奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一七年十二月号

発行 平成二九年(二〇一七)十二月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

 

今号の「美を求める心」、坂口慶樹さんのタイトルは「ゴッホ、ミレーにまねぶ」で、ミレーを慕い、ミレーを真似ることに情熱を燃やしたゴッホは、ミレーの何をまねび、まなんだかに思いが馳せられている。

私たちの「小林秀雄に学ぶ塾」も、「小林秀雄をまねぶ塾」すなわち「模倣する塾」である。塾生の一人ひとりが、黙って何度も小林秀雄を読む、読みながら一人ひとりが自分の経験と工夫によって、どうすれば上手に小林秀雄になりきれるか、ということは、小林秀雄の生き方を真似しきれるか、そこに心を砕いている。そのそれぞれの工夫が、思いがけない小林秀雄となって現れる、それが小誌『好・信・楽』のエッセイである。

今月は、特にその思いがけなさがきわだった。村上哲さん「数式を詠む」は数学の学徒という自分が、越尾淳さん「本居宣長の冒険」は中央省庁の官僚という自分が、謝羽さん「悲しみはなぜ大切なのか」は星野道夫にも思い入れの深い自分が、いまこういうふうに小林秀雄になりつつあるということを書いてくれた。それは小林秀雄を鏡として、そこに自分自身を映し出すということであったが、数学と歌、官僚と「古事記」、星野道夫のアラスカと歌という、思いがけないといえば思いがけないアナロジーが示され、小林秀雄が新しい光のなかに浮かび上がった。

 

 

「小林秀雄 その古典との出会い―堀辰雄と林房雄を通して」を寄せて下さった石川則夫氏は、現代における小林秀雄研究の第一人者である。

十年ほど前のことだ、小林秀雄が昭和四十年の十一月、國學院大學で行った講演のテープが見つかっているが、これをどう扱うかについて相談したいと知人を介して打診があった。当時、石川氏と面識はなかった、しかし、どこにもまだ知られていない小林先生の講演テープが出てきたとなれば気が逸る。さっそく訪ねていって経緯を聞き、講演内容そのものを聞かせてもらって、「新潮CD 小林秀雄講演」への収録を提案した。

幸い、國學院大學と、小林先生の息女、白洲明子さんの同意も得られ、平成二十二(二〇一〇)年四月、同CDシリーズの第八巻「宣長の学問/勾玉のかたち」として発売した。言うまでもなく、石川氏に解説を書いてもらった。

以来、諸事にわたって一方ならぬご厚情をかたじけなくしているのだが、今回本誌にいただいた「小林秀雄 その古典との出会い」も格別である。これは、紛れもなく第一線の学界誌に載せられるのが至当と言えるほどの論考である。だが、学術論文の詰屈さはない。それどころか、小林秀雄に人生の舵を大きくきらせた二人、堀辰雄と林房雄のこなしや口ぶりまでもが生き生きと感じられ、「文壇思想劇」のさわりとも言いたくなるような臨場感がある。

ボードレール、ランボーなどのフランス文学でスタートを切り、ほとんど同時にロシア文学に立ち向かい、ドストエフスキーとの格闘は三十年にも及んだ小林秀雄であったが、四十歳前後から日本の古典に正対し、後半生は「無常という事」をはじめとしていわゆる日本回帰が顕著になり、最後は「本居宣長」まで行った。この西洋から日本の古典へという舵を、小林秀雄にきらせた動因は奈辺にあったか、これは小林秀雄研究者のみならず、読者にとっても大きな関心事であった。

しかしそこには、ずっと濃い霧がたちこめていた。石川氏の今度の論考によって、ずいぶん広く、また遠く、見通しがきくようになった。研究者の方々にはもちろんだが、十二年かけて小林先生の「本居宣長」を読んでいる塾生諸君には、ぜひとも読んでおかれるようにとお薦めする。

 

 

日本の古典といえば、私は入社以来十五年間、新潮社で「新潮日本古典集成」の編集にも携わった。古典は現代語訳で読んではいけない、古典は意味よりも姿である、姿に親しむことが大事である、現代語訳はその姿を隠してしまう、だからいけないと常々言われていた小林先生は、「新潮日本古典集成」の傍注方式をたいそう誉めて下さった。

傍注というのは、「源氏物語」なら「源氏物語」の本文のすぐ横に、現代人には見当のつかない言葉や章句に限って小字で現代語訳を添える、その現代語訳を言うのだが、小林先生は、刊行開始前からこの傍注に関心を寄せられ、刊行開始後は新刊が出るたび私に感想を語られた。

その「新潮日本古典集成」の企画立案者であり、傍注方式の導入者であった新潮社の元編集者、谷田昌平さんの展覧会が、東京・町田の「町田市民文学館ことばらんど」で催されている(「編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」、12月17日まで)。谷田さんは、「古典集成」の前には「純文学書下ろし特別作品」のシリーズを成功させ、安部公房の「砂の女」、遠藤周作の「沈黙」など、今日では現代文学の古典とされている名作をいくつも世に送っていた。

私にとっては大先輩という以上に大恩人だが、小林先生たちが健在で、日々健筆をふるっていられたころ、谷田さんのような編集者は、出版各社に三人か四人、必ずいた。幸いにしてこの展覧会には、小林先生と同時代に生きて、先生を仰ぐとともに怖がっていた作家たちの手紙や原稿も展示されている。塾生諸君がこの展覧会を観ておいてくれれば、より濃厚な時代の空気感とともに小林先生の話を聞いてもらえるだろう。

作家の展覧会はけっこう催される。しかし、編集者が展覧会の対象になるということはめったにない。谷田さんのような展覧会は、空前と言っていいだろう。ではなぜ谷田さんの場合は可能だったのか。谷田さんが、敏腕の編集者であると同時に、最も知られた堀辰雄の研究家だったからである。戦後すぐ、諸人に先んじて堀辰雄研究を志し、手探りで作った年譜に堀辰雄自身の加筆を受けるなど、今日の堀辰雄研究の基礎を築いた。それが縁で「堀辰雄全集」を企画していた新潮社に呼ばれもした。そういう谷田さんであったから、自らの足跡保存も綿密だったのである。

 

今月は、図らずも堀辰雄によって大きく視界がひらけ、多くの思い出が油然とわいた。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

七 「源氏物語」味読による開眼

1

 

前回、宣長は、平安時代からずっとあり、宣長の時代にもごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を、独自の思想で染めたと書いた。その「独自の思想」は、どういうふうに彼に生じ、どういうふうに育ったのだろう、それが今回の主題である。

すでに述べたところと重複するが、まずは要点を辿り直すことから始めようと思う。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」に藤原俊成の歌が取り上げられ、「本居宣長」の第十三章に引かれている。

―俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……

宣長は、二十八歳の年に京都遊学から松坂へ帰った。「安波礼弁」はその翌年である。彼は、もうここで、「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはまったくちがった関心で受取っている。すなわち、平安時代の貴族たちにとっての「もののあはれを知る」は、日常生活において求められる美的情操としての趣味を解し、その方面の知恵教養を身につけることであった、が、宣長にあってはそうではない、人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不可思議、そこに驚き、そこを見つめることが「もののあはれを知る」ということだと解しているのである。

そして宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次のことに読者の注意を促すと前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言いそのかみのささめごと」の巻一から引いている。

―「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上私淑言」巻一)……

だが、しかし、である。

―「あはれ」と使っているうちに、何時の間にか「あはれ」に「哀」の字を当てて、特に悲哀の意に使われるようになったのは何故か。「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)である、と宣長は答える。「石上私淑言」でも同じように答えて、「新古今」(「新古今和歌集」)から「うれしくば 忘るることも 有なまし つらきぞ長き かたみなりける」を引用し、「コレウレシキハ、情ノ浅キユヘナリ」と言っている。……

―この考えは、彼の「物のあはれ」の思想を理解する上で、極めて大事なものと思える。彼は、ただ「あはれ」と呼ぶ「ココロウゴき」の分類などに興味を持ったわけではない。「阿波礼という事を、情の中の一ッにしていふは、とりわきていふスヱの事也。そのモトをいへば、すべて人の情の、事にふれて感くは、みな阿波礼也」(「石上私淑言」巻一)……

「あはれ」を、「哀しい」「かわいそう」というような、悲哀の心の動きに限って解するのは、この言葉の一面を取り立てているに過ぎない。これらは所詮、「あはれ」という言葉の一端である。この言葉の根幹は、うれしい、おもしろいなどもすべて含んで、人の心が物事にふれて様々に動くことにある、それらのすべてが「あはれ」なのである。

問題は、人の心というものの一般的な性質、さらに言えば、その基本的な働き、機能にあった。「うれしき情」「かなしき情」というのも、

―「心に思ふすぢ」に、かなう場合とかなわぬ場合とでは、情の働き方に相違があるまでの事、と宣長は解する。何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は「すべて心にかなはぬ筋」に現れるとさえ言えよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される。……

すなわち、物事が思いどおりに運ぶときは、それをそうしたいと思った心はそれをそうする行為に取って代られ消えてしまう。しかし、物事が思いどおりに運ばないとき、心が行為に取って変られることのないときは、最初にそれをそうしたいと思った心を別の心が責めたりあらためたりする。そこに「意識」というものが現れる、つまり、

―心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……

こうして宣長は、平安時代からずっとあり、彼の時代になってもごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を、独自の認識論で染めた。そして彼は、「もののあはれを知る」ことで人の心のあるがままをあるがままに認識する、それが、人生いかに生きるべきかの要諦と確信したのである。

 

2

 

宣長の「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後に成ったと見られているが、「石上私淑言」が成ったと見られる宝暦十三年には、宣長の「源氏物語」論「紫文要領しぶんようりょう」が成った。「紫文」とは「紫式部の文章」の意で、「源氏物語」の雅称である。小林氏は、先に引いた「彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった」に続けて、「紫文要領」巻下から引いている。

―此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるよりほかの義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし。……

「源氏物語」は、読者に「もののあはれ」というものを知ってもらう、それが作者、紫式部の執筆意図である、だから読者も、この物語によって「もののあはれ」を知る、大事なことはそれだけである……。

では、「もののあはれを知る」とはどういうことか。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上)……

これを承けて、小林氏は言った。

―明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……

ここで小林氏が言っている、「宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」に関して、前回、氏における認識という言葉の根を見たが、ここでもう一度立ち止まり、氏が、「子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」と言っていることの根もよく見ておこうと思う。というのは、小林氏が、「宣長は知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と言っている「認識」と、今日、私たちが言っている「認識」との間には相当のひらきがあり、そのため、ややもすると、小林氏がわざわざ「子供らしい認識」「大人びた認識」と並置して言ったところを読み落す恐れがあるからである。

そのひらきを一口で言えば、小林氏が言いたい「認識」は、「感じる」と「知る」とが常に同時に、一体で作動する「子供の認識」である。しかし、私たちがふだん、別段そうとも思わずに行っている「認識」は、私たちが子供から大人へと成長する間に「感じる」と「知る」とが分化し、「知る」が「感じる」を伴うことなく行われるようになっている「認識」である。「子供の認識」では、感受性と判断力とが常に一体であるが、「大人びた認識」は判断力すなわち理性が感性・感受性を押しのけて幅をきかす、そういう認識である。つまり「大人びた認識」は、自分自身の五官・五感はほとんど働かさず、外部からの情報を頭で分析し、それだけで「解った」としてしまう認識である。

小林氏は、終生、批評という文筆表現によって人生いかに生きるべきかを問い続けたが、その答は早くに出ていたと言ってよい。人間という生き物は、どういうふうに造られているか、その造られ方に副って生きる、これである。人間の造られ方に背いたり、抗ったりして生きようとしても生きられない、生きられたとしても、その人がこの世に生きる意味が自得され、心の幸福に到達するような生き方にはならないと言っていた。

しかし、人間という生き物は、ひいては自分という人間は、どういうふうに造られているか、これは誰にも明かされていない。一人一人が生きてみて、経験してみて、こうかこうかと仮説を積み上げ、日々を生きるという実地の実験と観察とで一つひとつ仮説を裏づけ、そのうえで自分には何ができるか、何をなすべきかを工夫する、それしかない、そしてこれが生きるということである。したがって、人生とは、死の瞬間まで人生とは何か、いかに生きるべきかという謎との格闘である、これが小林氏の人生観であった。

