直観と分析

小林秀雄著『本居宣長』を読んでいて、直観の強さとしか言いようのないものを感じるのは、私だけではないだろう。その一方で、紡がれていく文章には、弛むことのない分析の力が、紙背で張りつめている。

もちろんこれは、『本居宣長』が分析的な文体を持っている、ということではない。ただ、一度つかんだ直観を確かなものとするうえで、分析的手法は避けがたい。だからこそ、その手法に引きずられ、逆に直観が曖昧になることは避けなければならない。そのような、いうなれば直観の糸を緩ませない辛抱強い力が、『本居宣長』を支えている。そしてそれは、古書の読解に実証的手法をとりながら、ついに古典の愛読者としての直観から目をそらさなかった、本居宣長その人の歩んできた道だった。

贋物にせものに欺かれない事と、真物を信ずる事とは、おのずから別事であろう。どちらが学者にとって大事か。先ずどちらの態度を、学者として取るのが賢いことか、君はどう思う、と秋成に問うのである。この、見たところ簡単な疑問の底が、非常に深い事を、宣長はよく知っていた。(「本居宣長」第五十章、新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.180)

 

―十枚の色紙のうち、一枚は真物であるのを知りながら、何故、それを選び、取り上げないか。言うまでもなく、選ぶには、その証拠が不充分だからであろう。それだけの話なら、特に文句を附ける筋ではない。彼が難ずるのは、この当たり前な事も、当世の学者等の手にかかると妙な具合になる、その気質に染められ、歪められずにはいないという事だ。(中略)真偽は物の表裏であろうが、真を得んとする心と、偽を避けんとする心とでは、その働きは全く逆になるだろう。それが、彼等には見えていない、と宣長は言うのである。彼等が固執する態度からすると、大事なのは、真ではなく、むしろその証拠だと言ってよい。真が在るかないかは、証拠次第である。証拠が不充分な偽を真とするくらいなら、何も信じないでいる方が、学者として「かしこき事」と思い込んでいる。(同、第28集p.182)

証拠がなければ真ではない、一見もっともなこの言い分も、真剣に探求を続けるなら、非常に怪しい話となる。

本居宣長と上田秋成の論戦、いや、論戦というより対比といった方がいいような、全く心ばえの違う二人のすれ違いは、『本居宣長』の終盤に向けてたびたび取り上げられているが、ここは、科学的論証や史実などという曖昧な言葉遣いが蔓延はびこっている現代において、非常につまずきやすい部分ではなかろうか。

例えば、秋成は「ゾンガラスと云ふ千里鏡で見たれば、日は炎々たり、月は沸々たり」(同、第28集p.91)といって、古伝が日や月を人体にときなすのをとりあげ、古伝をあるがままに信ずべしという宣長を非難する。一見もっともな意見と見えるかもしれないが、「月は沸々たり」は、現代から見れば明らかにおかしいとわかるであろうし、「日は炎々たり」すら、正確を期すのであれば少々注意が必要になる。もちろんそれは現代からの意見であり、時代の制約を考えねばなるまいが、時代を言い出すならば、現代の説もまた、いずれ難ぜられる未来を思わねばならない。また、今度は逆様に、人体を、日や月を見る時と同様、千里鏡を通すように見てみれば、眼鼻や手足とて、なかなか人体とは見えてこないだろう。ひいては、まず人を人と見なければ、その人の体を人体とは見がたいことに思い至るはずだ。

続ければキリがない以上細かい言挙げはこれくらいにしておくが、分析的論難とはそういうことだ。当然ながら、傍証を集め偽を避けんとする手法も、学者のとる手段の一つではあろう。そんなことは宣長も承知していた。何より、宣長自身こそ、非常に優れた実証家であった。

正確な論証や事実の探求を拒む理由などどこにもない。だが、まず真と信ずるところがなくば、何ができるというのか。もう一歩踏み込むならば、秋成の論難すら、つまるところ秋成が真と信じたところ、それも、古学への興味とはおよそ縁のないところから出た話であり、その真を正確に証するものすら、どこにもない。ただ、秋成の知る範囲で偽ではないと思われるだけの話だ。それを、秋成は真の証拠と思ってしまっている。古伝のような未開の人間の思い込みによる未熟な観念に惑わされぬ、冷静で正確な認識と思ってしまっている。秋成の意見ではなく、秋成のこの態度こそ、宣長の難ずる点だった。受け入れるにせよ反対するにせよ、これに付き合うということは、秋成の態度にそって論ずるということになる。秋成は言葉をはぐらかすような宣長の態度に怒ったが、宣長からすれば、秋成のほうこそ、頭から言葉をはぐらかしに来たと見えただろう。

証拠がなければ真ではない、そんな乱暴な話はあるまい。真は真だ。それでも証拠の存在に問題を置くとするならば、まず、我々の検証能力がどこまで届きうるか、その原理的限界を考えねばなるまい。

はたして、証拠を集めれば真を得られるのか。はっきり言って、人間にそんなことは不可能だ。一見そのようなことが可能なのは、少なくともすでにいくつか候補を予感し、たまたま、一つ以外を退けることが出来た、あるいは、そう出来るように候補があつらえられていたからに過ぎない。

逆様に言えば、得られた直観が本当に正しいと証することもまた、できはしない。そこに、分析の力、すなわち、偽りを避けんとする辛抱強い力が必要となる。それは、直観そのものの偽を問うということだけではなく、むしろ、得られた直観をよりくわしくするためにこそ、必要な手順だろう。

ここで私が思い浮かべるのは、仏師の振るうノミのようなものだ。まず素材の中に仏の姿を予感していなければ、それを彫り出すことはできまい。そして、彫り進めるほどに、仏の姿はより鮮明になってゆく。しかし、仏の体にノミが振るわれてはならない。ノミを振るうとは、そこに仏の体がないことを確かめるということだろう。

もちろん、分析の結果、直観の間違いを確かめるということもある。そして、特段の理由でもなければ、間違いと確かめたことにわざわざ言及する必要もない以上、分析には、いうなれば、自らの足跡を消していくような働きがある。それゆえ、辛抱強く分析を続けられた仕事からは、むしろ分析の色は抜けていき、いよいよ直観の姿が露わになっていくものだ。この辛抱を要する道行きに、昔も今もあるものではない。

さらに言えば、直観が正しいことを証せない以上、分析の手が、自ずから止まるということはない。分析の終わり、それは、自らの手の限界を悟った時だ。これ以上進むことのできない頂に立った時、人は分析の手を止めざるを得まい。

それは、直観の正しさが証されたということではない。もはや自分はこう考えるよりほかにない、ただそのことを確かめるということだ。

 

 

さて、今回、直観について書いてきたが、ここでいう直観は、カント的な、純粋に先天的能力としての『直観』というより、言葉の厳密性など意図しない人々が、日々の生活のなかで互いに通じ合うことを信じて使用するところの直観、あえてその意味を問うのであれば、案出されたものではない、わかるからわかる、見えるから見えるとしか言いようのない、そういう直観として受け止めてもらいたい。それを純粋なところまで突き詰めれば、一つの根源としてカント的『直観』まで行きつくであろうが、そのように窮まった所から考えてしまえば、話がより込み入ると思い、こうして注釈を置くことにした。

余談になるが、このような直観と分析について考えた時、推理小説というものについて、個人的に面白く感じるところがある。推理小説は、まさに解かれるために用意された謎ではあるが、その推理がどれほど精巧でも、いや、その推理が精巧なものであるほど、その話は荒唐無稽にならざるを得ない。推理小説に命を吹き込むのは、推理の正しさというよりも、むしろ、探偵の着想だ。初動がどれだけ地道な調査であっても、探偵が直観を得たところから、推理小説が始まる、そう言ってもいいだろう。どれだけ整合的説明が与えられても、それらの情報から探偵が真相を見つける時、そこには余人の立ち入り難い飛躍がある。でなければ、探偵などいらないはずだ。

新たな発見におけるこの種の飛躍は、数学や物理の世界でも常にある。もちろん、発見に至る実験や理論の積み重ねは必要だ。しかし、その瞬間、そこにいれば、誰もが発見者になれた、そんな呑気な考え方に、私は賛同できない。歴史の必然とは、必然が歴史を作ったということではないだろう。歴史に流された人が発見者になったのではない。歴史を背負って立った人が、発見者となるのだ。

『本居宣長』は、宣長に流れ込んだ学脈や当時の学風を細かに追っていくが、そこに描かれているのは、流れの中に配置された本居宣長という役割ではなく、そのような歴史を背負って立つ、本居宣長という人の姿だ。

(了)

 

小手前の安心と申すは無きことに候

「小手前の安心と申すは無きことに候」

小林秀雄著『本居宣長』全五十章、その最終章の口火を切った本居宣長のこの言葉は、宣長の門人達と共に、数多くの現代人を困惑させたことだろう。ということはつまり、ここで語られる宣長と門人達の答問は、現代の私達にとっても、決して他人事ではないということだ。

 

――門人に言わせれば、なるほど上ッ代の道は、結構なものだったとは理解出来るが、「小手前の安心と申すは無きこと」という真実は、今も猶動かぬ、という主張となれば、別問題であろう。そのような確信に、一体どういう次第を踏んで行き着けたのか、それが、まるで説かれていない以上、やはり、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」という疑い心は、ぬぐえないと言うのである。そう訴えられてみれば、それももっともな事と思われ、さてどう説いたものか、という事になったわけだ。(小林秀雄「本居宣長」第五十章 新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.191より)

 

なるほど、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と疑う心は、人々が誰に言われるともなく備えている「人のまごころ」と言えようが、そこに明答を求めるとなれば、途端に話は込み入ったものになる。『本居宣長』においては、ここに話を踏み入れることで、古伝について宣長の到達した信念を浮き彫りにしていくのだが、私はここで、一度、明答を求めるこの態度自体を忘れてみたい。すなわち、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」、「その性質アル情状カタチ」を見定めてみたい。というのも、明答を求める、いや、物事に明答を得られるであろうという、学者流の態度を忘れることさえできれば、「小手前の安心と申すは無きこと」という真実は、さほど私達と縁遠いものではないように思われたからだ。

さて、この「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」を見定めるにあたり、自らの身に直接降りかかる物事の上で見定めようとすると、少々話が難しくなる。というのも、自身に関する物事においては、実際に対処せねばならぬ以上、問いに明答が出ようが出まいが、自らの身の振るまいという答えを出さねばならない。この、実生活の上で不可避に案出させられる答えに眼を滑らせず、「人のまごころ」から生まれた問いを見定めるには、まさに、宣長の到達したような信念が必要となるだろう。

そこで、ここでは本来的に自分では対処できない、それでいて、ともすれば自分以上に我が事と思われるような身の上、すなわち、愛する人にかかわる物事に注目してみたい。特に、親が子に対するような心配をつぶさに眺めてみれば、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」も、「小手前の安心と申すは無きことに候」という宣長の返答にならないような言葉も、鮮やかに見えてくるように思われるのだ。

例えば、息子が一流大学を出て一流企業に入ったとして、あるいは娘が裕福な家に嫁いだとして、親が我が子を本当に心配しなくなることなど、果たしてあり得るだろうか?

