを見つけたのだそうだ。早速拝借して聴いた。それはまことに濃厚で強烈、グァルネリの真髄というのに異議のない音であった。しかも驚異的とでも形容すべき高度な技巧である。「技巧派」ときけば「無内容」と応ずる向きもあるが、とんでもない話で、圧倒的に優れた音楽的表現を実現するためには圧倒的な技巧が欠かせまい。たしかに収録曲のなかには技巧そのものを伝えるようなプログラムも含まれていたが、実はその演奏こそが、私にはいちばん忘れ難い。タレガ作曲「アルハンブラの思い出」のヴィルトゥオーゾ的編曲版だ。弟子たちに自分が生涯を賭して習得した技術のすべてを伝えようとしているかのような、その会場の空気が蘇る。先生の日ごろの流麗な演奏の底に潜んでいる大いなる秘密を、生徒たちはまざまざと見たことであろう。それはいかにも感動的な光景のように思われた。

杉本氏の見立ての通り、フィリップ・ニューマンのヴァイオリンはグァルネリウスである。1741年のグァルネリ・デル・ジェスで、しかも「ヴュータン」と命名されている。アンリ・ヴュータンはイザイの師だ。シャルル・ド・ベリオを起源とするベルギー派の重鎮であり、ド・ベリオが突然若い歌手と「駆け落ち」してしまったために、10歳かそこらでその後継を務めねばならなかったという、正真正銘の神童である。圧倒的な技巧を持った少年ヴュータンは、シューマンからは「小さなパガニーニ」と呼ばれ、当のパガニーニの前でも演奏してこの悪魔的な巨人に衝撃を与えたと言われる。かかる伝聞と遺された作品(例えば「アルプス一万尺」の旋律の強烈なヴァリエーションがある)から、おそらく歴史上最も偉大なヴァイオリニストの一人であったと推察しても、妄想ということにはならないであろう。そのヴュータンのヴァイオリンがニューマンの楽器なのだ。「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば足りた」パガニーニの魂がここに系譜をなしているのである。

 

さて、小林秀雄はグァルネリウスの奏者としてブロニスワフ・フーベルマンの名を挙げている。「あれはとっても圧力が要るんです、あの楽器は。それでおもしろいことを言っていたよ。たとえばテノールがうまくなると、声を割るでしょう、て言うんだよ。声を割る―、あれができるのはグァルネリウスだけなんですね。声が割れるんですよ……そういう楽器ですから、あれは野心家にはもってこいの楽器なんです。これを一番うまく使ったのがフーベルマンだったと思うんです。ところが、フーベルマンといわれてもこれは僕が中学時代、あの頃、ヨーロッパを風靡したそうだね、フーベルマンの音というのは。これはグァルネリウスなんです」。

フーベルマンはポーランド系のユダヤ人だ。ポートレートの印象は強靭偏屈傲岸不遜、ひょっとしたら、ベートーヴェンみたいな人だったのではないか。当時、というよりも全歴史を通じてというべきか、ともかく最大の教師であり、国際的なキャリアの緒に就くためには是非とも通過せねばならぬ必須の要件でもあったかのヨゼフ・ヨアヒムの門を敲くべく、弁護士の父親はほとんど全財産をつぎ込むようにして神童をベルリンに送り出したが、当人はヨアヒムからその助手を教師にあてがわれて失望し、まもなくその地を去ってしまった。もっともヨアヒムは、必ずしもこの10歳の少年に冷淡だったわけではなさそうだ。はじめて演奏を聴いたときには歓喜のあまり涙したというし、裕福ではない生徒のために奨学金の世話もしている。しかしながら今、レコードに遺されたフーベルマンの演奏を聴くと、ひょっとしたらヨアヒムとは相性がよくなかったのではないかとも思う。よく知られているようにヨアヒムは、幼時にメンデルスゾーンの薫陶をうけ、シューマンに交わり、後にはブラームスと同盟してリストやワーグナーに対峙したという、所謂古典派の象徴みたいな人である。それに対してフーベルマンは、これはいかにも個性派なのだ。それがベルリン以前からのものなのか、ヨアヒムに決別した結果なのかはわからないが、私にはちょっと類例のない演奏家と思われる。独特の節回しは、むしろ歌謡の伝統に連なるのではないか。その故か、フーベルマンほどその評価や好悪の別れる「巨匠」もまた少ない。決定的な師らしい人を持たなかった独学のヴァイオリニストにとって、その師となったのは聴衆であり、おそらくそのことが、ヨーロッパ全土の熱狂といくらかのしかし無視すべからざる反発、そして音楽の大衆化を促したのではないか。

