小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和三年(二〇二一)一月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和三年(二〇二一)一月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
Webディレクション
金田 卓士
新型コロナウイルス感染症への対応として、地域によっては二度目の緊急事態宣言が出されたなか、まずは、読者の皆さんに心よりお見舞い申し上げるとともに、引き続きのご健勝を切にお祈り申し上げます。
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新年初刊行となる今号も、荻野徹さんの「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの男女4人による放談は、巷間の誤解多き言葉、「やまと心」「やまと魂」についてである。巧みに見える言葉が、標語や流行語といった「空言」として急速に拡散してしまう状況に注意を促す江戸紫の似合う女、彼女が終幕に切った啖呵は、SNS時代への警鐘でもあろう。
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「『本居宣長』自問自答」には、入田丈司さん、冨部久さん、泉誠一さん、荻野徹さんが寄稿された。
入田さんの「自問自答」は、「詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿」を巡る考察である。小林先生の本文から離れることなきよう、一歩一歩進んで行くと、「詞花言葉の方から現実を照らし出す道」に出た。さらなる歩みを進めてみて、入田さんの眼前に開けた景色とは?
冨部久さんは、「物のあはれをしる」ずば抜けた才能さえあれば、『源氏物語』という類まれなる小説を書けるのか、そのための十分条件というものがあるのか、という問いを立てている。そこで、手掛かりになりそうな本文を丹念に引き、思索を深めてみた。何が見えて来たのか? 冨部さんの歩みは続く……
泉誠一さんは、「本居宣長」の熟読を始めてみて、受験生として小林先生の文章と格闘していた頃に抱いていた、先生についてのイメージが一変したと言う。さらには、「一人の宣長さんが現れて来るまで一生懸命に宣長さんの文章を読」むと語る先生の肉声を聴き、そんな先生の希いを念頭に、「思想劇」の現場に自らも身を置き読み進める決意を新たにした。
荻野徹さんは、「言葉」についての宣長さんと小林先生による言葉を追っていく。「言詞をなほざりに思ひすつるは……古ヘの意にあらず」、「言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている」、「人に聞する所、もつとも歌の本義にして」……。その道程を通じて、ある結論に至る。遠い日が、今に蘇る……
*
「人生素読」の部屋では、小島奈菜子さんが、新型コロナ禍の一年を、その日常を振り返っている。「雑草で埋め尽くされた庭」に少しずつ手を入れ、そこで展開される動植物による競争と共存の様を、丁寧に根気強く見つめ続けてきた。そこで気付いたことは、「長年育まれてきた土のように、人間の言語にも、先人達が養ってきた土壌がある」ということ。言語への報恩を語る、宣長さんの声が聞こえて来た。
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今号より、杉本圭司さんの新連載「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」が始まる。ベートーヴェンは、1770年12月、いまから250年前、ドイツのボンに生まれた。杉本さんは、「苦難と忍従の年」となった2020年が、彼の誕生を祝う節目の年でもあったことを、「決して偶然とは思えない」と言っている。はたしてどういうことなのか、その序曲とも言える内容に触れただけで、早くも次号が待ち遠しい。
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厳寒のこの季節、通常であれば、風邪が流行る時季である。小林秀雄先生は、あまり好まなかったと言われている色紙を所望されると、「頭寒足熱 秀雄」と書くことが多かった。この言葉について、その意図を直かに聞いたことがあるという、池田雅延塾頭の文章を引きたい。
「『頭寒足熱』とは頭部を冷やかにし、足部を暖かにすることで、安眠できて健康にもよいといわれると『広辞苑』にあるが、こういう、世間一般に通用している『あたりまえのこと』を重く視る小林先生の生活信条、生活態度は、ちょっとした風邪をひいたときにも顕著に現れた。喜代美夫人に聞いたことだが、先生は風邪かと思ったときはすぐさま寝室にひきこもり、部屋をあたため蒲団をかぶり、二日でも三日でも蒲団のなかで過ごした。『僕の身体が治ろうとしているんだ、僕が協力すれば治るんだ』と言い、西洋医学の薬はいっさい服まなかった」(『随筆 小林秀雄』より「七 あたりまえのこと」、新潮社webマガジン『考える人』)。
一向に終息の気配のない今次の災厄下、仮に小林先生がご存命であったとしたら、一体どのように対処されていたであろうか……
風邪をひいたときにも現れた、先生の生活信条、生活態度には、今まさに「いかに生きるべきか」と問われている私達にとっても、大いに学ぶべきものがあるように思う。
(了)
二十七 まねびの道
1
第十章で、小林氏は、
――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。……
と言い、これを承けて第十一章に言う。
――歴史意識とは「今言」である、と先きに書いた。この意識は、今日では、世界史というような着想まで載せて、言わば空間的に非常に拡大したが、過去が現在に甦るという時間の不思議に関し、どれほど深化したかは、甚だ疑わしい。「古学」の運動がかかずらったのは、ほんの儒学の歴史に過ぎないが、その意識の狭隘を、今日笑う事が出来ないのは、両者の意識の質がまるで異なるからである。歴史の対象化と合理化との、意識的な余りに意識的な傾向、これが現代風の歴史理解の骨組をなしているのだが、これに比べれば、「古学」の運動に現れた歴史意識は、全く謙遜なものだ。そう言っても足りない。仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。そうも言えるほど、意識の質が異なる。……
次いで、大意、こう言う。徂徠に言わせれば、歴史の真相は、「後世利口之徒」に恰好な形に出来上っているものではない、歴史の本質的な性質は、対象化されて定義されることを拒絶しているところにある、この徂徠の確信は、ごく尋常な歴史感情のうちに育った、過去を惜しみ、未来を希いつつ、現在に生きているという普通人に基本的な歴史感情にとって、歴史が吾が事に属するとは、自明なことだ、歴史がそういうものとして経験される、その自己の内的経験が、自省による批判を通じて、そのまま純化されたのが徂徠の確信であった……。
そして、
――この尋常な歴史感情から、決して遊離しなかったところに、「古学」の率直で現実的な力があったのであり、仁斎にしても徂徠にしても、彼等の心裡に映じていたのは儒学史の展望ではない。幼少頃から馴れ親しんで来た学問の思い出という、吾が事なのであり、その自省による明瞭化が、即ち藤樹の言う「学脈」というものを探り出す事だった。……
小林氏が言わんとしていることを、私たちの身近に引き寄せて聞けば、こういうことである。今日、「歴史」という言葉は溢れかえっている、新聞でも雑誌でも見ない日はないとさえ言っていいほどだ、だが、そこで言われている「歴史」は、過去を、すなわち過去の人間たちの言ったり為たりしたことを、他人事として扱っている、たしかに他人事にはちがいない、しかしその他人事が行くところまで行ってしまい、過去の人間たちをまるで鳥や獣を観察するのと同じ次元で観察している、そしてその観察結果を、現代人の理解が届く範囲でのみ整理し整頓してものを言っている……、これが小林氏の言う「歴史の対象化と合理化」である。なぜそうなったか、近代の歴史学が歴史学も科学であろうとし、客観的であれ、実証的であれのスローガンの下に、人間の内側を見なくなってしまったからである。
この近代の歴史家たちの、さらには知識人たちの、過去を上から見下ろす歴史意識に比して、藤樹、仁斎、徂徠らの歴史意識は謙虚だった。徂徠に言わせれば、歴史というものは、学者や知識人に都合のよいようには残っていない、歴史の本質的な性質は、後世人が観察し分析し、定義できるようなところには見出せない、徂徠はそう確信していた、この徂徠の確信は、一般普通人の生活感情によって育った、過去を惜しみ、未来を希いつつ現在に生きている一般普通人にとって、過去の人間たちはまったくの他人ではない、隣人である、昔の人の名を聞けば、そこはかとなくではあっても今の人に覚えるのと同じような親近感を覚える、過去は誰にもこういうふうに経験される、徂徠自身のそういう内的経験が顧みられ、検証されて、徂徠の歴史に対する確信が成った、と小林氏は言うのである。
事情は、藤樹、仁斎の場合も同じだった。自分自身の内的経験が顧みられ、そこから発して過去の人間たちの呼び声を聞き、その呼び声に答えようとした、それが藤樹、仁斎、徂徠の学問の基盤だった。
永い間、日本の学問は、律令制以来の博士家や師範家に独占され、支配され、師から弟子への伝授という柵に縛られていた。その柵を藤樹らは断った、学問を因襲から解き放った。彼らがそれを為しえたのは、
――彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。……
と小林氏は言い、続けて、
――過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。……
と言っている。
「官家」は、官位の高い家、あるいは貴人の家、であるが、ここでは「博士家」である。「博士」は平安期以来、大宝令の制下で大学寮、陰陽寮などに属した官職であり、「博士家」はその「博士」を世襲した家柄で、菅原家、大江家、藤原家、清原家などがあった。学問はそういう官家の「家業」だったのである。
では、官家、博士家の家業を超えて、藤樹、仁斎、徂徠たちが目覚めた学問とは何か、学問の伝統とは何か、である。
2
小林氏は、藤樹、仁斎、徂徠らの学問の基盤は、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに成立した、今日の歴史家たちが過去を他人事として対象化し、合理的に解釈することで失ってしまった過去との親密な交わり、それが彼等の意識の根幹を成していた、と言った後に、
――だが、そう言っただけでは足りまい。「経」という過去の精神的遺産は、藤樹に言わせれば、「生民ノタメニ、此経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ」、仁斎に言わせれば、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、そういう風に受取られていた。過去が思い出され、新たな意味を生ずる事が、幸い或は悦びとして経験されていた。悦びに宰領され、統一された過去が、彼等の現在の仕事の推進力となっていたというその事が、彼等が卓然独立した豪傑であって、而も独善も独断も知らなかった所以である。……
「経」は「六経」と解してよい。先に「二十三 『独』の学脈―伊藤仁斎」で見たが、中国古代の七人の王が遺した治世の実績、すなわち「先王の道」を記録した六種の経書で、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。「生民」とは民である。「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」は仁斎の言葉で、これも先に「二十三 『独』の学脈―伊藤仁斎」で見た。
そして、小林氏は、第十一章で言う。
――彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。……
氏は、第十一章の冒頭で、
――仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。……
と言ったが、「自負の念」は、自己顕示欲と一体であろう、己れを顕わそうとする欲が「斬新や独創」に狙いをつけさせる。今日の歴史家は、そういう「斬新や独創」を競って得た「自負」に悦びを見出している。だが、仁斎や徂徠は、そうではない、自己を過去に没入すること自体に悦びを覚え、その悦びが自己を形成し直す所以となっていた、すなわち「無私」に通じていた。小林氏が、仁斎や徂徠の歴史意識は、その質が今日の歴史家たちとはまったく異っていたと言うのはここである。
――随分廻り道をして了ったようで、そろそろ長い括弧を閉じなければならないのだが、廻り道と言っても、宣長の仕事に這入って行く為に必要と思われたところを述べたに過ぎず、それも、率直に受取って貰えれば、ごく簡明な話だったのである。……
小林氏は、第十一章の半ばに至ってこう言う。その「ごく簡明な話」とは、
――「学」の字の字義は、象り効うであって、宣長が、その学問論「うひ山ぶみ」で言っているように、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚にあるとは、学問という言葉が語っている。……
「まねび」は「真似をすること」であり、「模傚」は「模倣」と同義である。
――彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった。……
――従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。つまり、古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであったし、例えば徂徠の仕事に現れて来たような、言語と歴史とに関する非常に鋭敏な感覚も、この努力のうちに、おのずから形成されたものである。例えば仁斎の「論語」の発見も亦、「道」を求める緊張感のうちでなされたものに相違ないならば、向うから「論語」が、一字の増減も許さぬ歴史的個性として現れれば、こちらからの発見の悦びが、直ちに「最上至極宇宙第一書」という言葉で、応じたのである。……
これが小林氏の言う「ごく簡明な話」のすべてである。以下、順を追ってこの「簡明な話」を腹に入れよう。
「学」の正字は「學」だが、「學」とは「象り効」ということを表した文字だと小林氏は言う。「本居宣長」の執筆中、氏が座右においてそのつど繙いた諸橋轍次の『大漢和辞典』にも、近年の大字典、白川静の『字統』『字通』『字訓』にもその旨の解字はないが、白川氏は『字訓』で、「まなぶ」の項に「學」は子供たちを教える建物とそこで行われること、すなわち今日の学校にあたる教育機関を表していると解字した後、「まね」の項で、「まね」は「學ぶ」と同根の語と言い、さらに次のように言っている。
平安時代前期に出来たわが国最古の仏教説話集『日本霊異記』に、「象り効う」の「効」の正字「效」をマネビとする訓があり、平安時代末期に成った字書『類聚名義抄』にはマネブ、ナラフと見えていて、中国の現存最古の字書『説文解字』は「效」を「象る」と訓じている、『類聚名義抄』に言う「ナラフ」は「倣ふ」であり、古くは倣うことを「倣效」と言ったが、「效」と「學」とは古音が近く(heoˆとheuk)、双方に通じて用いられる字であった……。
おそらく、こういう経緯によって「學」に「象り効う」の字義が加わったのだろう。したがって、「學」を「象り効う」と解した伝統はたしかにあったのであり、小林氏が「模倣」と言わず、「模傚」と言ったのにも事由があったようなのである。
だが、私の遡及はここまでである。「學」の字義は「象り効う」であると明記した字書、あるいは文献に、今のところ私は行き着けていない。小林氏は何に拠ったのだろう、少なくとも『字訓』ではない、『字訓』が刊行されたのは小林氏の死後である。
そして宣長は、「うひ山ぶみ」を、
――世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一ㇳやうならず、そのしなじなをいはば……