今時このような紋切り型の、時代錯誤とすら言える理想像を持つ人が多いとは思わないが、そのような理想の不在など、親の不安の源泉ではあるまい。子がどれだけ成功しようと、どれだけ安定した生活を得ようと、親は子を心配してしまうものだ。なるほど、それは時として、子や周囲からは杞憂と見えるものになるかもしれないが、杞憂という故事からして、解釈や教訓という「あるべき答え」を忘れ、その姿をつぶさに観察してみるなら、有り得ないことであっても憂いてしまうこの心のうごきこそ、「人のまごころ」のあり方ではないだろうか。

もちろん、対処のしようがない不安は杞憂として忘れてしまうのが「正解」だろう。杞憂にかかずらってばかりでは実生活が成り立たない。どころか、杞憂を晴らすことに専心してしまえば、それこそ実生活を壊すことになるだろう。

しかし、仮に不安を忘れることができたとて、不安が湧かなくなるわけではあるまい。人が人である限り、不安の種は尽きぬものだ。あえて生態学的な言い方をするなら、それは人という種が獲得した、変化する環境に対し未然に適応する余地を生み出す能力ですらあるだろう。もっとも、このような言い方も、「人のまごころ」「その性質アル情状カタチ」の一面に機能的な説明を与えればこうなるという一例を上げただけであり、当然ながら、宣長の見定めたところがそうであったということではない。

では、宣長の言う「小手前の安心と申すは無きことに候」とはどういうことなのだろうか。いや、発言の意味内容を問うことが、まずズレているのかもしれない。重要なのは、「小手前の安心と申すは無きことに候」と話す、宣長の態度だ。

 

「源氏物語」の注釈において、本居宣長という人は「物のあわれ」という言葉に注目したが、その眼目は、「物のあわれ」とは何かというより、むしろ「物のあわれを知る」ということに向いていた。そして、「物のあわれを深くしり給へる」源氏君の「かくれ給へる」を語らず、しかし黙さぬところに、「紫式部の、ふかく心をこめたる」を知り、「雲隠の巻」という、物語が行きつく姿を見た。

 

――物語の目的は、「其時代の風儀人情」を、有りのままに書き、その「あわれ」を伝える、という他にはないとする作者式部の心ばえを体して、源氏君は生きている(中略)それなら、宣長に残された問題は、一つだ、という言い方も出来るわけだ。何故、作者は、物語から主人公の死を、黙って省略して、事を済まさず、「雲隠の巻」というような、有って無きが如き表現を必要としたのか、と。言ってみれば、そういう問いを、宣長は解こうとはせず、この問いの姿に見入ったのである。(同、第28集p.197より)

 

「本居宣長」という学問は、ここに極まる。そう言いたくなるほど、この宣長の姿は私の目に焼き付いた。

現代において、いや、おそらく宣長の時代や、それこそ孔子や仏陀の時代にあっても、「問い」の「答え」と言えば、多くの人が「普遍的な答え」というものに魅かれてきただろう。もちろん、現実には各場面に合わせた個別の答えを出さねばならないが、それは場当たり的な、断片的答えに過ぎない、そう考えてしまう傾向に、心当たりはないだろうか。そして、究極の「普遍的な答え」を得たならば、それはあらゆる「問い」に答える、あるいは少なくとも答えられるようになる、そんな考えに魅了される人は、決して少なくないように見える。

しかし、宣長にとって、普遍的なのは「答え」よりもむしろ「問い」だったのではないだろうか。

もちろん、このような言い方がすでにして現代的であり、多分に語弊を含むであろうし、むしろ語弊があるということをこそ知っていただきたいが、宣長を魅了してやまぬのは、答えの瞭然性など全く知らぬところにたたずむ、ほどき難い「問いの姿」であった。

いらぬ誤解を招かぬよう言っておくが、宣長は答えてはならぬと言っているわけではない。答えを求めぬ問いなど、もはや問いではないだろう。しかし、万人があらゆる状況において頷ける「普遍的な答え」など、宣長の眼中にはなかったのではないだろうか。宣長はむしろ、人々が文字通り場に当たり考え出した答え、そして、人々に各々の答えを求めてやまぬような問いそのものにこそ、眼を引かれていたのかもしれない。私は、まさにこの意味合いにおいて、「問い」を普遍的と言いたくなってしまったのだ。

 

さて、「小手前の安心と申すは無きことに候」と言った宣長の姿に、話を戻したい。ここにもきっと、宣長のあの眼差しがあるのではないだろうか。

「小手前の安心と申すは無きことに候」と言っても、個別の不安を相談されたならば、宣長も相談者と共に、その不安に対応する術を考えただろう。しかし、こと不安一般をどうすればいいかと問われたならば、不安を発明する「人のまごころ」「その性質アル情状カタチ」という「物のあわれ」を知ることをこそ、重要と見ていたのではないだろうか。

これは、答えであって答えでない。むしろ問いかけだ。どうすれば安心が得られるかという答えを得ようとする前に、「小手前にとりての安心はいかゞ」という「疑い心」を、もっとじっくり、ながめてみよと言っているのだ。ながめ方は、宣長本人が散々説いてきているし、『本居宣長』第五十章に、「生死の安心」という「小手前にとりての安心」の極まるところをめぐって、古の人々がいかにしてその心をながめてきたのかが、つぶさに描かれている。それはまさに、我々はナニモノなのかという、太古に人が人となった時から、遥かな未来まで変わることのない問いかけだ。

 

子の心配をしないでいられる親は、もはやその子の親ではあるまい。「小手前にとりての安心はいかゞ」という「疑い心」を持たぬようになれるのならば、それは果たして人であるか?

 

(了)

 

「死」について

私は、ふとした時、亡くなった人の声が聞こえることがある。

唐突にこんなことを言うと、奇異に聞こえるであろうし、少々正確さに欠ける物言いになるだろう。より正確に言おうとするならば、目の前にいないはずの知人の声が聞こえる、ということになる。

なるほど、それは幻覚に違いない。幻覚には違いないが、しかしどうにも、幻覚の一言で済ませる気にはなれない。物理的因果関係に対する誤謬を幻覚というなら、私達の「いのち」こそ、幻覚にすぎまい。

あえて言うならば、この声は、私がその人と共鳴した、「いのち」の残響だろう。

この声が聞こえると、少し、その人に会いたくなる。だからだろうか、亡くなった人の声が聞こえると、少し、かなしくなる。

涙が出るわけではないし、気分が沈むわけでもない。

ただ、あの人と会えないということを思い出すのだ。

あるいは、このかなしさは、故郷に帰る術を失った、私の中の「いのち」のなげきなのだろうか。

 

―女神が、国に還らんとする男神に、千引石ちびきいわを隔ててのりたまう「汝国ミマシノクニ」という言葉を、宣長は次のように註した、―「汝国ミマシノクニとは、此ノ顕国ウツシグニをさすなり、そもそ御親ミミズカラ生成ウミナシタマヘる国をしも、かくヨソげにノタマふ、生死イキシニヘダタりを思へば、イト悲哀カナシ御言ミコトにざりける」と。(小林秀雄「本居宣長」第五十章 新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.204より)

 

 

小林秀雄著『本居宣長』の中で、印象的な、あるいは象徴的と言いたくなるような言葉はいくつもあるが、何度も読み返すうえで、幾重にも絡まる言葉たちとは別種の存在感を持って佇んでいる、不思議な言葉が、ひとつある。

それが、「死」という言葉だ。

いや、言葉というより、概念、あるいは出来事、もしくは、「死」という「もの」といった方がいいかもしれない。「死」という言葉そのものは、珍しく、というべきか、『本居宣長』という著作の中で、そこまで特徴的な使われ方をしてはいない。「死」にまつわる場面こそ、著作全体を通しても印象的で重要な部分を占めてはいるが、そのような場面において、「死」という言葉そのものは、意外なほど平易な意味合いで使われている。少なくとも私には、そのように思われた。

もちろんそれは、私自身がいまだ「死」というものに実感を持てていないということもあるに違いない。それに加え、我が身をもって体験することはできず、本当にそれを体験した人の語るところを聞くこともできない、「死」というもの自体が持つ特殊な性質もあるだろう。

 

―私達は、現に死を嘆いていながら、一方、死ねば、もはや嘆くことさえ出来なくなるのをよく知っている。生きている人間には、直かに、あからさまに、死を知る術がないのなら、死人だけが、死を本当に知っているといえるだろう。これも亦、解り切った話になるではないか。まさしく、そのような、分析的には判じ難い顔を、死は、私達に見せているのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.198)

 

先程、「死」という言葉が意外なほど平易な意味合いで使われているといったが、それは当然、軽いということではない。『本居宣長』という著作自体、宣長の墓と遺言書に始まり、最後には、宣長が門人達の「小手前の安心はいかゞ」という問いになんとか答えようとする中で、「死」を「かなしむより外の心な」き古の人々の、古書熟読を通して宣長に発明された、「神の御名」という「シルシ」を詠むという行為によって悲しみを見定める「術」が語られ、また宣長の遺言書という自問自答に帰ってくる……と、一息に言ってしまっては乱暴にすぎるが、一応はそのような形をとっていると言えよう。

また、その作中においても、契沖の遺言書や、ついにゆく道に臨んだ在原業平の歌、源氏の君の雲隠れや、未遂に終わった浮舟の入水、ほとんど死を命じられたに等しい倭建命の嘆きなど、たびたび、「死」にまつわる印象的な場面が表れてくる。

そもそも、宣長本人をはじめ、作中の登場人物達をつないでいる学問というもの自体、古書吟味を通じた歴史への推参である以上、各々の最終的な目的地や到達点はともかく、その道筋において、今は亡き人を如何に思い出すか、そういう一筋を外れることはできまい。「死」そのものはともかく、少なくとも「死」のあとに残されたものと如何に向き合うかということは、『本居宣長』という著作を通して、常に提示されている問いとすら言えるだろう。

 

先に、私は「死」というものに実感を持てないといった。もちろんそれは、「死」というものと向かい合う経験の少なさから来ている面もあろうが、その一方で、「死」という言葉に実感を持てない自分を発見させたのは、近しい人が亡くなり、その遺体を目にするという事件、いうなれば、「死」の足跡を否応なく見せつけられるという経験からだった。

とはいっても、かの人が亡くなった瞬間を目にしたというわけではない。それでも、確かにそこにあったはずの命、目の前にある体と密接に繋がっていたはずの、自分のよく知るあの命が、今やその体からいなくなってしまっている、この動かしがたい感じに対して、「死」という言葉は、あまりにも「死」という概念しかあらわしていない、そんな風に思われてしかたがなかった。

これは、なにも思索の上だけの話ではなく、実際にこの事件を経てのち、私は「死」という言葉を使わなくなっていった。正確に言えば、「死」という概念や事件について話す時に強いて「死」という言葉を避けはしないが、具体的な人物について、殊に、近しい人、私がその命を知っている人について話す時、気が付けば、「死」という言葉を避けるようになっていた。もとより軽々に使うような言葉ではないが、それでも、あえてこの言葉の使用を避けている自分に気づき、驚くことすらある。

そんな時、「死」の代わりに使われる言葉が、「なくなった」、あるいは「いなくなった」だ。また、現代的でもないし立場的に正確な言い方でもないだろうが、時に「かくれた」とすら、言いたくなる時がある。

「かくれた」はともかく、ある人が「なくなった」「いなくなった」というのは、そう特殊な用法でもないだろう。もちろん、私はここで文法的な正誤を問いたいわけではない。ただ、あの人の、この世に遺された体を前にした時の、私が受け止めたところを言い表すならば、こちらの方がよりしっくりくる、ということだ。

 

いったい、何がそこから「いなくなった」のか。

それはもちろん、私たちが「いのち」とよぶものだ。

 

「いのち」とは何か。

この問いに明答する術を私は持たないが、明瞭な定義を持ちえないようなこの言葉に、しかし、はっきりとした実感を抱いていない人はいないであろう。

私たちは、目の前の花が造花か生花か確かめようとする時、その花に触れようとする。分析的に言うなら、水分含有量や自然物と人工物の規則性の違いなどを確認しているといえようが、私たちはそんなことを意識して手を伸ばすわけではあるまい。ただ、私たちがその花に対して持つ「いのち」の手触りを、そこに確かめようと手を伸ばすのだろう。

