小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

減七度下行の和音の鉄杭が、硬く凍てつく永久凍土の大地に突如打ち込まれたかのように、その最後のピアノ・ソナタは始まる。「かく運命は扉を叩く」と、ベートーヴェン伝説の大家アントン・シンドラーは、ここでも同じ台詞を捏造することが許されただろう。鉄杭は、三度、打ち込まれ、やがて打ち割れた大地の裂け目からアレグロ・コン・ブリオ・エド・活き活きと速く、­アパッショナート情熱をもっての主部が流れ出す。ソナタ形式の裡にフーガを融合させながら進行するその書法は、晩年のベートーヴェンの作曲様式の典型であるが、その音楽が内に孕む楽想は、作品1-3のピアノ・トリオ以来、この作曲家が繰り返し書き続けたハ短調アレグロ・コン・ブリオの直系に連なるものであり、その掉尾を飾る音楽となった。小林秀雄が坂本忠雄氏に「あれは『早来迎』だ」と語ったはずの「後期のソナタの最終楽章」とは、このベートーヴェン最後のハ短調アレグロ・コン・ブリオに続く第二楽章、ハ長調アダージョ・ゆっくりと、­モルト・極めて­センプリーチェ・簡素に、­エ・カンタービレそして歌うようにの長大な変奏楽章であったと私は思う。実際に小林秀雄がこの楽章を指してそう呼んだというのではない。彼は大江健三郎氏に「ベートーベンの後期のソナタの最終楽章は、『来迎図』のようだ」(傍点杉本)と語ったのであるから、必ずしも一曲に限定したということではなかっただろう。しかし彼が坂本氏に言った「早来迎」という言葉の意味するところのものは、三十二曲あるベートーヴェンのピアノ・ソナタの最後のソナタのうちに、もっとも象徴的に、もっとも凝縮された形で表れているように思うのだ。私にはこのソナタはその事を、ただその一つの事だけを伝えている音楽であるようにさえ思われる。そしてその所以は、繰り返すが、このソナタの「最終楽章」が自ら表現しているというだけでなく、この第二楽章が、ベートーヴェンの数あるハ短調アレグロ・コン・ブリオのために書かれた「最後の最終楽章」であったという事実にあると思うのである。それは、この作曲家が自身の「宿命の主調低音」をまたしても掻き鳴らしつつ、これを遂に解決し終えたところの最終楽章であった。すなわちベートーヴェンの三十二番ソナタとは、「彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて」(「モオツァルト」)、この作曲家が自ら克明に描いてみせた音楽であった。小林秀雄はおそらく、そう聴いたのではないか。

ベートーヴェンのハ短調、とりわけこの調性がアレグロの速度と生気をもって突き進む時に表出される或る特殊な調べについては既に触れたが、この事実をベートーヴェン自身がどのように自覚していたのか、そのことを自ら語った言葉が残されているのかどうか、寡聞にして私は知らない。「ベートーヴェンのハ短調」を語る人は多いが、というよりもそのことに触れないベートーヴェン論というものは考えられないくらいだが、それをベートーヴェン自身の言葉によって傍証した文章をかつて読んだことがないのである。「ベートーヴェンのハ短調」に通底する或る特殊性とは、あくまでもこの作曲家が残した数々のハ短調アレグロの音楽が聞く者に直接与え、示唆するところの心的印象に根拠を持つものであり、しかもこの印象は、ベートーヴェンを聞くおそらくほとんどの人に伝達され共有し得るものであることから、論者はその特殊性については論証も実証も必要としない、ただ「この作曲家にとってハ短調は特別な調性であった」と言えば皆が納得してしまう、という体のものなのかもしれない。

ただし、次のことは知っておく必要があるだろう。シンドラーによれば、ベートーヴェンの蔵書の中には調性格論の古典であるクリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルトの「音楽美学の理念」があり、ベートーヴェンは他の音楽家にもこの書を勧めていたというのである。シンドラーのベートーヴェン伝には、このテーマについて詩人兼作曲家のフリードリヒ・アウグスト・カンネと交わした会話の内容が伝えられている。カンネは調性に内在する固有の性格を否定したのに対して、ベートーヴェンはこれを肯定し、それぞれの調性は一定した情調と関連するものであること、如何なる楽曲も移調すべからざるものであることを主張したという。シンドラーは、「それぞれの調性の特殊な性格を理由もなく否定することは、ベートーヴェンにとっては潮の干満に対する太陽と月の影響を否定するようなものであった」とまで書いている。もっともベートーヴェンは、シューバルトが長短二十四の調性についてそれぞれ規定した性格そのものを全面的に肯定したわけではなかったようだが、他にもたとえば、若い頃に熱中していた詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックの偉大さを「マエストーゾ荘厳に、変ニ長調」と言い表したことが音楽評論家フリードリヒ・ロホリッツからの手紙に伝えられているなど、少なくともベートーヴェンが作曲するにあたって調性を決定する時、その調自体が孕む「特殊な性格」が明確に意識されていたことは確かなようである。ちなみにシューバルトの定義によれば、ハ短調という調性には「愛の宣言であると同時に、不幸な愛の嘆き。愛に酔った魂のすべての苦しみ、憧れ、ため息」があるとされる。

このシューバルトの性格規定がベートーヴェンのハ短調にそのまま当て嵌まるかどうか、それはひとえにここにいう「愛」をどう捉えるかに依ると思われるのだが、今はその議論は措こう。それよりも、この調性がベートーヴェンによって実際にどのように取り上げられてきたのか、その軌跡を辿っておきたいのである。実はベートーヴェンという作曲家は、ハ短調というこの彼にとって特別であったらしい調性を生涯を通じて間断なく取り上げていたわけではないのである。そこには一つの、はっきりとした断絶があった。

 

 

ベートーヴェンの四十余年に及ぶ作曲家としての創作生涯において、最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」が現れるのは作品1-3のピアノ・トリオであることは既にお話ししたが、「ベートーヴェンのハ短調」ということでは、それよりもさらに十年以上遡ることになる。現存するこの作曲家の最初の作品であり、初めて世に出版された曲に、この調性が与えられているのである。十二歳になる年に作曲されたと推定される「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲」がそれである。

変奏曲であるから、主題の調性がそのまま曲の主調を決定することになるわけで、主題そのものはドイツ・リートの作曲家でありテノール歌手としても活躍したエルンスト・クリストフ・ドレスラーによるものである。この頃、少年ベートーヴェンはクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事して本格的な作曲の勉強に取り組んでいた時期であった。ドレスラーのハ短調主題はしたがって、ベートーヴェン自身が選択したものではなく、ネーフェが課題として与えたものであったことも考えられる。しかし仮にそうであったとしても、この曲以前にも作曲の習作は数多く行われていたと考えられており、その中で初めて出版するに値する曲となった音楽の調性がハ短調であったという事実、さらにはその最終変奏が、第五シンフォニーおよび三十二番ソナタと同様ハ長調で結ばれているという事実は、象徴的あるいは暗示的という言葉だけでは片付けられないような強く明確な意志をそこに―それが少年ベートーヴェンにどこまで自覚されたものであったのかはともかくとして―感じざるを得ないのである。少なくともこのベートーヴェン最初の音楽作品には、たとえばモーツァルトが八歳で書いた最初のシンフォニーにこの作曲家の個性の何たるかを見るよりも、ベートーヴェンという音楽家の無二の個性が紛うことなく現れているように思う。なおネーフェは、翌一七八三年三月二日号の「音楽雑誌」にルポルタージュを寄稿し、ベートーヴェンがこの変奏曲を自分の指導のもと出版したことを伝えているが、「必ずや第二のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるだろう」という有名な予言は、その記事の中に記されている。

その後十年あまりの間にベートーヴェンは五十曲ほどの習作を作曲し、そのほとんど全ては当時の慣習にしたがって長調で書かれているが、そのうち短調で作曲された数少ない例外のうちの一つに、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーの詩に作曲したリートがあり(WoO 118)、その冒頭のレシタティーヴォがやはりハ短調で書かれている。十四から十五歳になる年に作曲されたもので、タイトルは、「愛されない男のため息―応えてくれる愛」だ。ビュルガーの歌詞を写してみよう。

 

[レシタティーヴォ] 汝はすべての生けるものに愛を与えなかったのか、わが母よ、自然よ?

[アンダンティーノ] 木々も苔も愛で結ばれているのに私には応えてくれる愛がない。

[応える愛] あなたが私を思ってくれることがわかったなら、わが身は燃え尽きるだろう。

 

この音楽を、ハ短調とは「愛の宣言であると同時に、不幸な愛の嘆き。愛に酔った魂のすべての苦しみ、憧れ、ため息」というシューバルトの性格定義を裏付ける例証の一つと考えるかどうかは聞く人の自由だが、ベートーヴェンがシューバルトの調性格論のうち意見を異にしたのは長音階に関するもので、短調のそれについては特に異議を唱えなかったらしいことは付け加えておこう。だがそれよりも重要なのは、このリートの[応える愛]からの旋律が、後に作品80の「合唱幻想曲」(ハ短調)に用いられることになり、やがて第九シンフォニーのあの「歓喜に寄す」の主題旋律へと育って行く―少なくともその最初の萌芽であることを予感させる旋律となっている、という事実である。

さてベートーヴェンの作曲歴の中で、このリートの次に生まれたハ短調が、すでにお話ししたこの作曲家がはじめて書いた「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」であり、ベートーヴェンが最初の作品番号を与えた(ベートーヴェンは自分の作品の作品番号を自ら管理した最初の作曲家であった)三曲のピアノ・トリオ中の一曲であった。作曲されたのは二十三から二十五歳になる年にかけてのことである。作曲が開始される前年の十一月、ベートーヴェンは生まれ故郷であるボンでの宮廷楽師の職務を一年間の約束で休職し、ハイドンの教えを受けるためにウィーンへ留学した。モーツァルトがこの都で亡くなった一年後のことである。そして以後、二度と故郷の地を踏むことはなかったが、そのウィーン到着の翌月、父ヨハンがボンで死去している。最愛の母マリアは、十六歳の時にすでに喪っていた。二十二歳のベートーヴェンは一家の長として二人の弟の面倒を見なければならない立場となるが、最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」は、そのベートーヴェンの独立独歩の生涯の始まりに際して生み落とされたのである。

このハ短調ピアノ・トリオがハイドンの前で初演された時のエピソードについては既に触れたが、その時のあらましをベートーヴェンの弟子フェルデナント・リースの覚書によってあらためて伝えておこう。

 

作品一として出版されようとしていた、ベートーヴェンの最初の三重奏曲三曲は、リヒノフスキー候邸の夜会ソワレで、芸術界に紹介される計画となった。音楽家と音楽愛好家のほとんど、とくに、一同がその意見を聞きたがっていたハイドンが招待された。三重奏が演奏されるや、ただちに異常な注目を集めた。ハイドンもそれらについて、いろいろの賛辞を呈したが、三番目のハ短調は出版しないようにと忠告した。その三重奏のうち、ベートーヴェンは第三曲を最上と考えていたし、やはり一ばん喜ばれ、効果も最高であったから、彼もこれにはおどろいてしまった。そんなわけで、ハイドンの批評に悪い印象を受けたベートーヴェンは、ハイドンが自分をうらやみ、ねたみ、好意をもっていないのだと考えてしまうようになった。ベートーヴェンがこれを私に語ったときは、ほとんど信じられなかったことを告白する。それで私は、おりをみてハイドン自身にそれをたずねた。ところが彼の答は、ベートーヴェンの言葉を確証した。公衆がこの三重奏曲を、あのように早く、また容易に理解したり、好意的に受け入れたりするとは思わなかった、というのが彼の言であった」(アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」大築邦雄訳より)

 

小林秀雄は「モオツァルト」の冒頭章で、メンデルスゾーンがピアノで弾いて聞かせたベートーヴェンのハ短調シンフォニーの第一楽章に動揺するゲーテと、ワーグナーの音楽を熱愛しながらやがてそこに「ワグネリアンの頽廃」を聞き分け、執拗な攻撃を行ったニーチェとの間に「深いアナロジイ」を見たが、ベートーヴェン壮年期のハ短調シンフォニーに苛立つ八十歳のゲーテと、青年ベートーヴェンのハ短調トリオを受け入れようとしなかった六十過ぎのハイドンとの間にも、もう一つのアナロジーを見出すことができるのではないだろうか。古典主義者ゲーテと古典派ハインドを単純に引き比べようというのではないが、二人の老作家が若きベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオに聞き分け、驚きと恐れを感じながらある種の拒否反応を示したところのものは同じであったように思われるのである。昭和六年、日本で翻訳出版された二つ目のベートーヴェン伝であるパウル・ベッカーの「ベエトオヴェン」はそのことを示唆したもので、河上徹太郎が翻訳した同じ著者の「西洋音楽史」を愛読した小林秀雄も、「モオツァルト」の執筆に際して手に取った文献の一つであったはずだが、ベッカーはこのピアノ・トリオ初演時のエピソードを紹介しながら、次のように述べている。

 

ハイドンの周知の率直と高潔とは、彼がベエトオヴェンを嫉妬したということを著しくあり得べからざることにするが、これに反して、ハ短調の曲が彼を驚かしたことと、彼がそれの出版を不遜と考えたことは甚だありそうなことである。後年ゲエテが気づいた、そして穏やかな不同意を以て気づいたベエトオヴェンの個性のうちにある「無拘束」な或物は、技巧的に円熟した大規模に設計された作品のうちに初めて現われた。そして、これは驚愕と懸念とを以てハイドンの心を満たし得たことであったろう。ハイドンは六十歳であった。そして、赤裸々な感情のこの奔放な表現の魅力を、また伝統的な拘束及び制限に対してのこの反抗を感ずる一つの新時代がベエトオヴェンと共に育っていた事実を看過した。彼は霊魂の内密のこの暴露のうちに、知的な未熟の徴候を、彼の趣味と思考の習慣とに対して不快な或物を見た。(大田黒元雄訳)

 

「モオツァルト」の読者なら、このベッカーの一節に続けて、ハイドンは「のベエトオヴェンの音楽に、異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇を聞き分けなかったであろうか」という「モオツァルト」第一章の言葉を思い出さずにはいられないはずである。ベッカーはその「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」たるハ短調ピアノ・トリオを「自己のものたるべき新領土への最初の決定的な打開」と評したが、小林秀雄はそれを「自分(ベートーヴェン)の撒いた種」と呼んだのだと言える。

この最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」を発表した後、ベートーヴェンは同じく数曲一組の楽曲セットに一曲だけ短調の音楽を挿入し、これをハ短調で書くということを、さらに二度繰り返した。一つがその二年後、二十七から二十八歳になる年にかけて作曲された弦楽三重奏(作品9-3)であり、もう一つが二十八から三十歳になる年に書かれた弦楽四重奏(作品18-4)―小林秀雄が「ベートーヴェンの作品十八、彼のトーンはあそこでもう決定している」(鼎談「文学と人生」)と語ったときに名指していたはずの一曲―である。弦楽トリオはピアノ・トリオと同様三曲一組の中の一曲、弦楽カルテットの方は六曲一組の中の一曲である。いずれも「アレグロ・コン・ブリオ」の指定を直接与えられた楽章を持つわけではないが、両曲の第一楽章アレグロは紛うかたなき「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の系譜に属する音楽である。

このうち弦楽四重奏というジャンルは、ベートーヴェンにとっては交響曲、ピアノ・ソナタと並んで最重要な楽曲領域であり、この作曲家が生涯の最後に完成させた音楽もまた弦楽四重奏であった。作品18はその最初の、満を持しての作品群である。しかもこのジャンルは、交響曲とともにハイドンが完成させたジャンルであった。ベートーヴェンが作品18の全六曲を完成し終えた時点で、ハイドンは六十八曲に及ぶ全カルテットをすでに発表しており(編曲や偽作を含めれば八十曲を超える)、この作曲領域は言わばハイドンのホームグラウンドのようなものであった。その師ハイドンが創り上げた弦楽四重奏の傑作佳作の森の中で初めて自分の作品を世に問うにあたって、ベートーヴェンは師の音楽から十二分に教わり、奪えるものは存分に奪い尽くした上で、その中に一曲、自ら「最上」と考える作品を、かつて師に否定された「ハ短調」の調べをもって添えたのである。作品1とは違い、ベートーヴェン自身がこのハ短調カルテットを六曲中の「最上」と考えたという記録があるわけではないが、この一曲がそれ以外のカルテットに比べて圧倒的な異彩を放っていることは疑いなく、そこにはベッカーの言う「赤裸々な感情のこの奔放な表現の魅力」が横溢し、「霊魂の内密の暴露」がより劇的かつ精緻に行われている。ベートーヴェンにとって作品1の「最上」がハ短調ピアノ・トリオであったのなら、作品18についてもこの作曲家にとっての「最上」は間違いなくハ短調カルテットであっただろう。一方、これも作品9の「最上」と言っていいハ短調弦楽トリオについても、二十年後、さる「篤志家」が編曲したものをベートーヴェン自身が大幅に手を入れ直し、作品104の弦楽五重奏として出版していることを付記してしておきたい。

この他、ベートーヴェンが三十歳になるまでに書いたハ短調作品としては、弦楽トリオの一年ほど前に完成されたと推定されるピアノ・ソナタ第五番がある(作品10-1)。ピアノ・ソナタは先にも述べたようにこの作曲家のもっとも重要な曲種であり、またもっとも内的な自己との対話と実験の場でもあって、初期から晩年に至るまでたゆまず作品を生み続けた唯一のジャンルであった。ベートーヴェンが書き残した三十二曲のピアノ・ソナタ(ドレスラー変奏曲の翌年に作曲された三つの「選帝侯ソナタ」など作品番号が付いていないものも含めれば三十七曲となる)には三曲のハ短調ソナタがあり、いずれも第一楽章はアレグロ・コン・ブリオの指定を持つ。作品10-1はその記念すべき最初の作品であった。

しかし私は、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の真の誕生は、この第五ピアノ・ソナタに続く2番目のハ短調ソナタによってもたらされたものであったと考える。そのソナタの直筆譜は現存しないため正確な作曲年代は不明だが、現在では作品9-3のハ短調弦楽トリオと同じ頃の作であるとされる。作品18-4のハ短調カルテットが書かれる一年前である。

小林秀雄は「モオツァルト」の中で、モーツァルトがハイドンに捧げた弦楽四重奏群の最初の一曲、二十六歳の時に作曲したK.387について、「彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまるという想いに感動を覚える」と書いているが、私は、「”Grande Sonate pathétique”(大ソナタ 悲愴)」と二十八歳のベートーヴェンが自ら命名したこの第八番ピアノ・ソナタ(作品13)、中でもその音楽の開幕とともに天から垂直に落雷するあの激烈なハ短調主和音の一撃を聞くたびに、「ベートーヴェンの真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまる」という想いに強い感動を覚えるのである。四半世紀後、三十二番ソナタの序奏において三度打ち込まれることになるあの減七度下行の鉄杭は、ここにおいて初めて古典派という永久凍土の大地を割ったのである。

(つづく)

 

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものである。

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

眩い円光から放射状に光を放つ金色の阿弥陀如来が飛雲に乗り、同じく金色に彩られた二十五体の菩薩群を従えながら、急峻な山岳を一気にすべり降りるかのように画面左上の山上から斜め四十五度の角度で急降下する。弥陀の足下には険しい山塊が切り立ち、その峡谷を川が流れ滝が落ち、満開の桜と思しき木々が山間の其方此方に点景されている。流れ渦巻く雲の上では菩薩たちが、笙、箏、琵琶を奏で、舞を舞っているが、飛雲の先鋒となって蓮台を捧げ跪く観音菩薩は、その先の屋形内に端座する一人の念仏行者を、今まさに迎え入れようとしている

嘗て小林秀雄が坂本忠雄氏に、ベートーヴェンの晩年の作品、あれは「早来迎」だと語った時、小林秀雄は、知恩院所蔵のこの「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を思い浮かべていたに違いない、と、私はこの講話の冒頭でお話しした。ところがそのことをまた坂本忠雄氏も直覚されていたのではないかという事実に、迂闊ながら、そして大変遺憾なことながら、氏が亡くなられた後になってはじめて気がついた。まず小林秀雄のこの言葉が最初に活字になったのは、前にも述べた高橋英夫氏の「疾走するモーツァルト」であるが、その終章で、高橋氏は坂本氏とのやり取りを次のように伝えている。

 

「(S氏)西洋人には、時々ああいうすごいのが出るのだ、とおっしゃってたですね(杉本注:小林秀雄がベートーヴェンを『通俗の天才』だと評したことを踏まえての発言)。また、それとどうつながるのか咄嗟には分かりませんが、ベートーヴェンの晩年の作品について、あれは『早来迎』だ、と言われたのを憶えてます。どういうことなのか、折口信夫の『死者の書』にえがかれている阿弥陀仏の山越しの『来迎』なんかをすぐ連想するわけですが、それは『来迎』ですね。『早来迎』という言葉もあるのでしょうか」

「(高橋)初めて聞きましたが、きっとあるのでしょうね。つまり何か決定的な来迎の一瞬が予告的に、迅速に発現するというのでしょうか」

「(S氏)ただ、晩年のベートーヴェンが焦っている、というニュアンスの発言ではなかったですね」

 

この文章が発表されたのは「新潮」昭和六十一年六月号で、小林秀雄が亡くなった三年後である。この時には、坂本氏にも高橋氏にも「早来迎」の具体的なモデルはなかったようだ。

しかしそれから二十七年経った二〇一三年、小林秀雄の没後三十年にあたる年の「芸術新潮」二月号に、坂本氏は「初めに音楽ありき 小林さんと聴いたクラシック」という一文を寄せ、この「早来迎」についてあらためて自ら書き記した。ここでも氏は、小林秀雄が「ベートーヴェンは通俗の天才だ」と語ったことに感銘したことを言い、続けて次のように書いている。

 

また晩年の小林さんは「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる。早来迎だよ」とも言っていた。ベートーヴェンが死を見据えながら紡ぎ出した最晩年の曲を、如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図に比する自在さには驚いた。

 