と書き起し、「学問」のことを「物まなび」とも言っている。が、宣長にあって「物まなび」は、日本の学問をさし、中国の学問をさして言われていた「学問」とは使い分けがされている。「うひ山ぶみ」にはその理由も書かれているが、いまそこは措く。そもそもを言えば「物学び」という言葉は古くからあり、『日本国語大字典』はその用例を南北朝時代、北畠親房が書いた『神皇正統記』から採っている。
その「まなび」「まなぶ」とともに、かつては「まねび」「まねぶ」も用いられ、「まねび」「まねぶ」も「学び」「学ぶ」と書かれていた。「まねぶ」を、『広辞苑』は「まねる」と同源であると言い、『大辞林』『日本国語大辞典』は「まなぶ」と同源と言っている。ということは、「まなぶ」と「まねぶ」と「まねる」、この三つの言葉の根は同じであり、かつての日本人は、「まなぶ」と言うときも語感としては「まねる」を伴っていた、「まなぶ」とは何かを模倣することだという意識を自ずともっていた、そういう意識で「まなんで」いた、ということのようなのだ。
小林氏が、藤樹、仁斎、徂徠らは新しい学問を拓いた、だがそれは、「彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである」と言ったこともここにつながってくる。小林氏の言う学問の伝統とは、「まねぶ」だった、模倣するということだったと言ってよいのである。
しかし今日、「まなぶ」に「まねぶ」の語感はない。それどころか、私たちにはなんとなくだが「まなぶ」は高尚で、「まねる」は卑俗だという感じがある。これはどこからきたのだろう。「まなぶ」は人間に知恵がついてからの大人の行為、「まねる」は知恵がつく前の子供の行為という、慣用からくる認識差があるようだ。
さらには学校で、図画工作でも読書感想文でも、人真似はいけません、あなた独自のものを出しなさい、大事なのは個性です、独創性ですと、さんざ言われ続けたことがあるだろう。これは、おそらく、近代になってあわただしく輸入した欧米の個人主義などを、子供たちに闇雲に押しつけたということだったと思われるのだが、独創、独創と言われても子供たちは何をどうすれば独創になるのかがわからず、とにもかくにも人と違ったことをしておけば恰好がつくとなってその場かぎりの奇妙奇天烈な花火を誰も彼もが打ち上げた。
だが、小林氏はちがった、終始一貫、何事も「まず、まねよ」だった。それを最も精しく、最も強い口調で言っているのが「モオツァルト」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第15集所収)である。
――彼(モオツァルト、池田注記)の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。……
そして氏は、間髪を容れず畳みかける。
――模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。……
「模倣出来ぬもの」とは、すなわち自分である、自分の個性である、その自分の個性がどういうものであるかは、他人を模倣してみないでは見つけられない。他人を模倣してみて初めて見つけられる。「他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい」とは、歌の模倣は自分の肉声があってこそ成り立つ、どんなに巧みに他人を真似たとしても、自分の肉声は厳としてある、残る、ということであり、ぎりぎりの極限まで他人を模倣したとしても、完璧な模倣は実現しない、なぜなら、模倣の対象と自分とはついには別々の個体だからである。こうして模倣の対象と自分との間に現れる如何ともし難い差異、これが自分の個性である。
小林氏は、次いで、「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」と言っている。「僕自身の掛けがえのない歌」、それこそが個性の発現であり独創であり、模倣を徹底すればするほど模倣の対象と自分との差異はよりいっそう強く意識される、そこからさらなる高みに達しようとすれば、他人との差異、すなわち自分の個性のありように沿って訓練を積むほかなくなる、それが「僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」ということだろう。
そこを小林氏は、「本居宣長」では、「彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった」「古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」と言ったのだが、「モオツァルト」で、「模倣」に即して、モオツァルトの教養とは「殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった」と言ったその「精神上の訓練」は、「本居宣長」では「心法を練る」という言い方で言われているのである。
3
第十一章で、中江藤樹や伊藤仁斎、荻生徂徠たちにとって、古書を読むということは、古書を上手に模倣しようとしてのことだったと言った小林氏は、第九章では次のように言っていた。「二十二 『独』の学脈―中江藤樹」でも見たが、
――彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「萬葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「萬葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……
先に、小林氏が、学問の根本は模傚、模倣であると言って、「模倣」という言葉に格段の意味内容を見出しているさまを見たが、いまこうして第九章と第十一章を読み合わせてみると、「模倣」とともに「信」という言葉、「無私」という言葉が「学問」の線上に並んでいるのを見る。端的に言えば、藤樹、仁斎、徂徠たちの学問の姿勢は、「信」であり、「無私」であり、「模倣」であったということなのである。
小林氏が言っている「古典への信を新たにする」の「新たにする」は、より深くする、より強くする、の意と解してよいと思われるが、その「信」は、孔子が言った「述べて作らず、信じて古を好む」の「信」であると解し得る。この言葉は、「論語」述而篇の冒頭にある、というより「述而篇」という篇名はその原文「述而不作、信而好古」に基づいているのだが、吉川幸次郎氏によれば(朝日文庫『論語』)、「述べて」は「祖述」の意であり、「作る」は「創作」の意である。孔子は、「私は古書古文を祖述するのみである、創作はしない、古書古文を信じて愛好する」、そう言ったのである。
しかし、「祖述」という言葉には注意が要る。今日、「祖述」は、「甲は乙を祖述したに過ぎない」などという言い方で、人真似、二番煎じ、亜流等々と同義に解する向きが少なくないが、孔子は単に後追いするという意味で「述べて」と言ったのではない。『大漢和辞典』は、「祖述」の用例として、『中庸』の第三十章にある「仲尼祖述尭舜」(仲尼、尭旬を祖述す)を挙げている。「仲尼」は孔子である、「尭舜」は先に「二十六 言は道を載せて」で言及した先王、すなわち古代の聖帝である。だとすれば、「述べて」は、孔子が「六経」を補修するにあたって自らに言い聞かせた決意ととれる。そこから見れば、今日の辞書、たとえば『広辞苑』に「師・先人の説をうけついで学問を進め述べること」とあるうちの「進め述べること」、『大辞林』に「先人の学説を受け継いで発展させて述べること」とあるうちの「発展させて述べること」、『日本国語大辞典』に「前に発表された説をもとにして、補い述べること」とあるうちの「補い述べること」は、いずれも現代語としての「祖述」であり、孔子の言葉に照らせば「作る」にあたる行為である。孔子はそういう意味での「作る」もいっさいしないと言っているのである。吉川氏は、過去の文明は多くの人間の智慧の堆積であり、創作は自分一個人の恣意に陥りやすい、そうした考えのもとにこの言葉は生れているであろうと言い、しかしこうした過去の書物の祖述は手軽な古代主義からではない、過去の書物のうちからよいものを選んでよいと信じ、またそのなかの愛好すべきものを心から愛好するがゆえであると言っている。
続けて小林氏は、「彼等に仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」と、「信」と「無私」を同一平面で言っている。そこでいま一度、「信」という言葉の前に立ち返る。今日、私たちは、「彼が私のことをそんなふうに言うはずはない、私は彼を信じている」とか、「私はもう人間というものが信じられなくなった」とかと言う。こういうときの「信じる」は、物心いずれの面でも自分が不利益を蒙らないように、あるいは不利な立場に立たされないように他人の良心をあてにする、そういう期待があっての「信じる」である。しかし小林氏は、こうした現代一般の、自分本位の言い方とは真反対の意味合で「信」を言っている。それは、たとえ相手の術中に陥って不利益を蒙ろうともかまわない、不利な立場に立たされようともかまわない、自分はこの人こそは、この道こそは、と直覚した人や道にすべてを委ねる、そういう信仰心にも近い意味合いで「信」を言うのである。
氏は、昭和二十五年四月、四十八歳の年に書いた「信仰について」(同第18集』所収)でこう言っている。
――私は何かを欲する、欲する様な気がしているのではたまらぬ。欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に欲する。つまり自分自身を信じているから欲する様に欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。……
――後は、努力の深浅があるだけだ。他人には通じ様のない、自分自身にもはっきりしない努力の方法というものがあるだけだ。あらゆる宗教に秘義があるというのも、其処から来るのでしょう。私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。……
「宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄」、この自分自身を確と信じたうえで行われる「自己放棄」、これが小林氏の言う「信」である。ここを読むたび、私は「私の人生観」(同第17集所収)で言われている釈迦を思い浮かべる、同時に親鸞を連想する。親鸞は、専修念仏による往生を説いた法然を師としたが、『歎異抄』で言っている、
――念仏は、まことに、浄土に生るるたねにてや侍るらん、また、地獄におつべき業にてや侍るらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされ参らせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行も励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は、一定、すみかぞかし。……
おそらく、「宗教的偉人の自己放棄」と言ったとき、小林氏の脳裏には釈迦とともに親鸞の自己放棄もあったであろう。
そこまで「信」を見透して言われた「彼等に仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」を熟考すれば、「信」と「無私」は、「自己放棄」を共通項として同義とさえ言ってよさそうなのである。しかも小林氏は、「信仰について」で、宗教的偉人に見られる驚くべき自己放棄も、他人には通じようのない、自分自身にもはっきりしない努力の方法があってのことであると言っている。一方、「本居宣長」では、「無私を得んとする努力」と言っている。「信」も「無私」も、努力なくしては得られない、その「信」と「無私」を、藤樹も仁斎も徂徠も、必死で得ようとした、小林氏はそう言っているのである。
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小林氏は、色紙というものを好まなかった、が、わずかに遺した色紙のなかに、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という言葉がある。この言葉は、氏の文章中には見えないが、読者の間ではよく知られた言葉である。
杉本圭司氏の『小林秀雄 最後の音楽会』(新潮社刊)によれば、この言葉が最初に書かれたのは、当時、新進の文芸批評家であり、小林氏が顧問の立場で編集責任を負っていた出版社、創元社において部下でもあった佐古純一郎氏に色紙を望まれてのことで、時期は小林氏が四十九歳の年、昭和二十六年(一九五一)の後半だったと推測されるという。
昭和二十六年と言えば、一月、「ゴッホの手紙」を『芸術新潮』に連載し始めた年である。この連載は二十七年二月に及び、同年六月、新潮社から刊行したが、その本文の最後に氏はこう書いている。
――私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった。それよりも意外だったのは、書き進んで行くにつれ、論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近付くにつれ、私はもう所謂「述べて作らず」の方法より他にない事を悟った。読者は、これを諒とされたい。……
「ゴッホの手紙」は、その半ばまではゴッホの手紙を抜粋し、これに小林氏が論評を連ねるというかたちで書かれている、だがそのうち、徐々に氏の言葉は減っていき、最後はほとんど「述べて作らず」になっている。
小林氏にとって「作らず」は、批評的言辞が自ずと消滅したということだった。そしてこれが、小林氏が「ゴッホの手紙」という批評を書くことによって図らずも得た「無私」であった。ゴッホの手紙の苦しい気分に心を領され、自分の言葉を、ひいては自分自身を放棄させられて得た「無私」であった。その息づまるような実体験が、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という言葉に結実した……、私にはそう思える。杉本氏もそう言っている。
この「無私」を、小林氏はそのまま「本居宣長」でも得ようとした。第二章の閉じめに言っている、
――宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……
『大漢和辞典』は、「述」は「のべる」だと言ったあと、この「のべる」には「したがう、先人のあとにしたがう」という意を含んだ用例があると一番に記し、『説文解字』に「述」は「循」だと説明があると言う、そこで「循」へ飛んでみると、「循」も大きくは「したがう」だが、細かく見れば「寄る、沿う」、「倣う、学ぶ」、「踏む」に相当する用例がいくつもある。ここから推せば、孔子が言った「述べて」の真意は「先人のあとに従って」なのである。孔子は、先人、すなわち尭、舜たち先王の治績の記録に、忠実に従おうとしたのである。そのためには、先王の治績が記された文書をそっくりそのまま写し取る、そこに専心したであろう。だとすれば、これは今日、絵や書の世界で言われる「臨摸」に近い。「臨摸」はすなわち「模倣」である、徹底して行われる「ナラウ、マネブ」である。
こういうふうに辿ってくると、小林氏が、因襲という柵に縛られていた日本の学問、その柵を藤樹らは断った、彼らにそれが為しえたのは、彼らが学問の伝統に目覚めたというところが根本なのであると言った「学問の伝統」とは、「學」という字の字義「象り効う」であり、具体的には孔子が啓いた「述べて作らず、信じて古を好む」道だったと言ってよいだろう。
続けて、こうも言えるようだ。「無私」は、誰かを、あるいは何かを、「模倣」することによってこそ得られる、「模倣」の対象と一体になろうとする「努力」、それこそが「無私」をもたらす……。逆に言えば、「無私」を得ようとするなら、然るべき人を、物を、「模倣」せよ、極限まで「象り効え」、ということのようである。
小林氏は、昭和四十五年八月、長崎県の雲仙で行われた「全国青年学生合宿教室」に出向き、「文学の雑感」と題して講義したが、それに続いて、「批評とは無私を得んとする道である」について質問した学生に、こう答えている(新潮文庫『学生との対話』所収)。
