小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和五年(二〇二三)七月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和五年(二〇二三)七月一日
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人が話題にしているのは、本居宣長が北条時頼の遺偈、いわゆる辞世の句について述べている「さとりがましい」という言葉だ。話は「……がましい」という接尾辞の細かなニュアンスにまで及ぶ。本文を丁寧に、詳細に見て行くと、宣長も、小林秀雄先生も、それだけ精しく応えてくれる。私たち「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生も、四人組に負けてはいられない。
*
「『本居宣長』自問自答」には、鈴木順子さん、橋本明子さん、吉田宏さん、冨部久さん、本多哲也さんの五名の方が寄稿された。
鈴木さんは、小林秀雄先生による「躍る」という表現が眼に飛び込んできた。「踊る」ではない、「躍る」なのである。それは「難局で、挑むような勢いで」使われていると鈴木さんは言う。さらに、本文を丁寧に見ていくと、「努力」という言葉と対になるように使われていた。そこに込められた小林先生の深意とは? 本文熟読に時間をかけた、鈴木さんならではの発見があった。
橋本さんが立てた自問は、小林先生が、本居宣長の言う「古学の眼」について述べている件で「生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力」が必要だ、と言うところの「尋常で健全な、内から発する努力」とは何か? である。先生の文章を丹念に追っていくと、宣長や先生が、「生きた個性の持続性」や「あるがままを見続ける」ことを重視していることが直観できた……
「本居宣長」の冒頭、第一章の第二段落に、次のような一文がある。「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」。吉田さんは、小林先生による、その独白のような言葉について思いを巡らせた。そこに、先生の文章が、今でも多くの読者に読み継がれていることを考え合わせてみた。新たな自問が浮んだ。なぜ、先生の文章を読んでいると元気が出てくるのか?…… 吉田さんと一緒に、じっくりと思い巡らせてみよう。
冨部さんは、こんな自問を立てた。宣長は「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と弟子たちに説いてきたにも拘わらず、生前、山室山の妙楽寺に墓所を定めた。宣長という思想的に一貫した人間が、なぜ自らの思想と相反した行動を取ったのか? 考えるヒントは、宣長が詠んだ歌中の、桜との「契」という言葉にあった。新たな疑問も浮かんだ。それは、菩提寺の樹敬寺と妙楽寺という二つの墓所に関する「申披六ヶ敷筋」についてである……
小林先生は、若き宣長が京都遊学時代に認めた書簡について、「萌芽状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚く」と書いている。本多さんは、その「顔」という言葉に注目した。「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という小林先生が三十代半ば頃の作品を読み込み、「顔」という言葉の用例分析を行った。新たな発見が、深く自得するところがあった。
*
石川則夫さんには、令和四年(2022)秋号に続く寄稿をいただいた。前稿の終盤では、小林先生の言葉が引かれていた。「『物のあはれ』は、この世に生きる経験の、本来の『ありよう』のうちに現れると言う事になりはしないか。……この『実』の、『自然の』『おのづからなる』などといろいろに呼ばれている『事』の世界は、又『言』の世界でもあった」。宣長は、「源氏物語」熟読によって自得した教えに準じ「古事記」に身交った。そのことは、「本居宣長」第三十八章と三十九章において詳述されていて、本稿で詳しく考察されるのは、小林先生が「宣長の文勢を踏まえつつも、遥かにこれを超えようとしているのではないか」という、石川さんの直観の子細である。
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今号の「『本居宣長』自問自答」には、五名の方が寄稿された。それぞれが、これは! と直観した言葉に向き合い、時間をかけて考え、文字にして、また考え……というような試行錯誤を何度も繰り返すことで練り上げられてきた作品ばかりである。
その「言葉」を具体的に見てみよう。鈴木さんは「躍る」、橋本さんは「尋常で健全な、内から発する努力」、吉田さんは「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」、冨部さんは「契」、本多さんは「顔」という言葉である。五人の方は、それぞれの言葉に小林先生や本居宣長がどう向き合ったかに、向き合った。
例えば本多さんは、三百~四百字という字数制限のなかで書き上げた「自問自答」を準備のうえ山の上の家の塾での質問に立ち、池田雅延塾頭との対話、より正確に言えば、塾頭を介した小林秀雄先生との対話を行った。そのうえで、「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という小林先生の作品を読み込み、「顔」という言葉で、小林先生が二通りの使い方をしていることを発見した。さらには、その自得した体験を原稿に書き記してみた。文章の試行錯誤と推敲も重ねた。その結果、当初の「自問自答」よりもさらに深い自答に到達できた。
小林先生は、「文学と自分」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第十三集所収)という作品で、このように言っている。
――文章というものは、先ず形のない或る考えがあり、それを写す、上手にせよ、下手にせよ、ともかくそれを文字に現すものだ、そういう考え方から逃れるのは、なかなか難しいものです。そのくらいな事は誰でも考えている、ただ文士というのは口が達者なだけだ、というのが世人普通の考え方であります。併し文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事の間に何の区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。拙く書くとは即ち拙く考える事である。拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。
この「小林秀雄に学ぶ塾」では、小林先生が大著、「本居宣長」の執筆にかけた十二年半にならい、平成二十五年(2013)から「本居宣長」を十二年かけて十二回繰り返して読むことを目指し、その歩みを続けてきている。
拙くてもいい、改めて「自問自答」という小林先生への質問を練り上げる、という基本に立ち返ってみよう。泣いても笑っても、私たちに残された時間は、あと一年半なのである。
*
連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。
(了)
一、はじめに
契沖(*1)は、江戸時代前期の真言宗の僧侶にして古典学者であった。学者として最大の功績は、徳川光圀(*2)の依頼による「万葉集」の訓詁注釈であり(「万葉代匠記」初稿本・精撰本)、現在でも、契沖より前の注釈は旧注、契沖以後の注釈は新注と呼ばれていることからも、彼の研究がいかに大きな画期をもたらしたかがわかる。例えば、伊藤博氏によると、「万葉集」巻八から巻十の歌、九三三首のうち、契沖が旧注時代の古い訓みから新たな訓みを示し(改訓)、それがそのまま現代に至るも定説化している歌(定訓)が三一七首、約三分の一強もあるのだ。これには、現代の万葉学者である伊藤氏も、驚愕せざるを得ないことだと言っている(*3)。
契沖による、現代にも生きている大きな成果は、古典の注釈に留まらない。わが国で昭和二十一年(1946)まで正式に使われていた歴史的仮名遣いの原型を確立したのも契沖である(契沖仮名遣い)。その著書「和字正濫抄」は、「万葉集」や「日本書紀」など豊富な出典を挙げていることに加え、従来から使われてきた「いろは歌」に替えて、現代の日本人が小学校低学年で習う「五十音図」の原型を載せており、その命名も契沖による。ちなみに、契沖仮名遣いをさらに発展させたのが本居宣長(*4)で、その後、明治政府によって、契沖と宣長による歴史的仮名遣いをもとに再整理が行われ、公式採用されたのが、いま私達が使っている現代仮名遣いである。
このように、今日の私たちが、難解な万葉仮名のみで遺されていた「万葉集」を楽に読めるようになったのも、日常的に苦もなく仮名文が書けるのも、契沖のおかげが大なのである。
とはいえ、以上述べてきたことは、あくまで一般論、教科書的な記述に過ぎない。契沖との出会いが、本居宣長という人間とその人生にとって、とりわけ彼の「源氏物語」論や「古事記」を読み解いた学問の道にとって、かげがえのない機縁であったことは、小林秀雄先生の「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)で、詳しく述べられている通りである。
宣長自身、二十歳過ぎ頃の京都での遊学時代を、このように振り返っている。
「京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断(*5)などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきもあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……」(「玉かつま」二の巻)
そんな彼の述懐を、小林先生は、次のように評している。
「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に、甦っているのは、言わばその強い予感である。彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである」(「本居宣長」第四章、「小林秀雄全作品」第27集所収)。
なお、契沖が「万葉代匠記」という大きな仕事をなした経緯については、「小林秀雄に学ぶ塾」池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』を読む(九)第六章 契沖の一大明眼」(私塾レコダ l’ecodaホームページ「身交(むか)ふ」)に詳しく述べられているので、ぜひ参照されたい。
さて、私が契沖のことを深く知ったのは、小林先生の「本居宣長」を通じてであるが、さらなる機縁があった。契沖には、快旭という弟がいた。家系図には「肥後熊本不動院五世住」とあるように、熊本で僧侶として終生を送った。調べてみると、不動院は、現在の熊本市中央区西唐人町にあった。そこは、慶長年間に加藤清正(*6)が戦略的な町割り(都市計画)を施した城下町の風情が、今でも色濃く感じられる地域であり、くしくも私の生家からは目と鼻の先にある。
快旭の名を知るなり、現在の熊本市消防局西消防署の裏手にあるその場所へ、さっそく行ってみた。伽藍の類いはすでにない。駐車場の一角に、朽ちて散乱した墓石群が埋もれていた。先年の大地震の影響もあったのだろう。無惨な光景が広がるなか、夏蜜柑の木だけが陽の光を浴びて、青々とした葉を茂らせていた。
快旭についてもっと知りたくなった。東京の自宅に戻り関連文献に当ってみると、彌富破魔雄氏による「契沖と熊本」という論文(以下、彌富氏論文)を中核とする「契沖と熊本」(快旭阿闍梨墓碑保存会、昭和四年(一九二九)五月発行)という書籍の存在を知った。しかし、熊本のみならず、全国の古本屋でも流通は絶えていた。そこで国立国会図書館で閲覧したところ、快旭のことはもちろん、快旭と契沖、契沖と熊本の関わりについても、さらに深く知ることができた。
これらの機縁を活かさぬ手はあるまい。また、我がふるさとの熊本に、しかも当時の中心街の一画に、現代にも通じる国語学において大いなる功績のあった契沖の弟が、僧侶として終生を過ごしたということを知る者は、皆無に近くなりつつあるのではあるまいか…… そんな思いにかられること五年、ようやく本腰を入れて、彌富氏論文の紹介に加え、契沖とその家族や親族の、熊本との関わりについても統一的に整理し、残しておこうと本稿の執筆を決意した。おそらくこれは、「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生諸賢や『好*信*楽』の読者諸氏にはもちろん、熊本と由縁のある皆さんにとって大いに意味のある書き物になるだろうという思いも、心の片隅にはある。