「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」とは、ベートーヴェンの楽曲構造の特徴として言ったものなのか、それともこの作曲家の生涯の「終わりになると」の意味で、つまり晩年のベートーヴェンの音楽の特徴として言ったのか、仮に前者として捉えれば、全曲が終楽章に向かって、あるいは終楽章のコーダに向かって「しだいに早くなる」のはベートーヴェンの初期から後期に至るまでの多くの作品に見られる特徴であり、その傾向はむしろ若い頃の音楽の方が強いとも言える。一方、後者の意味であったとしても、後期の音楽が前期の音楽よりもテンポが速くなっているということはなく、これも敢えて言うなら逆と言った方がいいかもしれない。しかし坂本氏は、この小林秀雄の言葉を「ベートーヴェンが死を見据えながら紡ぎ出した最晩年の曲」に対する言葉として受け取り、その「早来迎」を「如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図」と表現した。このときも氏は、折口信夫の「死者の書」のモチーフにもなった「山越阿弥陀図」を連想していたのか、あるいは他の来迎図のイメージが脳裡にあったのか、今となっては確かめるすべはない。ただ昨年の春、この講話の第一回を氏にお送りした時、お返事を頂き、そこには「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は何れ誰かが書かねばならぬテーマであること、それを先生の「早来迎」から書き始め、知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」だと具体的に言われたことに感銘した、と書いてくださっていたから、上掲の一節を書いたときには、氏には知恩院の「早来迎」のイメージはなかったものと思われた。

ところが先般、氏の訃報に接し、あらためてこの一文を読み返していたところ、「如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図」という一節が、知恩院の「早来迎」を示唆する以外の何物でもないように思われて来た。少なくともそれは、「山越阿弥陀図」よりも知恩院の来迎図のイメージに近い。そう思わせた所以は、氏が書かれた「雲の尾を長く引いて」という描写もさることながら(ただし弥陀や菩薩が乗る飛雲の棚引く様子そのものは、たとえば折口信夫が「山越しの阿弥陀像の画因」で称賛した禅林寺の「山越阿弥陀図」などにも見える)、何よりも「死を前にした人間を急いで迎えに来る」というその来迎の速度感の表現にあった。おそらく氏は、それを知恩院の「早来迎」というモデルを介さずに小林秀雄の言葉から直接感知していたに違いない。さらに言えば、それはすでに「疾走するモーツァルト」で高橋英夫氏が言われた「何か決定的な来迎の一瞬が予告的に、迅速に発現する」というイメージによって示唆されていたものでもあった。それがはじめて、知恩院の「早来迎」という現実の図像と結びついたことで、氏の中に「感銘」が生じたということであったのだろう。ちなみに氏からの手紙には「非常に具体的に」と書かれていたのだが、氏にとって具体的だったのは私の論ではなく「阿弥陀二十五菩薩来迎図」のvisionそのものであったのだ。

もともと「観無量寿経」には、阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩が多くの従者を引き連れて念仏行者のもとに現れ、来迎を告げるやいなや、あっという間に極楽浄土へ往生させる様が説かれている。その往生の「早さ」をもっとも見事に視覚化したのが、知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」なのであり、それが数ある来迎図の中でこの図が「早来迎」の名で親しまれるようになった所以でもあった。その「早来迎」を、小林秀雄は晩年のベートーヴェンの音楽に聞き取っていたのである。「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」と語られたその「テンポ」とは、したがって、ベートーヴェンの音楽における単に物理的な(ということはまた、という意味でもあるが)「テンポがしだいに早くなる」様だけを言ったわけではなかっただろう。晩年のベートーヴェンの音楽が、往生を願う者を救う、その救助の「早さ」を言ったということであっただろう。

一方、八十歳のゲーテを震駭させた「壮年期のベエトオヴェンの音楽」は、この作曲家が三十七歳から三十八歳の年にかけて書いたシンフォニーであった。その最終楽章は、文字通り「終りになるとテンポがしだいに早くなる」音楽の最たるものである。天馬空を行くが如きアレグロで疾駆するその楽章は、コーダにおいてはプレストとなり、凄まじい勢いで加速しながらハ長調の堂々たるカデンツをもって幕を下ろす。この「終り」もまた、ある種の自己救助の音楽であり、往生を遂げた者の音楽であると言って間違いではないだろう。それはあの「運命の動機」によって開始される嵐のような第一楽章、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」というこの作曲家の「宿命の主調低音」に対する一つの解決であり、言わばその「運命の喉首を締め上げてみせた」結果勝ち取られた勝利の凱歌であった。ここでもベートーヴェンは、自分の撒いた種をたしかに刈り取ったと言える。しかし小林秀雄が「モオツァルト」の第一章に挿入した一行―「彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて、恐らくゲエテは全く無関心であった」というその「孤独」と「救助」―小林秀雄の「ベエトオヴェン」においてはもっとも関心が深かったはずのそれは、この作曲家が第五シンフォニーにおいて辿り、成就したものとは決定的に「具合」の異なるものであった。それはあくまでも、ベートーヴェンが「晩年」になってはじめて分け入り、成し遂げたところのものであったのだ。

小林秀雄がベートーヴェンの晩年の作品を「早来迎」だと語ったことについては、実はもう一人、証言者がいる。大江健三郎である。小林秀雄が亡くなった時の「新潮」追悼記念号に寄せた一文で、大江氏は、「小林氏はベートーベンの後期のソナタの最終楽章は、みな『来迎図』のようだ、といわれた」と記しているのだ(「『運動』のカテゴリー」)。大江氏は「早来迎」ではなく「来迎図」と書いている。しかし大江氏が回想しているのは、他ならぬ坂本忠雄氏とともに小林邸を訪れたときのエピソードなのである。坂本氏は、小林秀雄とはベートーヴェンの器楽曲をよく一緒に聴いたと回想していたが(「小林秀雄と河上徹太郎」)、このときも、小林秀雄は自宅のステレオ装置でソロモンの弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタのレコードを大江氏に聞かせたという。無論、それは「後期のソナタ」であっただろう。そして坂本氏が小林秀雄から「あれは『早来迎』だ」と聞いたというのも、おそらくはこの時だったに違いない。ということはまた、小林秀雄が氏に語った「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」というその「終り」は、「後期のソナタの最終楽章」のことだったということになる。

「後期のソナタ」とは、一般にはベートーヴェンが四十五歳から五十二歳になる年までに作曲した作品一〇一、一〇六、一〇九、一一〇、一一一の五つのピアノ・ソナタを指す。しかし「来迎図のような最終楽章」を持つ後期のソナタということになれば、それは五つのソナタの中でも特に作品一〇九、一一〇、一一一の最後の三つのソナタということになるだろう。この三曲は、いずれも「ミサ・ソレムニス」という大作の作曲の狭間に生み落とされたもので、後期五曲のかけ替えのない星座の中でも、さらにもう一つの、最奥の星座を形成するソナタ群である。そのうち作品一〇九と一一一の終楽章は、ベートーヴェンが若い頃から得意にした変奏曲で書かれており、一方、作品一一〇は長い助奏を持つフーガである。これらの「最終楽章」は、いずれも第五シンフォニーのようなアレグロあるいはプレストで邁進する勇ましい音楽ではない。アンダンテあるいはアダージョを基調とする緩徐楽章である。しかもその静謐な音楽の歩みの中で、「終りになるとテンポがしだいに早くなる」のである。

小林秀雄が坂本忠雄氏に語った「早」さの秘密は、これら三つの「最終楽章」を聴くことによって明らかとなる。その「孤独」と「救助」の実相は、第五シンフォニーの最終楽章におけるそれとは確かに「具合」の異なるものであった。これらのソナタにおいては、「孤独」はもはや嘆かれるべきものでも、そこからの脱出を試みるべきものでも、これと闘って打ち克つべき相手でもない。言わば「孤独」であるという厳然たる人間的事実の真率な承引が、同時に自己以外の人間存在の全的な容認ともなり、それが自ずと自己自身の最善の「救助」となるような、どこまでも澄んだ、優しい、開かれた救いの歌として歌われるのである。それは「人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければなかった」(「モオツァルト」)作曲家のあの「かなしさ」と同じく「早」いのだが、そしてまた同様「涙の裡に玩弄するには美しすぎる」のだが、その「早」さと「美」しさは、決して僕らを置き去りにして先に行きはしない。金色の阿弥陀如来が飛雲に乗って山上から降り来たり、僕らの「涙」を拭って一瞬のうちに往生させるように、僕らの全身全霊を包摂しながらあっという間に彼方へと連れ去ってしまう。その彼方が何処なのかは、おそらく誰も知らない。しかしこの「早来迎」が、人間には「人生の無常迅速」を超える力が確かにあるという事実を僕らに知らしめ、証明する音楽であることは確かなのではあるまいか。

勿論、このベートーヴェン晩年の「孤独」と「救助」は、この最後の三つのソナタの最終楽章だけに現れるものではなく、たとえば作品一〇九のヴィヴァーチェにも、一一〇のモデラート・カンタービレにも、あるいは一〇六、「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の巨大なアダージョ楽章にも見出せるものである。さらに言えば、後期のピアノ・ソナタ群の後に書かれた、この作曲家最晩年の弦楽四重奏曲群にも聞き取ることができるはずのものである。敢えてそれをどの曲のどの楽章と特定する必要はないのかもしれない。それよりも「後期のソナタ」の全体が、あるいはベートーヴェンの晩年の音楽の全容が、一つの来迎を告げる音楽なのだと考える方が自然かもしれない。

しかし私は、この講話の冒頭でお話しした通り、小林秀雄が「あれは『早来迎』だ」と語った音楽を、敢えて一曲のピアノ・ソナタに限定しようと思うのである。それは、第五シンフォニーの最終楽章と同じく、ハ長調の調べをもって救助されるソナタであったと。すなわち小林秀雄が語った「早来迎」とは、ベートーヴェンの三十二曲のピアノ・ソナタの最後を締め括る、あの長大な変奏曲、アダージョ・モルト・センプリーチェ・エ・カンタービレであったと私は思う。この不世出の批評家が、もしも「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼はおそらくこの一曲を選択し、「モオツァルト」にト短調クインテットのアレグロ主題を掲げたように、その最終楽章のアリエッタ主題を掲げたに違いない。そしてこの最後のピアノ・ソナタの最終楽章が「早来迎」であることの真の所以は、何よりもそれが、調ための最終楽章であるところにあったと思うのだ。

そのことを予感したのは、しかし私だけではなかった。坂本忠雄氏もまた、小林秀雄が語った「早来迎」をこのソナタの裡に見出していた。先に引用した「初めに音楽ありき」の一節に続けて、氏もまた書いている、「私は、永年愛聴する二楽章しかなく、緩急が自在に交錯する最後のピアノ・ソナタ第三十二番にもそれを感得する」と。

(つづく)

 

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものである。

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

先日、小林秀雄の最後の書籍担当編集者であり本誌前編集長でもある池田雅延さんからお電話があり、このような質問を受けました―西洋音楽史の絶頂は、どのあたりにあるのでしょうか? 池田さんは、現在塾頭を務めておられる「小林秀雄に学ぶ塾」の場で、塾生の一人である斎藤清孝さんから次のように問いかけられたといいます、「日本の和歌史は『新古今集』で絶頂に達したと本居宣長は言っている、と小林先生は書かれていますね、そういう意味合で言うと、西洋音楽史の絶頂はどのあたりになるのでしょうね」。池田さん自身、斎藤さんに問われるまではそのことを思い描いてみたことすらなかったが、問われてみればなるほどと思い、私に質問してみようと思い立ったのだそうです。

小林秀雄の「本居宣長」第二十一章には、宣長の「あしわけ小船」から引用しながら次のように記されています。

 

宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ」「歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。

 

斎藤さんと池田さんは、宣長が「至極セル処」と言ったところを「絶頂」という言葉に換えて私に問われたのですが、お二人が問われたその「西洋音楽史の絶頂」はしかし、単にヨーロッパの音楽の歴史の中でどの時代の音楽がもっとも優れたものかという意味合での「絶頂」ではなかっただろうと思います。というのは、宣長が言った「至極セル処」とは、そのような意味合での「絶頂」では必ずしもなかったからです。少なくとも小林秀雄は「本居宣長」の中で、この宣長の断定をそのようには受け取りませんでした。

彼に言わせれば、宣長の「新古今」尊重とは、たとえば賀茂真淵がこの歌集を「手弱女のすがた」と軽蔑しつつ「万葉集」を「ますらをの手ぶり」と褒め称えたような意味での、歌の巧拙やその表現性に関する善悪の主張ではなかった。それは、歌とは「人情風俗ニツレテ、変易スル」という、和歌に対する宣長の「歴史感覚」の上に立つものであった。「此道ノ至極セル処」とは、情と詞とが求めずして均衡を得ていた幸運な「万葉」の時代から、情詞ともに意識的に求めねばならぬ「新古今」の頂に登り詰めた事を言うのであり、登り詰めたなら下る他はない、そういうたった一度限り和歌史に現れた「姿」を言う。宣長は、この姿は超え難いと言ったので、完全だと言ったのではない。「歌ノ変易」だけが「歌ノ本然」であるとした宣長に、「歌の完成完結」というような考えの入り込む余地はなかった―と、「本居宣長」第二十一章には大要そう述べられています。

しかし私は、宣長がそもそもどういう意味合でこのような断定を下したのか、またそれを小林秀雄はどう受けとめたのかという問題とは別に、斎藤さんと池田さんが口にされた「西洋音楽史の絶頂」という言葉にひどく心の沸き立つものを覚えました。そこで、私は私の思惑をもって、お二人のこの問いにお答えすることにしたのです。

まず、この「西洋音楽史の絶頂」を、たとえば「現在コンサートやレコーディングのレパートリーとしてもっとも人気があり、盛んに演奏されている時代の音楽」という至極平俗な意味に解するとすれば、それは十九世紀を中心に生み出された、広い意味でのロマン主義の音楽ということになるだろうと思います。作曲家で言えば、ベートーヴェンから始まって、シューベルト、シューマン、ショパン、ワーグナーを経て、ブラームスやマーラーあたりに至るまでの音楽です。すでにお話ししたように、ゲーテはこの芸術運動の未来を非常に憂いたわけですが、結果として、この時代に隆盛を極めたゲーテ言うところの「主観的」な音楽が、未だに多くの人々の心を掴み続けていることは事実です。

あるいはその「絶頂」をもう少し広く捉えるならば、バッハとヘンデル、後にハイドンとモーツァルトが活躍した十八世紀から、二十世紀に入ってシェーンベルクが十二音技法を発明し、それまでの調性音楽を完全に崩壊させながら、一方リヒャルト・シュトラウスが調性の名残を惜しむかのような音楽を書き続けた同世紀半ばくらいまでの、およそ二百五十年の間に生み出された音楽ということになるでしょう。太古の昔から、人類は音楽というものを生み出し続けてきた生き物ですが、ヨーロッパの長い音楽の歴史において、この二百五十年は、まさに「絶頂」と呼んで差し支えのない黄金時代であったと言えます。そしてまた、この「絶頂」たる事実は、今後も人間の聴覚機能が突然変異を起こしでもしない限り、永久不変のものであるようにさえ思われます。現代の作曲家や、音楽に対して進歩的な考えをお持ちの方は、無論反論なさるだろうが、多くのクラシック音楽ファンの、まずはこれが一般的な認識だろうと思います。というよりも、ヨーロッパにおけるこの二百五十年の黄金時代の音楽を、我々は「クラシック音楽」と呼んで楽しんでいる、というべきかもしれません。

ところで次に、この「西洋音楽史の絶頂」を、「西洋音楽史上もっとも優れた、もっとも偉大な作曲家」と捉えてみればどうだろう。これは、おそらくクラシック音楽がお好きな方なら誰でも一度は自分に問うてみたことがあるはずの問いです。そしてその問いに対しては、それぞれ何らかの回答をお持ちでしょう。たとえば、それはベートーヴェンだと答える人は世界中にかなりの数おられるはずです。あるいは、ベートーヴェンは確かに優れた曲、偉大な曲も多いが、つまらない曲も案外たくさん書いている、優れたというならモーツァルトの方がより完璧だ、と反論する人もあるかもしれない。あるいはまた、偉大というなら音楽の父ヨハン・セバスティアン・バッハである、ベートーヴェンも言ったように、バッハは小川(BACH)ではなく海(MER)なのだから、と答える人も多いことでしょう。それともあなたは、「そもそもその問いは無意味である。音楽史上に優れた、偉大な作曲家は数多く存在し、その優劣を決めることなどできないからだ」とお答えになるでしょうか。もしかしたら、この最後の良識ある答えをお持ちの方が一番多いかもしれません。

私は池田さんに、「西洋音楽史の絶頂はどこにあるのか」と最初に問われた時、良識ある音楽ファンなら愚問と受け取りかねない問いとして、すなわち「西洋音楽史上もっとも優れた、もっとも偉大な作曲家は誰か」という問いとして受けとめました。なぜなら、私にとってその問いは決して愚問ではないばかりか極めて深刻な問いであり、かつその答えは、自分の中にもうずいぶん以前から不動のものとして居座り続けているからです。私は池田さんに、これはあくまで私一個の考えですがとお断りした上で、「それはバッハと、モーツァルトと、ベートーヴェンの三人です」とお答えしました。無論私にも多少の良識は備わっているから、作曲家の優劣を決めることなどできないし無意味であるという考えは了解できる。実際、この三人の中で誰が一番かという話になれば、それは絶対に答えられぬと断言するでしょう。またたとえば、ヘンデルはバッハよりも、ハイドンはモーツァルトよりも、シューベルトはベートーヴェンよりも劣っている、などということが言いたいわけではない。ただ、気がつけばすでに半世紀に及ぼうとしている自分の音楽経験の偽りない実感に即していえば、この三人の音楽は、これをきくたびに、ヨーロッパが生み出したすべての音楽の「至極セル処ニテ、此上ナシ」と言えるものである、それはまさに「西洋音楽史の絶頂」であると、躊躇なく言えるものが確かにあるのです。

さらに言えば、私は池田さんには「これはあくまで私一個の考えですが」とお断りしたが、実のところ決して自分一個の独断ではないとも思っている。事実、クラシック音楽は何と言ってもこの三人に尽きると考える人は私だけではないでしょう。やれそれはベートーヴェンだ、いやモーツァルトだと言いはじめると途端に意見は分かれるのだが、この三人を並べれば、まず大抵の人は納得するのではないか。あえてそうは断言しない良識ある人の多くも、まあ君がそう言いたくなる気持ちはわかるよ、くらいには許容してくれるだろうと思います。ですから、「西洋音楽史の絶頂」が本当にバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であるか否かの議論は今日はしないことにして、いま考えたいのは、なぜ、その「絶頂」がバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人にあると言えるのか、ということです。あるいはなぜ、多くの人はこの三人の音楽に「絶頂」をききとるのか。

おそらく、この問いに十全に答えられる人は今までもいなかったし、これから先も現れないに違いない。少なくとも西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると確信していない人に対して、そのことをいくら説いてみても納得させることはできないでしょう。理由は簡単で、音楽の偉大さは理解するものではなく、感じることしかできないものだからです。私もそのことを、実感としてそう感じない人に説いて説得しようなどと思ったことは一度もない。それこそ無意味です。しかしながら、西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると躊躇なく言ってしまう自分自身に対しては、なぜ自分がそう思うのかを自分に納得させたいとは長い間思ってきました。そして若い頃には、そこに様々な理屈をつけようとしたものだが、齢五十も過ぎたこの頃では、この難解な問いに対して、自分でもあっけないと思うくらいの素朴な解決をつけるようになった。それは、そもそも音楽とは何かという問いをごく素朴に考えるようになったということでもあるのですが、音楽とは、私は結局人間の感情を伝えるものであると思う。そして、様々ある人間感情のうち、もっとも尊い感情を伝えてくれる音楽が、この三人の音楽である、と、今はそう簡単に考えるようになりました。とはいえ、これでは素朴にも程があると言われるかもしれない。もう少しこのことを考えてみることにしましょう。

音楽とは人間の感情を伝えるものである、と君はいうが、自分は人間の感情を伝えるために作曲しているわけではない、と反論する作曲家はもちろんいるでしょう。実際、バッハやモーツァルトをはじめとするロマン主義以前の作曲家の多くは、必ずしも人間の感情を伝えるために音楽を書いたわけではありませんでした。少なくとも自分の感情を伝えるために書いたわけではなかったことは確かでしょう。しかし私が言いたいのは、どのような意図をもって作曲したにせよ、いったんそれが音楽として鳴らされた瞬間に、音楽というものは何らかの人間感情を伝えてしまうものであるということ、あるいは音楽をきく人間は、望むと望まざるとにかかわらずその音楽に何らかの人間感情をききとってしまうものである、ということです。いやいや、そういう耳こそ、まさにロマン主義音楽が発明したものであり、君はその呪縛から未だ逃れることができないでいるだけなのだ、という人もあるかもしれない。あるいはそうかもしれません。そしてロマン主義音楽が未だにこれだけの人気を博し、きかれ続けているというのも、音楽によって人間の感情を表現するというその発明の魅力と呪縛力のいかに絶大なものであったのかの証左かもしれません。

しかしまた、私は次のようにも考えます。音楽は、ロマン主義音楽が現れる遥か以前から、何かしらの人間感情を伝えるものであった。あるいは音楽に耳を澄ます人に対して、何かしらの人間感情を喚起するものであった。それがロマン主義に至って、作曲家たちは、その音楽の本質的な力に対して極めて自覚的になり、意識的にその力を高め、これを極限まで拡大しようとした。そしてその実験に見事成功した。その結果、音楽をきく我々も、人間感情を伝達するという音楽の本質的な力に目覚めることとなり、その虜となり、感情伝達の刺激を以前にも増して強く欲するようになった。そして必ずしも感情伝達を目的として作られたわけではなかったロマン主義以前の音楽からも、これを貪るようになったのだと。そういう意味では、我々は確かに未だロマン主義音楽の呪縛から抜けていないとも言えるが、しかしこの呪縛は、もともと音楽に本質的に備わった力である以上、呪縛が解けるということはもはやないようにも思われるのです。

そこで、音楽とは人間の感情を伝えるものだという素朴な考えはいったん受け入れていただくとして、様々ある人間感情のうちもっとも尊い感情を伝えてくれる音楽がバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であるという、そのについて考えてみたい。というのも、そのとは一体何かを問う以前に、そのように断定する人、つまり私は、人間の感情というものに対して、尊いとか、偉大なというように、一種の価値の序列を想定していることになるからです。もし私が良識ある音楽ファンだったとしたら、まずはそのことを私に問い詰めてみたいと思うことでしょう。人間の感情には、そもそもそのような価値の序列が存在し得るのかと。これは、もはや音楽の話題というより、哲学や、心理学や、あるいは道徳や宗教のテーマです。それを論証する力は私にはありません。ただ、あくまでも自分の生活感情に即して言えば、日々自分の中に生じる様々な感情、あるいは他人から受け取る様々な感情に対して、私は確かにある種の価値判断を下しながら暮らしている、ということははっきり言えるように思うのです。その感情の価値の序列は、一番、二番、三番と数えられるような単純なものでは無論ないが、そもそも人間の感情には尊い感情もあり、醜い感情もあると感じながら暮らしている時点で、すでに何らかの価値判断を下していることになりますし、同じく尊いと感じる感情の中にも、自分にはとても抱き得ないと思われるほどの至高の感情から、自分のようなつまらない人間にもごく自然に芽生え、湧き出てくる感情もある。一方、醜い人間感情のうちにも、これは確かに醜悪だが人間である以上捨て切れないと思われるものもあり、自分に対しても他人に対しても到底許容できないと思われる感情もあります。皆さんも、それは同じなのではないか。また、それは誰しも同じであると信じられなければ、私たちは一日たりともこの社会で生きて行くことはできないのではないか。そしてもしそうだとすれば、私をはじめ多くのクラシック音楽好きが、西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると断言するとき、この三人が伝えるとは、自分にとって尊いのみならず万人にとってもっとも尊い感情であると固く信じているということになります。むしろそのことへの信条が、この三人を西洋音楽史の絶頂と呼ばしめる最大の根拠だといってもいいでしょう。