そういう人生観に立って、小林氏がまず確信に達していたことのひとつは、人間誰しも、死ぬまで半分は子供である、だからいくつになっても半分は子供でいようとしなければならないということであった。生きるために、生活するために、私たちは誰もが大人にさせられてしまうが、大人として生きるに必要な能率優先の即物的直観力とは別に、人生とは何かを正しく見てとる哲学的直観力は子供の頃の直観力に源泉がある。ところが大人になると、誰も彼もが子供であった頃の自分を見くびったり忘れてしまったりし、大人になってからこそ必要な「子供」を迷子にしてしまっていると小林氏は言うのである。

何事も、原初のありかたこそが真のありかたなのだ。「認識」もそうである。「知る」と「感ずる」とが同じであるような「子供の認識」、これが自分自身の、自分だけの人生をいかに生きるべきか、その仮説を積み上げるに不可欠の「認識」なのである。小林氏が、宣長の言う「もののあはれを知る」を前にして、「彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない……」と言った行間には、これだけのことが言われていたのである。

 

「知る」と並べて言われた「感じる」も同様であった。子供が大人になって、大人の分別でどうとでもなるような「感じる」を小林氏は言っているのではない。「子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」と言ったあとに、すぐ続けて言っている。

―「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しくよこしまなる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也」(「紫文要領」巻上)、よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。……

人間の心は、心そのものが全的認識能力を完備している、だから、わざわざ観点というものを設けて何かを見る、何かを観察するといった、人為的な使い方は必要ないのだと言うのである。だが、私たちは、またしても科学的なものの見方であるとか、歴史に対する史観であるとか、何彼につけて観点を設け、天与の全的認識能力を損ないがちだ。そこを衝いて小林氏は言う。

―問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……

その「全的認識能力」を馳駆して宣長が見てとった「源氏物語」の作者、「『物のあはれ』という王朝情趣の描写家ではなく、『物のあはれを知る道』を語った思想家であった」紫式部に、私たちも会いに行くのである。

 

3

 

小林氏は、第十三章に入って、「もののあはれ」という言葉に正面から向きあう。「通説では、『もののあはれ』の用例は、『土佐日記』まで溯る」とまず言い、平安時代に、紀貫之が「土佐日記」に残した「もののあはれ」について言う。

鹿児かこの崎を船出しようとして、人々、歌を詠みかわし、別れを惜しむ中に、「楫とり、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば」とあるその用法で、貫之が示したかったのは、「もののあはれ」と呼べば、歌の心得ある人は、誰も納得すると彼が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である。……

紀貫之は、承平四年(九三四)十二月、土佐守の任期を終え、京へ向かって土佐(今の高知県)を船出した。「土佐日記」はその道中の日記風紀行文で、「楫とり」は貫之たちが乗った船の船頭である。

―「もののあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼(宣長)は、この平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。……

―貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。……

―「あはれ」という歌語を洗煉するのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。貫之は「土佐日記」で、「楫とり、もののあはれも知らで」と書いたが、一方、楫とり達の取り交わす生活上の平語のリズムから、歌が、おのずから生れて来る有様が、鮮やかに観察されている。……

「平語」とは、日常の言語、普段の言葉である。宣長は、貫之が頑なに歌語と考えていた「もののあはれ」を、平語のなかに解き放つという道を行った。なぜかと言えば、貫之に「もののあはれも知らずに」と侮蔑気味に言われた楫とりたちであったが、その実、彼らの日常普段の言葉のリズムで、いくつもいい歌が生まれている。そのさまを、貫之が見てとってもいる、歌を詠むには必須と思われていた情趣「もののあはれ」であった、にもかかわらず……なのであった、これはいったいどういうことか、「もののあはれ」とは何なのか……。宣長は、楫とりの身になって考え始めたというのである。

 

小林氏は、そこまで言って、

―さて、ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。……

と、「土佐日記」に注いでいた視線を、「源氏物語」に転じる。

これが、「源氏物語」という作品が、「本居宣長」に登場する最初である。小林氏は、第十一章を書き上げた後、雑誌連載を半年休み、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」という折口信夫の言葉を鼓膜に留めて「源氏物語」を熟読した。雑誌に復帰し、満を持して、第十三章のペンを握って、こう言ったのである。

氏の文章を読んでいこう。

―開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい。彼は、「源氏」を評して、「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみ(匹敵する書)はあらじとぞおぼゆる」(「玉のをぐし」二の巻)と言う。異常な評価である。冷静な研究者の言とは受取れまい。率直は、この人の常であるから、これは在りのままの彼の読後感であろう。彼は「源氏」を異常な物語と読んだ。これは大事な事である。宣長は、楫とりの身になった自分の問いに、「源氏」は充分に答えた、と信じた、有りようはそういう事だったのだが、問題は、彼自身が驚いた程深かったのである。……

したがって、小林氏の言う「開眼」は、比喩ではない。宣長の一生を画した事件、そうまで言っていいほどに、「源氏物語」の味読は痛切な経験だったのである。歌人であった紀貫之に、「もののあはれも知らずに」と蔑まれた楫とりの側から、「楫とりの身になって」、「もののあはれ」という言葉を見直してみれば、果たして楫とりたちは「もののあはれを知らない」と言ってしまえるのだろうか、実は、それどころではないのではないか、これが宣長の抱いた問いであった。

―「土佐日記」という、王朝仮名文の誕生のうちに現れた「もののあはれ」という片言かたことは、「源氏」に至って、驚くほどの豊かな実を結んだ。彼は、「あはれ」の用例を一つ一つ綿密に点検はしたが、これを単に言語学者の資料として扱ったわけではないのだから、恐らく相手は、人の心のように、いつも問う以上の事を答えたのであろう。ここでも、彼自身の言葉を辿ってみる。―「すべて人の心といふものは、からぶみに書るごと、一トかたに、つきぎりなる物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおほかる物なるを、此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人のココロのあるやうを書るさまは、―」という文に、先きにあげた「やまと、もろこし」云々の言葉がつづくのである。……

―してみると、彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著した―「おほかた人のまことのこころといふ物は、女童めのわらはのごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つつむとつつまぬとのたがひめばかり也」(「紫文要領」巻下)。……

宣長の開眼は、人の心に向ってだった。

―彼は、非常な自信をもって言っている、「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」、「作りぬしの、みづから、すぐれて深く、物のあはれをしれる心に、世ノ中にありとある事のありさま、よき人あしき人の、心しわざを、見るにつけ、きくにつけ、ふるるにつけて、そのこころをよく見しりて、感ずることの多かるが、心のうちに、むすぼほれて、しのびこめては、やみがたきふしぶしを、その作りたる人のうへによせて、くはしく、こまかに書顕かきあらはして、おのが、よしともあしとも思ふすぢ、いはまほしき事どもをも、其人に思はせ、いはせて、いぶせき心をもらしたる物にして、よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」(「玉のをぐし」二の巻)。宣長は、此の物語をそういう風に読んだ。……

これが、まず第一の開眼である。人間の心は、一概にこうとは言い切れず、千変万化の現れ方をする。それを「源氏物語」は細大漏らさず描き出している。その、人の心の微妙な陰影までが描き出されているこの物語は、一点の曇りもない鏡を見るように鮮やかで、ここまで見事に人の心が描かれているさまは較べるものとてない。しかも、そこに描かれた人の心のさまは、作者自身がすぐれて深く「もののあはれ」を知ることのできる人であり、そういう作者が、見聞きしたり経験したりして心に感じたことを自分の心のうちには留めておけなくなって、自らつくりだした作中人物に託して詳しく細かに書き表したものである、この世の「もののあはれ」は、すべてここに尽くされている……。

 

 

「開眼」は、宣長の二つの大きな驚きによって成った。一つは、人の心とはこれほどまでに広大なものか、しかもこれまで思いこまされがちだった心のありかたとは真反対で、心は本来弱々しいことかぎりなく、だらしないほどのものだという驚きである。そしてもう一つは、そういう心のありさまを隅々まで知って、それを生き生きと言葉に写し出した紫式部という天才がいた、という驚きである。

この宣長の二つの驚きが、「もののあはれ」という言葉を歌語から平語へと解き放ち、人間の生活感情すべてを言い表す言葉として「もののあはれ」をまったく新たに迎え入れたということであった。紫式部は、「もののあはれ」の何たるかのみならず、「もののあはれ」はそれをそうと知ることによって人生のよすがとなるということを「源氏物語」によって示してくれた、宣長は、その「源氏物語」を味読することによって、「もののあはれ」とは、「もののあはれを知る」とはをどっしりと腹に入れた、これが「源氏物語」を味読することによってもたらされた宣長の開眼であった。

しかし、宣長が、「源氏物語」の味読によって「もののあはれ」の指すところを知り、「もののあはれを知る」ことの真意を解するに至ったのは、物語を読むより先に歌を詠むという、十九歳の頃に目覚めてこのかたの、宣長自身の切実な衝動が先にあったからである。「紫文要領」から「あしわけ小舟」へ遡るときである。

(第七回 了)

 

ブラームスの勇気

ブラームスの友人であり、八巻に及ぶ浩瀚なブラームス伝を書いた音楽評論家のマックス・カルベックによれば、ブラームスが第一シンフォニーの最初の着想を得たのは、一八五五年、二十二歳の時であった。

ブラームスは、作曲の際にとったノートやスケッチなどはすべて破棄してしまうのが常であり、音楽学者に対して、「私の死後、作曲の過程を勝手に推測しないでほしい」と要請するような人であったから、その二十二歳の時の着想が、現在の第一シンフォニーとどこまで関連があり、どのような経過を辿って最終的な形に至ったのかはほとんど何もわかっていない。しかし少なくとも、その頃からブラームスが交響曲を作曲するという大きな宿願を抱き、何度か作曲を試みながら挫折していたことは事実であった。たとえば一八五四年に作曲した二台のピアノのためのソナタを交響曲にしようとして、第一楽章をオーケストレーションするまでに至るが、結局断念してピアノ協奏曲に転換しているし、一八五九年には管弦楽のための四楽章のセレナードを交響曲に発展させようとして、やはりこれも果たせずに終わっている。

ブラームスの伝記に、現在の第一シンフォニーに直接繋がる記録が表れるのは、一八六二年、二十九歳の時である。六月、クロイツナッハ近くのミュンスター・アム・シュタインの山荘で共に休暇を過ごした友人のアルベルト・ディートリヒは、そこで草稿段階のハ短調の交響曲を目にしたと伝えている。またクララ・シューマンは、七月一日付のヨアヒム宛の手紙で、ブラームスから最初の交響曲の第一楽章のスコアを受け取った驚きを伝え、その冒頭部分をヨアヒムに紹介している。それは、後に完成する第一シンフォニー第一楽章の原型となるものであった。

その後十二年間、第一シンフォニーの作曲は、少なくとも歴史資料の上では中絶したかに見える。しかし出版社から「交響曲のことを忘れないように」との催促を受けていることや、作曲家マックス・ブルッフの書簡に、ブラームスの「交響曲のスケッチ」や「交響曲の楽章」についての言及が見付かるなど、その創作が水面下で進行していた痕跡は残されている。そして一八六八年九月十二日のクララの誕生日に、ブラームスは、アルプスで聴いたという角笛のメロディに歌詞をつけた楽譜をプレゼントするのだが、その旋律が、後に第一シンフォニー終楽章の冒頭で歌われるホルン主題となるのであった。

その第四楽章の作曲にブラームスが本格的に着手したのは一八七四年の夏になってからで、全四楽章が完成を見たのは、二年後の一八七六年九月、ブラームスが四十三歳の時であった。カルベックによって伝えられる最初の着想から数えると、実に二十一年の歳月をかけて作曲したことになる。しかも完成の数年前、ブラームスは、「私はけっして交響曲を作曲しないだろう」という言葉まで残しているのである。それ程までに、ブラームスにとって、ベートーヴェンの後に交響曲を作曲するということは、ほとんど実現不可能な大事業と思われたのだった。ある手紙の中で、彼は次のように告白している。

 

自分はベートーヴェンを大いに尊敬しており、ベートーヴェンがシンフォニーについてはすべてをやり尽くしたので、自分の背後にいるベートーヴェンを意識し、ベートーヴェンのシンフォニーを聴きながら、自分もシンフォニーを書くことは容易なことではない。