以上のように、本稿は、「契沖と熊本」などの諸資料の紹介も含め、熊本にまつわる契沖の伝記的内容、及び彼の関係者との関りの内容を中心として、あくまでも「参考資料」として寄稿するものである。とはいえ、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌である本誌への寄稿であることを確と念頭におき、できるかぎり小林先生の大著、「本居宣長」の文章にも目を配りながら進めていくつもりである。
二、契沖の家族・親族
さて、その小林先生の「本居宣長」には、契沖の遺文(「契沖文詞」)から、彼が家族について、その思い出を振り返るように語る言葉が引かれている。
――「元宜は、肥後守加藤清正につかへて、すこし蕭何(*7)に似たる事の有ければ、豊臣太閤こまをうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり、太郎元真は、役の数に有けるとぞ。兄元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそり(*8)の子のやうなれば、それがもとより、氏族の中より、やしなひて、家を嗣すべきよしを、兄がまだ定かなりける日、いひおこせけるに、我はかく病ふせりて、はかばかしく、ゆづりあたふべき物もなければ、ともかくも、思ひあへず。さあれ、しかるべからむとならば、なからむのちにも、はからふべしと、こたへたれば、いかにも、かれこそはからはめと、またさだまれる事なければ、いふに足ねど、父が名さへ、消ゆべければ――近江のや 馬淵に出し 下川の そのすゑの子は これぞわが父」。
元宜とは、契沖の祖父、下川又佐衛門元宜である。下川家は、近江の馬淵(現、滋賀県近江八幡市)の出身で、加藤清正に仕えた。清正の信頼はきわめて厚く「肥後入国以来、国許留守居役として何かにつけ清正を支えてきた片腕」(*9)の一人であった。嫡子元真も、父の留守居役としての役目を引き継ぎ、二代目又佐衛門として清正の子忠広に仕えたが、家中の構造問題の解決がままならず、寛永九年(一六三二)に幕府の改易処分を受け(*10)、下川家も没落してしまう。
そんな元宜の末子であり元真の弟にあたるのが契沖の父、元全である。元全は、通称を善兵衛といい、安藤為章(*11)による伝記「契沖阿闍梨行実」によれば、善良な人物であったらしい(*12)。父元宜との死別後は兄の元真に養われ、加藤家改易後は、しばらくして尼崎城主、青山大蔵少輔に仕え、契沖はその頃、尼崎で生れたようだ(*12)。
一方、契沖の母である元全の妻は、細川家の家臣、間七太夫の娘であった。七太夫は、細川家が加藤家改易後の肥後熊本に配されるより前、豊前小倉にあった時に仕えて八百石を食んだという(「円珠庵文書断簡」)。また、彌富氏論文によれば、契沖母の母、つまり契沖の祖母は、片岡右馬允(清左衛門)という人物の姪にあたる。この右馬允は、加藤清正に仕え、加藤姓を頂いたのち、契沖の祖父又座衛門元宜とともに重臣として加藤家を支えた人物である。右馬允は、加藤清正が支城として確保した阿蘇内牧城の城代となり、慶長九年(一六〇四)に没した後は、その子正方が右馬允として城代を引き継ぎ、慶長十七年(一六一二)には、同じく支城の八代城代に異動した。この加藤正方こそ、のちに松尾芭蕉が傾倒した、肥後生まれの連歌師であり俳諧師(「談林派」)でもある西山宗因(*13)の師匠、加藤風庵であり、加藤家改易にあたり、契沖の伯父である下川元真の一族同様に没落した人なのである。この宗因と契沖との関りについては、章を改め詳しく触れることにしたい。
さてこうして、契沖の父元全と母の間には八人の子がいたと言われている。うち二人は早世しており、残る六人のうち系図では四人の名前が確認できる(「寛居雑纂」)。契沖のほか、兄の元氏(如水)、弟の快旭、そしてその弟の多羅尾平蔵である。また、系図にない二人のうち、妹の一人が知られている。
兄の元氏は、「若くから、長子として崩壊した一家を担って奮闘し、主家閉門後は、仕を求めて武蔵までさまよったが、得る所なく、一家成らず、妻子なく、零落の身を、摂津に在った契沖の許に寄せた。契沖は、今里妙法寺(*14)の住持をして母を養っていた。兄は……母親の死後、契沖が円珠庵(*15)に移っても、常に傍らにあって、契沖の仕事を助けて終った。宣長を動かした『勢語臆断』も、如水の浄書によって世に出たものである」(「本居宣長」第七章)。
また、彌富氏論文によれば、契沖よりも十二歳若い快旭は、契沖が十一歳で出家した後に生まれ、青年時代に、縁故のあった熊本の地に下り来て、契沖にならって出家したものと推定されている。
このように契沖は、兄弟が散り散りになってしまった惨状を念頭に、「兄元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそりの子のやう」と言っているのである。
なお、契沖の父元全は、長男の元氏が仕えていた松平大和守直矩(*16)が越後村上にあった頃、元氏と同居しており、かの地で亡くなった。契沖が大阪生玉の曼荼羅院の住職をしていた二十五歳の年のことである。その時、契沖が詠んだ歌が五首遺されている(「漫吟集類題巻第十二 哀傷歌」)。
帰る山 越ゆべき人の いかにして この世の外に 道はかへけん
雲ゐ路も 猶同じ世と 頼みしを さてたにあらで 別れぬるかな
定めなき 身の行末と しら露の 山にや消ん 野にやおかまし
この世には 唐土までの 別れだに なほあふことを 頼みやはせぬ
聞きなれし 生まれずしなぬ 理も 思ひ解かばや かかる歎きに
もはや彼の地から山を越して帰ってくることのない亡父に対する、契沖の心の底からの歎きの声が聞こえてくるようだ。
本章の最後に、もう一つ、契沖と熊本との関係を紹介しておきたい。肥後藩士で国学者・歌人でもあった中島広足(*17)という人物がいる。本居宣長の鈴屋門人の一人である長瀬真幸(*18)に学び、晩年は藩校時習館で教えた。彼の自筆の書に「橿園随筆」があり、その中に「さるゆかりによりて、契沖の姨なる人、吾国(坂口注;肥後)の木山氏に嫁せり。さてこそいよいよ吾国にはゆかり出来て、常に文の行き交ひたえざりしなり。さて某木山氏も歌よむ人にて、やがて契沖の門人となりて、添削をうけたり。今の木山直秋も歌このみておのが友なり……」という件がある。契沖の「姨」という人が、熊本の木山氏に嫁いだというのである。ちなみに、久松潛一氏は、その「姨」を、元宜の娘であろうと推定している(*19)。
その木山直秋の祖父、木山直平の自筆になる「契沖家集」という歌集がある。彌富氏論文によれば、同集の巻末識語に「此集は、法師契沖詠歌也。熊府住木山直平の父直元、和歌を契沖氏に学ぶ云々」とある。さらに、その跋文には「そのかみ契沖みづから云々、余が先人直元、其の門に遊びて、数年言問ひ交はせし消息、作文、和歌、余が家に残れり……」とあるのである。
そうなれば、広足のいう「某木山氏」とは直元ではないか、ということになるが、契沖よりも三十歳も若い直元の年齢を踏まえると、契沖の姨が嫁いだという点で難がある。彌富氏も、「姨」を契沖の一族の関係者という意味に解する余地もあろう、と言うに留め、明確な結論は出していない。
ともかくも、ここまで概観してきた通り、まさに彌富氏が言うように「契沖の父系も母系も、共に肥後に深い因縁が結ばれて」いて、「契沖は、肥後の国難が生んだ人」だったのである。
(*1)寛永十七年(一六四〇)~元禄十四年(一七〇一)
(*2)寛永五年(一六二八)~元禄十三年(一七〇〇)
(*3)伊藤博「『み』か『し』か」『契沖全集』月報4(岩波書店)。伊藤氏は、契沖の改訓として以下のような具体例を挙げている。「万葉集」巻九の笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の長歌(「国歌大観」一七八七番歌)に「色二山上復有山者」という万葉仮名による原文について、旧注が「イロイロニヤマノヘニアタマアルヤマハ」という意味不明の訓みであったところ、「山上ニ復山有」が「出」であり、通して「色ニ出デバ」と訓むことを指摘したのが契沖であり、その訓みが今でも新注として享受されている。
(*4)江戸中期の国学者。享保十五年(一七三〇)~享和一年(一八〇一)
(*5)「余材抄」は「古今和歌集」の注釈書。「勢語臆断」は「伊勢物語」の注釈書。
(*6)永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)。天正十六年(一五八八)に豊臣秀吉により肥後北半国の領主に抜擢された。秀吉の命により文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)まで朝鮮へ出兵。慶長五年の関ヶ原合戦では、徳川家康を総大将とする東軍についた。その頃までに熊本城の普請に着手していた。
(*7)前漢(紀元前二〇六年~西暦八年)の政治家。武人としてよりも民政官として漢王朝の基礎をつくった。
(*8)ジガバチの古名。幼虫は羽化すると、巣穴を出て単独で行動する。
(*9)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション
(*10)加藤家改易後の肥後熊本には、豊前小倉の細川忠利が配された。
(*11)江戸前期の儒学者、国学者。万治二年(一六五九)~享保一年(一七一六)。新介。徳川光圀に招かれ、修史のために創設された彰考館の寄人となり『大日本史』『釈万葉集』等の編纂に従事。契沖から直接「万葉集」の注釈の指導を受けた。水戸家でもっとも契沖と深い関係にあった(福田耕二郎「水戸の彰考館」(水戸史学会))。
(*12)久松潜一「契沖」『人物叢書』、吉川弘文館
(*13)慶長二年(一六〇五)~天和二年(一六八二)。連歌師として大坂天満宮連歌所の宗匠に就任。俳諧師としては談林派の祖。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。「上に宗因なくんば我々が俳諧今もつて(坂口注;松永)貞徳が涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也」という芭蕉の言葉がよく知られている(「宗因から芭蕉へ」八木書店)。
(*14)現在の大阪市東成区大今里にある真言宗の寺。
(*15)現在の大阪市天王寺区空清町にある真言宗の寺。
(*16)寛永十九年(一六四二)~元禄八年(一六九五)。慶安二年(一六四九)から越後村上藩主であったが、寛文七年(一六七七)播磨姫路藩に転封。その後、親族である越後高田藩の御家騒動時の調整の不手際を指摘され閉門の上、天和二年(一六八二)に豊後日田藩に国替を命じられた。
(*17)寛政四年(一七九二)~文久四年(一八六四)
(*18)明和二年(一七六五)~天保六年(一八三五)。真幸の子幸室が著した「肥後先哲偉蹟続篇」によれば、細川藩士の家に生まれ、八歳の頃から藩校時習館助教草野潜溪に学び、後、漢学者永広十助に師事。鹿本の天ノ目一(アメノマヒトツ)神社神官帆足長秋に宣長の「神代正語」「直日霊」等を示され、これに学ぼうと決意、寛政五年(一七九三)、父正常の東上の機会に、遊学の願を出し、宣長門下に入った。寛政八年(一七九六)には宣長の許に滞在し、「古事記」「源氏物語」の講義を聴講している。賀茂真淵門人の加藤千蔭、村田春海との交際もあった。「長瀬真幸書入萬葉和歌集」も伝わっており、千蔭校本、春海(真淵)校本、本居宣長校本の三系統の校本によって墨色を変えたかたちで書入れられ、この種の本としては最も濃密な、いわば当時の諸注集成的な要素をもっている(以上、久保昭雄「肥後萬葉論攷」武蔵野書院)。「本居宣長と鈴屋社中」(錦正社刊)によれば、五一二名の門人の一人として記載がある。
(*19)久松潛一「契沖の生涯」(創元社)
【参考文献】
・釘貫 亨「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)
(つづく)
三十六 「古事記」の文体(カキザマ)
「古事記」は、平城遷都の翌々年、和銅五年(七一二)一月に成ったが、当時の日本に文字は漢字、中国から渡来してまだ間のなかった漢字しかなく、その漢字を用いて日本の歴史を文字化するという天武天皇から元明天皇に引き継がれた大志は太安麻侶によって達成された。だが、宣長が「文体」と呼んでいるその漢字表記は安麻侶一人の創意であったため、安麻侶亡き後は一〇〇〇年もの間、まったくと言っていいほど誰にも読めなくなっていた。そういう「古事記」の文章を、というよりまずは文字を、しっかり読み解こうとしていた宣長にとって「序」は大事だった、なぜなら、「序」が、「古事記」の本文は常式を破っている、なぜ常式を破ることになったか、そこを言明しているからだった。ということは、「序」で言われていることは、宣長にとって「古事記」を読み解くうえで唯一最大の拠り所だったということであり、宣長は「序」も本文と同じ安麻侶の文であることを確と腹に入れてその解読にかかるのである。……
