編集後記

今号も、まずは荻野徹さんによる「巻頭劇場」からお愉しみいただきたい。

いつもの四人による対話は、元気のいい娘が「やばい」と断言する、「姿は似せ難く、意は似せ易し」という本居宣長の逆説的な言葉から幕を開ける。その深意について、自らの思いを懸命に伝えようとする江戸紫が似合う女は、小林秀雄先生による「ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか」という言葉を挙げた…… 娘は、スマホをオフにすることにした…… はたしてその理由とは?

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、本田悦朗さん、田中佐和子さん、橋本明子さん、荻野徹さん、そして橋岡千代さんが寄稿された。

本田さんは、「なぜ、中江藤樹は戦国の遺風の残る荒れ野のような時代に、近世学問の濫觴らんしょうとなり得たのか」という問いを立てた。「独」という言葉に、そして、その言葉を藤樹がいかに「咬出かみいだ」したのか、ということに注目する。小林先生は、彼の孤立の意味よりも「もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ」と言っている。そこで本田さんが紹介している藤樹の逸話も、じっくりと味わいたい。

田中さんの問いは、「なぜ宣長は、紫式部を思想家と見たのか」ということである。もちろん小林先生が用いる「思想」という言葉には留意が必要であり、田中さんは、先生が三木清氏との対談のなかで語っている「思想というものは、人に解らせる事の出来ない独立した形ある美なのだ、思想というものも、実地に経験しなければいけないのだ……」という言葉に注目している。式部が「物語」という言葉に見出したものはなにか? 田中さんの語るところに、静かに耳を傾けてみよう。

橋本さんは、小林先生が言う「無私を得る」という言葉について思索を巡らせている。「小林秀雄全作品」第27集の帯の言葉が目に入った。――己れを捨てて/学問をすれば/おのずと己れの/生き方が出てくる。そこで橋本さんは、「模倣される手本と模倣する自己」との関係性、例えば、「論語」と伊藤仁斎との緊張した関係のなかでこそ真の自己の発見があると小林先生が考えていたのではないか、ということに思い至る……

「巻頭劇場」でおなじみの荻野徹さんは、同劇場と同じ対話劇の手法で書くことを試みている。くだんの元気のいい娘は、小林先生が、紫式部が創作のうえで物語の「しどけなく書ける」形式を選んだことについて、古女房の語り口を「演じる」・「この名優」・「演技の意味」というような表現を使っているところに興味を持った。語り手と聞き手との関係、そのことを自覚していた式部…… 本稿もまた、対話劇だからこそ読者の心に届くものがある。

橋岡さんが注目したのは、「風雅に従ふ」という宣長の言葉である。山の上の家の塾での自問自答を通じて橋岡さんは、宣長の「道」を理解するためには、彼が言っている「小人の立てる志」という「俗」を知るべきであることに気付かされた。「家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむとも」という宣長の歌を再び眺めてみた。彼が「学問」に向かう姿勢が、小林先生の「本居宣長」執筆の根幹にあったものが見えてきた。

 

 

「『かたち』について」を寄稿された有馬雄祐さんは、本居宣長が使った「かたち」という言葉を、小林先生が使うときに一体何を意味しているのか、と問うている。荻生徂徠は、実理と空理を区別し、空理に陥ることへの警鐘を鳴らした。小林先生は、眼前のすみれの花を黙って見続けよと忠告した。宣長は、「古事記」という「物」に化するという道を行った。そして有馬さんは、ベルクソンを愛読してきた小林先生の深意へと、さらなる一歩を進める。本稿は「物質と記憶」の素読を長く続けてきている有馬さんが到った、一里塚である。

 

 

飯塚陽子さんは、パリに住んでいる。冷たい雨音、バルコニーで熟した苺、寂しがり屋の猫、深いクレバスの底へ…… そして、小林秀雄著「作家論」の最後の章が…… もはやこれ以上の付言は不要であろう。飯塚さんによって綴られた言葉を、詩を読むように、意味を取ろうとすることもなく、ゆっくりと味わってみていただきたい。ただただ言葉として、その姿のままに……

 

 

石川則夫さんの「特別寄稿」は、前稿「続『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ」(本誌2021年夏号)の続編である。石川さんは、前稿の結びを次のように締めくくられていた。「柳田国男の『山宮考』から『先祖の話』まで引きずって来たこだわりは、我々の心身の奥底までも支配し、制御している<時間>という思想を如何にして崩していくかというところにあったのである」。話は、小林先生の「おっかさんという蛍」から、志賀直哉さんの「死を得る工夫」、そしてバッハ夫人のある「確信」を経て、いよいよ「本居宣長」という作品へと向かう……

 

 

2017(平成29)年6月に刊行開始した本誌は、今号で通算30号の節目を迎えた。ここで改めて、本誌をご愛読いただいている読者諸氏に心からのお礼を申し上げたい。

さて、刊行第一号となった2017年6月号の「巻頭随筆」に、吉田宏さんが以下のように書いていた。

「この同人誌『好・信・楽』は、“小林秀雄に問うという奇跡”にでくわした多士済々の塾生たちの小林秀雄への質問・自答と、塾頭の『小林先生ならこうお答えになるに違いない』という返答の、真摯なやり取りであふれるだろう。感動は確かにあったのだ。『本居宣長』という畢生の大業を読みぬき、本意をつかみ取る上でこれほどの同行者はもう二度と現れない。きっと多くの人たちが、塾生一人ひとりの生きた学問の足取りの音を、また小林秀雄の著作をその生涯にわたり『好み、信じ、楽しんで』きた塾頭の声を聞き取り、受け取ってくれると信じている」。(「小林秀雄に問うという奇跡」)

 

秋も深まる時季に刊行を迎えた今号も、手前味噌ではあるが、多士済々の筆者による多彩な内容が溢れる誌面となった。しかしながら、「『本居宣長』という畢生の大業を読みぬき、本意をつかみ取る」には、手応えを掴みつつある感触を覚えながらも、いまだ道半ば、と言わざる得ない。同じ号で茂木健一郎さんが言っていた「小林秀雄さんから、池田雅延さん、そして『山の上の家の塾』の塾生たちへの魂のリレー」のたすきの重みを、塾生一人ひとりが改めて全身で感じ取り、艱難辛苦に留まることなく、前を向いて走り続けて行きたい。次の走者は、必ず待っている。

引き続き、読者諸氏のご指導とご鞭撻を、心よりお願いする。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十 不翫詞花言葉―反面教師、賀茂真淵(二)

 

1

 

第十七章で、小林氏は、「源氏物語」をどう読むかに関して契沖が言った「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」に言及し、宣長はただちにこれを実行した、ところが、と言い、

―真淵となると大変様子が変って来る。この熱烈な万葉主義者は、はっきりと「源氏」を軽んじた。「皇朝の文は古事記也。其中に、かみつ代中つ代の文交りてあるを、其上つ代の文にしくものなし。中つ代とは、飛鳥藤原などの宮のころをいふ。さて奈良の宮に至ては劣りつ。かくて今京よりは、たゞ弱に弱みて、女ざまと成にて、いにしへの、をゝしくして、みやびたる事は、皆失たり。かくて後、承平天暦の比より、そのたをやめぶりすら、又下りて、遂に源氏の物語までを、下れる果とす。かゝれば、かの源氏より末に、文てふものは、いさゝかもなし。凡をかく知て、物は見るべし。その文の拙きのみかは、意も言も、ひがことのみ多く成りぬ」(「帰命本願抄言釈」上)……

「飛鳥藤原などの宮のころ」とは、先にも概観したとおり平城京より前の飛鳥京から藤原京にかけての頃で、飛鳥京時代は第三三代推古天皇の時代(五九二~六二八)を中心としてその前後が言われ、藤原京時代は第四一代持統天皇から文武、元明両天皇の時代(六九四~七一〇)、「奈良の宮」は平城京(七一〇~七八四)、「今京」は平安京(七九四~)、「承平天暦の比」の「承平」は第六一代朱雀天皇の時代(九三一~九三八)、「天暦」は第六二代村上天皇の時代(九四七~九五七)だが、

―彼の考えでは、平安期の物語にしても、「源氏」は、「伊勢」「大和」の下位に立つ。「伊勢」は勿論だが、「大和」でもまだ「古き意」を存し、人を教えようとするような小賢しいところはないが、「源氏」となると、「人の心に思はんことを、多く書きしかば、事にふれては、女房などのこまかなるかたの教がましき、たまたまなきにしもあらず。これはた世の下りはてゝ、心せばく、よこしまにのみなりにたるころの女心よりは、さる事をもいひ思へるなるべし」(「大和物語直解」序文)と言う。彼は、なるほど「源氏物語新釈」という大著を遺したが、「源氏」を「下れる果」とする彼の根本の考えは、少しも動きはしなかった。……

―彼は、「源氏」を「下れる果」と割り切ってはいたが、実際に「源氏」の註釈をやってみると、言ってみれば、「源氏より末に、文てふものは、いさゝかもなし」という問題に、今更のように直面せざるを得なかった。この方は、手易たやすく割り切るわけにはいかない。その真淵の不安定な気持が、「新釈」の「惣考」を読めば直知出来るのである。この物語の「文のさま」は、「温柔和平の気象にして、文体雲上に花美也」とめてはみるが、上代の気格を欠いて、弱々しいという下心は動かないのだから、文体の妙について、まともな問題は、彼に起りようがない。そこで方向を変え、「只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし」、と問題は、するりと避けられる。では、「式部が本意」を、何処に見たかというと、それは、早くも「帚木」の「品定」に現れている、と見られた。この女性論は、「実は式部の心をしるした」もので、式部は、「此心をもて一部を」書いたのであり、この品定めの文体は「一部の骨髄にして、多くの男女の品、此うちより出る也」とした。「万葉」の「ますらをの手ぶり」を深く信じた真淵には、「源氏」の如き「手弱女たわやめのすがた」をした男性の品定めは、もとより話にならない。……

―しかし、紫の上を初めとして、多くの女性を語り出した、そのこまやかに巧みな語り口には、男には出来ぬ妙があり、これらはすべて、婦徳の何たるかを現して、遺憾がない。それも、特に教えを言い、道を説くという、「漢なる所見えず、本朝の語意にうつして、よむ人をして、あかざらしむ」。要するに、人情を尽しているのだが、これを、いかにも真淵らしい言い方で言う。「私の家々の事にも、人の交らひにも、おのおのいはでおもふ事の多かるを、いはざれば、各みづからのみの様におもはれて、人心のほど、しりがほにして、しらざる物也。和漢ともに、人を教る書、丁寧に、とくといへど、むかふ人の、いはでおもふ心を、あらはしたる物なし。只、此ふみ、よく其心をいへり」と。誨淫かいいんの書というのは当らぬ。物語られているところは、「人情の分所ブンショ」なのであるから、「これをみるに、うまずしてよくみれば、そのよしあし、自然に心よりしられて、男女の用意」、或は「心おきて」ともなるものだ。……

―以上不充分な要約、それも真淵の意を汲もうとした、かなり勝手な要約だが、よわいを重ねるにつれて、いよいよ強固なものに育った真淵の古道の精神と、彼の性来の柔らかな感性との交錯を、読者にここから感じ取って貰えれば足りる。真淵の真っ正直な心が、「源氏」という大作の複雑な奥行のうちに投影される様は、想い見られるであろう。……

と、小林氏は真淵の「源氏物語」評をひととおり伝え、これを宣長はどう読んだかを言う。

―宣長は、「玉の小櫛」(寛政八年)に至って、初めて真淵の「新釈」に言及しているが、先師にこの註釈のあるのは「はやくよりきけれど、いまだ其書をえ見ず。たゞその総考といふ一巻を見たり。その趣、大かた契沖為章がいへるににたり」と言っているに過ぎない。要するに、「源氏」理解については、「いまだゆきたらはぬ」「うはべの一わたりの」「しるべのふみ」の一つ、と考えられているのであるから、「惣考」が何時読まれたかは問題ではあるまい。「新釈」の仕事が完了したのは、宝暦九年だから、大体、「あしわけ小舟」が書き上げられたのと同じ頃である。数年後に成った「紫文要領」は、「新釈」とは全く無関係な著作であった、と見ていいであろう。ただ、宣長を語る上で、無視するのが不可能な真淵である、という理由から、その「源氏」観に触れた。……

せんから私は、真淵は宣長にとって反面教師でもあったようだと言っているが、「源氏物語」に関しては無交渉であったと、ひとまずは小林氏の上文に照らして言い添える。真淵の「源氏物語新釈」が成ったのは宝暦九年(一七五九)、宣長三十歳の年だったが、その「源氏物語新釈」を宣長は読んでいない、ただ「惣考」を読んだに過ぎなかったと、寛政八年(一七九六)、六十八歳で書いた「源氏物語玉の小櫛」で言っているのみならず、ほとんど評価していない。宣長の「紫文要領」が成ったのは真淵の「新釈」の四年後、宣長三十四歳の年の宝暦十三年(一七六三)六月七日だったが、宣長が真淵を「新上屋」に訪ねたのはその約十日前、五月二十五日である、「紫文要領」は真淵と対面した日、すでに書き上げられていたも同然だったのである。

 

2

 

だが、それはそれとして、私の目には、やはり、「源氏物語」の読み方においても真淵は反面教師であったと映る。その手がかりは、小林氏が書いている真淵自身の「源氏物語」観と、真淵の「源氏物語新釈」に対する宣長の反応なのだが、小林氏は、第十八章に入ると、契沖が「源氏物語」に関して遺した教えに言及して次のように言うのである。

―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。事実、真淵のような大才にもそう見えていた。「源氏」は物語であって、和歌ではない、これを正しく理解するには、「只文華逸興をもて論」じてはならぬ、という考えから逃れ切る事が出来なかった。……

真淵には、契沖が遺した「可翫詞花言葉」は、ほんの片言としか見えていなかった、なぜなら真淵は、「源氏物語」は和歌ではない、ゆえにその文華逸興を論じただけでは足りない、という考えに縛られていたからである。

真淵は、こう言っていた、―只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし……。「文華」とは、詩文の華やかさ、美しさである、「逸興」とは、興趣の巧みさ、深さである。すなわち真淵は、詞花言葉を翫べ、とは和歌についてなら言える、だが物語はそうではない、詞花言葉を翫ぶだけでは足りない、詞花言葉によって作者が言わんとした本意を読み取る、それが大事だと信じて譲らなかった、ゆえに真淵は、契沖の言葉を、ほんの片言、というより戯言たわごととしか受け取っていなかった。

その真淵が、物語は詞花言葉を翫ぶだけでは足りない、作者が言わんとした本意を掴み取らなければならないと思いこんでいた「作者の本意」を、真淵自身、「源氏物語」ではどう掴んでいたか、それを小林氏が示している、先にも引いたが、真淵は、

―「式部が本意」を、何処に見たかというと、それは、早くも「帚木」の「品定」に現れている、と見られた。この女性論は、「実は式部の心をしるした」もので、式部は、「此心をもて一部を」書いたのであり、この品定めの文体は「一部の骨髄にして、多くの男女の品、此うちより出る也」とした。……

「一部」は、「物語全篇」の意である。

そういう真淵に反して、宣長は、

―契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。……

と、小林氏は言い、

―「源氏」という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向気に掛けはしまい。だが、凡そ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。一般論による論議からは、いつの間にか身をかわしているし、学究的な分析に料理されて、死物と化する事も、執拗に拒んでいるのである。作品の門に入る者は、誰もそこに掲げられた「可翫詞花言葉」という文句は読むだろう。しかし詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事になれば、これは全く別の話である。……

と、同じく第十八章で言っている。

私が、真淵は宣長にとって、「源氏物語」の読み方においても反面教師であったと言うのは、真淵の「源氏物語」観もさることながら、契沖の言葉に対する無感覚と横柄によってである。宣長は、「源氏物語」についても契沖の言葉についても、「萬葉集問目」のような質疑応答を真淵と交しておらず、したがって宣長は、真淵の「源氏物語」観も契沖の言葉の処遇も直かに聞き知ることはなかったと思われるのだが、持って生まれた気質において、さらにはその気質に従って体得した「学び」の精神において、真淵はまちがいなく反面教師の位置に立っていたと言えるのである。

 

3

 

小林氏は、第十九章に入り、宣長が真淵に初めて会った日のことを回想した『玉勝間』二の巻の「あがたゐのうしの御さとし言」を引いてすぐ、こう言っている。

―彼の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。……

これが、先々から言ってきている「『歌の事』から『道の事』へ」とは、どういうことか、である。歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる……、すなわち、翫味に価する美しい歌は、そのまま「道」の正しさを表している、というのである。

「歌」は文字どおり「和歌」の意でもあるが、それ以上に「歌物語」の意である。これも第十八章に言う。

―宣長は「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには彼独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を、何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。……

―では彼は、この後にも先きにもない詞花の構造の上で、歌と物語が、どんな風に結び附いているのを見たか。「歌ばかりを見て、いにしへの情を知るは末也。此物語を見て、さていにしへの歌をまなぶは、其いにしへの歌のいできたるよしをよくしる故に、本が明らかになるなり」(「紫文要領」巻下)、彼はそういう風に見た。……

―「源氏」は、ただ歌をちりばめ、歌詞によって洗煉せんれんされて美文となった物語ではない。情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕えられている、と宣長は見た。……

―「源氏」の内容は、歌の贈答が日常化し習慣化した人々の生活だが、作者は、これを見たままに写した風俗画家ではなかった。半ば無意識に生きられていた風俗の裡に入り込み、これを内から照明し、その意味を摑み出して見せた人だ。其処に、宣長は作者の「心ばへ」、作品の「本意」を見たのであるが、この物語に登場する人達は、誰一人、作者の心ばえに背いて歌は詠めていないのである。歌としての趣向を凝して自足しているようなものは一つもないし、と言って、其の場限りの生活手段、或は装飾として消え去るような姿で現れているものもない。すべては作者に統制され、物語の構成要素として、生活の様々な局面を点綴するように配分されている。……

―例えば、作者が一番心をこめて描いた源氏君と紫の上との恋愛で、歌はどんな具合に贈答されるのか。まことに歌ばかり見て、恋情を知るのは末なのである。いろいろな事件が重なるにつれて、二人の内省家は、現代風に言って互に自他の心理を分析し尽す。二人の意識的な理解は行くところまで行きながら、或はまさにその故に、互の心を隔てる、言うに言われぬ溝が感じられる。孤独がどこから現れ出たのか、二人とも知る事が出来ない。出来ないままに、互に歌を詠み交わすのだが、この、二人の意識の限界で詠まれているような歌は、一体何処から現れて来るのだろう。それは、作者だけが摑んでいる、この「物語」という大きな歌から配分され、二人の心を点綴する歌の破片でなくて何であろう。そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を成すものと感じられて来る。……

そしてそこから宣長は、「源氏物語」に「もののあはれを知る」という作者の信念を最も強く感じたのだが、それも、

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉を翫ぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。……

 

 

そうか、そういうことだったのか、そうであるなら私たちが歌を読み味わうときの「可翫詞花言葉」という心がけは、物語を読むときにも不可欠なのだと得心がいく。宣長が身をもって示したように、物語の作者の言わんとしていることは「可翫詞花言葉」に徹してこそ立ち現われてくる。宣長は、契沖に言われて「源氏物語」の詞花言葉に目をこらし、詞花言葉を翫ぶこと、翫味することを辛抱強く繰り返すうち、おのずと作者紫式部の本意に想到した、すなわち式部は、かくかくしかじかと手短かには言い表すことのできない「もののあはれ」ということ、そしてそれを「知る」ということ、これを人生の大事として人々に伝えたい、少なくとも式部が仕えた中宮彰子しょうしと同輩の女房たちには伝えたい、「源氏物語」はそういうねがいのもとに書かれた、宣長はそこに思い到った、小林氏はそう言うのである。

 