「いのち」と一言にいってしまったが、当然ながら、この世に同じ「いのち」などというものは二つとない。私の知る一人一人、一匹一樹が、それぞれの「いのち」を持っており、誤解を恐れず言うならば、全ての「いのち」に共通する点などない、とすら言えるだろう。唯一、我々各々が持つ実感だけが、「いのち」という言葉を支えている。少なくとも私には、そう見るほかないように思われる。

もちろん、生物学的、医学的、あるいは法学的に、それぞれ命の定義を与えることはできようし、各分野の探求や実践において、強いてそれらを避ける必要もあるまいが、それはその分野における現時点での限界と必要性に応じて用意された物差しや手桶の類であり、私たちの生活が育んだ「いのち」の趣きを全うするものではない。

そんな、私の実感と直かに結び付いた、この世に唯一無二の「いのち」が、目の前の体から「いなくなって」しまった。それが、「死」という事件の跡を目の当たりにした私の、率直な感想だった。

ただし、その一方で、この、目の前から「いなくなった」「いのち」を、消滅したとすることもまた、私には想像しがたいことだった。

かの「いのち」と容易に再会することが叶わないことはわかる。しかし、私が確かに持つこの「いのち」の感触が、跡形もなく消え去るところなど、私には到底想像できない。そしてそれは、決して私だけが持つ感想ではないだろう。

現代でも、世人は「死」を「永久の別れ」という。相手はなにも人間に限るまい。禽獣から物品に至るまで、私たちが「いのち」を感じる時、そこには、「時間」や「空間」という秩序だった生活法則では覆いきれない、「なにものか」を感じ取っているはずだ。

 

―瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

(崇徳院、「詞花集」)

 

別れとは、期待でもあるだろう。もちろん、私は亡くなった人の「いのち」がどこにいったのかと聞かれても、ただ、「ここではないどこか」としか、答えようがない。末に逢える保証などどこにもない。確かなのは、目の前にいないということだけだ。それでも、あの「いのち」はきっとあり続ける。そう思われないならば、古歌も古学も、なべて学問は、詮無きことではあるまいか。

 

―註の味いに想到する読者は、神代の「風儀人情」が、あるがままに語られ、その「あはれ」が、あるがままに伝えられるのに聞き入る宣長のココロの姿を、直かに感じ取る筈なのである。この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の「心ばへ」を、わが「心ばへ」としていたに相違ない。(同、第28集p.204)

 

(了)

 

宣長の人

本居宣長という人について知るほどに、この人が学問に向かう態度、そしておそらく、生活に向かう態度にも、余人には解き明かしがたい妙があることを、感じずにはいられない。このあやしさが宣長の業績を支えたものである、などと、短絡的に言うつもりはない。むしろ、この妙を生涯損なうことのなかった本居宣長という人を、私は知りたいらしい。

この点について、小林秀雄という力強い目が見定めた言葉を、まずは聞いてもらいたい。

 

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。(新潮社刊、『小林秀雄全作品』第27集p.46)

 

思想と生活のわきまえ、と言えば、珍しい話とも見えまいが、宣長ほど、両者の微妙な関係を忍耐強く保ち続けた人は、そう多くないだろう。宣長が、思想と実生活を無関係と断じ空理に遊ぶ学者でないことは論を待つまでもないが、しかし、生活に思想を屈服させることもなければ、思想に沿わぬ生活を拒絶することもなかった。宣長は、やってくる事態をそのまま迎え、よく吟味して事に当たり続けた。

でなければ、賀茂真淵や世の学者達がつまずいた「人代を尽て、神代をうかゞふ」解法を避け、「いにしへの てぶりことゝひ」をながめる穏やかな目で古事のふみをよむことなど、出来なかっただろう。とはいえ、この言い方は先回りが過ぎる。話を戻そう。

では、この弁えを保ち続けた宣長において、この、思想と生活の結合点は、どこにあったのか。それはもちろん、本居宣長その人だ。と言うより、自分以外のところで生活と結びつくような思想など、彼には無用であった。おそらくここにおいて、本居宣長という学問の文体が綴られている。

 

―この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。(同第27集p.39)

 

なるほど、「知的に構成」されなければ、学問は残るまい。だが、知性の、才学の求めるまま、構成するために誂えられた言葉から生活に向かう道はあるまいし、強いてその道を通せば、それは才学のために誂えられた生活にしかなるまい。

生活の中で芽吹き、育った思想が、やがて自足し、ついに生活を照らすに至る。お仕着せの学識ではなく、自得された学問を開く上で、宣長のこの困難は、必須のものであった。いや、この困難を避けなかったところにこそ、宣長の学問がある、そう言った方がいいだろう。詠歌を好む宣長にとって、学問の上とはいえ、表現の困難を避けることは、そのまま、学問を避けることだったのかもしれない。

そんな、いうなれば本居宣長という個性そのものと結びついた宿命的困難と共に、宣長という学問はいかにして歩んで行ったのか。それを、まさに宣長とともに歩み続けたのが、小林秀雄の『本居宣長』という大著であるが、その中で、特に、私の眼に強く残った宣長の姿が、ひとつある。

 

宣長という人は、学問の上で、人をたずね続けた人だ。

 

例えば、当時の学問の代名詞とも言える儒学においても、宣長は、先王の祖述を貫いた孔子という人に会いに行くことを求めていたように見える。「論語」に残された孔子の弟子達の筆録にすら飽き足らず、その向こうにいる孔子の姿を見ることこそが、宣長にとって儒学を学ぶということだった。

 

―宣長にとって、所謂「聖人のたぐひ」と、自分が見て取った「孔子といふよき人」とは、別々のものであった。彼は、当時の儒学の通念を攻撃して止まなかったが、孔子という人間に、文句をつける理由は、見附からなかったであろう。(同第27集p.63)

―彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然として嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。(同第27集p.65)

 

「源氏物語」においても、宣長は紫式部に出会うことを、それも、「史実」と呼ばれるような実証的に構築された「紫式部」ではなく、「源氏物語」の奥に座し、物語る式部の声を聞きにいった。むろんそれは、一人の愛読者として当然の姿勢であろうが、どれほど意識的に「源氏物語」を読み解く時も、常に、この、愛読者としての姿勢を崩さなかったことが、宣長という「源氏」注釈者の、最大の特徴をなしている。

 

―彼は、非常な自信をもって言っている、「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」(中略)宣長は、此の物語をそういう風に読んだ。彼の心のうちで、作者の天才が目覚める、そういう風に読んだ。(同第27集p.138)

 

当然、「古事記伝」という大旅行においても、宣長のこの姿勢が変わることはなかった。むしろ、編纂者はいても明瞭な作者と呼べる人はいない「古事記」のなかで、今代から見れば独特な、しかしその本来の姿でもある、「物語り」というモノをよみがえらせる道行きにおいて、宣長はこの姿勢を崩さぬよう努めた、とすら、言っていいだろう。遠き代の、語り合うだけで足らぬことなどなかった言葉が、外来の文字と未だまったくなじんでいなかった、そんな時代に編まれた難解な文体を、比類なき知性とこの上ない実証性をもって丁寧に解き明かしながら、一人の愛読者として、いや、一人の聞き手として、語り部から眼を滑らせぬよう、全霊を傾けて努めた。

 

―「古事記伝」が完成した寛政十年、「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題、披書視古、―古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」(「石上稿」詠稿十八)。これは、ただの喜びの歌ではない。「古事記伝」終業とは、彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった。(同第27集p.349)

 

そして、人と人が語らうのは、生活感情に根を下ろし、生き生きと動く言葉であり、才学のうちに篭り、整理されることを期待して固定化した定義を示す言葉でないことは、私達が常日頃から知るところだろう。もっとも、どれほど誤解を恐れ固定化された言葉であっても、ひとたび人々の語らいの中に投げ込まれれば、その命を吹き返し、固定化に抵抗する命の根源的性質が、定義の枠から逃れんと画策を始めてしまうものだ。

誤解の余地のない言葉などと言うものは、宣長にとってはまったく考えられないものだっただろう。「生活感情に染められた文体」とは、ただ、実生活の中で使われる言葉や言い回しを使った文体ということではあるまい。およそ、言葉の命というものを感じ、そこに身を任せ、時にままならぬ言葉と格闘する、そんな、日々行われる言葉とのやり取りから逃げない、いや、逃れ得ないということを自覚した姿だ。生きた言葉とのやり取りが結ぶ「ふみの姿」だ。

どれほど知的に構成され、厳密に組み上げられた思想であっても、それを表現しようとすれば、この困難を逃れることはできない。いや、この困難を逃れてしまえるならば、それはただの空理に過ぎまい。まして、古書に残された文を通さねば知ることもできない古の人々の心を明らめんとするなら、それは、彼らの持っていたこの困難をこそ、知らねばならない。

宣長のこの困難は、本来、宣長だけが持ちえたものではない。むしろ、誰もが持つこの困難から、とうとう眼を背けなかったところに、人をたずね、人に学び、人と語らい続けた、本居宣長という学問が開けているのだろう。

 

―古人のココロのうちに居て、その意を通して口を利いてみなければ、どうして古語の義などが解けようか。古人にとって、「高天原たかまのはら」という言葉を正しく使う事と、「高天原」という物を正しく知る事とが、どうして区別出来ようか。言葉の使い方は、物の見方に、どう仕様もなく見合うものだ。「見る」「知る」「語る」という私達の働きは、特に意識して離そうとしない限り、一体をなしている。このように考える宣長と、「朴陋ぼくろうの俗」を批判し、観察して古人を知ろうとした白石とは、事ごとに話が食違う事になる。(同第27集p.357)

 

―宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「情」を、しっくりと取り巻いている、「物の意、事の意」を知る働きでもあったからだ。(同第28集p.209)

 

(了)

 

「時を知る」こと

「本居宣長補記Ⅰ」の最後に、「虚数」という言葉がある。この言葉がどれほど私を驚かせたか、おそらくそこまで到達する事は出来まいが、先ずは、私を驚かせたその情景を、眺めさせてもらいたい。

 

―時間単位を光速度という虚数で現さねばならない、そういう思想史の成行きの裡で、「来経ヨミ」と呼ばれていた古人の時間の直かな体得につき、宣長がその考えを尽したところは、どういう照明を受けるであろうか。それを考えてみることは空想ではない。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.300)

 

ここを読んで、私は、小林秀雄と言う人がどこまで物理や数学の感覚を持っていたのか、非常に知りたくなった。というのも、この文章は、物理学の知見を持っていない人間に書けるものではないし、物理学の知見を持っているだけの人間に書けるものでもないからだ。専門知識云々ではなく、物理というものを身につけた人の文章であると見えたからだ。

なるほど、ここで使われている用語は、必ずしも物理学における正確な使い方ではないとも言える。だがそれは、小林秀雄は物理学の専門家でない事以上の、何を言っているだろうか。季節の和歌を詠む人々が暦法を目指して詠んだわけではないように、そうでありながら、誰よりも「こよみ」というものを、「時を知る」というコトを知っていたように。

 

小林秀雄は、物理学を利用して宣長の考えを正当化したのではない。ただ、物理学の行きついた、「『時を知る』という言葉の意味」(同第28集、p.300)、万物に共通・共有なる「時間」という観念の危機と刷新につき、「科学」というものに依存している現代の思想や社会に染められた私達にとって、「真暦」や「来経数」というものについて本居宣長という人が考えを尽くしたところは、決して他人事ではない、そう言っているのだ。