――無私というのは、得ようとしなければ、得られないものです。客観的と無私とは違うのです。よく、「客観的になれ」などと言うでしょ? 自分の主観を加えてはいけないというのだが、主観を加えないのは易しいことですよ。しかし、無私というものは、得ようと思って得なくてはならないのです。これは難しいな、ちょっと口では言えないな。つまりね、君は客観的にはなれるが、無私にはなかなかなれない。しかし書いている時に、「私」を何も加えないで「私」が出てくる、そういうことがあるんだ。……
――君は、自分を表そうと思っても、表れはしないよ。自分を表そうと思って表しているやつは気違いです。自分で自分を表そうと思っているから、気が違ってくるんです。よく観察してごらんなさい。自己を主張しようとしている人間は、みんな狂的ですよ。そういう人は、自己の主張するものがどこか傷つけられると、人を傷つけます。……
――人が君を本当にわかってくれるのは、君が無私になる時です。君が無私になったら、人は君の言うことを聞いてくれます。その時に、君は表れるのです。君のことを人に聞かせようと思っても、君が表れるものではない。あるいは僕が君の言うことを聞きたいと思った時、つまり僕が無私になる時、僕はきっと表れるのです。……
ここで小林氏が言っている「僕が君の言うことを聞きたいと思った時、つまり僕が無私になる時」の「君のことを聞きたいと思う」が、『大漢和辞典』にあった「述」の字義「従う」であり「寄る、沿う」であり、「倣う、学ぶ」であり「踏む」であろう、すなわち、「模倣」であろう。
そしてさらに、「無私」の対語が「自負」である、とも言えるようだ。先に私は、「自負の念」は自己顕示欲と一体であろう、己れを顕わそうとする欲が「斬新や独創」に狙いをつけさせる、と言ったが、「己れを顕わそうとする欲」、すなわち自己顕示欲では己れは表れないと小林氏は言う。「斬新」や「独創」に必要な仕掛け、つまりは「新しい見方」の意識が先走り、「己れ」は二の次、三の次になるからでもあるだろう。
この「自負」について、小林氏はこう言っていた。
――歴史の対象化と合理化との、意識的な余りに意識的な傾向、これが現代風の歴史理解の骨組をなしているのだが、これに比べれば、「古学」の運動に現れた歴史意識は、全く謙遜なものだ。そう言っても足りない。仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。……
歴史に限ったことではない、何か新しい物事と真摯に向きあおうとするとき、「自負の念」は一番の障碍となる。己れの力量に対する過信と誇りが、いま目の前にある新たな物事をどう見るか、どの角度から見るかと、物事を対象化し合理化するための「観点」を求めるからだ。
この「観点」が、歴史と向きあうときは「史観」と呼ばれ、なかでもマルクス、エンゲルスに始る「唯物史観」は最も知られた史観と言ってよいが、こういう「史観」が心という人間本来の認識力を妨げる。「史観」に視野を限定され、全体が見えなくなる、認識できなくなる。歴史という先人に、従う、寄る、沿う、倣う、学ぶといったことがなくなる。「信」も「好」も、そこには生れない。
人間は、人間本来の認識力、すなわち、物事を見て知って、正しく認識する力は、「観点」などよりはるかに先に誰もが授かっている、それが、心である、そこを小林氏は、第十四章でこう言っている。
――よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。……
小林氏は、何事であれ、常にこの「観点を設けぬ、全的な認識力」を駆使して考えようとした。昭和十六年七月、三十九歳の年に書いた「パスカルの『パンセ』について」(同第14集所収)にこうある。パスカルは、「人間は考える葦だ」と言ったが、この言葉を、ある者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦のように弱いものだ、という意味にとった、またある者は、人間は、自然の威力には葦のように一とたまりもないものだが、考える力がある、ととった、いずれもそうではない、
――パスカルは、人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。……
これをさらに、同時期に行った三木清との対談「実験的精神」(同第14集所収)ではこう言っている。
――パスカルは、ものを考える原始人みたいなところがある。何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめるというようなところがある。いろいろなことを気にしないで……。
「すぐそこから真っすぐに考えはじめる」「いろいろなことを気にしないで」がすなわち「観点などは設けずに」である。これが「本居宣長」では次のように言われるのである、
――彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていた。……
この「自己を形成し直す所以」が、先に仁斎、契沖、真淵、宣長と名を挙げて、
――学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……
と言ったうちの「無私を得んとする努力」、ひいては小林氏自身の「批評とは無私を得んとする道である」を照らし出す。「無私」は、小林氏の考えでは、何かを得るための、あるいは何かを実らせるための心的境地には違いないが、藤樹たちにとっては学問を実らせる、小林氏にとっては批評を実らせる、そのための心的境地ではないのである。藤樹たちにとって、学問はまだ目的ではない、手段である、小林氏にとって、批評はまだ目的ではない、手段である。そういう手段を用いて目ざす目的、それが「道」である、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている「道」である。
宣長は、寛政十年(一七九八)六十九歳の六月、「古事記伝」第四十四巻終章の清書を終え、明和元年(一七六四)以来、三十五年に及んだ「古事記伝」の注釈を完成したが、その四ヵ月後の十月、門人たちの懇望に応じて学問の手引き「うひ山ぶみ」を書き上げ、その「うひ山ぶみ」の最初に、ひとくちに学問と言っても多岐にわたる、だが、「主としてよるべきすぢは何れぞといへば、道の学問なり」と言い、
――道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いささかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也……
と言っている。
この、学問の中軸は「道」を知ることであるという宣長の認識は中江藤樹以来のものであり、したがって学問は、藤樹、仁斎、徂徠、宣長たちが「道」を知るための手段であった、それと同様に、批評は小林氏が「人生いかに生きるべきか」を知るための手段であったのだが、学問も批評も、いきなり駆けだしたのでは覚束ない、「無私」を得ようとする努力とともにでなければあらぬ方へ迷走する。あらぬ方とは「自負」の方である。したがって、学問によって、また批評によって、まず得るべきは「無私」であり、「道」は、学問によって、批評によって得られた「無私」によって、初めて得られるもののようなのである。
小林氏は、折にふれ、須臾の間とはいえ自分が「無私」の境地にいたという経験を記している。まずは、「ゴッホの手紙」である。ゴッホの「烏のいる麦畑」を初めて見たとき、
――熟れ切った麦は、金か硫黄の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剝き出ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管絃楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた――僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。……
「ゴッホの手紙」は、この「巨きな眼」は何だったのか、なんとかして確かめてみたいという欲望に駆られて書き始められた。
その四年前、「モオツァルト」を書きあぐんでいたときは、次のようだった、同じく「ゴッホの手紙」からである、
――ある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K. 593)を聞いていた。夜来の豪雨は上っていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやって来る白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向って徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明晰な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。……
続いて、「花見」(同第25集所収)である。昭和三十九年、六十二歳の春、青森県の弘前を訪れ、
――外に出ると、ただ、呆れるばかりの夜桜である。千朶万朶枝を圧して低し、というような月並な文句が、忽ち息を吹返して来るのが面白い。花見酒というので、或る料亭の座敷に通ると、障子はすっかり取払われ、花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する。「狐に化かされているようだ」と傍の円地文子さんが呟く。なるほど、これはかなり正確な表現に違いない、もし、こんな花を見る機は、私にはもう二度とめぐって来ないのが、先ず確実な事ならば。私は、そんな事を思った。何かそういう気味合いの歌を、頼政も詠んでいたような気がする。この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い、確か、そんな意味の歌であったと思うが、思い出せない。花やかえりて我を見るらん、――何処で、何で読んだか思い出せない。……
「頼政」は、これより前にも出ていて、平安時代末期の武将、源頼政である。ちなみに、「花やかえりて……」の上句は、「入りかたになりにけるこそ惜しけれど」である。
これらの、いつしか相手に見られていると思えた「無私」の境地、また思いがけない方向から感動が来たという「無私」の境地、それらの記憶が、「本居宣長」では国語の伝統意識につながり、宣長の「古言を得る」という古学の追体験につながるのである、すなわち、宣長の「まねびの道」につながるのである。第二十三章で言われている。
――互に「語」という「わざ」を行う私達の談話が生きているのは、語の「いひざま、いきほひ」による、と宣長は言う。その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に飜訳し合うという離れ業を、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語という巨きな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。……
(第二十七回 了)
その十一 ウィーンのコンサートマスター~アルノルト・ロゼー
ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツとかポルカだとか、私はもうまったく無関心であった。「美しく青きドナウ」に「皇帝円舞曲」そして「アンネン・ポルカ」……無関心どころか、半ばは軽蔑していたかも知れない。
「そう馬鹿にしたもんじゃないよ」
「そうかねぇ。優雅な方々向けの御用音楽じゃないのかい、所詮は」
「そりゃあそう扱われてきたというだけのことさ。偏見だよ。そもそも、ベートーヴェンの悲劇性こそが音楽だ、みたいなところがあるからな、君には。けれどブラームスは、ベートーヴェンからの直接の主流だと評したらしいぜ?」
「シュトラウスを?」
「シュトラウスを、さ。ワグナーも、モーツァルトからまっすぐに連なるウィーンの伝統だと言ったそうだ。ベートーヴェンの後継たらんとしたお二方、そろって絶賛みたいだぜ」
「……」
たしかに、私の耳に鳴るヨハン・シュトラウスは、「珠玉の名曲 クラシック・ホームコンサート」みたいなLPレコードの記憶と分かち難く結びついていたのかも知れない。ヨハン・シュトラウスすなわち俗流という定式が、頭の中に出来上がっていたのかも知れない。
「何かいいレコードがあるかい?」
「あるよ。とっておきが」
そんな次第で、まんまと一枚買わされる羽目になったのだが、後日届けられたその「とっておき」は、まさしく十インチの小さな爆弾であった。演奏はむろんウィーン・フィル。指揮クレメンス・クラウス。1929年録音の、他でもない「アンネン・ポルカ」が、私の雑然とした狭い部屋で、朗らかに炸裂した。頭上を天球が廻った。その眩暈のなかで、私は舞曲の意味を了解できたと思った。踊るのは人間だが、鳴っている音楽は、それは宇宙なのだ。満天の星。コスモス。だとすると、それがウィーンの伝統なのか。
「ロゼーがソリストとして躍進しようとしなかったことは、他の全てのヴァイオリニストにとって幸運であった」
この方面のコレクターの多くは、音源ではなく、たとえばイザイのこの言葉を介してロゼーというヴァイオリニストに出会うのではないか。もとより、その名に出会うだけでは済まない。ウジェーヌ・イザイはロゼーとほぼ同世代のヴァイオリニスト、しかも斯界の巨匠と目された人であったから、その発言には、演奏家としての切実な実感と正確な評価とが反映されているに違いない……皆そう信じ込まされてしまう。そして、すなわち、聴いてみたくもなる、というわけだ。
その「聴いてみる」ということが、ロゼーの場合、既にして容易ではないのである。録音自体が僅少なのではない。僅少どころか、クライスラー以前のヴァイオリニストで最も多くレコーディングしたのはロゼーだ。ソロだけで三十面以上もある。ところが、それが手に入らない。手に入るどころか、見かけることすら稀なのである。おおかたヨーロッパあたりの血統書付きのコレクターが、確と秘蔵して手放さないのだろう。だから、たまに海外のオークションなんかに出てきても、それはもうべらぼうな高騰ぶりで、極東の貧しい蒐集家なんかが手を出せる代物ではないのだ。そんなわけで、言うまでもないが、ますます「聴かずにはいられなくなる」のである。この際、真っ二つに割れたような盤でも可としよう。ロゼーの音、一瞬でもいい、誰か聴かせてくれないか……。
聴けるのである。それこそ「一瞬」でいいなら、ロゼーの音が、ちょっと努力しさえすれば、オリジナルの盤で聴けるのである。リヒャルト・シュトラウスの楽劇「薔薇の騎士」より第二幕のワルツ。演奏ウィーン・フィル、指揮カール・アルヴィン。少しだけれど、正真正銘のロゼーのソロが聴こえてくる。二枚組のレコードだが、海を越えてやって来るそれは、その面ばかりが聴きこまれているようだ。ふと、どこの誰とも知れぬ同好の先輩に思いを馳せてみたりする。そして私も、はじめてのロゼーの音を聴き取ろうと耳を澄ませたのであった。これがロゼー入門。
そうこうするうち、鈍感な私にもやがて気が付くことがあった。待てよ。そうか。アルノルト・ロゼーは、ウィーン音楽史に燦然たるヴァイオリニストだ。1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合で亡命を余儀なくされるまでのなんと五十七年余にわたって、ウィーン国立歌劇場と、途中約十年のブランクはあるがウィーン・フィルと、その二つのオーケストラのコンサートマスターの地位にあった人である。ということは、その時代のウィーン・フィルの交響曲なんかのレコードにヴァイオリン・ソロの部分があれば、それはやっぱりロゼーだということになるのではないか。もっとも、1931年録音の「薔薇の騎士」のレーベルにはその名がクレジットされていて、ソリスト・ロゼーの情報に間違いはないのだが、しかしながらそういう気の利いた盤が他にもあるという話は聞かない。すなわち、自分の耳で聴き分ける他ないということになる。もとより、私には、とても聴き分ける自信などないのだが、ひとりでこっそり、これはロゼーか、この音の純度はロゼーではないのか、おお、などとぶつくさ言っている分には、何もかまうことはあるまい。というわけで、そんなレコードを一枚取り寄せては、たまにおっと思ったり、たいていはああとがっかりしたり、そんなことを繰り返してきたというわけである。
そんな酔狂も、レコード・コレクションの醍醐味の一つみたいなもので、まことに愉しいのだが、そうは言ってもやはり煩悩は断ち難い、イザイの言葉が忘れられないのである。ソリスト・ロゼーの芸が聴きたい。その思いは、募りこそすれ、止むことはなかった。