 

一方、最初の弦楽四重奏曲の成立についても、第一シンフォニーとまったく同じことが言える。ベートーヴェンの九つのシンフォニーが、交響曲というジャンルにおける前人未到の偉業であったのと同じように、ベートーヴェンの十六曲の弦楽四重奏曲もまた、この楽曲形式において「すべてをやり尽くした」と言っていい程の高みに達していた。もともとブラームスは、二十歳でシューマンを訪ねた時にすでに作曲済みの嬰ヘ短調とロ短調のカルテットを持参していたが、これは破棄された。現在のハ短調第一カルテットの起源、少なくともその要素は、この失われた最初のカルテットにあると見なされているが、ブラームスはその後も、少なくとも二十曲以上のカルテットを作曲し、破棄したと言われる。

第一カルテットは、一八六五年の末にはいったん初期稿が仕上げられ、翌年八月にクララの前で試演された。しかしその後も推敲が重ねられ、最終的に出版されたのは第一シンフォニーが完成する三年前の一八七三年、ブラームスが四十歳のときである(この時、イ短調のもう一つのカルテットと同時に出版された)。つまり弦楽四重奏というジャンルにおいても、その最初の一曲を産み落とすまでに、第一シンフォニーと同じく二十年の歳月を要したのである。

 

だが小林秀雄は、ブラームスがこの二曲をそれぞれ二十年もかけて完成させたという、その時間の長さだけをもって、ブラームスの「忍耐」と呼んだわけではなかった。また、ブラームスがベートーヴェンという偉大な先人に果敢に挑み、これを乗り越えようとしたところに「勇気」を見たということでもなかっただろう。「音楽談義」の中で、小林秀雄は、自分はもう世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは恥ずかしくて書けないと言い、ブラームスみたいに書きたいと思っているのはそういうことだと語っていた。つまりブラームスは、ベートーヴェン以上のものを作って世間を感動させてやろうとか、ベートーヴェンよりも上手いと言われるものを書こうとしたわけではないのである。第一シンフォニーと第一カルテットに費やした二十年とは、ベートーヴェンへの挑戦と超克の二十年ではなかった。少なくとも小林秀雄は、そうは考えていなかった。

指揮者のハンス・フォン・ビューローが、ブラームスの第一シンフォニーを「第十」と呼んで激賞したのは有名な話である。この音楽は、ベートーヴェンの九つのシンフォニーを継承する十番目のシンフォニーだというのである。しかしこの賛辞は、このシンフォニーが、ベートーヴェンの九つのシンフォニーの模造品であり、焼き直しであるとの批判と表裏一体でもあった。事実、この曲にはベートーヴェンのシンフォニーとのアナロジーが随所にあり、終楽章の主題がベートーヴェンの第九シンフォニー終楽章の主題とよく似ている点や、楽器編成や主題の扱いが第五シンフォニーを彷彿とさせること、何よりもハ短調で開始されてハ長調の勝利のコラールで終るという第五シンフォニーのイデー、「苦悩より歓喜へ」というベートーヴェンの音楽と思想の根幹を成す理念を再現しているという点で、正しくベートーヴェンの嫡子であり、模倣であった。そのことは、同じくハ短調で書かれ(この調性は、若い頃の小林秀雄の造語を借りれば、ベートーヴェンの「宿命の主調低音」であった)、ベートーヴェンのカルテットの書法を徹底的に研究した末に作曲された第一カルテットについても同様に言えるだろう。

ブラームスに対しては当時から、シューマンの「新しき道」に代表されるような「ベートーヴェンの再来」としての賞賛と期待が寄せられる一方で、新ドイツ楽派からの批判を中心に、「擬古典主義」とか「ベートーヴェンの二番煎じ」といった類の批判や皮肉が常にあった。今でも、四曲あるブラームスのシンフォニーの中で、ブラームスの本領が発揮されているのは二番以降のシンフォニーであり、ベートーヴェンの影が濃厚な第一シンフォニーには低い評価を与える専門家や好事家は少なくない。小林秀雄も、そのことはよく承知していただろう。しかし彼は、あくまでもを取り上げ、この曲をブラームスが書き上げたことを讃え、ここにこの作曲家の忍耐と意思と勇気を観じて、幾度も聴き続けたのである。

「音楽談義」の最後のところで、「誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君……」と呟いた後、小林秀雄は、「ブラームスだって、もっとすごい才能があれば、えらいことをしたでしょうけれども……」と付け加えている。それに続けて、「あとの兵六玉の……ではないですね……」と言っているようだが、聞き取れない。おそらく、彼が言おうとしたことは、次のようなことであったに違いない。

―もしもブラームスに、ベートーヴェンを凌駕する程の凄い才能が与えられていたとしたら、ベートーヴェンの音楽とは一線を画す革命的な音楽を発明して、音楽史を塗り替えようとしたかもしれない。しかしブラームスには、自分にはベートーヴェンを超えるような才能はないという非常に鋭い自意識があった。彼だけではない、そのような才能は音楽史上誰にも与えられてはいないという事実を誰よりも深く思い知っていたのである。それはまた、ブラームスのベートーヴェンに対する理解と尊敬の深度、すなわち彼の批評精神の鋭さの表れでもあった。同じくベートーヴェンに触発され、ベートーヴェンの音楽から出発したあらゆる浪漫派音楽家達、無数の「兵六玉」たちの中で、ベートーヴェンの音楽に対するブラームスの理解は群を抜いて深いものであった。だから彼は、リストやワーグナーのように、ベートーヴェンの先を行こうとする「未来音楽」を夢見たり、たとえばショパンやドビュッシーのようにベートーヴェンとは敢えて異なる道を歩いてみようとすることはできなかったのである。そして周りからは擬古典主義とかベートーヴェンの二番煎じと揶揄されながらも、ベートーヴェンが残した偉大な足跡と労苦の一つ一つを忠実に辿り、ベートーヴェンが実現した音楽の意味を完全に理解し、これを我が物とするところに自らの喜びを見出そうとした。言わば、「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の道を行くことが、作曲家としての自らの使命であり宿命であると自覚した人であったのだ。そういうブラームスの無私な努力の裡で、自ずとブラームス自身の真の個性が磨かれ、発揮され、遂にブラームスは、ブラームス以外の誰にも書けないような音楽を書き残すに至った。それが、ベートーヴェンと二十年間向き合った末に完成させた第一シンフォニーであり、第一カルテットであった。ここに、ブラームスの忍耐と意思と勇気のすべてがあるのだ。世間があっと驚くようなものを発明しようとすることや、他とは異なる個性を競うことよりも、それは遥かに勇気を要する仕事なのだ。だが世間は、これをベートーヴェンの模造品だと言うだろう。誰がわかるものか、ブラームスという人の勇気をね、君……。

(つづく)

 

ゴッホ、ミレーにまねぶ

雨混じりの、蒸し暑い日であった。

今年の8月初旬、七夕祭りで賑わいを見せている仙台に、私はいた。夕刻、授業を終えた予備校生達が、三々五々集まり、気付けば、大きな教室は一杯になっていた。河合塾仙台校が、放課後に開催している「知の広場」で、現代文講師の三浦武さんの進行により、池田雅延塾頭と杉本圭司さんによる講演「小林秀雄にまねび、まなぶ」が始まった(*)。

 

そこで、池田塾頭は、「学問」と「学習」の違いについて、概ね次のように説かれた。

「予備校生の皆さんが今やっているのは、『学習』であって、『学問』ではない。『学習』とは、人間社会で生きていく上でのルール、換言すれば、既に誰かが発見したもの、産み出したものを習うこと。一方、『学問』とは、人類の未だ知らないことを明らかにし、人類のために貢献することである。それでは、『学問』をしていく上で、一体どういう心掛けが必要になるのか。小林秀雄先生は、『本居宣長』第十一章(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)の中でこう仰っている。

「宣長が、その学問論『うひ山ぶみ』で言っているように、『学問』とは、『物まなび』である。『まなび』は、勿論、『まねび』であって、学問の根本は模倣にあるとは、学問という言葉が語っている」

小林先生は、模倣の達人として、モーツァルトとゴッホを挙げておられる。モーツァルトは、あらゆる音楽的手法を、知識として知るだけではなく、真似して再現して見せた。ゴッホは、ミレーや、日本の浮世絵を、何枚となく模写した。

そういう、模倣に模倣を重ねた、その先においてこそ、自分の真の個性に出会うことができるのである」

塾頭は、真剣な眼差しで聴き入る予備校生達に対して、噛んで含めるように説き、こういう趣旨の言葉で、話を結ばれた。

「皆さんは、来春の目標を目指して、まずは『学習』に邁進してください。晴れて大学生になった暁には、思う存分『まねび』、『学問』を実践してください。健闘を祈ります」

その言葉を聞き、力強く頷いた予備校生達の姿を目の当たりにして、30年前、京都の予備校に通っていた私は、当時の心境を思い出し、胸がはち切れそうになっていた。

 

私は、東京に戻ると、早速ゴッホの書簡集を読み直してみた。

彼は、とても率直な人らしく、気になっていることが、そのまま文面に頻出する。例えば、「ゴーギャン」「芸術家組合」「ルーラン」「ミレー」「日本画」という言葉を何度も目にする。

ゴーギャンとは、アルルの黄色い家で共に暮らし、「芸術家組合」を作ることが、ゴッホの永年の夢であった。しかし、切なる夢は、切なすぎる思い出として霧消した。

ソクラテスによく似た、アルルの郵便配達夫「ルーラン」は、数少ない友人の一人であった。あの災厄のような発作が起き、ゴーギャンが去った後の、汚れてしまった部屋を掃除してくれたのも、また「まるで老兵が初年兵をいたわるような寡言な厳しさと思いやりをもって」親身に接し続けてくれたのも、ルーランであった。

そして、「ミレー」と「日本画」は、まさに先の塾頭のお話の通り、ゴッホの「まねび」の対象そのものであった。小林先生も、「ミレー」について、こう書かれている。

「僕は、彼の手紙に現れるミレーという字を、幾つも幾つも追い乍ら、ここには、何かしら運命的とも呼ぶべき、深い出会いがある事を感じた。絵も見ない前に、ミレーという画家が、ゴッホに、少なくとも絵に没頭して以来最初の、そして恐らくは最大の影響を与えて了った、そんな風に感じた」(「ゴッホの手紙」、同第27集所収)

 

ミレーは、日本での人気も高く、さる2014年には、生誕二百年を迎えたこともあり、多数の解説書が出版されている。しかし私は、敢えてそれらに目を通したい気持ちを抑え、山梨県の甲府に向かった。ともあれ、小林先生がそこまで明言するミレーの原作と一対一で向き合い、単純率直に、その場で直覚するものを大切にしたかったのだ。山梨県立美術館への道すがら、海原のように広がる葡萄畑では、翡翠のように綺羅めく果粒の一つひとつが、初秋の太陽の光を浴びて、うんうんと、収穫直前の最後の成長のひと踏ん張りをしているように見えた。

この美術館は、自然に恵まれた「農業県山梨」に相応しいと、農民を多く描いたミレーの代表作を収集してきており、今や知る人ぞ知る「ミレーの美術館」となっている。

ミレー館に入る。山梨らしい赤ワイン色の壁紙が、諸作と溶け合って心地よい。

しかし、最初の作品「ポーリーヌ・V・オノの肖像」(1841-42年頃)を観た途端、私は、彼女の瞳に、雷に打たれたように釘付けにされてしまった。彼女は、ミレーの最初の妻であったが、病弱のため、結婚の三年後に他界した。まるで瞳そのものが、生きている。涙を溜めているようでもある。見つめていると、画中の彼女は、必死に私に話しかけようとする。が、思い余りて言葉にならぬ。気付けば私は、不首尾を承知の上で、彼女との対話を幾度となく試みていた。

続いて「落穂拾い、夏」(1853年)を観る。思っていたよりも小品である。刈り取った穀物の穂が、高く高く積み上げられていく作業を遠景にして、前景の三人の女性が、地面に残してもらった落穂を無心に拾っている。三人とも、真下の大地を凝視する。うち二人の腰は、痛いほどに曲げられている。そして、そこに会話は、ない。