ところが、「源氏物語」は和歌ではない、物語であるとして詞花言葉を軽んじ、「作者の本意」を摑み取ることに一目散だった真淵は、「源氏物語」が始ってすぐの「帚木」の巻の「雨夜の品定め」の女性論、これこそが全篇を貫く作者の本意であると解した。

だが宣長は、「雨夜の品定め」も女性論が主眼とは見ていない、これも読者に「もののあはれ」ということを知らしめるための道具立てであると見、「もののあはれを知る」ということは、詞花言葉の調べや風合から、銘々が感知するほかないものだと、式部自身が「雨夜の品定め」でそう仕向けていると言っている。

小林氏は、第十四章の、「さて、この辺りで、『物のあはれ』という言葉の意味合についての、宣長の細かい分析に這入った方がよかろうと思う」と前置きして始めたくだりで「雨夜の品定め」に言及しているが、「雨夜の品定め」とは、新潮日本古典集成『源氏物語』に負えば、次のような場面である。

五月雨さみだれの一夜、物忌ものいみで宮中に籠っている光源氏の宿直とのいどころに、親友のとうの中将、左の馬のかみ、藤式部のじょうという当代きっての好色者すきものが集まり、妻にするにはどういう女性が望ましいかで話の花を咲かせる、源氏以外の三人の男性の経験談が披露され、あれこれ取り沙汰されるが結論らしいものは記されず、最後は、「いづかたにより果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、あかしたまひつ」(どういう結論になるということもなく、おしまいは要領を得ない話になって夜をお明かしになった)と結ばれる……。

この、「いづかたにより果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、あかしたまひつ」に対して、小林氏は言う。

―よくよく本文を読めば、左馬頭の言うところも曖昧なのである。「『品定』は、展転反覆して、或はまめなるをたすけて、あだなるをおとし、又は物の哀しらぬ事を、つよくいきどをり、さまざまに論じて、一決しがたきやうなれ共」、しまいには、頭中将に「いづれと、つゐに思ひさだめずなりぬるこそ世の中や」と言わせている。この遂に断定を避けているところに、式部の「極意」があるのであり、本妻を選ぶという実際の事に当り、左馬頭が「指くひの女」の「まめなる方」を取ると言うのとは話が別だ。……

だから、と、つとに宣長は言っている、

―終りに、いづれと思ひさだめずなりぬといひ、難ずべきくさはひまぜぬ人(非難すべき点のない女性/池田注記)は、いづこにかはあらむといひ、又いづかたに、よりはつ共なく、はてはて、あやしき事共になりて、あかし給つとかきとぢめたるにて、本意は物の哀にある事をしるべし」。……

 

そういう次第で、「源氏物語」の読取りにおいても、結果論ではあるが真淵は宣長の反面教師だったのである。

もっとも、「源氏物語新釈」は、真淵が自ら望んだ仕事ではなかった、主君田安宗武の命によった、よんどころない仕事だった。したがって、契沖を軽視し、「式部の詞花言葉」はそこそこにして「式部の本意」へ走りこむ、それこそが真淵の本意であっただろうとは言えるのである。

だが、そもそもからして気乗りのしなかった「源氏物語」は措くとしても、「古事記」をはじめとする「神の御典ミフミ」を解くことは真淵自身が望んだ仕事だった、単に望んだという以上に、学者人生の登頂点として仰ぎ見、満を持した大望だった。宣長を識ってすぐ、宣長に「古事記」註釈の志あるを聞かされ、「われももとより、神の御典ミフミをとかむと思ふ心ざしあるを」と言い、「そはまづからごゝろを清くはなれて、いにしヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず」と宣長に縷々助言したということは先に書いたが、契沖が遺した「可翫詞花言葉」、この言葉を確と座右に置いて「源氏物語」から「古事記」へ歩を進めた宣長と、契沖の言葉は上の空で聞き流し、「萬葉集」から「古事記」へ直進しようとした真淵の前に、両人それぞれの道は「古道」に通じているか、さにあらずか、の分岐が厳然と現れていたのである。

 

4

 

第二十章で、小林氏が次のように言っているくだりを先に引いた。

―真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。(中略)真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。……

ここで言われている「『万葉』の、『みやび』の『調べ』を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは『古事記』という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある」の「断絶」は、ほかでもない、真淵の言語観が将来したものだった。真淵は「源氏物語」においても「萬葉集」においても「詞花言葉を翫」ぼうとはせず、ひたすら古人の「心ことば」の洗い出しに専心した、それが真淵の「文事を尽す」ということだったのだが、「萬葉集」から「古事記」へと進展を図った真淵の前に立ち現われた「断絶」は、この「心ことば」の洗い出しに始っていた。だが宣長の「文事を尽す」は、そうではなかった、どこまでもどこまでも「詞花言葉を翫」ぶ、これに尽きていた。その真淵と宣長の文事の尽くし方の相違、そこを小林氏は、第二十三章でこう言っている。

―「うひ山ぶみ」には、学問の「しなじな」が分類されている。宣長は、当時の常識として、言語の学をその中に加えるわけにはいかなかった。が、言霊という言葉は、彼には、言霊学を指すと見えていたと言ってもよいのである。契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった。ところが宣長になると、そんな事は、どうでもよい事だと言い出す。……

宣長は、「うひ山ぶみ」でこう言っている。

―語釈は緊要にあらず。(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひがごと、多きぞかし。……

一語一語の語釈は緊要でない、緊要でないどころか無用と言っていいほどだ、大事なことは、それぞれの語がその時その場でどういうふうに用いられているか、そこに意を払うことである、同じ一つの言葉でも、場面によって、文脈によって、つどつど微妙に意味合が変る、つどつど変る意味合こそがその時その場の語意なのであり、この千変万化の語意を感得しないでは読んだことにならない、肝心要は何ひとつ読み取れない、宣長はそう言うのである。

この宣長の言語観こそ、「源氏物語」を「可翫詞花言葉」に徹して読み尽すことによって会得されたものだろう。だから宣長は、「古事記」も「可翫詞花言葉」に徹して読んだのである。だが真淵の「文事を尽くす」はそうではなかった。真淵は、一語一語の語釈に専心して「萬葉集」の「心ことば」を得ようとした。そして、「萬葉集」の延長線上で「古事記」を読もうとした、まさにそこに、宣長が見ぬいた「萬葉集」と「古事記」の間の「断絶」があったのである。

 

5

 

それにしても、これはどういうことだろう。宣長は、「源氏物語」の詞花言葉を翫ぶということに徹して「もののあはれを知る」という紫式部の信念に達したと小林氏は言ったが、では「源氏物語」の詞花言葉の何が宣長にそういう機縁をもたらしたのか、第二十章の周辺ではそこまでは言われていないが、先にも引いたとおり、第二十三章では、

―「うひ山ぶみ」には、学問の「しなじな」が分類されている。宣長は、当時の常識として、言語の学をその中に加えるわけにはいかなかった。が、言霊という言葉は、彼には、言霊学を指すと見えていたと言ってもよいのである。……

と、敢えて「言霊」という言葉に言及されている、と言うより、宣長が用いる「言霊」という言葉は「言霊学」と言うに等しく、したがって「言霊」は、宣長には古代人の一信仰形態などではなく、国語学の重要テーマとして意識されていたと強調されている。

 

「言霊」という言葉の出自は、「萬葉集」である。まずは巻第五、山上憶良の「好去好来の歌」(『国歌大観』番号八九四)である。

神代かむよより 言ひらく そらみつ 大和の国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊の さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり……

ここに見られる「言霊の さきはふ国」は、「新潮日本古典集成」の『萬葉集』では「言葉に宿る霊力がふるい立って、言葉の内容をそのとおりに実現させるよい国」と説明されている。また小学館の「日本古典文学全集」の『萬葉集』には、「ことばに宿る霊力。古代人は、言語に神秘的な力がこもっていて、それにより禍福が左右されると信じた」とある。

次いで巻第十三、柿本人麻呂の歌(同三二五四)である。

磯城島しきしまの 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ

「言霊」に対する「新潮古典集成」の説明はこの歌でも同じだが、ここではその上に、「こう歌うことで言霊の力の発動を祈念している」と言っている。また小学館の「古典全集」は、巻第五、山上憶良の「好去好来歌」を参照させたうえで、「言葉に宿ると信ぜられた精霊」とも言っている。

このように、「言霊」は、大概が古代人の信仰形態のひとつとして説明されている。『広辞苑』『日本国語大辞典』『大辞林』といった国語辞典の類いも同様である。つまりはこうした呪力的理解が定説となっているのである。

 

だが小林氏は、上に引いた第二十三章の文の前に、こう言っている。

―言語が、「おのがはらの内の物」になっているとは、どういう事か、そんな事は、あんまり解り切った事で、誰も考えてもみまい。日常生活のただ中で、日常言語をやりとりしているというその事に他ならないからだ。宣長は、生活の表現としての言語を言うより、むしろ、言語活動と呼ばれる生活を、端的に指すのである。談話を交している当人達にとっては、解り切った事だが、語のうちに含まれて変らぬ、その意味などというものはありはしないので、語り手の語りよう、聞き手の聞きようで、語の意味は変化して止まないであろう。私達の間を結んでいる、言語による表現と理解との生きた関係というものは、まさしくそういうものであり、この不安定な関係を、不都合とは誰も決して考えていないのが普通である。互に「語」という「わざ」を行う私達の談話が生きているのは、語の「いひざま、いきほひ」による、と宣長は言う。その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に飜訳し合うという離れ業を、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語というおおきな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。……

すなわち、小林氏の透視によれば、宣長が感取していた「言霊」とは、国語という言語体系が内蔵している即応即決の伝達力である。一〇〇〇年にも二〇〇〇年にもわたって日本民族の誰も彼もが使っているうち、誰によってというのではなくおのずと組み上げられて整備された語意にも語感にも文法にも及ぶ意味構造、そういう土台に支えられた縦横無尽の伝達力である。この伝達力のおかげで私たちは、言い間違いや舌足らずでさえもそのつどそのつど補われ、以心伝心までも可能にされているのである。

そういう「言霊」の存在を、宣長は「萬葉集」によって知り、「萬葉集」によって体感していたが、契沖に言われて「源氏物語」の詞花言葉を翫び始めるや、その存在のみならず威力までもをまざまざと感じたであろう、感じさせられたであろう。なかでも強力だったのが「もののあはれ」という言葉の言霊だったはずである。

それというのも、宣長は、紀貫之の「土佐日記」に見えた「楫取り、もののあはれも知らで」という物言いに違和感を覚え、「もののあはれ」という言葉は、貫之の行文にうかがえるような歌人意識の専有語ではないはずだ、ここに引き出され、蔑まれ気味に言われている楫取りたちからも歌は生まれている、そうであるからには「もののあはれ」は、楫取りをはじめとする一般庶民にもそうとは意識せずにだが知られているにちがいない、だとすれば「もののあはれ」という言葉は、貫之以後にはどういうふうに使われているかと宣長は「もののあはれ」の用例探索を試み、その経験を携えて「源氏物語」を読んだ。すると、「源氏物語」のそこここで、自ら蒐集した「もののあはれ」ということの感触と出会った。言葉としては承知していたが、実体感にはまだまだ遠かった「もののあはれ」ということの実体が、光源氏を筆頭として登場人物の言動に如実に現れ、相次いだ。そしていつしか、「もののあはれ」という言葉の言霊が、宣長の耳に「もののあはれ」を知れと囁き続けるようになった……、私にはそう思える。

先に引用した第二十三章の文中で、「宣長は、其処に、『言霊』の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた」と言われていたが、これに続けてこう言われている。

―このような次第で、「古言を得る」という同じ言葉でも、宣長の得かたと真淵の得かたとは、余程違って来る。宣長は、「古意を得る」為の手段としての、古言の訓詁や釈義の枠を、思い切って破った。古言のうちに、ただ古意を判読するだけでは足りない。古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬと考えた。それは出来る事だ。「万葉」に現れた「言霊」という古言に含まれた、「言霊」の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言サトビゴトの働きという具体的な物としっかりと合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである。……

 

「言霊」の働きについては、それこそこれから「古事記伝」に即してさらに精しく看取していくことになるが、ひとまずここに、第四十九章から引いておく。

―彼(宣長/池田注記)の考えからすれば、上古の人々の生活は、自然のふところに抱かれて行われていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、「その性質情状アルカタチ」を見究めようとした大人達の努力に、注目していたのである。これは、言霊の働きを俟たなければ、出来ない事であった。……

 

(第三十回 了)

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

ところがまた、ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオは、ソクラテスが語った「不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子」を響かせただけではなかった。作曲家の死後三年、この調べに震撼し、異常な動揺と苛立ちを露わにした大文学者がいた。ゲーテです。小林秀雄は、メンデルスゾーンが伝えるそのエピソードを、「モオツァルト」の冒頭章で取り上げました。ここでは当時、彼が目を通したロマン・ロランの「ゲーテとベートーヴェン」から直接引用しましょう。

 

ひる前、私はこれまでの大作曲家達を歴史の順に従って、小一時彼に弾いて聞かせねばなりませんでした。……彼は暗い片隅に雷神ユピテルのように座っていました。そしてその老いた眼はぴかりぴかりと射るように光っていました。彼はベートーヴェンの噂を聞くのを好みませんでした。ですが私は、それはどうにも仕様のないことだと彼に言いました。そして、ハ短調交響曲の第一樂章を弾いて聞かせました。それは彼を異常に動揺させました。彼は先ずこう言いました。「この曲は一向に感動させはしない。ただ驚かすだけだ。実に大仰な曲だ!」 彼はしばらくの間、ぶつぶつ口の中で呟いていました。それから、長い沈黙ののちに、再び口を開いてから言いました。「大変なものだ。まったく気ちがいじみたものだ! まるで家が崩れそうだ…… もし今、皆が一緒に演奏したらどうだろう!」 それから食卓についた時もまた、ほかの会話の間にぶつぶつ呟きはじめました……(新庄嘉章訳)

 

後に「ゴッホの手紙」で回想されたように、「モオツァルト」執筆の直接の動機は、小林秀雄が四十歳に達した昭和十七年五月のある朝のこと、青山二郎の疎開先で聞いたK.593のニ長調弦楽クインテットの感動にありました。ここに引用した新庄嘉章の翻訳による「ゲーテとベートーヴェン」は、その翌月に刊行されたものです(二見書房)。当時、「モオツァルト」をどう書き出そうかと思いあぐねていた小林秀雄のもとに、この新刊の「興味ある研究」が届き、「そこに集められた豊富な文献から、いろいろと空想をする」(「モオツァルト」)なかで、このメンデルスゾーンの回想に最初の糸口を見出したと想像してみるのは興味深いことです。さらに言えば、「モオツァルト」の劈頭に置かれたゲーテのあのエピソード―モーツァルトの音楽とは、人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だという、一八二九年十二月六日のエッカーマンとの対話は、その翌年、同じ文学者をからかったベートーヴェンというもう一人の「悪魔」に導かれて小林秀雄が取り上げたものとも考えられるのです。

順序は逆だったのかもしれない。「モオツァルト」という音楽論は、その執筆構想の順からいえば、第一段落の「エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである」から書き出されたのではなく、第三段落の「トルストイは、ベエトオヴェンのクロイツェル・ソナタのプレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニイの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮を経験したと言う」から開始されたのかもしれない。そして第二段落に描かれた、「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」という画は、「ベートーヴェンのハ短調シンフォニーに悪魔の罠を感じて心乱れた異様な老人」の倒影であったのかもしれません。メンデルスゾーンの回想を紹介するにあたって、ロマン・ロランもまた、「この場面は、老人の不安を、また、六十年後『クロイツェル・ソナタ』によって老トルストイを驚倒せしめたあの野蛮な共を彼が怒りっぽい身振りで押しやってこれを閉じ籠めようとした努力をわれわれに見せている」(傍点筆者)と前置きしています。

もっともこの一八三〇年の「ゲーテとベートーヴェン」を紹介するにあたって、小林秀雄は「Goethe et Beethoven」という原題を付していますから、彼は昭和十七年六月刊行の翻訳書ではなく、ロランの原書にあたっていたのかもしれません。またそもそも、四年の歳月をかけて書き下ろされ、かつ戦前に書かれた草稿は破棄して戦後新たに稿を起こした(吉田凞生)とも言われるこの作品の執筆経緯を辿ることは不可能です。ただここで言えることは、「モオツァルト」という作品の書き出しは、あるいは「ベエトオヴェン」として書き出されたのではないかと読者に錯覚させるほど、あのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べが濃厚に立ち籠めているということ、しかもその調べにゲーテが聞き分けた(と小林秀雄が想像した)のは、「不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子」ではなく、ゲーテが嫌悪した浪漫主義芸術の「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」であり、同時にまた、それは老ゲーテの内に眠っていた「Sturm und Drangの亡霊」でもあったということ、そして何より、小林秀雄自身は、その「異常な自己主張」の調べを「壮年期のベートーヴェンの音楽」と位置づけ、この作曲家は、とはっきり書いていたということです。

しかし結論を急ぎすぎたようです。「モオツァルト」の冒頭段落をまずは読んでみましょう。

 

エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組に出来上っている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。ゲエテは決して冗談を言う積りではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断っている。(エッケルマン、「ゲエテとの対話」―一八二九年)

 

すでにお話ししたように、このゲーテの言葉は「ゲーテとの対話」の一八二九年十二月六日の項に記されているものです。ゲーテは八十歳、この日のエッカーマンの記録は、執筆中の「ファウスト」第二部第二幕第一場をゲーテがエッカーマンに読んできかせるところからはじまります。

場面はファウストの書斎―この大戯曲の幕開けでメフィストフェレスが一匹のむく犬として忍び込み、ファウストと契約を結んで彼を外の世界へと連れ出す、あの「高い丸天井をもつゴシック風の狭い部屋」に、ファウストとメフィストフェレスがふたたび舞い戻る場面です。戯曲の中では、二人がその部屋を飛び出したのは二、三年前のことですが、ゲーテが初稿「ファウスト」を書き上げたのは二十代の半ば頃、すでに半世紀以上の歳月が経っていました。書斎の一切のものは昔と変わらずそこにあるが、メフィストフェレスがファウストの着古した書斎着を掛釘から外すと、無数の紙魚や虫けらがぱたぱたと飛び立ちます。そこに、かつてその書斎に登場した学士が現れる。彼は、以前は臆病な若い学生で、ファウストの上着を着たメフィストフェレスにからかわれたものだが、その男もいつのまにか大人になり、ひどく高慢な学士となって、さすがのメフィストフェレスももてあまし、たじたじと椅子ごと後退って、ついには平土間の方へと向き直ってしまう

この場面をゲーテが朗読した後、エッカーマンは、ここに登場する学士の役柄について尋ねます。するとゲーテは、あれは若い者に特有の自惚れを擬人化したものだと答える。そして、「若いときには、だれにしても、世界は自分とともに始まり、一切はそもそも自分のために存在するのだ、と思いこみがちのものだ」と言い、「ファウスト」をめぐってエッカーマンと語り合うのですが、その後ゲーテはしばらくの間黙考し、やがて次のように語り出すのです。

 

「年をとると、」と彼はいった、「若いころとはちがったふうに世の中のことを考えるようになるものだ。そこで私は、デーモンというものは、人間をからかったり馬鹿にしたりするために、誰もが努力目標にするほど魅力に富んでいてしかも誰にも到達できないほど偉大な人物を時たま作ってみせるのだ、という風に考えざるをえないのだよ。こうして、デーモンは、思想も行為も同じように完壁なラファエロをつくりあげた。少数のすぐれた後継者たちが彼に接近はしたが、彼に追いついた者は一人もなかった。同様に、音楽における到達不可能なものとして、モーツァルトをつくりあげた。文学においては、シェークスピアがそれだ。君はシェークスピアには反対するかもしれないと思うが、私はただ天分について、偉大な生得の天性について、言っているのだよ。ナポレオンも到達不可能な存在だ。」(山下肇訳、以下同)