ロゼーのレコーディングは1900年の四曲を嚆矢とする。ポッパーの夜想曲、サラサーテのスペイン舞曲八番、ブラームスのハンガリー舞曲五番、それにシモネッティのマドリガルである。興味深いことに、ポッパーの夜想曲は1902年に、他の三曲については1902年に加えて1909年にも、その録音が繰り返されている。サラサーテのツィゴイネルワイゼンにも二回の録音があるが、こういったことは、いかにも、レコード文化の黎明期らしい事象だといえそうだ。音盤製作技術の顕著な向上が背景にあるのであろう。また、規範となるような演奏をよりよいカタチで遺さねばならい――そんな責任感のようなものがうかがわれもするのである。
さて、それらのうち、スペイン舞曲の二回目および三回目、ハンガリー舞曲の三回目、さらにツィゴイネルワイゼンの二回目などの盤が、いま、私の手許にある。例の「べらぼうな高騰」というやつに幾度か乗っかってしまったというわけだが、それはそれとして、これらのレコードは、私の曖昧な音楽観に対する、まことに痛烈な一撃であった。そのどれもが、大地から生えてきたような舞曲を、その出自を活かしたまま音楽的に高め、結晶させている。この「音楽的に」というところが肝心で、19世紀のサロン系ヴァイオリニストの多くが、それを、過剰にエモーショナルな装飾や感傷にすぎないものに安易に置き換え、結局は芸術的頽廃に落ち込んでいったのに対して、ロゼーは、先達ヨーゼフ・ヨアヒムと同じ道を行ったのだ。ウィーンの聴衆は、コールド・ロゼーと綽名したそうだが、これは、大衆的志向に合わせることのできないこのヴァイオリニストの、その本質にある芸術観に対する倒錯した批評である。なるほど、情緒に媚びることのない彼の音楽は、しばしば冷淡な印象を与えたかも知れない。が、それはまことに浅薄な批判だ。ロゼーの本領はそんなものを超えたところにあるのである。
たとえば、ロゼーの演奏するハンガリー舞曲五番、まことに格の正しいその演奏は、彼が、ブラームスの盟友ヨアヒムの、その正統な系譜にあることを証明している。ハンガリーのキッツエーからベルリンにやって来たヨアヒムと、ルーマニアのヤシからウィーンにやって来たロゼー。新興都市と古都の違いはあるが、いずれにせよ近代という時代に投げ込まれた孤独な人たちである。その根源的な孤独の支えとなる、確かな出自としての音楽性が、彼らの演奏にはあるように思われるのである。もとよりそれは単なる郷愁なんかではない。民族的土壌と都市的な知性、それらの高次の統合が彼らの本領だ。
ロゼーも、ヨアヒムと同様、大衆に寄り添いながら、しかし迎合することはなかった。その精神において古典派だったのだ。彼が、郷愁とか感傷とかいうものに積極的であったなら、もっとウケていたに違いない。イザイは、ロゼーを「ソリストとして躍進しようとしなかった」と言ったが、案外そうではないのではないか。たしかにロゼーはオーケストラのコンサートマスターとしてこそ、あるいはヨーロッパ随一の室内楽団ロゼー・クァルテットの主宰者としてこそ、時代に名を刻んだとはいえるが、同時に豊富なソロ・レコーディングも行っているのだから。つまり、コールド・ロゼーは、ソリストとしての躍進を志し、その本領をもって時代を超えたが、むしろそのゆえに、同時代の大衆にはウケようがなかったのではないか、そんな気がしてくるのである。
さて、古典派ロゼーの面目が躍如とする録音といえば、まずベートーヴェンである。ロゼー・クァルテットはブラームスの信頼厚く、1890年には弦楽五重奏二番などの初演を託されたが、当然、ベートーヴェンを主なレパートリーとし、その弦楽四重奏から四番と十番、それに十四番をレコーディングしている。それらの演奏は、ヨアヒムが、あるいはその後継ヘルメスベルガーが受け継ぎ伝えたであろうベートーヴェンの、その音楽を彷彿とさせるものである。また独奏ではロマンスの二番がある。なぜ古いレコードばかりを、しかも蓄音機なんかで聴いているのか――この一枚は、そんな問いに対する答えになるかも知れない。この盤から聴きとれるロゼーの音は、十九世紀生まれの第一級のヴァイオリニストだけがもつ、ほとんど強靭とも形容すべき明晰さをもった、しかし繊細なものだが、それによって、甘美な旋律に随伴するある種の危うさが、むしろ高い倫理性へと昇華されているかのようだ。コールド・ロゼーでなければできない芸当である。
次にバッハ、二丁のヴァイオリンのための協奏曲である。1910年を最後に、ロゼーにソロの録音はなく、その後のレコーディングはおおむねクァルテットに限られているから、1928年のこのドッペルの収録は、きっと、第二ヴァイオリンを務めた娘のアルマのために行われたのだろう。稀代のヴァイオリニストを父とし、グスタフ・マーラーの妹を母として生を授かった娘も、やはり一級の音楽家に育っていたのである。この曲の、よく知られた古いレコードといえば、たとえばエネスコとメニューインによる師弟の交感であったり、カール・フレッシュとシゲティによる同郷の対決めいたものだったりして、それぞれに面白みがあるのだが、ロゼー父娘によるこの共演は、やはり庇護と自立、つまりいかにも親子らしい対話なのである。アルマの羽ばたきが聞こえてくるようだ。
彼女はその後どのように飛翔したか――残念ながらアルマのレコーディングは、この一曲だけで終わってしまった。もっとも、録音がないというだけで、彼女の音楽的使命感は強く、たとえば1930年代には女性オーケストラを組織して高い水準に育てあげ、欧州各地で旺盛な演奏活動を行っている。また、ナチスの脅威が迫る中、偉大なコンサートマスターである父を亡命させ得たのも、彼女の責任感と行動力があってのことだったらしい。彼女の使命は、個の栄光にではなく、人間を人間たらしめる芸術的空間の創出と存続にこそあった。しかし、その強靭な意志が、かえって災いすることにもなった。1938年、父親とともにイギリスに亡命した後、彼女自身は、周囲の制止を振り切って、自らの使命を果たすべく大陸に戻るのだが、やがて囚われて、強制収容所へと送られたのである。しかし、そこでも彼女は邁進する。女性囚人のオーケストラを鍛え上げ、絶望のビルケナウにあって、なお彼女たちの生存のために奮闘したのであった。
1944年、アルマはアウシュヴィッツで病没した。ユダヤ人たちはむろん、ナチの将校たちも、その死を惜しんで涙したという。彼女は誰を救ったのだろうか。このドッペルは、アルノルト・ロゼーにとって、アルマの無私の生涯の、哀しく温かな記念となったことであろう。
なおこの曲はSP盤五面を要する大曲だが、空いた一面のフィルアップには、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ一番よりアダージョが収められている。ドッペル第三楽章のカデンツァと、1909年に録音されたG線上のアリアとを合わせて、アルノルト・ロゼー独奏による貴重なバッハの記録である。
かくして、ヴァイオリンの本領ともいうべき舞曲とクラシックの継承において、ヴァイオリン演奏史に銘記すべき功労のあったロゼーだが、彼はコンサートマスターとして、ウィーンの伝統に連なる同時代の音楽にも貢献している。殊にウィーンの一時代の指揮者でもあったマーラーは、義弟アルノルトを信頼し、オーケストラの音作りを彼に委ねていた。
ブルーノ・ワルターの指揮による1938年1月16日のライヴ録音は、そのマーラーの大曲、交響曲第九番ニ長調である。それはロゼー亡命の年だ。おそらく、彼の、五十八年になんなんとするウィーンでの音楽人生に対する告別のコンサートとなっただろう。そのヴァイオリン独奏部分はロゼーのものとしてよく知られている。第一楽章の終盤や終楽章、ヴァイオリンの旋律が聴こえてくると、ああ、ロゼーだ、と思う。やっぱりこういう音なのだ。優美な、純度の高い、ストラディヴァリウスの音。
このマーラー最後の交響曲は、作曲家自身の過去の作品からの、あるいはベートーヴェンやワグナーら先達からの引用を多く含みつつ、長大な無時間を構成している。まさに終焉を示唆するかのような「第九」であり、おそらくは「死」という永遠を主題としたひとつの宇宙なのである。ただしその宇宙はどうも形而上学的だ。音楽思想家マーラーの集大成らしいといえばそうだが、かつて舞曲の高度な結晶を実現することで、大地に生きる人間と天上とを媒介していたロゼーの音楽とは、根本において相容れないところがあるように思うのだが、どんなものだろう。
そういえば、クレメンス・クラウスの「アンネン・ポルカ」も、ロゼーの時代のウィーン・フィルではないか。今日の私にとって、あの舞曲はいっそう魅惑的だ。ドラマのない舞曲。音楽も人生も、始まりがあって終わりがあるからドラマが生まれる。旋回する舞曲にそれはない。あるのは永遠の反復であり、それが人生を祝福している。束の間の人生を支え救済する宇宙は永遠の円運動である。「ポルカ」の裏面は「無窮動」であった。いずれにもロゼーのソロはないが、間違いなく、ロゼーが、その身を捧げて、グスタフ・マーラーやフェリックス・ワインガルトナー、あるいはクレメンス・クラウスらと創り上げてきた、ウィーンのオーケストラの精髄であり、ウィーンの、止むことのない伝統である。
注)
アルノルト・ロゼー……Arnold Rosé1863-1946 本名アルノルト・ヨセフ・ローゼンバウム。ルーマニア・ヤシ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1881年にウィーン宮廷(のち国立)歌劇場管弦楽団およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任し、1938年まで務めた。ただし1902年~1928年の期間はウィーン・フィルのメンバーからは外れており、1925年と26年にゲスト・コンサートマスターを務めたのみである。妻ユスティーネは、ウィーン宮廷歌劇場総監督グスタフ・マーラーGustav Mahler1860-1911の妹。娘のアルマAlma1906-1944の名はマーラーの妻の名前である。なお、アルノルトの弟も、マーラーの妹と結婚している。
クレメンス・クラウス……Clemens Krauss1893-1954 オーストリア・ウィーン出身。1929年ウィーン国立歌劇場音楽監督、翌年ウィーン・フィル常任指揮者。1934年に失脚するが、1944年大戦末期のウィーンに戻りフィル・ハーモニーと行動をともにした。
イザイ……Eugène Ysaÿe 1858-1931 ベルギー・リエージュ出身のヴァイオリニスト。
クライスラー……Fritz Kreisler1875-1962 オーストリア・ウィーン出身のヴァイオリニスト。ウィーン・フィルの入団試験を受けたが、「音楽的に粗野」「初見演奏不十分」として、他でもない、ロゼーに失格させられた。自分の地位を脅かしかねない逸材をロゼーが恐れた、という見方もあるが、やはり、音色もヴィブラートも、当時のフィルハーモニーに合っていなかったのだと思う。
エネスコ……George Enescu1881-1955 ルーマニア・リヴェニ出身の作曲家、ヴァイオリニスト、ピアニスト。最初に学んだのは、ロゼーの故郷ヤシの音楽学校であった。
メニューイン……Yehudi Menuhin1916-1999 アメリカ・ニューヨーク出身のヴァイオリニスト。
カール・フレッシュ……Carl Flesch1873-1944 ハンガリー・モション出身のヴァイオリニスト。きわめて多くの、かつ多様な逸材を育てたプロフェッサー。
シゲティ……Joseph Szigeti1892-1973 ハンガリー・ブダペスト出身のヴァイオリニスト。
無窮動……常動曲。ペルペトゥム・モビレ。モト・ペルペトゥオ。一定の旋律が無限に反復される音楽。
ワインガルトナー……Felix Weingartner1863-1942 マーラーの後任として、ウィーン宮廷歌劇場とウィーン・フィルの音楽監督を務めた。
(了)
リヒャルト・ワーグナーに「ベートーヴェン」という演説録があります。今から百五十年前の一八七〇年九月、ベートーヴェンの生誕百年祭に際して行われたものです。もっとも、これは現実に行われた演説ではない。ワーグナーが想像裡に行った架空の演説です。序文によれば、ワーグナーはこの偉大なる作曲家の百年祭に臨席することを切に望んでいたが、自分が出席するにふさわしい機会には恵まれなかった。そこで、この大音楽家のための理想的な祝祭において祝辞を述べるべく招請されたという想定のもと、ベートーヴェンの音楽に関する自らの考えを開陳する、というのです。聴衆のいないこの演説は、そのことによってかえって己の考えをつぶさに述べることを可能とした、かくしてそれは、音楽の本質に深く読者を導くものであるとともに、真摯なる教養人の思索に訴え、音楽哲学に寄与するものとなるだろう、そして時あたかも普仏戦争勃発に沸き立つ我が国民に対し、ドイツ精神の真髄に深く触れせしめる機縁とならんことを欲す――。いかにもニーチェが言った、「大きな壁と大胆な壁画を愛する」この芸術家らしい着想、序文です。
ベートーヴェンの生誕二百五十年の誕生月にあたる今日、この作曲家についてお話しするにあたって、私にはワーグナーのような大それた目論見はありません。ただこの二〇二〇年という年は、ドイツ国民のみならず世界中の人々が未曾有の苦難と忍従を強いられた一年でもあった。それは今もなお続いています。そのような苦難と忍従の年が、またベートーヴェンの誕生を祝う節目の年でもあるという事実は、決して偶然とは思えないものがあります。そしてそのような年の最後に、この作曲家について考え、その音楽に触れようとすることは、単なる音楽鑑賞を超えた意味を我々にもたらしてくれるように思われるのです。
確かにベートーヴェンの音楽には、意味がある。あるいは音楽とは意味があるものだという事実を、音楽家としてはじめて自覚的に、かつもっとも高い次元において証明したのがベートーヴェンだと言ってもいいでしょう。ワーグナーの演説は晦渋かつ高踏なもので、彼がベートーヴェンという天才に見出し讃えた「ドイツ精神」は、必ずしも万人の共感を得るものではなかったかもしれない。しかしベートーヴェンの音楽について考えることは、ただ音楽の本質に触れたり音楽哲学の思索に耽るというだけのことではない、人間精神のもっとも肝心な部分に触れ、人が生きることの意味と難しさに直面することでもあるという点において、ワーグナーがこの音楽家に託したものの大きさはよく理解できる気がします。
とはいえ、バイロイトの老魔術師のように大風呂敷を広げるわけにはいきません。今日は、ベートーヴェンの音楽に対して言われた一つの言葉をめぐってお話ししようと思います。それは、この作曲家の晩年の音楽について小林秀雄が語った言葉なのですが、あるとき、彼は当時「新潮」編集長だった坂本忠雄さんに、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎だ」と言ったというのです。この話は、高橋英夫氏の「疾走するモーツァルト」という本の終章に、坂本さん(本文中ではS氏)との対話という形で登場します。高橋氏は、「早来迎」という言葉は初めて聞いたと言い、この言葉によって小林秀雄が何を言おうとしたのかについては直接には論じていません。私はこの話を坂本さんに直接伺ってみたことがありますが、小林秀雄はただそう言っただけで、他には何も説明しなかったそうです。
「早来迎」とは、「新纂浄土宗大辞典」によれば、「仏・菩薩が迅速なスピード感をもって来迎する様」を言うが、通常は、浄土宗総本山である京都東山の知恩院が所蔵する「阿弥陀二十五菩薩来迎図」の通称です。小林秀雄は、間違いなくこの知恩院の「早来迎」を思い浮かべて言ったものと私には思われる。そして彼が聞いた「ベートーヴェンの晩年の作品」とは、高橋氏も指摘しているように、後期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏を指していることは疑いないが、小林秀雄が晩年のベートーヴェンに見た阿弥陀如来と二十五尊の菩薩群は、とりわけ作品一一一の、この作曲家が最後に書いたピアノ・ソナタに現れているように思うのです。
だがその前に、お伝えしておかなければならないことがいくつかある。まずは生前、小林秀雄が書きたくないと語ったベートーヴェン論について、お話しするところから始めましょう。
