奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇二二年冬号

発行 令和四年(二〇二二)一月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

入田 丈司

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

2022年の第1号、通巻第31号となった今号も、まずは荻野徹さんによる「巻頭劇場」からお愉しみいただきたい。いつもの四人の男女による、おしゃべりのテーマは、「おしゃべり」についてである。小林秀雄先生や宣長さんの考えを現代口語によって表現する、荻野さんが発明した、この対話劇は「古今集の歌どもを、ことごとく、今の世の俗言サトビゴトウツせる」ことを成した本居宣長の「古今集遠鏡とおかがみ」を彷彿とさせる域にある。

わけても今号では「『本居宣長』自問自答」において、「生きた言葉」が生まれる源泉まで遡行している入田丈司さんのエッセイと合わせて、両稿のマリアージュ(共鳴する味わい)の妙も含めて愉しんでいただければと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、吉田宏さん、冨部久さん、入田丈司さん、小島由紀子さん、そして溝口朋芽さんが寄稿された。

吉田さんが立てた自問は、「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になることだ」、そう悟るに至った、という小林秀雄先生の含意についてである。暗中模索するなか、「悟る」という言葉に目を付けた。すると、その反面として「議論」という言葉が目に入る。本文からけっして目をそらさず考え続けていくと、「みづからも歌をよむ」ことを推奨し続けた宣長の姿が目に浮かんできた……

冨部さんは、今般の自問自答にあたり、先述の「古今集遠鏡」をひも解いてみた。古言を自由奔放に現代語訳しているのかと思いきや、訳出法を仔細に記している宣長の気質に直かに触れることができた。さらに、宣長が十代後半で詠んだ歌を辿っていくと、歌と学問が、宣長のなかで共存している様が見えてきた。「古事記」註解という難行のなかでこそ、歌を詠み「遠鏡」を記した、彼の心持ちがまざまざと実感できた。

小島由紀子さんは、「伊勢物語」と「古今集」の両方に収められている在原業平ありはらのなりひらの一首に眼を付けた。そこで、契沖による「伊勢」の注釈書「勢語ぜいご臆断おくだん」と、冨部さん同様に「古今集遠鏡」の原文をひもとき、同じ歌について記されたくだりを読み込んだ。リアルな業平の姿が眼前に浮かぶところ、小島さんが、宣長の言う「そこゐなきあはれの深さ」の「そこゐなき」さまに直観したものは何か?

入田さんは、特に何かの目的があるわけではなく、ただ「心にこめがたい」という理由で人生が語られると、「大かた人のココロのあるやう」が見えて来るという認識に、なぜ宣長は達することができたのか、という自問を立てている。自身の実体験も踏まえながら、小林先生の文章を丹念に辿っていくと、「生きた言葉」が生まれるためには、が必要であることが見えてきた……

溝口さんが長年抱き続けてきている自問は、本居宣長の言う「シルシとしての言葉」とはどういうことか、である。そこを今回は、声として発せられた言葉ということに留意して本文中の用例分析を行っている。「古事記」に身交むかう宣長のすがたも思い浮かべてみた…… そこはかとなく、文字なき時代に古人が発していた声が聞こえてくる。古言に証せられた宣長さんの喜びの肉声もまた、聞こえてきたようだ。

 

 

「考えるヒント」に寄稿された大江公樹さんは、さる大学の教壇に立って、Ⅾ・H・ロレンスの短編小説を精読することにした。しかし、時短や効率重視の世に生きる学生は、短編物を半年かけて精読するという講義に興味を持ってくれるのだろうか……? 活路へのヒントは、小林先生の「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)にあった。そこには「対象を安易に『わかる』ことへの強い戒め」があった。学生諸氏の反応やいかに?

 

 

新春早々の金曜夜、わけもなく音楽が、わけてもモーツァルトの曲が聴きたくなり、埼玉の演奏会場まで足を運んだ。メインの交響曲もさることながら、「フルートとハーブのための協奏曲」(ハ長調、K.299)が、とりわけ美しく印象的だった。この曲は、パリに滞在中のモーツァルトが音楽の家庭教師をしていた貴族からの依頼で、父がフルート、娘はハープを、各自がソリスト(独奏者)として演奏する趣向で作曲したものだ。その日はちょうど、世界的に活躍中のベテランの男性フルーティストと、若き女性のハープ奏者による共演であり、往時に演奏した父と娘と、その作曲家の心持ちにも思いを致しながら、ソリスト二人とオーケストラの円熟した演奏とアンサンブル、そのマリアージュの妙に感じ入ってしまった。

本誌今号のなかでも同様に、作品が共鳴し合うさまを感じ取り、味わっていただければ幸いである。

 

さて、円熟と言えば、小林秀雄先生に「還暦」という文章があり(同第24集所収)、先生は、円熟するには「忍耐」が必要で、円熟は固く肉体という地盤に根を下している、と述べ、このように続けている。

「忍耐とは、癇癪持かんしゃくもち向きの一徳目ではない。私達が、抱いて生きて行かねばならぬ一番基本的なものは、時間というものだと言っても差支えはないなら、忍耐とは、この時間というものの扱い方だと言っていい。時間に関する慎重な経験の仕方であろう。忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である」。

これらの言葉の含意は深い。大江公樹さんのエッセイにあるように、安易にわかったようなふりをしない方がよいのであろう。

 

ともかくも2020年が明け、「小林秀雄に学ぶ塾」の「本居宣長」精読熟読12年という宿願成就まで、ほぼ3年となった。小林先生が「時間に関する慎重な経験の仕方」と言うところの「忍耐」をさらに重ね、通巻40号へと歩む本誌も円熟という信頼をその「忍耐」に寄せていきたい。

本年は、小林秀雄先生の生誕120年の年である。

読者諸賢の無病息災をお祈りしつつ、変わらぬご指導とご鞭撻を切にお願いする。

 

 

なお、三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんの都合によってやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、三浦さんとともに心からお詫びをし、次号からまた引き続いてのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十一 歌の本然―反面教師、賀茂真淵(三)

 

1

 

宣長は、終生、真淵の忌日には祭りを怠らなかった、こうして宣長が真淵の霊に捧げ続けたものは、学恩に対する謝意、これはもちろんだっただろうが、それと併せて、古学の功成らぬまま逝った真淵の無念に対する慰藉いしゃであっただろう、さらには、真淵が辿ろうとして辿れなかった「古道」を、真淵とは異なる足取りでもとめていた宣長の自問自答であっただろう、と先に書いた。

これに加えて、宣長は、真淵を反面教師とは言わないまでもひそかに他山の石としていた、その「他山の石」ということにも謝意を捧げていただろうと思う。むろん宣長の脳裏に今日言われているような「他山の石」という言葉や意識があったとは思えないが、他山の石とは、たとえば『日本国語大辞典』には、「自分の石を磨くのに役立つ他の山の石の意。転じて自分の修養の助けとなる他人の言行。自分にとって戒めとなる他人の誤った言行」とある。真淵は、宣長の、生涯にわたっての師であったとは、そういう意味合でも言えるのではないだろうか、という意味合でここに「他山の石」を置いてみた。

そこに関して、前回、真淵は「源氏物語」を宣長とはまったく別様に読んでいた、宣長に言わせれば、真淵は「物語」というものを誤解していた、と書いたが、真淵は「歌」というものも宣長とは別様に解していた、別様に、という以上に、宣長からすれば甚だしく偏っていた。宣長は、この周辺について明言はしていない、しかし、歌道、歌学ともに、真淵の指南は「冠辞考」以外、悉く宣長の意に染まなかったと見てよいようなのである。

 

2

 

まずは、第二十章である、真淵が、宣長の詠歌を難じてくる、宣長はその批難を聞き流し、平然と自分の歌を詠み続ける……、こうした歌に関わる宣長の馬耳東風についてはすでに書いたが、さらには「萬葉集」の成り立ちをめぐる真淵の所説に宣長が異論を送り、明和三年九月、破門状も同然の書状を突きつけられる。これを承けて、第二十一章ではこう言われる。

―破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない。だが、忖度そんたくは無用であろう。彼が直ちにとった決断を記すれば足りる。彼は、「県居大人あがたゐのうしの御前にのみ申せる詞」と題する一文を、古文で草して真淵に送った。……

小林氏は、

―私の考えは端的である。宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う。これは書簡ではない。むしろ作品である。全文を引用して置いても無駄ではあるまい。……

と言って宣長の謝罪文を引き写し、そして言う。

―宣長の文の、あたかも再入門の誓詞の如き姿を見て、これを率直に受容れれば、真淵にはもう余計な事を思う必要はなかったであろう。意見の相違よりもっと深いところで、学問の道が、二人を結んでいた。師弟は期せずして、それを、互に確め合った事になる。これは立派な事だ。……

だが、そうだろうか、そうだっただろうか、小林氏のこの言葉を、字義どおりに受け取っておいてよいだろうか。小林氏は、前章第二十章の最後、真淵が宣長に破門状すれすれの書状を突きつけたと書いた後に、こう言っていた。

―真淵は疑いを重ねて来たのである。この弟子は何かを隠している。鋭敏な真淵が、そう感じていなかったとは考えにくい。従えないのではない、従いたくはないのだ。「信じ給はぬ気、顕は」也と断ずる他はなかったのである。……

ゆえに、宣長の謝罪文によって、たしかに真淵の怒りは鎮まっただろう、だが、宣長に対する疑念もが晴れたのだろうか、という疑念が残るのである。

問題は、宣長が真淵に隠していたものは何だったか、である。ひとまずは『萬葉集』の成立についての真淵の所説、これに対する宣長の異論であった。宣長は、ある時期までそれを表に出していなかったが、明和三年、三十七歳だった年の秋口と思われる頃、真っ向から真淵に、それも精しく呈して真淵の怒りを買った。宣長はただちに詫びを入れ、赦された、というのだが、この一件を辿った小林氏の口吻には、何かしらゆるがせにできない含みが感じられる、私としては忖度そんたくせずにはいられないのである。

まずは、次のくだりである。

―破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない。……

ここで言われている「事情」とは、どういう「事情」であったのか、そして、「その心事は大変複雑なものだったに違いない」と言われている「心事」とは、どういう心事だったのか。

だが、小林氏は、「忖度そんたくは無用であろう。彼が直ちにとった決断を記すれば足りる」と言った後に、

―宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う。……

そう言って宣長の謝罪文を示し、これを受け取るや即座に赦した真淵の返書を引き、その双方を読者に読ませて言うのである、

―真淵にはもう余計な事を思う必要はなかったであろう。意見の相違よりもっと深いところで、学問の道が、二人を結んでいた。師弟は期せずして、それを、互に確め合った事になる。……

だが、この「二人を結んでいた学問の道」は、広義にとればたしかに「学問の道」にはちがいないだろう、しかし、狭義にとれば、真淵と宣長が「軌を一にしていた道」の意ではないようだ、否むしろ、互いに相容れない道であったようなのだ、だからこそ真淵は、「この弟子は何かを隠している」と「疑いを重ねて来」たのであり、真淵から破門状すれすれの書面を受取った宣長の、「大変複雑なものだったに違いない」と言われた「心事」とは、真淵と宣長、二人の間の「互いに相容れない道」に関わるものだったのではないだろうか。

それかあらぬか、第二十章の閉じめで、小林氏は言っていた。

―二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。「万葉」経験と「源氏」経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しのくようなものではなかった。真淵は、「万葉」経験によって、徹底的に摑み直した自己を解き放ち、何一つ隠すところがなかったが、彼のこの烈しい気性に対抗して宣長が己れを語ったなら、師弟の関係は、恐らく崩れ去ったであろう。弟子は妥協はしなかったが、議論を戦わす無用をよく知っていた。彼は質問を、師の言う「ひきき所」に、考証訓詁の野に、はっきりと限り、そこから出来るだけのものを学び取れば足りるとした。意識的に慎重な態度をとったというより、内に秘めた自信から、おのずとそうなったと思われるが、それでも、真淵の激情を抑えるのには難かしかったのである。……

「内に秘めた自信」を見落とすまい。この「自信」は、真淵の激怒を蒙った後も堅固だった。したがって、宣長の詫び状は、真淵の気性をかねて見ぬいていた宣長が、真淵に論戦を挑んだり、己れを主張したりすることの無用を、無用と言うより不毛を逸早く察知し、ひたすら辞をひくくして事態の収拾を図った深謀遠慮の文面と読めるのである。

この詫び状を子細に読めば、宣長は真淵に頭を下げてはいる、だが、腹の中ではまったく詫びていないのではないかと思えてくる。先生のお怒りにふれて、私はこう反省していますと、宣長は自分を語っているだけで、ここでも妥協はしていないのである。宣長が詫び状に用いた擬古文は、「あしわけ小舟」に、「マコト心ヲ用ヒテ書ク時ハ、伊勢源氏ノコロノ言語ニ書キナサルル事也、コレ自然ノ事ニアラズ、心ヲ用テ古ヲ学ブ時ハ、ミナ古ニナリカヘル事也」と言っている文章の書き様だから、それ相応に心を用いた詫び状ではあっただろう。だがこれは、真淵が常々、下れる世と蔑んでいた平安時代の文章もどきである。宣長が本気で真淵に詫びるのであれば、たとえば『萬葉集』の柿本人麻呂の長歌に倣う等のみちもあったのではないか、だが宣長は、真淵の勘気に、鄭重にではあるが世間一般の揉め事と同列に対処しているのである。

宣長が講じたこの措置は、詫び状の「ふり」によって、私はあなたのお言葉に従います、ですが、あなたのお望みどおりにではありません、と、暗に意思表示したということではないのだろうか、ここにこそ宣長が真淵に隠していたものの肝心要があったのではないだろうか。

そして、小林氏が、宣長の詫び状を読んだ真淵には、「もう余計な事を思う必要はなかったであろう。深い所で学問の道が二人を結んでいた」と言っているのに関して、この「二人を結んでいた学問の道」は、「二人が軌を一にしていた道」ではないだろう、むしろ、互いに相容れない道であっただろう、と私が読んだ理由もここにある。鄙語ひごを用いて下世話に言えば、「これはまた失礼しました、衷心よりおわびします」と、宣長は世間一般の作法に則り、鄭重にだが面従腹背でわびたのである、真淵は宣長の面従に乗り、それ以上くどくは言わなかったのである。

これが、「宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う」と小林氏が言ったことの第一の含みである。宣長は、日頃から自分の対外的な心理にかかずらうことは医者としての務め以外ほとんどしていなかったが、ここで言われている「複雑な自己の心理」は、「真淵の単純な心理によって複雑にさせられた自己の心理」という対外的な心理であり、それに「かかずらう興味を全く持っていなかった」は、「真淵の単純な心理に本気で向きあう気はまるでなかった」のいいであろう。

だが、待て、そこまで下世話に深読みしては、宣長にも小林氏にも失礼ではないかという声が私自身の中からも聞えてこないではない。しかし今回、これから取り上げる『草菴集そうあんしゅうたまははき』にしても『古今集遠鏡とおかがみ』にしても、宣長はふんだんに鄙語を用いて『草菴集』『古今集』という往年の大歌集を下世話に深読みしてみせている。そこへいよいよ入っていくにあたって私も鄙語に身を預けてみたのだが、それと言うのも、宣長に倣い、「物の味を、みづからなめて、しれるがごとく」に「宣長の心事」を思い浮かべておきたかったからである。