 

小林秀雄は、「ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていた」と書いていましたが、ゲーテが「一風変った考え方をしていた」のは、モーツァルトについてだけではありませんでした。「ゲーテとの対話」を通読すればわかるように、ここに挙げられた四人はしばしば連名で語られる人物で、ゲーテにとって「偉大な生得の天性」の異名であり、「到達不可能な存在」の代名詞のようなものでした。ゲーテ自身、彼らのような優れた才能が世に存在したという事実を今くらいはっきりと思い知っていれば、自分は一行も書かずに何か他の仕事をしていただろうという意味のことを何度か語っています。

しかしこれは、偉大な天分に対する自身の才能への嘆きでも謙遜でもありませんでした。「年をとると、若いころとはちがったふうに世の中のことを考えるようになる」とは、単に自惚れがなくなるという意味ではない。「到達不可能な存在」というその事実そのものについて、「若いころとはちがったふうに」考えるようになるということなのです。晩年のゲーテにとって、真に「到達不可能」と思われたのは、実はラファエロでもモーツァルトでもシェークスピアでもナポレオンでもなかった。それら偉大な人物たちを作ってみせながら、人間どもをからかい、馬鹿にするかに見える「デーモン」の存在であった。そしてゲーテは、その「デーモン」の存在について、確かに「冗談を言う積り」ではありませんでした。

第二段落、「モオツァルト」は次のように続きます。

 

ここで、美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人を想像してみるのは悪くあるまい。この意見は全く音楽美学という様なものではないのだから。それに、「ファウスト」の第二部を苦吟していたこの八十歳の大自意識家が、どんな悩みを、人知れず抱いていたか知れたものではあるまい。

 

「悪魔の罠」とは、「デーモンの罠」のことである。そしてここで誤解してはならないのは、ゲーテが語った「デーモン(Dämon)」あるいは「デモーニッシュ(dämonisch)」とは、キリスト教における「悪魔」―神に敵対する存在としての「サタン」(英語のDevil、ドイツ語ではTeufel)のことではないということです。それはキリスト教の文脈に支配される以前の、古代ギリシアの人々が信じていた霊的存在としての「悪魔」―ソクラテスにつきまとい、常に「禁止の声」を囁き続けたというあの「ダイモーン(Daimon)」に近い存在としてゲーテが名指したものでした。しかもソクラテスの「ダイモーン」は、常にソクラテスの味方であったが、ゲーテの「デーモン」は、敵や味方に分類できるようなものではありませんでした。ゲーテの考えでは、それは人間の悟性や理性では計り知ることのできない、現世の力の一切を超越した力であり、人間を思うままにひきまわし、自発的に行動していると見せながら、実は知らず識らずのうちにそれに身を捧げているような、偉大な生産力にしておそるべき破壊力でもあった。そしてその力は、とりわけ優れた人物の上に強く現れると言い、その代表が、ラファエロでありモーツァルトでありシェークスピアでありナポレオンであったのです。

したがって、ゲーテの言う「デーモン」がからかったのは、モーツァルトの音楽を真似ようとした作曲家たちだけではありませんでした。モーツァルトその人も、「デーモン」に我知らず身を捧げた人間の一人であり、そして遂には「デーモン」によって滅ぼされた存在であった。前述の対話の前の年、一八二八年三月十一日の「ゲーテとの対話」では、「デーモン」がこの世にもたらす「最高級の生産力、あらゆる偉大な創意、あらゆる発明、実を結び成果を上げるあらゆる偉大な思想」について存分に語られ、そこにも同じくモーツァルトが、ラファエロが、シェークスピアが、ナポレオンが登場するのですが、その最後の最後で、ゲーテはエッカーマンに次のように語り、「デーモン」の話題を締め括るのです。

 

「だが、君は、私の考えていることがわかるかね? ―人間というものは、ふたたび無に帰するよりほかないのさ! ―並みはずれた人間なら誰でも、使命をにない、その遂行を天職としているのだ。彼はそれを遂行してしまうと、もはやその姿のままでこの地上にいる必要はないわけだよ。そして、彼は神の摂理によって、ふたたび別のことに使われる。しかし、この地上では、何事も自然の運行のとおりに起るから、悪魔ども(die Dämonen ※筆者注)がひっきりなしに彼の足を引っぱり、ついには彼を倒してしまう。ナポレオンやそのほか多くの人々もそうだった。モーツァルトが死んだのは三十六歳、ラファエロもほぼ同じ年齢だったし、バイロンだってほんの少し長生きしただけだ。しかし、みんな自分の使命をきわめて完璧に果し、逝くべき時に逝ったといえよう。それはこの永続きすると予定されている世界で、ほかの人たちにもなすべき仕事を残しておくためなのだよ。」

 

晩年のゲーテの運命観、宿命観の最重要部を成すこの「デーモン」は、「ゲーテとの対話」の中に数え切れないくらい登場します。しかしゲーテにとっても、それは明確に定義できるような存在ではなかったようで、エッカーマンへの説明はときに曖昧、ときに相矛盾するものでもありました。ただ、亡くなる前年に完成させ、死後出版された自叙伝「詩と真実」の最終章で、ゲーテは、少なくともそれがについては、はっきりと定義し、この世を去りました。そのくだりを読んでみます。

 

読者は、この自伝的叙述を読みすすむにつれて、子供が、少年が、青年が、さまざまな道をたどって、超感覚的なものに近づこうと努めた様子を子細に見られた。彼は、最初は心ひかれるままに自然宗教に目を向け、ついで愛をもってヘルンフート派に固く結ばれ、さらに自己に沈潜することによって自分の力を試し、そしてついに一般的な信仰に喜んで身を捧げたのである。彼はこれらの領域の間隙を、あちらこちらさまよい歩き、求め、たずねまわっているうちに、それらのいずれにも属していないように思える多くのものに出会った。そして彼はしだいに、恐ろしいものや不可知なものについての思考は避けたほうがよい、ということを悟ったように思った。彼は自然のうちに、生命あるもののうちにも生命なきもののうちにも、魂あるもののうちにも魂なきもののうちにも、矛盾のうちにのみ現れ、それゆえに、いかなる概念によっても、ましてや、いかなる言葉によっても、とらえることのできないものが見出されると思った。それは神的なものではなかった。それは非理性的であるように思えたからである。それは人間的ではなかった。それは悟性をもたなかったからである。それは悪魔的(teuflisch ※著者注)ではなかった。それは善意をもっていたからである。それは天使的ではなかった。それはしばしば悪意の喜びを気づかせたからである。それは偶然に似ていた。それはなんらの連続をも示していなかったからである。それは摂理に似ていた。それは因果関係を暗示していたからである。われわれを局限づけているいっさいのものを、それは貫き通すことができるように思えた。それは、われわれの存在を構成しているさまざまな必然的要因を、思うままにあやつるように思えた。それは時間を収縮し、空間を拡大した。それは不可能なもののみを喜び、可能なものは嫌悪の念をもって自分から遠ざけるように思えた。他のあらゆるもののあいだに入りこみ、それらを分離し、それらを結合するように思えるこの存在を、私は、古代人の例にならって、また、私のそれと似たようなことを認めた人たちの例にならって魔神的デモーニッシュ(dämonisch ※筆者注)と名づけた。私は、私の従来のやり方に従って、形象の背後にのがれることによって、この恐ろしい存在から自分を教い出そうと努めた。(山崎章甫訳)

 

小林秀雄が「モオツァルト」を書き始めたとき、彼もまたモーツァルトの音楽の「到達不可能」という問題に衝突し、「心乱れた」に違いありません。小林秀雄にとって、モーツァルトの「到達不可能」とは、モーツァルトの音楽を模倣することの不可能ではなく、モーツァルトの音楽を言語化することの不可能であったが、その「到達不可能」の恐ろしくも苦しい認識が、彼にモーツァルトについて書かせた最大の動機であったとも言えるでしょう。いや確かに、彼自身、そう回想しております(「酔漢」)。デーモンにからかわれ、「一人として成功しなかった」のは、モーツァルトの後に続こうとした作曲家たちだけではなかったのです。それはモーツァルト論を企図したあらゆる学者たち、哲学者たち、作家たち、そして批評家たちでもあった。美しいモーツァルトの音楽を聞く毎に、デーモンの罠を感じて、心乱れたの大自意識家―ところが、この第二段落が終わったところで、「モオツァルト」という作品は、突如「ベエトオヴェン」へと転調するのです。

(つづく)

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。

 

ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って

その十三 詩魂の行方~ヨーゼフ・ヴォルフスタール

 

1827年3月26日、ベートーヴェン逝去。その日は嵐、吹雪の空を雷鳴が切り裂いたというが……ほんとうだろうか。あのあまりにも有名な「運命」のテーマが、ふと耳元で鳴る。ヒュルリマン編『ベートーヴェン訪問』の最終章「フェルディナンド・ヒラー」には、たしかにそのような記述がある。だが、どうもちょっとうますぎる。伝説だとしても、その出来はあまりよろしくないと思えるほどだ。もっとも、どちらにしても同じことかも知れない。そのほんの数日前にベートーヴェンを見舞ったヒラー氏の胸にあったのは、その劇的な終焉を伝記に遺したいという意思の真実であり、もしくは、そんなふうにでも語らねばすまないという情熱の真実である。死に至るまで嚇怒せるベートーヴェン。ウィーンに対して、市民に対して、そして自分の人生に対して。ひょっとしたら、楽聖の境地は、最後の弦楽四重奏曲に聴きとれるような、穏やかな達観でもあったかも知れないのに、私などはやはり、朔風にむかって立つかのごときあの風貌を思い、それにふさわしい物語を探してしまう。

 

そのベートーヴェンに所縁の音楽家といえば、直門カール・チェルニーや、上述ヒラーとともに瀕死の楽聖を訪ねたモーツァルトの直系ヨハン・フンメルといったピアニストがあり、「第九」を復活させ音楽史上に定位したリヒャルト・ワーグナー、そして「第九」に続く交響曲の達成をかけて苦闘したヨハネス・ブラームスといった作曲家がある。しかしながら、「ヴァイオリニストの系譜」の執筆者としては、ここはやはり、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61に、自作のカデンツァを添えて復活させたヨーゼフ・ヨアヒムの名を思い出しておきたい。

パガニーニの記憶がまだ鮮明な頃、民衆が「第二のパガニーニ」を待望しているその最中にヨアヒムは現れた。その時13歳、しかしながら既に、まったく独自の存在であったという。演奏だけでない。ヴァイオリニストとしての志向も当時としては独特だった。パガニーニが遺したプログラムは、専らヴィルトゥオーソを期待する聴衆のためのものであった。そこにバッハ、モーツァルト、あるいはベートーヴェンといったクラシックの曲を並べるのは無粋というべき愚行である。ヨアヒムは、フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でその愚行に挑んだというわけだ。ただし、これは、パガニーニに対する反逆ではない、と私は思う。パガニーニの胸裡に秘められたまま終わった彼の意思の継承ではなかったかとさえ考えてみたい。パガニーニのカプリース集は、正銘の古典派ジョコンダ・デ・ヴィートが言ったように「音楽的に美しい」し、そもそもパガニーニ自身、ベートーヴェンへの敬愛を語っており、少なくとも一度はそのコンチェルトを自分の演奏会のプログラムに入れているのである。しかし彼は何かを断念し、おそらく大衆に迎合した。そして喝采を満身に浴びながら、孤独だったはずだ。なるほどヨアヒムは、ついにやって来たというべき「第二のパガニーニ」だが、それはパガニーニ自身の正確な鏡像だったのである。

いずれにせよ、ヨアヒムの出現が、音楽史における古典復興を支え導いたことは確かだろう。今日のクラシックの聴衆は、ヨアヒムが建てたコンサートホールに座っているのである。

ところで、言うまでもないが、1844年のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に始まる古典再興の劇を、ヨアヒム自身の「音」で知ることはできない。ただ、かつてヨアヒム少年が作曲したその曲のカデンツァが、彼の詩魂を、今日の私どもに伝えてくれているばかりである。そしてその最初の記録は、1925年、驚嘆すべき鮮烈さで、ベルリンの若きコンサートマスター、ヨーゼフ・ヴォルフスタールによって果たされたのであった。

 

ヨーゼフ・ヴォルフスタール。今となっては誰も知らない。名前はご存じでも演奏はとなると、たいていはお聴きではない。もとより仕方のないことで、CDはおろか復刻のLPさえほとんど存在しないのではないかと思う。

いわゆるクラシックファンの人たちと昔のヴァイオリニストの話になって、クライスラーやハイフェッツあたりの名前を挙げているうちは平和だが、うっかりロゼーとかヴォルフスタールとか口に出そうものなら、いかにも困った人たちというふうな目で見られてしまう。こりゃあ物数奇のマニアである、と。まともな音楽の話などできないお方である、と。それはそうかも知れないが、ロゼーにしてもヴォルフスタールにしても、同時代のヨーロッパでは圧倒的な存在だったのだ。時代を超える実力がなかったなどということはあり得ない。ただアメリカに渡らなかったというだけである。商業ベースの話なのだ。そんな彼等のレコードは、ヨーロッパの一流のコレクターたちががっちり抱え込んでいる。思えばストラディヴァリウスにしてもグァルネリウスにしても、それら第一級のヴァイオリンがさして散逸することなく現代に遺された、その最大の功労者のひとりは、ルイジ・タリシオという困ったコレクターなのである。逸早くそれらの価値を見抜き、自分の審美眼だけを頼りに、どこかにほこりをかぶっていたようなのを集めに集めて、当人はそれらに埋もれて朽ち果てるように死んでいった。本望というべきだろう。まことに酔狂な話であるが、どうやらレコードの世界にもそんな気配が漂うのである。自分の耳だけを頼りに、これはと思うものを一枚一枚集めては、夜陰に紛れてひとりひそかに聴いている輩がいる。そのうちの一枚が何かの拍子にふと表に出て、流れ流れてこんな私のところにまでやって来たりするのである。困った人たちのおかげである。

その私が、もはや歴史の闇に紛れつつあるヨーゼフ・ヴォルフスタールに辿り着けたのは、他でもない、ジネット・ヌヴーを聴いていたからであった。ヌヴーの師はカール・フレッシュだが、そのフレッシュ門下の筆頭がヨーゼフ・ヴォルフスタールだったのだ。ウクライナのレンブルクに生まれたのが1899年、間もなくウィーンに移り、10歳のときにベルリンのカール・フレッシュ教授に入門した。公式のデビューは16歳。その後、ブレーメンやストックホルムのオーケストラで弾き、再びベルリンに戻って国立歌劇場管弦楽団のコンサートマスターに就任した。また26歳でベルリン音楽大学の教授となって、多くの門弟を育ててもいる。エリートコースである。順風満帆である。フレッシュ門下三傑のうち残りの二名、シモン・ゴールドベルクは彼を驚くべき魅力といい、マックス・ロスタルは傑出した才能と評した。しかし、そのような伝記や挿話は知り得ても、彼のレコードを聴く機会はなかなか来なかった。

やっと手に入れた一枚は、ベートーヴェン1798年作曲のロマンス2番ヘ長調作品50。マイクロフォン以前のいわゆるラッパ吹込みで、ヴォルフスタール25歳頃の録音である。きわめて純度の高い、明晰で、しかも柔らかい音が、遠い過去からやって来るようであった。もう覚えた、と思った。ちょっと格がちがうぞ、とも。ベートーヴェンの後期、たとえばピアノソナタの32番とか弦楽四重奏の14番とか、そういうもののある種の深刻さを楽聖の本領と信じていた私には、白状すれば、この「ロマンス」など、端から侮っていたようなところがあったのだが、まったく不見識であった。薄っぺらなことであった。

ヴォルフスタールのレコードは、実は極端に少ないというのではない。それなりにあるのだが、先に述べたように、明確な価値観と審美眼をもったコレクターは、それを手に入れたが最後、もう手放しはしないのだ。それで市場にも現れず、滅多なことではこっちまで回ってこないというわけだ。ところが日本では、ある限られたレコードではあるが、専門店などでたまに見かけることがある。日本盤があるのである。上述のロマンス、それに協奏曲三曲、すなわち、メンデルスゾーン(ピアノ伴奏版)、モーツァルトの5番、そしてベートーヴェン。ただし、ベートーヴェンの協奏曲は件の1925年のものではない。ベルリン国立歌劇場管弦楽団、指揮マンフレート・グルリット、1929年の録音である。

この5枚組は宝である。1806年、絶望的な難聴が決定的となった頃の、ひょっとしたら、それによってかえって一次元上昇したかも知れないベートーヴェンの詩魂が、まっすぐにこちらにやって来るようだ。ことに、第一楽章を締めくくるヨアヒムのカデンツァから第二楽章への移行、そこにその昇華がみえる、といったら牽強だが、そう言いたくなるような切実な緊張と平穏である。私などには、音楽的素養が不足しているせいか、たいていのカデンツァは、ソリストの自己主張としか聞こえないのだが、彼は違う。1925年の録音にはまだうかがわれるヴォルフスタール的自意識が、四年後のこの録音ではすっかり超克され、作曲者に統合されている……錯覚かも知れないが、そういう感慨をもたらすのである。そして、なぜこんなものが埋もれつつあるのか、それが信じ難いという気持ちにもなって来る。私の耳がそのように聴いているだけで、世間や歴史の評価はまた別にあるのだろうか。しかし考えてみればこの時代、楽聖ベートーヴェンの、しかもヴァイオリン協奏曲という大曲を、ドイツで、しかも二回に亘って録音するなどということが、二流の音楽家に許されるはずがないのである。しかも1925年と1929年である。これは実に、斯界の王者フリッツ・クライスラーの同曲2回の録音年とほぼ重なっている。クライスラー自身、新時代の栄光であったが、さらにその次の時代の輝きを期待されたヴァイオリニストこそ、ヨーゼフ・ヴォルフスタールだった……示唆されているのは、そういう事実だ。

しかし、クライスラーもヴォルフスタールも、まもなくその名前をドイツの音楽名鑑から抹消されることになる。1933年のことだ。すなわち、ナチス政権にとって、ユダヤ人が音楽界の頂点にあるなどということは、絶対に許されざる錯誤なのだ。もっともクライスラーは、ドイツ圏外に拠点をもつことができていた。かくしてその名は今日に至るまで不滅となった。他方ヴォルフスタールにおいてはそれがなされなかった。

 

あの1929年が、すでにヴォルフスタールには晩年なのである。1931年2月、彼は31歳で死んでしまった。ベートーヴェンは彼の白鳥の歌だ。寒い日に、誰かの葬儀に参列して罹ったタチの悪い風邪がもとだそうだ。

思えばあのシューベルトも、ある人の葬儀、それはベートーヴェンだが、そこに出かけた晩、「この次に死ぬ奴に乾杯だ!」などと言って酔っ払って、翌年やはり31歳で、自ら「この次」の奴になってしまったのだった。こんな符合に意味があると言いたいのではない。シューベルトもその最期の年に、交響曲「グレート」すなわち彼自身の「第九」を書いたり、ベートーヴェンの弦楽四重奏14番への衝撃を語りながら弦楽五重奏を作曲したり、どうやらベートーヴェンへの思いの深い「晩年」であったらしいから、つい比べてしまう、というだけのことである。シューベルトは不幸だが、彼の周囲にはその死を悼むボヘミアンを気取ったような友人たちがたくさんいた。その死後にはなってしまったが、音楽史上の重要な地位を与えられてもいる。