前回はここまで読んで結んだのだが、これに先立って「本居宣長」の第二十八章には次のように言われていた。
――「古事記」の成立の事情を、まともに語っている文献は、「古事記序」の他にはないのだし、そこには、「古事記」は天武天皇の志によって成った、と明記されている。……
そして小林氏は、
――そこで、「記の起り」についてだが、これは宣長の訓みに従って、「序」から引いて置くのがよいと思う。……
と言って次のように「序」から引く。
――「是に天皇詔りしたまはく、朕れ聞く、諸家の賷る所の、帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまふ。……
「帝紀」は歴代天皇とその関連事項の記録、「本辞」は一般的事象の伝承である。こうした「帝紀」や「本辞」が有力氏族の家々に伝わっていたのだが、それらは正実に違い虚偽が加えられていると聞く、今その虚偽を正しておかないと、何年も経たないうちにどれが正でどれが虚かがわからなくなってしまうだろう、「帝紀」「本辞」は邦家の経緯、すなわち国家組織の根本であり、王化の鴻基、すなわち天子の徳によって世の中をよくするという国政の基礎である、ゆえに今回、「帝紀」を撰録し、すなわち「帝紀」を文章に綴って記録し、「旧辞」を詳しく調べ、偽りを削り、実を定めて後世に伝えようと思う、と天皇は言われた。……
そして、ここからである、宣長は、ここからの記述に心を奪われた。
――時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年是れ廿八、人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払れば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習はしむ」。――しかし、事は行われず、時移って、元明天皇の世になったが、「焉に旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に詔して、稗田阿礼が誦む所の勅語の旧辞を撰録して、以て献上せしむ」という次第であった。……
「舎人」は天皇や皇族に仕えて雑務を行った下級の官吏、「帝皇の日継」は歴代天皇の皇位継承の次第で、「先代の旧辞」の「先代の」は昔からの、「旧辞」は「本辞」と同意である。天武天皇は天性聡明で聞こえていた舎人、稗田阿礼に命じてこれらを「誦み習は」させられた。しかし第四十代天武天皇の代では完成に至らず、第四十三代、天武天皇の姪にあたる女帝、元明天皇が太安麻侶を起用して稗田阿礼が誦む旧辞を撰録させられた、というのである。
小林氏は、続いてこう言っている。
――宣長はこれに、わざわざ次のような註を附している。「こゝの文のさまを思ふに、阿礼此時なほ存在りと見えたり」と。なるほど阿礼の存命は、文中に明記されてはいないが、安万侶にしてみれば、誰にもわかり切っていた事を、特にしるす事はなかったまでであろう。とすれば、宣長の註は、委細しいどころか、無用なものとも思われるが、宣長はそんな事を、一向気にかけている様子はなく、阿礼が存命だとすれば、和銅四年には、何歳であるかを詮議するのである。前文に、阿礼、時に廿八、とあるだけで、天武の代の何年の事だかわからないのだから、はっきりした事は言えないわけだが、しばらく元年から数えれば、六十八歳に当る。「古事記」撰録の御計画のあった時期は、事の実現を見ずに終ったのを思えば、御世の末つかたと考えてよさそうであるから、仮りに、天皇崩御の年から数えれば、五十三歳という事になる、云々。……
宣長のこの「註」に、小林氏が「註」を施す。
――(宣長の/池田注記)註のくだくだしさには、何か尋常でないものがある。それが「序」を読む宣長の波立つ心と結んでいる事を、はっきり感じ取ろうと努めてもいいだろう。言ってみれば、宣長が「序」の漢文体のこの部分に聞き別けたのは、安万侶の肉声だったのだ。それは、疑いようもなく鮮やかな、これを信じれば足りるというようなものだったに違いない。(中略)自分が「古事記」を撰ぶ為に、直かに扱った材料は、生ま身の人間の言葉であって、文献ではない、と安万侶が語るのを聞いて、宣長は言う、――「然るは御世かはりて後、彼ノ御志紹坐ス御挙のなからましかば、さばかり貴き古語も、阿礼が命ともろともに亡はてなましを、歓きかも、おむかしきかも」。――註は宣長の心の動きそのままを伝えているようである。「記の起り」を語る安万侶にとって、阿礼の存命は貴重な事実であり、天武天皇が、阿礼の才能を認められた時、阿礼が未だ若かったとは、まことに幸運な事であった、と考えざるを得なかったであろう。でなければ、どうして「年是れ廿八」などと特に断っただろう。恐らく、宣長は、そういう読み方をした、と私は考える。……
小林氏は、さらに言う。
――上掲の「序」からの引用に見られるように、特定の書名をあげているわけではないが、撰録に用いられた文献資料は記されている。その書ざまによると、一方には、帝紀とか帝皇日継とか先紀とかと呼ばれている種類のものと、本辞とか旧辞とか先代旧辞とかと言われている類いのものとがあったと見られる。実際にどういう性質の資料であったと考えたらよいか、これについては、今日、研究者の間には、いろいろと説があるようであるが、宣長は、後者は「上古ノ諸事」或は「旧事」を記した普通の史書だが、前者は特に「御々代々の天津日嗣を記し奉れる書」であろうと言っているだけで、その内容などについては、それ以上の関心を示していない。……
そして小林氏は、宣長が、稗田阿礼の年齢になぜこうもこだわったかを推察する。
――今まで、段々述べて来たように、「記の起り」の問題に対する宣長の態度は、「序」の語るところを、そのまま信じ、「記」の特色は、一切が先ず阿礼の誦み習いという仕事にかかっている、そこにあったと真っすぐに考える。旧事を記したどんな旧記が用いられたかを問うよりも、何故文中、「旧事」とはなくて、「旧辞」とあるかに注意せよと言う。――「然るに今は旧事といはずして、本辞旧辞と云ヘる、辞ノ字に眼をつけて、天皇の此ノ事おもほしめし立し大御意は、もはら古語に在リけることをさとるべし」。……
――ところで、この「阿礼ニ勅語シテ、帝皇ノ日継及ビ先代ノ旧辞ヲ誦ミ習ハシム」とある天武天皇の大御意を、そのまま元明天皇は受継がれるのだが、文は「臣安万侶ニ詔シテ、稗田阿礼ガ誦ム所ノ勅語ノ旧辞ヲ録シテ、以テ献上セシム」となっている。宣長は「さて此には旧辞とのみ云て、帝紀をいはざるは、旧辞にこめて文を省けるなり」と註している。即ち、「旧記の本をはなれて」、阿礼という「人の口に移」された旧辞が、要するに「古事記」の真の素材を成す、と安万侶は考えているとするのだ。更に宣長は、「阿礼ニ勅語シテ」とか「勅語ノ旧辞」とかいう言葉の使い方に、特に留意してみるなら、旧辞とは阿礼が「天皇の諷誦坐ス大御言のまゝを、誦うつし」たものとも考えられる、とまで言っている。……
第二十八章の、ということは宣長の「古事記」註釈の肝心はここである。すなわち「本辞」「旧辞」の「辞」は文字どおりに「言葉」を意味するのであり、しかも「旧辞」とは文字で書かれていた記録を言っているのではない、家々に文字で書かれて残っていた記録を天武天皇が声に出して「諷誦坐ス大御言」、すなわち天皇が読み上げられた声の調子をも言っているのであり、阿礼はその声の調子もそのまま耳に留め、そのまま口にした、安麻侶はその書き言葉ではない話し言葉を文字に写し取っていった、それが「古事記」の文章なのであり、天武天皇の宿願は「本辞」「旧記」の「削偽定実」はもちろんだったが、日本古来の大和言葉、書き言葉ではない話し言葉として何千年も何万年も生きてきた大和言葉の保全にあったと言うのである。
宣長は続けて言う。
――「此記は、もはら古語を伝ふるを旨とせられたる書なれば、中昔の物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書にこそせらるべき」、――言ってみれば、そういう性質のものであったし、出来る事なら、そうしたかったのが、撰者の本意でもあったであろう、と宣長は言っている(「文体の事」)。安万侶は、そうはしたかったが、出来なかった。彼はまだ平仮字を知らなかった。簡単にそんな風に言ってみたところで、何を言った事にもならない。この先覚者が、その時、実際に強いられ、味わった国語表記の上の苦労は、まことに面倒なものであった。言うまでもなく、この苦労を、遡って考えれば、漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活に行き当る。……
今回はここまで読んで一区切りとする。次回は「漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活」を目の当たりにさせられる。
(了)
一 はじめに
2022年秋号までに、「物語」と「歌」、そして「道」という言葉をめぐって右往左往して来たように思われる。これらの言葉は『本居宣長』にちりばめられた言葉として指摘出来るものであり、反復して使用されている語彙としてページのそこここに存在するわけだが、しかし、その語彙だけを抽出して意味するところを吟味しても、それぞれの働き、その語彙を表現している文脈の動きを明示化しうるわけでもない。前稿の最後に記したところを想い起こせば、「『事』の世界は、又『言』の世界でもあったのである」(第二十四回)ということ、すなわち、『本居宣長』という書物全体を「事」として捉える我々の認識は、その意味を求めようとする願いが赴くところ、「言」として現れる一行一行を丹念に読み進める果てしのない行為を繰り返さざるを得ない。そうして、小林秀雄の『本居宣長』という「事」を、この書籍において使われている言葉たちの集積から、我々の読書行為の中で形成しつつある「言」の「ふり」へと遡り、これらの言葉たち自体の振る舞いの動きへと眼を向けなければなるまい。そして、この言葉たちが見せる振る舞い、動き方こそが、実は「物語」という文学を編み上げる源流なのだということに思いを致すことが重要なのである。
なお、本稿中で、『古事記』、本居宣長の『古事記伝』、そして小林秀雄の『本居宣長』のそれぞれの本文を引用するが、時に交錯する場合もあるので、少々ややこしくなることをお断りしておきたい。なお、それぞれの引用文中の振り仮名で、原則としてカタカナ表記は原文通りのもの、平仮名表記のものは、小林秀雄『本居宣長』の原文にあるものと、稿者が新たに付したものとがあるが、前後に重複している際は適宜省略している。また、神名に使用されている漢字表記は、『古事記』原文、本居宣長『古事記伝』で異なる場合がある。
二 神名という「言」と「事」
それでは、「言」と「事」、そして「物語」としての<時間>が合流し、「意」を整えて行こうとする箇所を考えていこう。それは『本居宣長』第三十八回において、次のように合流する。太安万侶の「筆録の蔭に隠されていた」稗田阿礼の「口ぶり」を求めて、「本の古言に復す」こと、つまり、「古事記」本文の言葉の総体から「古言のふり」を再生し、復元しようという困難を『古事記伝』はどのように克服したのか。
彼(※稿者注・宣長)は、「源氏」を熟読する事によって、わが物とした教え、「すべて人は、雅の趣をしらでは有ルべからず」という教えに準じて、「古事記」をわが物にした。「古事記」が、「雅の趣」を知る心によって訓読れたとは、其処に記された「神代の古事」に直結している「神々の事態」の「ふり」が取り戻されて、自足した魅力ある物語として、蘇生したという事だ。
(第三十八回)
すなわち、「古事記」の記述が「古言のふり」へ、「神代の古事」に戻されたなら、そこにこそ「神々の事態」が目の当たりに顕現するということだ。このことを『本居宣長』第三十八回から第三十九回に至って、小林秀雄の書きぶりは詳細かつ大胆、そして不思議なくらいに拘泥している様子を見せる。あるいはこういう言い方が適切かどうか分からないが、この回の記述は『古事記伝』の注釈、本居宣長の文勢を踏まえつつも、遥かにこれを超えようとしているのではないか、そうした想いを私は禁じ得ないのである。本稿ではこのことを出来るだけ詳細に考察していきたい。
「さて、神という『言』の『意』という問題に直ちに入ろう」と、第三十八回後半部から、本居宣長による「神」という言葉の吟味が焦点になっていくが、「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり」と『古事記伝』の三之巻を引用しつつ、その「可畏き」という言葉の詳細な注釈が展開される「神世七代」の「阿夜訶志古泥神」について説明される箇所を取り上げ、「ここの注釈には看過出来ない含みがあるので、曖昧な文だが、努めて宣長の真意を求めて、少し詳しく言う事にする」として考察を深めていく。しかし、その前に、三十八回から三十九回にかけてもっとも重要なことは、神への命名行為について論じているところであり、ここに「言」はそのまま「事」であったという発想の結実を見ていることである。すなわち、命名という行為は「言」を得ることで「事」を知るという必然的な業であったことを明かしていく。