かくして真淵と宣長の間に吹いた破門か宥恕かの風が収まった頃、小林氏は「学問の道が二人を結んでいた。師弟は期せずしてそれを互に確め合った事になる」と言ったのだが、その心底で真淵は、「この弟子は何かを隠している」の疑念をいっそう強めただろう、宣長は宣長自身の「資性」と真淵の「資性」との退っぴきならない懸隔を確かめただろう。

 

3

 

「資性」ということについては、先に引いた第二十章の閉じめで、小林氏が、言っていた。

―二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。……

真淵の「萬葉集」研究については、第四十四章に次のように言われている。

―宣長が入門した頃には、真淵の古学の建前は、確立していたのであり、古意古道と「万葉」とは不離のものだという信念は、もはや動かず、「後世ぶり」の歌などは、全く捨てて顧みられはしなかった。やがて、宣長との間には、「万葉」についての質疑応答の書簡が、いくつも取交わされるのだが、話が詠歌の事に及べば、「古今はいふにもたらず、其後なるは見んもさまたげなり」と、「祝詞考」を書く暇に、言い送るという有様であった。……

詠歌の手本として「言うにも足らず」と貶められている「古今」は、史上初の勅撰集『古今和歌集』である。そして「其後なるは見んもさまたげなり」とまで言い切る真淵の『萬葉集』一辺倒は、次のようにして成った。第二十章からである。

―「万葉」に関する、真淵の感情経験が、はっきりと「万葉」崇拝という方向を取ったのは、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるという、今まで段々述べて来た、わが国の近世学問の「血脈」による。が、その研究動機について、真淵自身の語っているところを聞いた方がよい。「掛まくもかしこかれど、すめらみことをたふとみまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては、古へのふみを見る。古へのふみを見る時は、古へのこころことばを解かんことを思ふ。古への心言を思ふには、まづいにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには、万葉をよむ」(「万葉考」巻六序)。彼が、「大を好み」「高きに登らん」としたわけではなく、およそ学問という言葉に宿っている志が、彼を捕えて離さなかったのである。「高きところを得る」という彼の予感は、「万葉」の訓詁という「ひききところ」に、それも、冠辞だけを採り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した。その成果を取り上げ、「万葉」の歌の様式を、「ますらをの手ぶり」と呼んだ時、その声は、既に磁針が北を指すが如く、「高く直き心」を指していたであろう。……

小林氏は、真淵は最初から「高きに登らん」としたわけではない、訓詁、すなわち漢字の字義や語句の語意を究め尽くすという学問の「ひききところ」に専心し、その専心の先で『萬葉集』の歌はなべて「ますらをの手ぶり」という言い方で捉えられるという域に達したのだが、この「ますらをの手ぶり」という表現を得たとき、真淵の脳裏には古代人の「高く直き心」という想念が浮び、以来、真淵は古代人の「直き心」という「高き」に登ろうとした、と言うのである。

「ますらをの手ぶり」という言葉は、真淵が六十歳で『万葉考』に着手してから九年、六十九歳の年の明和二年に刊行された『にひまなび』に初めて出る。宣長が入門した翌年である。

ここで、小林氏が言っている真淵の学問の動機、「掛まくもかしこかれど、すめらみことをたふとみまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる」を、村岡典嗣氏の『本居宣長』に照らしてみる。村岡氏はこう言っている。

―真淵の古代てう(古代という/池田注記)概念が、古文明として、極めて理想的の性質を有していたこととともに、彼の古道は、主観的かつ規範的のものであった。彼が「古へのまことの意」と言って考えたところは、契沖が、「ただありのままに」と言ったのとは、余程違う。(中略)そは実に、儒仏に対して天地人の根本的道理を説く、一種の哲学説、社会説もしくは道徳説であった。換言すれば、古学は真淵に於いては、客観的文献学であるよりは、むしろ、積極的主観的なる古代主義となっている。……

この村岡氏の論述は、小林氏が言っていることの後半に関わる見解だが、これをさらに、平野仁啓氏の『萬葉批評史研究』に照らしてみよう。平野氏は、大要、次のように言っている。

真淵は、契沖より半世紀ほどおくれて元禄十年三月四日、遠江の国浜松の郷士、岡部定信の次男として生まれた。家譜によれば岡部家は、神武天皇時代の武津之身命の後胤となっている。「古事記」に、神武天皇が東征に出たとき、天皇を熊野から大和へ導いたとされている八咫やたの烏は、武津之身命が烏に化したものであると言い、こういう神代にまで遡る系譜を伝承している家柄の生れであることが、真淵の古代に対する強い関心を喚起する契機となったようだ。また、真淵が若き日に師事した荷田春満かだのあずままろもその家の起源は和銅時代に遡ると言われ、稲荷神社の神官を代々務めてきた家柄である。契沖によって樹立された古学は、春満において著しく倫理化され、古学は国学と呼ばれるようになったが、そういう国学の支持者には各地の神官が多く、彼らのもつ古代意識と歴史感覚とが古学を発展させたと同時に一種の偏向を生じさせ、特殊なイデオロギーが形成されることになった……。

こういう真淵の生立ちと志学、そして修学の環境が、村岡氏の言う「積極的主観的なる古代主義」を現出させたようなのである。真淵が『萬葉集』を「ますらをの手ぶり」という言葉で括り、晩年には「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」というふうに、古代を端的に括る言葉を次々求めてやまなかったのは平野氏が言っているような真淵の後天的資性にも拠ったらしいのだが、小林氏が「破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない」と言った「事情の一切」も「複雑な心事」も、ひとことで言えば真淵が掲げた「ますらをの手ぶり」が将来したものだったと言えるのではあるまいか。

宣長には、『萬葉集』を仰ぎ見こそすれ、『萬葉集』を絶対として『古今集』以下を軽んずる気持ちはなかった。ましてや「ますらをの手ぶり」を倫理道徳の規範として後世に説き広めようとする野心もなかった。宣長にとって歌とは、よりよく生きるために人間誰もが詠むべきものであり、歌学者としての自分の務めには、そういう歌を人皆が気軽に詠めるようになるためのお膳立てもあると心に決めていた。

だがここで、真淵の学問の生成についての小林氏の見解に、村岡典嗣、平野仁啓両氏の見解を取り合せたままでは、私が小林氏の見解に異論を立てるにも等しいことになる。小林氏は、村岡氏が言っているような真淵の「主観的かつ規範的な古代主義」は、真淵が最初からそこに的を絞って成したものではなく、最初は学問の目的は人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるというわが国の近世学問の「血脈」に準じて『萬葉集』の訓詁という一番「ひききところ」に考えを尽すうち、中江藤樹以来の近世の学問という言葉に宿っていた「道の志」に駆られておのずと「高きに登らん」としただけだ、と言っているのである。そこへ村岡、平野両氏の言を取り合わせたままでは、真淵が宣長に突きつけた「是は小子が意に違へり、いまだ萬葉其外古書の事は知給はで、異見を立てらるるこそ、不審なれ」にも通じる叱声を小林氏から浴びること必至である。

そこで敢えて念を押しておきたい、小林氏の言う「資性」の根幹は、常に後天的・外発的なものではなく、先天的・内発的なものに限られていた。そういう意味合から言えば、真淵の「内発的資性」としては歌学者と同時に歌人の面でも高く評価された言語感覚があった。その言語感覚こそが「後天的・外発的資性」と相俟って「萬葉」歌の「しらべ」を重視させ、歌は古語の結晶である、よって『古事記』も歌謡に注目する、『古事記』の歌謡の「しらべ」を吟味し尽せば古道は闡明せんめいできると思いこませ、宣長は真淵のこの「資性」に「相容れないもの」を感じ取っていたようなのである。

 

4

 

明和三年の秋九月、真淵と宣長の間に吹いた破門状騒ぎの風はひとまず収まったが、真淵の宣長に対する疑念は再び現実となった。翌々五年五月、宣長は『草菴集玉箒そうあんしゅうたまははき』を刊行し、これを聞き及んだ真淵は頭ごなしに糾弾する。先に、真淵と宣長の破門状騒ぎを辿った小林氏の口吻には、ゆるがせにできない含みがあると言って、まずは第一の含みを真淵の「資性」から見たが、第二の含みは『草菴集玉箒』の一件である。小林氏は言う。

「草菴集」は、二条家の歌道中興の歌人とんの歌集であり、宣長は、その中から歌を選んで詳しく註した。「玉箒」は彼の最初の註解書だ。……

「二条家」とは、鎌倉から室町にかけての時代に歌道を伝えた家系である。『日本国語大辞典』には、大要、次のように言われている。―藤原為家の子為氏を祖とする。典雅で保守的な歌風によって京極家や冷泉家と対抗したが、おおよそ常に歌壇の主流を占め、後宇多・後醍醐天皇の庇護によって「新後撰和歌集」「続千載和歌集」「続後拾遺和歌集」を、その後、足利氏と結びついて「新千載和歌集」「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」を撰進した、為重で血統は絶えたが、その歌道は為世の弟子頓阿の門流を通して伝えられ、江戸時代に至るまで歌壇の中心にあった。……

藤原為家は、定家の子である。二条家は定家の血をまっすぐにひいていた。

そして「頓阿」は、次のように言われる。―鎌倉・南北朝期の僧侶、歌人、二条為世に師事し、親交のあった兼好などとともに和歌四天王のひとりと言われた。為世の没後はその子孫に仕えて「新拾遺和歌集」を編纂、二条家歌学の再興につとめ、歌壇に大きな影響を及ぼした。……

宣長は、そういう頓阿の歌集『草庵集』の註解書を刊行したのである。これを真淵は厳しく咎めた。

―わが真淵の門では「今昔物語」から「源氏物語」までを学びの対象とし、それ以後の歌書は読むことを禁じている、ゆえに鎌倉期の頓阿などは問題外である。……

そして、こう畳みかけた。

―元来、後世人の歌も学もわろきは、立所の低ければ也。己が先年、或人の乞にて書し物に、ことわざに、野べの高がや、岡べの小草に及ばずといへり。その及ばぬにあらず、立所のひくければ也と書しを、こゝの門人は、よく聞得侍り。すでに彫出されしは、とてもかくても有べし。前に見せられし歌の低きは、立所のひくき事を、今ぞしられつ。頓阿など、歌才有といへど、かこみを出るほどの才なし。かまくら公こそ、古今の秀逸とは聞えたれ、―」(明和六年正月廿七日)

「立所の低ければ也」の「立所」は、拠って立つ所、「かまくら公」は、『金槐和歌集』で知られる鎌倉幕府の三代将軍、源実朝である。真淵は実朝の歌に「萬葉」調を見出し、平安時代以降の歌の例外として高く評価していた。

この真淵の詰問状を読んで、小林氏は言う。

―これでは、弟子は、本を贈るわけにもいかない。勿論、宣長は詰問を予期していたであろうし、初めから本を贈ろうとも考えてはいなかったと見てよい。だいぶ後になるが、「続草菴集玉箒」も刊行されているし、宣長は、この仕事に自信があったのである。「古事記」「万葉集」を目指す学者の仕事ではないというような考えは、彼には少しもなかった。……

先に私は、宣長が真淵に宛てた詫び状を読んで、宣長は真淵に頭を下げはしたが、腹の中ではまったく詫びていない、宣長は詫び状の「ふり」によって、私はあなたのお指図に従います、ですが、あなたのお望みどおりにではありません、と、暗に意思表示したということではないだろうか、と言ったが、こういう推量が働いたについては宣長の詫び状の「ふり」とともに、『草菴集玉箒』のことがあったのである。筑摩書房の『本居宣長全集』の「本居宣長年譜」(別巻三所収)によれば、『草菴集玉箒』は明和五年五月に巻一~巻五を収めた三冊本が刊行されたが、その原稿は前年、明和四年のうちには成っていたと見られている。真淵からあの「破門状」を突きつけられた明和三年九月、宣長が『草菴集玉箒』の執筆にかかっていたかどうかは定かでないが、少なくとも腹案は萌していたと見ることは許されるだろう。

その腹案とは、どういうものであったか、小林氏は、「彼は『玉箒』の序文で、明言している」と言って引く、

―此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也。……

この『草菴集玉箒』は、言葉を飾らず、現代の俗語もかなり交えて書いた、これは、まだ本を読むことを知らない子供も耳で聞いてわかるようにと考えてのことである。……

次いで、宣長の註解方針と刊行意図を汲む。

―この有名な歌集の註解は、当時までに、いろいろ書かれていたが、宣長に気に入らなかったのは、契沖によって開かれた道、歌に直かに接し、これを直かに味わい、その意を得ようとする道を行った者がない、皆「事ありげに、あげつら」う解に偏している、「そのわろきかぎりを、えりいで、わきまへ明らめて、わらはべの、まよはぬたつきとする物ぞ」と言う。……

「えりいで」は、選び出し、「わきまへ明らめて」は、どこがよくないかを明らかにし、「まよはぬたつきとする」は、迷わないための拠り所にする、である。

―真淵は、契沖の道をよく知っていたが、わが目指す読者は「わらはべ」であるとまで、その考えを進めてはみなかった。宣長は、自分の仕事には、本質的に新しい性質がある事を自覚していた。しかし、これを言おうとすれば、誤解は、恐らく必至であろうと考えていた。彼は言う、「そも頓阿などを、もどかんは、人の耳おどろきて、大かたは、うけひくまじきわざなれど、おろかなる今のならひに、まよはで、誠に歌よく見しれらん人は、かならずうなづきてん」……。

「わが目ざす読者」とは、宣長が頭に置いていた『草菴集玉箒』の読者である。「そも頓阿などを、もどかんは……」は、そもそも頓阿などを真似るということは唐突に聞こえ、たいていの人は聞き入れはしないだろうが、愚劣というほかない昨今の慣習に迷わされることなく、ほんとうに歌というものをよく知っている人は、必ずうなずくであろう……、である。

―言うまでもなく、宣長は、頓阿を大歌人と考えていたわけではない。「中興の歌人」として、さわがれてはいるが、「新古今ノコロニクラブレバ、同日ノ談ニアラズ、オトレル事ハルカ也」。これは当り前な事だが、「玉箒」を書く宣長には、もっと当り前な考えがあった。歌道の「オトロヘタル中ニテ、スグレタル」頓阿の歌は、おとろえたる現歌壇にとって、一番手近な、有効な詠歌の手本になる筈だ。頓阿の歌は、所謂いわゆる正風しょうふう」であって、異を立てず、平明暢達ちょうたつを旨としたもので、その平明な註釈は、歌の道は、近きにある事、足下にある事を納得して貰う捷径しょうけいであろう。「あしわけ小舟」に見える見解に照してみれば、恐らくそれが宣長の仕事の中心動機を成していた考えである。……

先に、宣長にとって歌とは、よりよく生きるために人間誰もが詠むべきものであり、歌学者としての自分の務めには、そういう歌を人皆が気軽に詠めるようになるためのお膳立てもあると心に決めていた、と言ったが、宣長自身、「あしわけ小舟」でこう言っている。

イキトシイケルモノ情ヲソナヘタルモノハ、ソノ情ノノブル所ナレバ、歌咏ナクテハカナハヌモノ也。(中略)東西不弁ノ児童トイヘドモ、ヲノガジシ声ヲカシク謡ヒ咏ジテ心ヲ楽シム、コレ天性自然ナクテカナハヌモノ也、有情ノモノノ咏歌セヌハナキ事ナルニ、今人トシテ物ノワキマヘモアルベキホドノモノノ、歌咏スル事シラヌハ、クチオシキ事ニアラズヤ……