このように、ミレーの作品には、重力を感じさせるものが多い。彼ほど、画中の人物が、鉛直方向、つまり真下にある大地を向いている作品、また、そうではなくても、目には見えぬ、力強い垂直の軸を感じさせる作品が多い画家は、いないのではないかと思う。この感覚は、実際に農作業に従事しなければ出せない、作家の野性に由来するものであろう。このことは、有名な「晩鐘」でも同様であるし、その他「種をまく人」「くわを持つ男」「葡萄畑にて」等、枚挙に暇がない。加えて、画中の人物の多くは、仕事中の農民であり、作業に一心に集中し、無言を貫いている。辛かろうが、苦しかろうが、そこに誇張や感傷性の表現はない。あるのは、ただ静謐のみ、である。

その他の作品も丹念に観て回り、こう思った。「私は農夫中の農夫です」と語っていたミレーにとって、闘うべき、かつ、祈るべき対象は、彼の伝記を書いたロマン・ロランが言うところの「万物が生まれでて万物がふたたび帰ってゆく、原初的な『無窮の』存在物である」大地という自然であったのではあるまいか。

 

一方、ゴッホにも、農民の家族を描いた、有名な作品「馬鈴薯を食う人々」(1885年、同第20集口絵参照)がある。一日の労働を終えた一家五人が、暗く煤けたように見える部屋の中で、馬鈴薯を食べている。五人の視線は、交わらぬ。料理の品数のみならず、団欒にあるべき会話も、ひたすら乏しい。

私が、この作品を持ち出してきたのは、農民画家と世間に呼ばれてきたミレーを、単に画題としてゴッホが模倣した、という趣旨ではない。本作を描いた二年半前に、ゴッホが書いたとして、小林先生が引用されている手紙に注目したかったのである。

「どんなに文明人になってもいいが、都会人になってはならぬ、田舎者でなければならぬ。どうも正確な表現が出来ないが、口を開かせずに働かせる何かしらが、人間の裡になければならない。喋っている事を超えた或るもの、繰返して言うが、行為に導く内的沈黙というものがなければならぬ。立派なことを仕遂げるには、そういう道しかない。何故か。何が起ころうと驚かぬ或る感情を人間は持つからだ。働く―次は? 僕は知らない―」(No.333)

 

私は、ゴッホの画を観ていると、静物画や風景画であっても、独特の緊張感を覚えることがある。ましてや、自画像であれば、なおさらである。それは、小林先生が「ゴッホの手紙」の冒頭で触れている、上野の東京都美術館で、「烏のいる麦畑」の複製画を観て、その前にしゃがみ込んでしまった時に覚えられた感じに近いのかもしれない。

「僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つのおおきな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる」(「ゴッホの手紙」)

 

併せて、ゴッホの手紙を読み進めて行くと、こんなことを思う。彼にとって、闘うべき、かつ祈るべき対象は、風景や生物や人物というものに始まって、大地から生れ出た、自分の肉体という自然に行き着いたのではあるまいか、と。

少し長くなるが、ゴッホが、サン・レミイの、鉄格子の嵌まった窓のある療養院にいた1889年9月、大地に帰る、十ヵ月前に書いた手紙を引いておく。

「治療法などないのである。もし一つでもあるなら、それは仕事に熱中するだけだ。この事を、僕は以前にも増してつくづく考え込んでいる。そして、病気が醸成されていたパリ時代の僕より、はっきりと病気になって了った現在の僕の方が増しであろうと思う様になった。今仕上げた背景に火の燃えている肖像を、パリ時代の僕の肖像と並べて掛けて見れば、その事が君にも解るだろう。現在の僕はあの時よりは健康に、ずっとずっと健康に見えるだろう。この自画像は、手紙より現在の僕を、恐らく君によく語っているだろう、君を安心させるだろう、とさえ僕は考えているのだ。描き上げるには、かなり苦しかったがね」(No.604)

 

ところで、そもそもヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、ジャン・フランソワ・ミレーの何をまねび、まなんだのだろうか。もちろん、ゴッホは、「驚くべきミレーの描線」の模写を繰返した。確かに、素描の勉強を本格的に始めた当初は、画中の人物が真下を向く、ミレーらしき画を多数描いている。しかし、その答えは、後のゴッホの作品を観て一目瞭然、というように、俄かに了解できる類のものではあるまい。

 

小林先生が、「ミレーに関する限り、僕の判断は、すべてこの書に負うのである」と仰るように、先生をして、ミレーがゴッホに最大の影響を与えたと確信させた、ロマン・ロランによる書物がある(『ミレー』、蛯原徳夫訳、岩波文庫)。

その中にあるミレーの言葉を、心静かに、噛みしめたい。

 

「美をつくりだすものは、描かれた物そのものよりも、それを描かずにはいられなかったという気持ちの方が大切です」

「(私は、)何も口に出してはいないが、人生の過重を自覚し、苦しみながらも叫び声や不平などもらさず、人間の運命の法則を忍びつつ、しかもその償いなどを誰にも要求していない、あの画中の人物などを、愛した」

「私は苦しみをのがれようとは思わないし、私を禁欲的にしたり無関心にしたりする信条を見つけ出そうとも思いません。苦しみは芸術家にもっとも強い表現力を与えるものかもしれません」

 

分かりきったことを言うようであるが、これはゴッホの言葉ではない。ミレーの言葉である。

 

気付けば私の身体の中で、新たな欲求が、ふつふつと湧いてきた。

ゴッホは、一体、もう一つの模倣の対象であった、日本画の何をまねび、まなんだのか。無私なる精神とともに、ミレーや日本画等の模倣を繰返してきた末に、ゴッホの作品に立ち現れた、彼にしか表現し得なかったもの、そういう画家の魂に、直に触れてみたい。その魂とは、小林先生の言う、例えば、各人の鼻の形状が千差万別である、というような「単なる個人々々の相違という意味」での個性ではない。「個人として生まれたが故に、背負わねばならなかった制約が征服された結果」(「ゴッホの病気」、同第22集所収)として作品に立ち現れて来た、画家の真の個性そのものである。

 

今まさに、小林先生が衝撃を受けたという、上野の山の美術館では、「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」展が開催中である。

 

(*)当日の講演の詳細は、「Webでも考える人」(新潮社)で、池田塾頭が連載中の「随筆 小林秀雄」二十二「模倣について」を参照ください。     http://kangaeruhito.jp/articles/-/2183

 

【参考文献】
*「ゴッホの手紙(上、中、下)」(硲伊之助訳、岩波文庫)
*「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房)
【参考情報】
山梨県立美術館
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」
 東京展:東京都美術館、2017年10月24日~2018年1月8日
 京都展:京都国立近代美術館、2018年1月20日~3月4日

(了)

 

悲しみはなぜ大切なのか

星野道夫はアラスカを舞台に活躍した写真家、文筆家である。彼の写真がなんともいえぬ魅力をたたえていると話した友人は、話が終わると、星野の記事が載った雑誌をそのまま私に貸してくれた。

大学からの帰りの電車の中で、私はその記事を読んだ。よく晴れた五月の京王線で、平日の昼間だったので電車は比較的空いていた。風にゆれる木々の葉がまぶしく、弱冷房車にさんさんと当たる陽の光が心地よかった。

紙面はいくつかの写真とエッセイで構成されていた。確か、こんな写真があった。都会育ちの大学生はまず見たこともない、ごつごつした雄大な山脈を背景にして、手前には鹿のような動物が点々と小さく写っている。この、鹿のような動物は、実はカリブーというアラスカに生息するトナカイの一種であり、成人男性でも角を見上げるほどの大きさである。そのカリブーが点のように見えるのだから、写真全体を見渡した時に感じるスケールの大きさは、見る人を圧倒するものがあったが、当時の私にはそこまではわからなかった。エッセイには、星野の友人Tが山で遭難したときのことが書かれていた。その事件がきっかけとなり、優秀な大学生だった星野青年は、アラスカの自然を撮って生きていこうと、写真の勉強を始めるのである。

 

今考えるとその出来事は自分の青春に一つのピリオドを打ったように思う。ぼくはTの死からひたすら確かな結論を捜していた。それが摑めないと前に進めなかった。一年が経ち、あるとき、ふっとその答えが見つかった。何でもないことだった。「好きなことをやっていこう」という強い思いだった。Tの死は、めぐりめぐって、今生きているという実感をぼくに与えてくれた。

(星野道夫『旅をする木』「歳月」より)

 

この短い一節に、私はすっかり引き込まれてしまった。「好きなことをやっていこう」という文字が、真っ白な紙面から浮かび上がっているように見えた。傘が用をなさない台風の日の雨のように、透明な涙が頰を滑り落ちてぽたぽたと雑誌を濡らした。

当時私は、星野が人生を決めた年齢にさしかかっていた。苦労して入った理科系の大学の学問にうまく馴染めず、就職をするにも気が進まずに悩んでいた。自分は「好きなこと」ではなく「できること」をやってきただけなのではないか、という問いを持ったことの意味は大きかった。

しかし、果たしてそれだけであろうか。なぜあの時、時が止まったと感じるほど感動したのだろう。今でも星野の写真や文章に触れると、泣きそうになる。あのとき頭の上を幾度もかすめた暖かい木漏れ日の山吹色は、もっと心の深いところを照らしたような気がするのである。

 

 

「もののあはれを知るためには、どうしたらいいのでしょうか」

「歌を詠むことです」

小林秀雄『本居宣長』のなかで、本居宣長は『源氏物語』を評して「もののあはれを知るよりほかになし」と言い切っている。「もののあはれを知る」とは、どういうことだろうか。それを、自分自身の体で感じてみたかった。「小林秀雄に学ぶ塾」池田塾頭によると、それが「歌を詠む」ということで叶うらしい。塾頭の言葉に誘われるまま、私は歌の世界に飛び込んだ。

「歌は詠んだことがありません。一体どうやって歌を作ればよいのでしょうか」

「まずは言いたいことをとにかく五・七・五・七・七にしてみること」

そう聞いて、はじめて詠んだのが以下の歌である。

 

始まりに ときめき立ちて 通勤時 駅まで駆ける 今日の朝かな

 

あまりの下手さに戸惑っているが、これは二〇一三年八月の作品である。思えば手本として「古今和歌集」を読むように、と勧められていた。そうして「古今和歌集」の写本を始めた。

 

まどろみて 夢もうつつも 忘れけり ただよう静けさ 朝陽に満ちて

 

これは、塾での歌会に出した作品である。先ほどの歌と違って、かろうじて目を開けて読める歌である。やはり、何事も手本がなければいけないのだと思い知った。

歌会では皆でお互いの歌の添削をするのだが、参加者全員が詠歌になじみがなかったため、初回は塾頭がいろいろとお話された。私の作品は、最後の句が「朝陽に・満ちて」となり「四字・三字」の区切りとなっているが、「三字・四字」の組み合わせのほうが座りがよいと指摘があった。塾頭の修整案は以下の通りである。

 

まどろみて 夢もうつつも 忘れけり ただよう静けさ 朝陽満ちたり

 

ほんの少し変えただけで、これで歌として完成した感じがある。はじめて好きになれた歌であった。

また歌会では「本歌取り」を推奨していた。これは、「古今和歌集」をはじめとした、お手本になるような歌集の一句ないし二句をとって歌を作るという手法で、平安の歌人たちもこの方法で、修練を積んでいたようである。私は手始めに以下のような歌を詠んだ。

 

茜さす 紫雪の 花ひらく 春を思わぬ ひとときの夢

 

〔本歌〕茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

(「萬葉集」 巻一 額田王)

 

これは、二〇一四年二月の作品である。この歌は、「本歌取り」によっていかに歌が「歌らしく」なるか、という例として塾でご紹介いただいた。本歌取りする前の歌が粗末なだけに比べるべくもないので悪い汗をかいたが、確かに下の句は本歌の力を借りなければ考え出すことができなかったように思う。千年生きながらえて来た歌の言葉が、七・七の十四文字を連れて来てくれたような気がしている。私はすっかり本歌取りに夢中になり、続いて以下のような歌も詠んだ。

 

静けさに 春や昔の 夢のやう 花散る海に 凪ぐ光かな

 

〔本歌〕月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして

(「古今和歌集」 巻第十五 恋五 在原業平)

 