ヴォルフスタールはどうか。ちょうどその頃、周囲の人びとをして、実の親子のようだと言わしめた師匠フレッシュとの関係に、何らかの理由で修復不能の決裂が生じていたらしい。そのうえそれに病臥が重なって、ヴォルフスタールの門弟は、すべてマックス・ロスタルの許に移されてしまった。つまりヴァイオリン史上最も優秀な教師の、その後継者の地位を失ったわけである。また、ヴォルフスタールのキャリアを支えてきたのは、クライスラーから貸与されていたグァルネリウス・デル・ジェスだが、重篤の病床にあってクライスラー夫人の厳命を受け、返却の止むなきにいたってもいる。どうも切ない。美的なものは一切ない。身ぐるみはがされて酷すぎて、話にも何もなったものではないのだ。もっともヴォルフスタール自身、スポーツカーでアウトバーンをぶっ飛ばすような、ちょっと破滅的なところがあったとの噂もあり、楽聖への敬虔さの分だけ、現世の人びとに対しては傲岸だったような気配もあり、つまり自業自得みたいなところがあったのかも知れない。それはそうかも知れないが……。

思いがけずシューベルトの名前など出てきたので、ついでに言っておこう。彼の「アヴェ・マリア」の澄明な演奏などは、ベートーヴェンの「ロマンス」とともに、今でも、そのレコードさえ聴ければ、その何か非常に強靭な倫理性と思しきものに触れることができるのである。しかしもはや、それも容易なことではない。そもそもヨーゼフ・ヴォルフスタールその人の、その名を耳にすることさえ稀なのだ。逝いて90年、せめてその冥福を祈りたい。

 

 

ヨーゼフ・ヴォルフスタール……Josef Wolfsthal 1899-1931。

『ベートーヴェン訪問』……酒田健一訳。1970年白水社刊。

フェルディナンド・ヒラー……Ferdinand Hiller 1811-1885。ドイツの作曲家。フンメルに師事した。

最後の弦楽四重奏曲……弦楽四重奏曲16番ヘ長調作品135。

カール・チェルニー……Carl Czerny 1791-1857。ベートーヴェンの弟子。リスト、レシェティツキの師。

ヨハン・フンメル……Johann Nepomuk Hummel 1778-1837。モーツァルトに師事した。

ヨアヒム……Joseph Joachim 1831-1907。ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ジョコンダ・デ・ヴィート……Gioconda De Vito 1907-1994。イタリアのヴァイオリニスト。

クライスラー……Fritz Kreisler 1875-1962。ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父の出自はポーランド、クラカウ。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を、自作のカデンツァを付けて、二回録音している。

ハイフェッツ……Jascha Heifetz 1901-1987。リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ロゼー……Arnold Josef Rose 1863-1946。ルーマニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ルイジ・タリシオ……Luigi Tarisio 1796-1854。イタリアのヴァイオリン・ディーラー、コレクター。先行するコレクターではサラブエのコツィオ侯爵、後継ではジャン・バプティスト・ヴィヨームが知られている。

ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1939。フランスのヴァイオリニスト。

カール・フレッシュ……Carl Flesch 1873-1944。ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

シモン・ゴールドベルク……Szymon Goldberg 1909-1993。ポーランド出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

マックス・ロスタル……Max Rostal 1905-1991。ポーランド出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

(了)

 

ボードレールと「近代絵画」Ⅳ
―「ボードレールはマネより先輩なのである」

異様な風体 ぎこちない歩調であつた。
雪の中でも泥濘でも あがきながら進んで行つた
その有様は 古靴で死者を踏みにじるかのやうで
無関心といふよりも 世界に敵意を抱いてゐた。

シャルル・ボードレール

「七人の老爺」、『悪の華』より(*1)

 

「サロンを敵とする戦は、マネから始ったが、この戦は、マネを崇拝する新しい画家達によって、執拗に続けられたのである」。これは、「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)のルノアール論の中に書かれている小林先生の言葉である。モネ、セザンヌ、ルノアール、ドガ、ゴッホ、ゴーガン、いずれの画家も、戦の先鋒マネを仰いだ。しかし小林先生は、こうも言っている。そのマネよりも、ボードレールの方が先輩なのだ、と。

本稿は、そんな二人の交わりについて、「先輩」という言葉の、字面の意味よりもさらに深くまで掘り、味わってみようという試みである。なお、引用した手紙は、書簡類を丹念に整理されている吉田典子氏の論文「ボードレールとマネ関係資料」(*2)による。

 

 

一八四二年、二十一歳の詩人ボードレールは、亡父の遺産を相続し、継父と母から独立して生活を始めた。当時のフランス文壇は、ラマルチーヌ、ヴィクトル・ユゴー、ヴィニーらによるロマン主義(*3)の全盛期であった。ヴァレリイ(*4)は、当時のボードレールが自らに課した「問題」について次のように言っている。「大詩人たること、しかしラマルチーヌでもなく、ユゴーでもなく、ミュッセでもないこと」という決意が必然的にボードレールの裡にあり、「のみならずそれは本質的にボオドレールでした、それは彼の国是でした。創造の領域はまた矜持の領域でもあり、ここにおいては、他と異なる必要は存在自体と不可分です。ボオドレールは『悪の華』の序文草案に書いています、『高名の詩人たちが久しい以前から詩的領域の百花繚乱たる諸州を分有してしまった、云々。ゆえに私は別なことをしよう……』。要するに彼は、彼の魂と与件との状態によつて、ロマン主義と称される体系、ないしは無体系に対し、益々はっきりと対立するに到らせられ、強いられるのであります」。

ヴァレリイは続ける。「ボオドレールはロマン主義の最大の巨匠たちの作品と人物のうちに間近に観察される、ロマン主義のあらゆる弱点と欠隙けつげきとを、認知し、確認し、過大視することに、最大の関心―死活に関する関心―を持ちます。ロマン主義は全盛期にある、従ってこれは必滅である、と彼は独り言を言い得たでしょう」。

そう独語しながら、ボードレールは一八四〇年代初頭から、のちに『悪の華』に収められる詩を、止まることなく書き溜めていった。それは、「最も純粋な状態に置かれた詩とはどういうものかを、熱烈に追求」(*5)する最初の戦であった。一八四八年には、異常な感激を覚えたというエドガー・ポー(*6)の作品の翻訳を開始、「笑いの本質」やドラクロワ論などの美術批評も次々に発表し、名声は徐々に高まっていく。

そして一八五七年六月、ついに「詩人の心血を注いだ最初にして最後の詩集」(*7)が上梓された。ところが、直後の七月には、「フィガロ」紙上に『悪の華』の非道徳性を非難する論文が掲載され、公共道徳びん乱の容疑で検察庁による捜査も開始された。八月には裁判所での判決が下り、三百フランの罰金刑が課されたのに加え、六詩篇の削除が命ぜられたのである。

この事件は、鈴木信太郎氏が述べている通り、「十数年にわたる歳月を費して一つ一つ創作していった詩篇を、『悪の華』に集大成した時、いかなる秩序を自ら描いて排列したのだろうか。創作年代的順序によったのではないことは明らかであるが、無秩序で構成のないものとは考えられない。……こういう緊密な構成が感じられる連続から、六誌篇が削除を命ぜられた。これは鎖の環が六個所で断ち切られた感をボオドレールに与えたに相違ない」ことであった。(*1)

彼は『赤裸の心』に、こんな短い言葉を刻んでいた。―「『悪の華』の事件。誤解に基く屈辱。あまつさえ訴訟」(*7)

その胸中や、察するに余りある……

 

こんな境遇にあったボードレールのもとに、クーデターを通じ皇帝の位を獲たナポレオン三世と対峙すべく英領ガーンジー島に亡命、独裁者とのペンによる孤高の戦いを続けていたユゴーから、「あなたの『悪の華』は星のようにまばゆく輝いている」という賞賛と激励の手紙が届く。ユゴー以外にも、ヴィニーやサント・ブーヴ(*8)からも同様の手紙が来たが、彼らが「良俗から非難される詩集を敢て公に批評をする勇気も行為も持ち合わせてはいなかった」という鈴木氏の弁は、ボードレールの胸中にこそあったものではなかったか。

 

 

同じ一八五七年頃、二十代半ばの画家エドゥアール・マネは、古典的かつ保守的な指導を旨とするクチュール(*9)のアトリエでの六年間の修行を脱し、フランスはもとよりアムステルダム、ヴェネツィアやフィレンツェの美術館を訪れ、ティツィアーノやルーベンス、ベラスケスという巨匠たちの作品の模写に明け暮れていた。

一八五九年、マネはサロン(官展)に「アブサンを飲む男」という作品で初挑戦したものの、審査員は一人を除く全員が反対票を投じた。その唯一の賛成者こそ、マネが、「クチュールとは別種の人間で、自分の意志を自覚し、それを率直に表明する男」と評したドラクロワ(*10)である。唯一の慰めだった。ちなみに、当時はまだ画家個人が展覧会を開くという習慣はなく、発表の場としては、十七世紀にルイ十四世による王立アカデミーの事業のなかで設立された、官設の「ル・サロン」があるのみであった。

続いてマネは、一八六一年のサロンに、「スペインの歌手(ギタレロ)」と「オーギュスト・マネ夫妻」という作品を送ったところ、なんとか「佳作」としての入選を果たした。彼にとっては初の勝利であり、周囲に若い画家が集まり始める。しかし、その悦びは長くは続かなかった。

一八六三年、サロンに対する若い画家たちの憤懣の声を聞いていたナポレオン三世は、突如、落選作を展示する「落選者展」を開いた。好奇の目とともに殺到した群衆は、嘲笑する暴徒と化した。わけても彼らの目当ては、マネの「草上の昼食」だった。その画の大胆さ、斬新さが群衆をいたく刺激した。「マネ! マネ!」、会場に響き渡る群衆の声は、彼が待ち望んでいた賞賛ではなく、敗者侮辱の怒声だった。

それでもマネは、裸体画をあきらめない。ティツィアーノ(*11)による「ウルビーノのヴィーナス」に着想を得て、「オランピア」を描き上げ、六五年のサロンに出品する。審査委員は、当初「下劣」として拒否したが、お情け半分、見せしめ半分で、展示は許された。しかし、ここでも「群衆は、腐敗した『オランピア』の前で死体公示所にいるように押し合っていた」(*12)。作品が傷つけられんばかりの状況に、当局は最後の部屋の大きな扉の上という高い場所に移動せざるをえなかったが、それでも群衆の激情は収まることがなかった。喫茶店に座れば、若い給仕は頼みもしないのに、彼のことが書き立てられた新聞を目の前に持ってきた。通りを歩けば罵詈雑言の嵐に遭遇するか、好奇の、しかし冷ややかな眼に眺められる日々が続いた……

 

 

そんななか、マネはたまらず、既に家族ぐるみでも懇意となっていたボードレールへ手紙を書いた。当時ボードレールは、生まれ、育ち、愛したパリを離れ、多額の負債から逃れるようにベルギーのブリュッセルに移り住んでいた。全集の版権を売り、講演で資金を稼ごうという目論見もあった。

―親愛なるボードレール、あなたがここにいて下さればと思います。罵詈雑言が雨あられと降りそそぎ、私はかつてこんな素晴らしい目に遭わされたことはありません。……私のタブローについてのあなたのまともなご判断がいただきたかったです。というのも、こうした非難の声のすべてが私を苛立たせるからで、誰かが間違っているのは明らかだからです。……そちらでの滞在が長引いて、きっと疲れていらっしゃるでしょう。早く戻ってきていただきたいです。これはこちらにいるあなたの友人皆の願いです。……フランスの新聞や雑誌がもっとあなたの作品を載せてくれるといいのですが。この一年の間にお書きになったものがあるでしょうから。(*13)

 

ボードレールは、すぐに返事を書く。

―私は、またしてもあなたのことをあなたに語らなければなりません。あなたの価値をあなたに示してみせなければならないのです。あなたが求めているのはまったく馬鹿げたことです。嘲弄の的にされている、からかいの言葉に苛立つ、人びとには正当な評価をする能力がない、等々、等々。あなたは、自分がそういう状況に立たされた最初の人間だとでも言うのですか? あなたは、シャトーブリアンやワーグナーよりも才能があるというのですか? しかし、彼らだってずいぶん嘲弄ちょうろうされたではありませんか? 彼らはそのために死んだりはしませんでした。あなたがあまり慢心しすぎないために私が言いたいのは、この人たちは、各自が自分のジャンルにおいて、しかもきわめて豊かな一世界の中で、それぞれ亀鑑であるのに対し、、ということです。私があなたにこうした無遠慮な言い方をするのを恨まないで下さい。あなたに対する友情はよくご存じの通りです。……私は衰弱して、死んでしまっています。二、三の雑誌に掲載すべき『散文詩』を山とかかえていますが、もうこれ以上先には進めません。子どもの頃、世界の果てで暮らしていた時のように、実体のない病気に苦しんでいるのです。(*14)

 

さらに、この返事を書いた直後、ボードレールは、マネの知人で、彼を擁護しているため人々から侮辱を受けている、という手紙を書いてきたムーリス夫人に宛てて、このように書いていた。

―マネにお会いになったら、次のことを伝えて下さい。小さなもしくは大きな業火、嘲弄、侮辱、不当といったものは、すばらしい事柄で、もし不当さに対して感謝しないなら、恩知らずということになるでしょう。彼が私の理論をなかなか理解できないことはよくわかります。画家たちというのは、いつもすぐに成功が訪れないと気が済まないのです。でも本当に、マネは非常に輝かしい軽やかな才能があるので、気を落としてしまったら可哀想です。……それに彼は、不当さが増せば増すほど、状況が改善されるということに気がついていないようです……(あなたはこうしたことすべてを、快活な調子で、彼を傷つけないようにおっしゃるすべを心得ておられるでしょう)。(*15)

 

このように、マネを力強く励まし、ムーリス夫人にはその声音まで指示するこまやかな心配りを見せていたボードレールだが、自身の健康は肉体的にも精神的にも衰えるばかり、資金獲得も目論見通りには進まず、八方塞がれた境涯にあったことは、彼の文面にある通りであった……

そんな、自らの肉体の衰弱が進むなか、力を振り絞るようにして綴られた彼の言葉を追ってみると、その力の源泉には、マネへの心からの友情に加えて、あの、『悪の華』事件で自らが受けた「誤解に基く屈辱」がまざまざと蘇ってきたこと、さらには、吉田典子氏も言っているように、「芸術の老衰のなかでの第一人者」という言葉が自分ごとでもあるという、強い自負があったに違いない。そこに傍点を付したのはボードレールであった。

いや、そういう紙背にあるボードレールの気持ちは、手紙を受け取ったマネには、痛すぎるほど直知できたに違いない。

 

 

ここに述べた、ボードレールから「マネへの心からの友情」には、単に心友であるということ以上の意味合いがある。小林先生が、「近代絵画」のボードレール論のなかで言っているように、「ボードレールがマネに認めた新しいリアリズムとは、ボードレール自身の詩のリアリズムと同じ性質のものを指す……伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識をもって人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生という『象徴の森』を横切る筈である。……こういう世界は、歴史的な或は社会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現れる。……詩の自律性を回復する為には、詩魂の光が、通念や約束によって形作られている、凡ての対象を破壊して了う事が、先ず必要である、とボードレールは信じたと言える。そうしなければ、言葉の自在を得る事は出来ない、何物にも頼らない詩の世界の魅惑を再建することは出来ない、と信じた。そういう性質の画家の魂を、彼はマネに見たのである。マネの絵に、意識的な色感の組織による徹底した官能性を見た。絵は外にある主題の価値を指さない、額縁の中にある色の魅惑の組織自体を指す」。

 

マネには、中学生の頃から揺るがない信念があった。絵画の授業でかぶとを付けた手本の模写を拒絶し、隣の席の子の顔を描いた。その信念は、「自分は見たままを描く」という、終生変わらない口癖と化した。わけても主題が強要される歴史画は大嫌いであった。

彼が、王立アカデミーにアトリエ教室が設置されたことについて、このように述べているくだりがある。

「そこに特許をもつ眼鏡屋を入れれば、たんに競争心が麻痺するだけではないことが人びとにはわからなかったのだ。問題は、この眼鏡屋がある特定の度数の入った眼鏡を使うことに馴れて、その眼鏡を無闇と学生の鼻の上に掛けてやりたがるようになったことだ。こうして、現に、遠近いずれの眼鏡がよく見えるかの処方に応じて、遠視や近視の世代が誕生してしまった。だが、多くの学生たちの中には、あるとき外に出て、彼ら自身の目でものを見始め、突然、これまで習ったのとはまるっきり別に見えるのにびっくりする者もいる。こういう学生は、彼らが成功しないかぎり追放される。しかし成功すれば、アカデミーはそれを自分たちの成功だと声高に数え上げるだろう」。(*16)

マネには、伝統や約束、通念という、アカデミーやサロンの審査員が強要する「眼鏡」は、はなから不要だったのである。その態度は、一八八三年、壊疽えそした左足を膝下から切断するという緊急手術を経て息を引き取るまで、一貫して変わるところはなかった。

 

 

一八六七年五月二十四日、パリで開かれた第二回万国博覧会の作品展からも締め出されたマネは、自ら多額の費用をかけて個展を開き、その落成式が行われた。しかし、せっかく自力開催できたものの、上述の「眼鏡」を嫌悪する一部の若い画家たちを除いて、大衆からは見向きもされることなく、幕は閉じた……

 

同年八月三十一日、シャルル・ボードレールは母の腕に抱かれて逝った。

その約一ケ月前、母オービック夫人が、マネの友人で、のちにボードレール全集を編集するアスリノーに宛てた手紙が残されている。ちなみに、その頃のボードレールは、脳梗塞に伴う右半身不随に失語症も併発し、明瞭な発声ができない状態にあった。

―シャルルは画家のマネさんに会いたがっています。残念ながら私は住所を知らないので、マネさんに手紙を書いて、友人が大声でお名前を呼んでいることを知らせることができないのです。(*17)

 

そのときマネの耳に、先輩ボードレールが、我が身に鞭打つように絞り出した声が、届いていたのであろうか。

 

 

 

(*1)鈴木信太郎訳「悪の華」岩波文庫

(*2)吉田典子「「ボードレールとマネ関係資料」、『近代』118(神戸大学)

(*3)romantisme(仏)は、一八世紀末から一九世紀にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。合理主義によって失われた人間性と自然を回復するために、理性よりは感情、完成された調和よりは躍動する個性が重視された。ラマルチーヌ(Alphonse de Lamartine 1780-1869年)、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo 1802-1885年)、ヴィニー(Alfred de Vigny 1797-1863年)はフランスの詩人。

(*4)Paul Valéry フランスの詩人、思想家。1871-1945年。引用は「ボードレールの位置」、佐藤正彰訳、(*1)より。

(*5)小林秀雄「現代詩について」、『小林秀雄全作品』第7集所収。

(*6)Edgar Allan Poe アメリカの詩人、小説家。1809-1849年。詩に「大鴉」、詩論に「ユリイカ」など。

(*7)辰野隆「ボオドレエル研究序説」全国書房

(*8)Charles-Augustine Saint-Beuve フランスの批評家。1804-1869年。近代批評の創始者。

(*9)Thomas Couture フランスの歴史画・肖像画家。1815−1879年。

(*10)Eugène Delacroix フランスの画家。1798-1863年。作品に「キオス島の虐殺」、「アルジェの女たち」など。

(*11)Tiziano Vecellio 1488,90頃-1576年。イタリアの画家、ヴェネツィア派の巨匠。

(*12)フランスの批評家ポール・ド:サン=ヴィクトールの評。アンリ・ペリュショ「マネの生涯」河盛好蔵・市川慎一訳、講談社

(*13)1865年5月初め、マネからボードレールへの手紙。(*2)に所収(手紙は以下同様)。

(*14)1865年5月11日、ボードレールからマネへの手紙。シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand 1768-1848年)はフランスの作家、政治家。ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883年)はドイツの作曲家。

(*15)1865年5月24日、ボードレールからポール・ムーリス夫人への手紙。

(*16)アントナン・プルースト「マネの想い出」藤田治彦監修、野村太郎訳、美術公論社。なお、著者は、「失われた時を求めて」の著者マルセル・プルーストとは別人。

(*17)1867年7月20日、ボードレールの母オービック夫人からアスリノーへの手紙。

 

