小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 平成三十年(二〇一八)二月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 平成三十年(二〇一八)二月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
今月、巻頭に「宣長の年譜を編む」を寄せて下さった吉田悦之さんは、三重県松阪市にある本居宣長記念館の館長である。新潮社で小林秀雄先生の本を造るにあたり、私もずいぶんお世話になったが、五年前、「小林秀雄に学ぶ塾」で小林先生の「本居宣長」を読み始めるや須郷信二さんは吉田さんを訪ねて教えを乞い、まもなく塾仲間を誘って松阪への「修学旅行」を催した。
この修学旅行が、今では年中行事になっている。その年その年、頃合を見計らって松阪を訪ね、皆で宣長さんの奥つ城(墓)へお参りし、記念館の収蔵庫を見学させてもらって吉田さんのお話に耳を傾ける。詳しくは、本誌の創刊号(2017年6月号)に「松阪、本居宣長記念館、花満開」と題して、また第二号(同7月号)に「『トータルの宣長体験』とは」と題して、須郷さんが書いている。
その須郷さんの上記二篇もこの機会にぜひ再読していただきたいが、今回こうして「宣長の年譜を編む」を読ませてもらうと、宣長記念館の収蔵庫で、また展示室で、私たちに語りかけて下さる吉田さんの声と口調がそのまま聞こえてくる。毎日親身になって宣長のことを考え続けられている吉田さんの声である。
*
吉田さんは、文中にある「宣長十講」の他に、宣長記念館で「古事記伝」の素読会ももたれている。その素読会に参加した経験が、須郷さんに「直毘霊」の音読を思いつかせ、この音読によって、須郷さんはこれまで頭であれこれ言われてきたいわゆる「宣長問題」を飛び越えた。その素地には、母堂が毎朝唱えられていた祝詞があった。今号掲載の「信ずることと、祈ること」に、その記憶と経験が記された。「古事記」を訓むにあたって、そこに書かれている言葉の語意・文意よりも、古代の人たちの話し言葉と、それを口にする彼らの心を得ようとした宣長もおそらくはこうであっただろうと思われ、声の力とはこれほどのものなのだとあらためて教えられた気がした。
*
私たちの塾でも、素読会をもっている。月に一度集まり、前半はベルグソンの「物質と記憶」を読む、後半は日本の古典を読む。「物質と記憶」は二度目に入り、日本の古典は「古事記」を読み上げて、いまは「源氏物語」に入っている。この素読会が、昨年、吉田宏さんの発意で広島でも始まった。
こちらの吉田さんは、広島から鎌倉の塾へ毎回欠かさず来ているが、この吉田さんに言われて二年ほど前から、広島でも塾をひらくようになった。その経緯をやはり本誌の創刊号に吉田さんが書いている。広島の素読会も、吉田さんがリーダーとなって、小林先生の「美を求める心」を繰り返し読むという形で始められた。今号に掲載した吉田美佐さんの「自分の中に入れるということ」、鬼原祐也さんの「『美を求める心』を走る」は、どちらもその「素読会in広島」から生まれた体験記である。
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須郷さんの「信ずることと、祈ること」の部屋に掲げた「手ぶり言とひ聞き見るごとし」は、本居宣長が「古事記伝」を書き上げ、そのよろこびの会で披露した歌「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」の下二句を借りたものである。むろん須郷さんの文にも引かれているが、今月は坂口慶樹さんも「『興』のはたらき・『観』のちから」にこの歌を引いている。
お二人の文を読み通してみると、日ごろ私たちが勤しんでいる「本居宣長」への自問自答は、まさに小林先生の、そして宣長の、「てぶりこととひ」を「聞き見るごと」くになるための努力であると気づかされる。そこを坂口さんは、こう書いている、――小林先生は、十二年六ヶ月という歳月をかけて、宣長の作品を眺めた、私達、塾生も、そういう小林先生の姿を、同じ時間をかけて眺めようとしている……。
すなわち、本誌に設けている「『本居宣長』自問自答」は、小林先生の、また宣長の、「てぶりこととひ」を「聞き見るごと」くならんがために、先生が「本居宣長」第九章に書いている意味での「心法」を練る部屋なのである。今月は、そこに坂口さんと溝口朋芽さんが坐り、坂口さんは、孔子から出て荻生徂徠が強調した詩の「興の功・観の功」に耳を澄ませ、溝口さんは、宣長から出て小林先生が熟考した「徴としての言葉」に思いをひそめた。
(了)
九 「あしわけ小舟」を漕ぐ(下)
3
契沖は、真言宗の僧である。寛永十七年(一六四〇)の生れだから、享保十五年(一七三〇)に生れた宣長からすれば九十年前の人である。
その契沖については、出自から死去まで、「本居宣長」第七章に精しく書かれている。それはまた小林氏の契沖に対する共感の深さを示すもので、契沖の学問と生涯の神髄は、「本居宣長」の第六章、第七章で尽くされていると言っていいほどだ。が、「萬葉代匠記」の経緯については、第七章に次のように書かれているのみである。
――契沖の研究が、仏典漢籍から、ようやく国典に及んだのは、十年ほどの泉州閑居時代であった。「萬葉代匠記」が起稿されたのは、天和三年(四十四歳)頃と推定されているから、契沖の歌学と言われているものは、すべて二十年に足らぬ彼の晩年の成果であったと言ってよい。時期ははっきりしないが、長流は、水戸義公から、その「萬葉」註釈事業について、援助を請われた事があった。病弱の為か、狷介な性質の為か、任を果さず歿し、仕事は、契沖が受けつぐ事になった。「代匠記、初稿本」の序で、「かのおきな(長流)が、まだいとわかかりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこころをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをささぐ」と契沖は書いている。……
これに先立って、小林氏は、第六章に「あしわけ小舟」から、「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」を引き、次いでこう言っている。
――彼(宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「萬葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……
「本居宣長」を読んできて、私はいま、宣長の「もののあはれ」の説の濫觴へと遡り、「あしわけ小舟」を読んでいる。それは、契沖が「源註拾遺」で、「源氏物語」は「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言い、宣長はその「可翫詞花言葉」の体得・体現を徹底することによって「もののあはれ」の説に到達したのだが、宣長にとって「可翫詞花言葉」は、「源氏物語」に即して契沖に言われるより先に、十九歳で始めた詠歌修業を通じてすでに身についていたと思われるというところから始めている。そしてその「可翫詞花言葉」は、詠歌に打ちこむなかで定家本人から教わってもいて、契沖が「源註拾遺」で言った「定家卿の詞に、歌ははかなくよむ物と知りて、その外は何の習ひ伝へたる事もなしといへり、これ歌道においてはまことの習ひなるべし、然れば此物語を見るにも大意をこれになずらへて見るべし」にもただちに反応し、詞花言葉を翫ぶという詠歌の経験をそのまま「源氏物語」を読むという経験に活かしたと思われるのだが、そのとき、宣長が明瞭に意識においていたのが契沖の「一大明眼」であった。
契沖は、古歌や古書にはその「本来の面目」がある、「萬葉集」の古言は当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏物語」の雅言はこれを書いた人の雅意をそのまま現す、そこに思い当った、この直覚・直観こそが契沖の「一大明眼」であり、契沖は「萬葉集」を前にしても「源氏物語」を前にしても、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を見る、直かに見る、この態度を貫いた、これもまた契沖の「一大明眼」の具現であったのだが、契沖にその「一大明眼」をもたらしたのが「萬葉集」の校訂と注釈、すなわち「萬葉代匠記」の執筆だったのである。
小林氏は、「本居宣長」は、宣長について何か新しい説を打ち出そうとしたものではない、自分の行ったことは、宣長が残した文章の訓詁注釈である、そう言っている。「訓詁」とは古文に見える語句や文字の意味を明らかにすること、「注釈」とはその「訓詁」から進んで文意を汲み取ることと解していいが、それと同じ意味合で、私は小林氏の文章の熟視と訓詁を志している、ここでは、「萬葉代匠記」という言葉の訓詁を試みようと思う。
契沖の「泉州閑居時代」とは、室生山麓の岩窟で死のうとしたが果たさず、再び高野に上って修行した、それからのことである。小林氏も拠った朝日新聞社版『契沖全集』第九巻「伝記及伝記資料」所収の久松潜一氏「契沖伝」によれば、契沖が再び高野山を下りたのは三十歳前後と推定され、三十代のほぼ十年、和泉の国(現在の大阪府南部)の久井、次いで万町と、いずれも契沖の学徳に感じた人の家に寄寓して仏典、漢籍、和書に親しんだ。
前半五年ほどの久井時代は、真言宗に信心の篤い辻森吉行に招かれ、同家の蔵書であった仏典、漢籍の研究に従った。次いで延宝四年(一六七四)、三十四歳の年からは、祖父同士が加藤清正に仕えていたという縁で万町の伏屋長左衛門重賢家に移り、邸内の養寿庵にこもって同家所蔵の日本の古典を読破した。この万町時代が「萬葉代匠記」の揺籃となった。
「水戸義公」とは、水戸藩の第二代藩主、徳川光圀である。若くして修史の志を抱き、藩主となるや史書編纂のための「彰考館」を設け、俊英学者を全国から招聘して日本史の編纂事業を大規模に推し進めた。その成果が、今日、「大日本史」の名で知られるもので、「本居宣長」でも第三十一章で言及されているが、光圀は「大日本史」の編纂と並行して、日本の古典の蒐集整備にも力を注いだ。その古典整備の最たる対象が「萬葉集」だった。
宣長が現れるまで、「古事記」は誰にも読めない碑文のような存在になっていたが、「萬葉集」も同じだった。「古事記」ほどではなかったにしても、そこに書かれている萬葉仮名と呼ばれる漢字の群れをどう読めばよいのか、こうではないか、こうだろうという読みは古来いくつも試みられたが、それらはいずれも誰にも得心がゆくというものではなかった。
しかも、それだけではなかった。いつしか「萬葉集」は、文字が読める読めないの困惑もさることながら、「萬葉集」とは本来、どういう姿の歌集であったのか、それがわからなくなっていた。平安時代以来、萬葉仮名をなんとか読もうとした人たちが、「萬葉集」と言われる本を写し写ししている間に、誤字・衍字も混じれば脱字や恣意的改変も起り、かくして何種類もの「萬葉集」が存在することになった。そこでたとえば、これは柿本人麻呂の歌であると左注(歌の左側にある注記)に書かれていても、人麻呂はこの歌を、ほんとうにこう詠んだかどうかは疑わしいというような事態に陥っていた。
光圀は、そこを憂慮した。日本の修史にこれだけの手を尽す、そうであるなら日本の古典、就中「萬葉集」の再建も喫緊の大事と思った。光圀にそう思わせるに至った悲劇は、九〇〇年前、「萬葉集」が大伴家持によってその全容を調え終えられた直後に起っていた。
新潮日本古典集成『萬葉集』の伊藤博氏の解説によれば、「萬葉集」の編纂は七世紀の末、巻第一に「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」の歌を残した持統天皇が、皇位を譲って上皇となった文武年間(六九七~)に始り、桓武天皇が即位した天応元年(七八一)前後の頃まで、八十余年の歳月を閲して行われたらしいという。
したがって、編者も何度か入れ替わった。初期には歌人としても傑出していた柿本人麻呂が、次いでの時期には太安万侶が、さらには山部赤人、坂上郎女らが、歴代の編者として想定され得るが、今日見られる全二十巻の最後を担ったのは大伴家持である。
家持の前までに、今日の巻第一から巻第十六まではほぼ出来ていた。家持は、そこに最後の手を加えるとともに、巻第十七から巻第二十までを編み足して全二十巻とした。まだ整備すべきところが残ってはいたが、それにしても日をおかず、家持はその全容を公にして朝廷の認証を得るつもりであった、ところが、そうはいかなかった。
家持は、「萬葉集」を完結させた直後の延暦四年(七八五)に死去した。のみならず、死んで二十日余り、藤原種継暗殺事件が起り、家持はその首謀者とされて官位を剥奪され、罪人に落とし入れられた。種継は、桓武天皇の信任篤かったが、皇太子の早良親王とは対立していた。家持は、早良親王の東宮大夫であった。したがって、事件の首謀者というのは濡れ衣で、東宮大夫であったがための連座であったかも知れないのだが、ともあれ罪人の関わった財産や書類はすべて官庫に没収する、それが当時のならわしだった。家持は、「萬葉集」最後の巻第十七から巻第二十までだけでなく、巻第一から巻第十六までの最終整備にも深くかかわっていた。そのため、「萬葉集」は、全巻が罪人の書として忌避され、官庫の一隅に長く放置されることになったらしいと伊藤氏は言っている。