本歌取りには、好きな歌の一部を自分の歌にできるという喜びがあり、読むだけでなく、別の歌を作ることで、一首の歌の世界をより深く知ることができるという楽しみがある。

 

あるとき、私はひどい失恋をした。相手は星野道夫の写真展で知り合ったひとで、彼が旅した世界各地の話を聞くのが好きだった。いつか彼と一緒に、アラスカを旅することを私は夢に見ていた。しかしもうそれは叶わない。

私は歌を詠むことにした。

「本居宣長」の、以下のような言葉を思い出したからである。

 

詠歌の第一義は、心をしづめて、妄念をやむるにあり。その心をしづむると云事が、しにくきもの也。いかに心をしづめんと思ひても、とかく妄念がおこりて、心が散乱するなり。それをしづめるに、大口訣あり。まづ妄念をしりぞけて後に、案ぜんとすれば、いつまでも、その妄念はやむ事なき也。妄念やまざれば、歌は出来ぬなり。されば、その大口訣とは、心散乱して、妄念きそひおこりたる中に、まづこれをしづむる事をば、さしおきて、そのよ(詠)まむと思う歌の題などに、心をつけ、或は趣向のよりどころ、辞のはし、縁語などにても、少しにても、手がかりいできなば、それをはし(端)として、とりはなさぬやうに、心のうちに、う(浮)かめ置て、とかくして、思ひ案ずれば、おのづからこれへ心がとどまりて、次第に妄想妄念はしりぞきゆきて、心しづまり、よく案じらるるもの也。

<新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.256より。原文はカタカナ>

 

心をしずめるためには、しずめようと思うのではなく、歌を詠もうとすることだ、と宣長さんは教えてくれていた。その言葉を頼りに、祈るような思いで私は歌に取り組んだ。わずかな言葉の欠片を見つけては、それを歌の形にする別の言葉を、思いつく限り挙げて組み合わせてみる、ということを繰り返した。

ある晩、アラスカの夢を見た。夢から覚めても、景色をよく覚えていたので、それを歌にしようと試みた。

 

こころより 深き空かな ふりおちる 紅葉の光る 極北の青

 

雲ひとつない深い色の空から、楓の紅葉のような真っ赤な色の小さな葉が次々と降ってくるという夢だった。葉は光を浴びて美しかった。どこにも木はなかったが、真っ青な空から紅葉が次々に降ってくることは止めようがなかった。そんな夢だった。わたしの心はそれに近いと思った。

あまりに印象的だったのでどうしても歌にしたかったのだが、三十一字で納得がいくほどには表現しきれず、失敗作となった。私はこの情景を歌にすることを断念し、夢から覚めたあとの心境を詠むことにした。今度はどこかからするすると歌が降りて来た。

 

かなしみの かけゆく淡き 裾さへも ふれ得ぬ夢の 散るあさぼらけ

 

この歌を詠むことができたとき、星野道夫の文章にはじめて出会ったときのことを、私は思い出した。詩人や歌人に倣い、悲しみを歌に詠んでみるという体験を通して、私は星野のことを前より少しだけ理解したように思った。星野にとって、友人を失った悲しみは、とても大切なものだったのである。悲しみを大切にできる心をもつからこそ、星野の写真や言葉は、アラスカのことを知らない人の心をも動かすのではないだろうか。わたしたちは忘れるためではなく、覚えているために歌うのだろう。わたしたちが悲しいのは、対象を愛しているからである。

 

さめざめと 心の果ても なくなれば 道をゆかばや 足音ぞする

(了)

 

小林秀雄 その古典との出会い
―堀辰雄と林房雄を通して

はじめに

小林秀雄の交友関係を考える上で、堀辰雄、林房雄という2人の小説家を数えることは極めて珍しいだろう。交流した期間としては決して長いものではなく、小林がこの2人に言及した文章も実にわずかである。しかし、その交流の時期は昭和14(1939)年から16(1941)年という期間に重なっているのであり、それは戦時下における錯綜と混乱の時代に他ならないが、小林秀雄にとって、批評の表現としての指向性が戦中、戦後へ向かって大きく変化していく時期でもあった。そしてこの変化は社会情勢に負うだけではなく、この2人の小説家との往来が深く関わっていると、私は考えている。本稿はこの3者の接触とその意味についてのアウトラインを描いてみようとする試みである。

小林秀雄明治35(1902)年、堀辰雄明治37(1904)年、林房雄は明治36(1903)年とほぼ同じ世代として生まれた。小林と堀は大正10(1921)年に第一高等学校の同期生となり、学生時代の交流はあった。この『風立ちぬ』を代表作とする作家について紹介するまでもなかろうが、林房雄の読者は今なかなかいないかもしれない。林は熊本の五高から大正12(1923)年に東大法学部へ入学しているが、その当時には既に共産主義者のグループに参加し、以後プロレタリア文学の担い手として活動していくので、学生時代に小林との交流はない。しかし、林は2年近くの獄中生活の後、昭和7(1932)年から10年代にかけて歴史小説『青年』、『壮年』といった幕末維新期の歴史と人間を描出する方向へ進み、小林とともに「文學界」(昭和8(1933)年)の創刊メンバーとなっていく。いわば、文芸復興期といわれる時代にあって、小林から次代を担う作家として高く評価された文学者であった。小林秀雄がもっとも評価したのは、林の日本歴史への実に広範な知識と個性的な史観にあったと思われる。また、後年、三島由紀夫が年若い読者へ勧める1冊の書物が林の『青年』であったというエピソードもある。

 

1 堀辰雄との交流

 

昭和14(1939)年3月10日、鎌倉市小町1-11-14 笠原代三郎宅の2階に堀辰雄夫妻が寓居を構えた。堀はその後、5月には神西清とともに10日間ほど奈良へ旅行しているが、無理が祟ったのか鎌倉帰宅後しばらくの間病臥することになり、7月から軽井沢に別荘を借りて静養している。10月初旬に鎌倉へ戻り、翌15年3月には東京、杉並区の夫人の実家へ転居していく。したがって、堀辰雄は14年3月から15年3月までの1年間のうち、正味8ヶ月ほどを鎌倉に暮らしていたことになる。そして、この間に鎌倉市扇ヶ谷403番地在住であった小林秀雄は堀辰雄との交流を深めていたようである。その様子の一端については、『堀辰雄事典』(勉誠出版 平成13・10)に堀多恵子と竹内清己の対談があり、そこで鎌倉小町に暮らした日々を、堀多恵子は次のように回想している。

 

それは神西さんと主人が二人で探して、やっぱり結核ですからね、結核となるとなかなかうまい具合に家が借りられないんですよ。そういうこともあったんでしょうね。それで、お二階にお手洗いも洗面所も台所もある家でした。小林秀雄さんよく遊びに来ていました。

竹内

川端康成も。

先生も二階堂にいらしたでしょ。だから私たち遊びに行ったりしました。

竹内

鎌倉文士になってもいいような時期もあったんですね。堀辰雄にも。

かぎられた方々としかゆききはありませんでした。

 

このように鎌倉生活への言及は、本対談の全体からみれば極めてわずかな分量に過ぎないのだが、堀多恵子が住居のことを回想した直後に自ら小林秀雄の名を挙げていること、また、数ある鎌倉文士との交流を予想した竹内からの問いに対して、堀と他の鎌倉在住文士との交流の範囲は狭かったことも付け加えていることに注意すれば、ここで即座に想起された小林秀雄の存在、その印象はよほど強いものがあったと考えねばならないだろう。ではその内実はどうであったのか。昭和14年春から15年春までの1年間に、堀辰雄と小林秀雄の間でどのような会話が交わされていたのだろうか。

 

2 堀辰雄と日本古典文学

 

まずは、この時期の堀辰雄側の主たる話題について思い巡らしてみよう。昭和11(1936)年に室生犀星を介して折口信夫門下の小谷恒こ たに ひさしを通し、日本古典文学の世界へ入り込んでいった堀は、翌12年には折口の主著『古代研究』に親みつつ、折口との実際の交流も徐々に深まっていったことが確認できる。そして昭和14年1月から3月にかけて、折口古代学のエッセンスを近代小説へ昇華したと評価された小説『死者の書』(『日本評論』)が連載発表されているのに加えて、その4月から慶應大学にて開講されていた折口信夫の担当科目「源氏物語全講会」に出席し、「橋姫」の巻についての講義を聴いていた。つまり、昭和14年3月に逗子から鎌倉小町に転居して来た堀辰雄は、『死者の書』を精読し、鎌倉から三田の慶應大学へ毎週通っていたわけであり、言ってみれば、折口信夫の人と学問に心酔していた頃なのである。このことは、同年5月の奈良旅行の際にも、先に帰京する神西清と別れ、二上山の麓に佇む当麻寺へ足を向け、『死者の書』の舞台となったこの場所を一人訪れていることからも、その想いの強さは知られるのである。

また、こうした堀辰雄の様子は、同年の『文藝』(改造社)6月号掲載の堀辰雄・三好達治・小林秀雄による鼎談「詩歌について」にも強く表明されているところでもある。この座談会は、同年4月中に扇ヶ谷の小林秀雄宅で行われたらしいが、堀は5月の奈良旅行への期待を口にしつつ、自然に古典作品に触れていく。「蜻蛉日記」、「更級日記」、そして「伊勢物語」への賛辞を述べながら、それまでほとんど三好達治とのやりとりに終止していた堀は、突然、小林秀雄へ言葉を向けていく。

 

三好

(論者注・「伊勢物語」の)註釈物を読んでいると、非常によくわかるからね。―あの短い一つ宛の話が、短篇小説として面白いね。

うン。実にいゝね。―(小林氏に)折口さんの「古代研究」なんか読んだ?古代史なんかやったことがない?

小林

ずっとはじめ、神代をやったことがあるがね、そうくわしいことは……。

とても面白いね。一番国文学者としても尊敬しているのだけれども、国文学だけでも大したものだな、あの人ぐらいでないかなァ、何か独創的な意見をもっているのは……。たゞ「古代研究」は絶版になるらしいね、いろいろな意味で出せない。民族学者のほうで何か……

 

といった堀の発言を見てもその折口熱は相当なものと推察される。また小林の「ずっとはじめ、神代をやったことがある」という発言は、昭和7(1932)年から講師となっていた明治大学文芸科において、昭和11(1936)年より「日本文化史研究」を担当したことに関わるものではなかろうか。さて、この後の鼎談において小林秀雄はほとんど二人の会話の聞き役であるが、斎藤茂吉『万葉秀歌』の話題に触れて、これを「いいね」と評価し、同じ茂吉著の『柿本人麿』を読んだことを述べている。この後の堀と小林との交流で、確認できるものは翌15年1月に堀が仕事場として使うようになっていた鎌倉のホテルに岸田國士が滞在しており、そこへ堀、小林、三好の3人で訪ねていったことくらいであるが、この年の堀の身辺事情、つまり、鎌倉小町転居後まもなくの立原道造の死去に関わるあれこれが3月末から4月、5月の奈良旅行とその後の病臥、7月から10月までの軽井沢での静養期間などを鑑みれば、おそらく堀辰雄の寓居へ小林秀雄が「よく遊びに来ていました」というのは、先の鼎談が行われた4月以降、6月、10月から翌年3月の転居までの間ということになろう。そして引用したように、この昭和14年4月までの時点において、小林秀雄は折口信夫の『古代研究』は未読であろうし、連載発表されたばかりの小説『死者の書』も知らなかったであろう。逆に言えば、この昭和14年の4月以降に小林秀雄は堀辰雄によって折口信夫という国文学者の学問を吹き込まれ、日本古典文学の世界へ誘われたと考えてもよいのではなかろうか。この鼎談において珍しく沈黙したままの小林秀雄が、その後に、堀辰雄のもとを訪れては折口信夫の古代観について、その古典観について聞き質していたであろうことは決して想像に難くないのである。

 

3 昭和14年前後の小林秀雄

 

それでは、肝心の小林秀雄にとっての昭和14年前後とは、その精神にどのような指向性が認められるだろうか。たとえば、昭和10年1月から編集責任者を務めていた「文學界」では、昭和14年3月、4月号と連続して小林秀雄を加えた鼎談を掲載している。3月号では、小林に真船豊、佐藤信衛という顔ぶれで「現代日本文化の欠陥」と題するもの。この鼎談を主導するのは哲学者・佐藤信衛で、日本の学問伝統が近世と近代に区分され、対立したままであるとして、その分裂状態を指摘し、適切な継承がなされていないことを批判している。この点を劇作家である真船が歌舞伎と新劇との対立を挙げて具体的に説いているが、小林は「今の日本の文化というものの今あるが儘のギリギリの姿を見て居ない」ところに当時の文化批評の欠陥があると指摘する。