上古の人々は、神に直に触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己の直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立会ったもの、又、立会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神の意を引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。
(第三十九回)
神名という言葉を得るという極めて単純かつ具体的な経験も、その経験内部での<嘆き>から自ずと生成していく動きであって、「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物」との遭遇という<驚き>から起動していくものである、と言い添えてもいい。いわば、ここでも人間は、「もののあはれ」に捕らわれることなく、生きていくことなど出来ない相談だったということだ。これを踏まえて「阿夜訶志古泥神」の注釈に関わる「看過出来ない含み」があるという読みを追跡してみよう。
問題の神は、神世七代も終りに近付いて生りました神である。高天原に成りました神々は、本文に従えば「別天神」であり、そのお姿は、先ず純粋で簡明なものであったと見てよいのだが、それも天之常立神までで、その次になると、国之常立神と、御名の書きざまが変るのである。それから以下、にわかに天神の代が、地神の代になったという言い方は避けたいが、その辺りから、神々のお姿には、その御名から推して、宣長の言い方で言えば、――「必ず地と成るべき物に因て生坐スべきこととぞ思はるゝ」、或は、「天に坐ス神とは見えず、此ノ地に坐ス神とこそ見えたれ」、――と言わざるを得ないものが現れて来る。神代の様も、少々混雑して来るのである。
そこで、国之常立神の次の、――「豊雲野ノ神より訶志古泥ノ神まで九柱の御名は、国土の初と神の初との形状を、次第に配り当て負せ奉りしもの」――と宣長は見た。
(第三十九回)
その後、いわゆる神世七代と記された箇所の注釈に入っていくが、まずは『古事記』の原文を掲げる。原文の割り注部は神名の訓み方を指示する二行書きであるが本稿ではカッコの中に記しておく。
次成神名、國之常立神(訓常立亦如上)、次豐雲(上)野神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
次成神名、宇比地邇(上)神、次、妹須比智邇(去)神(此二神名以音)、次、角杙神、次、妹活杙神(二柱)、次、意富斗能地神、次、妹大斗乃辨神(此二神名亦以音)、次、於母陀流神、次、妹阿夜(上)訶志古泥神(此二神名皆以音)、次、伊邪那岐神、次、妹伊邪那美神。(此二神名亦以音如上)。
これを、新日本古典文学全集(小学館版)の書き下し文で示すと以下のようになる。
次に、成りし神の名は、国之常立神、次に、豊雲野神、此の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠しき。
次に、成りし神の名は、宇比地邇神、次に、妹須比智邇神、次に、角杙神、次に、妹活杙神、次に意富斗能地神、次に、妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神、次に、伊邪那岐神、次に、妹伊邪那美神。
では、『古事記伝』三之巻の神代一之巻に記された本居宣長による注釈はどうか、細部を具体的に確認してみよう。参照、引用する本文は三之巻の神代一之巻、板本の28丁から44丁までである。
「国之常立神」の前に現れた「天之御中主神」から「天之常立神」までは「別天神」と明記されているので、これらは天上の成立とともに出現した神々であって、「国之常立神」からが「地と成るべき物に因て成坐るなり」とし、その時の「地」とはまだ「浮き脂のごとくなる物」であって、クラゲのようにふわふわと漂っていたのであり、「是の漂へる国を修理ひ固め成」す、つまり国土を確かに整え固めるのは、伊邪那岐、伊邪那美の二神のしわざを俟たねばならない。したがって、地上の生まれる兆しとして神世七代の神々が成るというのが、この箇所の背景と説いている。そこで問題となるのは、「国之常立神」から次々に現れる神々の名の意味である。本居宣長『古事記伝』の注釈の要点をまとめていこう。
「国之常立神」については「天之常立神」に準じた名であるとしているので確認すると、「常立」は「底」、「曾伎」であり「至り極まる処」という。つまり地の兆しが極まるところに成った神である。次の「豊雲野神」の「豊」は「物の多にして足ひ饒なる意」、「雲」は「久毛」で「物集り凝りて」の意と「初芽す」を兼ね、「野」は「沼」で「水の渟れる処」という。そして次の「宇比地邇神」、妹の「須比智邇」はその表記からも推測出来るように「宇」は「宇伎」と同じで「泥」であり、「須」は「土の水と別れたるを云う」、すなわち、スヒジも土砂と水、「邇」も「野」に通じ「沼」を意味しているとすれば、つまり海や天と分かたれた国土がまだ明確には現れない状態をイメージしていることになる。そして次の「角杙神」と妹「生杙神」は、「角」は「都怒」であり、「物のわづかに生初」て「未生ざる形」を言う。「杙」は「久比」で先の「久毛」と同じとみれば、「神の御形の生初たまへる由なり」であり「生杙」は「生活動き初る由の御名なり」ということになる。また次の「意富斗能地神」、妹「大斗乃辨神」の「意富」、「大」は称える語として、「斗」は「処」、「地」と「弁」は男女に付す尊称と解すと、「此二神の御名は、彼地と成るべき物の凝成て、国処の成れる由にて、其れに女男の尊称を付けたるなり」。そして、「於母陀流神」と妹「阿夜訶志古泥神」に至るが、この二神の名についての本居宣長の吟味については、『本居宣長』第三十九回に記してある通りである。
こうして改めて神世七代の神名についての『古事記伝』三之巻の注釈を見てくると、天地が別れ、水と土とが混じり合いつつも濃淡を帯びて来て、やがて海と州とに別れようとする前兆が現れる状態を、神々の出現の動きと共に言い表している文脈が浮かび上がって来ると言える。
そこで、私が問題にしたいのは、この先、「阿夜訶志古泥神」の後に続き、「伊邪那岐神」までを解く、その間の『古事記伝』の注釈記述である。どうやらこの箇所の宣長の注釈について、小林秀雄『本居宣長』第三十九回は「看過出来ない含みがある」と、極めて重要視しているからで、ここを精読するために、上記のように『古事記伝』中の神世七代の神名の吟味を引用紹介して来たのであった。具体的には、『小林秀雄全作品』の28巻、p88の3行目から4行目の間を埋める作業を試みたわけである。
三 神名の流れ
では、まず、「看過出来ない含み」があるという『古事記伝』三之巻から、神代一之巻の45丁の宣長の記述をよく見てみよう。
豊雲野神より訶志古泥神まで九柱の御名は國土の初と神の初との形狀を、次々に配り當て負せ奉りしものなり、其は豊雲野、宇比地邇須比智邇、意富斗能地大斗乃辨と申すは、國土の始のさま、角杙活杙、淤母陀琉阿夜訶志古泥と申すは、神の始まりのさまなり、【但し國土も神も、其神の生坐し時の形狀の、各其ノ御名の如くなりしには非ず、必しも其時の形狀にはかゝわらず、たゞ大凡を以て、次第に御名を配當たるのみなり、されば此の御名々々を以て、各其時の形狀と當ては見べからず、此レをよく辨へずば、疑ヒありなむものぞ、實は神は、初メ天之御中主よりして、何れの神もみな、既に御形は満足坐せり、面足ノ神に至り初て足ひ坐りとには非ず、又國土は、伊邪那岐伊邪那美ノ神の時すら、未だ浮脂の如く漂蕩へるのみなりしを以て暁るべし】、然らば須比地邇の次に意富斗能地とつゞき、活杙の次に淤母陀琉とつゞくべきに、然は非ずて、國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差ひたるは如何にと云に、未ダ國處は成ざる前に、國之常立神よりして、次第に神等は生坐る【天之常立神以前五柱は、天神にて別なる故に、此に云ハず、此は國土の初メに就て云故に、國常立神より云々とは云り】故に意富斗能地神の先なる神を、角杙活杙と名け奉り、さて御面の足はせるを見て可畏むは、既に國處も成り、人物も生てのうへの事なる故に、大斗乃辨神の次なる神を、淤母陀琉阿夜訶志古泥と名け奉りしにぞあらむ、【書紀には、沙土煮の次大戸之道とつゞき、又一書には、活樴の次面足と續けり、】
さて、以上が『古事記伝』の注釈記述の全文になるが、小林秀雄の『本居宣長』第三十九回の該当箇所では、まず先述した国土生成の兆しとしてのイメージを押さえながら次のように記す。
そのうちに、動揺もようやく治まり、確かに国土を生成さむとする伊邪那岐、伊邪那美神の出現を待つばかりの世の有様となった時に、淤母陀琉、阿夜訶志古泥神と申す女男双坐す二柱の神が現れる。あたかも、その御名に注意されたい、とでも言う風に、宣長は、その註釈を書き進めているのである。
この先で特に「次のような考えが語られる」と言及するところが問題になる。それは『古事記伝』の引用文の最初の【……】部後半で、「實は神は、初メ天之御中主よりして、何れの神もみな、既に御形は満足坐せり、面足ノ神に至り初て足ひ坐りとには非ず」というところ、つまり神々が次々に現れる状態を、時系列的に、次第にその姿が整って来た過程において、それぞれの御名を命名しているという『古事記』の「神世七代」の成立に関するごく普通の解釈、それを『古事記伝』は拒んでいるというところ、普通に読み流していては気づくこともない些細なところに、宣長の注釈は、ことさらに、「面足ノ神」が現れて初めて「御形は満足」したわけではないと、即座には分かり難い補足を加えているのである。そこに強く注意を促しているのが『本居宣長』第三十九回のこの引用に続く文である。つまり、「――更に言えば、(宣長自身は言及していないのだが)、――」とわざわざカッコを付けて断りながら、「『訶志古泥ノ神に至ってはじめて訶志古く坐すには非ず』という事になろう」と続けているのである。すなわち、この「阿夜訶志古泥神」の出現によって漸く「畏き」存在としての神威に触れたわけではないと、宣長の注釈に欠けているところを補足するように加筆までしている。いや、ここからの第三十九回の本文は、まさに本居宣長の注釈を超えるような小林秀雄の注釈と考えなければならないのではないか。そして、この宣長自身が「言及していない」注釈に続き、さらに次のように説いているのである。
そうに違いなかろうが、これは、あくまで事後の反省に属する事で、神の命名というひたむきな行為の関するところではなかった、というのが宣長の基本的な考えなのである。従って、この行為の徴として、淤母陀琉、阿夜訶志古泥神が、大斗乃弁神の次に、生れ坐したという出来事は、どうあっても動かせない事になる。それが動かせるなら、神代は崩壊して了うのである。
神々は歴史的な過程、つまり継起的に、徐々に十全な姿形となって、名付けられるたびに次第に全体を整えつつ、人々の前に顕現した、というように、「可畏き物」との遭遇という経験のただ中で、異常な働きとしての神威に直に触れたことを、その神の姿として、顕現するたびごとに名付けて行ったのではない。ある特権的で絶対的な力を、その部分の圧倒的な威力において、その瞬間に名付けているので、命名された個々の神々の姿の全体は最初から「満足坐す」姿であったし、その存在も最初から「訶志古く坐す」ものであったというのである。ただ、こう解くことは、あくまでも「事後の反省に属する」というのは、名付けた圧倒的な力をもって、それをその神の一部分として認識し、命名した、その御名の背後にその神の姿の、その時には隠れていた全体が示唆されているはずだと勘違いするなというのである。
そこで、ここに続く文章をさらに注意して読んでみよう。
では何故、そのような出来事、つまり、神々の本来の性格を、改めて、確かめてみるというような出来事が起こったのか。伝えがないから解らないが、これは、周囲にそうなる条件があっての事だろう。多分、それは、――「既に国処も成り、人物も生てのうへの事」であろう、と註釈は言っている。しかし、そのような事は、宣長には、恐らくどうでもいい事であった。周囲の条件を数え上げてみたところで、外的な説明が、命名という行為の自発性にまで届くわけがない。そういうはっきりした考えが、宣長にはあったと見てよい。実は、そう見てはじめて、彼の混乱した註釈に、一本、筋を通す事が出来るのだ。そういう考えを秘めていたところから、註釈が苦し気に乱れた、と逆に考える事も出来るのである。
(第三十九回)
では、一つ一つ解きほぐして行こう。まず、これまで説いてきた「面足ノ神」への補足説明部分が「彼の混乱した註釈」の一つではあるが、もう一つとして、神々の序列の記述、その語り方にあるようだ。しかし、この点についても、第三十九回の記述には、『古事記伝』三之巻、神代一之巻の45丁の本文全体を引用していないので、小林秀雄の『本居宣長』本文だけを読んでいては、実は見当が付きかねるところなのである。本居宣長の注釈が「混乱」し、「苦しげに乱れた」というのは次の箇所である。