ではその、とは一体何か。バッハとモーツァルトとベートーヴェンの音楽からそれぞれ伝わってくる感情は、無論同じではありません。また同じバッハの音楽でも、曲によって伝わってくる感情はそれぞれ異なるでしょう。しかし、曲によって伝わる感情の違いというものは、あくまでも表面に現れる現象の違いにすぎないのであって、バッハのあらゆる音楽を長い年月をかけてきいてきた結果として、バッハの音楽が伝える感情とは畢竟これだと直覚するということは確かにあります。あるいはバッハの音楽が伝える様々な感情の中で、はこれだと確信するということはあります。その直覚し、確信した感情を、この三人の音楽のそれぞれについて言い当てるのは至難の技だが、またそれができれば一流の批評家といえますが、バッハについていえば、たとえば最近こんな事がありました。

今年に入ってから、私が大変お世話になり、また頼りにしていた方がお二人、矢継ぎ早に亡くなられました。お二人との関係はそれぞれ異なりますが、いずれも突然の訃報であり、悲しみと喪失感の深さに変わりはありませんでした。人が集うことを規制する法令措置が敷かれる中で、葬儀に参列することも叶わず、せめてそのかわりにと思って、お二人の死を悼むための音楽会を執り行いました。音楽会とはいっても、お二人の思い出につながるレコードを、お二人とのゆかりの場所で、生前お二人と親交のあった方々と一緒にきこうという音楽会です。そのとき、私の信頼する友人が、バッハの「シャコンヌ」をかけた。ジョコンダ・デ・ヴィートのレコードでした。音楽も、演奏も、すでにこれまで何度も繰り返しきいてきたものですが、それは非常に私の心にこたえました。こたえたが、また救われたようにも感じました。そのときに、バッハの音楽とは結局すべて受難曲なのだという考えが浮かび、その「受難」という言葉が、自分が今までバッハの音楽から伝えられてきたに結びつくものだということにはっきり気づいたのです。

受難曲というのは、新約聖書の四つの福音書に基づきながら、キリストの受難の物語を扱った宗教音楽のことです。バッハには「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」という二つの大曲があり、とりわけ「マタイ受難曲」は、この一曲をもって、それこそ西洋音楽史の絶頂と呼んでいい音楽です。しかしいわゆる受難曲やミサ曲などの宗教音楽の形式をとったものでなくても、この「シャコンヌ」のような、もともとは舞曲の一形式から生まれた音楽や、たとえば平均律クラヴィーア曲集のプレリュードやフーガのような純粋な器楽曲、あるいは「G線上のアリア」のようなほとんど通俗名曲と化した世俗音楽でさえ、それらが伝える感情の本質は「受難」というものなのではないかと思ったのです。受難の感情とは言っても、ただ苦しみの感情の訴えということではありません。それはむしろ、自分以外の人間の苦しみに寄り添い、これを全面的に引き受け、包摂しようとする感情です。つまり十字架の上のキリストというあの形象そのものだが、しかし私はクリスチャンではありませんから、あの姿を宗教のシンボルとしてではなく、一つの絶対的に尊い人間感情のシンボルとして見ます。そしてあのを音楽によってもっとも真正に伝えてくれるのが、バッハの音楽だと思ったのです。

では次に、モーツァルトの音楽が我々に伝えてくれる感情とは何でありましょうか。これも、私はまだうまい言葉を所有しませんし、今後も所有できる見込みは極めて薄いが、しかしその音楽から伝わってくる感情そのものは疑いようのないもので、それは人間の愛情というものだと思います。愛情と言っても色々あるといわれるなら、無条件のいつくしみの情といってもいい。その感情に一番近いのは、おそらく母親が我が子に注ぐ愛情でありましょう。そしてこの感情もまた、自分自身に向けられたものではなく、自分以外の人間に向けられた尊い感情であるという点で、バッハの音楽が伝える感情に通じるものだと思うのです。

一方、小林秀雄はモーツァルトの音楽が伝える感情を、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と表現しました。これは素晴らしい批評の言葉です。しかしこの「かなし」も、その根源に遡れば結局は同じ感情に帰するのではないか。もともと「かなし」は、「愛し」とも書くように、同じ感情の泉から生まれて来た言葉だったに違いありません。もっとも愛しい者を失った時に、人間のかなしさはもっとも極まるからです。もともと愛情のないところに、人のかなしみも、人生の無常迅速への嘆きもないのです。おそらくはそれが、「『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい」と小林秀雄が付け加えた所以ではなかったでしょうか。事実、「モオツァルト」に書かれたその「かなし」は、モーツァルトが母アンナ・マリアを失った時のエピソードから書き出されたものでした。そして小林秀雄自身、この作品を脱稿する直前に自分の母親を失うのです。

さてそこでベートーヴェンです。私のこの講話のそもそもの眼目は、についてお話しすることであり、その感情を、おそらく小林秀雄は「早来迎はやらいごう」という言葉で言い当てたのだということを皆さんに示したいがために始めたものでした。小林秀雄が坂本忠雄さんに、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎だ」と伝えたとき、「早来迎」というその言葉に託した意味については、何も語らなかったといいます。しかしその言葉におそらくは通じると思われる言葉が、実は「モオツァルト」第一章の中に書き込まれているのです。その言葉に到達するために、これまでこの一章に描かれた二つの「デーモン」をめぐってお話ししてきたのでした。

その二つの「デーモン」が交錯する様を、すなわち「モオツァルト」の第三段落以降において、モーツァルトという「悪魔の罠」がベートーヴェンという「悪魔の罠」に突如すり替わるかのような文章の展開を、先ほど私は、実に巧妙だ、それこそ「悪魔の罠」と呼びたいほどだ、と言いました。しかしこれは、もしかしたら誤解を招く表現だったかもしれません。というのは、小林秀雄は読者を陥らせようと意図してその「罠」を仕掛けたわけではなかっただろうと思うからです。むしろ彼は、自らすすんでその「罠」に陥りたかった、その必要から、ベートーヴェンに震駭するゲーテという「底の知れない穴」をあえて掘ったとも言えるのです。

「モオツァルト」第一章に挿入されたベートーヴェンの第五シンフォニーをめぐるゲーテのエピソードは、モーツァルト論としてのこの批評作品の文脈からすれば、本来、ゲーテという狂言回しを介してモーツァルトを本舞台に上げるための呼び水であり、前口上に留まるべきものです。ここに登場するベートーヴェンという脇役は、名脇役には違いないが、あくまでもモーツァルトという主役を引き立てるために登場しなければならない、言わば当て馬のような存在です。たとえばこの当て馬ベートーヴェンを、「ベートーヴェンという典型的な近代の芸術家に対する、近代の超克としてのモーツァルト」という図式の中で登場させることもできたでしょう。いや、「モオツァルト」第一章は、ほとんどその図式を象っているかのように見えながら、小林秀雄の筆が描き出すベートーヴェンは、決してその図式の枠に収ろうとはしない、当て馬であることを自ら拒否しているのです。

そもそも「モオツァルト」の第二段落で、小林秀雄は「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」と書いていましたが、ゲーテが「心乱れた」のは、ベートーヴェンの第五シンフォニーに対してであって、「ゲーテとの対話」を読む限り、ゲーテはモーツァルトの音楽そのものには決して心乱れてはいないのです。ゲーテが心乱れたとすれば、それはラファエロやシェークスピアやモーツァルトやナポレオンといった不世出の天才たちを発明した「デーモン」に対してであり、その意味においては、「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」という小林秀雄のは、故なき想像ではないのですが、一方、そう書いた段落の直後にベートーヴェンを、しかも同じ「悪魔」の名のもとに登場させることによって、この「悪魔」が俄然別の意味を帯びることになるのです。そしてこれは、多かれ少なかれ小林秀雄が企図した文章の仕掛けの一つだったと思います。言わばこの「悪魔」は、モーツァルトとベートーヴェンとの間を往還しながら、「八十歳の大自意識家」の苛立ちの中で乱反射するのです。その仕掛けの見事さを「巧妙」であり「悪魔の罠」だと言ったのですが、しかし繰り返します、それは読者を陥らせるための仕掛けではなかった、自らが陥るための「罠」であった。

ではなぜ、そのような「罠」に自ら陥ってみせる必要が彼にはあったのか。それは、「モオツァルト」を書き出しながら、同時に彼の頭の中では、その対旋律として「ベエトオヴェン」が鳴っていたからだと私は思います。しかもその対旋律は、主旋律を引き立たせるためのオブリガート(助奏)ではなかった、「モオツァルト」という主旋律からは独立した、もう一つの、しかしついに歌われることのなかった主旋律であった。これは坂本忠雄さんが別の方から伝え聞いた話だそうですが、小林秀雄は「モオツァルト」を書いていた当時、ベートーヴェンをよくきいていたといいます。それを私の想像のアリバイに見立てるつもりはありませんが、「モオツァルト」の冒頭章を熟読する限り、この作品を書き出した当初、小林秀雄の中では、「モオツァルト」と「ベエトオヴェン」とが時に交差し、時に錯綜し、時に渾然一体となった瞬間があったことは間違いないように思われるのです。

すでにお話ししたように、ゲーテの「デーモン」とは、晩年のゲーテの宿命観、運命観の化身のような存在であった。そのゲーテの運命観が、「モーツァルトの音楽とは人間どもをからかうために悪魔が発明した」という「一風変った考え方」を生み出しました。一方、ベートーヴェンの第五シンフォニーもまた、この芸術家の宿命観、運命観がそのまま結晶したような音楽であった。しかもこの音楽がわれわれに伝える運命観は、「ベートーヴェンの音楽とは人間どもをからかうために悪魔が発明した」というような考えを断固拒否するものであった。人間どもをからかう悪魔としての運命は、ベートーヴェンにとっては、その「喉首を締め上げてみせる」べきものであったからです。ならば、第五シンフォニーに対するゲーテのあの苛立ちとは、この音楽が孕むロマン主義的なものへの拒絶であっただけでなく、自らの宿命観、運命観が、ベートーヴェンのそれと正面から衝突し、拮抗したところに生じたものだったとも言えるのではないか。そしてもし、これが「モオツァルト」ではなく「ベエトオヴェン」第一章として書かれたエピソードであったなら、小林秀雄はそのことを主題として書いたのではあるまいか。無論、これはそれこそ私の想像です。ただ、ついに書かれることのなかったそのもう一つの主旋律の断片が、「モオツァルト」第一章の行間に見つかるのです。それは、「ゲエテは、壮年期のベエトオヴェンの音楽に、異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇を聞き分けなかったであろうか」と書かれた、そのすぐ後に書き添えられた次の一節です。

 

ベエトオヴェンは、たしかに自分の撒いた種は刈りとったのだが、彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて、恐らくゲエテは全く無関心であった。

 

ゲーテが苛立ったのは、「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」というベートーヴェンが撒いた「種」に対してであった。しかし小林秀雄にとっては、ベートーヴェンという芸術家は、ゲーテが嫌悪したロマン主義の「種」を撒いただけの人ではなかった。この病的な「種」から、誰も及ばないような強靭で豊穣な大樹を生み、その果実の毒に自らあたりながら、最終的にはこれを自身の手で「刈りとった」人であった。そのベートーヴェンが晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したか。確かにゲーテは、全く無関心だったでありましょう。そしてこの事実は、「モオツァルト」第一章の主題とは直接には関係のないものなのです。しかし小林秀雄は、この一行を書き加えずにはいられなかった。彼の「ベエトオヴェン」においては、この作曲家がついに「己れを救助した」というその事実にこそ、最大の関心があったはずだからです。そしてまた、ベートーヴェンは「己れを救助した」というその故にこそ、小林秀雄の「ベエトオヴェン」は書かれなかったのだと私は思うのです。

(つづく)

 

 

本年一月二十九日、坂本忠雄氏が逝去されました。享年八十六。本連載は、生前小林秀雄が坂本忠雄さんに伝えたベートーヴェンの音楽についての言葉への、私なりの応答を示すことを目的として書き出したものでした。ここに謹んで哀悼の意を表します。

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

トルストイは、ベエトオヴェンのクロイツェル・ソナタのプレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニイの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮を経験したと言う。トルストイは、やがて「クロイツェル・ソナタ」を書いて、この奇怪な音楽家に徹底した復讐を行ったが、ゲエテは、ベエトオヴェンに関して、とうとう頑固な沈黙を守り通した。有名になって逸話なみに扱われるのは、ちと気味の悪すぎる話である。底の知れない穴が、ポッカリと口を開けていて、そこから天才の独断と想像力とが覗いている。

 

もし小林秀雄が「ベエトオヴェン」を「モオツァルト」流に書いたとしたら、彼はここから書き出したに違いない。というのは、「モオツァルト」劈頭で提示された「悪魔が発明した音楽」を、ベートーヴェンに置き換えてみればこうなるという意味だが、この「モオツァルト」第二段楽から第三段落にかけての、モーツァルトという「悪魔の罠」がベートーヴェンという「悪魔の罠」にすり替わるかのような転調(いや、移調というべきか)は実に巧妙です。それこそ「悪魔の罠」と呼びたいほどだ。二つの「悪魔」は、共に晩年のゲーテの心を乱したそれであったという点で相通じているが、「悪魔」の意味合いは決定的に異なっていた、あるいは、「悪魔」が発明したその音楽の意味合いが決定的に異なっていた、そこが巧妙なのです。

続いて小林秀雄は、「ベエトオヴェンの音楽に対するゲエテの無理解或は無関心」についてのロマン・ロランの「意外なほど凡庸な結論」を一蹴した上で、「Goethe et Beethoven」に引用された一八三〇年のゲーテの「異常な昂奮」を再現します。それはすでに紹介しました。そして彼は、メンデルスゾーンがゲーテに弾いて聞かせた第五シンフォニーの第一楽章に対して、ゲーテが不快を表明したことよりも、その後、この老作家が何やら口の中でぶつぶつと自問自答していた事のほうが大事だったのであると言い、次のように語ります。もう一つの「悪魔」は、ここにさりげなく登場します。

 

今はもう死に切ったと信じたSturm und Drangの亡霊が、又々新しい意匠を凝して蘇り、抗し難い魅惑で現れて来るのを、彼は見なかったであろうか。大袈裟な音楽、無論、そんな呪文で悪魔は消えはしなかった。何はともあれ、これは他人事ではなかったからである。震駭したのはゲーテという不安な魂であって、彼の耳でもなければ頭でもない。(略)恐らくゲエテは何も彼も感じ取ったのである。少くとも、ベエトオヴェンの和声的器楽の斬新で強烈な展開に熱狂し喝采していたベルリンの聴衆の耳より、遥かに深いものを聞き分けていた様に思える。妙な言い方をする様だが、聞いてはいけないものまで聞いて了った様に思える。

 

ゲーテのエピソードを紹介するにあたって、ロマン・ロランもまた、「この場面は、老人の不安を、また、六十年後『クロイツェル・ソナタ』によって老トルストイを驚倒せしめたあの野蛮な悪魔共を彼が怒りっぽい身振りで押しやってこれを閉じ籠めようとした努力をわれわれに見せている」と前置きしていることはすでに述べました。小林秀雄がここに忍び込ませた「悪魔」は、そのロランの「悪魔共」にいざなわれて現れたものであったことは間違いないでしょう。ちなみにロランが書いた「悪魔共」の「悪魔」の語も、「サタン」の意味の「diable」ではなく、ゲーテの「デーモン」と同じ「démon」が使われています。

しかし小林秀雄が「モオツァルト」第六段落に登場させたこの「悪魔」は、ベートーヴェンの第五シンフォニーという「誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった」音楽を発明することによってゲーテをからかったわけではありませんでした。もう一つの「悪魔」は、かつて「Sturm und Drang」の文学運動の嵐の中で若きゲーテを駆り立て、しかし今はもう死に切ったと自ら信じながら未だこの作家の内部に棲み続けた或る存在を覚醒めさせ、自覚させるものとして現れるのです。それはすなわち、ゲーテ自身の「不安な魂」を映し出す鏡なのであり、第五シンフォニーは、ゲーテを外部からからかう音楽としてよりも、むしろゲーテその人の音楽として聞かれている。小林秀雄はゲーテの「異常な昂奮」をそう解した。もしもこのとき「悪魔」がゲーテをからかったとすれば、その所以は、メンデルスゾーンがゲーテの目の前で弾いて聞かせた音楽が、他ならぬであったというところにあったはずだ。「これは他人事ではなかった」とはそういう意味でしょう。そしてそのゲーテに、小林秀雄がニーチェとのアナロジーを見るというのも、この哲学者にとって、ワーグナーの音楽とは、ニーチェ自身の「不安な魂」を映し出す鏡としての「悪魔」でもあったからです。

 

ワグネルの「無限旋律」に慄然としたニイチェが、発狂の前年、「ニイチェ対ワグネル」を書いて最後の自虐の機会を捉えたのは周知の事だが、それとゲエテの場合との間には、何か深いアナロジイがある様に思えてならぬ。それに、「ファウスト」の完成を、自分に納得させる為に、八重の封印の必要を感じていたゲエテが、発狂の前年になかったと誰が言えようか。二人とも鑑賞家の限度を超えて聞いた。もはや音楽なぞ鳴ってはいなかった。めいめいがわれとわが心に問い、苛立ったのであった。

 

「ニーチェ対ワーグナー」は、なぜニーチェにとって「自虐」なのか。それは、ニーチェが批判し、呪詛し、葬り去ろうとした音楽が、ニーチェその人の音楽でもあったからです。続けて小林秀雄は、ニーチェはワーグナーのうちに「ワグネリアンの頽廃」を聞き分けたと書いているが、「ワグネリアン」とは誰よりも、かつてこの作曲家に心酔した若きニーチェのことであり、その「頽廃」はまた、ニーチェ自身の内部に巣食っていたものでもありました。ニーチェは、「私もワーグナーと同様この時代の子である、言ってよいなら、デカダンである」とはっきり書いています(「ワーグナーの場合」)。その自らの内なる「ワーグナー的傾向」に対して、この哲学者ははげしく抗い、その脱出を試み、これを超克しようとした。しかもそれを執拗に何度も繰り返し行った。その最後の抵抗、すなわち「最後の自虐の機会」が、「ニーチェ対ワーグナー」でありました。ニーチェが発狂したのは、その原稿が脱稿した翌月です。

一方、ゲーテがベートーヴェンの第五シンフォニーに聞き分けたもの―当時のベルリンの聴衆が聞き分けたものより「遥かに深いもの」、「聞いてはいけないもの」とは何であったのか。それを小林秀雄は、「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」ではなかったかと示唆します。「人間的な余りに人間的」とは、ニーチェの「の自虐」の書のタイトルです。その続篇を一冊にして刊行するにあたり、ニーチェはこの著述を「ひとつの精神治療」、すなわち「ロマン主義の最も危険な形式の一時的な罹患に抵抗する私の常に健康な本能が自ら工夫し、自ら処方したところの自己療法」(中島義生訳/以下同)であると書いている。このときニーチェが断行したのは、「一切のロマン主義的な音楽を徹底的に、根本的に自分に禁じたこと」であった。それは「精神の厳しさと愉しさを奪い、あらゆる種類の不明瞭な憧憬とふわふわした欲望をはびこらせる、この曖昧で、ほら吹きで、うっとうしい芸術をこと」であった。すなわちリヒャルト・ワーグナーという「腐朽した、絶望的なロマン主義者」に訣別することでありました。そしてゲーテという文学者もまた、ニーチェ同様「ロマン主義」というものを疑い、これを危険視し、批判した人であったのです。

その「ニーチェ対ワーグナー」と「ゲーテ対ベートーヴェン」との間に、小林秀雄はアナロジーを見出した。ということは、ゲーテが第五シンフォニーに聞き分けたと彼が示唆する「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」とは、一言で言えば、ベートーヴェンの音楽が内に孕む「ロマン主義」であったということになるはずです。それは彼自身、これに続けて、「ベエトオヴェンという沃野に、ゲエテが、浪漫派音楽家達のどの様な花園を予感したか想像に難くない」と付け加えているとおりです。さらに言えば、アナロジーは、ニーチェが嫌悪した「ロマン主義」とゲーテが批判した「ロマン主義」との間にもあったはずだ。少なくともそこに、ニーチェのゲーテへの共感があったことは確かです。ニーチェにとって、ゲーテは「私が畏敬をはらう最後のドイツ人」(「偶像の薄明」)であり、そのゲーテがロマン主義の危険と、ロマン主義者の宿業について問うた結論は、ワーグナーの「パルジファル」―このワーグナー最後の作品が、ニーチェのこの作曲家への訣別を決定的なものにしました―にそのまま当て嵌まると、ニーチェは「ワーグナーの場合」の中で述べています。ただしそのニーチェにとって、ベートーヴェンの音楽は、決して「ロマン主義」ではなかった。それどころか、ワーグナーとベートーヴェンを引き比べるということは、ニーチェにとっては「冒涜」でさえあったということは付記しておきましょう。

ところで小林秀雄は、「ベエトオヴェンという沃野に、ゲエテが、浪漫派音楽家達のどの様な花園を予感したか想像に難くない」と語りながら、その直後に、「尤も、浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題を、僕は、ここで応用する気にはなれぬ」とも書いています。第五シンフォニーを聞いたゲーテのあの「異常な昂奮」は、無論、一つの「命題」に還元して片付けてしまえるようなものではなかったでしょう。またゲーテを動揺させ、苛立たせた「悪魔」は、ゲーテ自身の内部に眠っていた「Sturm und Drangの亡霊」でもあったとするならば、このエピソードを単に「古典主義者ゲエテ」が「浪漫主義者ベエトオヴェン」を嫌ったと結論することはできなかったはずです。そのことは、その少し後に書かれた「ベエトオヴェンを嫌い又愛したゲエテ」という彼の言葉にも表れています。しかしまた、「浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題」とは如何なるものであったのかは、「」を読み解く上で、ぜひとも知っておかなければなりません。「周知」のことではあるかもしれないが、ゲーテの言葉をいくつか拾ってみましょう。