【備考】

坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ―我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号

同「ボードレールと『近代絵画』Ⅱ―不羈独立の人間劇」、同2021年春号

同「ボードレールと『近代絵画』Ⅲ―『エヂプト』の衝撃」、同2021年夏号

 

(了)

 

『本居宣長』の<時間論>へ Ⅲ ―生と死の時間

一 おっかさんという蛍

 

1946(昭21)年の5月が終わる頃、小林秀雄は母を失った。

 

母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかったし、話した事はない。尤も、妙な気分が続いてやり切れず、「或る童話的経験」という題を思い附いて、よほど書いてみようと考えた事はある。今は、ただ簡単に事実を記する。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私はもうその考えから逃れる事が出来なかった。

 

このように「妙な経験」の「事実を記」しつつ、「実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである」と書き、その時の状況や心情がこのように順序立てて進行したのではないと言う。

 

その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何もかも当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。

 

当時、「扇ヶ谷の奥」の家から横須賀線の踏切まで歩いていた「私」は、蛍を見失ってから、いつもは決して吠えかかることなどしない「S氏の家」の犬に背後からずっと吠えかかられ、くるぶしを舐められながらも振り返らずに歩き続けていたが、背後から「男の子が二人、何やら大声で喚きながら」走って行った。その子供たちは踏切番に向かって「火の玉が飛んで行った」と言っていた。

 

私は、何んだ、そうだったのか、と思った。私は何の驚きも感じなかった。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基づいていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事後の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直截な経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。と言う事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。

二ヶ月ほどたって、私は、又、忘れ難い経験をした。

 

この経験とは、坂口安吾が「教祖の文学―小林秀雄論―」(昭22・6)で「去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かったという話をきいた。泥酔して一升ビンをぶらさげて酒ビンといっしょに墜落した由で、この話をきいた時は私の方が心細くなったものだ」と書き出していた。いわば、この事故を戯画化しつつ批評家・小林秀雄批判を展開したことで広く知られる評論であるが、事故は1946(昭21)年の8月の半ばに起きたという。これを「忘れ難い経験」と言い表すのは、次のような意味あいがあったからである。

 

或る夜、おそく、水道橋のプラットフォームで、東京行の電車を待っていた。まだ夜更けに出歩く人もない頃で、プラットフォームには私一人であった。私はかなり酔っていた。酒もまだ貴重な頃で、半分呑み残した一升瓶を抱えて、ぶらぶらしていた。と其処までは覚えているが、後は知らない。爆撃で鉄柵のけし飛んだプラットフォームの上で寝込んでしまったらしい。突然、大きな衝撃を受けて、目が覚めたと思ったら、下の空地に墜落していたのである。外壕の側に、駅の材料置場があって、左手にはコンクリートの塊り、右手には鉄材の堆積、その間の石炭殻と雑草とに覆われた一間ほどの隙間に、狙いでもつけた様に、うまく落ちていた。胸を強打したらしく、非常に苦しかったが、我慢して半身を起し、さし込んだ外灯の光で、身体中をていねいに調べてみたが、かすり傷一つなかった。一升瓶は、墜落中握っていて、コンクリートの塊りに触れたらしく、微塵になって、私はその破片をかぶっていた。私は、黒い石炭殻の上で、外灯で光っている硝子を見ていて、母親が助けてくれた事がはっきりした。断って置くが、ここでも、ありのままを語ろうとして、妙な言葉の使い方をしているに過ぎない。私は、その時、母親が助けてくれた、と考えたのでもなければ、そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである。

 

では、この二つの経験をどう処理すべきなのか。しかし「いろいろ反省してみたが、反省は、決して経験の核心には近付かぬ事を確かめただけであった」という無力感に苛まれる自らを表現する他に術がない。この書こうとしても書けない状況について思い悩んだ末、自身がこれまで書き記して来たこと、あるいは、文章を書く行為の意味について言及していく。

 

当時の私はと言えば、確かに自分のものであり、自分に切実だった経験を、事後、どの様にも解釈できず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生ま生ましい姿で、保存して置くことも出来ず、ただ、どうしようもない経験の反響の裡にいた。それは、言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも言っている声の様であった。併し、今も尚、それから逃れているとは思わない。それは、以後、私の書いたもの、少なくとも努力して書いた凡てのものの、私が露わには扱う力のなかった真のテーマと言ってもよい。

 

さて、前稿(2021年夏号掲載)の末尾に引用した蛍にまつわる経験を綴った文章を読みつつ、私にとって、それと二重写しになって浮かび上がった小林秀雄の文章が上の引用文、一つ目の「或る童話的経験」であった。そしてこれは小林秀雄自身の強い意向によって未刊行に終わった「感想」(ベルグソン論「新潮」昭33・5~38・6)の連載第1回の冒頭に掲げられているエピソードであり、もう一つの「忘れ難い経験」とともに母親の死去に関わる自身の不可思議な経験に捉えられ、どうにも逃れることが出来ないことを再確認したという文章である。そして、この経験を合理的に処理することが不可能だと自覚したところから、「感想」と題されたベルグソン論が書き出されているところに注意したい。 すなわち、この特殊な経験の姿を見いだそうとする懸命な言葉が、「おっかさんという蛍」であり、また「母親が助けてくれた事がはっきりした」という表現とならざるを得なかったこと、さらに「何もかも当り前であった」というまったく疑念を差し挟む余地のない経験そのものを指向するものでもあったことである。では、その私から過ぎ去ろうとしない経験、言い換えれば、日付とともに過去へ追いやられ、安定した記憶の倉庫にしまい込まれる出来事、誰が見ても明らかな事実として、交換可能な記録へと整理されることを拒んで止まない経験の機能に寄り添ってみること、かつ、その動きのままを表現することは出来るのであろうか。しかし、それこそが「私が露わに扱う力のなかった真のテーマ」だと言うのである。もちろん他の誰であっても、これを「露わに扱う」ことは出来ないのではないか。

「感想」第1回はこの二つの個人的な経験の姿を素描した後、この「真のテーマ」を引き摺りながら、「私」が先の事故後の療養で「伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した」ことを記している。

 

その間に、ベルグソンの最後の著作「宗教と道徳との二源泉」をゆっくりと読んだ。以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。私は、学生時代から、ベルグソンを愛読して来た。

 

母親が死に、自分から過ぎ去ってしまった事実に、真っ正面から抗うような二つの経験は、「私」においてはまったく終了していない。そのどうにもならない反響の中で、「宗教と道徳との二源泉」(注・書名は「感想」初出のママ)を読んでいくことが「楽想の様に鳴った」という。これはしかし、この五十日間の読書の時間において、この著作がなんらかの解釈装置を与えてくれたのではない。学生時代からの「愛読」の経験が先の「反響」して止まない私の経験に「楽想」、楽曲の構想を与えてくれたと言うのである。多様な音が鳴り響くばかりの耳に、主題や旋律という音楽的感興が示唆されたということ。したがって、「反響」は徐々に整えられていったのである。こうして、五十六回で中断された「感想」は、繰り返し愛読したベルグソンの著作を次々と論じていく体裁を取っていった。その第二回では早くも主題となる問題提起が端的に示されるが、それは「哲学者は詩人たり得るか」という、不思議な問いであった。

 

体験したもの感得したものは、言葉では言い難いものだ。という事は、事物を正直に経験するとは、通常の言葉が、これに衝突して死ぬという意識を持つ事に他ならず、だからこそ、詩人は、一ったん言葉を、生ま生ましい経験のうちに解消し、其処から新たに言葉を発明することを強いられる。ベルグソンが、自ら問うたところは、こういうやり方は、果たして詩人の特権であるか、それとも、詩人の特権と見られるほど深く世人の眼に覆われてしまった当り前な人生の真相なのであるか、という事であった。 彼は先ず「意識の直接与件論」でこの問題を提出した。誤解を恐れずに言うなら、それは、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった。実在は、経験のうちにしか与えられていない。言い代えれば、私達は実在そのものを、直接に切実に経験しているのであって、哲学者の務めも亦、この与えられた唯一の宝を、素直に受容れて、これを手離すまいとするところにある。其処からさまよい出れば、空虚と矛盾とがあるばかりだ。……(略)……彼も亦詩人の様に、先ず充溢する発見があったからこそ、仕事を始める事が出来た。彼にとって考えるとは、既知のものの編成変えでは無論なかったが、目的地に向っての計画的な接近でもなかった。先ず時間というものの正体の発見が、彼を驚かせ、何故こんな発見をする始末になったかを自ら問う事が彼には、一見奇妙に見えて、実は最も正しい考える道と思えたのである。これは根柢に於いて、詩人と共通するやり方である。最初にあったのは感動であって、言葉ではない。ただ、感動は極度に抑制されただけである。

 

母親の死にまつわる二つの抗いがたい経験は、こうした文章の、文体の流れとなって、楽曲の姿を現していくのである。しかし、この「感想」とだけ題されて1958(昭33)年5月から1963(昭38)年6月の5年間にわたって「新潮」誌上に連載された文章は、第五十六回を以て中断し、未完のまま破棄された。その理由については、わずかな発言を踏まえた憶測を出ないし、何故書けなかったのかを追究することにそれほど意味があるとも思えない。それよりも、中断された最後のページ、「新潮」昭和33年5月号第五十六回の219ページを再確認してみよう。

 

存在するもの、生成するものの内的本質が何であるにせよ、私達は、その中にいるのだ。「私達の内部の深みに下りて行って見給え、接触するところが深ければ深いほど、私達を表面へ突返す力も強くなるだろう。哲学的直観とは、この接触であり、哲学とは、この弾み(élan)である」と彼は言う。

これも定義ではない、そのニュアンスを感じなければならない言葉である。哲学的直観とは、或る根源的な観念というような言葉ではなく、意識の直接与件を保持しようとする現実の努力なのだ。意識が、外界に向って身体の動作によって己を現さんとする自然的な傾向に抵抗する努力なのである。実在との接触は認識論の問題ではない。実在の究極的二重性が、内的努力という形で経験されているのだ。誰の経験の中にも在る、この言わば純粋な経験を、通常、言葉によって混濁した経験を診断して救い出すのが大事なのである。

 

そして、次の文章で最終回を終えていた。

 

ベルグソンの仕事は、この経験の一貫性ユニテの直観に基くのであり、彼の世界像の軸はそこにある。「哲学は、ユニテに到着するのではない。ユニテから身を起すのだ」

 

長大な「感想」の記述は文字通り紆余曲折を経てはいるが、最終回となったこのページで、先に見た第一回から説き起こされた主題へ、自らの「妙な」そして「忘れ難い」経験へと戻って行ったのである。すなわち、その切実な経験とは、<母親>が実にかけがえのない実在だったということの確信であり、それとの接触が呼び起こした反動がベルグソンの著作を再読していく過程を通して音楽のように演奏されて来たのであったが、その果てに再びあの経験の「ユニテ」を想い起こすところへ帰らざるを得なかったということになる。

 

二 死を迎え入れる言葉

 

母親の死という絶対的な経験と、そこから、あたかも奔流となって噴き出して来た音響的幻覚を「感想」の文体は迎え入れることが出来たのだろうか。言い換えれば、ベルグソンの著作を再読することは<母親>という実在への言葉、これを象る文章たり得ていたのだろうか。しかし、それを追究することは先述したように、「未完」のままの破棄という筆者自身の覚悟を読み取るに如くはないとして、それよりも、1961(昭35)2月の「文藝春秋」に「言葉」(「本居宣長に、『姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ』という言葉がある」と始まる)が書かれ、同年7月に刊行された『日本文化研究』8号(新潮社)に「本居宣長―『物のあはれ』の説について―」が発表されており、このことを確認しておいた方がいいだろう(1)。そして、この年は「感想」の第二十~三十回の連載時期に相当しており、ベルグソンを論じる上で最も重要な著作である『物質と記憶』を論じ始めたところとなっている。連載回数に注目すれば、「感想」も全体のちょうど半ばに達する頃であり、この連載も佳境に入って来たところと言ってもいいだろう。しかし、先の2つの論述内容を確かめると、そこには本居宣長に関する豊富な知見が披瀝されており、それをかなりな分量(二つ合わせると原稿用紙換算で90枚弱になろう)で発表していたことになる。さらに、それらは1、2年間で学び得るような知見ではとてもないほどの詳しさ、深さを併せ持つものでもあった。すなわち、「感想」連載の途中、それもおそらく早い時期、もしかしたらその連載の前後あたりに、もう一つの「楽想」、その主題が奏でられ始め、芽を出し、枝葉となって伸びていたこと、それもまた「ユニテ」としての経験のもう一つの弾みであったことを確かめておこう。

端的に言えば、ベルグソンの著作を改めて再読し、その全体像へ向かって書き進めながら、一方では本居宣長の著作を読むこと、書くことは、ほぼ同時期に開始されていたのである。結果として見れば、こちらの枝葉こそが後々に大地へ根を張り、やがて大樹となって行ったのだ。

さて、未完のまま中断し、未刊行とされた「感想」の第1回の終わりには、ベルグソンの遺書を読むくだりがあり、「本居宣長」の連載第1回も遺言書を読み進めていくところから始まっているので、両者の近似を指摘する論者もあるが、しかし、ベルグソンの遺書と本居宣長の遺言状の内容は相当な差異があると言わねばならない。つまり、ベルグソンは刊行した著作以外の遺稿類の閲覧を禁止しただけだったが、本居宣長のそれは、自らの死後の処置、墓の設計図から、葬送の式次第、その後の祭り方などを詳細に記述したものであり、「本居宣長」の記述は、「この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい」と、遺言書の文体に注意を促すものであった。また、これを「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿」とも記していることに焦点があると考える。いわば、本居宣長自身の死を迎え入れる言葉が連なっている文章への注目を指摘しておきたい。

さて、そうしたテーマに関連して想起されるのが、小林秀雄が古稀を迎えた際に書かれた「生と死」という文章である(正確にはその前年である1971(昭46)年11月に行われた講演を翌年「文藝春秋」2月号に発表したもの)。これは「文藝春秋」が刊行50周年を迎えるにあたり、自らの文筆生活の50年間を振り返って「吾が身の変り方」に改めて想いを致すといった内容であるが、家族に「近頃、親父も呆けた」と言われることについて、こう記している。

 

呆けたという特色は、そんなものではない。棺桶に確実に片足をつっ込んだという実感です。人は死ぬものぐらいは、誰も承知している。私も若い頃、生死について考え、いっそ死んで了おうかと思いつめた事があるが、今ではもう死は、そういう風に、問題として現れるのではない。言わば、手応えのある姿をしています。先だっても、片付けものをしていたら、昔、友達と一緒に写した写真が出て来た。六人のうち四人はもういないのだな、と私は独り言を言います。その姿が見えるからです。

 

「その姿が見える」とは、もちろん、写真を手にしてそこに残る亡き友人たちの撮影像に見入っているわけではない。そしてこうしたことが「棺桶に片足を突っ込む」という「経験が生んだ」言葉を味わうことなのだと言う。また、その先の本文には『徒然草』からの引用が見える。

 

人の一生の移り変りでは、移り変るのが我々自身なのであって、我々が、外から、その移り変りの序でを眺めるという性質のものではないのである。この意味合から、兼好は、死期に序でなし、と言うのです。だが、人々は、なかなか、これを納得しない。死から顔をそむけたがるからだ。「死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり」と言う。これもずい分強い言い方である。潮干狩に行った人々は、皆、潮は沖の方から満ちて来ると思って沖の方を見る。「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」―生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである、というのが兼好の考えなのです。

 

さらに、「吾が身の移り変りは、四季の移り変りとは様子の違うところがある。まるで秩序ついでの異なるものだと言ってもいい」と続けて、

 

そのように人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私達には与えられていない。その事が納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。

 

したがって、生きることと死ぬことはまるでコインの裏表のように、実は一体となっていることが示唆されて来る。それでは、生の中に常に兆し続けている死の姿を見つめて、これを迎え入れるとはどういうことなのか。「生と死」はこの後に『論語』の孔子と子路の問答に言い及び、子路について「ソノ死ヲ得ザラン」と言わざるを得なかった孔子の想いに触れつつ、「孔子が死を得ると言うところを、兼好なら、死を迎えるとか、待つとか言うだろう」と論じていく。その次に「先月、志賀直哉さんがお亡くなりになった」と転じ、無宗教で執り行われた葬儀に触れて、しかし、その「宗教的経験の方は、志賀さんの心のうちで、全く個性的な形で現れる事になる。古稀の志賀さんに、こういう文章がある」と、このように引用している。

 

私は少し極端に迷信嫌いなもあって、縁起の悪い事をしたり、云ったりする事が好きだ。益子の浜田庄司君に骨壺を焼いて貰い、今、それを食堂に置き、砂糖壺に使っている。最初は自家の者も余り喜ばなかったが、習慣的に段々何とも思わなくなり、家内も浜田君に同じ物を頼み、既にそれも焼けているそうだ。学校や役所の廊下にある痰壺のような焼場の骨壺が厭やなのと、砂糖壺の必要があって、浜田君に頼んだのである。

 

これは、志賀直哉の「年頭所感」と題する文章で、1952(昭27)年1月3日に発表されたものであるが、これを単なるいたずら好きのエピソードではなく、「個性的な形」として現れざるを得ない「死を得る工夫」なのだとして、さらにそれが「ひそかに練られる所は、この作家の全作品の歴史が創られて来たその内省と同じ場所」であると言う。ややわかりにくい表現かもしれないが、たとえば「城の崎にて」(1917(大6)年)を読み返し、「自分」の周りの生き物たちの必然の死と偶然の死、そして「自分」の偶然の生を見つめ、生と死が渦巻く経験から逃れることができない「自分」は何を感受していたのか。その最終部の感懐を確かめてみると、自らの死生観を一般化しようとする知的な営為に走ることなく、「死を得る工夫」が文章表現上に練られている様相に気づかされるのである。

 

死んだ蜂はどうなったか。其の後の雨でもう土の下に入ってしまったろう。あの鼠はどうしたろう。海へ流されて、今頃は其の水ぶくれのした体を塵芥と一緒に海岸へでも打ち上げられている事だろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。……

 

三 死を待望する言葉

 

さて、こうした話題を考えていくともう一つ、挙げておきたい作品が思い浮かぶ。1942(昭17)年に発表された「バッハ」である。これは、バッハの夫人であったアンナ・マグダレーナ・バッハの著書『バッハの思い出』を読んだ感動から書き起こされたものだが、ここには先に紹介してきた言葉より、もう1歩を進めた言葉が展開されているのである。バッハ夫人の言葉は次のように引用される。

 

「私が、少し不注意に或いは落着かずピアノを鳴らしたりすると、彼は、手を、私の肩に落しました。そんな事さえ、今でもはっきり思い出せるのですから、この伝記は、在りのままに、正確に書き度いと思っています。それは、半ばやさしい半ば不機嫌な小さな揺ぶり方でした。私が今、わざともう一度不正確の罪を犯しさえすれば、ああ、彼の手を肩の上に感ずる事が出来ようか」。誤解しない様に、この老夫人は、過ぎ去った日を惜んでいるのではない。過去があまり眼の辺りにあるのに驚嘆しているのである。こういう風に始った伝記は、次の様に終る。「伝記を書き終った今となっては、私の存在も終りに達したと思われます。この先き更に生きている理由がありませぬ。私の真の存在はセバスティアンが死んだその日に終りを告げて了ったのですから」。こんな風に書く為には、どれほど完全な充足した生活の思い出が必要であったか、心弱い女性の泣き言と見ず、そういう風に思い廻らす能力を、近代人は、次第に見失って来たのではあるまいか。

 