然らば須比地邇の次に意富斗能地とつゞき、活杙の次に淤母陀琉とつゞくべきに、然は非ずて、國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差ひたるは如何にと云に、未ダ國處は成ざる前に、國之常立神よりして、次第に神等は生坐る【天之常立神以前五柱は、天神にて別なる故に、此に云ハず、此は國土の初メに就て云故に、國常立神より云々とは云り】故に意富斗能地神の先なる神を、角杙活杙と名け奉り
この「國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差ひたるは如何に」という難問についての注釈として、これだけの言葉ではどうにも腑に落ちかねる曖昧さ、不得要領の感が否めない。つまり「御名の次第の參差ひたる」というのは、神々の御名から、それぞれの流れ、系統が推測されるが、その系統が交錯しているというのである。この引用の前をもう一度確認すれば解るのだが、「豊雲野、宇比地邇須比智邇、意富斗能地大斗乃辨と申すは、國土の始のさま、角杙活杙、淤母陀琉阿夜訶志古泥と申すは、神の始まりのさま」としている。つまり、前の五神は「国土」の生成状況を「次第」に命名した流れを言い、後の四神は「神」の生成状況を「次第」に命名した流れを示すと解されるわけで、それを踏まえるなら、「国土」系列の神名と「神」系列の神名がそれぞれ分けて記されるべきと考えられる。つまり、普通に考えるなら、国土たる大地の生成を終えてから、神と人の世が開始されるという順序が至当であろう。しかし、『古事記』原文の記述は次のような順序を示している。
次に、成りし神の名は、宇比地邇神、次に、妹須比智邇神、次に、角杙神、次に、妹活杙神、次に意富斗能地神、次に、妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神
したがって、いわゆる天地創世神話を当たり前のように思い描く現代の読者としては、「然らば須比地邇の次に意富斗能地とつゞき、活杙の次に淤母陀琉とつゞくべき」と神々の出現と御名の配列の系統の交錯が、系統の乱れのように見えるのだ。なぜ大地生成神話と神々生成神話とを区別して、順序立てて語らないのか。それを問題としながらも、『古事記伝』における宣長の注釈は、「未ダ國處は成ざる前に、國之常立神よりして、次第に神等は生坐る故に意富斗能地神の先なる神を、角杙活杙と名け奉り」と言うだけなのである。
しかし、この「次第に」に現代の用法としての「しだいに」ではなく「ツギツギ」と宣長自身がわざわざルビを振っているところに、注意を払うべきなのではないか。まだ国土も定まらぬ前に、神々はツギツギに現れた。その度毎に間髪を入れず御名は命名されて行ったのだ。この『古事記』に使用される「次=ツギ」の語法については、『本居宣長』第四十八回に直接言及されていて、さて、実はここが『本居宣長』最大の問題提起となる箇所と考えるところなのだが、本稿では参照事項として示すのみに留めたい(『小林秀雄全作品』28・p176)。
四 命名という「ふり」
さて、ここまで検討して来たように、神々の御形の生成と国土と神の生成の二つを語っていく神世七代の御名の記述について、『古事記伝』の注釈を精読しても、飛躍としか思えない補足部分と「次第に神等は生坐る」故にとしか、自ら立てた問い、「御名の次第の參差ひたるは如何に」という本質的な問いに答えないところ、この二点を以て、神代一之巻の45丁の本文全体を小林秀雄は「混乱した註釈」と言うのである。しかし、その混乱の所以については、極めて踏み込んだ注釈を施していくのである。それは、ここでの本居宣長の解は『古事記』神世七代のこの記述を「古言」として再生し、その語り方をできるだけ復元してみること、そうした想像力を自らに強く求めた故に「苦しげに乱れた」のだと言うのである。つまり、神世七代の語り方が示すように神々が顕現していく有様を、そのまま俊敏に聴き取りつつ、これを神威に触れて即座に命名する行為の絶対性として受容し、認識する方法というべきだろう。
すなわち、『本居宣長』第三十九回の「彼の混乱した註釈に、一本、筋を通す事が出来る」というのは、いわば宣長の注釈を浮き彫りにするための補助線を、「命名という行為の自発性」に求めたということなのである。
それでは、以上を踏まえて、この先にある最奥、最後の踏み込みに向かってみよう。「命名という行為の自発性」という補助線を引いた上で、宣長の記した神代一之巻の45丁の本文を位置づけ直し、そこに浮び上がる光景に注目したい。『本居宣長』第三十九回の箇所をもう一度引用する。
この行為の徴として、淤母陀琉、阿夜訶志古泥神が、大斗乃弁神の次に、生れ坐したという出来事は、どうあっても動かせない事になる。それが動かせるなら、神代は崩壊して了うのである。
(第三十九回)
先に検討した神々の序列、その顕現の順序が、『古事記』本文では国土系列と神々系列とが交錯して記されているという箇所である。この交錯した記述は宣長によれば「次第に神等は生坐る故」というのみであった。そして、小林秀雄はこの「次第」、ツギツギという言葉の動き、その「古言」の「ふり」に眼を凝らして「命名という行為の自発性」を読み取り、さらに「其ノ可畏きに触て、直に歎く言」という果敢な踏み込みを行ってみせたのであった。既に記したように、その時その時の一瞬に顕現する神々、その神威との邂逅は絶対的な経験と言う他にない。したがって事後の反省による整序とは自ずから異なるのは当然なのである。しかし、この動かせない序列を動かしたら、つまり、反省に基づく整序を施すとしたら、「神代は崩壊してしまう」というのは何故なのか。しかも、「神世七代」とするのではなく「神代」と記す限りは、ここでの注釈対象の神世七代の領域に留まる話ではなくなってしまうのは明らかであり、そうなるとこの「崩壊」というのが少なくとも『古事記』の上巻全体に及ぶことになる。「大斗乃弁神、大淤母陀琉、阿夜訶志古泥」という語られ方を取っている順序が、入れ替わってしまうと「神代」という歴史が崩れ去ってしまうというのである。
五 神代という物語の<時間>
さて、この問題の輪郭を明確にするためには、「命名という行為の自発性」という補助線のさらなる考察が必要になって来る。本稿の冒頭部に記したところをもう一度振り返ってみたい。『古事記』の記述はその文字、文章から稗田阿礼の語りへと回帰することを促していて、その始原ともいうべき経験の総体への想像力を行使できるか否か、というところまで小林秀雄の記述は踏み込んで行った。つまり、神の御名と言えば、それを唱える声の上げ下げまでを指摘する本居宣長『古事記伝』の注釈とは、文章としての神世七代の記述総体を、その元の形へ、「古言」へ帰そうという努力の表れなのだと見ているわけである。しかも、「古言」として復元された神の御名とは、あれかこれかの選択の末に定まっていくというものではなく、「直に歎く言」と考えなければならない以上、その経験の一つ一つから「自発的」に展開されたものである。この特殊かつ極めて具体的な経験から、唱え言として生成する御名までの、心の動きとは、任意なものではないということだ。ここを押さえた上で、この命名行為の特権性という補助線を引き、それについて『本居宣長』の第三十九回以前に記して来たところを振り返ってみよう。
特に荻生徂徠について説くところの核心をなす問題は、言語の問題であったこと、それについては徂徠の『辨名』に言及されていたことを想い起こしたい。
ところで、「生民ヨリ以来、物アレバ名アリ」とは、これも言うを待たざることと考えられているが、意味合はまるで違うのである。名は、自然に有りはしないだろう。物につき、人が、名を立てるという事がなければ、名は無いだろう。しかし、この命名という行為は、あんまり自然で基本的なものだから、特に意識に上るという事がなく、誰もが、単に物あれば名ありと思い込んでいる。そういう風に、徂徠は考えている。凡そ、人間の意識的行為の、最も単純で、自然な形としての命名行為が、考えられている。言わば意識的行為の端緒、即ち歴史というものの端緒が考えられている。先王の行為を、学問の主題とした孔子にとって、名は教えの存するところであったのは、まことに当然な事であった。
徂徠は、「子路篇」から孔子の言葉を引く、「名正シカラザレバ、則チ言順ハズ」と。言語活動とは、言わば、命名という単純な経験を種として育って、繁茂する大樹である。
(第三十二回)
さらに第三十四回で展開された「神」という言葉と「物」との関わりについての考察も見てみよう。
「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取り上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質形状」は、決して明らかにはなるまい。直に触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先でも後でもない。「古事記伝」の初めにある、「抑意と事と言とは、みな相称へる物にして」云々の文は、其処まで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。「すべて意も事も、言を以て伝フものなれば、書はその記せる言辞ぞ主には有ける」とつづく文も、「意」は「心ばへ」、「事」は「しわざ」で、「上ツ代のありさま、人の事態心ばへ」の「徴」としての言辞は、すべて露わであって、その外には、「何の隠れたる意をも理をも、こめたるものにあらず」という宣長の徹底した態度を語っているのである。
(第三十四回)
ここで引用されているのは、『古事記伝』一之巻の冒頭、「古記典等総論」の終わり近くになるが、さらに補足すれば、上記の引用文「抑意と事と言とは、……」の後には、次の文も入っているのである。
此記は、いさゝかもさかしらを加へずて、古ヘより云ヒ傳ヘたるまゝに記されたれば、その意も事も言も相稱て、皆上ツ代の實なり、是レもはら古ヘの語言を主としたるが故ぞかし
「意と事と言」の三者が相互に、しかも緊密に関係しつつ「徴」として機能するとは、これらの総体が本質としての言葉なのであって、ある出来事との遭遇とそこで感じ取られた心情や意味と、この総体としての経験をどう表現するかということは、一つ一つが独立した漸次的、段階的な過程なのではなく、すべてが一挙に獲得される「徴」と呼ぶしかない完結した経験であり、表現に他ならないということだ。したがって、この過程の全体が「實」なのである。そうであるからこそ、第三十四回で言及される「くず花」の引用文、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也」ということになるのである。すなわち、通念的な歴史上の一時代のように「神代」を想定し、その「神話」を想像上の産物としか捉えられないというなら、神代の神々を表現する言葉、神の御名の数々と、その御形が「目に見えた」ということは全く理解不能なのである。それは御名と御形とを引き離したが故なのだ。
さて、ここまでの考察を踏まえて、第三十九回において問題化した箇所、神世七代の神々の顕現する語り、その順序が一つの理屈によって整序されたとしたら、「神代は崩壊して了う」という文章に戻ってみたい。
そこで語られた神々の御名とは「次第」に生成して来る神威に直に触れて、直ちに歎く「徴」としての言葉の連続体であって、これを語っていく神々の物語の、その動きの総体こそが「神代」の「實」という歴史そのものである限り、この連続体を停止させ、組み替える行為が何をもたらしてしまうか、それは火を見るより明らかであろう。
そして、第三十九回の最終段落にも注意しておきたい。
要するに、淤母陀琉、阿夜訶志古泥神の出現という出来事に、古代人の神の経験の性質が、一番解り易く語られていると宣長は考えた、と見てよいのだが、その神名の解によれば、この経験の核心をなすものは、――「其ノ可畏きに触て、直に歎く言」にあったとするのだ。これは、明らかに、「古の道」と、「雅の趣」とは重なり合う、或いは「自然ノ神道」は「自然ノ歌詠」に直結しているという、言いざまであろう。彼は、「物のあはれ知る心」は、「物のかしこきを知る心」を離れる事が出来ない、と言っているのである。
(第三十九回)
「意と事と言とは、みな相称へる物」だという見解が、おそらく『本居宣長』の中で最も重視されている思想であって、これと「もののあはれ」の説との重なり合う様をこの引用文は語っているのである。神世七代の語りによって顕現した神々の御名と御形の言葉を「古言」の「ふり」の動きへ再生しようとすれば、「道の事」は「歌の事」と同じであり、両者は二つの事を表現したものではない。それははっきりしているのである。