「ソノ情ノノブル所」の「ノブル」は、のびのびとさせる、ゆったりさせる、である。人間というものは、折にふれて心をのびのびとさせるように、ゆったりさせるように造られている、その手段として歌を詠むということまで与えられているのだが、そういう天から授かっている恩恵に気づかず、いっぱしの大人が歌を詠もうとしないのは残念なことだ……、と言うのである。

だが、真淵は、宣長が『草菴集玉箒』の読者として、子供までも視野に入れている配慮には思いを及ぼすことなく叱りつけてきたのである。こうして『草菴集玉箒』を機に、宣長は真淵を、歌というものの位置づけにおいても他山の石的存在であるとそれまで以上に意識しただろう。真淵は『萬葉集』から一歩も出ず、『草菴集』どころか『古今集』すらも歯牙にかけていなかったのである。真淵は『万葉考』で言っている、いにしへの世の歌は人の真心なり、後の世の歌は人のしわざなり……と。

 

5

 

―彼(宣長/池田注記)のこのような、現実派或は実際家たる面目は、早くから現れて、彼の仕事を貫いているのであって、その点で、「古事記伝」も殆ど完成した頃に、「古今集遠鏡」が成った事も、注目すべき事である。これは、「古今」の影に隠れていた「新古今」を、明るみに出した「美濃家みののいえづと」より、彼の思想を解する上で、むしろ大事な著作だと私は思っている。……

―「遠鏡」とは現代語訳の意味であり、宣長に言わせれば、「古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言サトビゴトウツせる」ものである。宣長は、「古今」に限らず、昔の家集の在来の註解書に不満を感じていた。なるほど註釈は進歩したが、それは歌の情趣の知的理解の進歩に見合っているに過ぎない。歌の鑑賞者等は、「物のあぢはひを、甘しからしと、人のかたるを聞」き、それで歌が解ったと言っているようなものだ。この、人のあまり気附かぬ弊風を破る為には、思い切った処置を取らねばならぬ。歌の説明を精しくする道を捨てて、歌をよく見る道を教えねばならぬ。而も、どうしたらよく見る事が出来るかなどという説明も、有害無益ならば、直かに「遠めがね」を、読者に与えて、歌を見て貰う事にする。歌を説かず、歌をウツすのである。……

―使いなれた京わたりの言葉に、ウツされたのが目に見えれば、「詞のいきほひ、てにをはのはたらきなど、こまかなる趣」が、「物の味を、みづからなめて、しれるがごとく」であろう、というのが宣長の考えである。……

そう言って小林氏は一例を示す。

―春されば 野べにまづさく 見れどあかぬ花 まひなしに たゞなのるべき 花の名なれや―コレハ春ニナレバ 野ヘンニマヅ一番ガケニサク花デ 見テモ見テモ見アカヌ花デゴザルガ 其名ハ 何ンゾツカハサレネバ ドウモ申サレヌ タヾデ申スヤウナ ヤスイ花ヂヤゴザラヌ ヘヽヘヽ、ヘヽヘヽ」。このような仕事に、「うひ学び」の為、「ものよみしらぬわらはべ」の為に、大学者が円熟した学才を傾けたのは、まことに面白い事だ。……

小林氏は、『古今集遠鏡』は『古事記伝』がほとんど完成したころに成ったと言っている。たしかに『古今集遠鏡』が刊行されたのは宣長六十八歳の寛政九年一月であり、『古事記伝』全四十四巻の稿が成ったのは翌十年の六月十四日であるが、『古今集遠鏡』の原稿は寛政五年九月までには成っていた。その寛政五年という年を年譜で見ると、「一月五日、『記伝』巻三十四第五(第六)章段稿始。十五日、同稿成。二十四日、『記伝』巻三十四第五・第六章段(終章)清書終。茲に『古事記』中巻の『伝』終業す。」とあり、九月には「二十三日、『紀伝』巻三十五第一章段(『古事記』下巻冒頭)稿始。二十四日、『紀伝』巻十四板下、名古屋へ遣す。二十八日、『紀伝』巻三十五第一章段清書終。同第二章段稿始。」とある。ということは、『古今集遠鏡』は、『古事記伝』がほとんど完成した頃どころか中巻が書き上がり、下巻が書き始められた頃に書き上げられているのである。ふつうに考えれば、畢生の大業『古事記伝』執筆の真っ最中に、「うひ学びの為」、「ものよみしらぬわらはべの為」の『古今集遠鏡』を割り込ませたとは奇妙であろう。

しかし、そのわけは、小林氏がすでに言っている。『草菴集玉箒』で現れた「宣長の現実派或は実際家たる面目」が、『古今集遠鏡』でも現れたのである。「現実派」の「現実」とは、人皆歌を詠むように造られている、ゆえに人皆歌を詠まないではすまされない、という「現実」である、「実際家」の「実際」とは、人皆が気軽に歌を詠めるようになるためのお膳立て、あるいは地拵えをする、それも歌学の重大な務めであると認識し、その務めを実践することである。来る日も来る日も『古事記』に目を凝らす宣長であったが、その視野には気息奄々の歌道が四六時中入ってきていた、この歌道の気息奄々には、宣長のなかにいた歌道、歌学の現実派、実際家が黙っていられなかったのである。

―右のような次第で、真淵と宣長との歌に関する考え方の相違は、ほぼ明らかになったと思うが、「あしわけ小舟」に即して、もう少し精しく書いてみよう。宣長の、和歌史論は、「あしわけ小舟」で最も精しいのだが、洞見に充ちているとは言え、何分にも雑然と書かれた未定稿であるから、整理を要する。……

―先ず歌の歴史性というものが強調され、歌が「人情風俗ニツレテ、変易ヘンエキスル」のは、まことに自然な事であって、「コノ人ノ情ニツルヽト云事ハ、万代不易ノ和歌ノ本然也トシルベシ」とまで言い切っている。これに対し、「ミナミナ富貴ヲネガヒ、貧賤ヒンセンヲイト」うというように、人情は古今変る事はない、と考える方が本当ではないか、と問者は言う。宣長は答える、いや、本当とは言えぬ、「コレ、ソノカハラヌ所ヲ云テ、カハル所ヲ云ハザル也」、それだけの話だ。「タトヘテイハバ、人ノ面ノ如シ」、その変らぬ所を言えとならば、「目二ツアリ、耳フタツアリ」とでも言って置けば済む事だが、万人にそれぞれ万人の表情があるところを言えと言われたら、どうするか。「云フニイハレヌ所ニ、カハリメガアリ」という事に気が附くであろう。……

―変らざるところは、はっきり言えるが、世の移るとともに移る歌の体については、誰も正確な述言を欠くのである。総じて、時代により、或は国々によって異なる歌の風体は、はっきり定義出来ぬものだが、われわれは、これを感じ取ってはいるのである。(中略)宣長にとって、歌を精しく味わうという事は、「世ノ風ト人ノ風ト経緯ヲナシテ、ウツリモテユク」、そのおおきな流れのうちにあって、一首々々掛け代えのない性格を現じている、その姿が、いよいよよく見えて来るという事に他ならない。……

「経緯をなして」は、横糸と縦糸のように合わさって、である。

―彼は、歴史には「かはる所」と「かはらざる所」との二面性があると言っているのではない。自分にとっては、歌を味わう事と、歴史感覚とでも呼ぶべきものを練磨する事とは、全く同じ事だと、端的に語っているだけである。歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その「えも言はれぬ変りめ」を確かめる、という一と筋を行くことであって、「かはらざる所」を見附け出して、この厄介な多様性を、何とかうまく処分して了う道など、全くないのである。宣長は議論しているのではない。自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ。……

「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だ」とは、すぐ前で言われている「歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その『えも言はれぬ変りめ』を確かめる、という一と筋を行くことであって」を承けている。一首一首の歌の「えも言はれぬ変りめ」を確かめるためには、他の歌との比較対照が最初の手順だが、そういう比較対照の「一と筋を行く」とは歌というものの濫觴まで遡り、そこから時代を下って歌と歌との比較対照を繰り返す、すなわち「歌の歴史をわが物にする」、そうすることで初めて「歌の美しさがわが物になる」のだが、ではその「歌の美しさ」とは何か、である、「あしわけ小舟」にこういう問いが立てられている。

―問、古ノ実情ノウルハシキ、誠ノ歌ヲマナビナラフトナラバ、何ゾ日本紀萬葉集ナドノ古風ヲトラズシテ、少々カザリツクロヒモアルヤウニナリタル、古今集ヲ取ルヤ……

これに対して、こう答えられる。

―日本紀萬葉ハ至テ質朴ナレバ、反テツタナイヤシク、ミグルシキ事モ多シ、只古今集三代集ガ花実全備シテスグレテウルハシケレバ、専ラコレヲ規矩準縄トスル事也、萬葉ノナカニテモ、人丸赤人ナド、其外ノ人ノモ、ウルハシキ歌ハミナトリ用ユレバ、代々ノ集、新古今ナドニモ、多クトラレタル也、コノ意ハ、和歌ニカギラズ、何ニテモアル事也、孔子モ文質彬々ヒンピン而後君子也トノタマヘリ、文質彬々ト云ハ、タダアリノママニテ、根カラ美醜ヲモカヘリミズ、アリテイナルヲバイハズ、誠実ナル上ニ、ズイブン醜ヲノゾキ、美ヲツクロヒカザリテ、スグレテウルハシクケツカウナルヲ云也、サレバ和歌ハ、見聞スルモノヲシテ感ゼシメ、天地ヲ動シ、鬼神ヲ感ゼシムルモノナレバ、ヨキガ上ニモヨキヲエラビ、ウルハシキガ上ニモウルハシキヲトルベキコトナラズヤ、……

こうして到達された「ウルハシサ」の絶頂が『新古今和歌集』なのだと宣長は言う。

―宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ」「歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。ずい分はっきりした断定で、これだけ見ていれば、真淵の万葉主義に対して、宣長の新古今主義とよく言われるのも、一応尤もなように聞えるが、それは当らない。何故かというと、この宣長の断定は、右に述べて来た意味合での「和歌ノ本然」という、真淵には到底見られない歴史感覚の上に立っていたからだ。……

「和歌の本然」は、「あしわけ小舟」にこう言われている。

―夫レ和歌ノ本然ト云モノハ、又神代ヨリ萬々歳ノ末ノ世マデモカハラヌト云処アリテ人為ノ及バヌトコロ、天地自然ノ事也、ソノワケハ、マヅ歌ト云モノハ、心ニ思ヒムスボルル事ヲ、ホドヨク言出テ、ソノ思ヲハラスモノナリ、サレバ人心オナジカラザル事、其面ノ如シテ、人々カハリアリ、思フ心千差萬別ナレバ、ヨミ出ル歌モコトゴトクソノ心ニシタガヒテカハリアル也、サレバヨメル歌ニテ、其人ノ気質モシレ、其時ノ心根モヲシハカラルルナリ、……

―同時代ニテモ、カクノ如クソノ身ソノ身ノ歌ヲ詠ム、又時代ノカハリモソノ如ク、上古ハ上古ノ體、中古ハ中古ノ體、後世ハ後世ノ體、ヲノヲノソノ時代ソノ時代ノ體、ヲノヅカラカハリユク、ソノカハリユクハ何故ゾナレバヒトノ情態風俗ノカハリユクユヘ也、トカク歌ハ人ノ情サヘカハリユケバ、ソレニツレテカハリ変ズル、コレイヤトイハレヌ天然自然ノ道理也、……

―サレバコノ人ノ情ニツルルト云事ハ、萬代不易ノ和歌ノ本然也トシルベシ、……

この「萬代不易ノ和歌ノ本然」を、小林氏は次のように読み取っている。

―「記紀」にある上代の歌は、「上手ト云事モナク、下手ト云事モナク、エヨマヌモノモナク、ミナ思フ心ヲタネトシテ、自然ニヨメル也」。その内に、次第に「ヨキ歌ヨマムトタクム心」が自然に生じ、「万葉」の頃になると、「ハヤ真ノ情ヲヨムト、タクミヲ本トスル事ト、大方半ニナレル也」、其後「漢文モツパラ行ハレテ」、詠歌とは「歌道ト云テ、一ツノ道」であるという自覚は、容易に得られなかったが、「古今」の勅撰によって、漸くその機が到来したのも「自然ノ勢」だ。(中略)「オホヨヨロヅノ事、ナニ事モ、世々ヲヘテ全備スル事也、聖人ノヲシヘナドモ、三代ノ聖人ヲヘテ、周ニ至テ全備セルゴトクニ、此道モ世々ヲヘテ、新古今ニ至テ全備シタレバ、此上ヲカレコレ云ハ邪道也」という事になった。……

「三代ノ聖人」は、中国古代の伝説上の聖王、尭、舜、禹であり、「周」は中国古代の王朝であるが、周は尭、舜、禹が先鞭をつけた「礼楽」による社会秩序を標榜して理想的国家を実現、孔子が司政の鑑と評価して憧れ、自らそこに身を投じようとした。

―宣長が、「新古今」を「此道ノ至極セル処」と言った意味は、特に求めずして、情と詞とが均衡を得ていた「万葉」の幸運な時が過ぎると、詠歌は次第に意識化し、遂に情詞ともに意識的に求めねばならぬ頂に登りつめた事を言う。登り詰めたなら、下る他はない、そういう和歌史にたった一度現れた姿を言う。この姿は越え難いと言うので、完全だと言うのではない。「歌ノ変易」だけが、「歌ノ本然」であるとする彼の考えのなかに、歌の完成完結というような考えの入込む余地はない。……

―もし真淵の「万葉」尊重が、「新古今」軽蔑と離す事が出来ないと言えるなら、宣長の「新古今」尊重は、歌の伝統の構造とか組織とか呼んでいいものと離す事が出来ない、と言った方がよいのであり、「ますらをの手ぶり」「手弱女たわやめのすがた」という真淵の有名な用語を、そのまま宣長の上に持込む事は出来ない。歌の自律的な表現性に関し、歌人等の意識が異常に濃密になった一時期があったという歴史事実の体得が、宣長にあっては、歌の伝統の骨格を定めている。和歌の歴史とは、詠歌という一回限りの特殊な事件の連続体であり、その始まりも終りも定かならず、その発展の法則性も、到底明らかには摑む事が出来ない、そういう言わば取附く島もない、生まな歴史像が、「新古今」の姿の直知によって、目標なり意味なりが読み取れる歌の伝統という像に、親しく附合える人間のような面貌に、変じているのである。……

―従って、真淵が「万葉」に還れと言う、はっきりした意味合では、宣長に、「新古今」に還れと言える道理はなかった。実際、彼は、そんな口の利き方を少しもしていないし、却って、詠歌の手本として、「新古今」は危険であると警告している。「新古今ニ似セントシテ、コノ集ヲウラヤム時ハ、玉葉風雅ノ風ニオツル也」、或は「うひ山ぶみ」から引用すれば、「これは、此時代の上手たちの、あやしく得たるところにて、さらに後の人の、おぼろげに、まねび得べきところにはあらず、しひて、これをまねびなば、えもいはぬすゞろごとに、なりぬべし。いまだしきほどの人、ゆめゆめこのさまを、したふべからず」。……