無論、宣長が異をとなえた当時の暦法よりは、現代技術に裏打ちされた今の暦の方が天体に対し正確であるし、そも、桜の開花時期など季節の移り変わりの出来事を日時のみに依存するのではなく、気象観測に頼むところが大きいという点においては、当時の暦法より「真暦」に近いと、言って言えなくはないだろう。もっともそれは、あくまで技術的な水準の話であって、宣長の難じた暦法の考え方は変わらず存在し、そこからすれば、当時の暦法も現代の暦も、大差はないと言っていい。すなわち、世の移ろいの見極めを気象学者や公共機関に任せきりにするのではなく、一人一人が自ずから行っていたという事、この一人一人の「わざ」が「こよみ」というものの根っこにある事こそが本居宣長という人の得た確信なのであって、この確信こそが、小林秀雄を驚かせたのだ。

実際、電子機器が生活の至るところで働く現代において、本居宣長の抱いたこの確信が決して無縁でない事は、良くわかるだろう。数多の機械を制御する時計群は、折に触れ互いに同期している事を確認し、同期し続ける事を求められる。そして、この機械に支えられている私達の生活もまた、その便利さを許容する瞬間、この時計に同期する事を求められる。しかし、この時計群の指し示す時間は、決して、私達の命や心そのものではないだろう。でなければ、私達が目覚まし時計のベルに苛立つ理由など、どこにもないはずだ。

とはいえ、この便利な生活を全て捨て去れなどという気はない。宣長も、生活を蔑ろにして良いなどと、言うような人ではない。彼は誰よりも確かな生活人であり、生活を捨て去ったところに彼の学問など、あるはずがない。

だが、そんな生活人たる本居宣長は、しかし決して、生活の秩序に屈服せよとは言わなかっただろう。或いは、人の心が生活に服従する事など出来る筈がない、とすら言ったかもしれない。ただ生きる事に満足出来るならば、人には言葉などなかっただろう。

 

少し話を進めすぎたかもしれない。今一度、「真暦」というものにつき、宣長が抱いた確信に立ち戻ろう。

「時を知る」、時を測るというのは、一人一人がめいめいに行う「わざ」であり、一個人の中でさえ、木花の振る舞い、空気のにおい、月の満ち欠けやお日様の明け暮れに至るまで、全ての「わざ」は、同種ではありえても、同一ではありえない。であると同時に、この種の「わざ」は、時代を問わず全ての人が、少なからず身に付けているものだ。でなければ、秩序ある「生活」というものを持つ事など出来まい。暮れゆく夕日から「時を知る」事が、どれほどしっかりとした「わざ」であるか、私達も日々感じているところだろう。まして、この「わざ」が切実であった古の人々の感ずるところは、どれほどのものか。

 

―時を測るという、生活を秩序づける根柢的な行為を語っている古言には事を欠かぬ。これを慎重に忠実に辿りさえすれば、今日の人々もおのずから、この古人の「わざ」の直中ただなかに導かれる。その内容を成す暦の観念の発生が、明らかに想い描かれた時、「うけひかぬ人かならず有べけれど、かならずかくあらではえあらぬわざぞかし」という強い発言となったのである。(同第28集、p.294)

 

人が一つの人である以上、また、生活が複数人の集まりで行われる以上、その生活を秩序づける中で各々の「わざ」を束ねる観念が形成される事も、当然の成り行きであろう。しかし、この観念が、人々の全ての「わざ」を受け止められる保障も必要も、実のところありはしない。なるほどこの観念は必要があって生み出されたものだが、逆に言えば、用さえ成せば、それで事足りるものだ。これを更に逆様に言うなら、用を成さないような観念は、それがどれほど強固な理論を備えていたとしても、ここでは無用の長物に過ぎない。

重要なのは、そこにある観念が人々の「わざ」と確かに響きあっている事であり、それは人々の「わざ」から切り離された観念でもなければ、一個人の「わざ」だけに左右されてしまう観念でもないという事だ。この観念の上に人々の「わざ」があるのではなく、この観念が根をはっているところに人々の「わざ」があるという事だ。

この、人々の「わざ」とそこにある観念との、微妙な関係を摑んで放さない事こそ、本居宣長という人の手つきであり、これを分断して分かりやすく整理する用など、彼の頭にあるはずもない。というより、本当に丹念に整理を進めたならば、自ずから元の微妙な関係に立ち返る他ない、そういうところに、彼の徹底した分析力は向かっていくのだ。

 

――暦法の合理化の限りを尽くそうとする、「こちたき」分析力が、分裂を知らぬ「大らかな」生き方に収斂する、そういう形で、彼の説くところが終るのを、読者ははっきりと見るだろう。(同第28集、p.295)

 

 

冒頭の文章には未だ至っていないが、どうか、ここまでにさせてもらいたい。これ以上続けても、私は、同じ事を繰り返す事しか出来ない。そして、冒頭の、「虚数」という言葉に私が抱いた驚きも、ここに書き留めた話と、同心円を描いているのだ。

とは言え、このままでは、物理や数学の知見をお持ちでない方も、物理や数学の知見をお持ちの方も、ピンと来るものが無いかも知れない。なので最後に、この話の詞書として、物理学の側からも、解説めいた余談を置かせてもらおうと思う。

 

本文で話の書き出しとした「時を知る」、時を測るという事についてだが、これは言うまでもなく、物理学の最も基礎にあるものだ。

本誌2018年1月号に有馬雄祐氏が書いたように、殆どの、いや、時間という変数を含む全ての物理的数式は、それ自体では時間の進む早さに頓着しない、どころか、その向きにすら頓着しない(それゆえ数式を破綻させる特異点と出会わない限り過去へと遡れる)のだが、しかし、時間という変数そのものを抜き去ってしまえば、物理学は空中分解するしかない。

また、時を測るという事は、繰り返す何かを世の中に見出すという事だが、本当の事を言えば、世の中に繰り返される事など、何一つとしてない。しかし、繰り返すものなどない世の中に、繰り返すと見えるものを見出すところから出発し、繰り返すと看做したものの法則を確かめ合う、それが物理学というものだ。こう言えば、物理学は傲慢なものと見えるだろう。しかし、そもそも生活とは、生活の秩序とは、そういうものだろう。だからこそ、科学は生活を便利にするのだ。

かように、「時を知る」という事は物理学の根底に関わる問題であり、特殊相対性理論によって「『時を知る』という言葉の意味が、根柢から問い直された事」が、どれほど重大事件であったか、多少は分かっていただけただろうか。

特殊相対性理論は、光速度を受け入れるために純粋時間・純粋空間を否定する代わり、複数の時空間の捉え方、即ち観測点の間に変換式を設ける事で、物理学の空中分解を防いだ。つまり、全ての観測点が従うべき純粋な時間や空間など必要なく、逆に、変換式さえ通せば、任意の観測点が基準となるという事だ。これを更に進めて言えば、物理学とは、変換式で繋がり得る観測点のみを扱うという事でもある。これが、物理学の要請する客観性だ。取り上げられた観測点を離れた時空間の想定は、客観的にそうあるべき世界ではなく、計算を簡略化するための便宜的観念に過ぎない。

 

―或る観測点が、他のどんな可能な観測点にも、変換式により正確に連結されるものである以上、或る部分的な観測点は、そのままで絶対的な観測点でもあるという意味だ。「天地のありかた」は、何処から何処まで一様で、純粋な計量関係に解体され、物理学が要請する客観性と同義の言葉となる。(同第28集、p.300)

 

そして、この変換式の中で、時間という、直接物差しを当てる事の出来ない観測対象が、空間、即ち人工的加工によって作られた物差しで計量しうる領域、或いは物差しそのものの延長線上と呼んでもいい世界に対し、虚数として、文字通り軸の違う、しかし、物差しを利用する=数を利用する限り暗黙の内に発明されている有り方として表現される。これが、どれほど驚くべき事か。もう一度、冒頭に置いた、この文章に続く、小林秀雄の文章を眺めてもらいたい。

 

この驚きを本当に知ってもらうには、「虚数」というものについても話さなければならないだろうが、しかし、ここまででも、充分、驚きうる事は分かってもらえると思う。

無論、小林秀雄という人がこれを意図して「虚数」という言葉を置いた、と言えば、深読みが、というより、牽強付会が過ぎるだろう。ただ、小林秀雄という詩魂が垣間見せたこの言葉に、日本語と数学に育てられた私の詩魂は、うごかずにはいられなかった。

だから、始めに言った通り、この余談は、あくまでも私の驚きを知ってもらうための詞書のようなものであり、今回の話は、「本居宣長補記Ⅰ」の文章の解説ではなく、小林秀雄の文章に現れた情景を目の当たりにした私が、詠まずにはいられなかったウタなのだ。

 

(了)

 

宣長の遺した言葉うた

先日、機会があり、宣長の自画自賛の肖像画を二つ、すなわち、四十四歳の自画像と六十一歳の自画像を、思い浮かべる事があった。

その時、しばらく二つの絵を心に浮かべ、比べるともなしに眺めていると、不意に、もう一つ、そこに浮かび上がってくる映像があった。

それは、『本居宣長』の単行本第一章にも載せられた、宣長の墓石の向こうで山桜がほころぶ、「本居宣長奥津紀」の絵だ。

あるいは、あの絵もまた、宣長の自画像だったのではあるまいか。

 

勿論、宣長の二つの自画自賛像と、あの奥津紀の絵が、同じだと言いたいわけではない。そも、同じか否かを言うならば、四十四歳の自画像と六十一歳の自画像からして、同じなどとは到底言えないだろう。そうでなくとも、二つとして同じ歌などないように、二つとして同じ絵など、ありはしない。

では何故、奥津紀のあの絵が、宣長の二つの自画像に引き寄せられるように浮かんできたのか。その事については、自画像、それも、自画自賛の自画像、すなわち、自分の姿を描き、そこに自分で言葉を書き入れるという、改めて考えればなかなかに不思議な一連の行動へ、思いを馳せなければならないだろう。

それに当たり、先ずは、宣長自身の言葉を引いておこう。なお、読み易さや活字による表記のため、濁点や句読点の挿入などを行っており、原文のままでない事は断っておきたい。

 

―めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬいろ香は 桜なりけり、こは宣長四十四のとしの春、みづから此かたを物すとて、かゞみに見えぬ心の影をもうつせるうたぞ。

 

これは、宣長四十四歳の自画像に残された賛である。「みずから此かたを物」した自画像へ書き入れた「心の影をもうつせるうた」が桜への愛着であるのは、如何にも宣長らしいのだが、ここで注目したいのは、「かゞみに見え」る自身の姿をうつした絵は、しかし、決して現実の鏡に映った姿の写しではないという事だ。

それは、この、四十四歳の自画自賛像が、単純に鏡を見ながら書いた構図ではないという事以上に、そこに置かれた小道具、即ち、花瓶にさした花盛りの桜の枝とそれを眺める宣長の間に置かれた、ひときわ目を引く朱色の机が、現実の宣長の元にあったそれとはまったく別のものである事からも、明らかだ。

当然、これは単純な技術や技量の話ではない。むしろそれは、およそ表現というものに対する、宣長の確信からきた差異というべきだろう。歌や物語の「まこと」を安易に現実と馴れ合わせるような「さかしら事」は、本居宣長という人が最も嫌った行いだ。宣長四十四歳の自画像は、宣長が「みずから此かたを物」す上で、言うなれば「絵のまこと」が、宣長の心中で自ずから実を結んだ姿なのだ。