 

小林

……例えば真船君、芝居に携わって居る人には現代日本が表現しているごまかしのないイメージが舞台からちゃんとやって来るだろうと思う。だからそういう点から日本の文化の本当のギリギリの姿というものは、音楽、芝居、映画―眼に見えたり耳に聞こえたりするものによってはっきり見ることが出来る。そういう点から色々な現実に即した不平があると思う。そういうものを僕は考えたいと思う。

 

ここで言う「姿」という言葉を次の発言で「スタイル」と言い換え、一流と言われている日本の思想家が「自分のスタイルを持っていないという事は現代日本思想家の一大欠陥だよ」と断じているのも注意を引くが、その後の議論において佐藤が学問、文化の伝統継承の問題を次のように説くのを受けての小林の発言が見逃せない。

 

佐藤

……日本の古い伝統と新しい伝統とを旨く繋がなければいけなかったのだ。学問がそうだ。そう西洋の学問だからと言って、前のものをすっかり捨てて了って新しいものをやり出したことがいけないのだ。残るべきものを残してその伝統を新しく導いて行くべきだったんだ。……文学でもそうだ。古い文学というものは或る意味で完成して居るのだよ。所が今の旧式の文学者と新しい文学者とはまるで違うだろう。謂わば伝統が続いていない。……もともと文化というものがどういうものかということを考えようとしなかったから、前代の文化を正当に理解できなかったのだ。そうして古い伝統を皆捨てて、今見る、文学に於ける新旧の差別、演劇に於ける歌舞伎と新劇の対立、という風に、皆木に竹を接いだようになったからいけないと思う。それならどうすればよいかということは、やはり文学とは何ぞや、演劇とは何ぞやという所から始めて、古い伝統も現在の新しい状態もともに肯定せずして、皆そこからやり直すようでなければならぬ。

小林

やはり現在に必要なのは本居宣長かね。

 

佐藤の言い分は日本文化の歴史的継続性を再確認すべきという極めて分かりやすい提案なのだが、その話を受けるかたちで「本居宣長」の名を持ち出すところ、これを意味づける小林秀雄の文脈はその後の発言にも明確ではないし、宣長の学説や「古事記伝」への言及も本鼎談中にはいっさい見当たりはしない。しかし、「批評家の役割」という小見出しのある箇所では、先の発言を反復しつつこう述べる。

 

小林

もっと今あるままの文化を押進めて健全にすれば、古典主義に行かざるを得ない。そういう意味の古典主義なら賛成だ。今の日本主義とか復古主義者は今日の文化はこんなに堕落しているから後ろを見ろと言う。そういう説は病的なのだよ。

 

この言を踏まえれば、いわば健全なる古典主義という文脈において「本居宣長」の名を発音していた可能性は捨てきれないだろう。

そして4月号には小林秀雄・亀井勝一郎・林房雄による鼎談「現代人の課題」が掲載されている。これは先述した堀辰雄の鎌倉小町転居の時期に重なることになるのだが、この鼎談のテーマについては亀井勝一郎が最初にこう述べている。

 

亀井

……現代僕等が置かれて居るような非常な重圧様々な精神上の混乱、そこからの人間の恢復是らがどういう道を辿って行くだろうか現代の日本ではどうなるか。今日の題目にしようと想ったわけです。例えば大陸とか、戦争とか、農村とか、いろいろの場面があって文学者が出かけていく。何かから脱却しようとする努力が一様にそこに動いていると考えられるでしょう。……

 

といったようにその時代にあっての人間の再生が大きなテーマであった。この話題は勢い日本近代の思想や文化はどうあったのかという歴史的考察へと掘り下げられていくことになるが、日本近世から近代にかけての思想基盤の編成過程については、ほぼ林房雄が自らの考察、「日本には神道、仏教、儒道というものがある」という3要素を基点としての自説を展開し、鼎談を主導していく。そこで話が「日本の思想」とはどういうものかという点に触れると、小林は、「文化の伝統に就いてプラス、マイナスというようなことは言えぬ。……僕等にかくかくの精神傾向が伝統としてあるということはまさにそうであるので、それが良いとか悪いとか言う事はない」と言い、「今の日本が曖昧な形で持って居るところの日本人らしい思想を開明するところに僕等の実際の問題がある。それが人間の再生かもしれないよ」と続けて、その後しばらく亀井と林が西欧思想と日本思想の比較検討めいた議論を続けていてもこれを静観したまま、「誰の思想でも思想というものは、自ら徹底性があるのだよ。それを忘れて思想というものをもっと手前の方で持とうと想うところがいけないことなんだ」と、2人の議論、すなわち現代日本の思想批判とは逸脱する方向へ自らの語りを続けていくところが見受けられる。そして、この鼎談で注目すべきは、この戦争の経験から日本が孕むものへと林が言葉を続けたときに、小林が次のように発言している箇所である。

 

小林

津田左右吉が「志那思想と日本」という本を書いているが古来日本の国民思想は文学の中に現れているので、儒教や仏教に関する学問的著作の中には現れてをらぬ。そういうものは日本国民の実生活とは遊離してしまっている。そういう説を書いているが、西洋の学問が入って来ても明治以来の国民思想というものも、これを曲がりなりにも表現して来たのは文学者だと思うね。学者じゃないよ。今の事変に当たっても本当の日本人の思想を発表しているのは兵隊さんの文学だけだと思う。

 

小林秀雄の『本居宣長』を既に読んでしまっている我々にとっては、津田左右吉の著作を引き合いに出して、これに共感するような発言をするのには、意外の感を抱かせるが、この時には、津田左右吉の『文学に現れたる我が国民思想の研究』という大著の、その根本的な動機、我が国の文学史の上においてこそ日本人の思想の発現を認識しようという発想自体への共感はあったということであろう。

さて、この昭和14年には吉田健一を編集兼発行人として、伊藤信吉、西村孝次、中村光夫、山本健吉らの同人による雑誌『批評』が創刊された。その創刊号(8月号)には「歴史と文学―小林秀雄氏を囲む座談会―」を掲載しているが、小林への質問はドストエフスキー論を記述していく過程についてがほとんどで、ロシア、フランスの文学、思想の話題が中心として語り合われている。その中で、西村孝次が柳田國男の著作への読後感を「立派な歴史になり学問になっている」と発言しても、小林はベルクソン哲学の面白さを挙げるだけで、柳田にはまったく触れずにいる。しかし、山本健吉が日本の作家を選んで作家論を試みたいと言うと、「日本の文学史ならば書き度いと思う」という意思をもらし、また、幸田露伴の「渋沢栄一伝」に触れつつ「明治という時代は実に面白い」と述べてもいて、この時期の小林の関心の一端がうかがわれる。そして、こうした日本史、明治時代への指向性の背景にはやはり林房雄との交流が働きかけているようなのだ。

 

4 林房雄との交流

 

堀辰雄は昭和15年3月に鎌倉を去って行くが、この年は「文學界」誌上でさかんに林房雄との座談会、対談を企画しており、11月号では座談会「英雄を語る」を、石川達三を交えて掲載、林から「古事記」の素戔嗚尊が出ると、小林は日本武尊を挙げ、頼朝、家康から新井白石「折焚柴の記」などへも言及するが、この座談会でも日本史全体への見通しを展開し、折々のトピックスを提供するのはほとんど林房雄である。さらに、12月号の対談「歴史について」においては、林は、「古事記」、「万葉集」、「神皇正統記」、「太平記」から江戸期の契沖、宣長らの国学者たち、また、藤田東湖、水戸学の系譜などの流れを示し、自らの日本思想史観ともいうべきものを、かなりな言葉を費やして展開してみせた際に、小林は次のように答えている。

 

小林

君の革新説が実を結ぶには、大変な努力と時間が要るだろう。その事で思い出したが、津田左右吉氏に「文学に於けるわが国民思想の研究」―という本がある。初めのうちは面白がって読んでいたが、読んで了って僕はいろいろな疑問に捕らえられた。そして、結局僕を本当に喜ばしてくれる思想は全々こゝにはない事を感じた。……君は、ずい分前に津田左右吉は詰らぬと言っていた。僕は君ほど徹底的には未だ考え到らないのだが。

借物のものさしで西鶴を観るようにね。

小林

津田という人は、少なくとも過去の日本がね。あの実証主義者には、日本の神話が、広い意味での日本の神話が我慢がならないのだ。神話が人間性を覆っていると解するのだ。……

 

してみると、先述した「文學界」昭和14年4月号の時点から、小林秀雄は津田左右吉の著作を読み込んでおり、ほぼ1年半の時間を経ての結論として、津田左右吉の歴史認識を批判する地点に立っていることになる。さらにこの対談の先において林が「合理主義と進歩主義の歴史観」が蔓延する現状について指摘したとき、小林は次のように述べる。

 

小林

例えば本居宣長を、復古思想だというだろう。傍人がただ彼の復古思想を言う事と彼自身に復古思想がどういう意味合いを持っていたかとは違うよ。大体復古ということがなければ革命は無いのだ。それは歴史の法則だよ。進歩と革命ばかりを見るのは歴史の一面しか知らぬものだ。

 

すなわち、津田左右吉の日本文学史観、特に日本神話に関する思考方法を巡ってその批判を集中させている小林にとって、この直後の発言ではないにしろ、「本居宣長」について「彼自身」にとっての「復古思想」の意味合いがどうあったかという点へ眼を向けようとしていることは見逃してはならないところだろう。そして、林房雄との対談は次号、昭和16年1月号の「文學界」にも引き継がれ、ここでは「現代について」と題して、林、小林それぞれの津田史観批判から開始されている。

 

小林

……神話というものは、成る程不確実なものだが、これを確実にしようと徹底的に努めると歴史というものゝ意味さえ失わなければならぬ始末になる。これは歴史というものが持っている根本の矛盾だ。だから其処につまり喧しい歴史哲学というものが起って来る訳なのだな。歴史というものは科学ではなくして、歴史とは何だと究明するには、哲学的思弁に拠らなければならぬという面倒な問題が起る所以は、其処にあるのだ。

そうそう。

小林

津田左右吉という人には、そういう歴史哲学の問題は気にならなかったのだ。その点は単純だね。

学者として少しも不純なところはないし、曲学阿世の徒でもない。立派な学者だが、考え方の根本が間違っていた。

小林

そうそう。

しかも、その間違った考え方は、一つの時代常識を代表している。歴史は科学である、社会学は科学であるという不思議なる迷信が、現代を支配してをる。非常に困ったことだ。

小林

そう。僕はそういうような事に付ては、いずれ一つ長いものを書く積りでいる。結局、歴史事実というようなものが、あまり単純に一般に考えられているのだ。……過去の歴史事実が現在によみがえるには、文学的な直観の力がどうしても必要なのだよ。其事が大事なんだね。そういう事がわかれば、神話というものが形づくられるのは、どういう風になってをって、神話の力は何処にあるかという在り場所がわかる訳だよ。

 

ここで小林の言った「いずれ一つ長いものを書く積りでいる」というのが、その後のどの仕事を指し示すものなのか、この時点では明確ではない。しかし、少なくともその「長いもの」のテーマが歴史の哲学に関わるものであり、その核心部には「文学的な直観の力」への考察が胚胎し、「神話の力」を捕らえようとする指向性を有するものだということは明記しておくべきだろう。

さて、この対談が「文學界」1月号に掲載されるのと同時に、『文藝』(改造社)の昭和16年1月号でも「文藝評論の課題」と題する座談会があり、小林に中島健蔵、そしてプロレタリア文学評論を貫いて来た窪川鶴次郎を招いて行っていた。話題は大正末から昭和初期へと展開してきた文芸評論の足跡を、それぞれの評論家としての活動を振り返るかたちで話し合っているが、「文學界」誌上での小林と林房雄の対談に言及して、林房雄論から徳富蘇峰「近世日本国民史」の評価、そして、窪川から、小林の最近の対談上の発言に日本史上の人物への言及が目立つ点について次のように問われている。