まず、ゲーテのこの「命題」を一行で尽くせば、「クラシックは健康であり、ロマンティックは病気である」ということになります。これはゲーテの「箴言と省察」の中にある言葉だが、エッカーマンの「ゲーテとの対話」の中では、ゲーテは次のようにも語っています。

 

「私は新しい表現を思いついたのだが、」とゲーテはいった、「両者の関係を表すものとしては悪くはあるまい。私は健全なものをクラシック、病的なものをロマンティックと呼びたい。そうすると、ニーベルンゲンもホメロスもクラシックということになる。なぜなら、二つとも健康で力強いからだ。近代のたいていのものがロマンティックであるというのは、それが新しいからではなく、弱々しくて病的で虚弱だからだ。古代のものがクラシックであるのは、それが古いからではなく、力強く、新鮮で、明るく、健康だからだよ。このような性質をもとにして、古典的なものと浪漫的なものとを区別すれば、すぐその実相を明らかにできるだろう」(一八二九年四月二日 山下肇訳/以下同)

 

これはゲーテが七十九歳の時の言葉です。ちなみに「ロマン主義的な音楽」について語る四十一歳のニーチェの言葉を続けて読んでみましょう。

 

こういう音楽は、われわれの気力をそぎ、柔弱にし、女々しくする。その「永遠の女性」がかれらをひきずり―おとすのだ! ……当時私の最初の猜疑、私の最も身近な用心は、ロマン主義的な音楽に対して向けられた。そして、私がおよそなお音楽について何らかの希望を持ったとすれば、それは、ああいう音楽に対して不滅の仕方でことのできる、大胆で、繊細で、意地悪く、南方的で、あふれるばかりに健康な一人の音楽家が現われてほしいという期待であった―(「人間的、あまりに人間的」序文)

 

「『永遠の女性』がかれらをひきずり―おとすのだ!」という表現は、「ファウスト」第二部終結部の「神秘な合唱」で歌われる「永遠の女性がわれらを高きへ導く」をもじったもので、ロマン主義的な音楽の力は、ニーチェが畏敬するとは真逆の方向に働くことを言ったものです。やがてニーチェは、ビゼーの「カルメン」という「南方的で、あふれるばかりに健康な」音楽によってワーグナーに「復讐」を果たすことになるのですが、ということはまた、ニーチェにとっての「クラシック」とは「カルメン」であったということにもなるのだが、それはさておき、今はゲーテの言った「ロマンティック」と、ニーチェが禁じた「ロマン主義的な音楽」との間にあるアナロジーを感じてもらえればよいのです。

さてゲーテは、「クラシック」は「力強く、新鮮で、明るく、健康」で、「ロマンティック」は「弱々しくて、病的で、虚弱」だと言うのだが、問題は、ゲーテのいう「健康」とは何か、「病的」とは何かということです。しかしそれについては、ゲーテはこの日の対話では何も語りませんでした。一方、ニーチェが「ロマン主義」の何を「病的」としたかについては(ニーチェは「ワーグナーとは一つの病気である」と明言しています)、「人間的、あまりに人間的」以降幾度も語り続けました。それを一言で言うなら、「デカダンス」ということになる。その衰退の特徴とは、「貧困化した生」であり、「終末への意思」であり、「大きな疲労」であった。音楽的には、それはリズムの衰退と明確なカデンツを回避するワーグナーのいわゆる「無限旋律」として現れた。そしてその「デカダンス」は、「残忍なもの」「技巧的なもの」「無邪気(白痴的)なもの」をもっとも必要とする「近代性」そのものの表現であると、ニーチェは考えるのです。

次に、「ゲーテとの対話」からもう一つ読んでみましょう。これもゲーテの「周知の命題」といっていいものだ。

 

「君に打ち明けておきたいことがある。君もいずれこれからの人生でいろいろと思いあたるふしがあるにちがいないが、後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。が、逆に、前進しつつある時代はつねに客観的な方向を目指している。現代はどう見ても後退の時代だ。というのも、現代は主観的だからさ。このことは、文学だけではなく、絵画やほかの分野においても見られるものだ。それに対して、有意義な努力というものは、すべて偉大な時期ならどの時期にも見られるように、内面から出発して世界へ向かう。そういう時代は、現実に努力と前進をつづけて、すべて客観的な性格をそなえていたのだよ。」(一八二六年一月二九日)

 

この話題をエッカーマンに切り出す前、ゲーテは、その前の日にヴォルフというハンブルクの即興詩人がゲーテのもとを訪れたときのことを語っています。ゲーテに言わせれば、ヴォルフは素晴らしい才能の持ち主だが、「主観主義という現代病」に犯されている。それを自分は治してやりたいと思った。そこでゲーテは、この前途有望な詩人に一つの課題を与えます。「君がハンブルクへ帰るところを描いてみたまえ」と。するとヴォルフはすぐに想を練り上げ、ただちに響きのいい詩句を語り始めた。それにはゲーテも感嘆しないわけにはいかなかったが、かといって褒めるわけにもいかなかった。ヴォルフが描いたのは、「ハンブルクへの帰郷」ではなく、ある一人の息子が身内や友人の許へ帰るときの感じしかあらわれていなかったからです。それは、「メルゼブルクへの帰郷」とか「イエーナへの帰郷」とかいっても通用するものであった。しかしゲーテに言わせれば、ハンブルクというところは実に際立った特徴のある街で、詩人たるものその対象を的確に捉え、読者が自分の目で見ているのではないかと錯覚するほど生き生きと描き出してみせなければならない。そういう話をした後で、先ほど読んだ「客観的と主観的」という話がエッカーマンに打ち明けられるのです。つまりゲーテは、ひたすら自己の内面の出来事に興味が集中するような芸術傾向を「主観的」と呼び、その逆に、自己の外部に存在する美しさや偉大さに関心が向かうような傾向、ゲーテの言い方で言えば、「自己から出発して世界へ向かう」傾向を「客観的」と呼んだのでした。

そのあと、話題は「十五、六世紀の偉大な時代」へと移り、一方、最近の演劇作品に見られる「弱々しく感傷的で陰鬱」な傾向について語られます。もうお分かりでしょうが、この日ゲーテが語った「客観的と主観的」という対概念は、そのままゲーテのいう「クラシックとロマンティック」という対概念に置き換えてもよいものなのです。つまりゲーテは、古代のものが「力強く、新鮮で、明るく、健康」であるのは、それが「客観的」だからだ、一方、近代の多くのものが「弱々しくて病的で虚弱」なのは、それが「主観的」だからである、自分は前者を「クラシック」、後者を「ロマンティック」と呼びたい、とそう語ったのだと言えます。そして小林秀雄が示唆した「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」とは、ゲーテのいった「主観的」なものの「危険」を衝いた言葉なのであり、その傾向が進めば、時代は「後退と解体」に向かうとゲーテが危惧した意味で、後にニーチェが断固否定した近代の「デカダンス」へと通じるものでもあった。そうであればこそ、小林秀雄はこの哲学者の「自己療法」の書名をそこに埋め込んだのでしょう。だが誤解してはならない、それを聞き分けたのはゲーテであって、小林秀雄ではありません。

「モオツァルト」を発表した四年後、小林秀雄はこの「ロマンティック」な時代の「病気」について、あらためて筆を執りました。「表現について」という文章がそれです。これは「モオツァルト」を発表した半年後に行った講演をもとにしたもので、小林秀雄のロマン主義芸術論であり、その中心にベートーヴェンを据えているという意味で、彼が書き残した唯一のベートーヴェン論と呼んでもいいものです。そこでのロマン主義という時代に対する、そしてこの時代を音楽の世界において切り拓いたベートーヴェンという芸術家に対する彼の考えは、ゲーテが示したそれと軌を一にするものではありませんでした。

その講演の中で、小林秀雄は、ゲーテが「弱々しくて病的で虚弱」であるとしたところの時代を、「何も彼も自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難しい時代」と呼びます。そして「ゲエテが早くも気付いていた『浪漫主義という病気』」に、芸術家たちはただかかったのではない、のだと語るのです。ベートーヴェンとは、言わばこの「病気」と最初に出会い、これに進んで、良心をもってかかった音楽家であった。そしてその仕事を他の追随を許さぬ驚くべき力で完成させた人であった。だがここで忘れてならぬのは―と、彼は聴衆に注意を促した上でこう付け加えます―「ベエトオヴェンは、自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家であったが、自分の意志と才能との力で新しく創り出すところは、又万人の新しい宝であるという不抜の信仰を抱いていたという事です」。すなわちゲーテのいった「自己から出発して世界へ向かう」音楽であったというところにこそ、この音楽家を考える上で「忘れてならぬ」事実があると彼は言うのです。

小林秀雄が本当に「応用」したくなかったのは、「浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテ」という命題では実はなかった。「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」の権化としてのベートーヴェン、という自ら示唆した命題こそ、彼が自身の「ベエトオヴェン」には応用したくないものだったのです。

(つづく)

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

ところがまた、ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオは、ソクラテスが語った「不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子」を響かせただけではなかった。作曲家の死後三年、この調べに震撼し、異常な動揺と苛立ちを露わにした大文学者がいた。ゲーテです。小林秀雄は、メンデルスゾーンが伝えるそのエピソードを、「モオツァルト」の冒頭章で取り上げました。ここでは当時、彼が目を通したロマン・ロランの「ゲーテとベートーヴェン」から直接引用しましょう。

 

ひる前、私はこれまでの大作曲家達を歴史の順に従って、小一時彼に弾いて聞かせねばなりませんでした。……彼は暗い片隅に雷神ユピテルのように座っていました。そしてその老いた眼はぴかりぴかりと射るように光っていました。彼はベートーヴェンの噂を聞くのを好みませんでした。ですが私は、それはどうにも仕様のないことだと彼に言いました。そして、ハ短調交響曲の第一樂章を弾いて聞かせました。それは彼を異常に動揺させました。彼は先ずこう言いました。「この曲は一向に感動させはしない。ただ驚かすだけだ。実に大仰な曲だ!」 彼はしばらくの間、ぶつぶつ口の中で呟いていました。それから、長い沈黙ののちに、再び口を開いてから言いました。「大変なものだ。まったく気ちがいじみたものだ! まるで家が崩れそうだ…… もし今、皆が一緒に演奏したらどうだろう!」 それから食卓についた時もまた、ほかの会話の間にぶつぶつ呟きはじめました……(新庄嘉章訳)

 

後に「ゴッホの手紙」で回想されたように、「モオツァルト」執筆の直接の動機は、小林秀雄が四十歳に達した昭和十七年五月のある朝のこと、青山二郎の疎開先で聞いたK.593のニ長調弦楽クインテットの感動にありました。ここに引用した新庄嘉章の翻訳による「ゲーテとベートーヴェン」は、その翌月に刊行されたものです(二見書房)。当時、「モオツァルト」をどう書き出そうかと思いあぐねていた小林秀雄のもとに、この新刊の「興味ある研究」が届き、「そこに集められた豊富な文献から、いろいろと空想をする」(「モオツァルト」)なかで、このメンデルスゾーンの回想に最初の糸口を見出したと想像してみるのは興味深いことです。さらに言えば、「モオツァルト」の劈頭に置かれたゲーテのあのエピソード―モーツァルトの音楽とは、人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だという、一八二九年十二月六日のエッカーマンとの対話は、その翌年、同じ文学者をからかったベートーヴェンというもう一人の「悪魔」に導かれて小林秀雄が取り上げたものとも考えられるのです。

順序は逆だったのかもしれない。「モオツァルト」という音楽論は、その執筆構想の順からいえば、第一段落の「エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである」から書き出されたのではなく、第三段落の「トルストイは、ベエトオヴェンのクロイツェル・ソナタのプレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニイの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮を経験したと言う」から開始されたのかもしれない。そして第二段落に描かれた、「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」という画は、「ベートーヴェンのハ短調シンフォニーに悪魔の罠を感じて心乱れた異様な老人」の倒影であったのかもしれません。メンデルスゾーンの回想を紹介するにあたって、ロマン・ロランもまた、「この場面は、老人の不安を、また、六十年後『クロイツェル・ソナタ』によって老トルストイを驚倒せしめたあの野蛮な共を彼が怒りっぽい身振りで押しやってこれを閉じ籠めようとした努力をわれわれに見せている」(傍点筆者)と前置きしています。

もっともこの一八三〇年の「ゲーテとベートーヴェン」を紹介するにあたって、小林秀雄は「Goethe et Beethoven」という原題を付していますから、彼は昭和十七年六月刊行の翻訳書ではなく、ロランの原書にあたっていたのかもしれません。またそもそも、四年の歳月をかけて書き下ろされ、かつ戦前に書かれた草稿は破棄して戦後新たに稿を起こした(吉田凞生)とも言われるこの作品の執筆経緯を辿ることは不可能です。ただここで言えることは、「モオツァルト」という作品の書き出しは、あるいは「ベエトオヴェン」として書き出されたのではないかと読者に錯覚させるほど、あのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べが濃厚に立ち籠めているということ、しかもその調べにゲーテが聞き分けた(と小林秀雄が想像した)のは、「不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子」ではなく、ゲーテが嫌悪した浪漫主義芸術の「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」であり、同時にまた、それは老ゲーテの内に眠っていた「Sturm und Drangの亡霊」でもあったということ、そして何より、小林秀雄自身は、その「異常な自己主張」の調べを「壮年期のベートーヴェンの音楽」と位置づけ、この作曲家は、とはっきり書いていたということです。

しかし結論を急ぎすぎたようです。「モオツァルト」の冒頭段落をまずは読んでみましょう。

 

エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組に出来上っている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。ゲエテは決して冗談を言う積りではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断っている。(エッケルマン、「ゲエテとの対話」―一八二九年)

 

すでにお話ししたように、このゲーテの言葉は「ゲーテとの対話」の一八二九年十二月六日の項に記されているものです。ゲーテは八十歳、この日のエッカーマンの記録は、執筆中の「ファウスト」第二部第二幕第一場をゲーテがエッカーマンに読んできかせるところからはじまります。

場面はファウストの書斎―この大戯曲の幕開けでメフィストフェレスが一匹のむく犬として忍び込み、ファウストと契約を結んで彼を外の世界へと連れ出す、あの「高い丸天井をもつゴシック風の狭い部屋」に、ファウストとメフィストフェレスがふたたび舞い戻る場面です。戯曲の中では、二人がその部屋を飛び出したのは二、三年前のことですが、ゲーテが初稿「ファウスト」を書き上げたのは二十代の半ば頃、すでに半世紀以上の歳月が経っていました。書斎の一切のものは昔と変わらずそこにあるが、メフィストフェレスがファウストの着古した書斎着を掛釘から外すと、無数の紙魚や虫けらがぱたぱたと飛び立ちます。そこに、かつてその書斎に登場した学士が現れる。彼は、以前は臆病な若い学生で、ファウストの上着を着たメフィストフェレスにからかわれたものだが、その男もいつのまにか大人になり、ひどく高慢な学士となって、さすがのメフィストフェレスももてあまし、たじたじと椅子ごと後退って、ついには平土間の方へと向き直ってしまう

この場面をゲーテが朗読した後、エッカーマンは、ここに登場する学士の役柄について尋ねます。するとゲーテは、あれは若い者に特有の自惚れを擬人化したものだと答える。そして、「若いときには、だれにしても、世界は自分とともに始まり、一切はそもそも自分のために存在するのだ、と思いこみがちのものだ」と言い、「ファウスト」をめぐってエッカーマンと語り合うのですが、その後ゲーテはしばらくの間黙考し、やがて次のように語り出すのです。

 

「年をとると、」と彼はいった、「若いころとはちがったふうに世の中のことを考えるようになるものだ。そこで私は、デーモンというものは、人間をからかったり馬鹿にしたりするために、誰もが努力目標にするほど魅力に富んでいてしかも誰にも到達できないほど偉大な人物を時たま作ってみせるのだ、という風に考えざるをえないのだよ。こうして、デーモンは、思想も行為も同じように完壁なラファエロをつくりあげた。少数のすぐれた後継者たちが彼に接近はしたが、彼に追いついた者は一人もなかった。同様に、音楽における到達不可能なものとして、モーツァルトをつくりあげた。文学においては、シェークスピアがそれだ。君はシェークスピアには反対するかもしれないと思うが、私はただ天分について、偉大な生得の天性について、言っているのだよ。ナポレオンも到達不可能な存在だ。」(山下肇訳、以下同)

 

小林秀雄は、「ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていた」と書いていましたが、ゲーテが「一風変った考え方をしていた」のは、モーツァルトについてだけではありませんでした。「ゲーテとの対話」を通読すればわかるように、ここに挙げられた四人はしばしば連名で語られる人物で、ゲーテにとって「偉大な生得の天性」の異名であり、「到達不可能な存在」の代名詞のようなものでした。ゲーテ自身、彼らのような優れた才能が世に存在したという事実を今くらいはっきりと思い知っていれば、自分は一行も書かずに何か他の仕事をしていただろうという意味のことを何度か語っています。

しかしこれは、偉大な天分に対する自身の才能への嘆きでも謙遜でもありませんでした。「年をとると、若いころとはちがったふうに世の中のことを考えるようになる」とは、単に自惚れがなくなるという意味ではない。「到達不可能な存在」というその事実そのものについて、「若いころとはちがったふうに」考えるようになるということなのです。晩年のゲーテにとって、真に「到達不可能」と思われたのは、実はラファエロでもモーツァルトでもシェークスピアでもナポレオンでもなかった。それら偉大な人物たちを作ってみせながら、人間どもをからかい、馬鹿にするかに見える「デーモン」の存在であった。そしてゲーテは、その「デーモン」の存在について、確かに「冗談を言う積り」ではありませんでした。

第二段落、「モオツァルト」は次のように続きます。

 

ここで、美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人を想像してみるのは悪くあるまい。この意見は全く音楽美学という様なものではないのだから。それに、「ファウスト」の第二部を苦吟していたこの八十歳の大自意識家が、どんな悩みを、人知れず抱いていたか知れたものではあるまい。

 

「悪魔の罠」とは、「デーモンの罠」のことである。そしてここで誤解してはならないのは、ゲーテが語った「デーモン(Dämon)」あるいは「デモーニッシュ(dämonisch)」とは、キリスト教における「悪魔」―神に敵対する存在としての「サタン」(英語のDevil、ドイツ語ではTeufel)のことではないということです。それはキリスト教の文脈に支配される以前の、古代ギリシアの人々が信じていた霊的存在としての「悪魔」―ソクラテスにつきまとい、常に「禁止の声」を囁き続けたというあの「ダイモーン(Daimon)」に近い存在としてゲーテが名指したものでした。しかもソクラテスの「ダイモーン」は、常にソクラテスの味方であったが、ゲーテの「デーモン」は、敵や味方に分類できるようなものではありませんでした。ゲーテの考えでは、それは人間の悟性や理性では計り知ることのできない、現世の力の一切を超越した力であり、人間を思うままにひきまわし、自発的に行動していると見せながら、実は知らず識らずのうちにそれに身を捧げているような、偉大な生産力にしておそるべき破壊力でもあった。そしてその力は、とりわけ優れた人物の上に強く現れると言い、その代表が、ラファエロでありモーツァルトでありシェークスピアでありナポレオンであったのです。

したがって、ゲーテの言う「デーモン」がからかったのは、モーツァルトの音楽を真似ようとした作曲家たちだけではありませんでした。モーツァルトその人も、「デーモン」に我知らず身を捧げた人間の一人であり、そして遂には「デーモン」によって滅ぼされた存在であった。前述の対話の前の年、一八二八年三月十一日の「ゲーテとの対話」では、「デーモン」がこの世にもたらす「最高級の生産力、あらゆる偉大な創意、あらゆる発明、実を結び成果を上げるあらゆる偉大な思想」について存分に語られ、そこにも同じくモーツァルトが、ラファエロが、シェークスピアが、ナポレオンが登場するのですが、その最後の最後で、ゲーテはエッカーマンに次のように語り、「デーモン」の話題を締め括るのです。

 

「だが、君は、私の考えていることがわかるかね? ―人間というものは、ふたたび無に帰するよりほかないのさ! ―並みはずれた人間なら誰でも、使命をにない、その遂行を天職としているのだ。彼はそれを遂行してしまうと、もはやその姿のままでこの地上にいる必要はないわけだよ。そして、彼は神の摂理によって、ふたたび別のことに使われる。しかし、この地上では、何事も自然の運行のとおりに起るから、悪魔ども(die Dämonen ※筆者注)がひっきりなしに彼の足を引っぱり、ついには彼を倒してしまう。ナポレオンやそのほか多くの人々もそうだった。モーツァルトが死んだのは三十六歳、ラファエロもほぼ同じ年齢だったし、バイロンだってほんの少し長生きしただけだ。しかし、みんな自分の使命をきわめて完璧に果し、逝くべき時に逝ったといえよう。それはこの永続きすると予定されている世界で、ほかの人たちにもなすべき仕事を残しておくためなのだよ。」

 

晩年のゲーテの運命観、宿命観の最重要部を成すこの「デーモン」は、「ゲーテとの対話」の中に数え切れないくらい登場します。しかしゲーテにとっても、それは明確に定義できるような存在ではなかったようで、エッカーマンへの説明はときに曖昧、ときに相矛盾するものでもありました。ただ、亡くなる前年に完成させ、死後出版された自叙伝「詩と真実」の最終章で、ゲーテは、少なくともそれがについては、はっきりと定義し、この世を去りました。そのくだりを読んでみます。

 