バッハの音楽の不思議な魅力が、「こんなに鮮やかに言葉に移されるとは殆ど奇蹟だ」とまで賛辞を惜しまない批評となっており、「読後、バッハの音楽を聞きたい心がしきりに動き、久しく放って置いたレコードの埃を払っ」て蓄音機を聞いたと記しているが、しかし、この批評文は具体的なバッハの音楽、『バッハの思い出』中に溢れている楽曲の数々に言及することはなく、バッハ夫人自身の思い出が湧き出す勢いのまま描き出されたような、その筆致に寄り添うように書かれていく。「回想記は、バッハの音楽に近付く唯一の方法を明示している」として、これを「フーガの技法」を繰り返し聞きながら確かめたと言うのである。

そして最後に「長いから引用はしない」と断って、バッハの死後、その思い出とともに生きて来たバッハ夫人に訪れた一つの確信について要約している。

 

これは早くから感じて驚いていた事だが、彼はその事について一言も語らなかったし、私達は幸福で多忙だったし、熟考してみる暇がなかった事なのであるが、それは、バッハは常に死を憧憬し、死こそ全生活の真の完成であると確信していたという事だ、今こそ私はそれをはっきりと信ずる、と。

 

バッハにいよいよ最後の時期が近づいて来た時のことを回想する箇所、『バッハの思い出』の「終焉」の章に、この文章は現れる。今、ダヴィッド社の1967年刊行の訳本(山下肇訳)によって確認してみる。

 

この最後の時期にいたって、ある深いおおらかな明るさが、彼の上にあらわれました。死というものは彼には、少しも恐ろしいものではなく、むしろ生涯にわたってたえずあこがれていた希望でありました。死は常に彼には、あらゆる人生の真の完成であるように思われたのでございます。彼の音楽にも、この魂の情調はよくあらわれていました。死とこの世からの別離という観念が、彼のカンタータに表現されるときほど、彼のメロディーが美しくまた情熱的になったことはありません。

 

確かに、作中にはバッハが抱いていた「死への憧憬」に触れる箇所がいくつか出てくるのだが、「セバスティアンが生きているうちに、彼の憧憬がこれほど強いものだとは感じ」なかったし、「天賦を持たない人間には、このことは理解できない」とも書き添えられており、夫人はこれを説明することの困難さを率直に訴えている。しかし、「彼が世を去って、ありし日の彼の人柄、気質、言葉などを、こうしてよくあれこれと思い見るようになり、いつもすぎ去った時代にばかり自分の心をむきあわせるようになってから」だんだん分かるようになったと言うのである。

すなわち、これは、ただ己の死を待つ、準備するというよりもさらに能動的な、しかし、覚悟というような張りつめた悲壮感が漂っているのでは決してなく、むしろ、やすらかで平穏な生を内側から支えている、そうした確信と言えるものなのかもしれない。

 

四 生死の二分法を超えること

 

小林秀雄『本居宣長』という作品は、死という絶対的な事象を取り扱っている文学だと思っていた。これは単行書が世に出てから4、5年目あたりの私の感想であったと思う。それから40年近くの時間を閲してみると、あの宣長の遺言書を読み解いていく冒頭部と、そして最終章、第五十章の印象がかくも強かったのかと改めて思う。最終章を終えようとする際に、「ここまで読んで貰えた読者」を再び第一章の遺言書へ誘おうとする記述に沿って読み進めれば、『本居宣長』という作品がループ状の読書行為を促していることにも気づくことになる。全編のそこここで呼びかけられる「読者」という言葉に成り代わろうと精読して来た者は、いやでも再び遺言書へ向かわざるを得ない。そして「最後の自問自答」というテーマを課せられる。しかし、そのループ状になる読書行為を何年も、何回も繰り返して現在に至っている私の中では、『本居宣長』を読むことにおいて浮上する死のイメージは絶対的な、強ばったようなものではなくなっている。その感覚を頼りにして、「本居宣長」連載の最終年前後に窺われる柳田国男の著作への言及を掘り起こすことも、これまでの本誌において試みて来た。あの『山宮考』を考えた頃からもうかなりの時間が経ってしまったが、本稿もまた、死という事象の柔らかさについて、小林秀雄のいくつかの文章に読み込めるところを拾い集めてみたという体裁になっている。まずは生と死の時間を哲学的考察のように直接に問題化するよりも、この時間の周辺部を少しずつ拡げていくことが出来ればと考えている。

『本居宣長』のループ軌道の先に見えて来つつあるものは、死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿なのである。そこへ向かってもう少し自分の言葉を探して行きたい。

(つづく)

 

注(1)「小林秀雄『感想』と宣長論の交錯―昭和三十五年の記述を考える―」(「國學院雑誌」第105巻11号 平成16年4月)で、この点を考察したことがある。

 

冷たい雨

雨の音が聞こえた。遠くから近づいてくるようだ。私の体は風船のように膨らんで張りつめ、雨の音と一つになる。柔らかい猫の手が、それを破裂させた。

私は夢の中で何かを探していた途中だったらしい。眠りに沈んだ人間を引き上げようとベッドの上を歩きまわっている猫に向かって、思わず「なにを探しているの?」と訊いてしまった。返答はなく、雨音だけが静寂の中に続く。自分の夢うつつに気が付いた。体の疲労感からして、今日もまた早朝に違いない、と思った。

五日ほど前から、コルシカ島へ旅立った友人夫婦の猫を預かっていた。その猫が、毎日早朝に私を起こすのである。メインクーンという種類だけあって、とても体が大きい。寂しがり屋で、私が部屋を移動すればついてくる。席を立てば、すかさずその席をとる。夜はベッドで一緒に寝る。そして朝、まだ太陽が昇らないような頃、その重い体で私を起こす。

ベッドを広々占領して寝そべる猫のぬくもりを手に感じながら、私はふと、夏からバルコニーで育てている苺のことを考えた。きっとこの雨を喜んでいるだろう。熟す前に摘まれた、市場に並ぶための苺と違って、バルコニーの赤い果実、いや「偽果」は、小粒ながら味が濃い。夢の中で探していたのは、苺にやる水であったような気がしないでもない。

 

「はじめに<眠り>があるだろう」――ヴァレリーの未完の詩集『アルファベット』はこんな言葉から始まる。かの「はじめに言葉ありき」は過去形だが、詩人はここで敢えて未来形を使い、読者を困惑させる。しかも、その「はじめ」において主体は分裂しているのである。「沈黙、私の沈黙よ! 不在、私の不在よ、おお私の閉ざされた形よ、私はあらゆる思考を放棄し、全霊を傾けておまえを見つめる。」

『アルファベット』は、フランス語ではほとんど使われないKとWを除く、24個のアルファベットを彫刻したイニシャル飾り文字に合わせて、それぞれの冒頭の語がA、B、C……から始まる24個の散文詩を作り、詩集にまとめてはどうかという、ある書店主からの注文に基づいた計画だった。ヴァレリーは、24の詩篇を一日の24時間に対応させようと考え、「それぞれの時刻に、さまざまに異なった魂の状態、活動、あるいは傾向を対応させるということは、かなり容易である」と書き記したが、この詩集は未完のまま終わっている。

 

あなたは昼間に眠ってばかりで、こんな時間に人を起こす、猫の詩はどうやって始まるの? ……猫はつまらなさそうな顔をする。私は彼女の望むままにベッドを出て、日が昇るまで、ブラインドのない窓の傍に置いたソファで毛布にくるまることにした。

夜が明けはじめると、部屋は少し白くなった。雨の線が見えるようになり、苺の色が分かるようになった。バルコニーの苺は、吹き付ける雨のシャワーを浴びて、緑の葉を痙攣させている。そして小さな球体を二つ、三つ、ぶら下げている。今にも事切れるという線香花火のように見えた。

熟した苺は、人の血で咲いた花、という詩句を私に思い出させた。フランス語で花というと、詩のことでもある。「詩集 recueil」の語源には、「摘む recueillir」という動詞がある。そうならば、詩というのは時に、人の血で咲いた花そのものとなるのかもしれない。

猫が、まるで鳩のような声を出して、苺に見入る私を呼んだ。みゃあ、と鳴くのは何かを要求するときで、鳩みたいな声を出すときは、ちょっとしたコミュニケーションであるらしいと、なんとなく理解していた。

大きなメインクーンは、ふわりと椅子にとび乗って、私が前夜机に置いておいた本のにおいを嗅いだ。小林秀雄の『作家論』。民友社から、昭和二十一年に初版が発行されている。猫は頭を古本に撫でつけ始めた。やめる気配もなく続くその動作に、どういう意味があるのか、犬しか飼ったことのない自分には分からない。

私は猫が頭を撫でつけるように、あるいは人が眠って目覚めるように、いつもこの本に戻ってくる。何年前のことだろう、モンマルトル墓地でスタンダールの墓参りをしたとき、「書いた、愛した、生きた」という有名な墓碑をこの目で確認して、随分ロマン主義的だと思ったものだが、小林秀雄の『作家論』を読むうちに自分は、その三つがもはや独立では成立し得ないような地平に、想定していたような意味を一切もたないまま、辿り着いていた。そこには暁の微光があった。

 

ヴァレリーは、『アルファベット』のために夜明けの詩「C」を書いた。

「なんと時は穏やかで、夜の若々しい終わりは微妙に彩られていることだろう! 泳ぐ人の活発な動作によって、鎧戸が右と左に押し開かれ、私は空間の恍惚のなかに侵入する。大気は澄みきり、汚れてはおらず、穏やかで、神々しい。私はおまえたちに敬意を表する、眼差しのあらゆる行為に差しだされた広大さ、完璧な透明さの始まりよ。」

詩人とは泳ぐ人であるらしい。夜明けとともにポエジーの世界へ泳ぎだす。その海には、氷のかけらが残っている。

「月は溶けゆく氷のかけらである。私は(突如として)あまりにはっきりと理解する、一人の灰色の髪の毛をした少年が、なかば死んだような、なかば神格化されたかつての悲しみを、このほとんど感じられぬほどに溶けてゆく、柔らかくて冷たい、きらめいて、消えかかった物質でできている天体のうちに見つめているのを。私は少年を見つめる、まるで自分の心の中に私が少しもいなかったかのように。かつての私の青春は、同じ時刻の頃、消えゆく月の同じ魅惑のもとで、思い悩み、涙が溢れてくるのを感じたのだった。私の青春は、この同じ朝を見たのだ、そして私はいま自分が私の青春のかたわらにいるのを見る……。」

この季節の雨は長くは続かない。雨上がりのバルコニーに出ると、空には薄っすらと白い月が浮かんでいた。なんだか月を見るのがつらくなって、バルコニーの下を見やると、今度はめまいがした。フランス式の三階、日本でいう四階だが、薄暗いと随分高く感じる。落ちたら死ぬのだろうか、などと考える。そうなると、ムッシュー・クレバスのことを思い出さずにはいられなかった。彼はこの倍くらいの高さから落ちたのだ……。

 

夏が去ったばかりの頃、ある日の夕刻に、カフェでランデヴがあった。が、相手が大幅に遅刻するのは待ち合わせ場所に着いた時点で分かっていた。いつもはカフェクレームを頼むけれども、紅茶の方が時間に耐えられる気がして、その日は紅茶を選んだ。

テラス席と店内席の間、屋根までガラス張りになっている空間を気に入り、その中途半端な場所に腰かけた。ガラスの壁は赤い枠で縁取られており、屋根にたまった落ち葉は透けて見えた。テラス席の方が見えるように座ると、後ろからは、食器が軽くぶつかり合う音が心地よく聞こえた。ちら、ちら、と黄色い木の葉が散るのが、たまに視界の端に入る。出されたお湯をカップに注ぐと、紅茶はガラスの壁から差し込む光を受けて、薄氷を張った冬の朝の湖のように危うい輝きを放った。

すぐに本を開いたが、隣の男性二人の会話が気になってしまって、集中できなかった。二人とも五十代だろうか。テラス側に座っている人が「僕は三十年前に死んでいたかもしれないからね、命がありがたいんだよ」と随分明るい声で言うので、何の話だろうと思った。

「南アルプスで、クレバスに落ちたんだ」

店内側に座っている人が「本当ですか!」と反応するのと同時に、私も思わず本から顔を上げた。

「父親と一緒に、下山している時にね……その日は気温が少し高かったのに、登山を決行してしまったんだ」

「クレバスって、どのくらい深かったんですか」

「25メートル。でも幅が1メートルしかなかったから、真下にそのまま落下したのではなくて、クレバスの側面にぶつかりながら落ちた。二人とも。で、僕は頭を打って意識を失った」

「意識は戻ったんですか」

「うん。でもクレバスの底は暗闇だった。前方に、微かな光が見えたから、そこから脱出できるかもしれないと思って、懐中電灯を片手に前進したんだけど、途中でさらに深い穴があることに気付いた。ここに落ちたら命はないと思った」

「でしょうね……」

「だから、光の届く場所には行けなかった。で、眠ったら凍死するでしょう? 眠ってしまわないように、父と励まし合ってとにかく耐えた。22時間耐えた」

「22時間も……。そのあと、救助が来たということですか」

「奇跡的にね。翌朝、額に雫が落ちたのを感じたんだ。上に登山者がいるのだと分かった。すぐに二人で助けを求めて叫んだけれど、声は届かなかった。その時は絶望したね」

「へえ……」

「でも、幸いピッケルを一本、クレバスの横に落としていたので、上にいる人がそれを見て、クレバスに飲まれた人間がいると気付いてくれたみたいでね。救助を呼んでくれた」

「よかったですねえ……」

話に集中していないことを装うために、私は本のページをめくったり、屋根の落ち葉を数えたりした。

「待って、最後に面白い話がある」

「なんですか」

「落下した時に、父親の足が顔に当たって、瞼を切っていたみたいでね。その時流れた血が、クレバスの底で凍ってしまった。凝固したんじゃなくて、鮮血のまま氷結した」

「はあ」

「それが、救助されてクレバスの外に出たときに、溶けたんだよ。顔が一面、血だらけになった」

「あはは! 銀世界に鮮血頭、なんて光景だ」

「みんな慌てていたから、僕は、大丈夫ですよ、昨日の血ですから! って言ったのさ。あ、瞼を21針縫ったんだけどね、そのあと……」

本当の話なのだろうが、だからこそあまりにも本当らしい語り方なので、かえって非常によく出来た演劇の中にいるような気がしてくる。

                                                              

ムッシュー・クレバスは会計を済ませ、「話、聴いてた?」とでも言いたげな表情で私に一瞥をくれ、いなくなった。ほとんど入れ違いに、待ち合わせの相手が入ってきたのが見えた。

光の届かないクレバスの底で、人は何を思うのだろう。思い描こうとしたが、私の想像は青いまま摘まれてしまった果実のように、熟しきれなかった。そんな劇的なことを経験したことがないから、分からないのであった。

しかし、自分は少なくとも一つのこと知っている、と思った。クレバスのような深淵は、本当はいつもすぐ傍にある。暖かくなり始めた時、雪の輝き始めた時が危ないのだと知りながら、広がる銀世界を前に、私は高揚せずにはいられない。そういう自分を、私は知っている。

 

パリのカフェは、私をまたしても通りすがる人にさせる。知らない人の人生。いつだって、ガラスの屋根に黄色い落ち葉がほんの数枚積もるまでの間、居合わせるだけである。

ある日の夕刻耳にした見知らぬ男性の物語は、喜劇の印象を私に残したけれども、早朝のバルコニーにおいては深淵の恐怖でしかなかった。風が頬を切るように冷たく通り過ぎる。しかし……。

詩人が空を泳ぐ人、今まさに泳ぎ出そうとするである人ならば、人の血で咲く花は、天に向かって伸びつつある花でもあるだろう。人の命が燃やす花弁の環は、真ん中に虚無を保ったまま、いつしか空に輪舞を描き、星とともにきらめく。大地に寝そべる人間は無秩序な輝きをつなぎ、ある物語を見出す。そこにポエジーがあることに気付く。

 

輪舞(Ronde)と韻を踏むのは、世界(Monde)である。その世界は、巡り、巡らせながら、同時に波(Onde)を打っている。ヴァレリーは、「G」で波打つ海を陶酔の炎に変える。

「はるかな海は、のすぐそばに置かれた、火に満たされた杯となる。あの葉叢の上に身を横たえてきらめいている地平線を、私は飲み味わう。私の視線は、このいっぱいに光り輝くものからもはや離れられなくなった唇だ。彼方では、大空がを波また波にそそぐ。天と海との間に宙吊りにされた熱気と光輝があまりになので、善と悪、生きる恐怖と存在の喜悦は、輝き、死に、輝き、死に、静寂と永遠とを形づくる。」

ヴァレリーには「匂い立つ樹」であるとさえ思われた、大気を通して体に入る「飲み物」、垂直に伸びてゆく生命の海は、円熟期の詩人が愛を歌う、昼間の連なりに差しかかると、目を唇に変え、水を炎に変え、彼を陶酔に誘う。海が匂い立って昇るのではなく、天が炎を海に注ぐ。見る(Voir)ことは飲む(Boire)ことになる。

雨上がりの湿った空気をバルコニーから吸い込んだ私は、潮気が感じらないのを残念に思った。向こうに見えるあの白樺の樹々は、頼りないけれども「匂い立つ樹」でありえるだろうか、輝きを炎に変えて注いでくれるだろうか、などと考え、猫の待つ部屋に戻った。

 

今度は猫の方が、ガラス越しに苺を眺めている。苺の粒は自分の重みに耐えられないかのように、その身をプランターの外、それもバルコニーの箱ではなく部屋に近い方に投げ出し、うなだれている。まるで向日葵とは正反対の、陰気な花のようだ。

向かいのあの白樺もうなだれている、と思った。毎年春が来ると、揺れ撓りきらめく白樺の姿を見て、この世界に光があり、風があることを思い出すのだが、夏も終わるとそれは、うなだれている、としか言いようのない恰好になる。寒々しい緑のカーテンそのものだった。

みゃあ、と餌を要求する声が聞こえた。こうやって猫の毛が舞って床に落ちるまでの間にも、白い月は溶けてゆく。何もかもが、あっという間に形を失う。

 

ヴァレリーは、詩とは「自らの灰から再び生まれる」ものであるとした。私はその意味を知りたかった。知りたくて、自分のマッチ箱を空にするまで火を灯し続けた。踏みしだいた灰からは何も生まれなかった。

シモーヌ・ヴェイユはこんなことを言っている。

「きらめく星と花ざかりの果樹。どこまでも永久に続いてかわらぬものとこの上なく脆くはかないものとは、ともに永遠の印象をもたらす。」

花のはかなさを知らない人間に、この一瞬を、この一行を永遠にすることなど、できるはずもないのであった。

 

気付けば月はすっかり溶けていて、部屋は均一な空気に満たされている。

フォンダンショコラやバニラアイスのようなものは、ほんの僅かな時間しか隣り合わせていることができない。ただ夢うつつの幸福だけが、寄せては返す波の中で、その恍惚を延長する。白くて甘い天体は、覚醒した体の温かい血潮に薄っすらした後悔を残して、消えてしまった。

 

午後から再び雨が降り、雷雨になるとのことだった。天気の悪い土曜日、猫は一日中人間の傍にいられるので嬉しいようだ。ごめんね、と言って、雨が本格的に降る前にパンだけは買いに行くことにした。外に出ると、なんともいえない空気が体を包む。これからひどい雨が来るのが分かる。

人の心にも雷雨はある。しかしその轟音は誰にも聞こえない。轟音にかき消される叫び声もまた、誰にも聞こえない。隣の人の雨雲を、自分の頭上に迎え入れることができたらいいのにと思う。最初から同じ空の下になんていないのだ。雪山の亀裂のような、恐ろしいへだたりを受け入れる努力がなければ、同じ雨に打たれることもできない。

 

パン屋の前で、うなだれたままじっと動かない白樺の樹々を見た。『アルファベット』の「М」が聞こえてきそうである。

「マダム、わが友よ、あなたは私に訴える、花が綺麗だから、その匂いをかぎに来て頂戴、たくさんの薔薇が私にそそぎかける快楽、驕慢、陶酔を、一人では受けとめきれません、と。」