小林秀雄の音楽論といえば、言うまでもなく「モオツァルト」です。他にも音楽について書いた文章がいくつかありますが、作曲家論としてまとまった批評は、これが唯一のものとなった。ただその「モオツァルト」を発表した後で、彼がベートーヴェンについて書こうと企図していたらしいことが伺える証言があります。昭和三十九年一月に発表された篠田一士との対談(「思索する世界」)で、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」と問われているのです。篠田氏は、小林秀雄とは二度しか会ったことがないと後に回想していますから、「前にお目にかかったとき」とは、その五年前に行われた座談会「小林秀雄氏を囲む一時間」の席だったことになる。その中で、小林秀雄は次のように発言しています。
たとえば、僕の「モーツァルト論」なんてものは、ありゃあ一つの全然文学的音楽論なんですよ。専門的なものはなんにもないんですよ。だから僕がよくもう一つぐらい書いてやろうと思うことがある。たとえば、ベートーヴェンならベートーヴェンをモーツァルトみたいなやり方で書くなら、ある感動が起きてなんかチャンスがあったら、割合やさしく書ける見込はあるが、そんなことはしたくない。僕が今度音楽を書くならもっと専門的なものを書きますよ。それには勉強が要る。これは音楽の専門的な知識が要りますよ。その知識を得て暇があったら書きたいと思いますが、二度とああいうものは繰返したくない。
活字化された記録を読むかぎり、「ベートーベンのことをこんど書く」というよりは、音楽についてもう一度書くなら「モオツァルト」のようなやり方では書きたくない、というのが彼の一番言いたかったところでしょう。同様の趣旨のことは、同じ年に発表された「小林秀雄とのある午後」という座談会でも言われており、後の対談でベートーヴェン論について問われたときも、自分の音楽評というのは「音楽の文学批評」であり、それならできるが、それはやりたくなくなったと答えています。
では、彼がもうやりたくなくなったと語った「文学的音楽論」あるいは「音楽の文学批評」とは何かといえば、それは、それまで彼が書いてきた文学論や文学批評、たとえばドストエフスキーについての批評とは異なる特殊な批評を指していたわけではありません。右に引用した座談会での発言は、文学を対象とした批評と音楽を対象とした批評の違いについて問われたことに対する返答なのですが、結局そこには本質的な違いはないというのが彼の考えなのです。「思索する世界」では、音楽を批評しても絵画を批評しても、結局そこから自分がもらうのは「文学的イメージ」であり、それは結局、音楽や絵を素材とした文学である、と彼は言います。そして次のように語るのですが、これは、文芸批評家と呼ばれながら文学以外を批評対象とすることが多かった小林秀雄の発言として大変重要なものだと思います。
たとえば音楽は非常におもしろいですけれどもね、それ言葉にするほうがもっとおもしろいんですね、ぼくには。たとえば絵も、ずいぶん見ますよ。見ている間は、決して言葉は語らないんですよ、絵は。音もそうです。それで、絵に対する批評とか、音楽に対する批評を読むでしょう。
そうすると言葉が見つかるんです。それが逆に、私の見た絵の言葉を語らない印象に帰ってくるんです。そこで、その言葉がかわるんです、言葉のイメージが、自分のものに。そういう経験を僕は実によくするんですよ。
これはどういうことなのかなと考えたことあるんですけどね、けっきょく私は言葉がおもしろいんですよ。
言葉はいつでも、そういうある沈黙から生れてくるんです。
ある時、セザンヌの自画像を見た感動について書いたエッセイで、彼は、「いい絵だと感じて了えば、もう絵から離れたい。離れてあれこれと言葉が捕えたい、文学者の習性というものは仕方のないものだ」とも書いていますが(「セザンヌの自画像」)、「けっきょく私は言葉がおもしろい」というそのことが、戦後、「モオツァルト」から「ゴッホの手紙」を経て「近代絵画」を執筆していた間も、彼の中で一貫して変わらぬものであったということは決して忘れてはならないのです。小林秀雄はこの時期、美の世界に遊んでいたわけではないし、「近代絵画」を終えてから言葉への回帰が始まったということでもなかった。また戦争中、文壇を離れて骨董の世界に熱中していたことについて、「文学とは絶縁し、文学から失脚した」と坂口安吾に批判されたことがありましたが、その安吾の「教祖の文学」と同じ月に発表された座談会で、彼は、骨董という美の世界は近代文学という一種の病気に気づかせてくれた、それは文学的観念を追い出す体操、訓練のようなものだが、しかし結局それもすべて文学のためなのだと明言しています(「旧文學界同人との対話」)。
絵や音楽の批評を読んで見つかる言葉が、自分が見たり聞いたりした絵や音楽の無言の印象に帰ってくる、そこでその言葉のイメージが自分のものにかわると言われているのも、実に興味深い。実際、彼の批評文を読んでいると、明示的なものであれ暗示的なものであれ、そういう経験に随所で遭遇しますし、そのもっとも典型的な例が、アンリ・ゲオンの「tristesse allante(駆けめぐる悲しさ)」という言葉を受けて書かれた、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」というあの一節でしょう。小林秀雄はこのゲオンの言葉を読んだ時、自分の感じを一と言で言われたように思い驚いたと書いていますが、「かなしさは疾走する」という彼の言葉のイメージは、ゲオンの「tristesse allante」のイメージそのものではない、ましてやその誤訳などではありません。「tristesse allante」というゲオンの言葉が、小林秀雄自身の無言のモーツァルト経験に帰ってくることで、彼の言葉のイメージにかわったもの、つまり沈黙していた「自分の感じ」を彼が自らつかんだということなのです。
小林秀雄にとって、「言葉はいつでも、そういうある沈黙から生れてくる」ものであった。右の対談では、その「沈黙」を「ポエジー」とも言い、さらに「イデー」と言い換えています。その「イデー」は、ドストエフスキーにもモーツァルトにもある。けれどもそれは、「ある姿をした、形をした思想」ではない、とも彼は言います。「ある姿をした、形をした思想」とは、概念化され、イデオロギーと化した思想という意味でしょう。そして本居宣長や荻生徂徠の方法の矛盾を分析的に衝こうとする世の批評を批判しながら、イデーをつかんでいればそこには何の矛盾もない、それは彼らの生活のしぶりや、一生を暮らした足取り、そういうものから浮かぶもので、宣長や徂徠を言わば一人の詩人として捉え、「詩人としてのイデー」から入る道だという。この「詩人としてのイデー」から入る道こそ、この対談の翌年から連載開始する「本居宣長」で、彼が辿って行った道でありました。
さて、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」と篠田一士に問われ、「音楽の文学批評」ならできるが、それはやりたくなくなったと答えているのは、この「詩人としてのイデー」の話題の後です。つまり「モオツァルト」という「音楽の文学批評」においても、小林秀雄は「詩人としてのイデー」から入る道を選んだのです。彼はまた、あれは「モオツァルトという人間論」だと語ったこともありますが(坂口安吾との対談「伝統と反逆」)、これも同じことを言った言葉と受け取って差し支えないでしょう。しかしその彼の批評の方法は、戦前のドストエフスキー論から晩年の「本居宣長」に至るまで一貫して変わらぬものでもあった。とすれば、ベートーヴェンではそれはもうやりたくなくなったというのは、「詩人としてのイデー」から入るという彼の方法そのものの否定ではなかったことになります。篠田氏に「やっぱりつまらない?」と聞かれ、「ええ。二度やるのはね」と彼は応じていますが、小林秀雄という批評家は、生涯を通じてそれを何度も繰り返し続けた人なのです。
たとえば彼の絵画批評はどうであったか。「モオツァルト」の発表後、足掛け五年取り組んだ「ゴッホの手紙」を上梓した後、彼は「文学的絵画論」「絵画の文学批評」ならできるが、それはもうやりたくなくなったと言ってもよかったはずです。ところがその後も「近代絵画」において、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルノアール、ドガ、ピカソという七人の画家を四年間かけて取り上げた。その単行本のリーフレットに、この本は専門的な研究ではなく、自分に興味があったのは「近代の一流の画家達の演じた人間劇」だと、「モオツァルト」を振り返ったときとまったく同じことを書いています。これらの絵画論においても、彼はひたすら「詩人としてのイデー」から入る道を歩み続けたのである。晩年においては、彼はルオーの「人間劇」を描きたいとも考えていた。
その小林秀雄が、音楽については「モオツァルト」の他は数篇のエッセイがあるだけで、薄い文庫本一冊に収まってしまうくらいの作品しか残さなかった。あれだけ音楽が好きで、小林家に音楽が鳴らない日は一日もなかったといわれる彼が、文学や絵画よりも音楽への関心と情熱が劣っていたということは考えられない。また、ベートーヴェンという作曲家に対する彼の敬愛の念が、モーツァルトに対するそれに勝るとも劣らぬものであったことは、彼の文章にしばしば登場するこの作曲家への言及の熱量を見れば明らかです。「モオツァルト」の中には、モーツァルトについて書いているのかベートーヴェンの話なのか区別がつかないようなくだりがいくつかありますし、「小林秀雄とのある午後」では、出席者の一人が、「モオツァルト」は戦前のモーツァルトに対する誤解を解いた、モーツァルト以外のことでいいからまた書いてほしいと言うと、彼は、誤解といえばベートーヴェンにも誤解があるといって、ベートーヴェンの話を真っ先に始めるのです。
小林秀雄のベートーヴェンへの思いが、一瞬ではあるがもっとも先鋭的な形で露わになったと思われるのは、六十五歳になる年に五味康祐と行った「音楽談義」という対談での一こまです。「天才と才能家との違い」をめぐって、シューベルトとチャイコフスキー、シューマンとショパン、シベリウスとグリーグを対比しながら語り進めていく中で、話がドビュッシーに触れると、彼は、自分はドビュッシーは好きだがと断った上で、しかしあれは「地方人」だ、パリにいたからパリの踊りになったかもしれないが、まあそんなものだねと吐き捨てるように言う場面があります。そして唐突に、ベートーヴェンがなんでベルリンの踊りですか! と怒鳴りつけるように切り返し、「そういうことですよ、私が言いたいのは」と強い語調で訴えるのです。
小林秀雄は、ドビュッシーの音楽を学生の頃から非常に好きで、今日に至るまで折に触れては聞いて来ていよいよ心惹かれると、五十七歳の年に発表したエッセイ(「ペレアスとメリザンド」)に書いています。しかもその音楽に感動し、この作曲家の評論集「ムッシュー・クロッシュ・アンティディレッタント」を翻訳したのは、ランボーの詩に感動してランボー論を書いたのと同じ頃だったという。つまり、彼の文学的青春を決定付けた「事件」(「ランボオ Ⅲ」)と同列の経験として、ドビュッシーの「影像」や「版画」を回想しているのです。そのドビュッシーを「地方人」と言い捨てるというのは、余程のことです。無論、それ自体は酒も入った上での放言に過ぎないでしょうが、ドビュッシーに対してさえそう放言させてしまうものが、彼のベートーヴェンに対する思いにはあったということは確かでしょう。
その「ベートーベンのこと」をこんど書くと言ったという「小林秀雄氏を囲む一時間」は、昭和三十四年十月に発表されたものです。ただし、小林秀雄が亡くなったときの篠田一士の追悼文(「想望・小林秀雄」)によれば、この座談会が掲載された季刊誌「批評」は発行が遅れに遅れたため、実際に座談会が行われたのは前年の十一月あたりのことだったといいます。この事実も、小林秀雄の年譜の上で見ると看過できないものがあります。その年の二月、「近代絵画」の連載を終え、四月に単行本として刊行すると、彼は「急に音楽が恋しくなった」といって、「モオツァルト」の発表以後十年余り中断していたレコード生活を再開します。そのことは、その年九月に発表された「蓄音機」というエッセイに書かれていますが、彼はまず友人に頼んでオーディオ・セットを組んでもらい、生まれてはじめてLPレコードを買いに銀座へ出かけます。そこで彼が店員に注文したのは、「ラズモフスキー・セット」と呼ばれる、壮年期のベートーヴェンが書いた三曲の弦楽四重奏のレコードでした。そしてこのエッセイの最後のところで、「近頃、ベエトオヴェンが又非常に面白くなっている」と書き、今度は晩年のカルテットである作品一三三の「大フーガ」に触れながら、「伝説の衣が、はがれて、直かに音だけが聞えて来るのに、随分手間がかかったものだ」と吐露しているのです。「ベートーベンのことをこんど書く」という彼の発言は、その二ヶ月ほど後の言葉だったということになります。
篠田氏の回想によれば、この座談会の場で、本題である「批評とは何か」の話が終わると、「ところで君たち音楽なんか、きくのかい」と口火を切ったのは小林秀雄の方だったといいます。座談会の記録には残っていませんが、彼は、つい先だって聴いてきたばかりのドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の日本初演の感想を熱っぽく語り(この公演は昭和三十三年十一月二十六日から十二月九日にかけて行われ、その感想は翌年一月、先にも触れた「ペレアスとメリザンド」として発表されました)、また発売されたばかりのルドルフ・ゼルキンのディアベリ変奏曲のレコードを話題にし、この演奏はすごい、ゼルキンはすばらしいピアニストだと、しきりに感嘆の言葉を口にしたそうです。そしてこのベートーヴェン晩年のピアノ音楽の話題が出たことをきっかけに、篠田氏は小林秀雄に、「『ベートーヴェン』は、いつ、お書きになるのですか」と尋ねたといいます。というのも、この座談会よりもかなり以前から、「モオツァルト」のあとには「ベートーヴェン」が書かれるという風説が、事情通を自認する人々の間で流布されていたからだというのです。
「モオツァルト」のあとには「ベエトオヴェン(彼はいつもこう表記しました)」が書かれるというその風説は、小林秀雄のベートーヴェン論を待望する愛読者の期待によって多少は増幅されていたかもしれないが、火のないところに立った煙ではなかったでしょう。また五年後の対談で、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」とあらためて篠田一士が問うたのも、実際に言ったか言わなかったかという問題よりも、最初の座談会でベートーヴェンについて語る小林秀雄に、その気配を強く感じたからだったに違いありません。いずれにせよ、小林秀雄が音楽について、「僕がよくもう一つぐらい書いてやろうと思うことがある」と言ったのは、実際そう思ったことが何度もあったからだったに相違なく、もし書くとしたら、その対象としてベートーヴェンが筆頭に上がっただろうことは想像に難くないのです。
ちなみに鎌倉雪ノ下の旧小林秀雄邸に今も残されているテレフンケン社製のオーディオ・コンソールは、その座談会が発表された昭和三十四年の秋に、小林秀雄が自分で見つけて購入したものです。いったん往年のレコード熱に火が付いたら、最初に組み立ててもらった自作のオーディオでは満足できなくなったのでしょう。オーディオ・マニアでもある五味康祐の指南もあって、彼はこのドイツのメーカーを知り、たまたま百貨店でやっていた展示会に出掛けて行って買ったのだそうです。ステレオ・レコードが発売され始めたのは前年の秋、「ベートーベンのことをこんど書く」と彼が言ったちょうどその頃のことでありました。当時としては最新だったステレオ装置と、「モオツァルト」を書いていた頃に聞いていたSPレコードとは比較にならぬ音質で、彼はベートーヴェンのシンフォニーを、カルテットを、ソナタを、片っ端から聞き直していたに違いありません。
(つづく)
※以上は、二〇二〇年十二月、小林秀雄とベートーヴェンについて行った講話をもとに新たに書き起したものです。
俺は 傷であって また 短刀だ。
俺は 撲る掌であり、撲られる頬だ。
俺は 車裂きにされる手足で、また裂く車だ。
犠牲であって 首斬役人だ。
俺は自分の心臓の吸血鬼、
――永遠の笑いの刑に処せられて、
しかも微笑することも最早出来ない
あの偉大な見棄てられた人たちの中の一人だ!