「玉葉風雅」は、「玉葉和歌集」「風雅和歌集」で、いずれも「新古今集」の後を承けた鎌倉時代後期、室町時代初期の勅撰集である。

こうしてここまで見てくれば、少なくとも次のようには言えると思う。宣長が真淵に隠していたものとは、歌の本然としての歌の歴史性、そこにまったく目を向けていなかった真淵の偏向、そして『萬葉集』の四千五百首を「ますらをの手ぶり」と一絡ひとからげに束ねあげ、その鼻息で『古今集』以下を一蹴する建前主義、それらに対する不満と言うより批難であっただろう。宣長にとって「歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その『えも言はれぬ変りめ』を確かめる、という一と筋を行くことであった」。だが真淵は「かはらざる所」を見つけ出すことに躍起となり、一首一首の歌の多様性は「処分」してしまっていた、「処分」し終えた気になっていた。真淵のこの手つきではとうてい『古事記』の門戸は開くまい、宣長はひそかにそう見てとっていたが、真淵にそれを言うことはなかったのである。

(第三十一回 了)

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

トルストイは、ベエトオヴェンのクロイツェル・ソナタのプレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニイの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮を経験したと言う。トルストイは、やがて「クロイツェル・ソナタ」を書いて、この奇怪な音楽家に徹底した復讐を行ったが、ゲエテは、ベエトオヴェンに関して、とうとう頑固な沈黙を守り通した。有名になって逸話なみに扱われるのは、ちと気味の悪すぎる話である。底の知れない穴が、ポッカリと口を開けていて、そこから天才の独断と想像力とが覗いている。

 

もし小林秀雄が「ベエトオヴェン」を「モオツァルト」流に書いたとしたら、彼はここから書き出したに違いない。というのは、「モオツァルト」劈頭で提示された「悪魔が発明した音楽」を、ベートーヴェンに置き換えてみればこうなるという意味だが、この「モオツァルト」第二段楽から第三段落にかけての、モーツァルトという「悪魔の罠」がベートーヴェンという「悪魔の罠」にすり替わるかのような転調(いや、移調というべきか)は実に巧妙です。それこそ「悪魔の罠」と呼びたいほどだ。二つの「悪魔」は、共に晩年のゲーテの心を乱したそれであったという点で相通じているが、「悪魔」の意味合いは決定的に異なっていた、あるいは、「悪魔」が発明したその音楽の意味合いが決定的に異なっていた、そこが巧妙なのです。

続いて小林秀雄は、「ベエトオヴェンの音楽に対するゲエテの無理解或は無関心」についてのロマン・ロランの「意外なほど凡庸な結論」を一蹴した上で、「Goethe et Beethoven」に引用された一八三〇年のゲーテの「異常な昂奮」を再現します。それはすでに紹介しました。そして彼は、メンデルスゾーンがゲーテに弾いて聞かせた第五シンフォニーの第一楽章に対して、ゲーテが不快を表明したことよりも、その後、この老作家が何やら口の中でぶつぶつと自問自答していた事のほうが大事だったのであると言い、次のように語ります。もう一つの「悪魔」は、ここにさりげなく登場します。

 

今はもう死に切ったと信じたSturm und Drangの亡霊が、又々新しい意匠を凝して蘇り、抗し難い魅惑で現れて来るのを、彼は見なかったであろうか。大袈裟な音楽、無論、そんな呪文で悪魔は消えはしなかった。何はともあれ、これは他人事ではなかったからである。震駭したのはゲーテという不安な魂であって、彼の耳でもなければ頭でもない。(略)恐らくゲエテは何も彼も感じ取ったのである。少くとも、ベエトオヴェンの和声的器楽の斬新で強烈な展開に熱狂し喝采していたベルリンの聴衆の耳より、遥かに深いものを聞き分けていた様に思える。妙な言い方をする様だが、聞いてはいけないものまで聞いて了った様に思える。

 

ゲーテのエピソードを紹介するにあたって、ロマン・ロランもまた、「この場面は、老人の不安を、また、六十年後『クロイツェル・ソナタ』によって老トルストイを驚倒せしめたあの野蛮な悪魔共を彼が怒りっぽい身振りで押しやってこれを閉じ籠めようとした努力をわれわれに見せている」と前置きしていることはすでに述べました。小林秀雄がここに忍び込ませた「悪魔」は、そのロランの「悪魔共」にいざなわれて現れたものであったことは間違いないでしょう。ちなみにロランが書いた「悪魔共」の「悪魔」の語も、「サタン」の意味の「diable」ではなく、ゲーテの「デーモン」と同じ「démon」が使われています。

しかし小林秀雄が「モオツァルト」第六段落に登場させたこの「悪魔」は、ベートーヴェンの第五シンフォニーという「誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった」音楽を発明することによってゲーテをからかったわけではありませんでした。もう一つの「悪魔」は、かつて「Sturm und Drang」の文学運動の嵐の中で若きゲーテを駆り立て、しかし今はもう死に切ったと自ら信じながら未だこの作家の内部に棲み続けた或る存在を覚醒めさせ、自覚させるものとして現れるのです。それはすなわち、ゲーテ自身の「不安な魂」を映し出す鏡なのであり、第五シンフォニーは、ゲーテを外部からからかう音楽としてよりも、むしろゲーテその人の音楽として聞かれている。小林秀雄はゲーテの「異常な昂奮」をそう解した。もしもこのとき「悪魔」がゲーテをからかったとすれば、その所以は、メンデルスゾーンがゲーテの目の前で弾いて聞かせた音楽が、他ならぬであったというところにあったはずだ。「これは他人事ではなかった」とはそういう意味でしょう。そしてそのゲーテに、小林秀雄がニーチェとのアナロジーを見るというのも、この哲学者にとって、ワーグナーの音楽とは、ニーチェ自身の「不安な魂」を映し出す鏡としての「悪魔」でもあったからです。

 

ワグネルの「無限旋律」に慄然としたニイチェが、発狂の前年、「ニイチェ対ワグネル」を書いて最後の自虐の機会を捉えたのは周知の事だが、それとゲエテの場合との間には、何か深いアナロジイがある様に思えてならぬ。それに、「ファウスト」の完成を、自分に納得させる為に、八重の封印の必要を感じていたゲエテが、発狂の前年になかったと誰が言えようか。二人とも鑑賞家の限度を超えて聞いた。もはや音楽なぞ鳴ってはいなかった。めいめいがわれとわが心に問い、苛立ったのであった。

 

「ニーチェ対ワーグナー」は、なぜニーチェにとって「自虐」なのか。それは、ニーチェが批判し、呪詛し、葬り去ろうとした音楽が、ニーチェその人の音楽でもあったからです。続けて小林秀雄は、ニーチェはワーグナーのうちに「ワグネリアンの頽廃」を聞き分けたと書いているが、「ワグネリアン」とは誰よりも、かつてこの作曲家に心酔した若きニーチェのことであり、その「頽廃」はまた、ニーチェ自身の内部に巣食っていたものでもありました。ニーチェは、「私もワーグナーと同様この時代の子である、言ってよいなら、デカダンである」とはっきり書いています(「ワーグナーの場合」)。その自らの内なる「ワーグナー的傾向」に対して、この哲学者ははげしく抗い、その脱出を試み、これを超克しようとした。しかもそれを執拗に何度も繰り返し行った。その最後の抵抗、すなわち「最後の自虐の機会」が、「ニーチェ対ワーグナー」でありました。ニーチェが発狂したのは、その原稿が脱稿した翌月です。

一方、ゲーテがベートーヴェンの第五シンフォニーに聞き分けたもの―当時のベルリンの聴衆が聞き分けたものより「遥かに深いもの」、「聞いてはいけないもの」とは何であったのか。それを小林秀雄は、「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」ではなかったかと示唆します。「人間的な余りに人間的」とは、ニーチェの「の自虐」の書のタイトルです。その続篇を一冊にして刊行するにあたり、ニーチェはこの著述を「ひとつの精神治療」、すなわち「ロマン主義の最も危険な形式の一時的な罹患に抵抗する私の常に健康な本能が自ら工夫し、自ら処方したところの自己療法」(中島義生訳/以下同)であると書いている。このときニーチェが断行したのは、「一切のロマン主義的な音楽を徹底的に、根本的に自分に禁じたこと」であった。それは「精神の厳しさと愉しさを奪い、あらゆる種類の不明瞭な憧憬とふわふわした欲望をはびこらせる、この曖昧で、ほら吹きで、うっとうしい芸術をこと」であった。すなわちリヒャルト・ワーグナーという「腐朽した、絶望的なロマン主義者」に訣別することでありました。そしてゲーテという文学者もまた、ニーチェ同様「ロマン主義」というものを疑い、これを危険視し、批判した人であったのです。

その「ニーチェ対ワーグナー」と「ゲーテ対ベートーヴェン」との間に、小林秀雄はアナロジーを見出した。ということは、ゲーテが第五シンフォニーに聞き分けたと彼が示唆する「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」とは、一言で言えば、ベートーヴェンの音楽が内に孕む「ロマン主義」であったということになるはずです。それは彼自身、これに続けて、「ベエトオヴェンという沃野に、ゲエテが、浪漫派音楽家達のどの様な花園を予感したか想像に難くない」と付け加えているとおりです。さらに言えば、アナロジーは、ニーチェが嫌悪した「ロマン主義」とゲーテが批判した「ロマン主義」との間にもあったはずだ。少なくともそこに、ニーチェのゲーテへの共感があったことは確かです。ニーチェにとって、ゲーテは「私が畏敬をはらう最後のドイツ人」(「偶像の薄明」)であり、そのゲーテがロマン主義の危険と、ロマン主義者の宿業について問うた結論は、ワーグナーの「パルジファル」―このワーグナー最後の作品が、ニーチェのこの作曲家への訣別を決定的なものにしました―にそのまま当て嵌まると、ニーチェは「ワーグナーの場合」の中で述べています。ただしそのニーチェにとって、ベートーヴェンの音楽は、決して「ロマン主義」ではなかった。それどころか、ワーグナーとベートーヴェンを引き比べるということは、ニーチェにとっては「冒涜」でさえあったということは付記しておきましょう。

ところで小林秀雄は、「ベエトオヴェンという沃野に、ゲエテが、浪漫派音楽家達のどの様な花園を予感したか想像に難くない」と語りながら、その直後に、「尤も、浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題を、僕は、ここで応用する気にはなれぬ」とも書いています。第五シンフォニーを聞いたゲーテのあの「異常な昂奮」は、無論、一つの「命題」に還元して片付けてしまえるようなものではなかったでしょう。またゲーテを動揺させ、苛立たせた「悪魔」は、ゲーテ自身の内部に眠っていた「Sturm und Drangの亡霊」でもあったとするならば、このエピソードを単に「古典主義者ゲエテ」が「浪漫主義者ベエトオヴェン」を嫌ったと結論することはできなかったはずです。そのことは、その少し後に書かれた「ベエトオヴェンを嫌い又愛したゲエテ」という彼の言葉にも表れています。しかしまた、「浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題」とは如何なるものであったのかは、「」を読み解く上で、ぜひとも知っておかなければなりません。「周知」のことではあるかもしれないが、ゲーテの言葉をいくつか拾ってみましょう。

まず、ゲーテのこの「命題」を一行で尽くせば、「クラシックは健康であり、ロマンティックは病気である」ということになります。これはゲーテの「箴言と省察」の中にある言葉だが、エッカーマンの「ゲーテとの対話」の中では、ゲーテは次のようにも語っています。

 

「私は新しい表現を思いついたのだが、」とゲーテはいった、「両者の関係を表すものとしては悪くはあるまい。私は健全なものをクラシック、病的なものをロマンティックと呼びたい。そうすると、ニーベルンゲンもホメロスもクラシックということになる。なぜなら、二つとも健康で力強いからだ。近代のたいていのものがロマンティックであるというのは、それが新しいからではなく、弱々しくて病的で虚弱だからだ。古代のものがクラシックであるのは、それが古いからではなく、力強く、新鮮で、明るく、健康だからだよ。このような性質をもとにして、古典的なものと浪漫的なものとを区別すれば、すぐその実相を明らかにできるだろう」(一八二九年四月二日 山下肇訳/以下同)

 

これはゲーテが七十九歳の時の言葉です。ちなみに「ロマン主義的な音楽」について語る四十一歳のニーチェの言葉を続けて読んでみましょう。

 

こういう音楽は、われわれの気力をそぎ、柔弱にし、女々しくする。その「永遠の女性」がかれらをひきずり―おとすのだ! ……当時私の最初の猜疑、私の最も身近な用心は、ロマン主義的な音楽に対して向けられた。そして、私がおよそなお音楽について何らかの希望を持ったとすれば、それは、ああいう音楽に対して不滅の仕方でことのできる、大胆で、繊細で、意地悪く、南方的で、あふれるばかりに健康な一人の音楽家が現われてほしいという期待であった―(「人間的、あまりに人間的」序文)

 

「『永遠の女性』がかれらをひきずり―おとすのだ!」という表現は、「ファウスト」第二部終結部の「神秘な合唱」で歌われる「永遠の女性がわれらを高きへ導く」をもじったもので、ロマン主義的な音楽の力は、ニーチェが畏敬するとは真逆の方向に働くことを言ったものです。やがてニーチェは、ビゼーの「カルメン」という「南方的で、あふれるばかりに健康な」音楽によってワーグナーに「復讐」を果たすことになるのですが、ということはまた、ニーチェにとっての「クラシック」とは「カルメン」であったということにもなるのだが、それはさておき、今はゲーテの言った「ロマンティック」と、ニーチェが禁じた「ロマン主義的な音楽」との間にあるアナロジーを感じてもらえればよいのです。

さてゲーテは、「クラシック」は「力強く、新鮮で、明るく、健康」で、「ロマンティック」は「弱々しくて、病的で、虚弱」だと言うのだが、問題は、ゲーテのいう「健康」とは何か、「病的」とは何かということです。しかしそれについては、ゲーテはこの日の対話では何も語りませんでした。一方、ニーチェが「ロマン主義」の何を「病的」としたかについては(ニーチェは「ワーグナーとは一つの病気である」と明言しています)、「人間的、あまりに人間的」以降幾度も語り続けました。それを一言で言うなら、「デカダンス」ということになる。その衰退の特徴とは、「貧困化した生」であり、「終末への意思」であり、「大きな疲労」であった。音楽的には、それはリズムの衰退と明確なカデンツを回避するワーグナーのいわゆる「無限旋律」として現れた。そしてその「デカダンス」は、「残忍なもの」「技巧的なもの」「無邪気(白痴的)なもの」をもっとも必要とする「近代性」そのものの表現であると、ニーチェは考えるのです。

次に、「ゲーテとの対話」からもう一つ読んでみましょう。これもゲーテの「周知の命題」といっていいものだ。

 

「君に打ち明けておきたいことがある。君もいずれこれからの人生でいろいろと思いあたるふしがあるにちがいないが、後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。が、逆に、前進しつつある時代はつねに客観的な方向を目指している。現代はどう見ても後退の時代だ。というのも、現代は主観的だからさ。このことは、文学だけではなく、絵画やほかの分野においても見られるものだ。それに対して、有意義な努力というものは、すべて偉大な時期ならどの時期にも見られるように、内面から出発して世界へ向かう。そういう時代は、現実に努力と前進をつづけて、すべて客観的な性格をそなえていたのだよ。」(一八二六年一月二九日)

 