「萬葉集」が日の目を見たのは、それから約二十年後である。延暦二十五年(八〇六)三月、桓武天皇の病平癒のための大赦があり、家持は二十一年ぶりに罪を解かれて名誉を回復した。奇しくもこの日、桓武天皇は崩御し、平城天皇が即位して大同元年となった。平城天皇は、桓武天皇がひらいた平安京よりも古京・平城京を愛した。その平城天皇の前に「萬葉集」が据えられ、古き時代の風雅・文雅の結晶「萬葉集」は、平城天皇によってようやく認証されたのであろうという。
しかし、「萬葉集」にとって、吹いた逆風はこの二十一年ではすまなかった。史上、国風暗黒時代と呼ばれる時代が「萬葉集」を襲った。平城天皇の弟、嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~)から淳和天皇を経て仁明天皇に至るまでの三十年間、制度、文物、すべてに唐風すなわち中国風がよしとされ、文芸面では漢詩文がもてはやされて倭歌は片隅に追いやられた。その兆しはもう桓武天皇の時代に見えていたが、嵯峨天皇は兄平城天皇と戦を交えたほどの天皇である、「萬葉集」に関してはその存在さえ知らなかったかも知れない。平城天皇の在位はわずかに四年であった。この四年間を除いて「萬葉集」は、五十年にもわたって忘れ去られたも同然の境遇に置かれたのである。
五十年といえば、現代でも多くの物事が忘却の彼方へ去り、退化や風化が嘆かれるが、「萬葉集」の悲劇は現代文明の比ではなかった。「萬葉集」は、萬葉仮名で書かれていた。五十年の間に、その萬葉仮名が石化し、誰にも読めなくなっていった。国風暗黒時代がようやく幕を閉じ、「古今集」に代表される国風文化の幕が開く直前の寛平五年(八九三)、嵯峨天皇の即位から言えばざっと八十年の後、菅原道真の撰とされる「新撰萬葉集」が編まれた。その「新撰萬葉集」の序には、「萬葉集」は、「漸くに筆墨の跡を尋ぬるに、文句錯乱し、詩にもあらず賦にもあらず、字体雑糅し、入ること難く悟ること難し」、そう書かれている。「賦」はここでは漢詩と解しておいてよいだろうが、「雑糅」は、種々の物事が雑然と入り混じっているさまである。要するに、「萬葉集」は、菅原道真級の学識をもってしても読めない、何がなんだかさっぱりわからない、そう言われていたのである。
「萬葉集」が編まれた頃は、平仮名も片仮名もまだ生まれていなかった。文字と言えば漢字しかなかった。その漢字が中国から日本に渡ってきたのは今から二〇〇〇年ほど前と言われているが、だとすれば「萬葉集」が編まれ始めた七世紀の末は、漢字が渡来してからもう数百年が過ぎた頃である。したがって、当時の知識人はかなり自在に漢字を使いこなしていたようなのだが、その漢字を用いて日本語を書き留めるということも漢字が渡来した直後の一世紀に始まり、五世紀、六世紀になるとその数はいちだんと増えていた。そして七世紀、「萬葉集」の時代ともなると、人それぞれに漢字による日本語表記の知恵を競うようにもなっていた。
こうして生まれた漢字の用法、後に「萬葉仮名」と呼ばれるようになる漢字の使用法によって記された萬葉歌を並べてみよう。( )の中は『国歌大観』で打たれている番号である。
熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜(八)
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山(二八)
東野炎立所見而反見為者月西渡(四九)
田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留(三一八)
宇良宇良尓照流春日尓比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆(四二九二)
「萬葉集」には約四、五〇〇の歌が収録されている。その約四、五〇〇首すべてが、こういう表情で並んでいたのである。まさに「字体雑糅し、入ること難く悟ること難し」であるが、いまここに引いた五首は、今日では次のように訓まれている。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山
東の 野に炎の 立つ見えて 返り見すれば 月傾きぬ
田子の浦ゆ 打ち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 情悲しも 独りし思へば
「萬葉仮名」で書き残された萬葉歌は、今ではこうしてほとんどが読める。依然として難訓歌はあり訓みをめぐって議論の絶えない歌もいくつかあるが、ともかく「萬葉集」は今は読める。永きにわたって仮死状態に陥っていた「萬葉集」が、ここまで息を吹き返したについては、何人もの学者や歌人の蘇生努力、すなわち萬葉仮名訓読の試行錯誤が繰返されたのだが、それらを踏まえてというより、それらを一気に飛び越えてと言っていいまでに、今日通行の訓みの過半を示したのが契沖だった、契沖の「萬葉代匠記」だった。大伴家持の手で「萬葉集」が最終的に成ってから、契沖が「萬葉代匠記」を書き上げるまで、その間およそ九〇〇年の歳月を要した。
「萬葉集」は、世に顧みられることなく放置されていた八十年の間に、誰にも訓めなくなった。一言で言えば、萬葉仮名には、こう読ませるためにはこう書く、こう書かれていればこう読むというような、万人共有の正書法などはまるでなく、すべては筆録者各人の恣意に拠っていた。漢字には表意性と表音性が備っているが、日本語を漢字で、漢字だけで記すにあたっては、その両方が随時、随意に利用された。
『新潮日本文学辞典』の「萬葉集」の項で一見しよう。まずは表意文字として漢字を用いた場合である。これには、日本語の意味に相当する漢字を用いたものと、漢語をそのまま用いたものとがある。前者の例としては「我」(われ)「暖」(はる)「丸雪」(あられ)「京師」(みやこ)などがあり、後者の例としては「餓鬼」(がき)「法師」(ほうし)「布施(ふせ)」などがある。
次いで、表音文字としての用法では、漢字の音を借りたものとして「和礼」(われ)「波流」(はる)「安良礼」(あられ)「美夜故」(みやこ)などがあり、漢字の訓を借りたものとして「鴨」(助詞の「かも」)「名津蚊為」(なつかし)などがある。
さらには、表意性、表音性の外に出て、戯書と呼ばれるものもある。「蜂音」「牛鳴」は蜂の飛ぶ音、牛の鳴く声の擬声語を利用してそれぞれ「ぶ」「む」の音を表す、あるいは「二二」で「し」の音を表し、「重二」も「し」、「二五」は「とお」、「十六」は「しし」、「八十一」は「くく」の音を表すなどの数遊びめいたもの、「山上復有山」と書いて「出」と読ませるような手の込んだものもある、「出」の字の形はたしかに「山の上にまた山」である。
それどころか、『日本古典文学大辞典』の「萬葉仮名」の項によれば、「萬葉集」の多彩な文字づかいの背後には、歌の筆録者たちの文学的な用字意識があり、漢字を仮名として使用しながら表意性を捨てきることはせず、漢字の意味喚起性にもこだわったところから多様な文字選択が生じているという。たとえば「恋」は、「孤悲」とも書かれている。ということは、それによって萬葉仮名は、いっそう複雑になり、「文句錯乱、字体雑糅」の度をますます深めていたのである。
この、「萬葉集」の「文句錯乱、字体雑糅」状態を、最初に重く見たのは村上天皇であった。大伴家持が死んだ延暦四年からでは一六六年後の天暦五年(九五一)、村上天皇は宮中の梨壺に和歌所を設け、坂上望城、紀時文、大中臣能宣、清原元輔、源順の五人に「古今集」に次ぐ勅撰集「後撰集」の編纂と、「萬葉集」の付点とを命じた。「点」とは本来は漢文訓読のための補助記号を言い、返り点などがそれにあたるが、そこから転じて注釈のことも「点」と言うようになった。
村上天皇は、この「梨壺の五人」に、「萬葉集」を読み解けと命じたのである。これは史上唯一の公式事業であるばかりでなく、平仮名・片仮名が生まれた後の時代で、初めて「萬葉集」を一般に読めるものにしたという意味で画期的だったと『日本古典文学大辞典』にはある。この「梨壺の五人」が残した訓みは「古点」と呼ばれ、その数、四〇〇〇首を超えていたと推定されている。ちなみに、清原元輔は清少納言の父である。
これを承けて、平安時代には藤原道長らの「次点」が現れもしたが、梨壺の五人に次いで特筆されるのは鎌倉時代の僧、仙覚である。仙覚は十三歳で「萬葉集」の研究を志し、四十四歳の年に諸本を見る機会を得て校訂本をつくり、それまでは点のついていなかった一五二首に訓をつけた。その後も校訂作業を続けて仙覚新点本を完成させ、最後は「萬葉集註釈」を著して難解歌八一一首に注を施すなどした。この仙覚の校訂事業と注釈は、「萬葉集」の享受・承継史上、不滅の意義をもつとされている。
それから四〇〇年余り、「萬葉集」はその間にまた錯綜し、江戸期に入って光圀が立った。光圀は、水戸家の事業として、「萬葉集」の自前の校訂と注釈とを志していた。延宝五年(一六七七)、彰考館の史臣、佐々宗淳らに京都で「萬葉集」関係の書を集めさせ、天和元年(一六八一)には注釈を、翌年には校合を史臣たちに命じ、それと並行して下河辺長流に協力を頼んだ。しかし長流は、小林氏の文を引けば「病弱の為か、狷介な性質の為か」、任を果さずに死んで光圀の要請は契沖が引き継いだ。
契沖は、天和三年(一六八三)頃、「萬葉代匠記」の執筆にかかり、貞享四年(一六八七)頃に初稿本を完成、さらに元禄二年(一六八九)、初稿本の全面改稿にかかり、翌三年、その結果を精選本として光圀に献じた。初稿本は初稿本で、今日なお輝き続ける大著だが、光圀はそのすべてをよしとして満足はしなかった。契沖が叩き台として用いたのは、当時最も流布していた木活字本の寛永版本であった。契沖は他の本はほとんど見ず、寛永版本だけで本文改訂や改訓を行い、註釈を施していた、光圀の不満は、契沖の用いた本が寛永版本だけであったことにあった。そこで光圀は、水戸家で集めた四種の本を校合した「四点萬葉」その他の本を契沖に貸し与え、契沖は、その、より精密な校訂本を叩き台としてまた全巻にわたって「萬葉集」を読み解いた、それが精選本だった。初稿本から精撰本まで、要した歳月はわずかに七年ほどだった。契沖の学識の広さ深さと集中力を思うべきだろう。
こうして「萬葉集」は、契沖によって、本来の姿と心に復した。契沖の「萬葉代匠記」は、大伴家持が仕上げたまま石化していた「萬葉集」の大半を、ほぼ家持が意図したとおりの「萬葉集」として蘇生させた。林勉氏によれば(「万葉代匠記と契沖の万葉集研究」、岩波書店「契沖研究」〈一九八四年刊〉所収)、契沖が底本としたと思われる寛永版本に、彼がどの程度の本文校訂や改訓を試みたかを見てみると、その該当箇所は三五七〇ヶ所に上り、うち一九六一ヶ所、すなわち約五〇パーセントが現在なお「萬葉」研究の世界で認められている、部分的な支持まで加えれば、約六三パーセントが今日も生きているという。林氏は、「萬葉代匠記」の「萬葉」研究史上における重要度は、その質の高さは言うまでもなく、創見の量においても注目に価すると言っている。
先に、戯書と呼ばれる萬葉仮名として「山上復有山」を紹介したが、これを「出づ」と初めて訓んだのも契沖だった。
この戯書は、巻第九の「虚蝉乃 世人有者……」と始まる長歌(一七八七番歌)の中に、「毎見 恋者雖益 色二 山上復有山 一可知美」と見えているのだが、契沖が底本としたと思われる寛永版本の訓は、濁点を補って書き写すと、「ミルゴトニ コヒハマサレド イロイロニ ヤマノヘニマタ アルヤマハ ヒトシリヌベミ……」だった。
これを契沖は訓み変えた。まず初稿本ではこう言っている。
――これは色に出でば人しるぬべみといふべきを、「古楽府」に藁砧今何在、山上更有山といふは、藁砧をば、砆といふゆへに夫の字とし、出の字は、まことには、中の画上下をつらぬきて、二の山にはあらざれども、しか見ゆれば、夫はすでに遠く出てゆけりといふ心に、山上更有山と作れるをふみて、出るといふ事を、山のうへにまたある山とはいへり。唐ノ孟遲が詩に、山上有山不得帰と作れるも、「古楽府」によれり……
そして、精選本ではこう言っている。
――色二山上復有山、者、今按、此ヲ三句ニヨメルハ非ナリ。(中略)イロニイデバ、ト一句ニ読ベシ、其故ハ「古楽府」ニ、藁砧今何在、山上更安山、云々。此山上更安山トハ、出ノ字ヲ云へり。正シク山ヲフタツ重テカクニハアラネド、見タル所相似タル故ナリ。唐ノ孟遲ガ、山上有山不得帰、ト作レルモ此ニ依レリ。今モ此義ヲ意得テ、イデト云フタ文字ヲ、山上復有山トハカケルナリ。……
宣長の言う「難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」の「古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ」がここにも見て取れるが、「ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタ」契沖の「一大明眼」は、宣長と上田秋成との論争を紹介し、宣長の「古学の眼を以て見る」ということに説き及ぶ第四十一章に至って披露される。