シャルル・ボードレール『悪の華』より
「我とわが身を罰する者」(*1)
1954(昭和29)年、52歳の時、小林秀雄先生は、次のように述懐している。
「僕も詩は好きだったから、高等学校時代、『悪の華』はボロボロになるまで愛読したものである。……私がボオドレエルに惹かれ、非常に影響されたのは、彼の批評精神であった。詩作という行為の人格的必然性に関する心労と自覚であった。『詩人が批評家を蔵しないという事は不可能である』という苦しい明識であった。その意味で、彼の著作を読んだという事は、私の生涯で決定的な事件であったと思っている」。(「ボオドレエルと私」(*2))
批評家小林秀雄の人生は、批評家たる詩人ボードレールとともにあった、と断言しても言い過ぎにはならないだろう。
*
小林先生による「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)は、「近代の一流の画家達の演じた『人間劇』」だ(*3)。ところが、その冒頭に登場するのは、画家ではなく、詩人ボードレールなのである。もちろんその事情については、本文で丁寧に説明されており、ここではその概要のみ記しておきたい。
ボードレールは、当時文学界に君臨していた浪漫派の巨匠ユーゴー(*4)から脱出する道を、作曲家ワーグナー(*5)の大管弦楽に見つけた。音楽の世界では、ピアノを始めとする楽器の発明改良とそこから生まれた表現形式(例えばソナタ形式)のおかげで、個人の発見、自覚、内省が進んだために複雑化した意識、より複雑な自己を表現することが可能になった。このことを、ボードレールはワーグナーの音楽から直覚、驚嘆し、そこに「管弦楽器の大建築を見た」(*6)のである。
以上は、楽音という素材の性質に由来するものだが、言葉という素材について言えば、「日常言語の世界という、驚くほど無秩序な素材の世界」の中で、詩は「詩でないものに顚落する危険を自ら蔵している」(同)ことにボードレールは気付いた。浪漫派の詩人達は、自己の告白を散文という形式、つまり小説で書き出した。この自由な散文形式への逸脱こそ、彼が直観した危機であった。
そこでボードレールは、「詩から詩でないものを出来るだけ排除しよう」とした。つまり、「詩には本来、詩に固有な魅力というものがある筈で、この定義し難い魅力を成立させる為の言葉の諸条件を極め」た。「詩は、何かを、或る対象を或る主題を詩的に表現するという様なものではない、詩は単に詩であれば足りる」、そういう確信のもと言葉を厳密に編み上げる、すなわち、「日常言語のうちに、詩的言語を定立し、これを組織」(同)したのである。
しかし、彼の直覚は、そこに留まらなかった。画壇の世界においても、同様に主題や対象の強制から逃れ、画面上の色彩の調和に精魂を込める、先駆的な画家の感覚をも直知した。換言すれば、絵画の自主性或は独立性を創出せんとする画家の烈しい工夫に眼を向けた。その代表こそ敬愛するドラクロア(*7)であり、ボードレールは、そのような「絵画の近代性に関する予言的な洞察」、すなわち「絵画は絵画であれば足りるという明瞭な意識を持って、絵に対した最初の絵画批評家」になったと、小林先生は評しているのである。
ここで、そんなボードレールの肉声を、ドラクロア論の中から引いておこう。
「ドラクロワが何ぴとよりもよく訳出して、我が十九世紀に栄光を与えたという、その何かしら神秘なものとは一体何か? と貴下は問わるるに違いない。それは、眼に見えぬものであり、手に触れ得ぬものであり、夢であり、神経であり、魂である。そして彼は――これに御注意を願いたいが――ただ輪郭と色彩以外の他の手段を用いずしてこれを遂行した。何ぴとよりもよく遂行した。備わざるなき画家の完璧を以って、繊細な文学者の厳密を以って、情熱的な音楽家の雄弁を以って、これを遂行したのである」(「ユージェーヌ・ドラクロワの創作と生涯」(*8))。
*
それでは、「近代絵画」に登場する画家は、ボードレールを、彼の絵画批評を、どのように受け留めていたのだろうか。
小林先生は、セザンヌ論のなかで、「セザンヌがボードレールを尊敬していた事も間違いはないだろう」という前提で、このように書いている。
「ボードレールに、『腐肉』という有名な詩があるが、セザンヌは、この詩を好み、晩年に至っても、一語も間違いなく暗誦していた、という話――この話はヴォラール(*9)の『セザンヌ』の中にある話で、ヴォラールがヴェルレーヌ(*10)の事をセザンヌに再三訊ねたが、セザンヌはこれに答えず、いきなり『腐肉』を歌って聞かせ、『ボードレールは強いのだ。彼の絵画論は実にあきれたものだ。ちっとも間違いがない』と言ったと言う……」。
小林先生自身も、セザンヌ論のなかで、マドリッドのプラド美術館にあるヴェラスケス(*11)の「ラス・メニナス」を観て味わった「実に深い感動」について、「色彩による調和の極限という強い静かな感じ」があり、「為に、主題は圧倒されていたのだと言ってもいい」と表現し、「いや、私は、殆どセザンヌの色調さえ見る想いがした」と述懐している。
先生はセザンヌやヴェラスケスの画に、「絵画は絵画であれば足りる」という精神を見抜いていたのであろう。
一方、セザンヌとは逆に、ボードレールをあまり評価していなかったように見えるのが、ゴッホである。
小林先生は、「ゴッホの手紙」(*12)のなかで、自身の絵について文学者の判断を極端に嫌ったドガの話に続けて、同様に文学者に対して気難しい画家として、ゴッホが友人のベルナール(*13)に宛てた手紙を引いている。
「ああ、レンブラント――ボオドレエルの偉さは偉さとして、特にあの詩に就いて、僕は敢えて言うのだが(恐らく《悪の華》の中の《燈台》を指すと思われる――小林)、ボオドレエルは、レンブラントについて、殆ど全く無智である。……だが、君、君はルーヴルにある《牛》と《牛肉屋の内部》をよく見た事があるか。君はよく見てやしないのだ。ボオドレエルと来たら、もっともっと見てやしない」。(現行番号B12)
ところがその直後、先生は、こう続けるのである。
「ボオドレエルが見ていないわけはないだろうが、画家は見るという事に関して、独特の秘教を信じているものだ。そして意識家ほど、自分の裡に言うに言われぬものがあるという意識に苦しみ、その苦しみによって、言うに言われぬものを、言わば不本意乍ら深化して了うものである。ゴッホは、自分の中にいるボオドレエルと戦う」。(傍点筆者)
加えて、「告白文学の傑作」と称するゴッホの書簡を引きながら、「……彼には告白というものしか出来ない。要するにこういう事だ。この画家は、働く手を休めると、自分の裡にじっと坐っている憂鬱な詩人の眼に出会わなければならない」(同)と綴っている。
小林先生の言うように、ボードレールは、決して「見ていない」人ではなかった。
先生の大学時代の恩師、辰野隆氏の論考「ボオドレエル研究序説」(*14)によれば、彼は、「中流の家庭に少年時代を送り、夙に父を失い、母の再婚から第二の父と争い、文藝に耽って、行に節度が無く、青年時代の放蕩の為に節度を害い、四十代で命を卒った」。氏は、そういう略伝について、「外部から観察して寧ろ平凡であるにも拘わらず、内部から考察する時、初めて近代的悲劇となって吾等の心を打つのである。一個の魂が過度に鋭敏な感性のために苦しみ、理想の熾烈な憧憬に悩み、残酷な自己批判の意識に苛まれている」とし、「少年時代から既に孤独感に悩んでいた聡慧なボオドレエルが、夙に人心の分析家として、自己凝視の習癖を高度に有していたのは毫も怪しむに足らない。常に見る『我』と、見らるる『我』との対立は、享楽し苦悩するボオドレエルの傍に、それを観察し批評するボオドレエルを佇立せしめたのである」(以上、傍点筆者)と述べている。
ボードレールは、むしろよく見る人であり、その眼差しは、外部のみならず、自身の内面深くにまで向けられていたのである。
――そうして、太鼓も音楽もない、柩車の長い連続が
わが魂の中を しずしずと行列する。希望は、
破れて、泣いている。残忍な、暴虐な苦悶は
わがうなだれた頭蓋骨の上に 真黒な弔旗を立てる。
「憂鬱 Spleen」(「悪の華」(*1)より)
*
ゴッホを語るに際し、小林先生が「一番大事なこと」と繰り返しているのが、彼が、自身の病気について「非常に鋭い病識」を持っていたということである。先生は、「鋭敏な精神病医の様に、常に、自身の病気の兆候を観察していた病人だった」(「ゴッホの病気」)(*15)として、そのことは彼の書簡集が証明しており、それは「仮借のない自己批判の連続であって、告白文学と見ても、比類のないものである。又、彼は、四十点を越える自画像を遺しています。短い期間にこれほど沢山自画像を描いた画家は、他にはありますまい。病的という言葉が使いたいのなら、病的に鋭い自己批評家であった、と言ってもよい」(傍点筆者)と述べている。
そこで取り上げられるのが、ゴーガン(*16)との間に起きた「あの周知の不幸な事件」の直後、1889年1月にアルルで描かれた自画像「耳を切った男」である。その、ゴッホが耳を繃帯した自画像を描くさまを、先生はこのように描写している。
「ここに、世にも奇妙な人間がいる。自身でも世間でもこの男をゴッホと呼んでいるが、よくよく考えれば、これは何んと呼んだらいいのであろう。それは、自我と呼ぶべきものであるか。この得体の知れぬ存在、普通の意味での理性も意識もその一部をなすに過ぎない、この不思議な実体を、ゴッホは、何も彼も忘れて眺める。見て、見て、見抜く。見抜いたところが線となり色となり、線や色が又見抜かれる」。
その時、彼の頭の中に、世間が見ている「ゴッホ」という主題なぞ皆無であったし、彼自身が、「ゴッホ」と名のついた人物というよりも、「ゴッホという精神」そのものと化していたように思われる。
同年5月、ゴッホはサン=レミの精神病院に転院する。7月中旬、石切り場入口での製作中に起きた発作以来、中断していた仕事を、「黙した熱狂裡に、憑かれた様に」再開した9月初旬に書かれた手紙から、小林先生が引いているゴッホの肉声を聴こう。
「仕事はうまく行っている、身体の具合が悪くなる数日前に始めた一つのカンヴァスと、今、悪戦苦闘している。《刈入れ》という全部黄色の習作だ。恐ろしく厚く描かれているが、主題は美しく単純なのである。暑熱の唯中で、仕事をやり上げようと悪魔の様に戦っている一人の判然としない人間の姿、この刈る人に、僕は、死の影像を見ている、と言うのは、人間共は、こいつが刈っている麦かも知れぬという意味でだ。今度のは以前に試みた麦刈りの真反対だと言いたければ言ってもいいが、この死には悲しいものは少しもないのだ。あらゆるものの上に純金の光を漲らす太陽とともに、死は、白昼、己れの道を進んで行くのだ。……」(No604、傍点筆者)(*12)
この習作は、病院の鉄格子越しに眺めた、熟れた麦畑を描いたものである。
「さあ、《刈入れ》が出来上った。……自然という偉大な本の語る死の影像だ、だが僕が描こうとしてたのは殆ど微笑している死だ。紫色の岡の線を除いては、凡てが黄色だ、薄い明るい黄色だ。獄房の鉄格子越しに、こんな具合に景色が眺められるとは、われ乍ら妙な事だよ。……」(同)
彼にとって、病室は「獄房」であり、自身は一個の囚人であった。
小林先生は、「ゴッホの手紙」を、「黒い鳥の群がる麦畠の絵」(*17)の複製を美術館で見て、「その前にしゃがみ込んで了った」場面から書き始めていることは周知の通りである。しかし、終盤になって、その画が彼の絶筆であるかどうかを詮議するよりも、ゴッホが前述の習作を描くなかで、「熟れた麦畠を眺め、『純金の光を漲らす太陽の下に、白昼、死は己れの道を進んで行く』のを見てとっていた事を思い出した方がよかろう」(原文ママ)と述べて、話は終幕へと向かう……
*
ここまで辿ってきたように、小林秀雄先生にとって、ゴッホという人間は、研ぎ澄まされた自己意識により、自らの裡に在る、言うに言われぬものを深化させる「鋭い自己批評家」であり、且つ比類のない告白文学たる書簡を綴った詩人であった。また同時に、そのような心眼で、見て、見て、見抜いたところを、デッサンや色彩に昇華する画家であった。
今、それを言い換えるならば、自らの肉体のなかの「ボードレール」と、共存しつつも最期の瞬間まで戦い続け、終にわが身を使い果した、「我とわが身を罰する者(L’Héautontimorouménos)」と見えていたのではなかったか。
(*1)「悪の華」(鈴木信太郎訳、岩波文庫)
(*2)新潮社刊「小林秀雄全作品」第22集所収
(*3)「『近代絵画』著者の言葉」、同
(*4)Victor Hugo、フランスの詩人、小説家、劇作家、1802-1885、フランス文学史上屈指の詩人とされている。
(*5)Richard Wagner、ドイツの作曲家、1813-1883
(*6)「表現について」、同第18集所収
(*7)Eugène Delacroix、フランスの画家、1798-1863
(*8)ボードレール「ボードレール芸術論」(佐藤正彰、中島健蔵訳、角川文庫)、
「ロマン派芸術」からの採録
(*9)Ambroise Vollard、フランスの画商、1868(1866とも)-1939
(*10)Paul Verlaine、フランスの詩人、1844-1896
(*11)Diego Velázquez、スペインの画家、1599-1660
(*12)新潮社刊「小林秀雄全作品」第20集所収
(*13)Émile Bernard、フランスの画家1868-1941
(*14)辰野隆氏は、フランス文学者。日本のフランス文学研究の基礎を築いた。「ボオドレエル研究序説」は、氏の博士論文。1929年、第一書房刊。1888-1964。
(*15)新潮社刊「小林秀雄全作品」第22集所収
(*16)Paul Gauguin、フランスの画家、1848-1903
(*17)「烏のいる麦畑」。1890年作。この複製画は、小林先生の自宅に長く掲げられていた。
【参考文献】
「ファン・ゴッホの手紙」二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房
(了)
雑草で埋め尽くされた庭に一目惚れして、二○一九年の秋から今の家に住み始めて一年が過ぎた。初めて見たのは夏の終わりで、野山さながらの植生の多様さから、周りの家と違って一度も宅地造成されておらず、土が入れ替えられていないことが見てとれた。八十を越えている隣家の大家さんにも築年数がわからないほど、家自体も古いという。庭に入ると、靴底に踏みしだかれてドクダミの香りがつんと立つ。目立つのは野生化した青紫蘇の群生と、隅で枝垂れている萩。ドクダミの合間から、タンポポやスベリヒユ、カタバミといった野草がのぞいている。この肥沃な土なら何でも育つだろう。数年前から野草や微生物、自然農法についての本を好んで読むようになっていた背景には、食べられる植物を、手間もお金もかけずに育ててみたいという好奇心があった。
引っ越しのてんやわんやが落ち着き、冬を迎えて一切が枯れた土に、生ごみを肥料として施していった。あらゆる有機物を埋めていたので、土に還る速度の違いが徐々にわかってくる。魚のあらや鶏のガラを埋めた翌朝は、たいてい小動物が掘り返した穴が空いていて、土に還り難い貝殻や玉ねぎの皮、卵の殻などが周囲に散らばっていた。おそらく狸か野良猫の仕業だろう。人間が匂いを感じない程度に深く、丹念に土と混ぜ合わせて埋めても、彼らの鼻をごまかすには足りない。目が覚めてすぐ庭へ行き、元気のいい仕事の跡を見るのが楽しみになってきた頃、春は目前となっていた。
周知のように、二○二〇年の春は穏やかには訪れなかった。新型コロナウィルスの流行で外出がままならない中、ささやかなレジャーとして近所の山や海を散歩がてら、ムラサキハナナやノビル、ハマダイコンといった美味しい野草を持ち帰り、庭に植えた。野草なら土さえ合えば植えっぱなしでいいので、手間もお金もかからない。しかしどんどん欲が出てきて、花屋や市場を覗いては、ミント、パセリ、コリアンダー、ルッコラ、バジル、レモンバーム、フェンネルといったハーブ類を手当たり次第買って植えた。ハーブは店で買うと量に比して高価だが苗は安価だし、一度植えればどんどん増えて使い放題という目算だ。借家なので木はだめ、と言われていたがひとつだけ、こっそり山椒の苗木も植えてみた。ある料理本によると、流通を経たものとは違い、採りたてで皮の柔らかい山椒の実は、さっと茹でて塩や醬油に漬けるだけで格別らしいのだ。