この話題をエッカーマンに切り出す前、ゲーテは、その前の日にヴォルフというハンブルクの即興詩人がゲーテのもとを訪れたときのことを語っています。ゲーテに言わせれば、ヴォルフは素晴らしい才能の持ち主だが、「主観主義という現代病」に犯されている。それを自分は治してやりたいと思った。そこでゲーテは、この前途有望な詩人に一つの課題を与えます。「君がハンブルクへ帰るところを描いてみたまえ」と。するとヴォルフはすぐに想を練り上げ、ただちに響きのいい詩句を語り始めた。それにはゲーテも感嘆しないわけにはいかなかったが、かといって褒めるわけにもいかなかった。ヴォルフが描いたのは、「ハンブルクへの帰郷」ではなく、ある一人の息子が身内や友人の許へ帰るときの感じしかあらわれていなかったからです。それは、「メルゼブルクへの帰郷」とか「イエーナへの帰郷」とかいっても通用するものであった。しかしゲーテに言わせれば、ハンブルクというところは実に際立った特徴のある街で、詩人たるものその対象を的確に捉え、読者が自分の目で見ているのではないかと錯覚するほど生き生きと描き出してみせなければならない。そういう話をした後で、先ほど読んだ「客観的と主観的」という話がエッカーマンに打ち明けられるのです。つまりゲーテは、ひたすら自己の内面の出来事に興味が集中するような芸術傾向を「主観的」と呼び、その逆に、自己の外部に存在する美しさや偉大さに関心が向かうような傾向、ゲーテの言い方で言えば、「自己から出発して世界へ向かう」傾向を「客観的」と呼んだのでした。

そのあと、話題は「十五、六世紀の偉大な時代」へと移り、一方、最近の演劇作品に見られる「弱々しく感傷的で陰鬱」な傾向について語られます。もうお分かりでしょうが、この日ゲーテが語った「客観的と主観的」という対概念は、そのままゲーテのいう「クラシックとロマンティック」という対概念に置き換えてもよいものなのです。つまりゲーテは、古代のものが「力強く、新鮮で、明るく、健康」であるのは、それが「客観的」だからだ、一方、近代の多くのものが「弱々しくて病的で虚弱」なのは、それが「主観的」だからである、自分は前者を「クラシック」、後者を「ロマンティック」と呼びたい、とそう語ったのだと言えます。そして小林秀雄が示唆した「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」とは、ゲーテのいった「主観的」なものの「危険」を衝いた言葉なのであり、その傾向が進めば、時代は「後退と解体」に向かうとゲーテが危惧した意味で、後にニーチェが断固否定した近代の「デカダンス」へと通じるものでもあった。そうであればこそ、小林秀雄はこの哲学者の「自己療法」の書名をそこに埋め込んだのでしょう。だが誤解してはならない、それを聞き分けたのはゲーテであって、小林秀雄ではありません。

「モオツァルト」を発表した四年後、小林秀雄はこの「ロマンティック」な時代の「病気」について、あらためて筆を執りました。「表現について」という文章がそれです。これは「モオツァルト」を発表した半年後に行った講演をもとにしたもので、小林秀雄のロマン主義芸術論であり、その中心にベートーヴェンを据えているという意味で、彼が書き残した唯一のベートーヴェン論と呼んでもいいものです。そこでのロマン主義という時代に対する、そしてこの時代を音楽の世界において切り拓いたベートーヴェンという芸術家に対する彼の考えは、ゲーテが示したそれと軌を一にするものではありませんでした。

その講演の中で、小林秀雄は、ゲーテが「弱々しくて病的で虚弱」であるとしたところの時代を、「何も彼も自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難しい時代」と呼びます。そして「ゲエテが早くも気付いていた『浪漫主義という病気』」に、芸術家たちはただかかったのではない、のだと語るのです。ベートーヴェンとは、言わばこの「病気」と最初に出会い、これに進んで、良心をもってかかった音楽家であった。そしてその仕事を他の追随を許さぬ驚くべき力で完成させた人であった。だがここで忘れてならぬのは―と、彼は聴衆に注意を促した上でこう付け加えます―「ベエトオヴェンは、自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家であったが、自分の意志と才能との力で新しく創り出すところは、又万人の新しい宝であるという不抜の信仰を抱いていたという事です」。すなわちゲーテのいった「自己から出発して世界へ向かう」音楽であったというところにこそ、この音楽家を考える上で「忘れてならぬ」事実があると彼は言うのです。

小林秀雄が本当に「応用」したくなかったのは、「浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテ」という命題では実はなかった。「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」の権化としてのベートーヴェン、という自ら示唆した命題こそ、彼が自身の「ベエトオヴェン」には応用したくないものだったのです。

(つづく)

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。

 

ボードレールと「近代絵画」Ⅴ
―フランソワ・ポンポン展を観て

慶雲きやううん三年丙午ひのえうまに、難波なにはの宮にいでます時
志貴皇子しきのみこの作らす歌
  葦辺あしへ行く 鴨のがいに 霜降りて
  寒きゆふべは 大和し思ほゆ
     「萬葉集」巻第一 六十四番歌(*1)

 

 

フランソワ・ポンポン(François Pompon、1855-1933)というフランス人動物彫刻家の、日本初となる回顧展が、二〇二一年から二二年にかけて巡回中である。パリのオルセー美術館を訪れた方は、なめらかな外観をした、実物大の「シロクマ」の彫刻を覚えておいでかも知れない。私は昨夏、最初の巡回会場となった京都市京セラ美術館を訪れ、強い印象を受けていたところ、その後同館を幼いお嬢さんとともに訪れた友人から、思わぬ言葉をもらうことになった。お嬢さんの反応も含めてなのか、「少々物足りなかった」というのである。感性高く、俳優、演出家でもある彼女の言葉としては、少し残念ではあったが、その言葉がどうしても頭に残り、巡回先の名古屋、そして群馬県の館林にも、足を運んでみた。そうすると、作品を重ねて観るにつけ、その理由がおぼろげながらも明瞭になり、むしろ重要な示唆さえ含むのではないかと考えるにいたった。さらには、これまで、この「ボードレールと『近代絵画』」のシリーズ(Ⅰ~Ⅳ)において考えてきたことの応用問題を提示されているように思うところもあり、以下に綴ってみることにする。

 

 

ポンポンは、一八五五年、旧ブルゴーニュ地方のソーリューに生まれた。家具職人であった父の工房で見習いとして働き始め、十五歳になるとディジョンに出て、墓石を彫る大理石職人見習いとして働きながら、夜間は美術学校で学んだ。二十九歳からは、様々な彫刻家のもとで下彫りの仕事を始めた。三十三歳の時には、ヴィクトル・ユゴー(*2)の「レ・ミゼラブル」に登場する貧しい少女コゼットが、重い水桶を持ち上げる姿を彫った石膏立像をサロンに出品し三等を受賞する。その後、悲願の公的買い上げを目指し、ブロンズや大理石でも出品を重ねたものの却下が続き、フランス国家認定の彫刻家という最高位を得ることは、ついに叶わなかった……

しかし、拾う神は現れた。オーギュスト・ロダン(*3)である。彼は、この作品を一目見るなり、試用期間も取らず、即ポンポンを下彫り職人として採用した。ポンポンは工房長まで務め上げ、一八九六年、四十一歳までロダンのもとで働いた。四年後、国による買い上げを再度請願するも叶わず、以後人物像の出品はほとんど見られなくなる。ロダンのもとも離れ、彫刻家サン=マルソー(*4)を手伝うようになったポンポンは、四十七歳の頃から、サン=マルソーのアトリエがあったノルマンディーの片田舎で家畜とともに過ごし、塑像として制作するようになった。一九〇六年、五十一歳の時には、彫刻「カイエンヌの雌鶏」を初出品。しかし、独特のなめらかな表面をした鶏に対する聴衆の反応は、笑い、であった。その後も、「モグラ」「仔牛」「鵞鳥」「ほろほろ鳥」などの動物作品を出品するが、評価は芳しくなく生活も苦しかった。第一次世界大戦後、いっそう貧窮したポンポンは、パリの動物園を制作場所と定めて、放し飼いにされた動物たちを眺め続けた。評価は徐々に上がり始め、一九一九年、六十四歳にして初の個展を開催することができた。二年後には最愛の妻ベルトを亡くす。しかし翌年の一九二二年、サロン・ドートンヌ(*5)に出品した大石膏の「シロクマ」が、大きな、大きな評判を呼んだ。よわい六十五の秋、突如として、偉大で独創的な動物彫刻家として賞賛を受けることになったのである。

 

 

ここで、動物彫刻、もう少し大きく捉えて、芸術のなかでの動物の位置付けについて、留意しておくべきことがある。日本とヨーロッパとの明確な違いについてである。

まず、日本人にとって、動物が主役となっている作品は、古くからある、ごく当たり前のものと言えよう。例えば、京都の高山寺には、中興開祖の明恵上人が愛玩した「木彫りの狛児くじ(子犬)」(鎌倉時代)がある。志賀直哉氏が「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と記しているように、尻尾を振ってこちらに飛び込んでくるような生気溢れる像である。加えて同寺では、今や世界的に有名となった「鳥獣人物戯画絵巻」(平安~鎌倉時代)も蔵している。その頃からは、花鳥を主題とする宋元画の輸入も始まり、室町時代には、日本人の手になる花鳥画も制作された(能阿弥「花鳥図屏風」等)。江戸時代になると、明清画が輸入され、例えば中国人花鳥画家、しん南蘋なんぴん(*6)の細密画法による花鳥画に、多くの日本人画家が大いなる刺激を受けた。動物画は、円山応挙(*7)の子犬図や伊藤若冲(*8)の鶏図など、その後も大きく花開き続けたことは周知の通りである。

さらには、日本における、古代からの人々と動物との関係、飛鳥の頃に伝来したとされる十二支のことも含む日常生活における関わり合いについても、丁寧に踏まえておきたいところであるが、本稿では紙幅の都合上割愛する(*9)

 

 

一方、ヨーロッパにおいては大きく状況が異なり、動物を主役にした美術は、非常に少なかった。その理由については、絵画の世界の約束事として、画中の動物には大きく二つの役割があったためだと言われている(*10)。その一つは「象徴」である。例えば、鳩は平和、犬は貞節を意味した。もう一つは、動物は「物語の脇役」、ということである。聖書や神話が描かれた絵においては、あくまで神や人物が主役で、動物は脇役でなければならなかった。その背景には、「神を頂点に、人間、動物の順に優れたものとするキリスト教に由来する西洋の世界観」があった。いわば作家の前には、制作の大前提条件として、そのような約束事、すなわち社会的な通念があった、というわけである。先に述べた江戸期の動物絵画に対して、十九世紀末、ジャポニスムに沸くヨーロッパの人々は大きな衝撃を受けたという(*11)。彼らがいかに長い時間、そんな通念のもとにあったのかが感得できよう。

彼の地において、そのような通念が見直されるのは、十九世紀半ば、写実による力強い動物彫刻を制作した、アントワーヌ・ルイ・バリー(*12)の登場まで待たねばならなかった。ポンポンは、バリーが亡くなった一八七五年、ちょうど動物芸術に対する人々の態度の潮目が変わりつつある頃、パリへ出てきたということになる。

 

 

ここで、ポンポンの作品に向き合ってみよう。

まず、「餌をついばむ雄鶏」(1907、ブロンズ)。地面の餌をついばもうと大きく首を垂れている。どの角度から見ても「生きている」。しかも、写真のように切り取られた、一瞬間の切断面ではない。今まさに、餌をついばんでいるのだ。いや、さらに近づけば、次の瞬間、急に首を上げ、威嚇の声を発するのでは? という緊張感を、さらには神々しさまでも感じさせる。そこに訳出された連続する動勢ムーヴマンは、彼がロダンから学んだものであった(*13)。ちなみに、後年、大胆に省くことになる体表の羽の表現は、まだ確認できる。

続いて、「カラス」(1929、ブロンズ)。本物のカラスは、例えば、道を歩いていて至近距離で遭遇すると、それなりの威圧感を覚えるものだが、それと同じ圧を感じる。ポンポンは田舎でカラスを見た際、かつてケージの中のカラスを忠実に写し取ろうとした試作が失敗した理由を、このようにして悟ったという。―「ぎくしゃくと、地面に横たわるくらいの角度で移動するカラスは、頭のてっぺんから尻尾までまっすぐの線を描いていた。この歩くことで描かれる線、すなわち動きの線が足りなかったのだ」(*14)。彼は、動物の動く姿を凝視し続けた。何度も、何度も、何度も…… その時間をかけた繰り返しこそが、この臨場感を産み出した。

もう一つ、とりわけ印象深かったのが「雄鶏」(1913-1927、ブロンズ)である。もはや羽や鶏冠とさかの皺など、体表に微細な表現はない。右足に重心をかけながら、胸を張る雄鶏。威嚇の瞬間なのか、早朝、群れ一番の雄たけびを上げようとする刹那なのか…… そのとき、ある影像が私の脳裏に浮かんだ。伊藤若冲の『動植綵絵さいえ』にある「南天雄鶏図」である(*15)。確かに構図はそっくりである。しかしそんなことを遥かに超える、真を見抜き、真を現わし得ているところに出現した、躍動感、いやそういう言葉が空疎に聞こえるほどの、雄鶏の生命そのものを、両作から同様に直観した。絵画と彫刻、細密とその省略という見かけの違いはあれど、各自がそれぞれの気質をもとに永年の労苦の末に噛み出し、彫り出した「すがた」、「かたち」に、同じような感動を覚えたのである。

若冲は、庭に数十羽の鶏を飼い、その形状を極めるのに何年も費やした。彼自身が、「旭日鳳凰図」という作品に、こんな自賛を書き込んでいる(*16)

「花鳥草虫オノオノ霊有リ、真ヲ認メマサニ始メテ丹青ニ賦ス」。

花鳥草虫にはおのおの「霊(固有の生気)」が宿る。観察を尽し、その「真」を認識したのち、作画にかかるべきだ、そう言っているのである。

一方、若冲同様、あまり多くの言葉を後世に残していない寡黙なポンポンには、こういう言葉があった。

「動く動物は、より生命力のある形態を与えてくれる」。

私がポンポンの手になる動物たちに向き合って直観したものは、この「より生命力のある形態」であり、若冲の言う「霊」であり「真」であったのではなかっただろうか。

 

 

このようにポンポンは、動物芸術が、「象徴」や「脇役」という通念から逃れ、ようやく自由になりかけた時代において、動物単体での純粋な表現に徹した。言い換えれば、動物を動物そのものとして彫り上げたのだ。彼には、「シロクマ」や「雄鶏」という名前すらもはや余計なものだったのかも知れない。さらには、表面の微細の表現は思い切って捨て去り、外観のなめらかな線と、内部にある筋肉の塊りの大きな動きによって、動勢と同時に迫真性と崇高性を表現し、そこに生命そのものを観じさせてくれている。

小林秀雄先生は、近代絵画の運動について、「根本のところから言えば、画家が、扱う主題の権威或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史」と言ったうえで、その予言的な洞察を行った最初の絵画批評家こそ、ボードレールであったと述べている(「近代絵画」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十二集所収)。かような意味合いにおいて、ポンポンはボードレールの予言の延長線上に現れた、という言い方もできよう。彼もまた、「象徴の森」を横切った一人だったのである(*17)