――自分の学問は、古書を考える学問に於いて、古今独歩たる契沖の大明眼によって、早速に目がさめたところに始った、と宣長は言うのだが(「あしわけをぶね」)、その契沖の古伝についての考えはというと、――「和漢ともにはかりがたきことおほし。ことに本朝は神国にて、人の代となりても、国史に記する所神異かぞへがたし。ただ仰てこれを信ずべし」(「萬葉代匠記」巻第二)という、まことに簡明なものであった。……
とまず小林氏は言い、次いで、契沖の注を読む。
――この契沖の言葉は、天智天皇の不予に際して奉献した大后の御歌、「青旗の 木幡の上を かよふとは 目には見れども 直に逢はぬかも」の訓詁の結びとなっている言葉だ。「木ノシゲリタルハ、青キ旗ヲ立タラムヤウニ見ユ」という意味合から、「青旗」は、「木幡」の枕詞をなす。木幡は天皇の御陵のある山科に近い。天皇崩じ給わん後、「神儀ノ天カケリテ木幡ヲ過、大津宮ノ空ニモ通ハセ給ハム事ヲ、皇后兼テ能ク知食セドモ、神ト人ト道異ナレバ、ヨソニハ見奉ルトモ、ウツツニ直ニハエアヒ奉ラザラムカト、歎テヨマセ給ヘルカ」と契沖は按ずる。そして、「いかさまにも只ならぬ御詞なり」と感歎するのである。……
これを承けて、小林氏はさらに言う、
――皇后にとっては、目に見る天皇の御魂も、直に逢う天皇の聖体も、現実に、直接に、わが心にふれて来る確かな「事」であるのに変りはないので、そういう生活感情の率直な表現は、人を動かさずには置かず、其処には、この判じにくい表現は、何の譬喩かというような、曖昧な思索の入りこむ余地はない、というのが、契沖の「只ならぬ御詞」という言葉の含みなのだ。歌の姿が神異なら神異で、「ただ仰てこれを信ず」るがよいのである。「歌道のまこと」を得るには、他に道はない。この契沖の明眼は、宣長の学問のうちに播かれた種であった。国史を遡って行けば、それは神歌神語に極まるのだし、もし現在のうちに過去が生きているのを感得出来ずに、歴史を云々するのは意味を成さない事なら、契沖の得た「まこと」は、今日も猶「まこと」である筈だ。そういう一と筋の道が、人の道を問う学問を貫くのを、恐らく宣長は、契沖を知った時に、早くも予感していたと見ていい。……
これを小林氏は、第六章の末尾ではこう言っている。
――彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……
しかし宣長は、「萬葉代匠記」を、読み通すことはできなかったようだ。初稿本だけは写本を読めたようだが、精選本は読めなかった。「萬葉代匠記」は、そもそもは光圀の、水戸家の「萬葉集」再建事業のための基礎資料として要請されたものであった。したがって、契沖から水戸家に献じられた後は、水戸家の「釈萬葉集」のための参考資料として秘蔵された。そのため、精選本の写本が世に流布することはほとんどなかったらしいのである。宣長が今井似閑の「似閑書入本」を読んで言った、「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」には、そういう事情が伴っていたと思われる。小林氏が精読した「青旗の 木幡の上を かよふとは」の歌の注釈は、精選本に見えるものであるが、ここに小林氏が引いている注釈の結語、「和漢ともにはかりがたきことおほし。ことに本朝は神国にて、人の代となりても、国史に記する所神異かぞへがたし。たゞ仰てこれを信ずべし」は、初稿本に記されている。
4
こうして契沖は、藤原定家が「源氏物語」について言った「可翫詞花言葉」を「萬葉集」で実行し、「萬葉集」の「詞花言葉」を「翫味」「翫索」して「一大明眼」をひらき、そしてついに前人未到の歌学を打ち立てて古歌本来の面目に達したのだが、その契沖に先立って、歌を詠むという実際行動の心構えとして「可翫詞花言葉」を宣長に示したのは定家であった。
先に、小林氏は、歌とは何かという課題が宣長の体当りを受け、これを廻って様々な問題が群がり生じた、歌の本質とは何かに始り、その風体、起源、歴史……と、あらゆる問題が宣長に応答を迫ったと言い、この意識の直接な現れが「あしわけ小舟」の沸騰する文体を成していると言っていたが、わけても歌の歴史を追い、「新古今集」に至って定家に説き及ぶくだりは殊のほか煮えたぎっている。
宣長は、歌の道の興廃を論じれば、と言って、上代の「古事記」「日本書紀」に見えている歌から説き起こし、「萬葉集」、「古今集」、そしてそれ以後の勅撰集と、歌が興隆してきた歴史を辿っていき、「新古今集」に至って言う。
――サテ新古今ハ、此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ、上一人ヨリ下々マデ此道ヲモテアソビ、大ニ世ニ行ハルル事、延喜天暦ノ比ニモナヲマサリテ、此道大ニ興隆スル時也、凡ソ歌道ノ盛ナル事、此時ニシクハナシ、歌ノメデタキ事モ、古ヘノハサルモノニテ、マヅハ今ノ世ニモカナヒ、末代マデ変ズベカラズ、メデタクウルハシキ事、此集ニスギタルハナシ……
「新古今集」は第八番の勅撰和歌集である。後鳥羽上皇の命で鎌倉時代の初期、元久二年(一二〇五)に一応の完成を見た。「古今集」からでは三〇〇年ちかくが経っていた。
「上一人」は天皇である。「延喜天暦ノ比」は醍醐天皇と村上天皇の時代、すなわち、「古今集」と「後撰集」が編まれた時代である。歌の道は、そういう盛時をも凌いで、「新古今集」に至って頂点に達した、この上はもうないと言うのである。
しかも、「新古今集」の時代は上も下も歌に粉骨砕身したから、名人も多く出た、その名人の数でもこの時代を抜く時代はないが、
――ソノ名人ノ中ニモ、定家卿コトニスグレ玉ヘリ、サレバ俊成卿ノ子息トイヒ、コトニ歌モ父ヨリモナヲスグレテ、他人ノ及バヌ処ヲ詠ミイデ玉フユヘニ、天下コゾッテアフグ事ナラビナシ、マコトニ古今独歩ノ人ニテ、末代マデ此道ノ師範トアフグモコトハリ也、予、又此卿ヲ以テ、詠歌ノ規範トシ、遠ク歌道ノ師トアフグ処也……
定家は「新古今集」の撰者のひとりでもあった。
では、その「新古今集」のような歌を詠もうと思えばどうするか。「新古今集」ばかりを見るのはよくない、レベルが違い過ぎるからだ。そうではなくて、「古今集」に始る三代集、すなわち「古今集」「後撰集」「拾遺集」をよく見るのがよい。現に「新古今集」時代の名人たちは、いずれも三代集を手本にした、なかでも定家は、心を古風に染めよ、そのためには三代集を手本にせよ、と言った、三代集をよくよく学べば、おのずから風体がよくなり、「新古今集」を髣髴とさせる歌になるのだ、と宣長は書いている。
いずれ詳しく見ることになるが、定家の時代、他の諸芸と同じように、歌も父から子へ、師から弟子へという伝授が重視されていたと思われている。が、宣長は、とんでもないと言う。歌の道に伝授ということが言われ、それが幅をきかすようになったのは定家の子、為家の代からであり、定家の代まではそういうことはない。定家自身、「コノ道バカリハ身一ッニアル事ナリ」と言っているが、
――ヨクヨク歌道ノ本意ヲ味フテミヨ、古今ノ序ニ、人ノ心ヲタネトシテヨロヅノ事ノハトナルトイヒ、定家卿ハ、和歌ニ師匠ナシ、旧歌ヲ以テ師トストノ玉ヘル如ク、此道バカリハ、心ヨリイデクル事ニテ、ナカナカ人ヨリ伝フベキ事ニアラズ、フルキ歌ヲ、イク度モイク度モミテ、心ヲソムルヨリ外ノ伝授ハ、サラニナキ事也……。
そう宣長は書いている。
こうして、歌の歴史から説き起して詠歌の心得を説く宣長の背後に、定家はずっと立っていたのだが、近世になって、先達と言われる人たちですら歌道に暗く、歌学に疎くなった。そのため、古書の注解なども浅薄で誤りが多くなった、歌というものは、深い心と玄妙な味を探らなければ真意は表れ難い、注によってはとんでもない歌に見えてしまうこともしばしばある、契沖は、そういう蒙昧暗愚な近世の歌学界に現れた、「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ……」、この宣長の敬歎と感服は、「あしわけ小舟」のいわば最終章で言われるのだが、それに続いてほとんど結語のように、宣長はこう言うのである。
――ヨッテ詠歌ハトヲク定家卿ヲ師トシテ、ソノオシエニシタガヒ、ソノ風ヲシタフ、歌学ハチカク契沖師ヲ師トシテ、ソノ説ニモトヅキテ、ソノ趣キニシタガフモノナリ……
定家に発して契沖を経た「可翫詞花言葉」は、こういう実地に歌を詠むという切実な経験のなかで宣長に受け取られたと思われるのだが、この「可翫詞花言葉」が容易でないことは、「あしわけ小舟」でもう言われている。小林氏は第六章に引いている。
――源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ハカカルル也、シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ッモ我物ニナラズ、今日文章カク時ノ用ニタタズ、タマタマ雅言ヲカキテモ、大ニ心得チガヒシテ、アラレヌサマニ、カキナス、コレミナ見ヤウアシク、心ノ用ヒヤウアシキユヘ也、源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ、心ヲ用テ、モシ我物ニナル時ハ、歌ヲヨミ、文章ヲカク、ミナ古人トカハル事ナカルベシ……
これが、小林氏が言った、「詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事」であった。
宣長の「もののあはれを知る」の説は、これだけの手間暇をかけて、「あしわけ小舟」に続いた「紫文要領」で本格的に打ち出されるのだが、「あしわけ小舟」において「もののあはれ」という言葉自体は、ただ一ヵ所に見えるのみである。
――スベテ此道ハ風雅ヲムネトシテ、物ノアハレヲ感ズル処ガ第一ナルニ、ソレヲバワキヘナシテ、タダモノヒタフルニ流義ダテヲ云ヒ、家ノ自慢バカリヲスルハ、大キニ此道ニソムク大不風雅ノ至リ、我慢我執ノ甚ダシキモノ也トシルベシ……
宣長の「もののあはれを知る」も、第八章以降、小林氏によって語られる中江藤樹から伊藤仁斎、荻生徂徠へと受け継がれた「独」の血脈を承けていた。
(第九回 了)
九
二年と三ヶ月、全二十四回にわたって続けられた「ドストエフスキイの生活」の連載が完結したのは昭和十二年三月であるが、この長編評論が小林秀雄の最初の「批評作品」として上梓されるまでには、さらに二年余りの月日を要した。各章にはかなりの加筆修正が行われるとともに、五章に及ぶ序文が新たに書き加えられ、さらにニーチェの「この人を見よ」の一節をエピグラフとした上で、昭和十四年五月、創元社より刊行された。
翻訳書や編集者に請われて書いたと思しき二、三の例外を除けば、小林秀雄は自著にあとがきを添えるということをしなかった人だが、翌々月の『文學界』の編集後記は、彼が自ら進んであとがき的文章を草した珍しい例の一つである。その冒頭は、次のように書き出された。
僕は今度「ドストエフスキイの生活」を本にして、うれしいのでその事を書く。彼の伝記をこの雑誌に連載し始めたのは昭和十年の一月からだ。それは二年ばかりで終ったが、その後、あっちを弄りこっちを弄り、このデッサンにこれから先きどういう色を塗ろうかなぞと、呑気に考えているうちに本にするのが延び延びになって了った。ゆっくり構えたから、本になっても別に、あそこはああ書くべきだったという様な事も思わない。勿論自慢もしないが謙遜もしない。(「『ドストエフスキイの生活』のこと」)
連載を始めた直後に語られた「僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じている」(「再び文芸時評に就いて」)というその「喜び」が、ここにも溢れているのだが、四年半の歳月をかけ、現実に批評文においてものを創り出したところの「喜び」は、連載開始時に表明された彼の「野心」が、彼の企図した通りに成就したという意味での喜びではおそらくなかった。それはむしろ、当初抱いた「野心」が、彼の中で次第に滅却し、ついにこれに打ち克ったところの喜びであった。序文の最後の章で、彼は次のように書いている。
ドストエフスキイという歴史的人物を、蘇生させようとするに際して、僕は何等格別な野心を抱いていない。この素材によって自分を語ろうとは思わない、所詮自分というものを離れられないものなら、自分を語ろうとする事は、余計なというより寧ろ有害な空想に過ぎぬ。
重要なのは、この序文が、本篇を書き出すにあたっての彼の心構えを述べたものではなく、二年余りの連載を終え、さらに二年余りの推敲を経た末に獲得された彼の確信を語ったものであったということである。初めての長編評論に取り組むにあたり、彼がどれ程の「格別な野心」を抱いていたかは既に見たとおりである。