1734年のグァルネリ・デル・ジェス「ギブソン」を携え、瞠目すべき技巧と抒情性をもって不安な時代の欧州を駆け抜けたフーベルマンの姿は、そのおよそ100年前、故郷のジェノヴァを出て、フランス革命後の欧州各地を遍歴し、比類ない技量でシューベルトやシューマン、そしてショパンをも圧倒しつつ、民衆を昂奮の坩堝に巻き込んだパガニーニの面影に重なる。パガニーニの彷徨は、共同体的な絆を断たれ、誰もが故郷喪失者となる近代という時代の宿命の象徴だ。一丁のグァルネリ「カノン」を道連れに、聴衆の魂を奪うために、そのためだけに旅した。他方フーベルマンの音楽は、忌まわしい分断の時代へと突き進む当時のヨーロッパにあって、その統一を夢想する社会的ロマン主義に繋がっているとみえる。パレスチナにおけるユダヤ人のための管弦楽団の創設は、そのような彼の「功労」の最も重要な一項目である。そしてその真摯なヒューマニズムの音楽哲学は、他ならぬベートーヴェンの「クロイツェル」の録音に早くも現れていたと考えてみたが、さてどんなものだろう。

 

グァルネリウスの似合うヴァイオリニストは、やはり個性的で野心的だ。そして何処か孤独だ。それはジュゼッペ・グァルネリという放蕩無頼の問題児、そしてたぶんその故に、自らのヴァイオリンにイエス・キリストを象徴する十字架のロゴマークを入れなければならなかった「デル・ジェス」の職人の魂に関わる問題でもある。

(了)

 

注  ⑴ 「音楽談義」、1967年。新潮CD『小林秀雄講演』第6巻所収。

⑵ アマーティ一族、ストラディヴァリ一家に続く、イタリア・クレモナのヴァイオリン職人の家系による製作品。そのうち、バルトロメオ・ジュゼッペ・アントーニオ・グァルネリ(1698-1744)の作は、イエス・キリストを示すロゴマークがあることから、「デル・ジェス(イエスの)」と称され、ストラディヴァリウスとともに、ヴァイオリンの最高峰とされる。

⑶ 「ヴァイオリニスト」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第19集所収。

 

女とヴァイオリン

小林秀雄は作家五味康祐との対談(1)で、ヴァイオリンは「女とコンビというような楽器」だと言っている。これはどういう意味だろう。他に、名人を聴かせろよと所望する小林秀雄にダヴィッド・オイストラフのレコードを聴かせたら上機嫌になったという話もある(2)。こっちはよくわかる。小林秀雄は「職人」というものを尊重したと伝えられているが、オイストラフはまさに職人的名ヴァイオリニストだからだ。しかしヴァイオリニストに「職人気質」の女流というのがいただろうか。女とヴァイオリニストが「コンビ」だとはどういうことであるか。

もとより女流がつまらないというのではない。私自身、クラシック音楽との忘れ難い邂逅は、それこそ「女とヴァイオリン」だったのだから。ジネット・ヌヴーによる一撃。「私はふるえたり涙が出たりした」。これはユーディ・メニューヒンが始めて日本で演奏を披露したその翌日、新聞紙上に早々と掲載された小林秀雄の感想(3)の口真似だけれど、しかし確かに私はふるえたり涙が出たりしたのだった。それははじめて蓄音機でレコードを聴かされたときのことだ。ローリングストーンズしか聴かなかった男が、その日を境にクラシックのヴァイオリン曲を、それこそ貪るように聴き始めたのだから、それはやはり、ジネット・ヌヴーという女流ヴァイオリニストによって私の人生にうち下ろされた、強烈な一撃だったのである。ラヴェルの小品だったが、そんなことはどうでもよかった。ピアノの、その誘うような序奏のあと、唐突に鳴り渡ったヴァイオリンの響き……それは本当に突然だった。私は吃驚してしまった。畳敷きの貧しい部屋は隅々までその、嘆きのような歌うようなヴァイオリンの音色に瞬時に満たされたのだった。聴かせてくれた友人は「ストラディヴァリウスだ」と言った。なるほど、これがあのストラディヴァリウスか。私はヴァイオリンという楽器に説得されたように思ったものだ。(4)