ちなみに、ボードレールが、その予言を行う上で見抜いたのが、「周囲の人々より余程進んだ時計を持っていた画家達の感覚」であり、その一人がドラクロワ(*18)であった。彼は、初期の動物画家としてもよく知られており、パリの動物園に足繫く通い、ライオンやトラを描いた数は四百点にも及ぶ(*19)。その時の同行者は、先述の動物彫刻家バリーであった。バリーはロダンの師でもあり、若きロダンは、バリーの息子と連れ立って動物園へ通い、動物をよく研究していた(*20)。そして今更言うまでもなく、ポンポンはロダンの工房で沢山のものを身に付けた。ロダンはある日、ポンポンにこう言ったそうである。

「自らの個性は自然を写すことによって見えてくる……生命は、夢の中でもなく、想像の中でもなく、ただ生物の中にしか見つけることができない……光のもとで最初に彫刻がなすべきことは、最も忠実に自然を写すことである……よく構成し、面に置き換えることである……」(*21)

 

 

さて、冒頭で触れたように、友人からの「少々物足りなかった」という、思わぬ展観評をもとに思いを巡らせてきたが、やはりそれは、幼児を連れては長居できない彼女にとって、やむを得ないことだったように思う。というのも、ポンポンの作品を味わうには一定の時間をかける必要があるからだ。そもそも彼が、独自の動物彫刻スタイルを結実させるまでに長い時間をかけた。その労苦の末に、彼の作品には、心を静めてゆっくりと向き合うなかでこそ感得できる動勢や崇高性、ひいては生命そのものが生まれた。加えて、今や巷間あふれる動物キャラクターに慣れ切った私たちは、つい「かわいい!」と感情移入したくなる心持ちから、意識的に離れる必要がある。

それでも彼女には、だいじょうぶ!と伝えたい。きっとお嬢さんは、短時間ではあっても身体全体で、作者が魂を込めて再現した動き、神々しさ、生命そのものを直かに感じていたはずである。その感覚は、意識にのぼらずとも身体が覚えているに違いない。

そもそも、ポンポン自身が、「自分は美術館のために作品を作ってきたわけではない」、そう言っていたのである……

 

 

(*1)―枯葦のほとりを漂い行く鴨の羽がいに霜が降って、寒さが身にしみる夕暮は、とりわけ故郷の大和が思われる、の意(伊藤博「萬葉集釋注」集英社)。志貴皇子は天智天皇の皇子。「羽い」とは、背中にたたんだ左右の羽の交わるところ。伊藤氏は「鴨の羽がいに置く霜に早々と目をつけた鋭さは驚くべき観察である」と評している。

(*2)Victor Hugo、1802-1885、フランスの詩人、小説家、劇作家。

(*3)Auguste Rodin、1840-1917、フランスの彫刻家。作品に「考える人」、「バルザック」など。

(*4)René-de-Saint-Marceaux、1845-1915、フランスの彫刻家。作品に「マリー・バシュキルツェフの胸像」など。

(*5)毎年秋にパリで開催される展覧会。前衛芸術家・新進芸術家を積極的に紹介する。

(*6)生没年不詳、中国(清)の画家。1731年に来日、細密画法を主軸とする迫真的表現の花鳥画は、僧鶴亭や宋紫石という日本人画家により長崎から上方と江戸に紹介された。

(*7)1733-1795、日本の画家。作品に「雪松図屏風」、「朝顔狗子図杉戸」など。

(*8)1716-1810、日本の画家。作品に「動植綵絵」三十幅、「鳥獣花木図屏風」など。

(*9)太田彩「語られる動物、語る動物」、『どうぶつ美術館―描かれ、刻まれた動物たち』(三の丸尚蔵館展覧会図録No.30)、濱田陽「日本十二支考 文化の時空を生きる」中公叢書など。エピグラフ(*1)でも紹介したように、「萬葉集」にも多くの動物が詠まれており、田中瑞穂氏によれば、約4,500首のうち、77種、873首に及んでいる(「万葉の動物考」、『岡山自然保護センター研究報告』第6号)

(*10)音ゆみ子「動物の絵 ヨーロッパ」、府中市美術館『動物の絵 日本とヨーロッパ』講談社

(*11)当時、画家で美術評論家のアリ・ルナンは、こんな言葉を残している(*10)。「(日本美術の動物についての)第一印象は、西洋の芸術の中ではごく小さな役割しか割り当てられていない『獣』を、日本人が偏愛することへの驚きだ。いわば、ヨーロッパ人は常に目を上に向け、崇高なものだけを見てきた。外の世界や、足元で生きている生き物に、それらがこの地上に私たちと同じように生きているにもかかわらず、目を向けようともしなかったのだ」(「芸術の日本」1890年1月号)。

(*12)Antoine Louis Barye、1795-1875。フランスの彫刻家。自然史博物館の教授として動物学の描画のコースで教えた。作品に「鰐を襲う虎」、「蛇を押しつぶすライオン」など。

(*13)ロダン「よい彫刻の重要な美点は動勢―le mouvementを訳出するにあるという事は確かです。……見る人が私の彫像の一端から他端へ眼を映してゆくと、彫像の姿勢の展開してゆくのが見えるのです。私の作品のいろいろ違った部分を通して、筋肉の働きの発端から完全な成就までを追ってゆく事になるのです」(「ポール グゼル筆録」『ロダンの言葉抄』、高村光太郎訳、岩波文庫)。

(*14)「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」美術デザイン研究所

(*15)同様の構図の絵は、「仙人掌群鶏図」(西福寺)の一面にもある。

(*16)若冲との親交の深かった相国寺の僧大典による「若冲居士寿蔵けつめい」にある言葉(辻惟雄「若冲」講談社学術文庫)。

(*17)ボードレールの「悪の華」にある言葉。「自然は神の宮にして、生ある柱/時をりに 捉へがたき言葉を漏らす。/人、象徴の森を経て、此処を過ぎ行き、/森、なつかしき眼相まなざしに 人を眺む」(鈴木信太郎訳。「悪の華」<交感>)。

(*18)Eugène Delacroix フランスの画家。1798-1863年。作品に「キオス島の虐殺」、「母虎と戯れる小虎」など。

(*19)沖久真鈴「なぜドラクロワとバルザックは動物に関心を示したのか―félin ネコ科の猛獣をめぐって」、『AZUR』第18号(成城大学仏文会)

(*20)エレーヌ・ピネ「ロダン 神の手を持つ男」遠藤ゆかり訳、創元社

(*21)リリアーヌ・コラ「フランソワ・ポンポン(1855-1933)」、『フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家』美術デザイン研究所

 

【参考文献】

「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」美術デザイン研究所

松下和美・神尾玲子「フランソワ・ポンポンを知る―群馬県立館林美術館 作品・資料コレクションより―」群馬県立館林美術館

辻惟雄「日本美術の歴史」(補訂版)東京大学出版会

今橋理子「江戸の動物画 近世美術と文化の考古学」東京大学出版会

 

(追記)

フランソワ・ポンポン展は、群馬県立館林美術館のあと、以下の通り巡回予定。

2022年2月3日(木)~3月29日(火)  佐倉市美術館

2022年4月16日(土)~6月12日(日) 山梨県立美術館

 

(了)

 

 

「わからぬもの」との邂逅

昨年の四月から半年間、都内の大学で非常勤講師として週に一度、文学作品を読む講義を担当することになつた。短編小説一編を教材にして、とのことであつたため、自分が研究してゐる作家D・H・ロレンスが書いた「薔薇園の影」といふ作品を扱ふことにした。大学院で英文学を専攻する自分にとつて、文学講義が出来ることは、普段からの学びを活かせるため嬉しい。その一方で、講義が上手く行くかどうかは心許無かつた。講義は一つの短編を読むのに、半年を費やす。一方で受講する学生たちは皆、効率ばかりを追ひ求める時代に生きてゐる。地道に精読をする講義に面白さを見出すとは思へなかつた。加へて、講義はコロナ禍を受けてリモートで行はなければならず、学生たちに面と向かつて訴へかけることも出来ない。私の目には、講義に退屈して学生が一人、また一人と減つてゆく(このご時世の場合、教室に見える顔ではなく、教師のパソコンに表示される学生の名前が減つてゆく)様が、ありありと浮かんできた。

どうすれば学生たちが精読に興味を持つてくれるだらうか。思案の末に私は、十五回講義をやるうちの最初の一、二回は「薔薇園の影」の精読へと入らないことにした。そしてその一、二回で本をじつくり読むといふことについて考へる講義をしてみようと考へた。講義の構想を練つてゐる最中、ふと小林秀雄先生の「美を求める心」がヒントになるかもしれないと思ひ、『小林秀雄全作品』(新潮社刊)を開いてみた。

「美を求める心」は、小林先生が最近若い人たちからよく質問を受けるといふ話から始まる。その質問とは、「近頃の繪や音樂は難しくてよく判らぬ、あゝいふものが解るやうになるには、どういふ勉强をしたらいゝか、どういふ本を讀んだらいゝか」といふものである。それに対する自分の答へはいつも決まつて「何も考へずに、澤山見たり聽いたりする事が第一だ」と先生は書く。そしてこの「見たり聽いたりする事」について小林先生は次のやうに述べてゐる。

 

見るとか聽くとかいふ事を、簡單に考へてはいけない。……(中略)……頭で考へる事は難かしいかも知れないし、考へるのには努力が要るが、見たり聽いたりすることに、何の努力が要らうか。そんなふうに、考へがちなものですが、それは間違ひです。見ることも聽くことも、考へることと同じやうに、難かしい、努力を要する仕事なのです。

 

ここで先生が話題にしてゐるのは、音楽や絵画のことである。しかし引用の最後にある「努力を要する仕事」といふのは、小説を読むことにも当てはまるのではないか。小説を読む時に、筋だけを追ふやうに読んでゆけば、あまり労を要さない。私が講義で扱ふ「薔薇園の影」も筋のみを辿れば、結婚したばかりの男女がとある事件をきつかけとして、互ひの間に大きな断絶があることを悟る、といふだけの物語である。しかし丁寧に読んでゆけば、平穏な場面に見え隠れしてゐる後々の断絶の萌芽や、台詞の裏に潜む登場人物自身も気が付いてゐない意識が浮かび上がつてくる。この読みこそが小説を読む上での「努力を要する仕事」であらう。まづはこの努力を学生に知つて貰いたい。そのためにはどうすれば良いのだらうか。

「美を求める心」には小林先生がロンドンのダンヒルの店で買つた、「なんの特徴もないが、古風な、如何にも美しい形をした」ライターの話が出て来る。これまで小林先生の家に来た来客が何人もそれで火をつけてきたが、誰一人としてそれをよく見て、美しいと言つた人はゐない。小林先生はかう呼びかける。「諸君は試みに默つてライターの形を一分間眺めて見るといい。一分間にどれ程澤山なものが眼に見えて來るかに驚くでせう」。池田雅延塾頭は講座でこのあたりの解説をする際、受講者に財布から十円玉を取り出させ、それを各々が一分間見つめるやうにする。眺め続けると受講者は、それまで何とも思つてこなかつた十円玉に、新たな一面を発見するのである。私は池田塾頭のひそみに倣ひ、学生に同じことをやつて貰はうと思つた。さうすれば、じつくり見つめることで見えてくるものがあるといふことを実感できる。そして同じ様に本を読んで貰へば良いのである。

このやうにして、だんだんと授業の道筋がついてきた時、私はあることに気がついた。それは「わかること」についての考へ方が、ロレンスと小林先生とで似てゐるといふことである。「美を求める心」で小林先生は、わかることとは何かを探究してゐる。しかしその探究の前提には、逆説的であるが、対象を安易に「わかる」ことへの強い警戒がある。例へば小林先生は以下のやうに書いてゐる。

 

……諸君が野原を歩いてゐて一輪の美しい花の咲いてゐるのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思つた瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでせう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花といふ言葉が、諸君の心のうちに這入つて來れば、諸君は、もう眼を閉ぢるのです。

 

花を見て、それを「菫の花」といふ名前で以て「わかつた」時、我々はそれ以上眼の前の花に何も見出さなくなつてしまふ。花の形も色も、「菫の花」といふ一言で片づけられる。「菫の花」と「わかる」ことは、自分から菫の花を遠ざけることだと先生は考へる。

一方でロレンスは書物について『黙示録論』の中で、以下のやうに論じてゐる。

 

ところで、書物はうちに究めつくせぬものを藏してゐる間は、かならず生き續けるものである。ひとたび測りつくされるや、ただちに生命を失ふ。(福田恆存訳)

 

書物は物であるから、それが「生き續ける」、「生命を失ふ」と言はれても、すぐには腑に落ちないかもしれない。しかし、それを人に置き換へてみればたちどころに了解できる筈である。批評家松原正の言葉を引きたい。

 

だが、二人の人間がどんなに烈しく愛し合つてゐても、二人の肉體は二つの獨立した有機體であり續けて、二つの肉體が一つになる事は決して無い。だが、肉體が獨立してゐるといふ事は他者の心中を完全には讀み取れないといふ事である。そこで人は何とかして他者の心中を知らうとする。理解せずには愛せないと思ふからである。そして、さうして他者を知らうと努めるうちに、やがて吾々は完全に知り盡したとて高を括るやうになる。他者を知り盡したと思ひ込んで、吾々は他者を物體として扱ふ事になる。或る女について知り盡し、もはや謎は何も無いと思へば、例へば「あいつは要するに單純な女でね」などと吾々は言ふ。

 

ある人間を「要するに」といふ言葉で括る時、我々の理解の中で相手は、周りからの言動に対して一定の反応を返すだけの、まるで機械のやうな存在になる。同じことが書物にも言へる。ある書物を「測りつくした」と思ふ時、その書物は我々の読みに対して固定化された意味のみを与へる存在になる。書物は読み手の理解とは異なる意味を提示する可能性、即ち「生命」を失ふのである。この時我々は喩へば、蒸気機関車を静止させた状態で切り取つた写真を見て蒸気機関車とは何たるかを理解したつもりになる人間のやうに、何か根本的な誤解をしてゐるであらう。以上の事情は対象が美しい菫の花でも同じ筈だ。小林先生もロレンスも(そして松原も)論じる対象は違へど、ある対象について「わかつた」と思ふ時、対象は生命を失ひ我々は根本的な誤解をすることになるのだ、といふことを明らかにしてゐるのである。

その一方で小林先生もロレンスも、対象について「わからない」と思ふことには、肯定的な意味を与へてゐる。ロレンスは先に見たやうに、書物は「究めつくせぬものを藏してゐる間」は「生き續ける」と述べる。小林先生も「美を求める心」の中で「歌や詩は、ものなのか。さうです。ものなのです」と断じてゐる。「わからぬ」と思つてゐる時、我々の前にはそれ以上に「わかる」道が開けてゐるのである。私は「わからぬもの」を尊重する小林先生とロレンスの共通点を面白く思ふと同時に、その相似もまた学生が本を読む上でのヒントになるだらうと考へた。

以上考へたことを、第一、二回目の講義で話したが、多くの学生が面白がつてくれたやうであつた。十円玉を一分間見るといふ試みについては、見慣れたものでも見つめ直すと発見があることがわかつた、と言ふ学生が何人もゐた。小林先生、ロレンス、松原を引用して「わかる」とは何だらうかといふ話をした後は、「今までわからないことがあるのはよくないことだと思つてゐたが、わからないことはわからないままに頭に置いておき、わからなくてもわかる努力をすれば良いのだと知ることができた」といふ優れた感想を授業後に貰ひ、嬉しかつた。今の世の中では概して「わかる」ことがもてはやされる。しかし、「わからぬ」ことは良いことであり、むしろ対象への敬意の表れでさへある、といふことを小林先生、ロレンス、そして松原の文章は我々に教へてくれるのだと、私は感想を読みながら思つた。