そしてそれは、自画像に残されたこの「賛」も、例外ではない。

「かゞみに見えぬ心の影」は、なるほどこの絵に描かれてはいないかもしれないが、しかし、この絵を見た人は、桜を眺める宣長の心中を思わずにはいられないだろう。絵に工夫を凝らし、また、歌学者として、或いは古学者として、物された表現を受け取るという事に強い意識を向けていた宣長が、そこへ思い至らないはずがない。それでも、宣長は、「かゞみに見えぬ心の影をもうつせるうた」を、残さずにはいられなかった。絵を見た人へ答えるためではない。宣長は、実利など知らぬところで表現を求めて止まぬ人の心、即ち自分の心の不思議に逆らう必要などあるはずもなく、また、心の求めた表現を整えたならば、それが歌の形を取る事も、歌好みを性といい癖ともいった宣長にとって、至極当然の成り行きだった。無論、画賛に詩文を置く伝統に強いて逆らう理由もまた、宣長にはなかっただろう。

 

さて、宣長四十四歳の自画自賛の自画像について、宣長の心中を思いながら書き進めてきたが、これを思いながら、今度は宣長六十一歳の自画自賛の自画像を眺めてみると、自画自賛の自画像というものについて、また一段と、趣の深まるところがある。

こちらも、まずは賛を引かせてもらいたい。

 

―これは宣長六十一寛政の二とせいふ年の秋八月に手づからうつしたるおのがゝたなり

 

ここまで右上に書かれ、胡坐姿の宣長だけが描かれた自画像の上に空白を挟み、左上に

 

―筆のついでに、しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花

 

こうして見ると、なんともそっけない画賛と見えるだろう。自画像の方も、背景は勿論、小道具らしい小道具もなく、まさに、「かゞみに見え」たままのような姿で、宣長だけが描かれている。構図や工夫を言ってみたくなるような四十四歳の自画自賛像と比べるまでもなく、画も賛も、最小限に削ぎ落とされて見えるだろう。

勿論、それは一見そう見えるというだけで、宣長という人に強く興味を持って見たならば、むしろより興味を引かれる絵なのだが、逆に言えば、こちらから働きかけなければ、その絵は何も話しかけてはこない、そんな絵だ。少なくとも、桜を眺め、歌を掲げた宣長の心中を思いたくなるような四十四歳の自画自賛像とは、そのあり方が明らかに異なっている。

当然、六十一歳の自画自賛像に工夫がないと言いたいのではない。その最小限に抑えられた姿は、むしろ、辛抱強く心を尽くした結果だろう。この絵において、宣長の心中は、実に慎重に秘められている。

そこに残された画賛についても、先ほど見たように、絵が成立した時節と簡素極まる説明を置き、一端は終わってしまっている。では、筆のついでと最後に添えられたうたは、いったい、どのように詠まれているのか。

「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」

なるほど、このうたには、宣長の山桜への愛情が、この上なく現れている。だがそれは、四十四歳の画賛の冒頭に置かれたような、「かゞみに見えぬ心の影」をなぞり出そうとして詠まれたうたというより、まさに、「筆のついでに」こぼれ出たような姿をしている。

正直、このうたの意図や内容について話をしようとしても、言葉に窮してしまう。どうとでも言えてしまう気もするし、どう言っても間を違えてしまう気がする。だが少なくとも、この、絵に残されたうたを眺めた時、そこに見えてくるものは、自画像を描き、賛を入れたら、「筆のついでに」山桜のうたを添えたくなった、そんな、本居宣長という人の姿だ。

 

 

さて、自画自賛の自画像というものについて、宣長の凝らした工夫を思い、書き連ねてみたが、そろそろ、冒頭に置いた疑問へ、話を戻したい。

すなわち、宣長の遺言書に遺された「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像なのではないか、という問いかけだ。

と言っても、ここまでに書いた事柄が、それを裏付ける論証になったとは思わない。というより、そもそも、論理や分析は、答えに近付く手段であり、誤りを正す方法ではあっても、正実へ行き着く道筋ではない。その本質は近似であり、近似とは『答えと見定めたところ』へ近付く事だ。

だから、ここからはむしろ、私が『答えと見定めたところ』から、逆様に眺めさせてもらいたい。即ち、「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像であると見れば、どうなるか。いや、本居宣長の遺言書それ自体が、『本居宣長晩年の自画自賛の自画像』であると見たならば、どうなるか。

当然、遺言書の文章を賛というのは無理があるだろうし、どちらかと言えば、「本居宣長奥津紀」の絵の方こそ、「筆のついで」というべきだろう。墓の設計は、本居宣長の葬儀に関して微に入り細を穿つ描写が為されている遺言書の本文の中でしっかりと指定されているし、そこには、より簡素に分かりやすく描かれた地取図も添えられている。この遺言書に、「本居宣長奥津紀」の絵を描き入れる尋常な理由など、本来、なかったはずだ。

ならば、この、「本居宣長奥津紀」の絵こそ、表現を求めて止まぬ宣長の心が描き出した、「かゞみに見えぬ心の影」なのではないだろうか。

勿論、宣長の「かゞみに見えぬ心」は、絵の背面に隠れ、深く秘められている。では、「かゞみに見え」る、宣長の「おのがゝた」はというと、遺言書の本文、写実的という形容がこれ以上なく似合うほど丁寧に描写された葬儀の様子、その文体の背面に、隠れてしまっている。絵巻物でも転がすかのようにつらつらと描写されている葬儀の進行は、しかし、当然の事ながら、私達の肉眼に、宣長の姿をうつしてはくれない。だが、間違いなく、そこには宣長の姿がある。

私は、最初、「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像なのではないかと言ったが、それは、間違いだったかもしれない。

実は、この遺言書の本文こそ、宣長が、晩年の「おのがゝた」を物した、描線なき自画像なのではないだろうか。

ならば、「本居宣長奥津紀」の絵は、「かゞみに見えぬ心の影をもうつせる」、宣長の声なき「うた」なのかもしれない。

 

 

何故、宣長はこの遺言書を書いたのか。

勿論、医を生業とし、古伝説を学び、和歌のみならず、孔子の礼楽や、仏説までもを好んでいた宣長が、自分の死というものを意識していなかったはずがない。だが、もし万が一、宣長が自分の死を予感し、必要にかられて遺言書をしたためたのなら、外診のために講義を中座するほど家の産を怠る事のなかった宣長が、ただ自分の葬礼を微細に書き表しただけの、身勝手とすら言えるような言葉を、遺したはずがない。

何故、宣長はこの遺言書を物したのか。

そこに尋常な理由を求める事は、無駄であるばかりか、全くの筋違いであろう。それは宣長の心中に端を発し、ただ宣長の心中にのみ起こり得た、そういう種のモノに違いない。

だからこそ私は、この、慎重に秘められた宣長の姿に、そして、そこにほころんだ山桜の影に、思いを搔き立てられるのだろう。

(了)

 

古代人の「科学的態度」

こんな表題を掲げられて、何の事かと首を傾げた人も多いだろう。

なるほど、古代人は「科学的観念」など、持ち合わせていたはずがない。だが、古代人に、即ち、人間本来に「科学的態度」という土壌が備わっていなければ、どうして「科学」が芽吹き、「科学的観念」を実らせる事が出来ただろうか。

とはいえ、この言い方から道を伸ばせば、額縁の裏側を覗き込むような事になるだろう。

ここではまず、小林秀雄という鋭い眼が「信ずることと知ること」の中に描き出した、柳田國男の「遠野物語」に残された情景を通して、「古代人」へ通じる姿へと、目を向けてみたい。

 

―こういう話がある。或る猟人が白い鹿に逢った。「白鹿は神なりと云ふ言伝へあれば、若し傷けて殺すこと能はずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず。あまりに怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ」(遠野物語、六一)(「信ずることと知ること」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)

 

実のところ、十分に育った「科学」に実った「科学的観念」と、「科学」が芽吹いてきた「科学的態度」との間にわきまえがある事を知った上で、「信ずることと知ること」を読んでもらえば、それで十分なのだが、この点に関しては、しっかりと噛み砕く必要があるだろう。それにあたり、「信ずることと知ること」の中から、先の文に加え、もう一つ、文章を眺めさせてもらいたい。

 

―ここには、自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度が現れている。自分の経験した異常な直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です。(同)

 

これは、柳田國男の体験が綴られた文章を受けて書かれた文だが、この柳田國男の態度と、先の猟人のような「山びと」の態度が、「信ずることと知ること」の中で、魅力的に響き合っている。

ここで私が「科学的態度」と呼びたいのは、まさにこの態度の事だ。とは言ってみても、これでは、まだまだ先回りした言い方になってしまうだろう。

ここからは、この猟人の眼付きと、柳田國男さんの態度を覚えたまま、「科学」というモノが、元来、どこに根を下ろしているのかを追って行きたい。

 

「科学」は、悟性的判断によって世界をどこまでも理解したいという志向性を持っている。それゆえ、「科学の成果」は世に不思議はないと豪語しているように見えるし、それを受け取る人々は、往々にして、「科学の成果」たる「科学的観念」の中で安心しきっている。

このような人々には、「科学」に説明できない不思議と言っても、「現状の科学」の未熟に過ぎず、それは、いずれ解き明かされる事を期待した不思議としか見えないだろう。実際、「科学」の持つ志向性から見ればそう言わざるを得ないし、この志がないところに、科学者はいないとも言える。

だが、この志を抱いて、一たび「科学」の姿へ眼を向けて見ると、非常に困った事態が巻き起こる。と言うのも、「科学」がある風景、私達が「科学」を考えられる世界には、どうにも、「科学の成果」だけでは説明が付きそうもないモノが潜んでいるらしいのだ。

例えば、ニュートン力学の「万有引力の法則」や、アインシュタインの相対性理論の「光速度不変の原理」、量子力学の「不確定性原理」などは、どこかで聞いた事があるだろう。今ではもう少し精しくなっているが、いずれも、現代の物理法則を構築する上で、必須の前提だ。他にも、各種「自然定数」など、前提として用意する必要があるモノは数多くある。これを出来るだけ少なくする事が物理学の持つ目標の一つだが、この前提条件を少なくする事はできても、実のところ、決してなくす事はできないという点は、見落とされがちだろう。

これらの前提は、実験から確認されたモノが殆どで、理論は、精々それを具体的に記述する手助けをしたに過ぎない。一応、純粋に理論の中から生まれた定数もあるのだが、その手の定数は、いまいち「定まり」がなく、本当に物理の前提条件なのかも疑わしい、むしろ人間の側の思考法の要請に思われるモノばかりだ。しかもそれすら、つまるところ数学の記述法の要請であり、人間が現に一二三と数えられる不思議に帰着せざるを得ない。

そして、ニュートン力学にせよ、相対性理論にせよ、量子力学にせよ、これらの理論は、その前提を説明するというより、この、説明しようがない前提を元にして構築された理論であり、その上で初めて、悟性的な弁別が入る事になる。即ち、これ以上は理解できないという線を引いたところから理論が始まるのだ。これが、計量的な、つまり、用意された方眼紙の上に数値として書き写された物事の比率を見定める、近現代の「科学」というモノだ。

実際、ニュートンであったり、アインシュタインであったり、或いは量子力学を生み出した科学者達の発想を辿ってみると、何度も確かめられた不思議な実験結果や、目の当たりにした現象と目を逸らさず向かい合ううち、やがて、悟性的判断など遥かに超えるような驚くべき着想が芽生え、むしろ、この着想を揺るぎなくしたところで、ようやく悟性的判断が働くようになって行く趣が見えてくる。