「こうまで繊細で、こうまで敏感で、こうまで脆い驚異の花々を、私はいつくしむ術を知りません……。友よ、あなたは花を愛しておいでだけれど、私が愛しているのは樹なのです。花は物ですが、樹は存在です。私は部分よりも全体を好みます。」

「樹は生長しない限りは存続せず、その数多くの葉は、海の上で起こることどもを、声をひそめて歌うのです。」

「樹よ、私の樹よ、もし私が名づける権限をもっているなら、<>がおまえの名となるだろう。」

なんだか、分かりやすいだけに釈然としない詩である。

駐車場脇の花壇を見る。丸くて赤い、陰気な花は見当たらない。白樺越しに見える三階のバルコニーを思った。目には見えない赤い「偽果」が、私の心の外壁を削り、発火する、この「自己を構築しつづける」「樹」を燃やす、そんな気がした。

「N」は「М」に応答する。

「いいえ、あなたには何もおわかりにならないでしょう、と彼女は私に言った。

なぜって、あなたは、名づけてはならないものを、名づけてしまったのですから。私は名前をもたないもの、自分のなかにしかないものを何にもまさって尊重するのです。」

「ほんのわずかしかたない私の薔薇で、私には十分です。」

身体と精神の目覚めを歌い、あるいは補完関係の強烈なポエジーに形を与えた詩群に比べ、これらはあまりに素朴であるという気がする。

「O」では、並んで歩くこの二人に翳りが差す。

「さて、その庭の中には、しばしの間、苦痛の生の果てしれぬ持続の間、この庭の整然としてかぐわしい形姿の上を、動き、生き、彷徨い、停まる、ひとつの深淵のようなものがあった。」

「ほとんど同じ二つの思念の間に、ひとつの深淵のようなものがあって、その深淵の両側には、同じひとつの苦痛、ほとんど同じ苦痛があった。」

「Q」には、夕刻の光と色彩がある。

「なんという優しい光が、和解した魂のみつめるものをひたすことか。どんな微細な色合いの差も感じられる。苦痛の甘い終結が、私たちの中にいる奇妙な子供に生命を返してくれるとき、色彩はいま創りだされたばかりのようだ。」

私は当初、これを感性の見出す慰めと読んだが、間違っているような気がする。

 

癒しの光を求めて文学に向かうのは、昨日の血を溶かすには十分で、今日の血を温めるには不十分な、人肌には冷たすぎる海を泳ぐことに似ている。その海には恍惚も陶酔もない。救済の文学を生きるというのは、それとは違う。昨日の血で花を咲かせ、今日の血で花を染めることだ。そして、その花が死に、再び生まれるのをこの目で見ることだ。

 

今夜も月は凍てつくのだろうか。氷の溶けきった空を仰ぐと、顔に水滴が当たるのを感じた。ぽた、ぽた、と、雨粒が額やこめかみに落ちた。それは流れる涙のように耳を濡らした。ひょっとすると私は、既にクレバスの底にいるのかもしれない。温かいひよこ豆のパンを抱えるようにして、アパルトマンへ急ぐ。

苦しいことの粒、楽しいことの粒。一つ一つお箸で取り除いてゆけば、命の底には、芯のある粒にはなりえない悲しみと優しさだけが残り、漂う。私の命は、ぽた、ぽた、という、音にならない音、それ以上にはならずに堪える何か、つまり、静かで強い悲しみと優しさを、そっと抱いている。それを愛することは、粒を舐め、粒を噛んで生きるだけの毎日を、虚無から救う。

湿気で膨張した玄関のドアを強引に開けると、猫は私の脚に体を摺り寄せてきた。今日は一緒に本を読もうか、とほとんど無意識につぶやく。それには鳩の鳴き声で返答があった。キッチンで猫が餌を咀嚼している間、私は摘みたての真っ赤な苺を口に放り入れ、目をつむる。カリ、カリ、という音が遠くから聞こえた。

 

遅い昼食を済ませると、雨音が強くなってきた。猫を隣の椅子に座らせ、背筋を伸ばして『作家論』に向かう。古本のにおいがつんと鼻をつく。最後の章「ヴァレリイ」はこう終わる。

「僕は繰り返す。何處にも不思議なものはない。誰も自分のテスト氏を持つてゐるのだ。だが、疑う力が、唯一の疑へないものといふ處まで、精神の力を行使する人が稀なだけだ。又、そこに、自由を見、信念を摑むといふ處まで、自分の裡に深く降りてみる人が稀なだけである。缺いてゐるものは、いつも意志だ。」

雷に打たれたという感じがした。精神が浅い方の底にとどまることほど愚かなことはない。己の深淵にまなざしを向けることのない者に、ヴァレリーの何を語れるというのか。「ヴァレリイは、人間を抽象してCogitoといふ認識の一般形式を得たのではない、自分の純化に身を削つたところに、テスト氏といふ極めて純粹なもう一人の人間を見付けたのである。」そこまで精神力を徹底させた詩人を相手にするような時、格闘なきポエジーの発見があるとは思えない。

 

冷めたお茶のように透き通る猫の目は、私に問いかけていた。お前は樹と花のどちらを愛する人間なのか。存在と物。生い茂るものと枯れるもの。名前を与えられたものと、与えられなかったもの。匂い立つ海の樹と、人の血で咲いた花。……

激しい雨音が、広がる沈黙に輪郭を与えたように思われた。

私は多分、脆い花の上に落ちる樹の影を愛している。それは、自分が奈落の底と信じた場所よりもさらに深くにある、本物の底の色をしている。炎の歌がその影を天に打ち上げ、揺らめきの中で永遠にする時を、私は待ちのぞんでいる。書くことは愛することであり、生きることであり、一瞬を永遠にすることであるはずだ。

しかし、この雨音がもっと激しく響くあの奥底にしか、私の探す炎はない。地上に届く声を一度失わなければ、何を燃やすこともできないのだ。そう思い知ればこそ、雨はなお冷たい。

(了)

ヴァレリー『アルファベット』の翻訳は

『ヴァレリー集成Ⅱ <夢>の幾何学』塚本昌則・編訳、筑摩書房

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』の翻訳は

『重力と恩寵』田辺保訳、筑摩書房

から拝借しました。

筆者

 

編集部註

ここに掲載した飯塚陽子氏「冷たい雨」中の小林秀雄「ヴァレリイ」は、現在は「『テスト氏』の方法」と改題され、『小林秀雄全作品』(新潮社刊)の第12集に収録されています。

またその「ヴァレリイ」の末尾「缺いてゐるものは、いつも意志だ。」は、第3次『小林秀雄全集』(新潮社版、昭和43年2月刊)以降、「缺けてゐるものは、いつも意志だ。」と改められています。

 

 

「かたち」について

「人間は現実を創る事は出来ない、唯見るだけだ、夜夢を見る様に。人間は生命を創る事は出来ない、唯見るだけだ、錯覚をもって。僕は信ずるのだが、あらゆる芸術は『見る』という一語に尽きるのだ」

小林秀雄「芥川龍之介の美神と宿命」

 

小林秀雄先生は、哲学者アンリ・ベルクソンを若い頃より愛読されてきた。小林先生の生命に対する認識の奥底には、ベルクソンの哲学がじっと坐っている、先生の著作を読んでいるとそう感じる瞬間がしばしばある。『本居宣長』という最後の大仕事においても、ベルクソンとの対話を通じて磨かれた生命の哲学は、存分に活かされていたのではないかと思う。その事を証するかのように、小林先生は江藤淳氏との対談で、宣長とベルクソンには本質的な類似があると、次のように述べている。

 

「ところで、この『イマージュ』という言葉を『映像』と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている『かたち』という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。『古事記伝』になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、『アルカタチ』とかなを振ってある。『物』に『性質情状アルカタチ』です。これが『イマージュ』の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思った事がある。ベルグソンは、『イマージュ』という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう『かたち』の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。『古事記伝』には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがままの『かたち』を、どこまでも追うという学問の道、ベルグソンの所謂『イマージュ』と一体となる『ヴィジョン』を摑む道は開けているのだ。たとえ、それがどんなに説き難いものであってもだ」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集、「対談『本居宣長』をめぐって」、229頁)

 

『本居宣長』では、事物の「性質情状(カタチ)」を含めて、物の「かたち」や、神の「かたち」など、「かたち」という言葉が様々な文脈で使われている。対談からも明らかなことだが、小林先生は宣長の使った「かたち」という言葉を、ベルクソンが言う「イマージュ(image)」と密接なものであると捉えた。『古事記伝』における「性質情状アルカタチ」という言葉にもなると、「これが『イマージュ』の正訳です」とさえ述べている。イマージュは、ベルクソンが精神の働きについて考える上で不可欠とした、『物質と記憶』における思索の中核を成す言葉である。従って、『本居宣長』で「かたち」という言葉に込められた意味合いが、重要なものでない筈がない。小林先生の言う「かたち」とは、一体何を意味しているのだろうか。

 

「ベルグソンは、『イマージュ』という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋な知覚経験を考えていたのです」と小林先生は言うが、「性質情状アルカタチ」はイマージュの正訳であるのだから、これを「純粋な知覚経験」を意味するものと受け取って間違いはないだろう。「主観的でもなければ、客観的でもない」という微妙な表現に、この言葉の奥深い意味合いの謎がある筈ではあるが、ひとまず、ここでは事物の「性質情状」を「純粋な知覚経験」と解しておく。「天地はただ天地、男女はただ男女、水火はただ水火」の、「おのおのその性質情状アルカタチ」が有る、と宣長は言う。川の水に手を入れた際のヒンヤリとした質感や、彼方に燃える火に感じられる、赤さや暖かさ、そうした事物の純粋な知覚経験が、「性質情状アルカタチ」という言葉で表現されているものと思われる。次の引用は、『本居宣長』本文で「性質情状」に触れている箇所である。純粋な知覚経験は、私達が現実を知る根源的な手段であり、誰しもに備わる基本的な智慧であると言えるが、物の「性質情状」は宣長にとって学問の与件であったと、小林先生は言う。

 

「空理など頼まず、物を、その有るがままに、『天地はただ天地、男女メヲはただ男女メヲ水火ヒミヅはただ水火ヒミヅ』と受取れば、それで充分ではないか。誰もが行っている、物との、この一番直かで、素朴な附き合いのうちに、宣長の言い方で言えば、物には『おのおのその性質情状アルカタチ』が有る、という疑いようのない基本的な智慧を、誰もが、おのずから得ているとする。これは、宣長が、どんな場合にも、決して動かさなかった確固たる考えなのであって、彼は、学問は、そこから出直さなければならない、と言うのである」(同40頁)

 

「物には『おのおのその性質情状アルカタチ』が有る」。しかし、私達にとってこれはあまりに当たり前な話のようにも思える。何故、こうも当たり前なことが問題となるのか。それは、小林先生がベルクソンによって初めて目を開かれたと言う『言葉というものの問題』のためだろう。江藤氏との対談で小林先生は、「話が少々外れるが、私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのです。それから後、いろいろな言語に関する本は読みましたけれども、最初はベルグソンだったのです」(同228頁)と、ベルクソンの話題を切り出している。言葉を操る人間は、言語に内在する論理の力を借りて、物を考える。言葉の力が正しく働かされるなら、経験はより詳しい認識へと進展していく。しかし、その論理の力の故に、言葉というものはややもすると経験から離れ、空理へと陥る危険と常に隣り合わせにある。それが、ベルクソンが説いた「言葉というものの問題」であり、彼は自身が哲学の真の方法に開眼した際のことを、「それは、私が、言葉による解決を投げ棄てた日であった」(「小林秀雄全作品」別巻1、「感想」、23頁)と回想する。言葉というものが抱えるこの問題は、いつの時代も変わることはないようであり、『本居宣長』では、荻生徂徠が、自然の理で人間の歴史を解釈しようと試みた宋の時代の儒学者らを難じる姿が描かれている。宣長も、「無きことを、理を以て、有げにいひなす」(同38頁)虚しい理の働かせ方を批判し、事物の経験から離れず、これを精しくする実理を空理から明確に区別した。事物の「性質情状(カタチ)」、純粋な知覚経験から物を考える学問の道は、言語に馴れきった私達にとって、これを強く意識していなくては歩み難いものなのである。

「言葉というものの問題」について、小林先生は折に触れては繰り返し言及されている。その一つに、小中学生に向けて書かれた文章「美を求める心」における次の有名な一節がある。ここでは「言葉というものの問題」とともに、「見る」という純粋な知覚経験が、愛情という努力を要する行為であり、汲み尽くしがたい知の源泉であることが説かれているのである。『本居宣長』に親しんでいる方には、宣長の使った「ながむる」という言葉が連想されることだろうと思う。

 

「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはすみれの花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難かしいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです」(「小林秀雄全作品」第21集、『美を求める心』)

 

ベルクソンが「イマージュ」という言葉を必要とした理由も、「理」が生み出す偽りの問題から離れ、事物の純粋な経験から哲学を始める必要があったからである。イマージュについて、小林先生は江藤氏との対談で次のように述べている。

 

「実在論も観念論も学問としては行き過ぎだ、と自分(筆者注;ベルクソン)は思う。その点では、自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、実在論にも観念論にも偏しない、中間の道を歩いている。常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。常識にとっては、対象は対象自体で存在し、而も私達に見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これは『imageイマージュ』だが、それ自体で存在するイマージュだとベルグソンは言うのです。この常識人の見方は哲学的にも全く正しいと自分は考えるのだが、哲学者が存在と現象とを分離してしまって以来、この正しさを知識人に説く事が非常に難かしい事になった。この困難を避けなかったところに自分の哲学の難解が現れて来る。また世人の誤解も生ずる事になる、と彼は言うのです」(「『本居宣長』をめぐって」、229頁)

 

ベルクソンが『物質と記憶』(1896年)を書いた頃、物質の解釈について、哲学では実在論と観念論という二つの極端な理論が机上で争わされていた。観念論は、感覚的な諸性質から成る知覚を出発点に置いて、知覚こそが物質の全てであると論じる。実在論では、知覚の背後にはそれに対応する普遍的な諸法則の数々に従う実在があって、その実在こそが物質であり、物質は知覚とは何ら関係のないものであると考える。ここで言う実在と知覚は、先の引用で小林先生が「存在」と「現象」と表現しているものだが、物質における「存在」と「現象」のこうした分離が生じた背景には、物質の科学の成功がある。「デカルトは、物質を幾何学的延長と同一視してしまったために、物質をわれわれからあまりに遠いところに置いてしまった」(「物質と記憶」、杉山直樹訳、講談社学術文庫、11頁)とベルクソンは言うが、実在論者はデカルトが踏み固めた道の延長線上にいる。そこでは、色彩や匂いといった知覚が、物質とは何ら関係のない錯覚のごとき「現象」としか見なされないわけだが、それを錯覚であると捉えるにせよ、実在論者も何らかの仕方で知覚というものが存在する事自体は認めざるを得ない。こうなると、論理の必然的な帰結として、物質と精神という異なる二つの実体を打ち立てる通俗的な二元論へと陥るか、或いは、知覚を脳という物質に付随して生じる謎めいた現象とでも見なさざるを得ない。

要するに、「観念論においても実在論においても、人は二つのシステム(筆者注;知覚と物質)のうち一方を措定して、他方のシステムをそこから導出しようとしている」(同35頁)のであり、通俗的な二元論が両者の間を曖昧に揺れ動く、という次第なのだ。ここでは、物質と知覚は互いの定義からして永遠に関係性が断たれており、どこまで行っても、本質的な意味で両者が接点を持つことはない。理論の詳細化は進んだにせよ、現代も基本的には同じ難問を抱えた状況にあると言うべきだろうと思う。

何故、このような解き難い問題が生じてしまうのか。ベルクソンはこれを悟性というものの避けがたい傾向の故であると言う。「われわれの悟性は論理的な区別を、ということははっきりした対立を立てることを、まさに自分の役割としているので、そうした二つの道のそれぞれに突進し、どちらでも道の果てまで進んでしまう」(同352頁)。その結果、他方には感覚的な諸性質が剥ぎ取られた分割可能な延長としての「存在」が、もう片方には延長を持たない感覚的な諸性質から成る「現象」が拵えられ(注1)、「悟性はこうやって自分から対立を作り出しておいて、大仰に騒ぎ立てて見せるのだ」(同352頁)。この「悟性」の問題とは、言うなれば先に論じた「理」と同質な問題であって、これをどれだけ推し進めようとも困難を解く道が開かれることはないのである。

では、物質をどのように捉えたならば、精神の理解に通じる道は開かれるのか。その問いの出発点として、ベルクソンが不可欠とした概念こそが「イマージュ」であり、常識から出発せよ、と彼は言う。あなたが眼を閉じたなら、あなたの知覚が消えると同時に物質も消え去ってしまうのだと、そうした観念論の過激な主張を、私達の常識は受け入れたりはしていない。また、哲学に関わり合いのない人に向かって、実在論者がそう考えるように、物質はあなたの知覚経験とは一切関係のないものとして存在しているのだと説いたなら、彼はその主張を疑うだろう。常識に生きる人は、物質というものを、見たり、触れたり、感じたりと、自身が見て取る姿のままに存在していると、素朴に考えているはずである。次の引用は『物質と記憶』の序文でイマージュについて説かれた箇所であるが、ベルクソンの言うイマージュとは、常識が見て取っている物質のことに他ならない。

 

「常識にとっては、ものはそれ自体で存在しているものであり、しかも他方、われわれが見て取るがままにそれ自体、色彩豊かなものでもある。これはイマージュだが、それ自体で存在しているイマージュなのだ。……本書の第一章における「イマージュ」という語は、まさに以上のような意味で用いられる。われわれは、哲学者たちの論争をいっさい知らないような人の観点に立つ。そのような人は、ごく自然に、物質は自分が見て取る姿のままに実在している、と考えているだろう。そして、彼は物質をイマージュとして知覚しているのだから、物質とはそれ自身、イマージュなのだと考えるはずである。観念論や実在論は、物質についてその存在と現れを分離してきたわけだが、要するに、われわれはこの分離以前において物質を考察するのだ」(同「第七版の序」、10-11頁)

 

また、附言しておくと、「宣長は、一切の言挙を捨てて、直ちに『古事記』という『物』に推参し、これに化するという道を行った」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集、34頁)というように、『本居宣長』で小林先生が「物」という言葉を使うとき、ベルクソンの「物質とは『イマージュ』の総体のことだ」(「第七版の序」10頁)という、そうした意味での「物質」の理解が念頭にあったことは、疑いようのないことのように思われる。

 

このイマージュから出発して、『物質と記憶』においてベルクソンは、私達の精神の働き方を、日常生活における何気ない経験や、失語症などの臨床的事実に照らし合わせながら、記述していく。悟性による惰性を投げ棄てたベルクソンの哲学は、現実の複雑さの要請から難解なものとなるが、彼の思索を辿る上で、その導きとなる目印として二つ原理を手放さないでほしいとベルクソンは読者に呼びかける(注2)。第一の原理は、私達の精神の諸機能が、生きるという根源的な要求に根差していること、『物質と記憶』の表現に従えば、本質的に「行為」に向けられているということ、精神のいかなる分析もそのことを目印として進められるべきである、とベルクソンは言う。第二の原理は、先にも論じてきた「理」の問題に関わるものであり、私達が「行為」のために身に着けた習慣は思考の領域に逆流して、そこに偽りの問題を拵えてしまう、そうした傾向があることに注意しなくてはならない、というものである。例えば、知覚の働きにしても、観念論も実在論も「知覚にはいつもまったく思弁的な目的を割り当てて、知覚が目指すのは何か分からない利害関心なき認識だということにしたがる」(同92頁)のだが、第一の原理を基にすれば、純粋な「知覚」とは、物質というイマージュから身体が行為の要請に従い切り出す「ある特定のイマージュ、つまり私の身体の可能的行為に関係づけられたもののこと」(同28頁)であると、ベルクソンは第一章で説く。第二章以降も同様の原理に基づき、記憶の問題を扱いながら、精神の働き方が明らかにされていく。その詳細をここで要約することは叶わない。