意図して植えたものばかりではない。食べきれず古くなった百合根を埋めておいたら、忘れた頃に見事な太い茎が現れ、初夏に鮮やかな橙色の花をいくつもつけた。その百合の茎を支えにして、生ごみとして埋めた豆苗の根からエンドウが育った。蘭のように可憐な赤紫の花をつけたあと、しっかり豆の入った立派な鞘が三つとれた。多様な植物がおのずと生長していく庭の眺めは、移動が制限されている日々の数少ない楽しみだった。
やがて入梅。過去に覚えがないほどの長梅雨が来た。昨年は庭の半分を覆っていた野生の青紫蘇も、時季が来ているのに出てこない。空いている土地を活用しようと、出回りはじめたミニトマト、キュウリ、ズッキーニなどの野菜の苗を植えたばかりだったが、雨を理由に放置していた。注意して見ていないので変化に疎くなる。一週間でも間が空けば気付いたのだろうが、ほぼずっと家にいるので見ない日も無い。ドクダミが蔓延っていたが背丈は伸びず、緑一辺倒の植物たちも私も、熱い日差しを待ち望んでいた。
充分すぎる雨に養われ忍耐強く育った根を基地として、梅雨明けとともに日照権闘争が始まった。野草やハーブが力を失う一方、ミニトマトとズッキーニがいつのまにか大帝国を築き上げていた。栽培種はある程度世話をしないと育たないだろうと予想して油断していたのだが、野生種に負けまいと反発力が働いたのだろうか。他種との共生など考えるはずもなく、ズッキーニは三メートル四方の領土をすべて葉の下に隠し、日陰にしてしまった。切れ込みの多いトマトの葉は日光を独占はしなかったが、それもあくまで我が実の成熟のため。新鮮なトマトをいつもいただけるのはありがたかったが、養分を独り占めするので他の植物が育たない場所になってしまった。競争に負けたキュウリは次の世代に望みを託したのだろう、日陰に一本だけ巨大な青白い実を残して枯れた。多様さを保つためには、やはり手入れをしなければならない。食べられない雑草も繁茂してきたので、重い腰をあげて剪定と除草に取り掛かった。
作業を始めてみると、思いのほか精神的負担が大きく、なかなか進まない。トマトもズッキーニも、もとはといえば私が植えた苗。自らの生を全うしているだけなのに、何の権利があって私は彼らを切り刻むのだろう。雑草だって、たまたま人間に有用でないだけでなぜ命を選別されなければならないのか。手を動かしながら、私は彼らへの言い訳を捻り出した。私だって例外ではないのだ、今まさに未知のウィルスによって無慈悲に命の選別が行われていて、人間はいまだに完全に逃れる手段を持っていない、だから許してくれ、と。卑怯な詭弁だ。私はそんなこと言われても納得などできないし、自分がウィルスで死ぬことになったらきっと「なぜ私が」と思ってしまうだろう。落ち着いて考えれば、店で買う肉や魚や野菜や米だって生きていたのであり、いつだって私は命を奪って食べている。自らの手を汚すまで深く考えたことがなかった私は、理屈をつけて自分を正当化し、罪悪感から逃げようとしていた。
このときのことを考えるうちに、小林秀雄の「本居宣長補記Ⅱ」第三部に引用されている「伊勢二宮さき竹の弁」と題する本居宣長の文章が思い出された。
「そもゝゝ世ノ中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてかなはぬ、無上至極のたふとき宝は、食物也。其故は、まづ人は、命といふ物有て、万ヅの事はあるなり。儒者仏者など、さまゞゝ高上なる理屈を説ども、命なくては、仁義も忠孝も、何の修行も学問も、なすことあたはず。いかなるやむごとなき大事も、命あつてこそおこなふべけれ、命なくては、皆いたづらごと也。然れば人の世に、至りて大切なる物は命なるに、其命をつゞけたもたしむる物は何ぞ、これ食也。金玉など尊しといへども、一日の命をも、保たしむることあたはず、故に世ノ中に無上至極のたふとき宝は、食なりといふ也。此ことわりは、誰もみなよく知れることながら、たゞなほざりに知れるのみにて、これを心によくたもちて、真実に深く知れる人のなきは、いかにぞや。……」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.363 12行目~)
この引用文のあとにある、「食欲は動物にもある、という事は、人間の食べ物についての経験は、食欲だけで、決して完了するものではないという意味だ。では、どういうところで、どういう具合に、人間らしい意識は目覚めるのか。この種の問いに答える為に、『食の恩』と言う言葉ほど簡明的確な言葉が、何処に見附け出せようか。いや、この意識の目覚めと、この言葉の出現とは同じ事だ」という小林秀雄の言葉を読み、恥ずかしくなった。私の「人間らしい意識」は目覚めていないばかりか、「たゞなほざりに知れるのみ」であることに、気がついてすらいなかったのだ。浅薄な罪悪感を超えて「恩」の情が自ずと湧き上がるまで、私には庭の生き物たちとの生活が必要だろう。
結局ズッキーニはまったく食卓に上らなかった。頃合を見計らっているうちに、ダンゴムシに全部食べられてしまったのだ。普段どこに隠れているのか、驚くほどの数がいた。二十センチ以上育った立派な実が十ほどあったが、熟したそばから彼らの食事になり、残ったのは硬くて誰も食べない根本だけ。トマトも例外ではなく、熟す前に青いまま収穫しなければ同じ運命を辿る。一日中庭で過ごす彼らが、おいしいタイミングを見逃すはずがない。
ダンゴムシの食欲にも慄いたが、バッタのほうが数では上だ。生まれたばかりとおぼしき体長数ミリのバッタたちが、葉の上に並んで日光浴している姿を見かけ、和やかな気持ちになっていたのも束の間、環境耐性の強いハーブも、ようやく出てきた青紫蘇の葉も、バッタたちが次々に食べ尽くしてしまう。美食家の彼らは雑草を好まない。山椒の木も、硬い棘で自衛しているからと高を括っていたら、いつのまにか丸裸になっていた。
しかし虫たちは敵ではない。彼らを目当てに様々な生き物が訪れるようになり、庭は豊かさを増していった。メタリックブルーの尾が鮮やかなトカゲや、つぶらな瞳のカナヘビ、半透明の白い体が神々しいヤモリ。私は彼らの姿形がたまらなく好きなので、一瞬でも見かけると一日幸せな気持ちが持続する。小鳥たちもいろいろとやってきたが、こちらの視線を感じるとすぐに飛び去ってしまうので、スズメやツバメ、ガビチョウなどを鳴き声から特定し、遠巻きに見守るようになった。小鳥が留まる物干し竿の下には、彼らが落とす糞に混じってハゼノキやアオキ、クワなどの木が芽吹いた。一列に並んでいるので、このまま育ったら生垣にでもなりそうだ。大きなトンビまでやってくるようになったのは、鎌倉へ来る観光客の減少で、食べ歩きを狙う機会が減ったためかもしれない。
労せずおいしいものを食べたいという動機で始めた庭づくりは、ままならない様々な出来事を経て今、ある程度目的を達した。夏の間姿を消していたノビルは、秋に再び葉を伸ばし、栽培種にはない野性味を堪能させてくれた。青紫蘇も存外たくさん実をつけたので、塩漬けにして熟成させている。一度素っ裸になった山椒の木も、再び小さな葉を二つつけた。死んだように見えても、土の下の見えない部分を拠り所にしぶとく生きていたのだ。夏に刈った雑草たちも、きっとまた力強く芽吹くのだろう。
長年育まれてきた土のように、人間の言語にも、先人達が養ってきた土壌がある。母国語の巨大な組織に蓄積されている力を借りなければ、日常生活は立ち行かない。
「今日口ヲ開キテ言語シ、一生涯ノ用事ヲ弁ズル報恩ノ為ニモ、折々ハ詠ズベキコト也」(「あしわけをぶね 三八」)
(同『小林秀雄全作品』第28集 p.373 13行目~)
言葉の恩に報いるために歌を詠め、と言う宣長のこの一文が、「本居宣長補記Ⅱ」を読むたびに深い印象を残すのだが、なぜなのか未だ言葉にならない。庭の植物たちに倣い、私自身も、次の季節に向けて根の張りなおしを試みたい。
(了)
1 恋の始まり
かつて、ウイスキーのテレビコマーシャルにこういうものがあった。夜の盛り場、会社の飲み会の帰り道、若い男女のグループは二次会へ向かうが、一人の女性が残る。長塚京三演ずる上司であろう中年の男が、君は行かないのかと問うと、「もう若い子はいいんです」。女性は立ち去るが、たった一言で、男はもう昨日までの彼ではない。「恋は、遠い日の花火ではない」とのナレーションが流れる。コマーシャルとはいえ、記憶に残る。言葉によって聞き手の心が動きだす様子を、巧みに描いているからであろうか。
2 言詞をなほざりに思ひすつることなかれ
我々は普段、伝達の手段としての言葉の有効性にばかり関心を寄せる。この気持ちが伝わらないのはなぜか、口下手のせいか、メールの無機質な文字列が誤解を生むのか、などなど。大切なのは伝える内容なのに、手段である言葉が不完全で、うまく伝わらないのだといらだつ。
しかし、宣長さんによればそれは逆さまである。意より詞、すなわち、意味内容ではなくそれを言い表す様子こそ、言語の本質なのだという。例えば、上代の「宣命」とは、「宣聞する事をさしていへる目」であって、「その文を指していふ名」ではなかった。勅命そのものではなく、それを伝える「読揚ざま、音声の巨細長短昂低曲節」こそ重要であったのだ。意より詞が先行するという言語観は、神代「天ノ石屋戸」の頃にまで遡るもので、意を重んじて「言詞をなほざりに思ひすつる」は、漢意、すなわち後世の迷妄に過ぎないと断じる。
意味より表現が先行する。これは我々の日常の通念に反するのではないか。そこで、小林先生に耳を傾ける。
「眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体の事の、多かれ少かれ意識的に制御された文は、すべて広い意味での言語と呼べる事を思うなら、初めに文があったのであり、初めに意味があったのではない」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集第48頁。以下、引用はすべて同全集からである)。
確かにその通りだ。赤ん坊も、単語や文という形式での言葉を知らないが、周囲に何かを訴えようと必死だ。そしてそれは、確かに通じるではないか。大人にとっても、同じことだ。何かを伝えたいと思ったとき、辞書のどこにも、その思いをぴたりと表す言葉などあるはずがない。だからといって、言葉を発しないわけにもいくまい。「日に新たな、生きた言語活動」に身を置き、実際にやり取りをすることによらずして、思いが伝わるはずもない。
なるほど、相手に伝えようとして、赤ん坊のように、懸命に努力するという行為こそが、言葉を発するということなのか。しかし、翻って、そのような、独りよがりかもしれない行為によって相手に思いが伝わるとは、いかなることであろうか。
3 徴として生きている言葉
どんなに言葉を尽くしても思いが伝わらないというもどかしさや、語るべき言葉を見つけられずに呆然とするという体験は、決して稀ではないだろう、しかし、それでも私たちは、何かを語ろうとする。それはおそらく、私たちが、同じ言葉の世界に生きているという確信のようなものを持っているからではないか。小林先生は、こう論ずる。
「この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれの文に担われた意味を、信ずる事に他ならないからである」。(28集49頁)
私の目に映るもの、耳に聞こえるもの、触って感じるもの、これらの感覚は私固有のもので直接に他人と共有はできない。私の身振り手振りも、口調や声色も、自分としては自然な、あるいはやむに已まれぬ、動きなり音声なりであるのだが、そういった内心を他人と共有することはできない。しかし、言葉は、「各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている」。言葉によって、私たちはばらばらにならずに済んでいる。だからこそ、言葉が発せられたとき、その言葉のいいざま、すなわち身振り手振りや口調や声色によって、自他がつながることができる。すなわち、「言葉のそれぞれの文に担われた意味」を信じる事ができるのだ。
そして先生は、こう論ずる。
「更に言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合を認めるなら、この意味合は、表現と理解とが不離な、生きた言語のやりとりの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、錬磨され、成長もするであろう」。(28集49頁)
話しかける、それを受け止め返事をする。こういう言葉のやり取りによって、言葉の意味自体が決まってくる。表現の仕方が違えば、受け止め方も変わり、やりとりの行方も異なるものとなる。このようにして、話し手たちの気持ち自体が形作られていく。言葉は意味を伝える手段ではなく、言葉のやり取りによって、意味が形成される。
それでは、言葉のやり取り自体は、どのようにして始まるのであろうか。
4 人に聞する所、もつとも歌の本義
人はなぜ語りだすのか。宣長さんの答えは端的である。「すべて心にふかく感ずる事は、人にいいきかせではやみがたき物」であり、「さていひきかせたりとても、人にも我にも何の益もあらね共、いはではやみがたきは自然の事」であるというものだ(28集49頁)。
小林先生は、「そういう言語に本来内在している純粋な表現力が、私達に、しっかりした共同生活を可能にしている、言わば、発条となっているという考えが、彼の言語観の本質を成していた」と論ずる(第28集51頁)。
言葉が発条になるとは、どうしても語り出さずにはいられないということだろう。なぜそうなるかといえば、心に深く感ずることは、それを人に聞かせることと不即不離であるからだ。意味(心に感ずる事)が表現(人に聞かせる事)に先行するのではない。言葉は意味を伝達する道具ではない。だからこそ、「人に聞する所、もつとも歌の本義」なのであり、「歌は人のききて感とおもふ所が緊要」であるのだ。小林先生の論じるように、「詠歌という行為の特色は、どう詠むかにあって、何を詠むかにはない。何を詠うかはどう歌うかによって決まる他ないからだ」(第28集54頁)
しかしここでまた、凡庸な通念が頭をもたげてくる。歌の出来栄えであれば、表現の巧拙によってきまるのだろう。しかし、私たちの気持ちというものは、歌を詠むかどうか、歌が上手か下手かで決まるものではなかろう。聞き手の受け取り方で自分の気持ちが変わるなどというのは、軽佻浮薄な現代人にはありうるとしても、人間の本来の在り方とはいえないのではないか。自分の気持ちとは何か、ということだ。
5 心の動揺を鎮める
自分の気持ちとは何だろうか。怖い体験であれ、嬉しい出来事であれ、それを誰かに語ることによって、怖い思い、嬉しい思いが、確かなものとなる。目の前に聞き手がいるかどうか、実際に声を出すかどうかという問題ではない。「怖い」であれ「うれしい」であれ、内心、何らかの言葉を思い浮かべることで、自分の気持ちがはっきりとしてくるのだ。言葉のこういう働きは、「心に深く感ずる事」の場合、特に顕著となる。小林先生は論ずる。
「堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。(略)それが誰の心にも、おのずから開けている『言辞の道』だ、と宣長は考えたのである」(第28集58頁)。
そしてこう論ずる。
「言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない」。なぜなら、「心の動揺は、言葉という『あや』、或は『かたち』で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安」だからである(第28集59頁)。
言葉の最初の聞き手は、言葉を発した自分自身であるということなのだ。
6 愛の告白の最初の聞き手