読者は、この自伝的叙述を読みすすむにつれて、子供が、少年が、青年が、さまざまな道をたどって、超感覚的なものに近づこうと努めた様子を子細に見られた。彼は、最初は心ひかれるままに自然宗教に目を向け、ついで愛をもってヘルンフート派に固く結ばれ、さらに自己に沈潜することによって自分の力を試し、そしてついに一般的な信仰に喜んで身を捧げたのである。彼はこれらの領域の間隙を、あちらこちらさまよい歩き、求め、たずねまわっているうちに、それらのいずれにも属していないように思える多くのものに出会った。そして彼はしだいに、恐ろしいものや不可知なものについての思考は避けたほうがよい、ということを悟ったように思った。彼は自然のうちに、生命あるもののうちにも生命なきもののうちにも、魂あるもののうちにも魂なきもののうちにも、矛盾のうちにのみ現れ、それゆえに、いかなる概念によっても、ましてや、いかなる言葉によっても、とらえることのできないものが見出されると思った。それは神的なものではなかった。それは非理性的であるように思えたからである。それは人間的ではなかった。それは悟性をもたなかったからである。それは悪魔的(teuflisch ※著者注)ではなかった。それは善意をもっていたからである。それは天使的ではなかった。それはしばしば悪意の喜びを気づかせたからである。それは偶然に似ていた。それはなんらの連続をも示していなかったからである。それは摂理に似ていた。それは因果関係を暗示していたからである。われわれを局限づけているいっさいのものを、それは貫き通すことができるように思えた。それは、われわれの存在を構成しているさまざまな必然的要因を、思うままにあやつるように思えた。それは時間を収縮し、空間を拡大した。それは不可能なもののみを喜び、可能なものは嫌悪の念をもって自分から遠ざけるように思えた。他のあらゆるもののあいだに入りこみ、それらを分離し、それらを結合するように思えるこの存在を、私は、古代人の例にならって、また、私のそれと似たようなことを認めた人たちの例にならって魔神的デモーニッシュ(dämonisch ※筆者注)と名づけた。私は、私の従来のやり方に従って、形象の背後にのがれることによって、この恐ろしい存在から自分を教い出そうと努めた。(山崎章甫訳)

 

小林秀雄が「モオツァルト」を書き始めたとき、彼もまたモーツァルトの音楽の「到達不可能」という問題に衝突し、「心乱れた」に違いありません。小林秀雄にとって、モーツァルトの「到達不可能」とは、モーツァルトの音楽を模倣することの不可能ではなく、モーツァルトの音楽を言語化することの不可能であったが、その「到達不可能」の恐ろしくも苦しい認識が、彼にモーツァルトについて書かせた最大の動機であったとも言えるでしょう。いや確かに、彼自身、そう回想しております(「酔漢」)。デーモンにからかわれ、「一人として成功しなかった」のは、モーツァルトの後に続こうとした作曲家たちだけではなかったのです。それはモーツァルト論を企図したあらゆる学者たち、哲学者たち、作家たち、そして批評家たちでもあった。美しいモーツァルトの音楽を聞く毎に、デーモンの罠を感じて、心乱れたの大自意識家―ところが、この第二段落が終わったところで、「モオツァルト」という作品は、突如「ベエトオヴェン」へと転調するのです。

(つづく)

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

以前、プラトンの「国家」をはじめて読んだ時、或る音楽の調べについてソクラテスが語る一節に出くわし、あたかも古代ギリシアのあのオルケストラに突如ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオが轟いたかのような錯覚を覚え、驚いたことがあります。

このプラトン中期の対話篇では、ケパロスが提起した「正義とは何か」の問題をめぐって、個人の正義の延長としての国家の正義が探求され、そこから国家というもののあるべき姿が様々な形で論じられるのですが、その議論の中でソクラテスは、彼が理想と考える国家には悲しみや嘆きを伝えるような詩や物語はいっさい不要であると主張します。そして文芸とともに人間の魂を教育するものである音楽においても、それは同様であると言い、そういう調子を帯びた調べにはどのようなものがあるかとグラウコンに問うのです。これに対し、音楽通であるらしいグラウコンは、それは「混合リュディア調」や「高音リュディア調」だと答える。この「混合リュディア調」や「高音リュディア調」とは、ハルモニアと呼ばれた古代ギリシアの音階の一つで、私たちに馴染みの考え方でいえば「ドレミファソラシド」の長音階(長調)や、「ラシドレミファソラ」の短音階(短調)に相当します。つまり、長調で書かれた音楽が一般に明るく喜ばしい調子を帯び、短調の音楽は暗く悲しげなものとなることが多いように、古代ギリシアのハルモニアにも、それぞれに異なる性格が備わっており、その中で悲しみや嘆きを奏でることの多い「混合リュディア調」や「高音リュディア調」は、ソクラテスの理想国家からは排除されなければならないというのです。

続いてソクラテスは、「酔っぱらうこと」や「柔弱であること」、また「怠惰であること」も、国の守護者や戦士にはふさわしくないと言い、そのような調べとしては何があるかとグラウコンに尋ねます。するとグラウコンは、「イオニア調」や「リュディア調」のある種のものが「弛緩した」(あるいは「物憂い」)と呼ばれていると答えます。現代風に言えば、これは「アンニュイでデカダンな調べ」とでもいうところでしょうか。当然、これらも排除しなければならないということになる。

古代ギリシアの世界にいくつ音階があったのかは知りませんが、グラウコンによれば、残るは「ドリス調」と「プリュギア調」の二つであるという。それを受けて、ソクラテスは次のように語るのです。

 

「ぼくはそれらの調べのことは知らない。しかしとにかく、君に残してもらいたいのはあの調べだ。すなわちそれは、戦争をはじめすべての強制された仕事のうちにあって勇敢に働いている人、また運つたなくして負傷や死に直面し、あるいは他の何らかの災難におちいりながら、すべてそうした状況のうちで毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人、そういう人の声の調子や語勢を適切に真似るような調べのことだ」(藤沢令夫訳)

 

ここでソクラテスは、さらにもう一つの調べ―自発的な行為と幸運のうちにあって「節度を守り端正に振舞って、その首尾に満足する人を真似るような調べ」を付け加えている。訳者の藤沢令夫氏の注釈によれば、一つ目の調べがドリス調を、二つ目の調べがプリュギア調を指すそうですが、今お話ししたいのは古代ギリシアのハルモニアについてではありません。プラトンが自ら理想とする国家に残そうとした一つ目の調べ、というよりも、それをグラウコンに伝えるソクラテスの言葉の調べが、そのままベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べを想起させたということなのです。裏返して言えば、ベートーヴェンにとってのハ短調アレグロ・コン・ブリオとは、この作曲家が選択したドリス調であり、そのハルモニアによって書かれた第五シンフォニーとは、まさにソクラテスの言う「強制的な状況に対応し、不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子を最も美しく真似るような」音楽だとは言えまいか。これは私の独断ではないはずです。ベートーヴェンという人物と音楽を知る多くの人々の脳裡に刻まれているはずの、これがベートーヴェンという芸術家の「詩人としてのイデー」であり、第五シンフォニーのうちに皆がきき取っている「作者の宿命の主調低音」ではないでしょうか。それは第五シンフォニーを「運命」と呼ぶのと同様、ほとんど通念と化したベートーヴェン像であり、第五シンフォニー像でもあるが、しかしその通念を、ベートーヴェンという芸術家は決して裏切らないように見えるのです。

 

 

これまで、ベートーヴェンという作曲家における「作者の宿命の主調低音」はハ短調アレグロ・コン・ブリオであり、その権化のような音楽が第五シンフォニーだとお話ししてきました。しかし小林秀雄の言う「作者の宿命の主調低音」とは、「傑作の豊富性の底を流れる」(「様々なる意匠」)ものであり、「表面の処に判然と見えるという様なものではない」(「読書について」)以上、第五シンフォニーという交響曲にしても、ハ短調アレグロ・コン・ブリオで書かれたその他の楽曲にしても、それ自体はベートーヴェンが書き残した「傑作の豊富性」の一つに過ぎないものです。「作者の宿命の主調低音」とは、「ハ短調」や「アレグロ・コン・ブリオ」といった作曲形式上の諸性格の底を流れるものだ。ということはまた、それはこの作曲家の長調の音楽にも、アンダンテの楽章にもきき取れるはずのものだということになる。実際、それはその通りでしょう。そうであればこそ、小林秀雄は「その作家の傑作とか失敗作とかいう様な区別も、別段大した意味を持たなくなる」と言ったのですし、ひと度それをきき取ってしまえば、「ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるという様になる」のです。

このことは、小林秀雄がモーツァルトの音楽にきいた「かなしさ」についても言えることです。これも多くの人が誤解しているところだが、彼は、この「かなしさ」をト短調クインテットの第一楽章にだけきき取ったわけではありません。現に、「モオツァルト」の第十章ではこの作曲家のディヴェルティメントに触れながら、ここにも「あのtristesseが現れる」とはっきり書いています。ディヴェルティメントとは「嬉遊曲」と訳される音楽のことで、基本的に長調で書かれた軽快な気晴らしのための音楽ですが、そういう音楽にも、彼は「あのtristesse」をきいているのです。そもそもゲオンの「tristesse allante」という言葉からして、直接にはK.285のフルート四重奏曲の第一楽章についての言及で現れる言葉であり、この楽章は基本的にイ長調で書かれた音楽です。展開部ではそれが短調に転調して疾駆するくだりがあり、ゲオンは「ある種の表現しがたい苦悩」とも書いていますから、あるいはこの展開部のパッセージを指しているのかもしれないが、いずれにしてもそれはト短調ではありません。

ただ、これはゲオンもはっきり書いていることですが、K.285の第一楽章は、モーツァルトの「tristesse allante」を「時として響かせている」のであって、その響きが「最高の力感のうちに見出される」のは、K.516の第一楽章なのです。それは、必ずしもこの楽章がモーツァルトの最高傑作という意味ではないが(いや、ゲオン自身はほとんどそう評していますが)、少なくともモーツァルトの様々な音楽のうちに見出される「tristesse allante」が、もっとも純粋な形で結晶した、あるいはもっとも露わな形で表出した音楽が、ト短調クインテットであり、中でも冒頭のアレグロ楽章だということは確かに言えるでしょう。他の楽曲においては、それは微かな萌しであったり気配であったり陰影のようなものであったりしたものが、このト短調アレグロの楽章においては、ほとんど「tristesse allante」一色で塗りつぶされていると言いたくなるほどに、その調べが音楽全体を支配するのです。

同じことは、ベートーヴェンのすべての作品の中での第五シンフォニーについても言えるでしょう。プラトンの理想国家に鳴り響くべき「あの調べ」は、たとえば変ホ長調を主調として書かれた第三シンフォニーのうちにも無論きき取れるものだ。しかしベートーヴェンの第五シンフォニーは、いわば「あの調べ」だけから純粋培養されたような音楽であり、その「声」は、「豊富性の底を流れる」どころか冒頭の第一音から終楽章のカデンツに至るまで、常に剥き出しの形で咆哮し続けるのです。そのことはまた、すでにお話ししたように、この交響曲が全楽章を通してあの「運命の動機」で緊密に構成されているという事実とも照応していますし、「ベートーヴェンにとって、これが第五のテーマであり、モチーフだったんだ」と小林秀雄が答えたというのも、そのことを指しての言葉であったわけです。

その第五シンフォニーに比べれば、第三シンフォニーの方がよほど「豊富」な音楽だと言えるでしょう。とりわけ同じくアレグロ・コン・ブリオで書かれた第一楽章は、そこに盛り込まれた楽想の豊かさ、その展開の豊穣さという点で、第五シンフォニーを遥かに凌駕していると言って過言ではないし、おそらく好き嫌いということで言っても、第五シンフォニーよりも第三シンフォニーを選ぶ人の方が多いのではないか。それは第五シンフォニーの、おそろしく純度の高い単結晶ダイヤのような書法に驚嘆しつつも、その音楽が提出するイデーのあまりの純一、あまりの直截さに、ある種の息苦しさを覚えるからに違いない。その意味で、ベートーヴェンのハ短調シンフォニーとモーツァルトのト短調クインテットは、それぞれが孕むイデーはまったく異なるにしても、相通じるものがあるように私は感じます。

そういう次第で、「モーツァルトのト短調アレグロ」や「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」というのは、それぞれの作曲家における「作者の宿命の主調低音」の或る象徴的調べ、あるいは一つのメタファーであって(そもそも小林秀雄の「主調低音」という言葉がメタファーなのですから、これを音楽家に当てはめた場合、メタファーにメタファーを重ねることになるのですが)、実際にそれらの形式で書かれた音楽以外にはその「主調低音」をきき取ることができないという話ではありませんし、逆に、モーツァルトが書いたト短調アレグロの曲や、ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオの音楽には無条件に「主調低音」の最たるものが現れるということでもないでしょう。そういったことを申し上げた上で、しかし、モーツァルトが実際にト短調アレグロで書いたいくつかの曲や、ベートーヴェンがハ短調アレグロ・コン・ブリオで作曲した数々の楽曲は、確かに或る特別な調べを帯びた音楽であるように思われるのです。

おそらくこのことをさらに突き詰めて考えていけば、そもそもト短調やハ短調といった調性そのものに特定の情趣や性格のようなものが備わっているのかという議論に行き当たるでしょう。そしてこの議論は、それこそモーツァルトやベートーヴェンの時代から繰り返されながら、未だ明確な結論の出ない問題でもあります。先にお話しした古代ギリシアのハルモニアや、現在の長・短音階のように、音階そのものが異なる場合(もう少し正確に言えば、音階における各音の音程関係が異なる場合)は、そこにある特徴的な性格の違いが生じるということはある。しかし、たとえば同じ短音階のハ短調とト短調とでは、主音がハ音であるかト音であるかの違いはあっても、オクターブを構成する七つの音が「全音・半音・全音・全音・半音・全音・全音」の関係で配列されていることに変わりはなく、基本的には音階全体の相対的なピッチが異なるだけですから、それだけでそれぞれの調性に固有の性格が生じるとは、少なくとも絶対音感を持っていない多くの人からすれば考えにくいことでしょう。しかも、イ音(中央ハの上のイ)のピッチを440Hzの周波数に定めたということ自体、二十世紀に入ってからの話であり、それまでは多くの国で今よりも半音ほど低く調律されていたのですし、今でも楽器のピッチをどう設定するかは、奏者やオーケストラによっても微妙に異なります。つまり、ト短調の曲が常にト短調のピッチで演奏されるとは限らないのです。

一方で、楽器にはそれぞれその楽器に適した調性、つまりその楽器が最も鳴りやすい、あるいはその楽器が最も演奏しやすい調性というものがある。たとえばヴァイオリンはニ音を開放弦として持つため、これを主音とする調性で演奏すると弦がのびやかに鳴るということがあります。ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーがそれぞれ書き残した唯一のヴァイオリン協奏曲がいずれもニ長調で書かれているのは、それが理由の一つでしょう。またクラリネットにはイ長調のクラリネットと変ロ長調のクラリネットがあるが、モーツァルトはイ長調のクラリネットの音色を特に好み、クラリネット五重奏曲とクラリネット協奏曲というこの作曲家のクラリネット音楽の二大傑作は、いずれもイ長調で書かれています。あるいはクラリネットが主役の音楽でなくても、たとえばイ長調ピアノ協奏曲(K.488)の中で、クラリネットが特別な彩りを添えるということもある。この場合、「モーツァルトのイ長調」とは、「イ長調」という調性そのものが持つ性格というよりも、イ長調クラリネットの音色の性格であり、それを好んだモーツァルトのある音楽性が反映された結果だということになります。

さらには、作曲家本人が特定の調性に何らかの思い入れをもって作曲するということもあるだろう。たとえば先ほどお話ししたニ長調という調性は、ただヴァイオリンがよく鳴る調性というだけではない。主音であるニ音(D)は、ラテン語で綴る神「Deus」の頭文字です。ヘンデルの有名な「ハレルヤ・コーラス」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」など、神を讃える音楽の多くがニ長調で書かれているのは、このことと無関係ではありません。するとニ長調の音楽は、結果として崇高で輝かしい喜びの印象を与えるということになる。加えて、ヘンデルを大変尊敬したベートーヴェンが、ヘンデルのニ長調の響きを模倣するということもあるはずです。そうすると、「ヘンデルのニ長調」が歴史的に継承されていくことにもなるわけです。

しかし私のような音楽の素人が、これ以上この問題に深入りしても意味はないでしょう。調性とその固有の性格の有無という問題は、それが存在する理由も存在しない理由も、永遠に等しく論うことができるというのがおそらく真相でしょう。またその実証が、ここでお話ししたいことの眼目でもありません。仮に第五シンフォニーがハ短調以外の調性で書かれていたとしても、この音楽がベートーヴェンの「宿命の主調低音」の象徴的形姿であるという事実に変わりはないはずです。大事なのは、この交響曲が何調で書かれているかではなく、この音楽がわれわれに与えるイデーである。そしてそのイデーは、ベートーヴェンが生まれる二千年以上も昔、古代ギリシアのひとりの哲人によってすでに示唆されていたものであった。私が驚いたのは、その事実でした。それは、ソクラテスの語った「あの調べ」が、第五シンフォニーが作曲されて以後二百年、この音楽について語られたどの言葉よりもその本質を衝いていたからではありません。人間は、紀元前の昔からベートーヴェンの「あの調べ」を待望していたという、その事実に驚き、感動するのです。

さて、ソクラテスが語った「あの調べ」―戦争をはじめすべての強制された仕事のうちにあって勇敢に働いている人、また運つたなくして負傷や死に直面し、あるいは他の何らかの災難におちいりながら、すべてそうした状況のうちで毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人、そういう人の声の調子や語勢―を、私たちはベートーヴェンの音楽のうちにだけでなく、他ならぬベートーヴェン自身の「声」としてきくことができます。否、その「声」が現に存在するからこそ、ソクラテスの台詞に出会って思わず錯覚するということもあるのでしょう。そのベートーヴェンの「声」は、この作曲家の音楽を愛する人であれば、直接にも間接にも、いつか、どこかで、一度は目に触れたり耳に触れたりしているはずのものだ。けれどもこの驚くべき「声」の全文を熟読したことがある人は、第五シンフォニーを全曲聞いたことがある人よりもずっと少ないことは確かでしょう。

あの「tristesse allante」について書かれた「モオツァルト」第九章の冒頭で、小林秀雄は、母親の死を父レオポルトに知らせる二十一歳のモーツァルトの書簡を取り上げ、しかしその「凡庸で退屈な長文の手紙」を引用するわけにはいかないと断って、それを数行のうちに要約して紹介した。けれども、ベートーヴェンの「あの調べ」を伝えるこの長文は、省略されることも要約されることも自ら断固拒否している。それは、この長文が凡庸でも退屈でもないからだけでなく、ここに発せられた「声」が、この作曲家の「遺書」として書かれたものでもあったからです。モーツァルトがレオポルトに宛てた手紙からは、「あの唐突に見えていかにも自然な転調を聞く想いがする」と小林秀雄は書いている。一方、弟カルルとヨーハンに宛てられたこのベートーヴェンの「遺書」の紙背から現れて来る魂は、紛れもなくあのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べを世に送り出した人のそれではあるが、同時にまた、その魂は不思議な静けさを湛えていて、それは闘いを目前にひかえた者に瞬時到来する静けさであるか、あるいはついに闘い終えた者だけが獲得する静けさであるのか、判然としません。おそらくは、そのどちらでもあるのだろう。そして思うに、この静けさのうちにこそ、この芸術家のほんとうの「詩人としてのイデー」があるのです。

「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるこの有名な、は、ベートーヴェンの死後、残された書類の中から偶然発見されました。書かれたのはこの作曲家の死の二十五年前、三十一歳のときでありました。

 

おお、お前たち、―私を厭わしい頑迷な、または厭人的な人間だと思い込んで他人にもそんなふうにいいふらす人々よ、お前たちが私に対するそのやり方は何と不正当なことか! お前たちにそんな思い違いをさせることの隠れたほんとうの原因をお前たちは悟らないのだ。幼い頃からこの方、私の心情も精神も、善行を好む優しい感情に傾いていた。偉大な善行を成就しようとすることをさえ、私は常に自分の義務だと考えて来た。しかし考えてもみよ、六年以来、私の状況がどれほど惨めなものかを! 無能な医者たちのため容態を悪化させられながら、やがては恢復するであろうとの希望に歳から歳へと欺かれて、ついには病気のであることを認めざるを得なくなった―たとえその恢復がまったく不可能ではないとしても、おそらく快癒のためにも数年はかかるであろう。社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活潑な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。折りに触れてこれらすべての障害を突破して振舞おうとしてみても、私は自分の耳が聴こえないことの悲しさを二倍にも感じさせられて、何と苛酷に押し戻されねばならなかったことか! しかも人々に向かって―「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なるものでなければならない、一つの感覚、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝け出しに行くことがどうして私にできようか! ―何としてもそれはできない! ―それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで逐放されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。―この半年間私が田舎で暮らしたのもその理由からであった。できるだけ聴覚を静養せよと賢明な医者が勧告してくれたが、この医者の意見は現在の私の自発的な意向と一致したのだ。とはいえ、ときどきは人々の集まりへ強い憧れを感じて、出かけてゆく誘惑に負けることがあった。けれども、私の脇にいる人が遠くの横笛フレーテの音を聴いているのに、だれかが私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう!

たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。―私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を―ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た! ―今や私が自分の案内者として選ぶべきはであると人はいう。私はそのようにした。―願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。―厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。―二十八歳で止むを得ず早くも悟った人間フィロゾーフになることは容易ではない。これは芸術家にとっては他の人々にとってよりいっそうつらいことだ。

神(Gottheit)よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる。この心の中には人々への愛と善行への好みとが在ることをおんみこそ識っていられる。おお、人々よ、お前たちがやがてこれを読むときに、思え、いかばかり私に対するお前たちの行いが不正当であったかを。そして不幸な人間は、自分と同じ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、全力を尽したことを知って、そこに慰めを見いだすがよい!

お前たち、弟カルルと(ヨーハン)よ、私が死んだとき、シュミット教授がなお存命ならば、ただちに、私の病状の記録作成を私の名において教授に依頼せよ、そしてその病状記録にこの手紙を添加せよ、そうすれば、私の歿後、世の人々と私とのあいだに少なくともできるかぎりの和解が生まれることであろう。―今また私はお前たち二人を私の少しばかりの財産(それを財産と呼んでもいいなら)の相続人として定める。二人で誠実にそれを分けよ。仲よくして互いに助け合え。お前たちが私に逆らってした行ないは、もうずっと以前から私は赦している。弟カルルよ、近頃お前が私に示してくれた好意に対しては特に礼をいう。お前たちがこの先私よりは幸福な、心痛の無い生活をすることは私の願いだ。お前たちの子らにを薦めよ、徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験からいうのだ。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは徳性であった。自殺によって自分の生命を絶たなかったことを、私は芸術に負うているとともにまた徳性に負うているのだ。―さようなら、互いに愛し合え! ―すべての友人、特にに感謝する。―リヒノフスキーから私へ贈られた楽器は、お前たちの誰か一人が保存していてくれればうれしい。しかしそのため二人の間にいさかいを起こしてくれるな。金に代えた方が好都合ならば売るがよかろう。墓の中に自分がいてもお前たちに役立つことができたら私はどんなにか幸福だろう!