さらに、『本居宣長』のこの後の展開、第四十三回にはこの二つを踏まえて、より踏み込んだ記述が見られることを確認して、本稿を閉じたい。
神代の伝説は、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語ではなくなるわけはない。だが、「さかしら」の脱落が完了しないと、この事が受け入れられない。それが厄介な問題だ。「神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理もなく、つたなき寓言にこそはあれ」と頑なに言い張るからである。歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直に結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確かめるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。
(第四十三回)
「神代」、「古伝説全体」は、徹頭徹尾「徴」としての言葉に基づいた物語として成り立っているという。だから、その「ふり」を見失えば一挙に「崩れ去」ってしまうのだ。
(つづく)
注……本稿中の『古事記伝』本文は、『本居宣長全集』第九巻(昭和四十三年七月 筑摩書房刊)を使用した。なお本稿に引用、要約して示したところは、筑摩版全集九巻のp140(28丁)~151(45丁)にあたる。
本居宣長は、宝暦二年から七年、ということは二十三歳から二十八歳にかけての時期、京都に遊学したが、このとき宣長が書いていた書簡がいまも残っており、小林秀雄先生はこの書簡に目を向けて、而立(三十歳)前の青年宣長の姿と出会おうとしている。先生は、宣長が、堀景山の塾で共に学んでいた上柳敬基や清水吉太郎ら学友に宛てた書簡の主旨を紹介し、次のように言っている。
――ここに、既に、宣長の思想の種はまかれている、と言っただけでは、足りない気がする。彼の、後年成熟した思想を承知し、そこから時をさか上って、これらの書簡のうちに、萌芽状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚くのである。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.63)
私はこの部分を熟視したい。この驚きの体験はどういうことだろうか。
書簡の中でも小林先生が特に着目したのは、宣長の孔子観である。ある時、学友から非難の言葉を受けた宣長が記した書簡を、先生の要約から引こう。
――足下は僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、或はむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「私カニ自ラ楽シム有ル」所以のものではない。処で、現在の足下にしても僕にしても、為むべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか。(同上p.60)
これに加え、自分が和歌を好むように、孔子もまた風雅を好んでいた、と宣長は言う。「論語」の先進篇の話に触れ、彼は、孔子について「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ニ在リ」(同上p.62〜3)と記した。
以上を踏まえ、小林先生は次のように言う。
――彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然として嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。(同上p.65)
宣長は、学友たちが抱いている孔子像が、「聖人」として祭り上げられた偶像に過ぎないことに気づいていた。その時の宣長の精神の動きについて、小林先生は次のように言う。
――書簡のうちに、彼の将来の思想の萌芽がある、というような、先回りした物の言い方は別として、彼が、自分自身の事にしか、本当には関心を持っていない、極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしていない、この宣長の見解というより、むしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫しているのである。「君師」に比べれば、遥かに「士民」に近い、自分の「小人」の姿から、彼は、決して眼を離さない。(同上p.65〜6)
「小人」という言葉は、宣長の書簡に出てくる言葉である。自らが小人であることを忘れずに生きることは、簡単ではない。先人を聖人化、偶像化してしまうのは、自分もそう見られたいという欲望の裏返しであろう。そのことに気づいているか。書簡のうちにある、「吾ガ儕ハ小人ニシテ」という表現が問いかけているところを心に留めて筆を進めよう。
小林先生の文中に、「思想」と「顔」という二つの言葉がある。この二つの言葉を熟視しよう。
まず、思想についてであるが、これは既に本誌で連載中の池田雅延塾頭「小林秀雄『本居宣長』全景」で詳しく論じられたことがある。池田塾頭は、小林先生の「イデオロギイの問題」を引いて、思想とイデオロギーという言葉の混同について注意を促す。
――人間精神の表現は、これを完了した形として眺める限り、悉くイデオロギイならざるものはない。イデオロギイは僕の外部にある。(中略)だが、僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第12集p.281〜2)
――「思想」には、私たちの精神が、希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、そういう段階がまずあり、こうした希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。(池田雅延「小林秀雄『本居宣長』全景(二)思想のドラマ」本誌2017年7月号)
私は思想と混同しやすい言葉として、もう一つ「見解」という言葉を挙げたい。先に「本居宣長」からの引用でも、「この宣長の見解というより」という箇所があったが、これより前に、次のように「見解」という言葉は使われている。
――「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。(中略)しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのも亦容易なのである。見解を集めて人間を創る事は出来ない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.57)
たとえば、宣長の書簡の中には「神州」という言葉が何度か出てくるが、これを拾い上げて「ここに国学者の思想の一端がある」という言い方は、誤っている。断片的な言葉を拾って現れるのは、見解にすぎないからだ。見解は、イデオロギーと同じく、人間の外にある。思想とは、もっと有機的で、人間の営みと切り離せない。小林先生は、宣長の書簡の中に、イデオロギーや見解を探しに行ったわけではなく、宣長が青年らしく、「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」している、そのような活力ある試行錯誤の痕跡を探しに行ったのだろう。
しかし、小林先生は、実際に出会ったものを、「思想」ではなく「顔」と言っている。文学上の修辞に過ぎない比喩だ、と私は思わない。「顔」とは、何を表しているのだろうか。これを考えるヒントは、「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という繋がった作品の中にあった。
まず、「作家の顔」の中から、「顔」について二つの使われ方をしていることを確認したい。一つ目の「顔」は、フローベルの書簡を読んだ小林先生が以下のように批評する箇所に出てくる。
――もはや、人間の手で書かれた書簡とは言い難い。何んという強靭な作家の顔か。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集p.13)
別の「顔」は、トルストイについて正宗白鳥が論じた文章に応じる中で出てくる。
――偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見附けて喜ぶ趣味が僕にはわからない。(同上p.16)
この二つの顔を、「作家の顔」に続く二作品の表題に照応させて、前者は「思想の顔」、後者は「実生活の顔」と、端的に言い直してみよう。偉大な作家や思想家は、その仕事を進めていく中で「思想の顔」を持つに至る。私たちが彼らの作品を通じて出会うのは、この顔であり、その体験にこそ意味がある。否が応でも普段から貼り付いている私たちの「実生活の顔」を映す鏡のように、それらの作品と向き合うのは、誤った態度である、と小林先生は言っている。
では、いかにして人は「思想の顔」を得るか。「文学者の思想と実生活」から一節を引く。
――抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集p.136)
この「最も正確な自然の像」が、「思想の顔」と言えよう。これを得るのに必要なのは「抽象作業」である。木材から余計な部分を取り除いて木像を作るがごとき抽象作業を経ることで、人間は、実生活だけでは得られない、独立した思想の顔を得る。それを最も巧みに行った先達が、偉大な作家や思想家である。この抽象作業は、先に引用した「希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤」という池田塾頭の言葉とも重なり合う。
改めて、初めの小林先生の文章で言われていた「驚き」に戻ろう。青年宣長の書簡のうちに、思想の種がまかれている、思想の萌芽がある、そういう表現では足りないのは、一学生だった宣長が、既に試行錯誤の上で抽象作業を終え、ある思想家の顔を持つに至っていたからである。どんな思想か、と一言で言うことはかなわないが、自らを「小人」と自覚して、そこから言葉を発する、聖人の道という学問的通念に惑わされず、自分を大きく見せることも卑下することもなく、過不足ない自分を捉えて離さない、その態度が、小林先生を驚かせた。私は、小林先生の驚きをそのように受け取った。
(了)
本居宣長は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」であると常日頃、養嗣子大平をはじめとする弟子たちに教えていたにもかかわらず、晩年、「無き跡の事思ひはかって」、松坂の山室山の妙楽寺の境内に自らの墓所を定めた。宣長という思想的に一貫した人間が、どうして、そのような自らの思想とは相反した行動を取ったのか?
この問いが生まれた契機は、以下のように言われている小林秀雄氏「本居宣長」の第二章である。
――大平の申分は尤もな事であった。日頃、彼は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と教えられて来たのである。大平の「日記」は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう。妙楽寺の「境内に而、能キ所見つくろひ、七尺四方計之地面買取候而、相定可レ申候」と認めたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p38)
「古事記」にあるように、人は死んだらよみの国に行くだけであるから、死んでからのことをあれこれと思いはかることは「さかしら事」だと宣長は弟子に言っておきながら、自分は妙楽寺の境内に墓所を定め、さらにその墓所を千代のすみかとまで言っている。大平はこの宣長の行為が理解できず、そのことを日記にも書き記している。ところが、宣長はこのあとまた違う意味の歌も以下の通り詠んでいる。
――山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる、――「よみの国 おもはばなどか うしとても あたら此世を いとひすつべき」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」、だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、埒もない事だろう。私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。(同第27集p39)
このくだりを読むと、やはり、人は死んだらよみの国へ行くものだということを宣長は信じていたことになるだろう。つまり、晩年になって、宣長は死後の世界について、自分の思想を変えたわけではないということに落ち着く。では、なぜ、宣長は自分の墓所に関して自分の思想とは相反することをしたのだろうか?