この、科学者の志からすれば逆転現象と言いたくなる傾向自体は、生物学や医学系などの、複雑さを保たざるを得ない分野の方が顕著ではあるが、逆に言えば、物理学のような、最も単純さと悟性的判断を尊ぶ分野においてすら、この傾向は免れない、いや、だからこそ、より先鋭的に現れてくると言えるだろう。

もう一度、「信ずることと知ること」の中に描かれた情景を、眺めてみよう。

 

―この名誉ある猟人は、眼前の事物を合理的に実際的に処理することにかけては、衆に優れていた筈だが、そういう能力は、基本的には、「数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず」とあるところに働いている感覚と結んだ知性の眼を出ない。と言うのは、この眼がいよいよ明らかになっても、これは、人生の意味や価値を生み出す力を持っていない。そういう事を、猟人は確かめたという事になろう。(同)

 

勿論、物理学を完成させる事は、物理学者の自負の内にある話であり、人生の意味や価値を生み出す事とイコールではないだろう。だが、この、物理学の完成を目指すという点においてすら、物理学を学習し、物理現象を分析する能力だけをどれだけ高めても、それは、理想の物理学を生み出す力にはならない。悟性的判断の徹底は、なるほど物理学の成長を急速に促したが、それだけで新たな物理学を芽生えさせる事は、決してできない。

この事は、物理学者にとって、皮肉としか言いようがないだろう。しかし、この皮肉になずみ続ける事なく、しっかりとその事を確かめ、言うなれば、科学的分析能力の限界をはっきり予感しながら、それでも物理学の完成を志し続ける人々の、その限界の上で人間の理解が及ぶ範囲を模索する独り独りの力こそが、物理学を、そして「科学」を、何度も産みなおしてきた。

だから、進歩主義的「科学」という概念は、あくまで技術継承の面に限った話であり、「科学」史に見られる理論という奴は、よくよく眺めてみると、存外、個性的な顔をしている。勿論、ならば別な形の「科学」が有り得たかといえば、恐らく有り得なかっただろう。だがそこには、間違いなく、理論を生み出した科学者の顔が、即ち、実験と思索、自然と自分の、その境界すら消えるほど往復を繰り返した身からすれば、最早こう考えるしかない、そう言っている科学者の顔が刻まれている。

 

―遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕えたのは、その生活の中心部が、万人の如く考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つというところにあった、その事だったと言ってもいい事になりましょう。(同)

 

これは、「科学の成果」である「科学的観念」の中で安心し、およそ「科学」の惰性の中で生活している人々の態度とは、まったく別のモノだ。もっとも、一度はこの態度を固めたと見えた科学者も、この態度を保ち続ける事は難しい。実際、先ほど例に挙げた科学者達にも、一たび実を結んだ「科学的観念」が出来てしまうと、その中で安住しようとしてしまう傾向は、少なからず見られる。

だがそれでも、この、遠野の伝説劇に登場する人々の態度は、人間が本来持っている態度なのだ。難しいのは、この態度を鈍らせる諸々の「観念」を拭い去り、この態度を固め続ける事であり、それは決して、人間が持っていない能力を獲得しようという話ではない。

最後にもう一つ、例を上げておこう。「科学的観念」が見せる世界において、お化けは単なる錯覚に過ぎないだろう。だがその世界は、全く同じ論法で、私達の意識や、私達の命すらも、錯覚と断ずる。ここに疑問を持たないような、この、「科学的観念」の方眼の升目に残らないモノへ眼が向かないような者は、本来、「科学者」ではない。

 

さて、そろそろ、こう言ってもいいだろう。今見てきた態度こそ、私が「科学的態度」と呼ぼうとしている、その態度なのだ。だから本当は、「科学」の計量的な枠に納まるはずのないこの態度を、「科学的」態度などと呼ぶべきではないとも思う。だが、数学を好み、物理学に親しみを覚える私が、あえてその名を呼ぼうとするなら、それは、「科学的態度」と言うほかない。

だから、むしろ今、私は、こう聞いてみたい。

この「態度」を、あなたは、なんと呼ぶだろうか。

(了)

 

道具の上手

「宣長という人は、言葉という道具を、誰よりも上手に扱えた人だ」

藪から棒にこんな事を言うと、少なからず当惑させてしまうだろう。

だが、宣長という人は、言葉とは何かという問いを、言葉のみを見定めるだけでは足りぬ、というところまで押し進めた人だ。言葉を知るという事は、そのまま、言葉を扱う私達の心を知る事であるというところまで考え抜いた人だ。

 

―言語の問題を扱うのに、宣長は、私達に使われる言語という「物」に、外から触れる道を行かず、言語を使いこなす私達の心の働きを、内から摑もうとする。(中略)言葉という道具を使うのは、確かに私達自身ではあるが、私達に与えられた道具には、私達にはどうにもならぬ、私達の力量を超えた道具の「さだまり」というものがあるだろう。言葉という道具は、あんまり身近かにあるから、これを「おのがはらの内の物」とし、自在に使いこなしている時には、私達は、道具と合体して、その「さだまり」を意識しないが、実は、この「さだまり」に捕えられ、その内にいるからこそ、私達は、言葉に関し自在なのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.272)

 

この自覚の深さこそ、私が宣長を、「言葉という道具の上手」と呼びたい所以である。

だが、その事を味わってもらうためには、まだまだ咀嚼が必要だろう。

 

そもそも、私達が「言葉という道具」に関して「自在である」とは、いったいどういう事なのか。

「道具を自在に扱う」或いは「道具を自分の体の一部とする」とは、道具の上手を称し、或いはある種の教えとして、度々口にされる類の言葉だ。これがどういう状況かと言われて、先ず思いつくのは、道具を思い通りに扱うという事だろう。

だが、道具の類を少しでも真剣に扱った事のある人ならば、むしろ習熟を深めるほどに、「道具」は思い通りに動いたりしないと、身に染みて味わう事になるだろう。まして、「自分の体」が思い通りに動かないなんて事は、それこそ誰もが知っている事だ。

では逆に、そんな、思い通りに動かない「自分の体」が、なぜ「自分」の「体」なのか。

別に難しい話をしたいわけではない。誰もが身をもって知っているように、「自分の体」が「自分」の「体」であるのは、この「体」の「痛み」を、まさに「自分」の「痛み」として感じられるからだろう。

たとえその「痛み」を誘発した痛覚により、脊髄反射を起こした肉体が思いもしない動きをしたとしても、この「痛み」を「自分」のものとして感じ取れるからこそ、この「体」は、「自分の体」なのだ。

「道具」が「自分の体の一部」であるとは、まさにこの意味合での「自分の体」の事だ。

これ自体は、実のところ、それほど特別な事ですらない。私達は、手に馴染んだ道具を不注意によりぶつけた時、思わず、「痛い」と呟いてしまう事があるだろう。

「道具が自分の体の一部である」とは、まさにこの事なのだ。

 

それなら、「道具」を「自分の体の一部」とした「道具の上手」と呼ばれる人と、そうでない人との間で、いったい何が違うのか。

それこそが、この「自分の体」に対する自覚の深さ、とでも言うべきものだろう。

例えば、赤ん坊には、肉体が「自分の体」である自覚など殆どなく、それは単に、神経の繋がったナニカでしかない。だから、ある程度動き回れる時期になると、赤ん坊は、平気で無茶な事をやり始める。

これは丁度、道具に熟れていない人が、道具を丁寧に扱わない、というより、道具を丁寧に扱えない、という話に近いだろう。道具の扱いが下手な人は、道具からの「感覚」の受け取り方が分からず、それゆえ、自分が思うようにしか扱えない。

だが、「道具の上手」は、「道具」がちゃんとその「感覚」を伝えてくれている事を、すなわち、「道具」も「自分の体」である事を知っているし、だからこそ、「道具」からの「感覚」を取りこぼすまいと、試行錯誤する。

だから、確りと、「道具」にとっても丁寧な扱い方ができるようになるし、だからこそ、時に無茶な扱い方をすら、「道具」にさせてもらえるようになる。

 

では、「道具の上手」と呼ばれる人々のようになるには、どうすればいいのか。

「道具」を「自分の体の一部」とするための第一歩は、まず、「道具」が「自分の体の一部」であると知る事だ。それは、「道具」がどのように動くのか、すなわち、「道具」の「さだまり」を知る事であり、同時に、「道具」と共にいる「自分」を知る事でもある。

例えば、赤ん坊は、肉体が受ける雑多な刺激に対し、出来うる限りの動きを返す。それゆえ無茶な事もやってしまうのだが、そうした試行錯誤の中で、赤ん坊は、瞬く間にも、肉体という「道具」の「さだまり」、すなわち、「自分の体」を獲得していく。

その中で、次第に、ただの反射的運動でも、一度きりの偶発的運動でもない、様々な痛覚に応ずる多様な運動の可能性を内包した、意識的な「知覚」、すなわち、「自分の体」の「痛み」のような認識を獲得していく。

そして同時に、本来無限ともいえる運動の多様性から、「痛み」に応ずる、限られた、しかし単一ではない運動の可能性を獲得し、この、多様性を保つ有限性の中において、記憶から誘発される行動選択という意思、すなわち、「自分」というものが芽生えてくる。

先述のように、赤ん坊、特に人間の赤ん坊は、肉体という「道具」の「上手」とは、到底言い難い。しかし、或いはそれゆえに、肉体という「道具」の上達にかけて、赤ん坊は誰より上手い、とすら、言って良いだろう。

それは、様々な動きの実践、すなわち、感覚と運動の組織化の中で、単に神経が繋がっているナニカから、ただの物質としてではない、特別な「もの」として、「自分の体」としての肉体を獲得していくから、というのが理由の一つ。

そして、赤ん坊が肉体の扱いに上達するもう一つの秘訣。それは、先の理由の裏返しでもあるが、始めに「自分の体」を持たない赤ん坊は、ただ、肉体との直な付き合いの中で、まさに、「自分の体」を獲得していくからだ。

 

前者のような「自分の体」の獲得は、実際に「道具」を扱う以上、実のところ、誰もが無意識にやっている事だ。だが後者のやり方は、複雑に組織化された感覚と運動の連関をすでに備え持つ私達にとっては、なかなかに難しい。

「自分」をある程度獲得してしまった私達は、「道具」と向き合う時も、すでに組織化された感覚運動連関の中に、すなわち、すでにある「自分」に、「道具」を従わせようとしてしまいがちだ。

だが、赤ん坊が肉体と向き合う時のように、私達が「道具」との直な交わりを持とうと思うなら、この「自分」を出来るだけ抑え、極端な言い方をすれば、「道具」にこそ扱われる、とすら言いたくなるほどの姿勢が、私たちには必要になる。

ここで重要になるのが「自分の体」に対する自覚の深さだ。無意識に「自分の体」を扱っている限り、すでにある「自分」を抑える事は、早々できるものではないだろう。

 

そうして、ここまでくると、この、「道具」に扱われる「自分」を、改めてながめてみると、「道具を自分の体の一部とする」という言葉について、もう一段、深みを感じるところが現れてくる。

すなわち、「道具」が「自分の体の一部」であるなら、「自分の体」もまた、「道具の一部」なのではないか。

 

私達は、「自分の体」が思い通りに動いたりしない事を知っている。

ならば、「思い通り」には動かないが、しかし、「思いに応じ」て動く「道具」として、「自分の体」へ、「道具」の側から手を伸ばして見ると、どうだろうか。

揺れ動く事をこそ旨とする心は、あまりにも捉え難い。しかし、「思いに応じ」て動く「道具」は、確かに「手ごたえ」を感じる事ができる。そして、私達にとり、最も身近な「道具」は、「自分の体」だろう。