そうなるはずならば、―悦んで私は死に向かって行こう。―芸術の天才を十分展開するだけの機会をまだ私が持たぬうちに死が来るとすれば、たとえ私の運命があまり苛酷であるにせよ、死は速く来過ぎるといわねばならない。今少しおそく来ることを私は望むだろう。―しかしそれでも私は満足する。死は私を果てしの無い苦悩の状態から解放してくれるではないか? ―来たいときに何時でも来るがいい。私は敢然と汝を迎えよう。―ではさようなら、私が死んでも、私をすっかりは忘れないでくれ。生きている間私はお前たちのことをたびたび考え、またお前たちを幸福にしたいと考えて来たのだから、死んだのちも忘れないでくれとお前たちに願う資格が私にはある。この願いを叶えてくれ。

 

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ハイリゲンシュタット、一八〇二年十月六日

(ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」より/片山敏彦訳)

 

(つづく)

 

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

小林秀雄はしかし、「ベエトオヴェン」は書かなかった。その理由の詮索は、今は措いておきましょう。それよりも、もし小林秀雄が「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼は一体何を書いたのか。本人が何度も語っていたように、その書き振りは、確かに「モオツァルト」とは異なるものになったかもしれない。けれども、「もっと専門的なもの」を書くとはいっても、たとえば彼がベートーヴェンの楽曲のアナリーゼをやったり、「私」ではなく「我々」を主語とするような研究論文を書いたとは思えません。彼はやはり、「モオツァルト」を書いたとき同様、「詩人としてのイデー」より入る他なかったでしょう。それはすなわち、ベートーヴェンが演じた「人間劇」を描くということであり、その「人間劇」が孕む「イデー」を、この作曲家が奏でた調べの裡に見出すということだったに違いありません。そしておそらく、その「イデー」は、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎だ」と彼が坂本忠雄さんに語った、「早来迎」という言葉に凝結するものだったろうと思われるのです。

「モオツァルト」において小林秀雄が見出した調べといえば、何といってもK.550のシンフォニーの第四楽章と、K.516の弦楽クインテット第一楽章に通底する「ト短調」の調べです。そしてその調べが語る「イデー」を、彼は、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」というあの一節に結晶させました。小林秀雄は、この作品の中でモーツァルトのト短調の音楽だけを取り上げたわけではありませんが、この二曲についてそれぞれ書いた第二章と第九章が、彼のモーツァルト論の要であり、文章全体の調子を決定していることは疑いありません。あるいはそれは、「モーツァルトのト短調」というより「小林秀雄のト短調」と言った方がいいものかもしれないが、その彼の文章の調子が、モーツァルトの音楽が持つ或る調子と深く共鳴するものであったことは確かです。

一方、そのことについては昔も今も変わらぬ批判があります。モーツァルトの音楽の魅力はト短調、あるいはもう少し広く言って、短調の音楽だけにあるのではないという批判です。至極もっともな批判だが、小林秀雄の「モオツァルト」がト短調に偏っているという非難は、たとえばト短調シンフォニーを初演したモーツァルトに向かって、「今度のシンフォニーはト短調の響きが支配的で、あなたのイ長調の音楽のよさが出ていない」と非難するようなものです。モーツァルトがト短調シンフォニーという一篇の交響曲を書いたように、小林秀雄は「モオツァルト」という一篇の散文、一筋の歌を歌おうとしたのです。歌には調べが必要です。K.550を作曲するにあたって、モーツァルトがト短調という特定の調性を選んだように、「モオツァルト」という歌を歌うために、小林秀雄は一つの調べを選択した。すべての調べを盛り込もうとすれば、それは完全無調の音楽になってしまうようなもので、学術論文にはなるかもしれないが、歌にはなりません。彼が歌った「モオツァルト」の調べは、モーツァルトが作曲した数ある調べのうちの一つに呼応するに過ぎなかったかもしれないが、それはモーツァルトの調べの中でもっとも本質的な調べと思われた。少なくとも、小林秀雄にとってはもっとも切実な調べであった。その調べを、その調べのままに綴ろうとしたのが「モオツァルト」なのです。彼自身、この作品を発表した翌年のパネルディスカッション(「文壇の崩壊と近代精神他」)で、「モオツァルト」で自分がやりたかったのはモーツァルトについてのあれこれの分析ではなく、だった、それは、調調ということだったと発言しています。

では、小林秀雄が「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼はこの作曲家にどのような調べを見出したのでしょうか。だがそう問うてみる前に、「ベートーヴェンの調べ」と言われて、皆さんの頭の中で真っ先に鳴る音楽がありはしないか。それは、「タタタターン」というあの主題で始まる、第五シンフォニー第一楽章の調べではないか。無論、人口に膾炙したベートーヴェンの調べという意味では、たとえば第九シンフォニーの「歓喜の主題」を思い浮かべる人もあるでしょう。しかしあの旋律は、ベートーヴェンが願った一つの理念を象徴する調べではあっても、ベートーヴェンという芸術家その人を彷彿とさせるような調べと言われれば、多くの人は第五シンフォニーの冒頭部をまず思い浮かべるのではないでしょうか。

いや、あれは通俗化されたベートーヴェン像に過ぎないという人もあるだろう。では、「タタタターン」の調べではなく、「ベートーヴェンのハ短調」と言い換えてみればどうだろう。「モーツァルトのト短調」と言われて、そこに通底する或る独特な調べを想起させるものがあるように、「ベートーヴェンのハ短調」と言われたときにも、ベートーヴェンの音楽をよく知る人であれば、一つのはっきりした特徴ある調べを思い浮かべることができるはずです。しかも「モーツァルトのト短調」は、「モオツァルト」に引用された二曲を除けば、あとはK.183のシンフォニーとK.478のピアノ四重奏があるくらいで、モーツァルトが生み出した膨大な音楽の中でいえばむしろ例外的な調べであり、特異点のようなものと言った方がいいくらいです。一方、「ベートーヴェンのハ短調」は、ベートーヴェンが何度も使用した調性であったというだけでなく、多くの人に「もっともベートーヴェンらしい」と感じさせる特徴があり、かつベートーヴェン自身もそのことをはっきり自覚していたのではないかと思われるような、そういう調べであることを否定する人はおそらくいないはずです。

実は小林秀雄も、その「ベートーヴェンのハ短調」に触れたことがあります。「小林秀雄とのある午後」の中で、モーツァルトではト短調という調性が重要のようですがと問われると、「ベートーヴェンのハ短調と同じだろうな。モーツァルトは意識なんかしなかっただろうが、とにかく、そういうことはあるのだ」と答えていますし、「文学と人生」という鼎談では、文学者にとって一番大切なこと、本質的なことは何かと問われて、それは根底的な自分の世界という意味での「トーン」をこしらえることだと言い、たとえばベートーヴェンの「トーン」は作品十八でもう決定している、と語っています。ベートーヴェンの作品十八とは、六曲一組で発表された初期の弦楽四重奏のことですが、その中にも一曲、唯一の短調の曲としてハ短調のカルテットが入っています。「ベートーヴェンのトーンは作品十八でもう決定している」と言われたときにまず思い当たるのは、このハ短調カルテットですし、小林秀雄もこの曲を思い浮かべてそう言ったと思われるのです。

もっとも、「モーツァルトのト短調」や「ベートーヴェンのハ短調」というのは少し大雑把過ぎる言い方かもしれません。「モオツァルト」で小林秀雄が見出した調べは、ただ「ト短調」というだけではなかった。そこにはもう一つの、極めて重要な調べが加わっていた。「モオツァルトのアレグロ」です。「モオツァルト」では、「ト短調」という調性そのものよりも、むしろそれがアレグロで疾走するというところに重点があったと言えます。「モオツァルト」の言葉で言えば、「人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかったとでも言いたげな」モーツァルトの音楽の速さ、「涙は追いつけない」というその「かなしさ」の速度です。

一方、「ベートーヴェンのハ短調」をもう一歩進めて言えば、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」ということになるでしょう。「アレグロ・コン・ブリオ」とは、「生き生きとした輝きをもつアレグロ」という意味だ。それを明るく開放的なハ長調の響きではなく、悲劇的で悲愴なハ短調で作曲するのです。ちなみにゲオンがモーツァルトのアレグロを形容した「tristesse allante駆けめぐる悲しさ」の「allante」というフランス語にも、「潑剌とした」や「活発な」という意味があります。小林秀雄はゲオンのこの「tristesse allante」を「互いに矛盾する二重の観念」とも評していますが、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」もまた「二重の観念」と呼んでよいものかもしれません。

ベートーヴェンは、二十五歳のときに出版した作品一の中ですでにこの調べの音楽を書いています。それは、三曲一組のピアノ・トリオですが、ちょうど作品十八のカルテットに一曲だけハ短調の音楽が織り交ぜてあったように、作品一の三つのトリオにも一曲短調の音楽が含まれており、その第一楽章が「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」で書かれているのです。当時ベートーヴェンが教えを請うていたハイドンは、このピアノ・トリオの初演を聞き、ハ短調のトリオだけは出版しない方がよいと勧告したといいます。その理由は定かではありませんが、ピアノ・トリオというのはその頃はまだ家庭やサロンで気楽に演奏される娯楽音楽だったために、その穏健なイメージを逸脱し、破壊するベートーヴェンのハ短調トリオは世間には理解されないと考えたのでしょう。しかしベートーヴェンは、このハ短調トリオにこそ自信があったのです。

その後も、初期の代表作であり、ベートーヴェンのピアノ音楽の中でもっともポピュラーな曲の一つである「悲愴ソナタ」の第一楽章、中期の傑作の一つであるピアノ協奏曲第三番の第一楽章や「コリオラン序曲」など、ベートーヴェンはこの調べの音楽を書き続けます。そしてこの「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の象徴であり、権化のような音楽が、第五シンフォニーの第一楽章なのです。

このシンフォニーについては、誰もが知る有名な逸話があります。あるとき、ベートーヴェンが秘書のシントラーに向かって、この曲の冒頭の楽譜を示し、「運命はこのように扉を叩くのだ」と語ったというものです。この逸話は、今ではシントラーの捏造の一つとされていて、誰も真面目には受け取らなくなった。そもそも二十世紀以降の音楽の世界では、それ以前の浪漫主義音楽への反動もあって、こういった文学的な音楽の鑑賞や解釈の仕方を通俗で幼稚なものとみなす傾向があります。たとえば、徹底して楽譜に即した音楽を追求しようとした指揮者のアルトゥール・トスカニーニは、この楽章は「運命」などではない、ただのアレグロ・コン・ブリオだと言ったと伝えられます。

私も、ベートーヴェンがこの主題によって「運命が扉を叩く」様を描写しようとしたとは思わないが、あの主題に、というよりもあの楽章全体に、そしてあのシンフォニーの全篇に、ベートーヴェンが自分の運命、自分の宿命というものをどう捉え、それに対してどのような態度を取ったか、その態度のとり方がはっきりと表れているように感じます。すなわち、「運命の喉首を締め上げてみせる」と言った(これは正真正銘ベートーヴェンの言葉だが)この音楽家が人生に対して取った態度です。ベートーヴェンがこの曲でそれを表現しようと意図したということではないが、結果としてそれが如実に表れているのです。その意味で、シントラーの捏造はいかにもよくできた捏造だと私には思われますし、日本では相変わらずこのシンフォニーを「運命」の名で呼ぶことを、単に日本人の音楽的教養の低さだとも思いません。トスカニーニが指揮したこの曲の素晴らしい録音を聞いても、これが「ただのアレグロ・コン・ブリオ」だとは到底思えないのです。

この「運命の主題」については、小林秀雄にも一つ面白い逸話がある。それをご紹介しましょう。彼は戦前、明治大学や文化学院で教鞭をとった時期があったが、教室に入って教卓の前に座るなりタバコに火を付け、「質問ありませんか?」と学生に問うのが常だったといいます。そして一つずつ学生の質問に答えながら、時には「質問からして違ってらあ」と相手にしないこともあったが、三つ四つと出揃った中から最後にあらためて一つを取り上げ、その日の講義を進めたそうです。取り上げられた質問は、いつも彼自身にとって切実な問題であった。ある時、学生の一人が立ちあがり、「先生、テーマとモチーフと、どう違いますか」と質問した。すると小林秀雄は、「タタタターン」といきなり叫び、「ベートーヴェンにとって、これが第五のテーマであり、モチーフだったんだ」と答えたというのです。

音楽におけるモチーフ(動機)とは、楽曲を構成する最小単位として楽句のことです。同じ形の小さな煉瓦を積み上げながら一つの大きな建築物を作るように、「タタタターン」という一つの楽句を幾重にも折り重ねて行くことで音楽を構成するのです。第五シンフォニーの場合、このモチーフは第一楽章のモチーフであるだけでなく、四つの楽章全てのモチーフとして使われている。さらに言えば、これは第五シンフォニーのモチーフであったばかりでなく、ベートーヴェンが生涯を通して何度も使用したモチーフでした。

一方、テーマ(主題)は、モチーフと同じ意味合いで使われる場合もあるが、小林秀雄が「これが第五のテーマであり、モチーフだった」と言ったときの「テーマ」は、単に楽曲を構成する音楽的単位としての主題のことではなかったでしょう。それは、「運命はこのように扉を叩くのだ」とベートーヴェンが語ったというような意味での、この音楽に刻印された、あるいはこの音楽が喚起するところの、或る人間的主題としての「テーマ」のことだったでしょう。そしてその「テーマ」は、第五シンフォニーのテーマであっただけでなく、ベートーヴェンという芸術家が生涯を賭して対峙し続けたテーマでもあった。ですから小林秀雄は、「これがベートーヴェンのモチーフであり、テーマだった」と言ってもよかったのです。いや、実際には彼はそう言ったのではないかと思う。つまり小林秀雄が言った「テーマ」とは、「詩人としてのイデー」のことなのであり、「文学と人生」で言われた言葉で言えば、その作家が持つ「トーン」、そして若い頃の彼の言葉で言えば、「作者の宿命の主調低音」のことなのです。

 

芸術家のどんなに純粋な仕事でも、科学者が純粋な水と呼ぶ意味で純粋なものはない。彼等の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思う処を抽象する事が出来る、と言う事は又何物を抽象しても何物かが残るという事だ。この豊富性の裡を彷徨して、私は、その作家の思想を完全に了解したと信ずる、その途端、不思議な角度から、新しい思想の断片が私を見る。見られたが最後、断片はもはや断片ではない、忽ち拡大して、今了解した私の思想を呑んで了うという事が起る。この彷徨は恰も解析によって己れの姿を捕えようとする彷徨に等しい。こうして私は、私の解析の眩暈の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音をきくのである。(「様々なる意匠」)

 

「主調」とは、第五シンフォニーの主調がハ短調であるように、その曲を貫く「主な調性」のことです。とくに近代以降の音楽では、純粋に一つの調性だけで曲が成り立っていることは例外で、第五シンフォニーにしてもハ短調以外の楽章もあり、第一楽章の中だけでいっても他の調性に転調することがある。それでも全体としてみれば、この音楽にもっとも支配的な調性はハ短調であることから、それをこの曲の主調と呼ぶわけです。一方、小林秀雄の言う「主調低音」とは、一つの作品を貫く「主な調べ」のことだけを言うのではない。その作者が生み出したすべての作品、すべての調べにおいてその一番の方で鳴っている、言わば「作者を貫く主な調べ」をいうのです。そしてそれが、その作者の「宿命」であるというのです。

「主調」も「低音」も一般的な言葉だが、「主調低音」という言葉はおそらく小林秀雄の造語でしょう。これは私の想像だが、彼は、この「作者の宿命の主調低音」というフレーズを、ベートーヴェンの第五シンフォニーから思いついたのではないかと思う。少なくともこのフレーズがもっとも似つかわしい「作者」は、東西古今ベートーヴェンを於いて他になく、またその音楽的シンボルとして、「運命交響曲」というハ短調アレグロ・コン・ブリオ以上にふさわしい調べはないはずです。

この「作者の宿命の主調低音」という彼の有名な言葉は、意外なことに上掲の文壇デビュー作を除けば、それ以前に書かれた二つの文章(「ランボオ Ⅰ」と「測鉛 Ⅱ」)に登場するだけですが、小林秀雄という批評家が、一貫して「作者の宿命の主調低音」に耳を澄まし続けた人であったことは間違いありません。また彼は、様々な言い方でそのことを語り続けました。たとえば次の一節は、本居宣長とともに最も長い時間をかけたドストエフスキーについての最初の大きな仕事である「ドストエフスキイの生活」の出版直前に書かれたものです。「今はじめて批評文に於いて、ものを創る喜びを感じている」と自ら語った「ドストエフスキイの生活」は、彼が「作者の宿命の主調低音」をきくために身をもって「彷徨」し、「眩暈」した最初の仕事であったと言えますが、この一節は、その彼の「経験」をもっともわかりやすく噛み砕いて語ったものとも思われるので、少し長いが読んでみましょう。

 

一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。

そうすると、一流と言われる人物は、どんなに色々な事を試み、いろいろな事を考えていたかが解る。彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなに沢山の思想を犠牲にした結果、生れたものであるかが納得出来る。単純に考えていたその作家の姿などはこの人にこんな言葉があったのか、こんな思想があったのかという驚きで、滅茶々々になって了うであろう。その作家の性格とか、個性とかいうものは、もはや表面の処に判然と見えるという様なものではなく、いよいよ奥の方の深い小暗い処に、手探りで捜さねばならぬものの様に思われて来るだろう。

僕は、理窟を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしている内に、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方をして了うと、その作家の傑作とか失敗作とかいう様な区別も、別段大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるという様になる。

これが、「文は人なり」という言葉の真意だ。それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。(「読書について」)

 

小林秀雄が言った「作者の宿命の主調低音」とは、「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握った」というその「手」のことです。作品の奥の方にいる「人」のことです。そしてその「人」は、作品を生み出した実在の作者という意味での「人」なのではない。それは、「詩人としてのイデー」なのであり、その「イデー」を、彼は一つの「トーン」として批評家だったのです。

(つづく)

 

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」

リヒャルト・ワーグナーに「ベートーヴェン」という演説録があります。今から百五十年前の一八七〇年九月、ベートーヴェンの生誕百年祭に際して行われたものです。もっとも、これは現実に行われた演説ではない。ワーグナーが想像裡に行った架空の演説です。序文によれば、ワーグナーはこの偉大なる作曲家の百年祭に臨席することを切に望んでいたが、自分が出席するにふさわしい機会には恵まれなかった。そこで、この大音楽家のための理想的な祝祭において祝辞を述べるべく招請されたという想定のもと、ベートーヴェンの音楽に関する自らの考えを開陳する、というのです。聴衆のいないこの演説は、そのことによってかえって己の考えをつぶさに述べることを可能とした、かくしてそれは、音楽の本質に深く読者を導くものであるとともに、真摯なる教養人の思索に訴え、音楽哲学に寄与するものとなるだろう、そして時あたかも普仏戦争勃発に沸き立つ我が国民に対し、ドイツ精神の真髄に深く触れせしめる機縁とならんことを欲す―。いかにもニーチェが言った、「大きな壁と大胆な壁画を愛する」この芸術家らしい着想、序文です。

ベートーヴェンの生誕二百五十年の誕生月にあたる今日、この作曲家についてお話しするにあたって、私にはワーグナーのような大それた目論見はありません。ただこの二〇二〇年という年は、ドイツ国民のみならず世界中の人々が未曾有の苦難と忍従を強いられた一年でもあった。それは今もなお続いています。そのような苦難と忍従の年が、またベートーヴェンの誕生を祝う節目の年でもあるという事実は、決して偶然とは思えないものがあります。そしてそのような年の最後に、この作曲家について考え、その音楽に触れようとすることは、単なる音楽鑑賞を超えた意味を我々にもたらしてくれるように思われるのです。

確かにベートーヴェンの音楽には、がある。あるいは音楽とはがあるものだという事実を、音楽家としてはじめて自覚的に、かつもっとも高い次元において証明したのがベートーヴェンだと言ってもいいでしょう。ワーグナーの演説は晦渋かつ高踏なもので、彼がベートーヴェンという天才に見出し讃えた「ドイツ精神」は、必ずしも万人の共感を得るものではなかったかもしれない。しかしベートーヴェンの音楽について考えることは、ただ音楽の本質に触れたり音楽哲学の思索に耽るというだけのことではない、人間精神のもっとも肝心な部分に触れ、人が生きることの意味と難しさに直面することでもあるという点において、ワーグナーがこの音楽家に託したものの大きさはよく理解できる気がします。

とはいえ、バイロイトの老魔術師のように大風呂敷を広げるわけにはいきません。今日は、ベートーヴェンの音楽に対して言われた一つの言葉をめぐってお話ししようと思います。それは、この作曲家の晩年の音楽について小林秀雄が語った言葉なのですが、あるとき、彼は当時「新潮」編集長だった坂本忠雄さんに、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎はやらいごうだ」と言ったというのです。この話は、高橋英夫氏の「疾走するモーツァルト」という本の終章に、坂本さん(本文中ではS氏)との対話という形で登場します。高橋氏は、「早来迎」という言葉は初めて聞いたと言い、この言葉によって小林秀雄が何を言おうとしたのかについては直接には論じていません。私はこの話を坂本さんに直接伺ってみたことがありますが、小林秀雄はただそう言っただけで、他には何も説明しなかったそうです。

「早来迎」とは、「新纂浄土宗大辞典」によれば、「仏・菩薩が迅速なスピード感をもって来迎する様」を言うが、通常は、浄土宗総本山である京都東山の知恩院が所蔵する「阿弥陀二十五菩薩来迎図」の通称です。小林秀雄は、間違いなくこの知恩院の「早来迎」を思い浮かべて言ったものと私には思われる。そして彼が聞いた「ベートーヴェンの晩年の作品」とは、高橋氏も指摘しているように、後期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏を指していることは疑いないが、小林秀雄が晩年のベートーヴェンに見た阿弥陀如来と二十五尊の菩薩群は、とりわけ作品一一一の、この作曲家が最後に書いたピアノ・ソナタに現れているように思うのです。

だがその前に、お伝えしておかなければならないことがいくつかある。まずは生前、について、お話しするところから始めましょう。

 

 

小林秀雄の音楽論といえば、言うまでもなく「モオツァルト」です。他にも音楽について書いた文章がいくつかありますが、作曲家論としてまとまった批評は、これが唯一のものとなった。ただその「モオツァルト」を発表した後で、彼がベートーヴェンについて書こうと企図していたらしいことが伺える証言があります。昭和三十九年一月に発表された篠田一士との対談(「思索する世界」)で、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」と問われているのです。篠田氏は、小林秀雄とは二度しか会ったことがないと後に回想していますから、「前にお目にかかったとき」とは、その五年前に行われた座談会「小林秀雄氏を囲む一時間」の席だったことになる。その中で、小林秀雄は次のように発言しています。