序文の前半二章は、連載を終了した一年半後の『文學界』昭和十三年十月号に掲載され、後半三章を加えた全文が、単行本刊行と同じ月の『文藝』に発表された。その最終行は、「要するに僕は邪念というものを警戒すれば足りるのだ」という一文で結ばれ、本文に架橋しているが、全篇の脱稿とともに克服されたこの「邪念」とは、何よりも連載開始当時の彼の「野心」、すなわち、作家が人間典型を創造するように、「誰の像でもない自分の像」としての作家の像を創り上げること、またそれによって、「僕にも借りものではない思想が編みだせる」という彼の企図そのものを指していた。連載がちょうど折り返し地点に差し掛かった昭和十一年二月に発表された「私信」という一文には、その「邪念」としての彼の「野心」が消滅して行く過程の一端が窺える。ロシア文学者である中山省三郎に宛てて書かれたその手紙の中で、小林秀雄は、批評家生活の出発点となった「様々なる意匠」以降、自分が書き続けてきたのは「様々な評家が纏った様々な意匠に対する反駁文」であり、別言すれば「裸で立っている自分を省みての自己弁解文」に過ぎないと断った上で、次のように綴った。
しかし裸体もあまり曝していると、始めは寒い風も当る気でおりますが、だんだん温って来て、晒す事が無意味になって来ます。もう充分だという気がして来ます。君はどんな着物を着ているかと言うのにも飽きたし、特に、自分はこういう風に着物を脱ぐと人に語るのにも飽きて来ました。そして僕は本当の批評文を書く自信が次第に生れて来るのを感じて来ました。言いかえれば、ある作家並びに作品を素材として創作する自信が生まれて来るのを覚えたのです。
僕は、自分の批評的創作の素材として、ドストエフスキイを選びました。近代文学史上に、彼ほど、豊富な謎を孕んだ作家はいないと思ったからであります。僕は彼の姿をいささかも歪めてみようとは思いません。また歪めてみようにも僕にはその力がありません。彼の姿は、読めば読むほど、僕の主観から独立して堂々と生きて来るのを感じます。すると僕はもはや批評という自分の能力に興味が持てなくなる、いやそんなものが消滅するのを明らかに感じます。ただ、ドストエフスキイという、いかにも見事な言うに言われない人間性に対する感覚を失うまいとする努力が、僅かに僕を支えているのです。
前段では、彼の「野心」が「自信」へと育ちつつあったことが示されながら、後段では、その野心の「消滅」が既に予見されている。ここで言われた「ある作家並びに作品を素材として創作する」、あるいは「自分の批評的創作の素材として、ドストエフスキイを選」ぶという彼の口ぶりは、批評とは「他人の作品をダシに使って自己を語る」ことだという嘗ての発言の延長線上にあるものである。一方、その「自己を語るダシ(素材)」としてのドストエフスキーは、読めば読むほど、彼の主観から独立して堂々と生きて来るのが感じられた。「主観」とは、批評し、創作しようとする小林秀雄の意識そのもの、彼が語ろうとした「自己」そのものであろうが、もはや彼にはその「自己」に興味が持てなくなる、いやそんなものが消滅するのが明らかに感じられる、と言うのである。
「ドストエフスキイの生活」が刊行された二ヶ月後、この作品を巡って雑誌『批評』の同人が小林秀雄を囲む「歴史と文学」という座談会が行われたが、この「邪念」としての「野心」について、彼はあらためて次のように語った。
ドストエフスキイを書こうとしても、始めはどう書こうか、こう書こうかと云う事を考える。そして自分のドストエフスキイとして考える。だけど段々色んなものを見て行くと、こう云う風なものを書き度いなんて、そういう気持ち、それを僕は邪念と云うけれども、そんなものはなくなってしまう。自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ちになるんだね。
十余年後、二つ目の評伝作品となる「ゴッホの手紙」において開かれた「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の道が、既にここに胚胎しているのである。「ゴッホの手紙」の最終節に書かれた言葉で言えば、「邪念」とは、「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念」であり、彼の心を占めていたはずのドストエフスキーに対する「批評的言辞」であった。小林秀雄の「無私ヲ得ントスル道」の、言わば最初の「螺階的な上昇」が、ここに行われたのである。
ただし、「歴史と文学」で語られた「自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ち」とは、直接には、ドストエフスキーの評伝を書き上げた小林秀雄が「歴史の方法」について問われて答えた言葉であり、この作品が実らせた果実としての序文が、「批評について」ではなく、「歴史について」の副題を持つものであったことは忘れてはならないだろう。右の発言に続けて語られたのも、「伝記作家と小説家」の違いについての話であり、絶対に客観的にならなければいけない、自己を無にしなければいけないと彼が発言したのは、「伝記を書くための実際的な条件」としての言葉であった。
「ドストエフスキイの生活」を、小林秀雄は「長編評論」として企図し、これを「本当の批評文」「批評的創作」として書こうとした。しかし「ドストエフスキイの生活」を書く以上、それは「本当の批評文」であると同時に「本当の歴史文」でもなければならない。そこでは「創作」や「創造」ということが、文学の世界におけるそれとはまた異なる位相の営みとして新たな意味を生じたはずである。連載を開始した時点で、小林秀雄がそのことをどこまで意識し、見通していたのかは定かでないが、冒頭に引いたあとがきの中で、「わからないから書くのだ。それが書くという奇妙な仕事の極意である」と言われた、その「極意」を知った仕事がこの評伝であった以上、「本当の批評文」を書こうとする彼の努力が、自ずと「本当の歴史文」を紡ぎ出す契機となる、そしてついに一つの確固たる歴史観を形成するに至ったことは、おそらく彼の予期しないところであったに違いない。彼の最大の「喜び」もまた、その点に存したであろう。
「歴史と文学」では、このあと「伝記作家と小説家」から「伝記と批評」に話題が移り、小林秀雄が昔、志賀直哉論を書いた時に、自分の中にあるものをはっきりさせるためにこの作家をだしに使ったと書いたことについて、それと今の話とは大分違っているのではないかと山本健吉に問われている。山本が指摘したのは、昭和十三年二月に発表された二度目の「志賀直哉論」の冒頭で、学生時代に書いた未発表の志賀直哉論を振り返って小林秀雄が書いた言葉である(ただしここでは「だし」とは言われていない)。これに対し、小林秀雄は、「違って居るかも知れませんね」と一言答えただけだが、続けて、伝記だけでなく文芸批評としてもそういう態度がなくてはいけないのではないかと問われると、「そうですな」と気のない風な返事をしている。しかしさらに、山本がサント・ブーヴの名を挙げ、この批評家はそういう自己というものを没却してしまった人でしょうと畳み掛けると、自らの「批評家的性向」について、次のように断じるのだ。
あゝ、そうだ。でも矢張りそう云う事は、批評家と云うものは、半分以上天性だね、矢張り自己を没却出来ると云う性質は、僕には若い頃からあったね。それで、そう云う事をまあ段々、そのもう少し深く意識して来るか、来ないかだけで、自分の中のものを明にするために誰々をだしに使うと云う言葉だって、結局或る批評家的性向が言わせるんだよ。自分を失う様な性向が言わせるんだねえ。
ドストエフスキーという「歴史と文学」へ推参したことが、「自己を没却出来る」という小林秀雄の「或る批評家的性向」を目醒し、自覚させ、これを鍛えた。それはまた、「批評とは何か」という文壇登場以来彼を悩ませてきた問いが、ここにおいて、「歴史とは何か」という巨大な問いに丸ごと呑み込まれ、新たな相貌をもって彼の眼前に迫ったということでもあった。以後、この二つの問いは、彼の中で益々分かち難く結ばれて行くことになる。『ドストエフスキイの生活』を刊行した同じ月に、小林秀雄がサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳出版しているのは偶然ではない。ボードレールとともに最大の影響を与えられたこの近代批評の創始者の、たとえば次のような一節を、自覚しつつあった我が身の「批評家的性向」として、彼は受け止め、訳したはずだからである。
批評は僕にとって一つの転身である。僕は自分が再現しようとする人物のうちに姿を隠そうと努めている。僕はその人になる、文体さえもその人になる、僕はその人の言葉遣いを借用してこれを装う。
僕は歴史家ではない、併し、歴史家の特質は備えている。
「ドストエフスキイの生活」を上梓した二年後、小林秀雄は文芸時評の舞台を降り、以後、二度とこの舞台に上がろうとはしなかった。一方、創造的な批評を書く、誰の像でもない自分の像としての作家の像を手ずから創り上げるという彼の野心が、ここで放棄されたわけでは決してなかった。むしろこの野心は、骨董というもう一つの歴史との邂逅と開眼とにより、新たな生を受け、このあと爆発的に開花することになる。小林秀雄が日本橋「壺中居」で李朝の壺に出くわし、逆上したのは、「歴史について」の前半二章が『文學界』に発表された、おそらく直後のことであった。やがて太平洋戦争が勃発し、小林秀雄の次なる「螺階的な上昇」が始まる。白洲正子の言った「きらきらしたもの」が、彼の批評の行間に輝き出そうとしていた。
(つづく)
私は広島で「美を求める心」を素読する会に参加している。私が素読を行う理由は、私の思考が間違ったことを考え始めたときに、そのねじれを正し、整える基になると直感したからである。
近年は、インターネットやスマートフォンの普及によって、瞬時に様々な情報を得られるようになった。その中で、自分の思考の偏りや、歪み、むず痒さを感じるときが多々あった。考える、ということはどういうことなのか。情報を素早く手に入れて判断することなのか。コンピューターの検索エンジンの様に考えることが、思考に妙な歪みをかけて、人と人との交わりを機械的な交わりに変化させ、他人を、ましてや自分自身をも傷つけているのではないかと思うようになった。要するに自分の物事の考え方の幅が狭くなっていると感じていた。
そのような事を感じて、普段私はどのように本を読んでいるかを振り返ってみた。当然、普段は黙読を行っている事が多かった。読み進んで行って分からないなと思ったら、前の行に戻ったり、分からない漢字や語句を辞書で調べたりしながら読んでいた。また、集中力の続かない時は途中でやめて違う事を始めたりしていた。
しかし、素読はこのようにはいかない。皆でランニングをするように、集中力が切れたといっても途中で止まるわけにはいかないし、途中で気になる文章があっても一人抜けて引き返すわけにはいかない。そうしたら皆は先に進んで行ってしまうからだ。だから分からない漢字が出てきても調べる事は後にして読み進んで行く。これらの事は、私が普段行っている読み方と大きく違っており、初めは戸惑ったが何度か素読を重ねて行く中で、その中に素読の面白さがあると思うようになった。
私は体を動かす事が好きだから、物事をよく運動に例える事が多いが、素読は運動的な文章の読み方だと思った。「美を求める心」は10頁半の文章であるが、1回全体を素読すると大体40分かかる。40分間、一定の速度で文章を声に出して読んで行くと結構、体力と集中力を要する事が分かる。それを1回の素読塾で2回行うので計1時間20分読んでいるという事になる。これはサッカーの1試合分に相当するもので、終わった後、毎回驚いている。というのも、集中しているせいか、あっという間に終わってしまうからだ。
読み方は全体を段落ごとに区切り、できた10の段落を主宰者の吉田宏さんが先に読み、その後皆がそれをくり返すという方法で1度読む。2回目は区切られた段落ごとに一人一人交替して読んでいる。それぞれ句読点や、各々に区切りのいい部分まで読んで、その後皆が続けて声に出すので集中して聴き、読んで行く。それでも40分の間には集中力に波が生じるので、どこを読んでいるのか迷子になったり、声が出せない時もある。そういう面においても黙読と素読の違いが体感できて面白い。最初は素読に意味はあるのか、と考えたり、途中で思う事が生じても読み進めて行く事に、もったいなさを感じていたが、素読という、皆で一緒になって走っていく文章の味わい方も良いと感じるようになった。
そのように、読み手につられ、時にはペースが上がったり、落ち着いたりしながら読み終えると、途中走ってきた文章から景色のようなものがチラチラと脳裏をよぎってくる。小林秀雄は「美を求める心」という風景をつくり上げ、私たちはそれを素読する事で、風景の中を皆で走り抜け、文章全体をひとつの姿として、感じたのではないか。本文の中でも記されている姿のことは、素読を行う事でさらに身近な景色となって現れてくるように感じる。「ここに谷があるぞ」とか、「ここはゆるやかだ」とか、「ここは声がこだまして返ってくる」とか、大体の地形が姿として存在している事に気づく。それを知らず識らずのうちに体験するから40分はあっという間に過ぎてしまうのではないか。私は素読を通して小林秀雄の風景の中で、皆と走ったり、声を出したりするうち、自然と自分の中の力みが抜けたり思考のクセが整えられていくのを感じた。それは全身をまんべんなく動かすように描かれた風景の中を走るからではないか。