本を読むことに興味を持つてくれたのか、当初の予想に反して殆どの学生がその後の講義にも残り続けた。学期末にはわからないことと向き合つたと判るレポートを、何枚も読んだ。今時の学生も案外わからぬものかもしれないと私は思つた。

(了)

 

「声」と「ふり」と「しるし

「われわれは言葉というと文字であり、文章のことだと考えがちですが、実は言葉とはなによりもまず声のことなのですね」。これは、小林秀雄氏との対談「本居宣長をめぐって」の中での、江藤淳氏の言葉である(新潮社刊「小林秀雄全作品」28集p.231)。私は日ごろから「本居宣長」の本文に登場する「しるし」という言葉について考え続けている。たとえば、以下のように「徴」という言葉が文中に登場する。

……有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状アルカタチ」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。

かねて「徴」という言葉を巡って考え続けていた私に、前出の江藤淳氏の言葉は、次第に自身の思考が矮小化し、堂々巡りに陥っていたことに気づかせてくれた。言われて見れば、小林氏は本文の中で、言葉とはまず「声」であるということにたびたび言及している。「徴」としての言葉とは、いったいどういうものなのか、という私の長年の「問い」について、それは「声」で発せられたものである、ということにあらためて留意し、考え直してみたい。

 

二〇二一年の山の上の家の塾で、私は、宣長が「古事記伝」を完成させた際に詠んだ次の歌に注目して質問に立った。

……古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし

この歌について小林氏は次のように述べている。

……ところで、宣長の歌だが、そういう古事ふることのふりを、直かに見聞きする事は、出来ないが、「いにしへの手ぶり言とひ聞見る如」き気持には、その気になればなれるものだ、とただそう言っているのではない。そういう気見合のものではないので、学問の上から言っても、正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信が歌われているのである。

小林氏のこのやや強い物言いの、特に「正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信」とはいったいどういうことであろうか? 小林氏は第三十章で「古事記」撰録の理由について触れる中で、以下のように述べている。

……諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、(中略)この書伝えのしつが何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。

外来の漢字を用いた書伝えにより、“失われたもの”があるという意識が起こったことを宣長は誰よりも鋭敏に受け止めていた、と小林氏は指摘する。

……それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えのしつは、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、よろずノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、から文章ことばひかれて、本の語はやうやクに違ひもてゆく故に、ては後遂のちついに、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看おもほしめし哀みたまへるなり」という事であった。

「かしこく所思看おもほしめし哀み」給うたのは、「古事記」の撰録を発意した天武天皇である。

 

……漢字の渡来という思いも掛けぬ事件(中略)この突然現れた環境の抵抗に、どう処したらいいかという問題に直面し、古語は、初めて己れの「ふり」をはっきり意識する道を歩き出したのである。(同第28集、「本居宣長補記Ⅰ」より)

つまり、古語がもつ「ふり」こそが、“失われつつあるもの”であるということをはっきり意識して、「古事記」が撰録されたというところに、宣長は誰よりも注目していたということになる。そして、

……(「古事記」の)仕事の目的は、単なる古語の保存ではない。「邦家之経緯、王化之鴻基」を明らかにするにあった。

とある。「邦家之経緯」とは国家組織の根本、「王化之鴻基」とは、天皇政治の基礎(同第27集p.314脚注より)、を指すので、言伝えを明らかにすることは、我邦にとっての「歴史」を明らかにすることそのものであった、ということになる。

では、ここで言われている「言伝え」と「歴史」とはどう結びつくのか。小林氏は第三十二章で荻生徂徠が引いた孔子の言葉に注意を促す。

……名は、物に、自然に有りはしないだろう。物につき、人が、名を立てるという事がなければ、名は無いだろう。(中略)人間の意識的行為の、最も単純で、自然な形としての命名行為が、考えられている。言わば意識的行為の端緒、即ち歴史というものの端緒が考えられている。先王の行為を、学問の主題とした孔子にとって、名は教えの存するところであったのは、まことに当然な事であった。(中略)言語活動とは、言わば、命名という単純な経験を種として育って、繁茂する大樹である。

ここに書かれている内容をそのまま「古事記」を読む宣長に置き換えてみることはできないだろうか。「古事記」の「神代かみよのはじ一之巻めのまき」は、神の名しか伝えていない。つまりひたすら命名行為が述べられているのであるが、これが孔子の教えによるところの「歴史というものの端緒」であるとするなら、宣長が「古事記」に身交むかうことはすなわち歴史に身交うということであったことになる。では、どのように身交ったのか。またここで第三十二章の孔子の言葉に戻りたい。「述ベテ作ラズ、信ジテイニシエヲ好ム」という言葉は、孔子が「述而篇」の冒頭で言っている言葉であるが、徂徠はこの言葉を「凡そ学問とは歴史に極まると信じた孔子の、学問上の根本態度についての率直な発言」と解した、と書かれている。そして宣長もこの徂徠が引いた孔子の言葉、「信ジテ古ヲ好ム」つまり「自分を歴史のうちに投げ入れる」道を行ったと小林氏は言う。その態度で宣長は「古事記」に身交ったのである。そして小林氏は、「古事記」における命名行為について、第三十九章で以下のように詳しく述べている。

……上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。(中略)それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。(中略)神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である(中略)「其ノ可畏カシコきに触て、タダチナゲく言」にあったとするのだ。

 

宣長が、「自分を歴史のうちに投げ入れ」、古人による神の命名を目の当たりにしたときに、注目したのが「古言のふり」である、と小林氏は「本居宣長補記Ⅰ」で言い、続けて以下のように述べている。

……「古語のふり」とは、古学が明らめねばならぬ古人の「心ばへ」の直かな表現、宣長の言葉で言えば、その「徴」だからだ。と言う事は、更に言えば、未だ文字さえ知らず、ただ「伝説つたえごと」を語り伝えていた上ツ代に於いて、国語は言語組織として、既に完成していたという宣長の明瞭な考えを語っている。

……宣長が、「古事記」を釈いて、はっきり見定めたのは、上ツ代の人々が信じていた、言霊と言われていた言語の自発的な表現力、或は自己形成力と言ってもいいものの、生活の上で実演されていた、その「ふり」であった。

 

ここで「古語のふり」という言葉につれて「徴」が登場する。「徴」とは、文字のないずっと以前から古人たちが語り伝えてきたその表現の力、心に感じた歎きそのままを声と声に伴う「ふり」とともに相手に伝えてきた「実体」そのものなのではないか。小林氏は、「古言のふり」は、むしろ(宣長により)発明されたと言った方がよい。と言っている。そして、「発明されて、宣長の心中に生きたであろうし、その際、彼が味ったのは、言わば、『古言』に証せられる、とでも言っていい喜びだったであろう」と宣長の心情を語っている。この「喜び」こそが、冒頭にあげた歌を、宣長に詠ませたと言えるのではないだろうか。

 

……宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。

第二章ですでに小林氏は、こう書き記していた。小林氏が宣長から受け取った言葉は、「肉声」と表現されている。肉声は要約や言い換えができない、その声のもつ「ふり」を読者に伝えるためには、そのまま引用するしかない、と小林氏は言っているのである。それらの引用された肉声は、まさしく「徴」としての言葉として氏の前に立ち現れていたに違いない。

 

(了)

 

言霊ことだまが躍る「そこゐなき」ところ

ことだまが、自力で己れを摑み直すという事が起ったのである」

小林秀雄先生は、「本居宣長」第二十七章で、この言葉とともに在原ありはらの業平なりひらの歌「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを」を再び提示されている。

先に第七章や第二十六章で、契沖が、この歌には死に臨んだ人間の「まこと」が表われていると「勢語ぜいご臆断おくだん」(「伊勢物語」の註釈書)で激賞したこと、これを読んだ宣長が「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と、深い感慨を抱いたことが述べられている。

そして、第二十七章で、小林先生はもう一つ業平の歌「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」を挙げる。

この「月やあらぬ」の歌は、「古今集」の巻第十五、「恋歌五」に見え、「伊勢物語」の第四段にも出るのだが、「古今集」には長い詞書が付されていて、その「古今集」の詞書も、「伊勢物語」の第四段も、内容はほぼ同じである。業平とされる男が、政敵である藤原良房の姪にあたる高子と恋に落ちる、しかし高子は藤原氏繁栄のため清和天皇の后となるべく住まいを移され、後に業平は高子の旧宅を一人訪れる。

「伊勢物語」では次のように描かれる。

 

「又の年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。

月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり」(「伊勢物語」第四段)

 

こうして「伊勢物語」には、「古今集」にはない、「立ちて見、居て見、見れど」という描写があり、業平が荒れ果てた板敷で立ったり坐ったりしながら、かつて高子と二人で見た梅の花と月をただ一人見続ける姿が描かれている。

「古今集」の詞書と「伊勢物語」との間のこの違いと、和歌の解釈や文法については専門的な研究が膨大にあり、到底私の理解の及ぶところではないのだが、小林先生が記された、契沖の「勢語臆断」、宣長の「古今集遠鏡」という書に魅かれ、それぞれの全集を開いた。

 

「梅のさかりなるにもよほされて、せめてはそのありし所をたに行てみんと思ひ立てゆくに、よろつ有しもにず、立て見居て見なといへるその時のさま、めのまへにかげろふやうなり」(「勢語臆断」上之上 四)

 

「今夜コヽヘ来テ居テ見レバ 月ガモトノ去年ノ月デハナイカサア 月ハヤッハリ去年ノトホリノ月ヂヤ 春ノケシキガモトノ去年ノ春ノケシキデハナイカサア 春ノケシキモ梅ノ花サイタヤウスナドモ ヤッハリモトノ去年ノトホリデ ソウタイナンニモ 去年トチガウタ事ハナイニ タヾオレガ身一ッバツカリハ 去年ノマヽノ身デアリナガラ 去年逢タ人ニアハレイデ 其ノ時トハ大キニチガウタ事ワイノ サテモサテモ去年ノ春ガ戀シイ」(「古今集遠鏡」五の巻)

 

「めのまへにかげろふやうなり」という契沖の言葉に、冷たい藍色の夜空、ほのかな梅の匂い、無情に光る月が浮かび、宣長の「今夜コヽヘ……サテモサテモ去年ノ春ガ戀シイ」という言葉の音色が重なる。さまざまな思いが湧き上がり、居ても立ってもいられない業平の姿が浮かんでくる。同時に、宣長が「石上私淑事」で、「歌」について述べた言葉が蘇る。

 

「たへがたきときは、おぼえずしらず、声をさゝげて、あらかなしや……と、長くよばゝりて……其時の詞は、をのづから、ほどよくアヤありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也……自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづからアヤある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑事」巻一)

 

「そこゐなきあはれの深さ」の「そこゐなき」は、「小林秀雄全作品」(新潮社刊)第二十七集(259頁)の脚注に「底知れない、限りない。『そこゐ』はきわめて深い底」とある。

業平の心の奥底から震えるように湧き続ける言葉が歌となり、また、その歌にどれほどのものが湛えられているかが一瞬かいま見えたような気がした。

 

だが、小林先生が業平の二つの歌に見ていたものは、もっとはるかに「そこゐなき」ものであった。

 

「『つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを』――叙事でも、じょじょうでもない、反省と批評とから、歌が生れている事を、端的にうけれるなら、『古今』の肉体から、その骨組が透けて見えて来るのを感じないだろうか」(「小林秀雄全作品」第27集303頁)

 

「古今集」の時代の「反省と批評」については、池田雅延塾頭が以前の講義で次のようにご教示くださったことがある。

平安初期、唐の制度や文化が重んじられたいわゆる国風暗黒時代、和歌は宮廷の公の場で詠まれるという表舞台から追いやられてしまった。だが、唐の衰退とともに、和歌は再び才学の舞台へと上がることになる。

それは、和歌が個人の日常という楽屋裏に隠れながらも、私事を詠む表現方法、思いを交わし合う手段として人々の生活の中で生き続けたからであった。そして、その原動力となった「言霊」、つまり言葉に宿る魂は、自ずと己れを省みる「反省」と、その認識に対して判断を下す「批評」を行った。この「反省と批評」の働きが、「古今集」の和歌の軸となったのだ、と。

「言霊が、自力で己れを摑み直す」という、冒頭に引いた小林先生の言葉は、まさにこの働きを言っている。

 

さらに、小林先生は、「古今集」の編纂者である紀貫之の言葉に踏み込んでいく。

 

「このような作歌の過程に、反省、批評が入り込んでくる傾向を、貫之は、『心余る』という言い方で言った。『月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして』も業平の有名な歌だが、貫之は、これをあげて『在原業平は、その心余りて、言葉足らず、しぼめる花の色なくて、匂ひ残れるが如し』(仮名序)と言った……この『月やあらぬ』の歌は、やはり、『古今』で読むより、『伊勢』で読んだ方がいいように思われる。なるほどことばがきは附いているが、歌集の中に入れられると、歌は、いかにも『言葉足らず』という姿に見えるのだが、『伊勢』のうちで同じ歌に出会うと、そうは感じないのが面白い。『心余りて』物語る、その物語の姿を追った上で、歌に出会うが為であろうか。この微妙な歌物語の手法が、『源氏』で、大きく完成するのである。読者の同感が得られるであろうか。得られるなら、そういう心の用い方で、又、あの『つひに行く』の歌を見てもらってもいい。見て『言葉足らず』とは言えまいが、『心余りて』という姿には見えるだろう。作者が、歌っているというよりむしろ物語っている、と感ずるであろう」(同303-304頁)

 

小林先生は、「伊勢物語」全編を読まれ、業平とされる男が出会いと別れを繰り返し、歌を詠む、その心の内部で起こる「反省と批評」、そこから生まれた歌の三十一文字には載せ切れない、あり余る思いを読み取りながら、やはりそれらが歌に湛えられていることを観じていかれたのではないだろうか。

さらに、先生は、「心余りて」物語ることが「源氏物語」で大きく完成することと、「つひに行く」の歌について言及される。だが、今の私には到底思い及ばないことで、ただひたすら「源氏」と「伊勢」をじっくり読んでいかねばと思うばかりである。

 

それを肝に銘じて、資料を閉じようとした時、宣長が、「月やあらぬ」の歌について述べた、「おのづからふくめたる意は聞ゆる」という強い言葉が目に飛び込んできた。そして、小林先生が第二十七章に至るまでにも、またその後も繰り返し書かれる「国語」という言葉が、大海のイメージとなって浮かんできた。

 

「国語というおおきな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来た……私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達している……宣長は、其処に、『言霊』の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた」(同268頁)

 

国語という大海はどれほど「そこゐなき」ものであるかに思いを致し、そこから生まれた「万葉集」、「古今集」、「新古今集」、「古事記」、「伊勢物語」、「源氏物語」……、これらの古典が今なお溌溂たる生命力をみなぎらせている様をまのあたりにすると、何百年以上にもわたって自力で己れを摑み直し続けてきた言霊の生命力をもまざまざと思い知らされ、私自身、国語の言霊に強く支えられていることにあらためて気づかされたのである。

(了)

 

人が生きることと言葉

小林秀雄さんの『本居宣長』を読み進めていく中で、人が言葉を使うことを巡る次の箇所が目に留まった。

 

この人生という主題は、一番普通には、どういう具合に語られるのか。特に何かの目的があって語られるのではなく、宣長に言わせれば、ただ「心にこめがたい」という理由で、人生が語られると、「大かた人のココロのあるやう」が見えて来る、そういう具合に語られると言うのである。人生が生きられ、味わわれる私達の経験の世界が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもあるのだ。宣長は、「源氏」を、そう読んだ。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.276、16行目~、「本居宣長」第24章)

 

初めて読んだ当初は、この「人のココロのあるやう」が見えて来る人生の語られ方について、言われてみればそのような気もするなあ、という風にしか読みとれなかった。しかし日を追うごとに、いわば私を捕えて離さない。ただ一介の読者に過ぎぬ私が、このシンプルで直截な文章に魅了されているのだから、よほど大切なことがその奥に在るのではないか。

そもそも、宣長はなにゆえに、このような認識を持つに至ったのだろうか?