 

たとえば、僕の「モーツァルト論」なんてものは、ありゃあ一つの全然文学的音楽論なんですよ。専門的なものはなんにもないんですよ。だから僕がよくもう一つぐらい書いてやろうと思うことがある。たとえば、ベートーヴェンならベートーヴェンをモーツァルトみたいなやり方で書くなら、ある感動が起きてなんかチャンスがあったら、割合やさしく書ける見込はあるが、そんなことはしたくない。僕が今度音楽を書くならもっと専門的なものを書きますよ。それには勉強が要る。これは音楽の専門的な知識が要りますよ。その知識を得て暇があったら書きたいと思いますが、二度とああいうものは繰返したくない。

 

活字化された記録を読むかぎり、「ベートーベンのことをこんど書く」というよりは、音楽についてもう一度書くなら「モオツァルト」のようなやり方では書きたくない、というのが彼の一番言いたかったところでしょう。同様の趣旨のことは、同じ年に発表された「小林秀雄とのある午後」という座談会でも言われており、後の対談でベートーヴェン論について問われたときも、自分の音楽評というのは「音楽の文学批評」であり、それならできるが、それはやりたくなくなったと答えています。

では、彼がもうやりたくなくなったと語った「文学的音楽論」あるいは「音楽の文学批評」とは何かといえば、それは、それまで彼が書いてきた文学論や文学批評、たとえばドストエフスキーについての批評とは異なる特殊な批評を指していたわけではありません。右に引用した座談会での発言は、文学を対象とした批評と音楽を対象とした批評の違いについて問われたことに対する返答なのですが、結局そこには本質的な違いはないというのが彼の考えなのです。「思索する世界」では、音楽を批評しても絵画を批評しても、結局そこから自分がもらうのは「文学的イメージ」であり、それは結局、音楽や絵を素材とした文学である、と彼は言います。そして次のように語るのですが、これは、文芸批評家と呼ばれながら文学以外を批評対象とすることが多かった小林秀雄の発言として大変重要なものだと思います。

 

たとえば音楽は非常におもしろいですけれどもね、それ言葉にするほうがもっとおもしろいんですね、ぼくには。たとえば絵も、ずいぶん見ますよ。見ている間は、決して言葉は語らないんですよ、絵は。音もそうです。それで、絵に対する批評とか、音楽に対する批評を読むでしょう。

そうすると言葉が見つかるんです。それが逆に、私の見た絵の言葉を語らない印象に帰ってくるんです。そこで、その言葉がかわるんです、言葉のイメージが、自分のものに。そういう経験を僕は実によくするんですよ。

これはどういうことなのかなと考えたことあるんですけどね、けっきょく私は言葉がおもしろいんですよ。

言葉はいつでも、そういうある沈黙から生れてくるんです。

 

ある時、セザンヌの自画像を見た感動について書いたエッセイで、彼は、「いい絵だと感じてしまえば、もう絵から離れたい。離れてあれこれと言葉が捕えたい、文学者の習性というものは仕方のないものだ」とも書いていますが(「セザンヌの自画像」)、「けっきょく私は言葉がおもしろい」というそのことが、戦後、「モオツァルト」から「ゴッホの手紙」を経て「近代絵画」を執筆していた間も、彼の中で一貫して変わらぬものであったということは決して忘れてはならないのです。小林秀雄はこの時期、美の世界に遊んでいたわけではないし、「近代絵画」を終えてから言葉への回帰が始まったということでもなかった。また戦争中、文壇を離れて骨董の世界に熱中していたことについて、「文学とは絶縁し、文学から失脚した」と坂口安吾に批判されたことがありましたが、その安吾の「教祖の文学」と同じ月に発表された座談会で、彼は、骨董という美の世界は近代文学という一種の病気に気づかせてくれた、それは文学的観念を追い出す体操、訓練のようなものだが、しかし結局それもすべて文学のためなのだと明言しています(「旧文學界同人との対話」)。

絵や音楽の批評を読んで見つかる言葉が、自分が見たり聞いたりした絵や音楽の無言の印象に帰ってくる、そこでその言葉のイメージが自分のものにかわると言われているのも、実に興味深い。実際、彼の批評文を読んでいると、明示的なものであれ暗示的なものであれ、そういう経験に随所で遭遇しますし、そのもっとも典型的な例が、アンリ・ゲオンの「tristesse allante(駆けめぐる悲しさ)」という言葉を受けて書かれた、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」というあの一節でしょう。小林秀雄はこのゲオンの言葉を読んだ時、自分の感じを一と言で言われたように思い驚いたと書いていますが、「かなしさは疾走する」という彼の言葉のイメージは、ゲオンの「tristesse allante」のイメージそのものではない、ましてやその誤訳などではありません。「tristesse allante」というゲオンの言葉が、小林秀雄自身の無言のモーツァルト経験に帰ってくることで、彼の言葉のイメージにもの、つまり沈黙していた「自分の感じ」を彼が自らつかんだということなのです。

小林秀雄にとって、「言葉はいつでも、そういうある沈黙から生れてくる」ものであった。右の対談では、その「沈黙」を「ポエジー」とも言い、さらに「イデー」と言い換えています。その「イデー」は、ドストエフスキーにもモーツァルトにもある。けれどもそれは、「ある姿をした、形をした思想」ではない、とも彼は言います。「ある姿をした、形をした思想」とは、概念化され、イデオロギーと化した思想という意味でしょう。そして本居宣長や荻生徂徠の方法の矛盾を分析的に衝こうとする世の批評を批判しながら、イデーをつかんでいればそこには何の矛盾もない、それは彼らの生活のしぶりや、一生を暮らした足取り、そういうものから浮かぶもので、宣長や徂徠を言わば一人の詩人として捉え、「詩人としてのイデー」から入る道だという。この「詩人としてのイデー」から入る道こそ、この対談の翌年から連載開始する「本居宣長」で、彼が辿って行った道でありました。

さて、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」と篠田一士に問われ、「音楽の文学批評」ならできるが、それはやりたくなくなったと答えているのは、この「詩人としてのイデー」の話題の後です。つまり「モオツァルト」という「音楽の文学批評」においても、小林秀雄は「詩人としてのイデー」から入る道を選んだのです。彼はまた、あれは「モオツァルトという人間論」だと語ったこともありますが(坂口安吾との対談「伝統と反逆」)、これも同じことを言った言葉と受け取って差し支えないでしょう。しかしその彼の批評の方法は、戦前のドストエフスキー論から晩年の「本居宣長」に至るまで一貫して変わらぬものでもあった。とすれば、ベートーヴェンではそれはもうやりたくなくなったというのは、「詩人としてのイデー」から入るという彼の方法そのものの否定ではなかったことになります。篠田氏に「やっぱりつまらない?」と聞かれ、「ええ。二度やるのはね」と彼は応じていますが、小林秀雄という批評家は、生涯を通じてそれを何度も繰り返し続けた人なのです。

たとえば彼の絵画批評はどうであったか。「モオツァルト」の発表後、足掛け五年取り組んだ「ゴッホの手紙」を上梓した後、彼は「文学的絵画論」「絵画の文学批評」ならできるが、それはもうやりたくなくなったと言ってもよかったはずです。ところがその後も「近代絵画」において、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルノアール、ドガ、ピカソという七人の画家を四年間かけて取り上げた。その単行本のリーフレットに、この本は専門的な研究ではなく、自分に興味があったのは「近代の一流の画家達の演じた人間劇」だと、「モオツァルト」を振り返ったときとまったく同じことを書いています。これらの絵画論においても、彼はひたすら「詩人としてのイデー」から入る道を歩み続けたのである。晩年においては、彼はルオーの「人間劇」を描きたいとも考えていた。

その小林秀雄が、音楽については「モオツァルト」の他は数篇のエッセイがあるだけで、薄い文庫本一冊に収まってしまうくらいの作品しか残さなかった。あれだけ音楽が好きで、小林家に音楽が鳴らない日は一日もなかったといわれる彼が、文学や絵画よりも音楽への関心と情熱が劣っていたということは考えられない。また、ベートーヴェンという作曲家に対する彼の敬愛の念が、モーツァルトに対するそれに勝るとも劣らぬものであったことは、彼の文章にしばしば登場するこの作曲家への言及の熱量を見れば明らかです。「モオツァルト」の中には、モーツァルトについて書いているのかベートーヴェンの話なのか区別がつかないようなくだりがいくつかありますし、「小林秀雄とのある午後」では、出席者の一人が、「モオツァルト」は戦前のモーツァルトに対する誤解を解いた、モーツァルト以外のことでいいからまた書いてほしいと言うと、彼は、誤解といえばベートーヴェンにも誤解があるといって、ベートーヴェンの話を真っ先に始めるのです。

小林秀雄のベートーヴェンへの思いが、一瞬ではあるがもっとも先鋭的な形で露わになったと思われるのは、六十五歳になる年に五味康祐と行った「音楽談義」という対談での一こまです。「天才と才能家との違い」をめぐって、シューベルトとチャイコフスキー、シューマンとショパン、シベリウスとグリーグを対比しながら語り進めていく中で、話がドビュッシーに触れると、彼は、自分はドビュッシーは好きだがと断った上で、しかしあれは「地方人」だ、パリにいたからパリの踊りになったかもしれないが、まあそんなものだねと吐き捨てるように言う場面があります。そして唐突に、ベートーヴェンがなんでベルリンの踊りですか! と怒鳴りつけるように切り返し、「そういうことですよ、私が言いたいのは」と強い語調で訴えるのです。

小林秀雄は、ドビュッシーの音楽を学生の頃から非常に好きで、今日に至るまで折に触れては聞いて来ていよいよ心惹かれると、五十七歳の年に発表したエッセイ(「ペレアスとメリザンド」)に書いています。しかもその音楽に感動し、この作曲家の評論集「ムッシュー・クロッシュ・アンティディレッタント」を翻訳したのは、ランボーの詩に感動してランボー論を書いたのと同じ頃だったという。つまり、彼の文学的青春を決定付けた「事件」(「ランボオ Ⅲ」)と同列の経験として、ドビュッシーの「影像」や「版画」を回想しているのです。そのドビュッシーを「地方人」と言い捨てるというのは、余程のことです。無論、それ自体は酒も入った上での放言に過ぎないでしょうが、ドビュッシーに対してさえそう放言させてしまうものが、彼のベートーヴェンに対する思いにはあったということは確かでしょう。

その「ベートーベンのこと」をこんど書くと言ったという「小林秀雄氏を囲む一時間」は、昭和三十四年十月に発表されたものです。ただし、小林秀雄が亡くなったときの篠田一士の追悼文(「想望・小林秀雄」)によれば、この座談会が掲載された季刊誌「批評」は発行が遅れに遅れたため、実際に座談会が行われたのは前年の十一月あたりのことだったといいます。この事実も、小林秀雄の年譜の上で見ると看過できないものがあります。その年の二月、「近代絵画」の連載を終え、四月に単行本として刊行すると、彼は「急に音楽が恋しくなった」といって、「モオツァルト」の発表以後十年余り中断していたレコード生活を再開します。そのことは、その年九月に発表された「蓄音機」というエッセイに書かれていますが、彼はまず友人に頼んでオーディオ・セットを組んでもらい、生まれてはじめてLPレコードを買いに銀座へ出かけます。そこで彼が店員に注文したのは、「ラズモフスキー・セット」と呼ばれる、壮年期のベートーヴェンが書いた三曲の弦楽四重奏のレコードでした。そしてこのエッセイの最後のところで、「近頃、ベエトオヴェンが又非常に面白くなっている」と書き、今度は晩年のカルテットである作品一三三の「大フーガ」に触れながら、「伝説の衣が、はがれて、直かに音だけが聞えて来るのに、随分手間がかかったものだ」と吐露しているのです。「ベートーベンのことをこんど書く」という彼の発言は、その二ヶ月ほど後の言葉だったということになります。

篠田氏の回想によれば、この座談会の場で、本題である「批評とは何か」の話が終わると、「ところで君たち音楽なんか、きくのかい」と口火を切ったのは小林秀雄の方だったといいます。座談会の記録には残っていませんが、彼は、つい先だって聴いてきたばかりのドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の日本初演の感想を熱っぽく語り(この公演は昭和三十三年十一月二十六日から十二月九日にかけて行われ、その感想は翌年一月、先にも触れた「ペレアスとメリザンド」として発表されました)、また発売されたばかりのルドルフ・ゼルキンのディアベリ変奏曲のレコードを話題にし、この演奏はすごい、ゼルキンはすばらしいピアニストだと、しきりに感嘆の言葉を口にしたそうです。そしてこのベートーヴェン晩年のピアノ音楽の話題が出たことをきっかけに、篠田氏は小林秀雄に、「『ベートーヴェン』は、いつ、お書きになるのですか」と尋ねたといいます。というのも、この座談会よりもかなり以前から、「という風説が、事情通を自認する人々の間で流布されていたからだというのです。

「モオツァルト」のあとには「ベエトオヴェン(彼はいつもこう表記しました)」が書かれるというその風説は、小林秀雄のベートーヴェン論を待望する愛読者の期待によって多少は増幅されていたかもしれないが、火のないところに立った煙ではなかったでしょう。また五年後の対談で、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」とあらためて篠田一士が問うたのも、実際に言ったか言わなかったかという問題よりも、最初の座談会でベートーヴェンについて語る小林秀雄に、その気配を強く感じたからだったに違いありません。いずれにせよ、小林秀雄が音楽について、「僕がよくもう一つぐらい書いてやろうと思うことがある」と言ったのは、実際そう思ったことが何度もあったからだったに相違なく、もし書くとしたら、その対象としてベートーヴェンが筆頭に上がっただろうことは想像に難くないのです。

ちなみに鎌倉雪ノ下の旧小林秀雄邸に今も残されているテレフンケン社製のオーディオ・コンソールは、その座談会が発表された昭和三十四年の秋に、小林秀雄が自分で見つけて購入したものです。いったん往年のレコード熱に火が付いたら、最初に組み立ててもらった自作のオーディオでは満足できなくなったのでしょう。オーディオ・マニアでもある五味康祐の指南もあって、彼はこのドイツのメーカーを知り、たまたま百貨店でやっていた展示会に出掛けて行って買ったのだそうです。ステレオ・レコードが発売され始めたのは前年の秋、「ベートーベンのことをこんど書く」と彼が言ったちょうどその頃のことでありました。当時としては最新だったステレオ装置と、「モオツァルト」を書いていた頃に聞いていたSPレコードとは比較にならぬ音質で、彼はベートーヴェンのシンフォニーを、カルテットを、ソナタを、片っ端から聞き直していたに違いありません。

(つづく)

 

※以上は、二〇二〇年十二月、小林秀雄とベートーヴェンについて行った講話をもとに新たに書き起したものです。

 

音楽を目撃する

矢部達哉様。

先日、東京都交響楽団のコンサートにお誘いくださった時、「我々人間のやることですから確約はしませんが、きっと心に残るコンサートになるのではないかと想像します」と珍しく予告されましたね。その予告通りの、「心に残るコンサート」であったと同時に、コンサートという時空を超えて、音楽のもっとも初源的な発生の瞬間に立ち会えたかのような深大な感動を覚えました。

不覚ながら、フランソワ=グザヴィエ・ロト氏の指揮を聴くのも観るのも今回が初めてでしたが、冒頭、ラモーの組曲に乗って氏の体が宙に舞い始めた途端、指揮台の上に眼が釘付けになりました。いつもはコンマス席でヴァイオリンを奏でる矢部さんの身体の美しい動きを追っていることが多いのですが、昨夜ばかりは、その矢部さんの隣りで舞い続けるロト氏から眼を離すことができませんでした。

僕らの身体は、赤ん坊の頃には世界に対して完璧に開かれているはずなのに、成長するに従って肉体的にも観念的にも次第に閉じ、強張って行くもののようです。ダンサーでも役者でも、真に一流の舞台人でないと、その身体の閉塞と硬直から完全には抜け切ることができないものですが、ロト氏の身体は、老練な能のシテの如く見事なまでに解放され、爪先から指先に至るまで淀みなく通う気の流れの一筋一筋を、眼で追うことができるようにさえ思われました。いや、確かに僕は、それをいたのだと思います。

それは、指揮者としてのバトンテクニックの巧拙の問題でも、単に音楽に合わせて体がよく動くという話でもありません。指揮台の上で繰り広げられたあの「舞い」は、一切の作為を脱した純心無垢な運動であり、ほとんど重力というものを感じさせない、人間の動きというよりは水辺を舞うウスバカゲロウのようでありました。そしてそのカゲロウ氏が、時折水面に波紋を落としながら自在に浮遊する様を眺めていると、ふと、踊りというものは、人間が生まれる遥か以前から存在したのだという考えが閃きました。それはまた、おそらく音楽というものが、人間が奏でる遥か以前から存在したという事実と同断であるに違いありません。

昨夜僕は、ロト氏の指揮をただ視覚的な踊りとして観て楽しんでいたというわけではありませんでした。その「舞い」にまざまざと表れているものが、そのままオーケストラが奏でる音楽として十全に鳴る様を、確かにと思ったのです。聴くことと観ることとが同じ経験であるような、音楽のもっとも初源的な発生の瞬間。そのことは、二曲目のルベルの音楽の最中、リズミカルな舞曲の楽句を奏でながらオーボエ奏者が突如立ち上がった瞬間に確信となりました。すると、今度は左右に配置されたヴァイオリン群が立奏する。続いてファゴット奏者たちが立ち上がり、拍子に合わせてまた座る――。言わばそれは、指揮者ロトをプリンシパルとする東京都交響楽団というコール・ド・バレエに遭遇したような驚きで、しかも今目撃しているのは、間違いなく音楽であると確信した時、というこの戦慄を、三十年以上も昔、すでに決定的に経験していたことを思い出したのです。

 

 

幼少の頃から、僕は音楽が好きでした。そして音楽の世界の住人になりたいという熱烈な憧れを抱いていました。けれどもそれは子供の儚い夢、音楽家とは三歳の頃からヴァイオリンを奏でる人間のことだと信じていた僕は、三陸海岸沿いのとある片隅で、レコードとラジオを最上の友とする少年でした。

ところがある時期から、どんな名曲を聴いても名演奏に触れても、トランジスタとコイルが生み出す音楽には満たされなくなった。音楽を嫌いになったわけではありません。むしろそれまで以上に強く音楽を求めるようになっていたのですが、それをレコードやラジオは決して満たしてはくれなかったのです。おそらくこの欲求不満は、優れた生演奏に接することで解消されるだろうと思われた。ところが実際にコンサートに行ってみても、不満は一向に解消されません。何が不満だったのかは自分にもわかりませんでしたが、いつも何か決定的な欠落の感覚だけが残りました。

それが大学に入った年でした、東京に出てきてバレエというものを初めて観た。なぜ観に行こうと思ったのか、あるいはたまたま人から貰ったチケットだったのか、今となっては思い出すことができないが、場所は確か新宿の文化センターでした。前半の群舞の音楽が、スティーブ・ライヒの「ドラミング」だったことだけを鮮明に記憶しています。

パーカッションによるあのミニマルな音楽と、それを見事に身体の運動に還元した群舞が始まると、となりました。妙な言い方をするようですが、そうとしか言えない感覚が襲ったのです。僕は舞台上で繰り広げられる踊りを観ているのではありませんでした。それは疑いもなく音楽の感動であった。しかも普段音楽を聴いているときには決して得られない感動で、非常な充足感と開放感を伴ったものでした。そして終演後、それまで満たされることのなかった自分の中にある決定的な欠落の感覚が、完全に消え去っていることに気づいたのです。

その後も、僕は行きました。その年の秋、モーリス・ベジャールがやって来た。それは演目も出演者も会場も音楽も、はっきりと思い出すことができる。「マルロー、あるいは神々の変貌」、今は亡きジョルジュ・ドンがライオンのような立て髪を振り乱し、昨夜と同じ上野の文化会館で踊っていました。音楽は、ベートーヴェンの第七シンフォニーであった。それまで何度聴いたか知れないこの曲を、ワーグナーが「舞踏の聖化」と呼んだこの交響曲を、僕は生まれて初めて聴き、理解したと感じました。

あの包摂的な音楽の陶酔、全面的な理解の感覚は一体何であったのか。それは、音楽にただ人間の身体という視覚情報が加わったということではなかったはずです。あるいはもともと音楽が踊りとともに発生したことを考えれば、感動は至極当たり前の、自然な事の成り行きだったのでしょうか。では、ベートーヴェンのシンフォニーを理解するのに、舞台上の行為は必須であるか。おそらく、ワーグナーはそう確信したに違いありません。少なくとも僕は、この十九世紀浪漫主義芸術の大野心家が、「形象化された音楽の行為」と呼んだところのものは、これだったに違いないと思い込みました。

カール・ベッカーは、ワーグナーが自らの舞台芸術を指して言ったこの有名な言葉を引きながら、ワーグナーにとって音は役者であり、和声はその演技だと説いていますが、それよりも、この作曲家は「音楽を目撃した人」だと言った方がいいのではないか。「舞踏の聖化」とは、第七シンフォニーの舞曲的リズムとダイナミズムの驚くべき精緻と独創をただ賛美した言葉ではなかったはずです。ベートーヴェンの交響曲という純器楽音楽が、「舞踏」という名の神となって降臨し、眼前で踊る様を、確かに彼は見たのに違いありません。そして自分もまた、この「目撃する音楽」を作ってみたいという欲望に取り憑かれたのです。音楽そのものを生み出すことも奏でることもできないが、舞台という形式でなら、自分も音楽の世界の住人になれるかもしれない、そう思った。

それから約十年間、僕は舞台の創作を続け、しかし今度は自分の「音楽」に満たされなくなり、その世界から飛び出しました。それからはや二十年の月日が流れ、音楽への絶対的に満たされぬ飢渇の感情だけがまた残りました。

 

 