この文章は小学生、中学生に向けて書かれたのだというのもなるほどと思った。小林秀雄は自分の中で自然をつくり出し、その中で動き回ってほしいと思いこの文章を書いたのではないか。その中で考えるときは、現代の都市のような風景ではなく、どこかのどかな里山のような原風景が思い浮かぶ。ふと私は、都市の中を動き回るように考えていたから、疲れていたのだなと思った。また、小林秀雄がなぜこのように表現したのか、その理由が素読体験を通して少し分かったように感じた。
素読により、この文章の中を走るということは、美を求めることといってもよいのではないか。走っている最中に通り過ぎていった景色がどんなに美しくても、お互いに語り合うことはできない。私たちは黙って菫の花を1分間見つめることを、40分間の素読の中で行っていたのではないか。小林秀雄は読者を沈黙させるために文章を書き続けていたのではないか。私が小林秀雄の文章に引きつけられる理由は、それが美そのものを目指して書き続けられているからだと思う。
小林秀雄は「美を求める心」を通して私を里山に連れ出し、素直に文章に向き合う事の大切さに改めて気付かせてくれた。素直に読むためには自分の内なる雑音に対して沈黙する力が必要であり、それには努力を要する。だがそれを求める行為そのものが美を求める心だという事は救いである。これが素読体験を通じて間違いのない事だと確信できた。
(了)
広島での池田塾が2015年10月から始まりました。その後、年に2回開催されています。開催がない期間に、広島の塾生で勉強会を開けたらとの声があがり、2017年5月から素読塾がスタートしました。2ヶ月に1回のペースで、小林秀雄の「美を求める心」をみんなで2回ほど素読するという時間。1回に約40分かかるので、休憩をはさんで約2時間の勉強会です。「素読」というものは生まれて初めての経験でした。
今までの私の人生で、何か新しいことを始める時は、その動機として、まずは何らかの情報を得るなどして「これは面白そうだ」「このことは人生で何かの役に立ったりためになるに違いない」とある程度確信を持って、意欲的に踏み込むことが常でしたが、この素読に関しては全く違っていました。むしろ「これをやってどうなるのだろう」「ただ声に出して文章を読むだけで、自分にどのような変化が起こるだろう」と、全く見当がつきませんでした。ただただ、小林秀雄の教えにより、鎌倉の池田塾の塾生たちもされているということ、そして池田塾頭の勧めなら間違いないだろうという、そのことを信じて、とにかくまずはやってみて何かを感じてみようといった気持ちでした。
実際やってみて、まず気づいたのは、自分の集中力のなさです。リーダーの人が一定の文章を読んで、それに続いてみんなも同じところを読むわけですが、最初は頭に入ってくるのに、途中から別のことを考えてしまっていたり、また自分がリーダーになった時は、どこで文章を区切ろうか、間違えずに読めるだろうかなどと、これまた内容とはまったく関係のないことを考えている時間があるのです。ぐっと内容に入っていけている部分もあるにはあるのですが、気持ちが離れている時間も確実にあり、また、その箇所が毎回変わるのも不思議です。
素読塾は現在(2017年12月)4回目を数え、「美を求める心」を8回素読しました。集中が途切れる自分を、毎回こんな調子で本当にいいのか ? と、情けなくも感じていたころ、久しぶりにこれを黙読してみました。
まず、読書のスタイルとして普通に「黙読」に慣れている私としては、黙読のほうが断然早く読めてその分集中できるし、内容もきちんと自分の中に入ってきます。
しかし、その、自分の中への入り方が、今まで素読してきたことによって、より深くしっかりと入ってくるような実感が確かにありました。また、素読会のときのメンバーの声や自分の声が耳に聞こえてくるような気がして、それらのことにとても驚いたのです。
そこで、ふと思い出したのは、私が子供の頃に始めたバレーボールです。最初は全く面白味のない単純な基本練習の繰り返しでした。しかし、学年が上がって徐々に試合に出られるようになると、急にプレーが形になったり応用もできるようになっていて、我ながら驚きつつも、バレーが楽しくなった。この経験と、素読に数回とはいえ取り組んでからの黙読で、突然頭にぐいぐい入ってきた感じは、何か似ている気がしました。
そうしてみると、今までその意味をよく見出せずにいた素読は、スポーツに置き換えると、大切な基礎・基本の練習と同じようなものなのかなと思いました。野球のバッティングで言えば素振りです。しっかりした技術を身につけるには、正しい基本の型を、何も考えずにとにかく反復することで自分の中に叩き込む。これが素読の意味するところなのかと思いました。頁数にしてわずか10頁半の「美を求める心」は、黙読で一気に集中して読むことはできますが、「とても良い文章だった ! 感動した !」とそのときは思っても、数ヶ月、数年経ったら、自分の中にその感動はほとんど残っていないかもしれない。けれども、根気よく一心不乱に素読をしていけば、確かな形となって残っていくのではと思いました。
また、これも私のバレーボールの話になりますが、高校時代のバレー部の顧問の先生(恩師)が、合宿中のミーティングで「忘却曲線」という言葉についての話をして下さったことがあります。「繰り返し練習して身につけた技術は、君らがいつかバレーをやめた時、ピーク時と比べると落ちてはしまうが、ある一定の技術は、やめてブランクが開いたとしてもしっかり残る。それが忘却曲線だよ」と、黒板に座標軸を書き、そこに、高数値のところからやや急な角度で落ちたあと、ゼロにはならずに一定の値を保ったまま水平に伸びる曲線を描いてみせて下さいました。素読も、それと同じようなことなのかもしれないと、恩師の言葉を思い出しました。
小林秀雄の「美を求める心」の文章の中に、「『美を求める心』という大きな課題に対して、私は、小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験が根本だ、と考えているからです。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集p.251)「絵や音楽や詩の姿とは、そういう意味の姿です。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語っているのです」(同第21集p.252)と書かれています。まさに、「美を求める心」という作品そのものが、この文章にとてもよくあてはまっていると感じました。この姿を「創り出した」小林秀雄が、この姿によって「人生いかに生きるべきか」を私たち読者に語りかけてくれている。そのことに向き合うには、文中にもあるように、知識や学問により頭だけで考えるのではなく、作品そのものの姿を感ずる能力を養い育てなくてはならない。そのために、素読を続けていくことには大きな意味があると思いました。
素読に取り組み、自分の中にこの作品がより深く入っていき、その上で、池田塾in広島での塾頭の講義を聴くならば、学びの質も全く違う良いものになってくるのではと、期待しているところです。
(了)
<母の祝詞>
あまり人に話したことはないのだけれど、小学校の頃から就職して家を出るまでの十数年、神道の祝詞を毎日のように聞いていた。両親とも祖父母の代からのキリスト者で、讃美歌ならともかく、祝詞が家の中に入り込む余地はなかったのだが、ある日母親が、どこで買って来たのか、神棚を持って帰って来た。怪訝な顔をする家族に対して彼女は、「今日から神様をお祀りする」と宣言して、それから毎朝、居間に据えた神棚の前で祝詞を奏上し始めた。理由を尋ねると、「だって祝詞の日本語って、美しいじゃない。自分もやってみたくて」と涼しい顔で答えた。本人の真意はいまだにわからない。ただ、自分の宗教であるプロテスタントを棄てたわけではないようで、その後も、日曜にはせっせと教会に通っていたし、先年亡くなった時には、牧師の司式により教会で葬儀を執り行った。キリスト者の中には、神社に参拝することすら忌避する人もいる。それを考えれば、自分の母親は、奔放というか、破天荒と言ってもよい人であった。「宗教は不自由だけど、信仰は自由だ」というのが口癖で、神棚騒動の時は、「キリスト教と神道は両立する」とまで言い放った。「そんなわけないだろう」と、それまで母親のやることを黙って見ていた父親が、さすがに不愉快そうに呟いたのを憶えている。
母親の思い出話はともかく、彼女の唱えていたのは「天津祝詞」であり、神道の祭式の冒頭に奏上される、最も一般的な祝詞だった。神社や神職によって、細かい文言の異同はあるが、自分が憶えているのは以下の詞だ。
高天原に 神留坐す
神漏岐 神漏美の 命以て
皇親神 伊邪那岐大神
筑紫の 日向の 橘の 小門の 阿波岐原に
禊祓ひ給時に 生坐る 祓戸大神等
諸々禍事罪穢を 祓へ給へ 清め給へと 申事の 由を
天神 地神 八百万神等共
天斑駒の 耳振立て 聞食と 畏み 畏みも 白
十数年も聞いてきた詞だから、耳についているが、というより暗唱できるほどだが、意味はよくわからなかった。ただ、そこから立ち上がってくる、畳みかけるような、軽快なリズムを感じることはできたし、それは嫌いではなかった。「筑紫の 日向の 橘の 小門の 阿波岐原に」は、グーグルマップをズームインさせる時のようなダイナミックさを感じるし、「天神 地神 八百万神等共 天斑駒の 耳振立て 聞食」、という終盤の盛り上がりも素敵だと思う。
池田塾に参加して、小林秀雄の「本居宣長」に導かれるように、「古事記」や、本居宣長の「古事記伝」などの本文に触れるようになると、「天斑駒」は須佐之男命のエピソードに登場する馬であり、「祓戸大神等」は伊邪那岐命が黄泉國から帰ってきた時に生まれた神々だと知る。そして何より、「古事記」には、古代日本語の音声が封じ込められているらしいということを知った。
宣長は、「古事記伝」において、何をおいても、古代日本語の音声を甦らそうとしたように見えるが、その時、力になったのは、祝詞、宣命であったという。宣長の時代にあって、「古事記」の読み下しは、すでに困難であったが、神に奏上する言葉である祝詞や、天皇の詔を伝える宣命の中に、かろうじて古代の「訓法」が残されており、師である賀茂真淵による先行研究も参照しながら、宣長は古代人の肉声を蘇らせようとした。
「古事記伝」の一之巻、「訓法の事」には、その具体的な作業が生き生きと描かれている。古文を読むということは、その意味を取ることと同じくらいに、いかに訓み下し、いかなるイントネーションを採用するかが大切だと、宣長は考えていたようだ。
言語は、文字よりずっと以前から、話し言葉として存在してきたのだから、「古の心ばへ」は、何をおいても、その発声の中にあるのかもしれない。だとすれば、自分は、祝詞の言葉を「美しい」と感じた母親の「心ばへ」を通じて、祝詞に封じ込められた「古の心ばへ」に、わずかに触れたのかもしれない。その事を思い出しながら、自分の中で「言霊」という言葉が立ち上がって来るのを、いま感じている。
<「宣長問題」とは何か>
いわゆる「宣長問題」というものがある。
小林秀雄は、「宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた」(「本居宣長」40章)と書いているが、 その難点とは、外形的には、源氏研究(歌の事)が終わり、古事記研究(道の事)に入った時に現れる、古伝説に対する狂信とも見える態度であり、それは排外思想の形を取ったり、「凡そ神代の伝説は、みな実事にて、その然有理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非」る(「古事記伝」六之巻)、と学説とも思われぬ主張の形を取ったりする。実証的研究態度とのギャップに、読む者は戸惑うのだが、こうした宣長の態度が、端的に現れているのが、「古事記伝」一之巻にある「直毘霊」だと言われている。
この中で宣長は、道を論うとしながら、異国の道、主に「聖人の道」への批判に終始し、肝心の「道」については、「古の大御世には、道といふ言挙もさらになかりき、其はただ物にゆく道こそ有りけれ」として、その具体的な中身は語ろうとしなかった。
また「直毘霊」に対する儒学者からの批判にも、筋の通った反論をせず、「小智をふるふ漢意の癖」(「くず花」)、と決めつけ、「信ぜん人は信ぜよ、信ぜざらん人の信ぜざるは又何事かあらん」(同上)、と突き放した。小林秀雄は、「 『直毘霊』を度外視して、『古事記伝』を読む事は、決して出来ないのである」(40章)と書いているが、我々はこの奇妙な文章に、どのように向き合えばよいのだろうか。
<「直毘霊 」を読む>
正直に言うと、「直毘霊」を読むたびに、自分の思考が滞るのを感じた。「古事記伝」一之巻に関していえば、その前段の「文體の事」や、「訓法の事」など、実証的記述との落差が大きすぎるのだ。