 

窪川

……(小林氏に)君のいわゆる徳川家康とか、二宮尊徳とか、今の山鹿素行とか、そういうものと君自身がものを書いている上で、どんな風に繋がっているのかね。非常に興味がある。これは読者としての興味だがね。

小林

そういうことに興味を有ってくれるのは有難いがね。これは自然なんだ。僕は、つまり歴史がね、精しくなったのだよ。この頃自然とね。いろいろの例を挙げる場合に、どうしても日本人の言葉のほうが僕には能く解る。能く解るし、僕は、その方がね、何というのかな、云い易くなって来たのだね段々……。

 

つまり、小林秀雄という批評家の文章に親しんできた一読者、それはフランス、ロシアの文学を批評の背景と対象として来た書き手として小林秀雄を把握してきた読者、としての立場からの素朴な疑問を窪川はそれとなく示しているわけだが、ここでも小林は自らの日本史、日本文化への指向性を自覚的に語っているのである。

この座談会ではこれ以上の具体的な日本史、日本文化への話題は提出されず、いわば歴史の問題を各自がどのように書いていくかというところで終了してしまうが、この座談会が掲載された『文藝』に、長谷川如是閑と折口信夫の対談「日本の古典」が掲げられてあることは、隣接する事象として注意して置いても良いであろう。先の座談会のメンバーも、そして小林も、自分たちの座談会とともに同じ号に掲載されたこの対談には注目せずにはいられなかったはずである。

対談「日本の古典」は『文藝』昭和16年1月号の二二〇ページから二五三ページにわたる長大なもので、「新万葉集」へ収録された長谷川如是閑の短歌の話題から、和歌文学に関わる通史的な見通し、「古事記」、「風土記」から中古の物語文学、「源氏物語」とその前後の漢文学との関わり、「平家物語」、「太平記」、そして申楽、能から俳諧、俳句、明治文学の文体までと、ほぼ日本文学史全体を視野に収めようとするほどの充実した内容を持っている。この企画の背景を考えれば、もちろん時局的な配慮は色濃く、長谷川も日本文化の一貫性という語句を反復しているように、いわゆる「日本的なもの」への視線が多様な局面へ振り向けられたところの一事象とは言えるだろう。しかし、その企画としてのありかたはどうあれ、この対談で折口信夫は自らの日本文学観を、かなり熱を込めて語っているところが随所に見られ、長谷川が中国文化、漢文学の影響という側面へ話を向けると、対する折口は、日本から発生した特質を常に前提にしつつこれに答えるといったかたちを取っている。すなわち、この対談を読む者は、折口信夫の日本文学観の持つ求心性、あるいは折口の語り口のもつ求心力といったものへ自ずと引き寄せられるということがあるように思われる。

 

5 古典との出会いに胚胎するもの

 

さて、これまで記して来たところを振り返りつつ、昭和14~16年前後における小林秀雄に流れ込んでいた古典の意味を推察してみよう。

1、小林秀雄は昭和11年、明治大学での「日本文化史研究」講座の開講以来培ってきた日本文化、日本史への指向性を、現代文化への疑義、「現代日本文化の欠陥」という形で我が身の内に潜ませて来ていたのだろうこと。

2、昭和14年から15年の堀辰雄との交流において、折口信夫の学説を聞き知ったと思われること。

3、ほぼ同時期に、林房雄から明治維新史を手始めに、日本史全体への個性的な見方を教えられる。その関心の中で歴史学者・津田左右吉の存在が大きく、日本文学史に現れている具体的な表現の中に国民文化、国民思想を抽出しようという津田の発想への評価から、やがてその合理主義的思考の批判を展開するようになっていったこと。

4、さらにもう一つの動き、眼の動きとして押さえておきたいことがある。おそらく昭和13年から始まった骨董、焼き物への思い入れをここで見逃すわけには行かない。それは日本文化の伝統を文字通り身体的な行為、美を愛でるという実際生活上の行為の中で体得していったこと、すなわち「日本の文化の本当のギリギリの姿」をあるがままに見ようという発想につながっていくであろう。

こうした4つの文脈がせめぎ合い、重なり合いしながら日本文化の具体的な姿としての古典が見出されていったと考えられないか。そして、この奔流のただ中へ、先に触れた「文学的な直観の力」への思考と「神話の力」の根源を見極めようという意志を組み込んでみたときに、津田左右吉の日本文学史観が色褪せていくのとは逆向きに、改めて折口信夫の学説が徐々に輪郭を現わしていったのではなかろうか。またそこには、本居宣長が復古思想の宣伝家という強固な像から逸脱していこうとする兆しもほの見えるのではないだろうか。

 

注・堀辰雄と折口信夫の交流については、小谷恒『迢空・犀星・辰雄』(花曜社 昭和61年6月)所収の「Ⅲ  堀辰雄の章」、『堀辰雄と折口信夫』、『訪問 三 逗子・成宗』に詳しく記述されている。また、慶應大学での「源氏物語全講会」は慶應大学の講義科目、昭和14年は「橋姫」。(「折口信夫全集」中央公論社旧版第31巻所収、講義目録による)

なお、「文學界」等からの引用文は適宜新字新仮名遣いに改めている。

(了)

 

本居宣長の冒険

「本居宣長」を読むようになり、2年半が過ぎた。この随筆を書くに当たり、最初の自問自答を読み返してみたが、何とも浅薄な理解で上滑りのものであり、赤面の至りである。といっても、今日現在それほどの進歩はしていないかもしれないが、自分なりの楽しみを見つけて読めるようになったと思う。

 

小林秀雄が書くように、この「本居宣長」は壮大な思想劇だ。いや、むしろミステリー小説であるとさえ言ってよいだろう。随所に謎が埋め込まれ、何とか解いたつもりが、また次の謎に呑み込まれるといった具合だ。そんなところに楽しみが感じられるようになってきたわけだが、とりわけ大きな謎と言えるのは、何故本居宣長が「古事記」を読むことができたのか、であろう。

 

宣長は「古事記」に書かれた、全ての語は稗田阿礼が発した言葉を漢字で表したもの、さらに言えば天武天皇が発した神代の物語の数々を阿礼が覚え、その記憶を太安万侶に語り、記録されたものだとした。読み方のマニュアルといったものはなく、大昔に録音や録画もあるわけがない。いきおい口承しかなかったわけだが、それも間もなく途絶え、本居宣長に至るまで約1,000年もの間、誰にも読めなかったわけだ。それが何故、宣長には読めたのか。

 

この行為は、エジプトのロゼッタストーンの解読に成功したジャン=フランソワ・シャンポリオンと同じであったと言えるかもしれない。私はこれを「思い込み」とさえ言ってもよいと思う。なぜなら、それを証明できる客観的な証拠がないからだ。私にはこう読めると思う、主観でしかないからだ。しかし、これを小林は、

「『古事記序』は、当時、大体どういうような形式で、訓読されていたか、これを直かに証するような資料が現れぬ限り、誰にも正確には解らない。まして、どう訓読すれば、阿礼の語調に添うものとなるかというような、本文の呈出している課題となれば、其処には、研究の方法や資料の整備や充実だけでは、どうにもならないものがあろう。ここで私が言いたいのは、そういう仕事が、一種の冒険を必要としている事を、恐らく、宣長は非常によく知っていたという事である」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.343~344)

と書いている。冒険! なんと的確な言葉であろうか。

 

私は普段、国家公務員として中央省庁で働いている。世にいう官僚である。官僚と聞くと、人はどんなに理屈っぽい奴かと思われるかもしれない。確かに、政策、法案、予算などの立案と執行、政治家をはじめとするさまざまな外部の関係者との調整には、統計など各種のデータを用いながら説明や説得をするということが重要である。しかし、そうした客観性のある仕事をしているはずなのに、いざ「2番じゃダメなんですか?」などと問われると、とたんに説明に窮し、バタッと倒れてしまうのは何故なのだろうかとかねがね不思議に思っていた。それが、この小林が指摘する宣長の「冒険」という言葉に当たり、ハッとした思いがした。

 

(自分で言うのもなんだが、)官僚というのはいわゆるお受験エリートだ。試験が得意で、「ここにデータがありました」「あそこにこんなことを言う学者がいました」などと既に存在する何かを見つけてくることは得意な人種の集まりである。さながら、霞が関はgoogle人間の集団みたいなものかもしれない。また、理屈をこね、調整をすることも得意なので、一応答えらしいものを作り出し、それで政治家や関係者を説得したりして、こうすれば何とかなるだろう、という雰囲気を醸成することはできる。

 

しかし、今日直面している様々な「答の分からない問」や「答のない問」に、ゼロから答を生み出すこととなるとどうだろうか。少子高齢化をどう食い止めるか、自治体消滅の危機からどう抜け出すか、新興国との競争にどのように勝ち抜いていくか。先に解いてくれた先達のいない、日本が世界で最初に答を見つけていかないといけない難問、いわゆる国難だ。最後に決めるのは政治としても、こうした難問にまずは答案を作成する責任は官僚にあるだろう。しかし、それが十分にできてはいないのが実情だ。

 

とは言え、私は何も「これだ!」という思い込み≒冒険が必要だとして称揚したいのではない。それでは「アメリカ人は弱虫だ」「ソ連が和平を仲介してくれるだろう」などと、自分たちの都合のよい思い込みや願望に基づいて国を誤らせた軍部をはじめとする大日本帝国の官僚機構と変わらなくなってしまう。

 

ひるがえって、宣長の「古事記」の解読を考えてみると、地道な資料の収集と主観を排した冷徹とも言える分析の行きつく先に、冒険という名の跳躍があるのではないか。それこそが宣長に「古事記」を解読することを可能とした原動力なのではないか、ということに思い至る。そして、その根底には宣長の私(わたくし)を排した透明な心と、知るためにどう問うかは自分次第との確固とした意志の存在があったはずだ。

 

小林はこう述べている。

「宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充されて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証言の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ」(同第27集p.349)

 

これは大変なことだ。実証や分析を超えた冒険に飛び込むタイミングを誤り、それが早すぎれば、単なる思い込みや願望と変わらなくなる。官僚が安易に行えば国を誤らせるかもしれない。しかし、主観を突き詰めれば客観になるというような境地に至るまでに考え抜かなければ、誰も解いたことのない問への答をつかむことなど到底できないのではないだろうか。

 

しかし、どうすればそんなことができるのか。それは、やはり考えて考え抜く、ということしかないのではないか。これだけ変化のスピードが早い今日において、じっくりと考えるということは本当に難しい。いろいろなことをコンピュータに任せることができても、それは与えたデータの処理しかしてくれない。何故なら、コンピュータにはデータを超えた跳躍、冒険ということはできないからだ。だから、コンピュータに任せられることは任せるにしても、現在の日本を取り巻く様々な難問には、真摯に向き合い、時間をかけて考え抜くしかないのだろうと思う。一人の人間だけではとても無理だし、世代をまたぐような時間がかかるかもしれない。それでも考え抜くことを受け継いででも、考え続けるしかないのだろう。

 

その営為の先に、こうではないか、という一筋の光のような理屈と仮説が見えてくるはずだ。小林はこうも述べている。

「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。(中略)歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか摑めない」(同第27集p.350~351)

 

無論、官僚は歴史家ではない。だから、全く同じということはないかもしれないが、これまでの役人生活での実感から言って、考え方の枠組みに大きく異なることはないように思う。この小林の言を官僚に置き換えれば、全力で様々な国民の考えや生活に思いを巡らす、思い込みや主観を捨て、透明なまっすぐな心持ちで理解する。それこそが己を知り、本当の意味で国民を知る、ということになると言えるのではないだろうか、と。(これは政治家にも求められることだろう。)

 

コンピュータやインターネットといった様々な技術の発達は、これまで埋もれていた膨大なデータの把握を可能とし、こうした「ビッグデータ」を分析することで、私たちの生活はより一層豊かで、便利になるはずである。しかし、実際の私たちは、こうしたとても一人の人間には理解と処理の不可能なデータの奔流に翻弄され、考えること自体がどんどん疎かになっているのではないだろうか。そう思えば、小林の言う歴史を知ることとは何か、さらに言えば考えることとは何か、ということは、現代に生きる私たちすべてに等しく突きつけられている、我が事として考えなければいけない大きな宿題になっていると思うのだ。