三十年前、新宿文化センターの暗闇で初めて経験したあの戦慄を、昨夜のコンサートは図らずも思い出させてくれました。あるいはそれは、以来自分の中に眠っていた、音楽に対するもっとも初源的な憧憬の再生だったのかもしれません。無論それは僕の勝手な空想に過ぎないが、その音楽会の最初のプログラムとして、ラモーの「優雅なインドの国々」という近代以前の舞踊組曲が選ばれていたのは、いかにもふさわしいと僕には思われました。続くルベルのバレエ音楽「四大元素」では、その初源で究極の音楽は、実は生命が誕生する以前から存在していたのだということに気付かされました。そして後半、近代バレエ音楽の最高傑作の一つである「ダフニスとクロエ」が開始されると、そんなウスバカゲロウの舞いや、波紋に揺らぐ水の戯れや、夜明けの曙光が放つ祈りを、「舞い」や「戯れ」や「祈り」と認識するのは、畢竟僕ら人間のみに与えられた掛け替えのない精神の力なのだという事実に今更のように打ちのめされ、その威力と豊穣に圧倒される思いがしました。ラヴェルという人は、まったく何という耳を持ち、この世界にどれほどの「音楽」を聞き分け、見分けていた人なのでしょう。描写音楽というものを皆が誤解しています。あれは自然を描写しているのでも模倣しているのでもない、自然という音楽の産みの親に自らなろうとする作曲家の強烈な創造意思の表れに他なりません。

やがてその終盤、有名な夜明けのシーンで歌われるあの甘美な旋律が、矢部達哉率いる東京都交響楽団の素晴らしい弦楽群によって朗々と歌われるに及び、このコンサートにおいて、はじめて、人間の意思による人間の歌を聞いたように感じました。それは、ベートーヴェンの第九シンフォニーの終楽章で、バリトンが突如歌い出す時の感動にどこか似ていました。ただしその歌は、ダフニスとクロエが舞う古代ギリシアの純朴な歌でも、シラーとベートーヴェンが信じた喜びの歌でもない、近代というものを通過してしまった人間の、嘆きと祈りの歌であり、現代の僕らの胸を切々と打つ旋律でありました。

演奏会の感想として、あるいは称賛が過ぎると思われるかもしれません。しかし批評を書く者にとって、眼の前にいる芸術家を掛け値なしに称賛できるということほど幸福なことはないのです。昨夜のロト氏と東京都交響楽団は、その幸福を確かに授けてくださいました。そして作曲家の創造の意思に肉薄し、これを再生しようとする誠実と熱情によって、「ラヴェルの寿命を延ばした」(これは矢部さんの言葉ですが)とはっきり断言することができます。

 

(了)

 

ブラームスの勇気 最終回

十五

ナホトカへ向けて出航する直前、中村光夫、福田恆存と行った鼎談の中で、小林秀雄は次のように語っていた。

 

僕はこのごろ人間というものは天分だと思っている。天分がわかるのは中年すぎだからね。そうするとやはりある切実なものがある。肉体はもうわかりきっているが、心の世界だね。僕らの心はとらえがたいんだ。とらえるというのはおかしいけれど、大体納得いくのが遅いんだよ。どうしても希望があるからね。そうするといわゆる天分はわからないんだ。天分というものはある。心にもちゃんとある。肉体のごとく、生まれつきのある態勢があるよ。そういう理解はやはり遅れるんだ。しかしその感触が大体わからないとなかなか本当のことはできないんじゃないかなあ。(「文学と人生」)

 

彼が言った「希望」については、もはや説明の要はないだろう。この旅行に出る二年前、還暦を迎えた年に発表した一文で、小林秀雄は、「これを機会に、自分の青春は完全に失われたぐらいの事は、とくと合点したいものだと思う」とも書いていたが(「還暦」)、その「青春」とは、嘗て作家を志し、さらには「批評的創作」を目論んだ小林秀雄の、文学的「希望」の異名でもあったはずである。「私は、幾つかの青春的希望が失われたが、その代り幾つかの青春的幻想も失われた事を思う」と書いた、その失われた「希望」と「幻想」への最終的な「納得」こそ、彼が「神々の黄昏」第三幕で真に得たものであったのだ。

そのジークフリートの葬送場面に続けて、小林秀雄に自身の「天分」を思い知らせ、「本当のこと」に思い至らせたもう一つの場面があった。それは、「ニーベルングの指環」の大詰め、ライン河畔に積まれた薪の山の上に置かれたジークフリートの遺体に火を投じたブリュンヒルデが、愛馬グラーネに跨り、燃え上がる火の中へ飛び込むシーンであった。

 

ブリューンヒルデが燃える火の中に飛び込むでしょう、あそこでパッと鳴るでしょう。あれでたくさんです。あれでワーグナーは終ったんです。ブリューンヒルデのあのときの絶叫というものは、あれは女の絶叫でも、人間の絶叫でもない、松の木が女になったような絶叫です。僕は慄然としました。(「音楽談義」)

 

雑誌に掲載された対談録は、ここで終わっている。だがこの対談には、まだ続きがある。小林秀雄は、このブリュンヒルデの最期の「絶叫」にただ感動したというだけではなかった。この後、彼はそれまでの絶賛の口振りから急に声の調子を変え、「だけどあの人は、僕は尊敬しますけど、愛しませんね」と吐き捨てるように言った上で、次のように呟くのである。

―僕はあんな風に人生を生きたくないからね。生きたくないし、僕は日本人だし、日本人というものは、ゲルマン人とは違いますからね。僕はそうではない、無論僕はそうではないです。僕はもう本居宣長ですからね。あんなゲルマンの天才なんか、どこかにいたかもしれないが、そんなことはどうでもいいことですからな。……

「ゲルマンの天才」とは、ひとりワーグナーだけに向けて言われた言葉ではなかっただろう。この旅行から帰国した翌年、岡潔を相手に行った対談(「人間の建設」)で、小林秀雄は、自分にはピカソの中に流れるスペインの凶暴な血なまぐさいような血筋も、(ドストエフスキーにおける)キリスト教も、結局はわからないと言い、「自分にわかるものは、実に少ないものではないかと思っています」と告白した。そして岡潔に、「小林さんがおわかりになるのは、日本的なものだと思います」と言われると、「この頃そう感じてきました」と即座に答えている。

冒頭に引いた鼎談でも、彼は嘗て夢中になったランボーについて、今振り返ってみると、自分が感動したのはフランス文学というものとは全然違う、むしろ日本の歌や俳句にあるイメージに近いもので、当時ははっきり意識しなかった自分の中に潜む「日本人としての民族的な意識」だと言う。それは、一言で言えば「自然」であり、ランボーにはあるその「自然」が、しかしボードレールにはないと言って、「あれはほんとうに西洋的なものだ」と断じるのである。

彼はまた、それを「リアルなものに対する感覚」だとも言っている。一方、それに対立する「西洋的なもの」については言及していない。だが、「自然」とは訣別し、人間の意志と自意識との裡に「人工楽園」を築こうとするもの、「リアルなものに対する感覚」から離脱して「旅への誘い」の歌を歌おうとするもの、それはすなわち、浪漫主義というものではなかったか。しかも小林秀雄にとって、浪漫主義とは、ヨーロッパ近代の一時期を画した文芸思潮に止まるものではなかった。彼自身もまた、この大いなる運動の子供だったのであり、彼の「希望」も「幻想」も、すべてそこから生まれた思想とともにあった、少なくとも、彼にはそういう自覚があったのである。昭和二十五年、四十八歳の年に、小林秀雄は青山二郎に向かって次のように語ったことがあった。

 

作家というものは、それ(引用者注:生活の喜びや悲しみ)では足りないんだよ。何かとんでもないあこがれを持っているのだね。何もかも自分で新しくやり直したい、やり直して、すっかり自分の手で作ったもののなかに、ある世界を発見したいのだね。そういう何かまったく実生活的じゃないものがある。

まあこれも疑えば疑うことはできる。つまりそういうふうな芸術のなかに命を見出したいという傾向は、僕はいわゆる浪漫主義の運動から始まった一つの思想だと思う。芸術なんていうものは何んでもなかった、ただ生活というもの、人生というものをどんどんよくして、喜びを増すその手段に過ぎなかった。芸術なんてものは昔そういうものだったんだよ。ところがだんだん浪漫派からそうじゃなくなって、今度は芸術のために生活を犠牲にしようという思想が生じたんだ……。僕らはそういう思想からまだ脱けずにいるんだ。だから浪漫派芸術の運動というものは非常に大きな運動で、リアリズムの運動でも、象徴派、表現派、何んでもいい、あらゆるものが浪漫主義の運動の子供なのだ。そういうものが生んだ子供で、僕らはまだそういうものから脱けていない。まあ僕はこういう大問題を解決する力はない。ただそういうようなものを受継いで、僕らはつまり、文学にいそしんでいるということは確かだね。(「『形』を見る眼」)

 

「僕らはそういう思想からまだ脱けずにいる」と繰り返したこの対談が、「ゴッホの手紙」の連載がいったん途絶えていた時期になされたものであったこと、すなわち「ゴッホ」を描き出すことを企図した小林秀雄が、「キリストという芸術家にあこがれた人」としてのゴッホ論を語った対談であったことを思い出そう。ここで言われた「何かまったく実生活的じゃないもの」への熱烈な志向と憧れこそ、彼が言った「西洋的なもの」の根底にあるものなのであり、それがまた、戦前、彼が「作家の顔」と呼び、「第二の自我」と名指したところのものでもあった。

次の一節は、トルストイの晩年の日記をきっかけに起こった正宗白鳥との所謂「思想と実生活」論争の口火を切ったものであるが、重要なのは、この論争が、彼の最初の「批評的創作」の連載中に行われたという事実なのである。

 

あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。(「作家の顔」)

 

「ドストエフスキイの生活」を執筆していた小林秀雄が、当時、この「思想と実生活」問題の秘密を、十九世紀ロシアの大作家に見ていたというだけではない。「現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生する」ことを願ったのは、他ならぬ彼自身であったということなのである。

先の青山二郎との対談と同じ月に発表された「表現について」というエッセイは、小林秀雄の浪漫主義論である。その冒頭で、彼は、浪漫派の時代は「表現の時代」であり、表現(expression)とは、元来蜜柑を潰して蜜柑水を作るように、己れを圧し潰して中味を出すこと、己れの脳漿を搾ることだと言っている。それは、「自明な客観的形式を破って、動揺する主観を圧し出そうという時代」であり、同時に、「何も彼も自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難しい時代」であった。ゲーテはこの時代傾向を、「弱々しく病的なるもの」と言い、「主観主義という現代病」と呼んだ(「エッカーマン「ゲーテとの対話」)。だが小林秀雄は、ゲーテが言ったこの「浪漫主義という病気」に、芸術家達は、「進んで、良心をもって、かかったのである」と書く。彼もまた、この或る種の病いに、「進んで、良心をもって、かかった」文学者の一人であったからである。小林秀雄は、ゲーテのような浪漫主義批判者ではなかった。あるいは彼は、ゲーテを単なる浪漫主義批判者とはみなしていなかった。それは、「モオツァルト」の冒頭章を読めば明らかであろう。

「表現について」という浪漫主義論が、そのまま、彼のベートーヴェン論であり、ワーグナー論であり、そしてボードレール論であったことに注意しよう。青年時代、虫の様に閉じ込められていたという「悪の華」のあの「比類なく精巧に仕上げられた球体」(「ランボオ Ⅲ」)とは、小林秀雄を俘囚にした、「浪漫主義」という呪われた思想の化身であり、彼が夢見た「第二の自我」の究極の文学形象であった。その入口も出口もない「球体」を砕いたのは、二十三歳の時に出会ったランボーであったと彼は書いたが、この「不思議な球体」は、その後も繰り返し姿を変えては現れ、彼を閉じ込めたのであり、その都度、彼はこれを砕いて新たに「出発」し続けたのであった。

この「球体」が本当に砕け散り、彼が最後の「出発」を果たしたのは、四夜続いた「ニーベルングの指環」の解決音が鳴り終わり、バイロイトの「巨大な喇叭」から彼が抜け出た時であっただろう。ジークフリートの棺とともに、自らの「青春的希望」を葬送し、ブリュンヒルデの投身によって、その真紅の炎が神々の住むヴァルハラ城を覆い尽くした時、小林秀雄は、長らく彼を俘囚にしてきた西を見たはずである。ブリュンヒルデの絶叫とともに彼が慄然としたものとは、「浪漫主義」という生き方の、終止形カデンツのない無限旋律であった。と同時に、彼は、その無限旋律に抗う自身の「生まれつきのある態勢」を、「その感触」を、すなわち彼の「天分」を思い知ったに違いない。小林秀雄が「浪漫主義」とは袂を分かち、ブラームスというもう一つの生き方に最終的な思いを定めたのは、おそらくその時である。

「音楽談義」では、このあと、「僕はもう本居宣長ですからね」と言ったその「本居宣長」を、ブラームスで書いていることの真意が語られる。それは既に書いた。だが、ブラームスについて語られた、小林秀雄のこの最後の独語は、ここにもう一度書き写しておきたい。前後五時間に及んだこの対談は、後半に進むにしたがって酒も進み、彼は五味康祐の話にはほとんど耳を貸さずに、文字通りの独壇場で話し続けたが、この最後のくだりに至って、不意に、「あの、五味さんね……」と口調を和らげ、次のように語り出したのである。

―僕はできるかどうか知らないが、一生懸命書いているんだよ。もう僕は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いなとかいうものは書けないと思ってきたのだ。書けないね、もう、恥ずかしくてね。僕がブラームスみたいに書きたいなあとこの頃思っているのは、そういうことなんだよ。ブラームスって、あんた、聴くか? ブラームスってのはいいですね。僕は段々ブラームスを好きになりましてね。あんなものは誤解のかたまりだと僕は思っています。誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君。……

帰国して間もなく、小林秀雄は、「ネヴァ河」と「ソヴェトの旅」に続いて、「批評」という短い一文を『読売新聞』に寄せた。その中で、彼は、「批評とは人をほめる特殊の技術だ」と述べ、批評精神を次のように定義する。おそらく、ここで言われた「果敢な精神」こそ、バイロイトから帰った小林秀雄がブラームスに見出した「勇気」であり、その「勇気」によって「断念」したものこそ、彼の「浪漫主義」そのものであっただろう。

 

論戦に誘いこまれる批評家は、非難は非生産的な働きだろうが、主張する事は生産する事だという独断に知らず識らずのうちに誘われているものだ。しかし、もし批評精神を、純粋な形で考えるなら、それは、自己主張はおろか、どんな立場からの主張も、極度に抑制する精神であるはずである。そこに、批評的作品が現れ、批評的生産が行われるのは、主張の断念という果敢な精神の活動によるのである。

 

「本居宣長」の連載が開始されたのは、この一文が書かれた一年半後のことであった。それから十一年半、全六十四回の連載と、さらに十ヶ月間の推敲期間を経て、この「果敢な精神の活動」の結実としての大著が脱稿した。その書き下ろしの最終章には、「『天地の初発ハジメ』、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた」という一行がある。これは、「表現について」の終わり近くに書かれていた、「生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる」という信条なしには生まれ得なかった言葉である。小林秀雄は、「浪漫主義」とは訣別したが、彼の「思想と実生活」問題は、あるいは彼のexpressionの問題は、一九六三年のバイロイト体験とともに霧散し、解消したわけでは決してなかった。彼は「思想」を犠牲にして「実生活」に沈んだのでも、「自己」を捨てて「自然」へ帰ったのでもない。彼が、浪漫派文学に氾濫した自己告白の不毛を説いたことは何度もあったが、浪漫主義思想が芸術家達にもたらした、「自己とは何か」という自問の不毛を説いたことは一度もなかったのである。そしてこの「自己とは何か」という問いこそが、小林秀雄がボードレールから受け継いだ最大のものだったのであり、生涯を通じて、彼自身、それを不問に付したことはなかった。ただしこの問いが、嘗ての、「何もかも自分で新しくやり直したい、やり直して、すっかり自分の手で作ったもののなかに、ある世界を発見したい」という形式の情熱として発露することは二度となかったであろう。むしろ、と自覚したところに、その後の彼の批評があったのである。

その「本居宣長」の出版記念講演で、小林秀雄は、自分には宣長についての新しい説や解釈は一つもない、ただ宣長をよく読んだだけだと語っている。三十余年前、「コメディ・リテレール」座談会で言われた「古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る。そういう批評の方法」を、彼はここまで磨いて来たのである。そしてその「原文尊重主義」は、彼の生涯最後の連載となった「正宗白鳥の作について」が絶筆として途絶える時まで続いた道であった。その連載第一回冒頭に、彼は次のように書いている。

 

批評とは原文を熟読し、沈黙するに極まる。

 

嘗て四十代の小林秀雄は、「沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする」と書いた(「モオツァルト」)。だが喜寿を過ぎ、批評家としての生涯を終えようとしていた小林秀雄は、もはや「沈黙を創り出す」とは言わない、ただ「原文を熟読し、沈黙する」ことを覚悟する。そしてその彼の「沈黙」の裡で、「作品に対する痛切な愛情」は、いよいよ切に深まったのであった。

本居宣長は、「古事記」という大いなる古典への「痛切な愛情」を、三十五年かけて育み、「古事記伝」を完成させることによって「沈黙」した。小林秀雄は十二年余り、さらにはその着想から亡くなる前年に刊行した「本居宣長補記」までを含めれば、実に四十年以上の歳月をかけて、宣長の「果敢な精神」に応えようとした。そしてその同じ批評精神を、彼は、ベートーヴェンという偉大な古典に対し、二十年の時を経て最初のシンフォニーとカルテットを世に送り出したブラームスにも見たのである。

しかしまた、そのような精神から生まれた批評作品が、常に目新しい解釈や奇抜な個性の発揮を求める現代の読者に読んでもらえるのかという懸念は、彼の裡にも少なからずあったであろう。「本居宣長」は、単行本として刊行された時には大変な反響を呼び、発売日には直接版元の新潮社まで本を求めにやって来た読者が長い列をなしたほど、出版社も本人も驚く売れ行きを示した。だがその連載は、極めて孤独な、そして地道な仕事の連続でもあったのである。後に本人が講演で語ったことだが、「本居宣長」を連載していた十一年半、この作品について何か言ってくれた人は一人もなかったという。その孤独の中で、彼は、たとえば荻生徂徠の難解な漢文を、諸橋轍次の漢和辞典を頼りに毎日少しずつ読み進めて行った。それは、徂徠を解釈し、新説を主張しようがための労苦ではなかった。彼の言葉を借りれば、徂徠を模傚もこうし、この先人への信を新たにしようとする行為であった、「無私を得んとする努力」(「本居宣長(九)」)であった。そういう仕事をひとり続けていたとき、彼がこよなく愛した音楽の世界にもまた、ブラームスという人が存在したということが、どれほど彼の心の支えになったか。

五味康祐との対談で、小林秀雄は、ブラームスのことを「あいつ」と呼んでいた。モーツァルトやベートーヴェンを、彼が「あいつ」と呼ぶことはおそらくなかったであろう。何故か。それは、彼が、ブラームスを自分の同士だと思っていたからではあるまいか。その同士に対し、「あいつの忍耐と意思と勇気は全部あの中に入っている」と言ったとき、それはそのまま、小林秀雄自身の忍耐と意思と勇気であったのであり、「本居宣長」を執筆する傍ら、ブラームスのレコードを繰り返し聴いたというのも、この孤独な仕事を続けるために、彼がその都度、ブラームスから「勇気」をもらい続けたということであったに違いない。そしてまた、それはあくまで彼の晩年の書斎の中だけで生起した、この作曲家との内奥の交感の軌跡であり、他人に明かすようなことではないとも彼は考えたはずである。それが、おそらく、彼がブラームスについての発言を全て削除し、ついに一行も書き残さなかった所以ではあるまいか。

 

 

晩年の小林秀雄のブラームスに対する共感と共鳴は、活字の上にではなく、死後発表された「音楽談義」の肉声に、「山の上の家」に残された彼のレコードラックに、中でも、盤面が白くなった第一シンフォニーのLPレコードに深く刻まれて残された。その、おそらく最後の痕跡を紹介して終わりにしよう。

小林秀雄が亡くなる二ヶ月前の昭和五十七年十二月二十八日の夜、ユーディ・メニューインの演奏会がテレビで放送された。小林秀雄が聴いた、それが、おそらく最後の音楽であった。その夜、放送された曲目は、ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、そしてフランクのイ長調ヴァイオリン・ソナタであった。他ならぬこの三曲が、この順序で、しかもあのメニューインのストラディヴァリウスによって病床の小林秀雄に届けられたということは、ほとんど奇蹟のような話であり、それがどのような意味で奇蹟であったのかについて、先年発表した「契りのストラディヴァリウス」という一文に書いた。だが、この小林秀雄の「最後の音楽会」について書いていた七年間、ずっと気になりながら、保留にし続けた事実があった。それは、どの新聞のテレビ欄を見ても、「ベートーヴェン……バルトーク……フランク……」と書いてあったことであった。おそらく、メニューインはアンコールを演奏したのであろう。だとすれば、そのアンコール曲こそが、小林秀雄が生涯最後に聴いた音楽だったということになる。

あるいはNHKにでも問い合わせれば、明らかになったのかもしれない。しかしその後、原稿を書き進めていくにしたがい、このアンコール曲は知らないでおく方がよいと思うようになった。文章が、自ずとそういう軌跡を辿ったのである。したがって、その最後のくだりでは、「おそらく、メニューインはアンコールをしたであろう。それが、誰の、何という曲だったのかはわからない」と書いておくことにした。ところが、そのアンコール曲が何であったのかが、ある偶然から判ってしまったのである。入稿の直前であった。

掲載誌には、当初、小林秀雄が日比谷公会堂で聴いた昭和二十六年のメニューイン初来日時のパンフレットを載せる予定であった。所有していたものは破損が激しかったから、状態の良いものをあらためて探すことにした。すると、初来日時のパンフレットと一緒に、昭和五十七年の三度目の来日時のパンフレットが見つかったのである。テレビで放送されたのは、その十一月十七日に昭和女子大学人見記念講堂で行われたコンサートであった。脱稿の記念にと思い、取り寄せた。そして手元に届いたそのパンフレットを開いた瞬間、愕然とした。テレビで放送された十一月十七日のプログラムの頁に、鉛筆で、次のようなメモが記されてあったのである。

 

アンコール ブラームス Vnソナタ3番 2楽章 3楽章

 

それは三十一年前、このコンサートに行かれた方が、人見記念講堂の会場で書き入れたものに違いなかった。無論、新聞のテレビ欄には、ただ「ほか」と書いてあっただけであるから、この二曲が実際に放送されたのかどうかはわからない。しかし少なくとも、小林秀雄が生涯最後に聴いた音楽会の、アンコールとして弾かれた曲は、ブラームスだったのである。これ以上、この批評家の最期にふさわしい音楽があるだろうか。

だがその事実を伝えるためには、本稿に書いたような長い一章を新たに書き加えなければならなかった。そのための時間はなかった。したがって、雑誌掲載時には、「アンコールはわからない」と記したまま、文章を結ぶことにしたのである。

今、ここにその事実を訂正し、筆を擱くこととする。

(完)