「直毘霊」が書かれたのは、文末の記述によれば明和八年(1772年)であり、「古事記伝」の起稿から八年、ちょうど一之巻の完成と時を同じくしている。宣長は「古事記伝」完成まで、三十五年の時間を費やしていることを考えれば、総論部分である一之巻と、その巻末に置かれた「直毘霊」は、全巻を貫く宣長の「心ばへ」を現わしていると考えて良いのだろう。
その「心ばへ」とは、例えば、「神の道に随ふとは、天下治め賜ふ御しわざは、ただ神代より有こしまにまに物し賜ひて、いささかもさかしらを加へ給ふことなきをいふ」、というように、「神代のまにまに」政治を執り行えば、自ずから神の道は現れるという考えである。だから、ことさら道を説く必要はないし、道を説く事自体が、「道の正しからぬが故のわざ」とする。そして、ここから、宣長の「聖人の道」排斥が始まる。
中国において「道」が盛んに説かれたのは、国が乱れていたためである。そこに聖人が現れるが、彼等こそが、「君をほろぼし、國をうばへるもの」であり、「いともいとも悪き人」である。「聖人の道」など、「穢悪き心もて作りて、人をあざむく道」である。日本においても、中国に倣って道を説こうとするものが現れるのは、猿が人のことを「毛がない」と言って笑うのを恥じて、人にも毛はある、と強いて主張するようなもので、毛がないことが貴いのを知らぬ「痴人のしわざ」である、と。正直、このあたりの宣長の書きぶりは、読んでいて、頭が痛くなる。「宣長さん、ここはスルーで良いのではないですか?」と言いたくなる。
4月に塾頭から、「宣長問題」について考えるように言われ、数か月考え続けたが、「直毘霊」の記述がなかなか腑に落ちないでいた。小林秀雄は、「この難題を、外部から合理的に解こうとする道は、当の出題者の心を引き裂く事に終る」(40章)という不吉な予言をしているが、まさに追い詰められたような気分が続いていた。
<音読してみる>
そんな時、ふと、「音読してみるか」という考えが浮かんだ。以前、松阪で、本居宣長記念館主催の、「古事記伝」の素読会に参加したことがあり、その時に、とても新鮮な感覚を覚えたのを思い出したのだ。
「古事記伝」の文體は、まことに独特だ。まず、大別すると、「古事記」本文の大文字部分と、「伝」と呼ばれる註釈部分に分かれている。さらに、「伝」も註釈本文と、より細かい註釈に分かれているから、「古事記伝」は、大中小の文字で書き分けられている。黙読すると三つの記述が入り交じり、読み辛く感じるのだが、音読してみると、宣長の思考が、自分の頭の中に流れ込んでくるような、不思議な感覚があった。本居宣長記念館の吉田悦之館長は、「古事記伝」を音読していると、「ただの史料や考証の集積ではなく、背後には力強い躍動感が感じられる」(『宣長にまねぶ』、致知出版社刊)、と書いている。そして、「問題を提示して、ああでもないこうでもないと考えを巡らし、前に進もうとする著者宣長の意志の力がそこには感じられる」(同上)という。「直毘霊」を音読することで、宣長の思考に近づくことができるかもしれない。
さっそく筑摩版全集の「直毘霊」を開いて頭から音読してみる(館長は、できれば版本で読んだ方がよいと仰っている)。一之巻は、総論が展開されており、(1)総論の本文と、(2)註釈で構成されている。宣長は、丁寧に仮字を振ってくれているから、音読はしやすい。「直毘霊」 は、全集のページにして14ページだが、通読するのに一時間くらいかかった。
次に、大文字の総論本文だけを音読してみる。「皇大御國は、掛まくも可畏き神御祖 天照大御神の、御生坐る大御國にして」、「大御神、大御手に天つ璽を棒持して」……のような感じで、今度は15分くらいで読める。
ここで、あれ、と思った。「直毘霊」は、祝詞なのだ。「掛まくも可畏き」で始まり、「かしこみかしこみもしるす(申すではなく)」で終わっている。そして、神代の始めから今にいたるまで、この国が、「天つ神の御心を大御心として」、「平けく」治まっている様を奏上しながら、さかしらを加えず、「穏しく楽く世をわたらふ」古人の姿を描き出す。そこで奏上されているのは、こんな国で暮らせることの幸せ、ありがたさであり、あの激烈な、漢意批判や、「聖人の道」排斥は影を潜めている。あれはどこにいったのかと見ると、すべて註釈の方に押し込められているのだ。宣長が大切にした、「本」と「末」でいえば、総論本文に現れた「心ばへ」こそ「本」であろうし、この「本」から目を離さず、宣長の信じたものに思いを馳せることが必要なのではないかと思った。
<宣長の祈り>
音読を手掛かりに、「神代七代」を何度か読み返してみると、宣長の目に映じた世界の姿が、おぼろげに見えてくるような思いがする。そして、宣長の目には、「神代の伝説」の世界だけでなく、今生きている、この「世間のありさま」も映じていたのかもしれない、と感じた。
「古事記伝」七之巻の「伝」に、「我は神代を以て人事を知れり」という詞がある。「神代の伝説」をつぶさに眺めているうちに、今生きている世界にまで通じる理がまざまざと見えてきた、という。それは「世間のあるかたち何事も、吉善より凶悪を生し、凶悪より吉善を生しつつ互にうつりもてゆく」という理であり、さらには、「然凶悪はあれども、終に吉善に勝つ事あたはざる理をも知べく」という。凶悪事はすべて、禍津日神がこの世に生まれてしまったことに発する。だから、世界に凶悪事が発生するのは不可避だが、その穢れを祓うことは可能なのである、と。だとすれば、人に出来ることは、穢れを穢れとして認識することと、その穢れを「祓へ給へ、清め給へ」と祈ることだけ、と宣長は考えていたのかもしれない。
冒頭に触れた、「天津祝詞」は、祓戸大神等に、ただ、「祓へ給へ、清め給へ」、と願うだけの、捉えようによっては空虚なものだ。神道の祭式においても、ちょっとした「お清め」くらいの軽さでこの祝詞が奏上されるイメージを、自分も持っていたが、上の宣長の考えに従えば、「天津祝詞」、あるいはその元となる「大祓詞」こそ、古神道の本質的な祝詞なのかもしれない。「天津祝詞」が、「祓へ給へ、清め給へ」と祈る相手は、祓戸大神等であり、宣長によれば、その一柱は、「古事記伝」の「直毘霊」の章題にもなっている、「直毘神」なのだ。
今回の「宣長問題」を巡り、本居宣長記念館の吉田館長と何度かやり取りをさせていただいた。館長自身は、宣長の叙述を自然に受け止めていて、「宣長問題というものを考えたこともなかった」と言うが、お忙しい時間を割いて、丁寧にお便りをいただいた。その中で館長は、問題の本質は、「神代の論理で人の世を見ると言うところにあるのでしょう」と仰る。宣長は、「神代への行きっぱなしではない。大きく違う価値世界を一人の中に共有するのです。(現代と古代を)行き来するのです。現実逃避ではない(中略)現実批判する目を、常に持ち続けることなんだと思います」と書いてくださった。
宣長は、記紀に書かれた神代の古事を、長い時間をかけてながめているうちに、「神の道」とでも名付けるしかない、この国の姿、有様が、ありありと見えてきた。ある時それは、「吉凶相根ざす」(七之巻)、という理の形を取ったろうし、別の時には、古人の「てぶり こととひ ききみるごとし」(「古事記伝」完成時の和歌)という実感を齎したかもしれない。そうした場所から、宣長が、「凡そ神代の伝説は、みな実事」(六之巻)という確信を語るのは自然なことだったとも言える。また、そうした目で、同時代や、そこに生きる人々、上田秋成や、市川匡を見ると、なんと「古の心ばへ」から隔たっていることか、漢意にまみれていることか、と気づく。それを何とかできないものかという思いが、激烈な批判となったのかもしれない。つまり、宣長にとって、「直毘霊」や、「くず花」(市川匡への反論)や、「呵刈葭」(上田秋成への反論)は、彼等の曇りや、穢れを、祓わんとする、祈りだったのではないだろうか。吉田館長は言う、「市川鶴鳴(匡)は熱心な読者、一生懸命に知力の限りを尽くし宣長に疑問を呈する。一生懸命だから宣長の拒絶は厳しいのです。まったくだめだ。そんなことなら考えない方がよいという全否定です」。祈りは、宣長の思いを載せて、執拗に、徹底的に繰り返されたのではないか。「直毘霊」を音読しながら、そんなことを考えた。
さて、毎朝、つぶつぶと「主の祈り」や、「天津祝詞」を唱えていた母親は、一体何を思って祈りを捧げていたのだろうか。今となっては知る由もないが、長い間、その様子を眺めていて、一つだけ感じたのは、彼女は、「繰り返す」ことを大切にしているのだな、ということだ。心が躍るような喜びの日も、深い悲しみに沈む日も、毎日、同じ文言を唱え続ける。そうするうちに、祈りの詞に、自分の心が重なり合うのを感じたかもしれない。祈るという行為は、自分の中に日々湧き上がる様々な思いを、定型の文言に載せていくという側面があり、同時に、祈りは、多様な人々の思いを掬い取り、昇華させてゆく。それは、祈りの詞に、自分の心が見返されるような経験とも言えるだろう。だとすれば、「祈り」は、人々の心から発して、「『文』とも『姿』とも呼ばれている瞭然たる表現性(23章)」を持った「歌」と、同じ根っこをもったものだと言うこともできる。そして、祈りも、歌も、音声として発せられた時にこそ、その人の「心ばへ」を現わすのかもしれない。
(了)
「徴」という言葉が『本居宣長』に現れるのは、後半第34章からである。ふだんはほとんど馴染のないこの言葉に捉えられ、2年前の池田塾で「徴」について質問をして以来、この言葉に身交ってきた。
「徴」は第34章に3度続けて登場する。
――「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状」は決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先でも後でもない。…中略…「すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、書はその記せる言辞ぞ主には有ける」とつづく文も、「意」は「心ばへ」、「事」は「しわざ」で、「上ツ代のありさま、人の事態心ばへ」の「徴」としての言辞は、すべて露わであって、その外には、「何の隠れたる意をも理をも、こめたるものにあらず」という宣長の徹底した態度を語っているのである。――
このくだりは、初学者の私にはくだくだしいとでも言いたくなるような言葉が続き、何度も読み返すうちに、私は、この「徴」3連発の文体は「変だ」とさえ思うようになった。「徴」という言葉自体なんとも得にくいが、このくだり全体が得にくいのだ。それまで小林先生の思考の中にとどまっていた「徴」という言葉が突然あらわれた(読み手にとっては少なくともそう見える)、それが短い段落の中に3度も……。そこには小林先生自身が宣長さんの文章から読みとったことへの、ある種の“興奮”が感じられるだけだった。
だがそのうち、第34章の3連発に続いて、第35章にも登場する「徴」という言葉をじっと眺めていると、ある種の共通点が見えて来た。どのくだりも、宣長さんの言いたいことが当時、なかなか周囲に理解されず、それでも言い続けている宣長さんの言葉を丹念に辿っていくうちに、小林先生自身が感得した宣長さんの言いたかった意味内容を、なんとか読み手に伝えたいという思いが宣長さんのそれと重なり、思いあまって「徴」という言葉が登場しているのではないか。小林先生の言葉が迸っているときに「徴」という言葉があらわれるのではないか、と、そう思うようになった。
そもそもこの「徴」という言葉は、第34章に、――「彼(宣長)の用語で言えば、「徴」としての言葉が……」とあるように、宣長の言葉であると小林先生は書いており、『本居宣長補記Ⅱ』の最後では、「徴」の出処が以下のように記されている。
――彼の熟考された表現によれば、水火には水火の「性質情状」があるのだ。彼方に燃えている赤い火だとか、この川の冷たい水とか言う時に、私達は、実在する「性質情状」に直かに触れる「徴」としての生きた言葉を使っている(『有る物の徴』という言葉の使い方は、『くず花』にある)。――
そうなのか、『くず花』を読めば、「徴」についての手がかりが得られるかもしれない、そう思い、『くず花』が収められている『本居宣長全集 第八巻』(筑摩書房)を開けてみた。ここで、驚くべきことが判明する。目を皿のようにして「徴」の文字を探したところ、実際、2か所に「徴」という文字は見つけることができた。その2か所とは、『くず花』上つ巻、下つ巻にそれぞれ1か所ずつである。1か所目の「徴」は、「殊に疑ふべきは、神代巻に星の事をいはざるはいかに」という見出しに続く文章の中にある。「……星の始をいはざるは、返て神代の傳へ事の正實なる徴とすべし、……」。そして、下つ巻にある2か所目は「目に見えたるままにて、其外に何もなき事ぞといはば」という見出しに続き、「……かの陰陽の理といふ物は、無きことなる故に、さらにそれと知るべき徴なし、……」という部分である。この2例は、「証」という言葉で置き換えられる意味での「徴」であると理解できるのだが、私が知りたかった「徴としての言葉」の意味と直接つながるとは思えないものであり、小林先生の言う「有る物の徴」という表現は見あたらなかったのである。念のために、昭和の初めに出た『本居宣長全集』にもあたってみたが、やはり同じであった。