宣長は、「葬式は、諸事『麁末に』『麁相に』とくり返し言っているが、大好きな桜の木は、そうはいかなかった。これだけは一流の品を註文しているのが面白い」と小林氏は書いている。この桜は、遺言書の中で墓碑の後ろに塚を作り、そこに植えるように宣長が指示しているものである。また、宣長は遺言書を書き終えたあと、「まくらの山」と題して、桜の歌ばかり三百首も詠んでいる。遡れば、宣長には六十歳、及び四十四歳の時の自画自賛像があり、その両方に桜の歌が書かれている。さらには、以下のような記述もある。
――宝暦九年正月(三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへし契を」とある。(同第27集p34)
宣長の桜好きには、常識を超えた激しいものがあるが、「契」となると、少し話が違ってくる。それは好き嫌いを通り越して、運命的な繋がりを意味するものである。例えば、夫婦の契りと言えば、昔は、現世だけでなく、あの世でも連れ添うという意味合いが強かったのではないか。それと同じように、自分は死んでからも桜と連れ添うという若い頃からの契りを守りたいという強い想いが、宣長をして、死後も桜と一緒にいるための墓所を、敢えて作らせたのではないかというのが、冒頭の自問に対する私なりの自答だった。
その後、本稿を書くために、再度、第一章、第二章を読んでいると、新たな疑問が湧き起こってきた。私の自答では、宣長自らはよみの国に行くわけだから、墓所はあくまで桜との契りを守るためだけのものであるという認識が強かったのであるが、それにしてはその墓所に対する異常なこだわりが目に付いたのである。つまり、墓所そのものにも、深い子細があるのではないかということである。
具体的に言えば、宣長は、本居家の菩提寺である樹敬寺までは空送で、遺骸はその前夜にひっそりと、山室山の妙楽寺に送るようにという指示を遺言書に記し、大平や弟子達にもそう言っていたのである。宣長は何のためにこういった複雑な指示を出したのだろうか? さらに言えば、本居家は仏教を代々信奉していたが、宣長は「直毘霊」にあるように、神道説を取っていた。それなのに、自らの葬式は仏式で執り行うことを指示しているのである。これらのことを、小林氏は、「この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、『申披六ヶ敷筋』の考えがあった」と言っている。
さて、本居宣長本人はこの風変わりな葬式を執り行う理由を明らかにしていないし、小林氏も詳しくは語っていないが、「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、……」とかなり断定的に、あたかも自分はその真相を知っていると言うかのような口調で小林氏は書いている。これについては、『好*信*楽』の令和四年(2022)夏号で、松広一良氏が以下のような考察をされている。
――「葬式が少々風変りな事」になったのは宣長自身、「『儒仏等の習気』は捨て」るべしと考えていたからであり、また「遺骸は、夜中密に、山室に送る」べしとする旨を遺言書で指示するほど遺骸の姿といえども自ら仏式に近づきたくない、「漢意に溺れ」てはいけないという強い思いがあったからと考えられる。
私も、「ほとけの国を ねがふおろかさ」という、前に引用した歌にあるように、宣長は正統な仏式での葬式を避けたかったのではないかと思っていたので、松広氏のこの考察には大いに首肯させられた。また、松広氏は、「端的には『儒仏等の習気』は捨てるべきと考えているからなのだが、それなら樹敬寺に葬るのを止めたらいいではないかとなりそうであり」との疑問を投げ掛けている。このことについては、本居家は代々仏教を信奉する家柄であり、世間体などを考慮に入れると、形式的には仏式での葬式も行う必要があると宣長は思ったのではないか、ただ、その理由について、公にすることは憚られた、葬式を執り行う樹敬寺としても、宣長から、儒仏は信じていないが、葬式だけはやってくれと言われたとすれば、断ることだってあり得るだろう、と私なりに想像してみた。この件だけではなく、宣長の頭の中には、自らの思想と周囲を取り巻く現実との間をめぐる様々な葛藤が渦巻き、その詳しい真相については誰も分からない、「申披六ヶ敷筋」なるものがあったということではないだろうか。
ところで、私自身も一度、この山室山の本居宣長奥墓と呼ばれる場所を、池田雅延塾頭や塾生と共に訪れたことがある。小林氏が書いている、「簡明、清潔で、美しい」という言葉を、身をもって感じることができたのは、大いなる収穫であった。なお、本やネットなどには、奥墓は山頂にあるとの記述があるが、その割には、周りに木が生い茂っていてやや薄暗く、山頂の少し手前という印象が残っている。そこで、閃いたのが最初に取り上げた歌である。
山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め
恐らく、宣長は風が強く吹いて花が散りやすい山頂は避け、その下の、周りが木々に囲まれた、静かな場所を選んだのではないか。この点においては、宣長は墓よりも桜を優先したように感じられる。
今回、様々なことを考えさせられたその奥墓を、山桜の花が見頃、すなわち七分咲きの時期に、是非とも訪れたいとの思いが胸をよぎった。
(了)
「本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだ事がある。それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、『古事記伝』に触れると、折口氏は、橘守部の『古事記伝』の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の『古事記伝』の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。『宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか』という言葉が、ふと口に出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、『小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら』と言われた。
今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.25~p.26)
これは小林秀雄先生の「本居宣長」の冒頭である。先般、山の上の家の塾で発表した「小林秀雄先生への質問文」では、ここに引用した文の後半を熟視して、次のように自問自答した。
――「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」のは何故か。小林秀雄先生は「古事記伝」の読後、「無定形な動揺する感情」に「はっきり気附」き、「心の中の宣長という謎めいた人」に分析しにくい感情が「動揺」しているのを感じた。小林秀雄先生の「物を書く」発端は、常に「動揺」する「分析しにくい感情」に気付くことであり、過去に物を書くことでその時々の「分析しにくい感情」をそのつどはっきり認識してきはしたものの、すぐまたそれらの認識をさらに超えて動揺させられる「物」に出会い、その新しい動揺させられる「物」に形を与えようとして書くので、決して易しくはならないのではないでしょうか。
小林秀雄先生は一九八三年に亡くなられたので、私がこの文章を書いている今年(二〇二三年)は没後四十年となるが、文庫本も全集も時の流れに流されることなく版を重ねているという。批評作品としては異例のことだろう。何故、これらの批評作品は古くならないのであろうか。その理由の一つは、上述した批評の対象を定める際の型にあるのではないだろうか。時流には全く頓着しないで、小林秀雄先生自身が受け身で物に向き合い、動揺したか否かを感じることが決め手なのだ。そう思うと「『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだ事がある」という文章も、動揺を求めて解説書や研究書等を退け、何よりもまず原典に向き合うという態度とも感じられてくる。
また、小林秀雄先生の文章を読んでいると元気が出てくる。それも先生の批評作品が、読まれ続けている理由の一つではないだろうか。先生の文章には、順境であれば素直に受け入れ、逆境であれば逆境でしか考えられないことを考えてやろうという、明るい生命力がある。「私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである」の「企て」という強い言葉にもそれを感じる。この言葉には、本居宣長という一人の人間を、学問の実績と信念への批判とに分割し、人間の姿を取らせずにいる学問界における理解の仕方に対する、否という思いが含まれているのではなかろうか。そして、「心の中の宣長という謎めいた人」を誰もが思い出せるような一貫性のある人間として、さらにいうならば、誰も表現しようとしてこなかった「本居宣長という生まれつき」の意味を描くという宣言に思える。ここで、第二章の次の言葉が浮かんだ。「宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない」(同p.40)
先に、「生まれつき」という言葉を用いたのは、やはり第二章の次の文章が浮かんでいたからだ。「或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである」(同p.40)
しかし、何故「思想の劇」という表現が用いられているのだろうか。「生まれつき」という言葉と組み合わせることで、小林秀雄先生は読者に次のように語りかけてはいないだろうか。
まず、宣長の「生まれつき」を基とする発言によって幕が開いた「生き生きとした思想の劇」というものがあったことを、思い出して欲しい。そして、諸君の生まれ合わせた世がどのような劇であれ、劇中にある諸君は今の「生き生きとした劇」を作るべく、生まれつき得ている役を生き生きと演じて考え、堂々と「自分はこう思う」と発言して欲しい。なぜなら、それこそ「人生如何に生きるべきか」を自問自答することに他ならないからだ。いつからか劇中では、利用すべきである科学的な方法に逆に縛られて、「批評や非難」を恐れただけの無意味な発言を放ち合って我が身を守るか、本来、一人ひとりが違うところにこそ意味がある想像力の価値を見失わせられて、これを存分に用いて考えることができない人が増えているのではないか、と。
さて、「本居宣長」の冒頭部分を巡り、思い浮かぶに任せて書いてきたのだが、そろそろ結語としたい。
「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」という文章をもう一度眺めていると、小林秀雄先生は物を書く仕事を努めて易しくはならないようにしてきた、というようにも思えてきた。そうであっても、やはり動揺というものがそのつど行く先を示すものではあっただろう。動揺しようと思って動揺できるはずもないのだから、一つひとつの動揺も立派な生まれつきだろう。小林秀雄先生は生まれつきが語る声にいつも耳を澄ませ、尊重して従い、批評作品としてそれに姿を与え続けたとも言えるのではないだろうか。そうであるならば、小林秀雄先生の「物を書く仕事」は、この生まれつきというものを定めた自分を超えたものから「人生如何に生きるべきか」と問われ続けて、これに自答し続けたことを意味するだろう。
生まれつくという人間のつくられ方に、これから先も変わりはないのだから、さらに時が流れても、小林秀雄先生の批評作品とこれを愛する読者との対話は成り立つだろう。そして、小林秀雄先生と出会った幸運な読者が、小林秀雄先生と歳月をかけて親しく交わり「物を書く」という形で自問自答を重ねるならば、それこそ真の学問といってもいい、その人に即した生きる意味や、物事の本質が分かってくるという創造的な世界へと導かれるだろう。
(了)
本居宣長は、『古事記』の真を得んとして、それまで誰も読むことのできなかった『古事記』の註解を始めました。小林秀雄先生は、私たち人間が真を得るためには、「生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力」が必要である、と述べています。では、「尋常で健全な、内から発する努力」とは何でしょうか。これが私の自問でした。
この自問について考える手掛かりとして、池田雅延塾頭が示されたのは、「本居宣長」の第四十九章に出ている「京極黄門の小倉山庄百枚の色紙」の譬え話でした(『小林秀雄全作品』第28集180頁3行目〜)。「藤原定家が一首ずつ百枚に書き、京都の小倉山麓にあった山荘の障子に貼ったと伝えられる、京極黄門の小倉山庄百枚の色紙」を例に引きながら、宣長は「贋物に欺かれない事と、真物を信ずる事とは、おのずから別事であろう。どちらが学者にとって大事か」を、問うのです。似たものを持つ人も多い、その色紙の山を前にして「これは偽物である」という証拠を探し、偽物に欺かれないように必死になることと、そこから一枚の真筆を見分け「真である」と信じることとは全く別のことであり、学者として取るべき道は後者であると、宣長は明言しています。宣長は全てを真と信じてかかりますが、他の学者はほとんどを偽物だとして疑ってかかります。「古事記」における神話や伝説についても、宣長は全てを真と言い、他の学者は全てを単なる寓話だと言うのです。