 

また、現代の人々の多くは、老若男女を問わず、学校や会社、あるいは家庭でも、宿題、課題、ノルマといった期限のあるものに追い立てられて生活をしている。そんな中で考えに考え抜くという行為の実行自体が非常に困難だ。時間をかけて考え抜いて、「こうだ!」という主観的な答が普遍性を帯びる客観的なもの、つまりは「正解」に至るという経験は自分にはできないかもしれない。しかし、とても答の出なさそうな問でも、あきらめずに考え続ければ必ず答は出る。それを可能とするのは自分次第なのだ、それを少なくとも実行した本居宣長という人間がいたということを知っていることは、人が生きていく上で大きな希望ではないだろうか。宣長と小林はその大事さを教えてくれているように私には思える。

 

※本稿はあくまで個人としての見解であり、所属する組織とは一切関係ありません。

 

(了)

 

数式を詠む

数式を詠む、と書くと、違和感のある人が多いかもしれない。だが、数式をよむ、と言えば、それほどおかしな用法とは思われないだろう。では、数式をよむとは、いったい何をしているのだろうか。

 

私は、自分で数学者を名乗れるほど、その深みへ潜った事があるわけではない。ただ、人より少しは多くの手間を、かのものとの交わりに費やしてきた。その交わりの基本となっているものが、数式をよむという行いである事は、間違いのない事だと思う。

 

さて、数学者と言った時、あなたはそこに、どんな姿を想像するだろうか。何か小難しい数式や図の並んだ本を、黙々と読む。あるいは、中空を眺めて思索にふける。かと思えば、黒板や計算用紙に数式や図形を書き殴り、それを一人で、あるいは複数人集まって、延々と睨み付ける。一般的なイメージを挙げるとすれば、こんなところだろう。

それらは概ね、間違いではない。そこに、あてもなく散歩する事を付け加えれば、おおよそ、数学者の生態を言い当てているとすら言えるだろう。では、なにが、彼らにそのような姿をとらせているのか。この姿の中で、彼らは何を行っているのか。この点については、数学になじみのない人にとって、なかなか想像の及び難いところだと思う。

だが、彼らはそこで、何か特別な事を行っているわけではない。いや、注意深く見るならば、確かにそれは神秘的な行いではあるが、しかし同時に、誰もがやっている事でもある。違いがあるとすれば、その行い、その手段に、深く習熟しているという事だ。

では、その手段とはいったい何か。それは、数式を書くという行いだ。

 

数式を書く、という言葉で、何か特別な事を言っているわけではない。強いて言うならば、指を折って計算したりするといったような、数学を行う上で伴う行動全般を指したいという意味で広い言い方ではあるが、少なくとも、数学者特有の、何か特別な行為を指しているわけではない。「1+1」と書く事を、普通、特別な行為とは言わないだろう。この行いが特別となるのは、むしろ、その行いに習熟を深めた者にとってこそだ。

では、数式を書くという行いに習熟を深めていくと、どうなるのか。

例えば、計算をする時、計算用紙に数式や図を書くという行いを、何度も、何年も続けたとしよう。すると、始めてから間もないうちに、頭の中に計算用紙が出来上がり、目の前に計算用紙がなくとも、頭の中の計算用紙に、数式や図を書き込めるようになるだろう。ただ、初めのうちは、書きこんだ図も数式も、朧で心もとないものに過ぎず、正確な計算のためには、手元に計算用紙がほしくなるに違いない。

さて、そこからさらに、何度も数式や図を書いていくと、どうなるか。当然、頭の中に書きこむ事のできる図や数式の姿は、より鮮明なものになっていき、より正確に、より複雑な計算ができるようになっていく。そうしてまた、その一方で、頭の中に式を書き取った瞬間、反射的に計算結果が書き出されるような、段階を踏まない直通経路が現れてくる。

これは、誰にでも覚えのある感覚だと思う。計算用紙とは少し違うが、一桁の掛け算をする時、頭の中で九九の歌を歌って思い出すという人は、多いだろう。だが、何度も繰り返すうち、九九の歌を介する事なく、直接計算できるようになったものが、あるのではないだろうか。

これらはどちらも暗算と呼ばれるものだが、一口に頭の中で計算したと言っても、明らかに違う経路が現れてくるのは、不思議な事だ。計算過程が省略されただけと言う人もいるかもしれないが、私には、そんな単純な話で済ませる気にはなれない。この二つの計算は、どちらも、私の意識の上で起こった出来事だからだ。むしろ、計算過程が省略できるようになったとは、いったいどういう事なのか。そこで、いったい何が起こったのか。そこにこそ、注目すべきものがある。これこそが、ものを知るという、心の、そして言葉の働きなのではないだろうか。

だが、今はこれ以上、ここに踏み込むのは止めておこう。円の中心に円はない。早急に事を進めれば、確実に見失ってしまう、そういう性質のものが、ここにはある。

 

さて、話を戻そう。数式を書くという行いに習熟した人は、頭の中で、現実と遜色のない、とは言わずとも、独特の手触りを持って、数式を書く事ができるようになる。ここにいたり、数字や数式や幾何的図形は、それが指し示す個別のものや意味を思い出すための媒介としてだけではなく、全てを含んでなお、それがそれそのものとして自足する姿、こちらが要求する以上のものを持つ形として現れてくる。空想ではなく実感を持って想像できる、と言った方が、わかりやすいだろうか。

ともかく、数式というものを、ただ思い浮かべるのではなく、実感と共に書き取る事ができるようになった時、数式をよむという行いは、少々、趣が異なったものとなる。いや、趣が深まる、と言った方が、正確かもしれない。やっている事自体は、やはり、変わってはいないのだから。

どうか、持って回った言い方になる事を、許してもらいたい。結論は単純だが、その単純さゆえに、見過ごされてしまう。その微妙なところに、この道を楽しむ源泉がある。

数式を書き取れるようになった人が、数式をよむと、どうなるか。実のところ、この言い方は、正確ではないだろう。数式を書き取れるようになった時、初めて人は、数式をよむ事ができるようになるのだ。数式をよむ事ができる人と、数式を見る事しかできない人の違いが、ここにある。そして、数式をよもうと努力する人にとって、もはや数式だけが数式ではなく、あらゆるものが数式となりうる。

 

誤解がないよう言っておきたいが、数式をまったくよめない人なんてものは、存在しない。それはもはや、自分と他人の区別がつかない事と同義であるからだ。ここでよむ事ができると言っているのは、どの程度までよむ事ができるかという事であり、さらに言えば、どこまでよもうとする事ができるか、すなわち、どこまで数式というものの表現性を信じられるか、どこまで数学を信じられるかというところにある。

これは決して、数式によりあらゆるものを表現できると妄信する事ではない。そうではなくて、数式という表現に託してこそ現れてくる世界、その世界の自立性を信じ、同じく数式の表現性に育てられた者ならば、きっとそこで響き合えると、そう信じる事だ。

 

こう言ってしまうと、数式をよむという行いに抽象的な印象を与えてしまうかもしれない。しかし、繰り返しになるが、この行いはこの上もなく身近で、誰の身の上においても行われている事なのだ。買い物をする時、時計を見る時、歩いたり階段を昇る時、当たり前のように、人は数式をよんでいる。

これは、よく知った歌が流れていると鼻歌を合わせたくなったり、ギターがうなり声を上げているとこちらもエアギターをかき鳴らしたくなったり、お茶碗を手に取った時にその縁を指でなぞったりする事と、まったく同じ事だ。ここまで数式をよむとか数式を書くとか言ってきたのは、まさにこういう事であり、小難しい問題を解くというような事を言ってきたのではない。

数学の道を歩む人とそうでない人に違いを求めるとするならば、それは、こういった当たり前の行いを注意深く自覚し、まっすぐに受け止め、改めて驚く事ができるという、まさにこの点においてであり、この点においてのみであろう。

 

ここまで言えば、冒頭に書いた、「数式を詠む」という行いの姿を、見取ってもらえるのではないかと思う。「詠む」とは、「言を永める」、すなわち、言葉にある程度の時間を持たせるという事だ。それは何も、特別な事ではない。「1+1」を指でなぞる、いや、ただ見るだけでも、「数式を詠む」という行いは、現れてくる。あとは、そこから目をそらさなければ、数学の世界を歩む道は、誰にでも見えてくるはずだ。

数学者は、誰よりもその事を信じている。だから、彼らにとって、本を読む事も、中空を見つめる事も、当てもなく散歩に出る事も、本質的な相違はない。だが彼らは、そこから目をそらさない事の難しさもまた、知っている。だからこそ、彼らは数式を現に書き出し、それをじっと眺めるのだ。

そこにはいつも、自分が思うより以上の姿が映し出されている。

 

 

数式を詠む、と題した話は、ここまででひとまずの結びとしたい。曲折の多い書き様となってしまったが、これは、目的地を定めず書いたが故の、いや、目的地を定めてはならないと信じて書いたが故のものであり、意図したわけではないが、必然のものではあったと思う。

こうして書き上げてみた今、この話はどこかへ辿り着いたのではなく、その出発点へ帰ってきたのだと、痛切に感じている。だから、と言うわけではないが、ここからは、この話が書かれた背景について、話したいと思う。結び目の余り糸のようなものなので、どうか気を抜いて聞いてもらいたい。

 

数式を詠む。

この言葉は、言うまでもなく「歌を詠む」をもじった言葉であり、別段きまった言い回しというわけではない―すでにあったとしても私は不思議に思わないが。

もともと、和歌を詠むようになってからというもの、詩歌と数学の共通性について漠然と感じるところがあり、今回書く機会を頂いた事を機に、もう少し深く潜ってみようとしたのが、この話の発端である。

実際、今回の話で、「数式」を「歌」あるいは「言葉」、「書く」を「詠う」というように少しずつ読みかえていけば、全てとは言わずとも、多くはそのまま、歌についての話として成り立つのではないだろうか。そんな事は意図しなかった、とは言わないが、少なくとも書いている間、そんな事を意識する余裕など、私にはなかった。ただ、そうなるのではないかと、信じてはいたと思う。

では、もう少し具体的に、どこへ注目したのか。もちろん、形式の重要性という、詩歌と数学の最も大きな類似点は、見過ごせない。しかし今回、あまりそこに執着するつもりにはなれなかった。というのも、形式は確かに重要であるが、それは言葉や数式に対する深い信頼と洞察の結果であり、器ではあっても、源ではないように思われたからだ。

無論、形式を蔑ろにして良いわけではない。器があるからこそ人の感性は形を持つ事ができるのであり、よくできた器を作る事こそが、詩歌や数学を信ずる者の、最大の悲願と言っても良いだろう。だがそれは、やはり悲願であり、すでに信ずる道を持つ者の、行き着く先なのだ。

では、この信ずる道を、彼らは如何にして楽しんでいるのか。そこに注目しようとしたのが、今回の話だ。この楽しむという点に、疑問の余地はない。どれほど苦海の底にいようと、数学者と歌人は、自らの信ずる道を楽しんでいる。この確信こそが、私に今回の話を書かせたと言っても、過言ではないだろう。

この点において、今回焦点を向けた「よむ」という行いは、存分に特筆すべきものであったと思う。自分の絶対性を信ずれば能動的にもなり、相手の絶対性を信ずれば受動的にもなるこの行いは、数学者と歌人が彼らの信ずる手段と身をかわす上で、絶対の、そして唯一の手段だからだ。

それから、最後にもう一つ、書き進める中で思った事がある。それは、彼らの孤独だ。

歌人にせよ、数学者にせよ、彼らは自らの信じる手段を頼みに、自らの感性を育て、磨き上げる。しかし、いよいよ鋭敏になった感性は、決して彼らを、周囲の人々と混ぜ合わせる事はない。果てしなく深まった自覚は、自分はまさに他の誰でもないという事を、彼らに突き付けるだろう。

しかし、あるいはだからこそ、歌人は歌い、数学者は数式を書き出すのかもしれない。彼らの感性が彼らの信ずる手段に育てられたものである以上、それがどれほど鋭敏な感性であっても、彼らが信じてきた手段に、託する事はできるはずだ。

 

および折り 一二三数ふる 吾が身こそ 一つと見ゆる 吾が身なりけり

(了)