小林先生は果たして、「徴」をどう捉え、使用していたのか。本人が「書いてある」といったその原典に書いてないのであるから、これは何やら面白いことが起こっているのかも知れない、私は興奮ともスリルとも言えるような感覚におそわれた。小林先生得意の仕掛けに、はまってしまったのか。ようやく、私も小林秀雄の世界の入り口に立てたような、少しだけ小林先生に近づけたような心持ちにさえなった。
そして、ふとあることに思いが至った。それは前述した第34章で、小林先生自身に感じられた一種の“興奮”のことである。
小林先生は、『くず花』に、「徴」の意味するところを確かに観ていたのであろう。それを性質情状として認識されたのであろう。一度、性質情状として認識したものをあらためて外へ表現する際は、多少見た目が変わったり、内容に少しのずれがあっても不思議はない。小林先生が「『有る物の徴』という言葉の使い方は、『くず花』にある」といった「徴」を、小林先生が思われたように辿ってみたいと考えているうちに、当初は「徴」とは何か、だった私の問いが、次第に、なぜ小林先生は「徴」という言葉を使ったのか、という問いに遷り変わっていった。
その途上で、私は小林先生の文章の、ある種のリズムに気が付いた。先生の書いているときの情熱、温度、真剣さが、そのリズムから伝わってくるのである。同様のことは、第46章の「はち切れる」という表現にも見られる。当初は、宣長は「もののあはれ」という語に自分の考えをはち切れるほどに押しこんで示した、と折口信夫が言った意味合いで紹介しているが、その直後から、その言葉の意味を敷衍するような形でたびたび小林先生は「はち切れる」という言葉を登場させている。そしてその話が登場する前後の文章からも、「徴」の時と同様の、小林先生独特のリズムが感じられるのである。
「有る物の徴」という「徴」の使い方は、原典である『くず花』にあたっても見つけられなかったわけであるが、逆にそのことによって、私は小林先生の書きあらわしたこの「徴」から何を受けとればよいのかについて、あらためて考え、目を凝らす機会を与えられたような気がした。
――有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。――
という、冒頭でも挙げた第34章の文章にあらためて目を凝らしてみる。そしてさらに第35章の次の一節を読んで、大切なことに思い至る。
――思うという事をしてくれるのは言葉に他ならない――
つまり私たちは、「思う」という“認識”あるいは“経験”を、「言葉」がなければできない、ということだ。ごくごく当たり前だが、また同時に不思議な事実である。
――(言語の秩序は)環境と呼ぶには、あまり私達に近すぎるもの、私達の心に直結している、私達の身体のようなもの、とも言えるだろう。――
とも小林先生は述べている。つまり、楽しい、悲しい、暑い、寒いという言葉を知っているからこそ、「思う」こと、「経験する」ことができているとも言えるわけである。これは、私たちが日本語として普段使い慣れている秩序の中に浸りすぎて、ついうっかりして気がつかぬことだ。
さらに小林先生は第36章で次のように続ける。
――心の動揺は、言葉という「あや」、或は「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。――
ここまで読み進めてきて、ようやく「徴としての言葉」と、裏を返せば「そうでない言葉」がどのようなものなのか、について、その輪郭が見えてきたように思えた。小林先生は「徴としての言葉」を“共有の言語財”という言葉を挙げて次のように述べている。
――私達は、習慣化し固定した共有の言語財のうちにいる他はなく、この財を互いに交換し合っては消費するのが、あんまりわかり切った、たやすい事なので、私達が宰領し保管しているのは、実は、言葉の助けなどを借りぬ理の働きである、とつい考えたがるのであろう。――
つまり、具体的な経験から出た言葉、私達の間で習慣化し固定していった「徴」としての言葉があり、一方で、「そうでない言葉」として「理」の働きから出た言葉があるというのである。
宣長は、『古事記伝』『くず花』において、「無きことを、理を以て、有げにいひなす」こと、「空論理屈」を極力排斥している。そしてそれを受けた小林先生は「有る物へのしっかりした関心、具体的な経験から出た言葉が、言葉本来の姿であり力である」つまり、それが「徴」としての言葉であると言っているのである。
こうして見てくると、「徴」としての言葉についての輪郭がだいぶはっきりしてきた。ここで再度、先ほど挙げた文章を振り返る。
――直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先でも後でもない。――
――思うという事をしてくれるのは言葉に他ならない――
この二つの文を見たとき、同じことを言っていることに気がつく。そして自分が日々何気なく使っている言葉にも「徴」としての言葉とそうでない言葉があるということに気づかされる。宣長さんが、市川匡に対して書いた「くず花」。空論理屈の言葉を駆使してくる市川匡に、終始、「徴」としての言葉で応じている宣長さんの態度を、小林先生は読者である私達に対して、「徴」としての言葉を駆使して伝えようとしたのではないだろうか。そこに私は、小林先生の興奮を感じたのではないだろうか。
さて、ひとまずここまで、「徴」という言葉を中心に据えて読み進めてきた。これを、これからも続く『本居宣長』の旅の門出としたい。
(了)
小林秀雄先生による「本居宣長」では、三十二章と三十三章の二章にわたり、荻生徂徠が本居宣長に与えた影響が、詳しく記されている。
その冒頭、小林先生は、こう書いている。
「この徂徠の著作の中で、詩について語ろうとして、孔子の意見を援用している箇所は、稿本に、重複を厭わず、すべて引写されている。私はこれを確かめながら、宣長がそこに、徂徠学の急所があると認め、これを是とし、これに動かされたと推定して、先ず間違いはないと思ったのである」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.10)
力強い言葉だと感じた。ここに何かがあると直覚した。
一昨年、2016年の11月、塾の質問に立った私は、孔子が詩の特色としてあげている「興」と「観」を踏まえて、徂徠が「論語徴」の中で、「詩之用」として強調する「興之功」と「観之功」に関わる質問を行った。但し、その質問は、残念ながら、論点は絞り切れず、本文からも離れてしまうというように、全く要領を得ずに終わってしまった。池田塾頭からは、小林先生が注意を促している「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」という「観之功」に関する徂徠の言葉に集中して考えるように、という助言を頂いた。
そもそも、小林先生は、「詩」が教えるのは凡そ言語表現の基本であるという孔子の考えを前提に、徂徠が言うところの「興之功」を「言語は物の意味を伝える単なる道具ではない、新しい意味を生み出して行く働きである」とし、「観之功」を「物の名も、物に付した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である」と表現されて、「そういう働きとしての言語を理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい」と言う。
加えて、徂徠がいう「天下」については、「人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事」であり、「此の共通の基盤に、保証されているという安心がなくて、自分流に物を言って、新しい意味を打出す自由など、誰にも持てる筈はない」と言う。したがって、「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」とは、そういう世界において、例えば、盛代にあっては衰世を、男性は女性のことを、平常時には乱世を知ることができるというように、言語の「観之功」という働きのおかげで、人は、自ら直面していないことであっても、我が事のように、まざまざと味識・体験できることだと言えよう。
私は、それから約1年間、このような意味合いでの「興・観の功」を念頭において、「本居宣長」の全文を、何度となく読み返し続けてみた。そうすると、「ながむる」という言葉を例に、その「転義」について書かれている箇所がよく目に入った。「転義」とは、言葉が新しい意味を帯びて変化していくことであり、まさに「興之功」である。早速、以下に引用してみたい。
「『三代集』(坂口注:勅撰和歌集のうちはじめの三集、『古今』『後撰』『拾遺』の各和歌集のこと)の頃まで、『ながむる』は声を長くする事、転じて、物思う事、の両様の意に使われていたが、『千載』『新古今』の頃から、意が又転じて、物を見る事だけに言われるようになった。『視』『望』と同義の『眺』の字をあてて、使っている内に、この言葉の伝統的な含みが、忘れられて了った」(同第28集、p.73)
「読者の中には、くだくだしい引用と思われる人もあるかも知れないが、それは、『ながむる』の転義につき、ここで示されている、宣長の強い興味を想像してみないからである。それは、事物につき、『物の心、事の心をしる』と言われた親身な経験をする際の、身心の動きの、まことに鮮やかな『徴』なのである」(同第28集、p.74)
さらに、「長息するという意味の『ながむる』が、つくづくと見る意味の『ながむる』に成長する、それがそのまま歌人が実情を知る、その知り方を現わす、と宣長は見るのである」(同第27集、p.262)
「歌人が非常な興味を以て行っているところは、いずれは、辞書の裡に閉じ込められて了う語義を、生活に向かって解放する事だ。語は、歌われ、語られる事により、歌人の心に染められ、その義を新たにして、生き還り、生き続ける事が出来るのである」(同第28集、p.81)
そして、小林先生は、「宣長が着目したのは、古言の本義よりもむしろその転義だったと言ってよいのである。古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働きの中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ。そういう考えなのだ」と言うのである(同第27集、p.271)。
まさに宣長は、このような態度で、「興・観の功」を意識しながら「万葉」に向かい、「古今」に向かい、そして「源氏物語」へと向かって行ったのではあるまいか。さらに言えば、同様の向かい方で、「古事記」という前人未踏の山に独り分け入ったのではあるまいか。私は、そんな思いを強くしていった。
例えば、宣長は、「古事記伝」の阿夜訶志古泥神の註釈の中で「可畏き」という言葉について、「訶志古は古書に、畏、可畏、恐惶、懼などの字を書て、(中略)おそるゝ意なり、(又賢をも、智あるをも云は、然る人は畏るべき故に、転りていふなり)」とし(同第28集、p.87)、「阿夜爾可畏しと云ときは、猶ゆるやかなるを、阿夜可畏と云は、其ノ可畏きに触て、直ちに歎く言なれば、いよいよ切なり、泥は、男をも女をも尊む称なり」と言う(同p.88)。
このように「阿夜訶志古泥神」という神の名もまた、歎く、という古人の身心の動きを伴う言葉から産まれていたのである。
小林先生は、宣長について「丁度、『源氏』が語られるその様を『あはれ』という長息の声に発する、断絶を知らぬ発展と受取ったように、神の物語に関しては、その成長の源泉に、『あやし』という、絶対的な『なげき』を得た」(同、p.174)とも書いている。
以上のような直覚と思考を重ね、昨年、2017年11月の、私の「自問自答」はこうなった。
「小林先生は、詩や言語に関して孔子が挙げる『観之功』、即ち『人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能』について、徂徠が『天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル』という言い方に注意を促している。それは『外からは、決して摑む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方』そのものだからである。そこに先生は、宣長が『古事記』を読み熟し果せた急所があると、直覚されたのではあるまいか。例えば宣長は『ながむる』という言葉の、声を長くする事、物思う事、物を見る事、という転義に強い興味を示す。そこに、物との親身な経験をする歌人の身心の動きの徴を見たように『古事記』をわが物にしたのではないか」(299字)
しかしながら、山の上の家での質問に立った当日、池田塾頭との対話を通じて、以下のことが判然とした。上記の自問自答において、前半部分はよいとしても、後半の例示部分が不十分、というよりもむしろ、言語が「新しい意味を生み出して行く働き」という意味での「興之功」、すなわち、言葉の「転義」という点で、小林先生がより重きを置かれていたことに、全く言及できていなかったのである。