冒頭のテレビコマーシャルのシリーズには、次のようなエピソードのものもある。在来線のボックス席に座る中年男と若い女、出張中の上司と部下であろう。女が「わたし新人のころ課長に叱られて泣いちゃったことがあるんです」というが男には心当たりがない。女は、「だからいつか泣かせてやろうと思って」。愛を告げる女の言葉は、男を舞い上がらせるに十分のものであるのだが、同時に、女が自らの気持ちを確かめ、形作るためのものなのだろう。愛の告白の最初の聞き手は、女自身なのだ。
(了)
私は、共通一次試験の最初の受験生だったが、その頃は、小林秀雄氏の文章がよく試験に出ていた。いくら考えても答えが見つからない。理屈がわからない。いっそのこと、理屈で考えるのは止めにしよう。それより、心を澄まして、自分にしっくり感じられる選択肢を解答にしよう。そう思い、模擬試験を受けたことがあった。しかし、解答時間の大半を費やした小問は、誤りだった。
「㋑って思ったから、㋑でえぇやないか」
学校近くの寺の境内で友人にボヤいたことを、今も思い出す。感じた事を否定されるのは、考えを違うと言われるよりも腹が立った。このボヤきを、小林氏に聞いてもらいたかった。氏は何と言っただろう。氏の『本居宣長』が刊行された、昭和五十二年の秋だった。
それから二十数年経ち、『本居宣長』を読もうと思い立った。外国に暮らして、その国の人達が幼児も喋る身の丈の言葉で深い意味を話し、学問までしているのではないかと、愕然としたことがあったのだ。何かにすがらずにいられなくなった。それには、小林秀雄と本居宣長の組み合わせが、最も頼れるように思えた。その国では、人の話す言葉がわからず、その言わんとするイメージだけを必死に想像していた。それを思えば、『本居宣長』で小林氏の言わんとすることを、想像できるような気になっていた。
何が書かれているかではない。何を言わんとすると、このような文章になるのか。それを、とりかえひきかえ想像し、文章の中を行きつ戻りつ確認した。わからない所は今でも多々ある。しかし、「学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也」、「直かに推参する」といったことに感動した。入試に文章が使われ、私が知識人の鑑だと信じていた小林氏が、「さかしら」を攻撃していたのには、天地のひっくり返るような気がした。自分もさかしらは止めよう。やまとだましひで、世界と伍してみようと誓った。しかし、もっと驚いたのは、小林氏が出てきた、というか、いつの間にか氏が居間で寛いでおられるような錯覚を感じたことだ。二人称として関西周辺で使われている「自分」を使う同級生が、私の勉強部屋に上がって来たような気分に戸惑った、そんな錯覚である。
小林氏の身になって、氏の考えていることを想像してみる。確認する術は、書かれた文章がしっくりするかどうかだ。おぼろげに、小林氏のものだったかもしれない考えが、頭の中に居付くようになった。と、すれば、この脳は誰のものになるだろう。そうか、それが錯覚か。などと考えている間に、もう一人、人が増えていた。私の心の中に入って来た小林氏は、本居宣長の身になろうとしていた。しばらく時間がかかったが、それに気付いた頃には、三人目の女性が登場していた。その宣長さんは、やはり、「源氏物語」を味読していたのだ。
頭の中が随分と賑やかになってきた。これは、私だけの体験ではない。江藤淳氏はもっと豊かな体験を、小林氏との対談で述べている。
「同時に、これはたとえが正しいかどうかわかりませんけれども、宣長を初めとして、宣長を取り巻く人々、宣長という人がこの世に生れて、ああいう学問を始める因縁をつくった人々が出てまいりますね。それは契沖から、賀茂真淵にいたるいわゆる国学の学統のみならず、中江藤樹も荻生徂徠も堀景山も出てまいります。また論争相手には上田秋成のような人も登場します。彼らがある遠近法にしたがってこの思想のドラマの登場人物の役割を果しています。『本居宣長』を読み進むときの読者の体験は、ムソルグスキーの『展覧会の絵』を聴いているときの感じとどこか似通っているようにも思われます。小林さんの跡をついて歩いていきますと、それまでは単なる名前でしかなかった登場人物たちが、宣長をはじめとしてそれぞれ肉声で語りはじめます」。
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集212頁7行目)
小林氏は、承知のうえで、わざとこのように文章を書いている。何のためだろう。そう思いながら読み進んだが、話が「古事記」に進み、だんだんと、宣長さんが出てこなくなってしまった。
私は、「凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」(同第28集90頁10行目)という言葉がしっくり来るような、宣長さんの気持ちを、まだうまく想像できずにいるのだ。読書力の限界が不甲斐なかったが、自分一人の問題でないことも、わかってきた。
小林氏は、講演で、「宣長という人は、非常に論理的で実証的な精神をもっていた頭のはっきりとした学者であるが、とうとうしまいには非常に狂信家になってしまった。……そんなばかなことはない。……宣長さんという人は一人に決まっているんだ。一人の宣長さんが現れて来るまで一生懸命に宣長さんの文章を読めば、きっと一人になって現れて来るに違いない。……そのいきさつが僕の本に書いてあるんです」(新潮CD「小林秀雄講演」第三巻『本居宣長』)と、述べている。この箇所が、私にとって、初めて意味を持った。小林氏も、長い間かかって、一生懸命に読んでいたのだ。そうするに値する、大きな問題だった。いろいろなことが、かみ合ってきた。
宣長さんは一人。別に、狂っていたのではない。これが『本居宣長』に書かれている。冒頭で、折口信夫氏に、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」と口走ったのは、動揺している小林氏から飛び出した、宣長さん自身だったようにも思えてきた。小林氏はこう書いている。
「今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである」。
(同第27集26頁2行目)
どうやら、分析しにくい動揺する感情を、読者は受け取るようだ。冒頭での、一向に言葉に成ってくれぬ、無定形な動揺する感情に再び向き合い、何かを企てる氏の姿が、そう感じさせるのだ。
氏は、この感情が、宣長の思想の一貫性を信ずることだと、意識している。
「ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ」。
(同第27集40頁3行目)
もし、宣長について書きたいという希いが、動揺する感情を言葉に成したいということであれば、そうなるだろう。だとすれば、どのように、この企てがやり遂げられるのだろう。私は、どう宣長の一貫性を受け取るだろう。
折口氏との思い出に始まった導入部が、次の文章で締めくくられる。
「要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」。
(同第27集40頁9行目)
やはり、理屈で考えるのは、無益のようだった。宣長の思想の形体、構造ではなく、むしろ彼の肉声こそが書かれようとしている。それなら、読者は、彼の思想の一貫性を理屈で追うことは出来ず、肉声から直に感じるしかないではないか。私は、自分を無にし、心のスクリーンを張り、安らかに、小林氏の投影するままに任せて良いようだ。そうすれば、一人になった宣長さんが映るはずだ。それを味わえばよい。自ら、一貫性も知られるはずだ。私は、宣長について書きたいという、小林氏の希いとは何だったかを念頭に、もう一度、思想劇を観直そうと考えている。
宣長が、自分はこう思う、と発言したために始まった周囲の人々を巻き込んだ思想劇、その舞台は私の中に、いや、その現場に私もいる。
(了)
小林秀雄の『本居宣長』は、氏が折口信夫氏の大森のお宅を訪問した際のエピソードから始まる。本居宣長の「古事記伝」を読んでいた小林氏が折口氏にその話題を持って行ったが、どうも話が噛み合わないまま別れることになった。しかし、駅まで小林氏を見送りに行った折口氏が、改札口に入った小林氏を呼び止めて、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言ったとのことである。そのエピソードを敢えて冒頭に置いたことの深い意味を知るには、小林氏の「源氏」に纏わる思索をまずは丹念に辿っていくしかない。
では、私も改めて「源氏」を手掛かりに、宣長さんの思いの中にもっと深く入ってみようと思う。
その前に、作者の紫式部はどういう人だったのか、ここでおさらいをしてみよう。
生年は970~978年とはっきりとしない。父、藤原為時は花山天皇の読書役だった人で、式部も幼少の頃より漢文を読みこなし、また和歌も詠んでいた。998年ごろ、親子ほど年の差がある藤原宣孝と結婚し一女を儲けるが、間もなく夫は死去。その後、藤原道長の要請で宮中に上がり、その娘、彰子に仕える。まさに時の権力の中枢近くにいて、そこで繰り広げられる人間模様を目の当たりにしていたに違いない。そして、諸説あるが、1012~1019年に亡くなっている。いずれにしても長命ではなかったようだ。残した作品は、和歌の『紫式部集』、『紫式部日記』、そして『源氏物語』である。
さて、『本居宣長』の中で源氏について深く考察されているのは第十二章から十八章である。その中心で絶える事のない光彩を放ち続けているのは、「物の哀をしる」という言葉である。いや、光彩という表面的なものは一部であって、そこからは人の心に湧き起こる様々な感情が、尽きる事のない源泉のようにこんこんと湧き出ている。
宣長は二十代だった京都留学時代に著わした「あしわけ小舟」と題する問答体の歌論において、既に「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ」と断言している。のちに書かれた「玉のをぐし」においては、「――此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人の情のあるやうを書るさまは、やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」と言って絶賛している。そして、「紫文要領」では、「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」と言っている。つまり、紫式部は誰にも増して「物のあはれをしり」、かつこれを「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人の情のあるやうを」『源氏物語』において書き表したということになるのだろう。
そういったことを考えているうちに、次のような疑問が湧き起こった。「物のあはれをしる」ということに関して人よりずば抜けた感性や才能がありさえすれば、『源氏物語』のような、世界でも類を見ない素晴らしい小説が書けるのだろうか、と。……いや、それは必要条件ではあるが、十分条件ではないはずだ。そういうずば抜けた感性や才能を持った人は、この世には多くいるが、『源氏物語』のような小説を書ける人は古今東西ほんの一握りしかいないだろう。もちろん、若い頃から歌を詠むという習慣や訓練は、式部にとって豊かな滋養となっていただろうし、様々な事件があり、ありとあらゆる感情の渦巻く朝廷の中枢にいたことも、題材には事欠かないということがあっただろう。だが、そういう環境にいた人は式部以外にも複数いるはずだ。そのほかに『源氏物語』を書く事が出来るための十分条件としての要素はないのだろうか? そう思って、その答えを『本居宣長』のテキストに求めてみた。
以下、その手掛かりになると思ったところを列記してみる。
――「源氏」は、作者の見聞した事実の、単なる記録ではない。作者が源氏君に言わせているように、「世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる」味いの表現なのだ。(中略)もっと根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物と情との緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を「みるにもあかず」と観ずるに至った。この思いを、表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得たところを、宣長は、「無双の妙手」と呼んだ。(「小林秀雄全作品」第27集15章p163~165)
ここで言われているのは、朝廷において生きる人々の、「みるにもあかず、聞にもあまる」「情」の曖昧な働きを、式部は表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得た、その能力は並ぶものがない、ということだろうか。いや、それだけなら、一流の小説家が行う一般的な手法と相違はないが、ここでは、「緊密な交渉」という言葉を注視したい。即ち、「交渉」というからには事物から情を捕らえるという一方向だけでなく、捕らえた情から新しい観点で事物を眺めるということを繰り返し「緊密」に行うことにより、式部は、遂には「世にふる人の有様」という人生図を、心眼をもって描き出す事が出来た、それが『源氏物語』だということなのだろう。宣長は、最終的に式部の事を「無双の名手」と呼んでいるわけであるから、つまりは比べる者がいないほどの名手ということであるから、ここは極めて十分条件に近い要素が述べられていると見てよいだろう。
――情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕らえられている、と宣長は見た。(第27集18章P201)
一見分かりにくい文章だが、これは作者の豊かな感情による叙情と、その叙情から少し身を離したところで状況を俯瞰して把握する叙事とが、ぶつかり合いながら奏でる人生の機微を捕らえる異常な力を式部は持っていたということで、先の引用とも重なるが、その能力が一流作家の中でも抜きん出ていたということだろう。そういう意味では、これも単なる必要条件というよりは、十分条件に近い条件と言えるのではないか。
――作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成した事を言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点でもあり、同時に帰着点でもあった。(中略)(当時の知識として通じていたはずの儒仏の思想の)影響にもかかわらず、何故式部は此の物語を創り得たかに、彼の考えは集中していたとまで言ってよい。この、宣長の「源氏」論の、根幹を成している彼の精神の集中は、研究の対象自体によって要請されたものであった。それは、詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序が規定した即物的な方法だったので、決して宣長の任意な主観の動きではなかった。(第27集18章p204~205)
要約すれば、式部は「物のあはれを知る」人間が抱く、「あはれ」という不完全な感情経験を、儒仏の思想の影響を受けず、誰にもまねのできない詞花言葉の工夫によって表し、客観的秩序を持つ『源氏物語』を創り出したということになるのだろう。ここにも、「誰にもまねのできない詞花言葉の工夫」という言葉がある。「誰にもまねのできない」ものであるという以上、これもまた、十分条件に近い条件ではないだろうか。
さて、私は答えに辿り着けたのだろうか? 第12章から18章までを読み込んで私が感じたのは、これこそ唯一無二だと思える十分条件は見当たらなかったが、十分条件に近い条件、そしてそのほか必要条件のようなものはそこかしこに見受けられた、ということだ。それらの条件が積み重なった、類まれなる資質を持ち合わせた紫式部によって描かれた『源氏物語』という山は、豊かな裾野に詞花言葉の花が咲き乱れる、世界でも類を見ない孤高の山となっていたということではないだろうか。
この孤高の山を楽しみ、味わいながら登り詰めたのが本居宣長である。そして、折口信夫に誘われて、小林秀雄もまた宣長の味わい方を辿りながら、その頂上を見極めたに違いない。
(了)