しかし、彼の哲学の歩みを次のように要約することは可能だろう。ベルクソンは、悟性の習慣的な働きを警戒しながら、常識が見て取っているイマージュを追い、精神の働きを見極めた。生命に対する、ベルクソンが「精神による精神の直接的な視覚」と評する「直観」をもって(注3)。「ベルクソンが行った哲学の革新」とはそのことであり、これと同質な歩みを、「あるがままの人の『ココロ』の働き」を極めれば足りるとした宣長の仕事に感じると、小林先生は言うのである。また、私は思うのだが、小林先生の『本居宣長』という仕事は、ベルクソンによって見極められた精神の働きが、人間の生涯で如何に展開されているのか、これを宣長という個性に即して明らめるという、そうした意味合いがあったのではないか。「かたち」という言葉の扱われ方を見ていても、小林先生の批評におけるベルクソンの哲学の活かし方、その位置づけについては、相当に意識的なものがあったように感じられる。そうでなければ、解釈というものをあれほど嫌った小林先生が、宣長とベルクソンに本質的な類似を見ようはずがないだろう。

 

 

注1:ベルクソンがイマージュと呼ぶ、常識人が見て取っている物質には、色彩や手触りなどがある。ガリレオは、この経験的与件としての物質から感覚的性質を剥ぎ取り、物体の大きさ、ないしその距離の変化のみを扱うことで、「落体の法則」といった私達が初等教育で習う物理学への第一歩を踏み出した。ちなみに、「熱さ」という経験を捨象して、これを透明なガラスに封入した液体の膨張、すなわち「幾何学的延長」として計測する温度計を最初に考案した人もガリレオである。ここで言われている「延長」については、物理学が扱う、物差で計測可能な物質がもつ性質をイメージしてもらえればよい。デカルトは、この「延長」を物質の本質的性質であると見なし、「デカルト座標系」を考案して延長としての物質の運動を代数的に扱う道を踏み固めた。こうした物質の科学の歩みをベルクソンは否定しないが、同じ方法を精神の理解に適用することの問題を説いている。

注2:「しかしながら、実在の錯綜そのものであるこうした錯綜の中でも、二つの原理を手放さないでおけば、そうそう迷うことはないだろうし、実際、それらはわれわれ自身にとっても研究の導きの糸になったのである。第一の原理は、われわれの精神の諸機能は本質的に行為に向けられたもので、心理学的分析は常にそれらの実利的な性格を目印にしながら進むべきだ、というものだ。第二の原理は、行為する中で身についてしまった習慣は思弁の領域にまで逆流し、そこにまがいものの問題を作ってしまうということ、そして形而上学はまず最初にこの種の人為的な曖昧さを一掃しなければならないという、このことである」(ベルクソン「物質と記憶」、杉山直樹訳、講談社学術文庫、19頁)

注3:「したがって、私の語る直観は何よりもまず内的な持続へ向かう。直観がとらえるのは並置ではなく継起であり、内からの生長であり、絶え間なく伸びて現在から未来へ食い入る過去である。直観とは精神による精神の直接的な視覚である。そこにはもはや何ものも介在しない。空間を一面とし言語を他面とするプリズムを通した屈折も起こらない。状態が状態に隣り合い、それが言葉となって並置される代わりに、そこには分割できず、したがって実体的で、内的生命の流れの連続性がある。それゆえ直観とはまず何より意識を意味するのだが、しかしそれは直接的な意識であり、対象とほとんど区別のつかない視覚であり、接触というより合一する認識である」(ベルクソン「思考と動き」、原章二訳、平凡社、44-45頁)

(了)

 

風雅に従ふ

小林秀雄先生は、「本居宣長」の第二章に入ると、「彼の思想の一貫性」「彼の生きた個性の持続性」という言葉を繰り返し書かれている。「宣長の学問」というより先に、「宣長という人間」に驚かれている先生の言葉が出てくる、そのたびごとに、読む者は何かしら深遠なものに出会う予感を覚え、そのとっかかりとも結びとも言えそうな宣長の晩年のうたに、第三章で出会わされてはたと立ち止まる。

家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共

宣長が門人のために「先ず生計が立たねば、何事も始まらぬ」と詠み与えたこの歌は、単に学者としての生き方をさとしているだけとは思えない。ここにもまた、宣長の思想の一貫性、生きた個性の持続性が感じられるのである。

 

宣長の京都遊学時代は彼の人生の萌芽期であった。「学問に対する、宣長の基本的態度は、早い頃から動かなかった」として小林先生は、宣長が友人たちに宛てた書簡によってその態度を示している。(第五章)

―「不佞フネイノ仏氏ノ言ニ於ケルヤ、コレヲ好ミ、之ヲ信ジ、且ツ之ヲ楽シム、タゞニ仏氏ノ言ニシテ、之ヲ好ミ信ジ楽シムノミニアラズ、儒墨老荘諸子百家ノ言モマタ、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百ぼんぴゃく雑技ざつぎ」から「山川さんせん草木そうもく」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。このような態度を保持するのが、「風雅ニ従」うという事である。……

すべてこの世で出会う天地万象を我が物として受け入れ、それを好み、その事象を率直に信じ、楽しむ、この「好信楽」という基本的な態度、すなわち「風雅に従ふ」ということを宣長は忘れなかった。

彼は、別の友人に宛てた書簡で、この「風雅」について「論語」の「浴沂詠帰」の話を引く。

―晩年不遇の孔子と弟子達との会話である。もし世間に認められるような事になったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人曾晳そうせきだけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこうこたえた、「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ブウニ風シ(雨乞あまごいの祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。孔子、これを聞き、「ゼントシテ、嘆ジテハク、吾ハ点(曾晳)ニクミセン」……

理想とする先王の行ったまつりごとの道を再現しようとして失敗した孔子は、弟子たちと各地を放浪しながら問答し、先王の教えを六経に書き残した。その孔子の教えに従う弟子たちは、思い思いに国の政に対して勢い込んで持論を披瀝した。しかし、曾晳そうせきという弟子だけは大変違った意見を述べた。「私は、晩春のころ、合い物の薄手の服をきて、元服をおえた青年たちと、まだ元服前の少年たち数人を引き連れて、南方のという川に行きたいのです。皆で川に入り、水浴をした後は、あの雨乞の祭の舞をまう土壇の上で風にあたって涼み、歌をうたいながら帰ってくる、それがしたいのです」……孔子は、この曾晳の意見に、深くため息をついて、「……私も曾晳に同感だ」そう応えたという。

ここで押さえておくべきは、曾晳の士民すなわち一般生活人としての志であり、それを引いている宣長の儒学観である。宣長が生きた時代は、学問と言えば朱子学であり、その厚みは人々の日常の隅々まで覆っていた。しかし小林先生は宣長の儒学観をこう書かれている。

―儒学の本来の性格は、朱子学が説くが如き「天理人欲」に関する思弁の精にはなく、生活に即した実践的なものと解すべきものだが、それも、品性の陶冶とうやとか徳行の吟味とかいう、曖昧で、自己欺瞞ぎまんや空言に流れやすいものにはなく、国を治め、民を安んずるという、はっきりした実際の政治を目指すところに、その主眼がある。……

ここで言われている「天理人欲」とは、「小林秀雄全作品」(新潮社刊)第27集の脚注によれば「天然自然の道理と、人間の欲望」であり、「思弁の精」とは「抽象的理論の精密さ」である。

そして宣長は、友人に言っている、「儒と呼ばれる聖人の道は、『天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道』であって、『ヒソカニ自ラ楽シム有ル』所以ゆえんのものではない」と。治めるべき天下も、安んずる民も持たない身分の我々が、曖昧な空理空論をもてあそんだり、実生活から逸脱して、聖人の道が何の役に立つのか……。

これを承けて、小林先生は言う。

―宣長が求めたものは、如何いかに生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。彼は、はっきり意識して、これを、当時の書簡中で「風雅」と呼んだのであり、これには、好事家こうずかの風流の意味合は全くなかった……。

ここに書かれている宣長の「聖学」とは、無論「己を知る道」という学問であるが、私は今回の山の上の家の塾での自問自答で、あまりにも宣長の残した「聖学」にばかり眼が行き、彼の「俗」を素通りしていたことに気づかされた。宣長が言っている「小人の立てる志」という「俗」を知らなければ、宣長の「道」は理解できないであろう。

冒頭に取り上げた「家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共」という歌も、この「俗」を基本とする宣長の「学問」に向かう姿勢であった。小林先生は言われている、「俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う『好信楽』とか『風雅』とかいう言葉は、その生きたあじわいを失うであろう」と。

宣長は、先王の道を背負い込んだ孔子という人の心に会いに行き、儒学の大道を見つめる、「万葉集」に「俗中の真」を究めた契沖の跡を追って古人と古伝説に会いに行く、「源氏物語」の味読を通して「物のあわれを知る」紫式部に会いに行く……こうして「人生いかに生きるべきか」を考えるという高いところをめざした彼の「聖学」は、また彼の「俗」に還って学問の手仕事につくのである。それは日常生活の場である住居の一階と、宣長自ら鈴屋すずのやと名付けた二階の書斎を行き来する生活そのものであった。ということは、宣長は「俗中」にあって「道」の学問の花を咲かせたのである。 

 

ここでこういうことを言うと唐突に聞こえるかもしれないが、私は宣長の「俗」を読む一方で、小林先生の「歴史の魂」(「小林秀雄全作品」第14集所収)の次のくだりが気になっていた。

―芭蕉は自分の態度を風雅と名づけました。彼に言わすと風雅というものは、造化ぞうかに従い四時しいじを友とすというのでしょう。風雅ということが今日非常に誤解されているけれども、それは、消極的な態度でも洒落しやれた態度でもない。少くとも日本人が抱いて、大地に根差した強い思想です。己れを空しくして、いろいろな思想だとか、意見だとか、批判などにわずらわされないで自然の姿が友となって現れて来る、自然と直接につき合うことが出来る。そういう境地は易しくはないのです。そうなると見るもの花にあらずという事なし、という事になる。……

これはまた、宣長の「風雅」であり「好信楽」ではないだろうか……。すると偶然にも、この「自問自答」を書いていたある日、「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」というサテライト塾で、最後に広島塾の方が「小林先生の言われている芭蕉の風雅」について質問された。

池田雅延塾頭は、即座に「高く心を悟りて俗に帰るべし、です」と言われた。そして、「この言葉は、新潮社に入って五年目、二十七歳の春、麻生磯次先生の本『芭蕉物語』をつくらせてもらってその文中で出会い、そうか、なるほど、と心に強く残った言葉です……」と続けられた。その瞬間、私の中で宣長と芭蕉の「風雅」が重なり、さっそく『芭蕉物語』を求めて開いてみた。すると、芭蕉は杉風さんぷうという弟子にこう説いている。

―高くを悟る、のというのは風雅の誠をいい、風雅の誠を責め求めて、それを自分のものとして体得することをいう。そのためにはすぐれた和漢の古典に接して、その高い詩精神を味得しなければならない。そして風雅の誠を十分に悟り、その上で俗に帰る。俗に帰るというのは、漢詩、和歌、連歌などの雅なるものから通俗卑近な世界に帰り、卑俗の中から詩美を発見することである。……(麻生磯次著『芭蕉物語』下、新潮社刊)

小林先生が、批評家として最後に「本居宣長」という大作を残された、その大きな仕事の根幹には、宣長のことを書きながら宣長だけでなく、「消極的な態度でも洒落れた態度でもない。少くとも日本人が抱いて、大地に根差した強い思想」が書きたかったのではないだろうか。「風雅」を極めるという宣長の学問の志は、すなわち日本の優れた文学者や芸術家たちに貫道している伝統でもある、私には小林先生がそう言われているように聞こえる。

野ざらしの旅寝をする中で、己れを空しくし、自然を友とした芭蕉の境地とはどういうものだったのか……僭越ながら、ここに私の思い浮かぶ句を一つ挙げる。

ほろほろと 山吹散るか 滝の音

吉野川の、初夏の瀑声に消え入りそうに舞い散る山吹の色が、句の中では消えるどころか、滝の音を消して、ゆっくり落ち続けるのである。

これこそは、芭蕉の「俗」であり「風雅」である。それは宣長の「俗」であり「風雅」に通じる、私にはそう思える。

ちなみに、池田塾頭は、「芭蕉物語」の本の帯にこう書かれている。

―人間の道と風雅の道とに隔たりがあってはならない。正しい俳諧は人の道を正しく踏むところに生まれると芭蕉は考えていた。淋しい境涯に徹して自分の心を見つめてみたい、旅の誘惑に身を任せたいと思った。……

 

(了)

 

「しっかり納得できればよい」

若い男女、小林秀雄「本居宣長」を学ぶ仲間だ。普段やたら元気のいい娘が何やら所在なげだ。気弱な男子がおずおずと話しかける。

―今度の自問自答、どうするの?

うん、まだ全然。でも、気になるトコは、あるにはある。熟視対象かな。「本居宣長」16章の終わりの方なんだけど、次のところ。

……式部が、創作の為に、昔物語の「しどけなく書ける」形式を選んだのは、無論「わざとの事」だった。彼女は、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたのだが、恐らくこの名優は、観客の為に、古女房になり切って演じつつ、演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった。物語とは「神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」という言葉は、其処から発言されている、言わば、この名優の科白なのであって、これを動機づけているものは、「史記」という大事実談が居坐った、当時の知識人の教養などとは何の関係もない。式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる。……(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集180頁。以下引用は同作品集から)

―気になるって、どの辺?

古女房の語り口を「演じる」とか、「この名優」とか、「演技の意味」とか、繰り返し出て来る。「演じる」って、文章を「書く」のとは、違うよね。まず、相手が目の前にいる。その人に向かって、自分で声を出す。声だけじゃなくて、顔つきとか、身振り手振りとか、なんとなくの雰囲気とかで、全然違ってくるよね。

―話し言葉と書き言葉の違いかな?

そうだね。もともと文字なんかなかったんだし。それに、文字で書けば同じ言葉でも、どういう場面で、誰が誰に、どんなふうに言うのかで、全然意味が違う。

―話し言葉の方が、多義的で、曖昧だということ?

そういうことじゃないよ。人と人の間で、何かが伝わるというのは、話す人がいて、その話に耳を傾ける人がいて、お互いを信じる気持ちになって、初めて成り立つ。「話し合う」こと、「かたらふ」ことが、そもそもの始まりだよ。

―ああ、そうか。小林秀雄先生も、すぐあとの箇所で、「『かたる』とは『かたらふ』事だ」(第27集181頁)として、その辺りのことを論じているね。

見聞きした出来事とか、自分たちの喜怒哀楽とか、まずは相手に語りかける。それに聞き手が耳を傾ける。互いに想像力を働かせ、それはそうだと信じる。こんなふうにして、人びとが心を通わせ、何かが伝わる。そこで伝わった何かが、多くの人びとに共有され、伝承されることで、物語が生まれた、ということだと思う。

―それが、「演技」につながるの?

式部ちゃんとしては、光の君の物語を「かたらふ」ことに集中してたんじゃないかな。人々との「かたらひ」が成立しないと伝わらないから、語り口に工夫を凝らした。

―そのため、「昔物語の『しどけなく書ける』形式を選んだ」ということだね、

うん。式部ちゃんという名優が、観客のために、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたというわけ。そうすることで、書き手と読み手とが、「かたらふ」ことになり、物語に出て来る様々な事柄の意味合や価値が伝わっていくということかな。

―それは、式部の独創なの?

そうじゃない。そういう物事の伝え方というか、伝わり方というか、神々の物語以来の、「国ぶりの物語の伝統」なんだろうね。それを見事に演じた式部ちゃんは、「物語の生命を、その源泉で飲んでいる」。激ヤバだよね。

―物語の内容ではなく、語り口に注力したということ?

てゆーかあ。小林先生も「(元来物語というものは)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり、日本紀などは、ただ、かたそばかし。これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」という「蛍の巻」の源氏の言葉を引いているよね。朝廷の正史は、あくまで公式の歴史書で、政府の公式見解が書いてあるにすぎない。人々の暮らしや気持ちは、神々の物語以来の物語に記され、伝えられている。「源氏物語」も、正史には書かれようのない複雑な人間関係や多様な恋愛感情などあれこれを、「そらごと」に仕立て、しどけなく語ることで、人のこころの「まこと」を書こうとした。この点からも、日本古来の物語の魂を受け継いだってことかな。

―小林先生は、さらに、式部は「演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった」とも書いているね。

ここヤバイよねえ。名演技をしつつ失わなかった自己って、なんだろう。

―次の17章に入ると、古女房の話が出て来るね。「式部は、古女房に成りすまして語りかける」とか、「宣長は、古女房の眼を打ち守る聞き手になる」とか。

チョーむずかしい。「ははきぎ」冒頭の「光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれたまふ咎おほかなるに、……(例えば)交野の少将(の如き昔物語の好色家)には、笑はれ給ひけんかし」という一節から、式部の「下心」や「心ばへ」を読み取るなんて、宣長さんだからできることだよね。

―宣長さんには分かっていた。

そう。宣長さんは、「源氏」の研究者である以前に「源氏」の愛読者で、だから、式部と「共作者」であるくらいの気持ちになっていた。すごくない? 式部ちゃんが、なぜ、こういう内容のお話をこんな風に語ったのか。宣長さんは、そういう式部ちゃんの心の中にまで分け入り、理解しようとしたんだね。

―式部の心の中?

それが、演技の意味であり、演技しつつも失わなかった深い自己なんじゃないかな。そして、小林先生は、こう書かれているね。「源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうというのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。」(第27集183頁)

―聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作る……

スゴスギ!「おーい、ノリナガ、何処まで行くんだ~」って叫びたくなるよね。宣長さんは、古女房に成りすました式部ちゃんと、直接「かたらふ」ことができるというんだから。

―創作の動機といえば、キミが熟視対象とした箇所の直前に、「宣長の視点が、作者の創作動機のうちにあった事」という小林先生の指摘があるね。これ、忘れてない?

そうなんだ。「創作の動機」というのが、あまりに普通の言い方で、読み流してしまっていたけど、宣長さんから見た式部の創作動機は、とても広がりがあるんじゃないかな。

―広がり?

たとえば、「昔物語の『しどけなく書ける』形式を選んだ」というのも、単に書き方の問題ではないんだよ。あくまで、「創作の為」に、「わざとの事」として選択しているんだね。

―どのように「わざと」なのさ?

しどけない語り口で「かたらふ」ことによってこそ、物語が生まれるのだという表現に関わる動機が一つ。それと、神々の物語以来、人々が体験し実感してきたことがらや、世の中に生起する様々な物ごとを記すものが物語であるという内容に関わることがもう一つの動機じゃないかな。

―さっきは、ずいぶん「演技」にこだわっていたね。

古女房の語り口を「演じる」というのも、式部ちゃんの創作動機の一つの現れなんだね。だからさ、演技というところだけに引っかかってはだめなんだ。「演技の意味を自覚した深い自己」を掘り下げ、式部ちゃんの創作動機の中身を考えなければならないってコトか。

―ずいぶんハードルは高そうだね。

そうだね。宣長さんは、「源氏」を愛読し、式部ちゃんと動機を共有しようとした。宣長さんの学問がそういう視点から出発していることを、小林先生は見抜いている。その小林先生を勉強するボクは……いけてないね。

―先生は、「ここでは、宣長の視点が、作者の創作動機のうちにあった事が、しっかり納得出来ればよい」と書いてくださっているね。

宣長さんは式部ちゃんの創作動機をどう考えたのか、もう一度じっくり読んでみるよ。「しっかり納得」には程遠いけど。

 

(了)