古人の心をもって真を信じる。この古学に関する考えは宣長の精神の中心にあり、文中何度も繰り返し現れます。――「古学の眼を以て見る」とは、眼に映じて来るがままの古伝の姿を信ずるという事であり、その姿を見ず、姿から離れた内容を判じ、それが理解出来なければ信じないとか、理解の行く程度だけ信じて置くとかいうような事は、「古学の眼」の働きからすれば、まるで意味を成さない、と彼は言い切っているのだ。……」(同102頁18行目〜)素直な心と態度で「眼に映じて来るがままの古伝の姿を信ずる」、これを貫くことがどれだけ困難か、宣長も小林秀雄先生も、また読者である私たちも知っています。
私の日常を振り返っても、次々と現れる目前の俗事への対応を求められる。ところが、時間と心に余裕を持たないので、眼に映じて来るがままの姿を頭が理解しない。また、誤って偽りのものを手に取れば、足元が崩れ落ちるような恐ろしさを感じている。なぜ真か、なぜ偽りか、常に証左と説明を求められる。そういう次第で、「眼に映じて来るがままの古伝の姿を信ずる」ことは、私たち現代人にとってはもはや思いもよらないことですが、いや、これは今に始まった事ではなく、宣長の時代から人間の本質は変わっていないのかもしれないとも思います。
では、このあたりで、冒頭の自問を意識しながら自答につながる小林先生の本文を読みたいと思います。
――生活の上で、真を求めて前進する人々は、真を得んとして誤る危険を、決してそのように恐れるものではない。それが、誰もが熟知している努力というものの姿である。この事を熟慮するなら、彼等が「かしこき事」としている態度には、何が欠けているかは明らかであろう。欠けているのは、生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力なのである。彼等は、この己れの態度に空いた空洞を、恐らく漠然と感じて、これを被おうとして、そのやり方を、「かしこげにいひな」す、――それで、学者の役目は勤まるかも知れないが、「かしこげにいひな」して、人生を乗り切るわけにはいくまい、古人の生き方を明らめようとする宣長の「古学の眼」には、当然、そのように見えていた筈である。真と予感するところを信じて、これを絶えず生活の上で試している人々が、証拠が揃うまで、真について手を拱いているわけもなし、又証拠が出揃う時には、これを、もう生きた真とも感じもしまい、というわけである。(同183頁15行〜)
――宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう、宣長は見ていた。そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の「情」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「情」を、しっくりと取り巻いている、「物の意、事の意」を知る働きでもあったからだ。(同208頁17行〜)
――宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。(『小林秀雄全作品』第27集40頁6行〜)
さらに、『本居宣長』とは別に、『学生との対話』(新潮社刊)では次のように言われています。
――「もののあはれ」を知る心とは、宣長の考えでは、この世の中の味わいというものを解する心を言うので、少しもセンチメンタルな心ではない。「もののあはれ」を知りすごすことはセンチメンタルなことですが、「もののあはれ」を知るということは少しも感情に溺れることではないのです。これは柔軟な認識なのです。そういう立場から、あの人は『古事記』を読んでいます。三十五年やって、『古事記伝』が完成した時、歌を詠みました。
古事の ふみをら読めば 古への 手ぶり言問ひ 聞見る如し
この「ふみをら」の「ら」は「万葉」などにも沢山でてくる調子を整える言葉で、別に意味はない。「言問ひ」とは会話、言葉、口ぶりの意味です。これはつまらない歌のようだけれども、宣長さんの学問の骨格がすべてあるのです。宣長の学問の目的は、古えの手ぶり口ぶりをまのあたりに見聞きできるようになるという、そのことだったのです。(『学生との対話』23頁10行〜)
読んでわかるのは、「生きた真」「生きた個性の持続性」という小林先生の言葉に見られるように、宣長の価値は「生き」ていること、「あるがまま」に置かれていることでしょう。ここで思い出されるのは、小林先生が敬い慕った哲学者ベルグソンの言葉、「直観」です。直観とはベルグソンの言う哲学の方法で、ベルグソンの素読を続ける本塾生の有馬雄祐さんは、「絶えず変化する動きにより沿い、安定を求めることなくこれを直知する精神の働き」であると記しています(『好・信・楽』令和五年春号「素読と直観」)。宣長もベルグソンも、時と共に変わってゆく対象の、その時々のあるがままを心の眼でおおらかに観続け、そこに真を得ようと努めたという点で、共通しているのだと思います。
ここまで思いを廻らせてみて、そろそろ冒頭の自問に戻ります。小林秀雄先生が、真を得るために必要だと述べた「生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力」は、具体的には先に引いた小林先生の文で言われている、「古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動」にありありと現れているのではないでしょうか。
(了)
昨日の雨で、満開だった桜はずいぶん散った。本居宣長さんが好きだった桜花の、咲き散る季節に、小林秀雄先生の『本居宣長』に向かっている。
第四十九章を繰り返し読んでいて、「躍る」という言葉が心に留まった。理由ははっきりとしない。言葉が、フワッと立ち上がってきた。小林先生の言われる直観であろうか。
しかもこの言葉は、その場ですぐさま、私にとって、大事な物に思えた。それまで、本文の中身、具体的には、神、自然、人との関係、古学の眼、古伝説について考えてきたが、あのとき以来、この「躍る」が私の思索のほとんどを占めてしまい、どうにもならなくなった。そこで急遽方向を変え、この言葉の第四十九章でのあり様を辿ることにした。小林先生の『本居宣長』を理解する手がかりになるかも知れないという、予感めいたものがあった。
本文の「躍る」を追って辿ると、二箇所に似た表現を発見した。一つは、「古学の眼」の説明のところで、小林先生は、宣長の身振りを「理解と信念が織りなす難題の中心に躍り込んだ」と言われ、二つ目は、「古伝説」の説明のところで、上古の人々の生活を「柔らかく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混じる、多種多様な事物の『性質情状』(カタチ)を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らす」と言われている。どちらも、難局で、挑むような勢いで「躍る」が使われている。実際の文は、次のようにある。
――このような、畳み掛けるような語調は、「古学の眼」を得んとして、理解と信念とが織りなす難題の中心に躍り込んだ、その宣長の身振を、よく現していると言ってよかろう。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.182、15行目〜)
――神々は、彼等を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう。そういう声が、彼等に聞えて来たという事は、言ってみれば、自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はないと感じて生きて行く、その味いだったであろう。其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の「性質情状」を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らすという事になる。(同p.189、3行目〜)
私はこれまで、書き言葉で、「踊る」と「躍る」の違いを意識して使っては来なかった。その違いを調べようと、辞書を引くと、「踊る」は、音楽やリズムに合わせて体を揺れ動かすことで、ある文献には、この文字は、人に操られて行動するときも用いられるとあった。
一方、「躍る」は、飛んだり跳ねたりして勢いよく動くこと、文献には、「胸が躍る」「心臓が躍る」のように喜び、驚き、期待、緊張などで、胸がわくわくする、ドキドキする、動悸が激しくなるなどについても用いられるとあった。小林先生は、敢えて、「躍る」の方を、第四十九章で使っているのだ。私自身が、この第四十九章ばかりでなく、作品『本居宣長』全体を通して、わくわくドキドキしてきたことを思い起こす。宣長や小林先生の、古伝説から学ぶ鼓動、真の学びに伴う身体の反応を、私は感じてきたのかも知れない。先生が「躍る」と綴ったのは、そのような本当の学びを伝えるために、必要だったからに違いない。そう考えると、「躍る」との出逢いは、偶然ではないと思いたくなる。
次に、「躍る」が、「努力」の言葉に繋がるのを、二箇所に発見する。宣長の「古学の眼」が書かれ、上田秋成の学問への姿勢を問うところと、「古伝説」について、宣長の考え方を説明するところで、使われている。小林先生は、読者に分かるように、意図して、対に置いたに違いない。私にとって、これらの言葉との出会いは、必然であるし、運命であると確信する。小林先生は、次のように熱く語っている。
――そんな馬鹿な事があるか。生活の上で、真を求めて前進する人々は、真を得んとして誤る危険を、決してそのように恐れるものではない。それが、誰もが熟知している努力というものの姿である。この事を熟慮するなら、彼等が「かしこき事」としている態度には、何が欠けているかは明らかであろう。欠けているのは、生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力なのである。(同p.183、15行目〜)
――そういう彼の考えからすれば、上古の人々の生活は、自然の懐に抱かれて行われていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、「その性質情状」を見究めようとした大人達の努力に、注目していたのである。これは、言霊の働きを俟たなければ、出来ない事であった。そして、この働きも亦、空や山や海の、遥か見知らぬ彼方から、彼等の許に、やって来たと考える他はないのであった。神々は、彼等を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう。(同p.188、15行目〜)
小林先生は、真実を求めて前進する人は間違う危険を恐れてはならないと言う。それが、努力の姿であると、強く示している。先生自身の、経験から出た確信のある言葉に、圧倒される。ここでは、生半可な努力を言っているのではない。上古の大人たちの、彼らを捕らえて離さない自然の威力の「性質情状」を見極めようとした努力を言う。言霊の働きを信じて俟つ、血の滲むような努力を見せた結果、神々は、彼等を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろうと説明するのである。小林先生の使う言葉には、「躍る」にも、「努力」にも、生命の胎動、新しい知慧が生まれる脈打ちを感じる。
以上の通り、小林先生は、これまで取り上げた、「躍る」と「努力」を、学ぶことや生きることの意義に、躍動感が伝わるように使っている。これらを、段落のなかに、リズムを作るかのように置き、まるで散文詩のように構成している。読者には、二つの言葉から、古伝説の学び方がはっきりと見えてくる。本物の学びとは、今で言う主観的あるいは客観的視点という物差しに踊らされず、自らの内から生まれて来る感覚、素朴な情、あるがままの事物を素直に受け止めて、真実を追求するものである。事物と自らの直接的な対峙があり、相見えて、信じて、始まる。そこに、心が躍り、学びの厳しさや喜び、学びを押し進めようとする努力が生まれる。事物と相見えることのない学びは、形だけで、中身が伴わないものと言ってよいだろう。残念ながら、そのような学びは、人を豊かにしない。社会に還元されないし、良い未来も作らない。
私は、「小林秀雄に学ぶ塾」に入塾して、今年で四年になる。やっと学びの出発地点に立つことができたように感じる。これまで脈々と続いてきた国語の力や、古代から伝えられてきた人々の心ばえ、気立て、心遣いや気配り、風情や趣向に支えられ生きていると思うと、今使っている言葉や、振る舞いが、違って見えてくる。信じることの大切さや、責任を考えさせられる。恥ずかしい話だが、これまで、自分に、運命という言葉を使ったことがなかった。本章における小林先生の問い、「誰のものでもない自分の運命の特殊性の完璧な姿、それ自身で充実した意味を見極めて、これを真として信ずるという事は、己れの運命は天与のものという考えに向い、これを支えていなければ、不可能ではないか」には、滝に打たれるような感じがした。遅ればせながら、自らの可能性を、天与の運命と信じて生きていかなければならないと思う。今、小林先生の「本居宣長」に、出会えていることに感謝したい。
今週末で、東京の桜は散ってしまう。宣長さんは、山桜の花が好きで、山桜の歌を三百首も詠む。また、山桜の木を墓の後ろの塚に植えるよう生前に言い遺す。松坂の山桜は、これからが花の見頃となるだろう。最後に、宣長さんの歌に心を重ねて、古代に想いを馳せたい。
桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな
(同27集、p.36、12行目)
(了)