 

クレモナのアンドレア・アマーティとブレシアのガスパロ・ダ・サロ。ヴァイオリンという楽器の二つの「源流」である。そのうちブレシアの系譜は17世紀にジョヴァンニ・パオロ・マッジーニという名工を産み、そして絶えた。絶えはしたがその響きは、現代ヴァイオリンの祖ともいうべきヨゼフ・ヨアヒムの、その後継としてベルリンに招聘されたアンリ・マルトーのいくつかの音源によって確かめることができる。マルトーのヴァイオリンはモーツァルトがマリア・テレジアから貰ったというマッジーニだ。他方アマーティの工房はその孫ニコロ・アマーティの門下からストラディヴァリウスとグァルネリウスの二つの流派を輩出することになる。アントニオ・ストラディヴァリ、そしてグァルネリ・デル・ジェス。周知のようにこれらの名を措いて今日に至る名ヴァイオリニストの系譜を語ることはできない。

それら名器の相貌は私などにもちょっと違って見える。完璧な均斉と調和がストラドなら、デル・ジェスはやや歪んだような危機的な均衡だ。そもそも伝わるところの人物像からして著しい対照をなしている。アントニオ・ストラディヴァリはアマーティ門下の俊才で一徹まじめな職人気質、独立後は大きな工房を構え、長寿を全うするその直前まで仕事に精を出して、散逸したり失われたりしたものも少なくないだろうに五百挺を越えるヴァイオリンを今日に遺した。そこにはおそらく、アマーティの甘美な音色に豊麗な響きを付与することで達成された「理想」の境地がある。他方グァルネリ・デル・ジェスことジョゼッペ・グァルネリは、殺人の罪で投獄されたりもした放蕩無頼の厄介者だ。もっとも監獄の中に材料道具を持ち込んで仕事を続け、生涯ヴァイオリンだけをしかも一人で製作し続けたらしいから、むらっけはあるがひとたび集中すると物凄い仕事をやってのけるというような、所謂天才肌の、魅力的なヤツだったにちがいない。

 

小林秀雄はグァルネリウスを「野心家にはもってこいの楽器」と評した。これも五味康祐との対談のなかでの発言である。そこではブロニスワフ・フーベルマンという名が挙げられているが、なるほど、フーベルマンも含めてグァルネリの使徒には、聴けばきっとその人だとわかるような独特の音色をもつ奏者が多いように思う。

さて小林秀雄がストラディヴァリウスについて語る言葉はいちだんと力強く、しかもちょっと難解だ。「……やっぱりストラディヴァリウスという楽器に従うよりほかしょうがない。これに悠々と従って悔いないという名ヴァイオリニストはいないんです」。ストラディヴァリウスには誰もが服さなければいけない。しかし名ヴァイオリニストにはそれができない。「解釈がどうの、何のかんの」、「あんなナチュラルな楽器は、そんな人工的なものには抵抗しますからだめなんですよ。素直にストラディヴァリのこさえたとおりの音をもっと出そうというふうに弾かなければ、ヴァイオリンというものは成り立たないんです」……。

ここにはストラディヴァリウスというヴァイオリンについて、何かしら決定的な了解が語られている。それは、聴衆はもちろん演奏家にも優越する何かなのだ。17世紀後半に出現した名工の手になるその美しく小さな楽器は、ヴァイオリン音楽の歴史そのものの完全な凝縮である。ヴァイオリン音楽の本領は、すなわちそこに籠められてある「音」そのものなのだ。それを解き放つにあたっては如何なる思想も観念も、邪魔にこそなれ、何ら足しにはならない。