本来、言葉は、その言い方、身振り等によって、瞬間瞬間に、その意味が転じて行くものである。そのことを宣長は、こう表現している。
「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも(坂口注:いまいましくも)聞こゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、よみ人の心を、おしはかりえて、そのいきほひを訳すべき也」(「古今集遠鏡」、同第27集、p.267)
小林先生も、こう言っている。
「何も音声の文だけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体の事の、多かれ少かれ意識的に制御された文は、すべて広い意味での言語と呼べる……」(同第28集、p.48)
加えて先生は、具体例を挙げている。例えば、「お早う」とか「今日は」という挨拶の言葉を、子どもの頃、その意味を知ってから使い始めたという人はいない。また、阿呆という言葉と、馬鹿という言葉は、その意味は同じだとしても、私たちは実生活において、それぞれの言葉を、状況に応じ微妙に使い分けている。このように、私たちは、日常的に、簡単な挨拶や微妙な言葉の使い分けを実践することによって、日々の生活を、より生き生きと、彩り豊かなものにしていると言えよう。
以上のように、「転義」には二つの態様があることを踏まえれば、「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」という言葉の意味合いも、さらに立体的、動態的に感得できる。
私は改めて、寛政十年、「古事記伝」が完成した時に、宣長が詠んだ歌を口にしてみた。
古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし
ここに、小林先生が、その「歌の意を、有りのままに述べているまでだ」として、宣長の仕事について、彼を画家に喩えて書いている文章がある。
「『古事記』を注釈するとは、(『古典』に現れた神々の『御所為』という)モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、『歌の事』が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える」(「本居宣長補記Ⅱ」、同第28集、p.352)
画家が描こうとしたのは、その歌にある「古事」すなわち、古人によって生きられ、演じられた出来事と言い換えてもよい。古人は、小林先生が言う「広い意味での言語」を使ってどのように歌い、語り、生きてきたのか。画家、本居宣長は、そんなふうに、古人が生きてきた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、自身がこれを生きてみた。そういう味識・体験による再生の行為を通じて、自らの心眼にまざまざと映し出されてきた手ぶりを、耳に聞こえてきた口ぶりを、「古事記伝」という作品として、見事に描き切ったのである。
さりながら、絵画作品は、画家の力だけで完成するものではない。それを観る者による、全身で感受するための努力や態度もまた欠かせない。小林先生は、十二年六ヶ月という歳月をかけて、宣長の作品を眺めた。私達、塾生も、そういう小林先生の姿を、同じ時間をかけて眺めようとしている。
巌から湧き出た大河の源流の一筋のように、孔子の言葉に始まる、徂徠が「興・観の功」と呼んだ言語表現の働きは、脈々と、今日もその流れを止めない。
(了)
本居宣長の年譜を作ろうと試みては、幾たびも中断し、いっこうに完成しないのだが、その過程で考えたことなどを少しお話ししてみたい。
なぜ年譜かということだが、伝記研究の基本は、存在する史料を時系列に並べることに始まることは、まず異論はないだろう。宣長は、史料が豊富で、記載は正確、しかも断片的な史料をつなぐ回想文や、手沢本、系図などが備わっている。少し手を加えたら、すぐに詳細な年譜が出来そうな気になる。
18世紀後半、日本の学術の中心的な存在であった宣長の知の営み、交流、また日常がつぶさに分かったらどんなに愉快なことか。一人の偉大な知性が育っていく過程をたどることが出来るはずである。
年譜編纂に取りかかると、不思議な気がしてくる。宣長自身が、後世きっと自分のことを調べるだろうと、大きな流れを間違えぬように、時には思わせぶりな曖昧な記述や削除という楽しみも用意し、しかし決して心の深淵は覗かれないように、「ここまでだよ」と史料を整理していったのではないか、そう思えてならないのである。
もう一度言うが、記載は正確で、しかも正直だ。
「秋成の宣長敵視というのは、阿呆な絶対主義者に対する人間的な軽蔑から成っていた」と書くような宣長への激しい憎悪に満ちた高田衛氏も、宣長の正直さを渋々認める。氏の『完本上田秋成年譜考説』は、二転三転し、時に矛盾し、また退隠といいながら学事に奔走するなど迷走する秋成の言動に翻弄されている。だから宣長年譜作成の役には立ちそうもない。秋成から、何かを聞き出そうとするのが無理なのだ。学生の頃に『春雨物語』を卒論にも選んだ私には、そこが秋成の魅力でもあるのだが、それにしても、秋成年譜の定まりなさにはあきれてしまう。対照的なのが宣長の年譜である。揺るぎがない。
既に宣長にはすぐれた二つの年譜がある。
まず伴信友の『鈴屋翁略年譜』(文政9年(1826)8月作成、同12年9月刊行・後年、本居清造加筆訂正)である。以後の宣長研究や年表の基礎となった。もう一つは岩田隆氏の「本居宣長年譜」(筑摩書房『本居宣長全集』別巻3・補筆改訂版『宣長学論究』収載)である。前者に比べると格段に詳しい。
二つの年譜の違いは、読む年譜と調べる年譜ということになろう。信友の年譜を通読すれば生涯の概要は分かる。岩田先生の年譜には調査研究に必要な情報は過不足なく挙げられている。
実は岩田先生の年譜に私は少し関わった。全集版の時には校正を任され、「論究」に再録するときには加筆も許していただいたのだが、その時に痛感したのは、年譜は決して項目を時系列で並べるという単純なものではないということである。国語辞典を作る時にバランスの取れた日本語観が必要なように、年譜の場合は、最後はその人の人間観である。何を採るか何を捨てるかが、年譜作成の鍵、つまり難しさであろう。これはページ数の問題ではないと思う。
悪女の深情けではないが、エキセントリックな人や思いが深すぎる人は年譜作成には向かないのである。
取捨選択が難しいのなら全部載せればよい。私はこの網羅するという方法を選んで、一応、賀茂真淵と対面した宝暦13年(1763)34歳までは仕上げ、本居宣長記念館のホームページに掲げたのだが、後が続かない。
34歳は宣長72年の人生では折り返し点に近いから、あと半分だ、ため息より入力だと一所懸命に打ち込む、そんな段階は疾うに過ぎた。まず記載すべき情報量の多さに《日にち》を最小単位とする年譜形式が対応できなくなったのである。
真淵と対面するまでは、古典研究に熱心な町医者という一つの人格だが、「松坂の一夜」以降、ざっと数えただけでも七つの顔を自在に使い分けていく。その一つだけでも、優に一人の仕事量に勝るのである。念のためにその七つを見ておこう。
1, 真淵との師弟関係(これは谷川士清、蓬莱尚賢等との交流と人を変え生涯続く)。
2, 『古事記伝』執筆。
3, 歌会(門人組織に発展)。
4, 『源氏物語』講釈。
5, 言葉の研究など『古事記』研究の基礎学、あるいはそこからの発展、派生する研究。
6, 医業と家政。
7, その他。
1から6は、ほぼ生涯を貫徹するものだが、この外に、たとえば旅や論争、晩年なら紀州藩への仕官と時期や期間が限られるものがある。これを7とする。
つまり、魚町の本居家を訪ねて、宣長さんにお目に掛かりたいと案内を請うと、どの宣長さんに御用ですかと聞かれるようなものだ。子どもが熱を出した人は、歌や『古事記』の話どころではないし、『古事記伝』の著者に会いたくて遙々九州からやって来た人が、念仏を唱える宣長を見て仰天する。だが、念仏を唱えることは家政の中の大事な仕事である。その人は、会う宣長を間違えただけなのである。
訪問者だけではない、研究者も同じだ。机の傍らの書架には『本居宣長の万葉学』とか『本居宣長の国文学』、『本居宣長と仏教』などという研究書が並んでいるが、みな自分が会いたい宣長を選択しているのである。
だが、宣長という人は、一人であるから、この七つが密接に関係を持ちながら、調和し、あるいはきっちりと区別され、その人生は展開していく。それぞれの顔(テーマ)で個別の年譜を作れば楽なのだが、それでは一人の人間は描けない。
評伝も同じだ。仮にも「本居宣長」という書名を付けた本なら、どこに力点を置くかはともかく、万遍なく触れる必要があるのだが、折り合いをうまく付けないと内部分裂して、挙句の果てには、「ああこれが宣長問題か」と匙を投げることになる。
小林秀雄氏は、以上述べたような全部の宣長と対峙しようとした。だから私は氏の『本居宣長』を尊重する。
年譜の話に戻るが、この多羅尾伴内みたいにいくつもの顔を使い分けた人生を裏付ける史料がまた膨大である。片端から入れると、忽ち混雑してしまう。生涯を通覧するというのが年譜が担うべき使命なら、それに背く畏れもある。34歳までで一旦中断したのはそのためである。すべての資料を集成した年譜は基礎資料として記念館ではどうしても必要なものだが、分類や表示の面で工夫が必要だ。
1200通が残る宣長書簡は、宣長研究者以外にもなかなか評判がよい。読みやすいし、値段も手頃。しかも時候の挨拶以外は、学問の話題が多くて知的好奇心をくすぐる。
安永8年(1779)6月19日付荒木田久老宛書簡には、『類聚三代格』という古代の法律書を貸して貰った礼と書写の進捗状況が告げられる。少し前の2月4日付の荒木田経雅宛書簡では、よい写本が見つかったと喜びを伝える。ここに『古事記伝』の執筆や交友を重ねると、どんな思いで宣長がこの本を手にしたかが見えてくる。年譜の安永8年9月1日条に書かれるはずの「『類聚三代格』写本終業」は、決して孤立しているわけではない。
ただ、自分には出来ないが、明るい希望は抱いている。このような詳細な年譜は、もはや紙媒体ではなくパソコン画面での閲覧となるはずだ。すると検索や抽出は自在であろうし、カテゴリーを分けるなど、色々の工夫が出来そうだ。《日にち》は年譜の一番基本となる枠であるが、逆にこれが縛りともなる。それも電子媒体なら、その制約から逃れることが可能となるだろう。
そのように記述内容を詳しくするという問題は解決できるとしても、実はもっと厄介な、しかしそれにはまると抜け出せなくなる難問が控えている。
私は、宣長を読む、あるいは考える上で一番大切なことは、小林秀雄氏の、
「彼の思想の育ち方を見る」
という言葉に尽きると考えている。
「育ち方」を見るという点では、従来の年譜では限界があった。年譜の記載は行為が完結したときが原則となる。そこでホームページ版の年譜では、典拠を示した。
たとえば享保15年(1730)5月7日誕生の条には、「日記」や『本居氏系図』、『菅笠日記』、『寛政十一年若山行日記』と、少年期から晩年までの宣長自身の記述が時系列で並べてある。
それを見ると、事実は一つでも、記述の仕方は微妙に変化していることが分かる。
「松坂の一夜」でも同じである。改ざんや創作が加わるわけではない。位置づけが変化していくのである。《思い出》が育っていくのである。
「育つ」ということは、心の中で芽生えた関心事が成長していくことである。
宣長は反応が鈍い人だ。というか、軽々しく動かない。そのため、大事なことほど出発点が分からない。宝暦6年7月、京都の本屋で手に入れた『古事記』を『日本書紀』や『先代旧事本紀』などと読み比べ、『冠辞考』に影響を受けながら、宣長の中でその存在感が育っていくのを見る。「物のあはれ」説のきっかけとなった藤原俊成の歌など、三度目の出会いでようやく宣長の中で反応が起こるのだが、年譜の記載は、『安波礼弁』執筆という一行に収まってしまう。
時系列の年譜形式は、「育ち方」を見るのに適しているように見えるが、問題も多いのである。なにより、その一行の持つ重みに果たして耐えられるのだろうか。
紙数も大幅に超過したので、そろそろ止めるが、今、宣長顕彰年譜を作成している。その中には、宣長についての刊行された本や、鈴屋学会と本居宣長記念館共催の公開講座、今年既に28回目、つまり280回開催している「宣長十講」も当然ながら記載される。「十講」では予算の関係で私も十回以上話しているので、それだけの項目数を占めるのだが、おかしくはないか。思いつきのような本や準備不足の話に一行が割かれる。しかし、出羽国や肥後国から宣長先生に会いたいと長い旅をしてきた人たちは、著作でも残さない限り、彼らの名は年譜には残らない。網羅主義の年譜なら来訪者として名前が記載されるかもしれないが、「先生に会って私は生まれ変わることが出来た」という痛切な体験は伝わらない。宣長にとって大事なのはどちらか。顕彰史で求められるのはどちらか。
もはや年譜の限界を超えているのかもしれない。しかし、何とかその記憶を伝えたいと私は今日も画面に向かうのである。
(了)