ならば、この「自分の体」こそ、心をうつす、最良の「道具」なのではないだろうか。

もちろん、ここで言う「自分の体」とは、私達の身体を軸としたものではあるが、単に物質的な肉体のみを言うのではない。

使いなれた道具や、自分を育んできた言葉、或いはそれこそ、今ここに流れ込むあらゆる連なりまでも含めた、言うなれば「想像上の身体」、総体としての「もの」、すなわち、生活の、生きていく上での、「道具」としての「自分の体」だ。

これを自明のものとせず、しかし、確かに「思いに応じ」てきたものとして、「道具」の姿を見定める。或いは、それを最も自明なるものとして、「道具」の「手ごたえ」を感じなおす。

そうしてみれば、「道具」はきっと、私達には思いもよらぬような姿を、私達に見せてくれるのではないだろうか。

 

さて、「道具」というものに注目して、いささか回り道めいた話を進めてきたが、ここまでくれば、冒頭に置いた言葉について、少しは伝わるところがあったのではないだろうか。

本居宣長は、歌人として、歌学者として、そして何より「源氏物語」の愛読者として、「言葉との付き合い方」を学んだ人だ。そして、「言葉に学ぶ」という点で、とうとう、余人の及びも付かぬところまで行った人だ。

この点において、宣長は、まさに「言葉という道具の上手」だったのではないだろうか。

そうでなければ、古の「言葉」までもを自分の目とし、耳とできたのでなければ、宣長という人に、あのうたが詠めたはずもないだろう。

 

―古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし

(了)

 

ふるきことのふみのつたへ

「古事記伝」とは、本居宣長という巨大な知性の残した、彼の学問の集大成、その結実である。そう言って、先ず間違いではないだろう。では、その「古事記伝」とは、いったい、如何なる書物なのだろうか。

もちろん、「古事記」の註釈書、その一言でいってしまえば、それまでだろう。「古事記」という、漢字の羅列でありながら、漢文ともまた異なるサマを持った、難解な古物、その古物を、丁寧に読み解した註釈書、そう言って安心できるのであれば、そのまま本棚に納めてしまえばいい。

だが、ここで、小林秀雄「本居宣長」の中に描かれている、「古事記伝」の姿、その姿を削りだした宣長の心中を見据える、鋭い眼を見てほしい。

 

―「古事記伝」のみは、まさしく、宣長によって歌われた「しらべ」を持っているのであり、それは、「古語のふり」を、一挙にわが物にした人の、紛う方ない確信と喜びとに溢れている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.113)

―古語に関する諸事実は、出来得る限り、広く精しく調査されたわけだが、これらとの、長い時間をかけた、忍耐強い附き合いは、実証的事実を動員しての、ただ外部からの攻略では、「古事記」は決して落ちない事を、彼に、絶えず語り続けていただろう。何かが不足しているという意識は、次第に鋭い物になり、遂に、仕事の成功を念ずる一種の創作に、彼を促すに至ったであろう。その際、集められた諸事実は、久しく熟視されて、極めて自然に、創作の為の有効な資料と変じなかっただろうか。(同第28集、p.114)

 

なんて魅力的な言い方だろう。これが、「古事記伝」という註釈書へ向けられた言葉と思えば、そのあやしさに、私は足を掬われてしまう。少し、読みの向きを変えてみよう。

そもそも、「古事記伝」は、註釈書なのであろうか。

いや、この問い方もまた、誤解を生むだろう。「古事記伝」は、間違いなく、註釈書の体裁を持っている。そこには、「古事記」という本が書かれた背景も、その文体が不可思議な様を持つ理由も、つばらかに描かれており、各々の字の訓みはもちろん、如何なるココロでその字が当てられているかのわきまえなどは、いっそ神経質とすら思えるほどだ。本文に至っては、文字通り、一字一句が深く吟味され、古への言葉が扱われるココロを説く様は、写実的とすら思える。そも、当時の一般的な学問、すなわち儒学・漢文の習慣に従えば、「古事記」に「伝」と添え付けるその書名自体が、「古事記」の註釈書である事を物語っていると言えるだろう。

間違いなく、「古事記伝」は註釈書だ。いま一度、問いを立て直そう。

「古事記伝」は、はたして、註釈書を目指して書かれたものなのだろうか。

なるほど、「古事記伝」は註釈書の体裁を持っている。そこに異論の余地はない。しかしそれは、宣長という深く自覚された知性と、「古事記」という謎めいた歴史と文体を持つ本の交わりが、自ずから取らせた形だったのではないだろうか。

あるいは、こうも問えるかもしれない。

そもそも註釈とは、いったい何をなす事なのか。

こんな事が言いたくなるのも、「古事記伝」の中を満たしているものは、宣長の打ち立てた理論というより、むしろ、宣長の感動であるように思われるからだ。記の語る古き言葉に触れ、宣長の心がうごく、そのうごく心を捉えて放さない様が、そこには描かれている。感動が放心のままに消え去る事を許さない。「古事記伝」を書かせたのが、宣長の「ココロ」である事は、この伝へを直に受け取る人にとって、明らかな事だろう。

 

―訓みは、倭建命の心中を思い度るところから、定まって来る。「いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞こえて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。(同第27集、p.348)

 

繰り返しになるが、「古事記伝」が註釈書でないと言いたいのではない。まして、註釈書として書く事を厭う意が宣長にあった、などと言いたいわけでもない。問いたいのは、「古事記伝」の芽吹いた土と、「古事記伝」を育てた手つきだ。

宣長は、「古事記」を信じた。

あえて一言で表すなら、こうなるだろう。実際、どんな意図でそれを言うかはともかく、「古事記伝」を読んだ人は、皆、そう感じるはずだ。そこに、誤解とも理解とも言えない、どうしようもない行き違いが生れる。

それでも、宣長の態度は明白だ。

信てふ言は儒の作り設けしこちたき名にて、信てふ言挙げせざるにこそ、この記の貴きやありけり。「古事記伝」の宣長ならば、そう言うかもしれない。だが、さかしらの中で育って久しい我々には、こびりついたものを払い落とすために、少し回り道が必要だろう。

宣長は、「古事記」の伝へを直に受け取った。教え事めいたものを見出すより、まず、その声に耳を傾けた。なぜかと言えば、「古事記」の「序」にそう書いていたからだ。「序」は漢文の様に引かれて作り事めいた所も多いが、それでも、「古事記」を残した人々の嘆きや苦心が、そこには現れている。ならば、それをそのまま受け取ればいい。

「古事記」とは、失われつつあった古への伝へ事を記したものだ。古伝説を稗田阿礼にヨミうかべ習はせ賜い、その語るのを太安万侶が書き記したものだ。宣長は、安万侶の手つきから阿礼の声を聞いた。いや、安万侶の手つきを超えて、阿礼の言葉を、阿礼の口に語られる古への人々の声を聞いた。古への、ありきたりな人々の間で物語られる、その声を聞いた。声を聞いて、彼らの「正実マコト」を、特定の人の工夫により作られた安心のできる教説ではない、彼らの日々のやり取りの中から自ずと流れ出した、伝説の「正実マコト」を受け取った。

 

―私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実マコト」という言葉を、伝説の「正実マコト」という意味で使っていた(彼は、古伝イニシヘノツタヘゴトとも、古伝コデンセツとも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、―「此間ココの古ヘノ伝ヘは然らず、誰云ダレイヒイデし言ともなく、ただいと上ツ代より、語り伝へ来つるまま」なるところにあるとしている。(同第28集、p.116)

 

物語を受け取るのに、何をおいても第一に必要なものは、物語への信頼だ。それは、「源氏物語」の愛読を通して、宣長に深く自覚された考えだった。外部に見つかったどのような准拠も、式部の心中を通り物語の「まこと」へと流れていかなければ、「源氏物語」とは縁のないものであろう。我々が現実と呼ぶ「まこと」と「そらごと」の区別を超えて、物語の「まこと」を迎える素直な心がなければ、物語に近附く道はない。

 

―玉鬘の物語への無邪気な信頼を、式部は容認している筈である。認めなければ、物語への入口が無くなるだろう。「まこと」か「そらごと」かと問う分別から物語に近附く道はあるまい。先ず必要なものは、分別ある心ではなく、素直な心である。(同第27集、p.143)

 

宣長は、玉鬘の言葉に、式部の声を聞いた。しどけなく流れる書き様に浮かぶ、玉鬘の無邪気な信頼に、自らの愛読を支えるものを見つけ、驚いた。驚きは、それが意識化されるほどに、ますます強くなっていっただろう。

 

―「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思える心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」(「玉のをぐし」二の巻)という宣長の言葉は、何を准拠として言われたかを問うのは愚かであろう。宣長の言葉は、玉鬘の言葉と殆ど同じように無邪気なのである。玉鬘は、「紫式部の思える心ばへ」のうちにしか生きてはいないのだし、この愛読者の、物語への全幅の信頼が、明瞭に意識化されれば、そのまま直ちに宣長の言葉に変ずるであろう。(同第27集、p.178)

 

式部は、「物語る」という言葉に潜り、物語の魂と出会った。宣長は、式部の語るその出会いを、恐らくは式部以上に、深いところで受け止めた。宣長が問いかければ、式部もまた、自らの言葉に驚いただろう。式部の考えの浅さを言うのではない。われ知らず語った言葉が、どれほどの深みを持つか、そこに驚ける事の、思いの深さを言うのだ。

 

―物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成り立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかっただろう。語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変わらぬ、いわば物語の魂であり、式部は、物語を作ろうとして、この中に立った。(同第27集、p.181)

 

物語は、語る人と聞く人との語らいによって、その命を吹き返す。それは、神々の物語以来変わらぬ、物語の魂だ。式部と宣長の語らいの内に、「源氏物語」はその命を吹き返した。宣長は、「古事記」にもまた、そうやって命を吹き込んだのだろう。

では、「古事記」の中で、宣長は誰と語らったのか。無論それは、安万侶であり、阿礼であり、古への人々だ。宣長が「古語のふり」を身に付けたのは、この語らいのためとも、この語らいによりとも、言えるだろう。それは、古への人々がわれ知らず身を預けていた、言葉の働き、古への言霊との語らいであったとも言えるはずだ。

ここに、「古事記伝」の訓みが持つ、歌の「しらべ」がある。「古語のふり」を身に付けた宣長は、「古語のふり」に従い、「古事記」を訓んだ。訓んでみて、形を得た「ココロ」は、いよいよその感慨を深め、豊かに自足した世界を宣長に見せただろう。それは、宣長が自分勝手に訓めたものではないが、しかし、「古語のふり」が宣長の心中で結実した創作であると、言えばそうも言えるだろう。

だが、宣長は、この創作の中で、得心はしても、安心などしてはいない。和歌を好むのを性とも癖とも言った宣長が、そんな事を期待するはずがない。「古事記」の訓みに、宣長の感動は、いよいよ極まっていったはずだ。極まりはしたが、消え去りはしない。そこにこそ、ウタの功徳がある。ならば、この「しらべ」に逆らう理由が、宣長のどこにあっただろう。

 

「古事記伝」とは、なんという名だろうか。「古事記」を直に受け取る事の出来た宣長には、もはや、それを説きなして教える必要などなかったのだろう。ただ「伝へ」る事こそが重要であったに違いない。

だが、「古事記」の時代はあまりに遠く、「古事記」の文体はあまりに難解だ。宣長の詞書きがなければ、そこに現れる「古語のふり」を、感じる事は出来なかったであろう。それは時として、教え事めいた物言いに受け止められてしまうかもしれない。信仰と教義を一纏めにして宗教でくくる事に慣れきってしまった人々には、この宣長の信頼こそ、教説の類に見えてしまうだろう。