脳裏に浮かび上がった、この問いについて自問自答の山登りを試みようと思う。

 

自問は、「特に何かの目的があって語られるのではなく、宣長に言わせれば、ただ『心にこめがたい』という理由で、人生が語られると、『大かた人のココロのあるやう』が見えて来る」という認識に、なにゆえに宣長は達することができたのだろうか、である。

この問いのヒントになろうかと思えるのは、宣長が「源氏物語」から受け取った、人が言葉を使う仕方について、小林秀雄さんが書いている次の文章である。長いが大事な引用である。

 

「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」、こんなわかり易い事はない。生活経験が意識化されるという事は、それが言語に捕えられるという事であり、そうして、現実の経験が、言語に表現されて、明瞭化するなら、この事はおのずから伝達の企図きとを含み、その意味は相手に理解されるだろう。「人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき事もあるまじけれ共」、私達は、そうせざるを得ないし、それは私達の止み難い欲求でもある、と宣長は言う。私達は話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである。言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何をいても、生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう。「源氏」は、極めて自然に、そういう考えに、宣長を誘った。(同p.276、2行目~、第24章)

 

人は実生活の何かの目的のために言葉を使うだけではない。どうにも人に伝えたくなって語り出す、あるいは思わず語ってしまうことも多々あるではないか、と書かれている。日常の目的に沿って使う言葉は、多くの場合に目的を果たす短時間で役割を終えて心にとくに残ることは少ない。むしろ、無目的に語られる話の方が、語る人、聴く人、双方の内面、精神生活に強く長く影響することが多いと、私は実感する。また、「生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しは」無いのも確かである。

では、どうにも人に伝えたくなることは何かと言えば、「見るにもあかず、聞にもあまる」ことで、それは「心にこめがたい」からだ、「私達は、そうせざるを得ないし、それは私達の止み難い欲求でもある、と宣長は言う」と書かれている。

これらのことを考え合わせると、宣長は、「源氏物語」の熟読によって、人々が「心にこめがた」く語り出すであろう、生きていく上での切実な出来事が描かれていることに気づき、「人のココロのあるやう」である人生そのものが「源氏」から感じとれたのだろう。それゆえに、宣長は、「ただ『心にこめがたい』という理由で、人生が語られると、『大かた人のココロのあるやう』が見えて来る、そういう具合に語られる」という認識に達したのだと言えよう。

 

しかし私には、まだ以下の点が腑に落ちない。それは、なにゆえ人は「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」と語り出す、そのような行動を取るのだろうか、という点である。これは宣長の認識であり、小林秀雄さんも「こんなわかり易い事はない」「それは私達の止み難い欲求でもある、と宣長は言う」と書いているのだが、私にはどうも合点がいかなかった。

この疑問を考えていく中で、以前より気になっていた、少し前の章の宣長の言語観についての文章に注目し、引用する。

 

私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず「長息」するのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が「ほころび出」ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。いずれにせよ、このような問題につき、正確な言葉など誰も持ってはいまい。ただ確かなのは、宣長が、言葉の生れ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい。(同p.261、8行目~、第23章)

 

「言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない」とは、驚くべき深遠な認識である。

加えて小林秀雄さんは、「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上って」おり、「内部に感じられる混乱を整調しようと」すると書いている。人の心身は、そのように出来ている、そういう構造なのだと宣長は言っており、小林秀雄さんも同じ認識である、と考えてよいであろう。

この認識からすれば、「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」と語り出す、そのような行動を人が取るのは、至極自然と言えよう。

そして、「ただ『心にこめがたい』という理由で、人生が語られると、『大かた人のココロのあるやう』が見えて来る」のも自然のことであって、その起源は人間の心身の出来に由来しているとも言ってよいであろう。

 

さらに小林秀雄さんは、悲しみが声となるところの宣長の考えに触れ、次のように書いている。

 

誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを堪え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その「カタチ」を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずからアヤある声の「カタチ」となって捕えられる。(同p.264、12行目~、第23章)

 

生きて行く途上で出会った、悲しみや心が震える思いを人は、言葉はもちろんのこと、何かを表すことで堪えがたくともそれを堪えようとし、整えた「カタチ」として人々に伝えようとする。伝えられた人々は、それを我がことのように分かち合う。人はそういう存在だと言っているのだろう。美しいことだと思う。それは、いわゆる文芸のみならず、今日の芸術と呼ばれる多様な表現の源泉ともいえるのではないだろうか。

そしてもうひとつ、小林秀雄さんのこの文章から、とても大切なことが見えるように思う。

「実情の嵐の静まるのを待つ」、「叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つ」、その「待つ」時に起きるものは沈黙である。心が揺さぶられる経験を、人が心身の出来に従い、言葉にするなど「カタチ」に整えるには、その時間の長短は様々であれ、沈黙の時間が必要だと示唆しているように思う。

もちろん、ただ無為にボーッと沈黙していても「カタチ」は生まれない。適した言葉が見つからないが、感受性と認識が充実した沈黙の時間と言ったらよいか、そのような沈黙が、人の心を打つ言葉など「カタチ」を生むには必須なのではなかろうか。

そして、現代に生きる私達は、このように充ちた沈黙の時間というものに、気づいているのだろうか。

 

ここまで、「ただ『心にこめがたい』という理由で、人生が語られると、『大かた人のココロのあるやう』が見えて来る」という宣長の認識を問うことから始めて、人が生きていく途上で出会う心を震わす経験、人生そのものと言ってよい経験と、生きた言葉の生まれ方についての考察にまで至った。

人は人生で、過酷な運命を逃れられないことも多い。にもかかわらず、生きて手応えある道を進むために、言葉が与えられたのではなかろうか、ということも想像してみる。

生きて出会ったことの情感を充全に認識し、沈黙を経て言葉へと整え、表出する。この、人間の心身の出来、構造に根差した行いをしていくことで、生きる旅路に時に応じた青空が覗くのではなかろうか、と私は思う。

(了)

 

連綿と生き続けるもの

「巻十九、旋頭歌、かへし、―春されば 野べにまづさく 見れどあかぬ花 まひなしに ただなのるべき 花の名なれや―コレハ春ニナレバ 野ヘンニマヅ一番ガケニサク花デ 見テモ見テモ見アカヌ花デゴザルガ 其名ハ 何ンゾツカハサレネバ ドウモ申サレヌ タダデ申スヤウナ ヤスイ花ヂヤゴザラヌ ヘ、ヘへへ、へへ」(「古今集遠鏡」より)

 

「本居宣長」第二十一章は、宣長が賀茂真淵から破門状同然の書状を受け取った一七六六年の秋から始まるが、その途中、時代を一気に進めて一七九三年に成った「古今集遠鏡」についての考察がある。そして、小林秀雄先生は言う。

―この「古学」「古道学」の大家に、「古今集」の現代語訳があると言えば、意外に思う人も、あるかも知れないが、実際、「遠鏡」とは現代語訳の意味であり、宣長に言わせれば、「古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言に訳せる」ものである。

その一例として、冒頭に引いた旋頭歌が挙げられている。この、「まひなしに」というのは「贈り物なしに」という意味だが、宣長はこれを「何ンゾツカハサレネバ」とかなり砕けた口語調に訳している。また最後の「ヘ、へへへ、へへ」というのも、歌の詠み手の気持ちを推量して付け加えた、大胆な言葉である。

宣長が「古今集」を現代語に訳していたというだけでも驚きだが、その前に小林先生はこうも言っている。

―「古事記伝」も殆ど完成した頃に、「古今集遠鏡」が成った事も注目すべき事である。これは、「古今」の影に隠れていた「新古今」を、明るみに出した「美濃家づと」より、彼の思想を解する上で、むしろ大事な著作だと私は思っている。

確かにあの、いつ完成するかも分からない畢生の大作である「古事記伝」を書き進めながら、「古今集」の現代語訳という仕事が並行して行われていたということは意外に感じた。しかし、彼の思想を解する上で大事な著作だとは、すぐには思えなかった。

そこで、この「古今集遠鏡」とはどういうものであるかを、詳しく探ってみることにした。本を買い求めて読んでいくと、次のような句が目に入った。

 

秋きぬと めにはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

秋ガキタトイフテ ソレトハッキリト目ニハ見エヌケレド ケフハ風ノ音ガニハカニカハッタデサ コレハ秋ガキタワトビックリシタ

 

おどろかれぬる、は、オドロイタと訳しただけでも十分意味は通じるが、宣長は敢えてそれを、ビックリシタと訳している。確かにその方が生き生きとした、直接的な感情が伝わってくる。この歌もそうだが、現代語に訳されたいくつかの歌は、それまで硬く凍っていた言葉が融解して生命感溢れるイメージに変貌し、四方に解き放たれるような感覚を味わうことが出来た。ただ、ここで注意しなければならないのは、意味を掴んだなら、もう一度元歌に立ち戻り、その本来の姿を味わい直すことだろう。「姿は似せ難く、意は似せ易し」と宣長が言っている歌の姿を。

 

さて、このように現代語に訳された歌を見ると、宣長の訳は自由奔放に行っていると思われるかもしれないが、最初のはしがきのところで、雅言を俗言に訳す時の言わば法則のようなものを細かく述べている。

例えば、

 

〇けりけるけれは、ワイと訳す、春はきにけりを、春ガキタワイといへるがごとし、またこその結びにも、ワイをそへてうつすことあり、ごのきれざるなからにあるけるけれは、ことに訳さず、

 

〇すべて何事にまれ、あなたなる事には、アレ、或はアノヤウニ、又ソノヤウニなどいひ、こなたなる事には、コレ、或は此ヤウニなどいふ詞を添て訳せることおほきは、其事のおもむきを、さだかにせむとてなり、

 

などとあり、いかにも学者らしく、綿密かつ分析的に雅言の訳し方がいくつも述べられている。

 

こうして「古今集遠鏡」がどういうものかはある程度分かったが、宣長と歌との関係はいつ始まったのか。調べてみると、「玉勝間」に、十七八なりしほどより、歌詠ままほしく思ふ心いできて、詠みはじめけるを、という叙述があり、京都に遊学する前の早い時期から、宣長の中に歌心が芽生え始めていたことが分かる。その頃に読んだ歌を挙げておく。

 

新玉の 春来にけりな 今朝よりも 霞ぞそむる 久方の空

(「栄貞詠草」)

 

その後、本格的な歌論である「あしわけをぶね」は宣長が二十九歳の時に成ったとされているが、「本居宣長」第十二章に「松坂帰還後、書きつがれたところがあったにせよ、大体在京時代に成ったものと推定されている」とある。「本居宣長」では第六章からその文章が引用され始めるが、その後も第三十七章に至るまで頻繁に引用される。その内容は、もちろん歌論が中心であるが(歌の用から始まって、契沖、萬葉・三代・新古今など六十余りの題のもと、宣長の考えが、小林先生の言う「沸騰する文体」で書かれている)、そこから「紫文要領」や「古事記伝」にまで至る道筋も示唆されている。つまり、ここにはのちの宣長の学問の種が既に播かれていて、彼は後年そこから出た芽を果実になるまで育てていったのである。

 

好色 ……〇歌は心のちりあくたをはらふ道具なれば、あしきこといでくるはづ也。〇歌の道は、善悪のぎろんをすてて、もののあはれと云ふことをしるべし。〇源氏物語の一部の趣向、ここを以て貫得すべし、外に子細なし。

 

鬼神も感ず・ふしぎ 〇……今現になきを以て古(いにしえ)もあるまじとは、大きなるあてすいりやう也。古のこといかではかり知るべき。古のことしるは、只書籍也。その書にしるしおけることなれば、古ありしこと明らか也……

 

そして、宣長は「源氏物語」と「古事記」に関わる有名な歌をそれぞれ残している。

 

なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも

(「玉のおぐし」九の巻)

古事の 文をら読めば いにしへの 手振り事問ひ 聞き見るごとし

(「詠稿」十八)

 

また、宣長は「あしわけをぶね」を書いた二十九歳の時に嶺松院の歌会に参加し、そこでリーダー的存在になる。その頃にこんな歌を詠んでいる。

 

あし引きの 嵐も寒し 我妹子が 手枕離れて 独寝る夜は

(「石上稿」七)

 

この歌会に参加していた愛弟子の須賀直見が三十五歳で亡くなった時に、宣長はその死を悼む歌を詠んでいる。

 

家を措きて いづち往にけん 若草の 妻も子どもも 恋ひ泣くらんに

(「石上稿」十二)

 

やがて三十五歳になると、遍照寺の歌会にも参加するようになる。その後も宣長は歌を詠み続け、生涯で残した歌は約一万首に及ぶと言われている。その中に、「古事記伝」を脱稿したのちの晩年近く、桜の花ばかりを三百首詠んだ「枕の山」がある。このことは「本居宣長」の第一章の最後に詳しく述べられている。小林先生もその中から三首選んでいるが、どれも味わい深い趣がある。

 

我心 やすむまもなく つかはれて 春はさくらの 奴なりけり

此花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに

桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな

 

さらにもう一首挙げておこう。

 

花さそふ 風に知られぬ 陰もがな 桜を植ゑて のどかにを見む

 

こうしてみると、宣長の頭の中には様々な学問と共存して常に歌があり、歌を詠んだり、歌と関わることは生きることと同等の重みがあったように思われる。それは、難解な「古事記」の註釈を完成することができるかどうかも分からない晩年近くになっても変わらなかった、と言うよりは、むしろその難業の最中であったからこそ、それと併せて歌に関する「古今集遠鏡」を書くということが、宣長にとってはある種の心の救済にもなっていたのではないだろうか。

ちなみに、第六章では宣長の以下のような言葉が引用されている。

「僕ノ和歌ヲ好ムハ、性ナリ、又癖ナリ、然レドモ、又見ル所無クシテ、妄リニコレヲ好マンヤ」という宣長の言葉は、又契沖の言葉でもあったろう。

「すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、古ヘの世のくはしき意、風雅のおもむきは、しりがたし」

 

なお、宣長は、その遺言書において、墓には山桜の木を植えるようにと花ざかりの絵まで描いて、この世を去っている。そして、小林先生は第一章で挙げた三首の歌の手前で、こんな風に言って締めくくっている。

―彼には、塚の上の山桜が見えていたようである。

恐らく宣長は奥津紀の場所を選ぶに当たって、先ほど挙げた歌を念頭に、風が吹いても桜の花びらが散りにくい場所を選んだのではないだろうか。そして、宣長が眠る山室山には、毎年春になると山桜の花が咲き続ける。宣長の歌心は、今日に至るまで連綿と生き続けているのである。

(了)

 

参考文献:

「古今集遠鏡」(平凡社)

「排蘆小船・石上私淑言」(岩波書店)