1951年、メニューヒン来日。小林秀雄は「ああ、何んという音だ。私はどんなに渇えていたかをはっきり知った」と書いた。「タルティニのトリルが鳴り出すと、私はもうすべての言葉を忘れて了った。バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった。さような音楽的観念は、何処やらへけし飛んで、私はふるえたり涙が出たりした」とも。いたずらな観念への傾斜は、音楽経験の頽廃に連なる。名ヴァイオリニストは、あるいは男というものは、ひょっとしたら、「解釈がどうの、何のかんの」と頭のほうから企てようとして台無しにしてしまっているということがあるかも知れぬ。近代という偏狭な理性の時代に埋没したならば、あるいはすべてを対象化して問わずにいられない思いあがった精神性と刺し違える覚悟なしには、もはや真の音楽的感動など得られないのではないか。

優れたものに対しては自己を滅却してそれに融合するかの如く従ってこそ、はじめてそれが了解され、また「私」もよりよく活かされるということがあるにちがいない。「大体、ヴァイオリンというものはそういうものなんですよ。女とコンビというような楽器なんです」。肉体を離れた空しい言葉が己の中に渦巻いているような野郎が一番だめなのだ。そういう手合いに蔑まれているような女の方にこそ健全に保たれている心があるとは、日常、よく教えられるところである。技術も腕力も存分に備えた男はどうしてもその力にものを言わせてしまうのではないか。力に劣る女は徹頭徹尾自分を相手に添わせ合わせて、かえって人をも自分をも活かしきるのではないか。それゆえに小林秀雄は、女とヴァイオリンは「コンビ」だと言ったのである。

その「女」のうち、わけても小林秀雄が称揚したのは、イタリアのジョコンダ・デ・ヴィートであった。アルカンジェロ・コレッリに始まり、ニコロ・パガニーニで頂点に昇りつめたイタリアのヴァイオリニストの系譜に、その後のしばらくの静寂を経て名を連ねた、まだ十幾つの少女。南イタリアの葡萄農園に生まれ、叔父さんにヴァイオリンを習った。ローマでの16歳のデビューは、この楽器の世界では珍しい事ではないが、翌年には音楽院の教授になっている。けれども国際的な活動とレコーディングはずっと後になってからだ。

ジョコンダ・デ・ヴィートは「イタリアの音楽家」なのである。豊かで温かなその響きと音色は、ちょっと比較しうる奏者が見当たらないようだ。そして歌。歌謡性と抒情性の高次の統合。それは空間に満ち溢れ、聴くものはその中に包み込まれてしまうから、それに対峙して何のかんのと言う気にもならない。ヴァイオリンのベルカントなどと称えられるが、そしてそれに反対するつもりはないが、ベルカントとはちょっと違うつつましさ謙虚さがある。アマチュアのヴァイオリニストだったムッソリーニが激賞し、ストラディヴァリウスを贈りたいと申し出たときには「男性からあまり高価な贈り物を貰ってはならないという価値観を母から教えられている」と言って辞退した。バッハとベートーヴェンそれにブラームスを特に重要なレパートリーと考え、古典派を全うし、52歳で「自分の能力の頂点に達した」として引退、再び楽器を手にしなかった。録音も30曲ほどしかなく、伝説のヴァイオリニストみたいなってしまったが、その音は今でも確かに鳴っている。

 

先ほど引用したメニューヒン来日の際の小林秀雄の感想はこんなふうに締めくくられていた。「メニューヒン氏は、こんな子供らしい感想が新聞紙上に現れるのを見て、さぞ驚くであろう。しかし、私は、あなたのような天才ではないが、子供ではないのだ。現代の狂気と不幸とをよく理解している大人である。私はあなたに感謝する」。大地や肉体との紐帯を断った知や観念というものは、いったい何処を浮遊するのか。他者への信頼を放棄した魂は、いったい何処に向かうのか。そんな現代の狂気と不幸に翻弄されつつある今の私にも、かつて貧しい六畳間を満たしたようなストラディヴァリウスの音色は、間違いのない救済なのである。

(了)

 

注 (1) 「音楽談義」、1967年。新潮CD『小林秀雄講演』第6巻所収。

(2) 吉田秀和「演奏家で満足です」、新潮文庫『この人を見よ』所収。

(3) 「メニューヒンを聴いて」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第19集所収。

(4) ジネット・ヌヴーのヴァイオリンは、アントニオ・ストラディヴァリの息子オモボノの作、飛行機事故で主人とともに喪われた。