確かに、宣長は、「伝」と呼ばれる註釈により、「古事記」を解きほぐしはした。それでも、それは、余分な結び目を解いただけであり、ほどけない結び目までを、強いて解こうとはしなかった。

ここにこそ、宣長の物語る、「ふるきことのふみのつたへ」があるのだろう。

(了)

 

数式を詠む

数式を詠む、と書くと、違和感のある人が多いかもしれない。だが、数式をよむ、と言えば、それほどおかしな用法とは思われないだろう。では、数式をよむとは、いったい何をしているのだろうか。

 

私は、自分で数学者を名乗れるほど、その深みへ潜った事があるわけではない。ただ、人より少しは多くの手間を、かのものとの交わりに費やしてきた。その交わりの基本となっているものが、数式をよむという行いである事は、間違いのない事だと思う。

 

さて、数学者と言った時、あなたはそこに、どんな姿を想像するだろうか。何か小難しい数式や図の並んだ本を、黙々と読む。あるいは、中空を眺めて思索にふける。かと思えば、黒板や計算用紙に数式や図形を書き殴り、それを一人で、あるいは複数人集まって、延々と睨み付ける。一般的なイメージを挙げるとすれば、こんなところだろう。

それらは概ね、間違いではない。そこに、あてもなく散歩する事を付け加えれば、おおよそ、数学者の生態を言い当てているとすら言えるだろう。では、なにが、彼らにそのような姿をとらせているのか。この姿の中で、彼らは何を行っているのか。この点については、数学になじみのない人にとって、なかなか想像の及び難いところだと思う。

だが、彼らはそこで、何か特別な事を行っているわけではない。いや、注意深く見るならば、確かにそれは神秘的な行いではあるが、しかし同時に、誰もがやっている事でもある。違いがあるとすれば、その行い、その手段に、深く習熟しているという事だ。

では、その手段とはいったい何か。それは、数式を書くという行いだ。

 

数式を書く、という言葉で、何か特別な事を言っているわけではない。強いて言うならば、指を折って計算したりするといったような、数学を行う上で伴う行動全般を指したいという意味で広い言い方ではあるが、少なくとも、数学者特有の、何か特別な行為を指しているわけではない。「1+1」と書く事を、普通、特別な行為とは言わないだろう。この行いが特別となるのは、むしろ、その行いに習熟を深めた者にとってこそだ。

では、数式を書くという行いに習熟を深めていくと、どうなるのか。

例えば、計算をする時、計算用紙に数式や図を書くという行いを、何度も、何年も続けたとしよう。すると、始めてから間もないうちに、頭の中に計算用紙が出来上がり、目の前に計算用紙がなくとも、頭の中の計算用紙に、数式や図を書き込めるようになるだろう。ただ、初めのうちは、書きこんだ図も数式も、朧で心もとないものに過ぎず、正確な計算のためには、手元に計算用紙がほしくなるに違いない。

さて、そこからさらに、何度も数式や図を書いていくと、どうなるか。当然、頭の中に書きこむ事のできる図や数式の姿は、より鮮明なものになっていき、より正確に、より複雑な計算ができるようになっていく。そうしてまた、その一方で、頭の中に式を書き取った瞬間、反射的に計算結果が書き出されるような、段階を踏まない直通経路が現れてくる。

これは、誰にでも覚えのある感覚だと思う。計算用紙とは少し違うが、一桁の掛け算をする時、頭の中で九九の歌を歌って思い出すという人は、多いだろう。だが、何度も繰り返すうち、九九の歌を介する事なく、直接計算できるようになったものが、あるのではないだろうか。

これらはどちらも暗算と呼ばれるものだが、一口に頭の中で計算したと言っても、明らかに違う経路が現れてくるのは、不思議な事だ。計算過程が省略されただけと言う人もいるかもしれないが、私には、そんな単純な話で済ませる気にはなれない。この二つの計算は、どちらも、私の意識の上で起こった出来事だからだ。むしろ、計算過程が省略できるようになったとは、いったいどういう事なのか。そこで、いったい何が起こったのか。そこにこそ、注目すべきものがある。これこそが、ものを知るという、心の、そして言葉の働きなのではないだろうか。

だが、今はこれ以上、ここに踏み込むのは止めておこう。円の中心に円はない。早急に事を進めれば、確実に見失ってしまう、そういう性質のものが、ここにはある。

 

さて、話を戻そう。数式を書くという行いに習熟した人は、頭の中で、現実と遜色のない、とは言わずとも、独特の手触りを持って、数式を書く事ができるようになる。ここにいたり、数字や数式や幾何的図形は、それが指し示す個別のものや意味を思い出すための媒介としてだけではなく、全てを含んでなお、それがそれそのものとして自足する姿、こちらが要求する以上のものを持つ形として現れてくる。空想ではなく実感を持って想像できる、と言った方が、わかりやすいだろうか。

ともかく、数式というものを、ただ思い浮かべるのではなく、実感と共に書き取る事ができるようになった時、数式をよむという行いは、少々、趣が異なったものとなる。いや、趣が深まる、と言った方が、正確かもしれない。やっている事自体は、やはり、変わってはいないのだから。

どうか、持って回った言い方になる事を、許してもらいたい。結論は単純だが、その単純さゆえに、見過ごされてしまう。その微妙なところに、この道を楽しむ源泉がある。

数式を書き取れるようになった人が、数式をよむと、どうなるか。実のところ、この言い方は、正確ではないだろう。数式を書き取れるようになった時、初めて人は、数式をよむ事ができるようになるのだ。数式をよむ事ができる人と、数式を見る事しかできない人の違いが、ここにある。そして、数式をよもうと努力する人にとって、もはや数式だけが数式ではなく、あらゆるものが数式となりうる。

 

誤解がないよう言っておきたいが、数式をまったくよめない人なんてものは、存在しない。それはもはや、自分と他人の区別がつかない事と同義であるからだ。ここでよむ事ができると言っているのは、どの程度までよむ事ができるかという事であり、さらに言えば、どこまでよもうとする事ができるか、すなわち、どこまで数式というものの表現性を信じられるか、どこまで数学を信じられるかというところにある。

これは決して、数式によりあらゆるものを表現できると妄信する事ではない。そうではなくて、数式という表現に託してこそ現れてくる世界、その世界の自立性を信じ、同じく数式の表現性に育てられた者ならば、きっとそこで響き合えると、そう信じる事だ。

 

こう言ってしまうと、数式をよむという行いに抽象的な印象を与えてしまうかもしれない。しかし、繰り返しになるが、この行いはこの上もなく身近で、誰の身の上においても行われている事なのだ。買い物をする時、時計を見る時、歩いたり階段を昇る時、当たり前のように、人は数式をよんでいる。

これは、よく知った歌が流れていると鼻歌を合わせたくなったり、ギターがうなり声を上げているとこちらもエアギターをかき鳴らしたくなったり、お茶碗を手に取った時にその縁を指でなぞったりする事と、まったく同じ事だ。ここまで数式をよむとか数式を書くとか言ってきたのは、まさにこういう事であり、小難しい問題を解くというような事を言ってきたのではない。

数学の道を歩む人とそうでない人に違いを求めるとするならば、それは、こういった当たり前の行いを注意深く自覚し、まっすぐに受け止め、改めて驚く事ができるという、まさにこの点においてであり、この点においてのみであろう。

 

ここまで言えば、冒頭に書いた、「数式を詠む」という行いの姿を、見取ってもらえるのではないかと思う。「詠む」とは、「言を永める」、すなわち、言葉にある程度の時間を持たせるという事だ。それは何も、特別な事ではない。「1+1」を指でなぞる、いや、ただ見るだけでも、「数式を詠む」という行いは、現れてくる。あとは、そこから目をそらさなければ、数学の世界を歩む道は、誰にでも見えてくるはずだ。

数学者は、誰よりもその事を信じている。だから、彼らにとって、本を読む事も、中空を見つめる事も、当てもなく散歩に出る事も、本質的な相違はない。だが彼らは、そこから目をそらさない事の難しさもまた、知っている。だからこそ、彼らは数式を現に書き出し、それをじっと眺めるのだ。

そこにはいつも、自分が思うより以上の姿が映し出されている。

 

 

数式を詠む、と題した話は、ここまででひとまずの結びとしたい。曲折の多い書き様となってしまったが、これは、目的地を定めず書いたが故の、いや、目的地を定めてはならないと信じて書いたが故のものであり、意図したわけではないが、必然のものではあったと思う。

こうして書き上げてみた今、この話はどこかへ辿り着いたのではなく、その出発点へ帰ってきたのだと、痛切に感じている。だから、と言うわけではないが、ここからは、この話が書かれた背景について、話したいと思う。結び目の余り糸のようなものなので、どうか気を抜いて聞いてもらいたい。

 

数式を詠む。

この言葉は、言うまでもなく「歌を詠む」をもじった言葉であり、別段きまった言い回しというわけではない―すでにあったとしても私は不思議に思わないが。

もともと、和歌を詠むようになってからというもの、詩歌と数学の共通性について漠然と感じるところがあり、今回書く機会を頂いた事を機に、もう少し深く潜ってみようとしたのが、この話の発端である。

実際、今回の話で、「数式」を「歌」あるいは「言葉」、「書く」を「詠う」というように少しずつ読みかえていけば、全てとは言わずとも、多くはそのまま、歌についての話として成り立つのではないだろうか。そんな事は意図しなかった、とは言わないが、少なくとも書いている間、そんな事を意識する余裕など、私にはなかった。ただ、そうなるのではないかと、信じてはいたと思う。

では、もう少し具体的に、どこへ注目したのか。もちろん、形式の重要性という、詩歌と数学の最も大きな類似点は、見過ごせない。しかし今回、あまりそこに執着するつもりにはなれなかった。というのも、形式は確かに重要であるが、それは言葉や数式に対する深い信頼と洞察の結果であり、器ではあっても、源ではないように思われたからだ。

無論、形式を蔑ろにして良いわけではない。器があるからこそ人の感性は形を持つ事ができるのであり、よくできた器を作る事こそが、詩歌や数学を信ずる者の、最大の悲願と言っても良いだろう。だがそれは、やはり悲願であり、すでに信ずる道を持つ者の、行き着く先なのだ。

では、この信ずる道を、彼らは如何にして楽しんでいるのか。そこに注目しようとしたのが、今回の話だ。この楽しむという点に、疑問の余地はない。どれほど苦海の底にいようと、数学者と歌人は、自らの信ずる道を楽しんでいる。この確信こそが、私に今回の話を書かせたと言っても、過言ではないだろう。

この点において、今回焦点を向けた「よむ」という行いは、存分に特筆すべきものであったと思う。自分の絶対性を信ずれば能動的にもなり、相手の絶対性を信ずれば受動的にもなるこの行いは、数学者と歌人が彼らの信ずる手段と身をかわす上で、絶対の、そして唯一の手段だからだ。

それから、最後にもう一つ、書き進める中で思った事がある。それは、彼らの孤独だ。

歌人にせよ、数学者にせよ、彼らは自らの信じる手段を頼みに、自らの感性を育て、磨き上げる。しかし、いよいよ鋭敏になった感性は、決して彼らを、周囲の人々と混ぜ合わせる事はない。果てしなく深まった自覚は、自分はまさに他の誰でもないという事を、彼らに突き付けるだろう。

しかし、あるいはだからこそ、歌人は歌い、数学者は数式を書き出すのかもしれない。彼らの感性が彼らの信ずる手段に育てられたものである以上、それがどれほど鋭敏な感性であっても、彼らが信じてきた手段に、託する事はできるはずだ。

 

および折り 一二三数ふる 吾が身こそ 一つと見ゆる 吾が身なりけり

(了)